銭形平次捕物控
猿回し
野村胡堂
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その頃江戸中を荒した、凶賊黒旋風には、さすがの銭形平次も全く手を焼いてしまいました。
本郷、神田、小石川へかけて、町木戸の無いところを選って、三夜に一軒、五日に二軒、どうかするとそれが連夜に亘って、江戸の物持ち、有徳の町人共を、全く恐怖のドン底に陥入れてしまったのです。
「八、弱ったな、俺は十手捕縄を預かってから、こんなに弱ったことは無いよ」
銭形平次ほどの者が、つくづく嘆息するのはよくよくの事です。
「親分が手に了えないとなると、こいつは人間業じゃありませんね」
親分の腕に信頼し切っている八五郎は、これを鬼神の仕業とでも思って居たのでしょう。
「盗る物は金か、金目のものだ。そんな欲の深えエテ物があってたまるものか、人間の仕業にきまって居るよ」
「それなら、何処に証拠を残すとか、顔を見られるとか、尻尾位はつかまりそうなものじゃありませんか」
「笹野の旦那もそれを仰しゃるのだ、江戸の町人の難儀は、竜の口の御評定にもお話が出たそうだ、これで年を越された日にゃ町方一統の名前にかかわる──とな」
「それを親分一人が気を揉むことが無いじゃありませんか、雀の涙ほどでも、お上の御手当を頂いているこちとらから、二百俵のお禄を頂戴している八丁堀の檀那方まで、みんな一様に、黒旋風に馬鹿にされてるわけで」
明神下、銭形平次の住居、貧乏臭い平舞台──平次は長火鉢の猫板に頬杖を突いて、八五郎は縁側に腰を掛けたまま、不景気極まる話に日が暮れそうです。
恋女房のお静は、お勝手でせっせと夕餉の仕度でした。聞かない積りでも、ツイ耳に入る二人の愚痴を、大根を刻む手を休めて、ホッと溜息などを吐くのです。
亭主の仕事に口を出しちゃならねえ──日頃そう言われているお静です。お上の御用向のことは、右の耳から入っても、左の耳に素通りさせる気でいても、割切れない滓みたいなものが、お静の胸にこびり付いて、時々は眉も曇り、溜息にもなるのでしょう。
「俺一人が黒旋風に狙われるわけ、これを見なよ、八」
平次は懐から小さい紙片を出しました。半紙を八つに切って、又二つに畳んだ、観世捻のような代物、開くとその中には、かなりの達筆で、
十二月四日本郷一丁目池の端妙月庵
十二月七日金沢町淡路屋佐兵衛
十二月十日飯田町波岡采女
こう書いているのです。
「これがどうしたんです、親分」
「格子に縛ってあったよ」
「へェ、久米の平内様の縁結びですか」
「いや、黒旋風が、泥棒に入る場所と日割だよ」
「へェ、丁寧なことですね、親分に届けて置いて、それから押入ろうなんて」
「十二月四日というのは明日だ、どう防ぎをつけたものか、それを考えて居るのだよ、──相手は黒旋風だ、敗けるか勝つか、向うは負けても恥にならないが、俺が敗けると、町方一統の恥になる」
「成程そう言ったものでしょうな──ところで何うしようというんです、親分」
「それを考えて居るのだよ、黒旋風にもやり遂げる見込が無きゃ、こんな手紙を書く筈が無い」
平次は武者振いを感ずるのでした。
十二月四日の池の端は、妙な人々の往来で、ザワザワと賑わいました。
四日月はとうに沈んで、夜は裏淋しく更けて行きますが、妙月庵を取巻く人の垣は、無生物のような静かさで、二重三重に、黒旋風の襲撃に備えるのです。
生垣の下に踞まるもの、塀の袖に隠れるもの、軒下にへばりつくもの、按摩、夜鷹蕎麦、流しの三味線などは、一体幾度往復したことでしょう。それが更くる夜と共に絶えて、やがて上野の亥刻(十時)が、耳の傍でゴーンと鳴り始めます。
この警戒陣の本部は、同じ池の端のそばや田毎に置いて、同心中の利け者、伊藤治太夫が全体への号令を掛けました。御用聞、下っ引、狩り集めた組子の総勢は二十八人、銭形平次は治太夫を援けて、全部の掛け引の責任を持ったことは言うまでもありません。
「これだけ手を尽せば、黒旋風にどの様な手段があっても、妙月庵に潜り込む工夫はあるまいな」
伊藤治太夫はこの配備を眺めて、必勝のほくそ笑みを浮べます。
「お言葉ですが、油断はなりません、相手は何分にも黒旋風で、何をやり出すかわからず、妙月庵には修復の祠堂金千両が、明日請負の棟梁に渡す筈で用意してあります」
平次はこれ位の警戒では、まだ安心のならぬ様子でした。
「では拙者は一と回り様子を見て参る」
伊藤治太夫は大言を吐いた手前、もう一度警備を確かめる積りで出て行きました。
あとには平次と八五郎と、下っ引が二人、八方から来る情報を集めて、それぞれの指図をして居ります。
「御免よ──蕎麦を貰おうか」
月代の少し伸びた、長身の浪人者が、暖簾を分けてヌッと入って来ました。
「お相憎様、今晩は仕入れた種が皆んなになってしまいました、ツイ今しがた火を落したばかりで、──へェ」
亭主の中年男が平次に言い含められたのらしく、釜前から声を掛けました。
「何? 皆んなになったというのか、愛嬌の無いことだ──兎も角寒くて叶わない、近頃の無心だが、一杯蕎麦湯でも貰おうか」
浪人者は自分の家でも入るような悠揚さで平次の向うへ、どかりと腰を据えました。煮締めたような畳、煎餅蒲団、行灯の灯が、トロトロと居眠りして、汚くはあるが、親しみ深い庶民的な趣です。
「お相憎様、蕎麦湯も──」
亭主がそう言うのを引取って、
「まァまァそう言うな、折角のお望みだ、熱いのを差上げたらよかろう」
平次はこの浪人者に興味を持った様子で取なし顔に言うのです。
「これは、お口添で恭けない、十二月四日ともなれば、江戸も寒いなあ、平次親分」
浪人者はとうとう言い切ってしまいました。
「あっしを御存じで?」
「この辺へ来て、銭形の親分を知らなきゃ、奥州松前の住人と間違えられるよ」
「飛んでもない」
「ところで、池の端は大変な備えだが、何んか容易ならぬ捕物でもあるのかな」
「へェ」
「いや、これは悪かった、いきなりこんな事を訊ねたら驚くだろう、──何を隠そう拙者は、竹町の浪宅に、年久しくくすぶって居る、宇佐美敬太郎という浪人者だ、決して怪しい者では無い、──本人が言うんだから、これほど確かなことはあるまい、ハッハッハッハッハッ」
「宇佐美様と仰しゃる──」
平次は首を捻りました。包みに包み、秘めに秘めた計画、こんな風来坊の浪人に打ち明ける筋合ではありませんが、今夜に迫った黒旋風の仕掛を、仮に打ちあけたところで、今となっては路傍の人から何んの妨げがある筈もなく、よしやまた、この浪人者が黒旋風の仲間の一人であったとしたら何も彼も知り尽しての、戦略の一つとしての仕掛と見なければなりません。
「さて、平次親分も、思いの外気が小さい、いざとなると、打ち明け兼ねると見える」
浪人宇佐美敬太郎の口辺には、もう一度特色的な皮肉な微笑が漂いました。
「いや、お隠し申すわけじゃございません、御存じの近頃江戸中を荒し廻る黒旋風という曲者、十二月四日の今晩、妙月庵に押し入り、一千両の祠堂金を奪い取ると申して居ります」
「ホウ、それは面白いな、──これだけの備えを破って、妙月庵に押し入ろうと言うのは、容易の人間ではあるまい、して、平次親分の陣立ては」
「大した知恵があるわけじゃございません、唯もう、御覧の通り、マジマジと見張って居るだけで」
「札を曝し過ぎたかな──拙者が見ても、二十二、三人までは数えられる、これでは黒旋風も五人や十人では押し寄せられまい」
「──」
「恐らく腕っこきの賊十人二十人と人数を整え、飛道具でも持って攻め寄せるか」
「お膝元で、そんなことは?」
平次もツイ口を容れました。
「お膝元ではあるが、町方の組子は、少し捕物に不鍛練では無いか、二十人三十人で堅めたところで、本当に腕の立つ曲者が五人十人と、一団になって押し寄せたら、何んとする積りだ、平次親分」
「まさに一言もございません」
平次は素直に承服しました、相手に言い度いだけの事を言わせて、その真意をさぐる積りだったのでしょう。
「そうわかったら、直ぐ様この倍の助勢を呼ぶか──いや、八丁堀までは間に合うまい、せめてさし叉、袖がらみ、目つぶしから梯子まで用意するか──いやそれも急場のことでは六つかしいな」
「──」
「泥棒を捉えて縄をなっても始まるまい、欲を申せば、江戸の組子全体に小太刀の一と手も教えたいところだが──」
「──」
平次は呆れ返って黙ってしまいました。平次の口添で、ようやく出来た盛蕎麦を啜りながら、この浪人者は途方もない事を言うのです。
「では、こうしようでは無いか、通りかかったのを幸い、拙者──この宇佐美敬太郎が御助勢しようでは無いか。口幅ったいようだが、拙者剣は東軍流、槍は宝蔵院流、小太刀は卜伝流、ことごとく皆伝だ、曲者の十人や二十人に恐れる拙者では無い、拙者一人が道を塞げば、池の端の一本道で、此方の防ぎは大丈夫、今晩の組子はことごとく向う側へ行って宜しい。一方は池で一方は町家、黒旋風とやらを此中に封じ込めてしまえば、先ず袋の鼠も同様だな」
浪人宇佐美敬太郎講釈口調でまくし立てるのです。年の頃三十五、六、薄手な四角な顔、凄まじい青髯、目が細くて唇が薄くて、何んとなく底の知れない精悍さがあります。
「有難うございます。いずれ手に余ればお願いいたしますが、今のところは先ず」
平次はさり気なくあしらう外は無かったのです。
同心伊藤治太夫は、妙月庵の前まで、念入の視察をしながらやって来ました。やがて亥刻半に近かったでしょう。道々の配置も充分、庵を繞る備えは、二重三重の防ぎで、容易のことでは、凶賊黒旋風も近づけそうはありません。
妙月庵──というのは、徳川期の中頃まで町家の中に割込んだような、美しい、が、堅固な庵寺でした。其処で頒ける厄除けの護符が有名で、府内に多くの信者を持ち、わけても本尊の如来は、名作の一つとされ、安政震火まで、土地の名物に数えられたものです。
庵主の大堅和尚は、黒旋風の脅迫があったにも拘らず、清浄な庵内に、不浄の役人を踏み込ませることを嫌い、役僧、小僧、寺男二人と共に庵内に籠り、静かに経を読み、香を炊いて、物ともせぬ姿でした。
同心伊藤治太夫は、此処へやって来たのです。
「変りは無いな」
「へェ」
闇の中へ、彼方から此方からも首が生えます。
と、丁度その時でした。庵寺のお勝手口がギーと開いて、提灯をつけた二人の男──と言っても、一人は顔見知りの小僧、一人は寺男でしたが、──岡持を提げて、外へ出て来たのです。
「何処へ行く、お前は誰だ」
同心伊藤治太夫は二、三人の組子を従えてその前に立塞がりました。
「へェ──私は寺男の権六で、小僧さんと一緒に、其処のお蕎麦屋の田毎へ、頼んで置いた蕎麦を取りに参ります。亥刻半(十一時)に皆様へお夜食に差上げる積りで、熱いのを用意するように申付けて置きました、──へェ」
「よしよし、通れ、酒などを持って来てはならぬぞ」
治太夫もさすがに、寒さと空腹には参った様子です。
「では、御免下さい、──皆様御苦労様で」
寺男の権六と小僧は、被り物を傾けて丁寧に挨拶すると、そのまま人垣の中を通り抜けて、ヨチヨチと去りました。
蕎麦屋の田毎では、丁度青髯の浪人者に喰い下られて、銭形平次がひどく困って居る時分です。
が、それっきり、権六も小僧も帰りませんでした。心待ちに待って居る蕎麦も、容易にありつけそうになく、そうかと言って、予告した凶賊黒旋風もやって来そうはありません。
「変な声がしますね、旦那」
下つ引の一人が、庵寺の雨戸に耳を寄せました。
「人間の唸り声だが──」
「入って見るがいい、遠慮することは無い」
伊藤治太夫も、何やら不安を感じ始めました。
「雨戸も玄関も開きませんが」
「裏口から入るがいい、先刻寺男の出て行った」
それッと、五、六人、一団になって庵寺に飛込みましたが、中は予想の通りの大乱脈、
「あッ」
暫く立ちすくんだのも無理はありません。庵主大堅初め役僧と一人の小僧と、寺男までが、雁字がらめに縛り上げられ、頭から蒲団を被せられ唸って居たのです。
「金は、金は?」
伊藤治太夫はわかり切ったことを訊くのでした。
「曲者に持って行かれてしまいました。岡持に入れて、小僧一人を人質代りにつれて」
役僧は猿轡を解いてもらって、ヒョロヒョロと立上ります、今からでも黒旋風を追っかける気でしょう。
「では先刻の寺男権六と名乗ったのは?」
「それが曲者でございますよ、権六は私で、此処に縛られて居ります。私の着物を剥いだ上、私を昆布巻のように蒲団に包んで行ってしまいました」
真物の権六は、悲鳴をあげるのです。
「何処に金を置いてあったのだ」
「御本尊の下の壇の裏に隠して置きましたが、信者が三年がかりで集めたあの祠堂金を盗られては、この庵寺も再建の見込みもなく、寄進された信者に申訳も相立たない、困ったことじゃ」
老庵主の大堅は、日頃のたしなみも忘れて愚痴を言うのです。
「ところで、曲者は何処から入ったのだ」
「何処から忍び込んだか、少しも見当はつきません、いきなり私の前に立って、祠堂金は借りて行く、いずれ地獄へ行って返すぞと」
老僧は、曲者の冒涜的な言葉をくり返しながら、肌寒そうに襟をかき合せました。
「で?」
同心伊藤治太夫は、その先を促します。
「曲者は壇の下から金を取出すと──金の隠し場所も心得て居た様子で──岡持を見付けてそれに千両の金を納め、寺男の権六の着物を脱がせて自分の装束の上へ着込み、その上、小僧の良念を人質につれ出し──物を言うと命が無いぞ──と脅かしながら裏口から出て行きました。小僧の良念は十三になって居りますが、知恵の遅い子で──」
老僧は小僧良念に間違いがなければ──とそれもまた心配の種でした。
騒ぎの中へ、小僧良念をつれて、銭形平次が飛込んで来ましたが、今となってはことごとく後の祭りで、どうすることも出来ません。
「お、良念、無事に帰ったか」
老僧が良念を迎える間に、
「困ったことになったな、平次」
「伊藤様、これは飛んでもない手違いでした」
平次と伊藤治太夫は顔見合せた。
騒ぎの中にその夜は明けました。千両の祠堂金は兎も角、そのままでは伊藤治太夫も銭形平次も、世間へ顔向けがなりません。
黒旋風の身扮は、尻切半纏に、野暮っ度い草色の股引を穿き、手拭で頬被りをして居りましたが、髷は野郎頭で、言葉は町人言葉、色が浅黒くて、背の小作りな男という外は何んにもわかりません。
小柄ではあったが精力的なのと、匕首を一本持った手が、無気味に躍動して、血に渇く毒蛇のような凄味があり、修業の積んだ庵主も役僧も無抵抗に縛られる外は無かったというのです。
あの厳重な包囲陣を潜って、曲者は何処から入って来たか、夜っぴて捜してそれはわかりませんでしたが、朝になってから、床下へ潜り込んだ八五郎が──
「床の荒い格子の側に、何んか人間の踏みつけた足跡があり、その格子はとても人間は潜れませんが、朝の日の這い込むのに透して見ると、獣の毛が少し付いて居ましたよ」
と一とつまみの、灰色がかった黄色の毛を持って来て見せるのです。
「鼠かな」
平次は顔を寄せました。
「鼠なら、鼠色じゃありませんか、これは少し茶色で」
「成程な、俺が入って見よう」
平次は四つん這いになって床下にもぐりましたが、人間の入れるのは高縁の下だけあとは厳重な格子が回してあり、その一箇所に人間の歩いた足跡がついて、行詰ったところに、八五郎の見付けた獣の毛が付いて居たのでしょう。
格子と格子の間は精々五寸位、これでは子供でも潜れません。人間の潜れる最小限度は六寸で、便所の掃き出し窓、欄間の格子の無いところは、六寸以内に造るのが常識にされております。
平次は土の上を這いながら、庵主の床下を八方から調べました、が、格子は思いの外厳重で、外れるところも、破られたところもなく、獣の毛のあった一箇所以外には、何んの異状も認められなかったのです。
「ところで此毛は何んだ」
床下から這い出した平次は、同心伊藤治太夫を交えて、早速獣の毛の詮索に取かかりました。
「犬だろう」
「いや、猫だ」
いろいろの意見が飛出しましたが、茶がかった灰色の毛で、ひどく、柔らかいところと、毛の一本一本に、気をつけなければ見えない程度の不思議な灰白色の斑点があるのから、
「こいつは猿の毛じゃないか」
という者がありました。
「猿の毛、猿の毛、それに間違いはない」
平次もようやく自信がつきました。
「猿の毛がこんなところにあるのは、どういうわけだ」
同心の伊藤治太夫でした。
「猿を使って、床下の格子から潜り込ませ、お勝手の落しから、床板を押しあけて入り込んだんじゃありませんか」
八五郎の知恵でした。
「それから?」
「よく馴らせば、猿は利口だから、お勝手の桟や輪鍵位は外せますよ」
「成程」
伊藤治太夫はすっかり感心して居ります。猿回しに使って居る、日本産の小猿は、五寸位の隙間からは楽に入れるだろうし、教え込めば随分、お勝手へ出て、裏口の戸位はあけ兼ねないでしょう。
「猿を使ってそんな事が出来るとすれば、こいつは聞いたこともない新手だ」
平次は半ば承服し、半ば疑を残しました。
「兎も角、閉め切った庵寺へ、黒旋風が忍び込み、いきなり庵主を脅して千両の金を盗んだ上、寺男に化けて逃げうせた事は確かだ。──押込む者にばかり気を取られて、寺から出て行く、寺男と小僧に油断をしたのが間違いだが、猿を使ったとすれば、思いの外早く足がつくだろう」
同心伊藤治太夫は、自分の弁護のために、自分自身へ言い聞かせるようにこう言うのでした。
それから丸一日経ちました。
明神下の家で、腐り切っている平次のところへ、
「親分、お早よう」
八五郎が陽気さを撒き散らして飛込みました。相変らず、日本一の機嫌です。
「どうした、八、大層元気じゃないか」
「元気なわけで、親分に言いつけられた仕事が、とんとん拍子に運びましたよ」
「猿曳きが見付かったのか」
「見付かりましたよ、根津宮永町の、木賃宿、──名前だけは優しいが、恐ろしく汚い『梅の家』に泊っている、信吉という信州者で」
「猿の毛を比べて見たのか」
「まだ其処までは行きませんよ──うっかり正面から名乗って出て、逃げられでもすると大変だから、親分の知恵を借りてからにしようと思いましてね」
「どんな男だえ、その猿回しは?」
「三十前後の小意気な男で、信州者とは見られませんよ。お猿はお玉と言って、利巧な雌猿、芸はうまいそうで」
「──」
「それに、気に入ったことに」
「何が気に入ったんだ」
「信吉には、綺麗な妹がありますよ、お浜と言って十九だそうで、洗いざらしの、縞もあやしくなった木綿の袷、兄の世話をしながら、内職の玩具を拵えて居るが、これが大した代物だ」
「娘のこととなると、恐ろしく眼が早いんだな」
「井戸端に陣取って、一刻半も待ちましたよ。あの娘が井戸端へ出ると、長屋中まるで御来迎を拝むような騒ぎで」
「──」
「色白で、ポチャポチャして愛嬌があって、無口なのが玉に疵だが──」
「それがどうしたんだ、九尾の狐の化けたのか何んか──」
「冗談言っちゃいけませんそんな檜扇で品をつくる代物じゃありません。あっしは今晩から、姿をやつして、あの木賃宿に泊り込むときめましたよ」
八五郎は大乗気です。
「あ、いいとも──姿なんかやつすことがあるものか、平の維盛卿と間違えられる気遣いがあるものか、もっとも顎を少し引っ込めなきゃ、直ぐ八五郎と見破られる」
「からかわないで下さい。ところで、もう一つの頼まれのあの浪人者ですがね」
「あ、宇佐美敬太郎とか言った」
平次は膝を乗り出しました。
「たしかに竹町の浪宅に、下手な謡なんか唸って居ましたよ」
「顔を出して見たか」
「猿回しの信吉の妹なら、半日も御来迎を待って居るが、あの青髯じゃ付き合い度かあありませんよ。居ることがわかりさえすれば大したことはあるまいと──」
そんな八五郎の気楽さです。
池の端妙月庵を襲って、千両の祠堂金を奪い取った、凶賊黒旋風の手際は、平次の想像を飛び越えて、不可能を可能にしたように見えました。
恐らく昼のうちから庵室の縁の下に忍び込み、夕方の隙を窺って、床下の格子の中へ猿を放ち、中からお勝手口を開けさせて、何んの苦もなく庵室内に忍び込み、何処か物陰に隠れて時を待った上、寺男に化けて外へ逃出したものでしょう。
入る姿を見せずに、まんまと千両の金をせしめ、小坊主を人質にして逃出した手際の鮮やかさは、敵ながら天晴れな働きで、さすがの銭形平次も舌を捲きましたが、前々から警戒された事件だけに、「相済みません」では、町方の面目が立たなかったのです。
その翌る日、腐り切っていた平次のところへ、八五郎が飛込んで来ました。
「親分、行って来ましたよ」
「何処へ行って来たんだ」
「忘れちゃいけませんよ、根津宮永町の木賃宿」
「昨日も行った筈じゃないか」
「とことんまで調べ抜くため、泊って来たんですよ」
「良い娘が居るんだってね、猿回しの妹とか言った──お前が泊る気になるような」
「そのせいばかりじゃありませんよ」
「仕事に精が出て結構だが、娘がいなきゃそんなとこに泊る気にもなるまい」
「その代り、たった一と晩で、すっかり猿回しの兄妹と懇意になりましたよ」
八五郎は少しばかり有頂天でした。そんな事にかけては全く天才的な腕を持った八五郎です。とぼけた口調と、長い顎と、人の好さそうな様子が、誰にでも甘く見られるからでしょう。
「そこで、どんな事がわかったんだ」
「第一番に、兄貴の信吉も良い男だが、妹のお浜は、そりゃ良い娘で」
「お前に言わせると、若くて綺麗な娘は皆んな善人だ」
「働き者で兄貴思いで、なりも振りも構わない癖に、滅法可愛らしくて、──ちょいと、あんな娘は、日本橋の大店や、番町辺の武家のお嬢さんにも滅多にありませんね、例えば──」
「わかったよ、俺はお前から、娘の品定めを訊いてるわけじゃねえ」
「でも一人で感心して居ちゃ勿体ない位で」
「呆れた野郎だ、勝手に感心するがいい」
二人はツイ掛け合い話になるのです。
「あっしもつくづくあんな娘が一人欲しくなりましたよ──お袋が無精で、あっしをたった一人しか産んでくれないので、怨めしい位で──」
「無駄が多いな、そんなに気に入ったら、妹とは言わずに、嫁に欲しいと吐かせ」
「兎も角、木賃宿の番頭に頼んで、猿曳兄妹の隣の部屋へ泊めて貰いましたよ」
「少しは弾んだのか」
「なァに、十手の尖端をちょいと覗かしただけで」
「また呆れさせるよ、そんな時は十手を見せちゃ拙い」
「隣の部屋と言っても、小便臭い三畳だ、一ト部屋借り切って、チビチビ始めたが、相手が無いから一向面白くないでしょう」
「──」
「そのうち、境の唐紙の建て付けを直すような顔をして、これをもろに押し倒した」
「ひどい事をするじゃないか」
「散々詫を言った揚句、一つ差上げ度いということにして、兄貴の信吉を口説き落し、いい加減酔ったところで、面倒臭いからということで、唐紙を取払って、二た部屋一緒になってしまった。妹のお浜は、最初は迷惑そうにして居ましたが、間もなく打ちとけて、これも機嫌よく話し出したから、大したものでしょう」
そんな芸当の出来るのは、八五郎の天稟の好さかもわかりません。
「それから何うした」
「あっしは江戸へ猿芝居を買い入れに来たが、三谷橋の猿曳長屋へも行って見たけれど、思わしいのは無い。根津に良い猿が居るという噂を聴いて来た──ということにして」
「もう一度呆れるよ。百と纏まった銭も持たずに、猿芝居の勧進元みたいな顔をして」
「でも、信吉は一生懸命でしたよ。その証拠には、あっしの訊くことには何んでも話しましたぜ──お浜は本当の妹で年は十九、行く行くは頼もしい亭主を持たせ度いということから、信州の故郷には、まだ小猿が二匹いるから、一匹は持参金代りに持たしてやってもいいという話──」
「そんな事はどうでもいい──肝腎の黒旋風のことはどうなったんだ」
平次は八五郎の話をレールの上に載っけてやりました。
「あ、そうそう忘れて居ましたよ」
「?」
「話はそれからそれと続きましたよ。あっしはあの晩信吉は何処へも出なかったか、さぐり入れてみましたが、木賃宿だって怪し気な帳場があるから、信吉兄妹は一ト晩外へ出なかったことは確かで」
「何処かから、潜って出る場所は無いのか」
「潜れば潜れないことも無いが、あれだけのピカピカする妹がいると、家中の者が見張っているから、そっと抜け出すことは、先ず出来ない相談で──」
「それから」
「お猿のお玉とも仲よしになりましたよ。持って行った毛──あの妙月庵の床下で拾った毛と、お玉の生き毛と比べて見ましたが、この鑑定はあっしにもわかりません。一匹のお猿だって、背中と腹じゃ毛の性質が違っているし」
「それで?」
「矢張り違って居るようですね。真物の猿の毛はもっと長くて柔らかくて、色も少し鼠色で、根の方が黄色に斑になって居る」
「妹のお浜を庇ってやるのは構わねえが、お猿まで庇っちゃ困るぜ」
「大丈夫、お猿に親類筋はありませんよ」
「で?」
「それっ切りですよ」
「一と晩がかりの土産はそれっ切りか」
「それからお浜が飛んだ働き者で、可愛らしい娘だったことと──、千両箱なんか何処にも転がっていないことと」
「もういい」
「まだありますよ──それから浪人者の宇佐美敬太郎を訪ねて」
八五郎はまだまだ報告し足りない様子です。
木賃宿梅の家の一夜は、八五郎をすっかり嬉しくさせました。が、此処に逗留して居るほど呑気にもなれず、それから竹町の路地に、宇佐美敬太郎を訪ねたのは、八五郎の気の働きでした。
「お早ようござい──お留守ですか」
三軒長屋の奥の方、入口から声を掛けても、返事はありませんが、横手へ回ると竹垣を隔てた格子の奥に、何やら人の気配がするのです。
「今日は──、御免下さいよ」
大きな声、手をラッパにして吹き入れると、
「何んだ、用があるなら表へ回れ。もっとも掛け取なら、大晦日までは払わんことにしているぞ──その代り大晦日の晩は何百両でも一ぺんに払ってやる」
そう言う声は、昨夜の浪人者宇佐美敬太郎に間違いもありません。
「そんなものじゃございません。ちょいとお訊ねし度いんですが──」
「何んだ、顎の長いのか、お前なら大丈夫だ、裏へ回れ、──文武両道の達人、宇佐美敬太郎、矢にも鉄砲にも驚きはしないが、借金取だけは苦手だな」
「でも、大晦日の晩には、何百両でも一ぺんに払ってやる──と言ったじゃありませんか、そんな大金の入る当てでもあるんで」
八五郎は裏へ回ってささやかな枝折戸を押して入ると、西向の狭い縁端で、懐中煙草入を取出しました。
「ハッハッハッハッ、聴いたか、──お前もあまり裕福で無さそうだから、そっと教えてやる。あれはつまり兵法じゃよ」
「へェ、兵法なんて都合の良いものですね」
「兵は詭道也──という」
「ところで、旦那、一昨夜は大層な機嫌でしたな」
「いささか酔っていたかも知れんて」
「いささかじゃありませんよ、旦那に絡まれているうちに、大事の曲者を逃してしまって、銭形の親分は怨んでました」
八五郎はツケツケと言うのです。こう言っても人を怒らせないところが、此男のもう一つの特色だったかも知れません。
「それは気の毒であったな。本郷からの帰り、人の噂であの晩何んかあるらしいというので、フトそば屋に入る気になったのだ。銭形平次は江戸開府以来の捕物の名人と聴いたが、黒旋風の方が知恵ではその上を行くのかな」
「泥棒をほめちゃいけません」
「兎も角、そう聴くと、宇佐美敬太郎相済まぬような気がする。今度は黒旋風が何時何処へ出ると言ったな」
「七日──明日ですが、──金沢町の淡路屋──」
八五郎は調子に乗ってしゃべってしまいました。それが良いか悪いか、素より八五郎には鑑定もつきません。
「気が向いたら行って手伝ってやる──と平次にそう言ってくれ──ところで、あの晩、猿の毛がどうかしたという話があったようだな」
「へェ?」
宇佐美敬太郎の早耳は、ひどく八五郎を驚かしたようです。
「念のために言って置くが、江戸は諸国の猿曳が集まるから、まさしく猿の多いところだ。一つは猿曳というものは、昔からの慣わしで、高貴の家にも出入し、まことに収入の多い稼業だからであろう」
「──」
「江戸中の猿曳は三谷橋のほとりに十二軒の長屋を賜わり、弾左衛門の支配を受けて居るが、仕事の都合などで江戸の町を遠方まで稼ぐことがあり、その際には、支配の許しを受けて、江戸の木賃宿などに泊ることがある」
「──」八五郎はあっけに取られました。これ位のことは、町方御用聞の八五郎が知らない筈はありません。
「猿曳の稼業は朝から日暮れまでだ。深夜に猿を背負って町中を流して歩くなどということは先ず無い、──池の端妙月庵に入った賊が、もし猿を使ったものならば、昼のうちに入ったに違いなく、夜分に忍び込んだ者なら、池の端の近所に住んでいる猿曳の仕業に違いあるまい。どうだ長いの」
宇佐美敬太郎はニヤリとするのです。この浪人者はあまり賢くなさそうですが、思いの外知恵が回るのかも知れません。
十二月七日、凶賊黒旋風が、金沢町の質屋、淡路屋佐兵衛の襲撃を予告した日です。
池の端妙月庵を襲った晩、二十八人の大勢の組子を狩り出した同心伊藤治太夫は、面目を失して引退り、その日は銭形平次たった一人に任せて、二度目の恥を掻く機会を避けたのは誠に賢いことでした。
銭形平次は唯の岡っ引で、逃げも隠れもならず、自分の持場に起るだろう事件は、何が何んでも見張っていなければならず、子分の八五郎と、それに下っ引を二人加えて、たった四人で備える外は無かったのです。
二人の下っ引は、夕方から見張らせましたが、何んの変化もなく、主人の佐兵衛が──私共が見張っているから──と遠慮が過ぎて、暗くなって平次が来るまでは、物々しい見張もさせない有様でした。
一体この淡路屋というのは、堅い一方の地味な商人で、内福の聞えは高かったのですが、店も小さく、奉公人も少く、一向世間から目立たないのが、一方にはまた、兎角肩身を狭がるお客様の好みに投じて、思いの外に繁昌し、界隈切っての物持という噂が立って居りました。
主人の左兵衛は思いの外若くて三十七、八。四、五年前に此店の株を買って、素人からは六つかしいと言われる質屋を始めましたが、番頭の伊之助が老巧な働きもので女房お作、下女お光と力を併せ、見る見るうちに仕上げた店でした。
「親分さん、飛んだ者に見込まれました。何うしたらいいでしょう」
平次を迎えた主人の佐兵衛は、脅え切って顫えてさえ居りました。三十七、八と言っても、小柄で萎びて、厄過に見えるような不景気な男で、商売はうまいかも知れませんが、凶賊黒旋風の前には、まことに頼りない存在です。
その後ろから顔を出した番頭の伊之助は、四角な顔や、凹んだ眼に、負けん気がハチ切れそうですが、これも大した戦闘力がありそうもなく、黒旋風の予告に、ウロウロして居るだけのことです。
女房のお作は三十五、六の思いも寄らぬ仇っぽい大年増、亭主を尻に敷いて居そうなのが、その恰幅からも偲ばれ、下女のお光は二十四、五のちょいとした年増で、これも風袋だけは立派ですが、知恵の方は大したこともなく、女房のお作に叱り飛ばされるのが、気の毒な位でした。
さて、此中に入った平次は、二人の下っ引に案内されて、ざっと店の外回りを見た後、主人初め家中の者に逢って見ました。今のところ、先ず何んの変ったことも無く、黒旋風ともあろう者が、評判の物持ではあるにしても、言わば出来星の小商人を狙うのが、不思議にさえ思われるほどです。
「親分、私共へ泊って下さるでしょうな」
主人佐兵衛が嘆願しますが、
「いや、矢張り、私は外で見張るとしよう。幸い路地の外には、自身番もあることだし、其処で夜明しをする気なら」
平次は別に考えがある様子です。後で言ったことですが、──あの時は自惚が過ぎたよ、黒旋風は俺と一騎討の勝負をする気だったらしいが、俺の方は、いくら黒旋風でも、俺が泊って居ては押入る気にもなれまいと思ったので、自身番に立て籠る気になったが、惜しいことだった──と平次自身が述懐したのも無理のないことでした。
淡路屋は質屋の常識通り、路地の中の奥まったところにあり、その路地の入口から十間とも離れていないところに、自身番の小屋があったので、表を見張るにはまことに絶好の場所でした。
八五郎は淡路屋の裏、土蔵の陰の三尺の抜け裏の入口に頑張らせ、二人の下っ引は、引っ切りなしに、淡路屋の四方を見回らせることにしました。八五郎の陣を敷いた場所は、一寸手薄のようにも見えますが、土蔵の庇の下を潜って、裏通りへ抜ける狭い抜け裏で、入口と出口には厳重な木戸があり、一夫関を護ればと言った、江戸の下町によく見掛けた、一種の要害になって居ります。
自身番の隅を借りた平次は、蔀になって居る油障子を細目に押しあけて、好きな煙草も呑まずに、更けて行く夜の往来──わけても淡路屋の入口のあたりを眺めて居りました。薄寒く曇った晩で、月が町家の彼方に落ちると、遠く犬の声が継続するだけ、大都の圧力と言った、言い知れぬ淋しさが人に迫るのです。
「銭形の親分」
その闇の中から、ヌッと出たのは、竹町の浪人者、宇佐美敬太郎の虚無的な顔でした。
「あ、宇佐美さん」
平次も、この浪人者の図々しさには、少し驚いた様子です。まさか今夜はと思って居るのに──八五郎に日と場所を訊いたにしても、ノコノコやって来る臆面もなさが小腹が立ちます。
「大層驚いたようだな、銭形の親分」
「いや、そんなわけじゃございませんよ」
「ところで、黒旋風の影法師でも見付かったのか」
「どうしてどうして」
平次は少し面倒臭そうでした。この浪人者に絡みつかれると、ろくな事がありません。
「搦め手は?」
「八五郎が見張っていますよ」
「あの長いの一人では覚束ないな、──ところで、宮永町の梅の家に泊っている、猿曳の信吉を見張っていることだろうな」
「いや、其処までは手が届きませんよ」
「それは惜しいな、今からでも一人行って見張ってはどうだ」
「手がありませんよ、宇佐美さん」
「それは困る」
宇佐美敬太郎は自分のことのように気を揉みますが、平次は大して問題にもして居ない様子です。
それから半刻、やがて亥刻半(十一時)と思う時分でした。
「泥棒、泥棒」
火の付いたような女の絶叫が、淡路屋の家の中から起ったのです。
「それッ」
待機して居た平次と八五郎と、二人の下っ引は、表裏から殺到しましたが、店も裏も、内から厳重に締っていて、押しても叩いてもビクともすることではありません。
「叩き破るのだ」
平次の声に、二人の下っ引は、力を併せて店の戸を押しましたが、質屋の表口は、城郭のように厳重で、そんなことでは貧乏ゆるぎもしてくれません。
「銭形の親分、横手の窓が開いてるじゃ無いか」
気をつけてくれたのは、一足後からやってきた浪人者の宇佐美敬太郎でした。見ると土蔵との庇合い、三尺四方の息抜の窓が一つ、夜空に口を開けて、無気味な闇を嘗めて居るではありませんか。
「其処から入れ」
「よしッ」
此時飛付いて来たのは八五郎でした。羽目を攀じ登って窓から飛込むと、
「灯、灯」
とわめき散らします。
「それよ」
下っ引の持っていた御用の提灯が二つ、窓から人間と一緒に飛込むと、中はまさに落花狼藉の有様です。
「あッ」
主人と女房と、番頭と下女の四人、あちこちに、滅茶々々に縛られたまま転がされ、下女のお光だけが、曲者も油断してあまり厳重に縛らなかったものか、猿轡がずっこけた上、縛られた両手も大方解けて、足を柱に縛られたまま、ここを先途とわめき立てて居るのでした。
「黙って縛られる奴があるものか、四人も揃って」
八五郎はブツブツ口小言をいいながら、四人のいましめを解き始めると、
「待ちなよ、八、そいつは結び目を見て置き度い。お勝手から包丁を持って来て、縄の方を切ってくれ」
「でも細引は二人ですが、女二人は良い紐ですよ」
「物惜みするなよ」
包丁を持って来た平次は、四人の縛めを惜し気もなく切りほどきました。
「親分さん、どうしましょう。泥棒は千両から入っている銭箱を持って逃げてしまいましたが」
貧弱な主人の佐兵衛は、泣き出しそうな顔をして訴えるのです。
「曲者は二人でしたよ、右左から刃物を突きつけられちゃ、私共は口もきけません。みすみす縛られた上、猿轡まで噛まされて、その上、御主人が仏壇の下に隠してあった、銭箱まで持って行かれてしまいました」
番頭はオロオロしながらそれに註を入れました。
「人相は見なかったのか」
「一人は中肉中背で、一人は小柄でした。やくざ風の小意気ななりでしたが、手拭で頬被りして、人相はわかりません」
主人は言うのです。
「声位は聴いたことだろう」
「入って来るから逃げ出すまで、一言も口をききません。虫ケラのように黙って居りました」
女房のお作でした。
「縛られた細引の結び目が女結びになっているのがあるが──」
平次は早くも一つの手掛りを掴んだようです。
「小さい方の曲者は、女だったかも知れません。縛られる時、ひどく手が柔らかだと思いました。──それに頬被りの下から、大きい髱がはみ出して居たようで」
主人は大変なことに思い当ったのです。
「金の隠してある場所が直ぐわかったのか」
「刃物で脅かされては、言わないわけに行きませんでした」
「金は外に無かったのか」
「今のところ、家にはこれだけでございました」
主人は盗られた金が惜しくなったのか、本当に泣き出しそうな顔をするのでした。
「惜しいことであったな、搦め手が手薄だと言ったが、矢張り曲者を逃がしてしまったろう」
後からノコノコ入って来た宇佐美敬太郎はそんなことを言うのでした。
「宇佐美さん、そんなところから入って来ちゃいけませんよ」
平次は一応とがめましたが、
「曲者は逃げてしまったんだ仔細あるまい」
などとケロリとして居ります。
「裏口はあっしが頑張っていたんだ。猫の子一匹逃げた筈は無い」
八五郎は納まらない様子です。
「いや、入った道もわからない位だ。逃げた道のわからないのも無理はないよ。多分屋根へ飛び上って、皆んな家の中へ逃込んだ時、落着いて逃げたことと思うが──」
平次の解決は見事でしたが、さて提灯を振り照して、窓の下は言うまでもなく、家の回り土蔵の庇の下、厳重に閉ったままの木戸も、抜け裏の三尺の路地も、ことごとく見ましたが、曲者が逃げた足跡も無かったのです。
「店も裏も雨戸も、皆んな締って居りました。何処からも泥棒などの入る場所は無い筈ですが」
主人も番頭も、そう言い切ります。成程戸締には何処にも手落は無く、曲者の逃げ出した窓の他には、開いて居るところは一つも無かったのです。
「その窓も念入に閉めてあった筈です。右左の桟の外に、下にも桟があって外からは打ちこわしでもしなければ開きません。それが何処にもこわれた跡が無くて、中から開いて居りますが──」
それは全く奇蹟という外は無かったのです。が、間もなく夜があけると、誰も休んでいない奥の六畳の縁側の雨戸の上、幅五寸ほどの狭い欄間が開いて、明かに其処の上の埃が乱れて居り、注意して見ると、またもや異様な毛が、ほんの少しではあるが欄間の上下の敷居に付いて居るのでした。
「おや、又猿の毛じゃありませんか」
梯子を掛けてそれを見窮めた八五郎は思わず大きい声を出しました。
「黙って居ろ、八」
平次が停めたがもう及びませんでした。
「それ、拙者が言わないことじゃない」
と浪人宇佐美敬太郎が好奇きらしい顔を出すのでした。
「兎も角も、宮永町の木賃宿に行って、猿回しの信吉兄妹を見て来てくれ」
平次もそう言う外はありません。
「宮永町へ行って来ましたがね」
八五郎が機嫌の良い顔を持って来たのは、その日も暮れてからでした。
「昨夜あの──猿曳の信吉とか言った男は外へ出なかったのか」
平次はそれを迎えて、憂鬱な顔を挙げるのです。凶賊黒旋風の跳梁は、妙月庵から淡路屋と、銭形平次を相手に、益々積極的にノシかかって来るのです。
「家に居ましたよ、一と晩、──小用にも行かなかったそうで」
「お前が見たわけじゃあるめえ、誰がそんな事を言った」
「本人が言うんだから間違いは無いでしょう」
「お前は何年お上の御用を勤めているんだ」
「──こうと、七年位になりますか」
「呆れた野郎だ。本人の言うのが皆んな本当なら、お白洲もお奉行も要らなくなるぜ」
「本人ばかりじゃありません、妹のお浜もそう言って居ましたよ。──兄さんと二人、昨夜は寒かったから、火鉢にあたって、信州に居る時分の、昔の話をしました──とね」
八五郎はそう言った事を本気で言えるほど呑気になって居りました。
「木賃宿だって、兄妹二人で借り切った部屋は、寒い晩は締切っているだろう」
「まァ、そう言うわけで」
「一人で二人の声色を使う手もあるだろう。一人碁を打って、一人が抜け出した例しもあるぜ」
「するとあの娘が、敵き役と女形と、二た役勤めたというんですか」
「果し眼になるなよ、そう言う術もあるという話だよ」
「へェ?」
八五郎はまだ、平らかならざる色です。
「それからもう一つ頼んだ筈だな」
「何んです、親分」
「その信吉という猿曳と、竹町の浪人者、宇佐美敬太郎と知り合いじゃ無かったか、それを訊いて来いと言った筈だが」
「訊いて来ましたよ。いや、もう大笑いで」
「何が可笑しいんだ」
「恋は思案の外──ってことがあるでしょう」
八五郎は又変なことを言い出しました。
神田明神下、詳しく言えばお台所町の路地の奥にも、豊かな小春日が射して、二人が眩しそうに相対している縁側も、ポカポカと心の底まで温まりそうです。
お勝手から女房のお静が、昼の仕度をするつつましやかな音が聞えて、平次の憂鬱も次第にほぐれて行きそうでした。
「お前の学が、いよいよ大したものになるぜ、恋は思案の外と──来たか」
「あの青髯の四角な男が、信吉の妹のお浜に惚れて、執念深く口説き回したそうですよ、貧乏臭い深草の少将ですね。半年位は通ったというから恐ろしい執念じゃありませんか」
「ひどくくさしつけるぜ、あの浪人者だって、そのお前の用いてる──恋は思案の外とやらを食べて悪いという法はあるめえ」
「へッ、二本差が十八や十九の娘に惚れて、刀や脇差をひねくり回す術はありませんよ。──人は武士なぜ傾城に嫌がられ──なんと、うまい事を言ったもので」
「刃物までも振り回したのか」
「だからお話の種なんで、──あの宇佐美敬太郎という浪人者は、この夏まで根津に居たんだそうですよ。近所付き合いで、ツイ信吉と懇意になるうちに、妹のお浜坊を何んとかしようという大望を起し、間がな隙がな掻き口説いた──あの柄でね」
「柄で口説くかえ」
「浜坊は根が利巧だから、うんと言いませんよ。しびれを切らした宇佐美敬太郎、とうとうお浜坊のお湯の帰りを待ち伏せて、胸倉を掴んで、刀まで抜いての強談だ」
「そんな事をやったのか、あの御浪人なかなか人間が出来て居そうだが」
「そこがそれ──恋は思案の──」
「もう解ったよ」
「刃物まで振り廻して、力つくで娘を口説くなんて根性じゃ、どうせモノになりっこは無い、お浜は利巧だから」
「お浜坊の利巧なことはよくわかったよ」
「宇佐美敬太郎の言うことを、聴くような聴かないような顔をして、暗がりからズルズルと明るみに出た。往来の人の顔が見えるところへ来ると、お浜坊いきなり張上げたから大した知恵でしょう」
「──」
「その声をきくと、根津中の野次馬が飛び出した──嘘じゃありませんよ。お浜坊が動くと、何時でも五つや十の若い男の眼が従いて歩く位だから、お浜坊が──助けてェ──などと張上げようものなら大変で」
「──」
平次はニヤニヤしながら聴いて居ります。八五郎の話は、素っ頓興に発展して、
「宇佐美敬太郎、根津に住めなくなって、知辺を頼って下谷竹町へ引越したわけ、ざっとこんな筋ですよ」
ようやく結びが付いたようです。
「御苦労御苦労お陰で気が軽くなったよ」
浪人宇佐美敬太郎と、猿曳の妹が、この事件にどう関係しているか、それは平次にもわかりません。
十二月十日の宵。
「八、お前は此処で見張ってくれないか」
飯田町の御旗本、波岡采女の門の外で平次は妙なことを言い出すのです。
「どうしたんです親分」
八五郎は薄寒そうに襟を掻き合せて、不平らしく問いました。
「此処はお前に任せて、俺は、家へ帰って寝るときめたよ」
「へェ」
「裏表厳重に見張って居るし、お前に任せて置けば、俺は風邪を引くまでも無さそうだ。こんな晩は一パイ呑んで寝るに限るぜ」
「それは殺生ですぜ、親分。銭形の親分が大きい目で見張っていてさへ、風のように隙間からもぐり込む曲者じゃありませんか」
「だから、俺が居ても無駄じゃないか」
下っ引が六人、八五郎に号令さして置けば、先ず間違いがあるまいと平次は言うのです。
「弱ったなァ」
だが、八五郎はこの大任を素直に引受けるほど自惚れては居ません。
「波岡采女様は、八百石のお旗本だ。泥棒に狙われたからと言って、町方の御用聞を邸内に引入れ、世間の物笑いになり度くないと仰しゃるのも無理はないが、コチとらは稼業でも、十二月十日の寒空に、門の外に突っ立って、一と晩まんじりともしないのは、あまり威張ったことじゃないよ──俺はもう疝気と喘息が起きそうでとても叶わないから、何が何んでも帰るよ」
平次がこういうのも一つの理由がありました。波岡采女甲府勤番仰せつけられ、暮の雑用として、公儀から金子二千両を預かり、それを馬に乗せて、明日は早朝出発という前の晩を、凶賊黒旋風に狙われたのです。
このあまり人に知られない日程を、どうして黒旋風が嗅ぎつけ、今夜といふ今夜を選んで、波岡采女邸を襲うと予告したか、それは平次にも大きい謎でした。
「親分、そう言わずに──」
「泣き言をいうなよ、八。ところで、宮永町は見張ってあるのか」
「湯島の吉が子分と一緒に、一と晩あの木賃宿に張り込んでいる筈ですよ」
「竹町の宇佐美敬太郎は?」
「朝っから遠吠ですよ。──あれは腹の減る仕掛けには持って来いですね」
「それじゃ、頼むぜ、八」
「矢張り、親分」
平次は飄然として帰って行くのです。
それを見送っている八五郎の心細さは格別ですが、波岡邸の四方に配置した六人の下っ引が、引っ切りなしに報告を持って来るので、さて何時までも淋しがっているわけにも行きません。
やがて十日月が中天から西へ傾く頃、
「御苦労だな、八五郎親分」
暗がりから、ノソリと出たのは、竹町の浪人宇佐美敬太郎でした。
「あ、又、宇佐美さん」
八五郎はさぞ苦い顔をしたことでしょう。
「又とは御挨拶だな」
「へッ、相済みません。が、竹町からわざわざ飯田町へお出ですか」
「その通り、腹ごなしだよ」
「あんなに一日謡をやっていても、まだ腹減らないんで」
「拙者が一日謡をやって居たのを、どうして知った」
「それはもう、天眼通で」
「さては、見張られているのかな──いや結構々々拙者に怪しい素振りが無いとわかれば、それに越したことは無い。ところで、今晩はどうだ、銭形平次は見えないようだが」
宇佐美敬太郎はキョロキョロと四方を見回しました。
「腹を立てて帰りましたよ。二千両の御用金を覗う曲者があると教えてやっても、門の中へは一歩も入れてくれません。町方の役人に付き合うと、不浄が感染ると思って居るんですね。この寒空に一と晩塀の外で張番させられちゃ、犬だって楽じゃありませんよ」
「それで平次親分は腹を立てたというのか」
「一杯呑んで寝ることに極めたそうですよ。御武家のお守なんか、真っ平ですって」
「相変らず銭形平次だ、良い気持だよ」
「お陰であっし達だけ残されてしまいました。あまり良い気持じゃありませんよ」
「愚痴を言うな、曲者が出たら、拙者が手取りにしてやる、憚りながら──」
「おっと、弓馬槍術、ことごとく皆伝でしょう」
「お前の方が知って居る」
この浪人者を相手にして居ると、全く際限ありません。
「ところで、その旦那の腕前で、二度も曲者を逃したのはどういうわけです」
「逃したわけでは無い、見付からなかったのだ」
「へェ、成程ね」
「それより猿の毛を調べたか、人間の潜れそうも無いところへ忍び込んで、中から戸を開けてやるのは、猿の外にはあるまいと思うが──」
「よく調べて居りますよ。──旦那が御存じの信吉などは、一番怪しいわけで」
「いや、信吉がどうというわけでは無い」
「あの妹娘のお浜は、飛んだ良い娘ですね」
「つまらん事を申すな」
「あの妹のお浜が八人芸のような声色使いで、たった一人で留守番をして、兄と二人分の声色を使うなんて術もありますね」
「そんな事まで考えて居るのか、お前は」
「餅は餅屋で、へッ」
それが親分の平次の知恵を拝借したとは思いも寄りません。こうした無駄話の塀外も冷々と夜が更けて、八五郎と浪人者の影法師が長々と凍てつく往来の上へ引いて居ります。
事もなく夜は明けました。
波岡家の門は薄暗いうちから開いて、
「いや御苦労々々々、黒旋風も当家には来なかったよ、二千両の小判は無事だ」
下男の中年者が、面白そうに八五郎に囃して居るのです。
「それは何よりのお仕合せで」
一と晩寒い思いをした八五郎は、妙に裏切られた心持でしたが、無事に一夜が明けたのを、悔みを言うわけにも行かず、六人の下っ引を集めて、さて引揚げる外は無かったのです。
「町方の者を門の中へ入れなかったのはいささか武家のたしなみだ。さぞ寒かったであろう、御苦労々々々」
などと、玄関から顔を出したのは、もう旅仕度を整えた主人の波岡采女でした。四十前後の強かな感じのする武家で、甲府勤番は閑職には違いないが、それでも役について、二千両を送る誇りにハチ切れそうです。
「それじゃ、御免蒙ります」
八五郎は素直に一礼しました。これなら平次と一緒に、夜半前に引揚げるのであったと思う気持を顔にも出さず、不足らしい下っ引をつれて、暁の町を神田へ辿るのです。
「一と晩寒い思いをしたのに、温い茶一杯くれないのも因却ですね」
下っ引がブウブウ言うのを、
「相手が悪いよ、茶が欲しかったら、家へ帰って、腹がダブダブする程呑め」
などと一かど親分がります。
明神下の銭形平次の家へ着いた時は、もうすっかり明るくなって居ましたが、
「おや、八五郎さんだけ? 家の人は?」
平次の女房のお静にそう言われて、八五郎は胆をつぶしました。
「親分は夜半前に帰った筈ですが」
「いえ、戻りませんよ」
「おやおやおや」
八五郎の呆れるのを、お静は少しヤキモキした心持で眺めて居ります。
それから四半刻ばかり、平次の帰りを待つともなく、縁側の隅で熱い茶を啜って居るところへ、
「親分、大変なことになりました、ちょいと来て見て下さい」
あわてて駆け込んで来たのは、飯田町の波岡采女邸に使われている下男の中年男でした。
「どうしたんだ」
「やられましたよ、少しの油断でしたが、二千両の金を──」
「何? 二千両の金を」
「旦那様の旅の仕度で、皆んな大騒ぎをしている時、──私は馬の用意で──奥のお座敷が一寸空っぽになったのを見計らって、不浄門の切戸から忍び込んだ曲者が、僅かの間に、二つの千両箱を持出し、気のついた時はもう、千両箱も人間の影もありません。こいつが無かった日には、旦那は甲府へ発つこともならず、そうかと言って二千両の大金は五日や十日で工面も出来ず、大変なことになりました。──どうか、銭形の親分に、来て見て下さるようにと、旦那様からも懇々のお頼みで」
下男は縁側に手を突いて、精一杯の口をきくのです。
「何を言やがる」
「へェ?」
「波岡家では、町方の手先や御用聞は、門の中へ入れると、不浄が感染ると言ったじゃないか」
「それはその」
「十二月十日の寒空に、一と晩塀の外へ立って、俺はもう臍まで凍ってしまったよ。──八百石のお旗本かは知らないが、帰ってそう言うがいい──」
八五郎はカンカンに腹を立てて、さすがに後の文句が続かないほど激昂して居りました。
「八」
「あ、親分」
其処へノソリと気のきかない朝帰りみたいな顔をして平次が帰って来たのです。
「その後は言うな、お前は人は好いが、口が悪いから、飛んだ怨みを買っていけない。へェ、へェ、これは波岡様からのお使いで」
「銭形の親分、お聴きの通りだ、親分方へよくしなかったのは、用人や下々のせいで、決して殿様の覚召じゃない。腹も立つだろうが、もう一度飯田町へ行って見て下さい。二千両の金が出て来ないと、主人は腹でも召さなけりゃなりません。二日や三日は甲府行を日延べも出来るでしょうから、せめて、そのうちに」
「承知しましたよ、行って見ることは構わないが、あっしも一と晩外へ立って、臍まで冷えてしまいました。せめて熱い湯漬を一杯やらかすうち待って下さい、八五郎にも振舞ってやります。あの腹の減った顔を見てやって下さい。あんな時はツイポンポンやり度がる男で──」
平次は馴れ切って居るので、さして腹を立てて居る様子もありません。それよりは、この六つかしい事件を解決し、人を嘗めた黒旋風に手をあげさせる興味で一杯になって居る様子です。
飯田町の波岡邸は、打って変った態度でした。主人采女自ら迎えて、平次の手を取らぬばかりに導き入れるのを、平次はどんなに骨を折って辞退したことでしょう。
兎も角も二千両の金が、二つの箱に入れたまま、煙のように消えたという、奥の座敷を見せてもらいましたが、其処には何んの変化も、泥棒の遺留品もなく、庭の不浄門──黒板塀の付いた木戸の扉が、バタバタと開いたままになって居たと言うのが、たった一つの手掛りです。
武家屋敷には、腕に覚えのある者があると、忍び返しなどという卑怯なものを取りつけない家が多く、波岡家もまたその腕に覚えのある方で、町の鼠賊が忍び込むとすれば、塀を越す位のことは何んでもありません。
平次はその不浄門に回って内外から調べましたが、
「八、塀の上のあたりを見てくれ」
何を思い付いたか、そんな事を言うのです。早速梯子を借りて来て塀の上に登った八五郎は、
「ありましたよ、親分」
頓興な声を出します。
「何があったんだ」
「猿の毛ですよ、此処から猿を投り込んで、不浄門を開けさせたんでしょう」
「いや、不浄門の錠前は、外からこわしてあるよ。一寸押した位ではわからないが、釘が一本あれば、小さい穴から押し込んで、錠前ごと輪鍵を外せるようになって居るんだ」
平次は妙なことを発見したのです。
「門の内へおれ達を入れないから、そんな仕掛までは目が届きませんよ。──いい気味みたいなもので」
梯子を降りた八五郎は囁きました。
「馬鹿、黙って居ろ──ところで、昨夜もあの竹町の浪人者は此処へ来たそうだが、直ぐ帰ったのか」
「あっしをつかまえて無駄を言って居ましたが、亥刻半頃(十一時)帰りましたよ。下っ引を一人跟けさしたから間違いありません、竹町へ真っ直ぐに帰ったそうで」
「ところで、此辺は武家屋敷ばかりで、容易に眼は届くまいが、今朝暁けてから間もなく此辺に荷車が居た筈だが、訊いておくれ」
「へェ」
それは平次の思った通りでした。お隣の屋敷の庭男が、今朝薄明るくなってから、波岡家の不浄門のあたりに、野菜物を積んだ肥し車が一台、曳く人も無く捨ててあったが、間もなく何処かへ行ってしまったということが解りました。
「八、来い」
「何処へ行くんです、親分」
「お猿に逢って来るよ」
平次は八五郎を連れて、根津へ飛びました。宮永町の木賃宿梅の家には、猿曳の信吉と妹のお浜が、何んの作為もなく、頗る平和な顔で二人を迎えたのです。
「いよう、お浜坊、元気だね」
などと無駄を言う八五郎を眼顔で押えて、
「済まねえが、一寸お猿をつれて来てくれないか、少し芸当をやらせ度いんだ」
平次はさり気なく信吉を誘います。
「へェ?」
信吉は何が何やらわからぬままに、平次と八五郎について、お猿と一緒に梅の家を出ました。
目当ては其処から池の端の妙月庵へ、
「信吉、この縁の下に潜って、お猿をあの床下の格子から中へ入れてみてくれないか」
平次はそんな事を頼むのです。
「へェ、やってはみますが、このお猿は里で育って臆病ですから、床下へ入ってくれるかどうかわかりませんよ」
信吉はそう言いながら、お猿のお玉をつれて縁の下に潜りましたが、お玉はひどく脅えて、床下などへは、とても入りそうもありません。押し込むように無理に入れても、戻って来て信吉の肩の上に飛付くのです。
「此処から床下へ猿を入れて、お勝手の落しを開ける工夫は無いか」
「飛んでもない、そんな事はとても出来ませんよ」
「そしてお勝手へ出て、戸を開けさせるのだ」
「そんな事が出来るわけはありません」
信吉は以ての外の顔をするのです。
「よしよし猿は本当に脅えて居るようだが、もう一軒試し度いところがある」
妙月庵をいい加減にして切上げた平次は、八五郎と信吉をつれて、金沢町の淡路屋に向いました。
「皆んな居るだろうな、お猿に欄間を潜らせてみるから──首尾よく行ったらお手拍子を頼むぜ」
八五郎は有頂天でした。淡路屋は主人の不景気な佐兵衛、女房の達者な大年増お作、番頭の食えそうも無い伊之助、下女のちょいと美しいお光まで揃って、猿曳の信吉が、猿のお玉を欄間に押上げて、其処から家の中へ入れようとする芸当を見て居ります。
「太夫は少し御機嫌が悪いじゃないか」
八五郎はまた囃し続けます。
「いけませんよ、お猿はこんな事をやったことが無いから、尻込みをするだけで」
信吉はお猿の機嫌の悪さに手を焼いて、閉口し切って居ります。
続いて、蔀になって居る窓の戸を、桟を抜いて内から開けさせることをやらせてみましたが、これも全く不成功で、お猿は戸に桟のあることさえ知らない様子です。
「親分、駄目ですね」
「念には念を入れただけさ、──もうよかろうよ、八」
平次の手が挙がると、八五郎が主人に飛びかかると一緒でした。
「御用ッ」
「何をッ」
番頭の伊之助が、隠し持った匕首で、平次に飛びかかるのを、叩き落して二た組の争いが始まった時、予て用意した下っ引が六人、
「御用」
「神妙にせい」
二人の女を籠めて、その争いをおっ取り囲んでしまったのです。
同時に下谷竹町に向った一隊は、浪宅で下手な謡を唸っている、宇佐美敬太郎を召し捕ったことは言うまでもありません。
* *
事件は簡単に落着しました。八五郎がせがむままに、平次が説明してやったのは、それから四、五日の後でした。
「宇佐美と淡路屋の主人がぐるになり、番頭と三人で黒旋風という仲間を拵えたのだよ。宇佐美がお浜ちゃんに嫌われた腹いせ、あの木賃宿に出入しているうちに、猿の毛を手に入れ、それを使って、信吉に疑を向けるようにしたのは悪い企みさ。妙月庵に入る前、床下に猿の毛で仕掛けをして置き、本当はあの日、昼のうちに忍び込んで、本尊の後ろに隠れ、夜半になって千両を持出して、寺男の着物を剥ぎ、小僧を人質に逃出した手ぎわはうまかったよ。宇佐美敬太郎は様子を見ながら、俺を引留めて置くために来たのだろう」
「淡路屋では」
「泥棒が自分の物を盗るんだから、これ程楽なことは無い。欄間を拭いて猿の毛を散らばし、窓を開けて、さて皆んな縛ったのだ。多分主人が番頭と女房を縛り、自分の縄は下女のお光に縛らせたことだろう、主人のだけが女結びになって居たよ。そして下女のお光は、縄を自分で解いたことにして、自分の手でグルグル巻いて大きな声を出したのさ」
「へェ?」
「淡路屋では変なことがいろいろあったよ──金を出せと言った泥棒が、二度目の話の時は、一言も口をきかなかったと言うし、屋根にも庇にも、家の回りにも足跡が無かったのも変じゃないか──それに俺達が八方から見張って居たんだ」
「三度目は?」
「宇佐美敬太郎はお前と無駄話をしながら、隙を見て不浄門の戸を、外から開ける仕掛けをしたり、塀の穴から釘を差して、輪鍵を抜きさえすればよかったのだ」
「へェ、──あの時、親分は何処へ行ったんです」
「淡路屋へ行って見張って居たよ。あんな巧者な泥棒は、自分の方へ顔を向けないように、大抵は自分の家へも一度泥棒に入るものだ。もっともあの時淡路屋は主人も番頭も揃って居たし、女房と下女はもう休んだと言って居たよ。でも何彼と腑に落ちないから、一と晩寒いのを我慢して外に立っていると、夜が明けてから、あの家の裏門へ、肥車に菜っ葉を積んだのが一台入ったよ、車を曳いてるのは誰だと思う」
「?」
「下女のお光さ、──男姿で。あれは大変な女だったんだ。淡路屋で、宵に皆んな人数が揃って居るといったのは、男二人と女房だけで、下女のことまでは俺も気がつかなかったんだ」
「へェ、驚きましたね」
「これで先ず目出度し目出度しさ」
「じゃ、ちょいと根津へ行って、あの娘に逢ってそう言って来ますよ」
「何を言う積りなんだ」
「疑ってすまなかったが、勘弁してくんなよと」
八五郎は相変らずそんな気で居るのでした。
底本:「銭形平次捕物控 猿回し」毎日新聞社
1999(平成11)年6月10日
初出:「サンデー毎日」
1950(昭和25)年11月26日号~12月10日号
※初出時の表題は「銭形平次捕物控の内」です。
※初出時の副題は「猿廻し」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:結城宏
2017年7月2日作成
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