盲目物語
谷崎潤一郎



わたくし生国しょうごく近江おうみのくに長浜在ながはまざいでござりまして、たんじょう誕生は天文にじゅう一ねん、みずのえねのとしでござりますから、当年は幾つになりまするやら。左様、左様、六十五さい、いえ、六さい、に相成りましょうか。左様でござります、両眼をうしないましたのは四つのときと申すことでござります。はじめは物のかたちなどほの〴〵見えておりまして、おうみのうみの水の色が晴れた日などにひとみにあこうつりましたのを今に覚えておりまするくらい。なれどもそのゝち一ねんとたゝぬあいだにまったくめしいになりまして、かみしんじんもいたしましたがなんのきゝめもござりませなんだ。おやは百姓でござりましたが、十のとしに父をうしない、十三のとしに母をうしのうてしまいまして、もうそれからと申すものは所のしゅうのなさけにすがり、人のあしこしを揉むすべをおぼえて、かつ〳〵世過ぎをいたしておりました。とこうするうち、たしか十八か九のとしでござりました、ふとしたことから小谷おだにのお城へ御奉公を取り持ってくれるお人がござりまして、そのおかたのきもいりであの御城中へ住み込むようになったのでござります。

わたくしが申す迄もない、旦那さまはよう御存知でござりましょうが、小谷の城と申しましたら、浅井備前守長政公のお城でござりまして、ほんとうにあのお方は、お歳は若うてもおりっぱな大将でござりました。おんちゝ下野守しもつけのかみ久政公も御存生でいらっしゃいまして、とかくお父子の間柄がよくないと申す噂もござりましたけれど、それももと〳〵は久政公がお悪いのだと申すことで、御家老がたをはじめおおぜいの御家来衆もたいがいは備前どのゝ方へ服しておられたようでござりました。なんでも事のおこりというのは、長政公が十五におなりになったとし、えいろく二ねんしょうがつと云うのに元服をなされて、それまでは新九郎と申し上げたのが、そのときに備前のかみながまさとお名のりなされ、江南こうなんの佐々木抜関斎ばっかんさいの老臣平井加賀守どのゝ姫君をお迎えなされました。ところが此の御縁組みは長政公の御本意でのうて、久政公が云わば理不尽におしつけられたのだと申すことでござります。下野どのゝおかんがえでは、江南と江北とは昔からたび〳〵いくさをする、今はおさまっているようなれどもいつまた合戦がおこらないとも限らないから、和議のしるしに江南とこんいんを取りむすんだら、ゆくすえ国の乱れるうれいがないであろうと、左様に申されるので厶りましたけれど、備前守どのは佐々木の家臣の聟となると云うことをどうしてもおよろこびになりませなんだ。しかし父御てゝごのおいいつけでござりますから是非なく承引なされまして、ひらい殿のひめぎみを一たんはおもらいになりましたものゝ、そのゝち江南へ出むいて加賀守と父子の盃をしてまいれと云う久政公の仰せがありましたとき、これはいかにもむねんだ、父のめいをそむきかねて平井ふぜいのむこになるさえくちおしいのに、こちらから出かけて行っておやこのけいやくをするなどゝは以てのほかだ、弓馬の家にうまれたからは治乱の首尾をうかゞって天下に旗をあげ、やがては武門の棟梁とうりょうともなるように心がけてこそ武士たるものゝ本懐ほんかいだのにとっしゃって、とう〳〵その姫ぎみを、久政公へは御そう談もなしに里へかえしておしまいになりました。それはまあ、あまりと申せば乱暴な仕方で、てゝごの御腹立ごふくりゅうなされましたのも御尤もではござりますけれども、まだ十五六のおとしごろでそういう大きなこゝろざしを持っていらっしゃると云うのは、いかにも尋常なお方でない、浅井の家をおこされた先代の亮政公に似かようて、うまれながらに豪傑の気象をそなえていらっしゃる、こういう主君をいたゞけばお家の御運は万々代ばん〳〵だいであろう、まことにあっぱれなお方だと、御家来しゅうがみな備前どのゝ御器量をおしたい申して、てゝごの方へは出仕しゅっしするものもないようになりましたので、ひさまさ公もよんどころなく家督をびぜんどのへおゆずりになりまして、ごじしんは奥方の井の口殿をおつれになって、竹生島ちくぶしまへこもっていらしったこともあるそうでござります。

 けれどもこれはわたくしが御奉公にあがりました以前のことでござりまして、当時は父子のおんなかもいくぶんか和ぼくなされ、下野どのもいのくちどのもちくぶ島からおかえりになりまして、お城でくらしていらっしゃいました。長政公は二十五六さいのおとしでござりましたろうか、もうそのときは二度めの奥方をおむかえになっていらっしゃいましたが、そのおくがたと申されますのが、もったいなくも信長公のおん妹君、お市どのでござります。この御えんぐみは信長公が美濃のくにより御上洛のみぎり、いま江州できりょうのすぐれた武将と申せば、歳はわかくてもあさいびぜんのかみに越すものはあるまじ、ひとえに味方にたのみたいとおぼしめされて、なにとぞわが縁者となってくれぬか、それを承引あるうえは浅井と織田とちからをあわせて観音寺城にたてこもる佐々木六角を攻めほろぼして都へ上り、ゆく〳〵は天下の仕置きも両人で取りおこなおう、みのゝくにも欲しくばそちらへ進ぜよう、またえちぜん越前の朝倉は浅井家とふかい義理のある仲だから、決して勝手に取りかゝるようなことはしませぬ、越前一国はそちらの指図通りと申す誓紙を入れようなどゝ、それは〳〵御ていねいなお言葉がござりましたので、その儀ならばと申すことで、御縁がまとまったのでござります。それにつけても佐々木の家臣の姫君をおもらいなされて抜関斎の下風にお立ちなさるところを、きつくおことわりなされたばかりに、当時しょこくを切りなびけてとぶとりをおとす信長公からさほどまでにお望まれなされ、織田家のむこにおなりなさろうとは。それもまあ、武略がすぐれていらしった故とは申しながら、人は出来るだけ大きな望みを持つべきものでござります。不縁におなりなされました前のおくがたは、ものゝ半年と御一緒におくらしはなかったそうで、そのおかたのことは存じませぬが、お市御料人ごりょうにんはまだお輿入こしいれにならぬうちから世にも稀なる美人のきこえの高かったお方でござります。御夫婦なかもいたっておむつまじゅうござりまして、お子たちも年子としごのようにお生れなされて、もうそのときに、若君、姫君、とりまぜて二三にんはいらっしゃいましたかと存じます。いちばんうえの姫君はお茶々どのと申し上げて、まだいたいけなお児でござりましたが、このお児が後に太閤殿下の御ちょうあいをおうけなされ、かたじけなくも右だいじん秀頼公のおふくろさまとおなりなされた淀のおん方であらせらりょうとは、まことに人のゆくすえはわからぬものでござります。でもお茶々どのはその時分からすぐれてみめかたちがおうつくしく、お顔だち、鼻のかっこう、めつきくちつきなど奥方に瓜二つだと申すことで、それは盲もくのわたくしにもおぼろげながらわかるような気がいたしました。

ほんとうにわたくしふぜいのいやしいものが、なんの冥加みょうがであゝ云うとうといお女中がたのおそばちこう仕えますことができましたのやら。はい、はい、左様でござります、まえにちょっと申し上げるのをわすれましたが、最初はわたくし、さむらい衆の揉みりょうじをいたすということでござりましたけれども、城中たいくつのおりなどに、「これ、これ、坊主、三味せんをひけ」と、みなの衆に所望されまして、世間のはやりうたなどをうとうたことがござりますので、そんな噂が御簾中ごれんちゅうへきこえたのでござりましょう、唄の上手なおもしろい坊主がいるそうなが、いっぺんその者をよこすようにとのお使いがござりまして、それから二三ど御前へうかゞいましたのがはじまりだったのでござります。はい、はい、いえ、それはもう、あれだけのお城でござりますから、武士の外にもいろ〳〵のひとが御奉公にあがっておりまして、猿楽さるがくの太夫なども召しかゝえられておりましたので、わたくしなどが御きげんを取りむすぶまでもござりませぬけれども、あゝ云う高貴なお方には却ってしもざまのはやりうたのようなものがお耳あたらしいのでござりましょう。それにそのころはまだ三味線がいまのようにひろまってはおりませんで、ものずきな人がぽつ〳〵けいこをするというくらいでござりましたから、そのめずらしい糸のねいろがお気に召したのでござりましょう。さようでござります、わたくし、このみちをおぼえましたのは、べつにさだまった師しょうについたのではござりませぬ。どういうものか生来おんぎょくをきくことをこのみ、きけばじきにそのふしを取って、おそわらずともしぜんにうたいかなでるという風でござりまして、しゃみせんなぞもたゞおり〳〵のなぐさみにもてあそんでおりましたのが、いつしか身についた能となったのでござります。なれどもゝとよりしろうとの手すさびでござりまして、人にきいていたゞくほどの芸ではござりませなんだのに、つたないところがあいきょうになりましたものか、いつもおほめにあずかりまして、お前へ出ますたびごとにけっこうなかずけ物を下されました。まあその時分は、戦国のことゝて彼方此方あちらこちらにかっせんのたえまはござりませなんだが、いくさがあればそれだけにたのしいこともござりまして、殿様が遠く御出陣あそばしていらっしゃいますと、お女中がたはなんの御用もないものですから、つい憂さはらしに琴などを遊ばしますし、それから又、ながの籠城のおりなどは気がめいってはならぬと云うので、表でも奥でも、とき〴〵にぎやかな催しがあったりいたしまして、そう今のひとが考えるほどおそろしいことばかりでもござりませなんだ。とりわけおくがたは琴をたんのうにあそばしまして、つれ〴〵のあまりに掻きならしていらっしゃいましたが、そう云うおりにふとわたくしが三味線をとって、どのような曲にでもそくざにあわせて弾きますと、それがたいそう御意ぎょいにかなったとみえまして、器用なものじゃと云うおことばで、それからずっと奥むきの方へつとめるようになりました。お茶々どのも「坊主、坊主」とまわらぬ舌でお呼びになって、あけくれわたくしを遊び相手になされまして、「坊主、瓢箪のうたをうたっておくれ」と、よくそんなことをっしゃって下さりました。あゝ、そのひょうたんのうたと申しますのは、

忍ぶ軒端に

瓢たんはうゑてな

おいてな

這はせてならすな

こゝろにつれてひよ〳〵ら

ひよ〳〵めくに

と、こう唄うのでござります。

あら美しの塗壺笠ぬりつぼがさ

これこそ河内陣みやげ

えいころえいと

えいとろえとな

傷口がわれた

心得てまへて

とゝら

えいとろえいと

えいとろえとな

まだこのほかにもいろ〳〵あったのでござりますが、ふしはおぼえておりましてもことばをわすれてしまいまして、いやもう年をとりますとたわいのないものでござります。そうするうちに信長公と長政公と仲たがいをなされまして、両家のあいだにいくさがはじまりましたのは、あれはいつごろでござりましたか。あゝ、姉川あねがわの合戦が、元亀がんねんでござりますか。こういうことは旦那さまのようにものゝ本を読んでいらっしゃるおかたの方がよく御存知でござります。なんでも御奉公に出ましてから間もないことでござりまして、不和のおこりと申しますのは、のぶながこうが浅井どのへおことわりもなしに、えちぜんの朝倉どのゝ領分へおとりかけなされたのでござります。いったい浅井のお家と申すのは、先々代すけまさ公のとき、あさくらどのゝ加勢によって御運をおひらきなされまして、それ以来あさくらどのには恩ぎをうけておられます。さればこそ織田家と御えんぐみのときにも越前のくにゝは手をつけぬと、信長公よりかたいせいしをおとりになったのでござりましたが、わずか三ねんとたゝないうちにたちまち誓紙をほごにして、当家へいちごんのあいさつもなく手入れをするとはけしからぬ、信長という奴は軽薄ものだと、だい一に御隠居の下野どのが御りっぷくで、長政公の御殿へおいでになりまして、近習きんじゅうとざま外様の者までもおあつめになって、のぶながの奴、いまにえちぜんをほろぼして此のしろへ攻めてくるであろう、えちぜんのくにの堅固なあいだに、朝倉と一味して信長を討ちとってしまわねばならぬと、えらいけんまくでござりましたところが、長政公もごけらいしゅうも、しばらくはことばもござりませなんだ。それはまあ、やくそくをほごにすると云うのは信長公もわるうござりますけれども、あさくらどのも両家のあいだにやくそくのあるのをよいことにして、織田家へぶれいなしうちをしている。ことに信長公たび〳〵の御上洛にもかゝわらず、一ども使節をさし上げられたこともないので、それでは禁裏きんりさまや公方くぼうさまにも恐れ多い。しょせん織田どのを敵にまわしてはたとい朝倉と一つになっても打ちかつ見込みはござりませぬから、いまの場合はえちぜんの方へ申しわけに千人ばかりも加せいを出して、織田家の方はなんとかうまくつくろっておいたらいかゞでござりますと、そう申す人たちが多いのでござりましたが、それをきかれると御いんきょはなおおこられて、おのれら、末座のさむらいとして何を申す、いかに信長が鬼神なればとて、親の代からの恩をわすれ、あさくら家の難儀をみすてゝよいとおもうか、そんなことをしたら末代までの弓矢の名折れ、あさい一門の耻辱ではないか、わしはたった一人になってもさような義理しらずのおくびょうものゝ真似はせぬと、まんざをねめつけて威丈いたけだかになられますので、まあ〳〵、そう御たんりょに仰せられずによく〳〵御分別なされましてはと、老臣どもが取りつきましても、おのれら、みなが此の年寄りを邪魔にして、皺腹を切らせるつもりじゃなと、身をふるわせて歯がみをなされます。総じて老人と云う者は義理がたいものでござりますから、そうっしゃるのも一往はきこえておりますけれども、まえ〳〵から家来どもがじぶんをばかにするというひがみをもっていらっしゃるところへ、長政公がせっかく自分の世話してやった嫁をきらってお市どのを迎えられたということを、いまだにふくんでいらしって、それみたことか、おやのいいつけをそむいたればこそこんな仕儀になったではないか、このにおよんであのうそつきの信長になんの遠慮をすることがある、こうまであなどられながらだまって引っ込んでいるというのは、おおかた女房のかあいさにほだされて、織田家へ弓がひけぬとみえた、と、いくぶんか長政公へあてつける気味もあったのでござります。びぜんのかみどのは御いんきょと御けらいしゅうとのあらそいを無言できいていらしって、そのときにほっとためいきをなされ、なるほど、ちゝうえの仰せはお道理じゃ、自分はのぶながの聟だけれども先祖以来の恩にはかえられぬ、こちらへ取ってある誓紙は明日あしたさっそく使者にもたせて織田家へかえしてしまいましょう、信長いかに虎狼ころうのいきおいにほこっておってもえちぜんぜいと力をあわせて無二の一戦をいたすならば、やわか彼を討ち取れぬことがござろうぞと、きっぱりと仰せになりましたので、そのうえは仕方なく、みなが決心をかためたのでござります。

しかしそのゝちも、いくさ評定ひょうじょうのたびごとに御いんきょとながまさ公との御料簡ごりょうけんがちごうて、とかくしっくりいかなんだようでござりました。ながまさ公は名将のうつわでいらっしゃいますし、ゆうきりん〳〵たる日ごろの御きしょうでござりますから、出足であしのはやい信長をてきに廻してこうゆる〳〵としていてはならぬ、こちらから逆にせめのぼって一とかっせんした方がよいと、そう云うおかんがえでござりましたけれども、御いんきょは年よりのくせで、なにごとにも大事をとろうとなされますので、かえって不利をまねくようになりました。信長公がえちぜんから都へ引きとられましたときにも、此のあいだに朝倉ぜいと一手になって、美濃へきり込んで、岐阜をせめおとしてしまおう。さすれば信長さっそくに馳せくだろうとするであろうが、江南には佐々木ろっかく六角の一族がいるからやす〳〵通すはずはあるまいし、そのまに岐阜から取ってかえして、佐和山おもてにまちかまえてかっせんすれば、のぶながのくびはわがものになると、長まさ公がごふんべつをめぐらされ、あさくらどのへ使者をおつかわしになりましたけれども、一乗の谷のやかたにもやはり気ながな人たちがそろっていまして、はる〴〵みのへ出かけていってあとさきを敵につゝまれたら難儀になろうと、義景公をはじめだれも同心するものがござりませなんだ。それで御返事には、いや、それよりも、いずれ信長が小谷のお城へおしよせてまいりましょうから、そのとき当国のにんずをもよおしてお味方に参じましょうと、そういうごあいさつでござりましたので、あたら可惜ごけいりゃくがむやくになったのでござります。長政公はそのへんじをきかれると、あゝ、朝倉もそんな悠長なことを申しておるのか、それで義景のじんぶつもわかった、そのようなのろまなことであのすばしっこい信長に勝つみこみなど、十に一つもあろうとはおもわれぬ、父上の仰せがあったばかりによしない人に組みしたのが運のつきだと、しみ〴〵述懐あそばしたそうでござりますが、もうそのときから浅井の家もわがいのちも長いことはあるまいと、かくごをきめられたらしゅうござります。

それから姉川、さかもとの合戦がござりまして、いちどは扱いになりましたけれども、たちまち和議もやぶれてしまいまして、織田ぜいのためにじり〳〵と御りょうぶんをけずられてゆきました。まことに名将のっしゃったことにまちがいはなく、長政公のおことばがおもいあたるのでござります。わずか二三ねんのあいだに、佐和やま、よこやま、大尾、あさづま、宮部、山本、大嵩の城々をおい〳〵にせめ抜かれて、小谷の本城ははだか城にされ、その麓まで敵がひし〳〵と取りつめてまいったのでござります。よせては六万余騎のぐんぜいをもって蟻のはいでるすきまもなく十重二十重とえはたえに打ちかこみ、のぶなが公をそうだいしょうとして、柴田しゅりのすけ、にわ五郎ざえもん、佐久間うえもんのじょうなど、きこゆるゆうしが加わっておりました。太閤でんかも当時は木のした藤きちろう吉郎と申されて、おしろから八丁ばかりの虎御前山にとりでをきずいて、城内のようすをうかゞっておられました。あさいどのゝ御けらいにもずいぶんりっぱな大将たちがおられましたけれども、これはとたのみきったる者もこゝろがわりがいたしまして、だん〳〵織田どのへ降人に出まして、味方のいきおいは日にまし弱るばかりでござります。おしろの中は、人質のおんな子供をとりこめてありますし、ほう〴〵の小城から落ちてまいった侍どもがおりますし、つねよりもおおぜいの人数にんずでござりましたから、さいしょはなか〳〵気が立っておりまして、「憂きも一と時うれしさも思ひさませば夢そろよ」と、小唄まじりに日ごと夜ごとのせりあいをつゞけておりましたが、そのうちに、御いん居ひさまさ公のまると長政公の丸のあいだの、中の丸をあずかっておられた浅井七郎どの、おなじく玄蕃のすけどのなどが、藤吉郎どのにないつうしまして、てきをその丸の中へ引き入れましたので、俄かにじょうちゅうが火のきえたようになりました。そのときのぶなが公のお使者がみえて申されますのに、その方と仲たがいをしたというのも元はといえば朝倉のことからだ、しかしこちらはすでに越前をきりなびけ、義景をうちとってしまったから、その方にたいしなんの意趣いしゅをもいだかぬし、又そのほうもこのうえ義理をたてるところもないであろう。しろをあけわたして立ちのくならば、えんじゃのよしみもあることだからこちらも如在じょさいには存ぜぬ、このゝち織田家のきか麾下にぞくして忠節をぬきんでゝくれるなら、大和一国をあておこのうてもよいとおもうがと、ねんごろな御諚ごじょうでござりました。おしろの中ではよいところへ扱いがはいったと云ってよろこぶ者もあり、いや〳〵、これは織田どのゝほんしんではあるまい、妹御いもうとごのおいちどのを助けだしておいてから、殿にお腹をめさせようと云う所存であろうと申す者もあり、評議はまち〳〵でござりましたが、ながまさ公は使者にたいめんあそばして、おこゝろざしのほど忝く存じますけれども、かようになりはてゝ何を花香かこうと世にながらえましょう、たゞ討死をとげるつもりでござりますから、御前ごぜんへよきなにお伝え下されと仰っしゃって、いっこうに承引なされませなんだ。のぶなが公は、さては自分を疑うとみえる、こちらはしんじつに申すのだから、ぜひ討死をおもいとまって、こゝろやすく立ちのくようにと、さいさん使者をよこされましたが、いったん覚悟をきわめたうえはと、いかに申されてもおきゝ入れがござりませなんだ。それで、八月二じゅうろくにちの宵に、御菩提寺の雄山わじょう和尚をおまねきになりまして、小谷のおくの曲谷のいしきりに石塔をお切らせになり、徳勝寺殿天英宗清大居士とかいみょうをえりつけられ、その石とうのうしろをくぼめて御自筆の願書をおこめになりました。それから二十七日のあさはやくろうじょうの侍どもをおあつめになり、ゆうざんわじょうを導師にたゝせて、長政公はせきとうのそばにおすわりなされ、御けらいしゅうの焼香をおうけになりました。みなのしゅうはさすがに辞退されましたけれども、たってのおことばゆえ焼香したのでござります。さてその石塔は、しのんで城からはこび出しまして、みずうみのそこふかく、竹生しまから八丁ばかりひがしの沖へしずめましたので、それを見ました城中のものどもは一途いちずに討ちじにを心がけるようになったのでござります。

おくがたはちょうどそのとしの五月に若君をおうみなされ、さんごのおつかれで一と月あまりひきこもっていらっしゃいましたので、わたくしがしゞゅうごかいほう申し上げ、お肩やお腰をさすりましたり、せけんばなしのお相手をつとめましたりいたしまして、おなぐさめ申しておりました。左様でござります、ながまさ公は御きしょうはたけくいらっしゃいましたが、おくがたにはいたっておやさしゅうござりまして、ひるはいちにち命をまとにはげしい働きをなさりながら、おくごてんへおこしになりますと御きげんよく御酒ごしゅをきこしめされ、何くれとおくがたをいたわってお上げなされて、お女中がたやわたくしどもへまでじょうだんをっしゃったりしまして、いくまんの敵がしろのぐるりをかこんでいることもとんとお心にとまらぬようでござりました。なにぶん大名がたの御夫婦仲のことは、おそばにつかえております者にもなか〳〵わかりかねますけれども、おくがたはおん兄君と殿さまのなかにはさまれて胸をいためていらしったのでござりましょうし、ながまさ公の方はまた、それをいとおしゅう、いじらしゅうおぼしめされ、かたみのせまいおもいをせぬようにと、つとめておくがたの気をひきたてゝいらしったのではござりますまいか。そう云えばあのじぶん、御前にひかえておりますと、「これ坊主、三味せんもゝう面白うない、酒のさかなにもっとうき〳〵したことはないか、あの棒しばりを舞ってみせぬか」などゝ殿のおこえがかゝりまして、

十七八は

竿にほした細布

とりよりや

いとし

たぐりよりや

いとし

糸よりほそい

腰をしむれば

たんとなほいとし

と、つたないまいをごらんにいれては御座興をつとめたものでござります。それはわたくし、じぶんでかんがえ出しました道化どうけたまいでござりまして、「糸よりほそい腰をしむれば」と、所作しょさをしておめにかけますと、たいていのかたは腹をかゝえてわらわれますので、めくらのくせに妙なてつきで舞いますところがおかしみなのでござりましたが、なみいるかた〴〵の賑やかなおこえにまじって、おくがたのおわらいなさるおこえがきこえますときは、「あゝ、すこしはごきげんがよいのだな」とおもいまして、どんなにわたくしも勤めがいがありましたことか。なれどもたいへん悲しいことには、おい〳〵日がたつにつれまして、いくらわたくしが新しい手をかんがえましておもしろおかしくまってごらんにいれましても、「ほゝ」とかすかにえまれるばかりで、やがてそれさえもきこえないことがおおくなってまいりました。

あるひのこと、あまり肩がこってならぬから、すこしりょうじをしてほしいと仰っしゃいますので、おせなかの方へまわりまして揉んでおりますと、おくがたはしとねのうえにおすわりなされ、脇息きょうそくにおよりあそばして、うつら〳〵まどろんでいらっしゃるのかと思われましたが、そうではなくて、とき〴〵ほっとといきをついていらっしゃいます。こういうおりに、いぜんにはよくお話相手をいたしましたのに、ちかごろはめったにお言葉のさがることなどもござりませんので、たゞかしこまってりょうじをいたしておりましたけれども、それがわたくしにはなんとのう気づまりでなりませなんだ。ぜんたいめしいと申すものは、ひといちばいかんのよいものでござります。ましてわたくしは、ひごとよごと奥がたのあんまを仰せつかりまして、おからだの様子がおおよそ分っておりますので、おむねのなかのことまでがしぜんと手先へつたわってまいりますせいか、だまって揉んでおりますうちに、やるせないおもいがいっぱいにこみあげてまいるのでござります。当時おくがたは二十をふたつみつおこえなされ、四人にあまるお子たちの母御はゝごでいらっしゃいましたけれども、根がおうつくしいおかたのうえに、ついぞいまゝでは苦労という苦労もなされず、あらいかぜにもおあたりなされたことがないのでござりますから、もったいないことながら、そのにくづきのふっくらとしてやわらかなことゝ申したら、りんずのおめしものをへだてゝ揉んでおりましても、手ざわりのぐあいがほかのお女中とはまるきりちがっておりました。もっともこんどは五たびめのお産でござりましたから、さすがにいくらかやつれていらっしゃいましたものゝ、おやせになればおやせになるで、その骨ぐみの世にたぐいもなくきゃしゃでいらっしゃることはおどろくばかりでござりました。わたくし、じつに、このとしになりますまで、ながねんのあいだもみりょうじを渡世とせいにいたし、おわかいお女中さまがたをかずしれず手がけてまいりましたが、あれほどしなやかなからだのおかたをいろうたことがござりませぬ。それに、おんはだえのなめらかさ、こまかさ、お手でもおみあしでもしっとり露をふくんだようなねばりを持っていらしったのは、あれこそまことに玉のはだえと申すものでござりましょうか。おぐしなども、お産をしてからめっきりと薄うなったと、ごじゝんでは仰っしゃっていらっしゃいましたが、それでもふさ〳〵とうしろに垂らしていらっしゃるのが、普通のひとにくらべたらうっとう鬱陶しいくらいたくさんにおありになって、一本々々きぬいとをならべたような、細い、くせのない、どっしりとおもい毛のたばが、さら〳〵ときぬにすれながらお背なかいちめんにひろがっておりまして、お肩を揉むのにじゃまになるほどでござりました。なれども、このとうとい上﨟じょうろうのおみのうえもおしろがらくじょうするときはどうなるだろうか。このたまのおんはだえも、たけなすくろかみも、かぼそいほねをつゝんでいるやわらかい肉づきも、みんなおしろのやぐらといっしょにけぶりになってしまうのだろうか。ひとのいのちをうばうことがせんごくの世のならいなればとて、こんないたいけなおうつくしいかたをころすという法があるものだろうか。のぶなが公もげんざい血をわけたいもうとを、たすけておあげなさろうというおぼしめしはないものか。まあわたくしのようなものが、そんなしんぱいをしましたからとておよばぬことでござりますけれども、えんあっておそばにおつかえ申し、なんのしあわせかめしいと生れましたばかりにこのようなおかたのおんみに手をふれ、あさゆうおこしをもませていたゞいておりまして、たゞそれのみをいきがいのある仕事とぞんじておりましたのに、もうその御奉公もいつまでだろうかとかんがえましたら、このさきなんのたのしみもなくなりまして、にわかに胸がくるしゅうなってまいりました。するとおくがたが又ほっとためいきをあそばして、

「弥市」

と、およびになるのです。わたくし、おしろの中では、「坊主、坊主」といわれておりましたが、「たゞ坊主ではいけぬ」と仰っしゃって、おくがたから「弥市」という名をいたゞいておったのでござります。

「弥市、どうしたのだえ」

と、そのときかさねてのお言葉に、

「はっ」

と申して、おど〳〵いたしておりますと、

「いっこう力がはいらぬではないか、もそっときつうもんでおくれ」

と仰っしゃるのでござります。わたくしは、

「おそれいりました」

と申しあげて、さてはいらざる取りこしくろうに手の方がおろそかになったかと、気を入れかえてせっせともんでおりました。なれどもきょうはとくべつにお肩がこっていらしって、おんえりくびのりょうがわに手毬ほどのまるいしこりがおできになっておりまして、もみほごすのがなか〳〵なのでござります。まあ、ほんとうに、これではさぞかしおつらかろう、こんなにおりになるというのは、きっといろ〳〵なものあんじをあそばして、よるもろく〳〵おやすみにならぬせいではないか、おいたわしいことだわいと、お察し申しあげておりますと、

「弥市」

と仰っしゃって、

「お前、いつまでこのしろのなかにいるつもりなのだえ」

と、仰っしゃるのでした。

「はい、わたくしは、いつまでゞも御奉公をいたしておりとうござります。ふつゝかなものでござりますから、おやくにはたちませぬが、ふびんにおぼし下されまして召しつかっていたゞけましたら有りがたいことでござります」

そう申しあげましたら、

「そうかえ」

と仰っしゃったなり、しばらくしずんでいらしって、

「それでもお前、知ってのとおりおおぜいの者がいつのまにか一人へり二人へりして、もうおしろにはいくにんも残っていないのですよ。りっぱな武士でさえしゅうをみすてゝおちてゆくのに、さむらいでもないものがたれにえんりょをすることがあろう。ましておまえは眼がふじゆう不自由なのだから、まご〳〵しているとけがをしますよ」

と仰っしゃるのです。

「おおせはありがとうござりますが、おしろを捨てるのもふみとゞまるのも、それはひと〴〵のこゝろまかせでござります。まなこさえあいておりましたら、よるにまぎれておちのびることもできましょうけれども、このように四方をかこまれておりましてはたといおいとまをいたゞきましてもわたくしには逃げるみちがござりませぬ。どうせ数ならぬめくら法師ではござりますが、なまなかてきにとらえられてなさけを受けるのはいやでござります」

すると、なんともおことばはなくて、そっとおんなみだをおふきになったらしゅう、ふところからたとうがみをお出しになるおとがさら〳〵ときこえました。わたくし、じぶんの身よりもおくがたはどうあそばすおつもりか、いずこ迄もながまさ公とごいっしょにおいであそばすのか、五人のお子たちをいとおしゅうおぼしめしたら、また御りょうけんもおありになりはしないかと、こゝろではやきもきいたしましたが、そんなことをさしでがましゅう伺うわけにもまいりませぬし、それきりおこえもかゝりませぬので、ついつぎほがなくて、ひかえてしまったのでござりました。

それが、あのせきとうの御供養のありました二日ほどまえのことでござりまして、八がつ二十七日のあけがた、さむらいがたの焼香をおうけになりますと、こんどはおくがたや、お子たちや、腰元衆や、わたくしどもまでをそこへおめしになりまして、「さあ、おまえたちも回向をしておくれ」と仰っしゃるのでござりました。なれどもいざとなりますと、お女中がたのかなしみは又かくべつでござりまして、あゝ、それではいよ〳〵お城のうんめいがきわまって、とのさまはうちじにあそばすのかとどなたも途方にくれるばかりで、一人もしょうこうの席へすゝもうとはなさりませぬ。このにさんにち寄せ手は一そうはげしくせめてまいりまして、ひるもよるも合戦のたえまはござりませなんだが、けさはさすがに敵もいくらか手をゆるめたとみえまして、お城のうちもそともしんとして、大ひろまの中は水をうったようにしずかでござります。おりふし秋もなかばのことでござりまして、おうみの国もほっこくにちかい山の上の、夜もあけきらぬほどの時こくでござりますから、まつざにひかえておりますと、肌さむいかぜがひえ〴〵と身にしみ、お庭の方でくさばにすだくむしのねばかりがじい〳〵ときこえるのでござります。と、ふいに広間のすみの方で、どなたか一人しく〳〵とすゝりなきをはじめましたら、それまでじっとこらえていらしったおおぜいの衆が、あちらでもこちらでも、いちどにしく〳〵と泣き出されましたので、がんぜないお子たちまでがこえをあげてお泣きになりました。「これ、これ、そなたはいちばんとしかさのくせに泣くということがありますか、かね〴〵云うてきかせたのはこゝのことではありませぬか」と、おくがたはこんなときにも取りみだした御様子がなく、しっかりしたおこえでお茶々どのをお叱りになって、嫡男万福丸どのゝ乳母うばをお呼びになりまして、「さあ、和子わこから先にしょうこうをするのですよ」と仰っしゃるのです。それでいちばんに万福丸どの、二ばんには当歳のわかが御焼香をすまされますと、「お茶々、そなたの番ですよ」と仰せられましたが、

「いや、姫よりもそなたはなぜしないのだ」と、ながまさ公がきっとなって仰せられるのでした。おくがたはたゞ「はい〳〵」と口のうちで仰っしゃるばかりで、なか〳〵承引なされませぬので、

「あれほど申しきかせたことがなぜ分らぬ。このにおよんで云いつけにそむくつもりか」と、つね〴〵おくがたにはおやさしいおかたが、ことさらあら〳〵しく仰っしゃるのでござりますけれども、

「おぼしめしはかたじけのうござりますが」

と、かたくけっしんをあそばして、座を立とうとはなさりませなんだ。そのときながまさ公はだいおんをおあげになって、

「やあ、その方おんなのみちを忘れたか。わがなきあとの菩提をとぶらい、子どものせいじんをみとゞけるこそ、つまたるものゝ勤めではないか。そこの道理がわからぬようではみらいえいごう永劫妻とはおもわぬ、夫とも思ってもらわぬぞ」

と、するどくお叱りになりました。そのおこえがひろまのすみ〴〵へりん〳〵とひゞきわたりましたので、いちどうはっといたしまして、どうなることかといきをころしておりますと、しばらくなんのものおともござりませなんだが、やがてさや〳〵と畳のうえにお召しものゝすれるけはいがいたしましたのは、こゝろならずも奥がたがごしょう香をなされたのでござりました。それから一のひめぎみのお茶々どの、二の姫ぎみのおはつどの、三のひめ君の小督こごうどのと、しだいに御えこうをなされましたので、そのよのかた〴〵もとゞこおりなく済まされたのでござります。

さてその石とうをはこび出してこすいにしずめましたことは、せんこく申し上げたとおりでござります。おくがたはひと〴〵の手まえ、いったんはおきゝいれになりましたものゝ、殿が御しょうがいあそばすのに、わがみひとり世にながらえてなんとしょうぞ、あれこそ浅井のにょうぼうよと人にうしろゆびをさゝれるのはくちおしゅうござります、ぜひ死出のみちづれをさせて下されと、よもすがら掻きくどかれて、いっかな御しょういんなさるけしきもなかったそうにござります。するとあくる二十八にちのの刻ごろに、織田どのゝおんつかい不破河内のかみどのが三度目におこしになりまして、いま一ぺんかんがえなおして降人に出る気はないかと、のぶなが公のおことばをつたえましたのでござります。ながまさ公はかさね〴〵のおぼしめし、しょう〴〵世々わすれがたくは存じますが、じぶんはどうあってもこのしろにおいてはらを切ります、たゞし妻とむすめどもはおんなのことなり、のぶなが公にちすじのつながるものどもでござれば、申しふくめてあとより送りとゞけます、せっかくのおなさけにあのものたちのいのちをゆるして、あと〳〵のせわを見てやって下さればありがとう存じますと、いんぎんにおたのみなされまして、一とまずかわちの守どのをおかえしになり、それから又おくがたへだん〳〵と御いけんをなされたらしゅうござります。もとよりながまさ公とても、あれほどおむつまじいおん語らいでござりましたから、死なばもろともと覚悟をなされたおくがたのおんこゝろねを何しに憎く思しめしましょう。おもえばおふたりが御えんぐみをあそばしてから、ことしで足かけ六ねんと申すみじかいおんちぎりでござります。そのあいだしゞゅう世の中がさわがしく、あるときはとおく都や江南の御陣へお出かけになったりしまして、いちにちとしてあんらくにおすごしあそばしたこともないのでござりますから、おなじはちすのうてなの上でいつまでも仲ようくらしたいとおのぞみになるのも、決してごむりではござりませぬ。なれどもながまさ公は勇あるおかたのつねとしてひとしおおん憐れみがふこうござりまして、おとしのわかいおくがたをむざ〳〵ころしてしまうことがあまりおいたわしく、なんとかしていのちをたすけてあげたいとおぼしめされ、ことにはお子たちのゆくすえなども御あんじあそばしたのでござりましょう。まあいろ〳〵にしなをかえて道理をおときになったものとみえまして、よう〳〵おくがたも御とくしんあそばし、ひめぎみばかりをおつれになっておさとへお帰りあそばすことにきまったのでござります。おとこのお子たちはまだいとけのうござりましたけれども、敵の手におちてはあやういと申されて、総りょうのまんぷく丸どのはえちぜんのくに敦賀郡つるがごおりのしるべをたよりに、二十八日のよるおそく、きむら喜内之介と申す小姓をつけてそっとおしろからお出しになり、すえの若ぎみは、当国の福田寺へあずけられることになりまして、これもそののうちに、小川伝四郎中島左近と申すさむらい二人に乳母がつきそうて、ふくでん寺のちかくの湖水のきしに船をよせられ、しばらく蘆のしげみのあいだにひそんでおられたと申すことでござります。

おくがたは二じゅうはち日の夜ひとよ、ながまさ公とおんわかれの盃をおかわしになりましたが、つきぬおん名残りにさま〴〵のおんものがたりをあそばすうちに、秋の夜ながもいつのまにかあけてしまいましたので、それではと申されて、ひがしの方がもうしら〴〵とあかるい時分、おしろの門からおのりものにおめしになりました。つゞく三つのお乗りものにはさんにんの姫たちが乳母とごいっしょにお召しになりまして、藤掛三河守と申す、お輿入れのおり織田家からついてまいりました奥向きの御けらいが、てぜいをつれて前後をおまもり申し上げ、そのほかに二三十人のお女中がたがおともをいたして小谷をあとになされました。ながまさ公は御のりものゝきわまでおみおくりに出られまして、そのあさはもうこれを最後の御しょうぞくで、くろいとおどしのおんよろいにきんらんの袈裟けさをかけていらしったそうでござります。いよ〳〵おのりものをかき上げますとき、「ではあとをたのんだぞ、たっしゃでくらせよ」とおことばをおかけになりましたのがゆうきのはりきったさわやかなおこえでござりました。おくがたも「おこゝろおきのう御りっぱなおはたらきを」と、気じょうにおっしゃって、おんなみだをおみせにならずに、じっとがまんをなされましたのはさすがでござります。すえのおふたりのひめぎみたちは西もひがしもおわかりにならぬほどでござりましたから、おの人の手におだかれになって、なんのことゝも夢中でいらっしゃいましたけれども、おちゃ〳〵どのはてゝご父御の方をふりかえり〳〵、いやじゃ〳〵ときつうおむずかりになりまして、なか〳〵なだめすかしてもお泣きやみになりませんので、お供のひと〴〵はそれをみるのが何よりつろうござりました。この姫たちが三人ながらのちに出世をあそばして、お茶々どのが淀のおん方、おはつどのが京極さいしょうどのゝおん奥方常高院どの、いちばんすえの小督こごうどのが忝くもいま将軍家のみだいでおわしますことを、だれがそのときおもいましたでござりましょう。かえす〴〵も御運の末はわからぬものでござります。

のぶなが公はおいちどのや姪御たちをお受けとりになりますと、たいそうおよろこびになりまして「ようふんべつして出て来てくれた」と、ねんごろに仰っしゃって、「あさいにもあれほどことばをつくして降参をすゝめたのに、どこまでもきゝ入れないのは、あっぱれ名をおしむ武士とみえた、あれを死なすのはじぶんのほんいでないけれども、ゆみやとる身の意地であるからかんにんしてもらいたい、そなたもながのろうじょうでさぞくろうをしたことだろう」と、そこは骨肉のおんあいだがらゆえ御じょうあいもかくべつで、わけへだてないおものがたりがござりまして、すぐに織田こうずけの守どのへおあずけなされて、よくいたわってとらせるようにとの御諚ごじょうでござりました。

いくさの方は二十七にちのあさからやんでおりましたが、おいちどのをわたしたうえはもはや猶予することはない、しろをひといきにもみつぶして浅井おやこに腹をきらせるばかりだと、のぶなが公おんみずから京極つぶら尾というところへおのぼりになってそうぐんぜいに下知げぢをなされ、ひらぜめにせめおとせとおっしゃいましたので、えい、えい、おう、と、寄せ手はすさまじいときのこえをあげて責めにかゝったのでござります。このとき御いんきょ久政公の丸にはぞうへい八百ばかりこもっておりまして、四方の持ちくちをかためておりましたけれども、てきは眼にあまる大軍のうえに、しばた修理しゅりのすけどのがさきにたって塀に手をかけ、ひた〳〵と乗りこんで来られましたので、ごいんきょもいまはこれまでとおぼしめされ、いのくちえちぜんの守どのにしばらく寄せ手をさゝえさせて、そのまに御しょうがいなされました。御かいしゃくは福寿庵どのでござります。鶴松太夫と申す舞のじょうずもおりましたが、いつもお供をおおせつかっておりましたおなさけにこんども御しょうばんをさせていたゞきますと申して、おさかずきをいたゞいて、ごさいごをみとゞけてから、ふくじゅ庵どのゝ介錯をつとめ、じぶんはお座敷よりいちだん下の板じきへさがって腹をきりましたそうにござります。そのほか井口どの、赤尾与四郎どの、千田うねめのしょうどの、脇坂久ざえもんどの、みなさま自害なされました。この御いんきょはおとしをめしていらしったのにお気のどくなてんまつでござりましたけれども、かんがえてみればすべて御自分がわるいのでござります。こう云うはめにならないうちに、はやく長政公のおことばにしたがわれて朝倉どのをおみかぎりなされたらようござりましたのに、おだどのゝ御うんせいをみぬく御がんりきもなく、よしないぎりをおたてになってあえなくおはてになりましたのは、たれをうらむことがござりましょう。そればかりか、かっせんの駈けひき、出陣のしおどきについても、御いんきょらしく引っこんでいらっしゃればよいものを、いち〳〵出しゃばって長政公のごけいりゃくをじゃまなされ、勝つべきいくさにおくれをとって、みす〳〵御運をにがしたこともいくたびだったでござりましょう。おだどのがてんまはじゅん天魔波旬のいきおいを持っておられたからとて、ながまさ公のさいはいにおまかせになっていらしったら、これほどのことはござりませなんだ。されば浅井のお家は、一代のすけまさ公、三代のながまさ公、ともにぶそうのめいしょうでいらっしゃいましたのに、二代の久政公の御りょうけんがつたなく、御思慮があさかったばっかりにめつぼうをまねきました。それをおもえば長政公こそおいたわしゅうござります。あわよくば信長公にとってかわりてんがのしおきをなさる御器量をもちながら、おやごのいいつけをおまもりなされて、御じぶんで御じぶんのうんせいをおちゞめなされました。わたくしどもが考えましてさえ歯がゆうて歯がゆうて、あきらめきれないのでござりますものを、おくがたのおむねのなかはどれほどでござりましたことか。なれどもそれも御孝心のおふかいせいでござりましたので、まことにぜひがござりませぬ。

御隠居のまるのおちましたのは二十九にちのうまのこくごろでござりまして、それからは、柴田、木下、前田、佐々の手のものどもが一つになって御ほんまるへおしよせました。ながまさ公はお手まわりの小姓五ひゃくばかりできってゞられさん〴〵にてきをなやましてさっとお引きになりましたので、よせてはくろけむりをたてゝ無二むさんにせめましたけれども、塀へとりつこうとするものを突きおとしはねおとし、てきを一人も丸のなかへ入れませなんだ。それで二十九にちのよるは寄せ手もせめあぐんできゅうそくいたしまして、あくる九月ついたちにまたせめてまいりました。ながまさ公はそのときまで父の御さいごを御存じなく、「下野守どのはどうなされた」と小姓におたずねなされましたところに、「ごいんきょはさくじつ御しょうがいでござります」と申しあげるものがおりましたので、「そうとはゆめにも知らなんだ、それをきくからは此の世になんのみれんがあろう、ちゝうえのとむらいがっせんをしていさざよくおあとを追うばかりだ」と、巳の刻ごろに二ひゃくばかりで切って出られ、むらがるてきをきりふせ〳〵一とあしもひかずたゝかわれましたが、柴田木下のぐんぜいがとうまちくい稲麻竹葦と取りかこみ、味方はわずか五六十人になりましたので、一文字にかけちらし、御ほんまるへ馳せいろうとなされますうちに、敵は御ほんまるをのっとって中から門をかためてしまいましたので、御門の左わきにある赤尾美作守みまさかのかみどのゝ屋形やかたへおのがれになりまして、やがてお腹を召されました。御かいしゃくは浅井日向守ひゅうがのかみ。お供をいたしたひと〴〵は、日向のかみをはじめとして、なかじましん兵衛、なかじま九郎次郎、きむらたろじろう、木むら与次、浅井おきく、わきざかさすけ、などのかた〴〵でござります。てきは信長公のおおせをうけて、なんとかしてながまさ公を生けどりにしようとしたのだそうでござりますけれども、きこゆる剛将がひっしのはたらきのゆえにそんなすきはござりませなんだので、あとから屋形へふみこんでおん首ばかりを戴いたのでござります。

いけどりと云えば、あさい石見守いわみのかみ、赤尾みまさかのかみ、おなじく新兵衛、この三人のかた〴〵は武運つたなく縄目のはじをおうけになって御前へひきすえられました。そのときのぶなが公が、「そのほう共、しゅじん長政にぎゃくしんをおこさせ、としごろひごろようも己をくるしめたな」とおっしゃりましたので、石見どのは強情なじんでござりますから、「わたくし主人あさいながまさは織田どのゝような表裏ある大将ではござりませぬ」と申しあげますと、のぶなが公かっと御りっぷくあそばされ、「おのれ、ふかくにも生けどりになるほどの侍として、ものゝひょうりが分るか」と、やりのいしづきで石見どのゝあたまを三度おつきになりました。なれどもひるむけしきもなく、「手足をしばられているものをちょうちゃくなされてお腹がいえますか、おん大将のこゝろがけはちがったものでござりますな」とにくまれぐちをたゝかれましたので、ついにお手うちになりました。美作どのはおとなしくしておられましたところが、「その方じゃくねんのみぎりより武勇のほまれたかく、おにがみのようにうたわれながらなんとしておくれを取ったるぞ」との仰せに、「とかく老もういたしまして此の通りのしまつでござります」と申され、「いちめいを許して取りたてゝつかわそう」という御諚ごじょうでござりましたけれども、「このうえはなんの望みもござりませぬ」と申されてひたすらおいとまをねがわれました。「しからばせがれの新兵衛を世話してやろう」とかさねて御じょうがござりましたときに、美作どの御子息しんべえどのをかえりみられ、「いや〳〵、御辞退申した方がよいぞ、殿にだまされてわるびれてはならぬぞ」と申されましたので、から〳〵とおわらいなされ、「老いぼれめ、己をうたがっているな、そんなに己がうそつきに見えるか」と仰っしゃって、そのゝちほんとうに新兵衛どのをお取りたてになりました。

小谷のおくがたはおっとながまさ公御しょうがいとおきゝあそばしてから、一とまにとじこもられたきりにち〳〵御回向をあそばしていらっしゃいますと、或る日のぶなが公がお見まいにおいでなされ、「たしかそなたには男の子が一人あったはずだ、その子がたっしゃならわたしが引きとってよういく養育をして長政のあとをつがせてやりたいが」と仰っしゃるのでござりました。おくがたは最初、兄ぎみのこゝろをはかりかねて、「わかはどうなりましたことやら存じませぬ」と申されましたが、「ながまさこそかたきだけれども子どもになんの罪があろう、わたしにはおいになるのだからいとおしゅうてたずねるのだ」と仰っしゃりますので、さてはそれほどにおもって下さるのかとだん〴〵御あんどあそばされ、これ〳〵のところにおりますと、万福丸どのゝかくれがをおもらしになりました。それでえちぜんの国つるがごおりへお使者が立ちまして、木村喜内介きないのすけへ、わかぎみをつれてまいるように仰せつかわされましたけれども、きないのすけは思案をいたし、わかぎみは自分いちぞんを以て斬ってすてましたとおこたえ申しましたところが、その後もさい〳〵おつかいがござりまして、兄うえがあゝまで云われるものをなまじかくしては折角のなさけにそむく、わがみも和子わこのぶじな顔をみたいほどに一日もはやくつれてきておくれと、しきりにおくがたがせつかれるものでござりますから、きないのすけもこゝろえがたくおもいながら、とてもありかを知られたうえはと、万福丸どのゝお供をして、九がつ三日にごうしゅう木之本へまいりました。すると木下藤きちろうどのがむかえに出られて若君をうけとられ、のぶなが公へそのむねを言上いたされますと、「その方その子を討ちはたし、くびを串ざしにしてさらしものにしろ」と仰っしゃりますので、さすが藤吉郎どのもとうわくいたされ、「それまでのことは」と云われましたなれども、かえってお叱りを蒙りまして、よんどころなく御諚のとおりになされました。ながまさ公のお首も、あさくら義景どのゝお首といっしょに、肉をさらし取って朱塗りにあそばされ、よくねんの正月、それを折敷おしきにすえてさんがの大名しゅうへおさかなに出されました。のぶなが公も浅井どのゝためにはたび〳〵あやうい目におあいなされ、よほどおにくしみが深かったのでござりましょうけれども、もとはと云えば御じぶんの方がせいしを反古になされたのでござります。せめて妹御のおんなげきをさっしておあげなされたら、えんじゃのよしみもあるおかたをあれほどになさらないでもようござりましたろうに。とりわけにくしんのなさけをかりてお市どのをあざむかれ、がんぜないお子をくしざしになさるとは、あまりむごたらしいなされかたでござります。されば天正じゅうねんの夏、ほんのう寺においてひごうにおはてなされましたのも、あけちがぎゃくしんばかりではなく、おおくのひとのつもるうらみでござりましょう。いんがのほどはおそろしゅうござります。

のちの太閤殿下、きのした藤吉郎どのがりっしんなされましたのも此のころからでござりました。こんどの城ぜめには柴田どのはじめみな〳〵手柄をきそわれましたなれども、なかについて藤吉郎どのはばつぐんの功をおたてなされ、のぶなが公もなゝめならずおよろこびになりまして、小谷のおしろと、あさいごおりと、坂田ごおりのはんぶんと、いぬがみ郡とを所領にくだされ、江北のしゅごとなされました。そのおり藤吉郎どのは、小谷のおしろは小ぜいにてはまもりがたいと仰せられ、わたくしのこきょう長浜へうつられまして、当時あそこは今浜と申しておりましたのを、このとき長浜とおあらためになったのでござります。

それはとにかく、ひでよし公が小谷のおくがたに懸想けそうなされましたのはいつごろからでござりましたか。わたくしはおくがたがお城をおたちのきなされましたとき、「いっしょにつれて行ってやりたいが、いったんこゝをおちのびてからたよっておいで」と、有りがたい仰せがござりましたものですから、この身はすでになきものとかくごいたしておりましたのがまよいのこゝろをしょうじまして、おのりものゝあとからまぎれ出で、かっせんのしゞゅうを見とゞける迄いちにちふつかは町かたにかくれておりましたけれども、またおそばをしとうて上野守どのゝ御陣へあがりましたところ、気にいりの座頭であるからとおこえがゝりがござりましたので、さいわいにきびしいおとがめもござりませんで、ふたゝび御用をつとめておったのでござります。されば秀吉公がおこしなされましたおりにもたび〳〵お次にひかえておったのでござりますが、はじめて御たいめんのときは、御前へ出られますとはるかにへいふくされまして、「わたくしが藤吉郎にござります」とうや〳〵しい御あいさつでござりましたので、おくがたもつゝましやかに御えしゃくを返され、せんじんの骨折をおねぎらいなされました。ひでよし公は、「わたくし、このたびさせる軍功もござりませぬのに御褒美としてあさいどのゝ所領をたまわり、もったいなくも長政公のおんあとをつぎますことは弓矢とってのめんぼくでござります、たゞこのうえは何事も古きおしおきにしたがって江北をとりしずめ、亡きおん大将の武ゆうにあやかりとうぞんじます」と申され、「陣中のことゆえさぞ御不じゆうでござりましょう、なんぞお手まわりのしなにても御不足のものはござりませぬか、おこゝろおきのうお申しつけくださりませ」などゝ、それは〳〵如在じょさいのないおことばで、おどろくばかりあいそのよいお方でござりました。ことにひめぎみたちにまで何くれと御あいきょうを振りまかれ、御きげんをとられまして、「おひいさまがいちばんのあねさまでいらっしゃいますか、どれ〳〵、わたくしにっこなさりませ」と、お茶々どのをひざの上へおのせなされおぐしをかいておあげなされて、「おとしはいくつ、おなまえは」などゝおたずねになるのでござりました。お茶々どのははか〴〵しい御へんじもなさらずにしぶ〳〵抱かれていらっしゃいましたが、このひとが父御てゝごのしろをせめおとした一方の旗がしらかと、おさなごゝろにもにくゝおぼしめしましたものか、ふと秀吉公のかおをおさしなされ、「そなたは猿に似ているのかえ」とおっしゃりましたものですから、ひでよし公もすこし持てあまされまして、「さようでござります、わたくしは猿に似ておりますが、お姫さまはお袋さまにそっくりでいらっしゃいますな」と申され、はっ、はっ、はっと、わらいにまぎらされました。その後もおいそがしいなかをぬけめなくおみまいにおいでなされ、何やかやとひめぎみたちにまで御しんもつをなされまして、ひとかたならぬおこゝろぞえでござりましたから、おくがたも、「藤きちろうはたのもしいものじゃ」と仰っしゃって、気をゆるしていらっしゃいましたけれども、わたくし、いまからかんがえますのに、お市どのゝ世にたぐいない御きりょうにはやくも眼をおつけなされ、ひとしれず思いをよせていらしったのではござりますまいか。もっとも主人のぶなが公のいもうとであらせられ、けらいの身ではおよびもつかぬ高嶺たかねの花でござりましたからまさかそのときにどうというおつもりもござりますまいが、なにぶん此のみちにかけましたらゆだんのならぬ秀吉公でござります。みぶんのちがいと申しましても、ういてんぺんは世のつねのこと、とり分けえいこせいすいのはげしいのは戦国のならわしでござります。さればながい月日のうちにいつかは此のおくがたをと、ひそかにのぞみをおかけなされましたやら、なされませなんだやら、えいゆうごうけつのこゝろのうちは凡夫にはかりかねますけれども、あながちこれはわたくしの邪推ばかりでもないような気がいたします。

そう云えば万福丸どのを討ちはたすように仰せがござりましたとき、ひでよし公のとうわくなされかたは尋常でなかったと申します。あればかりのわかぎみ一人おゆるされになりましたとて何ほどの事がござりましょうや、それより浅井どのゝみょうせきをおつがせなされ、おんをおきせになりました方がかえって天下せいひつのもとい、仁あり義あるなされかたかとぞんじますと、さま〴〵におとりなしあそばされましたが、おきゝ入れがござりませなんだので、「しからばなにとぞ此のやくを余人におおせつけくださりますよう」と、いつになくさからわれましたところ、のぶなが公はなはだしく御きげんを損ぜられ、「その方こんどの功にほこってまんしんいたしたか、いらざるかんげんだてをなし、あまつさえわがいいつけをしりぞけて余人にたのめとは何ごとだ」と、きびしくおとがめなされましたものですから、しお〳〵と退出されまして、けっきょく若君を御せいばいなされたのだときいております。かれこれおもいあわせますのに、ひでよし公はまんぷくまるどのを害されて、のち〳〵までもおくがたのうらみをお受けなさることがおつらかったのでござりましょう。それもなみ〳〵のころしかたでなく、くしざしにしてさらしものにせよとの御じょうとありましては、なおさらのことでござります。この役まわりがえりにえって秀吉公にわりあてられましたのは、笑止しょうしと申しましょうか、おきのどくと申しましょうか。こうねん柴田どのとこのおくがたの取りあいをなされ、こいにはおやぶれになりましたけれども、ついに勝家公御夫婦をせめほろぼされ、生々よゝのかたきとなられましたのもこのときからのいんねんでがなござりましょう。

当時わかぎみの御さいごのことはおくがたのお耳へいれぬようにと、のぶなが公のおこゝろづかいがござりましたので、たれいちにんも申しあげたものはないはずでござりますけれども、さらしくびにまでなりまして、しょにんのまなこにふれましたことゆえ、うす〳〵世上せじょうのとりさたをおきゝこみになりましたか、またはむしがしらせたと申しますものか、いつからともなくけはいをおさとりあそばしてきっと御しあんなされたらしゅう、それからは秀吉公がおこしになりますとかえってみけしきがすぐれぬようでござりました。なれども或る日、「えちぜんからはあれきりなんのたよりもないが、わかはどうしたことかしらん、とかく夢みがわるいので気になります」と、ひでよし公へおたずねになりましたので、「さあ、いっこうに承知いたしませぬが、いまいちどおつかいをお出しなされましては」と、さあらぬていで申されますと、「でも、そなたが若をうけとりに行ったというではないか」と仰っしゃりましたのが、しずかなうちにもするどいおこえでござりました。こしもと衆のはなしでは、そのときばかりはお顔のいろまでがまっさおにかわって、ひでよし公をはったとおねめつけなされたそうにござります。そんなことから秀よし公は御前のしゅびがわるくなりまして、だん〳〵遠のかれましたのでござります。

さて信長公はわずかのあいだに数箇国をきりなびけられ、こと〴〵くわがりょうぶんにくわえられまして、しょうしへの御ほうび、こうにんのおしおきなど、それ〴〵御さたあそばされ、九がつ九日にはもはや岐阜のおしろにおいて菊の節句をおいわいあそばされました。重陽ちょうようのえんはまいねんのことでござりますけれども、べっしてそのみぎりは大小名がよそおいをこらしてお礼にまいられ、ごんごどうだんのぎしきのありさま、めをおどろかすばかりであったともっぱらのうわさでござりました。おくがたはしょろうと申しふれられてしばらく江北におとゞまりなされまして、どなたにもたいめんあそばされず引きこもっておられましたが、おなじ月のとおかごろ、いよ〳〵尾州びしゅう清洲きよすのおさとかたへおかえりあそばすことになりました。当時信長公はぎふの稲葉やまを本城になすっていらっしゃいましたので、おくがたには閑静なきよすのおしろのほうが御つごうがよかったのでござります。もっとも途中ちくぶしまへさんけいなさりたいと云う仰せでござりましたから、お女中がたやわたくしどもゝおつきそい申しあげまして、長浜よりお船にめされました。おりふし、伊吹いぶきやまにはもう雪がつもっておりまして、みずうみのうえはひとしおさむうござりましたけれども、さえわたった朝のことでござりましたので、とおくちかくの山々まではっきり見えたのでござりましょう、お女中がたはみな〳〵ふなばたにとりついて、ながねんすみなれた土地にわかれを惜しまれ、そらをわたるかりがねのこえ、かもめの羽ばたきにもなみだをながされ、かぜにそよぐあしの葉のおと、なみまにおどる魚のかげにもあわれをもよおされましたことでござります。ふねが竹生ちくぶしまの沖あいへまいりましたとき、「しばらくこゝでとめておくれ」というおことばでござりまして、いちどう何事かと不しんにぞんじておりますと、やがてへさきに経づくえをおなおしなされ、水のおもてにむかってたなごゝろを合わされしずかに御ねんじゅあそばされましたのは、おおかたそのあたりのみなぞこにかの石塔がしずめてあったのでござりましょう。さてはちくぶしまへまいりたいと御意ぎょいなされたのもそういう仔細がおありになったのかと、そのときわれ〳〵もおもいあたりましたのでござります。ふねが波のまに〳〵ゆられて一つところにたゞようておりますあいだ、おくがたは香をおたきあそばして南無徳しょう寺殿天英宗清大居士と、いっしんにおんまなこを閉じられ、あまりながいこと合掌なされていらっしゃいますので、もしやこのまゝ、ふなばたよりおん身をひるがえし、おなじみなぞこのもくずにおなりあそばすのではないかと、おそばのかた〴〵はしんぱいしまして、そっとおめしものゝすそをとらえていたそうでござりますが、わたくしにはたゞ、おくがたのお手のうちで鳴るじゅずのおとがきこえ、たえなる香のかおりがにおってまいったばかりでござります。

それよりしまへおあがりなされて一と夜参籠さんろうあそばされ、あくる日佐和さわやまへおわたりになりまして、いちにちふつか御きゅうそくなされましてから御ほっそくあそばし、どうちゅうつゝがなく清洲きよすのおしろへ御あんちゃくになりました。おさとかたではけっこうな御殿をしつらえてお迎え申し、「小谷のおん方」とおよび申しあげて至極たいせつなおとりあつかいでござりましたから、なに御不自由のないおみのうえでござりましたけれども、姫ぎみたちの御せいじんをたのしみにあさゆう看経かんきんをあそばすほかにはこれと申すお仕事もなく、おとなうお方もござりませんので、もうまったくの世すてびとのような佗びしいおくらしでござりました。それにつけても、いまゝではおおぜいの人目もござりますし、なにやかやとおまぎれになることもござりましたのに、ひねもすうすぐらいお部屋のおくにとじこもっていらしってしょざいなくおくらしなされましては、みじかい冬の日あしでさえもなか〳〵長うござります。しぜんおむねのなかには亡き殿さまのおすがたがおもいうかべられ、あゝいうこともあった、こういうこともあったと、かえらぬむかしをおしのびなされて悲歎にくれていらっしゃいました。いったいおくがたは武門のおうまれでいらっしゃいますから、なにごとにも御辛抱づようござりまして、めったと人にふかくのなみだをおみせになることはござりませなんだが、もはやその頃はおそばの衆と申しましてもわたくしどもばかりでござりましたので、はりつめたおこゝろもいっときにおゆるみなされたのでござりましょう。いまこそほんとうのかなしみにおん身をゆだねられ、ひとけのない奥の間で何をおもい出されましてかしのびねに泣いていらっしゃるのが、ふとお廊下を通りますときに耳についたりいたしまして、とかくお袖のしめりがちな日がおおいようでござりました。

そういう風にして一とゝせ二たとせはゆめのようにすぎましたなれども、そのあいだ、春は花見、あきはもみじがりのお催しなど、お気ばらしにおすゝめいたしましても、「わたしはやめます、おまえたちで行っておいで」と仰っしゃいまして、御じぶんは浮世のほかのくらしをなされ、たゞひめぎみたちをお相手になされますのがせめてものお心やりと見えまして、御きげんのよいおわらいごえのきかれますのはそんなときばかりでござりました。さいわい三人のお子たちはどなたもおたっしゃにおそだちなされ、おんみのたけも日ましにおのびになりまして、いちばんおちいさい小督こごうどのなども最早やおひとりであんよをなされたり、かたことまぜりにものを仰っしゃったりなされましたので、それをごらんあそばすにつけても亡きおっとが御ぞんしょうであられたならばと、またおんなげきのたねでござりました。べっしておふくろさまとしましては、まんぷく丸どのゝ御さいごのことをお忘れなく、いつまでもおいたみなされていらっしゃいましたが、なにぶん御自分のあさはかさから現在のお子を敵におわたしなされまして、あゝいうおかあいそうなことになったのでござりますから、だました人もうらめしく、だまされたわが身もくちおしく、なか〳〵おあきらめになれなかったらしゅうござります。それに福田寺へおあずけなされた末の若君もいまはどうしていらっしゃるやら。よいあんばいに信長公は此のお子のことを御存知なされませんでしたので、いったんはおのがれになりましたものゝ、のみ児のおりにおわかれなされましたきりそのの安否をおきゝにならないのでござりますから、口に出しては仰っしゃりませんでも、雨につけ風につけ、いちにちとしておあんじあそばさないときはなかったでござりましょう。そんなことから一そうひめぎみたちを世にないものにおぼしめしまして、ふたりの若君の分までもかあいがってお上げなされました。

京極さいしょう宰相殿高次公は、ちょうどそのじぶん十三四さいでいらっしゃいましたでしょうか。のちには信長公の小姓をつとめられましたけれども、お元服まえはきよすにあずけられていらっしゃいまして、とき〴〵おくがたの御殿へおこしなされたことがござりました。申すまでもござりませぬが、もと此のお児は浅井どのゝお家にとっては御主筋おしゅうすじにあたられる江北のおん屋形、佐々木高秀公のおわすれがたみでござります。さればがんらいはこのお児こそ近江はんごくのおんあるじでござりますけれども、御先祖高清入道のとき伊ぶきやまのふもとに御いんたいなされましてから、御りょうないは浅井どのゝ御威勢になびいてしまいまして、御じぶんたちはほそ〴〵とくらしていらっしゃいましたところ、せんねん小谷らくじょうのみぎり、のぶなが公が江北に恩をきせようとの御けいりゃくからわざ〳〵此のお児をおよび出しになりまして、小姓におとりたてなされたのでござります。こうねん、天正十年のろくがつ惟任これとうひゅうがのかみのはんぎゃくにくみして安土あづち万五郎のともがらと長浜のしろをおせめなされ、まった慶ちょう五年の九月関ヶ原かっせんのおりには、大坂がたに裏ぎりをなされて大津にろうじょうあそばされ、わずか三千人をもって一まん五千の寄せ手をひきうけられましたのは此のお方でござりますが、まだそのころは、そういう横紙やぶりの御きしょうともみえませなんだ。おとしから云えばわんぱくざかりの時分でござりましたけれども、貴人のおうまれでありながら幼いときよりひかげもの日陰者ゝようにおそだちなされ、どこかにこゝろぼそそうなあわれな御様子がおありになって、御前へ出られてもおくちかずがすくなく神妙にしていらっしゃいましたので、わたくしなどには、いらっしゃるのかいらっしゃらないのか分らないくらいでござりました。もっとも此のお児のおふくろさまは長政公のいもうとでござりましたから、ひめぎみたちとはいとこ同士、おくがたは義理の伯母御におなりなされます。それで万ぷく丸どのゝことをしのばれるにつけても此のお児をいとしがられまして、「わたしが母御のかわりになって上げますよ、用のないときはいつでもこゝへあそびにおいで」と仰っしゃって、なさけをかけてお上げなされ、「あの児はだまっているけれども腹にしっかりしたところがある、きっと利発ものにちがいない」とおほめになっていらっしゃいました。さようでござります、おはつ御料人ごりょうにんと御えんぐみをなされましたのは、それよりずっとのち、七八ねんもさきのことでござりまして、当時は姫ぎみもおちいそうござりましたから、そんなおはなしはござりませなんだ。なれども此のお児は、おはつどのよりもお茶々どのに人知れずのぞみをかけておいでなされ、それとなくお顔をぬすみ見にいらしったのではござりますまいか。もちろんどなたもそう気がついたかたはござりませなんだが、子供のくせに大人のようにおちついていらしって、むっつりとおだまりなされ、いつまでゞも御前にかしこまっておいでなされたのは、何かいわくがおありになったのかとおもわれます。そうでなければ、かくべつおもしろいこともないのにしば〳〵御殿へおこしなされて、窮屈なおもいをあそばしながらじっとすわっていらっしゃる訳もござりますまい。わたくしだけはなんとなく無気味なようにかんじまして、うす〳〵嗅ぎつけておりましたので、「あのお児はお茶々さまに眼をつけているらしい」と、こしもとしゅうに耳うちをしたことがござりましたけれども、めくらのひがみだと申されましてみなさまがおわらいなされ、まじめにきいて下すったかたはござりませなんだ。

さあ、おくがたが清洲にいらっしゃいましたあいだは、小谷のおしろのおちましたのが天しょうがんねんの秋のこと、それよりのぶなが公御逝去のとしの秋ごろまでゞござりますから、あしかけ十年、ざっとまる九ねんの月日になります。まことに光陰は矢のごとしとやら、すぎ去ってみればなるほどそうでござりますけれども、天下のみだれをよそにおながめあそばされ、いつどこに合戦があったとも御存知ないようなひっそりとしたくらしをなされましては、九年というものはずいぶんなごうござります。さればおくがたもいつとはなしに次第にかなしみをおわすれなされ、つれ〴〵のおりにはまた琴などのおなぐさみをあそばすようになりました。それにつれましてわたくしも、すきなみちではござりますし、お気散きさんじにもなりますことゆえ、御ほうこうのあいまには唱歌しょうかやしゃみせんのけいこをはげみ、わざをみがきまして、いよ〳〵御意にかないますように出精しゅっせいいたしましたことでござります。唱歌と申せば、あの隆達節りゅうたつぶしという小唄のはやり出しはたしかそのころでござりまして、

さてもそなたは

しもかあられか初ゆきか

しめてぬる夜の

きえ〴〵となる

などゝ申すのや、それからまた、

りんきごゝろに

枕な投げそ

なげそまくらに

とがはよもあらじ

と申すうた、もっとおかしな文句のものでは、

帯をやりたれば

しならしの帯とて

非難をしやる

帯がしならしなら

そなたの肌もしならし

などゝ、よくみなさまにうたってきかせたことがござります。ちかごろは此のりゅうたつぶしもすたれましたけれども、一時はあれが今の弄斎節ろうさいぶしのように大はやりをいたしまして、きせん上下のへだてなくうたわれたものでござります。太閤でんかゞ伏見のおしろでお能を御らんなされましたときは、隆達どのをおめしになって舞台でうたわせられまして、幽斎公がそれにあわせて小つゞみをお打ちになりました。わたくしがきよすにおります時分は、よう〳〵流行しはじめたころでござりましたから、最初はほんの腰元しゅうの憂さはらしに、扇で拍子をとりながら小ごえでそっとうたいまして、節をおしえて上げたりしたのでござりますが、お女中がたは今申し上げたおかしな文句のうたがおすきで、あれをうたわせてはころ〳〵とおわらいになるものですから、いつしかおくがたのお耳にとまりまして、「わたしにもうたってきかせておくれ」と仰っしゃるのでござりました。「なか〳〵、あなたがたにおきかせ申しますようなものでは」と、御じたい申し上げましても、「ぜひにうたえ」と御意ぎょいなされますので、それからはたび〳〵御前へ出ましてうたったことがござります。「おもしろの春雨や、花のちらぬほどふれ」と申す、あの文句をたいそうおこのみなされ、あれをいつでも御所望あそばされまして、いったいにうき〳〵としたものよりは、しんみりとした、あわれみのふかいものゝ方がおすきのようでござりました。よくわたくしがおきかせ申しましたのは、

しぐれも雪も

をり〳〵にふる

君故なみだは

いつもこぼるゝ

とか、

おもふとも

そのいろ人に

しらすなよ

おもはぬふりで

わするなよ

というような唄でござります。この二つのうたの文句は何かしらわたくしの胸のおもいにかよいますせいか、これをいっしんにうたいますときは、腹のそこより不思議なちからがあふれいで、おのずから節まわしもこまやかになりこえさえ一そうのつやを発しましたので、おきゝになるかたもつねにかんどうあそばされ、又自分でも自分のうたのたくみさにきゝほれまして、こゝろの中のわだかまりがいっときに晴れるのでござりました。それにわたくしはしゃみせんの曲をかんがえまして、文句のあいだにおもしろい合いの手などをくわえて、いちだんとじょうのふかいものにいたしました。こんなことを申しますと何やら自慢めきますけれども、こういう小唄に三味せんを合わせますのは、わたくしなどのいたずらが始めなのでござりまして、まえにも申しましたように、当時は鼓で拍子をとりますのが普通だったのでござります。

とかくはなしが遊芸のことにわたりますようでござりますが、わたくしいつもかんがえますのに、うまれつきおんせいがうつくしく、唄をきようにうたうことが出来ますものは此のうえもなく仕合わせかとぞんじます。隆達どのも元はさかいのくすりあきうどでござりましたのに、うたが上手なればこそ太こう殿下のお召しにもあずかり、ゆうさい公につゞみを打たせていちだいの面目をほどこされました。もっともあのかたはみずから一流をはつめいなされましたほどの名人、それにくらべたらわたくしなどはものゝかずでもござりませぬが、清洲のおしろで十年じゅうねん春秋はるあきをすごしまするあいだ、あけくれおくがたのおそばをはなれず、月ゆき花のおりにふれて風流のお相手をつとめまして、ひとかたならぬ御恩をこうむりましたのも、いさゝかおんぎょくをたしなみましたがゆえでござります。人の望みはいろ〳〵でござりまして、何がいちばんの果報とも申されませぬから、わたくしのようなきょうがいをあわれとおぼしめすかたもござりましょうなれども、じぶんの身にとり此の十ねんのあいだほどたのしいときはござりませなんだ。さればなか〳〵隆達どのをうらやましいともおもいませぬ。それを何ゆえかと申しますのに、おくがたのおことにあわせて三味線のひじゅつをつくし、または御しょもうの唄をおきゝに入れて御しんちゅうのうれいをやわらげ、いつも〳〵おほめのおことばをいたゞいていたのでござりますから、たいこうでんかのぎょかんにあずかりましたよりもずっとほんもうでござります。これもめしいにうまれましたおかげかとおもえば、このとしになりますまで自分のかたわをくやんだことは一ぺんもござりませぬ。

世のことわざに、蟻のおもいも天までとゞくと申します。はかない盲法師めくらほうしでもちゅうぎは人とかわりませぬから、すこしでも御しんろうがえますように、せい〴〵御きげんうるわしゅうおくらしなされますようにと、こゝろをこめておつかえ申し、しんぶつにきがんをかけましたせいか、いや、あながちに、そのせいばかりでもござりますまいが、そのころおくがたはおい〳〵におえあそばされ、いちじはずいぶんやつれていらっしゃいましたのに、又いつのまにかむかしのようにみず〳〵しゅうおなりなされました。おさとへおかえりになりました当座は、お肩のほねといちばんうえのあばらとのあいだに凹みが出来、それがだん〳〵ふかくなりまして、おくびのまわりなどひとしきりの半分ほどにおなりなされ、やせほそられるばかりでござりましたので、りょうじを仰せつかりますたびになみだにくれておりましたところ、三年目、四ねんめあたりから、うれしや日に月にわずかずつ肉がおつきなされ、七八ねん目には小谷のころよりもなまめかしゅうつや〳〵とおなりなされて、これが五人のお子たちをお産みあそばしたおかたとはおもえぬほどでござりました。こしもとしゅうにきゝましても、丸顔のおかおがひところほそおもてになられましたのに、このころはまた頬のあたりがふっくらとしもぶくれにおなりあそばし、それにおくれ毛のひとすじふたすじかゝりました風情ふぜいはたとえようもなくあだめいて、おんなでさえもほれ〴〵したと申します。お肌のいろがまっしろでいらっしゃいましたのはもとより天品でござりますけれども、ながのとしつき日の眼のとゞかぬおくのまに寝雪ねゆきのようにとじこもっておくらしなされ、すきとおるばかりにおなりあそばして、たそがれどきにくらいところでものおもいにしずんでいらっしゃるお顔のいろの白さなど、ぞうっと総毛そうけだつようにおぼえたそうでござります。もっとも物のあやめは、かんのよいめくらにはおおよそ手ざわりで分るものでござりまして、わたくしなども、どんなにいろじろでいらっしゃいますかはひとのうわさをきくまでもなくしょうちいたしておりましたが、おなじ白いと申しましても御身分のあるおかたのしろさは又かくべつでござります。ましておくがたは三十路みそじにちかくおなりあそばし、お年をめすにしたがっていよ〳〵御きりょうがみずぎわ立たれ、ようがんます〳〵おんうるわしく、つゆもしたゝるばかりのくろかみ、芙蓉のはなのおんよそおい、そのうえふくよかにお肥えなされたおからだのなよ〳〵としてえんなることゝ申したら、やわらかなきぬのおめしものがする〳〵すべりおちるようでござりまして、きめのこまかさなめらかさはお若いときよりまたひとしおでござりました。それにしてもこれほどのおかたが早くから不縁におなりなされ、つゝむにあまる色香をかくしてあじきないひとりねのゆめをかさねていらっしゃるとは、なんということか。しんざん深山の花は野のはなよりもかおりがたかいと申しますが、春はお庭にきて啼くうぐいす、あきは山のにかたぶく月のひかりよりほかにうかゞうものゝない玉簾たまだれのおくのおすがたを、もし知るひとがありましたら、ひでよし公ならずとも煩悩のほのおをもやしたことでござりましょうに、とかくよのなかの廻りあわせはこうしたものでござります。

そんなぐあいで、そのころのおくがたは、花さく春のふたゝびめぐりくるときをお待ちあそばす御様子も見えましたが、やはりむかしのおつらかったこと、くやしかったことを、きれいにお忘れにはならなかったらしゅうござります。それと申しますのは、わたくし、あんなことはあとにもさきにもたった一遍でござりますけれども、ある日御りょうじをつとめながらお話のお相手をしておりましたとき、何かのはずみで、おもいがけないおことばを伺ったことがあるのでござります。その日は最初れいになく御きげんのていでござりまして、小谷のころのこと、長政公のおんこと、そのほかいろ〳〵古いことをおもい出されておきかせ下さいましたついでに、ひとゝせ佐和やまのおしろにおいてのぶなが公とながまさ公と初めて御たいめんなされたおりのおものがたりがござりました。なんでもそれはおくがたが御えんぐみなされましてから間もなくのこと、おおかた永ろく年中でござりましたろう、当時さわやまは浅井どのゝ御りょうぶんでござりましたから、のぶなが公はみのゝくによりおこしなされ、ながまさ公はすりはり峠までお出むかえあそばされ、やがておしろへ御あんないなされまして、しょたいめんの御あいさつのゝち、善をつくし美をつくしたるおもてなしがござりました。さてあくる日は、たゞいま天下の大事をひかえてあなたこなたと日をついやすもいかゞであるから、今度はそれがしがこのしろをお借り申し、自分が主人役となって御へんれいをいたそうと、のぶなが公より仰せいだされ、ながまさ公と御いんきょとをおなじしろにおいておふるまいにおよばれまして、おだどのよりの引出物ひきでものには、一文字宗吉のおん太刀をはじめおびたゞしき金子きんす銀子ぎんす馬代うまだいを御けらいしゅうへまでくだしおかれ、あさいどのよりの御かえしには、おいえ重代じゅうだいの備前かねみつ、定家卿の藤川にてあそばされました近江名所づくしの歌書、そのほかつきげの駒、おうみ綿などけっこうなしな〴〵をとゝのえられ、お供のかた〴〵にも御めい〳〵へあらみの太刀やわきざしをおくられました。またおくがたも久々にておん兄ぎみに御たいめんのため小谷よりおこしなされましたので、のぶなが公のおんよろこびひとかたならず、あさいどのゝ老臣がたを御前へおめしになりまして、みな〳〵きかれよ、その方どもの主人びぜんのかみが斯くそれがしの聟になるうえは、にほんこくちゅうは両家の旗になびくであろう、さればそのつもりでずいぶん粉骨ふんこつをぬきんでゝくれたら、きっとおの〳〵を大名にとりたてゝつかわすぞと仰せられ、ひねもす御しゅえんがござりまして、よるは御きょうだい三人にてむつまじくおくのまへおん入りあそばし、ひきつゞいて十日あまりも御たいりゅうなされました。そのあいだの御ちそうには、さわ山の浦に大あみをおろしまして、鯉やら、ふなやら、湖水のうおを数しれずとってさしあげましたところ、これもこと〴〵く御意にかない、美濃のくにではとても見られぬ名物である故、ぜひかえりにはみやげに持ってゆきたいとおおせられ、いよ〳〵御帰じょうのまえの日にふたゝびおんなごりの御しゅえんなどがござりまして、上々じょう〳〵のしゅびにて御ほっそくなされましたとのこと。「あのときは内大臣どのも徳勝寺殿とくしょうじでんさまもほんとうに仲がよさそうににこ〳〵していらしって、わたしもどんなにうれしかったことか」などゝ、そんなおはなしをこま〴〵とあそばされまして、「おもえばあの十日ばかりのあいだがわたしのいちばんしあわせなときでした。それにつけても一生のうちにたのしいおりというものはそうたくさんはないものだね」と仰っしゃるのでござりました。さればそのときはおくがたは申すまでもなく、御けらいたちも両家が不和になろうなどゝは考えてもみませぬことで、みな〳〵せんしゅうばんぜいを祝われたのでござりますが、ながまさ公が兼光のおん太刀を引出物になされましたについて、のちに兎や角申すものがありましたそうにござります。それはなぜかと申しますのに、右のおん太刀は御せんぞ亮政公御ひぞうのお打ち物でござりました由にて、いかにたいせつな御しゅうぎのばあいとはいえ、あゝいう重代のたからを他家へつかわされる法はないのに、そういうことをあそばしたのが、あさいのお家の織田どのにほろぼされる前表ぜんぴょうだったのだと申すのでござります。なれども理窟はつけようでござります。長政公がそれほどの品をおゆずりなされましたのも、つまりはおくがたや義理の兄上をなみ〳〵ならずおぼしめしたからでござりましょう。そのためにお家がほろびたのなんのと、それは世間のなまものしりがたま〳〵事のなりゆきを見てそういう風に云いたがるのではござりますまいか。わたくしがさように申し上げましたら、

「それはおまえのいう通りです」

と、おくがたもおうなずきあそばして、

「舅となり聟となりながら、ほろぼすのほろぼされるのと、そんなことを気にするほうがまちがっています。内大臣どのにしたところで、そのじぶん敵か味方かわからない土地をお通りなされて、わずかのにんずでみのゝくにからはる〴〵おこしになるというのは、容易のことではなかったのです。そのこゝろざしにたいしても、徳勝寺殿さまがあれだけのことをしてあげるのは、ひごろの御きしょうとしてあたりまえだとおもいます」

と仰っしゃって、それからまた仰っしゃいますのに、

「でもおおぜいのけらいのなかには不こゝろえなものもいました。たしか遠藤喜右衛門尉という者だったか、あのときわたしたちが小谷へかえると、あとから馬でおいかけて来て、こよい織田どのはかしわばらで御一宿なされます、よいついでゞござりますから討ち果たしておしまいなされませと、わたしには内證で、そっと殿さまにみゝうちをしたことがありました。おろかなことをいう奴だととのさまはお笑いなされて、おとりあげにはならなかったけれど」

と、そんなおはなしがござりました。

そのみぎり、長政公はすりはり峠までお送りなされ、そこでお別れになりまして、えんどう喜えもんのじょう、あさい縫殿助、なかじま九郎次郎の三人をもって、柏原までのぶなが公のお供をおさせなされたよしにござります。おだどのはかしわばらへおつきになりますと、常菩提院じょうぼだいいんのおんやどへお入りなされ、こゝはながまさの領分だからすこしも心配はないと仰っしゃって、御馬廻りのさむらいたちを町かたへおあずけになり、お近習きんじゅうの小姓しゅうと当番役のものだけをおそばへお置きなされました。えんどう殿はそのありさまを見てとって急にひきかえし、馬にむち打ちもろあぶみにて小谷へはせつき、人をとおざけてながまさ公へ申されますようは、それがしつく〴〵信長公の御ようだいをうかゞいますのに、ものごとにお気をつけられることは猿猴えんこうのこずえをつたうがごとく、御はつめいなことは鏡にかげのうつるがごとく、すえおそろしいおん大将でござりますゆえとても此のゝち殿さまとの折り合いがうまく行くはずはござりませぬ、こよいのぶなが公はいかにも打ちとけておいでなされ、お宿にはほんの十四五人がつめているだけでござりますから、しょせん今のまにお討ちとりなされるのが上分別じょうふんべつかとぞんじます、いそぎ御決心なされて御にんずをお出しあそばされ、おだどの主従をこと〴〵く討ち取って岐阜へらんにゅうなされましたなら、濃州尾州はさっそくお手にはいります、そのいきおいにて江南の佐々木をおいはらい、都に旗をおあげなされて三好をせいばつあそばされるものならば、てんがを御しはいなされますのはまたゝくうちでござりましょうと、しきりに説かれましたそうでござります。そのときにながまさ公の仰せに、およそ武将となる身にはこゝろえがある、はかりごとをもって討つのはよいが、こちらを信じて来たものをだまし討ちにするのは道でない、のぶながゞ今こゝろをゆるしてわが領内にとゞまっているのに、そのゆだんにつけ入って攻めほろぼしては、たとい一たんの利を得てもついには天のとがめをこうむる、討とうとおもえば此のあいだじゅう佐和山においても討てたけれども、おれはそんな義理にはずれたことはきらいだと仰っしゃって、どうしてもおもちいになりませなんだので、遠藤どのもそれならいたし方がござりませぬが、あとでかならず後悔あそばされるときがござりますぞと申されて、またかしわばらへおもどりなされ、なにげないていで御馳走申しあげまして、あくる日無事にせきがはらまでお見おくりなされましたとやら。おくがたは此のいきさつをくわしくおきかせくださりまして、

「しかし遠藤の云ったことにも、いまかんがえれば尤もなふしがあるようにおもわれる」

と、そうおっしゃるのでござりましたが、そのときふいにおこえがふるえて、異様にきこえましたので、なにかわたくしもはっといたしてうろたえておりますと、

「一方がいくら義理をたてゝも、一方がたてゝくれなかったらなんにもならない。てんがを取るにはちくしょうにもおとったまねをしなければならないのかしら」

と、ひとりごとのように仰っしゃって、それきりじっといきをこらえていらっしゃるではござりませんか。わたくし、これはとおもいまして、お肩をもんでおりました手をやすめて、

「はゞかりながら、おさっし申しあげております」

と、おぼえずへいふくいたしました。するとおくがたはもう何事もなかったように、

「御苦ろうでした」

と仰っしゃって、

「よいからあちらへ行っておくれ」

というおことばでござりますので、いそいでおつぎへさがりましたけれども、そのときはやくはなをすゝっていらっしゃるおとがふすまをへだてゝきこえたのでござります。それにしてもついさっきまでは御きげんがようござりましたのに、いつのまにかみけしきがおかわりなされ、いまのようなことを仰っしゃったのはどうしたわけか。はじめはたゞ、なつかしいむかしがたりをあそばしていらっしゃるうちに、だん〳〵お話に身がいりすぎて、おもい出さずともよいことまでおもい出されたのでござりましょうか。はしたない奉公人なぞに御心中をおもらしなされますようなおかたではござりませなんだのに、しゞゅうおむねのおくふかくこらえてばかりおすごしなされましたのが、御自分でもおもいもうけぬときにはからずお口へ出たのかもしれませぬ。なれども小谷のころのことを十とせにちかい今となってもおわすれなさらず、これほどつよく根にもっておいでなされ、とりわけおん兄のぶなが公へそれまでのおにくしみをかけていらっしゃいましたとは。夫をうばわれ子をうばわれた母御のうらみはなるほどこういうものだったかと、わたくしそれをはじめて知りまして、もったいなさとおそろしさとにそのあとしばらくからだのふるえが止まなかったくらいでござります。

まだこのほかにもきよすにいらしった時分のことはおもいでばなしがかず〳〵ござりますけれども、あまりくだ〳〵しゅうござりますからこれほどにいたしておきまして、それよりのぶなが公のふりょの御さいごをきっかけに、このおくがたがふたゝび御えんぐみあそばすようになりました始終を申し上げましょう。もっとも信長公御せいきょのことはかくべつ申し上げませいでもあなたがたはよく御ぞんじでいらっしゃいます。あの本のう寺の夜討ちのござりましたのが天正じゅう年みずのえうまどしのろくがつ二日。なにしろかようなへんじ変事出来しゅったいいたそうとはたれいちにんもゆめにもおもいつかなんだことでござります。そのうえおん子城介どのまでがおなじく二条の御所においてあけちが兵に取りこめられて御せっぷくあそばされ、御父子いちどに御他界と知れましたときはまったく世の中がわきかえるようなさわぎでござりました。おりふし御次男きたばたけ中将どのは勢州に御座あそばされ、御三男三七どのは丹羽五ろざえもんどのと御いっしょに泉州堺の津においでなされ、しばた羽柴のかた〴〵もそれ〴〵とおくへ御出陣でござりまして、あづちのおしろにはお留守居役の蒲生がもう右兵衛大夫どのが手うすのにんずで御台みだいやお女中さまがたをしゅごしておいでなされました。それで侍をはだか馬にのせて御城下へふれあるかせ、「さわぐな〳〵」と取りしずめて廻られましても、まちかたの者はいまにもあけちが攻めて来ると申して泣くやらわめくやらのうろたえ方でござります。右兵衛だいふどのも最初は安土にろうじょうのかくごでおられましたけれども、こゝではこゝろもとないとおもわれましたか、また急に模様がえになりまして、御台やお局さまがたを早々におつれ申し上げて御自分の居城日野谷へたちのかれました。それが三日のの刻だそうで、五日には早や日向守があづちへまいりなんなくおしろを乗っとりまして、けっこうなお道具類やきんぎんのたからがそのまゝになっておりましたのをこと〴〵く己れのものになし、家来たちにもわけあたえたと申すうわさでござりました。あづちがそんなふうでござりますから、岐阜でもきよすでも、さあもう今にあけちが寄せて来はせぬかと上を下へのそうどうをいたしておりますと、そのさいちゅうに前田玄以斎どのが岐阜のおしろから城介どのゝ御台やわかぎみをおつれなされて清洲へにげてこられました。このわかぎみはのぶなが公の御嫡孫にあたらせられる後の中納言どの、当時は三法師どのと申し上げてわずか三つにおなりなされ、おふくろさまがたといなば山の居城にいらっしゃいましたが、あのものたちをぎふ岐阜に置いてはあやういから早くきよすへ逃がすようにと、城介どの御自害のとき玄以斎どのへ御ゆいごんがござりましたので、玄以斎どのはたゞちにみやこをのがれ出てぎふへまいられ、御自分でわかぎみを抱きかゝえて逃げてこられたのでござります。そうするうちにあけちのぐんぜいは佐和やま長浜の諸城をおとしいれて江州をいちえんに切りなびけ、蒲生どのゝたてこもる日野じょうへとりつめてまいりました。勢州からは北畠中将どのがそれをすくおうとおぼしめされ近江路へ打って出られましたけれども、途中こゝかしこに一揆がおこってなか〳〵すゝむどころではござりませんので、一時はまったくどうなることかとおもっておりますと、やがて三七のぶたか公と五郎ざえもんのじょうどのと一手になって大坂へ馳せのぼられ、ひゅうがのかみの聟織田七兵衛どのを討ちとったと申すしらせがござりました。ひゅうがのかみもそれをきゝますと日野をあけち弥平次にまかせて十日に坂本へ帰陣いたし、十三日にやまざきのかっせん、十四日にはもはやひでよし公三井でらに着陣あそばされ、ひゅうがのかみの首としがいとをつなぎあわせて粟田口あわたぐちにおいてはりつけになされました。さあそのかちいくさのひょうばんが又たいへんでござりまして、このかっせんには三七どの、五郎ざえもんどの、いけ田きいのかみどのゝめん〳〵ひでよし公とちからをあわせておはたらきでござりましたけれども、なかんずく秀吉公は毛利ぜいとのあつかいをさっそくにらちあけ、十一日の朝にはあまがさきへとうちゃくあそばされまして、そのかけひきのすみやかなることはまことに鬼神をあざむくばかり。ひゅうがのかみは最初すこしもそれをしらずにやまざきへじんを取りましたが、のちにひでよし公ちゃくじんときゝましてあわてゝにんずをたてなおしたと申します。そんなしだいで自然ひでよし公がそうだいしょうにおなりなされかようにじんそくにしょうぶが決しましたので、にわかに御いせいがりゅう〳〵として御一門のうちに肩をならべるものもないようになられました。

きよすのおしろへもおい〳〵上方かみがたから知らせがまいりまして、まあともかくもひとあんしんとみな〳〵よろこんでおられましたが、そのうちにおんこの大名小名がたがだん〳〵に駈けつけて来られました。もうその時分、あづちのおしろはあけちの余類が火をつけて焼いてしまいましたし、ぎふにはどなたもいらっしゃいませんし、なんと申しても清洲がもとの御本城でござりまして三法師ぎみもいらっしゃることでござりますから、まず一往はどなたもこゝへ御あいさつにおこしなされます。わけてもしゅりのすけ勝家公は越中おもてゞほんのう寺の変事をおきゝなされ、かげかつ公と和睦なされていそぎとむらいがっせんのためみやこへ上られますところに、はやくも日向守うちじにのよしをやなヶ瀬において御承知あそばされまして、それよりたゞちにこちらへおいでなされました。そのほか北ばたけのぶかつ公、三七のぶたか公、丹羽五ろざえもんのじょうどの、いけだ紀伊守どの御父子、はちや出羽守どの、筒井じゅんけいどのなど、十六七日ごろまでにみなさま御あつまりでござりまして、ひでよし公も京都において亡君のお骨をひろわれましてから、いったん長浜の御本領へおたちよりあそばして、ほどなくおこしなされました。のぶなが公御在世のみぎりは、きよすより岐阜、ぎふよりあづちと御本城をおすゝめあそばされ、めったにこちらへおかえりなされますこともござりませず、ながいあいだひっそりいたしておりましたので、かくおれき〳〵の御けらいしゅうがおそろいあそばすのはほんとうにひさしぶりでござりました。それに柴田どのをはじめ先君せんくんと御苦ろうをともになされました旧臣のかた〴〵がいまではいずれも一国一じょうのおんあるじ、おおきは数ヶ国の大々名だい〳〵みょうにおなりなされ、きらをかざり美々しき行列をしたがえて引きもきらずに御ちゃくとう着到なされますので、御城下はきゅうにこんざついたしまして、しめやかなうちにもたのもしい気がいたしたことでござります。

さて御城内におきましては、十八日からひろまにおより合いなされまして御ひょうじょうがござりましたが、くわしいことは存じませぬけれ共、亡君のおん跡目相続のこと、明地闕国あきちけっこくの始末についての御だんごう談合らしゅうござりました。それが何分にも御めい〳〵に御りょうけんがちがいますことゝて、なか〳〵まとまりがつきませんで、引きつゞき毎日のように夜おそくまでおあつまりなされ、ときにはけんかこうろんにも及ばれましたときいております。まあじゅんとうに申しますれば三法師ぎみが御嫡流でいらっしゃいますけれども、御幼少のことでござりますから、いまのばあいは北畠どのをおあとへすえようと仰っしゃる方々もござりますし、そんなことで何や彼やとむずかしくなったのでござりましょう。しかしけっきょく御家督の儀は三ぼうしぎみにきまりましたものゝ、柴田どのとひでよし公とがはじめから折りあいがあしく、こと〴〵にあらそわれたようでござりました。それと申しますのが、秀吉公はこんどの功労第一のお方でござりまして、ない〳〵こゝろをお寄せなさるかた〴〵がおられますところに、かついえ公はお家の長老でいらっしゃいますから、御連枝ごれんしさまをのぞいてはいちばんの上席におつきあそばし、万事につけて列座の衆へ威をふるおうとなされます。ことに御知行おちぎょうわりにつきかついえ公せんだん専断をもって秀よし公へ丹波のくにをおあたえなされ、御じぶんはひでよし公の御本領たる江州長浜六まんごくの地をおとりなされましたのが、双方の意趣をふかめるもとになったと申します。なれどもこれはまあおもてむきでござりまして、まったくのところは、御両人ながら小谷のおん方にけそうしておいでなされ、どちらもおくがたをわが手に入れようとあそばしたのが事のおこりかとぞんじます。

これより先にかついえ公は、きよすにおつきなされますとおくがたへお目どおりあそばされましてねんごろな御あいさつでござりましたが、そのゝち三七どのへみつ〳〵におたのみなされましたとみえ、或る日三七どのおくがたの御殿へおこしなされましてかついえ公へ御さいえんの儀をおすゝめなされたらしゅうござります。おくがたも、そこはなんと申しましてもおん兄ぎみにたよっていらっしゃいましたことゆえ、御ぞんしょうのうちこそおにくしみもござりましたけれども、やはり今となりましてはひとかたならずおなげきあそばし、むかしのうらみもおわすれなされてひたすら御えこうをつとめていらっしゃいました折柄、このさき御自分の身はともかくも、三人のひめぎみたちのゆくすえをおもわれますと、だれをちからになされてよいか途方にくれていらしったのでござりましょう。さればかついえ公の浅からぬこゝろをおきゝになりまして、にくからずおぼしめしましたか、まあそれほどでないまでも、あながちおいやではなかったらしゅうござりますが、一つには徳勝寺でんさまへみさおをおたてなさりたく、一つには小谷どのゝ後室こうしつとしておだ家の臣下へおくだりなされますことゆえ、そのへんのおかんがえもござりまして、さしあたりとこうの御ふんべつもつかずにいらっしゃいましたところ、ほどなくひでよし公よりもおなじおもいを申しこされたようにござります。もっともそれはどなたが仲だちをなされましたか、おおかた北畠中将どのあたりでござりましたろうか。なにゝいたせ北畠どのは三七どのと腹ちがいの御きょうだいでいらっしゃいまして、どちらも御れんし連枝であらせられながらおもしろからぬおん間柄でござりましたから、一方がかついえ公の肩をもたれましたにつけ、一方がひでよし公のしりおしをなされたのでもござりましょう。もとよりふかく立ち入ったことはしかと申しあげかねますけれども、お女中がたがより〳〵にひそ〳〵ばなしをなされますのを、わたくし小耳にはさみまして、さてはひでよし公、小谷のときよりれんぼなされていらしったのだ、あの時そうとにらんだことはやっぱり邪推ではなかったわいと、ひそかにおもいあたりましたことでござります。それにしても十年以来、たえずせんぐんばんばのあいだを往来あそばし、あしたに一塁をぬきゆうべに一城をほふられるおはたらきをなされながら、そのおいそがしいさなかにあってなおおくがたのおんおもかげを慕いつゞけていらしったのでござりましょうか。昔をいえば身分の高下もござりましたものゝ、このたびやまざきの一戦に亡君のうらみを晴らされ、あわよくば天下をこゝろがけていらしったお方のことでござりますから、いまこそ御執心ごしゅうしんをいろにお出しになりましたものとおもわれます。しかし、ひでよし公はそうとしましても、武強いっぺんのおかたとばかりみえましたかついえ公までがやさしい恋をむねにひそめていらっしゃいましたとは、ついわたくしも存じ寄らなんだことでござります。ひょっとしましたら、これはいろこいばかりではなく、三七どのとしばたどのとがしめし合わされ、とくよりひでよし公の御心中を見ぬかれまして、わざとじゃまだてをなされたのでもござりましょうか。まあいくぶんかそういう気味がござりましたかもしれませぬ。

なれどもひでよし公へ御さいえんの儀は、じゃまがありましてもありませいでもまとまる道理はござりませなんだ。おくがたはその御そうだんをお受けになりましたとき、「藤きちろうはわたしをめかけにするつもりか」と仰っしゃって、もってのほかのみけしきでござりましたとやら。なるほど、ひでよし公には朝日どのと申すおかたがまえからいらっしゃいますから、そこへおかたづきなされましては、いくら御本妻同様と申してもやはりお妾でござります。それにのぶなが公御他界のゝちとなりましては、小谷のおしろぜめのときいちばんに大功をあらわして浅井どのゝ御りょうぶんを残らずうばい取ったものも藤吉郎、まんぷく丸どのをだまし討ちにして串ざしにしたものも藤吉郎、一にも二にも、にくいのは藤きちろうのしわざだと、おん兄ぎみへのうらみをうつしてひでよし公へいしゅをふくんでいらしったかとぞんじます。まして織田家のおん息女たるお方が、ちかごろきゅうに羽ぶりがよいとは申しながらうじもすじょうもさだかにしれぬ俄分限者にわかぶげんしゃのおめかけなどに、なんとしてなられましょうや。どうせ一生やもめをおとおしになれぬものなら、ひでよし公よりはかついえ公をとおぼしめすのは御もっともでござります。そういう次第で、まだはっきりと御決心がついたわけではござりませなんだが、うす〳〵それが御城中へ知れわたったものでござりますから、なおさら御両人の不和がこうじてしまいました。ぜんたいかついえ公の方には、御自分が亡君のあだをむくいるべきおん身として、その手がらをよこどりされたそねみがござります。ひでよし公には恋のねたみ、りょう地を取られたいこんがござります。されば御列座のせきにおいてもたがいにそれを根におもちなされ、一方がこうとおっしゃれば、一方がいやそれはならぬと、眼にかどたてゝあらそわれまして、御れんし御きょうだいをはじめその余のだいみょう衆までが柴田がたと羽柴がたとにわかれるというありさまでござりました。そんなことから、御ひょうじょうのさいちゅうに柴田三左えもん勝政どの勝家公をそっとものかげへまねかれまして、いまのまにひでよしを斬っておしまいなされませ、生かしておいてはおためになりませぬとさゝやかれましたけれども、さすが勝いえ公は、こんにちわれ〳〵御幼君をもりたてゝまいるべきばあいに、どうし討ちをしては物わらいのたねになるからと仰っしゃって、おゆるしにならなかったと申します。それかあらぬか、ひでよし公も御用心あそばされ、夜中やちゅうしば〳〵かわやへ立って行かれましたところ、丹羽五ろざえもんのじょうどのお廊下において秀吉公をよびとめられ、天下にのぞみを持たれますならかついえを斬っておしまいなされと、おなじようなことを申されましたが、何しにかれを敵としようぞと、これも御しょういんなさらなかったそうにござります。なれども長居ながいは無用とおぼしめされましたか、御ひょうじょうがおわりますと、夜半やはんにきよすをしのんでおたちのきあそばされ、みのゝくに長松をすぎてながはまへおかえりなされまして、一旦は無事におさまりましたことでござます

そのゝち三法師ぎみは安土へおうつりなされまして、はせ川丹波守どの、まえだ玄以斎どのがお守り申し上げ、御成人のあかつきまで江州において三十万石をお知行ちぎょうあそばし、きよすのおしろには北畠ちゅうじょうどの、岐阜には三七のぶたか公がおすまいあそばすことになりまして、大名しゅうもみな〳〵かたく誓紙をかわされ御帰国におよばれましたが、おくがたの御さいえんの儀がさだまりましたのはそのとしの秋のすえでござりました。この御えんだんは三七どのゝおとりもちでござりますから、おくがたはきよすより、かついえ公はえちぜんより岐阜のおしろへおこしなされ、かの地において御祝言がござりまして、それより御夫婦御同道にて姫ぎみたちをおつれあそばし、ほっこくへおくだりなされました。その前後のことにつきましては、人によっていろ〳〵に申し、さま〴〵なうわさがござりますけれども、わたくしはそのみぎりお行列のなかにくわゝりましてえちぜんへお供いたしましたことゝて、あらましは存じております。当時、ひでよし公がこのお輿入こしいれのことをきゝおよばれ、かついえ公をえちぜんへかえさぬと仰っしゃって長浜へ御出陣あそばされ、おとおりを待ちかまえていらっしゃると申す取り沙汰がもっぱらでござりましたが、いけだ勝入斎どのゝおあつかいにておもいとまられましたとも、またそんなことは根もない世上の風説であったとも申します。もっともひでよし公の御名代として御養子羽柴秀勝公ぎふのおしろへおこしなされ、御祝儀を申しのべられまして、このたび父ひでよしこと、さしさわりのため参賀いたしかねますについては、追って柴田どの御帰国のさい路次においておまち申しあげ、おんよろこびのしるしまでに一こんさしあげたくと、そういう御口上でござりましたので、かついえ公もこゝろよく御承引なされ、ひでよし公の御饗応をおうけあそばすおやくじょうになっておりました。しかるところ急にえちぜんよりお迎えのかた〴〵がにんずを引きつれて駈けつけて来られまして、何かもの〳〵しい御そうだんがござりましたが、秀勝公へは使者をもっておことわりにおよばれ、夜中やちゅうにわかに北国おもてへ御ほっそくなされました。さればひでよし公の御けいりゃくがござりましたかどうか、わたくしのぞんじておりますところは右のとおりでざります。

それにしても、おくがたはどのようなおこゝろもちで御下向ごげこうなされましたか。とかく再縁となりますと、いくらおりっぱな御こんれいでもさびしい気がするものでござります。おくがたも浅井家へおこしいれのみぎりは儀式ばんたんきらびやかなことでござりましたろうが、いまはおとしも三十をおこえなされ、かず〳〵の御くろうをあそばしたすえに、三人の連れ子をともなわれて雪ふかき越路こしじへおもむかれるのでござります。それが、またどうしたいんねんか、おみちすじまでが此のまえとおなじ駅路えきじをたどってせきがはらより江北の地へおはいりなされ、なつかしいおだに小谷のあたりをおとおりになるではござりませんか。けれどもこのまえはえいろく十一ねん辰どしの春だったそうでござりますが、こんどはそれより十五六ねんのとしつきをすぎ、秋とはいいながらもう北国はふゆの季節でござります。まして夜中やちゅうにあわたゞしい御しゅったつでござりましたから、なんの花やかなこともなく、中にはまた、ひでよし公のぐんぜいが途中でおくがたをいけどりに来るなどゝ、あらぬうわさにまどわされておさわぎになるお女中がたもおられました。のみならず道中のなんじゅうなことゝ申したら、おりあしくいぶきおろし伊吹颪がはげしく吹きつけ、すゝむにしたがってさむさがきびしく、木の本柳ヶ瀬あたりよりみぞれまじりのあめさえふってまいりけんそ嶮岨な山路に人馬のいきもこおるばかりでござりまして、ひめぎみたちや上﨟がたのおこゝろぼそさはさぞかしとさっせられました。わたくしなども旅にはわけて不自由な身でござりますからつらさはひとしおでござりましたが、しかしそんなことよりは、このさむぞらに山また山をおこえなされて見もしらぬ国へおいであそばすおくがたのさき〴〵をおあんじ申し上げ、なにとぞ御夫婦仲がおんむつまじくまいりますように、このたびこそは幾久敷いくひさしくお家もさかえ、共白髪ともしらがのすえまでもおそいとげなされますようにと、たゞそればかりをおいのり申しておりました。なれども、さいわいなことにかついえ公はおもいのほかおやさしいおかたでござりまして、亡君のいもうとごということをおわすれなく御たいせつにあそばされましたし、人の恋路をさまたげてまでおもらいなされたゞけあって、ずいぶんかあいがってお上げなされましたので、北の庄のおしろにつかれましてからは、おくがたも日々に打ちとけられ、殿のおなさけをしみ〴〵うれしゅうおぼしめしていらっしゃいました。そういう風でおもてはさむくとも御殿のうちはなんとなく春めいたこゝちがいたし、まあこれならば御えんぐみあそばしたかいがあったと、しも〴〵の者も十年ぶりでうれいのまゆをひらきましたのに、それもほんのつかの間でござりまして、もうその年のうちにかっせんがはじまったのでござります。

最初、かついえ公は此のじゅうのことを水にながして仲直りをなさろうとおぼしめされ、御こんれいがござりましてから間もなく、のちの加賀大納言さま利家公、不破の彦三どの、かなもり五郎八どの、ならびに御養子伊賀守どのをお使者になされてかみがたへおつかわしになり、ほうばい同士矛盾むじゅんにおよんでは亡君の御位牌にたいしてももうしわけなくぞんずるゆえ、こんごはじっこんにいたしたいと申されましたので、そのときはひでよし公もたいそうおよろこびあそばされ、それがしとても同様に存じておりましたところ、わざ〳〵おつかいにてかたじけのうござります、しゅりのすけどのは信長公の御老臣のことでもござれば、なんで違背いはいいたしましょうや、これからは万事おさしずをねがいますと、れいのとおり如在じょさいない御あいさつでござりまして、お使者のかた〴〵を至極にもてなされておかえしになりました。それで殿さまがたは申すまでもなく、わたくしどもまでも御両家おんわぼくの儀をうかゞいまして、もうこのうえはいやなしんぱいもなくなるであろう、おくがたのおん身にもまちがいはなかろうと、ほっとむねをなでおろしておりますと、それから一と月とたちませぬうちに、ひでよし公すうまん騎をひきいて江北へ御しゅつじんなされまして、ながはまじょうを遠巻きになされました。なんでもこれには仔細のありましたことらしく、ひでよし公が北の庄のごけいりゃくの裏をかゝれたのだと申すおかたもござります。なぜかと申しますなら、ほっこくは冬のあいだは雪がふこうござりまして、ぐんぜいをくり出すことができませぬから、とうぶんは和ぼくのていにとりつくろい、らいねんの春ゆきどけを待って岐阜の三七どのとしめしあわされ上方へせめのぼるように、御そうだんがとゝのっておったのだと申すことでござります。まあどちらがどうやらわたくしどもにはわかりませぬが、当時ながはまには御養子いがのかみどのがこもっていらっしゃいましたのに、ひごろ勝家公にたいしうらみをふくんでおられましたよしにて、たちまち羽柴がたに同心なされ、おしろをあけわたしてしまわれましたので、上方ぜいはうしおのごとくみのゝくにゝらんにゅういたし、岐阜のおしろにせめよせたのでござります。北の庄へもしきりに知らせがまいりまして、櫛の歯をひくような注進でござりますけれども、十一月という極寒の折柄、そとはいちめんのおおゆきでござりまして、かついえ公はまいにちくちおしそうに空をおにらみあそばされ、おのれ、猿めがだましおったか、この雪でさえなくば、わが武略をもって卵を石になげるよりもやすく上方ぜいをもみつぶしてくれようものをと、お庭のゆきをさん〴〵に蹴ちらして歯がみをなされますので、おくがたははら〳〵あそばしますし、おそばの者はおそろしさにふるえあがるばかりでござりました。羽柴がたのぐんぜいはそのまに破竹のいきおいをもってみのゝくにをたいはん切りなびけ、岐阜をはだかしろにしましたのがわずか十五六にちのあいだのことでござりまして、三七どのもよぎなく丹羽どのをおたのみなされ降参を申し出られましたところ、なにぶん先君の御連枝ごれんしのことでござりますから秀吉公もかんにんあそばされ、しからば御老母をひとじちにいたゞきますと仰っしゃって、おふくろさまを安土のおしろへおうつし申し、かちどきをあげて上方へお引きとりなされました。

そうこうするうちに天正じゅうねんのとしもくれまして正月をむかえましたけれども、ほっこくはまだかんきがはげしく、雪は一向にきえそうもござりませぬし、かついえ公は「小癪な猿めが」と仰っしゃるかとおもえば、「にくらしい雪めが」と雪を目のかたきにあそばされ、いら〳〵なされておられますので、初春の御祝儀も型ばかりでござりましてそれらしい気もいたしませなんだ。ひでよし公の方では、この雪のあいだに柴田がたの大名しゅうを御せいばつなさるおぼしめしとみえ、年があらたまりますとふたゝびたいぐんをもって勢州へ御しんぱつなされまして滝川左近将監しょうげんどのゝ御りょうぶんを切り潰され、しきりにかっせんのさいちゅうと申すしらせがござりました。さればほっこくも今はしずかでござりますけれども、雪がきえしだいかみがたぜいとの取り合いになるのは必定ひつじょうでござりますので、おしろの中はその御用意にいそがしく、みなさまがそわ〳〵しておられます。わたくしなどはこんなばあいになんのお役にもたちませぬから、手もちぶさたにしょんぼりといたして炉ばたにすくんでおりましたが、それにつけてもあけくれむねをいためますのは、おくがたのことでござります。あゝ、ほんとうに、このありさまではおち〳〵殿さまとおものがたりをあそばす暇もないであろう、せっかくおちつかれたのにこのようなことになるのだったら、きよすにいらしった方がよかったかもしれない、どうか味方が勝ってくれゝばよいが、またしてもこのおしろがしゅら修羅のちまたと化して小谷のようなまわりあわせになるのではないかと、そうおもうのはわたくしばかりでなく、お女中がたもよるとさわるとそのはなしでござりまして、いや〳〵、それでもまさかうちのとのさまがお負けになることはあるまいから、とりこしくろうはせぬものだなどゝ、たがいになぐさめあっておりましたことでござります。

すると、ちょうどこのおりからに、ある日きょうごく高次公がおくがたをたよって北の庄へにげていらっしゃいました。むかし、きよすにおいでなされたころは御元服まえでござりましたが、いつのまにかおりっぱな冠者かじゃにおなりなされ、世が世ならばもういまじぶんはひとかどのおんたいしょうでござりますけれども、のぶなが公の御おんにそむいてぎゃくぞくこれとう日向守の味方をなされましたばかりに天地もいれぬ大罪人におなりなされ、ひでよし公の御せんぎがきびしく近江のくにをあちらへのがれこちらへのがれしておられましたところ、このたび江北がさわがしくなるにつれていよ〳〵身のおきどころがなくなられまして、ぎりの伯母のおそでにすがろうとおぼしめしたのでござりましょう。わずかにひとりふたりの供をつれられて、みのかさにすがたをかくしおおゆきのなかを山ごしに逃げていらっしゃいまして、おしろへおつきなされたときは見るかげもなくおやつれなされていらしったと申すことでござります。それからおくがたの御前へ出られまして、「おそれながらおちうど落人の身をかくまってくださりませ、わたくしのいのちを生かすもころすも伯母うえのおこゝろひとつでござります」と申されましたが、おくがたはその御ようすをつく〴〵と御らんあそばし、「そなたはまあ、あさましいことをしてくれました」とおっしゃったきり、しばらくなんのおことばもなく、たゞおんなみだでござりました。しかしそのゝちどういう風にかついえ公へおとりなしをなされましたか、ほかならぬおくがたのお口ぞえでござりますし、あけちのざんとうとは申しながら、ひでよし公に追われて来たというところに、とのさまもふびんをおかけなされましたか、ではまあゆるしてつかわそうと仰っしゃりまして、おしろにすまわせておかれました。たかつぐ公がおはつどのと内祝言をなされましたのはこのときのことでござりまして、わたくし、それにつきましては、うそかほんとうか、或るお女中からおもしろいはなしをうかゞっております。と申しますのは、たかつぐ公のおのぞみはやはりお茶々どのでござりましたけれども、お茶々どのが「浪人ものはいやです」と仰っしゃっておきらいなされましたので、不本意ながらおはつどのをもらわれたのだそうでござります。いったいおちゃ〳〵御料人ごりょうにんはおちいさいときから気ぐらいのたかいところがおありなされ、ことにはやくよりおふくろさまのお手一つで成人なされましたせいか、なか〳〵わがまゝでいらっしゃいましたから、そのようなこともおっしゃったであろうとおもわれますが、「浪人もの」とあなどられた高次公はさだめし御むねんでござりましたろう。のちにせきがはらのかっせんのみぎり、かんとうがたへうらぎりなされましたのも、このときのちじょくをおわすれなく、淀のおんかたへうらみをふくんでいらしったからではござりますまいか。こんなことも邪推でござりましょうけれども、もと〳〵北の庄へ逃げていらっしゃいましたのが、伯母御にたよられるというよりも、きよすのころにおみそめなされたお茶々どのをしたわれて来られたのかとさっせられます。そうでなければ、若狭の太守武田どのには実のいもうと御がかたづいていらっしゃいましたのに、なにしにえちぜんへおいでなされましょう。こちらのおくがたは伯母御と申しても義理のおんあいだがら、ことにいまではさいえんのお身のうえと申し、あけちのよるいとして柴田どのをたよられるすじはないのみか、ひとつまちがえばさらしくびにもなりかねませぬ。それをおかして、あのゆきのふるなかをこちらへ逃げていらっしゃいましたのは、筒井づゝのむかしこいしく、おちゃ〳〵どのゆえにいのちをまとになされましたか、まあそのへんでござりましたろうが、せっかくそれほどのおのぞみがあだになりましたのは笑止しょうしのいたりでござります。さればもと〳〵おはつどのをおもらいなさるおぼしめしはござりませなんだのに、ときのはずみでそうなったのでござりましょうか。もっともこのおりはまだいいなずけのおやくそくばかりでござりまして、御しゅうぎと申しましてもほんのうちわのおさかずきだけでござりました。

さわがしいなかにもこんなおよろこびのありましたのが正月のすえか二がつのはじめでござりまして、もうそのころには佐久間げんばどのがかついえ公のせんぽうとして二まんよきをしたがえられ、のこんのゆきをふみしだいて江北へ打って出られました。ひでよし公は伊勢の御陣よりながはまへはせつけられますと、あくるあさはやく足軽にすがたをかえられ、十人ばかりの古老をめしつれて山の上へおのぼりなされまして、柴田がたのとりで〳〵をくわしく御らんになりましたが、あの様子ではとてもたやすくやぶれそうもないぞ、味方もせい〴〵しろをけんごにこしらえて気永きながにかゝるよりしかたがないと仰っしゃって、そなえをきびしくあそばされ、きゅうにはおせめなさりませなんだ。それで双方たいじんのまゝ三月がすぎ、四がつになりましてからいよ〳〵とのさまもやながせ表へ御発向でござりました。もはやほっこくもさくらのはながちり春のなごりのおしまれる季せつでござりまして、おこしいれのゝちはじめての御しゅつじんでござりましたから、うちあわび、かちぐり、こんぶなど、おくがたはことにこゝろをこめておさかなの御用意をあそばし、御主殿しゅでんにおいてかどでをおいわいなされました。かついえ公はごきげんよく御酒ごしゅをまいられ、たゞ一戦にてきをほろぼし藤吉郎めのくびを取って、月のうちにはみやこへのぼってみせようぞ、かならず吉左右きっそうを待っておられよと仰っしゃって、それより中門へたちいでられ、おくがたもそこまでおみおくりなされましたが、そのときとのさまが門のほとりに弓杖をついておたちなされ、お馬にめそうとなされますと、お馬がいなゝきましたので、おくがたのおかおいろがかわったと申すことでござります。なれども、このおり、岐阜においては三七どのがふたゝび上方をてきになされて柴田がたに内応あそばし、やまとの筒井じゅんけいどのも日ならずうらぎりをなさる手筈がきまっておりましたそうでござります。それにひでよし公はちりゃくこそすぐれておられましたけれども、武勇にかけてはかついえ公の方にばつぐんのほまれがござりましたし、わけて織田どのゝ御家老として大名がたも帰服いたされ、としいえ公はじめ佐久間、原、不破、金森のかた〴〵など、たのもしき弓取りたちをしたがえておられましたことゝて、たれがあれまでのはいぐんになろうとおもいましょうや。やながせ、しずがたけのかっせんの始終は三さいの小児しょうにまでも知っていることでござりますから、いまさら何を申しましょうなれども、かえす〴〵もくちおしゅうござりますのは玄蕃どのゝ御油断でござります。あのときかついえ公のことばをきかれさっそくおひきとりなされまして、そなえをかためていらっしゃいましたら、そのうちには順慶どのも打って出られます、美濃の味方もうしろをつきます、そうなってくればどうなるいくさともわかりませなんだが、御本陣より馬上のおれき〳〵を七たびまでも使者にたてられ、きっとおいさめなされましたのに、叔父上はもうろく耄碌しているなどゝ申されて一向おきゝいれになりませなんだので、さしもの大軍も﨟次らっしもなくゝずれてしまいました。それにしても御本陣とあのとりでとのあいだはまわりみちをしましても五六里、まっすぐにまいればわずか一里でござります。かついえ公はたいそう御りっぷくなされたそうでござりますが、それほどならばなぜ御自分でひとはしりあそばされ、げんばどのを引ったてゝ来られませなんだか、いつものはげしい御気しょうにも似合わぬことでござります。もうろくと申すほどでなくとも、うつくしいおくがたをおもらいなされてやはりいくらかこゝろがのびていらっしゃいましたか。わたくしまでがあまりの無念さに、ついこんなあくたいを申してみたくなるのでござります。

北の庄では卯月うづき廿日にさくま玄蕃どのがてきのとりでを攻めおとされ、なかゞわ瀬兵衛尉どのゝ首を討ったと申すしらせがござりまして、たいそうおよろこびあそばされ、さいさきよしとおぼしめしていらっしゃいますと、江北の方ではその夜中やちゅうに美濃路よりつゞく海道すじや峰々山々にたいまつのひかりがあらわれて廿日の月しろをくらますほどに空をこがし、しだいに万燈会まんどうえのごとくおびたゞしい数になりまして、ひでよし公が大柿おおがきより夜どおしでお馬をかえされたらしく、廿一日の暁天ぎょうてんにあたって余吾よごのみずうみのかなたがにわかにさわがしく相成あいなり、玄蕃どのゝ御陣もあやういと申してまいりました。その飛脚のつきましたのが同じ日のひつじの刻さがりでござりましたが、そのうちにはや落ち武者がぽつ〳〵逃げかえってまいりまして、味方はそうはいぼくにおよび、とのさまも御運のすえらしいと申すことでござりました。おしろではあまりのことにおどろきあきれ、よもやとおもっておりますと、日のくれがたに勝家公むざんのありさまにて御帰城あそばされ、しばた弥右衛門のじょうどの、小島わかさのかみどの、中村文荷斎どの、徳菴どのなどをおめしになりまして、玄蕃もりまさがわがいいつけをまもらぬばかりに越度おちどを取ったぞ、それがし一代のこうみょうもむなしくなったが、これも前世のいんがであろうとおっしゃって、いまはおかくごのほどもすゞしく、さすがにとりしずめていらっしゃいました。きけば御子息権六どのはどうなされましたか、らんぐんのちまたのことゝて生死のほどもお分りにならず、とのさまもすでに柳ヶ瀬の陣中においてうちじになされますところを、せめておしろへおかえりになってしずかに御生害あそばしませ、こゝはわたくしがお引きうけいたしますと、毛受勝介どのがたっておすゝめ申しあげましたので、それではと仰っしゃって五幣のお馬じるしを勝介どのにおあずけなされ、府中の利家公のおしろで湯づけをめしあがられまして、それよりいそぎ北の庄へ駈け込まれたのでござります。としいえ公もお供いたしましょうと申されて御いっしょにたちいでられましたけれども、しいて御辞退なされまして途中からおかえしになりましたが、またしばらくしてよびもどされまして、その方はそれがしとちがい筑前のかみとかね〴〵じっこんにしておられる、それがしへの誓約はもはやこれまでに果たされているから、以来はちくぜんとわぼくして本領をあんどなされたがよい、このほどじゅうの骨おりは勝家うれしくおもいますと仰っしゃってこゝろよくお別れになったと申します。それが廿一日のゆうこくでござりまして、あくる廿二日には堀久太郎どのをせんじんとして上方勢かみがたぜいがひた〳〵と北の庄へおしよせてまいり、ひでよし公もやがてとうちゃくなされまして愛宕山のうえより諸軍をさしずあそばされ、おしろをすきまもなく取りまかれたのでござります。

このとき御城内においてはどなたも〳〵これを最期とおもいきわめたかた〴〵ばかりでござりまして、そんなありさまを見ましてもさわぐけしきもござりませなんだ。かついえ公はそのまえの晩に御けらいしゅうをおめしになりまして、じぶんはこのしろで寄せ手をひきうけいまひとかっせんして腹をきるつもりだから、じぶんといっしょにとゞまるものはとゞまるがよいが、おやたちが存命のものもあろうし、妻子を置いて来たものもあろう、そういうものはすこしもえんりょにおよばぬから早々に在所ざいしょへ引き取ったがよい、罪なき人をひとりでもよけいころすことは本意でないと仰っしゃって、いとまを取りたいものには取らせ、人質などもそれ〴〵ゆるしておやりになりましたので、おしろにのこりましたにんずはたといわずかでござりましても、みな〳〵いのちよりも名をおもんずるひと〴〵でござります。わけても弥えもんのじょうどの、若狭守どのなど、おれき〳〵の衆は申すもおろかでござりますが、若狭どのゝ一子新五郎どのは十八歳におなりなされ、やまいの床にふせっておられましたのに、輿こしにかゝれておしろへはせつけられまして、「小島若狭守がだん新五郎十八歳因病気柳瀬表出張せざる也、只今籠城いたし、全忠孝」と大手の御門のとびらに書きつけられました。もっとお若いおかたでは佐久間十蔵どの、これは十五歳でござりました。利家公の聟でいらっしゃいましたので、まだ御幼少のことゝ申し、府中のおしろにはお舅さまがおいでゞすから、しのんであちらへおたちのきなされませ、なにも籠城あそばさずとも苦しかるまいとぞんじますと、御けらいがいさめましたけれども、いや〳〵、おれは小さいときから引きとられて養育を受けているうえに莫大な領地をたまわっている、その恩義のあるのが一つ、もしとしいえ利家のえんじゃでなければ母への孝養こうように生きながらえるみちもあるが、舅のえんにすがって一命をつなぐのは卑怯だとおもうことが一つ、みょうじをけがせば先祖にたいしてもうしわけのないのが一つ、この三つの道理に依ってろうじょうするのだと申されて、討死のかくごをきめられました。また御定番ごじょうばんの松浦九兵衛尉どのは法華ほっけの信者でござりまして、小庵しょうあんをむすんで上人しょうにんをひとり住まわせておかれましたところ、その上人もまつうらどのがろうじょうなさるのをきかれまして、あなたと愚僧とは現世げんせのちぎりがふこうござりましたから、ぜひ来世へもおともをして報恩謝徳ほうおんしゃとくいたしましょうと申され、まつうらどのゝとめるのもきかずにおしろへたてこもられました。それから玄久と申すおひと、これは豆腐屋でござりました。もっとも以前はかついえ公のおさな馴染なじみでござりましたが、あるときかっせんにふかでを負いましたについて、このからだでは御奉公もなりかねますからおいとまをいたゞきます、もうわたくしも武士をやめて町人になりますと申されましたので、「そうか、それならお前は豆腐屋になれ」と仰っしゃって、大豆を年に百俵ずつ下されました。さればこんどもおともをいたし、来世でおとうふをさしあげるのだと申して、わざ〳〵まちかたよりおしろへはいったのでござります。そのほか舞の若太夫、山口一露斎、右筆ゆうひつの上坂大炊助どの、このかた〴〵ものこられました。なかにはみれんなものもおりまして、徳菴どのは柴田どのゝ法師武者の一人ひとりといわれ、文荷斎どのとおなじように世に知られた方でござりましたのに、としいえ公のひとじちをぬすみ出されておしろをにげのび、府中へたよって行かれましたけれども、不義理な奴だと仰っしゃってとしいえ公もみけしきをそんぜられ、おちかづけにならなかったと申します。そのゝちこのかたはどうなりましたやら。せけんの人がだれもあいてにしませぬので、たいそうおちぶれて都のまちをさまよっておられた姿を見たものがあるとも申します。そうかとおもえば、村上六左えもんのじょうどのは、経かたびらを着ておしろにこもっておられましたところ、とのさまのおん姉末森殿ならびに御息女をおつれ申してたちのくようにとの御諚ごじょうがござりまして、余人に仰せつけくださりませと申されましても、いや〳〵、これはその方にたのむ、それが却って忠義であるぞと仰っしゃりますので、よんどころなくおふたかたのおともをいたして竹田の里へ逃げられましたが、二十四日のさるの刻に天守にけぶりのあがるのを見られて、おふたかたと御いっしょに自害しておはてなされました。まあわたくしのおぼえておりますのはこれくらいでござりますが、このかた〴〵はそのころもっぱらもてはやしたことでござりますから、さだめし旦那さまも御存じでいらっしゃいましょう。いずれも〳〵、かんばしい名をのちの世にまでのこされました奇特なひとたちでござります。

あゝ、わたくしでござりますか。わたくしなどはおりっぱなかた〴〵の真似は出来ませぬけれども、せんねんおだにのろうじょうのおりに捨てるいのちを生きのびておりましたので、いまさらこのよにおもいのこすこともないとぞんじておしろにとゞまっておりましたものゝ、しょうじきを申せば、まだおくがたがどうあそばすともわかりませぬので、そのごせんど御先途をみとゞけてからともかくもなろうとおもっておりました。こう申しますとひきょう卑怯のようでござりますが、おくがたはこちらへ御えんづきなされましてからまるいちねんにもなりませぬ。おだにのときは六ねんのおんちぎりでござりましたのに、それでもお子たちに引かされてながまさ公とおしきわかれをあそばしたのでござりますから、このたびとてもそうならぬとは限りませぬ。それにしても殿さまからそんなおはなしはないものか。かたきの人質をさえゆるしておやりになりながら、御夫婦と申してもみじかい御えんでござりましたのに、だいおんのある先君のいもうと御と姪御とを死出のみちづれになさるおつもりか。それともまた、いとしいおくがたをひでよし公には意地でもわたされぬとおぼしめしていらっしゃるのか。かついえ公ともあろうおかたが此のになってめゝしいこともなさるまいから、いまになんとか仰っしゃるだろうが。と、そんなふうにかんがえましたのも、じぶんがたすかりたいというこゝろではござりませなんだが、いきるもしぬるもおくがたしだいのいのちときめておりましたのでござります。

寄せ手は廿二日のあさ一番どりの啼くころよりおい〳〵取りつめてまいりましたが、御城下の町々、かいどうすじの在々所々を焼きたてましたので、おびたゞしいけぶりが空にまん〳〵といたしまして日のひかりもくらく相成、おしろから四方をながめますと、いちえんに霧のうみのようで何も見えなんだと申します。上方ぜいはこのくらやみをさいわいに、こえをしのばせものおとをころして、おもい〳〵に竹たば、たゝみ、板戸などを持ちまして、そうっとちかづいてまいったらしく、そのうちにそとがすこしあかるくなりましたら、さながら蟻のはいよるがごとくお堀のきわへひたと取りついておりました。城内からはしきりに鉄炮を打ちましてそのへんのてきをみなごろしにいたしましたが、あらてのぐんぜいが入れ代り〳〵おしよせてまいりますのをひっしにふせぎましたことゝて、なか〳〵けんごに持ちこたえまして、この様子では左右そうなくやぶられそうもござりませなんだ。そんなぐあいでその日はどちらも手負い死人を出しまして引きとりましたところ、あくる廿三日のあかつき、寄せ手の陣がきゅうに攻めつゞみのおとをひかえてひっそりいたしましたので、何かとおもっておりますと、お堀のむこうに五六騎の武者があらわれまして、「御子息しばた権六どの、ならびにさくまげんばどのを昨夜いけどりにいたしました、おいたわしい儀でござる」とだいおんに呼ばわりましたので、おしろではそれをきくとひとしくみなさまがちからをおとされ、そのゝちはたゞ申しわけに御門をかためておりますばかりで、てっぽうなどもはか〴〵しくは打ちませなんだ。わたくし、じつは、そのうちにひでよし公よりなんとかお使いがありはせぬか、おくがたのことをいまもおもっていらっしゃるなら、きっと、きっと、どなたかお人がみえそうなものだがと、ない〳〵それにのぞみをつないでおりましたことでござりますが、あんのごとくそのときになっておあつかいがござりました。お使者にたゝれましたのはなんと申されるおかたでしたか、お名まえまではわすれましたけれども、お武家ではなくてさる上人がおこしなされたとおぼえております。それでそのおかたの御口上には、ちくぜんのかみこと、昨年以来よぎないしあわせで柴田どのとかっせんにおよび、さいわい武運にめぐまれてこゝまでおしよせてまいりましたが、むかしをおもえば総見院さまにおつかえ申した朋輩のあいだがらゆえ、御一命までを申しうけようとは存じませぬ。しゅりのすけどのにおかせられても、しょうはいは弓矢とる身の常、なにごともまわりあわせとおぼしめされてきょうまでのいしゅを水にながされ、このしろをあけわたして高野山のふもとへたちのいてくださらぬか。そうすれば三万石のりょうぶんをさしあげて一生御扶持おんふち申しましょうと仰っしゃるのでござりました。なれどもこれはひでよし公の御ほんしんでござりましたかどうか。ちくぜんどのはお市御料ごりょうをいけどりにしたくてそろ〳〵おくの手を出しおったと、味方はもとより敵の陣中でさえそんなひょうばんが立ったくらいでござりまして、此のおあつかいをまじめにきくものはござりませなんだ。ましてとのさまは、おれにこうさんしろなどゝはぶれいなことを申すやつだと、上人にむかってれっか烈火のごとくいきどおられまして、勝つも負けるも時の運であるのは申すまでもないこと、それをおのれらにおしえられようか、世が世ならば猿面かんじゃめをあべこべに追いつめて腹をきらせてくれようものを、さくまげんばがおれの云いつけを守らなんだためにしずヶ岳においておくれをとり、猿奴にてがらをえさせたのは無念である、たゞこのうえは天守に火をかけて自害をするから、最後の様子をのちの世の手本に見ておくがよい、もっとも城には十余年来たくわえておいた玉薬たまぐすりがある、これが燃えたらおびたゞしい死人を出すだろうから、寄せ手はもっと陣をとおくへ引いていろ、おれはむやくのせっしょうをしたくないからそう云うのだ、かえったらひでよしにきっとそのむねをつたえておけとおっしゃって、さっさと座を立ってしまわれましたので、お使者もとりつくしまがなくて逃げだされたのでござりました。わたくしそれをきゝましたときは、たった一つのたのみのつなも切れましたことゝて、うらめしいやらなさけないやらでござりましたけれども、こうなってはむざんやおくがたのおいのちもないにきまった、この上は三途さんずの川のおともをしてすえながくおそばにおいていたゞくとしよう、どうか来世はめあきにうまれておうつくしいおすがたをおがめるようになりたいものだ、自分にとってはそれこそ真如の月のかげだと、そういうふうにかんねん観念のほぞをかためましたら、それが何よりのぜんちしき善智識になりまして、死ぬ方がかえってたのしいくらいにおもわれて来たのでござりました。

とのさまも、かくなりはてたのはなんともくちおしいしだいだけれども、いまさらとこう云うにもおよばぬ、しょせんこよいはこゝろよくさけをくみかわして、あすの夜あけにはしのゝめの雲ともろともにきえて行こうとおっしゃってそれ〴〵御用意をあそばされ、天守をはじめ要所々々へ枯れ草を山のごとくにつみかさねていざといえば火をつけるように手はずをとゝのえられまして、さてあるだけの名酒の樽をのこらず持ってまいれとの御諚ごじょうでござりました。そんなしたくをいたしますうちにはや暮れがたになりましたが、てきの陣屋も城中のかくごのほどを見てとりましたか、おい〳〵かこみをゆるめまして、はるかうしろの方へひきましたので、あれ、あのように寄せ手のかゞり火が遠くなったぞ、さすがにひでよしはおれのこゝろを知っているなと、世にもすゞしげにおっしゃいましたのが、いつものおこえのようではなくて、とうとくきこえましたことでござります。御しゅえんがはじまりましたのは宵のとりのこくごろでござりましたろうか。とのさまがたは申すまでもなく、櫓々やぐら〳〵へも樽をおくばりなされまして、おさかなには出来るかぎりのぜいをつくせとお料理かたへお仰せつけられ、けっこうな珍味のかず〳〵をそえられましたので、あちらでもこちらでもおもい〳〵のさかもりになりましたが、わけてもじょうちゅうのひろまにおいては、上段の間のしきがわのうえにとのさまが御座なされまして、おくがたがそれにおならびあそばされ、そのつぎにひめぎみたち、一段ひくいおざしきに文荷さいどの、若狭守どの、弥右衛門尉どのなどおれき〳〵のしゅうがおひかえなされ、まずとのさまよりおくがたへおさかずきでござりました。奥向きのものもみな〳〵まいれとの有りがたいおことばがござりましたので、こしもと衆やわたくしどもまでも御しょうばんにあずかりましておそばちかくにかしこまっておりましたが、どなたも〳〵こよいが最後でござりますから、とのさまをはじめお侍衆はいろとり〴〵のよろいひたゝれ、太刀、物具ものゝぐに派手をきそっていぎをたゞされ、お女中がたもきょうをかぎりにわれおとらじと晴れの衣裳をおつけになりまして、中にもおくがたは、べに、おしろい、かみのあぶらなどひとしおこいめにおたしなみあそばし、しろたえのおんはだえにしらあや白綾のおん小袖をめされ、厚板あついたのきんみがきのおん帯に、きんぎん五しきの浮き模様のあるからおりの裲襠うちかけをおひきなされていらしったと申します。とのさまはおさかずきを一順おまわしになりますと、「だまってさけばかりのんでおっては気がめいるぞ、明日あすは浮世にひまをあける身があまりじめ〳〵していると寄せ手の奴ばらにわらわれる。これから夜どおし風流のあそびをして敵のじんやをおどろかしてやりたいものだ」と仰せられましたところに、はやくも遠くのやぐらの方で、ぽん、ぽん、ぽんとつゞみのおとがひゞきまして、

生きてよも

明日まで人のつらからじ

このゆふぐれを訪へかしな

君を千里において

今も酒を飲み

われと心をなぐさむる

と、たれやら舞をまうらしく、ほがらかなうたいがきこえてまいりましたので、それ、あのものたちにせんを越されたぞ、こちらでもあれに負けるなとっしゃって、「人間五十年、下天げてんのうちをくらぶれば」と御じぶんがまっさきに敦盛あつもりをおうたいなされました。このうたはむかし総見院さまがたいそうおこのみあそばされ、ことに桶狭間おけはざまかっせんのおりにはおんみずからこれをおうたいなされ今川どのをお討ちとりになりましたよしにて、織田家にとってはめでたいものでござりましたけれども、「にんげん五じふねん、げてんのうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、一度いちど生を得て滅せぬものゝあるべきか」と、ろう〳〵たるおこえでいまとのさまがおうたいなさるのをきゝますと、そゞろに先君御在世のころのおんことがしのばれ、さだめなき世のうつりかわりになみだがもよおされまして、なみいる勇士のかた〴〵もよろいのそでをしぼられたことでござりました。

それより文荷斎どの、一露斎どのが一番ずつおうたいなされ、また若太夫どのゝまいなどがござりましたが、そのほかにもなか〳〵おたしなみのふかいおかたがいらっしゃいまして、おさかずきのかずのかさなるにつれ、みな〳〵この世のまいおさめうたいおさめにたっしゃな芸を御披露におよばれ、遊興のかぎりをつくされますので、御酒宴の席は夜がふけるほどにぎやかに相成あいなり、いつ果てることかわかりませなんだ。そのうちに一人、「梨花一枝りかいっし雨を帯びたるよそほひの、雨を帯びたるよそほひの」と、一座のかた〴〵がおもわず鳴りをしずめますような美音をはりあげてうたわれましたのは、朝露軒と申される法師武者でござりました。このおかたはなにごとにも器用でおいでなされ、琵琶、三味線などもみごとにおひきなされますところから、わたくしもかねてじっこんにねがっておりましたので、ふしまわしのたしかなことはとくよりぞんじておりましたなれども、いまの楊貴妃のうたの文句に耳をかたむけておりますと、「雨を帯びたるよそほひの、太液たいえきの芙蓉のくれなゐ、未央びおうの柳のみどりも、これにはいかでまさるべき、げにや六宮ろくきゅう粉黛ふんたいの、顔色がんしょくのなきもことわりや、顔色のなきもことわりや」と、そうおうたいなされるではござりませんか。もとより朝露軒どのはそんなおつもりではござりますまいけれども、きいておりますわたくしの身には、おくがたの御きりょうをうたっておられるようにしか受け取れませぬので、あゝ、それほどにおうつくしい花のかんばせも、こよいをかぎりに散っておしまいなさるのかと、このになっていまだに未練がきざしてくるのでござりました。すると朝露軒どのは、「あれ、あれにおる座頭はしゃみせんを弾きまするぞ、おくがたのおゆるしをいたゞいて、あれにいちばんうたわせてごらんなされ」と申されましたので、「弥市、えんりょすることはないぞ」とすぐとのさまのおこえがゝりがござりました。さればわたくしとてもいまは何をか御辞退いたしましょう、これこそ自分ののぞむところと、さっそく三味線を手にとりまして、「君ゆゑなみだはいつもこぼるゝ」とれいの小歌をうたいました。「いや、いつもながら巧者なものだな、ではそれがしも弾いてみよう」と申されて、つぎには朝露軒どのがそのしゃみせんをおとりなされ、

滋賀の浦とて

しほはないが

顔の

ゑくぼは

十五夜の月

と、うたわれますので、わたくしそれをきゝながら、さてもおもしろい文句だわいと存じまして、みゝをすましておりますと、ところ〴〵にながい合いの手がはいります。朝露軒どのはそこのところをいとのねいろもうるわしくおひきなされましたが、ふと気がつきましたのは、その三味せんのうちに二度もくりかえしてふしぎな手がまじっているのでござりました。さようでござります、これはわたくしども、座頭の三味線ひきのものはみなよくぞんじておりますことでござりますが、すべてしゃみせんには一つの糸に十六のつぼがござりまして、三つの糸にいたしますなら都合四十八ござります。されば初心のかた〴〵がけいこをなされますときはその四十八のつぼに「いろは」の四十八文字をあてゝしるしをつけ、こゝろおぼえに書きとめておかれますので、このみちへおはいりなされた方はどなたも御存知でござりますけれども、とりわけめくら法師どもは、文字が見えませぬかわりには、このしるしをそらでおぼえておりまして、「い」と申せば「い」のおと、「ろ」と申せば「ろ」のおとをすぐにおもい浮かべますので、座頭同士がめあきの前で内證ばなしをいたしますときには、しゃみせんをひきながらそのおんをもって互のおもいをかよわせるものでござります。ところでいまの不思議な合いの手をきいておりますと、

ほおびがあるぞ

おくがたをおすくいもおすてだてはないか

と、そういうふうにきこえるのでござります。これはこゝろのまよいではないか、何しにいまごろそんなことを申されるかたがあるものか、よしやそら耳でないにしてからが、たま〳〵おんわせがしぜんとそうなっているまでだと、いくたびもおもいかえしておりますうちに、又もや朝露軒どのは、

いかにせん

わがかよひ路の

関守は

関もゆるさず

なか〳〵に

と、うたわれるのでござりましたが、これは三味線もまえとはすっかりちがっておりながら、やはりあの手だけがあいま〳〵へ挟んであるのでござります。あゝ、さては朝露軒どのは敵方のまわしものか、でなくばちかごろ急に内通なされたのか、いずれにしてもひでよし公のおおせをふくんでおくがたをてきにわたそうとしておられるのだな、おもわぬときにおもわぬたすけがあらわれたものだが、ひでよし公がまだおあきらめにならなんだとは、なんたるつよい恋だったのかと、にわかにむねをとゞろかしておりますと、「さあ、弥市、いま一曲その方に所望だ」と申されて、ふたゝびしゃみせんをわたくしの前へ置かれました。それにしてもこのようなめくら法師をさほどたよりになされるのはなにゆえか。おくがたのためとあらば火のなか水のなかをも辞せぬこゝろのおくを、はずかしくも朝露軒どのにいつか見やぶられておりましたことか。もっともわたくし、眼は見えずともお女中がたの中におりまするたったひとりのおとこでござります。それにかず〳〵のお座敷というお座敷、わたり廊下のすみ〴〵までも、眼あきよりよく勝手をそらんじておりまして、まさかの時はねずみより自由にはしれます。おもえば〳〵ちょうろけん朝露軒どのはよくも見込んでくだされしよな、あるにかいなきいのちをながらえていたというのもこういうお役にたてたいからだ、このうえはおくがたをおすくい申す手だてをつくして、かなわぬときはおなじけぶりときえるばかりだと、とっさにしあんをさだめまして、前後のわきまえもなく三味せんを取り上げ、

見せばや

君に

知らせばや

こゝろの中と

袖の色を

とうたいながら、わなゝくゆびさきに糸をおさえて、

けぶりをあいづに

てんしゆのしたえおこしなされませ

と、こちらも合いの手にことよせまして、「いろは」の音をもっておこたえ申したのでござります。もちろんいちざのかた〴〵はたゞわたくしのうたといとゝにきゝほれてばかりおいでなされ、ふたりのあいだにこんなことばがかわされたとは知るよしもござりませなんだが、そのときわたくしはおくがたをおすくい申すについて、一つのけいりゃくをおもいついたのでござりました。と申しますのは、こよいとのさま御夫婦は天守の五重へおのぼりなされてこゝろしずかに御自害あそばし、それより用意の枯れ草へ火をつける手はずになっておりました。されば御自害をあそばすまえに、ころあいをうかゞって火をつけまして、そのさわぎにまぎれて朝露軒どのゝ一味をひきいれましたなら、にんずをもっておふたかたのあいだをへだてることも出来るであろうと、かようにかんがえました次第でござります。

さても〳〵わたくしは、めしいのうえにせいらい至っておくびょうでござりまして、かりにもひとさまをあざむくことはよういたしませなんだが、てきがたの間者かんじゃかたん加担をいたしておしろに火をかけ、あまつさえおくがたをぬすみ出そうとくわだてましたとは、われながらおそろしいこゝろでござりましたけれども、これもひとえにおいのちをおたすけ申したいゝちねんゆえでござりますから、つまるところは忠義になるのだとりょうけんをきめておりました。そうこういたしますうちに、みなさまおなごりはつきませぬけれども、はつなつの夜のあけやすく、はや遠寺とおでらのかねがひゞいてまいりお庭の方にほとゝぎすのなくねがきこえましたので、おくがたは料紙りょうしをとりよせられまして、

さらぬだにうちぬる程も夏の夜の

   わかれをさそふほとゝぎすかな

と、一首の和歌をあそばされ、つゞいてとのさまも、

夏の夜の夢路はかなきあとの名を

   くもゐにあげよやまほとゝぎす

とあそばされまして、文荷さいどのがそれを一同へ御披露におよばれ、「それがしも一首つかまつります」と申されて、

ちぎりあれやすゞしき道に伴ひて

   のちの世までも仕へつかへむ

とよまれましたのは、ときに取って風流のきわみと存ぜられました。それよりいずれも詰め所へおひきとりなされ切腹のおしたくでござりまして、お女中がたやわたくしはおふたかたにおつきそい申し上げ、いよ〳〵天守へまいりましたことでござります。もっともわれ〳〵は四重までお供を仰せつかり、五重へは姫ぎみたちと文荷斎どのばかりをおつれになりましたが、わたくしはいまがだいじのときとぞんじ、五重へかようはしごの中途までそっとあがってまいりまして、いきをこらしておりましたことゝて、うえの御様子はもれなくうかゞっていたのでござります。とのさまは先ず、

「文荷、そのへんをすっかりあけてくれ」

と仰っしゃって、四方のまどをのこらずあけさせられまして、

「あゝ、この風はこゝちよいことだな」

と、あさかぜの吹きとおすおざしきに端坐あそばされ、

「うちわのものでいまいちど別れの酒を酌もうではないか」

と、文荷さいどのにおしゃくをおたのみなされまして、おくがたやひめぎみたちとあらためておさかずきがござりました。さてそれがすみましたところで、

「お市どの」

と、お呼びなされ、

「きょうまでのだん〳〵のこゝろづくしはたいへんうれしくおもいます。こういうことになるのだったら、去年のあきにそなたと祝言をするのではなかったが、いまそれをいい出してもせんないことだ。ついてはそれがし、いずこまでも夫婦いっしょにとおもいきわめていたけれども、しかしつく〴〵かんがえてみるのに、そなたはそうけんいんさまの妹御であらせられるし、そのうえこゝにいるひめたちは故備前守のわすれがたみのことでもあるから、やはりこれは助ける方が道だとおもう。武士たるものが死んで行くのにおんなこどもを連れるにはおよばぬことだ。こゝでそなたをころしたら、かついえはいったんの意地にかられて義理にんじょうをわすれたと、世間のものは云うかも知れぬ。な、この道理をきゝわけてそなたはしろを出てくれぬか。あまり不意のようだけれども、これはよく〳〵ふんべつをしたうえのことだ」

と、おもいがけないおことばでござりまして、そう仰っしゃるおむねの中はさだめしはらわたもちぎれるほどでござりましたろうけれども、おこえにすこしのくもりさえなく、よどまず云いきられましたのは、さすが剛気のおん大将でござります。わたくしもそれをきゝましては、あゝ、もったいないことだ、なさけを知るのがまことの武士とはよく云ったものだ、これほどのおかたとも存ぜずにない〳〵おうらみ申していたのは、じぶんこそ下司げすのこんじょうだったと、ありがたなみだにかきくれまして、おぼえずおこえのする方を両手をあわせておがみましたが、そのときおくがたは、

「きょうというきょうになって、あまりなことをおっしゃいます」

と、云いもおわらず泣きふしておしまいなされ、

総見院そうけんいんどの御存生のころでさえ、いったん他家へとつぎました身を織田家のものだとおもったことはござりませぬ。ましてたよるべき兄弟もないこんにちになりまして、おまえさまに捨てられましたら、どこへゆくところがござりましょう。死ぬべきおりに死なゝいと死ぬにもまさるはずかしめをうけますことは、わたくしもしみ〴〵おぼえがござります。さればさくねんこしいれをいたしましたときから、こんどばかりはどういうことがござりましょうとも、二度とおわかれ申すまいとかくごをいたしておりました。はかない御縁でござりましたけれども、夫婦として死なしていたゞけますなら、百年つれそうのも一生、半としつれそうのも一生でござりますものを、出て行けとはうらめしいおことばでござります。どうかこればかりはおゆるしを」

と、そうおっしゃるのが、おんかおにお袖をあてゝいらっしゃるらしゅう、とぎれ〳〵に、たえてはつゞいてもれてまいるのでござります。

「しかし、そなた、この三人のひめたちをふびんとは思わぬのか。これらが死ねばあさいの血すじはたえてしまうが、それでは故備前守に義理がたゝないではないか」

と、おしかえして仰っしゃいますと、

「浅井のことをさほどにおぼしめしてくださいますか」

と仰っしゃって、いっそうはげしくお泣きなされ、

「わたくしはお供をさせていたゞきますが、そのおこゝろざしにあまえ、せめてこの児たちをたすけてやって、父の菩提をとぶらわせ、またわたくしのなきあとをもとぶらわせて下さいまし」

と仰っしゃるのでござりましたが、こんどはお茶々どのが、

「いえ、いえ、おかあさま、わたくしもお供をさせていたゞきます」

と仰っしゃいましたので、お初どのも小督こごうどのも、おなじように「わたくしも〳〵」と右と左からおふくろさまにおすがりなされ、およったりがいちどにこみあげてお泣きなされました。おもえばむかし小谷のときはみなさま御幼少でござりまして、なにごとも夢中でいらっしゃいましたなれども、いまは末の小ごうどのでさえもはや十をおこえあそばしておいでゞすから、こうなりましてはなだめようもすかしようもござりませなんだ。さればずいぶん御辛抱づよいおくがたもかあいゝかた〴〵のおんなみだにさそわれてたゞおろ〳〵と泣かれますばかりで、わたくし、じつに、十年このかたこんなに取りみだされましたのはついぞ存じませなんだことでござります。それにしましてもおい〳〵時刻がうつりますことゝて、どうおさまりがつくだろうかとおもっておりますと、文荷さいどのがひざをおすゝめなされまして、

「おひいさまがた、御未練でござりますぞ」

と叱るように申されておふくろさまとお子たちのあいだへ割ってはいられ、

「さ、さ、それではおかあさまのおかくごがにぶります」

と、むりに引きはなそうとなされるのでござりました。わたくしはこのありさまをうかゞうにつけ、まだとのさまはなんとも仰っしゃいませぬけれども、もはやゆうよしてはおられぬところだとぞんじ、はしごの下につんでありました枯れくさのたばをひきぬきましてそれへともしびの灯をうつしました。おりから四重のおへやではこしもとしゅうが死にしょうぞくをあそばされいっせいにねんぶつをとなえていらっしゃいまして、どなたもきがついたかたはござりませなんだので、それをさいわいにこゝかしこの枯れくさの山へ火をつけてまわり、障子、ふすまのきらいなくもえがらを投げちらしまして、われからけぶりにむせびながら、「火事でござります、火事でござります」とさけびごえをあげました。くさがじゅうぶんにかわきゝっておりましたところへ、五重の窓がすっかりあいておりましたことゝて風が下より筒ぬけに吹きあげまして、ぱち〳〵とものゝ干割ひわれるおとがすさまじく、逃げ場にまよわれるお女中がたのうなりごえと悲鳴とがびゅう〳〵という火炎かえんのいぶきといっしょにきこえ出しましたが、「やゝ、とのさまのお座所があやういぞ」「御用心めされい、うらぎりものがおりまする」とけぶりの下よりくち〴〵に呼ばわってあまたのにんずが駈けあがって来られました。それからさきは、朝露軒どのゝ一味とそれを防がれるかた〴〵とがほのおの中に入りみだれ、たがいにあらそってせまいはしごを五重へのぼろうとなさるらしく、そのこんざつにもまれましてあちらへこづかれこちらへこづかれいたしますうちに、熱いかぜがさあっとよえんを吹きかけてはまたさあっと吹きかけてまいり、しだいにいきが出来ないようになりましたので、おなじ死ぬならおくがたと一つほのおに焼かれたいと、しょうねつじごくのくるしみの底にもひっしにおもいきわめまして、はしごへ手をかけたときでござりました。「弥市、このお方を下へおつれ申せ」と、どなたかはぞんじませぬけれども、そう仰っしゃっていきなりわたくしの肩の上へ上臈じょうろうさまをおのせになりました。「おひいさま、おひいさま、おふくろさまはどうあそばしました」と、とっさにわたくしはそう申しましたが、それというのはそのとき背中へおんぶいたしましたのはお茶々どのだということがすぐにわかったからでござります。「おひいさま、おひいさま」と、つゞけてお呼び申しましても、お茶々どのはうずまくけぶりに気をうしなっていらっしゃいまして、なんとも御へんじがござりませなんだが、それにしてもいまのお侍は、なぜ御自分がひめぎみをおたすけ申さずに、めくらのわたくしへおあずけなされましたことか。おおかたそのお侍は忠義一途にとのさまのおあとをしたい、此処を御じぶんの死に場所とさだめておられたのでござりましょうか。さすればわたくしとても、おくがたの御せんどをみとゞけずに逃げるという法はないと、そうおもいましたことでござりますけれども、でもこのお児をおたすけ申さなんだら、さぞやおふくろさまがおうらみあそばすことであろう、弥市、おまえはわたしのたいせつなむすめをどこへ捨てゝ来たのですと、あの世でおとがめをこうむったら申しわけのみちがない、こうして背中へおのせ申すようになったのはよく〳〵のえんというものだからと、そんなふうにもかんがえられましたし、それに、わたくし、ほんとうはそんなことよりも、せなかのうえにぐったりともたれていらっしゃるおちゃ〳〵どのゝおんいしきへ両手をまわしてしっかりとお抱き申しあげました刹那、そのおからだのなまめかしいぐあいがお若いころのおくがたにあまりにも似ていらっしゃいますので、なんともふしぎななつかしいこゝちがいたしたのでござります。まご〳〵していれば焼け死ぬというかきゅうの場合でござりますのに、どうしてそのようなかんがえをおこしましたやら、まことに人はひょんなときにひょんなりょうけんになりますもので、申すもおはずかしい、もったいないことながら、あゝ、そうだった、自分がおしろへ御奉公にあがってはじめておりょうじを仰せつかったころには、お手でもおみあしでも、とんと此のとおりに張りきっていらしったが、なんぼうおうつくしいおくがたでもやはり知らぬまにおとしをめしていらしったのだと、ふっとそうきがつきましたら、たのしかったおだにの時分のおもいでが糸をくるようにあとから〳〵浮かんでまいるのでござりました。いや、そればかりか、お茶々どのゝやさしい重みを背中にかんじておりますと、なんだか自分までが十年まえの若さにもどったようにおもわれまして、あさましいことではござりますけれども、このおひいさまにおつかえ申すことが出来たら、おくがたのおそばにいるのもおなじではないかと、にわかに此の世にみれんがわいて来たのでござります。こうおはなし申しますと、たいへん長いことぐず〳〵いたしておりましたようでござりますが、そのじつほんのわずかのあいだにこれだけのしあんをめぐらしたのでござりまして、そうと決心がつくよりはやくもうわたくしはけぶりのなかをくゞりぬけ、「おひいさまをおぶっておりますぞ、道をあけて下さりませ」とだいおんによばわりながら、そこはめしいでござりますからなんのえんりょえしゃくもなく人々のあたまをはねのけふみこえて、無二むさんにはしごを駈けおりたのでござります。

しかし逃げたのはわたくしばかりではござりませなんだ。おおぜいのものが火の粉をあびてぞろ〳〵つながってはしりますので、わたくしもそれといっしょになって、うしろからえい〳〵押されながらかけ出しましたが、お堀の橋をこえましたとたんに、がら、がら、がらと、おそろしいひゞきがいたしましたのは、うたがいもなくてんしゅの五重がくずれおちるおとでござりました。「あれは天守がおちたんですね」と、だれにきくともなく申しましたら、「そうだ、空に火ばしらが立っている、きっと玉ぐすりに火がついたのだ」と、そばをはしっている人がそう申されるのです。「おくがたやほかのひめぎみたちはどうあそばしたでござりましょう」とたずねますと、「ひめぎみたちはみんな御無事だが、おくがたは惜しいことをしてしまった」と申されるではござりませんか。くわしいわけはあとで知れたのでござりますけれども、その人とならんではしりながらだん〳〵話をきゝますと、朝露軒どのはまっさきに五重へ上って行かれましたところ文荷さいどのがたちまちたくみを見ぬかれまして、「裏ぎり者、何しに来た」というまもあらせず斬ってすてられ、はしごのてっぺんからけおとされたと申します。それで一味のかた〴〵も気せいをくじかれましたうえにおい〳〵味方の御家らいしゅうが馳せつけてこられましたので、なか〳〵おくがたをうばい取るなどのだんではなく、かえってきりふせられましてやけ死んだものがおおいとのことでござりました。そのおり三人のひめぎみたちはなおもおふくろさまにしがみついていらっしゃいましたのを、ぶんかさいどのが早く〳〵とせきたてられまして、「このかた〴〵をおすくい申し敵のじんやへとゞけたものは何よりの忠義であるぞ」と、むらがるにんずの中へつきはなすようになされましたので、いあわせたものがおひとかたずつお抱き申しあげて逃げたのだそうで、「だからとのさまとおくがたとはあの火の中でじがいなすったことだろう、おれはそこまではみとゞけなかったが」と、そう申されるのでござります。「ではほかのひめぎみたちはどこにいらっしゃるのです」と申しましたら、「おれたちの仲間が背中に負ってひとあしさきにこゝを通って行ったはずだ。お前のせおっているおひいさまはいちばん強情で、しまいまでおくがたの袖をつかんではなされなかったのをむりやりに抱きあげて誰かの背中へのせたようだったが、その男はまたお前にわたして自分は火の中へとびこんでしまった。なか〳〵かんしんな奴だったが、あれはおれたちの仲間ではなかったらしい」と申されるのです。いったい「おれたちの仲間」というのはなんのことかとおもいましたら、上方かみがたぜいがおくがたをうけとるために天守のちかくへしのびよって、ちょうろけんどのゝあいずを待っておりましたのだそうで、いま此のところをこんなにぞろ〳〵逃げてゆくのは、みんな裏ぎりの一味の者かそうでなければ上方ぜいのひと〴〵ばかりなのでござりました。「しかしちくぜんのかみどのはせっかくいくさにお勝ちになっても、めざすおくがたに死なれてしまってはなんにもなるまい。朝露軒どのもあんなしくじりをやったのだから御前のしゅびがよいはずはない。どうせ生きてはいられなかったよ」と、そのおかたはそう申されて、「それでもお前がこのおひいさまをおつれ申しているうえはいくらかめんぼくが立つわけだから、おれはおまえにくっついてゆくつもりだ」と、そんなことを云い〳〵手をひかんばかりになされますので、もうさっきからだいぶんつかれてはおりましたけれども、あえぎ〳〵いっしょけんめいにはしっておりますと、よいあんばいに敵がたの足軽大将がお乗りものをもっておむかえにまいられまして、とりあえずそれへひめぎみをうつされ、

「座頭、おまえがおつれ申して来たのか」

と申されますから、

「さようでござります」

と申して、いちぶしゞゅうをしょうじきにおはなしいたしましたところ、

「よし、よし、それならお乗りものについてまいれ」

と申されますので、かず〳〵のじんやのあいだを通りまして御本陣へお供いたしました。

お茶々どのはもう御気分もおよろしいようでござりましたけれども、しばらく御きゅうそくあそばされお手当てをおうけになっていらっしゃいますと、たゞちにひでよし公が御たいめんの儀を仰せ出だされ、ほかのひめぎみたちと御いっしょにお座所へおよびいれなされました。それはまあよいといたしまして、わたくしまでがおめしにあずかりましたので、おざしきのそとのいたじきにかしこまってへいふくいたしますと、

「おゝ、坊主、おれのこえをおぼえているか」

と、いきなりおことばがかゝりました。

「おそれながらよく存じております」

とおこたえ申し上げますと、「そうか、まことに久しぶりであったな」と仰っしゃって、

「その方めしいの身といたしてきょうのはたらきは神妙であるぞ。とうざのほうびになんなりとつかわしたいが、のぞみがあるなら申してみろ」

と、おもいのほかの上首尾じょうしゅびでござりますから、わたくしはさながらゆめのこゝちがいたし、

「おぼしめしのほどはかたじけのうござりますけれども、ながねん御恩にあずかりましたおくがたにおわかれ申し、おめ〳〵にげてまいりました罰あたり奴がなんで御ほうびをいたゞけましょう。それよりけさの御さいごのことをかんがえますと、むねがいっぱいでござります。たゞこのうえのおねがいは、いまゝでどおりふびんをおかけくださりまして、おひいさまがたに御奉公をつとめさせていたゞけますなら、有りがたいしあわせにぞんじます」

と申しましたら、

「尤ものねがいだ、きゝとゞけてつかわす」

と、さっそくおゆるしがござりまして、

「小谷どのはおきのどくなことをしてしまったが、こゝにござるひめぎみたちはこれからそれがしが母御にかわっておせわをいたそう。しかしいずれもずんと大きゅうなられたものだな。むかしそれがしの膝のうえに抱かれていたずらをなされたのは、たしかお茶々どのだったとおもうが」

と、そうおっしゃって御きげんよくおわらいなされるのでござりました。

こういうわけでさいわいわたくしは路頭にもまよわず、ひきつゞき御奉公をいたすことになりましたけれども、じつを申せば、わたくしの一生はもう此のとき、天しょうじゅういちねん卯月うづき二十四日と申すおくがたの御さいごの日におわってしまったのでござりまして、おだにや清洲でくらしましたようなたのしい月日はそのゝちついぞめぐってもまいりませなんだ。それと申しますのは、てんしゅに火をつけ裏ぎり者のてびきをいたしましたことを姫ぎみたちもおきゝなされましたとみえて、しだいにおにくしみがかゝりまして、なんとなくよそ〳〵しくあそばすようにおなりなされ、とりわけお茶々どのなどは、「この座頭ゆえにおしからぬいのちをたすけられて、おやのかたきの手にわたされた」と、ときにはわたくしへきこえよがしにおっしゃいますので、おそばにつかえておりましても針のむしろにすわるおもいがいたしまして、このくらいならなぜあのおりに死なゝかったかと、たゞもうなさけなく、とりつくしまのない身のうえをかこつようになったのでござります。もとよりこれも自分が悪事をしでかした罰でござりまして、たれをうらむべきすじもないのでござりますが、いったん死におくれましてはいまさらお跡をしとうたところでおくがたにあわせる顔もござりませぬから、諸人のつまはじきを受けながら生き耻じをさらしておりますうちに、もみりょうじも、琴のおあいても、余人に仰せつけられまして、もうわたくしにはとんと御用がないようになってしまいました。ひめぎみたちはその時分安土あづちのおしろに引きとられていらっしゃいまして、ひでよし公のおことばがござりましたばかりにいや〳〵ながらわたくしを召しつかっておられましたので、それを知りましてはむりにお慈悲にすがりますこともこゝろぐるしく、もはや辛抱もいたしかねまして、或る日、こっそりと、おいとまごいの御あいさつもいたさずに逃げるようにおしろをぬけて、どこと申すあてもなくさすらい出たのでござります。

さあ、それがわたくしの三十二のとしでござりました。もっともそのおり都へのぼりまして太閤でんかにおめどおりをねがい、ことの次第を申し上げましたら、一生くうにこまらぬほどのお扶持はいたゞけたでござりましょうけれども、このまゝつみのむくいを受けて世にうずもれてしまおうとおもいきわめまして、それよりきょうまで宿場々々をわたりあるいて旦那さまがたの足こしをもみ、またはふつゝかな芸をもって旅のつれ〴〵をおなぐさめ申し、三十余年のうつりかわりをよそにながめてくらしながら、いんがなことにはまだ死にきれずにおりますようなわけでござります。そういえばお茶々どのは、あのときはあれほど太閤でんかをおうらみあそばされ、「おやのかたき」とまでおっしゃっていらっしゃいましたのに、まもなくそのかたきにおん身をおまかせなされ、淀のおしろに住まわれるようになりましたが、わたくしは北の庄のおしろが落ちました日から、いずれそうなるだろうとおもっていたことでござりました。あのみぎり、ひでよし公はお市どのをうばいそこねてたいそう御気色みけしきをそんぜられたそうでござりますけれども、わたくしが御前へ出ましたときは案に相違いたしましてすこしもそのような御様子がなかったばかりか、かえってあり難いおことばをさえいたゞきましたのは、お茶々どのを御らんなされましてきゅうにおぼしめしがかわったのでござります。つまりわたくしがほのおの中でかんじましたのとおなじことをおかんがえなされましたので、えいゆうごうけつのこゝろのうちもけっきょくは凡夫とちがわぬものなのでござりましょう。たゞわたくしはいったんのあやまちから一生おそばにおられぬような境涯におちましたけれども、太閤でんかはあのお方の父御てゝごをほろぼし、母御をころし、御兄弟をさえ串ざしになされたおん身をもって、いつしかあのお方をわがものにあそばされ、親より子にわたる二代の恋を、おだにのむかしから胸にひそめていらしったおもいを、とう〳〵お遂げなされました。いったいひでよし公はどういう前世のいんねんでござりましたか、のぶなが公のおん血すじのかた〴〵をおしたいなされまして、まだこのほかにも蒲生がもうひだのかみどのゝおくがたにのぞみをかけていらしったと申します。このおかたは総見院そうけんいんさまのおんむすめ御でいらっしゃいまして、小谷どのには姪御におなりなされ、やはりお顔だちが似ていらしったと申しますから、おおかたそれゆえでござりましたろうか。わたくし、人づてにうかゞいましたのには、せんねん飛騨守どのがおかくれなされましたとき、殿下より御後室さまへお使いがござりまして、おぼしめしをつたえられましたけれども、御後室さまは一向おきゝいれがなく、かえっておなげきあそばしておぐしをおろされましたので、蒲生どのゝお家が宇都宮へおくにがえになりましたのは、そんなことから御前のしゅびをわるくなされたせいだと申します。それはとにかく、あのお茶々どのがおとしを召すにしたがってふんべつがおつきなされまして、でんかの御いせいになびかれましたのは、まったく時代ときよじせつとは申しながら、御自分さまのおためにもけっこうなことでござりました。さればわたくしも、淀のおん方と申されるのはあさいどのゝ一の姫ぎみだときゝましたときは、どんなにうれしゅうござりましたことか。おふくろさまがあのようにいつも御苦労をなされましたかわりに、えいがの春がこのお子にめぐって来たのだ、どうか此のおかたゞけはおふくろさまのような目におあいなさらぬようと、たといわが身はあるにかいなき世すぎをいたしておりましても、こゝろは始終おそばにはべっておりますつもりで、そのことばかりおいのり申しておりましたところ、そのうちにわかぎみ御誕生と申すうわさがござりましたので、もうこれでゆくすえまでも御運は万々歳であろうと、あんどのむねをなでゝいたのでござりました。それが、旦那さまも御承知のとおり、けいちょう三ねんの秋にたいこうでんかゞおかくれなされ、ほどなくせきがはらのかっせんがござりましてから、またもや世の中がだん〳〵かわってまいりまして、いちにち〳〵と悲運におなりなされましたのは、なんということでござりましょう。やっぱりおやのかたきのところへ御えんぐみあそばされましたのが、亡きお袋さまのおぼしめしにそむき、不孝のばちをおうけなされたのでござりましょうか。おふくろさまもお子さまも、二代ながらおなじようにお城をまくらに御生害なされましたのも、おもえばふしぎなめぐりあわせでござります。

あゝ、わたくしも、あの大坂の御陣ごじんのときまで御奉公をいたしておりましたら、お役にはたちませぬまでも、おだにのおしろでおふくろさまをおなぐさめ申しましたように何やかやと御きげんをとりむすび、こんどこそ冥土へおともをいたしておくがたへお詑びを申すことも出来ましたでござりましょうに、あのときばかりはつく〴〵我が身のふしあわせがうらめしく、まいにち〳〵てっぽうのおとをきゝながらやきもきいたしておりました。それにつけても片桐いちかみどのはあのしろぜめに関とう方の味方をなされ、ひでより公と淀のおん方の御座所へむかって大炮を打ちこまれましたのは、なんというなされかたか。あのお方は、むかし志津ヶ岳のいくさに七本槍のひとりとうたわれ、その時分からおとりたてにあずかったのでござりまして、ひでよし公にはなみ〳〵ならぬ御恩をうけていらっしゃるはずでござります。世間のうわさでは、太こうでんかゞ御りんじゅうのみぎりにはあのお方をおんまくらべにおよびなされて、秀頼のことをたのんだぞよと、くれ〴〵も御ゆいごんあそばされたと申すではござりませぬか。われ〳〵のようなにんげんでもそれほど人にたのまれましたら義をたてとおすことぐらいはこゝろえておりますのに、あのおかたは、たかい声では申されませぬが、権現さまの御いせいにへつらってとよとみ豊臣家のだいおんをおわすれなされ、おもてに忠義をよそおいながらかんとうがたに内通されていらしったのでござります。いえ、いえ、それは、どなたがなんと申されましょうとも、そうにちがいござりませぬ。理くつはつけようでござりますから、いちのかみどのゝ御苦心をおほめになるかたもござりましょうが、かりにも敵がたの大炮の役をひきうけられて、あろうことかあるまいことか、お主のわかぎみと北の方のいらっしゃるところへ玉をうちこむようなおかたが、なんで忠臣でござりましょうぞ。うき世をすてためくらあんまにもそのくらいなことはわかります。それゆえあのときはいちのかみどのがにくゝてにくゝて、眼さえみえたら、陣中へしのびこんで一と太刀なりとおうらみ申したいとおもったほどでござりました。

にくいと申せば、せきがはらのときに大津でうらぎりをなされました京極さいしょうどのゝ仕打ちなども、はらが立ってなりませなんだ。あのおかたはお初御料人ごりょうにんと内祝言をあそばしながら、かみがたぜいの攻めよせるまえに北の庄をお逃げなされて、若狭の武田家へたよっていらっしゃいましたところ、そのたけだどのもほろぼされましてからは三界にすむ家もなく、木の根くさの根にもこゝろをおいてあちこちさまよっていらっしゃいましたのが、よう〳〵のことでお詑びがかなって大名衆のれつにくわえていたゞけたのは、どなたのおかげだとおぼしめします。もとの武田どのゝおくがたが松の丸どのと申されていらっしゃいましたから、そのおかたのおとりなしもござりましたろうけれども、何よりも淀のおんかたにつながる御えんがあったればこそではござりませぬか。いちどは小谷どのゝお袖にすがられ、つぎにはそのお子さまのなさけにたよられ、二度までもあやういゝのちをたすけておもらいなされながら、あの大雪のなかを落ちていらしった当時のことをおわすれなされ、だいじのせとぎわにむほんをなされて大坂ぜいのあしなみをみだされるとは。あゝ、あゝ、しかし、いまさらそんなことを申したところで仕方がござりませぬ。かぞえたてればくやしいことやうらめしいことはいくらでもござりますけれども、さいしょうどのも、いちのかみどのも、もはやあの世へおいでなされ、権現さまさえ御他界あそばされましたこんにちとなりましては、なにごともすぎにしころの夢でござります。おもえば〳〵おりっぱなかた〴〵がみな〳〵おかくれなされましたのに、わたくしはこのさきいつまで老いさらばえておりますことでござりましょう。げんき元亀てんしょう天正の昔よりずいぶんながい世間をわたってまいりましたので、もう後生をねがうよりほかのことはござりませぬが、たゞこのはなしをいっぺんどなたかにきいていたゞきたかったのでござります。はい、はい、なんでござります。おくがたのおこえがいまでも耳にのこっているかと仰っしゃいますか。それはもう申すまでもないこと。何かの折におっしゃいましたおことばのふし〴〵、またはお琴をあそばしながらおうたいなされました唱歌しようがのおこえなど、はれやかなうちにもえんなるうるおいをお持ちなされて、うぐいすのかんだかい張りのあるねいろと、鳩のほろ〳〵と啼くふくみごえとを一つにしたようなたえなるおんせいでいらっしゃいましたが、お茶々どのもそれにそっくりのおこえをなされ、おそばのものがいつもきゝちがえたくらいでござりました。さればわたくしには太閤殿下がどんなに淀のおん方を御ちょうあいあそばされましたかよくわかるのでござります。太こうでんかのおえらいことはどなたも御ぞんじでござりますが、そういうふかいおむねのなかを早くよりおさっし申しておりましたのは、はゞかりながらわたくしだけでござります。あゝ、わたくしも、あれほどのおかたの御心中を知っていたかとおもえば、かたじけなくも右大臣ひでより公のおん母君、淀のおんかたをこの背中へおのせ申したことがあるかとおもえば、なんの、なんの、この世にみれんがござりましょう。いゝえ、旦那さま、もうじゅうぶんでござります。ついゝたゞきすごしまして、つまらぬ老いのくりごとをなが〳〵とおきかせいたしました。いえには女房もおりますけれども、おんな子供にもこうまでくわしくはなしたことはござりませぬ。どうぞ、どうぞ、こういうあわれなめくら法師がおりましたことを書きとめて下さいまして、のちの世の語りぐさにしていたゞけましたらありがとうござります。さあ、もうおおさめ下さりませ。あまりけませぬうちにすこしお腰をもませていたゞきます。

おわり


奥書


○右盲目物語一巻後人作為の如くなれども尤も其の由来なきに非ず三位中将忠吉卿御代清洲朝日村柿屋喜左衛門祖父物語一名朝日物語に云う「太閤ト柴田修理ト取合ハ其比威勢アラソイトモ云又信長公ノ御妹オ市御料人ノイハレトモ申ナリ淀殿ノ御母儀ナリ近江ノ国浅井カ妻ナリケル云々天下一ノ美人ノキコヘアリケレバ太閤御望ヲカケラレシニ柴田岐阜ヘ参リ三七殿ト心ヲ合セオイチ御料ヲムカエ取オノレカ妻トス太閤コノヨシ聞召柴田ヲ越前ヘ帰スマシトテ江州長浜ヘ出陣云々」又いう「柴田北ノ庄ヘコモラレケレバ太閤僧ヲ使トシイニシヘノ傍輩ナリ一命ヲ助ヘシ云々是ハスカシテオイチ御料ヲトラントノハカリコト成ヘシト其沙汰人口ニマチマチナリ」

○佐久間軍記佐久間常
関物語
勝家祝言の条に云う「浅井長政ノ後室ヲ嫁勝家勝家其息女三人トモニ携越前ニ帰ルノ時秀吉走勝家于使曰於帰国道使秀勝信長四男
秀吉養子
饌膳祝儀ヲ可賀ト勝家慶テ約諾ス然シテ勝家ノ家人等北庄ヲ発清洲迄ノ行路ニ来迎勝家夜半ニ清洲ヲ出告秀勝曰越前ニ急用アルヲ以テ道ヲカネテ夜半ニ此前ヲ通ル間不招云々」

○志津ヶ岳合戦事小須賀九兵衛話には清洲会議を安土に作る、当時「挨拶及相違て柴田と太閤互に怒をふくむ其時丹羽長秀太閤と一処に寐ころひ有しか長秀そと足にて太閤に心を付太閤被心得其夜大坂へ御かへり云々」佐久間軍記には「秀吉其夜屡小便ニヲクル」とあり然れどもこれらのこと甫庵太閤記等には見えず不審也

○蒲生氏郷後室の墓は今京都の百万遍智恩寺境内に在り、寛永十八年五月九日於京都病没、行年八十一歳、法名相応院殿月桂凉心英誉清熏大禅定尼、秀吉此の後室の容顔秀麗なるを知り氏郷の死後迎えて妾となさんとしたれども後室これを聴かず、ために蒲生家は会津百万石より宇都宮十八万石に移さる、委しくは氏郷記近江日野町誌を可

○三味線は永禄年中琉球より渡来したること通説なれどもこれを小唄に合わせて弾きたるは寛永頃より始まる由高野辰之博士の日本歌謡史に記載あり尤も天文年中既に遊女の手に弄ばれたること室町殿日記に見え好事家は早くより流行歌に用いたる趣同じく右歌謡史に委し、此の物語の盲人の如きも好事家の一人たりし歟、予が三絃の師匠菊原検校は大阪の人にして今は殆ど廃絶したる古き三味線の組歌を心得られたるが其の中に閑吟集に載せたる「木幡山路に行きくれて月を伏見の草枕」の歌長崎のサンタマリヤの歌其の他珍しき歌詞少からず予も嘗てこれを聞きたることあり詞は短きようなれども同じ句を幾度も繰り返して唄い且三味線の合いの手は詞よりも数倍長し曲に依りては殆ど琵琶をきく如き心地す

○かんどころのしるしに「いろは」を用いることはいつの頃より始まりしか不知今も浄瑠璃の三味線ひきは用之由予が友人にして斯道に明かなる九里道柳子の語る所也、本文挿絵は道柳子図して予に贈らる

于時昭和辛未年夏日
於高野山千手院谷しるす

底本:「盲目物語」中公文庫、中央公論新社

   1993(平成5)年510日初版発行

底本の親本:「盲目物語」中央公論社

   1932(昭和7)年2

初出:「中央公論」

   1931(昭和6)年9

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:kompass

校正:酒井裕二

2016年320日作成

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