銭形平次捕物控
人違い殺人
野村胡堂



【第一回】



「親分、世の中にこの綺麗なものを見ると痛めつけたくなるというのは、一番悪い量見りょうけんじゃありませんか、ね」

 八五郎が入って来ると、いきなりお先煙草を五、六服、さて、感にえたように、こんなことを言い出すのです。

 九月になってから急に涼しくなって、叔母が丹精たんせいしてい直してくれた古袷ふるあわせも、薄寒く見えますが、当人は案外呑気で、膝小僧のハミ出すのも構わず、乗出し加減に一とかど哲学するのでした。

「──世の中──と来たぜ。お前のお談義だんぎも、だんだんこうを経て、近頃は少し怖くなったよ」

「でも、花をむしったり、猫の子をいじめたり、金魚鉢を掻き回したりするのは憎いじゃありませんか。ましてこれが、人間の出来の良いので、眼のさめるような新造や年増となると、とげを刺しても痛々しいじゃありませんか」

 八五郎は委細構わず、その幼稚な人道主義を説くのです。平次にからかわれて、鋭鋒を納めるような、そんなヤワな心臓の持主ではありません。

「何処の新造が棘を刺されたんだ──俺は又同じ棘を刺すんでも、年寄や子供の方が痛々しいと思うがな」

「妙に棘にこだわりましたね、──実は根津宮永町の棟梁とうりょうで、石井依右衛門よりえもんというのは親分も御存じでしょう」

「知らないよ。そんな下手へたな芝居の色男みたいな名前は」

「口が悪いな、親分は、──公儀御用御大工棟梁依田土佐の下請負で、うんと身上しんしょうこさえた男ですよ」

「金持と付き合っていると、きっと損をするよ、一緒に呑んでも、先に財布を出すのは、必ず貧乏人の方だ」

「今日は機嫌が悪いね、親分は」

「一々お前にさからって済まねえが、──今朝っから気色きしょくの悪いことが続くんだよ、家主おおや親仁おやじがやって来て、立退く約束で家賃を棒引にした店子たなこが、此方の足元を見て、てこでも動かねえから、ちょいと十手を持って来て、チラ付かせてくれというし、金沢町の質屋で浪人者が押借りをして居るからちょいと十手を持って来て──」

「成程そいつはよくねえ、銭形の親分を用心棒と間違えちゃ腹も立つでしょうが、あっしの話は──」

「新造で、棘で、石井常右衛門だろう」

「先をくぐっちゃいけません、あっしの頼まれたのは、その石井常右衛門じゃない──石井依右衛門の女房と言っても、こいつはめかけだ、おつうと言って三十二──いやその綺麗なことと言ったら」

「待ってくれ、お前に言わせると、女は綺麗なのと汚ないのと、それ切りしか無いことになるが──」

「それで沢山ですよ、そのお通というのは先身はあまさんだと聴いたら、親分だって驚きますよ、今は毛を伸ばして、世間並の良い年増としまだが、三、四年前までは、目黒の尼寺で、行い済していたそうで」

「フ──ム」

「それを仕事のことで目黒へ行った依右衛門が、大夕立に降られて尼寺に飛込み、お茶を一杯振舞われたのが縁で、無理に身受をして髪を延ばさせ──」

「お言葉中だがね、八」

「へエ」

「尼さんを身受するというのは、少し変じゃないか、何処どこの国にそんなおきてがあるんだ」

「目黒こくですよ、へッ、へッ、──いてみると、前の亭主に死に別れた時、親類の亡者共が寄ってたかって、身上しんしょうを滅茶々々にした上、内儀のお通に無理に貞女を立てさせて、嫌がるのを強引ごういんに頭をまるめさせて尼寺へほうり込んでしまったんだそうで、殺生じゃありませんか」

「それからうしたえ」

 銭形平次も少し面白くなった様子です。もっとも無精者の平次を乗出させるのは、いつもこのガラッ八のとぼけた話題の魅力でもありました。

「石井依右衛門は一と目れしたのも無理はありませんや、場所は目黒の林の奥の尼寺、大夕立で薄暗くなって居るところへ、青々とった若い尼さんが、極り悪そうに、渋い茶を一杯そっと滑らせてくれた──」

「まるでお前が見ていたようだな」

「見ていたのはあっしじゃありません、依右衛門のともをして行った、番頭の宇吉で、この男はまた大道辻講釈師ほど達者に話してくれましたよ」

 八五郎の話は面白可笑しく、この事件の発展を語るのです。



「石井依右衛門、苗字こそ許されているが、根が職人で江戸っ子で、金があって気が早いと来ている」

「まるで八五郎みたいだ」

 平次は又余計な合の手を入れました。

「その上、内儀に死なれて倅一人娘一人を育てあぐんでいる五十男だ、長い間身上目当ての再縁には取合わないことにしてやって来たが、考えて見ると朝夕どうも不自由で叶わねえ、五十男が今更後添のちぞいを貰って、『高砂やア』も気が引けるし、そうかと言って、高い身の代金を積んで商売女をれるのも知恵が無い。一つ物好きのようだが、道心堅固に行いすました、目黒の尼を還俗げんぞくさして、お客のような妾のような、奉公人のような内儀のような、──そんな扱いをして、うんと高い給金を出して可愛がってやろう。それなら自分が眼をつぶっても、後のわずらいにならないし、二人の子供達にも心配させることはあるまい──と、こう考えた」

「金持は、うまい事を考えるものだな、八、こちとらじゃ、其処までは気が回らねえよ」

「尼さんを還俗さして、身上に差し障りの無いお妾にしようとは考えましたね──そんなのは一緒に呑んでも、滅多に自分の財布は見せねえ」

「お前なんかも、その真似をして、比丘尼びくに長屋から、目鼻立の良いのを一人引っこ抜く気になっちゃ困るぜ」

「大丈夫ですよ、槇町河岸のは同じったのでも、青大将臭いから、つき合い切れませんよ」

「ところで、それから何うしたんだ」

「依右衛門、金さえめば、どんな無理でも通ると思って居るから豪儀ごうぎでしょう、目黒の尼──通善の親許から嫁入先へ、存分な付け届けをしたから、プツリとも文句を言うものはありゃしません、が──困ったことが一つありましたよ」

「何んだ」

「いくら人見知りをしないと言っても、近所の手前もあるから、丸々と剃った妾をつれて来るわけには行かない、仕方が無いから百姓家の奥座敷を借りて、其処にかこって、丸二年も待った」

「気の長いことだな」

「ようやく毛が四、五寸そろったところで、付けまげか何んかで胡魔化ごまかし、宮永町の石井へ乗込んだのは去年の春」

「話はそれっ切りか」

 平次は大きい欠伸あくびを一つしました。美しい妾のうわさなどは、付き合い憎いニュースです。

「これからが大変で、目黒の尼寺の通善が、俗名のおつうかえって根津宮永町の石井依右衛門のところへ入ってザッと一年半、内外うちそとの評判は此上なし、綺麗で親切で、物柔かくて道心堅固で──」

「道心堅固は変だな」

「兎も角も、皆んなに好かれて、旦那の依右衛門にはめるほど可愛がられながら、お通の尻はどうも落着かない」

「?」

「誰とも知らず、お通にあだをする者があるのですよ、命をねらって居るのか、お通を追い出そうとするのか、そいつはわかりませんが、兎も角も引っ切り無しの悪戯いたずらだ」

「どんな事をするのだ」

 平次もようやく真面目に耳を傾けました。

「眼玉に吹矢が突っ立ちそうになったり、風呂桶の中で溺れかけたり、二階から降りるところを、誰かに突き飛ばされて、とんでもない怪我をさせられたり、思い出したように、月に一度位ずつ恐ろしい眼に逢わされたそうですよ」

「フ──ム」

「その度毎に、怨む者の仕業しわざに違い無いからと、お通は身を退こうとしましたが、主人の依右衛門は引留めて放さない、よっぽど気に入ったんですね」

「で?」

「まア、だまされたと思って、一度見てやって下さいよ、三十二の大年増だが、そりゃ大したきりょうで」

「尼さんげえりのきりょうなんか訊いてはしないよ」

「そのお通さんが、三日前の夕方、もう薄暗くなってから、井戸端で何んか始末をしていると──あの辺の井戸は浅いから、手釣瓶てつるべで水を汲んだところを、いきなり風呂敷か何んか冠せられて、後ろ様に引倒され、声を立てる間もなく、髪を切られたんだそうですよ」

「髪を?」

「二年間も丹精して、ようやく五、六寸伸びたばかりの髪ですよ、それを付け髪ごと、根元からはさみか何かで切り取られて、見る影もないザンバラ髪だ、お通は泣くに泣かれず、気が遠くなって、ボーッとして居りましたよ」

「成程そいつは気の毒だな、曲者くせものの見当もつかないのか」

「まるっ切り──と言い度いが、実は怪しいのが二、三人ありますよ」

「誰と誰だ」

「目黒の尼寺に居る時、うるさく付きまとっていたという、土地のやくざの浪次、今でも目黒から根津まで遠いところを、大した用事もないのに、ブラブラ石井依右衛門の家のあたりに来ることがあるそうですよ、あっしも一、二度見かけましたがね、三十五、六の苦み走ったちょいと良い男で」

「それから?」

 目黒から根津までは半日旅、恋の通い路が少し遠過ぎます。

「番頭の宇吉、こいつは口もちょっかいも達者で、ことに女にかけては町内でも名題のはしまめだ、あろうことか、主人の妾のお通に変なことばかりするそうで、──主人の依右衛門は、江戸一番の大気だいきだから、それを聴いても屁とも思わないが、小当りに当られるお通が参ってしまって、近頃は良い顔をしないそうで」

「それっ切りか」

「まだありますよ、主人の倅のいく太郎、先妻の子で二十一だ、どうも親仁の妾とそりが合わず、顔を見ても口をきかない程で、青瓢箪あおびょうたんのヒョロヒョロ息子だが、こんなのが思い詰めると、とんだことをやり兼ねませんね」

「──」

「それから」

「まだあるかえ」

「主人の義理の弟のたつ之助──店の支配をして居る四十男ですがね、無口で愛嬌者だが、散々道楽をした揚句の堅気だから、何時いつ精進落しょうじんおちするかわかったものじゃない。──それから」

「まだお妾が憎いのがあるのかえ」

「娘のお照は十八、綺麗とは言えないが、滅法可愛らしいだ、親父の妾のお通と仲が良いわけがありません、──もう一人、姪のおゆき、こいつは掛り人ですが、十九の厄で少し淋しいけれど、品の良い美しい娘、倅幾太郎と、末始終は一緒にするだろうといううわさで、外に中年者のお新という下女が一人」

「もう札止ふだどめにしてくれ、そうかたきが多勢じゃ付き合い切れないな」

「でも、良い女が三人も揃っていると、何んかこうすんですね」

 八五郎はおどけた調子でこう言いました。



 それから三日目の九月十四日、後の名月のあくる日の朝、八五郎の「大変」が飛込んで来たのでした。

「わかったよ、八、石井依右衛門の妾のお通がどうかしたんだろう」

「ところが大違い」

「では?」

「娘のお照ちゃんが殺されましたよ、可哀そうに、背中から匕首あいくちで一と突きやられて」

「そいつはいけねえ」

 平次は八五郎に誘われるまでもなく、自分が先に立って宮永町へ飛びました。

「本当に良い子でしたがネ──」

「お前が見て来たわけじゃ無いのか」

「あの辺を見張るように頼んで置いた、湯島の吉が、薄暗いうちに飛んで来て、教えてくれましたよ」

 そんな事を言いながら、二人が宮永町へ着いたのは、もう辰刻いつつを過ぎて居りました。

 石井依右衛門の家は、想像以上に豪勢なものでした。たかが職人の出とは言っても、御大工頭の下請であり、城中の修理に当って苗字まで許された依右衛門は、最早石井屋の依公では無く、歴とした大棟梁で、宮永町の一角から、此辺一体の町家を睥睨へいげいして居たのです。

「銭形の親分か、世話を焼かして済まねえが、独り娘を殺されちゃ、我慢をして見て居るわけにも行かねえ」

 依右衛門は五十前後、デップリ肥った中背で、貫禄充分な男でした。

「お気の毒なことで──兎も角、現場を見せて貰いますが」

 平次はお勝手口から入ると、いきなり二階に案内されました。

 稼業柄で木口きぐちの見事さ、拵えや調度は少し品が落ちますが、それでもザラの町家などには、見られない普請ふしんです。

 二階は八畳、東と南に開いて、昨夜のお月見のそなえ物も、そのままにしてありました。此処の縁側から、上野の森の上にのぼる、後の月を眺める景色の良さは、明るい昼の太陽の下でも、充分に想像がつきます。

「娘はたった一人残って、お月様を眺めて居たそうだよ、若い者は仕様の無いもので、薄寒くなって皆んなは階下したへ引揚げてしまったのに、──こんな晩はきっと、お月さまに住んでいる兎だって姿を見せるに違いない──とか何とか言ってね」

 依右衛門はそれでも、働き者らしい行届いた調子で、平次に説明してくれるのでした。

「一番お仕舞に、お嬢さんを見かけたのはどなたで?」

「下女のおしんでございますが、でもその前に私が──」

 依右衛門の後ろから、恐る恐る顔を出したのは、八五郎がかつて吹聴した、妾のお通でした。三十二というにしては恐ろしく若く、色白の無造作な化粧、鉄漿おはぐろもつけず、眉も落さないのが、反ってこの女を新鮮に見せるのでしょう。

 やや小造りで、ほっそりして、総体に青ずんだ感じのするのも、病的というよりは、反ってアブノーマルな魅力を感じさせるのです。精力的で血の気の多い依右衛門が、この紫陽花あじさいのような女を、心から好きになったというのも、うなずかれないことではありません。

「それは何時いつのことで?」

戌刻半いつつはんぎ、亥刻よつ(十時)近かったと思います。欄干らんかんにもたれて、かれたようにお月様を眺めて居るので、若しや風邪でも引いてはと思って、そっと私の羽織を肩へ掛けてやりました。それが悪かったのかも知れません──もっともその後でお新が見回りに来たそうですが、その時も何んの変りも無かったようで」

 お通はやるせない姿でした。そのお通が半年も前から、誰ともわからぬ相手から、引っ切りなしに狙われて居ることは、八五郎を通して平次も聴いて居ります。

 平次はそれを聴きながら、四方あたりを念入りに調べました。縁側はひどく娘の血でよごされましたが、それは一応拭き清めたにしても、障子にも欄干にも、拭き切れない血が残って、昨夜の惨劇の痛々しさを物語って居るのです。

 縁は町家並の三尺ですが、欄干は頑丈がんじょうで木の香もまだ抜けて居りません、それが東から南に回って、お照の刺されたのは、丁度その角のあたりになって居ります。

 下をのぞくとひさしは案外狭く、庭は板塀の陽陰でジメジメして居りますが、それでも五、六坪位はあるでしょう。

 縁側の隅に片付けた、お月見の供え物は、すすきまで泣き濡れたようにしおれて、お団子が浅ましく陽に照されて居るのも、惨劇の後の痛ましさを強調するようでした。

「お嬢さんは?」

「隣の部屋ですが──案内して上げるがよい」

「ハイ」

 依右衛門に言われて、お通は先に立ちました。後ろから見ると、三日ほど前に、曲者に髪を切られたばかりの頭は、辛くも撫でつけた毛が、後ろへフラフラと乱れて、浅ましい限りですが、襟首の美しさ、肩のあたりの素直さ、すべて色調の高雅なのと、線の交錯の品の良さで、その女を反って美しく見せるのは、まことに奇跡的でした。



 これが娘の姿──と指された時は、物馴れた平次も思わず立ちすくみました。「大したきりょうでは無い」と八五郎は言いましたが、死の浄化のせいか、その清らかさは非凡で、可愛らしい眼にも、頬にも、少し開いたくちにも、何の苦痛もありません。

 傷は背中から匕首あいくちの一と突きで、見事に心の臓をつらぬき、恐らく声も立てずに、瞬間的に娘の命を絶ったことでしょう。まましい中の若い母親──実は父の妾のお通が着せてやったという、大柄の銘仙めいせんの羽織は、袖畳みにして死骸の床の側に置いてあり、その上曲者が娘の背中にっ立てたままの匕首は、血糊も拭わずにあわせの上に置いてあるのも、妙に因縁事らしいいやらしさでした。

「この匕首は?」

「見たこともありませんよ、いずれ曲者が何処どこからか持って来たことと思うが」

 依右衛門の言葉を引取って、

「塀の外に、さやが捨ててありましたよ」

 そう言うのは番頭の宇吉でしょう、少し狐顔で、達弁らしい男です。

昨夜ゆうべ、お嬢さんの死んで居るのを見付けたのは?」

「姪のお雪だ、──皆んな寝仕度だから、二階の戸を閉めながら、娘を誘いに来たということだ──縁側に血だらけになって引っくり返って居るのを見て、思わず大きな声を出すと、それを聴いて下女のお新と、倅の幾太郎が一緒に飛んで来た」

「そのお雪さんを呼んで下さい」

 平次が頼むまでもありませんでした。当の姪のお雪は、階子段から半分出して居た顔を、自分から進んで二階へ運んで来たのです。

「私は雪でございますが」

 お照より一つ年上の十九、「淋しい品の良い」と八五郎が形容した娘です。柄は小さい方でなく、色も浅黒く、眼鼻立ちも際立って美しいとは言えませんが、その聡明さが内から発散するのでしょう。何となくキビキビして居て、取なしが魅力的でさえあるのです。

 平次は此娘に異常な興味を感じました。こんなのが存分に化粧をして、こびを強調する方法を会得えとくしたら、とんだ凄い美人になるかもわかりません。

昨夜ゆうべあかりいて居なかったのだな」

 平次は静かに訊ねました。

「お嬢さんは、わざと灯を消して、お月様を眺めて居た様子でした」

「月の光の中では、遠くから一寸見た位では、なかなか、血は見えないものだが──」

 平次は其処に気が付いて居たのです。

「でもお嬢様の身体は、欄干の下にねじれたように倒れて、背中には、匕首が突っ立って居りました」

 お雪はきっと正面を切るのです。十三夜の良い月が、中天に近くなった頃でもあり、血が見えなくたって──と言った、反抗的な色がこの小娘の顔にありありと浮かぶのでした。

「成程、そんな事もあるだろうな」

 このかけ合いは平次の負けです。

「もう、私はいいでしょうか」

 自分の言い過ぎに気がついたらしく、娘は妙に尻ごみするのを、

「いや、もう少しき度いことがある、お嬢さんを怨んで居る者が無かったのかな、──例えば、追い回して居た男と言った」

 平次は呼び止めていを改めます。

「そんな事は」

 お雪は頑固に頭を振るのです。

「銭形の親分」

 後ろから静かに声を掛けたのは、妾のお通でした。

「?」

 振り返った平次へ、ささやくように近々と、

「悪者は、私と間違えて、お照さんを刺したに違いありません。月の光を背中に受けて、顔はよく見えなかった上に、私の不断着の羽織を引っかけて居たんですもの」

 女の声は、やるせなく訴えるのです。



 平次は庭に降り立ちました。

「銭形の親分、御苦労様で」

 フト顔を挙げると、木戸を押しあけて入って来たのは、四十前後の愛嬌のある男です。

「お前は?」

「辰之助と申します。主人の義理の弟で」

「何処か?」

「お寺へ行って参りました。甥の幾太郎と一緒に」

 後ろに突っ立って、ブッら棒に挨拶をして居るのは、二十一、二の若い男、八五郎に青瓢箪あおびょうたんと形容された、総領の幾太郎です。

「気の毒なことでしたな、心当りはありませんか、曲者の」

「いや、とんでもない、姪のお照はよく出来た娘でしたよ、人に怨まれるような、そんな事は」

 辰之助は大きく手を振るのです。

「御新造のお通さんが、此間から危ない眼に逢わされてるそうだが、其方そちらには怨む者も随分あることでしょうな」

めぐろ浪次なみじとか言う、仕様のない男が追い回して居ると聞きましたがね」

「でも、二階から突き落すのは、外の者でもないと思うが」

「お通さんは良い人ですよ、心掛けも優しいし、人ざわりも申分なく、家中であの人を怨む者なんかありゃしません、あの人が来てくれて、兄のかんしずまり、朝夕の手もかからず、皆んな喜んで居ますよ」

 このきかん気らしい辰三郎や、無口で無愛想な幾太郎までが、妾のお通の支持であったとは、平次も少しばかり予想外な感じでした。

「兎も角、この下手人は手軽には見付かりますまいよ」

 平次はそう言いながら、二人と別れて、庭の方へ入って行きました。

 塀と母屋おもやに押しせばめられて、あまり陽の目をみない中庭は、ひどくジメジメして居りますが、平次と八五郎が念入りに調べたところでは、足跡らしいものは一つもありません。

「八、ひさしの上を見度いが、梯子はしごを借りて来てくれ」

「へエ」

 八五郎は裏の方へ飛んで行って、間もなく九つ梯子を一梃持って来ました。

 それを庭から庇の端へかけると、梯子の足は気が滅入るほど庭にメリ込みます。

「根津というところは、土地が低いから、陽陰ひかげは何時でも此通りだ、うっかり曲者も歩けやしない」

 平次はそんな事を言いながら、梯子を登って庇の端からお照の殺された部屋をのぞきましたが、其処には人の踏んだ跡も、苔のいたんだ場所もなく、曲者が絶対に此処から忍び込んだものでないことは確かです。

「親分」

「何だえ、八」

 八五郎の声は下から筒抜つつぬけます。

「湯島のきちが、変な野郎を縛ったそうですよ」

「変な野郎?」

「目黒の浪次というやくざで」

「本当か、それは?」

「吹矢筒を持って居たそうですよ」

 曾てお通の眼をねらった曲者──尼姿のお通をしつこく追い回した男──それが、お通の羽織を着た、娘お照を、匕首で刺したかも知れない男でないと誰が保証するでしょう──梯子を降りながら、平次の想像は極めて活発に飛躍します。


【第二回】



「野郎来やがれッ」

 下っ引の湯島の吉は、この時ほど良い心持になったことはありません。この稼業かぎょうをしてからざっと十年、もう男の厄はとうに越しましたが、腕っ節の良いのと、人間の甘い外には取柄がなく、何時いつまでっても、鼠をらぬ猫に例えられる、まことになげかわしき存在だったのです。

 それが、まぐれ当りと言おうか、石井依右衛門家の裏のあたりで、鵜の目鷹の目で往来を見張って居ると、首尾よく網に掛った一人の男、やくざ風で、ちょいと良い男でキョトキョトして居るのが変だと思うと、

「へェ、へェ、あっしは怪しい者じゃありません、浪次と言って、目黒では少しばかり人にも知られて居りますが──」

 と訊きもしないのに名乗って出るのです。

「それは何んだ、見せろ」

 右の手にブラさげている竹筒、按摩あんまつえよりたくましく、四尺あまりもあるのを指すと、

「何でもありません、鳥脅とりおどしの吹矢筒ふきやづつで、この通り」

 などとのぞいて見せるのです。

「此野郎ッ」

 吉はかさにかかって取って押さえました。

「あッ、あっしは何にも知りやしません」

「何を言いやがる、昨夜ゆうべ此家の庭先へ忍び込んで、お嬢さんを突殺したのは手前だろう」

「あ、飛んでもない、あっしはお嬢さんの顔もろくに知らない、──御新造のお通さんには随分言い度いこともあるが」

 ジタバタする首根っこをつかまえて、平次のところへ引摺って来たのです。

「銭形の親分、下手人は此野郎ですよ」

「よしよし俺に任せろ、ところで、──浪次とか言ったな」

「へェへェ、これは銭形の親分、よく御存じで」

「お前は人殺しの疑いを受けて居ることは承知だろうな」

 縁側に引付けて平次は、この男の口から何んかを引き出そうとして居る様子です。もとより、吹矢筒を持って、此辺にウロウロして居る間抜けな男が、娘のお照殺しの下手人とは思って居ない様子でした。

「親分、あっしはお嬢さん殺しなんて、飛んでもない」

「それじゃ、何用があって、目黒から根津まで、ウロウロやって来るんだ」

あっしは、御新造のお通さんに用があったんですよ、お嬢さんのお照さんとやらは、私は顔も知りやしません。第一自分が殺したものなら、此辺に近寄るものですか、とんでもない」

 網から脱出そうとする一生懸命さがさせるわざでしょう。この少々焼きの甘いやくざは思いの外の雄弁になります。

「そいつは言訳いいわけだ、身に覚えのある者は、必ず一度は殺しの現場をのぞいて見たくなるものだよ」

「親分」

「まァ、いい、──ところで、お前は此家の御新造に用事があると言ったが、それはどんな用事だ、言って見るがいい」

 平次は新たな──そして重要な問に入りました。

「そいつは申上げ兼ねますが」

 良い男のやくざはポリポリと首筋を掻きます。

「つまらねえ遠慮じゃないか、お前の首が飛ぶか飛ばないかの大事なわかれ目だよ」

 口を出したのは、八五郎でした。

「よしよし、こいつはしでくのが本当だろうよ、ちょいと番所まで──」

「申しますよ、親分、この話は目黒で知らない者もなく、此家の旦那だって薄々は、呑込んで居るすじだ」

「──」

「何を隠そう新造のお通さんはまだ頭を円めて目黒の庵室に居る頃、このあっしとは言い交わした仲で──」

「馬鹿ッ、──何んというつまらねえ事を言いやがるんだ、お前の話を聴いて、御新造は障子の陰で泣いているじゃないか」

「でも」

 浪次は続けて何んか言おうとしましたが、障子の陰のれた声がそれをさえぎりました。

「──あの頃私は、お布施ふせで暮して居た、頼りない尼法師だったんですもの、どんな下心があったにしても、寄進報捨を惜しまない檀家に、無愛想な顔も見せられません。入らっしゃればお相手もし、お茶も、お菓子も、ありさえすれば、随分お酒も差し上げました。今更それを形に取って、一々言い交わしたの約束をしたのと言われては、私は旦那に申訳がございません」

 お通の声は障子を隔てて絶々たえだえですが、涙に濡れて哀れ深く聴こえました。

「その通りか、浪次」

 平次はもう一度念を押します。

「へェ、そう言えば、その通りですが、でも、私は、黙って此家に乗り込んだ通善さんが憎らしく、逢ってもう一度怨が言い度いと思いました」

「それで、吹矢を飛ばして、御新造の眼をつぶそうとしたのだろう」

「あれは手加減がありました。あっしは勝負事はからの下手ですが吹矢だけは名人のつもりで、三間、五間と離れて居ても、ねらったまとを一すんとははずしません。目黒へ行って訊いて下されば、すぐわかることです」

「──」

「あの辺は小鳥の多いところで、私は吹矢を使って飛んでいる小鳥の羽根をい、無疵むきずのままで生捕りにする修業を積みました。これはお通さんも御存じの筈、鷹の生餌を欲しい人や、小鳥を飼い度い人に売って、博奕ばくちの元手をかせいで居ります。」

「──」

「その私が、塀外から狙ったにしても、二間や三間のところで、お通さんの眼玉を射損いそんじる筈はありません。あれは、お通さんに思い知らせるため、──私がこの辺に見張って居ることを教えるため、わざと眼をよけて、頬へすれすれに、後ろの柱に射込んだものに違いありません、嘘だと思ったら試して見ましょう、幸い此処に吹矢筒もあることだから」

 浪次は例の竹の筒を、勿体もったいらしく取上げるのでした。

「どうだ、八、お前の眼を狙って貰っちゃ」

 平次はツイ軽い気持になりました。

「ブルブル、そいつは御免蒙りましょうよ、間違って眼玉をやられた日にゃ、取返しがつかねえ」

 八五郎は大きな手を振りました。その頃の人にとって、吹矢はまさに最も不気味な飛道具だったのです。



「その上、お前は、御新造を風呂場でおぼれさせようとしたり、梯子段はしごだんから突き落したり、井戸端で髪を切ったそうじゃないか」

 八五郎は我慢がなり兼ねました。この安直あんちょくやくざは、親分の平次を言いくるめてぬくぬくと網の目をくぐって逃げ出しそうでならなかったのです。

「そいつは私の知らないことだ。吹矢を射たのは覚えがあるが──」

 浪次は躍起やっきとなります。

「吹矢を飛ばして人の眼玉を狙うような野郎だ、何をするか、わかったものじゃ無い」

 八五郎はひどく此男に敵意を持って居るのです。

「あの、親分さん方」

 お通はたまり兼ねた様子で、障子を開けて、そっと縁側に滑り出ました。日陰の縁側の光線は、庭の青葉に反映して、お通の青白い顔を益々青く沈んで見せますが、それがまた一種の高雅さで、この女は何処かに人間らしい情慾を置き忘れて来たのではあるまいかと、不思議な錯覚を起させる程でした。

「何んか?」

 平次は振り返りました。この女と近々と顔を合せると、一種神秘的なものを感ずるような心持です。

「あの、差出たことを申すようですが、浪次さんのおっしゃることは、随分一人ぎめで私にとっては遺憾いかんですが、私へあだをしたのだけは、吹矢だけだったかも知れません」

「それは又何うして?」

「階子段も風呂場も家の中のことで、外からは滅多に入られません。それから井戸端で私の髪を切ったのも、階子段から私を突き落したのも、女のような気がしてなりません」

「女?」

 お通は大変なことを言い出しました。局面はまさに、どんでん返しになりそうです。

「こんなことを申してよいか、悪いか、──私は、今まで遠慮して居りました。家の中から、悪者を出し度くなかったからでございます」

「──」

 お通は言いよどみました。いかにも打ち開けにくそうに、──でも、思い定めた様子で、静かに続けるのです。

「まだ残っているかもわかりませんが、二階の降り口の階子段に、油が塗ってありました」

「油?」

 平次は曲者くせものの険悪な思いつきに、妙な反感を誘われました。

「二つ目の段です。あとで、そっと拭いて置きましたが、なかなか取れそうもありません」

「成程、階子段の油は、外から入った者の仕業じゃ無い」

「それから──」

 お通は言いよどむのです、何んかしらこの女は、重大な鍵を握っているに違いありません。

「それから?」

「私はもう、此先は」

 お通は双手もろてに顔を隠して、絶望的にうな垂れるのでした。切られたばかりの髪の毛は、紐にもくしにもとまらず、額へザクリとかかるのを、もう払い上げようともしません。

 濃いお納戸地のあわせと、黒っぽい帯までが、行いすました聖僧の法衣に見えて、顔のやつれ、膝に揃えた十指のわななき、限りない痛々しさです。

「何が何でも、その先は訊かなきゃなりませんよ、御新造、──お嬢さんのお照さんは、御新造と間違えられて殺されて居るんだ。曲者をかばって、知ってることも打ち明けなかったら、御新造の身代りになって死んだ、お照さんはどう思うだろう」

 平次は日頃にもない説教になりました。この慎み深い女を説き落すためには、こうでも言う外はなかったのです。

「申します、親分さん、──二階から私を突き落したのは、間違いもなく女──赤い裾裏が、階子を落ちる私の眼にも、チラリと見えました」

 階子段が十幾つ、上から下まで、一気に転がり落ちたお通の眼に、それを突き落した者の、赤い裾裏がチラリと見えたということは、あるいはあり得ることかもわかりません。

「赤い裏?」

 この家に女は、お照が死んでしまえば、姪のお雪と、下女のお新の二人だけ、お雪は淋しいが素直な良い娘、下女のお新は相当のやり手で、気象者らしくもありますが、一寸見はなかなかの良い年増です。

「──」

 お通は又黙り込んでしまいました。まだいろいろの事を知っている様子ですが、その先はさすがに打あけ兼ねるのです。

「御新造、遠慮することはあるまい」

「でも、その先は、私の迷いだったかも知れません、うっかり申上げて──」

 お通は兎角引っ込み思案になりますが、平次は此処まで来ると、もう許してはくれません。其時、

「お通、その先を言うのだ、──隠してはお照が浮かばれないぞ」

 縁側へ来たのは、主人の石井依右衛門でした。この男は、恰幅かっぷくの見事なように、心持にもゆとりがあるらしく、目黒の浪次がお通をつけ回しても、物の数ともしない、太い神経の持主らしく見えました。

 だが、お通が曲者の正体を知って居るのに、それをヒタ隠しに隠して居る様子を見ると、さすがに我慢がなり兼ねたのか、自分の部屋を出て、縁側まで乗出して来たのです。

「これを申上げると、大変なことになりますが、旦那様」

 お通が斜下から見上げる眼は、悩ましくも痛々しいものです。

「構わないじゃないか、若い娘一人を殺して、知らん顔をして居るようなやつのために、何を遠慮することがあるものか」

「では、申します、──あの、私を二階から突き落したとき、妙なにおいがいたしました」

「妙な匂い?」

 平次は問い返しました。

腋臭わきがだよ、平次親分、──それに相違はあるまいな、お通」

 依右衛門は脇から註を入れます。妙な匂いとだけ言って、腋臭と言わないところに此女のたしなみの深さがあるわけでしょう。

「──」

 お通はうなずきました。痛々しい沈黙です。

「で、この家に、腋臭のある女は?」

 平次もさすがにせき込みました。事件はもう一度急転回して、最後の絞りに近づいたような気がしたのです。

「殺された娘のお照と、下女のお新だ、娘は、そればかり気にしていたが、お新はあまり気にもしない様子であった」

 依右衛門はしかと言い切るのです。

「八、お新を」

 平次が指図するまでもありません。八五郎は疾風の如く飛出しましたが、間もなく気の抜けたような顔をして戻って来ました。

「お新は此処へ来ませんか」

「いや」

「逃げたか、畜生」

 八五郎は地団太踏みましたが、すべては後の祭りで、下女お新の影も形もありません。



 石井依右衛門の娘、お照を殺した事件は、それっ切り行詰ってしまいました。

 いや、行詰ったというよりは、目黒の浪次は、内儀の言葉に救われて縄目を解かれ、二人目の怪しい人間、──下女のお新は、自分へのし掛って来る疑いの重圧にたまり兼ねて、そのまま姿を隠してしまったのです。

「親分、お新はあれっ切り、何処どこへ行ったかわかりませんよ、あの話の始まる少し前まで、鼻唄なんか歌って、お勝手で働いていたそうですが」

 明神下の平次の家へ、八五郎がやって来たのは、それから三日経ってからでした。

「いずれ、そのうちに姿を見せるだろうよ」

「そうでしょうか、自分がお嬢さんを殺したものなら、何時まで待っても、向うからは名乗って出ないだろうと思いますが──」

 平次の呑気のんきさが八五郎には物足りない様子です。

「お前は、娘殺しを下女のお新ときめて居る様子だが、俺はどうもに落ちないことばかりだよ」

「へエ、私はまた腑に落ち過ぎてこまっているんだが」

「腑に落ち過ぎるという奴があるかえ」

「でも、女で、紅い裏で、腋臭わきがにおいでしょう。二階から新造のお通を突き落したのは、お通と間違えてお照を殺したに決まって居るじゃありませんか」

「そんな呑気なことは言えないよ、あの家には現に、腋臭のある女が二人居たんだ」

「?」

「娘のお照と下女のお新さ」

「ところが、その娘のお照は殺されたじゃありませんか」

「お通を二階から突き落した時は、お照はまだ生きていたよ」

「すると親分」

「物事はそう、呑気に片付けてしまってはいけないということさ、俺はお照が、義理の母親を二階から突き落したと思ってるわけじゃ無い」

「フーム」

「不服そうだな、──例えば、だよ、八」

 平次は一服吸いつけながら、きぎみ込むように、八五郎に話しかけるのです。

「例えば、何んです、親分」

「吹矢を射たのは、目黒の浪次の悪戯いたずらで、お通を二階から突き落したのは、下女のお新かも知れないが、お通の髪を切ったのと、お通が風呂に入ってるところを、上からふたをして殺そうとしたのは、決して浪次やお新じゃないぜ」

 平次は新しい局面を開いて見せるのでした。

「そんな事はないでしょう、親分」

「ところが、お新でないという証拠がうんとあるんだ。第一、お通を井戸端で抱きすくめて、髪を切った曲者は、女だとは言ったが、腋臭があるとは言わなかったぜ。梯子段の上から、突き落されてさえ、腋臭の匂った女が、人を懐深ふところふかく抱きしめて、チョキチョキ髪を切って腋臭がわからないというはずはあるまい」

「──」

「風呂の蓋だってそうだ。華奢なようでも女が一人入って居る風呂へ、いきなり蓋をして殺そうというには、大変な力がいるわけじゃないか。風呂の中の人間は、手と足と腰と首で突っ張るだろう、それを押えつける力というものは容易のことではあるまい」

「成程ね」

 八五郎はとうとう、平次の論理に承服しないわけには行きませんでした。

「つまり、曲者はうんと力のある男か、二、三人の仕業しわざということになるのだよ、下女のお新は、お通を二階から突き落したかは知らないが、髪を切った曲者でも、風呂場でお通を殺そうとした曲者でもないことは確かだ。目黒の浪次などは、イヤがらせに吹矢を飛ばすのが精一杯で、大した企みを持った男じゃあるまい」

 平次の考えは、まことに水も漏らしませんが、そうかと言って、娘のお照を殺した下手人の見当もつかないのです。

「驚きましたね、すると人殺しの下手人は主人の弟の辰之助か番頭の宇吉か、お照の兄の幾太郎かということになりますね」

「他には男が無かったかな、──ところで、下女のお新が、そんなに妾のお通を怨んで居たのかな」

 平次は又観点を変えました。事件が解決するまで、根津の石井家から眼を離さないように頼んで置いた八五郎は、何んか新しいものを嗅ぎ出して来ているに違いありません。

「犬と猿ですよ。こうた下女──それもちょいと爪外れの良い年増と、美しい後添のちぞえの女はどんなものか、親分にも見当はつくでしょう。まして、石井依右衛門は気が多くて脂切あぶらぎって居るから、良い年増のお新に、チョッカイ位出して居るかもわからず、一方新造のお通は、尼返りで若くて綺麗で、気が弱そうで、おまけにお妾と来て居るでしょう。本妻みたいにはして居るが、仲人が立ったわけでも、祝言をしたわけでも、親類達に披露ひろうしたわけでもありません。それが長い間奉公した、小綺麗な下女と仲が良かった日にゃ、日本中の女は皆んな極楽往生しますよ」

「相変わらず、悪い口だ。お前は人が好いくせに、口に毒があっていけねえ」

「へェ」

「それから、殺された娘のお照と、継母分のお通とは?」

「仲が良かったそうですよ、世間で不思議がって居ましたがね。こいつはお通が悧巧りこうなせいでしょう」

「お照と姪のお雪は?」

「これは姉妹よりも仲良しだったそうで」

 八五郎の報告はそんな事でした、が、お照殺しの下手人を浮出させる、ヒントもまだ掴めません。



「親分」飛込んできたのは八五郎でした。それから又三日、一日毎に秋が深くなるのに、宮永町の娘殺しが、解決の曙光もなく平次をいらつかせて居た頃のことです。

「大層あわてて居るじゃないか、──それにしちゃ、大変ッ──を何処へ払い落して来たんだ」

「落ちついていちゃいけませんよ、親分。宮永町の石井家の下女、あのお新というちょいとした年増が、くびころされて、藍染川あいぞめがわに叩き込まれて居ましたよ」

 平次は思わず立上りました。一番大切な生証人が、死骸になって発見されたということは、平次の心持を暗くするばかりです。

 二人は、兎にも角にも宙を飛びました。明神下から根津まで、さして遠い路ではありませんが、石井家に辿りついた時は、馬のような息をして居りました。

 お新の死体は、石井家の奉公人に相違ないので、切戸から裏庭へ持込まれ、まだ検死前で、荒莚あらむしろをかけたままにしてあり、側には湯島の吉が、むつかしい顔をして番をして居ります。

「やれ可哀想に──」

 平次が莚の中の死体を弔った、最初の言葉でした。三十四、五というにしては、ひどく若造りで小柄で、身扮みなりもそんなに悪くは無く、小肥りの白い肌が、死の変貌にも拘らずあやしく艶めかしく、そして痛々しく泥にまみれているのです。

 首に巻かれてあったという、お新自身の細紐は解いて、死体の側に置いてありますが、茶色の真田紐でなかなか頑丈そうです。

「八、衣紋にも変りは無いな」

 平次は独り言のように言いました。

「帯もつまも、腰紐も帯揚もキチンと揃っていて大した崩れはありませんよ」

「下駄は?」

「揃って、往来の端っこにあったそうで」

 死骸は明らかに絞殺で、首に残る紐の跡や、口中、眼睫の中、何んの異議を挟みようもありません。恐らく、非常に強力な曲者に絞めつけられて、一たまりもなく気をうしない、やがて息も絶えたことでしょう。

「持ち物は?」

「不思議なことに、何んにもありませんよ、財布位は持っていそうなものですが」

 胸をはだけて見ましたが、其処にはわずかばかりの懐紙ふところがみがあるだけ。

「今まで六日間、何処に隠れて居たんだ、お前の調べも届かなかったのか」

「手一杯に調べて見ましたが、まるっ切りわかりませんよ。親許おやもと厚木あつぎだそうで、人をやって調べましたが、其処には寄りつかず、請人うけにんは竹町の福屋甚兵衛という紙屋ですが、其処へも顔を見せません。江戸には親類も縁者もなく、五年も奉公して居るのに、懇意な家も人もこさえなかったそうです」

「少し変って居るな」

 平次は死骸にむしろを掛けて、退きました。

「大きい声では言えませんが、今の御新造が来る前、此家の主人と怪しいという噂は立てられたそうですが、外に男を拵えた様子もありませんよ」

「此家の人間は皆んなそろって居るのか」

「此家の人間で昨夜留守にしたのは、主人の依右衛門だけで」

「何処へ行ったんだ」

「日光御修復のことで、公儀御大工棟梁達が揃って日光へ行きましたよ、二日前のことですがね」

 これは当然疑いの外に置かねばなりません。

「銭形の親分、ちょいと」湯島の吉が、縁側のところから呼んで居ります。

「御新造が、お話をし度いことがあるそうですよ」

「俺に?」

「何でも、昨夜、お新に逢ったんだそうで」

「そいつは──」

 平次が立上ると、お通が木戸口から庭へ──清麗な顔を出すのと一緒でした。


【第三回】



「銭形の親分さん、私は散々迷いましたが──、これは矢張り申し上げた方がよいように思います」

 ザンバラ髪を後ろに撫でつけた、青いあわせの女──お通はこう平次に言うのです。

 三十二の厄前と聞きましたが、真昼の陽の烈しい光の中で見ると、この日陰の花のような女が、消えも入りそうな、朝顔の花の美しさを発揮することを、平次は感歎の心持で見ないわけには行きませんでした。

 尼姿で石井依右衛門を夢中にさしたという女の、ザンバラ髪もまた一つの魅力で、この女から美しさを奪うために、伸びかけた髪の毛を切ったとしたら、曲者は大変な思惑違いしたことになるでしょう。

 どんな風をしても浅ましさを思わせぬ女、毛を切っても、折目高の木綿の袷を着てもそのために反って、一きわの風情と魅力を添える女は、石井依右衛門ならずとも、中年過ぎの男を夢中にせずにはかなかったでしょう。

 ──この女の異常な美しさが、すべての行違いの原因ではないか──フト、平次はそんなことを考えて居りました。

「打ちあけ無きゃいけませんよ、御新造、殺されたお嬢さんや、お新が可哀想だ」

「──でしょう、ですから私は、堅くお新と約束しましたが、思い切って親分さんに申し上げようかと思ったんです」

「それは、御新造」

 平次は少しせき込みました。この女は何んか、非常に重大なことを知って居る様子なのです。

「実は、──お新は昨夜ゆうべへ参ったのでございます」

「此処へ?」

「主人は日光へ行って留守ですし、私一人では淋しかったので、階下したの部屋に休んでいると、子刻ここのつ過ぎになってから、縁側の戸をトントンと軽く叩く者がありました」

「──」

「初めは、狐か狸か、町内の悪戯気いたずらきな若い衆かと思いました、──主人が居ないと知って、あんな悪戯はやり兼ねません。しばらく小さくなって居ると、『御新造、御新造』と呼ぶのは、紛れもないお新の声ではありませんか」

「──」

「私は手燭てしょくもつけずに、大急ぎで戸を開けてやりました。すると、庭にしょんぼり立って居るのは、矢張りお新で、私の顔を見ると、『御新造様済みません、私はとんだことをいたしました。此処に居ると縛られるに決って居りますから、何処か遠くの方へ逃げてしまい度いと思います。──でも差迫って不自由なのは路用ろようで、今のところ何にも無く、明日にも路頭に迷わなきゃなりません、済みませんが、私の荷物の中に貰い溜めた給金、小判で五両ほどぼろに包んで隠してあります、それを取って頂けませんか』──とこう申すじゃありませんか」

「──」

「それから私は『嫌』とも申兼ねて、お新の部屋の行李こうりの中から、溜めた金の五両を取り出し、外に私の手許てもとにあった、当座とうざの雑用五両──それは主人から預った金でございますが、兎も角もそれを添えて十両にまとめ、お新の手に握らせてやりました」

「──」

 平次は黙って聴きました。内儀のお通の話は、少しねばった調子ですが、それでも要領よく運んで行きます。

「お新は伏し拝んで、『この御恩は決して忘れはいたしません、こんな親切な方とも知らず、御新造様には、散々あだをいたしました、それでは、これで』──と、私が何んかこうとするのも待たず、闇の中に姿を消してしまったのです」

「それは良いことを聴かせて貰いました。ところでお新は、どんな悪いことをして縛られるのか、どうして此処を逃げ出さなきゃならないのか、それを詳しく言わなかったので?」

「私は呼び留めてそれを訊こうとしましたが、どうにでも取れるような事を言って、大急ぎで逃げてしまったのです。──私には済まないと思いながら、金に未練みれんがあって戻って来たのでしょう。うっかり男達に見付かると、どんな騒ぎになるかもわかりません」

「その時、どうして御新造は、大きな声でも立てて皆んなを呼びさまさなかったので」

「それは無理ですよ、親分、お新の後ろには、少し離れて、男の人が付いて居りました。植込の陰、庭の切戸のあたりでした。私はてっきり、お新は男をつれて強請ゆすりに来たことと思い込み、見す見す逃がしてしまいましたが、後になってお新が殺されて死骸を藍染川あいぞめがわほうり込まれていたと聴いて、あの男はお新の後をけて来た悪者で、私の家を出ると直ぐ、お新を殺して十両の金を奪った悪者に違いないと思い当りました。あの時、声でも立ててお新を引留めたら、かえって生命いのちを助けたかもわかりません。飛んだことをしたと、後では口惜くやしがりましたが──」

 お通はそう言って、しおれ返るのです。



 その日は平次も、それだけで引揚げる外は無かったのですが、念のために、もう一度お新の死骸を見る気になりました。

 三十六というにしては、少し若作りのお新ですが、絞め殺されて、ひどく人相が変っているにしても、身だしなみの良い、あぶらの乗り切った年増でした。

「何を考えてるんです、親分」

 八五郎には、死骸をつくづく眺めている平次の突き詰めた顔の方が、よっぽど不思議そうです。

「首に溝が二重に出来ていることにお前は気がつかなかったか」

 平次は顔を挙げました。

「そう言えばそうですね」

「お新のものだという真田紐の跡は、真っ直ぐに首に残って居るし、今朝死骸を藍染川から引揚げた時も、その紐が首に巻いてあったというが、その下にもう一と筋、少し斜めに細引の跡のあるのがわかるだろう」

「へェ、ありますよ」

「その細引の跡がくせものだよ──多分細引で殺して置いて、それからもう一度お新の真田紐で締めたことと思うが──」

「手数なことをするじゃありませんか」

「手数なことをするには、それだけのワケがあるだろう、お前は精一杯に人を集めて、此辺に細引が捨ててないか、どぶも、川も、縁の下も捜して見てくれ」

「親分は?」

「俺は、五日の間お新が泊っていた場所を捜して来るよ、少し心当りがあるんだ」

「何処です」

「そいつはしばらく言わないことにしよう」

「ところで親分」

「何んだえ」

「内儀のお通さんを、吹矢で射たのは浪次で、二階から突き落したのはお新でしょう」

「その辺はもう間違いあるまいな、本人が白状したり、逃出したりして居るんだから」

「風呂場で内儀を殺しかけたり、髪を切ったり、内儀と間違えてお嬢さんを刺したのは、その二人のうちのどっちかじゃありませんか、いくら何んでも、たった一人の内儀を、三人、四人でねらうのは変じゃありませんか」

「何人がかりでお内儀を殺そうとしたか、そいつはまだわからないが、お嬢さんを殺したのだけは、たしかに浪次やお新では無いよ」

「それはどう言うわけです、親分」

「考えて見るがいい、下女のお新は五日目で帰って来て、此処で殺されているんだぜ、多分内儀を二階から突落したことがバレて、面喰って何処かへ逃出したことだろうが、内儀が言ったとおり、溜めた金に未練があって、宮永町まで戻って来たところを、──余計な事を知って居るために、お嬢さんを殺した下手人に絞め殺されたに違いあるまいと思うよ──するとお嬢さんを殺したのは、お新では無いことになる」

「そんな事かも知れませんね」

「そんな事でも無きゃ、下女のお新を殺す者がある筈は無い、──浪次の方はあれからズーッと見張らせているから、目黒から根津まで、その見張りを胡麻化ごまかして来られる筈は無い」

「──」

「お嬢さんを殺したのがお新でなく浪次で無いとすると、これはよっぽど考えなきゃなるまい」

「成程そう言ったものですかね、親分のに落ちないことが、どう間違ったってあっしの腑に落ちる筈は無い、それじゃしばらドブさらいでも何でもやって見るとしましょうか」

「それじゃ頼むぜ、八、明日の朝でも、又明神下へ来てくれ」

「もっとも、宮永町ならドブ渫いも楽しみですよ、良い年増と、優しい娘が、時々顔を見せてくれるから、こんな事なら二、三日は働き甲斐があるというもので」

 八五郎は建物の袖から此方を見ている、お通の淋しい──が活々とした表情を読んで、相変らず太平楽を言うのです。



「ありましたよ、親分、藍染川の泥の中に突っ込んで、全く天眼通てんがんつうですね」

八五郎が泥だらけになった、麻三あさみつぐりの手頃な細引を持って来たのはあくる日の朝でした。

「矢張り頑丈な細引だね、こいつでお新を殺したに違いあるまい、──おや、細引の端が、切り落してあるようだが──」

「五寸か一尺切ったようですね、細引は泥へ突っ込んでありましたが、幸い切り口だけは綺麗で」

「鋏で切ったらしいな、小さい鋏で、三度にも四度にも」

 平次はこの細引から何んか確かな手掛りを引出そうとしましたが、それは徒労でした。

「そんな細引は何処にでもありますぜ」

「いや、細引は何処にでもあるだろうが、端を切り取ったのが、何よりの手掛りだよ」

「ところで、親分の方はどうです」

「昨日あれから、目黒まで行ったよ」

「へエ、栗飯くりめしには少し遅いが──」

「そんな呑気のんきなんじゃないよ、兎も角も、石井の内儀お通が通善時代尼寺で行い済まして居た頃の噂を、精一杯かき集めてみたよ」

「あのきりょうじゃ、頭を丸めていたって、随分御信心が多かったことでしょうね」

 八五郎は妙に弾み切って、膝をすすめるのでした。

「綺麗な尼だったそうだよ、比丘尼びくに長屋には法体ほうたい売女ばいたも居る世の中だから目黒の尼寺は大した人気だったと言っても嘘じゃ無さそうだ。もっとも通善尼は戒律厳重で、その狼連を振り向いても見なかったそうだが、取済まして居るとなおさら人の気を誘うから、ヒヤリとする癖に、若い者達の間には妙に騒がれて居たというよ」

「──」

「其処へ石川依右衛門が現れて、髪を伸ばさしてさらって行った。無理に貞女を立てさせられていると言っても、通善は頭の手前一応も二応も断ったそうだが、金があって人をコキ使うことに馴れている中年過ぎの男は、容易に諦めてはくれない」

「ところで、お新はどうしました」

 八五郎はせっかちに話を本題に引戻しました。

「俺が考えた通り、この五日の間、目黒の尼寺へ行って泊って居たそうだよ、石川依右衛門が、目黒の百姓家に通善をかこって、髪の毛の伸びるのを待って居る頃、お新は時々使いに来て居るから、無住の尼寺に入って泊っても、近所の衆は大した不思議とも思わなかったらしい」

「尼寺へ行ったのは変じゃありませんか、親許とか請人うけにんのところならわかるが」

「逃げるとき内儀と打合わせたのかも知れないよ、──その辺のことはなかなか見透しがつかない」

「で、今日は何をやらかすんで」

「宮永町へ行ってみようよ、第一番にその細引の切り捨てた端も捜し度いし、外にも調べることは沢山ある」

 八五郎と平次は、二頭の若駒のように、鼻面はなづらを並べて明神下から宮永町へ飛びました。

 いきなり、裏口へ回って、庭木戸から入ると其辺をウロウロしている平次。

「何を捜すんです、親分」

「娘が殺された二階の真下は、日陰のジメジメした中庭になって居るが、足跡を残さずに、あの辺へ入って行く工夫は無いものか、それを考えて居るんだよ」

「其処に足跡さえあれば、──いや足跡と梯子はしごの跡があれば、曲者は階下したから這い登って、二階の欄干らんかんもたれて居る娘の背中を刺したこととなるが」

「張板はどうです、柔らかい土の上へ張板を敷いて、その上を伝わった曲者がありましたね」

 平次が手掛けた幾つかの事件のうちには張板を敷いて渡ったのが幾つかあった筈です。

「足跡だけでは六つかしいよ、あのひさしには飛付くわけに行かないし、飛付いたらまた一ぺんにこわれるだろう、──すると矢張り梯子だが、其辺には梯子を掛けた跡も無し、張板を敷いた位じゃ、人間は無事に渡れるとしても、梯子を掛けるわけに行くまい」

 お照の襲撃は、まさに背後うしろから背中を突いたもの、お月見には不自然な姿態ポーズですが死の直前に下女のお新が見た格好──斜め後ろ向に欄干にもたれていた──という形から言えば、欄干越しに梯子の上からでも突いたことになります。

「ところで、八、お前はあの柔らかい中庭の土を踏まずに、二階の下へ行く工夫があるかえ」

 平次は狭い木戸から乗出し加減に、四坪か五坪のジメジメした庭を指しました。その庭の一方は板塀の裏側で、庇が頭の上まで差しかかっている上、根津らしい低湿ていしつさのために、年中乾くことの無い土地ですが、踏み荒らすのを嫌って平次は、此処へは誰も入れないように、番頭の宇吉に頼んであるのでした。

「行けないことはありませんが──」

 八五郎は暫く狙い定めて居りましたが、やがて塀の土台と土台を置いた石を踏んで、案外楽に渡れるとみると、物をも言わずに、上手な軽業かるわざの太夫のように、スラスラと庭の端に沿って向うへ行くのです。

「うまいうまい其辺でいい、一寸立ちどまってくれ、お前の頭の上は、二階の欄干の丁度角のあたりだ」

「此辺ですか?」

「欄干に凭れた人間を、刃物で突き上げる工夫があるか」

「そいつは無理ですよ、親分、あっしの腕が二間以上も伸びなきゃ」

「其処に踏留っては居られるだろう」

「この通りで」

 八五郎は両手を遊ばして、千番に一番の兼合いみたいな格好になりました。見ると板塀の裏側の、斜めになったささえの柱に足をからんで居るので、身体は全く安定して居ります。

「槍なら突けるわけだな」

「お嬢さんを突いたのは匕首あいくちでした」

「──」

「でも親分、こんな危ない芸当をやりながら、欄干に凭れて居る人間を突殺せるのは、此家じゃ主人の弟の辰之助位のものですぜ、若旦那の幾太郎は青瓢箪で、危ない芸当が出来そうもなし、番頭の宇吉も算盤そろばんを持つのが精一杯の力仕事で、あとは女ばかり──」

「その辰之助と内儀とは、よっぽど仲が悪かったのか」

「主人の後添のちぞいと、主人の弟が仲が良きゃ、世間の評判になりますよ、口で何んと言ったって、腹の中は犬と猿じゃありませんか、それにあの辰之助というのは喰えそうも無い男で、人位は殺し兼ねませんよ」

 八五郎は一かどの事を言うのです。

「ちょいと御免蒙ります」

 話の中へ、ヌッと顔を出したのは、噂の辰之助自身、──以ての外の顔でした。

「あ、お前さんは辰之助」

 八五郎は驚くまいことか。

「へ、辰之助でございますよ、主人依右衛門の弟の、今聴くともなしに耳に入りましたが、此私が姪のお照殺しの下手人だとおっしゃるんですかね、八五郎親分」

 辰之助の頬には、恐ろしい激怒が、苦笑いになって痙攣けいれんするのです。



「八、ひどく萎気しょげてるじゃないか」

 帰る途々みちみち、そう言う平次自身も、ひどく憂鬱です。

「素人衆に、あんな具合ポンポン言われたのは初めてですよ」

「無理もないことだが、ありゃ江戸一番の正直者か、でなきゃ、恐ろしい喰わせ者さ」

「何んとか手軽に下手人を挙げる工夫はありませんか、このまま帰っちゃ、今晩は寝付かれませんよ」

「お前でもそんな事があるのかえ」

「何んと考えてもしゃくですね、十手捕縄じってとりなわの手前」

「あの細引の端っこでも見付かれば、何んとか手繰たぐれるだろうが」

「石井家には随分いろいろの細引がありましたが、麻糸の端っこの方を、皆んな赤く染めてありましたね」

「それは良いことに気が付いた、引っ返そうか」

 平次はもう一度、宮永町の石井家に引返したのです。

 この時は辰之助もさすがに冷静にかえったらしく、先刻ポンポン言ったのをひどく後悔した様子で、今度は妙にチヤホヤしてくれます。

「人間二人の生命いのちった下手人の調べだ、大概のことは我慢してもらいたいな」

 平次にそう言われると、

「へェ、相済みません、私は気が短いので、ツイかーっとなります。御勘弁を願います。どうぞ御存分にお捜し下さい」

「では先ず、家中の人の荷物を一と通り見たいが」

「へェ、へェ、どうぞ」

 先ず雇人達の荷物から先に、辰之助を案内さして、平次は念入に見て行きました。これは容易ならぬ手間のとれることですが、しかし今となっては、それより外に手段も無かったのです。

 雇人全部の荷物を調べましたが、何んの変化もなく、続いて部屋の順序で内儀のお通の部屋を調べましたが、これも何んにも変ったことがありません。最後は姪のお雪の部屋を調べた時、可愛らしい手箱の中から、かがりかけの手鞠てまりが一つ出たのを、平次は念入に眺めて居ます。

「お雪さんと言ったね」

「ハイ」

 側に居るお雪──十九になるという、淋しく品の良い娘は、恐る恐る顔を挙げました。

「この手鞠は、お前がこさえたのか」

 手鞠はかがり掛けで、綾になった飾り糸が半分ほど掛けてありますが、普通の娘達が趣味にもたしなみにも作る、五色の糸の美しく綾なすのと違って、かがり方は如何いかにも巧みですが、色糸は白と青と、そして黒だけ、はなはだ淋しくて変ったものでした。

「私は少しも知りません、何時の間に、私の手箱に入ったでしょう」

 お雪は鞠を手に取って、眼を見張って居ります。現にお雪の手箱には、赤い糸も黄色い糸も、紫色の糸も豊富にあるのですから、この白と黒と青の三色のかがり糸は、処女の眼にも、銭形平次の眼にも異様に映ったのです。

「八、こいつをほぐしてみよう、糸を引っ張ってくれ」

「へッ、こいつは面白い」

 八五郎はそれを遊びと心得て居りました。折角かがりかけた手鞠の色糸を、遠慮も会釈もなくほぐして行くと、中には幾重にも紙や綿が巻いてあり、最後に現われたのは何んと、一と握りほどの赤い麻糸のほぐしたものではありませんか。

「あ、こいつは細引の端を切ってほぐしたのだ」

「わかった八、お前は二階の欄干に凭れて居ろ、動いちゃならねえよ」

 平次は大急ぎで飛んで出ると、裏の物干から一本の物干竿、二間半ほどあるのを外して、先刻さっき八五郎が通ったコースを辿り、塀の土台伝いに、二階欄干の真下に立ちました。

「あっ、何をするんです、親分」

 欄干にもたれて、後ろ向になって居た八五郎は、背中を突き上げられて肝をつぶしました。

「この物干竿が短か過ぎると思ったら、その先に匕首あいくちを挟んで突き上げたのだ、竹の穴が大きいから、匕首はお嬢さんの背中に残って、竹竿だけが手許てもとに戻る仕掛けだったんだ──見るがいい、八、物干竿の切り口に、血らしいものが付いて居るぜ」

 平次は物干竿の小口を覗いて居ります。

「誰です、そんな事をしたのは?」

「お嬢さんのお照さんと仲の悪かった奴──女だ、内儀だよ、八」

「あッ」

 八五郎が驚く間もありません、内儀のお通は此掛け合いを聞いたものか、自分の部屋から飛出すと、階下の降り口に向いましたが、其処は辰之助にふさがれて降りることがならず、反対側へ回ってひさしへ出ると、一気に飛降りて裏口へ──が、足をくじいて動けなくなったところへ、二階の八五郎が続いて飛降りました。

「女、御用」

 苦もなく取って押えたことは言うまでもありません。

 尼還りの美しいお通が、御所刑台おしおきだいに乗った時の鈴ヶ森の騒ぎは、まさに八百屋お七以来の評判になりました。継娘と下女を殺した極悪の所業は、もとより許さるべきではありません。

     *     *

「綺麗で若い女をしばるのを嫌がる親分も、あのお通だけは逃し兼ねましたね」

 事件が落着してから、八五郎はまたチョッカイを出すので、わけの解らないところを説明してもらい度かったのです。

「あれは悪い女だよ──下女のお新が二階から突き落したのも、浪次が吹矢を射かけたのも本当だが、自分がこう重ね重ね人に狙われて居るとわかると、今度はそれを逆に用いて、日頃邪魔になる継娘のお照を殺そうとしたのだ」

「お照がそんなに邪魔になったでしょうか」

「自分より綺麗で、悧巧で、父親の気に入りだったのさ」

 此処にもまた白雪姫の犠牲があったのです。

「すると、あの髪切りと風呂桶は?」

こさえ事だよ、自分で自分の髪を切ったのさ──井戸端で風呂敷をかぶせられて髪を切られたと言ったが、風呂敷を冠せて髪が切れるかどうか、ちょいとやってみるがいい。それにあの髪の切口は、鋏で幾度にもチョキチョキやったもので、一と思いに切ったものじゃない」

「でも、女が滅多なことで自分の髪を切るでしょうか」

「あの女は尼姿の方が綺麗に見えたんだよ。依右衛門がそれにれたんだ、──自分の髪を切る位のことは何んとも思ってやしない」

「へェ」

「それに髪を切られる時、腋臭わきがの匂いも何んにしたとは言わなかったろう、誰が馬鹿馬鹿しい、お新ででも無ければ、尼還あまがえりの短い髪などを切るものか、長く伸びてる毛なら、随分切っても切りでがあるだろうが」

「風呂は?」

「あれも嘘だ、風呂へ入っている人を、上からふたをして殺すのは三人四人の力か、でなければその殺される人の三倍もの力のある者でなきゃ出来ないことだ」

「──」

「お嬢さんに、自分の羽織を着せ、自分と間違えられて殺されたと見せたのは、大変な細工さいくだ、──物干竿に匕首を挟んだのも塀の土台を踏んで行ったのも、一かばちかの芸当だが、多分、お照が欄干にもたれる癖のあることを知って、前々から用意したことだろう」

「太え女ですね、──ところで下女のお新は」

「お新は、最初お通を二階から突き落した相手だ。あんなお通のような女は、うらみを忘れる筈は無いから一度は仕返しをしようと狙って居たことだろう。丁度あの時、お新が二階から内儀を突き落した相手とわかったので、──陰に回って今にも縛られそうだからと、目黒へ逃がしてやったことだろう、──お新にお照殺しの疑いを向ける細工だ」

「──」

「ところが、お新は金が欲しさに戻って来た、そこで十両とはずんでやって喜ばせた上、後から追っ駆けて細引で締め殺した、が、細引から足がつくといけないと思って、改めてお新の荷物から真田紐を捜して来てそれを首に巻きつけ、細引は目印の赤い端っこを切り落して、藍染川の泥に突っ込んだ──多分細引に血か泥が付いて、そのまま持って帰られなかったことだろう」

「その上、切り取った赤い端っこを、丸くして紙と綿で包み、木綿糸を巻いて手鞠にかがった、が、尼還りのお通のところには、白と黒と青の糸しか無いから、あんな変なものになってしまった。──あの赤い端っこは最初焼き捨てる気だったかも知れないが、階下したでは湯島の吉とその子分が見張って居るから、糸屑を焼く隙も無かったので、手鞠にかがることを思い付いたのだろう」

「──」

「そこで姪のお雪の手箱に突っ込んで置いたのは思い付きだが、本当にお雪が拵えたものなら、赤い糸も黄色い糸も使わなきゃならない──そこが巧んだようでも大きい手落ちだ」

「──」

「しかし、あの手鞠のかがりようは、器用でしっかりして居たから、どう見ても女の手際だ、決して男の仕業では無い、あの家でそんな事の出来るのは、お通の外には無いじゃないか」

「大変な女があるものですね」

「イヤな事じゃないか、でも、石井依右衛門も、これでりるだろう、下女に手を出したり、尼を還俗げんぞくさしたり、悪い好みじゃないか、──後添らしく、仲人を立てて親類にも披露ひろうの出来る相手を捜しゃいいのに」

「あっしも一つそういうのを捜しましょう」

「その気で付き合おうか──もっともお雪は駄目だぜ、あれは石井家の倅の幾太郎に嫁合めあわせることになったそうだから」

 平次は後口の悪さは兎も角、最後まで此事件を見てやったのです。

底本:「銭形平次捕物控 猿回し」毎日新聞社

   1999(平成11)年610

初出:「サンデー毎日」

   1950(昭和25)年1015日号~29日号

※初出時の表題は「銭形平次捕物控の内」です。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:結城宏

2017年613日作成

2017年72日修正

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