つゆじも
斎藤茂吉



大正七年

大正八年


大正七年漫吟


斎藤茂吉送別歌会


大正六年十二月二十五日東京青山茂吉宅に於て


わが住める家のいらかの白霜しろじもを見ずて行かむ日近づきにけり


長崎著任後折にふれたる


うつり来しいへの畳のにほひさへ心がなしく起臥おきふしにけり


据風呂すゑふろを買ひに行きつつこよひまた買はず帰り来て寂しく眠る


東京にのこし来しをさなごの茂太しげたもおほきくなりにつらむか


かりずみのねむりは浅くさめしかば外面とのもの道にあめりをるかな


聖福寺しやうふくじの鐘の音ちかしかさなれる家のいらかを越えつつ聞こゆ


ゆふぐれて浦上村うらかみむらをわが来ればかはず鳴くなり谷に満ちつつ


電灯にむれとべる羽蟻はありおのづからはねをおとしてたたみをありく


うなじたれて道いそぎつつこよひごろ蛍を買ひにゆかむとおもへり


灰いろの海鳥うみどりむれし田中たなかには朝日のひかりすがしくさせり


とほく来てひとりさびしむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り


陸奥みちのくに友は死につつまたたきのひまもとどまらぬ日の光かなや


われつひにのどに生きざらむとおもへどもなににこのごろ友つぎつぎに死す


おもかげに立ちくる友を悲しめりせまき湯あみどに目をつむりつつ


かりずみの家に起きふしをりふしの妻のほしいままをわれは寂しむ


うつしみはつひに悲しとおもへどもせまひとのいのちの悲しさ


むし暑き家のとのもに降る雨のひびきのするどさわれやつかれし


長崎の石だたみ道いつしかも日のいろ強く夏さりにけり


仮住かりずみの家の二階にひとりゐるわがまぢかくに蚊は飛びそめぬ


わが家の石垣いしがきに生ふる虎耳草ゆきのしたその葉かげより蚊は出でにけり


すぢ向ひの家に大工だいく夜為事よしごとの長崎訛きくはさびしも


長崎歌会


大正七年十一月十一日於斎藤茂吉宅 題「夜」


はやりかぜをおそれいましめてしぐれ来し浅夜あさよの床に一人寝にけり


大正八年雑詠


奉迎摂政宮殿下歌 長崎日日新聞所載


豊栄とよさかといや新らしくなり成れる国見くにみをせすといでましたまふ


かけまくもあやにかしこし年れる長崎のうみに御艦みふねはてたまふ


百千代ももちよぎてとどろく大砲おほづつこたへとよもす春の群山むらやま


み民等の祝ぎて呼ぶこゑとりよろふみなとあめにとほらざらめや

(長崎日日新聞、十首中存四首)
友に与ふ


港をよろふ山の若葉わかばに光さしあはれ静かなるこのゆく春や


長崎は石だたみ道ヴェネチアのりし小路こうぢのごととこそ聞け


おのづからきこゆる音のすがしさよ春の山よりながれくる水


はりつめて事に従はむと思へどもあはれこのごろは痛々いたいたしかり


よわよわと幽かなりともはからひのにごりあらすなわれの世過よすぎ

(長崎日日新聞)
八月三十日


長崎同人小集を土橋青村宅に開く


こほろぎの鳴けるひと夜の歌がたりみだれたる心しましなごみぬ


長崎に来てよりあはれなる歌なきをわれにな問ひそ寂しきものを


九月二日 日ごろ独りゐを寂しむ


白たへのさるすべりの花散りをりてほとけてらの日の光はや


中町の天主堂てんしゆだうの鐘ちかく聞き二たびの夏過ぎむとすらし


九月十日 晧台寺


ヘンドリク・ドウフの妻は長崎のをみなにてすなはち道富丈吉だうふぢやうきちみき


九月十日 天主堂


浦上天主堂うらかみてんしゆだう無元罪むげんざいサンタマリアの殿堂でんだうあるひは単純に御堂みだうとぞいふ


外国よりわたり来れる霊父れいふらも「昼夜勤労ちうやきんらう」ここにみまかりぬ


九月十二日


独逸潜航艇を観る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人たうじんの靴のごとある」。夕べ新地の四海楼を訪ふ


長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇せんかうていにわれ出入いでいりつ


四海楼に陳玉ちんぎよくといふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり


九月二十五日 古賀、武藤二氏とともに猶太殿堂ジナゴークを訪ふ。猶太新年なり


猶太紀元ユダヤきげん五千六百八〇年その新年しんねんのけふにへりき


満州よりここに来れる若者わかものは叫びて泣くもたくにすがりて


長崎の商人しやうにんとしてゐる Lessnerレスナー Cohnコーン耀かがや法服ほふふく


十月二十五日


平戸行。平戸丸や旅館。小国李花に会ふ。崎方町阿蘭陀塀、阿蘭井戸、亀甲城址、亀岡神社等


阿蘭陀おらんだ商人あきびとたちは自らの生業なりはひのためにこれをのこしき


あはれなる物語ものがたりさへありけむを人は過ぎつつよすがだになし


われは見つ肥前ひぜん平戸ひらとの年ふりし神楽かぐらまひを海わたり来て


十月 東京大相撲来る。釈迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に会ふ


巡業に来ゐる出羽嶽ではがたけわが家にチャンポン食ひぬ不足ふそくもいはず


十月三十日 夜古賀十二郎氏の「長崎美術史」の講演を聞く


南蛮絵の渡来も花粉くわふんの飛びてくるおもむきなしていつしかにあり


十月三十日


光源寺にて曉烏敏師の説教を聴き、のち鳴滝シイボルト遺跡を訪ふ


このあとにいろいろの樹あり竹林ちくりんに冬の蠅の飛ぶ音のする


十一月六日


司馬江漢画を観る、「天明戊申冬日於崎陽梧真寺謹写司馬峻」


江漢かうかんが此処に来りて心こめし色をし見なむ雲中観音図うんちゆうくわんのんづ


十二月二十八日 渡邊與茂平と聖福寺を訪ふ


隠元いんげんの八十一歳のふでといふ老いしひじりおもしおもほゆ


十二月三十日


十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ


四歳よんさい茂太しげたをつれて大浦おおうらの洋食くひに今宵こよひは来たり


はやり風はげしくなりし長崎の夜寒よさむをわが子に行かしめず


寒き雨まれまれに降りはやりかぜおとろへぬ長崎の年暮れむとす


大正九年


一月六日


東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より発熱、臥床をつづく


はやりかぜ一年ひととせおそれ過ぎ来しが吾はこやりてうつつともなし


二月某日 臥床。私立孤児院は我家の向隣なり


朝な朝な正信偈しやうしんげよむ稚児をさなごおやあらなくにこゑ楽しかり


わが病やうやく癒えてこころむ朝の経よむ稚等をさならのこゑ


対岸たいがん造船所ざうせんじよより聞こえくるてつひびきとほあらしのごとし


てつを打つ音遠暴風とほあらしのごとくにてこよひまた聞く夜のふくるまで


三月一日 連日勤務す


東京よりにしをさなごゆふごとにわれをむかへてこゑをぐるも


五月四日 大光寺にて三浦達雄一周忌歌会を催す


長崎のしづかなるみ寺に我ぞ来しひきが鳴けるかなそといけにて


のもにてうをが跳ねたり時のまのうを跳ねし音寂しかりけれ


藤浪の花は長しと君はいふよるいろいよよ深くなりつつ


君死にしよりまる一年ひととせになるといふ五月ごぐわつはじめに君死にしかも


このみ寺は山ゆゑよるのしづかなるはやしなかに鷺啼きにけり


山のみ寺のゆふぐれ見ればはつはつに水銀みづがねいろの港見えつも


ここのみ寺よりしたに見ゆる唐寺たうでらもんいらかも暮れゆかむとす


五月二十四日


大槻如電翁を迎へ瓊林館にて食を共にす。会者古賀十二郎、武藤長蔵、永山時英、奥田啓市の諸氏及び予


シイボルトを中心ちゆうしんとせるのみならずなほ洋学やうがくみなもととほし


五月二十五日 ひとり西坂をゆく


西坂にしざか伴天連ばてれん不浄ふじやうといひて言継いひつぎにけり悲しくもあるか


短冊二種


おもほえず長崎に来てゆたけき君がこころにしたしみにけり

(永山図書館長に)


長崎のいにしふるごとあきらむる君ぞたふときあはれたふとき

(古賀十二郎翁に)


「慶長十年にはじめて南蛮より種をつたへて長崎桜馬場にこれをうゆる」(近代世事談、金糸烟、烟草)


ささやけき薬草くすりぐさの一つとおもへども烟草たばこのみしよりすでにいくとせ


武藤長蔵教授より大阪天主公教会の公教会月報を借覧しぬ


大音寺だいおんじくす太樹ふときを見てかへり公教会報こうけうくわいはうの歌を写すも


五月三十日 雷が丘、雨声楼(秋帆別邸)辰巳にて夕餐会等を催す


萱草くわんざうの花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ


六月一日


ひとり西坂を行く。石塔「南無妙法蓮華経安永五丙申歳四月廿八日」石標「天下之死刑場ノ馬込千人埋タル法塔様誰方モ参リ被下度」「長崎市東中町中島ノイ建」


長崎のむぎあきなるくもり日にわれひとりこそこころやすけれ


六月二日 西浦上伊木力いきりきに到る


畠より烟がしろく立てる見ゆ麦刈る秋となりにけるかも


六月二十五日


六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今日県立病院に入院す。西二病棟七号室なり。菅沼教授来診


やまひある人いくたりかこのへや出入いでいりにけむ壁は厚しも


ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの声も聞こゆる


闇深きに蟋蟀こほろぎ鳴けり聞き居れど病人やみびと吾は心しづかにあらな


六月二十七日


血いづ。腎結核にて入院中の大久保仁男来りて予の病を問ふ


わが心あらしのぎたらむがごとし寝所ふしどに居りて水飲みにけり


くらやみに向ひてわれは目を開きぬかぎりもあらぬもののしづけさ


若き友ひとりかたはらに来つつ居りこの友もつひにやまひを持てり


七月二日 県立病院を退院す。三日より自宅に臥床して治療を専らにす


あらくさのしげれる見ればいけるがに地息ぢいきのぼりて青き香ぞする


ひるすぎごろわが病室の入口にうづらの卵売りに来りぬ


ゆふぐれの泰山木たいざんぼく白花しろはなはわれのなげきをおほふがごとし


七月二十二日 高谷寛日々来りてクロームカルシウムの注射せり


わが家の狭き中庭なかにはを照らしつつかげり行く光をかなしみにけり


ひとつぼほどの中庭なかにはのせまきにもいのちたたか昆虫こんちゆうが居り


年わかき内科医きみは日ごと来てわが静脈じやうみやくくすり入れゆく


長崎に来りて四年よとせの夏ふけむ白さるすべり咲くはいまだ


七月二十四日 島木赤彦はるばる来りて予の病を問ふ


長崎の暑き日に君は来りたり涙しながるわがまなこより


よしゑやしつひのいのちと過ぎむとも友のこころをむなしからしむな


温泉嶽療養


大正九年七月二十六日、島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる。


この道は山峡やまがひふかく入りゆけどわれはここにてあゆみとどめつ


この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越やまごしになりにつらむか


赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道やまみちをおりて行きしが


草むらのかなしき花よわれ病みしいのちやしなふ山の草むら


みちのくにいとけなくしてかなしみし釣鐘草つりがねさうの花を摘みたり


うつせみのいのちしみひびきて湯いづる山にわれは来にけり


温泉うんぜんにのぼりきたりて吾は居りつねなきかなや雲光くもひかりさへ


温泉うんぜんのむらを離れてほのぐらき谿たになかにてみづぞする


谿ふかくくだる道見ゆあまつ日の照ることもなき谿にかあらむ


千々和灘ちぢわなだにむかひて低くいくだにいきづくごとし山のうねりは


高々たかだかと山のうへより目守まもるとき天草あまくさなだ雲とぢにけり


七月二十八日


きぞのあさ友の行きたるこの道に日は当り居り見つつこほしむ


家いでて来にしたひらに青膚あをはだ温泉嶽うんぜんだけの道見ゆるかな


小鳥ことりらのいかにむつみてありぬべき夏青山なつあをやまに我はちかづく


山の根の木立こだちくろくしてしづけきを家いで来つつふることあり


羊歯しだのしげり吾をめぐりてありしかば寒蝉ひぐらしひとつ近くに鳴きつ


たまたまはしはぶきの音きこえつつ山の深きにこる人あり


臥処ふしどにて身をさびしみしわれに見ゆ山の背並せなみのうねりてゆくが


あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やまくらとほやまあか


夏の日のまき高原たかはらしづまりて温泉うんぜんやま暮れゆくを見たり


遠風とほかぜのいまだ聞こゆる高原たかはらに夕さりくれば馬むれにけり


水光みづひかりななめにぞなる高原に群れたる馬ぞ走ることなき


七月二十九日 広河原道其他、前田徳八郎、高谷寛のぼり来


松かぜの音は遠くに近くにも聞こえくるころ吾は行くなり


合歓ねむはなひくく匂ひてありたるを手折たをらむとする心利こころどもなし


あまつ日は既にのぼりて向山むかやま晩蝉ひぐらし鳴けどここには鳴かず


行きずりの道のべにして茱萸ぐみははつかにあかあけきはまらなむ


赤土あかつちの道より黒土くろつちの坂となり往くもかへるも心にぞ


七月三十日


湯いづる山の月の光は隈なくて枕べにおきししろがねの時計とけいを照らす


長崎に二年ふたとせ居りて聞かざりしあかつきがたの蝉のもろごゑ


まくらべに時計とけい手帳てちやう置きたるにいまだしくるあけがたの月


起きいでて畳のうへに立ちにけりはるかに月はかたむきにつつ


山の上にひとときに鳴くあかときの寒蝉ひぐらし聞けば蟋蟀こほろぎに似たり


あかつきのさ霧に濡れてかすかなる虫捕むしとりぐさの咲けるこのやま


寂しさに堪ふる寝所ふしどに明暮れし吾にせまりて青き山々


七月三十日、三十一日 別所奥、林中


温泉うんぜん別所べつしよの奥は遠く西洋人にしのくにびともまじりて住めり


もれ日はしめれるつちの一ところかすかなる虫の遊ばむとする


谿水たにみづのながるる音もいはかげになりてこえぬこのひと時を


牛ふたつ林のなかに来り居りきのふもきたりてゐしか


あまつ日はからくれなゐに山に落つその麓なる海は見えぬに


露西亜ろしあよりのがれ来れる童子わらべらもはざまの滝に水あみにけり


八月一日 一切経滝等


幾重いくへなる山のはざまに滝のあり切支丹宗きりしたんしゆうの歴史を持ちて


深きかひみなみひらきておちたぎつ滝のゆくへを吾はおもひき


この山に湧きいだしたる幾泉いくいづみあひ寄りかひの底ひに落激おちたぎ


安息やすらひをおもひて心みだれざりふもとの山にあかかたむく


落つる日の夕かがやきはこの山のたひらに居りてしばしだに見む


八月二日


あかつきはいまだ暗きにこの山にむらがりて鳴くひぐらしのこゑ


たぎり湧く湯のとどろきを聞きながらこの石原いしはら一日ひとひすぐしぬ


温泉うんぜんたけ十日とをかこもれど我がのどのすがすがしからぬを一人ひとりさびしむ


みづたぎちけむ因縁よすがも知らずあしびきの山の奥より石原の見ゆ


ひぐらしは山の奥がに鳴き居りて近くは鳴かず近山ちかやま


かなかなの山ごもり鳴くは蟋蟀のあはれに似たりひとり聞くとき


八月三日 谿


けふもまた山泉やまいづみなる砂のべにるかな病めるのどしみて


谿のうへの樹を吹く風は強くしてわが居る石のほとりしづけし


雨はれし後の谿水たにみづいたいたしきのふも今日けふあかく色づき走る


この山に鴉すくなしゆふぐれて小鴉こがらす一つつちにおりたつ


山かげのなら木原きはら下枝しづえにも山蚕やまこが居りて鳥知らざらむ


大き石むらがれる谿の水のべに心しづかになりにけるかも


八月三日 広河原道


わがあゆむ山の細道ほそぢに片よりにあざみしげれば小林をばやしなすも


山なみの此処にあひせま深谿ふかだにを見おろすときに心落ちゐず


しばしして吾が立向たちむか温泉うんぜん妙見めうけんたけの雲のかがやき


長崎をふりさけむとするベンチには露西亜文字ろしあもじなど人名ひとなきざめり


多良嶽たらだけとあひむかふとき温泉うんぜんの秋立つ山にころもひるがへる


吾がいこふひとついただきにうるしいまだ小さく人かへりみず


めぐりつつそはをし来れば島山しまやま天草あまくさうみひらけたり見ゆ


なぎさには白浪しらなみの寄るところ見えこの高きより見らくしよしも


ものなべて秋にしむかふ広河原ひろがはらの水のほとりに馬居り走らず


山かげに今日も聞ければ晩蝉ひぐらし秋蟋蟀あきこほろぎの寂しさに似つ


やまかがし草に入りゆくに足とどむひたひあせきつつ吾は


八月四日 谿、温泉神社(四面宮おしめんさま国魂くにたま神社)裏の石原に沈黙せり


石原に来りもだせばわがいのち石のうへ過ぎし雲のかげにひとし


小さなる螇蚸ばつたのたぐひねゆきぬみづれをりて白き石はら


曼珠沙華まんじゆしやげ咲くべくなりて石原へおりむ道のほとりに咲きぬ


けふ一日ひとひ雲のうごきのありありて石原いしはらのうへに眩暈めまひをおぼゆ


音たてて硫黄いわうふきいづるところより近き木立こだち山蚕やまこゐるなり


八月五日 広河原地、絹笠山


この山を吾あゆむとき長崎の真昼まひるはうを聞きつつあはれ


絹笠きぬがさみねちかくして長崎の真昼を告ぐるはうきこゆ


ふか山のみづうみに来てぬばたまの黒き牛等うしらは水飲みにけり


山はらをつらぬきめぐる道ありて馬けゆくがをりをりに見ゆ


山谿が幾重いくへの山のなかごもりみなみながれここゆ出でむか


八月六日 晩景、谿


見おろしてわがる谿の石のべに没日いりひひかりさすところあり


理由ゆゑよしもなきわが歩み谿底たにそこは既にくらきに水の音すも


わたつみに日は入りぬらむとおもほゆる夕映ゆふばえとほしこころにぞ


くらくなりし山を流るる深谿ふかだにみづきけば絶えざるかなや


谿底を流るるみづはいまのちくらきを流れおとのかなしさ


わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたるみちたたずみにけり


闇空やみぞららして虫飛びゆけりたうげにつかれて我あゆむとき


夕映ゆふばえの赤きを見ればおほよそのものとしもなし山のうへにて


八月七日 谿谷


谷底たにぞこにくだり来にけりひとごとも今はいはなくにまなこをつむる


ひるちかきころほひならむと四五歩しごほゆき山谿やまたにみづにまなこをあらふ


みづ越えてなほし行くときうづたかき落葉のにほひその落葉はや


谷底たにぞこ石間いしまくぐりてゆく水にうをみをりて見ゆるかなしさ


この谿をおほへる樹々きぎのしげり葉を照らす光よともしむわれは


青々と樹々きぎの葉てらす天つ日はいま谷底の石をてらさず


かすかなる水のながれとおもへども夕さりくればそのおとさびし


石苔いしごけにわがいだしたるつばのべに来りて去らぬ羽虫はむしあはれむ


この狭間はざまを強き水たぎち流れけむ石むらがりてよこたふ見れば


こけあをく羊歯しだのしげれる石群いしむらを山ゆく水はつねらしけり


石のひまくぐり流るる谷の水ききつつ吾は一日ひとひここにゐる


みなかみにのぼりてゆけば水の道落葉おちばしたかくろひにけり


石のまゆ常湧とこわきにして音たつるいづみの水をあはれ一人ひとり見つ


おのづから水ながれたるさはえて青山あをやま見ゆるところまで


しづかなる一日ひとひむと山水やまみづのながるる谿に吾は来にけり


山みづのながるる音のしたしさにわれは来りてことさへいはず


山道をゆけばなつかし真夏まなつさへつめたき谷の道はなつかし


傾きつつ太木ふときしげれるきりぎしのそのしたのべの水光みづひかり見む


みづながるる谷底いでて木漏日こもれびの寂しき道を帰り来るなり


八月八日 林中、谿、山


けふもまたしづかにむと夏山なつやまあをきがなかに入りつつぞ


しらじらと巌間いはまつたふかすかなる水をあはれと思ひるかも


山みづのみなもとどころのつちめる馬のひづめのあともきかも


石の上吹きくる風はつめたくて石のうへにて眠りもよほす


くだり来し谷際たにあひにして一時ひとときしろくちひさき太陽たいやうを見し


八月九日 観音堂


吾がいこふ観音堂に楽書らくがきあり Wixon, Nicol, Spark の名よ


八月十日 谿、林


谷底を日は照らしたり谷そこにふかき落葉の朽ちし色はや


谷かげに今日も来にけり山みづのおのづからなるをときこえつつ


魚の子はかすかなるものかものおそれしつついづみみづなかにゐる


妙見めうけんへ雨乞にのぼり来し人らこの谿のみづ口づけ飲めり


八月十一日


午前三時、高谷寛、大橋松平、前田徳八郎等普賢嶽にのぼりぬ。おのれ宿にのこりて、朝食ののち林中を歩く


向山むかやまのむら立つ杉生すぎふときをりに鴉のつれの飛びゆくところ


おのづから夏ふけぬらし温泉うんぜんの山のかふこまゆごもりして


八月十二日


久保(猪之吉)博士予を診察したまふ。また夫人より菓子を贈らる


ジュネーヴのアスカナシイの業績げふせきを語りたまひてのどに日は暮る


この山に君は来りて昆虫こんちゆうの卵あつむと聞くがしたしさ


わがやまひたまひしかどほがらにていませばか吾の心はぎぬ


温平ゆのひら温泉をんせんの話もしたまひて君がねもごろ吾は忘れず


万屋よろづやに吾を訪ひまし物語ものがたるよりえ夫人ふじん長塚節ながつかたかしのこと


長崎


八月十四日、温泉嶽を発ちて長崎に帰りぬ。病いまだ癒えず。十六日抜歯、日毎に歯科医にかよふ。十九日諏訪公園逍遥。温泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき


長崎に帰り来りてむしばめるわが歯をりぬいのちしみ


暑かりし日を寝処ふしどより起き来しが向ひの山はあをく暮れむとす


公園のいしかいより長崎のまちを見にけりさるすべりのはな


温泉うんぜんより吾はかへりて暑き日を歯科医に通ふ心しづかに


八月二十五日 福済寺


のぼり来し福済禅寺ふくさいぜんじの石だたみそよげる小草をぐさとおのれ一人ひとり


石のひまにひてかすかなる草のありわれ病みをれば心かなしゑ


長崎のひる大砲たいはう中町なかまち天主堂てんしゆだうの鐘ここの禅寺ぜんじの鐘


福済寺ふくさいじにわれ居り見ればくれなゐに街の処々ところどころ百日紅さるすべりのはな


八月二十六日 仰臥


ものなべてぎゆかむもの現身うつしみはしづかにきてありなむわれ


みづからの此身このみよあはれしひたぐることなくつひにもゆるさな


しづかなる吾の臥処ふしどにうす青き草かげろふは飛びて来にけり


八月二十七日 仰臥 二十八日 仰臥、長崎精霊ながし


精霊しやうりやうをながす日来り港には人みちをれどわれは


八月二十九日 北海道なる次兄より長女富子の写真をおくりこしければ


たらちねの母の乳房ちぶさにすがりゐる富子とみこをみれば心はぎぬ


山たかく河おほいなる国原にれしをさなごことほぐわれは


とほくゐてがうつしゑを見るときは心をどらむほども嬉しゑ


唐津浜


八月三十日


午前八時十五分長崎発、午後一時三十五分久保田発、午後三時十五分唐津著、木村屋旅館投宿。高谷寛共に行きぬ


五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは


肥前なる唐津の浜にやどりしておしのごとくに明暮あけくれむとす


八月三十一日 木村屋旅館滞在


海のべの唐津からつのやどりしばしばも噛みあつるいひすなのかなしさ


うしほり夜もすがら聞きて目ざむれば果敢はかなきがごとしわが明日あすさへや


城址しろあとにのぼり来りてしやがむとき石垣にてる月のかげのあかるさ


九月一日 為刑死霊菩提、享保二丁酉歳九月十七日


砂浜すなはまに古りて刑死けいしの墓のありいかなる深き罪となりにし


満島みちしまにわたりて遊ぶ人等ひとらゆく月に照らされ吾等われらもい


九月三日 終日沙浜沈黙


日もすがら砂原すなはらに来てもだせりき海風うみかぜつよく我身わがみに吹くも


九月四日 沙浜


いひの中にまじれるすなにしつつ海辺うみべ宿やど明暮あけくれにけり


はるかなるひと旅路たびぢの果てにして壱岐いき夜寒よさむ曾良そらは死にけり


いのちはてしひとり旅こそあはれなれ元禄げんろく曾良そらの旅路は


朝鮮に近く果てたる曾良の身の悲しきかなや独りしおもへば


あさのなぎさにまなこつむりてやはらかきあまひかりに照らされにけり


このやまひえしめたまへ朝日子あさひこの光よ赤く照らす光よ


唐津の浜に居りつつ城跡しろあとの年ふりしを幾たびか見む


砂浜すなはまにしづまり居れば海を吹く風ひむがしになりにけるかも


孤独こどくなるもののごとくに目のまへの日に照らされしすなはへ居り


日の入りし雲をうつせる西の海はあかがねいろにかがやきにけり


九月五日 高谷寛と満島にわたる


松浦河まつらがは月あかくして人の世のかなしみさへもかくさふべしや


九月六日 男ひとり芸妓ふたり


となをとこをみなの語らふをあなねたましと言ひてはならず


九月八日 沙浜


いつくしくにじたちにけりあはれあはれたはむれのごとくおもほゆるかも


日を継ぎてわれのやまひをおもへれば浜のまさごもしやうなからめや


わがまへの砂をほりつつ蜘蛛くもはこぶ蜂のおこなひ見らくしかなし


わたつみを吹きしく風はいたいたしいづべの山にふたたび入らむ


九月十日 高谷寛と来しかたあひ語りて


わが友はわが枕べにすわり居りわかれむとしてなみだをおとす


九月十一日


午前九時五十六分唐津発、十二時半佐賀駅にて高谷寛と訣ををしむ。軌道、人力車に乗り、ゆふぐれ小城郡古湯温泉に著きぬ


ねもごろにわれやまひ看護みとりしてここの海べに幾夜か寝つる


わがためにここまで附きて離れざる君をおもへば涙しながる


わたつみの海を離れて山がはのみなもとのぼりわれ行かむとす


古湯温泉


九月十一日 佐賀県小城郡南山村古湯温泉扇屋に投宿、十月三日に至る


うつせみのやまひやしなふさびしさは川上川かはかみがはのみなもとどころ


ほとほとにぬるき温泉いでゆむるまも君がなさけを忘れておもへや


遠雲の遠きまにまに近雲の近きまにまにかりがねはあひ呼びわたれ羽おとさへ聞ゆるまでに


川きよき佐賀のあがたの川のべに吾はこもりて人に知らゆな


蟷螂かまきりが蜂をひをるいたましさはじめて見たり佐賀さがの山べに


日の光みて川べの石に居り赤蜻蛉あかあきつ等ははやも飛びつつ


われひとりうらぶれ来れば山川やまがはの水のたぎちも心にぞ沁む


この川の向ひの岸に白々と咲きそめたるは何の花ぞも


浅山あさやまをわれはわたりて谷水たにみづの砂ながるるを今ぞ見てゐる


杉の樹に紅きあぶらのみづるををさなごの時のごとくかなしむ


曼珠沙華まんじゆしやげむらがり咲けりこの花の咲くべくなりていまだしこも


山がはの石のほとりに身を寄せて日の光浴む病癒えむか


山がはの水のにほひのする時にしみじみとして秋風ふきぬ


黄櫨はぜもみぢこの山本やまもとにさやかにてあわただしくも秋は深まむ


いつしかにうまれてゐたるいなご等はわが行くときに逃ぐる音たつ


風ひきて一日ひとひ臥したりわが部屋のなげしわたらふくちなはひとつ


この家に急に病みたる一人ひとりありわれは手当てあてす夜半過ぎしころ


旅とほき佐賀の山べの村祭むらまつり相撲のきほひ吾は来て見つ

(二十一日松森神社)


秋さりし山といへども蒸暑く雲のほびこり低くなり来も

(二十三日雷雨)


東京に子規忌歌会のある日ぞとおもひて吾は川辺かはのべ往くも

(二十六日)


やうやくに秋のふかまむやまかひ朝のいかづち鳴りとどろけり


けふの昼らい鳴りし雲そきゆきて秋の夜の月のぼらむとする


けふもまた山に入り来てもと銀杏ぎんなんひろふ遊ぶがごとく


病みながら秋のはざまに起臥おきふしてけふも噛みたるいひいしあはれ


此処に来てへびのあまたを見たりけりつねごろ蛇をおそれてゐしが


親しかる心になりて此里このさとのまだかねつかぬ栗の実を買ふ


烟草たばこやめてより日を経たりしがけふのあけがた烟草のむゆめ


みづからのいのちしまむ日を経つつ川上かはかみがはに月照りにけり


秋づきてしづけき山の細川ほそかはにまさご流れてやむときなしも


みづ清き川上かはかみがはに住むうをのエダをしたり昼のかれひに


胡桃くるみまだやはらかきころにしてわれのやまひえゆくらむか


川のべに蜂むらがるを恐れつつ幾たび此処をとほり行きけむ


秋水あきみづをわきて悲しとおもはねど深き狭間はざまに見るべかりけり


向山むかやまに朝ひかり差しそめしかば谷もあらはになりにけるかも


早稲わせはみぎりひだりにほのかにて小城をぎのこほりの道をわれゆく


ゆくりなく見つつわがゐる青栗あをぐりは近き電灯に照らされゐたり


曼珠沙華咲きつづきたる川のべをわれ去りなむか病えつつ


小野五平をのごへい翁九十一歳にて身まかりぬ気根きこんつめつつ長命ながいきしたり


旅ゆきつつ勝負しようぶをしたるつよき逸話いつわこのおきなにはめづらしからず


山口好を悼む 十月十七日大牟田浄心院追悼歌会のために送る


君死せりとふしらせを我は山深く狭間はざまに居りて聞けるさびしさ


ありし日を思ひいでなむ世のすがたの悲しき歌を君はうたひし


きびしかりし労働らうどううたいくつかが人の心にかがやかむかも


長崎


十月三日 朝古湯をたち午後長崎にかへる。万物に無沙汰の感ふかし


長崎にかへり来りて友を見つとほのめづらの心かなしも


校長にも会ひに行きたりおのづから低きこゑにてやまひかた


われ病みて旅に起臥おきふしありしかば諏訪すはまつりにけふ逢ひにける


心しづめて部屋にし居ればちまたより神の祭りのふえきこゆ


わが部屋にふみを重ねて旅行きしがふみを持てれば手のあとつくも


十月九日 中村三郎氏と共に諏訪神社うへの丘にのぼる。諏訪祭第二日


長崎の港見おろすこの岡に君も病めればいきづきのぼる


六枚板


十月十一日


西彼杵郡西浦上木場こば六枚板ろくまへいたの金湯にいたる。浴泉静養せむためなり


浦上うらかみの奥に来にけりはざまより流れ来る川をあはれにおもひて


クルスある墓を見ながらとほ浦上道うらかみみちを何時かかへりみむ


日もすがら朽葉くちばする湯をあみて心しづめむみづからのため


僂麻質斯リユーマチス病みをるおうな等にあひまじり日ねもす多く言ふこともなし


朝な朝な同じ頃あひに稲田道いなたみち児らは走りて学校へ行く


道のべに赤楝蛇やまかがし多きをおどろきつつ西浦上にしうらかみをもとほりて


山のべにひそむがごとき切支丹きりしたんまづしき村もわれは見たりき


かかる墓もあはれなりけり「ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳」


「ドナメ松下ヒサ墓行年九十二歳」信者しんじやにて世をへしものなり


信徒しんとのため宝盒抄略はうかふせうりやくといふ書物御堂みだうの中にぽつりとありぬ


小さなる御堂みだうにのぼり散在する信者しんじやの家を見つつしゐたり


この宿やど島原しまばらゆ来し少女をとめ居りわがために夕べ洋灯ランプを運ぶ


油煙たつランプともして山家集さんかしふを吾は読み居り物音ものおとたえつ


この家の主人あるじわざわざ長崎に買ひたる刺身さしみを吾に食はしむ


ここ越えてゆかば長崎の西山にしやまにいづるらむとてしばらあり


ひらけたる谷にむかひて長崎の港のかたをおもひつつ居り


小浜


十月十五日、六枚板発。少女予の荷を負ふ。午前十時四十分長与発、午後一時小浜著、柳川屋旅館に投ず。学生立石源治静養に来居るに会ふ


朝なさな船の太笛ふとぶえ聞きしより山峡やまかひのこともわきて思はず


土手どてかげに二人来りてひかりむ一人はわれの教ふる学生がくせい


覇王樹さぼてんのくれなゐの花海のべの光をうけてはつし居り


砂浜に外人ぐわいじんひとりところがりて戯れ遊ぶ日本にほんのをみな


しほはゆき温泉いでゆを浴みてこよひやまひいえむとおもふたまゆら


鴎等かもめらはためらひもなく今ぞ飛ぶねたくしおもふ現身うつしみわれは


日本舟にほんぶねにひるがへりゐる旗見つつその伝承でんしやうをかたみに語る


長崎の茂木もぎみなとにかよふ船ふとぶとと汽笛きてきを吹きいだしたり


入りつ日のあかひかりのゆらぐとき磯鵯いそひよどりのこゑもこそ


日だまりにけふも来りぬ行末ゆくすゑのことをおもはば悲しからむぞ


ここに来て落日いりひを見るをつねとせり海の落日いりひも忘れざるべし


小浜をばまなる森芳泰来もりよしやすきわがための心づくしをながくおもはむ


温泉うんぜんの山のふもとのしほのたゆることなく吾はたたへむ


嬉野


十月二十日 小浜発、零時二十二分彼杵著、夕べ嬉野著


旅にして彼杵神社そのきじんじや境内けいだい遊楽相撲いうらくすまふ見ればたのしも


祐徳院稲荷いうとくゐんいなりにも吾等まうでたり遠くたびしことをかたりて


嬉野の旅のやどりに中林梧竹なかばやしごちくおきなの手ふるひししよ


この山を越えて進みし大隊だいたいが演習やめて一夜ひとよ湯浴みす


透きとほるいで湯の中にこもごもの思ひまつはりかぎりもなしも


この村の小さきやしろの森に来てもだすことあれど心足らはず


わがやまひやうやく癒えぬとおもふまで嬉野うれしのの山秋ふけむとす


長崎


十月二十六日。午前八時四十分嬉野発、十時四十三分彼杵発、十二時半長崎著


十月二十八日 病院学校に勤務す


病院のわが部屋に来て水道すゐだうのあかく出で来るをさびしみゐたり


十一月一日


武藤長蔵教授より大浦天主堂に聖体降福式あることを知らせありしかど、身をいたはりてまゐらず


けふ一日ひとひ腹をいためてしをればきよきまとゐに行きがてなくに


十一月五日


長尾寛済十月八日東京にて没す行年四十、東京巣鴨真性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき


長崎に心しづめて居るときに永遠とはかなしみ聞かむと思ひきや


浅草の三筋町みすぢまちなるおもひでもうたかたのごとや過ぎゆくかげごと


十一月十四日 土屋文明氏と共に春徳寺を訪ふ


黄檗わうばくすぐれし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ


赤く塗りし大きうをかかりゐる僧等のはんのときに打つべく


扁額へんがく海不揚波かいふやうはの四つの文字もじおごそかにしも年ふりにける


シイボルト鳴滝校舎址


年々ににほふうつつの秋草につゆじもりてさびにけるかも


石垣のほとりに居れば過ぎし世のことも偲ばゆよみがへるはや


もろ人が此処にきほひてまなびつるその時おもほゆ井戸ゐどをし見れば


芭蕉葉もやうやくれて秋ふけぬと思ふばかりに物ひそかなり


洋学の東漸とうぜんここにさだまりて青年せいねんはなべてきほひき


柿落葉かきおちば色うつくしく散りしきぬ出島人でじまびと等も来て愛でけむか


鳴滝のたぎちの音を聞きつつぞ西洋せいやうがく日々ひび目ざめけむ


興福寺、深崇寺、書画帖


深崇寺に栗崎道喜の墓を訪ふ顕耀院道喜正元居士


祭も過ぎて照らす日の光しづかなる長崎の山いろづきにけり


十一月二十一日 土屋氏長崎を発つ。夜辰巳に会合あり


くれぐれの家に石蕗つはぶきの黄の花はわれとひととを招ぐに似たり


十一月二十二日 平福百穂画伯と浦上村をゆく


浦上うらかみをんなつらなり荷を運ぶそのかけごゑは此処まで聞こゆ


白く光るクロスの立てる丘のうへ人ゆくときに大きく見えつ


浦上うらかみをんな等の生活ことなりて西方のくにのなげきもぞする


長崎の人等もなべてクロス山と名づけていまに見つつ経たりき


斜なるはたの上にてはたらける浦上人うらかみびと等のそのくはひかる


牛の背に畠つものをば負はしめぬ浦上人うらかみびとは世の唄うたはず


黄櫨はぜもみぢこきくれなゐにならむとすクロス山より吹く夕風ゆふべかぜ


十一月二十三日 百穂画伯と長崎図書館を訪ひ南蛮史料を看る


モリソン文庫明恵上人みやうゑしやうにんの歌集をば少しく読みてわれものおもふ


十一月二十四日 百穂画伯と街上を行く


西比列亜シベリアよりおくりこされし俘虜ふりよあまた町にむらがるきのふも今日も


大浦の道のほとりにルーヴルの紙幣を売ると俘虜は佇む


チエッコへ帰らむとする捕虜ほりよひとり山の石かげに自殺をしたり


寺町の墓のほとりにもかたまりてチエッコの俘虜は時を費す


したしかる友をむかへてうへのことも語りぬ夜のふくるまで

(平福氏)


長崎より


このとし秋より冬にかけ折にふれて作りたる歌、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞に公にせり


真日あかく港の西に落ちゆきて今しみじみと夕映ゆふばえにけり


港より太笛ふとぶえ鳴れるひまさへや我が足もとに蟋蟀こほろぎのこゑ


みち足らはざる心をもちて入日さす切支丹坂きりしたんざかをくだり来にけり


しほおひてひむがしの山こゆる牛まだ幾ほども行かざるを見し


山かげの大根の畑に日もすがら光あたるを見るはさびしも


港をよろふ山の棚畑たなはたに人居りて今しがた昼飯ひるいひを食ひたるらしき


雨はれし港はつひに水銀みづがねのしづかなるいろに夕ぐれにけり


二人ふたりもつひに帰りぬはりつめし心ゆるみて水を飲むなり

(土屋氏・平福氏)


支那街しなまちのきたなき家に我の食ふ黒き皮卵ぴんたんもかりそめならず


夏の初めより病に罹り居りしかどえて白霜しらじもの降りたるを見つ


君が業務なりはひいそがしからむ然れども張りつむる心をまもり居らむか


長崎の港を見れば我がこころなごみしづまるをあやしと思ふな


セミョノフの砲艦はうかんひとつてゐるを背向そがひにしつつ我はいそげり


病いえてここに来りぬ目のもとの落葉のしづかさを独ゆかむか


長崎にも霜ふりにけりありふれしもののあはれと我は思はず


さむき雨長崎の山にも降りそそぐ冬の最中もなかとなるにやあらむ


ものぐるひの被害妄想ひがいまうさうの心さへ悲しきかなや冬になりつつ


ウンガルンの俘虜ふりよむらがりて長崎の街を歩くに赤く入日いりひ


あはれとも君は見ざらむ寺まちの高き石垣いしがきにさむき雨かな


みちのくの仙台せんだいよりおくりくれしてふ納豆なつとうを食む心しづけさ


山上さんじやうの白き十字架クルスの見えそむる浦上道うらかみみちは霜どけにけり


豆もやしと氷豆腐を買ひ来つつしるつくらむと心いそげり


長崎の港の岸をあゆみゐるピナテールこそあはれなりしか


うらがなしきゆふべなれどもピナテールが寝所ふしどおもひて心なごまむ


十二月五日


午前武藤長蔵教授、三上知治画伯と共に大浦天主堂を訪ひ、午後ピナテール(Pignatel)翁を訪ふ


寝所ふしどには括枕くくりまくらのかたはらにしゆ筥枕はこまくら置きつつあはれ


冬の雨ふるけふをしも Pignatelピナテル が家をたづねて身にしむもの


年老いてただひとりなるピナテールしづかなるごとくなほも起臥おきふ


歳晩


このやまひいやしたまへと山川やまかはをゆきゆきしとしの暮となりぬる


長崎を去る日やうやく近づけば小さなる論文に心をこめつ


クリスマスの長崎の御堂みだうに入ることも二たびをせむ吾ならなくに


暮れの年妻ともに身をいたはりて筑紫のくにの旅ゆかむとす


歌会


土屋文明氏歓迎歌会 十一月十七日於茂吉宅、課題「坂」


ひむがしの峠を越ゆる牛ひとつ歩みしづかなるをわれは見にけり

(西山所見)


平福百穂氏歓迎歌会 十一月二十四日於長崎県立図書館、課題「港」


くもり日の港をいでてゆく船はかなしきかなやけむりあげつつ


大正十年


九州の旅


大正九年十二月三十日長崎発、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。

大正十年一月一日、林温泉より鹿児島に至る。一泊


秀頼が五歳のときに書きし文字いまに残りてわれもたふと


熊本のあがたより遠く見はるかす温泉うんぜんたけただならぬやま


光よりそともになれる温泉うんぜんの山腹にして雲ぞひそめる


球磨川くまがはの岸に群れゐて遊べるはここの狭間はざまうまれし子等ぞ


みぎはには冬草ふゆくさいまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる


青々と水綿ゆらぐ川のべにわれはおりたつ冬といへども


一月いちぐわつの冬の真中もなかにくろぐろと蝌蚪おたまじやくしはかたまるあはれ


白髪岳しらがだけ市房いちふさ山もふりさけて薩摩ざかひを汽車は行くなり


大畑おこだ駅よりループ線となり矢嶽やたけ越す隧道トンネルの中にてくだりとなりぬ


桜島は黒びかりしてそばだちぬ溶巌ようがんながれしあとはおそろし


鹿児島の名所を人力車にて見てめぐり疲れてをりぬ妻と吾とは


わが友はここに居れどもあわただし使を君にやることもなし


城山にのぼり来りて劇しかりし戦のあとつぶさに聞きて去る


開聞かいもんのさやかに見ゆるこの朝け桜島のうへに雲かかりたる


大隅おほすみは山のぐに冬がれし山のいただき朝日さすなり


霧島は朝をすがしみおほどかに白雲かかるうごくがごとし


霧島はただにいつくしここにして南風みんなみかぜに晴れゆきしとき


一月二、三日 夜宮崎神田橋旅館、三日宮崎神宮参拝


宮崎の神の社にまゐり来てわれうなねつく妻もろともに


冬の雨いさごに降りてひろ前にあゆめるわれの靴の音すも


ねたましくそのこゑを聞く旅商人たびあきびとは行く先々さきざきちぎりをむすぶ


一月三日


午後三時青島あをしまにつき、広瀬旅館投宿、第五高等学校教師ポーター(五十四歳)滞在しゐる


打寄する浪は寂しくみなみなる樹々きぎぞ生ひたるかげふかきまで


暖きうみのながれのありてこそかかる繁りとなりにけらしも


旅館りよくわんにはポーターといふ洋人やうじんもやどりて日本にほんの酒をのむ見ゆ


青島あをしま木立こだちを見ればかなしかるみなみうみのしげりおもほゆ


南より流れわたれる種子たねひとつわがとほのことしぬばしむ


かすかなるひかり海よりのぼりくる日向ひうがのあかつきの国のいろはや


青島あをしま一夜ひとよやどりてひむがしのくれなゐ見たりわがとほ


ひむがしは赤く染まりてわが覚むる日向の国のあかつきのいろ


わたつみの海につづける茜空あかねぞら二時ふたときにしてくもりに入りぬ


一月四日 帰途につく


霧島はおごそかにして高原たかばる木原きはらをちに雲ぞうごける


灰いろのくすしき色も日あたりてこの高山たかやまは見れども飽かず


あたらしき年のはじめをたびしが高千穂の峰に添ふごとかりき


青井岳あをゐだけの駅出でてよりゐのししの床の話を聴きつつ居たり


一月五日


久留米、「寛政五癸丑年六月二十七日、生国上州新田郡細谷村、高山彦九郎正之墓」。上野旅館にてアララギ歌会。梅林寺を訪ふ


久留米くるめなる遍照院へんぜうゐんにわれまうづ「松陰以白居士しよういんいはくこじ」のおくつき


神つ代のことこほしみてしらぬひ筑紫つくしのくにに果てし君はも


夜もすがら歌を語りて飽かなくに朝鶏あさどりが鳴くあかねさすらし


九州の十一人じふいちにんの友よりてわれと歌はげむ夜の明くるまで


梅林寺ばいりんじに紫海禅林の扁額ありたにを持ちたるこの仏林ぶつりん


三生軒さんじやうけん居室こしつより見おろす谷まには僧一人来て松葉を掃くも


筑後川日田ひたよりくだる白き帆も見ゆるおもむきの話をぞ聞く


一月六日 太宰府、観世音寺、都府楼址、武雄温泉


観世音寺くわんぜおんじ都府楼とふろうのあともわれ見たり雑談ざつだんをしてもとほりながら


長崎


一月三十一日


奥田氏送別会を栄家に開く。会者図書館談話会員、主賓のほか、永見徳太郎、増田廉吉、谷田定男、林源吉、大庭耀、水谷安嗣諸氏


くさぐさの事を思ひて尽きざるにこよひ吾等はかたみひつ


みんなみの国はゆたけし朝あけて君を照らさむあまのいろ


二月三日


奥田啓市氏鹿児島県立図書館長として出発す。予さはりありて見おくり得ざりしことを悔ゆ


このゆふべいおもへども君とほく今し去りゆくいてかへらず


二月十日 述懐


長崎の港をよろふむら山に来向きむかふ春の光さしたり


ものぐるひはかなしきかなと思ふときそのものぐるひにも吾はわかれむ


長崎に来りて既にまる三年みとせ友のいくたり忘れがたかり


きびしかりしはやり風にて見近みぢかくのたりはつひにぎにけらずや


そがひなる山を越えゆく矢上やがみにもおもひのこりてわれ発たむとす


三月十四日


雪大に降、諸家に暇乞にまはる。夜茂吉送別歌会を長崎図書館に開く


長崎をわれ去りなむとあかつきのくらきにさめて心さびしむ


長崎をわれ去りゆきて船笛ふなぶえの長きこだまを人聞くらむか


白雪のみだれ降りつつ日は暮れて港の音も聞こえ来るかな


三月十五日 医学専門学校職員食堂のために一首をしたたむ


行春ゆくはるの港より鳴る船笛ふなぶえの長きこだまをおもひ出でなむ


長崎を去り東上


三月十六日。午後十一時長崎を出発す。先輩知友多く見送らる。予長崎に居ること足掛五年、満三年三月なり。前田毅、江藤義成二君同車し、途上門司義夫君に会ふ


三月十七日


午前五時博多著、栄屋旅館。大学生青木義作、金子慎吾二君来る。榊、久保二教授を訪問し、耳鼻科教室精神病学教室を参観す。夜久保博士夫妻と晩餐を共にす


もろびとにわかれをつげて立ちしかど夜半よは過ぎて心耐へがてなくに


春さむしとおもはぬ部屋に長崎の御堂みだうの話長塚たかしの話


あたたかき御心みこころこもるこのへやにあまたの猫も飼はれて遊ぶ


三月十八日


午前九時四十二分博多発、十一時四十二分小倉著、市中を見物し、ついで延命寺に行き公園を逍遥、奇兵隊墓、名物おやき餅


春いまだ寒き小倉こくらをわれは行く鴎外先生おもひいだして


公園の赤土あかつちのいろ奇兵隊きへいたい戦死せんしはか延命寺の春は海潮音かいてうおん


三月十八日


午後一時小倉発、午後四時四十二分別府著、別府には大正八年夏一たび来りき。街見物、保養院長鳥潟博士訪問、博士は大学同窓也。大分共進会を見る


あたたかき海辺の街は春菊しゆんぎくを既に売りありく霞は遠し


鳥の音も海にしば鳴く港町みなとまち湯いづる町を二たび過ぎつ


三月二十日。午後二時別府より紅丸にて出航、高浜上陸、汽車にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社参拝


年ふりし道後だうごのいでゆわがめばまさごの中ゆ湧きくるらしも


大洋おほうみをわれ渡らむにこの神をいはひてゆかな妻もろともに


三月廿二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林りつりん公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等学校に山宮・志田二教授を訪ひ、医学専門学校に荒木(蒼太郎)教授を訪ふ。市内(人力車)城、後楽園


この園にたづはしづかに遊べればかたはらに灰色はいいろたづひとつ


時もおかずここにめけむ古への戦のあとなみかがやきぬ


元義もとよしがきほひて歌をよみたりし岡山五番町をかやまごばんちやうけふよぎりたり


三月二十三日


岡山を発してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を食ふ。香櫨園畔の中村氏方に泊。長女良子さん(五歳)次女厚惠さん(三歳)


ひさびさに君とあひ見てわが病癒えつることをうれしみかはす


何といふ平安やすらぎなるかあしたよりわがまへに友のをさなご二たり


三月廿四日。大阪。大学法医学教室(中田篤郎氏)、精神病学教室(小関光尚氏)、浪速花屋碑、心斎橋通、道頓堀(文楽人形芝居)、よる森園天涙、花田大五郎、加納曉氏等も加はり晩餐。中村氏宅泊。

三月廿五日より廿七日。中村君の案内にて奈良を見る。法隆寺佐伯管長にも会ふ。雨降る。ついで大和に行き万葉の歌に関する古跡をめぐる。ゆふ京都著。藤岡旅館に入る。

三月廿八日。宇治、鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の山、塔、如意輪観音、大竹林、隠窟、臨済宗大本山天龍寺、保津川、桂川、金閣寺(鹿苑院)、大極殿(平安神宮)。藤岡旅館


いそがしき君はひねもすわがために古山川ふるやまかはをみちびきやまず


あはれあはれ恋ふる心にみとほり山川やまかはぞ見し君がなさけに


三月二十九日


午前十時四十分京都を発ち、米原駅下車、番場蓮華寺に㝫応和尚にあひまつる。石川隆道、樋口宗太郎二氏に会ふ


ぬばたまのよるさりくれば湯豆腐ゆどうふをかたみに食へとのたまひにけり


もすがら底びえしつつありたるがあかつきには薄氷うすらひが見ゆ


この寺に㝫応和尚りゆうおうをしやうよろこびてこがしたる湯葉ゆばをわれに食はしむ


三月三十日。米原発急行にて上京す。車中、榊、和田、小野寺の三教授にあふ。教授等は学会出席のために上京するなり。

四月一日。日本神経学会に出席し、呉秀三先生の大学教授莅職二十五年祝賀会(上野精養軒)に出席しぬ


賀歌


芳渓呉秀三先生大学教授莅職二十五年賀歌竝正抒心緒謌(仏足石歌体)二十五章


長崎の港をよろふ山並やまなみに来むかふ春の光さしたりあまつひかり


長崎にわれ明暮あけくれてとりがなくあづまの国の君をしぬびつしぬびけるかな


み冬つき来むかふ春にこころこそゆらぎてやまねみちびきたまふなさけしぬびて


しらぬひ筑紫つくしのはてにわれ居れどをしへのおやたたへざらめやあふがざらめや


薬師くすりしはさはにをれどもあれのはおほかたに似ずうつのためいまのため


さちはひにちにつつあれのの君がちからはいやあらたしもきみがいのちは


ものぐるひはかなしきかなとおもふときさびしきこころ君にこそ寄れすくひたまはな


しきしまのやまとにしてはわが君や師のきみなれや Pinelピネル Conollyコノリとつくににして


霊枢れいすうきやうといふともわがどちはきやうとな云ひそとのらしけるらし病むひとのため


二十年はたとせにあまるいつとせになるといふみほぎのにはに差せる光やうづのみひかり


ものぐるひをまもりたまひて年を経し君がみひげはつひに白しもそのすがしさや


しろがねのひげさへひかり新幸にひさちもいよよかさねむ君がいのちやおのづからなる


ものぐるひは悲しきものぞまもらせる君こそたふとあはれたふときけふのたふとさや


うからやから弥々いよよさかゆる君ゆゑに新幸にひさちはひもかぎり知らえずいははざらめや


長崎に来てより三とせは過ぎにけりいざ帰りなむあづまの春へ君がみもとへ


なまけつつ十年ととせを経たりおこたりて十歳ととせ過ぎけむことをしおもふ君をぎつつ


中学ちゆうがく四級生しきふせいにてありけむか精神啓微せいしんけいびをわれは買ひにき小川をがはまちにて


もろもろのくるへる人のあはれなるすがたを見つつ君をおもはむうやまひまつり


わがもてるものはまづしとおもへども狂人きやうじんりてこの世はなむありのまにまに


をしへを受けしもろもろの人あつまりて教への親を囲むけふかも言寿ことほぎにつつ


うつしみのくるへるひとのかなしさをかへりみもせぬ世の人めよもろびとめよ


君がこころひろくゆたけくたまかづら絶ゆることなくさちはへてあらむわかえつつあらむ


おなじ世にうまれあひたるうれしさや教へのおやにこのうやまひをささげまつらむ


むらぎものこころ傾けことほぎの吉言よごとまうさむ酒祝さかほぎもせよ豊酒とよき清酒きよき


あまつ日の光るがごとく月読つくよみの照らすがごとく常幸福とこさいはひにいます君かも


帰京


大正六年十二月長崎に赴任してより満三年三月余、足掛五年になりて大正十年三月帰京しぬ


東京に帰りきたりて人ごろしの新聞記事しんぶんきじこそかなしかりけれ


閨中けいちゆう秘語ひごを心たひらかに聞くごとし町の夜なかにかはづ鳴きたり


長崎よりかへりてみれば銀座十字つむじに牛は通らずなりにけるかも


さみだれのならべ降ればいちに住む我がじんははや衰へにけり


流行の心理は模倣もはう憑依ひようい概念がいねんを以てりつすべからず夏の都会とくわい


ゆたかなる春日はるびかがよふ狂院きやうゐん葦原金次郎あしはらきんじらうつひに老いたり


さみだれはしぶきて降れり殺人さつじんの心きざさむ人をぞおもふ


わが心いまだ落ちゐぬにくれなゐの胡頽子ぐみあきなふ夏さりにけり


われ銀座ぎんざをもとほり居りてブルドック連れしをんなにとほりすがへり


長崎の昼しづかなる唐寺たうでらやおもひいづればしろきさるすべりのはな


朝はやき日比谷ひびやそのむくみたる足をぞさす労働はたらきびとひとり


馬に乗りて行く人のあり日がへりに玉川あたり迄行くにやあらむ


浅草の八木節やぎぶしさへや悲しくて都に百日ももかあけくれにけり


ものぐるひを看護かんごしておもはればれとしてゐるをんなと相見つるかも


長崎にて暮らししひまに虫ばみし金槐集をあはれみにけり


さ庭べにトマトを植ゑてかすかなる花咲きたるをよろこぶ吾は


けふもまた何か気がかりになる事あり虫ばみしふみいぢり居れども


このごろ又外国人ぐわいこくじんを殺しし盗人どろばうあり我心わがこころあやしきを君はとがむな


畳のしたにナフタリンなどふりきて蚤おそれゐる吾をしぬばね


雑吟


東京アララギ歌会


心いらだたしく風吹きし日は過ぎてかへるで赤く萌えいでにけり


墓前


亀戸の普門院なる御墓みはかべに水青き溝いまだのこれり


山形より


月読つきよみの山はなつかしはだら雪照れる春日に解けがてなくに


五月九日


ふきいづる木々きぎの芽いまだ調ととのはぬみちのく山に水のみにけり


谿ふかくしろきは吾妻あづまやまなみの雪解ゆきげのみづのたぎつなるらし


みちのくは春まだ寒しとほじろくはざまをいづる川のさびしさ


ふるさと


かなしきいろのくれなゐや春ふけて白頭翁おきなぐささけるべを来にけり


われひとりとおもふ心に居りにけりをさなきかふこすでにねむりつ


五月十二日


結城哀草果を率て林間の野を行く


山がひに日に照らされし田の水やもののいのちかすかなりけり


みちのくのわが故里ふるさとに帰り来て白頭翁おきなぐさを掘る春の山べに


山陰やまかげのしづかなる野に二人ふたりゐて細く萌えたる蕨をぞ


みちのくの春の光はすがしくてこの山かげにみづのおとする


山かげを吾等しかば浅水あさみづひるのおよぐこそさびしかりけれ


木立こだちよりかこまれてゐる春の小野をの昆虫こんちゆうぬるだにこの平安やすらぎ


六月十六日 女等の飼へる蚕


かりそめとおもふはさびひしいろき繭にこもりはてたり


七月六日


胃腸病院に神保孝太郎博士を訪ひ、ついで入澤達吉博士の診察を受く


われひとり物おもふへやにきこえくるにぶくおもおもしきちまたのおとは


けふ一日ひとひたえまなく汗が流れしとしるしおかむわがやまひのことも


山水人間虫魚


一夜


甲斐かひがねを汽車は走れり時のまにしらじらと川原かはらの見えしさびしさ


しづかなる川原かはらをもちてながれたる狭間はざまかはをたまゆらに見し


山がひにをりをりしろくたぎちつつさびしき川がながれけるかな


ふく風はすでにつめたしやつたけのとほき裾野すそのに汽車かかりけり


天づたふ日のかたむける信濃路しなのぢや山の高原たかはら小鴉こがらす啼けり


高原たかはらに足をとどめてまもらむか飛騨ひだのさかひの雲ひそむ山


澄みはてていろふかき空に相寄あひよれる富士見高原ふじみたかはらゆふぐれにけり


あかときはいまだ暗きに目ざめゐる吾にひびきて啼く鳥のこゑ


蚊帳かやつりてひとりねむりしあかときのつめたきみづは歯に沁みにけり


みすずかる信濃高原たかはらの朝めざめくちそそぐ水に落葉しづめり


林間


山ふかき林のなかのしづけさに鳥に追はれて落つる蝉あり


桔梗きちかうのむらさきの色ふかくして富士見が原に吾は来にけり


松かぜのおともこそすれ松かぜは遠くかすかになりにけるかも


谷ぞこはひえびえとして木下こしたやみわが口笛くちぶえのこだまするなり


あまつ日は松の木原きはらのひまもりてつひにさびしき蘚苔こけを照せり


灯下(一)


ともし火のもとにさびしくわれ居りてむくみたる足のばしけるかな


ひとをかなしとおもふ心のきはまりて吾にことつげし友をぞおもふ


諏訪すはのみづうみのどろふかく住みしとふしじみひぬ友がなさけに


みすずかる信濃の国に足たゆくともしびのもとにぬかを煮にけり


高はらのしづかに暮るるよひごとにともしびに来てすがる虫あり


灯下(二)


窓外まどのとは月のひかりに照されぬともし火を消しいざひとり寝む


しづかなる山の高原とおもへども電流に触れてひとは死にけり


月の光いまだてらさず白雲しらくもは谷べにふかく沈みたるらし


潮浴しほあみ安房あはの海べに行きたりしわがをさなごは眠りけむかも


夕飯ゆふいひをはやくしまひてこのよひは妻をおもへり何か知らねど


諏訪すはのうみの田螺たにしを食へばみちのくにをさなかりし日おもほゆるかも


よひとおもふにはや更けそめし山家やまがなるこのともしびに死ぬる虫あり


うつしみは現身うつしみゆゑになげかむに山がはのおともあはれなるかも


文身ほりものだらけのかばね隅田川に浮きしとふ記事きじも身に沁む山の夜ふけに


やまふかきその谷川たにがはに住むといふやまめ岩魚いはなを人はとり


八ヶ嶽の裾野のなびきはるかにて鴉かくろふ白樺の森


高原


蓼科たてしなはかなしき山とおもひつつ松原まつはらなかに入りて来にけり


いまだ鳴きがてぬこほろぎ土のへにいでて遊べり黒きこほろぎ


秋づくといまだいはぬにれいでて我が足もとに逃ぐるこほろぎ


秋らしき夜空よぞらとおもふ目のまへを光はなちて行く蛍あり


谷川たにがはのほとりに見ゆるふる道はたえだえにして山に入るなり


月夜


高原たかはらの月のひかりはくまなくて落葉がくれの水のおとすも


ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな


月あかし谷ぞこふかくこもり鳴る釜無川かまなしがはのおとのさびしさ


秋の夜のくまなき月に似たれどもこほろぎ鳴かぬ茅生ちふのつゆ原


飛騨ひだの空にゆふべの光のこれるはあけぼのの如くしづかなるいろ


飛騨ひだそらにあまつ日おちて夕映ゆふばえのしづかなるいろを月てらすなり


空すみて照りとほりたる月の夜に底ごもり鳴る山がはのおと


わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり


あららぎの実


あららぎのくれなゐのむときはちちははこひ信濃路しなのぢにして


ゆふぐれの日に照らされし早稲わせをなつかしみつつくだる山路やまみち


八千ぐさは朝よひに咲きそめにけり桔梗の花われもかうのはな


やまめの子あはれみにつつゆふぐれて釜無川をわたりけるかな


山のべににほひしくず房花ふさはなは藤なみよりもあはれなりけり


くたびれて吾のいきづく釜無かまなしの谷のくらがりに啼くほととぎす


釜無


夕まぐれ南谿みなみだによりにごりくる谿たにがはのをなつかしみつも


小吟随時


左千夫先生九回忌 七月十日於亀戸普門院


逝きましてはや九年ここのとせになるといふ御寺みてらの池に蓮咲かんとす


諏訪アララギ会 八月二十二日於上諏訪地蔵寺


八千ぐさのあさゆふなに咲きにほふ富士見が原に吾は来にけり


諏訪アララギ会 九月三日於温泉寺


日の御子みこむかふる足る日と信濃なる富士見の里にわれはめざめぬ


斎藤茂吉渡欧送別歌会 十月九日日限地蔵


わが心かたじけなさに充ちにけり雨さむきけふをあへる友はや


洋行漫吟


大正十年十月二十六日東京駅発、二十七日熱田丸横浜出帆、諸先輩諸友の見送を忝うせり。二十八日神戸着、上陸諸友に会ふ。京都に遊び藤岡旅館泊、中村憲吉君宅一泊。六甲苦楽園六甲ホテル一泊。十一月一日神戸出帆


十一月二日 門司著、上陸、巌流島、下関万歳楼、山陽ホテルに泊る


しづかにいにしへ人をしたふ心もて冬の港を渡りけるかな

(巌流島三首)


わが心いたく悲しみこの島にいのちおとしし人をしぞおもふ


はるかなる旅路たびぢのひまのひと時をここの小島をじまにおりたちにけり


十一月三日。午前十二時門司出帆、藤井公平、奈良秀治、山口八九子三氏見送る。玄海浪高く、四十八分時計をおくれしむ。大方の船客船に酔ふ。


十一月五日上海 福民病院長頓宮博士を訪ふ


うみおもしづかになれる朝あけて四十八分しじふはちふんときおくれしむ


あかあかとにごれる海と黯湛かぐろくも澄みたる海とさかひをぞする


戎克じやんくあかき色してたかだかとゆく揚子江やうすかう川口かはぐちわたる


上海しやんはいのもろもろの様相さま人の世のなりのままなるものとこそ思へ


「日本首相原敬被刺」と報じたる上海新聞しやんはいしんぶん切抜きりぬきしまふ (六日)


十一月香港


清麗ともふべき小都市せうとしにつらなりし山のかなたの支那国しなこくの見ゆ


たちまちに山上さんじやうにのぼり見おろせる市街しがい冬がれのさまにはあらず


no smoking に不准食煙ぶじゆんしよくえんと注せりき「食煙しよくえん」の文字善しと思はずや


茶館ちやくわんには「清潤甜茶せいじゆんてんちや」のへんがありにほへる処女をとめ近づききた


海岸かいがんはさびしき椰子やしの林よりうしほのおとのふがに聞こゆ


十一月十五日新嘉坡


空ひくく南十字星みなみじふじせいを見るまでに吾等をりけるわたつみのうへ


日本国にほんこくの森に似しかなと近づくに椰子やしくろぐろとつづきて居たり


腰まきを腰に巻きつつとほるもの男女をとこをみなとまだをさなきと


汗じめるわが帳面ちやうめん片隅かたすみにブルンボアンとしるしとどむる


ジョホールの宮殿きゆうでんのまへに佇みしわれ等同胞はらから十人とたりあまりは


椰子やししげる中に群れゐし水牛すゐぎうがうごくとき人をおそれしめつつ


みさきなるタンジョンカトン訪ひしかばスラヤの落葉蟋蟀こほろぎのこゑ


太陽たいやうをマタハリといひて礼拝らいはいすまた「感天大帝かんてんたいてい」の文字もじ


牛車うしぐるまゆるく行きつつ南なる国のみどりに日は落ちむとす


「にほんじんはかの入口いりくち」のしるしあり遊子樹いうしじゆといふ樹さへ悲しも


火葬場にマングローヴじゆ植ゑたりき其処の灰を手にすくひても見つ

二葉亭四迷も此処に火葬せらる

日本人墓地にほんじんぼちの中にてはるかなる旅をし行かむこころぎ居り


赤き道椰子やしの林に入りにけり新嘉坡シンガポールのこほろぎのこゑ


はるばると船わたり来てかなしきはジャランプサルのよるのとよめき


十一月十八日マラッカ


マラッカの山本やまもとに霞たなびけりあたたかき国の霞かなしも


たひらなるくがにかたまり青きをばやなぎかとおもひつつ居る


東印度会社とういんどくわいしやのしるし今のこ過去くわこのにほひを放ちてきたる


戦死者の記念塔きねんたふのまへにセナじゆうゑ往くも還るも見む人のため


日本人にほんじんの歯科医にあひぬささやかに紙障子かみしやうじなどたてて居たりき


今しがた牛たたかひてその一つつの折れたるがみちのうへに立つ


ふさふさにバナナ成り居るをまのあたり見てゐる吾等馴れむとすらし


マラッカの街上がいじやうにしてわれも見つめるをみなおもしきを


せい Francisフランシス Xavierザビエー の墓ときふりてにしづまる雪降らぬくに


マラッカをはなれ来りて入つ日の雲のながきににほふあけのいろ


ひたひより汗いでながら支那人墓地しなじんぼち馬来人墓地まれいじんぼちめぐりて来たり


十一月十九日ペナン


ややにしてペナンは近しそのはての空に白き雨ふるが見えつつ


そのつのを色うつくしく塗れる牛幾つも通るペナンに来れば


蛇おほく住める寺ありがくの文字「恩沾無涯おんてんむがい」はくにさかひせず


ペナン川に添ひてさかのぼるところには水田すゐでんありて日本にほんしのばゆ


支那街しなまちはここにも伸びておのづから富みたるものもをしかさねつ


夜に入りて大雨おほあめとなり乗りこめるデッキ航者かうしや(deckpassenger)の床さへ濡れぬ


十一月二十四日セイロン・コロンボ


水の中に水牛すゐぎうの群れゐるさまはなよなよとせるものにしあらず


おほどかに水張りて光てりかへし田植たうゑは今にはじまるらむか


この村に鍛冶かぢ鋼鉄かうてつを鍛へ居りつちのひびきも日本にほんに似たり


Kandyキヤンデイ にゆく途中にて土民どみん等が象に命令するこゑ聞きつ


高々と聳えてゐたる山ひとつマハベリガンガと云ふにやあらむ


ことわりはおのづからにて錫蘭せいろんのサカブタの山に滝かかりけり


コロンボのちまたの上に童子どうし等が独楽こまをまはせり遊び楽しも


ここにしも植物園のもろ木々が油ぎりたる葉を誇らむか


仏牙寺ぶつがじにまうできたりて菩提樹ぼだいじゆ種子しゆし日本にも渡れるをおもふ


おほきなる白きけだものちひさなるけだものを食ふところを彫りぬ


椰子の葉をかざしつつ来る男子をのこらの黄なるころもは皆仏子ぶつしにて


つづき居る椰子やし木立こだちのひまもりて入日いりひの雲のくれなゐ見えつ


冬さむき国いでて遠くわたりけりセイロンの島に蛍を見れば


十一月二十六日印度洋


余光よくわうさへなくなりゆきし渡津海わたつみにミニコイ嶋の灯台の見ゆ


あらはれし二つのにじのにほへるにひとつはおぼろひとつさやけく


印度いんどうみけふもわたりて食卓しよくたく薯蕷汁とろろいひを人々たのしむ


わたつみのそらはとほけどかたまれるくもなかよりらい鳴りきこゆ


虹ふたつそらにたちけるそのひとつのまへにあるにあらずや


十二月一日アデン湾、三日紅海


アデン湾にのぞむ山々ひらくれど青きいろ見ゆる山一つなし


佐渡丸さどまるととほり過がへり海わたる汽笛きてきかたみに高きひととき


朝あけて遠く目に入るやまをアフリカなりといふ声ぞする


空のはてながき余光よくわうをたもちつつ今日けふよりは日がアフリカに落つ


よる八時バベルマンデブの海峡かいけふを過ぎにけるかも星かがやきて


ペリムたう亜刺比亜アラビアの国に近くしてその灯台の見えはじめたり


アフリカに日の入るときに前山さきやまは黒くなりつつ雲の中の日


あかつきは海のおもてにたなびける黄色くわうしよくもやあなうつくしも


紅海こうかいに入りたる船はのぼるを右にふりさけ見れども飽かず


甚だしくあかかりし雲あせゆきて黙示もくしのごとき三つ星の見ゆ


紅海こうかいの船の上より見えてゐるカソリンざんさびしかりけり


海風うみかぜは北より吹きてはや寒しシナイの山には照りながら


十二月七日エヂプト


Suez より Genefé, Fayed, Nefisha, Esmailia, Abou-hammad, Zagazig, Benha 等の駅を経て Cairo 著。ピラミッド、スフィンクス等よりカイロ市街を観、Port Said に至る。同行神尾、薬師寺、庄司三氏のみ


大きなる砂漠のうへに軍隊ぐんたいのテントならびて飛行機飛べり


丘陵きうりようのうへに白雲の棚びけるところもありぬすずしくなりて


砂原すなはらのうへに白々しろじろにづるはしろがねすすきといふにし似たり


れつなしてゆく駱駝らくだ等のおこなひをエヂプトに来て見らくし好しも


Bitterlakeビタレーキ といふ湖水みづうみが見ゆ小鴉こがらすのむれ飛びをるは何するらむか


つちいへ部落をなしてをんななど折々をりをりいでて此方こなた見にけり


英吉利えぎりすの兵営なるかかたはらに軍馬ぐんば調練てうれんせるところあり


モハメッドの僧侶ひとりが路上ろじやうにてただに太陽たいやう礼拝れいはいをする


たかり来る蠅あやしまむいとまなく小さき町に汽車を乗換ふ


白き鷺はたけのなかにりて居り玉蜀黍たうきびれつながくつづく見ゆ


しづかなる午後の砂漠さばくにたち見えし三角さんかくたふあはれ色なし


ピラミッドの内部ないぶに入りて外光ぐわいくわうをのぞきて見たりかはるがはるに


スフィンクスはおほきかりけりふるたみこれをつくりて心なごみきや


はるばると砂に照りくるに焼けてニルの大河おほかはけふぞわたれる


はるかなる国にしありき埃及エヂプトのニルの河べに立てるけふかも


ニル河はおほどかにして濁りたり大いなる河いつか忘れむ


朝床に聞こえつつゐるうますずわれの心をよみがへらしむ


黒々としたるモッカを飲みにけり明日よりは寒き海をわたらむ


十二月九日地中海


この夕べたひ刺身さしみとナイルうなぎ食はしむ日本にほんふね


シシリーのイトナの山はあまつ日にかがよふまでに雪ふりにけり


伊太利亜イタリア Reggioレツジヨ の町を見つつ過ぐしらじらとせる川原かはらもありて


Messinaメツシナ海峡かいけふわたり冬枯のさびたる山が目にし


孤独こどくなるストロンボリーのいただきにけむりたつ見ゆしたしくもあるか


Barkバルク といふ三檣船みはしらせんも見えそめてコルシカたうに近づきゆかむ


十二月十四日マルセーユ


朝さむきマルセーユにて白き霜錻力ブリキのうへに見えつつあはれ


山のうへのみ寺に来り見さくるや勝鬨かちどきあぐる時にし似たり


十二月十五日巴里


十二月十五日午後十時十分巴里ガル・ド・リオン著。オテル・アンテルナショナール投宿。銀行、大使館、市街、トロカデロ、エツフエル塔、エトワール、ルウヴル、パンテオン、アンヴァリード、リユクサンブール、クルニエ博物館、オペラ、地下鉄道(メトロ)等。十八日まで滞在す


霧くらくめて晴れざる巴里パリーにてゆたかなるものを日々ひびに求めき


ルウヴルの中にはひりてたましひもいたきばかりに去りあへぬかも


英雄えいゆうはそのひかりをも永久とはにして放たむものぞ疑ふなゆめ


Ici repose un soldat français mort pour la patrie 1914-1918われもぬかづく


十二月二十日伯林


十二月十九日、午前八時十分、ガル・ド・ノールを出発して伯林に向ふ。小池・神尾二君と予と同車なり。十二月二十日伯林アンハルターバンホーフ著。石原房雄君出迎ふ。Hotel Alemannia 投宿。

○爾来前田茂三郎君はじめ多くの同胞に会ふ。○十二月二十七日、ハンブルグに行き老川茂信氏に会ふ。帰途の汽車中にて信用状の盗難に遭ひ困難したるが、信用状大使館に届き、謝礼三五〇〇麻克にて結末を告ぐ。

○三十一日、ユニオン・バレエにて除夜を過ごし、十二時に大正十一年の新年を祝ふ。○四日より連日美術館を見る。○八日、神尾君ウユルツブルヒに立つ。○十三日、墺太利、維也納に向ふ。


大きなる都会とくわいのなかにたどりつきわれ平凡へいぼん盗難たうなんにあふ


美術館ムゼウムに入りて佇む時にのみおのれ一人ひとりこころとなりつ


おどおどと伯林ベルリンなかに居りし日のやすらぎて維也納ウインナに旅立たむとす


「つゆじも」後記


      ○

 歌集「つゆじも」は制作年代よりいへば、自分の第三歌集に当り、歌集「あらたま」に次ぐものである。そして、大正六年十二月、自分が長崎医学専門学校教授になつて赴任した時から、大正十年三月長崎を去るまでのあひだに、折に触れて作つた歌、それから、東京に帰つて来て、その年の十月すゑ、欧羅巴留学の途に上るまでのあひだに作つた歌(その中には信濃富士見で静養した時の歌をも含んでゐる)、それから、船に乗つてマルセーユまで行き、汽車で巴里を経て伯林に著き、暫時其処に滞在し、大正十一年一月十三日、維也納に向つた時までの歌をひろひ集めたことになつて居る。

      ○

 自分の長崎時代の歌、即ち大体大正七年八年九年の歌は、アララギ、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、長崎日日新聞、雑誌紅毛船、雑誌アコウ等にたまたま載つたもの以外は、未定稿のものをも交へて手帳に控へ、一部は歌稿として整理してあつたものが、大正十三年の火難に際して焼失してしまつた。そこでもはや奈何とも為ることが出来ないから、既に発表したもののみにとどめて編輯しようとおもひ、大正十五年ごろその一部を印刷にまで附したのであつた。然るに計らずも、欧羅巴から持帰つた荷物の中に、長崎時代の小帳面四冊あることを発見したが、その中には大正九年病のため静養してゐた頃の歌がいろいろ書いてあつた。即ち、自分が大正十年の夏ごろ解放といふ雑誌に発表した「温泉嶽」と題した十数首の歌は、皆この小帳面の中にあることを発見したのである。さうして見ると、是等の小帳面は自分が洋行するとき、荷物の中にほかの物と一しよに入れたのであつた。帳面には、長崎から鹿児島宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を去つて上京するまでの途中の歌をも若干首書き記してある。是等は皆粗末な歌であるが、自分としては記念したいものであつた。ただ大正七年八年ごろの小帳面が失せたからその年に作つた歌が無い。大正七年夏には、二三の同僚と共に宇佐から耶馬渓、それから山越をして日田に出て、日田から舟で筑後川をくだり、鮎の大きいのを食ひ、その耶馬渓から日田への途上、夜の山越をしたとき、紅い山火事を見たりして、その時の歌もあつたのに、それ等は焼失せたのであつた。また大正八年には同僚知人と共に熊本に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ抜ける旅をし、阿蘇の中腹で撮つた写真も遺つて居るし、その時の歌も若干首あつた筈だが、それ等は焼けたから奈何ともすることが出来ない。

      ○

 焼失せた其等の歌のごときは、所詮粗末なものであるから、大観すれば決して惜しむには足らぬけれども、焼失して見れば、つまらぬものにも愛惜をおぼゆるは人の常情であらうから、この歌集には随分つまらぬ歌まで収録せられたのである。また洋行の歌であるが、洋行は自分のはじめての経験であり、慌しい作のうちから、辛うじてこれだけ整理したのであつた。海上の赤い雲の歌などが幾首も出て来るが、これも初航海の経験者として免れがたいことであつた。

      ○

 私が帰朝して、火事のために、雑誌書籍を焼失してしまつたとき、同情深き諸友は、私のために、所蔵の新聞雑誌の切抜を贈られたのであつた。その諸友は、渡辺庫輔(与茂平)、村田利明、鵜木保、鹿児島寿蔵、竹内治三郎、森路匇平(高谷寛)、赤星信一、村田敏夫、山根浩、加納美代、佐藤峰人、遠藤勝、畠山元三郎、結城健三、三田澪人、志村沿之助、我謝秀昌の諸氏で、この集を編むことの出来たのも、皆此諸氏のたまものである。特に、私ごとき者の書いたものを、斯く丁寧に保存して置かれたといふことに対し、私は涙の出るほどふかく感動したのであつた。この感動と感謝とは、既に十数年を経過した今日といへども毫も変るところがない。

      ○

 集の名「つゆじも」といふのは、この一巻の内容が主として長崎晩期の心にかよふと思ひ、かく命名したのであつた。併し、万葉に、露霜乃消去之如久ツユジモノケヌルガゴトク露霜之過麻之爾家礼ツユジモノスギマシニケレなどの如く、無常悲哀を暗指するやうだから、歌集の名としてはどうかしらんと云つて呉れた友もゐたが、『露霜乃ツユシモノ消安我身ケヤスキワガミ雖老オイヌトモ又若反マタヲチカヘリ君乎思将待キミヲシマタム』(万葉巻十二)といふ歌もあるから、大体この名にしておかうと答へたのであつた。また私のこの集を予告したのと前後して、某氏の遺稿に、「つゆじも」といふのが出でて、かたがた自分もどうしようかとおもつたのであるが、やはり最初の心にこだはつてこの名を存することとしたのである。

      ○

 この歌集は昭和十五年の夏に編輯した。自分の歌集は「寒雲」以来新しい方から逆に発行しようと企てたから、本集の発行はいつになるか明瞭ではないが、兎も角、ほかの歌集を整理したついでに整理して置くのである。(以上昭和十五年八月記)

      ○

 昭和十八年夏、横浜の佐伯藤之助氏が、私が大正七年八月七日長崎で書いた左の短冊を示された。

長崎に来てより百日ももか過ぎゆきてあはれと思ふからたちの花

      ○

 ついで昭和十八年十二月六日、長崎の森路匇平氏が左のごとくに通信せられた。

大正十年一月二十三日、長崎市酒屋町松楽にて斎藤先生送別小宴を催す。会するもの、斎藤茂吉、広田寒山の両先生、大久保日吐男(仁男)、前田毅、大塚九二生並に高谷寛(森路匇平)、斎藤先生に左の即吟あり

うつしみは悲しけれどもおのづから行かなかたみにおもひいでつつ

この家に酒に乱れゑひて人は居りとも我等の心にさやらぬしづけさ

をみな等のさやぎのひまに聞ゆるはあられ降りつつあはれなる音

女等のさやぎのひまに聞ゆるは霰のたまるさ夜の音かな

寺まちの南のやまの黒々とつひに更けつつあられ降る音

      ○

 昭和二十年九月、山形県金瓶在住中、熱海磯八荘なる永見徳太郎(夏汀)氏より来書、米軍の用ゐた原子爆弾の惨害を報ずると共に、大正九年予がのこした次の三首を報じた。

長崎の永見夏汀が愛で持ちしわにの卵をわれは忘れず

南京なんきんあつものを我に食はしめし夏汀がつまは美しきかな

しづかなる夏汀が家のこの部屋に我しばしば百穂ひやくすゐ

      ○

 大正七年は自分の三十七歳の年に当るから、本集の歌は殆どすべて三十七歳から四十歳に至るあひだに作つたものといふことになる。また、本集の歌数は、本文中に六百九十七首、後記中に九首あるから、合算すれば七百六首といふことになる。(以上昭和二十年九月記)

      ○

 本歌集の発行は岩波茂雄、布川角左衛門、佐藤佐太郎、中山武雄、榎本順行諸氏の厚き御世話になりました。私は三月から病気になり今なほ臥床中でありますが、その間岩波茂雄氏の急逝にあひ、悲歎限りありません。(昭和二十一年五月廿九日、大石田にて、斎藤茂吉記。)

底本:「歌集 つゆじも」短歌新聞社文庫、短歌新聞社

   2004(平成16)年76日初版発行

   2007(平成19)年910日再版発行

底本の親本:「歌集 つゆじも」岩波書店

   1946(昭和21)年830

※「寛済」と「寛濟」、「ピナテル」と「ピナテール」の混在は、底本通りです。

※誤植を疑った箇所を、「齋藤茂吉全集 第一卷」岩波書店の表記にそって、あらためました。

※片仮名の拗音、促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。

入力:光森裕樹

校正:のぶい

2018年28日作成

青空文庫作成ファイル:

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