銭形平次捕物控
腰抜け彌八
野村胡堂



【第一回】



「親分、近頃は滅多に両国へも行きませんね」

 八五郎は相変らず何んかネタを持って来た様子です。立てっ続けに煙草を五、六服、鉄拐てっかい仙人のように、小鼻をふくらませて天井をにらんで、さてと言った調子でプレリュードに取かかるのです。

「行かないよ。俺が両国へ行くのを、お静がひどく嫌がるんだ。昔の朋輩が多勢居るところへ、亭主野郎が十手なんか持って行くのが気がさすんだろう」

 平次は晩秋の薄陽を浴びて、縁側に日南ひなたぼっこをしながら、八五郎の話を背中に聴いているのでした。

「つまらねえ遠慮ですね。──たまには行って見て下さいよ、両国は江戸の繁昌を集めたようなもので、年一度と言い度いが、実は一と月も見ないと、まるっ切り変ってしまいますぜ」

「また、ふざけた見世物か何んかあるんだろう」

「そんなものには驚きゃしませんが、あっしが肝を潰したのは、──」

「広小路から橋を渡り切るまでに、昔の情婦いろに七人も逢ったって話なら、もう三度も聴いたよ」

「そいつは危ない。四度目を御披露するところでしたよ」

「これからもあることだ、帳面をこさえて付けて置くんだな。──もっとも情婦と言ったところで八のは岡惚れだ、向う様じゃ何んにも知りやしない。──竹屋の渡船の中でもうけ合い、三人位は岡惚れが出来るんだってね」

「まさか、それ程でもありませんよ──ところで──と、何んの話でした?」

あきれた野郎だ。──両国が変った話だろう」

「そうそう、広小路に巴屋ともえやという飛んでもない大きな水茶屋が出来たことを知ってますか」

「知らないよ」

「へェ、呆れたものだな、銭形の親分ともあろうものが」

「それを知らなきゃ、十手捕縄じってとりなわ御返上と言った御布令でも出たのか」

「十手捕縄には仔細しさいは無いが、江戸の色男の沽券こけんに拘わりますよ」

「そんな間抜けなものになり度かァ無いよ」

「間抜けでもドチでも、巴屋の前を通ると大概の男の子はボーッとなりますよ。五人の若くて綺麗な娘が、声を揃えて──いらっしゃい──と来る」

「お前の塩辛声じゃ、若くて綺麗な娘とは聞えない」

「今日は一々ケチをつけますね、親分は」

「果し眼になると、お前でも怖いよ、──それからうしたんだ」

「女の子はお半、おふさ、お六、おはぎまつり──こいつは年の順ですが、二十一から十七まで、それにお女将かみのお余野よのが入るんだから、その賑やかさということは」

「で?」

 仔細ありそうな話、平次は先を促しました。

「赤前垂に赤い片襷かただすき、揃のあわせで皆んな素足だ、よくもあんなに綺麗なのを五人も揃えたと思うと、亭主の造酒助みきすけよりもその配偶つれのお余野というのが、大変な働き者だったんですね」

「造酒助──聴いたことのある名前だな」

「坂東造酒助という役者崩れですよ、ちょいと良い男で、知恵も分別も申分ないが、あの世界じゃ家柄がモノを言って、一生苦労をしてもうだつがあがらないと覚って、両国の広小路に三軒分もありそうな水茶屋を開き、御贔屓ごひいき檀那だんな方の後押しで、商売を始めましたよ、それが当って、近頃は大変な繁昌だ」

「フーム」

「それにお神さんのお余野というのは、三十を越した年増だが、この女は綺麗で愛嬌があって、世辞がよくて、知恵がまわる、巴屋の前を通ると、まるで吉原の中所ちゅうどころの楼の張見世を見るようで、その華やかさというものは──」

「それをお前は毎日見に行くんじゃあるまいな、十手を腰にブチ込んで」

「毎日は行きませんよ、精々三日に二度位い」

「何んにもならない、──ところでお前は、その巴屋の披露目ひろめに来たわけじゃあるまい」

「実はそのお神さんのお余野に頼まれましたが、どうしたものか、親分の知恵を拝借に来たんですよ」

「金と知恵は品切れだよ、お酉様とりさまで少し仕入れようと思って居るところだ」

「借り度いのは熊手にブラ下げた小判じゃありませんよ、──聴いて下さい、その綺麗で愛嬌があって、意気で、世辞の良いお神さんの言うことには、近頃家の回りを、変な野郎がウロウロして叶わないから、御用繁多でもあるでしょうが、三晩ばかり泊って、女の子達と昔話でもして遊んで下さい──と」

「その五人も六人もの綺麗なのを相手に、お前はヌケヌケと昔々大昔のカチカチ山の話か何んかする気かえ」

「そんなに気のきかねえ話じゃありませんよ。──れん手管てくだの裏表、色のしゅわけ──と言ったような」

「良い気のものだ。お前は請け合い長生をするよ」

どなたもそうおっしゃいますが」

「ところで、その変な野郎というのは、正体を現わして居るのか」

「町内の若い衆と一と口に言ってしまえばそれまでですが、中には大変なのが居ますよ」

「大変と言ったところで、茶汲女ちゃくみおんなを張るような人間じゃ大した代物しろものじゃあるめえ」

 平次は茶かしながら聴いて居ますが、八五郎の調子には、並々ならぬものがあります。



「巴屋の店は両国広小路にありますが、葭簾張よしずばりの浅間な店で、夜は泊るわけに行きません。そこで暮六つの鐘を合図に米沢町一丁目の住居の方へ引揚げて帰るんだが、何しろお茶汲みの綺麗な娘が五人に、愛嬌もののお神さんが一緒でしょう。──その賑やかなことと言ったら、まるで女護の島だ」

「亭主の造酒助が居る筈じゃないか」

「女六人に男一人と来ると、男なんてものは影が薄くなりますね。──あごを撫でたりお茶を飲んだり、煙草をふかしたり、猫の蚤を取ったり、灰吹を掃除したり、それで日が暮れてしまう」

「結構な身分じゃないか」

「これだけ綺麗なのが揃って居ると、塀には穴があき放題、路地は夜っぴて喉自慢がそそるんだから、おちおち寝ても居られやしません」

 わこ達のセレナーデが、夜っぴて米沢町の路地で競演する風景は、まことに哀れ深いものがあったでしょう。

「相手は茶汲み女だ。気に入ったのがあるなら、そんな回りくどいことをせずに、広小路の店へ乗込んで行って、温かい茶一杯で半日も粘る術があるじゃないか」

「そう思うのは素人量見で──銭形の親分の前だが、情事いろごとにかけちゃ、丹波彌八郎や網干の七平の足許にも寄りつけない」

「何んだい。その黄表紙の敵役みたいな名前は?」

「米沢町の講中ですよ。それにもう一人、伊豆屋の若旦那の与吉が一枚入る。三人が三人共、昼は広小路の水茶屋で、温かい茶をすすって半日粘った上、夜は夜とて──」

「夜は夜とてと来たね。八五郎の台詞せりふも、この節は下座の鳴物が欲しくなったよ」

「茶かさないで下さい。相手は生命がけだ。ダブダブの茶腹で、夜っぴて米沢町一丁目の路地の奥に粘るんだから、深草の少将は楽じゃありませんぜ」

「フーム」

「中でも丹波彌八郎は大変で、──苗字がちゃんとあるんだから、これは二本差の子ですがね。何んでも親は歴とした旗本だとか言いましたが、臆病でなまくらで、嘘つきで出たら目で、又の名を腰抜け彌八という──」

「変な名だな」

「剣術を教えてもモノにならず学問を習わせてもらちがあかず、青瓢箪あおびょうたんでヒョロヒョロで、その癖遊芸と女が好きじゃ手のつけようはありません。幸い男女取交ぜて八番目の末っ子で、猫の尻尾ほども役に立たないから、世間体をはばかって、表面は勘当だ。米沢町の長屋を借りての一人住居、母親が甘いから、月々の食扶持くいぶちだけは仕送って居るが、腰抜け彌八それを良いことにして、昼は両国広小路の巴屋で、温かい茶を飲んで半日粘り、夜は夜とて──」

「また夜とて──と来やがった」

「お隣の五人娘を、遠い物干から眺めては、爪を噛んだり、色文を書いたり、土用風邪を引いたり、ハックション」

「きたねえな。そこらつばきだらけだ」

「腰抜け彌八の土用風邪の真似に身が入ったんですよ。ところで、親分、クシャミに虹が張るのを、あっしは生れて初めて見ましたが、こいつは、金儲けか何んかの前触れじゃありませんかね」

「いい加減にしろよ、馬鹿々々しい。それから腰抜け彌八はどうしたというんだ」

「最初は一番可愛らしい祭が目当てだったが、このはたった十七で、腰抜け彌八が半日眺めて居たって、まだ顔を赤らめることも知らないほどのねんねだから、張合い抜けがして、今度は一番年嵩としかさのお半に乗り換えた。もっとも年嵩と言っても、二十一のあぶらの乗り切ったところだ」

「──」

「そのお半はまた、腰抜け彌八なんかをとも思わないから、次には、お六に乗り移り、それからお房に変り、近頃は一番綺麗なお萩の御機嫌取に夢中だ」

「豪傑だね、その男は」

「岩見重太郎だって、こう臆面もなくは行きませんよ。この一年の間に書いた、色文だけが三百六十五本」

「まさか」

「嘘じゃありませんよ。一日に一本書けば一年に三百六十五本、算盤そろばんは確かだ──その上人間が大甘だが、腰抜け彌八字は上手で、巴屋の娘達は、手習いの手本にしようなどと、お互いに見せ合ったり、比べ合ったり」

「いい話だな、それは」

「これから寒くなるから、雨戸を閉めて休むからいいようなものの、夏場なんか、夜っぴてお隣の物干から覗かれちゃ、眠った気もしないそうですよ。もっとも腰抜け彌八は名前通り物柔らかだが、漁師崩れの網干あぼし七平と来ちゃ、同じ口説くんでも荒っぽいから大変で」

「──」

「うっかり湯の帰りが遅かったりすると、路地の入口に待ち構えて居て、いきなり抱きすくめて、頬っぺたをめるんだそうで」

「悪い冗談だな」

「冗談じゃありませんよ。真剣だから気味が悪い──とこれはお半の話ですがね。熊の子のような背の低い、横幅の広い人間が飛出して来て、いきなり組付かれると、さすがの鉄火者のお半も、しばらくは声が出ないそうですよ。ましてお萩や祭は何遍目を回したことか」

「──」

「もっとも悪戯わるさと言っても、頬っぺたをめる位のことが精々──一度お神さんのお余野へやった時は大変だったそうで──いきなり頬桁ほうげたを二つ三つくらわせ、胸倉を掴んで家まで引摺って来た上、亭主の造酒助の前で謝らせたというから達者なものでしょう」

 八五郎の話は、次第に佳境に入ります。



「ところで、その二人はまだ罪の浅い方だが、若旦那与吉と来た日にゃ──」

「もっと悪戯をするのか」

 痴漢横行の歴史は、こうまでも古くして根強いものがあるのでした。

「巴屋へ来て、五文や八文の茶代に、小判を出して見せるんだそうですよ。それも一度や二度じゃない。お召のあわせ縮緬ちりめんの下着をチラつかせて、雪駄せったちゃらちゃらの、脳天から声が漏れるのを気にするように、ちょいと月代さかやきを叩いて、──どうです──などと来ると、虫唾むしずが走りますね」

「──」

中低なかびくしゃくれた顔、色白で、鼻声で、八文の茶代に小判で、──悪いことに、米沢町の家の板塀にのべつ穴をあけてのぞくのは、彌八でも七平でも野良犬でもなくて、横山町の呉服太物問屋、伊豆屋の若旦那の与吉と聞いたら親分だって驚くでしょう」

「驚きやしないよ。──お前だって、それ位のことはやり兼ねないだろう。ところで、若旦那のお目当ては誰なんだ」

「お萩ですよ、十八になったばかりなのに、このはまた自棄やけに綺麗で可愛らしい。もう少し近きゃ、あっしも講中へ入って、毎晩あの路地に通って、良いノドを聴かせたんだが」

「お前のノドじゃ、阿呆駄羅経あほだらきょうだって無事に転がる気遣いは無え」

いちゃいけませんよ。──ところで親分、三日ばかり米沢町へ行って、巴屋の家の方へ泊ってやったものでしょうか」

 八五郎はようやく本音を吐いたのです。

「黙って行くなら仕方は無いが、俺の意見をき度いというなら、キッパリ断る方がいいと思うよ」

「へェ??」

「大層不足らしいが、若い女六人もの中へ入れて置くにしては、お前という人間は少しヒネリ過ぎているよ」

「へェ?」

「ところで、五人娘のうちでは、お萩が大層人気があるようだが、あとの四人はどうだ」

「あとの四人も目につくきりょうですが、中でも十八になるお萩は大したものですよ。こう丸ポチャで愛嬌があって、陽気で可愛らしくって、少し浮気っぽいくせに、子供のようにウブで、──」

「大層な肩の入れようだな」

「鼻の下が短くて、少しばかり受け口で、人をからかったような調子は、全くたまりませんよ」

「恐ろしい効能書だぜ、──あとはどうだ。日南ひなたぼっこをしながら、美人の品定めを聴くのも悪くないな」

「お六というのは豪勢で、百姓娘のように達者ですが、あのまた丈夫そうなところが弱い江戸娘より良いんですってね。物好きな旦那衆は、滅法可愛がって居ますよ。無口で愛想っ気は無いが、笑い顔にトロケるほど良いところがあるとかで──」

鑑定めききが細かいな」

「お房というのは二十歳はたちで、これは本当の美人ですよ。お人形のように顔の道具が揃って、御殿女中のようにしとやかで、少し淋しくはあるが、大したものですね。それに比べると年嵩のお半は、鉄火で気が強くて、色の浅黒い、キリリとした年増ですよ。きりょうは二の町だが、男を男とも思わないところが面白いんだそうで、両国では先ず人気者でしょうね」

「もう一人あったじゃないか」

「祭という娘でしょう。名前が面白いのと、子供々々して居るので、皆んなに可愛がられますがね。何しろまだ十七じゃ男よりはお手玉の綺麗なのを欲しい方で」

「それで皆んなか」

「お神さんのお余野が残って居ますよ。亭主の造酒助は役者崩れの手のつけようの無い道楽者だが、お神さんのお余野は大した働きもので──昔はさぞ綺麗だったことでしょうが、今ではなりも振りも構わず働いては居ますよ。まだ三十そこそこですが──」

「──」

「もっとも勝気でおしゃべりで、開けっ放しで、軽口の名人ですが、それが江戸一番の亭主孝行の働き者と来ているから嬉しいじゃありませんか。──金を費う外には能の無い造酒助には此上もない大明神ですね」

 八五郎の品定めは、これで大方終りました。

「其処へお前が乗込もうというのか。大江山に乗込む気で行くのがいい、怖いぜ」

 平次は一応の注意をして置きました。フェミニストの八五郎は、又何をやり出すかわからなかったのです。



 この小さい発端が、思わぬ事件に発展しようとは、平次も八五郎も思い及ばなかったでしょう。

 それから三日目の朝、

「サア大変だ、親分」

 などと八五郎が飛込むまで、平次は女護の島へ行った八五郎の「女に対する甘さ」ばかり心配して居たのです。

「頼むぜ、八、まだ朝飯前だ。大変なんか持込まれちゃ、味噌汁が喉を通らないよ」

「それどころじゃありませんよ。昨夜ゆうべ飛んで来ようと思ったが、あんまり遅いから遠慮して──」

「お前でも遠慮なんかするのかえ」

「独りで始末をつけて、明るくなるのを待って飛んで来ましたよ」

「どうしたというんだ」

「どうにもこうにも、あれは鬼のすることですね。一番可愛らしいお萩が、お湯の帰り路地の中で殺されたんですよ」

「お萩が?」

「聞いて下さい。親分、昨夜亥刻よつ(十時)少し前、町内の丁子湯ちょうじゆへ行ったお房とお萩が、湯の中で言い争いをして、お萩は腹立ちまぎれに飛出し、ろくに身体も拭かずに着物を引っ掛けて帰って来る途中、米沢町一丁目の暗い路地の中で誰かにひどく頭を打たれて殺されてしまいました。丁度、私が泊って居る巴屋の前」

 八五郎は一夜の不眠と、美しいものの死から受けた打撃で、すっかり興奮して居るのです。

「まァ詳しく話せ。──昨夜の今朝けさじゃ時も経って居るから、あわてて駆けつけるまでもあるめえ」

あっしは巴屋の二階に泊って居ました。大した用事もないから、宵のうちはお神さんのお余野と馬鹿な無駄話をして、──亭主の造酒助は留守でしたよ、また何処か飲み歩くか、吉原の小格子でものぞいて居るんでしょう──と女房のお余野はあきらめた顔をして居ましたがネ。兎も角、話が尽きたから隣の自分の部屋へ引揚げて、これから寝ようとする時でした路地の中──丁度あっしの部屋の下のあたりで、蛙でも踏みつぶしたような、ドタリ、ギャッ、と変な音がするから階子はしご段を二っつ踏んで飛降りると」

「階子段を二つずつ飛降りは危ないな」

「でも、イヤな音でしたよ。人間一人、生命を取られる音というものは、大したことが無いようでも妙に腹綿はらわたこたえますよ」

「それからどうした」

 平次は無駄の多い八五郎の話の先を促しました。

あっしが飛降りると、後からお神さんのお余野も続きました。二人は一とかたまりになって外へ出ると」

「路地の中は明るいのか──こいつは大事なことだが」

「何しろ年中陽の当らない、ジメジメの路地でしょう。おまけに巴屋の前にはかなりな水たまりがあって、滅多なことでは乾きやしません。そこで路地内の者が相談して、宵の内は路地の入口にあかりを出して置きますがね。自身番の親爺おやじが受持で、亥刻よつ過ぎには消してしまいます」

「昨夜は?」

「騒ぎのあった時は、櫓行灯やぐらあんどんが付いて居ましたよ。少し遠いけれど、すかして水溜り位は飛び越せます」

「そこで、その先はどうしたんだ」

 しばらく灯で停頓した話を、平次はもう一度促しました。

「──飛出して見ると、その水溜りの中に、人間が倒れて居るじゃありませんか。お余野は尻ごみするから、あっしが飛んで行って起してやると、それがお萩で、頭を打ち割られて、全身蘇芳すおうを浴びたようになって居ましたが、もう虫の息もありません。──お余野は肝をつぶして暫くは傍へも寄れなかった程です」

其辺そのへんに誰も居なかったのか?」

「お房が追っかけて、路地へ入って来ましたよ、湯の中で喧嘩はしたが、大した根に持つほどのことで無かったのか、先に飛出したお萩のことが心配になって、そこそこに上って来たんだそうです、それがお萩の血だらけな姿を見て、腰を抜かしたのも無理はありません」「腰を抜かした」

「良い新造が、いきなり腰を抜かしたのをあっしも生れて初めて見ましたよ。──あれえ──とか何とか言って、ヘタヘタと泥の中によこずわりになった図なんてものは滅法めっぽう色気があって──」

「止さないか、馬鹿々々しい」

「兎も角お神さんのお余野を医者へやってあっしは其辺中に眼をくばりましたがね。何を見付けたと思います、親分」

「知るものか」

「路地の中にソロソロして居る男──そいつは、御用ッ、と襟髪えりがみを掴むと、ヘタヘタと腰を抜かして、泥の中へ座り込むじゃありませんか。──大の男の腰を抜かすのを、あっしは生れて初めて見ましたが」

「一と晩に初ものを二つ見たのか。長生きするぜ、お前は」「誰だと思います、それは」

「一々俺に訊くことがあるものか」

「あんな弱い男を、あっしは生れて初めて見ましたが」「初ものが三つ目だ」

「これが歴とした二本差、丹波彌八郎と言うさむらいなんだから驚くでしょう」

「驚くものか、腰抜け彌八とお前は言ったろう。綽名あだなの通り、本当に抜かしたまでのことだ。ところでお前はそれをしばったのか」

「相手は二本差だ。現場に通りかかったと言えばそれまでのことで、しかとした証拠が無いから、口惜くやしいが縛るわけに行きません」

「玄能か石っころか、──重いものを持っちゃいなかったのか」

「何んにも無いから不思議で、其辺に落ちても居ず、手にも持って居ないんです。──それに腰抜け彌八の身体には、血が一としずく着いちゃ居ませんよ」

「お房と彌八は、曲者に逢わなかったのか」

「お房は表の方から、腰抜け彌八は裏の方から、両花道を所作しょさりながら出て来たわけだが、二人共誰にも逢わなかったと言うんです」

「其辺に曲者のもぐり込める穴は無いのか」

「下水は深い上に日陰で湧いて腐っていますから、人間がもぐれるわけは無く、あとは一方板塀で一方は屋並、猫の子の潜る場所もありゃしません」

「塀を越して逃げるは無いかな」

「一ときもかかれば出来ないこともないでしょうが、忍び返しを打って居るのを、一と息には飛び越せませんよ。路地でドタリ、ギャッと言ってから、私とお神さんが飛出すまで、煙草一服ほどもを置きやしません」

「井戸は無いのか」

「ありますよ。でも、少し遠い上に、念の為に覗いて見たが、恐ろしく浅い井戸で、何んにもありやしません」

「そいつは六つかしそうだな、八」

「親分に六つかしいようじゃ、あっしにわかるわけはありません」

「そう言ったものでもあるまいよ。俺は丁度手を抜けない仕事に取掛って居るし、その巴屋の女殺しを、お前一人で片付けて見る気は無いか」「あっし一人で?」

「時々相談に来るがいい。知恵の方はフンダンに用意してある」

「やってみましょう。あのお神さんもそう言いましたが、お萩は金のかかって居る身体だから、このままじゃわたしがやり切れない。どんな事をしても、下手人を挙げて、その目の前で、私に言うだけの文句を言わせて下さい──ってね、金のうらみは恐ろしいじゃありませんか」

「兎も角、やってみるがいい。お前の手柄には、丁度いい塩梅あんばいだ」

 こうして平次は、此事件を最初の出発点から、八五郎に任せてみる気になったのです。


【第二回】



「ま、八五郎親分」

 米沢町へ戻ると、巴屋のお茶汲の中でも、一番の年上で、鉄火で勝気で、押が強くて口が悪いと言われているお半が、押っ冠せるように迎えるのです。

「どうしたえ、今日は店へ行かないのか」

 八五郎はさり気なく応じました。

「この騒ぎの中でお茶なんか呑む客を相手にして居られるものですか、そうでなくてさえいい加減仏様臭くなって居るのに」

 この女は物の遠慮をしないところが、皆んなの人気を集めて居ると信じているのでしょう。眼鼻立は整って居りますが、色の浅黒い、口の大きい、決して美しい方ではなく誰にも可愛がられない代り、誰にも憎まれないと言ったたちの女らしく見えました。

「いい量見だ、精々念仏でもとなえるがいい」

「ところで親分は何処へ行って居たのさ、急に見えなくなるから、神隠しに逢ったんじゃないかと、そりゃ心配しましたよ」

「馬鹿にしちゃいけねえ、三十の大男がエテ物にさらわれるかよ」

「天狗がさらわない代り、良い年増が自分の巣へくわえ込むよ」

 この女の相手をして居ると、全く際限もなくなりそうです。

「ところで、殺されたお萩と一番仲の悪かったのは誰だえ」

「そう言っちゃ悪いけれど、お房さんさ、お萩さんと負けず劣らず綺麗なんだから、仲の良いわけは無いじゃありませんか」

昨夜ゆうべも湯屋で一と喧嘩やったそうじゃないか」

「良い女と良い女が、湯屋の流しで、取組み合った図は、どんなものだと思います。二人共若くて丈夫で、負けん気なんだから、素裸で取組ませると、木戸銭が取れるじゃありませんか、近頃流行の女角力だって、回し位はしているのに」

「何が喧嘩の元だったんだ」

きりょう自慢の若い同士には、男にわからない怨みがありますよ。身体がさわっても、変な眼で見ても、咳払せきばらいをしただけでも、喧嘩の種に困りやしない」

 そういうものかな──と言った顔で、八五郎は長い顔を撫でました。

「でも。二人が張り合っている男があるだろう、──例えば、丹波彌八郎といったような」

「誰があんな腰抜け彌八なんかを張り合って、命のやりとりをするものですか」

「それとも網干あぼしの七平かな」

「あの熊の子をね、フ、フ、八五郎親分は人がいい。──お萩さんとお房さんが張り合ったのは、もっと良い男で、もっと近くに居る人ですよ」

「それは誰だえ」

「当てて御覧なさい」

 お半は身をかえすと、追っ駆ける八五郎の手をかわして、ツイと逃げました。

「待て待てもう少し訊くことがある」

 などと、追いすがったところで、この女は八五郎の手にえません。

 店へ入って、案内する者もなく奥へ通ると、女将おかみのお余野は、

「ま、八五郎親分、随分探しましたよ。親分に見放されちゃ、お葬いも出せやしません」

 いそいそと迎えるのです。

「一と思案して来たのだよ。ところで、先刻さっきは急いで見残したが、お萩の荷物を見せて貰おうか」

「どうぞ、此方へ──」

 お萩の死体を取込んで、ザッと飾った部屋へ、八五郎は通されました。頭を胡果くるみからのように叩き潰されたお萩の死体は、物馴れた八五郎の眼にも凄惨せいさんで、二度と調べて見る気も起させません。

 枕元の手習机の上には、くさぐさの物は飾ってありますが、それも形式だけの義理一遍で、浅ましく、貧しく、そして不気味に見えるのも一種の淋しさです。

 お萩の荷物というのは、ほんの行李こうり一つに、塗の禿げた手箱が一つだけ。それを開けて見ると、思いの外始末の良い女だったらしく、目立った汚れ物もありませんが、その代り冬の着換一、二枚ずつの外には、贅沢ぜいたくな感じのする物は一つもありません。

 それに、もっと不思議なことは、男との交渉を思わせるものが一つも無かったことです。腰抜け彌八が三百六十何本も書いた色文のうち、少くともその半分位はお萩のところへ来て居る筈なのに、それが一本も無いということは八五郎にも不思議でたまらないことでした。

「腰抜け彌八の手紙が一本も無いじゃないか」

 八五郎は内儀のお余野を振り返りました。

「皆んな焼いたんでしょう。けがらわしいとか何んとか、人並なことを言っていましたから」

 お余野はことも無げです。

「お萩と仲が悪かったのは、お房だというが──」

「そんな評判でした。私にしてみれば、皆んな一様に金のかかった娘達ですから、贔屓ひいきも不贔屓もありゃしませんがお互い同士の仲の悪いのは一番閉口ですよ」

 お余野の口吻くちぶりは、至極公平ですが、八五郎には矢張りお房が一番怪しいという疑いを強めさせるだけです。

 それにしても、少し遅れて路地を入って来たというお房が、どうしてお萩を殺すひまがあったか、お萩の頭を、卵の殻のように叩き潰した武器は何? 八五郎にはさて解らない事ばかりです。



 八五郎は更に、昨夜の人の配置を調べてみました。内儀おかみのお余野は、二階の部屋──八五郎の隣に居たことは確実で、お房はお萩の後から湯屋を出たことも確からしく、お六と祭は下の六畳で仲よく休んで居り、お半はその隣の部屋に、お房とお萩の帰りを待って居たと、自分で言い張って居ります。

 主人の造酒助みきすけは旅からまだ帰らず、一番物騒な網干の七平は、賭場とばへもぐり込んで、すっからかんかれたことは、多勢の証人があって疑う余地もありません。

 若旦那の伊豆屋与吉は、その晩親父の代理で、仲間の参会に顔を出し、事件のあった頃は、柳橋の料亭で飲んで居たことが明らかになりました。

 八五郎は此処まで考えて来ると、矢張りお房と腰抜け彌八郎の外には、ことごとく不在証明アリバイを持って居ることを承認しないわけに行かなくなったのです。

 念のため、町内の湯屋へも行って見ましたが、番台に座って居た亭主は、

「昨夜はお萩さんとお房さんが、流しで取組み合いをする騒ぎで大変でしたよ。女湯が総立ちになったのは構わないが、男湯からまで野次馬が飛んで来て、犬の喧嘩のように、面白がってけしかけるんだから、手のつけようはありません」

 と、はなはだ迷惑そうな癖に、充分に面白がって居る様子です。言うまでもなく、江戸の町風呂は早くから男女をわけて居りましたが、まだまだ脱衣場の方は僅かばかりの隔てがあるだけで、自由に覗きも覗かれもしたのです。

「ところで、二人の帰った時刻は?」

「お萩さんはプリプリしながら、亥刻よつ少し前に帰って行き、それから煙草の二、三服ほどもして、お房さんも帰りました」

「途中で追い付く程か」

「サァ、駆け出したら追いつけないことも無かったでしょうが──」

 番台の亭主の言うことは、これが精一杯です。

 八五郎はもう一度、スゴスゴと巴屋へ帰る外はありません。

「八五郎親分、下手人の見当はつきましたか、私はもう腹が立って、腹が立って」

 それを迎えて、内儀のお余野は歯痒はがゆがるのです。

「お萩の身許や請人うけにんはわかって居るだろうな」

「親許も請人もありゃしません。奉公人なら、やかましいお上の取締りもありますが、請人のあるのはお半とお六だけで、あとの三人──お房とお萩と祭は、内の娘分になって居ますよ」

「そいつは驚いたな」

 身許引受人の無い奉公人は、当時といえどもやかましく禁じられて居りましたが、野師やしや水商売や、──多くの人身売買業者達は、六つかしい手続やお上の眼を恐れて、不具の子や、娼婦達を、娘分や息子分にして、その取締の網の目をくぐって居たのです。

「もっとも、親は諸国遍歴の六部でした。両国で行倒れになった時、土地の人が六つ七つの娘を拾って育て、年頃になったところで、私共で大金を出して譲り受け、娘分にして育てたのです」

「ところで、もう一つ訊き度い。丹波彌八郎の色文というのを、皆んなで三百六十何本とか受取ったというが、誰が一体何本ずつ持って居るんだ。そいつを調べる工夫は無いだろうか」

「困りましたねェ。色文なんか、呉服屋の勘定書ほどにも思って居ないから、貰ったところで焼いたり破ったり、手を拭いたり──大事にしまって置くような、心掛けの良い子はありませんよ」

 お余野はまるっ切り相手にもしてくれないのでした。腰抜け彌八が心魂籠しんこんこめて書いた三百六十何本の色文も、浮気な娘達の一顧いっこも買わずに、灰や泥になってしまったことでしょう。



「こんなわけだ、親分。殺された死骸があるのに、どう調べても殺し手が無いんだからしゃくじゃありませんか、何処を何う捜して見たものでしょう」

 八五郎がもう一度、明神下の平次のところへ泣き込んだのは、それから三日も経ってからでした。

「仕様のねえ野郎だな、折角お前の手柄にさしてやろうと思って居るのに」

「へェ」

 平次は大して忙しくも無いらしく、とぐろを巻いて煙草ばかり吸って居る此頃だったのです。

「お萩はまさか雷神かみなりに打たれて死んだわけじゃあるめえ。何んかこう証拠らしいものを掴めないものかな」

「それが何んにも無いんだから口惜しいじゃありませんか」

「先ず第一番に、旅に出たという主人の造酒助は何うした?」

「昨日帰りましたよ。町内の衆が多勢で出かけたんだから。こいつは嘘じゃありません」

「では主人も確かに下手人では無かったわけだ。──ところで、六人の女のうち、お前にチヤホヤするのは誰だ」

「そんなのはありゃしませんよ──少し口惜しいが」

「岡っ引きをとも思わないわけだな」

「もっとも、内儀のお余野は別ですよ。長い間の客商売で馴れているから、妙に甘ったれた調子で引留めましたよ」

「亭主が戻ったら、急にそっけなくなったろう。もう用心棒も要らなくなった頃だ」

「そうでもありませんよ、あのお内儀の愛嬌は性分ですね、──もっとも、あんな商売は止し度い、止し度いと言って居ますが、役者崩れの亭主が好きで始めた水商売で、お内儀の一存でも止せない様子ですね」

 八五郎の話は、ひどく筋が通ります。

「一人一人の様子から訊いて行こう。先ず、お半というのはどうだ、変ったことは無いのか」

あっしの機嫌なんか取るような、素直な女じゃありませんよ、二十一だというのに、男を男とも思やしません」

「お房は?」

「良い女はお世辞の無いものですね。五人のうちでは一等の美人で、何んとなくツンとして居ますよ」

「お六は?」

「お世辞なんか言える柄じゃありません。もっとも無口で正直者だから、世帯は持てそうですが」

「祭は?」

「同じ屋根の下に住んでいると、一番可愛らしい娘ですね。自分が綺麗だということさえ知らないような、──もっともまだ十七の小娘ですが」

「外に気のついたことは無いのか」

「腰抜け彌八が、しょうも無く巴屋を覗きますが、外の女達は馬鹿にし切って居るのに、祭だけ一人は、何んとなくあの腰抜けっ振りが良いらしく、『あの人はお気の毒だ』などと言って居ますよ。おぼこ娘はあんなのが好きでしょうか、──もっとも芝居に出てくる、二枚目のような、侍のくせに弱々しいところがありますがね」

「主人の造酒助はどうだ」

「初めてしみじみ話してみましたが、良い男ですね。声が悪いのと、家柄が無いので、役者には向かなかったそうですね、三十五だというのに、あんな良い男は一寸ありませんね」

「お前より良い男か」

「飛んでもない親分」

 などと、例の長んがい顎を撫で回す八五郎です。



 それから二日、明け離れたばかりの朝の戸へ、

「親分」

 八五郎は息せき切って飛込んで来ました。

「どうした八」

 米沢町の事件は、此間から平次も神経を悩まして居たのです。

「もう一人やられましたよ。もう少し早く親分に見て貰うんでした」

 八五郎はそれが口惜しそうです。

「勘弁しろ、八、お前に手柄をさし度かったんだ。ところで、誰がやられたんだ」

「お房ですよ」

「そいつは気が付かなかった。歩きながら聴こう」

 平次は手早く仕度をして、八五郎と一緒に、柳原土手を米沢町に向います。

「主人が帰ってから、あっしは泊るのを止しましたが、昨夜子刻ここのつ過ぎに、巴屋から急の使いでしょう。行って見ると、路地の中で、あの五人のうちでも、一番美しいと言われたお房が、背中を突かれて死んでいるじゃありませんか」

「誰が見付けたんだ」

「同じ部屋に寝て居るお六ですよ。──時々夜更けに出かけるお房が、子刻ここのつ過ぎても帰らないので、気になって出かけて見るとあの路地の真ん中、──お萩が殺された場所より少し先の方で、背中を突かれて死んで居たんです」

「刃物は?」

「見付かりません」

「お房が出かけたのは」

亥刻よつ過ぎだったそうです。お六に言わせると、お房は浮気者で、時々夜中に抜け出しては、男と逢引してるそうですが」

「この薄寒いのに外へ出るのか」

「お内儀がやかましいので、まさか家の中へ男を引入れるわけに行かないんでしょう」

「主人は?」

「さァ、其処までは訊きませんよ」

「よしよし行って見たらわかるだろう」

 二人は米沢町へ急ぎました。

 柳原土手は朝の光の中に浄化されて、其処にはもう、辻斬も惣嫁も、魑魅魍魎ちみもうりょうも影を潜め、買出しの商人や、朝詣の老人などが、健康な声を掛け合って、江戸の眠りを覚まして居ります。

 米沢町の路地の中の巴屋は、二度目の凶変に静まり返って居りました。それは朝の華やかな空気の中に、不似合いな無気味さでしたが、お房の死骸はさすがに取込んで、其処には、無残な殺しの跡が、痛々しく人の心を打ちます。

「親分、お房の死骸のあったのは此辺でしたが──」

 八五郎の指したのは、巴屋とは反対側の黒板塀の前のあたりで、無気味な血溜りが、湿った土の凹みにあおずんで居ります。

 見上げると高々と板塀、上は忍び返しで容易に越えられそうもありません。

 場所は丁度巴屋から路地の出口へ行く半分ほどのところ、一方は完全に板塀で、一方は巴屋と外に二軒家が、事件とは何んの関係も無さそうに、粛然として静まり返って居ります。

「此二軒は何んだ、八」

「堅気な隠居夫婦が一軒、露地の入口は、表の酒屋の住居の裏ですよ」

 それはおよそ、水茶屋とは関係の無い人々の生活です。

「板塀には節穴が無かったのか」

「此通り板塀に血は飛沫しぶいて居ますが、節穴はありませんね」

 八五郎の指す板塀は、塗料こそ古くなって居りますが、見たところ節穴らしいのは一つもありません。

「此板塀の裏は何になってるんだ」

「空地に二、三軒、しもたやがあるだけですよ。その一軒は、腰抜け彌八の家で──」

 八五郎はそう言って、自分の口にふたをするのです。気が付くと路地の向うの出口、多勢の野次馬が覗いている中に、浪人風のちょいと良い男が混じって居ります。それが多分浪人者腰抜け彌八というのでしょう。



 巴屋へ入ると、

「八五郎親分、どうして下さるんです。子供等は皆んなおびえ切ってるじゃありませんか。金のかかって居るのを、次々とこう殺されちゃ、私も両国の水茶屋をやって行くのが恐ろしくなりました」

 八五郎の胸倉をつかみそうにするのは、内儀のお余野でした。

「待ってくれよ、内儀さん、今度は銭形の親分をつれて来たから、間違いもなく下手人はわかるだろう」

「まァ」

 内儀は今更らしく眼を見張ります。此辺の水商売の女が、銭形平次の顔を知らない筈は無いのですが、恐らく面喰らって居るのでしょう。

「親方は居るだろうな」

 平次は顧みて他の事を言いました。

「あんまり変なことが続くので、頭痛がすると言って休んで居りますが」

 内儀のお余野の言葉の終らぬうちに、少ししどけない姿の主人造酒助が顔を出しました。

「銭形の親分さん、飛んだお骨折で」

「気の毒だが、二人まで殺されちゃ、手緩てぬるい事ではらちがあくまい、兎も角、一緒に来て貰い度いが──」

「へェ」

「先ず第一にお房の死骸だ」

「御案内いたします」

 お房の死骸は、此前お萩の死骸を置いた場所に移されて居りました。寝具も調度もいたって粗末ですが、お房の美しさは、死もまた奪う由もなく、それはまことに抜群ばつぐんのものでした。

 色白の細面で、道具のよく整った、品の良い顔立は、お萩の可愛らしさとは又別に、両国広小路に、名物の一つに数えられたほどのことがあります。

 傷は八五郎の報告した通り、左背中の甲殻骨かいがらぼねの下から突いたもので、恐らく心の臓に達したものでしょう。おびただしい血はあわせをひたして、眼も当てられぬすさまじさです。

「此手際てぎわは大したものだな八、素人だと、これは双手もろて突きだ。──お房は不意をくらったのだろう」

 平次は八五郎に話しかけて居ります。

「曲者が後ろからそっと忍び寄ったとしたら?」

「昨夜は月があったし、路地は明るい筈だ。後ろから人の近寄るのを、逢引の相手を待って居る気尖った若い女が、知らずに居る筈は無いよ」

「知ってる人が近寄るのを、わざと知らん顔をしているという事もありますぜ」

「だが、それなら、塀に血が飛沫しぶく筈は無い。──黒板塀がひどい血だぜ。ところで昨夜、誰と誰が家に居たかこうじゃないか」

 平次は常識的な調べの順序に還ったのです。

 が、それも大した得るところはありませんでした。お半と祭は、同じ部屋に休んで居り、お六はお房が出た後、死骸を見付ける前に外へ出た様子もなく、

「私は、主人と一緒に二階に休んで居りました。──お六が路地で騒いだので、びっくりして階下したへ降りましたが」

 内儀のお余野が言うのです。恐らく此前お萩が殺された時と同じように、主人の造酒助と一緒に階子はしごを飛降りたことでしょう。

 念のために、お房の荷物を見せて貰いましたが、これもお萩と同様、はなはだ貧しいもので、その中には、腰抜け彌八の色文などは一通も混じっては居りません。

「お房に男は無かったのか」

「このきりょうですから、何んとか言う人はありましたが、本人は堅いのと綺麗過ぎたので、別に親しくした男は無かったようです。でも丹波彌八郎様は、一時うるさく付きまとって居るということでした」

 お余野はこう説明してくれるのです。

「八、外へ出て見よう」

 平次は家の中の調べを切り上げて、もう一度路地へ出ました。

「見当がついたんですか、親分」

「いや、まだ解らないことだらけだが、一つに落ちないことがあるんだ」

「へェ?」

 八五郎は首を振り振り平次に従います。

「この板塀に、お前は不思議なものを見付けなかったか」

「へェ、何んにもありませんね、節穴ふしあなは一つも無いし──血は飛沫しぶいて居るが」

「その血の飛沫いているところだよ、──血は板塀に叩きつけたように、恐ろしい勢いで飛沫いて居る。丁度四尺ほどのところ、お房の背中あたりだ」

「?」

「その血飛沫ちしぶきの中に、塀の割け目を、裏からつくろったのがあるだろう、──同じような黒い板だが、その板だけは血の跡も無いのはどういうわけだ」

「成程ね」

 ベットリ板塀を汚した血飛沫の中に、五分幅の二寸程の長さで、裏から貼った繕いの板だけが、少しも血を受けてないのは不思議です。

「その上、繕いの板は黒く塗ってあるが、それは油煙を酒でいたのではなくて、すずりった墨だ。──それもいいが、その繕いの板が、桐の薄板じゃないか、菓子箱か何んかだ」

「サァ、大変だ」

「裏へ行ってみよう」

 この発見は、平次と八五郎を勢づけました。路地の外へ出て、隣の空地に入り、其処そこから板塀の裏を見ると、平次の鑑定にまぎれもなく、板塀の穴を繕ったのは、桐の薄板に墨を塗ったもので、しかも留めた釘はほんの一時押えの間に合わせに過ぎず、手を掛けて引くと、何の抵抗もなくコトリと手前に落ちて来るのです。

「これはどういうことになるでしょう親分」

「何んでも無いよ。お房が其塀にもたれて、逢引の男を待つ癖を知って居る者が、塀の裏へ回って、脇差で塀の割れ目から、お房の背中を存分に刺したのだよ──塀の割れ目のところは人を待つ者が凭れるに、丁度足場も良いようだ」

「へエッ」

「そして曲者はお房の倒れるのを、見定めて、かねて用意した、桐板に墨を塗ったので、塀の割れ目をふさいだのだ」

「誰がそんな事をしたのでしょう」

 平次の説明の不気味さに、八五郎も固唾かたずを呑みました。

「お房が此処で男を待つ癖のあるのを知ってる奴だ」

「その色男は? お房を殺した下手人でしょうか」

「いやお房が殺されたのを見て、怖気おじけづいて逃げ出したに違いあるまいよ。お房の男が下手人ならそんな手数なことをせずに、お房を殺せるわけだ。ところで此空地の奥に住んで居るのは誰だ」

「後家のお婆さんや、無事な夫婦者ですが一軒だけ変なのが居ますよ」

「誰だ?」

「腰抜け彌八──浪人者の独り住居で、朝から晩まで色文ばかり書いて居ますよ」

 此処にもまた、腰抜け侍の丹波彌八郎が、大きく浮き上がって来たのです。


【第三回】



「行って見ようか、八」

 平次は空地の奥の、腰抜け侍、丹波彌八郎の浪宅を指しました。

「臆病が感染うつりますぜ、親分」

 そんな口の悪いことを言う八五郎です。

 秋の陽の一パイに射している空地の明るさ。江戸一番の盛り場の真裏に、こんなのんびりしたところがあろうとは思われない程ですが、この変化の多い町の姿や、表裏の違いのはなはだしさが、明治の頃まで残った、江戸の町の秘密だったのです。

 声を掛けるまでもなく、浪人丹波彌八郎は、南縁に物の本を読んで居りました。その吸い付いたような夢中な態度が、隣の路地に殺しがあっただけに、何んとなく空々しくも見えます。

「丹波様、大層お精が出ますね」

 平次は口を切りました。

「あ、銭形の」

 これはさすがに、知らない顔も出来なかったでしょう。銭形平次の顔は、両国あたりへはよく売れている上に、先頃のお萩の殺しで、一度は八五郎に縛られた丹波彌八郎とは、幾度か顔も合っている筈です。

「すみませんが丹波様、すずりを拝借願えませんか」

 平次は縁側の端っこに腰をおろしました。

「これでよろしいかな」

 彌八郎は手を伸ばして、机の上から蒔絵まきえの古びた硯箱を取りました。あやながら端渓たんけいで、よく洗ってあるのもたしなみですが、墨は親指おやゆびほどではあるが唐墨のかけらに違いなく、筆も一本一本よく洗って拭いてあります。

「大層な品ですね、丹波様は書をなさいますか」

「いや、書という程では無いが、兎角手習が好きで、剣術へ精の出ないのが、私の悪いところだそうで──」

 丹波彌八郎は苦笑いするのです。成程、八五郎に手もなく取って押えられるようなことでは、何百石の禄をヌケヌケとんでは居られません。

「お読みになって居るのは?」

「恥かしいが源氏だよ」

 この頃の文字のある人が、今日で考えるよりは、遥かに多く、日本の古典を勉強し、それをまた、大した自慢ともしていなかったのです。丹波彌八郎文弱に流れ、勘当されて恋文ばかり書いて居たと言われるのは、こう言った好みのせいかもわからなかったのです。

「この硯や墨では、怖くて私が拝借も出来ません。他にザラ使いの品はございませんか」

「硯や墨にザラ使いも他所行よそいきも無いよ」

 彌八郎は平次の愚かさを憐むように笑うのです。だが、それは声の無い、きまり悪そうな笑いでした。

 腰抜け腰抜けと言いはやされて居りますが、こう話して来ると、決してイヤな男ではなく、反対にその弱々しさのうちには、何んとなく高貴な感情の持主らしい、人ざわりのデリケートなところがあって、平次などには反って親しい感じを持たせます。

 が、この高貴さと、物柔らかさが、当時の荒っぽい旗本の次男三男の間から、爪弾つまはじきされたことは想像にかたくなく、極端な無抵抗主義が因をなして、「腰抜け」という、有難からぬ綽名あだなまで頂戴したのでしょう。

「ところで、お伺いしますが」

「?」

「歯に衣着きぬきせずに、私が聞いた通りの世上の噂を取次ぎますが──」

「あ、いいとも、──私は腰抜けで意気地なしで、母の仕送りを受けながら、恋文ばかり書いて居るという噂だろう」

 彌八郎は先を潜ってこう言うのです。その青白い顔には、苦悶と苦笑と、そしてほのかな軽侮の匂うのも、なかなかに含蓄の深い表情でした。

「まァ、そんなことで」

「銭形の親分がそう思う位だから、世間の人がそう見るのは、誠に已むを得ないことだよ」

「──」

「実はな平次親分、私は少しばかり道楽があるのじゃよ。三十一文字みそひともじだ、歌を作ると言ったほうが早くわかるだろう」

「へェ? 丹波様が」

「それも親の気に入らぬ、一つの癖であったが、今更この道を思い断って竹刀しないを握るわけにも行かない」

「成程ね」

「それが、此処に住むようになってから、お隣交際で、何時の間にやら、若い娘達と懇意になり、お萩と祭に、歌を作ることを教え込み、この半歳ほど前から、折々に添削をしてやっているのだよ。もとよリテニヲハも整わぬ腰折れではあったが上手も下手もその道に打ち込む熱心に変りは無い」

「──」

「その歌の添削が、恋文と見えたものであろう。現に、此処にも、その見本はあるが──」

 彌八郎は立って、手文庫の中から五、六枚の朱の入った歌反古を持って来て見せるのでした。

「成程、そう聞けば、お萩の荷物の中を調べた時、恋文らしいものは一つも出て来ずに、朱の入った歌のようなものが出て来ましたが」

 平次にとっても、この話は恐ろしいほどの衝動でした。武芸が嫌いな故に、その身分から家庭までも失った文学青年が、その頃江戸名物の一つであった、遊女や芸子などよりは、遥かに遥かに卑しく無智なものと思われた水茶屋の茶汲女ちゃくみおんなに、三十一文字の歌の作りようを教えて居たということは、想像も及ばぬ不思議な事件だったのです。

「私が歌を教えたのは、祭とお萩の二人だけ、わけても一番年の若い祭は、一番熱心で、今までに何百千首となく作っている。お萩の方はなまけもので、お洒落しゃれで気が強くて、お房と喧嘩ばかりして居たということだ。あとの女達は、一文不通で、三十一文字を綴るすべを教えるわけにも行かなかった。もっとも祭とお萩に、歌を習っているということを口外せぬよう、堅く口留めして居たので、お房やお六やお半は、それを私から恋文でも貰うように思い込み、女心の浅ましさで、私も彌八郎から恋文を貰った、私も、私も──と、とうとう、この丹波彌八郎は三百何十本も恋文を書いたことにされてしまったのじゃ。──嘘だと思うなら、祭に訊いてみるがいい、あの娘はたった十七だが、学者の家で育てられて居るので、飛んだ文字のある娘じゃ」

 彌八郎はそう言って、板塀の彼方、巴屋の方を見やるのでした。

 銭形平次はこの時ほど、染々しみじみと敗北感を味わったことはありません。お萩の脳天を砕いたり、お房の背後を刺したのは、どう間違えても此男らしくは無いのです。



「驚いたね、親分。あの腰抜け彌八が歌の先生とは」

「人を殺せる柄じゃないよ。それにあの桐の板に塗った墨は、にかわのベトベトする馬糞墨だが、丹波さんの硯箱にあったのは、サラリとした、匂いの良い唐墨だ」

 平次と八五郎は、空地の外へ、自身番の前まで出て居りました。

「でも、歌を作るから、人を殺さないとは限らないでしょう」

「それも一と理屈だが、お萩の頭を割ったのは、どう考えてもあの人じゃ無いよ」

「へェ?」

「お前に組み伏せられた時、何んにも持って居なかったというじゃないか。その上お萩は頭を割られて死んだのに、あの男は一つも返り血を浴びていなかったとも言ったぜ」

「それは、その通りですが」

「お房を塀越しに刺した時だって、あの辺で、お房が男を待っているとは、塀の此方こっちからは見当もつかないよ」

「へェ」

 八五郎はまさに一言も無い姿でした。

「何より大事なことは、お房が路地に立って、誰を待っていたかということだ」

「そんな事なら、お六かお半が知って居るでしょう」

「もう一つ二つ、わからない事があるよ」

「どんな事です」

「お萩が殺された晩、お房とお萩は、どんな着物を着て居たんだ」

「お茶汲ですもの、装束しょうぞくは皆んな主人のお仕着せですよ。同じあわせに同じ帯、後ろから見ちゃ、お房とお萩はちょいと見分けがつかない程で──きりょうも年格好としかっこうも、身体つきまでよく似ていますよ」

「祭やお六やお半は」

「祭はまだ子供々々して居るし、お六はよく肥っているでしょう。お半と来たら気象は烈しいが、骨と皮で、ヒョロヒョロしてまさ」

「すると、夜目遠目では、随分お萩とお房は間違えられることもあったことだろうな」

「あっしなんか、番毎間違って怒られましたよ。お萩のつもりで、お房の肩を叩いてたりして」

「もう一つ、お萩とお房は、どっちがせっかちだ」

「お房は気の短いのが自慢で──私は気が短いから──なんて口癖に言ってましたよ」

「気の長いお萩の方が、湯が早いのか」

「あの時は喧嘩した後で、腹立ちまぎれに飛出したんでしょう。いつもは二人一緒に行っても、お房の方が先に帰って、四半刻も経ってから、ゆるゆるとお萩が帰りましたよ」

 二人は路地の入口に立っていると、何んか買物でもあるらしく、若い祭がチョコチョコと小走りに出て来ました。

「あ、ちょいと、お前にきたいことがあるとさ、銭形の親分が──」

 八五郎はそれを呼留めました。

「──」

 黙って立って、脅えたような眼をしている祭。袷も帯も、例のお仕着せで何んの変化もありませんが、そう思って見るとこの十七の娘には、何処か品の良いところがあり、他の四人の茶汲みには無い、智的なものが閃くのです。

「広小路の店の方はどうしたんだ」

 平次はつまらない事から訊ね始めました。

「この騒ぎですもの、二、三日は休みでしょう」

 祭の黒い瞳には、何んの動揺もありません。

「お前は歌をむんだってね、すっかり見直したよ」

「あら、どこからそんな事を?」

「丹波さんがそう言ったよ」

「まァ」

 祭はいかにもきまりが悪そうでした。

「何時頃から始めたんだ」

「子供の時から──母に手ほどきしてもらったんですもの」

「良い楽しみだよ──ところで、昨夜、お房は路地の中で誰を待って居たんだ。お前は知ってるだろうと思うが」

「──」

 歌の話が殺しの話になると、祭の表情は堅くなって、急に口をつぐんでしまいました。

「言い度くないと見えるな──では、お萩のことを訊き度い。あの女にも言い交した男があったことと思うが、それはお前も知ってるだろう」

 平次は質問を変えました。この小娘──見かけよりは賢くて慎み深い祭の口を開かせるのは、容易のわざで無いと見て取ったのです。

「私は何んにも知りません。でも、お萩さんは、本心のしっかりした人で、そんな事は無かったと思います」

「伊豆屋の若旦那や、網干の七平は」

「まさか、あんな人達と」

「丹波彌八郎さんは?」

「陰では褒めて居ました。腰抜けとか何んとか言われているけれど、あんな立派な人は無いって──」

「他には」

「多勢男の方が見えますが、別に」

 祭の答には、さしたる掛け引きがあろうとは思われなかったのです。



 八五郎はもう巴屋に入って居りました。そして、一番年上のお半を、裏木戸の建物のたもとの陰に誘い出すと、平次は心得て其処で待って居たのです。

「御苦労々々、なァに大したことじゃ無いんだ。お前ならこんな事に眼が届くだろうと思って呼んだんだが」

「あら、銭形の親分さん、気味が悪いわねえ。私は何んにも知りやしませんよ」

「お萩やお房を殺した人間を訊いているわけじゃ無い──昨夜、この家に、誰と誰が居たか確かなことが聴き度いのだよ」

「皆んな居ましたよ。それがどうしたというんです」

「お房は、路地の中で、誰かと逢引あいびきするか誰かを待っていた筈だ──が、そのお房と逢引していた男がお房を殺した人間では無いよ。お房は板塀の外の空地から、節穴越しに脇差で刺されたのだ──解ったか、お半。お房と逢引して居た男は誰だえ、お前は知ってる筈だと思うが」

 平次は言葉を尽くしました。

「知りませんよ──男と逢引する位な肝っ玉のお房さんですもの、相手の男を気取られるような事をするものですか」

「お内儀のお余野さんと、主人の造酒助は二階に居たと言ったね」

「それが不思議なんです。お内儀さんはああ言い切っているけれど主人は宵のうちに外へ出たように思いますが──」

「よしよしそれだけ聴けば沢山だ──そしてお房は、お六が言う通り亥刻よつ時分に外へ出たと言うことだね」

「──」

「此間お前は八五郎に、お房とお萩は、彌八郎や七平を奪い合いはしない、もっと手近に、もっと良い男が居ると言ったそうだな」

「──」

「その良い男というのは誰だえ」

「──」

「主人の造酒助のことを、お前は言ってると思うが、どうだ」

「──」

「もういいよ。お半、お前は返事をし度くないだろうが、お前の眼は──それに相違ありません──と返事して居るよ。お房は昨夜も、路地の中に立って──あの板塀にもたれて、主人の造酒助が出て来るのを待っていたんだろう。造酒助はそれと逢引するつもりで外へ出ると、肝心のお房は背中から刺されて死んで居た。造酒助は薄情者らしいから、きもつぶして家の中へ引返し、女房のお余野にそっと言ったかも知れない。お余野は何も彼も承知の上で、亭主の造酒助をかばい、二人は夕方から一と晩、二階から動かなかったと言って居る」

 平次は独り言のように言うのです、自分の自信を確かめるつもりでしょう。

「すると、下手人は誰です、親分。お萩の殺された晩は、亭主の造酒助は町内の衆と旅に出て、間違いもなく江戸には居ませんよ」

 八五郎は躍起やっきとなって抗議を申込むのです。

「困ったことに、其処そこまではまだわからないよ。でも、追々わかるだろう」



「桐の菓子箱のこわれがあれば」

 平次は今はそれが頼みのようでした。

「家中を捜して見ましょうか」

「いや、無駄だろう。大川はすぐ傍を流している、脇差は沈むだろうし、桐の菓子箱のこわれは、潮が海まで持って行ってくれるだろう」

「でも、先刻さっき帳場を覗いて見ましたが、汚いすずりの中に、何日前にったか、腐って臭くなった磨りかけの墨がうんと溜って居ましたよ」

「それも一応証拠にはなるだろうが、誰がその墨を使ったかということになると、大した動きの取れない証拠になりそうもないぜ」

 平次はことごとく悲観的でした。心の中には、かなり明瞭に、下手人の姿を思い浮かべて居る様子ですが、それを縛るほどの、決定的な証拠は一つも無かったのです。

「でもね、親分。桐の菓子の箱なんてものは、こちとらの家や、貧乏臭い浪人の巣にはありませんよ。此辺なら先ず角の酒屋か、巴屋の寮」

「そんな事は危ない当て推量で、証拠にはならないよ。それより外へ出て風にでも吹かれてみよう」

 それは良い分別でした。外へ出ると晩秋の風が爽やかに衣袂いべいに薫じて、狭い狭い路地にも、江戸の裏町らしい活気はみなぎります。

「八、此処は年中陽が当らないだろうな」

「東から西へ抜ける路地だから、乾くのは真夏の一と月か二た月だけ──この通りどぶは腐って、ふくれて、甘酒のようになって居りますよ」

「お萩が死んでいたのは、此辺だと言ったね。水溜りがあって、飛越すのにちょいと立止るから、其処をやられたことだろうな」

「おや、此辺の柔らかい土の上に、いやに凹んだところがありますが、丁度人間の膝ッ小僧の跡位の凹みが、五つや十じゃありませんよ」

「子供の悪戯いたずらかな」

 平次は上を仰ぎました。丁度頭の上は巴屋の二階の窓で、路地が狭いので遠慮したのか、その下の窓には霜除けも何んにも無く、家は溝の上から切り立ったように、真っ直ぐに二階の窓を見上げるのです。

「悪戯かも知れませんね」

 八五郎は相槌を打ちましたが、何んか腑に落ちないものが残ります。

「あの上の窓は、お前が泊って居た部屋か」

「いえ、あっしが泊ったのはその隣で、あれは内儀のお余野の部屋ですよ」

「変なことを聴くようだが、お萩が死んだ時、一番先に路地へ飛出したのは誰だえ」

「あっしですよ。お萩が倒れているんで、驚いて介抱して居ると、続いて飛出した内儀のお余野は、肝をつぶしたと見えて、暫くはマゴマゴしてお萩の側へ来なかったようですがね」

「それから?」

「家中の者は皆んな飛出しましたが血だらけになってお萩を介抱したり、家の中へ運び込んだのは、一番若い祭とあっし二人だけ。此家の女共は薄情ですね」

「だんだんわかってくるよ──ところで八、このどぶは随分汚いが、中をかき回してみたか」

 平次はそのふくれ上った溝を、気味悪そうに見て居ります。

「そいつを掻き回そうものなら、米沢町中の人間が目を回しますよ。臭いの臭くねえのって」

「深さは?」

「二尺位はあるでしょう」

「大丈夫、入っても溺れる気遣いは無いな」

「その溝で土左衛門になった日にゃ、八大八寒地獄でも、木戸を突きますよ。そんな臭い亡者は、地獄へ通すことまかりならぬとね」

「その溝をさらってみようと思うんだ」

「悪い道楽ですぜ、そいつは──そのドブ板の下なんかには、蚯蚓みみずの主が居ますぜ、一尺五寸ほどの、紫色に肥ったのが」

 だが、平次は躊躇ちゅうちょしませんでした。町内の人足二、三人と、番太の親爺を呼んで来ると、巴屋の窓の下を中心に、早速ドブさらいを始めたのです。



 路地の中は、まさに毒瓦斯どくガスの製造所でした。女達は悲鳴をあげて逃げ出した中に、八五郎と平次は、からくも踏留って、指図をして居ります。

「誰か、財布でも落したんですか、親分」

 番太の親爺は鼻をつまみながら、物好きそうに覗いて居ります。

「いや、そんなものじゃない。財布が出たら、爺さんにやってもいいよ」

「それとも、脇差か何んか」

「そいつは大川のかい掘りでもしなきゃ出て来ないだろうよ」

「すると、何を捜すんです、親分」

「重いものだよ、持ち運びの出来ないほどの」

「へェ、金ののべか何んか?」

「まァ、その気で探して貰おうよ」

 平次ははっきり言いませんが、正体はもう掴んでいる様子です。

「おや、大きな石があるぜ、丸くて手掛かりはよくねえから、出さずに押し込んで置け、五、六貫目もあるかな」

 指図をしている八五郎の号令です。

「八、その石だよ、その石が入要なんだ。路の上へ引揚げてくれ」

 平次はあわてて声を掛けました。

「へェ、驚くぜ、親分はこの石が御用だとさ。重くて臭くて丸いのは何アに──と来やがる、それよ」

 人足達が路の上へほうり上げたのは、まさに使い古りた沢庵石たくあんいし。五、六貫は確かと言った、泥とぬかまみれた真っ黒な丸石です。

「八、よく見てくれ。その石の凹んだところに、ぬかと一緒に血が付いている筈だ」

 平次ははずみ切って居ります。

「ありますよ、こいつは確かに血だ。糠と一緒に、石の凹みにコッテリ付いて居ますぜ、──すると曲者は、この石を振り上げて、お萩の頭を叩き割ったわけですね」

 八五郎はきもをつぶしてしまいました。

「やってみるがいい、その石を振り上げて人間の頭が殴れたら、お前は人間の人別を抜いて、天狗の子分になれ」

「すると誰です、下手人は」

「待ちなよ──巴屋の女共はどうした」

「臭いのに驚いて、皆んな路地の外へ逃げ出してしまいましたよ」

「その中から、お内儀のお余野をつれて来てくれ、早くだ。間違いがあっちゃいけない」

「へエッ」

 八五郎は飛出しましたが、ものの煙草二、三服の間もたぬうちに、ぼんやり戻って来ました。

「お内儀のお余野は、ツイ今しがた、どぶから石の上った時、何処へとも無くフラフラと行ってしまったそうですよ」

「しまった。浜町河岸か、両国橋だ、行って見ろ」

 平次も八五郎も、其処に居る人足も、女共まで飛出しましたが、お余野の姿は何処にも見えず、二日経ってから、中洲のあたりで、その水死体を見付けたのは浅ましいことでした。

     *     *

「お萩とお房を殺したのは、矢張りあのお内儀のお余野ですか」

 八五郎が腑に落ちない顔を持って来たのは、丁度三日目、お余野の水死体を葬った日でした。

「気の毒だが、思い詰めたのだよ。あのお余野という女は、付け焼刃の空元気で、多勢の女の子を引回して水茶屋なんかをやっていたが、あれは本心はあの商売が嫌で嫌でたまらなかったんだ──俺にもそっと愚痴を言ったことがあるよ」

「へェ、人間の心持はわからないものですね」

「役者崩れの亭主の造酒助が、あんな商売が好きで、女房の嫌がるのを無理に続けさせたんだ。そして若い女を多勢飼って置いて、それに取巻かれて居たいのがあの男の病気だったんだ」

「──」

「その上、気に入ったのがあれば、片っ端から手をつけ、近頃はお房に夢中だったのだ。内儀の余野は亭主とお房の間をこうとしたが、亭主の造酒助がどうしても承知しない。親許おやもとの無いお房もまた、何処へ行く当ても無かったのだろう。そこでお余野は、思い余ってお房を殺そうとした」

「先に殺されたのはお萩じゃありませんか」

「間違ったのだよ。何時でも風呂から先に出て来るのはお房の方だし、身体の格好かっこうがよく似ている上に、お仕着せまで同じだ」

「──」

「五、六貫もある沢庵石を二階に引上げるのは骨が折れたことだろうが、前々から握り拳ほどの小さい石を落して、見当がついて居るから、頭の真上に落すことはわけも無い。──あの晩、お前と無駄話をしてお房の帰りを待ち、潮時に隣の部屋へ行って、窓から五、六貫目の沢庵石を──夜目にお房と見た女の頭に落した」

「危ないな」

「それがお房ではなくてお萩だったので、お余野もさぞ驚いたことだろうが、お前が夢中になってお萩を介抱して居る間に、沢庵石を転がしてどぶに落し、それから騒ぎ出したことだろう──しばらくお萩の傍に寄らなかったのは、その細工さいくがあったからだ」

「へェ」

「お房を殺すつもりで、お萩を殺したお余野は、かねねらって置いたもう一つの手段で今度こそは間違いなくお房を狙った。先ず亭主の造酒助と路地で逢引する場所を見定め、お房のもたれる塀の後ろに、節穴のあることまで調べ抜いて、亭主がお房の合図でイソイソと路地へ出るのを追っ駆け、裏の路地に回って、節穴からお房を刺し、墨を塗ってある用意の桐板で穴をふさいで、両国へ回って血だらけの脇差を川へ捨てたことだろう」

「へェ、よく知恵が回ることですね」

「恐ろしいのは妬婦とふと昔から言って居るよ。こうなると女の知恵は孔明楠だ。──それから素知らぬ顔をして家へ入ったが、亭主の造酒助は、薄々感付いても、あばき立てるわけに行かない。二人は言わず語らずの間に、お互いにかばい合って二人共家から出ないことにしてしまったのだよ──お余野も良くねえが、それより悪いのは亭主の造酒助さ」

「そんなものですかね」

「腰抜け彌八は飛んだ良い男さ──もっとも三十過ぎの大の男が、母の仕送りで毎日三十一文字をひねって居るのは、あまり結構なことでは無いから、早く祭と一緒になって、一文商いでも始めるように、祭の身柄は俺が引受けて、足を洗わせてやる──とは言ってやったが」

 平次はそんな事まで苦労して居るのでした。

底本:「銭形平次捕物控 猿回し」毎日新聞社

   1999(平成11)年610

初出:「サンデー毎日」

   1950(昭和25)年118日号~19日号

※初出時の表題は「銭形平次捕物控の内」です。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:結城宏

2017年72日作成

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