恐ろしき錯誤
江戸川乱歩
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「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」
北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車の様に旋転していた。他のことは何も思わなかった。
彼は今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。第一、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。
往来の人達は妙な顔をして、彼の変てこな歩きぶりを眺めた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。
What ho! What ho! this fellow is dancing mad! He hath been bitten by the tarantula.
丁度あの狂気じみた文句を思い出させる様な、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒蜘蛛に噛まれた訳ではなかった。併し、毒蜘蛛にもまして恐ろしい執念の虜となっていた。
彼は今全身を以て復讐の快感に酔っているのだった。
「勝った、勝った、勝った……」
一種の快いリズムを以て、毒々しい勝利の囁きが、いつまでもいつまでも続いていた。渦巻花火の様な、目の眩むばかりの光り物が、彼の頭の中を縦横無尽に駈けまわっていた。
彼奴は今日から、一日の休む暇もなく一生涯、長い長い一生涯、あの取返しのつかぬ苦しみを苦しみ抜くんだ。あのどうにもしようのない悶えを悶え通すのだ。
俺の気のせいだって? 馬鹿なっ! 確かに、確かに、俺は太鼓の様な判だって捺してやる。彼奴は俺の話を聴いている内に、とうとううっぷして了ったじゃないか。真青な顔をして、うっぷして了ったじゃないか。これが勝利でなくて何だ。
「勝った、勝った、勝った」
という、単調な、没思考力の渦巻の間々に、丁度活動写真の字幕の様にこんな断想がパッパッと浮んで来たりした。
夏の空は底翳の眼の様にドンヨリと曇っていた。そよとの風もなく、家々の暖簾や日除けは、彫刻の様にじっとしていた。往来の人達は、何かえたいの知れぬ不幸を予感しているとでもいった風に、抜足差足で歩いているかと見えた。音というものが無かった。死んだ様な静寂が、其辺一帯を覆っていた。
北川氏は、その中を、独りストレンジアの様に、狂気の歩行を続けていた。
行っても行っても果しのない、鈍色に光った道路が、北川氏の行手に続いていた。
あてもなく彷徨う人にとって、東京市は永久に行止りのない迷路であった。
狭い道、広い道、真直な道、曲りくねった道が、それからそれへと続いていた。
「だが、何というデリケートな、そして深刻な復讐だったろう。彼奴のも随分頭のいい復讐だったに違いない。併し、その復讐に対する、俺の返り討の手際が、どんなにまあ鮮かなものだったろう。天才と天才の一騎討ちだ。天衣無縫の芸術だ。彼奴がその前半を受持ち、俺が後半を受持った所の一大芸術品だ。だが、何といっても勝利は俺のものだ。……俺は勝ったぞ、勝ったんだぞ、彼奴をペチャンコに叩きつけて了ったんだぞ」
北川氏は、鼻の頭に一杯汗の玉を溜めて、炎天の下を飽きずまに歩き続けていた。彼にとっては、暑さなどは問題ではなかった。
軈て、時がたつに従って、彼の有頂天な、没思考力な歓喜が、少しずつ少しずつ、意識的になって行った。
そして、彼の頭には、漸く、回想の甘味を味うことが出来る程の余裕が生じて来た。
──それは三月ぶりの訪問であった。あの事変が起る少し前に逢った切り、二人は今日まで顔を合さなかった。
野本氏の方では、事変の悔み状を出したきり、北川氏の新居を訪ねもしなかったことが、蟠りになっていた。
北川氏は北川氏で、その野本氏の気まずさが反映して、彼の家の敷居をまたぐとから、もう嘔き気を催す程に不快を感じていた。
二人は生れながらの讐同志だった。
同じ学校の同じ科で、机を並べながら、北川氏はどうも野本氏が虫が好かなかった。多分野本氏の方でも、彼をゲジゲジの様に嫌っていたに違いないと、北川氏は信じていた。
二人が嘗ては恋の競争者だったことが、猶更らこの反感を高めた。北川氏はその頃から、野本氏の後姿を一目見た丈けでも、こう、からだがねじられて来る程、何とも云えぬ不快を覚えるのだった。そこへ今度の問題が起った。そして、もう破れるか、もう破れるかと見えながら、やっと危く均衡を保っていた二人の関係が、とうとう爆発して了った。
こうなっては、二人はどちらかが死んで了うまで、命がけの果し合をする外に逃げ道がないのだと、彼は信じていた。
北川氏は、機の熟する迄は、なるべく今日の訪問の真の目的を秘して置こうとしていた。
併し敏感な野本氏はとっくに夫を察したらしく、恐怖に耐えぬ目で、チラリチラリと北川氏を盗み見るのであった。
先ず運ばれた冷しビールのコップを挟んで、新しい皮蒲団の上に対座した二人の間には、最初の瞬間から、息詰る様な暗雲が低迷していた。
「君が何故あの事件に触れようとしないのか、僕はよく知っている。君はあれ以来始めて逢った僕に、悔みの言葉一つ述べられない程、あの事件に触れることを怖れているんだ」
暫く心にもない世間話を続けている内に、もう我慢が出来なくなって、北川氏はこう戦闘開始の火蓋を切ったのだった。
野本氏はハッとして目をそらした。
あの時、彼の顔が青ざめたのは、顔の向きを代えた為に庭の青葉が映ってそう見えたばかりではないと北川氏は固く信じていた。──
「俺の放った第一声は、見事に彼奴の心臓をえぐったんだ」
相変らず、どことも知れぬ場末の街筋を、テクテクと歩きながら、北川氏は甘い回想を続けて行った。
丁度反芻動物が、一度胃の腑の中へ納ったものを、また吐き出してニチャリニチャリと噛みしめては、楽しみを繰返す様に、北川氏は、今日の野本氏との会談の模様を、始めから終りまで、文句の細い点まで注意しながら、ユックリユックリ思出して行った。事実そのものにもまして快い回想の魅力は、北川氏を夢中にさせないでは措かなかった。
──「僕がそれに気附いたのは、極く最近のことなんだ。その当座は唯もう泣くにも泣かれぬ悲しみで心が一杯だった。恥しいことだが、正直をいうと、僕は妙子に惚れていた。惚れていたればこそ彼女の居る間は、あれ程も君を始め友人達が驚いていた程も、仕事に没頭出来たんだ。どんなに仕事に夢中になっていたって、俺の女房は、あの片靨の可愛い笑顔で、俺のうしろにちゃんと坐っているんだという安心が、僕をあんな風にしていたんだ。
忘れもしない彼女の初七日の朝だった。ふと新聞を見ると文芸欄の片隅に、生田春月の訳詩がのっていた。──そのある日にはそれとも知らず、なくてぞ恋しき妻である──という一句を読むと、子供の時分からこの方、ずっと忘れて了っていた涙が、不思議な程止めどもなく、ほろほろと零れたっけ。僕は女房の死んだあとになって、僕がどれ程彼女を愛していたかということが分った。……君はこんな繰り言を聞きたくもないだろうね。僕も云い度くはない、殊に君の前では云い度くない。併し、どれ程女房の死が僕を悲しませたか、それがどんなに僕の一生をメチャメチャにして了ったかということを、よくよく君に察して貰い度いからこそ、云い度くもないのを無理にも云っているんだ」
北川氏は如何にも殊勝げにこう語り出したのであった。
併し、この女々しい繰り言とも見えるものが、実は世にも恐ろしい復讐への第一歩だろうとは誰が想像し得ただろう。
「日がたつに従って、ほんの少しずつではあったが、悲しみが薄らいで行った。いや、悲しみそのものには変りがなかったのだろうが、ただそればかりにかかずらって、めそめそと泣いていた僕の心に、少しばかり余裕が出来て来た。すると、今までは、悲しみにまぎれて、忘れるともなく忘れていたある疑が、猛然として頭を擡げ始めたんだ。……君も知っている様に、妙子のあの不思議な死に方は、僕にとってはどうしても解くことの出来ぬ謎だった」
北川氏は彼の細君の死については、最初から疑いを抱いていた。子供さえ助かっているのに、何故妙子丈けが、あの火事の為に焼死んだかということは、彼には考えても考えても解き難い一つの謎だった。
それは三ヶ月以前の春も闌な頃の出来事だった。
その頃北川氏は二軒建ちの一寸した借家に住んでいたのだが、ある日、真夜中に棟を同じゅうしている、壁一重隣りから失火して、彼の家も丸焼けになって了った。
類焼は五軒ばかりで熄んだが、風のひどかったせいか、火の燃え拡がる速力は不思議な程早かった。大切なものを持出したり、子供に怪我をさせまいとしたり、そういう場合でなければ経験の出来ない、一種異様な、追いつめられた様な、せかせかした気持の為に、可成の時間を殆ど一瞬の様に感じたせいもあろうけれど、あの、とほうもなく大きな大蛇の舌ででもある様な「火焔」という生物が、人間の住家を嘗め爛らして了う速さというものは、ほんとうにびっくりする程であった。
北川氏は第一に幼児──誕生を過ぎてまだ間もなかった幼児を抱いて、少し離れた友人の家へかけつけた。
泣叫ぶ子供は、友人の細君に託し、友人にも手伝って貰って、出来る丈けの品物を持出そうと、彼は火事場へ取って返した。
寝衣姿の狂気めいた北川氏は、人間がまだ言葉というものを知らなかった、原始時代に立帰って、意味を為さぬ世迷事を口走り乍ら、息を切らして走るのだった。
そうして、友人の家との二三町の間を二回往復すると、もう火勢が強くなって、品物を持出すどころではなく、危くすると命にも拘りそうになったので、彼は兎も角も友人の家に落着いて何よりも先ず、痛みを感じる程に、カラカラに渇いた喉を、コップに何杯も何杯もお代りをして、湿したのだった。
が、ふと気がつくと、妙子の姿が見えない。
たしかに一度は彼女の走っているのを見かけたのだが、そして、彼女は、北川氏がこの友人の家へ避難したことは当然知っている筈だが、どうしたものか姿を見せなかった。
でも、まさか、燃え盛る火の中へ飛び込もうなどとは、想像もしなかったので、暫くは、彼女の取り乱した姿が、友人の門口に現れるのを、ぼんやりと待っていたのだった。
行李だとか、手文庫だとか、書類だとか、色々の品物が雑然と投出された友人の家の玄関に、友人夫婦と、北川氏と、子供を抱いてふるえているまだ年の行かぬ女中とが、妙に黙り込んで顔を見合せていた。
外からは、火事場の騒擾が手に取る様に聞えて来た。
「オーイ」とか「ワー」とか「ワッワッワッワッワッワッ……」とかいう感じの騒音が、表通りを駈けて通る騒々しい跫音が、近所の軒先に佇んだ人々の眠むそうな、併しおどおどした話声に混って、まるで、北川氏自身には何の関係もない音楽か何ぞの様に響いて来るのだった。
あちらでもこちらでも、あの妙に劇的な音色を持った半鐘の音が、人の心臓をドキドキさせないではおかぬ、凄い様な、それでいてどこか快い様な感じで打鳴らされていた。
それに引換えて、家の中の彼等の一団の静かさが、何とまあ不思議な程であったことよ。どれ程の時間だったか、余程長い間、彼等は身動きさえしないでシーンと静まり返っていた。
一時は火のつく様に泣叫んでいた幼児も、もうすっかり黙り込んでいた。
程へてから、友人の細君が、まるで、つまらない世間話でもしている様な、ゆったりした調子でこう云った。
「奥さんはどうなすったのでしょうね、ねえ、あなた」
「そうだ、大分時間もたったのに、おかしいな」
友人は北川氏の顔をじろじろ眺めながら、考え深そうに答えた。
そんな訳で、彼等が妙子を探しに出掛けたのは、流石に烈しかった火勢も、もう下火になった頃であった。
だが、探しても探しても妙子の姿は見えなかった。知り合の家を一軒ずつ尋ね廻って、もうこれ以上手の尽し様がないと思ったのは、はや夜の明けるに間もない頃であった。
へとへとに疲れ切った北川氏は、一先ず友人の家へ引上げて、兎も角も床についた。
その翌日、焼跡の取かたづけをしていた仕事師の鳶口によって北川氏の家の跡から、女の死骸が掘り出された。
そして、始めて、妙子が何のためだか、燃え盛る家の中へとびこんで、焼死んだということが分った。
それは実際不思議なことだった。
何一つ彼女を猛火の中へ導く様な理由というものがなかった。変事の為に遠方から集って来た親族の人達の間には、これはきっと、あまり恐ろしい出来事の為に逆上して、気が変になったせいだろうという説が勝を占めた。
「私の知っているあるお婆さんは、そら火事だというのに、うろたえて了って、いきなり米櫃の前へ行って、丹念にお米を量っては桶の中へ入れていたって云いますよ。ほんとうに、お米が一番大切だと思ったのでしょうね。こんな時には、よっぽどしっかりした者でも、うろたえて了いますからね」
妙子の母親は、ともすれば、咽び相になるのを堪え堪えして、鼻の詰った声で、こんなことを云ったりした。
「可愛い女房が、若い身空で、しかも子供まで残して、死んでしまった。これ丈けで、もう男の心を打ひしぐには十分過ぎる程十分なんだ。その上に、見るも無慚なあの死に方、……君にあいつの死顔を一目見せて遣りたかった。若し、あの死骸を前に置いて、君にこの話が出来るんだったら、まあどんなに深刻な、劇的な効果を収め得た事だろう。
あいつの死骸は真黒な一つの塊に過ぎなかった。それは酷たらしいなどというよりは、寧ろ気味の悪いものだった。知らせによって其場へ駈けつけた僕の目の前に転がっていたものは、生れてからまだ一度も見たことのない様な珍らしいものだった。それが三年以来添って来た女房だなどとは、どうしたって考えられなかった。それが人間の死骸だということさえも一寸見ただけでは分らなかった。目も鼻も、手足さえ判明し兼ねる様な一塊の黒いものだった。所々、黒い表皮が破れて、真赤な肉がはみ出していた。
君は火星の望遠鏡写真を見たことがあるかね。火星の運河だという、あの変な表現派じみた、網の目の様なものを知っているかね。丁度あの感じだった。真黒な塊の表面が、あんな風にひび割れて、毒々しい真赤な筋が縦横についていた。人間という感じからは、まるでかけ離れた、えたいの知れぬ物凄い物体だった。僕は、これが果して妙子かしらと疑った。物慣れた仕事師は、僕の疑わしげな様子に気づいたと見えて、その黒い物体のある箇所を指し示して呉れた。そこには、よく見ると妙子が昨日まではめていた、細いプラチナの指環が光っていた。もう疑って見ようもなかった。
それに、妙子の外には、その夜行方不明になったものは、一人もなかったことも後になって分ったのだ。
だが、こんな死にざまも世間にないことではない。それは随分ひどいことには相違なかったが、それよりも、そんな外面的なことよりも、もっと、もっと、僕の心を苦しめたのは、なぜ妙子が死んだかという疑いだった。死なねばならぬ様な理由は少しだってありはしなかった。物質的にも、精神的にも、彼女に死ぬ程深い悩みがあったろうとは、僕にはどうしたって考えられなかった。といって、彼女は、不意の出来事に気の狂う程、気の弱い女でもなかった。彼女が見かけによらぬしっかり者だということは、君もよく知っている通りだからね。仮りに一歩を譲って、彼女は気が狂ったのだとしても、何も態々猛火の中へ飛込んで行く訳がないじゃないか。
そこには何か理由がなくてはならない。一人の女を、死の危険を冒してまで、燃え盛る家の中へ飛込ませる程重大な理由というのは、それは一体何だろう。夜となく、昼となく、この息苦しい疑いが僕の頭にこびりついて離れなかった。仮令死因が分ったところで、今更どうして見ようもないと知り乍ら、やっぱり考えないではいられなかった。僕は長い間かかって、あらゆるあり相な場合を考えて見た。
大切な品物を家の中へ置き忘れて、それを取出す為に、ああした行動を取ったと解するのが、先ず一番尤もらしい考えだった。
併し、どんな大切な品物を彼女が持っていたのだろう? 僕は、妙子の身のまわりの細い点などには、まるで注意を払っていなかったので、その持物なども、何があるのか、ちっとも知らなかった。しかし、あの女が命にも換えられぬ様な大切な、品物を持っていたとも考えられないじゃないか。そんな風に、他の色々な理由を想像して見ても、皆可能性に乏しいのだった。僕は遂には、これは死人と共に永久に甦る事のない疑問としてあきらめる外はないのかと思った。dead secret という言葉があるが、妙子の死因は文字通りの dead secret だった。
君は盲点というものを知っているだろう。
僕は盲点の作用程恐ろしいものは無いと思うよ。普通盲点といえば、視覚について用いられてる言葉だが、僕は、意識にも盲点があると思う。つまり、云わば『脳髄の盲点』なんだね。何でもないことを不図ど忘れすることがある。最も親しい友達の名前が、どうしても思い出せない様なことがある。世の中に何が恐ろしいといって、こんな恐ろしいことはないと思うよ。僕はそれを考えるとじっとしていられない様な気がする。例えば、僕が一つの創見に富んだ学説を発表するとする。その場合、その巧みに組立てられた学説のある一点に『脳髄の盲点』が作用していたとしたらどうだ。一度盲点にかかったら、何かの機会でそれをはずれるまでは、間違いを間違いだと意識しないのだからな。僕等の様な仕事をしているものには殊に、盲点の作用ほど恐ろしいものはない。
ところが、どうだろう。あの妙子の死因が、どうやら僕の『脳髄の盲点』に引掛っている様な気がし出したのだ。どうも不思議だと思う反面には、これ程よく分ったことはないじゃないかと、何者かが囁いているんだ。ぼんやりした、何だか分らないものが『私こそ奥さんの死因なんですよ』と云わぬばかりに、そこにじっとしているんだ。併し、もう一寸で手が届くという所まで行っていて、それから先は、どうにもこうにも考え出せないのだ」
北川氏は予定通り、寸分も間違えないで話を進めて行った。あせる心をじっと抑えて、結論までの距離をなるだけ長くしようとした。そして、丁度子供が蛇をなぶり殺しにする時の様な快感で、野本氏の苦悶する有様を眺めようとした。一寸だめし五分だめしに、チクリチクリと急所を突いて行った。
この愚痴っぽい、何でもない様な長談義が野本氏にとっては、どんなに恐ろしい責め道具だかということを、彼はよく知っていた。
野本氏は黙って彼の話を聴いていた。
初めの内は「うん」とか「成程」とか受答えの言葉を挟んでいたが、段々物を云わなくなって行った。それは退屈な話に飽き飽きしたという風にも見えた。
併し、北川氏は、野本氏は怖れの為に口が利けなくなったのだと信じていた。うっかり口を利けば、それが恐怖の叫声になりはしないかという虞れの為に、黙っているのだと信じていた。
「ある日、越野が訪ねて呉れた。越野は近所に住んでいたばかりに、火事の手伝いから避難所まで引受けて、随分面倒を見て呉れたんだが、その日はその日で妙子の死因について非常に重大なサゼッションを与えて呉れたのだった。越野の話によると、それはある目撃者から聞いたんだ相だが、妙子はあの時、何か大声に喚きながら、燃え盛る家の前を、右往左往に駈け回っていたって云うんだ。あたりの騒音の為に、それが何を喚いているのか聞取れなかったが、何か非常に重大なことだったに違いないって、その男が云った相だ。現場に働いている人達も、死にもの狂いで奮闘している際ではあり、誰れも、妙子の妙な動作には気附かなかったらしいんだが、そうしている内に、どこからともなく、一人の男が現われて、妙子の側へ近寄って行った相だ」
北川氏はこういって、凝然と相手の目に見入ったのだった。それがどんなに対手を怖わがらせるかということを意識しながら、彼は、暗い洞穴の中からじいっと獲物を狙っている蛇の様な目つきで、野本氏を見つめたのだった。
「その男は、妙子の側まで行ったかと思うと、フッと廻れ右をして、元来た方へ走り去って了った相だが、すると、どうした事か、妙子は非常に驚いて、一杯に見開いた目で、救いを求める様にあたりを見廻した。が、それも瞬間で、アッと思う間に、一面の火になっていた家の中へ飛び込んで了ったというのだ。……その男は、それからどうなったか、まさか、その不思議な女が焼死のうとも思わなかったので、混雑にまぎれてその後の様子を見届けなかったと云った相だ。そして、それが、翌日焼跡から掘り出された越野の友達の細君だったと聞くと、その男は、そんなことなら、あの時すぐ御知らせするのだった、残念をしたといって悔みを述べた相だ。
この話を聞いて、僕は、やっぱり妙子は気が狂ったのではなかったと思った。確かに何か重大な理由があって、火中に飛び込んだのに相違ないと思った。
『それにしても、妙子の側まで行って、すぐにどっかへ居なくなった男というのは、一体何者だろう』と僕が云うと、越野は声を落して、真剣な目附で、『それについて思い当ることがある』と云うではないか。……越野はあの時、僕の荷物を肩に担いで走りながら、ふと一人の男に擦れ違ったのだった。が、ハッと思って振返ると、もうその男は、沢山の弥次馬の中へまぎれ込んで、姿が見えなかった相だ。越野はその男の名前を知らせて呉れたが、君はそれが誰れだったと思う。僕とも、越野とも、至って親しい、古い友達なんだが、……その男は、なぜ友達の越野に逢って、挨拶もしないで、逃げる様に跡を暗ましたのだろう。僕の家が焼けているというのに、見舞にも来ないで行って了ったのだろう。これについて、君は一体どんな風に考えるね」
北川氏の話は、段々中心に触れて行くのだった。
野本氏は相変らず一言も口を利かないで、一種異様の表情を以て、北川氏の雄弁に動く口のあたりをじっと見つめていた。彼の顔色は、さいぜんから、手酌で可成ビールを飲んで居ったにも拘らず、始め対座した時から見ると、見違える程蒼ざめていた。
勝ほこった北川氏は、益々雄弁に、まるで演説でもしている様な口調で、一生懸命に話を進めて行くのだった。
彼は極度の緊張で、両頬のカッカッとほてるのを感じた。腋の下が、冷い汗でしとど濡れるのを感じた。
「だが、それ丈の謎の様な事実を聞いたばかりでは、僕にはどうにも判断の下し様がなかった。事実の真髄に余程近づいたことは確かだった。併し、真髄そのものは、矢張り今にも分り相でいて、少しも分らなかった。それは無限小の距離には近づき得ても、本体に触れることは絶対に出来ない様な、もどかしさだった。もどかしいというよりは、寧ろ恐ろしかった。僕は、これはてっきり『脳髄の盲点』だなと思うと、身震いする程恐ろしかった。そうして二日三日と日がたって行った。
ところが、ついしたことから、その盲点がハッと破れた。そして、夢から醒めた様に、何もかもすっかり分ってしまった。僕は忿怒の余り躍り上った、そいつこそ、越野が教えて呉れたその男こそ、憎んでも憎んでも憎み足りない奴だった。僕は直ぐ様、そいつの家へ飛んで行って、掴み殺してやろうかと思った位だ。……いや、僕は少し興奮しすぎた。もっと冷静にゆっくり話をする筈だった。……その時、僕は妙子の里からよこして呉れた新らしい乳母に抱かれている子供を見ていた。子供は、まだ乳母になつかないで、廻らぬ舌で『ママ、ママ』と、死んだ母親を求めていた。子供もいじらしかった。
だが、こんな可愛い子供を残して死んで了った、いや、殺されて了った母親こそ猶更可哀相だった。僕はそう思うと、『坊や、坊や』と子供を呼んでいる母親の声が、あの世から聞えて来る様な気がした。
君、これはきっと、浮ばれぬ妙子の魂が、どっかから、僕の胸へ囁いたんだね。『坊や、坊や』という妙子の声を想像すると、突然僕は烈しいショックに打たれた。そうだ。それに違いない。……妙子を猛火の中へ飛び込ませる程の偉大な力はこの『坊や』の外には持っていないのだ。……一度盲点が破れると、長い間せき止められていた考が海嘯の様にほとばしり出た。
あの時、僕が第一に、子供を連れて友達の家に避難したことを妙子は知らなかったかも知れない。あの場合そうしたことは、あり得ないことじゃない。僕は飛び起ると直ぐ様子供を抱えて走り出しながら、床の上に起上って身繕いしている妻に、『早く逃げろ、子供は俺が連れて行くぞ』と呶鳴ったのだった。併し、それが果して、顛動していた妙子の耳に通じたかどうか。何を考える暇もなく、本能的に飛び出したあとで、始めて子供のことに気づいたという様なことではあるまいか。そして、『坊や、坊や』と叫びながら、家の前をうろついていたのではあるまいか。ああいう異常な場合には、ふだんとはまるで違った心理作用が働くものだ。その証拠には、僕自身にしても、二度目に、荷物を運んで、越野の家へ走っている間に、『はてな、子供はどうしたかしら』という考で、幾度となく心臓をドキドキさせた位だもの」
北川氏は、ここで少し言葉を切って、その効果を確める様に野本氏の様子を伺った。
そして、野本氏が一層蒼ざめて、歯を食いしばっているのを知ると、満足らしく肯いて、話を最も肝要な点に進めて行った。
「ここにある一人の執念深い男があって、ある女に深い恨みを抱いていたと仮定する。男はどうかして、その恨みをはらそうと執念深く機会を狙っている。すると、ある時その女の家が火事に逢う。どうかした都合で、その場に居合せた男が、女の一家が焼け出される有様を小気味のいいことに思って眺めている。ふと見ると、女が『坊や、坊や』と叫びながら家の前をうろついている。男の頭にあるすばらしい機智が浮ぶ。このチャンスを外してなるものかと思う。
男はやにわに女の側に近寄って、催眠術の暗示でもかける様に、『坊ちゃんはね、奥座敷に寝ていますよ』と告げる。そして、す早くその場を逃げて了う。何という驚くべき、インジニアスな復讐だろう。ふだんなら、誰だってこんな暗示にかかりはしないだろう。併し、気も狂わんばかりに、子供の身の上を気遣って逆上している、あの際の母親を殺すには、それは飛び切りのトリックだった。僕は忿怒に燃え立ちながらも、その男のすばらしいウイットに感心しない訳には行かなかった。
僕は今まで、絶対に証拠を残さない様な犯罪というものが、あり得ようとは思わなかった。だが、その男の場合はどうだ。どんな偉い裁判官だって処罰のしようがないではないか。死人の外には誰れも聞かなかったであろうその囁きが、何の証拠になるだろう。それは、その男の行動を怪しんで、記憶に留めている幾人かの人はあるかも知れない。併し、そんなことが何になるものか。友達の細君の不幸を慰める為にその側へよって口を利くということは、至極あたり前のことだからね。仮りに一歩を譲って、その囁きが誰かに洩れ聞かれたとしても、それはその男にとってちっとも恐ろしいことじゃない。『私は真実そう信じて云ったまでのことです。その為に、奥さんが火の中へ飛び込んで、自分で自分を焼き殺したって、それは私の知ったことじゃありません。あなたは、そんな狂気じみたことを私が予期して居ったとでも仰有るのですか』そういえば立派に申訳が立つではないか。何という恐ろしい企みだ。その男は確かに人殺しの天才だ。エ、そうじゃないか、野本君」
北川氏は、ここでもう一度言葉を切った。そして、これから愈々俺の復讐を実行するのだぞと云わぬばかりに、ペロペロと脣を嘗め廻した。
彼は、半殺しの鼠を前にした猫の様に、如何にも楽しそうに、物凄い目つきで野本氏の顔をジロジロ眺めるのだった。
北川氏が野本氏と親しくなったのは、勿論学校が同じだったという点もあるが、それよりも、一人の女性を渇仰する青年達が、類を以て集った、そのグループの中の一員として、お互に嫉視し乍ら近づき合ったということが、より重大な動機を為していたのだった。
そのグループの中には、北川氏、野本氏の外にまだ二三人の同じ青年達がいた。あの火事の際に、北川氏一家の避難所を承わった越野氏もその中の一人だった。それは七八年も以前のことで当時の青年達は、もうそれぞれ一かどの威厳を備えたプティ・ブルジョワになりすましていたが、流石に昔忘れず附合っているのだった。
では、そのグループの中心となった幸福な女性はというと、それが即ち後の北川氏夫人妙子だったのである。
妙子は山の手のある旧御家人の娘だった。何々小町と呼ばれた程の器量よしで、その上、教育こそ地味な技芸学校を出たばかりだったが、女としては可成理解力にも富んでいたし、昔気質の母親の躾にもよったのだろうが、当節の娘に似合わないしとやかな所もあって、まず申分のない少女だった。
当時北川氏は、遠い親戚に当る所から、妙子の家に寄寓して学校に通っていた。自然、妙子渇仰の青年達は、北川氏の書斎に集って来た。
北川氏はその頃から、少し変人型のむっつりやで、学問にかけては誰にもひけを取らなかったが、交際という様なことは至って不得手だった。それにも拘らず、彼の書斎に客の絶えまがなかったというのは、彼を訪ねさえすれば、仮令一緒になって談笑するとまでは行かずとも、取次に出たり、お茶を運んで来たり、何かと妙子の顔を拝む機会があろうという、友人達の敵本主義の賜だった。その中でも、最もしげしげ彼の室に出入したのは、今云った野本氏、越野氏、その他二三氏のグループだった。彼等の暗闘は並々ならず烈しいものだった。だがそれはあくまで暗闘だった。
就中、野本氏は最も熱心だった、秀麗な容貌の持主で、学校の成績も先ず秀才の部に属してい、その上、随分調子のいい交際家でもあった野本氏が、我こそという自信を持っていたのは至極当然なことだ……。彼自身そう信じていたばかりでなく、競争者達も、残念乍ら彼の優越を否定する訳には行かなかった。北川氏の書斎に於ける談笑の中心は、いつも極った様に野本氏が引受けていた。時たま妙子が座にある時、若しそこに野本氏が居ないと、座が白けた。野本氏が居れば、彼女も快活に口を開いた。
彼女が大声に笑ったりするのは野本氏の居る時に限られた。そういう調子で、彼は苦もなく妙子に接近して行ったのだった。
誰しも野本氏こそ勝利者だと思った。
色々な機会の色々な暗黙の了解によって、野本氏自身もそう信じていた。あとには唯プロポーザルが残っているばかりだと信じていた。
彼等の関係が丁度そうした状態にある時、暑中休暇が来た。野本氏は優勝者の満悦を以て、いそいそと帰省の途に着いた。もうすっかり自分のものだという安心が、妙子との暫しの別れを却って楽しいものに思わせた。
遠方からの手紙の遣り取りによって、二人の間が猶一層接近するであろうことを予想しながら、野本氏は東京をあとにした。
ところが、野本氏の帰省中に、俄然局面が一転した。野本氏があれ程も自分のものだと信じ切っていた妙子が、彼には一言の断りもなく、一同がまさかこの男がと、高を括っていた、あのむっつりやの北川氏に嫁して了ったのであった。
北川氏の喜悦に反比例して、野本氏の忿怒は烈しいものだった。それは忿怒というよりも寧ろ驚愕であった。信じ切っていたものに裏切られた人の驚愕であった。これ見よがしに振舞っていた手前、彼は友達に合す顔がなかった。
併し、これといってハッキリした約束を取交している訳ではなかったので、どうにも抗議のしようがなかった。違約を責めようにも、違えるべき約束をまだしていないのだった。洩す術のない憤りは野本氏の人物を一変させて了った。
それ以来彼は余り物を云わなくなった。これまでの様に友達の家を遊び廻らなくなった。彼は唯、学問に没頭することによって、僅かに遣る瀬ない失恋の悲しみを紛らそうとした。北川氏はそれらの事情を知り過ぎる程よく知っていた。野本氏が其後今日に至るまで妻帯しないことが、彼の失恋の悲しみが如何に烈しいものだったかを証拠立てていると思っていた。それ丈けに彼と野本氏との間柄は、表面は同窓の友として附合っていたけれども、実は可成気拙いものになっていた。
そうしたいきさつを考えると、野本氏があの様な復讐を企てるというのも随分尤もなことだったし、北川氏がそれを疑う心持も、決して無理ではなかった。
さて、北川氏という男は、前にも一寸言及んだ様に、少し変り者だった。
社交的な会話、洒落とか常談とかいうものは、まるで駄目だった。彼はユーモアというものをてんで解しない様な男だった。併し議論などになると、可成雄弁に喋った。彼は何か一つの目的が極まらないことには何もする気になれぬらしかった。その代り、これと思い込むと、傍目もふらず突き進む方だった。そういう時は、目的以外の事にはまるで盲目になって了った。この性質があればこそ、彼は学問にも成功した。不得手な恋にさえ成功した。
彼は二つの事を同時に念頭に置くことの出来ないたちだった。
妙子を得るまでは妙子の事の外は何も考えなかった。妙子を得て了うと、今度は学問に熱中した。あれ程執心だった妙子を独りぼっちに抛ったらかして学問の研究に没頭した。そして、今や妙子の死に会するに及んでは「可哀相な妙子」のことの外は何も考えられぬ彼であった。野本氏に対する復讐についても彼は狂的に熱中した。そして、その目的を果すと狂的に歓喜した。
凡てが極端から極端へと走った。
彼は一つ間違うと気違いになり兼ねぬ様な素質を多分に持っていた。いや、現に、妙子の死因についてのある突飛な想像、野本氏に対するあの奇怪なる復讐、それらは北川氏の正気を信ずるには余りに気違いじみた思想ではなかったか。
併し、北川氏は彼の想像の適中を固く信じていた。そして、その信念が今確証されたのであった。
讐と狙う野本氏は見事に北川氏の術中に陥って、彼の目の前に、あさましい苦悶の姿を曝したのであった。
北川氏の話は、やっと長々しい前提を終って、復讐の眼目に入るのだった。
「その男の恐ろしい復讐には少しの手落ちもなかった。仮令それを推量することは出来ても、それは推量の範囲を一歩だって越えることは出来ないのだ。お前はこういう罪を犯したではないかと責めたところで、対手がそれに服しなければ、どうにもしようがないのだ。僕は唯その男の機智に感じ入って、じっとしている外はなかった。対手は分っている。而かもそれを責める方法がない。こんな苦しい、変てこな立場があるだろうか。だが、野本君、安心して呉れ給え。僕はとうとうその男をとっちめる武器を発見したんだ。けれど、それは僕にとって何という残酷な武器だったろう。
僕が発見した事実というのは、その男を苦しめると同時に僕を苦しめる。それを復讐の手段に用いる為には、先ず僕自身が対手と同様の苦しみを嘗めた上でなければ、役に立たない様な種類のものだった。僕は、あの、讐に毒饅頭を食わせる為に、先ず自から命を的にその一片を毒見した昔の忠臣の話を思出した。敵を斃せば自分も滅びる、自分が先ず死なねば対手を殺すことが出来ない。何という恐ろしい死にもの狂いな復讐だろう。
だが、昔の忠臣の場合はまだいい。彼は復讐を思い止まりさえすれば、身を殺す必要はなかったのだ。ところが、僕の場合は、復讐をしようがしまいが、そんなことに関係なく、その恐ろしい事実は、一刻一刻鮮明の度を加えて僕に迫って来るのだった。始めの間はボンヤリしたあるかなきかの疑だったものが、徐々に、ほんとうに徐々に、事実らしくなって行った。そして、今ではそれが『らしく』などという言葉を許さぬ、火の様に明かな事実となって了った。今までは心の中の問題だったものが、余りに明瞭な証拠物の発見によって、もうどうにも動きのとれぬ事実となって了った。どっちみち、僕はこの苦しみを味わねばならぬのだ。どうせ苦しむのなら、多分僕よりも幾層倍打撃を蒙るであろう讐にも、この事実を知らせてやろう。そして、そののたうち廻る有様を眺めてやろう。僕はそう決心したのだ。
その当座、僕は毎日毎日その男の此上もなく巧妙な復讐のことより外は考えなかった。或は憤ったり、或は感心したりしながら、そればかりで頭の中が一杯になっていた。ところが、ある日、地平線の遙か彼方にぽっつりと浮んだ、一点の怪しげな黒雲の様に、ふと妙な考が浮んだ、成程、あの男は完全無欠な手際で復讐を為しとげた。併し、若し妙子が彼の信じている様に、彼を嫌っていなかったとしたらどうだ。いや、却って彼を愛していたとしたらどうだ。……そんな事がある筈はない。それは取り止めもない妄想だ。俺は頭がどうかしている。馬鹿な、そんなことがあってたまるものか。だが、併し、それは果してあり得ないことだろうか。何故、こんなとほうもない妄想が、俺の頭の中へ浮んで来たのだろう。僕は恐ろしさに身震いした。若し……若し、妙子があれ以来その男を思いつづけていたとしたら。……
自然に、僕の考は妙子との結婚当時の事情に移って行った。その男は結婚以前の僕にとって、一人の恐るべき競争者だった。僕は窃かに信じているんだが、その男自身も、彼の周囲の人達も、妙子が僕と結婚しようなどとは、毛頭考えていなかったに相違ない。そして、その男こそ、妙子の未来の夫たる仕合者だと信じていたに相違ない。それ程、その男は妙子の心を奪っていた。若しそこに特別の事情がなかったなら、妙子は必ず彼のもとに走ったであろう。敵ながら、その男にはあらゆる条件が備わっていた。それに反して僕はというと、何一つ女の心を惹く様な美点を持合していなかったではないか。だが、僕の方には特別の武器があった。僕は妙子の家と遠い姻戚関係があった許りでなく、昔に遡れば、僕の一家は妙子の一家の主筋に当るのだった。そうした関係から、結婚を申込めば妙子の両親が、あの昔気質な老人達が、二つ返事で寧ろ有難く承諾するのは当然のことだった。そんな義理ずくからばかりでなく、物堅い僕の性質が『あの人なら』という風に彼等の深い信用をかっていたのだもの。その上、幸か不幸か、妙子自身が、どんなことがあっても親の言いつけには叛き得ない様な、昔風の娘だった。心では、どれ程深く思いつめている男があっても、それを色に現す様なはしたない女ではなかった。僕はそういう事情につけ込んで、無理にも我意を通そうとしたのではなかったか。仮令、これ程明瞭には考えないでも、心の奥では、それを意識していはしなかったか。
だが、誰れでも持っている様に、僕とても、人並の、いや恐らく人並以上の自惚れを持っていた。意外にもすらすらと結婚の話が進捗して、さて一緒になって見ると、いつとはなしに、そうした自責に似た心持も消え去って了った。妙子は、僕を大切な旦那様として、十分貞節を尽して呉れた。『さては、あの男を恋していたと思ったのも、俺の疑心暗鬼であったか』お人好しの僕は一概にそう信じて了ったのだった。
併し今にして思えば、妙子の外に女というものを知らぬ僕には、何とも判断しかねるけれど、恋というのは、あんなものではないらしい。僕と妙子の関係は、恋人というよりも、寧ろ主従のそれに近いものだったのではあるまいか、考えて見れば僕も随分御坊ちゃんであった。三年間もつれ添っていながら、女房の心持がハッキリと分らないなんて、──実際、僕はこれまで、女房の心持について考えて見ようなどと、思ったことすらないのだ。夫婦になりさえすれば、女房というものは、亭主を世界中の唯一人として愛するものだと単純に極めて了って、もう何の疑う所もなく、専門の仕事に没頭していたのだった。
だが、今度の事件が僕の目を開いて呉れた。
あとになって考えると、妙子のそぶりに腑に落ちぬ点が多々あった。ああ云う時、ほんとうに夫を愛している女房だったら、あんな風にはしなかったろうという様な、些細な出来事が、それからそれへと思い浮ぶのだった。確かに、妙子は僕という夫に満足していなかったのだ。そして、心ならずも見棄てた所の、昔の恋人の姿を、絶えず心に抱き締めていたのだ。いや、心の上丈ではない。悲しいことだが、彼女のあのふくよかな、暖い胸には、真実その男の『姿』が抱きしめられていたのだった。
僕はさっき、動きのとれぬ証拠物を発見したといった。
その証拠物というのは、見給え、これなんだ。このメダルは、君もよく知っている様に、妙子が娘時代から大切にしていた品だ。
これは、やっと火事場から持出した彼女の手文庫の底に丁寧に天鵞絨のサックに入れて仕舞ってあったのを、つい数日前ふとしたことから発見したんだが、この妙子の秘蔵のメダルの中には、一体まあ何が入っていたと思う。この中には、野本君、その男の──越野が火事場で出逢った男の──妙子を無残に焼殺した男の──而かも、其の妙子が以前からずっと愛しつづけていた男の──写真が守り本尊の様にはりつけてあったのだよ。併し、若し、これが妙子が娘時代にその男の写真をはりつけて置いたまま、打忘れていたとでもいうのなら、まだしも、現に、彼女は僕と結婚した当座、確かにこの中へは僕の写真を貼りつけていたのだからな。それがいつの間にか、その男の写真と代っていたというのは、これは一体何を語るものだろう」
北川氏は、内懐へ手を入れて、一つの金製のメダルを取出した。そして、それを掌の上にのせてヌッと野本氏の鼻の先へつき出した。
野本氏は、怖れに耐えぬ様に、打震う手でそれを受取った。そして、メダルの表面の浮彫模様をじっと見入っていた。
北川氏は極度に緊張していた。皇国の興廃この一戦にありといった感じだった。あらゆる神経が両眼に集中した。そして、野本氏の表情を、どんな細い点までも見逃すまいと努力した。死の様な沈黙が続いた。
野本氏は可也長い間メダルを見つめていた。
彼は、その蓋を開いて、中の写真を確めようともしなかった。それは、そんなことをして見るまでもなく、余りに明白な事実として野本氏の胸を打ったのに相違なかった。……彼の表情は段々空虚になって行った。殊に彼の目は、視線丈はメダルに注いでいたけれど、何か外のことを深く深く思い込んででもいる様に、まるでうつろに見えた。やがて、彼の頭は、そろりそろりと下って行った。そして、遂には、彼はチャブ台の上に俯伏して了ったのだった。その瞬間、北川氏は彼が泣き出したのではないかと思って、ハッとした。だが、そうではなかった。
野本氏は、あまりにひどい心の痛手に、最早や永久に起上ることの出来ない人の様に、俯伏したまま動かなかった。
北川氏は、もうこれでいいと思った。
勝利の快感で喉が塞がる様に思われた。それ以上話を続ける必要はなかった。仮令あっても、北川氏にはもう口が利けなかった。彼は踠く様にして立上った。
そして、俯伏したままの野本氏を後目にかけてすっと座敷から出た。何も知らぬ婆やが周章てて、彼の下駄を直しに出て来た。彼は躍る様な足取りで玄関の式台へ下りたとたんに、ドサリという音がした。
北川氏は婆やの上に重って、無様に倒れていた。彼は興奮の余り痺れが切れたことすら意識しなかったのだ。
「かくして俺は勝ったのだ」
北川氏は満悦の体で、まだ歩きつづけていた。
「彼奴はあのメダルを永久に手離し得ないのだ。棄てようとしても、どうにも棄てられないのだ。いや、メダルそのものは仮令棄てることが出来ても、彼奴の頭の中には、いつまでも、いつまでも、恐らく墓場の中までも、持主の姿を代表する様にあのメダルがこびりついていることだろう。『これ程自分を思って呉れた人を、俺はこの上もない残酷な手段で焼殺して了ったのだ』奴は取り返しのつかぬ失策に、毎日毎日嘆き悶えることだろう。こんな気味のいい復讐があるだろうか、何という申分のない手際だろう。流石は北川だ。お前は偉い。お前の頭は、日頃お前が信じている通り、実にすばらしいものだなあ」
北川氏の歓喜は勝利の悲哀に転ずる一刹那前のクライマックスに達していた。
彼は今、歩きつづけながらベースボールの応援者達が、「フレー、フレー、何とかあ」
と喚いて躍り上る時の様に、躍り上った。そして、気違いの様に涎を垂しながら、ゲラゲラと笑った。夥しい汗が、シャツを通して、薩摩上布の腰のあたりをべっとりと湿していた。真赤に充血した顔からは、ぽとりぽとりと汗の雫が垂れていた。
「ワハハハハハハハハハハハハ、何という馬鹿馬鹿しい、子供だましなトリックだ。野本先生まんまとしてやられたね。エ、野本先生」
彼は大きな声でこう呶鳴った。
さて、北川氏が野本氏に話したことは、実は前の半分丈けがほんとうで、後半分は彼の復讐の為に考え出した一つのトリックに過ぎないのだった。
彼が妙子の死を悲しんだことは、実際野本氏に話した幾層倍か知れなかった。
彼女が死んでから半月計りというものは、学校の方も休んで了って──それが彼の職業だった──夜の目も寝ずに泣き悲しんでいた。「ママ、ママ」と母親の乳を尋ねる幼児と一緒になって泣いていた。
越野氏──あの火事の時に深切に手伝って呉れた越野氏が、彼の新居へやって来て、妙子の死因についてある暗示を与えたまでは、彼は彼女の死を疑う余裕さえない程、唯訳もなく悲嘆に暮れていた。
だが一たび越野氏の話を聞くと、彼は例の一本調子になって、悲しみを打忘れて復讐に熱中し出した。夜となく昼となく、彼は対手の残酷な復讐に対する返り討ちの手段のみを考えた。
それは可成困難な仕事だった。第一、対手が誰であるか、それすら分らなかった。北川氏は越野氏が火事場で野本氏に逢った様に話したけれど、あれも作りごとだった。なる程、越野氏は見覚えのある男に逢ったと云った。そして、その男が如何にも彼の目を怖れる様に人混みの中へ隠れて了ったとも云った。
それが誰であったか、越野氏はよく見別ける暇がなかったのだった。
「何でも、学校時代に親しく往き来した友達の一人なんだ。何にしろ、あの騒ぎで、気が転倒している際だったから、ハッキリしたことは云えないが、野本か、井上か、松村か、つまり、あの時分君の書斎へよく集った連中の一人だと思うんだがね。野本のようでもあり、井上の様でもあり、そうかといって、松村でなかったとも断言し兼ねるが……とも角その三人の中の誰れかに相違ないのだけれど、どうしても思い出せない」
越野氏はこんな風に云った。
先ず相手から探してかからねばならないのだった。若し、間違った対手に復讐する様なことがあったら、取り返しのつかぬことになる。それに、仮令対手が分ったとしても、余りに巧妙な遣り口にどうにも手のつけ様がないではないか、北川氏自身野本氏に白状した通り、それは絶対に証拠のない犯罪だった。純粋に心理的なものだった。つまり、そこには二重の困難が横わっていたのだった。
幾日となく、そればかりを考えている内に、北川氏の頭に、ふとすばらしい名案が浮んだ。それは法律に訴えることでは無論なかった。だといって、暴力を以て私刑を行うのでもなかった。それは、復讐者は絶対に安全で、しかも、相手には、政府の牢獄や、そんな私刑の苦痛にもまして、深い、強い打撃を与え得る様な方法だった。そればかりでなく、もっといい事には、その方法による時は、態々真犯人を見出す面倒のないことだった。嫌疑者の凡てに、それを実行しさえすればよいのだった。
真の犯罪者には此の上もない苦痛を与えるけれども、他の者は何等の痛痒も感じない方法だった。
妙子が残して行った金メダルと、学生時代に、同じクラスの者が集って写した四つ切りの写真とが、その材料だった。
北川氏は先ずその金メダルと同じものを二つ作らせた。そして、都合三つの、寸分違わないメダルが揃うと、今度はその中へ、夫々、野本氏、井上氏、松村氏の写真を、顔の所だけ切り抜いて貼りつけた。
何という簡単な準備だ。これであの重大な仇討が出来ようとは。
「併し、対手のトリックは、もっと簡単でしかも自然だったではないか。世の中には、極めて些細な原因が、非常に重大な結果を招くことがあるものだ。このつまらないメダルと、古ぼけた切抜き写真が、一人の人間の一生の運命を左右する偉大な力を持っていないと誰れが断言出来るだろう。
野本にしろ、井上にしろ、松村にしろ、この金メダルを見忘れている筈はない。殊にこの蓋の表面のヴィーナスの浮彫りは、あの頃俺の室へ来た程の青年達が皆熟知している筈だ。彼等が妙子の噂をし合う時には、いつもその本名を呼ぶ代りに、メダルの模様から思いついた『ヴィーナス』という渾名を使っていた程ではないか。今若し、彼等の内の誰かが、妙子の手文庫の底深く秘めていた、このメダルの中に、自分の写真が貼付けてあったと知ったなら、どんなに狂喜することだろう。と同時に若しその誰かが、妙子を焼殺した本人だったら、その男の悲痛はまあどれ程だろう」
実を言えば、越野氏の教えて呉れた三人の中では、北川氏は野本氏を最も疑っていた。だが、他の二人とても妙子に無関心であった筈はないのだから、疑って疑えないことはなかった。そこで、最も嫌疑の重い野本氏を最後に残して、先ず、井上、松村の両氏に、北川氏自から名案と信ずる、このメダルのトリックを試みることにしたのだった。
併し、両氏共、メダルを取出すまでもなく、その無実が明瞭になった。
彼等は申合せた様に、北川氏の変てこな話を聴くと、気の毒だという表情をした。そして、
「君は細君に死なれて、少しとりのぼせているに相違ない。そんな馬鹿馬鹿しいことがあってたまるものか、君はもっと気を落着けなくちゃいけない。まあまあそんなつまらない話は止しにして、さあ一杯やり給え」
という様な調子で、他意もなく慰めてくれるのだった。彼等の表情には、犯罪者の疑懼などは影さえも差さなかった。
北川氏は少なからず失望した。
「俺の考は、そんなに狂気じみているのかしら、若しかすると、これは彼等が云う様に、まるで根も葉もない妄想に過ぎないのではあるまいか。
だが、まだ野本が残っている。俺は最初から彼奴をこそ目ざしていたのではないか。兎も角も最後までやって見なければ」
こうして、彼は今日野本氏を訪れたのだった。そして、予期以上の見事な効果を収めたのだった。彼が狂者の様に歓喜したのは決して無理ではなかった。
北川氏は二時間余りも、汗でベトベトになって歩き続けていた。ふと、時計を見ると、夏の日はまだ暮れるに間があったけれど、時間はもう夕食時を過ぎていた。彼は漸く我に返った様に、今度は方向を定めて歩き出した。
一日の興奮で疲れ切ったからだを、郊外電車に揺られながら、家にたどりつくと、彼はもう何をする気にもなれなかった。すぐに床をとらせて、ぐったりと横になると、間もなく、快い鼾声が、今日の勝利に満足し切った彼の喉から、ゆったりしたリズムを以て、洩れて来るのだった。
翌日、北川氏が眼を醒したのは、十時に近い頃だった。熟睡の後の快い倦怠が、彼を殊更らいい心持にした。彼は起上ると、寝衣のまま書斎へ入って行った。そこには甘い回想の材料が彼を待っていた。野本氏の手に残して来たのと寸分違わない、二つの金メダルが、書物机の抽斗の中に待っていた。
彼はそれを取出して愛撫する様に眺めるのだった。
始めの計画では、野本氏の所ばかりでなく、井上氏や、松村氏の所へも、それを残して来る積りだった。若し三人の内、誰が犯罪者だか判別しかねる様な場合には、どうしても一人に一つ宛メダルを残して来る必要があった。そういう積りで、彼は態々高価な摸造品を二つまで作らせたのだった。
併し、前にも云った様に、野本氏の外の二人はメダルを取出すまでもなく見分けがついた。北川氏は、大切に腹巻の中へ入れて行ったものを、二度ともその儘持ち帰らねばならなかった。彼は今、その不用に帰した二つのメダルを眺めているのだった。
「野本の奴、こんなトリックがあろうとは、まるで想像も出来ないだろう。ヘヘヘ、どうです。何とうまい手品でしょうがな。ところで一つ種明しを致しましょうか。さあ御覧なされ。手品の種というのは、この二つの金メダルで御座る。この中には一体何物が入っていると御思召す。分りますまい? では申しますがね。この一つには松村先生の写真、も一つには井上先生の写真が、ちゃんと入っているのですよ。野本先生の写真はもうここには……」
北川氏は、ふと台詞めいた独語を止めた。
彼は心臓がスーッと喉の方へ上って来る様な気がした。彼の顔が白紙の様に白くなった。今にもメダルの蓋を開こうとしていた彼の手は、突然、えたいの知れぬ恐れの為にバッタリその動作を中止した。
そして恐怖に耐えぬ彼の瞳がじっと空を見詰めた。
「俺はどんな細い点までも、注意に注意して事を運んだ積りだ。併し、この不安はどうしたというのだろう。何かとほうもない間違いをしていやしないかしら、お前は今、その肝心の点丈けがどうしても思出せないではないか。お前は野本の家へ行く時に、果して野本の写真の入っているメダルを持って行ったか。
さあ、しっかりしろ。若しも、お前が野本に渡したメダルに、松村か井上の写真が入っていたとしたら、どんな結果になるかよく考えて見よ。お前は恐ろしくはないか。そら、お前は震えているではないか。では、お前は、そのどうにも取り返しのつかぬ錯誤を、今思出したとでも云うのか」
彼はフラフラと立上った。そして、じっとしていられない様に、部屋の入口の方へ歩き出した。丁度其時、出逢頭に女中が一通の封書を手にして彼の書斎へ入って来た。
「旦那様、野本さんから御使いで御座います」
しゃっくりの様なものが北川氏の胸に込み上げて来た。
ある予感が、駄々子の様に、この手紙を読ませまいと、彼を引止めた。併し、いつまでもそうして女中と睨めっくらをしている訳には行かなかった。
彼は遂に意を決したものの様に、手紙を取って開封した。巻紙に書かれた達筆な野本氏の文字が焼きつく様に北川氏の目を射た。
読んで居る内に、物凄い笑いが北川氏の口辺に浮んで来た。その笑いが段々顔中に拡がって行った。
彼は、巻紙を持った両手をスーッと差上げたかと思うと、クルリ、その巻紙で頬冠りをした。そして、爆発した様に笑い出した。
「ハッハッハッハッ…………ヘッヘッヘッヘッヘッ…………フッフッフッフッ…………」
彼は身を悶えて笑い続けた。丁度、朝顔日記の笑薬の段に出て来る悪医者の様に、止め度もなく笑いこけた。
こうして、可哀相な北川氏は発狂して了った。彼の発狂の原因が何ものであったか、我々は今俄かにそれを判断することは出来ない。
併し、妙子の変死がその最も重大なる遠因であって、野本氏の手紙がその最も重大なる近因であったと推定するのが、まず誤りのない所であろう。その野本氏の手紙には左の様な文句が綴られてあった。
前略
昨日は意外の失策御無礼の段幾重にも御容謝被下度候
実は数日来極度の多忙にてろくろく夜の目も寝ず仕事に没頭致居連日の睡眠不足より遂にあの不始末に及びたる次第に候貴君の御話も幽かには記憶致し居候得共何時御立帰りになりたることやらまるで前後忘却貴君の前をも憚らずいぎたなく熟睡に及びたる一埒何とも申訳の言葉も無之候朧気乍ら昨日の御話に依れば令閨御死去に関して何か疑惑を抱かれ居る様拝察致候得共常識より判断致せば御話の如き儀はよも有之間敷かと被存候愛人を失われたる御悲歎の程は千万御同情申上候得共余りに其事のみ思詰められては御健康にも宜しからず此際転地でも為され十分御静養相成候様差出がましき次第ながら旧友の老婆心より御忠告申上候
先ずは不取敢昨日の御詫旁々斯如に御座候
二伸御忘れの金メダル同封致置候確かこの中に貼付けある写真の主こそは恐るべき殺人者の様承り候得共さるにても御同様親しく往来致居る彼の松村君が仰せの如き極悪人なりとは断じて信じ難き所に御座候
封筒の中には、手紙の外に、白紙で包んだ金メダルが入っていた。どうして間違ったのか、そのメダルには野本氏のでなくて松村氏の写真が挟んであった。この手紙が野本氏の真意であったか、それとも、メダルの間違に乗じた彼の機智であったか、それは野本氏自身の外は誰れにも分らぬ永久の秘密だった。
かくして、北川氏の発狂の直接の動機となったものは、何と恐ろしい因縁ではないか。彼が平生口癖の様にしていた、所謂「脳髄の盲点」の作用だったのである。
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
2012(平成24)年8月15日7刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第八巻」平凡社
1931(昭和6)年5月
初出:「新青年」博文館
1923(大正12)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「とびこんで」と「飛込んで」と「飛び込んで」、「誰」と「誰れ」、「仮令」に対するルビの「たとえ」と「よし」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2016年9月9日作成
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