つゆじも
斎藤茂吉
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大正七年
大正八年
大正六年十二月二十五日東京青山茂吉宅に於て
わが住める家のいらかの白霜を見ずて行かむ日近づきにけり
うつり来しいへの畳のにほひさへ心がなしく起臥しにけり
据風呂を買ひに行きつつこよひまた買はず帰り来て寂しく眠る
東京にのこし来しをさなごの茂太もおほきくなりにつらむか
かりずみのねむりは浅くさめしかば外面の道に雨降りをるかな
聖福寺の鐘の音ちかしかさなれる家の甍を越えつつ聞こゆ
ゆふぐれて浦上村をわが来ればかはず鳴くなり谷に満ちつつ
電灯にむれとべる羽蟻おのづから羽をおとして畳をありく
うなじたれて道いそぎつつこよひごろ蛍を買ひにゆかむとおもへり
灰いろの海鳥むれし田中には朝日のひかりすがしくさせり
とほく来てひとり寂しむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り
陸奥に友は死につつまたたきのひまもとどまらぬ日の光かなや
われつひに和に生きざらむとおもへども何にこのごろ友つぎつぎに死す
おもかげに立ちくる友を悲しめりせまき湯あみどに目をつむりつつ
かりずみの家に起きふしをりふしの妻のほしいままをわれは寂しむ
うつしみはつひに悲しとおもへども迫り来ひとのいのちの悲しさ
むし暑き家のとのもに降る雨のひびきの鋭さわれやつかれし
長崎の石だたみ道いつしかも日のいろ強く夏さりにけり
仮住の家の二階にひとりゐるわがまぢかくに蚊は飛びそめぬ
わが家の石垣に生ふる虎耳草その葉かげより蚊は出でにけり
すぢ向ひの家に大工の夜為事の長崎訛きくはさびしも
大正七年十一月十一日於斎藤茂吉宅 題「夜」
はやり風をおそれいましめてしぐれ来し浅夜の床に一人寝にけり
豊栄といや新らしくなり成れる国見をせすといでましたまふ
かけまくもあやにかしこし年古れる長崎のうみに御艦はてたまふ
百千代と祝ぎてとどろく大砲に応へとよもす春の群山
み民等の祝ぎて呼ぶこゑとりよろふ港の天にとほらざらめや
港をよろふ山の若葉に光さしあはれ静かなるこのゆく春や
長崎は石だたみ道ヴェネチアの古りし小路のごととこそ聞け
おのづからきこゆる音の清しさよ春の山よりながれくる水
はりつめて事に従はむと思へどもあはれこのごろは痛々しかり
よわよわと幽かなりともはからひの濁りあらすなわれの世過に
長崎同人小集を土橋青村宅に開く
こほろぎの鳴けるひと夜の歌がたり乱れたる心しましなごみぬ
長崎に来てよりあはれなる歌なきをわれにな問ひそ寂しきものを
白たへのさるすべりの花散りをりて仏の寺の日の光はや
中町の天主堂の鐘ちかく聞き二たびの夏過ぎむとすらし
ヘンドリク・ドウフの妻は長崎の婦にてすなはち道富丈吉生みき
浦上天主堂無元罪サンタマリアの殿堂あるひは単純に御堂とぞいふ
外国よりわたり来れる霊父らも「昼夜勤労」ここにみまかりぬ
独逸潜航艇を観る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人の靴のごとある」。夕べ新地の四海楼を訪ふ
長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇にわれ出入りつ
四海楼に陳玉といふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり来
猶太紀元五千六百八〇年その新年のけふに会へりき
満州よりここに来れる若者は叫びて泣くも卓にすがりて
長崎の商人としてゐる Lessner も Cohn も耀く法服を著つ
平戸行。平戸丸や旅館。小国李花に会ふ。崎方町阿蘭陀塀、阿蘭井戸、亀甲城址、亀岡神社等
阿蘭陀の商人たちは自らの生業のためにこれを遺しき
あはれなる物語さへありけむを人は過ぎつつよすがだになし
われは見つ肥前平戸の年ふりし神楽の舞を海わたり来て
巡業に来ゐる出羽嶽わが家にチャンポン食ひぬ不足もいはず
南蛮絵の渡来も花粉の飛びてくる趣なしていつしかにあり
光源寺にて曉烏敏師の説教を聴き、のち鳴滝シイボルト遺跡を訪ふ
この址にいろいろの樹あり竹林に冬の蠅の飛ぶ音のする
司馬江漢画を観る、「天明戊申冬日於崎陽梧真寺謹写司馬峻」
江漢が此処に来りて心こめし色をし見なむ雲中観音図
隠元の八十一歳の筆といふ老いし聖の面しおもほゆ
十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ
四歳の茂太をつれて大浦の洋食くひに今宵は来たり
はやり風はげしくなりし長崎の夜寒をわが子外に行かしめず
寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰へぬ長崎の年暮れむとす
東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より発熱、臥床をつづく
はやりかぜ一年おそれ過ぎ来しが吾は臥りて現ともなし
朝な朝な正信偈よむ稚児ら親あらなくにこゑ楽しかり
わが病やうやく癒えて心に染む朝の経よむ稚等のこゑ
対岸の造船所より聞こえくる鉄の響は遠あらしのごとし
鉄を打つ音遠暴風のごとくにてこよひまた聞く夜のふくるまで
東京より来にしをさなご夕ごとに吾をむかへてこゑを挙ぐるも
長崎のしづかなるみ寺に我ぞ来し蟇が鳴けるかな外の池にて
外のもにて魚が跳ねたり時のまの魚跳ねし音寂しかりけれ
藤浪の花は長しと君はいふ夜の色いよよ深くなりつつ
君死にしよりまる一年になるといふ五月はじめに君死にしかも
このみ寺は山ゆゑ夜のしづかなる林の中に鷺啼きにけり
山のみ寺のゆふぐれ見ればはつはつに水銀いろの港見えつも
ここのみ寺より目したに見ゆる唐寺の門の甍も暮れゆかむとす
大槻如電翁を迎へ瓊林館にて食を共にす。会者古賀十二郎、武藤長蔵、永山時英、奥田啓市の諸氏及び予
シイボルトを中心とせるのみならずなほ洋学の源とほし
西坂を伴天連不浄の地といひて言継ぎにけり悲しくもあるか
おもほえず長崎に来て豊けき君がこころに親しみにけり
長崎のいにし古ごと明らむる君ぞたふときあはれたふとき
「慶長十年にはじめて南蛮より種をつたへて長崎桜馬場にこれをうゆる」(近代世事談、金糸烟、烟草)
ささやけき薬草の一つとおもへども烟草のみしよりすでに幾とせ
武藤長蔵教授より大阪天主公教会の公教会月報を借覧しぬ
大音寺の樟の太樹を見てかへり公教会報の歌を写すも
萱草の花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ
ひとり西坂を行く。石塔「南無妙法蓮華経安永五丙申歳四月廿八日」石標「天下之死刑場ノ馬込千人埋タル法塔様誰方モ参リ被下度」「長崎市東中町中島ノイ建」
長崎の麦の秋なるくもり日にわれひとりこそこころ安けれ
畠より烟がしろく立てる見ゆ麦刈る秋となりにけるかも
六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今日県立病院に入院す。西二病棟七号室なり。菅沼教授来診
病ある人いくたりかこの室を出入りにけむ壁は厚しも
ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの声も聞こゆる
闇深きに蟋蟀鳴けり聞き居れど病人吾は心しづかにあらな
血いづ。腎結核にて入院中の大久保仁男来りて予の病を問ふ
わが心あらしの和ぎたらむがごとし寝所に居りて水飲みにけり
くらやみに向ひてわれは目を開きぬ限もあらぬものの寂けさ
若き友ひとり傍に来つつ居りこの友もつひに病を持てり
あらくさの繁れる見ればいけるがに地息のぼりて青き香ぞする
午すぎごろわが病室の入口に鶉の卵売りに来りぬ
ゆふぐれの泰山木の白花はわれのなげきをおほふがごとし
わが家の狭き中庭を照らしつつかげり行く光を愛しみにけり
ひと坪ほどの中庭のせまきにもいのち闘ふ昆虫が居り
年わかき内科医君は日ごと来てわが静脈に薬入れゆく
長崎に来りて四年の夏ふけむ白さるすべり咲くは未か
長崎の暑き日に君は来りたり涙しながるわがまなこより
よしゑやしつひの命と過ぎむとも友のこころを空しからしむな
大正九年七月二十六日、島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる。
この道は山峡ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ
この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越しになりにつらむか
赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道をおりて行きしが
草むらのかなしき花よわれ病みし生やしなふ山の草むら
みちのくに稚くしてかなしみし釣鐘草の花を摘みたり
うつせみの命を愛しみ地響きて湯いづる山にわれは来にけり
温泉にのぼり来りて吾は居り常なきかなや雲光さへ
温泉のむらを離れてほのぐらき谿の中にて水の音ぞする
谿ふかくくだる道見ゆあまつ日の照ることもなき谿にかあらむ
千々和灘にむかひて低く幾つ谷息づくごとし山のうねりは
高々と山のうへより目守るとき天草の灘雲とぢにけり
きぞの朝友の行きたるこの道に日は当り居り見つつ恋しむ
家いでて来にしたひらに青膚の温泉嶽の道見ゆるかな
小鳥らのいかに睦みてありぬべき夏青山に我はちかづく
山の根の木立くろくして静けきを家いで来つつ恋ふることあり
羊歯のしげり吾をめぐりてありしかば寒蝉ひとつ近くに鳴きつ
たまたまは咳の音きこえつつ山の深きに木こる人あり
臥処にて身を寂しみしわれに見ゆ山の背並のうねりてゆくが
あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま暗く遠やま明し
夏の日の牧の高原しづまりて温泉の山暮れゆくを見たり
遠風のいまだ聞こゆる高原に夕さりくれば馬むれにけり
水光ななめにぞなる高原に群れたる馬ぞ走ることなき
松かぜの音は遠くに近くにも聞こえくるころ吾は行くなり
合歓の花ひくく匂ひてありたるを手折らむとする心利もなし
あまつ日は既にのぼりて向山に晩蝉鳴けどここには鳴かず
行きずりの道のべにして茱萸の実ははつかに紅し紅極まらなむ
赤土の道より黒土の坂となり往くも反るも心にぞ留む
湯いづる山の月の光は隈なくて枕べにおきししろがねの時計を照らす
長崎に二年居りて聞かざりし暁がたの蝉のもろごゑ
まくらべに時計と手帳置きたるにいまだ射しくるあけがたの月
起きいでて畳のうへに立ちにけりはるかに月は傾きにつつ
山の上にひとときに鳴くあかときの寒蝉聞けば蟋蟀に似たり
あかつきのさ霧に濡れてかすかなる虫捕ぐさの咲けるこのやま
寂しさに堪ふる寝所に明暮れし吾にせまりて青き山々
温泉の別所の奥は遠く来し西洋人もまじりて住めり
木もれ日はしめれる土の一ところ微かなる虫の遊ばむとする
谿水のながるる音も巌かげになりて聞こえぬこのひと時を
牛ふたつ林のなかに来り居りきのふも此処に来りてゐしか
あまつ日はからくれなゐに山に落つその麓なる海は見えぬに
露西亜よりのがれ来れる童子らもはざまの滝に水あみにけり
幾重なる山のはざまに滝のあり切支丹宗の歴史を持ちて
深き峡南ひらきておち激つ滝のゆくへを吾はおもひき
この山に湧きいだしたる幾泉あひ寄り峡の底ひに落激つ
安息をおもひて心みだれざりふもとの山に紅き日かたむく
落つる日の夕かがやきはこの山の平に居りてしばしだに見む
あかつきはいまだ暗きにこの山にむらがりて鳴く蜩のこゑ
たぎり湧く湯のとどろきを聞きながらこの石原に一日すぐしぬ
温泉が嶽に十日こもれど我が咽のすがすがしからぬを一人さびしむ
水激ちけむ因縁も知らずあしびきの山の奥より石原の見ゆ
ひぐらしは山の奥がに鳴き居りて近くは鳴かず日照る近山
かなかなの山ごもり鳴くは蟋蟀のあはれに似たりひとり聞くとき
けふもまた山泉なる砂のべに居るかな病める咽を愛しみて
谿のうへの樹を吹く風は強くしてわが居る石のほとりしづけし
雨はれし後の谿水いたいたしきのふも今日も赭く色づき走る
この山に鴉すくなしゆふぐれて小鴉一つ地におりたつ
山かげの楢の木原の下枝にも山蚕が居りて鳥知らざらむ
大き石むらがれる谿の水のべに心しづかになりにけるかも
わがあゆむ山の細道に片よりに薊しげれば小林なすも
山なみの此処にあひ迫る深谿を見おろすときに心落ちゐず
しばしして吾が立向ふ温泉の妙見が嶽の雲のかがやき
長崎をふりさけむとするベンチには露西亜文字など人名きざめり
多良嶽とあひむかふとき温泉の秋立つ山にころもひるがへる
吾が憩ふひとついただきに漆の木いまだ小さく人かへりみず
めぐりつつ岨をし来れば島山と天草の海ひらけたり見ゆ
なぎさには白浪の寄るところ見えこの高きより見らくしよしも
ものなべて秋にしむかふ広河原の水のほとりに馬居り走らず
山かげに今日も聞ければ晩蝉は秋蟋蟀の寂しさに似つ
やまかがし草に入りゆくに足とどむ額の汗を拭きつつ吾は
石原に来り黙せばわが生石のうへ過ぎし雲のかげにひとし
小さなる螇蚸のたぐひ跳ねゆきぬ水涸れをりて白き石はら
曼珠沙華咲くべくなりて石原へおり来む道のほとりに咲きぬ
けふ一日雲のうごきのありありて石原のうへに眩暈をおぼゆ
音たてて硫黄ふきいづるところより近き木立に山蚕ゐるなり
この山を吾あゆむとき長崎の真昼の砲を聞きつつあはれ
絹笠の峰ちかくして長崎の真昼を告ぐる砲の音きこゆ
ふか山のみづうみに来てぬばたまの黒き牛等は水飲みにけり
山はらを貫きめぐる道ありて馬駈けゆくがをりをりに見ゆ
山谿が幾重の山の中ごもり南の流ここゆ出でむか
見おろして吾居る谿の石のべに没日の光さすところあり
理由もなきわが歩み谿底は既にくらきに水の音すも
わたつみに日は入りぬらむとおもほゆる夕映とほしこころにぞ染む
くらくなりし山を流るる深谿の水の音きけば絶えざるかなや
谿底を流るるみづは今ゆ後くらきを流れ音のかなしさ
わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり
闇空に羽鳴らして虫飛びゆけり峠につかれて我あゆむとき
夕映の赤きを見れば凡のものとしもなし山のうへにて
谷底にくだり来にけり独り言も今はいはなくに眼をつむる
昼ちかきころほひならむと四五歩ゆき山谿みづに眼をあらふ
みづ越えてなほし行くときうづたかき落葉のにほひその落葉はや
谷底の石間くぐりてゆく水に魚住みをりて見ゆるかなしさ
この谿をおほへる樹々のしげり葉を照らす光よともしむわれは
青々と樹々の葉てらす天つ日はいま谷底の石をてらさず
かすかなる水のながれとおもへども夕さりくればその音さびし
石苔にわが出したる唾のべに来りて去らぬ羽虫あはれむ
この狭間を強き水激ち流れけむ石むらがりて横たふ見れば
苔あをく羊歯のしげれる石群を山ゆく水は常濡らしけり
石のひまくぐり流るる谷の水ききつつ吾は一日ここにゐる
みなかみにのぼりてゆけば水の道落葉が下に隠ろひにけり
石のまゆ常湧きにして音たつるいづみの水をあはれ一人見つ
おのづから水ながれたる沢越えて青山見ゆるところまで来し
しづかなる一日を経むと山水のながるる谿に吾は来にけり
山みづのながるる音の親しさにわれは来りて言さへいはず
山道をゆけばなつかし真夏さへ冷たき谷の道はなつかし
傾きつつ太木しげれるきりぎしのその下のべの水光見む
みづ流るる谷底いでて木漏日の寂しき道を帰り来るなり
けふもまたしづかに経むと夏山の青きがなかに入りつつぞ居る
しらじらと巌間を伝ふかすかなる水をあはれと思ひ居るかも
山みづの源どころの土踏める馬の蹄のあとも好きかも
石の上吹きくる風はつめたくて石のうへにて眠りもよほす
くだり来し谷際にして一時を白くちひさき太陽を見し
吾が憩ふ観音堂に楽書あり Wixon, Nicol, Spark 等の名よ
谷底を日は照らしたり谷そこにふかき落葉の朽ちし色はや
谷かげに今日も来にけり山みづのおのづからなる音きこえつつ
魚の子はかすかなるものかものおそれしつつ泉の水なかにゐる
妙見へ雨乞にのぼり来し人らこの谿のみづ口づけ飲めり
午前三時、高谷寛、大橋松平、前田徳八郎等普賢嶽にのぼりぬ。おのれ宿にのこりて、朝食ののち林中を歩く
向山のむら立つ杉生ときをりに鴉の連の飛びゆくところ
おのづから夏ふけぬらし温泉の山の蚕も繭ごもりして
久保(猪之吉)博士予を診察したまふ。また夫人より菓子を贈らる
ジュネーヴのアスカナシイの業績を語りたまひて和に日は暮る
この山に君は来りて昆虫の卵あつむと聞くが親しさ
わが病診たまひしかど朗らにていませばか吾の心は和ぎぬ
温平の温泉の話もしたまひて君がねもごろ吾は忘れず
万屋に吾を訪ひまし物語るよりえ夫人は長塚節のこと
八月十四日、温泉嶽を発ちて長崎に帰りぬ。病いまだ癒えず。十六日抜歯、日毎に歯科医にかよふ。十九日諏訪公園逍遥。温泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき
長崎に帰り来りてむしばめるわが歯を除りぬ命を愛しみ
暑かりし日を寝処より起き来しが向ひの山は蒼く暮れむとす
公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな
温泉より吾はかへりて暑き日を歯科医に通ふ心しづかに
のぼり来し福済禅寺の石だたみそよげる小草とおのれ一人と
石のひまに生ひてかすかなる草のありわれ病みをれば心かなしゑ
長崎の午の大砲中町の天主堂の鐘ここの禅寺の鐘
福済寺にわれ居り見ればくれなゐに街の処々に百日紅のはな
ものなべて過ぎゆかむもの現身はしづかに生きてありなむ吾よ
みづからの此身よあはれしひたぐることなく終の日にも許さな
しづかなる吾の臥処にうす青き草かげろふは飛びて来にけり
精霊をながす日来り港には人みちをれどわれは臥し居り
たらちねの母の乳房にすがりゐる富子をみれば心は和ぎぬ
山たかく河大いなる国原に生れしをさなごことほぐわれは
とほくゐて汝がうつしゑを見るときは心をどらむほども嬉しゑ
午前八時十五分長崎発、午後一時三十五分久保田発、午後三時十五分唐津著、木村屋旅館投宿。高谷寛共に行きぬ
五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは
肥前なる唐津の浜にやどりして唖のごとくに明暮れむとす
海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯の砂のかなしさ
潮鳴り夜もすがら聞きて目ざむれば果敢なきがごとしわが明日さへや
城址にのぼり来りて蹲むとき石垣にてる月のかげの明るさ
砂浜に古りて刑死の墓のありいかなる深き罪となりにし
満島にわたりて遊ぶ人等ゆく月に照らされ吾等もい往く
日もすがら砂原に来て黙せりき海風つよく我身に吹くも
飯の中にまじれる砂を気にしつつ海辺の宿に明暮れにけり
はるかなる独り旅路の果てにして壱岐の夜寒に曾良は死にけり
命はてしひとり旅こそ哀れなれ元禄の代の曾良の旅路は
朝鮮に近く果てたる曾良の身の悲しきかなや独りしおもへば
朝のなぎさに眼つむりてやはらかき天つ光に照らされにけり
この病癒えしめたまへ朝日子の光よ赤く照らす光よ
唐津の浜に居りつつ城跡の年ふりし樹を幾たびか見む
砂浜にしづまり居れば海を吹く風ひむがしになりにけるかも
孤独なるもののごとくに目のまへの日に照らされし砂に蠅居り
日の入りし雲をうつせる西の海はあかがねいろにかがやきにけり
松浦河月あかくして人の世のかなしみさへも隠さふべしや
隣り間に男女の語らふをあな嫉ましと言ひてはならず
いつくしく虹たちにけりあはれあはれ戯れのごとくおもほゆるかも
日を継ぎてわれの病をおもへれば浜のまさごも生なからめや
わがまへの砂をほりつつ蜘蛛はこぶ蜂のおこなひ見らくしかなし
わたつみを吹きしく風はいたいたしいづべの山にふたたび入らむ
わが友はわが枕べにすわり居り訣れむとして涙をおとす
午前九時五十六分唐津発、十二時半佐賀駅にて高谷寛と訣ををしむ。軌道、人力車に乗り、ゆふぐれ小城郡古湯温泉に著きぬ
ねもごろに吾の病を看護してここの海べに幾夜か寝つる
わがためにここまで附きて離れざる君をおもへば涙しながる
わたつみの海を離れて山がはの源のぼりわれ行かむとす
うつせみの病やしなふ寂しさは川上川のみなもとどころ
ほとほとにぬるき温泉を浴むるまも君が情を忘れておもへや
遠雲の遠きまにまに近雲の近きまにまにかりがねはあひ呼びわたれ羽おとさへ聞ゆるまでに
川きよき佐賀のあがたの川のべに吾はこもりて人に知らゆな
蟷螂が蜂を食ひをるいたましさはじめて見たり佐賀の山べに
日の光浴みて川べの石に居り赤蜻蛉等ははやも飛びつつ
われひとりうらぶれ来れば山川の水の激ちも心にぞ沁む
この川の向ひの岸に白々と咲きそめたるは何の花ぞも
浅山をわれはわたりて谷水の砂ながるるを今ぞ見てゐる
杉の樹に紅きあぶらの滲みづるををさなごの時のごとく愛しむ
曼珠沙華むらがり咲けりこの花の咲くべくなりて未だし籠る
山がはの石のほとりに身を寄せて日の光浴む病癒えむか
山がはの水の香のする時にしみじみとして秋風ふきぬ
黄櫨もみぢこの山本にさやかにて慌しくも秋は深まむ
いつしかに生れてゐたる蝗等はわが行くときに逃ぐる音たつ
風ひきて一日臥したりわが部屋のなげしわたらふ蛇ひとつ
この家に急に病みたる一人ありわれは手当す夜半過ぎしころ
旅とほき佐賀の山べの村祭り相撲のきほひ吾は来て見つ
秋さりし山といへども蒸暑く雲のほびこり低くなり来も
東京に子規忌歌会のある日ぞとおもひて吾は川辺往くも
やうやくに秋のふかまむ山の峡朝の雷鳴りとどろけり
けふの昼雷鳴りし雲そきゆきて秋の夜の月のぼらむとする
けふもまた山に入り来て樹の下に銀杏ひろふ遊ぶがごとく
病みながら秋のはざまに起臥してけふも噛みたる飯の石あはれ
此処に来て蛇のあまたを見たりけり常日ごろ蛇をおそれてゐしが
親しかる心になりて此里のまだ金つかぬ栗の実を買ふ
烟草やめてより日を経たりしがけふの暁がた烟草のむ夢視つ
みづからの生愛しまむ日を経つつ川上がはに月照りにけり
秋づきて寂けき山の細川にまさご流れてやむときなしも
みづ清き川上がはに住む魚のエダを食したり昼のかれひに
胡桃の実まだやはらかき頃にしてわれの病は癒えゆくらむか
川のべに蜂むらがるを恐れつつ幾たび此処をとほり行きけむ
秋水をわきて悲しとおもはねど深き狭間に見るべかりけり
向山に朝ひかり差しそめしかば谷もあらはになりにけるかも
早稲の香はみぎりひだりにほのかにて小城のこほりの道をわれゆく
ゆくりなく見つつわがゐる青栗は近き電灯に照らされゐたり
曼珠沙華咲きつづきたる川のべをわれ去りなむか病癒えつつ
小野五平翁九十一歳にて身まかりぬ気根つめつつ長命したり
旅ゆきつつ勝負をしたるつよき逸話この翁にはめづらしからず
君死せりとふしらせを我は山深く狭間に居りて聞けるさびしさ
ありし日を思ひいでなむ世の相の悲しき歌を君はうたひし
きびしかりし労働の歌いくつかが人の心にかがやかむかも
長崎にかへり来りて友を見つ遠のめづらの心かなしも
校長にも会ひに行きたりおのづから低きこゑにて病を語る
われ病みて旅に起臥しありしかば諏訪の祭にけふ逢ひにける
心しづめて部屋にし居れば衢より神の祭りの笛の音きこゆ
わが部屋に書を重ねて旅行きしが書を持てれば手の痕つくも
長崎の港見おろすこの岡に君も病めれば息づきのぼる
西彼杵郡西浦上木場郷六枚板の金湯にいたる。浴泉静養せむためなり
浦上の奥に来にけりはざまより流れ来る川をあはれに思ひて
クルスある墓を見ながら通り来し浦上道を何時かかへりみむ
日もすがら朽葉の香する湯をあみて心しづめむ自らのため
僂麻質斯病みをる媼等にあひ交り日ねもす多く言ふこともなし
朝な朝な同じ頃あひに稲田道児らは走りて学校へ行く
道のべに赤楝蛇多きをおどろきつつ西浦上をもとほりて来も
山のべにひそむがごとき切支丹の貧しき村もわれは見たりき
かかる墓もあはれなりけり「ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳」
「ドナメ松下ヒサ墓行年九十二歳」信者にて世を終へしものなり
信徒のため宝盒抄略といふ書物御堂の中にぽつりとありぬ
小さなる御堂にのぼり散在する信者の家を見つつしゐたり
この宿に島原ゆ来し少女居りわがために夕べ洋灯を運ぶ
油煙たつランプともして山家集を吾は読み居り物音たえつ
この家の主人わざわざ長崎に買ひたる刺身を吾に食はしむ
ここ越えてゆかば長崎の西山にいづるらむとて暫く歩く
ひらけたる谷にむかひて長崎の港のかたをおもひつつ居り
十月十五日、六枚板発。少女予の荷を負ふ。午前十時四十分長与発、午後一時小浜著、柳川屋旅館に投ず。学生立石源治静養に来居るに会ふ
朝なさな船の太笛聞きしより山峡のこともわきて思はず
土手かげに二人来りて光浴む一人はわれの教ふる学生
覇王樹のくれなゐの花海のべの光をうけて気を発し居り
砂浜に外人ひとりところがりて戯れ遊ぶ日本のをみな
塩はゆき温泉を浴みてこよひ寝む病癒むとおもふたまゆら
鴎等はためらひもなく今ぞ飛ぶ嫉くしおもふ現身われは
日本舟にひるがへりゐる旗見つつその伝承をかたみに語る
長崎の茂木の港にかよふ船ふとぶとと汽笛を吹きいだしたり
入りつ日の紅き光のゆらぐとき磯鵯のこゑもこそ聞け
日だまりにけふも来りぬ行末のことをおもはば悲しからむぞ
ここに来て落日を見るを常とせり海の落日も忘れざるべし
小浜なる森芳泰来わがための心づくしを永くおもはむ
温泉の山のふもとの塩の湯のたゆることなく吾は讃へむ
旅にして彼杵神社の境内に遊楽相撲見ればたのしも
祐徳院稲荷にも吾等まうでたり遠く旅来しことを語りて
嬉野の旅のやどりに中林梧竹翁の手ふるひし書よ
この山を越えて進みし大隊が演習やめて一夜湯浴みす
透きとほるいで湯の中にこもごもの思ひまつはり限りもなしも
この村の小さき社の森に来て黙すことあれど心足らはず
わが病やうやく癒えぬとおもふまで嬉野の山秋ふけむとす
十月二十六日。午前八時四十分嬉野発、十時四十三分彼杵発、十二時半長崎著
病院のわが部屋に来て水道のあかく出で来るを寂しみゐたり
武藤長蔵教授より大浦天主堂に聖体降福式あることを知らせありしかど、身をいたはりてまゐらず
けふ一日腹をいためて臥しをれば聖きまとゐに行きがてなくに
長尾寛済十月八日東京にて没す行年四十、東京巣鴨真性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき
長崎に心しづめて居るときに永遠の悲しみ聞かむと思ひきや
浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や
黄檗の傑れし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ
赤く塗りし大き木の魚かかりゐる僧等の飯のときに打つべく
扁額に海不揚波の四つの文字おごそかにしも年ふりにける
年々ににほふうつつの秋草につゆじも降りてさびにけるかも
石垣のほとりに居れば過ぎし世のことも偲ばゆよみがへるはや
もろ人が此処に競ひて学びつるその時おもほゆ井戸をし見れば
芭蕉葉もやうやく破れて秋ふけぬと思ふばかりに物ひそかなり
洋学の東漸ここに定まりて青年の徒はなべて競ひき
柿落葉色うつくしく散りしきぬ出島人等も来て愛でけむか
鳴滝の激ちの音を聞きつつぞ西洋の学に日々目ざめけむ
深崇寺に栗崎道喜の墓を訪ふ顕耀院道喜正元居士
祭も過ぎて照らす日の光しづかなる長崎の山いろづきにけり
くれぐれの家に石蕗の黄の花はわれとひととを招ぐに似たり
浦上の女つらなり荷を運ぶそのかけごゑは此処まで聞こゆ
白く光るクロスの立てる丘のうへ人ゆくときに大きく見えつ
浦上の女等の生活異りて西方のくにの歎きもぞする
長崎の人等もなべてクロス山と名づけていまに見つつ経たりき
斜なる畠の上にてはたらける浦上人等のその鍬ひかる
牛の背に畠つものをば負はしめぬ浦上人は世の唄うたはず
黄櫨もみぢこきくれなゐにならむとすクロス山より吹く夕風
モリソン文庫明恵上人の歌集をば少しく読みて吾ものおもふ
西比列亜よりおくりこされし俘虜あまた町にむらがるきのふも今日も
大浦の道のほとりにルーヴルの紙幣を売ると俘虜は佇む
チエッコへ帰らむとする捕虜ひとり山の石かげに自殺をしたり
寺町の墓のほとりにもかたまりてチエッコの俘虜は時を費す
親しかる友をむかへて身の上のことも語りぬ夜のふくるまで
このとし秋より冬にかけ折にふれて作りたる歌、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞に公にせり
真日あかく港の西に落ちゆきて今しみじみと夕映えにけり
港より太笛鳴れるひまさへや我が足もとに蟋蟀のこゑ
みち足らはざる心をもちて入日さす切支丹坂をくだり来にけり
塩おひてひむがしの山こゆる牛まだ幾ほども行かざるを見し
山かげの大根の畑に日もすがら光あたるを見るはさびしも
港をよろふ山の棚畑に人居りて今しがた昼飯を食ひたるらしき
雨はれし港はつひに水銀のしづかなるいろに夕ぐれにけり
友二人もつひに帰りぬはりつめし心ゆるみて水を飲むなり
支那街のきたなき家に我の食ふ黒き皮卵もかりそめならず
夏の初めより病に罹り居りしかど癒えて白霜の降りたるを見つ
君が業務は忙しからむ然れども張りつむる心を守り居らむか
長崎の港を見れば我がこころ和みしづまるをあやしと思ふな
セミョノフの砲艦ひとつ泊てゐるを背向にしつつ我は急げり
病いえてここに来りぬ目のもとの落葉のしづかさを独ゆかむか
長崎にも霜ふりにけりありふれしもののあはれと我は思はず
さむき雨長崎の山にも降りそそぐ冬の最中となるにやあらむ
ものぐるひの被害妄想の心さへ悲しきかなや冬になりつつ
ウンガルンの俘虜むらがりて長崎の街を歩くに赤く入日す
あはれとも君は見ざらむ寺まちの高き石垣にさむき雨かな
みちのくの仙台よりおくりくれしてふ納豆を食む心しづけさ
山上の白き十字架の見えそむる浦上道は霜どけにけり
豆もやしと氷豆腐を買ひ来つつ汁つくらむと心いそげり
長崎の港の岸をあゆみゐるピナテールこそあはれなりしか
うらがなしき夕なれどもピナテールが寝所おもひて心なごまむ
午前武藤長蔵教授、三上知治画伯と共に大浦天主堂を訪ひ、午後ピナテール(Pignatel)翁を訪ふ
寝所には括枕のかたはらに朱の筥枕置きつつあはれ
冬の雨ふるけふをしも Pignatel が家をたづねて身にし染むもの
年老いてただひとりなるピナテール寂かなるごとくなほも起臥す
このやまひ癒したまへと山川をゆきゆきし歳の暮となりぬる
長崎を去る日やうやく近づけば小さなる論文に心をこめつ
クリスマスの長崎の御堂に入ることも二たびをせむ吾ならなくに
暮れの年妻ともに身をいたはりて筑紫のくにの旅ゆかむとす
ひむがしの峠を越ゆる牛ひとつ歩みしづかなるをわれは見にけり
くもり日の港をいでてゆく船はかなしきかなやけむりあげつつ
大正九年十二月三十日長崎発、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。
大正十年一月一日、林温泉より鹿児島に至る。一泊
秀頼が五歳のときに書きし文字いまに残りてわれも崇む
熊本のあがたより遠く見はるかす温泉が嶽は凡ならぬやま
光よりそともになれる温泉の山腹にして雲ぞひそめる
球磨川の岸に群れゐて遊べるはここの狭間に生れし子等ぞ
みぎはには冬草いまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる
青々と水綿ゆらぐ川のべにわれはおりたつ冬といへども
一月の冬の真中にくろぐろと蝌蚪はかたまるあはれ
白髪岳市房山もふりさけて薩摩ざかひを汽車は行くなり
大畑駅よりループ線となり矢嶽越す隧道の中にてくだりとなりぬ
桜島は黒びかりしてそばだちぬ溶巌ながれしあとはおそろし
鹿児島の名所を人力車にて見てめぐり疲れてをりぬ妻と吾とは
わが友はここに居れどもあわただし使を君にやることもなし
城山にのぼり来りて劇しかりし戦のあとつぶさに聞きて去る
開聞のさやかに見ゆるこの朝け桜島のうへに雲かかりたる
大隅は山の秀つ国冬がれし山のいただき朝日さすなり
霧島は朝をすがしみおほどかに白雲かかるうごくがごとし
霧島はただに厳しここにして南風に晴れゆきしとき
宮崎の神の社にまゐり来てわれうなねつく妻もろともに
冬の雨いさごに降りてひろ前にあゆめるわれの靴の音すも
ねたましくそのこゑを聞く旅商人は行く先々に契をむすぶ
午後三時青島につき、広瀬旅館投宿、第五高等学校教師ポーター(五十四歳)滞在しゐる
打寄する浪は寂しく南なる樹々ぞ生ひたるかげふかきまで
暖き洋のながれのありてこそかかる繁りとなりにけらしも
旅館にはポーターといふ洋人もやどりて日本の酒をのむ見ゆ
青島の木立を見ればかなしかる南の洋のしげりおもほゆ
南より流れわたれる種子ひとつわが遠き代のことしぬばしむ
かすかなる光海よりのぼりくる日向のあかつきの国のいろはや
青島に一夜やどりてひむがしのくれなゐ見たりわが遠き代や
ひむがしは赤く染まりてわが覚むる日向の国のあかつきのいろ
わたつみの海につづける茜空二時にしてくもりに入りぬ
霧島はおごそかにして高原の木原を遠に雲ぞうごける
灰いろのくすしき色も日あたりてこの高山は見れども飽かず
あたらしき年のはじめを旅来しが高千穂の峰に添ふごとかりき
青井岳の駅出でてより猪の床の話を聴きつつ居たり
久留米、「寛政五癸丑年六月二十七日、生国上州新田郡細谷村、高山彦九郎正之墓」。上野旅館にてアララギ歌会。梅林寺を訪ふ
久留米なる遍照院にわれまうづ「松陰以白居士」のおくつき
神つ代のこと恋しみてしらぬひ筑紫のくにに果てし君はも
夜もすがら歌を語りて飽かなくに朝鶏が鳴く茜さすらし
九州の十一人の友よりてわれと歌はげむ夜の明くるまで
梅林寺に紫海禅林の扁額あり谷を持ちたるこの仏林よ
三生軒居室より見おろす谷まには僧一人来て松葉を掃くも
筑後川日田よりくだる白き帆も見ゆるおもむきの話をぞ聞く
観世音寺都府楼のあともわれ見たり雑談をしてもとほりながら
奥田氏送別会を栄家に開く。会者図書館談話会員、主賓のほか、永見徳太郎、増田廉吉、谷田定男、林源吉、大庭耀、水谷安嗣諸氏
くさぐさの事を思ひて尽きざるにこよひ吾等は互に酔ひつ
南の国はゆたけし朝あけて君を照らさむ天つ日のいろ
奥田啓市氏鹿児島県立図書館長として出発す。予さはりありて見おくり得ざりしことを悔ゆ
このゆふべ悔いおもへども君とほく今し去りゆく悔いてかへらず
長崎の港をよろふむら山に来向ふ春の光さしたり
ものぐるひはかなしきかなと思ふときそのものぐるひにも吾は訣れむ
長崎に来りて既にまる三年友のいくたり忘れがたかり
きびしかりしはやり風にて見近くの三たりはつひに過ぎにけらずや
そがひなる山を越えゆく矢上にも思のこりてわれ発たむとす
雪大に降、諸家に暇乞にまはる。夜茂吉送別歌会を長崎図書館に開く
長崎をわれ去りなむとあかつきの暗きにさめて心さびしむ
長崎をわれ去りゆきて船笛の長きこだまを人聞くらむか
白雪のみだれ降りつつ日は暮れて港の音も聞こえ来るかな
行春の港より鳴る船笛の長きこだまをおもひ出でなむ
三月十六日。午後十一時長崎を出発す。先輩知友多く見送らる。予長崎に居ること足掛五年、満三年三月なり。前田毅、江藤義成二君同車し、途上門司義夫君に会ふ
午前五時博多著、栄屋旅館。大学生青木義作、金子慎吾二君来る。榊、久保二教授を訪問し、耳鼻科教室精神病学教室を参観す。夜久保博士夫妻と晩餐を共にす
もろびとに訣をつげて立ちしかど夜半過ぎて心耐へがてなくに
春さむしとおもはぬ部屋に長崎の御堂の話長塚節の話
あたたかき御心こもるこの室にあまたの猫も飼はれて遊ぶ
午前九時四十二分博多発、十一時四十二分小倉著、市中を見物し、ついで延命寺に行き公園を逍遥、奇兵隊墓、名物おやき餅
春いまだ寒き小倉をわれは行く鴎外先生おもひ出して
公園の赤土のいろ奇兵隊戦死の墓延命寺の春は海潮音
午後一時小倉発、午後四時四十二分別府著、別府には大正八年夏一たび来りき。街見物、保養院長鳥潟博士訪問、博士は大学同窓也。大分共進会を見る
あたたかき海辺の街は春菊を既に売りありく霞は遠し
鳥の音も海にしば鳴く港町湯いづる町を二たび過ぎつ
三月二十日。午後二時別府より紅丸にて出航、高浜上陸、汽車にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社参拝
年ふりし道後のいでゆわが浴めばまさごの中ゆ湧きくるらしも
大洋をわれ渡らむにこの神を斎ひてゆかな妻もろともに
三月廿二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等学校に山宮・志田二教授を訪ひ、医学専門学校に荒木(蒼太郎)教授を訪ふ。市内(人力車)城、後楽園
この園に鶴はしづかに遊べればかたはらに灰色の鶴の子ひとつ
時もおかずここに攻めけむ古への戦のあと波かがやきぬ
元義がきほひて歌をよみたりし岡山五番町けふよぎりたり
岡山を発してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を食ふ。香櫨園畔の中村氏方に泊。長女良子さん(五歳)次女厚惠さん(三歳)
ひさびさに君とあひ見てわが病癒えつることをうれしみかはす
何といふ平安なるか朝よりわがまへに友のをさなご二たり
三月廿四日。大阪。大学法医学教室(中田篤郎氏)、精神病学教室(小関光尚氏)、浪速花屋碑、心斎橋通、道頓堀(文楽人形芝居)、よる森園天涙、花田大五郎、加納曉氏等も加はり晩餐。中村氏宅泊。
三月廿五日より廿七日。中村君の案内にて奈良を見る。法隆寺佐伯管長にも会ふ。雨降る。ついで大和に行き万葉の歌に関する古跡をめぐる。ゆふ京都著。藤岡旅館に入る。
三月廿八日。宇治、鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の山、塔、如意輪観音、大竹林、隠窟、臨済宗大本山天龍寺、保津川、桂川、金閣寺(鹿苑院)、大極殿(平安神宮)。藤岡旅館
いそがしき君はひねもすわがために古山川をみちびきやまず
あはれあはれ恋ふる心に沁みとほり山川ぞ見し君がなさけに
午前十時四十分京都を発ち、米原駅下車、番場蓮華寺に㝫応和尚にあひまつる。石川隆道、樋口宗太郎二氏に会ふ
ぬばたまの夜さりくれば湯豆腐をかたみに食へとのたまひにけり
夜もすがら底びえしつつありたるが暁庭に薄氷が見ゆ
この寺に㝫応和尚よろこびて焦したる湯葉をわれに食はしむ
三月三十日。米原発急行にて上京す。車中、榊、和田、小野寺の三教授にあふ。教授等は学会出席のために上京するなり。
四月一日。日本神経学会に出席し、呉秀三先生の大学教授莅職二十五年祝賀会(上野精養軒)に出席しぬ
芳渓呉秀三先生大学教授莅職二十五年賀歌竝正抒心緒謌(仏足石歌体)二十五章
長崎の港をよろふ山並に来むかふ春の光さしたりあまつ光は
長崎にわれ明暮れてとりがなくあづまの国の君をしぬびつしぬびけるかな
み冬つき来むかふ春にこころこそゆらぎてやまね導きたまふ情しぬびて
しらぬひ筑紫のはてにわれ居れどをしへの親を讃へざらめや仰がざらめや
薬師はさはにをれどもあれの師はおほかたに似ず現し世のため今の世のため
さちはひに充ち満ちにつつあれの師の君が力はいや新しもきみがいのちは
ものぐるひは哀しきかなとおもふときさびしきこころ君にこそ寄れ救ひたまはな
しきしまのやまとにしてはわが君や師のきみなれや Pinel Conolly は外くににして
霊枢に狂といふともわがどちは狂とな云ひそと宣しけるらし病むひとのため
二十年にあまる五とせになるといふみ祝のにはに差せる光や瑞のみひかり
ものぐるひをまもりたまひて年を経し君がみ髭はつひに白しもその清しさや
しろがねの髭さへひかり新幸もいよよ重ねむ君がいのちやおのづからなる
ものぐるひは悲しきものぞ護らせる君こそたふとあはれ尊きけふの尊さや
うからやから弥々さかゆる君ゆゑに新幸もかぎり知らえず祝はざらめや
長崎に来てより三とせは過ぎにけりいざ帰りなむあづまの春へ君がみもとへ
なまけつつ十年を経たりおこたりて十歳過ぎけむことをしおもふ君を祝ぎつつ
中学の四級生にてありけむか精神啓微をわれは買ひにき小川まちにて
もろもろのくるへる人のあはれなるすがたを見つつ君をおもはむ敬ひまつり
わがもてるものは貧しとおもへども狂人守りてこの世は経なむありのまにまに
をしへを受けしもろもろの人あつまりて教への親を囲むけふかも言寿ぎにつつ
うつしみの狂へるひとの哀しさをかへりみもせぬ世の人醒めよもろびと覚めよ
君がこころひろく寛けくたまかづら絶ゆることなく幸はへてあらむ若えつつあらむ
おなじ世にうまれあひたる嬉しさや教へのおやにこの敬ひをささげまつらむ
むらぎものこころ傾けことほぎの吉言まうさむ酒祝もせよ豊酒清酒に
あまつ日の光るがごとく月読の照らすがごとく常幸福にいます君かも
大正六年十二月長崎に赴任してより満三年三月余、足掛五年になりて大正十年三月帰京しぬ
東京に帰りきたりて人ごろしの新聞記事こそかなしかりけれ
閨中の秘語を心平らかに聞くごとし町の夜なかに蛙鳴きたり
長崎よりかへりてみれば銀座十字に牛は通らずなりにけるかも
さみだれの日ならべ降れば市に住む我が腎ははや衰へにけり
流行の心理は模倣憑依の概念を以て律すべからず夏の都会に
ゆたかなる春日かがよふ狂院に葦原金次郎つひに老いたり
さみだれはしぶきて降れり殺人の心きざさむ人をぞおもふ
わが心いまだ落ちゐぬにくれなゐの胡頽子を商ふ夏さりにけり
われ銀座をもとほり居りてブルドック連れし女にとほりすがへり
長崎の昼しづかなる唐寺やおもひいづれば白きさるすべりのはな
朝はやき日比谷の園に腫みたる足をぞ撫る労働びとひとり
馬に乗りて行く人のあり日がへりに玉川あたり迄行くにやあらむ
浅草の八木節さへや悲しくて都に百日あけくれにけり
ものぐるひを看護して面はればれとしてゐる女と相見つるかも
長崎にて暮らししひまに虫ばみし金槐集をあはれみにけり
さ庭べにトマトを植ゑて幽かなる花咲きたるをよろこぶ吾は
けふもまた何か気がかりになる事あり虫ばみし書いぢり居れども
このごろ又外国人を殺しし盗人あり我心あやしきを君はとがむな
畳のしたにナフタリンなどふり撒きて蚤おそれゐる吾をしぬばね
心いらだたしく風吹きし日は過ぎてかへるで赤く萌えいでにけり
亀戸の普門院なる御墓べに水青き溝いまだのこれり
月読の山はなつかし斑ら雪照れる春日に解けがてなくに
ふきいづる木々の芽いまだ調はぬみちのく山に水のみにけり
谿ふかくしろきは吾妻山なみの雪解のみづのたぎつなるらし
みちのくは春まだ寒し遠じろくはざまをいづる川のさびしさ
かなしきいろの紅や春ふけて白頭翁さける野べを来にけり
われひとりと思ふ心に居りにけりをさなき蚕すでにねむりつ
結城哀草果を率て林間の野を行く
山がひに日に照らされし田の水やものの命の幽かなりけり
みちのくのわが故里に帰り来て白頭翁を掘る春の山べに
山陰のしづかなる野に二人ゐて細く萌えたる蕨をぞ摘む
みちのくの春の光はすがしくてこの山かげにみづの音する
山かげを吾等来しかば浅水に蛭のおよぐこそ寂しかりけれ
木立よりかこまれてゐる春の小野昆虫跳ぬるだにこの平安よ
かりそめとおもふは寂し飼ひし蚕は黄いろき繭にこもりはてたり
胃腸病院に神保孝太郎博士を訪ひ、ついで入澤達吉博士の診察を受く
われひとり物おもふ室にきこえくる鈍くおもおもしき衢のおとは
けふ一日たえまなく汗が流れしと記しおかむわが病のことも
甲斐がねを汽車は走れり時のまにしらじらと川原の見えし寂しさ
しづかなる川原をもちてながれたる狭間の川をたまゆらに見し
山がひにをりをりしろく激ちつつ寂しき川がながれけるかな
ふく風はすでにつめたし八ヶ嶽のとほき裾野に汽車かかりけり
天づたふ日のかたむける信濃路や山の高原に小鴉啼けり
高原に足をとどめてまもらむか飛騨のさかひの雲ひそむ山
澄みはてていろふかき空に相寄れる富士見高原ゆふぐれにけり
あかときはいまだ暗きに目ざめゐる吾にひびきて啼く鳥のこゑ
蚊帳つりてひとりねむりしあかときの冷たきみづは歯に沁みにけり
みすずかる信濃高原の朝めざめ口そそぐ水に落葉しづめり
山ふかき林のなかのしづけさに鳥に追はれて落つる蝉あり
桔梗のむらさきの色ふかくして富士見が原に吾は来にけり
松かぜのおともこそすれ松かぜは遠くかすかになりにけるかも
谷ぞこはひえびえとして木下やみわが口笛のこだまするなり
あまつ日は松の木原のひまもりてつひに寂しき蘚苔を照せり
ともし火のもとにさびしくわれ居りて腫みたる足のばしけるかな
ひとを愛しとおもふ心のきはまりて吾に言つげし友をぞおもふ
諏訪のみづうみの泥ふかく住みしとふ蜆を食ひぬ友がなさけに
みすずかる信濃の国に足たゆく灯のもとに糠を煮にけり
高はらのしづかに暮るるよひごとにともしびに来て縋る虫あり
窓外は月のひかりに照されぬともし火を消しいざひとり寝む
しづかなる山の高原とおもへども電流に触れてひとは死にけり
月の光いまだてらさず白雲は谷べにふかく沈みたるらし
潮浴に安房の海べに行きたりしわがをさなごは眠りけむかも
夕飯をはやくしまひてこのよひは妻をおもへり何か知らねど
諏訪のうみの田螺を食へばみちのくに稚かりし日おもほゆるかも
よひとおもふにはや更けそめし山家なるこのともしびに死ぬる虫あり
うつしみは現身ゆゑに嘆かむに山がはのおともあはれなるかも
文身だらけの屍隅田川に浮きしとふ記事も身に沁む山の夜ふけに
やまふかきその谷川に住むといふやまめ岩魚を人はとり食む
八ヶ嶽の裾野のなびきはるかにて鴉かくろふ白樺の森
蓼科はかなしき山とおもひつつ松原なかに入りて来にけり
いまだ鳴きがてぬこほろぎ土のへにいでて遊べり黒きこほろぎ
秋づくといまだいはぬに生れいでて我が足もとに逃ぐるこほろぎ
秋らしき夜空とおもふ目のまへを光はなちて行く蛍あり
谷川のほとりに見ゆるふる道はたえだえにして山に入るなり
高原の月のひかりは隈なくて落葉がくれの水のおとすも
ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな
月あかし谷ぞこふかくこもり鳴る釜無川のおとのさびしさ
秋の夜のくまなき月に似たれどもこほろぎ鳴かぬ茅生のつゆ原
飛騨の空に夕の光のこれるはあけぼのの如くしづかなるいろ
飛騨の空にあまつ日おちて夕映のしづかなるいろを月てらすなり
空すみて照りとほりたる月の夜に底ごもり鳴る山がはのおと
わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり
あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして
ゆふぐれの日に照らされし早稲の香をなつかしみつつくだる山路
八千ぐさは朝よひに咲きそめにけり桔梗の花われもかうのはな
やまめの子あはれみにつつゆふぐれて釜無川をわたりけるかな
山のべににほひし葛の房花は藤なみよりもあはれなりけり
くたびれて吾の息づく釜無の谷のくらがりに啼くほととぎす
夕まぐれ南谿よりにごりくる谿がはの香をなつかしみつも
逝きましてはや九年になるといふ御寺の池に蓮咲かんとす
八千ぐさの朝な夕なに咲きにほふ富士見が原に吾は来にけり
日の御子むかふる足る日と信濃なる富士見の里にわれはめざめぬ
わが心かたじけなさに充ちにけり雨さむきけふをあへる友はや
大正十年十月二十六日東京駅発、二十七日熱田丸横浜出帆、諸先輩諸友の見送を忝うせり。二十八日神戸着、上陸諸友に会ふ。京都に遊び藤岡旅館泊、中村憲吉君宅一泊。六甲苦楽園六甲ホテル一泊。十一月一日神戸出帆
しづかにいにしへ人をしたふ心もて冬の港を渡りけるかな
わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ
はるかなる旅路のひまのひと時をここの小島におりたちにけり
十一月三日。午前十二時門司出帆、藤井公平、奈良秀治、山口八九子三氏見送る。玄海浪高く、四十八分時計をおくれしむ。大方の船客船に酔ふ。
海の面しづかになれる朝あけて四十八分の時おくれしむ
あかあかと濁れる海と黯湛くも澄みたる海と境をぞする
戎克の帆赭き色してたかだかとゆく揚子江の川口わたる
上海のもろもろの様相人の世のなりのままなるものとこそ思へ
「日本首相原敬被刺」と報じたる上海新聞の切抜しまふ (六日)
清麗とも謂ふべき小都市につらなりし山のかなたの支那国の見ゆ
たちまちに山上にのぼり見おろせる市街冬がれのさまにはあらず
no smoking に不准食煙と注せりき「食煙」の文字善しと思はずや
茶館には「清潤甜茶」の扁がありにほへる処女近づき来る
海岸はさびしき椰子の林より潮のおとの合ふがに聞こゆ
空ひくく南十字星を見るまでに吾等をりけるわたつみのうへ
日本国の森に似しかなと近づくに椰子くろぐろとつづきて居たり
腰まきを腰に巻きつつとほるもの男女とまだ雅きと
汗じめるわが帳面の片隅にブルンボアンとしるしとどむる
ジョホールの宮殿のまへに佇みしわれ等同胞十人あまりは
椰子しげる中に群れゐし水牛がうごくとき人をおそれしめつつ
岬なるタンジョンカトン訪ひしかばスラヤの落葉蟋蟀のこゑ
太陽をマタハリといひて礼拝すまた「感天大帝」の文字
牛車ゆるく行きつつ南なる国のみどりに日は落ちむとす
「にほんじんはかの入口」の標あり遊子樹といふ樹さへ悲しも
火葬場にマングローヴ樹植ゑたりき其処の灰を手にすくひても見つ
日本人墓地の中にてはるかなる旅をし行かむこころ和ぎ居り
赤き道椰子の林に入りにけり新嘉坡のこほろぎのこゑ
はるばると船わたり来てかなしきはジャランプサルの夜のとよめき
マラッカの山本に霞たなびけりあたたかき国の霞かなしも
平なる陸にかたまり青きをば柳の木かとおもひつつ居る
東印度会社のしるし今遺り過去のにほひを放ちてきたる
戦死者の記念塔のまへにセナ樹うゑ往くも還るも見む人のため
日本人の歯科医にあひぬささやかに紙障子などたてて居たりき
今しがた牛闘ひてその一つ角折れたるが途のうへに立つ
ふさふさにバナナ成り居るをまのあたり見てゐる吾等馴れむとすらし
マラッカの街上にしてわれも見つ富める女の面の愛しきを
聖 Francis Xavier の墓時ふりて此処にしづまる雪降らぬくに
マラッカをはなれ来りて入つ日の雲のながきににほふ紅のいろ
額より汗いでながら支那人墓地馬来人墓地めぐりて来たり
ややにしてペナンは近しそのはての空に白き雨ふるが見えつつ
その角を色うつくしく塗れる牛幾つも通るペナンに来れば
蛇おほく住める寺あり額の文字「恩沾無涯」は国境せず
ペナン川に添ひて遡るところには水田ありて日本しのばゆ
支那街はここにも伸びておのづから富みたるものも代をしかさねつ
夜に入りて大雨となり乗りこめるデッキ航者(deckpassenger)の床さへ濡れぬ
水の中に水牛の群れゐるさまはなよなよとせるものにしあらず
おほどかに水張りて光てりかへし田植は今にはじまるらむか
この村に鍛冶が鋼鉄を鍛へ居り鎚のひびきも日本に似たり
Kandy にゆく途中にて土民等が象に命令するこゑ聞きつ
高々と聳えてゐたる山ひとつマハベリガンガと云ふにやあらむ
ことわりはおのづからにて錫蘭のサカブタの山に滝かかりけり
コロンボのちまたの上に童子等が独楽をまはせり遊び楽しも
ここにしも植物園のもろ木々が油ぎりたる葉を誇らむか
仏牙寺にまうできたりて菩提樹の種子日本にも渡れるをおもふ
おほきなる白き獣ちひさなる獣を食ふところを彫りぬ
椰子の葉をかざしつつ来る男子らの黄なるころもは皆仏子にて
つづき居る椰子の木立のひまもりて入日の雲のくれなゐ見えつ
冬さむき国いでて遠くわたりけりセイロンの島に蛍を見れば
余光さへなくなりゆきし渡津海にミニコイ嶋の灯台の見ゆ
あらはれし二つの虹のにほへるにひとつはおぼろひとつ清けく
印度の洋けふもわたりて食卓に薯蕷汁の飯を人々たのしむ
わたつみの空はとほけどかたまれる雲の中より雷鳴りきこゆ
虹ふたつ空にたちけるそのひとつ直ぐ眼のまへにあるにあらずや
アデン湾にのぞむ山々展くれど青きいろ見ゆる山一つなし
佐渡丸ととほり過がへり海わたる汽笛かたみに高きひととき
朝あけて遠く目に入る鋭き山をアフリカなりといふ声ぞする
空のはてながき余光をたもちつつ今日よりは日がアフリカに落つ
夜八時バベルマンデブの海峡を過ぎにけるかも星かがやきて
ペリム島亜刺比亜の国に近くしてその灯台の見えはじめたり
アフリカに日の入るときに前山は黒くなりつつ雲の中の日
あかつきは海のおもてに棚びける黄色の靄あな美しも
紅海に入りたる船はのぼる陽を右にふりさけ見れども飽かず
甚だしく紅かりし雲あせゆきて黙示のごとき三つ星の見ゆ
紅海の船の上より見えてゐるカソリン山は寂しかりけり
海風は北より吹きてはや寒しシナイの山に陽は照りながら
Suez より Genefé, Fayed, Nefisha, Esmailia, Abou-hammad, Zagazig, Benha 等の駅を経て Cairo 著。ピラミッド、スフィンクス等よりカイロ市街を観、Port Said に至る。同行神尾、薬師寺、庄司三氏のみ
大きなる砂漠のうへに軍隊のテントならびて飛行機飛べり
丘陵のうへに白雲の棚びけるところもありぬすずしくなりて
砂原のうへに白々と穂にづるはしろがね薄といふにし似たり
列なしてゆく駱駝等のおこなひをエヂプトに来て見らくし好しも
Bitterlake といふ湖水が見ゆ小鴉のむれ飛びをるは何するらむか
土の家部落をなして女など折々いでて此方見にけり
英吉利の兵営なるかかたはらに軍馬の調練せるところあり
モハメッドの僧侶ひとりが路上にてただに太陽の礼拝をする
たかり来る蠅あやしまむ暇なく小さき町に汽車を乗換ふ
白き鷺畑のなかに降りて居り玉蜀黍の列ながくつづく見ゆ
しづかなる午後の砂漠にたち見えし三角の塔あはれ色なし
ピラミッドの内部に入りて外光をのぞきて見たりかはるがはるに
スフィンクスは大きかりけり古き民これを造りて心なごみきや
はるばると砂に照りくる陽に焼けてニルの大河けふぞわたれる
はるかなる国にしありき埃及のニルの河べに立てるけふかも
ニル河はおほどかにして濁りたり大いなる河いつか忘れむ
朝床に聞こえつつゐる馬の鈴われの心をよみがへらしむ
黒々としたるモッカを飲みにけり明日よりは寒き海をわたらむ
この夕べ鯛の刺身とナイル河の鰻食はしむ日本の船は
シシリーのイトナの山はあまつ日にかがよふまでに雪ふりにけり
伊太利亜の Reggio の町を見つつ過ぐしらじらとせる川原もありて
Messina の海峡わたり冬枯のさびたる山が目にし入り来も
孤独なるストロンボリーのいただきに煙たつ見ゆ親しくもあるか
Bark といふ三檣船も見えそめてコルシカ島に近づきゆかむ
朝さむきマルセーユにて白き霜錻力のうへに見えつつあはれ
山のうへのみ寺に来り見さくるや勝鬨あぐる時にし似たり
十二月十五日午後十時十分巴里ガル・ド・リオン著。オテル・アンテルナショナール投宿。銀行、大使館、市街、トロカデロ、エツフエル塔、エトワール、ルウヴル、パンテオン、アンヴァリード、リユクサンブール、クルニエ博物館、オペラ、地下鉄道(メトロ)等。十八日まで滞在す
霧くらく罩めて晴れざる巴里にて豊なるものを日々に求めき
ルウヴルの中にはひりて魂もいたきばかりに去りあへぬかも
英雄はその光をも永久にして放たむものぞ疑ふなゆめ
Ici repose un soldat français mort pour la patrie 1914-1918われもぬかづく
十二月十九日、午前八時十分、ガル・ド・ノールを出発して伯林に向ふ。小池・神尾二君と予と同車なり。十二月二十日伯林アンハルターバンホーフ著。石原房雄君出迎ふ。Hotel Alemannia 投宿。
○爾来前田茂三郎君はじめ多くの同胞に会ふ。○十二月二十七日、ハンブルグに行き老川茂信氏に会ふ。帰途の汽車中にて信用状の盗難に遭ひ困難したるが、信用状大使館に届き、謝礼三五〇〇麻克にて結末を告ぐ。
○三十一日、ユニオン・バレエにて除夜を過ごし、十二時に大正十一年の新年を祝ふ。○四日より連日美術館を見る。○八日、神尾君ウユルツブルヒに立つ。○十三日、墺太利、維也納に向ふ。
大きなる都会のなかにたどりつきわれ平凡に盗難にあふ
美術館に入りて佇む時にのみおのれ一人の心となりつ
おどおどと伯林の中に居りし日の安らぎて維也納に旅立たむとす
○
歌集「つゆじも」は制作年代よりいへば、自分の第三歌集に当り、歌集「あらたま」に次ぐものである。そして、大正六年十二月、自分が長崎医学専門学校教授になつて赴任した時から、大正十年三月長崎を去るまでのあひだに、折に触れて作つた歌、それから、東京に帰つて来て、その年の十月すゑ、欧羅巴留学の途に上るまでのあひだに作つた歌(その中には信濃富士見で静養した時の歌をも含んでゐる)、それから、船に乗つてマルセーユまで行き、汽車で巴里を経て伯林に著き、暫時其処に滞在し、大正十一年一月十三日、維也納に向つた時までの歌をひろひ集めたことになつて居る。
○
自分の長崎時代の歌、即ち大体大正七年八年九年の歌は、アララギ、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、長崎日日新聞、雑誌紅毛船、雑誌アコウ等にたまたま載つたもの以外は、未定稿のものをも交へて手帳に控へ、一部は歌稿として整理してあつたものが、大正十三年の火難に際して焼失してしまつた。そこでもはや奈何とも為ることが出来ないから、既に発表したもののみにとどめて編輯しようとおもひ、大正十五年ごろその一部を印刷にまで附したのであつた。然るに計らずも、欧羅巴から持帰つた荷物の中に、長崎時代の小帳面四冊あることを発見したが、その中には大正九年病のため静養してゐた頃の歌がいろいろ書いてあつた。即ち、自分が大正十年の夏ごろ解放といふ雑誌に発表した「温泉嶽」と題した十数首の歌は、皆この小帳面の中にあることを発見したのである。さうして見ると、是等の小帳面は自分が洋行するとき、荷物の中にほかの物と一しよに入れたのであつた。帳面には、長崎から鹿児島宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を去つて上京するまでの途中の歌をも若干首書き記してある。是等は皆粗末な歌であるが、自分としては記念したいものであつた。ただ大正七年八年ごろの小帳面が失せたからその年に作つた歌が無い。大正七年夏には、二三の同僚と共に宇佐から耶馬渓、それから山越をして日田に出て、日田から舟で筑後川をくだり、鮎の大きいのを食ひ、その耶馬渓から日田への途上、夜の山越をしたとき、紅い山火事を見たりして、その時の歌もあつたのに、それ等は焼失せたのであつた。また大正八年には同僚知人と共に熊本に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ抜ける旅をし、阿蘇の中腹で撮つた写真も遺つて居るし、その時の歌も若干首あつた筈だが、それ等は焼けたから奈何ともすることが出来ない。
○
焼失せた其等の歌のごときは、所詮粗末なものであるから、大観すれば決して惜しむには足らぬけれども、焼失して見れば、つまらぬものにも愛惜をおぼゆるは人の常情であらうから、この歌集には随分つまらぬ歌まで収録せられたのである。また洋行の歌であるが、洋行は自分のはじめての経験であり、慌しい作のうちから、辛うじてこれだけ整理したのであつた。海上の赤い雲の歌などが幾首も出て来るが、これも初航海の経験者として免れがたいことであつた。
○
私が帰朝して、火事のために、雑誌書籍を焼失してしまつたとき、同情深き諸友は、私のために、所蔵の新聞雑誌の切抜を贈られたのであつた。その諸友は、渡辺庫輔(与茂平)、村田利明、鵜木保、鹿児島寿蔵、竹内治三郎、森路匇平(高谷寛)、赤星信一、村田敏夫、山根浩、加納美代、佐藤峰人、遠藤勝、畠山元三郎、結城健三、三田澪人、志村沿之助、我謝秀昌の諸氏で、この集を編むことの出来たのも、皆此諸氏のたまものである。特に、私ごとき者の書いたものを、斯く丁寧に保存して置かれたといふことに対し、私は涙の出るほどふかく感動したのであつた。この感動と感謝とは、既に十数年を経過した今日といへども毫も変るところがない。
○
集の名「つゆじも」といふのは、この一巻の内容が主として長崎晩期の心にかよふと思ひ、かく命名したのであつた。併し、万葉に、露霜乃消去之如久。露霜之過麻之爾家礼などの如く、無常悲哀を暗指するやうだから、歌集の名としてはどうかしらんと云つて呉れた友もゐたが、『露霜乃、消安我身、雖老、又若反、君乎思将待』(万葉巻十二)といふ歌もあるから、大体この名にしておかうと答へたのであつた。また私のこの集を予告したのと前後して、某氏の遺稿に、「つゆじも」といふのが出でて、かたがた自分もどうしようかとおもつたのであるが、やはり最初の心にこだはつてこの名を存することとしたのである。
○
この歌集は昭和十五年の夏に編輯した。自分の歌集は「寒雲」以来新しい方から逆に発行しようと企てたから、本集の発行はいつになるか明瞭ではないが、兎も角、ほかの歌集を整理したついでに整理して置くのである。(以上昭和十五年八月記)
○
昭和十八年夏、横浜の佐伯藤之助氏が、私が大正七年八月七日長崎で書いた左の短冊を示された。
○
ついで昭和十八年十二月六日、長崎の森路匇平氏が左のごとくに通信せられた。
大正十年一月二十三日、長崎市酒屋町松楽にて斎藤先生送別小宴を催す。会するもの、斎藤茂吉、広田寒山の両先生、大久保日吐男(仁男)、前田毅、大塚九二生並に高谷寛(森路匇平)、斎藤先生に左の即吟あり
うつしみは悲しけれどもおのづから行かなかたみにおもひいでつつ
この家に酒に乱れゑひて人は居りとも我等の心にさやらぬしづけさ
をみな等のさやぎのひまに聞ゆるはあられ降りつつあはれなる音
女等のさやぎのひまに聞ゆるは霰のたまるさ夜の音かな
寺まちの南のやまの黒々とつひに更けつつあられ降る音
○
昭和二十年九月、山形県金瓶在住中、熱海磯八荘なる永見徳太郎(夏汀)氏より来書、米軍の用ゐた原子爆弾の惨害を報ずると共に、大正九年予がのこした次の三首を報じた。
長崎の永見夏汀が愛で持ちし鰐の卵をわれは忘れず
南京の羹を我に食はしめし夏汀が嬬は美しきかな
しづかなる夏汀が家のこの部屋に我しばしば来し百穂も来し
○
大正七年は自分の三十七歳の年に当るから、本集の歌は殆どすべて三十七歳から四十歳に至るあひだに作つたものといふことになる。また、本集の歌数は、本文中に六百九十七首、後記中に九首あるから、合算すれば七百六首といふことになる。(以上昭和二十年九月記)
○
本歌集の発行は岩波茂雄、布川角左衛門、佐藤佐太郎、中山武雄、榎本順行諸氏の厚き御世話になりました。私は三月から病気になり今なほ臥床中でありますが、その間岩波茂雄氏の急逝にあひ、悲歎限りありません。(昭和二十一年五月廿九日、大石田にて、斎藤茂吉記。)
底本:「歌集 つゆじも」短歌新聞社文庫、短歌新聞社
2004(平成16)年7月6日初版発行
2007(平成19)年9月10日再版発行
底本の親本:「歌集 つゆじも」岩波書店
1946(昭和21)年8月30日
※「寛済」と「寛濟」、「ピナテル」と「ピナテール」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「齋藤茂吉全集 第一卷」岩波書店の表記にそって、あらためました。
※片仮名の拗音、促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。
入力:光森裕樹
校正:のぶい
2018年2月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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