書簡 大杉栄宛
(一九一六年七月一五日 一信)
伊藤野枝



宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 大阪市北区上福島



 昨日はとうたうはがきを書く事も出来ませんで失礼して仕舞ひました。何卒あしからずおゆるし下さい。

 停車場に和気わけ(律次郎)さんが思ひがけなく見えてゐましたのにびつくりしました。あなたが電報を打つて下すつたのですつてね。午後から社に伺ふ約束をして直ぐこちらにまゐりました。叔父(代準介)は午後から旅行するのだと云つて、可なり混雑してゐる処でした。もう一と足で後れて仕舞ふ処でした。午後から社にゆきましたら、菊池氏は小説執筆中で休んでゐました。しばらく和気さんとお話して心斎橋しんさいばしまで一緒に行きました。

 叔父は三時にたつと云つてゐたのですけれども九時まで延ばしていろ〳〵お話をしました。何か云はうと思ひますけれども、何を云つても駄目なのでいやになつて仕舞ひました。叔父はアメリカに直ぐに行けと云ふのです。そして社会主義なんか止めて学者になれと云ふのです。とにかく二十日ばかり留守にするからそれ迄ゐろと云ひますから、ゐる事にはしましたが、叔母が何にも分らないくせに、のべつにぐず〳〵云ふのを黙つて聞いてゐるのがいやで仕方がありません。要するにあなたと関係をたてと云ふのですけれども、それをはつきり云はないのです。

 もうあなたのそばを離れて今日で三日目ですね。何だか長いやうな気がします。東京駅では何んだかひどく急がされたのと、不意に多勢の中にまぎれたのとで、何だか気持が悪くてどき〳〵して、本当にいやになつて仕舞ひました。鶴見あたりを走つてゐる時分にやうやく落ちつきますと同時に、本当に、あなたのそばからだん〳〵に遠ざかつてゆくのだと云ふ意識がはつきりして来て、すつかり心細くなつて仕舞ひました。沼津までは随分込んでゐましたので体をまげる事も窮屈でしたけれど、沼津でボーイが席を代へてくれましたので少し眠りました。でも、天龍川を渡る時分はいい月で、ほんとにいい景色でした。いろんな事を考へながら眺めてゐました。労働運動の哲学を持つてゐた事は本当に嬉しうございました。よく読みました。いろ〳〵な事がはつきり分りました。だん〳〵にすべての点が、あなたに一歩づつでも半歩づつでも近づいてゆく事を見るのは、私にとつてどんなに嬉しい事でせう。

 大垣のあたりで明けた朝は本当におどり上りたいやうにいい朝でした。関ヶ原辺には、いい色をした緑の草の中に可愛らしい河原なでしこが沢山咲いてゐました。私の好きなねむの花も。

 かうして離れてゐるとたまらなくあなたが恋しい。私のすべてはあなたと云ふ対象を離れては、何物をも何事についても考へ得られない。それでゐて非常に静かにしてゐられます。あなたが今何をしてゐらつしやるかしら、と考へる私の頭の中にどのやうな影像が出来ても、私の心はおちついてゐます。本当に平らにやわらいでゐます。私はこの静かな心持があなたと一緒にゐる時にどうして保つてゐられないのだらうと思ひます。

 あなたに何時か話しましたね、私が何時でも私たちの交渉がうるさくなつて来ると関係を断ちたいと思ふつて。でも、それが断つても断てなくても同じだと云ふ事も云ひましたね。本当にかうしてゐればそれが出来るやうにも思ひます。けれども、私にはどんなに静かな平らかな気持であらうとも、これが単純なフレンドシツプだとは思へませんわ。肉の関係を断つ事だけで総べてのことを単純に考へられるやうに思ふのは間違ひだと云ふ気がします。自分の内に眠つてゐた思ひもよらぬ謬見を、一つ〳〵あなたの暗示を受けては探し出してゆくことの出来るのを見ては、私はあなたに何を感謝していいか知りません。いろ〳〵な点で私はただあなたの深い、そして強い力に向つて驚異の眼を見はつて居ります。どのやうな事であらうとも、私は今、あなたのそばを離れる事がどんなにいけない事だかが、本当によく分ります。

 神近さんはどうしてゐらつしやいますか。本当に私はあの方にはお気の毒な気がします。私は毎日々々電話がかかつて来る度びに、辛らくて仕方がありませんでした。私がどんなにの方の自由を害してゐるかを考へると、本当にいやでした。そして又、あなたのいろ〳〵な心遣ひがどんなに私に苦しかつたでせう。私はかなしいやうな妙な気がして仕方がなかつたのです。今度も帰へりましたら、直ぐに家を探しておちつきたいと思つてゐます。

 お仕事は進みますか、心配してゐます。本当によく邪魔をしましたね、おゆるし下さいまし。

[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月]

底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1──『青鞜』の時代」學藝書林

   2000(平成12)年531日初版発行

底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会

   1926(大正15)年98

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:酒井裕二

校正:雪森

2016年14日作成

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