別府温泉
高浜虚子




 道路のアスファルトがやわらかくなって靴のあとがつくという灼熱しゃくねつの神戸市中から、埠頭ふとうに出て、舷梯げんていをよじて、くれない丸に乗ると、たちまち風が涼しい。

 ここから神戸市中を振り返って見ると、今まで暑さにあえいでおった土地も、涼しげな画中の景となって現れて来る。そうしてその神戸埠頭が今はもう視界から去ってしまう頃になると、左舷には淡路島がちかより、右舷には舞子まいこ明石あかしの浜が手に取るごとく見えて来る。私は甲板の腰掛こしかけに腰をおろして海風かいふう衣袂いべいひるがえすに任している。

 先に帆襖ほふすまを作ってほとんど明石海峡をふさいでいるかと思われた白帆も、近よって見るとかしこに一ここに一帆というふうに、汪洋おうようたる大海原の中に真帆まほを風にはらませて浮んでいるに過ぎない。

 それに引かえてきかう蒸汽船のおびただしきことよ。鉄甲板の荷物船が思いきり荷物を積んで、深く船体を波に沈めて、黒煙を吐いて重そうに進んでいるのもすでに三、四そうならず追い越した。軽快な客船も、わが船の十三ノットというにはかなわないでしばらく併行して進んでいるうちに遂にあとになる。むこうから来る汽船はすれ違ったと思ううちにもう見えなくなる。すべてこれ等の汽船は坦々たんたんたる道路のごとくこの海原を航行しているのである。

 さすがに白熱の太陽が大空に君臨している間は、左右の島も汪洋たる波も、その熱に焼きただらされて、吹き来る風もどことなく生暖かい。その風は裳裾もすそたもとひるがえし、甲板の日蔽ひおいをあおち、人語を吹き飛ばして少しも暑熱しょねつを感じささないのであるが、それでもはだえに何となく暖かい。

 太陽が小豆しょうど島の頂きに沈みかける時が来ると、やがてこの船の極楽境が現出するのである。今まで青黒く見えておった島々が薄紫に変って来る。日に光り輝いておった海原に一抹いちまつの墨を加えて来る。日が小豆島のむこうに落ちたと思うと、あらぬかたの空の獅子雲が真赤まっかに日にやけているのを見る。天地が何となく沈んで落着おちついて来る。と、その海の上を吹いて来る風が、底の方から一脈の冷気を誘うて来る。その冷気がはだえに快よい。

 暮色ぼしょくほとんど海原をおおい隠す頃になると、小豆島の灯台が大きくまたたきそめて、左手には屋島やしまの大きな形が見えそめて来る。もう高松に着くのに間がないことを思わしめる。

 後甲板に活動写真をしているのを見に行く、写真のうつるきれが風に吹かれているので、映写は始終中しょっちゅうはためきどおしである。

 高松の埠頭ふとうに着く頃はもう全く日が暮れている。くれない丸がその桟橋に横着けになると、たちま沢山たくさんの物売りが声高くその売る物の名を呼ぶ。

「この桟橋は鉄筋コンクリートで出来たもので、恐らく日本の桟橋のうちで一番立派なものでしょう」と事務長が話した。その桟橋の両側には三そうばかりの船が着いている。きに途中で追い抜いた木浦もっぽ丸もおくれてはいって来る。船全体が明るくともって、水晶だまのようなのが一艘おる。これは宇野と高松との鉄道連絡船の玉藻たまも丸である。

 船が桟橋にとまっている間は風が死んでむし暑い。やがて桟橋を離れて大海原にうかむとまた涼風がはだえにしみて寒いくらいである。私は臥床ねどこにはいる。朝七時半起床。もう佐田さたの岬がそこに見え、九州の佐賀関の久原くはらの製煉所の煙突を見る所まで来ている。

 朝影のある甲板は涼しい。

 別府はもう眼の前にある。

 観海寺かんかいじ彼処かしこ、商船会社の支店は其処そこ、とボーイが指さしているうちに桟橋に着く。

 すぐ自動車で亀の井旅館にちゃく温泉にはいる。

 別府は土地の下一面に温泉おんせんである。それが第一の天恵である。瀬戸内海という大道路がすぐ玄関に着いている。これも天恵の一つである。


温泉るや瀬戸内海の昼寝覚ひるねざめ



 この前来たのは大正九年であったから、今から八年前になるが、出迎えてくれた土地の人は、

「別府も八年前とは大変変りました」と誇り顔にいった。紅丸の甲板から別府市外を概観した時は格別変ったようにも思わなかった。桟橋から亀の井旅館に来る途上の光景も格別変ったようにも思わなかった。が、ただ私の通された所は洋館のホールであるだけが変っていた。

何時いつ建て増しをしたのです」と聞いたら、

「一昨年一げつでした」と答えた。

 その夕方五時から日名子ひなこ太郎氏や市の温泉係の中島辰男氏に案内せられて地獄めぐりに出掛けた。

 ず海岸通りを北に自動車を駆った。道幅がこの前通った時より広いように覚えた。

「この道は新らしく作ったのですか、大変広いようですが」と聞いて見たら、

「大正十年に作った八けん幅の道路です」と答えた。それからまた

「この上の方の鉄輪かんなわ温泉から鶴見の方へ出る三間幅の道路も新らしく出来ました。各地獄や温泉を連絡する新道路が出来たのであります、皆自動車で通れます」とのことであった。

 この前、日名子ひなこ氏に案内されて地獄めぐりをした時は、人力車でなければ通れなかった。所によると徒歩でなければ通れなかった。それも、朝出掛けて遂に鉄輪温泉に一泊して、二日がかりであったことを思うと、夕方の五時頃から涼みがてらに自動車に乗って出掛けるなんか、随分変化したものと思った。

 先ず亀川かめがわ温泉を過ぎて血の池地獄を見た。十年に一度大活動をはじめるそうで、今年が丁度その十年目に当たり、大荒おおあれに荒れるそうである。今朝も大活動をやったとのことである。ほとりの樹木など沢山たくさん枯死こししているのはその熱泥ねつでいを吹き上げたところである。赤い泥の沸々ふつふつと煮え立っている光景は相変らず物すごい。

 ぎにかまど地獄を見た。これは地中の鬼がうめくような声を発して、岩窟がんくつの中から熱気を吐き出しているのである。その熱気で蒸したアンコのないまんじゅうがおいしかった。

 芝石しばいし温泉という、湯滝のある、谿谷けいこくに臨んだ温泉を過ぎて、紺屋こうや地獄を見た。これは紺色をした泥池の底から、同じく怒るがごとくつぶやくが如く熱気を吐いておるのである。驚くべきことには近所の青田の中にも数ヶ所同じようなところがある。一歩誤ればその中に落ち込んで命をおとさねばならぬのである。現に誤って死んだという人も沢山あるのだそうである。鶏卵をその泥土でいどからわく湯気に置くと二、三分で半熟になり殻が真黒まっくろになる。その真黒な鶏卵を一つ食べて見た。

 次に坊主地獄を見た。これもやや大きなにごった熱湯が沸々とわきあがっているのである。その有様ありさまが沢山の坊主頭を並べているようだからその名があるのだともいうし、また円内坊えんないぼうとかいう坊さんが二重ますをつかって百姓から米穀をむさぼり取ったがために、一夜のうちにその邸宅が陥没して、この坊主地獄が現出したとの伝説もあるそうである。後ろの山に円内坊十五尊像という半ば壊れた十五の石像がある。ここは豊後ぶんご湾を見晴らして景色がいい。かつて遊んだ日出ひじの人家も一眼に見える。アンコのあるまんじゅうがまたうまい。

 ぎに地獄中の女王、海地獄を見た。この地獄については別に記述するところがあろう。地獄中の最も大きなもの、また最も美しいものである。もうこの海地獄にある間に七時を過ぎた。

 それから鉄輪かんなわ温泉に行った頃は店頭の電灯がともっていた。そこで鉄輪地獄というのを見た。この鉄輪地獄というのは以前来たときはなかったので、その後地下を掘っていると俄然がぜんとして爆発したので新らしく地獄が現出したのだそうである。

 この地獄には吸入室とか罨法室あんほうしつとかのもうけもある。

 そこでちょっと以前泊ったことのある富士屋の主婦おかみさんを訪ねた。もとの通り太っていることは明かだったが、顔かたちを十分に識別することは出来ないほどに薄暗くなっていた。

 夜路よみちをひた走りに走って鶴見地獄に出た。この鶴見地獄というのも昨年の春から爆発したものだそうである。泥土でいどまじえない清透せいとうな熱湯を噴出している。

 別府はこの前来たときよりも変っていることは明かになって来た。二大地獄の新たに増したことだけでも争うことの出来ぬ著名な変化である。

 土地を掘って温泉を出すということは、別府では随所に行われておる。別荘地などは一軒の小さい建物にも必ず温泉がついている。

 別府の停車場には温泉の洗面所がある。小学校にも温泉の浴槽がある。警察にも同じく温泉の浴槽がある。温泉がむなしく噴き出して夏草の上に流れているところは各所にある。

 田の中に小さい小屋がけがしてあるのは何のためかと思うと、皆そこには温泉が出ているのである。温泉の出ているということを標榜ひょうぼうして、そこを別荘地にえらむ顧客を待っているのである。そうして堀ぬき井戸を掘るような装置が至るところにしてあるのは、皆新らしく温泉を掘っているのである。

 その掘ったところが俄然がぜん爆発して大量の熱気を地上に噴出するようになったところが、新らしく出来た鶴見地獄や鉄輪地獄である。

 温泉のすうはかず限りもない。温泉場と名のついた別府、浜脇、観海寺、亀川、鉄輪、芝石、堀田、明礬みょうばん、新別府などがある。別府市内だけでも浴場が十あまりある。その他旅宿や個人の家には数限りなく温泉が湧出しているのである。

 或人あるひとは今の別府は南の方に僻在へきざいしている、亀川の東にある実相寺山を中心として、大きな泉都せんとを建設せなければならぬといっている。或人は別府のうしろにそびゆる四千五百尺の高峰鶴見岳を中心にして、各所に点在する温泉郷を連結せなければならぬと説くものもある。

 地熱を応用してすべての動力の基本としようとする地熱研究所というのがある。これは高橋廉一れんいち氏のかんするところである。その結果がよいところから、東京電灯が玖珠くす飯田はんだ湯坪ゆつぼまた地熱研究所を設置している。

 温泉栽培株式会社というものがある。これは温泉の熱を利用して果物を栽培しようというのである。

 また地球物理学研究所というのがある。これは京都大学がこの研究所を設けて温泉に関する基本的調査を開始しておる。

 ほかに温泉療養研究所というものが、九州大学により新たに開始されんとしている。これは医学の方面から温泉を研究しようとするのである。

 海軍療養所もあり、鉄道療養所もあり、満鉄療養所もあり、台湾婦人療養所もある。

 海岸には砂湯というものがある。これは潮の引いた時分に、その砂浜に五体を埋め、下から湧出する温泉に浴するのである。日本人はもとより西洋人、支那人なども同じように砂に埋まっている。妙齢の婦人もある。手足のえた老人もある。

 それのみならず、この別府の海には底にかず限りもなく温泉が湧出しておるらしい。その証拠は海底の水が暖かくて、熱帯地帯の海にいる美麗なる魚介のるいが棲息している、それらが採取されてここの魚市場に出るとのことである。陸地至るところに温泉の湧くことを思えば、それも無稽むけいの説ということは出来まい。

 のみならず、海水浴をするのにも、潮はあまりめたからず、快適の温度であるとのことである。

 豊後ぶんご湾の風光は美しい。ここから日出ひじを眺めたおもむきなどはナポリに似ているとの評判がある。

 何にせよ別府の大いなる強味は地下ことごとく温泉であるということである。土地の人は泉都せんとと唱えて、日本の別府でない、天下の別府であると誇っている。泉都という言葉は面白くないが、湯の都たることは首肯しゅこうされる。

 しかしながら、観海寺は観海寺土地株式会社というものの経営に移って、同じくその経営になる住宅地が、夏草を生やしつつ沢山たくさんに客を待っている。文化村という新住宅地も五、六軒新しく建ったままで人の住むのを見受けない。海岸の風光を台なしにした埋立地にも別荘が建ったままで未だ買手のないものが多い。海地獄の熱湯を引いた新別府の土地株式会社というものも出来ておる。これもあまりはかばかしくないようだ。不景気風に吹きまくられて湯の都の発達もちょっと小頓挫の形にある。

 別府市と温泉、地獄の散在しておる附近の村との連絡が思わしくないようである。これは温泉地一帯を別府市に編入して一つの行政区域にしたいものである。各地獄の遊覧に一々料金を取るがごときも廃止したいものである。これも個人の有になっておるために不便である。大別府を建設するためには第一着手としてこれ等は市有とすべきであろう。



 午前六時に眼ざめて顔を洗ったばかりで、飯も食わずに自動車に乗って、私は五里の山里を由布院ゆふいん村へと志した。亀の井主人油屋熊八氏東道とうどうのもとに、日名子ひなこ太郎氏、満鉄の井上致也ともや氏、大阪毎日別府通信所の本条君と共であった。

 鶴見の山背やませを越える頃になると由布の峰がポカリと現れはじめた。豊後ぶんご富士の称があるだけあってその尖峰せんぽうが人の目をひく。富士なれば、たれかの絵で見た扇をなかばたたんでさかさに立てたような景色であった。その富士をうしろにして展望すると、すぐ天の一角に海を見て、佐田の岬、佐賀関あたりがほうふつと見える。またはるかの雲際うんさい祖母そぼ山脈、又それに並行した二、三の山脈を見はるかして景色がよい。それからしばらくの間は変化のない山路やまみちで、やがて小田の池、山下の池などを見、放牧された牛の行手をふさぐことなどがあって、ようやく下り路になった。

「時間がおくれるともやが晴れてしまう」と熊八氏が心配していたが、山路が開けて一帯の谷を見渡した時に、

「ああ靄はもう晴れている」と落胆した。それでも一抹いちまつの濃い靄はなお白くその辺を逍遥さまようていた。これが由布院村であった。

 取りあえず亀の井別荘の亀楽園きらくえんに憩う。この別荘は瀟洒しょうしゃたる小さい別荘であるが、竹縁たけえんに腰を下ろして仰ぐ由布の尖峰はたぐいなく美しい。前面はおのの入らぬ茂った山で、そのまるい山の肩のところからとつとしておこった二つの尖峰──ここからはその峰が二つに別れて見える──が青空にそびえ立っているさまはえがくがごとく美しい。

 この由布院村にもたくさんの温泉が湧出しておる。現にこの別荘のすぐそば錦鱗きんりん湖という池があるが、その池の岸辺にも温泉が湧出しておって、その岸辺の水は温かいとのことである。

 その錦鱗湖に行って見たが、池の形も人工が加わっておらず自然で、沢山たくさんの浮草の生えているさまも面白く、また岸にある藁家わらやの重なりあって建っているさまも面白かった。

 私たちはこの別荘で熊八氏の用意してくれたサンドウィッチを食し、やがて又自動車に乗って、更に六里の山路を越えて、飯田はんだ高原に行くことになったのである。

 みちは前の山路よりも更に悪くって自動車の動揺がはげしい。二、三里も来たろうと思うころ、お花畠ともいうべき秋草の咲いている所に出た。女郎花おみなえし撫子なでしこ、女郎花に似て白い花(男郎花おとこえしとも違う)それにあざみなどが咲き満ちているさまが美しかった。

 崩平くえんたいらという山を一巡すると湧出わくで山という山が見え出す。続いて九重くじゅう山、久住くじゅう山、大船たいせん山、黒岳などという山が前面に現れた。あたかも列座の諸侯を見るような感じで威風堂々と並んでいた。九重山という山は白く欠き取ったようになっていた。これは硫黄をとっているためであって一名硫黄山というそうである。黒岳というのは自然林の密生している山で、他の山々と違って格段に黒いのが目に立つ。これらはすべて九州アルプスといわれる山であるそうだ。その前面に現れきたった高原がすなわ飯田はんだ高原である。

 その飯田高原は奥行二里幅三里ほどあって、一千町歩ちょうぶが水田になっているほかはすべて小さい熊笹の生い繁った高原である。自動車はみちでないその熊笹の生えている所を自由に突破して走りもするのである。石がほとんどなく、いずこでも取って路とすることが出来るのである。馬に乗って里人さとびとが通っていると思えば、自動車は路をそれて行くことが出来るのである。そんなところが二里も三里もつづいておるのである。

 ある渓谷に沿うて白楢しろなら、山梨などという大木の枝に掛け出しが架けしつらえてある。これは熊八氏の工夫になったものである。そこで昼弁当を開いた。

 ここらあたりにもまた沢山たくさんの湯がわいておる。湯坪ゆつぼという村にはすじ湯、大岳おおたけ地獄、疥癬ひぜん湯、河原の湯、田野たのという村には星生ほっしょうの湯、中野の湯、かんの地獄、うけくち温泉というのがある。この弁当はその筌の口温泉の小野屋という旅館の主人がこしらえて来てくれたのである。その主人は馬に乗ってこの高原を横切って来たのである。

 帰りに寒の地獄というところに行って見た。これは冷泉であって、普通の水よりつめたく、なかにはいると歯の根も合わずふるえるようにつめたい。男や女の色青ざめて入っているのを見た。冷却して病を治すという方法もあることかと思うた。

 ゴルフ場や飛行機の着陸場はすぐここに出来るようになろうという熊八氏の気焔きえんを聞いた。ここには熊八氏の五万坪ほどの別荘の敷地がある。


 錦鱗きんりん

うきぐさ温泉の湧く岸にり茂る

 自動車をおり

夏草なつぐさ油蝉あぶらぜみなく山路やまじかな

 ひでり

大夕立るらし由布ゆふの掻き曇り


 別府の地下は泉脈が縦横にあって、熱汽ねっき熱沼ねっしょう、熱湯を噴出するものを地獄といい、適度の温度を保って湧出するものを温泉といっている。その地獄に血の池地獄とか、鶴見地獄とか、紺屋こうや地獄とかいうのがある。これは熱汽、熱泥を噴出する地獄である。海地獄はそれらの地獄とは異なりて大きな池に熱湯をたたえたもので、その色青藍せいらん、大海の色に似ているところからこの名がある。

 海地獄は地獄のうちで女王の感じがある。それも他に王様があっての女王でなく、たくさんの他の地獄の悪鬼羅刹あっきらせつを自ら統率しておる女王の感じである。

 その青藍色の湯池とうち蠱惑こわく的である。美しさの余り眩惑されて身を投じるものもないとは限らぬ。また十分の威厳を備えておる。百二十度の熱湯はげんとして人を近寄らしめない。まさに女王の感じである。

 私の日名子ひなこ氏等と共にここに行ったのは六時半を過ぎていたろう。濛々もうもうたる白煙は熱湯池から立ちあがっていた。此方こなたより風吹けば彼方かなたの岸になびき、彼方より風吹けば此方の岸になびく。その白煙の隙から後ろの山の翠色すいしょくを仰ぐのも又風情がある。後ろの山もまた整うたたたずまいである。盛装した女王の衣冠いかんおもむきがある。

 そこの番人をしておる水戸の藩士の娘で薙刀なぎなたの上手なという尼子あまこ敏子さんに聞いて見る。

「小鳥が鳴いているようですが、あれは何鳥ですか」

ひわです。他の小鳥もおりますがひわが一番多うございます」

 語るもの聞くもの森閑しんかんとした景色に耳を澄ます。

ほととぎすも鳴きますか」

「鳴きます」

 しばらく話がとだえておったが敏子さんはなおつけ加えていった。

「この春はきじが二羽巣食うておりましたが、いつの間にかいなくなりました」

「花はどんなものが咲きます。今咲いているのは合歓ねむの花ですね」と夕暮の山を見上げていった。

「そうです。それに山桜が多うございます。これからさきは櫨紅葉はぜもみじが美しゅうございます」

 この地獄でゆでた鶏卵を食べて見てくれとのことで一つ食べて見た。店の少女が私たちを見て鶏卵をざるに入れて前の熱湯の中につけた。それが一、二分でもう半熟になったのである。

 貝原益軒の豊国ほうこく紀行に、


その西の山際に海地獄とて池あり。熱湯なり。広さ二段ばかり。上の池より湧きいず。上の池広さ方六間許けんばかり。そのへん岩の色赤し。岩の間よりわきず。見る者恐る。先年里人さとびと妻その夫といさかいておおいにいかりしがこの熱湯に身をなげけるに、やがて身はただれさけて、その髪ばかりうかいず。豊後風土記いわく速見はやみ赤湯泉せきとうせん。この温泉も穴郡あなごうりの西北竈門山かまどもんやまあり。その周り十五丈ばかり。湯気赤くして泥土でいどありすなわち海地獄の事なるべし。


 とある、赤い泥土であったのが、今は澄んだのか、あるいはまたこの赤温泉は今の血の池地獄をいうものか、かく風土記は延長以前の書物ということであれば、今から千年以前のものであるから、どう変化したかわからない。益軒の紀行文にも岩の赤くなっていることが書いてある。特に湯の清澄せいちょうなことは書いてない。ただ熱湯の恐るべきことを感じて湯の清澄なことを感じなかったのか、もしくはその時分は湯は多少濁っておったのか。

 夫婦喧嘩をしていかった女が飛び込んだのが死骸もとめずにただ髪だけが残ったというのは物すごい物語りだ。今でも転落して死ぬものがあるとのことである。また自ら死するのにこの美しい湯池とうちを選ぶものも皆無とはいえまい。



 この前来たときこんな印象が頭に残っておる。

 それは日名子ひなこ氏に案内されて街の中のどこかの共同温泉場ゆばを見に行ったとき、私たちの目の前には一人の若い女が現れた。それは裸のままで、腰にタオルをまいて、今湯からあがったところであろう、草臥くたびれてぐったりしたようすで、そこのえんに腰をかけて、後ろの羽目板にもたれかかっているところであった。そうして手に水蜜桃すいみつとうを持って、じっとその上に目をおとしているところであった。この女は西洋絵で見たことのある裸体の女がぬけ出して来たのかと思われた。が、しかしそんなハイカラな女ではなく、この別府の温泉にふさわしい野趣のある一人の女であった。私はその後別府の町の温泉を思うと、この女を思わずにはおられなかった。

 こんど別府に来て案内記を読んで見ると別府の町の温泉宏壮こうそうなる建築だと書いてある。その桃の女がいた温泉は板で囲った古い温泉であったように思う。もしかするとその板で囲った温泉は取りわされて、それが宏壮な温泉に変っているのかも知れない。

 地獄を案内してくれた日名子氏が今夜また町の温泉に案内してやろうとのことであった。

 もう九時まで待ったが日名子氏は来なかった。私は寝床に入ろうと思った。新らしい町の温泉に桃の女はもういないにきまっているから。

 別府の町は今日から祭礼である。きのうまでは宿のすぐ下の家で祭囃まつりはやしの練習に余念もなかった。寝床に入ってのちまでも祭囃しは聞こえておった。今日はかえってその囃しは聞こえない。先刻どこかで花火が揚がった。あれも祭の花火であろう。

 そんなことを考えているところへ日名子氏が見えた。この町の旧家でしかもさきの別府町時代の町長であった日名子氏はお祭りの行列についてあるかねばならなかったので、たいへん遅くなったといった。八年以前も案内に立ってくれた日名子氏にこの桃の女の話をすると、「あれは亀川かめがわの四の温泉でした」といった。それを別府の温泉と思い違えたのは、八年の昔のことで記憶がおぼろになっていたためである。

 その翌日であったが海岸の楼上ろうじょうで祭礼を見た。それは一つの船には神輿みこしが乗っていて、一人の男が妙な体の恰好をして太鼓を打っていた。その他にも男がいたが皆しずかにしていた。その他の船には矢張やはり太鼓を打っている男が一人いて、その他の男は皆船を左右に動かしていた。ふなばたほとんど水がはいるくらいに左右に動かしていた。船には旗が飾り立ててあったが、その船が左右にゆれるたびに旗が仰山ぎょうさんに左右にゆれた。そんな船が前後に五、六そうもあって、かの神輿みこしの船を取り囲んでいた。これは浜脇にある金刀比羅ことひら神社の神体が海上を渡御とぎょしているところであった。

 海岸にはその渡御を見んための人々がありのはうように群集していた。やがてその船は皆波止場の中にはいってしまうと群衆もようやくその波止場の方に移って行った。

 日がくれてしまうと一面の闇が海上も海岸の建物も隠してしまった。ただ平等に真暗まっくらな天地となってしまった。その中に灯火ともしびのみがきらきらとしていた。海岸には一帯のがあった。水晶のすだれのような灯のかたまりが港を囲んでいた。その中に篝火かがりびが燃え立って、特に煌々こうこうと光り輝やいているものの動いているのは何かと見ると、それは神輿であった。最前船に乗って渡御しつつあった神輿が今は陸上に上げられてかれつつあるのであった。群衆のそれを取り囲んでいる容子ようすがその篝火の光に照し出されていた。

 海の上にもまた灯火ともしびが散らばって動いていた。それは多くは赤い火であった。目の下にも一隻のボートに赤いほおずき提灯ちょうちんをともして漕いで行くのがあった。聞けば沢山たくさんの温泉旅宿の番頭や女中なども十二時を過ぎると皆このボートに乗って海上に遊びに出るとのことである。その赤い此方こなた彼方かなたに動いているさまが涼し気でまた楽しそうに見えた。

 欄干らんかんにもたれてその火を見ておると、一人の人がこんな話をした。

 春の四、五月の頃になると、山口県の大島郡とか佐波さわ郡とかまた愛媛県の八幡浜やわたはま附近の海岸の村では、一そうの船に米、味噌、醤油を積み込んで、二、三十人の人が一団となってこの別府に来る。帆を掛けてはいって来たその船は、波止場に繋いで、三週間ばかり滞在する。その間それ等の人は勝手に共同温泉にはいって、夜はこの船に帰って寝る。船では「大島郡何々村」と書いた大きな札を帆柱に打ち付けて置くと郵便配達夫はその船まで郵便物を配るというふうであるそうな。時には御詠歌を歌って町をあるいて一銭二銭の報謝を受ける。一円か二円たまると、それで寄席にはいるとか氷水こおりみずを飲むとかするのをたのしみにしているそうな。一人五円くらいの費用で三週間入湯して行くことが出来るのだそうな。

 亀川の四の湯に桃の女はまだきっといる。



 日名子ひなこ氏が案内にたって大分市の元町にある磨崖まがいの石仏を見に行くことになった。折節おりふし同宿している五十嵐播水ばんすい君も共に。

 午前七時に宿を出た。途中にちょっと立ち寄ったところがあったので、電車で大分駅の前に着いたのは九時を過ぎる十分か二十分のころであったろう。それから人力車に乗ってその元町へとこころざした。元町というのは大友うじ時代に古い町があったという意味であろうが、今の大分市としてはほとんど郊外になっているところである。車はぞろぞろと田圃たんぼの中の道を行くのである。折からのひでりで百姓の家族は皆畑に出て灌漑かんがい用水をいちいち汲み上げては田の中に注いでおる。子供は裸のままで、男はまわし一つで、女は編笠をかぶって、せっせと働いているさまはたのもしげである。右手に見える竹藪がお竹藪ととなえて大友の屋敷跡であると日名子氏が説明してくれた。やがて元町の石仏についた。

 その石仏は中央に大きな薬師如来、左右に不動明王、毘沙門天びしゃもんてんのかなり大きな像が彫ってあるのだが、凝灰岩の粗質な岩に彫ってあるため左右の像は首が落ちたり磨滅したりして殆ど原形を存しないのであるが、ただ中央の薬師如来だけは、片頬に大きな傷のあるほかは、まず完全な形を存しているといって好い。ことにそのそこなわれざる方の半面を見ると、端麗な相は鎌倉の大仏に似て更に柔和であるように思われた。たいへんに暑いので、しばらくその岩蔭にたたずんだ。風はなくともどことなく冷え冷えするので暫く息をついた。

 それから竜ヶ鼻の十一面観世音その他の仏が沢山たくさんに彫ってある磨崖仏まがいぶつを見た。これはほとんどこわれてしまってわずかにそれと認めるくらいのものである。聞くところによると、昔乞食がすまっていて、その乞食小屋が焼けたために、岩の質が更に脆弱ぜいじゃくになって、さらでだに破損した仏は、いよいよ破損してその形をとどめぬまでになったのであるそうな。

 これから二里ばかり離れたところにもたくさんの磨崖仏があるし、また臼杵うすきのほとりにもたくさんの磨崖仏があるとのことであるが、一々それを見に行くのは暑い時分にたいへんなことである。私はこの二ヶ所の仏を見ただけで満足して引返すことにした。

 この竜ヶ鼻に立って遠望すると田の中に一つの森が見える。この森を印鑰いんやくの森という。これはもと豊後ぶんごの国府のあとで、今は稲荷が祀ってある。又国分寺はここから一里半位のところに堂が存しておって、礎石が点々とそのあたりに残っているそうである。

 私達は又車に乗って暑い日中をさきの停車場前に帰り、そこからまた電車に乗って別府の方に帰ることにした。

 日名子ひなこ氏は、夕方涼しくなった時分にでも、別府市の近所の山にある横穴の古墳を見てもらいたいとのことであった。私はどうせ見るのならば又出て来るというのも面倒だから、この勢いに帰りに寄って見ようといった。そこで五十嵐君は今日のくれない丸で神戸に帰るとのことであったので途中で別れた。私と日名子氏とだけが浜脇で下車して、そこの腰掛茶屋で蠅のたかっておるすしと生卵で腹をこしらえ、金比羅こんぴら山の南北両方面にある横穴すなわちカンカンぼとけの横穴およびその附近の横穴を一見した。非常に暑かった。谷間をたどっているときなどは蒸し殺されそうに暑かった。ただカンカン仏を見終って附近の山の背に出たときに、一陣の涼風が松の枝間えだまを吹いて来て、覚えず蘇生したような思いがした。しばらく芝の上に腰をおろして休んでいると、初めはそよそよと吹く風と思ったのが、なかなかにそれどころでなく、今は涼風を満喫するような心もちでいつまでも立ち去りがたい心地がした。ブーンとあぶが耳元をかすめて飛ぶのも快よいひびきに聞えた。夏蝶のひらひらと茅萱かやの上を飛んでいるのも涼しげな趣きに見えた。一本の蝙蝠傘こうもりがさが谷川のあしの間を此方こちらに来るのは何かと見ていると、やがてその蘆間から現れ出たのを見ると、その蝙蝠傘の大きいのには似合わない一人の洋服を着た少女であった。此方を向いて歩いていると思ううちにまたいつかむこうの方を向いて歩いていて、その曲りくねった田圃路をたどりつつあるのである。

 日向ひゅうがの国は日本で最も古い国である。お隣のこの豊後の国もまた古い国であらねばならぬ。その古い国という証拠は、この磨崖仏や横穴の古墳があることによって証明せられる。

 私はその少女のやがて向うの岨道そばみちをたどりつつあるのを静かに目送した。



 別府市長の神沢かみざわ又一郎氏が来訪した時、いろいろの話を聞いた。

 鉄道線路から下の方すなわち海岸に近いところは、掘ればいくらでも温泉が湧出するそうである。浅いところは十二、三げん深いところは六十四、五間掘ればよいので、深いところほど圧力高く温度が強いとのことである。

 現在千四、五百の温泉が湧出しているそうである。現在あるところから四十尺以内には新らしく温泉を掘ることを禁じて濫掘らんくつをいましめているとのことである。

 鉄道線路から上の方即ち山手やまての方は、掘っても温泉はたやすく出ないそうである。麻生太吉氏はその持っている山手の地面を別荘地として各戸に温泉を配布するために、別に湧出する冷泉を鉄管に引いて鶴見地獄の熱汽ねっきの間を通し温泉をつくることにしたそうである。二個の鉄管を熱汽の中に六尺か十尺の間通すことによって、優に所用の温度を与えることが出来るそうである。それほどその熱汽の熱度は高いのである。現在の鶴見地獄は沢山たくさんの熱湯を噴出している形だが、これも熱い熱汽の中に人工的に水を加えているのだとのことである。

 来年四月別府に開かれる中外産業博覧会が特に温泉室なるものを設ける計画であるが、この麻生氏の一本の鉄管、即ち一分間四こく、六十度の温度のものを借うけることになっているとのことである。

 この熱汽を吐いておる地獄は、かまど、血の池、紺屋こうや鉄輪かんなわその他にもある。熱汽に水を通して温泉とすることが出来るとならばまた新温泉は無数に出来るわけである。

 朝からごうごうと飛行機が宿の上を飛ぶ。これは別府の海にうかんでおる水上飛行機が十分間十円で客を乗せて飛ぶのだそうである。油屋熊八氏はこの飛行機に乗って八景入選の喜びを大阪まで述べに行き、帰りには別府に寄らずすぐ長崎をい、「西に雲仙東に別府中に火を吐く安蘇あその山」という俗謡をつくって国立公園の宣伝に努めている。頃日けいじつまた鶴見のふもとの扇山のむこう側に、小上高地かみこうちともいうべき一大渓谷があるのを発見したとのことで、氏自身二、三日のうちにこれが探検に出かけて行くといっていた。氏は弱冠六十五歳である。

 別府の海には今二、三隻の軍艦が繋がっておる。船腹についたカキは別府湾の潮に浸るとたちまち腐って落ちて仕舞しまうのである。水兵はとして町の中を歩いておった。

 鉄筋コンクリートの市の公会堂が新築されつつある。内容の設備は九州第一だと誇称しておる。浜脇温泉は新築工事を成すべく地鎮祭を行った。

 宿のが部屋の真正面にそびえているものに高崎山がある。この山は由布ゆふ、鶴見などの山系とはやや離れて、別府湾頭にひとり超然として聳えておる。れ関せずえんというふうに。

 その姿も好い。西洋人はこの山をヘルメットの山というそうである。

 朝は一面にもやがかかってその山容はことに柔かく見える。太陽が昇るに従ってはっきりと見えて来る。

 雨が降ると必ずこの高崎山に雲がかかるという。この高崎山に雲がかかると雨が降るのかも知れない。わが部屋ののきいっぱいにひろがっているように感ぜらるるときもある。またそうでないときもある。

 高崎山には猿が棲んでおるそうである。そうしてここは禁猟区になっておるので、猿は年々蕃殖はんしょくするそうである。

 高崎山には古城跡がある。それは何代目かの大友うじが築いた城である。

 高崎山の木が茂っているところには魚族がその蔭に集まって漁が多いとのことである。

 この座敷に坐っていて、一日の炎暑がようやくかげろうとする時分になると、この高崎山に黒い影がうつりはじめる。それは日の西に入るとき鶴見の高峰が投げる影であろう。

 高崎山は四極しはつ山というそうである。万葉集に


しはつ山打越うちこえくれは笠縫かさぬひの島き帰る棚なし小舟をぶね     高市連黒人たかいちむらじくろと


とあるのはここだともいうし、それは摂津せっつ磯歯津しはつ山を詠んだともいう。

 私がまたくれない丸に乗ってこの別府を去るときには、海地獄の噴煙を遠く松林の中に眺めてしばらく甲板にたたずむであろう。そうしてその目は必ずこの高崎山に転ずるにきまっている。高崎山は永く永く私の目から離れぬであろう。


夕立待つ高崎山と諸共に

火の国の筑紫の旅の日焼かな

日焼せし旅の戻りの京の宿

底本:「日本八景 八大家執筆」平凡社ライブラリー、平凡社

   2005(平成17)年310日初版第1

底本の親本:「日本八景─十六大家執筆」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社

   1928(昭和3)年815日再版

※「趣」と「趣き」、「が」と「わが」、「新らしく」と「新しく」の混在は、底本通りです。

入力:岡村和彦

校正:sogo

2018年326日作成

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