吉野葛
谷崎潤一郎
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私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年ほどまえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、───近頃の言葉で云えば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。───この話はまずその因縁から説く必要がある。
読者のうちには多分ご承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民によって「南朝様」あるいは「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天王、───後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮と云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。ごくあらましを掻い摘まんで云うと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元元年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、そののち嘉吉三年九月二十三日の夜半、楠二郎正秀と云う者が大覚寺統の親王万寿寺宮を奉じて、急に土御門内裏を襲い、三種の神器を偸み出して叡山に立て籠った事実がある。この時、討手の追撃を受けて宮は自害し給い、神器のうち宝剣と鏡とは取り返されたが、神璽のみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智氏の一族等は更に宮の御子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀井、紀井から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へ逃れ、一の宮を自天王と崇め、二の宮を征夷大将軍に仰いで、年号を天靖と改元し、容易に敵の窺い知り得ない峡谷の間に六十有余年も神璽を擁していたと云う。それが赤松家の遺臣に欺かれて、お二方の宮は討たれ給い、ついに全く大覚寺統のおん末の絶えさせられたのが長禄元年十二月であるから、もしそれまでを通算すると、延元元年から元中九年までが五十七年、それから長禄元年までが六十五年、実に百二十二年ものあいだ、ともかくも南朝の流れを酌み給うお方が吉野におわして、京方に対抗されたのである。
遠い先祖から南朝方に無二のお味方を申し、南朝びいきの伝統を受け継いで来た吉野の住民が、南朝と云えばこの自天王までを数え、「五十有余年ではありません、百年以上もつづいたのです」と、今でも固く主張するのに無理はないが、私もかつて少年時代に太平記を愛読した機縁から南朝の秘史に興味を感じ、この自天王の御事蹟を中心に歴史小説を組み立ててみたい、───と、そう云う計画を早くから抱いていた。川上の荘の口碑を集めたある書物によると、南朝の遺臣等は一時北朝方の襲撃を恐れて、今の大台ヶ原山の麓の入の波から、伊勢の国境大杉谷の方へ這入った人跡稀な行き留まりの山奥、三の公谷と云う渓合いに移り、そこに王の御殿を建て、神璽はとある岩窟の中に匿していたと云う。また、上月記、赤松記等の記す所では、あらかじめ偽って南帝に降っていた間嶋彦太郎以下三十人の赤松家の残党は、長禄元年十二月二日、大雪に乗じて不意に事を起し、一手は大河内の自天王の御所を襲い、一手は神の谷の将軍の宮の御所に押し寄せた。王はおん自ら太刀を振って防がれたけれども、ついに賊のために斃れ給い、賊は王の御首と神璽とを奪って逃げる途中、雪に阻まれて伯母ヶ峰峠に行き暮れ、御首を雪の中に埋めて山中にひと夜を明かした。しかるに翌朝吉野十八郷の荘司等が追撃して来て奮戦するうち、埋められた王の御首が雪中より血を噴き上げたために、たちまちそれを見附け出して奪い返したと云う。以上の事柄は書物によって多少の相違はあるのだが、南山巡狩録、南方紀伝、桜雲記、十津川の記等にも皆載っているし、殊に上月記や赤松記は当時の実戦者が老後に自ら書き遺したものか、あるいはその子孫の手に成る記録であって、疑う余地はないのである。一書によると、王のお歳は十八歳であったと云われる。また、嘉吉の乱にいったん滅亡した赤松の家が再興されたのは、その時南朝の二王子を弑して、神璽を京へ取り戻した功績に報いたのであった。
いったい吉野の山奥から熊野へかけた地方には、交通の不便なために古い伝説や由緒ある家筋の長く存続しているものが珍しくない。たとえば後醍醐天皇が一時行在所にお充てになった穴生の堀氏の館など、昔のままの建物の一部が現存するばかりでなく、子孫が今にその家に住んでいると云う。それから太平記の大塔宮熊野落ちの条下に出て来る竹原八郎の一族、───宮はこの家にしばらくご滞在になり、同家の娘との間に王子をさえ儲けていらっしゃるのだが、その竹原氏の子孫も栄えているのである。その外更に古いところでは大台ヶ原の山中にある五鬼継の部落、───土地の人はあれは鬼の子孫だと云って、決してその部落とは婚姻を結ばず、彼等の方でも自分の部落以外とは結ぶことを欲しない。そして自分たちは役の行者の前鬼の後裔だと称している。すべてがそんな土地柄であるから、南朝の宮方にお仕え申した郷士の血統、「筋目の者」と呼ばれる旧家は数多くあって、現に柏木の附近では毎年二月五日に「南朝様」をお祭り申し、将軍の宮の御所跡である神の谷の金剛寺において厳かな朝拝の式を挙げる。その当日は数十軒の「筋目の者」たちは十六の菊のご紋章の附いた裃を着ることを許され、知事代理や郡長等の上席に就くのである。
私の知り得たこう云ういろいろの資料は、かねてから考えていた歴史小説の計画に熱度を加えずにはいなかった。南朝、───花の吉野、───山奥の神秘境、───十八歳になり給ううら若き自天王、───楠二郎正秀、───岩窟の奥に隠されたる神璽、───雪中より血を噴き上げる王の御首、───と、こう並べてみただけでも、これほど絶好な題材はない。何しろロケーションが素敵である。舞台には渓流あり、断崖あり、宮殿あり、茅屋あり、春の桜、秋の紅葉、それらを取り取りに生かして使える。しかも拠り所のない空想ではなく、正史はもちろん、記録や古文書が申し分なく備わっているのであるから、作者はただ与えられた史実を都合よく配列するだけでも、面白い読み物を作り得るであろう。が、もしその上に少しばかり潤色を施し、適当に口碑や伝説を取り交ぜ、あの地方に特有な点景、鬼の子孫、大峰の修験者、熊野参りの巡礼などを使い、王に配するに美しい女主人公、───大塔宮のご子孫の女王子などにしてもいいが、───を創造したら、一層面白くなるであろう。私はこれだけの材料が、なにゆえ今日まで稗史小説家の注意を惹かなかったかを不思議に思った。もっとも馬琴の作に「侠客伝」という未完物があるそうで、読んだことはないが、それは楠氏の一女姑摩姫と云う架空の女性を中心にしたものだと云うから、自天王の事蹟とは関係がないらしい。外に、吉野王を扱った作品が一つか二つ徳川時代にあるそうだけれども、それとてどこまで史実に準拠したものか明かでない。要するに普通世間に行き亘っている範囲では、読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも、ついぞ眼に触れたものはないのである。そんなことから、私は誰も手を染めないうちに、自分が是非共その材料をこなしてみたいと思っていた。
ところが、ここに、幸いなことには、思いがけない縁故を辿って、いろいろあの山奥の方の地理や風俗を聞き込むことが出来た。と云うのは、一高時代の友人の津村と云う青年、───それが、当人は大阪の人間なのだが、その親戚が吉野の国栖に住んでいたので、私はたびたび津村を介してそこへ問い合わせる便宜があった。
「くず」と云う地名は、吉野川の沿岸附近に二箇所ある。下流の方のは「葛」の字を充て、上流の方のは「国栖」の字を充てて、あの飛鳥浄見原天皇、───天武天皇にゆかりのある謡曲で有名なのは後者の方である。しかし葛も国栖も吉野の名物である葛粉の生産地と云う訳ではない。葛は知らないが、国栖の方では、村人の多くが紙を作って生活している。それも今時に珍しい原始的な方法で、吉野川の水に楮の繊維を晒しては、手ずきの紙を製するのである。そしてこの村には「昆布」と云う変った姓が非常に多いのだそうだが、津村の親戚もまた昆布姓を名のり、やはり製紙を業としていて、村では一番手広くやっている家であった。津村が語ったところでは、この昆布氏もかなりの旧家で、南朝の遺臣の血統と多少の縁故があるはずであった。私は、「入の波」と書いて「シオノハ」と読むこと、「三の公」は「サンノコ」であることなどを、この家へ尋ねて始めて知った。なお昆布氏の報告によると、国栖から入の波までは、五社峠の峻嶮を越えて六里に余る道程であり、それから三の公へは、峡谷の口もとまでが二里、一番奥の、昔自天王がいらしったと云う地点までは、四里以上ある。もっともそれも、そう聞いているだけで、国栖あたりからでもそんな上流地方へ出かける人はめったにない。ただ川を下って来る筏師の話では、谷の奥の八幡平と云う凹地に炭焼きの部落が五六軒あって、それからまた五十丁行ったどんづまりの隠し平と云う所に、たしかに王の御殿の跡と云われるものがあり、神璽を奉安したと云う岩窟もある。が、谷の入り口から四里の間と云うものは、全く路らしい路のない恐ろしい絶壁の連続であるから、大峰修行の山伏などでも、容易にそこまでは入り込まない。普通柏木辺の人は、入の波の川の縁に湧いている温泉へ浴みに行って、あそこから引き返して来る。その実谷の奥を探れば無数の温泉が渓流の中に噴き出で、明神が滝を始めとして幾すじとなく飛瀑が懸っているのであるが、その絶景を知っている者は山男か炭焼きばかりであると云う。
この筏師の話は、一層私の小説の世界を豊富にしてくれた。すでに好都合な条件が揃っているところへ、またもう一つ、渓流から湧き出でる温泉と云う、打って付けの道具立てが加わったのである。しかし私は、遠隔の地にいて調べられるだけの事は調べてしまった訳であるから、もしあの時分に津村の勧誘がなかったら、まさかあんな山奥まで出かけはしなかったであろう。これだけ材料が集まっていれば、実地を蹈査しないでも、あとは自分の空想で行ける。またその方がかえって勝手のよいこともあるのだが、「せっかくの機会だから来て見てはどうか」と津村からそう云って来たのは、たしかその年の十月の末か、十一月の初旬であった。津村は例の国栖の親戚を訪う用がある、それで、三の公までは行けまいけれども、まあ国栖の近所をひと通り歩いて、大体の地勢や風俗を見ておいたら、きっと参考になることがあろう。何も南朝の歴史に限ったことはない、土地が土地だから、それからそれと変った材料が得られるし、二つや三つの小説の種は大丈夫見つかる。とにかく無駄にはならないから、そこは大いに職業意識を働かせたらどうだ。ちょうど今は季候もよし、旅行には持って来いだ。花の吉野と云うけれども、秋もなかなか悪くはないぜ。───と云うのであった。
で、大そう前置きが長くなったが、こんな事情で急に私は出かける気になった。もっとも津村の云うような「職業意識」も手伝っていたが、正直のところ、まあ漫然たる行楽の方が主であったのである。
津村は何日に大阪を立って、奈良は若草山の麓の武蔵野と云うのに宿を取っている、───と、そう云う約束だったから、こちらは東京を夜汽車で立ち、途中京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。武蔵野と云う旅館は今もあるが、二十年前とは持主が変っているそうで、あの時分のは建物も古くさく、雅致があったように思う。鉄道省のホテルが出来たのはそれから少し後のことで、当時はそこと、菊水とが一流の家であった。津村は待ちくたびれた形で、早く出かけたい様子だったし、私も奈良は曾遊の地であるし、ではいっそのこと、せっかくのお天気が変らないうちにと、ほんの一二時間座敷の窓から若草山を眺めただけで、すぐ発足した。
吉野口で乗りかえて、吉野駅まではガタガタの軽便鉄道があったが、それから先は吉野川に沿うた街道を徒歩で出かけた。万葉集にある六田の淀、───柳の渡しのあたりで道は二つに分れる。右へ折れる方は花の名所の吉野山へかかり、橋を渡るとじきに下の千本になり、関屋の桜、蔵王権現、吉水院、中の千本、───と、毎年春は花見客の雑沓する所である。私も実は吉野の花見には二度来たことがあって、幼少のおり上方見物の母に伴われて一度、そののち高等学校時代に一度、やはり群集の中に交りつつこの山道を右へ登った記憶はあるのだが、左の方の道を行くのは始めてであった。
近頃は、中の千本へ自動車やケーブルが通うようになったから、この辺をゆっくり見て歩く人はないだろうけれども、むかし花見に来た者は、きっとこの、二股の道を右へ取り、六田の淀の橋の上へ来て、吉野川の川原の景色を眺めたものである。
「あれ、あれをご覧なさい、あすこに見えるのが妹背山です。左の方のが妹山、右の方のが背山、───」
と、その時案内の車夫は、橋の欄干から川上の方を指さして、旅客の筇をとどめさせる。かつて私の母も橋の中央に俥を止めて、頑是ない私を膝の上に抱きながら、
「お前、妹背山の芝居をおぼえているだろう? あれがほんとうの妹背山なんだとさ」
と、耳元へ口をつけて云った。幼いおりのことであるからはっきりした印象は残っていないが、まだ山国は肌寒い四月の中旬の、花ぐもりのしたゆうがた、白々と遠くぼやけた空の下を、川面に風の吹く道だけ細かいちりめん波を立てて、幾重にも折り重なった遥かな山の峡から吉野川が流れて来る。その山と山の隙間に、小さな可愛い形の山が二つ、ぽうっと夕靄にかすんで見えた。それが川を挟んで向い合っていることまでは見分けるべくもなかったけれども、流れの両岸にあるのだと云うことを、私は芝居で知っていた。歌舞伎の舞台では大判事清澄の息子久我之助と、その許嫁の雛鳥とか云った乙女とが、一方は背山に、一方は妹山に、谷に臨んだ高楼を構えて住んでいる。あの場面は妹背山の劇の中でも童話的の色彩のゆたかなところだから、少年の心に強く沁み込んでいたのであろう、そのおり母の言葉を聞くと、「ああ、あれがその妹背山か」と思い、今でもあのほとりへ行けば久我之助やあの乙女に遇えるような、子供らしい空想に耽ったものだが、以来、私はこの橋の上の景色を忘れずにいて、ふとした時になつかしく想い出すのである。それで二十一か二の歳の春、二度目に吉野へ来た時にも、再びこの橋の欄干に靠れ、亡くなった母を偲びながら川上の方を見入ったことがあった。川はちょうどこの吉野山の麓あたりからやや打ち展けた平野に注ぐので、水勢の激しい渓流の趣が、「山なき国を流れけり」と云うのんびりとした姿に変りかけている。そして上流の左の岸に上市の町が、うしろに山を背負い、前に水を控えたひとすじみちの街道に、屋根の低い、まだらに白壁の点綴する素朴な田舎家の集団を成しているのが見える。
私は今、その六田の橋の袂を素通りして、二股の道を左へ、いつも川下から眺めてばかりいた妹背山のある方へ取った。街道は川の岸を縫うて真っ真ぐに伸び、みたところ平坦な、楽な道であるが、上市から宮滝、国栖、大滝、迫、柏木を経て、次第に奥吉野の山深く分け入り、吉野川の源流に達して大和と紀井の分水嶺を超え、ついには熊野浦へ出るのだと云う。
奈良を立ったのが早かったので、われわれは午少し過ぎに上市の町へ這入った。街道に並ぶ人家の様子は、あの橋の上から想像した通り、いかにも素朴で古風である。ところどころ、川べりの方の家並みが欠けて片側町になっているけれど、大部分は水の眺めを塞いで、黒い煤けた格子造りの、天井裏のような低い二階のある家が両側に詰まっている。歩きながら薄暗い格子の奥を覗いて見ると、田舎家にはお定まりの、裏口まで土間が通っていて、その土間の入り口に、屋号や姓名を白く染め抜いた紺の暖簾を吊っているのが多い。店家ばかりでなく、しもうたやでもそうするのが普通であるらしい。いずれも表の構えは押し潰したように軒が垂れ、間口が狭いが、暖簾の向うに中庭の樹立ちがちらついて、離れ家なぞのあるのも見える。恐らくこの辺の家は、五十年以上、中には百年二百年もたっているのがあろう。が、建物の古い割りに、どこの家でも障子の紙が皆新しい。今貼りかえたばかりのような汚れ目のないのが貼ってあって、ちょっとした小さな破れ目も花弁型の紙で丹念に塞いである。それが澄み切った秋の空気の中に、冷え冷えと白い。一つは埃が立たないので、こんなに清潔なのでもあろうが、一つはガラス障子を使わない結果、紙に対して都会人よりも神経質なのであろう。東京あたりの家のように、外側にもう一と重ガラス戸があればよいけれども、そうでなかったら、紙が汚れて暗かったり、穴から風が吹き込んだりしては、捨てて置けない訳である。とにかくその障子の色のすがすがしさは、軒並みの格子や建具の煤ぼけたのを、貧しいながら身だしなみのよい美女のように、清楚で品よく見せている。私はその紙の上に照っている日の色を眺めると、さすがに秋だなあと云う感を深くした。
実際、空はくっきりと晴れているのに、そこに反射している光線は、明るいながら眼を刺すほどでなく、身に沁みるように美しい。日は川の方へ廻っていて、町の左側の障子に映えているのだが、その照り返しが右側の方の家々の中まで届いている。八百屋の店先に並べてある柹が殊に綺麗であった。キザ柹、御所柹、美濃柹、いろいろな形の柹の粒が、一つ一つ戸外の明りをそのつやつやと熟し切った珊瑚色の表面に受け止めて、瞳のように光っている。饂飩屋のガラスの箱の中にある饂飩の玉までが鮮やかである。往来には軒先に莚を敷いたり、箕を置いたりして、それに消炭が乾してある。どこかで鍛冶屋の槌の音と精米機のサアサア云う音が聞える。
私たちは町はずれまで歩いて、とある食い物屋の川沿いの座敷で昼食を取った。妹背の山は、あの橋の上で眺めた時はもっとずっと上流にあるように思えたが、ここへ来るとつい眼の前に立つ二つの丘であった。川を隔てて、こちらの岸の方のが妹山、向うの岸の方のが背山、───妹背山婦女庭訓の作者は、恐らくここの実景に接してあの構想を得たのだろうが、まだこの辺の川幅は、芝居で見るよりも余裕があって、あれほど迫った渓流ではない。仮りに両方の丘に久我之助の楼閣と雛鳥の楼閣があったとしても、あんな風に互に呼応することは出来なかったろう。背山の方は、尾根がうしろの峰につづいて、形が整っていないけれども、妹山の方は全く独立した一つの円錐状の丘が、こんもりと緑葉樹の衣を着ている。上市の町はその丘の下までつづいていて、川の方から見わたすと、家の裏側が、二階家は三階に、平家は二階になっている。中には階上から川底へ針金の架線を渡し、それへバケツを通して、綱でスルスルと水を汲み上げるようにしたのもある。
「君、妹背山の次には義経千本桜があるんだよ」
と、津村がふとそんなことを云った。
「千本桜なら下市だろう、あそこの釣瓶鮨屋と云うのは聞いているが、───」
維盛が鮨屋の養子になって隠れていたと云う浄瑠璃の根なし事が元になって、下市の町にその子孫と称する者が住んでいるのを、私は訪ねたことはないが、噂には聞いていた。何でもその家では、いがみの権太こそいないけれども、いまだに娘の名をお里と付けて、釣瓶鮨を売っていると云う話がある。しかし津村の持ち出したのは、それとは別で、例の静御前の初音の鼓、───あれを宝物として所蔵している家が、ここから先の宮滝の対岸、菜摘の里にある。で、ついでだからそれを見て行こうと云うのであった。
菜摘の里と云えば、謡曲の「二人静」に謡われている菜摘川の岸にあるのであろう。「菜摘川のほとりにて、いずくともなく女の来り候いて、───」と、謡曲ではそこへ静の亡霊が現じて、「あまりに罪業のほど悲しく候えば、一日経書いて賜われ」と云う。後に舞いの件になって、「げに耻かしや我ながら、昔忘れぬ心とて、………今三吉野の河の名の、菜摘の女と思うなよ」などとあるから、菜摘の地が静に由縁のあることは、伝説としても相当に根拠があるらしく、まんざら出鱈目ではないかも知れない。大和名所図会などにも、「菜摘の里に花籠の水とて名水あり、また静御前がしばらく住みし屋敷趾あり」とあるのを見れば、その云い伝えが古くからあったことであろう。鼓を持っている家は、今は大谷姓を名のっているけれども、昔は村国の庄司と云って、その家の旧記によると、文治年中、義経と静御前とが吉野へ落ちた時、そこに逗留していたことがあると云われる。なお附近には象の小川、うたたねの橋、柴橋等の名所もあって、遊覧かたがた初音の鼓を見せてもらいに行く者もあるが、家重代の宝だと云うので、然るべき紹介者から前日に頼みでもしなければ、無闇な者には見せてくれない。それで津村は、実はそのつもりで国栖の親戚から話しておいて貰ったから、多分今日あたりは待っているはずだと云うのである。
「じゃあ、あの、親狐の皮で張ってあるんで、静御前がその鼓をぽんと鳴らすと、忠信狐が姿を現わすと云う、あれなんだね」
「うん、そう、芝居ではそうなっている」
「そんなものを持っている家があるのかい」
「あると云うことだ」
「ほんとうに狐の皮で張ってあるのか」
「そいつは僕も見ないんだから請け合えない。とにかく由緒のある家だと云うことは確かだそうだ」
「やっぱりそれも釣瓶鮨屋と同じようなものじゃないかな。謡曲に『二人静』があるんで、誰か昔のいたずら者が考え付いたことなんだろう」
「そうかも知れないが、しかし僕はちょっとその鼓に興味があるんだ。是非その大谷と云う家を訪ねて、初音の鼓を見ておきたい。───とうから僕はそう思っていたんだが、今度の旅行も、それが目的の一つなんだよ」
津村はそんなことを云って、何か訳があるらしかったが、「いずれ後で話をする」と、その時はそう云ったきりであった。
上市から宮滝まで、道は相変らず吉野川の流れを右に取って進む。山が次第に深まるに連れて秋はいよいよ闌になる。われわれはしばしば櫟林の中に這入って、一面に散り敷く落葉の上をかさかさ音を立てながら行った。この辺、楓が割合いに少く、かつひと所にかたまっていないけれども、紅葉は今が真っ盛りで、蔦、櫨、山漆などが、杉の木の多い峰のここかしこに点々として、最も濃い紅から最も薄い黄に至る色とりどりな葉を見せている。ひと口に紅葉と云うものの、こうして眺めると、黄の色も、褐の色も、紅の色も、その種類が実に複雑である。おなじ黄色い葉のうちにも、何十種と云うさまざまな違った黄色がある。野州塩原の秋は、塩原じゅうの人の顔が赤くなると云われているが、そう云うひと色に染まる紅葉も美観ではあるけれども、ここのようなのも悪くはない。「繚乱」と云う言葉や、「千紫万紅」と云う言葉は、春の野の花を形容したものであろうが、ここのは秋のトーンであるところの「黄」を基調にした相違があるだけで、色彩の変化に富むことはおそらく春の野に劣るまい。そうしてその葉が、峰と峰との裂け目から渓合いへ溢れ込む光線の中を、ときどき金粉のようにきらめきつつ水に落ちる。
万葉に、「天皇幸于吉野宮」とある天武天皇の吉野の離宮、───笠朝臣金村のいわゆる「三吉野乃多芸都河内之大宮所」、三船山、人麿の歌った秋津の野辺等は、皆この宮滝村の近くであると云う。私たちはやがて村の中途から街道を外れて対岸へ渡った。この辺で渓はようやく狭まって、岸が嶮しい断崖になり、激した水が川床の巨岩に打つかり、あるいは真っ青な淵を湛えている。うたたねの橋は、木深い象谷の奥から象の小川がちょろちょろと微かなせせらぎになって、その淵へ流れ込むところに懸っていた。義経がここでうたたねをした橋だと云うのは、多分後世のこじつけであろう。が、ほんのひとすじの清水の上に渡してある、きゃしゃな、危げなその橋は、ほとんど樹々の繁みに隠されていて、上に屋形船のそれのような可愛い屋根が附いているのは、雨よりも落葉を防ぐためではないのか。そうしなかったら、今のような季節にはたちまち木の葉で埋まってしまうかと思われる。橋の袂に二軒の農家があって、その屋根の下を半ば我が家の物置きに使っているらしく、人の通れる路を残して薪の束が積んである。ここは樋口と云う所で、そこから道は二つに分れ、一方は川の岸を菜摘の里へ、一方はうたたねの橋を渡り、桜木の宮、喜佐谷村を経て、上の千本から苔の清水、西行庵の方へ出られる。けだし静の歌にある「峰の白雪蹈み分けて入りにし人」は、この橋を過ぎて吉野の裏山から中院の谷の方へ行ったのであろう。
気が付いてみると、いつの間にか私たちの行く手には高い峰が眉近く聳えていた。空の領分は一層狭くちぢめられて、吉野川の流れも、人家も、道も、ついもうそこで行き止まりそうな渓谷であるが、人里と云うものは挟間があればどこまでも伸びて行くものと見えて、その三方を峰のあらしで囲まれた、袋の奥のような凹地の、せせこましい川べりの斜面に段を築き、草屋根を構え、畑を作っている所が菜摘の里であると云う。
なるほど、水の流れ、山のたたずまい、さも落人の栖みそうな地相である。
大谷と云う家を尋ねると、すぐに分った。里の入り口から五六丁行って、川原の方へ曲った桑畑の中にある、ひと際立派な屋根の家であった。桑が丈高く伸びているので、遠くから望むと、旧家らしい茅葺きの台棟と瓦葺きの庇だけが、桑の葉の上に、海中の島のごとく浮いて見えるのがいかにも床しい。しかし実際の家は、屋根の形式の割合いに平凡な百姓家で、畑に面したふた間つづきの出居の間の、前通りの障子を明け放しにして、その床の間つきの方の部屋に主人らしい四十恰好の人がすわっていた。そして二人の姿を見ると、刺を通ずるまでもなく挨拶に出たが、固く引き締まった日に焼けた顔の色と云い、ショボショボした、人の好さそうな眼つきと云い、首の小さい、肩幅の広い体格と云い、どうしても一介の愚直な農夫である。「国栖の昆布さんからお話がありましたので、先程からお待ちしていました」と、そう云う言葉さえ聞き取りにくい田舎訛りで、こちらが物を尋ねてもはかばかしい答えもせずに、ただ律義らしく時儀をして見せる。思うにこの家は今は微禄して、昔の俤はないのであろうが、それでも私にはかえってこう云う人柄の方が親しみ易い。「お忙しいところをお妨げして済みませぬ。お宅様ではお家の宝物を大切にしていらしって、めったに人にお見せにならぬそうですが、無躾ながらその品を見せて戴きに参ったのです」と云うと、「いえ、人に見せぬと申す訳ではありませぬが」と当惑そうにオドオドして、実はその品物を取り出す前には、七日の間潔斎せよと云う先祖からの云い伝えがある、しかし当節はそんなやかましいことを云ってもいられないから、希望の方には心安く見せて上げようと思っているけれども、日々耕作に追われる身なので、不意に訪ねて来られては相手になっている時間がない。殊に昨今は秋蚕の仕事が片附かないので家じゅうの畳なども不断は全部揚げてあるような訳だから、突然お客様が見えても、お通し申す座敷もないと云う始末、そんな事情で、前にちょっと知らせて置いて下すったら、必ず何とか繰り合わせてお待ちしている、と、真っ黒な爪の伸びた手を膝の上に重ねて、云いにくそうに語るのである。
して見れば、今日は特に私たちのために、このふた間の部屋へわざわざ畳を敷き詰めて待っていてくれたに違いない。襖の隙から納戸の方を窺うと、そこはいまだに床板のままで、急にそちらへ押し込めたらしい農具がごたごたに片寄せてある。床の間には既に宝物の数々が飾ってあって、主人はそれらの品を一つ一つ、恭しく私たちの前に並べた。
「菜摘邨来由」と題する巻物が一巻、義経公より拝領の太刀脇差数口、及びその目録、鍔、靱、陶器の瓶子、それから静御前より賜わった初音の鼓等の品々。そのうち菜摘邨来由の巻物は、巻末に「右者五条御代官御役所時之御代官内藤杢左衛門様当時に被レ遊二御出一御中付候ニ付大谷源兵衛七十六歳にて伝聞之儘を書記し我家に残し置者也」とあって、「安政二歳次乙卯夏日」と云う日附けがある。その安政二年の歳に代官内藤杢左衛門が当村へ来た時、今の主人の何代か前の先祖にあたる大谷源兵衛老人は土下座をして対面したが、この書付けを見せると、今度は代官の方が席を譲って土下座をしたと伝えられている。但し、巻物は紙が黒焦げに焦げたごとく汚れていて、判読に骨が折れるため、別に写しが添えてある。原文の方はどうか分らぬが、写しの方は誤字誤文が夥しく、振り仮名等にも覚束ない所が多々あって、到底正式の教養ある者の筆に成ったとは信ぜられない。しかしその文によると、この家の祖先は奈良朝以前からこの地に住し、壬申の乱には村国庄司男依なる者天武帝のお味方を申して大友皇子を討ち奉った。その頃庄司は当村より上市に至る五十丁の地を領していたので、菜摘川と云う名はその五十丁の間の吉野川を呼ぶのであると云う。さて義経に関しては、「また源義経公川上白矢ガ嶽にて五月節句をお祝遊されそれより御下りこれあり村国庄司内にて三四十日被レ遊二御逗留一宮滝柴橋御覧有りその時御詠みの歌に」として二首の和歌が載っている。私は今日までまだ義経の歌と云うものがあるのを知らないが、そこに記してある和歌は、いかな素人眼にも王朝末葉の調子とは思えず、言葉づかいも余りはしたない。次に静御前の方は、「その時義経公の愛妾静御前村国氏の家にご逗留あり義経公は奥州に落行給いしより今は早頼み少なしとてお命を捨給いたる井戸あり静井戸と申伝え候也」とあるから、ここで死んだことになっているのである。なおその上に、「然るに静御前義経公に別れ給いし妄念にや夜な夜な火玉となりて右乃井戸より出し事凡三百年その頃おい飯貝村に蓮如上人諸人を化益ましましければ村人上人を相頼静乃亡霊を済度し給わんやと願ければ上人左右なく接引し給い静御前乃振袖大谷氏に秘蔵いたせしに一首乃歌をなん書記し給いぬ」としてその歌が挙げてある。
私たちがこの巻物を読む間、主人は一言の説明を加えるでもなく、黙って畏まっているだけであった。が、心中何の疑いもなく、父祖伝来のこの記事の内容を頭から盲信しているらしい顔つきである。「その、上人がお歌を書かれた振袖はどうされましたか」と尋ねると、先祖の時代に、静の菩提を弔うために村の西生寺と云う寺へ寄附したが、今は誰の手に渡ったか、寺にもなくなってしまったとのこと。太刀、脇差、靱等を手に取って見るのに、相当年代の立ったものらしく、殊に靱はぼろぼろにいたんでいるけれども、私たちに鑑定の出来る性質のものではない。問題の初音の鼓は、皮はなくて、ただ胴ばかりが桐の箱に収まっていた。これもよくは分らないが、漆が比較的新しいようで、蒔絵の模様などもなく、見たところ何の奇もない黒無地の胴である。もっとも木地は古いようだから、あるいはいつの代かに塗り替えたものかも知れない。「さあそんなことかも存じませぬ」と、主人は一向無関心な返答をする。
外に、屋根と扉の附いた厳めしい形の位牌が二基ある。一つの扉には葵の紋があって、中に「贈正一位大相国公尊儀」と刻し、もう一つの方は梅鉢の紋で、中央に「帰真 松誉貞玉信女霊位」と彫り、その右に「元文二年巳年」、左に「壬十一月十日」とある。しかし主人はこの位牌についても、何も知るところはないらしい。ただ昔から、大谷家の主君に当る人のものだと云われ、毎年正月元日にはこの二つの位牌を礼拝するのが例になっている。そして元文の年号のある方を、あるいは静御前のではないかと思います。と、真顔で云うのである。
その人の好さそうな、小心らしいショボショボした眼を見ると、私たちは何も云うべきことはなかった。今更元文の年号がいつの時代であるかを説き、静御前の生涯について吾妻鑑や平家物語を引き合いに出すまでもあるまい。要するにここの主人は正直一途にそう信じているのである。主人の頭にあるものは、鶴ヶ岡の社頭において、頼朝の面前で舞を舞ったあの静とは限らない。それはこの家の遠い先祖が生きていた昔、───なつかしい古代を象徴する、ある高貴の女性である。「静御前」と云う一人の上﨟の幻影の中に、「祖先」に対し、「主君」に対し、「古え」に対する崇敬と思慕の情とを寄せているのである。そう云う上﨟が実際この家に宿を求め、世を住み佗びていたかどうかを問う用はない。せっかく主人が信じているなら信じるに任せておいたらよい。強いて主人に同情をすれば、あるいはそれは静ではなく、南朝の姫宮方であったか、戦国頃の落人であったか、いずれにしてもこの家が富み栄えていた時分に、何か似寄りの事実があって、それへ静の伝説が紛れ込んだものかも知れない。
私たちが辞して帰ろうとすると、
「何もお構い出来ませぬが、ずくしを召し上って下さいませ」
と、主人は茶を入れてくれたりして、盆に盛った柹の実に、灰の這入っていない空の火入れを添えて出した。
ずくしはけだし熟柹であろう。空の火入れは煙草の吸い殻を捨てるためのものではなく、どろどろに熟れた柹の実を、その器に受けて食うのであろう。しきりにすすめられるままに、私は今にも崩れそうなその実の一つを恐々手のひらの上に載せてみた。円錐形の、尻の尖った大きな柹であるが、真っ赤に熟し切って半透明になった果実は、あたかもゴムの袋のごとく膨らんでぶくぶくしながら、日に透かすと琅玕の珠のように美しい。市中に売っている樽柹などは、どんなに熟れてもこんな見事な色にはならないし、こう柔かくなる前に形がぐずぐずに崩れてしまう。主人が云うのに、ずくしを作るには皮の厚い美濃柹に限る。それがまだ固く渋い時分に枝から捥いで、なるべく風のあたらない処へ、箱か籠に入れておく。そうして十日ほどたてば、何の人工も加えないで自然に皮の中が半流動体になり、甘露のような甘みを持つ。外の柹だと、中味が水のように融けてしまって、美濃柹のごとくねっとりとしたものにならない。これを食うには半熟の卵を食うようにへたを抜き取って、その穴から匙ですくう法もあるが、やはり手はよごれても、器に受けて、皮を剥いでたべる方が美味である。しかし眺めても美しく、たべてもおいしいのは、ちょうど十日目頃のわずかな期間で、それ以上日が立てばずくしもついに水になってしまうと云う。
そんな話を聞きながら、私はしばらく手の上にある一顆の露の玉に見入った。そして自分の手のひらの中に、この山間の霊気と日光とが凝り固まった気がした。昔田舎者が京へ上ると、都の土をひと握り紙に包んで土産にしたと聞いているが、私がもし誰かから、吉野の秋の色を問われたら、この柹の実を大切に持ち帰って示すであろう。
結局大谷氏の家で感心したものは、鼓よりも古文書よりも、ずくしであった。津村も私も、歯ぐきから膓の底へ沁み徹る冷めたさを喜びつつ甘い粘っこい柹の実を貪るように二つまで食べた。私は自分の口腔に吉野の秋を一杯に頬張った。思うに仏典中にある菴摩羅果もこれほど美味ではなかったかも知れない。
「君、あの由来書きを見ると、初音の鼓は静御前の遺物とあるだけで、狐の皮と云うことは記してないね」
「うん、───だから僕は、あの鼓の方が脚本より前にあるのだと思う。後で拵えたものなら、何とかもう少し芝居の筋に関係を付けないはずはない。つまり妹背山の作者が実景を見てあの趣向を考えついたように、千本桜の作者もかつて大谷家を訪ねたか噂を聞いたかして、あんなことを思いついたんじゃないかね。もっとも千本桜の作者は竹田出雲だから、あの脚本の出来たのは少くとも宝暦以前で、安政二年の由来書きの方が新しいと云う疑問がある。しかし『大谷源兵衛七十六歳にて伝聞のままを書記し』たと云っている通り、伝来はずっと古いんじゃないか。よしんばあの鼓が贋物だとしても、安政二年に出来たものでなく、ずっと以前からあったんだと云う想像をするのは無理だろうか」
「だがあの鼓はいかにも新しそうじゃないか」
「いや、あれは新しいか知れないが、鼓の方も途中で塗り換えたり造り換えたりして、二代か三代立っているんだ。あの鼓の前には、もっと古い奴があの桐の箱の中に収まっていたんだと思うよ」
菜摘の里から対岸の宮滝へ戻るには、これも名所の一つに数えられている柴橋を渡るのである。私たちはその橋の袂の岩の上に腰かけながらしばらくそんな話をした。
貝原益軒の和州巡覧記に、「宮滝は滝にあらず両方に大岩ありその間を吉野川ながるる也両岸は大なる岩なり岩の高さ五間ばかり屏風を立たるごとし両岸の間川の広さ三間ばかりせばき所に橋あり大河ここに至ってせばきゆえ河水甚深しその景絶妙也」とあるのが、ちょうど今私たちの休んでいるこの岩から見た景色であろう。「里人岩飛とて岸の上より水底へ飛入て川下におよぎ出て人に見せ銭をとる也飛ときは両手を身にそえ両足をあわせて飛入水中に一丈ばかり入て両手をはれば浮み出るという」とあって、名所図会にはその岩飛びの図が出ているが、両岸の地勢、水の流れ、あの絵の示す通りである。川はここへ来て急カーヴを描きつつ巨大な巌の間へ白泡を噴いて沸り落ちる。さっき大谷家で聞いたのに、毎年筏がこの岩に打つかって遭難することが珍しくないと云う。岩飛びをする里人は、平生この辺で釣りをしたり、耕したりしていて、たまたま旅人の通る者があれば、早速勧誘して得意の放れ業を演じて見せる。向う岸のやや低い岩から飛び込むのが百文、こちら岸の高い方の岩からなら二百文、それで向うの岩を百文岩、こちらの岩を二百文岩と呼び、今にその名が残っているくらいで、大谷家の主人も若い時分に見たことがあるけれども、近頃はそんなものを見物する旅客も稀になり、いつか知らず滅びてしまったのだそうである。
「ね、昔は吉野の花見と云うと、今のように道が拓けていなかったから、宇陀郡の方を廻って来たりして、この辺を通る人が多かったんだよ。つまり義経の落ちて来た道と云うのが普通の順路じゃなかったのかね。だから竹田出雲なんぞきっとここへやって来て、初音の鼓を見たことがあるんだよ」
───津村はその岩の上に腰をおろして、いまだに初音の鼓のことをなぜか気にかけているのである。自分は忠信狐ではないが、初音の鼓を慕う心は狐にも勝るくらいだ、自分は何だか、あの鼓を見ると自分の親に遇ったような思いがする、と、津村はそんなことを云い出すのであった。
ここで私は、この津村と云う青年の人となりをあらまし読者に知って置いて貰わねばならない。実を云うと、私もその時その岩の上で打ち明け話を聞かされるまで委しいことは知らなかった。───と云うのは、前にもちょっと述べたように、彼と私とは東京の一高時代の同窓で、当時は親しい間柄であったが、一高から大学へ這入る時に、家事上の都合と云うことで彼は大阪の生家へ帰り、それきり学業を廃してしまった。その頃私が聞いたのでは、津村の家は島の内の旧家で、代々質屋を営み、彼の外に女のきょうだいが二人あるが、両親は早く歿して、子供たちは主に祖母の手で育てられた。そして姉娘はつとに他家へ縁づき、今度妹も嫁入り先がきまったについて、祖母も追い追い心細くなり、忰を側へ呼びたくなったのと、家の方の面倒を見る者がないのとで、急に学校を止めることにした。「それなら京大へ行ったらどうか」と、私はすすめてみたけれども、当時津村の志は学問よりも創作にあったので、どうせ商売は番頭任せでよいのだから、暇を見てぽつぽつ小説でも書いた方が気楽だと、云うつもりらしかった。
しかしそれ以来、ときどき文通はしていたのだが、一向物を書いているらしい様子もなかった。ああは云っても、家に落ち着いて暮らしに不自由のない若旦那になってしまえば、自然野心も衰えるものだから、津村もいつとなく境遇に馴れ、平穏な町人生活に甘んずるようになったのであろう。私はそれから二年ほど立って、ある日彼からの手紙の端に祖母が亡くなったと云う知らせを読んだ時、いずれ近いうちに、あの「御料人様」と云う言葉にふさわしい上方風な嫁でも迎えて、彼もいよいよ島の内の旦那衆になり切ることだろうと、想像していた次第であった。
そんな事情で、その後津村は二三度上京したけれども、学校を出てからゆっくり話し合う機会を得たのは、今度が始めてなのである。そして私は、この久振で遇う友の様子が、大体想像の通りであったのを感じた。男も女も学生生活を卒えて家庭の人になると、にわかに栄養が良くなったように色が白く、肉づきが豊かになり、体質に変化が起るものだが、津村の人柄にもどこか大阪のぼんちらしいおっとりした円みが出来、まだ抜け切れない書生言葉のうちにも上方訛りのアクセントが、───前から多少そうであったが、前よりは一層顕著に───交るのである。と、こう書いたらおおよそ読者も津村と云う人間の外貌を会得されるであろう。
さてその岩の上で、津村が突然語り出した初音の鼓と彼自身に纏わる因縁、───それからまた、彼が今度の旅行を思い立つに至った動機、彼の胸に秘めていた目的、───そのいきさつは相当長いものになるが、以下なるべくは簡略に、彼の言葉の意味を伝えることにしよう。───
自分のこの心持は大阪人でないと、また自分のように早く父母を失って、親の顔を知らない人間でないと、(───と、津村が云うのである。)到底理解されないかと思う。君もご承知の通り、大阪には、浄瑠璃と、生田流の箏曲と、地唄と、この三つの固有な音楽がある。自分は特に音楽好きと云うほどでもないが、しかしやはり土地の風習でそう云うものに親しむ時が多かったから、自然と耳について、知らず識らず影響を受けている点が少くない。取り分けいまだに想い出すのは、自分が四つか五つのおり、島の内の家の奥の間で、色の白い眼元のすずしい上品な町方の女房と、盲人の検校とが琴と三味線を合わせていた、───その、ある一日の情景である。自分はその時琴を弾いていた上品な婦人の姿こそ、自分の記憶の中にある唯一の母の俤であるような気がするけれども、果してそれが母であったかどうかは明かでない。後年祖母の話によると、その婦人は恐らく祖母であったろう、母はそれより少し前に亡くなったはずであると云う。が、自分はまたその時検校とその婦人が弾いていたのは生田流の「狐噲」と云う曲であったことを不思議に覚えているのである。思うに自分の家では祖母を始め、姉や妹が皆その検校の弟子であったし、その後も折々狐噲の曲を繰り返し聴いたことがあるから、始終印象が新たにされていたのであろう。ところでその曲の詞と云うのは、───
いたわしや母上は、花の姿に引き替えて合しおるる露の床の内合智慧の鏡も掻き曇る、法師にまみえ給いつつ合母も招けばうしろみ返りて合さらばと云わぬ合ばかりにて、泣くより外の合事ぞなき、野越え山越え里打ち過ぎて合来るは誰故ぞ合さま故合誰故来るは合来るは誰故ぞ様故合君は帰るか恨めしやのうやれ合我が住む森に帰らん我が思う思う心のうちは白菊岩隠れ蔦がくれ、篠の細道掻き分け行けば、虫のこえごえ面白や合降りそむる、やれ降りそむる、けさだにも合けさだにも合所は跡もなかりけり合西は田の畦あぶないさ、谷峯しどろに越え行け、あの山越えてこの山越えて、こがれこがるるうき思い。
───自分は今では、この節廻しも合いの手もことごとく暗んじてしまっているが、あの検校と婦人の席でこれをたしかに聞いた記憶が存しているのは、何かしらこの文句の中に頑是ない幼童の心を感銘させるものがあったに違いない。
もともと地唄の文句には辻褄の合わぬところや、語法の滅茶苦茶なところが多くて、殊更意味を晦渋にしたのかと思われるものがたくさんある。それに謡曲や浄瑠璃の故事を蹈まえているのなぞは、その典拠を知らないではなおさら解釈に苦しむ訳で、「狐噲」の曲も大方別に基づくところがあるのであろう。しかし「いたわしや母上は花の姿に引き替えて」と云い、「母も招けばうしろみ返りて、さらばと云わぬばかりにて」と云い、逃げて行く母を恋い慕う少年の悲しみの籠っていることが、当時の幼い自分にも何とはなしに感ぜられたと見える。その上「野越え山越え里打ち過ぎて」と云い、「あの山越えてこの山越えて」と云う詞には、どこか子守唄に似た調子もある。そしてどう云う連想の作用か、「狐噲」と云う文字も意味も分るはずはなかったのに、そののち幾たびかこの曲を耳にするに随って、それが狐に関係のあるらしいことを、おぼろげながら悟るようになった。
これは多分、しばしば祖母に連れられて文楽座や堀江座の人形芝居へ行ったものだから、そんな時に見た葛の葉の子別れの場が頭に沁み込んでいたせいであろう。あの、母狐が秋の夕ぐれに障子の中で機を織っている、とんからり、とんからりと云う筬の音。それから寝ている我が子に名残りを惜しみつつ「恋いしくば訪ね来てみよ和泉なる───」と障子へ記すあの歌。───ああ云う場面が母を知らない少年の胸に訴える力は、その境遇の人でなければ恐らく想像も及ぶまい。自分は子供ながらも、「我が住む森に帰らん」と云う句、「我が思う思う心のうちは白菊岩隠れ蔦がくれ、篠の細道掻き分け行けば」などと云う唄のふしのうちに、色とりどりな秋の小径を森の古巣へ走って行く一匹の白狐の後影を認め、その跡を慕うて追いかける童子の身の上を自分に引きくらべて、ひとしお母恋いしさの思いに責められたのであろう。そう云えば、信田の森は大阪の近くにあるせいか、昔から葛の葉を唄った童謡が家庭の遊戯と結び着いて幾種類か行われているが、自分も二つばかり覚えているのがある。その一つは、
釣ろうよ、釣ろうよ
信田の森の
狐どんを釣ろうよ
と唄いながら、一人が狐になり、二人が猟人になって輪を作った紐の両端を持って遊ぶ狐釣りの遊戯である。東京の家庭にもこれに似た遊戯があると聞いて、自分はかつてある待合で芸者にやらせて見たことがあるが、唄の文句も節廻しも大阪のとはやや違う。それに遊戯する者も、東京ではすわったままだけれども、大阪では普通立ってやるので、狐になった者が、唄につれておどけた狐の身振をしながら次第に輪の側へ近づいて来るのが、───たまたまそれが艶な町娘や若い嫁であったりすると、殊に可愛い。少年の時、正月の晩などに親戚の家へ招かれてそんな遊びをした折に、あるあどけない若女房で、その狐の身振が優れて上手な美しい人があったのを、今に自分は忘れずにいるくらいである。なおもう一つの遊戯は、大勢が手をつなぎ合って円座を作り、その輪のまん中へ鬼をすわらせる。そして豆のような小さな物を鬼に見せないように手の中へ隠して、唄をうたいつつ順々に次の人の手へ渡して行き、唄が終ると皆じっと動かずにいて、誰の手の中に豆があるかを鬼に中てさせる。その唄の詞はこう云うのである。
麦摘ゥんで
蓬摘ゥんで
お手にお豆がこゥこのつ
九ゥつの、豆の数より
親の在所が恋いしゅうて
恋いしィくば
訪ね来てみよ
信田のもゥりのうゥらみ葛の葉
自分はこの唄にはほのかながら子供の郷愁があるのを感じる。大阪の町方には、河内、和泉、あの辺の田舎から年期奉公に来ている丁稚や下女が多いが、冬の夜寒に、表の戸を締めて、そう云う奉公人共が家族の者たちと火鉢のぐるりに団居しながらこの唄をうたって遊ぶ情景は、船場や島の内あたりに店を持つ町家にしばしば見受けられる。思うに草深い故郷を離れて、商法や行儀を見習いに来ている子弟等は、「親の在所が恋いしゅうて」と何気なく口ずさむうちにも、茅葺きの家の薄暗い納戸にふせる父母の俤を偲びつつあったであろう。自分は後世、忠臣蔵の六段目で、あの、深編笠の二人侍が訪ねて来るところで、この唄を下座に使っているのを図らずも聴いたが、与市兵衛、おかや、お軽などの境涯と、いかにも取り合わせの巧いのに感心した。
当時、島の内の自分の家にも奉公人が大勢いたから、自分は彼等があの唄をうたって遊ぶのを見ると、同情もし、また羨ましくもあった。父母の膝元を離れて他人の所に住み込んでいるのは可哀そうだけれども、奉公人たちはいつでも国へ帰りさえすれば、会うことの出来る親があるのに、自分にはそれがないのである。そんなことから、自分は信田の森へ行けば母に会えるような気がして、たしか尋常二三年の頃、そっと、家には内証で、同級生の友達を誘ってあそこまで出かけたことがあった。あの辺は今でも南海電車を降りて半里も歩かねばならぬ不便な場所で、その時分は途中まで汽車があったかどうか、何でも大部分ガタ馬車に乗って、よほど歩いたように思う。行ってみると、楠の大木の森の中に葛の葉稲荷の祠が建っていて、葛の葉姫の姿見の井戸と云うものがあった。自分は絵馬堂に掲げてある子別れの場の押絵の絵馬や、雀右衛門か誰かの似顔絵の額を眺めたりして、わずかに慰められて森を出たが、その帰り路に、ところどころの百姓家の障子の蔭から、今もとんからり、とんからりと機を織る音が洩れて来るのを、この上もなくなつかしく聞いた。多分あの沿道は河内木棉の産地だったので、機屋がたくさんあったのであろう。とにかくその昔はどれほど自分の憧れを充たしてくれたか知れなかった。
しかし自分が奇異に思うことは、そう云う風に常に恋い慕ったのは主として母の方であって、父に対してはさほどでもなかった一事である。そのくせ父は母より前に亡くなっていたから、母の姿は万一にも記憶に存する可能性があっても、父のは全くないはずであった。そんな点から考えると、自分の母を恋うる気持はただ漠然たる「未知の女性」に対する憧憬、───つまり少年期の恋愛の萌芽と関係がありはしないか。なぜなら自分の場合には、過去に母であった人も、将来妻となるべき人も、等しく「未知の女性」であって、それが眼に見えぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである。けだしこう云う心理は、自分のような境遇でなくとも、誰にも幾分か潜んでいるだろう。その証拠にはあの狐噲の唄の文句なども、子が母を慕うようでもあるが、「来るは誰故ぞ、様故」と云い、「君は帰るか恨めしやのうやれ」と云い、相愛の男女の哀別離苦をうたっているようでもある。恐らくこの唄の作者は両方の意味に取れるようにわざと歌詞を曖昧にぼかしたのではないか。いずれにせよ自分は最初にあれを聞いた時から、母ばかりを幻に描いていたとは信じられない。その幻は母であると同時に妻でもあったと思う。だから自分の小さな胸の中にある母の姿は、年老いた婦人でなく、永久に若く美しい女であった。あの馬方三吉の芝居に出て来るお乳の人の重の井、───立派な袿襠を着て、大名の姫君に仕えている花やかな貴婦人、───自分の夢に見る母はあの三吉の母のような人であり、その夢の中で自分はしばしば三吉になっていた。
徳川時代の狂言作者は、案外ずるく頭が働いて、観客の意識の底に潜在している微妙な心理に媚びることが巧みであったのかも知れない。この三吉の芝居なども、一方を貴族の女の児にし、一方を馬方の男の児にして、その間に、乳母であり母である上﨟の婦人を配したところは、表面親子の情愛を扱ったものに違いないけれども、その蔭に淡い少年の恋が暗示されていなくもない。少くとも三吉の方から見れば、いかめしい大名の奥御殿に住む姫君と母とは、等しく思慕の対象になり得る。それが葛の葉の芝居では、父と子とが同じ心になって一人の母を慕うのであるが、この場合、母が狐であると云う仕組みは、一層見る人の空想を甘くする。自分はいつも、もしあの芝居のように自分の母が狐であってくれたらばと思って、どんなに安倍の童子を羨んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じを抱くであろう。が、千本桜の道行になると、母───狐───美女───恋人───と云う連想がもっと密接である。ここでは親も狐、子も狐であって、しかも静と忠信狐とは主従のごとく書いてありながら、やはり見た眼は恋人同士の道行と映ずるように工まれている。そのせいか自分は最もこの舞踊劇を見ることを好んだ。そして自分を忠信狐になぞらえ、親狐の皮で張られた鼓の音に惹かされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した。自分はせめて舞を習って、温習会の舞台の上ででも忠信になりたいと、そんなことを考えたほどであった。
「だがそれだけではないんだよ」
と、津村はそこまで語って来て、早や暮れかかって来た対岸の菜摘の里の森影を眺めながら、
「自分は今度、ほんとうに初音の鼓に惹き寄せられてこの吉野まで来たようなものなんだよ」
と、そう云って、そのぼんちらしい人の好い眼もとに、何か私には意味の分らない笑いを浮かべた。
さてこれからは私が間接に津村の話を取り次ぐとしよう。
そう云う訳で、津村が吉野と云う土地に特別のなつかしさを感ずるのは、一つは千本桜の芝居の影響によるのであるが、一つには、母は大和の人だと云うことをかねがね聞いていたからであった。が、大和のどこから貰われて来たのか、その実家は現存しているのか等のことは、久しく謎に包まれていた。津村は祖母の生前に出来るだけ母の経歴を調べておきたいと思って、いろいろ尋ねたけれども、祖母は何分にも忘れてしまったと云うことで、はかばかしい答は得られなかった。親類の誰彼、伯父伯母などに聞いてみても、母の里方については、不思議に知っている者がなかった。ぜんたい津村家は旧家であるから、あたりまえなら二代も三代も前からの縁者が出入りしているはずであるが、母は実は、大和からすぐ彼の父に嫁いだのでなく、幼少の頃大阪の色町へ売られ、そこからいったん然るべき人の養女になって輿入れをしたらしい。それで戸籍面の記載では、文久三年に生れ、明治十年に十五歳で今橋三丁目浦門喜十郎の許から津村家へ嫁ぎ、明治二十四年に二十九歳で死亡している。中学を卒業する頃の津村は、母に関してようようこれだけのことしか知らなかった。後から考えれば、祖母や親戚の年寄たちが余り話してくれなかったのは、母の前身が前身であるから、語るを好まなかったのであろう。しかし津村の気持では、自分の母が狭斜の巷に生い立った人であると云う事実は、ただなつかしさを増すばかりで別に不名誉とも不愉快とも感じなかった。まして縁づいたのが十五の歳であるとすれば、いかに早婚の時代だとしても、恐らく母はそういう社界の汚れに染まる度も少く、まだ純真な娘らしさを失っていなかったであろう。それなればこそ子供を三人も生んだのであろう。そして初々しい少女の花嫁は、夫の家に引き取られて旧家の主婦たるにふさわしいさまざまな躾を受けたであろう。津村はかつて、母が十七八の時に手写したと云う琴唄の稽古本を見たことがあるが、それは半紙を四つ折りにしたものへ横に唄の詞を列ね、行間に琴の譜を朱で丹念に書き入れてある、美しいお家流の筆蹟であった。
そののち津村は東京へ遊学したので、自然家庭と遠ざかることになったが、そのあいだも母の故郷を知りたい心はかえって募る一方であった。有りていに云うと、彼の青春期は母への思慕で過ぐされたと云ってよい。行きずりに遇う町の女、令嬢、芸者、女優、───などに、淡い好奇心を感じたこともないではないが、いつでも彼の眼に止まる相手は、写真で見る母の俤にどこか共通な感じのある顔の主であった。彼が学校生活を捨てて大阪へ帰ったのも、あながち祖母の意に従ったばかりでなく、彼自身があこがれの土地へ、───母の故郷に少しでも近い所、そして彼女がその短かい生涯の半分を送った島の内の家へ、───惹き寄せられたためなのである。それに何と云っても母は関西の女であるから、東京の町では彼女に似通った女に会うことが稀だけれども、大阪にいると、ときどきそう云うのに打つかる。母の生い育ったのはただ色町と云うばかりで、いずこの土地とも分らないのが恨みであったが、それでも彼は母の幻に会うために花柳界の女に近づき、茶屋酒に親しんだ。そんなことから方々に岡惚れを作った。「遊ぶ」と云う評判も取った。けれども元来が母恋いしさから起ったのに過ぎないのだから、一遍も深入りをしたことはなく、今日まで童貞を守り続けた。
こうして二三年を過すうちに祖母が死んだ。
その、祖母が亡くなった後のある日のことである。形見の品を整理しようと思って土蔵の中の小袖箪笥の抽出しを改めていると、祖母の手蹟らしい書類に交って、ついぞ見たことのない古い書付けや文反古が出て来た。それはまだ母が勤め奉公時代に父と母との間に交された艶書、大和の国の実母らしい人から母へ宛てた手紙、琴、三味線、生け花、茶の湯等の奥許しの免状などであった。艶書は父からのものが三通、母からのものが二通、初恋に酔う少年少女のたわいのない睦言の遣り取りに過ぎないけれども、互に人目を忍んでは首尾していたらしい様子合いも見え、殊に母のものは「………おろかなりし心より思し召しをかえりみず文さし上候こなた心少しは御汲分け………」とか「ひとかたならぬ御事のみ仰下されなんぼうか嬉しくぞんじ色々耻かしき身の上までもお咄申上げ………」とか、十五の女の児にしては、筆の運びこそたどたどしいものの、さすがにませた言葉づかいで、その頃の男女の早熟さが思いやられた。次に故郷の実家から寄越したのは一通しかなく、宛名は「大阪市新町九軒粉川様内おすみどの」とあり、差出人は「大和国吉野郡国栖村窪垣内昆布助左衛門内」となっていて、「此度其身の孝心をかんしん致候ゆえ文して申遣し参らせ候左候えば日にまし寒さに向い候え共いよいよかわらせなく相くらされこのかたも安心いたし居候ととさんと申かかさんと申誠に誠に難有………」と云うような書き出しで、館の主人を親とも思い大切にせねばならぬこと、遊芸のけいこに身を入れること、人の物を欲しがってはならぬこと、神仏を信心することなど、教訓めいたことのかずかずが記してあった。
津村は土蔵の埃だらけな床の上にすわったまま、うす暗い光線でこの手紙を繰り返し読んだ。そして気がついた時分には、いつか日が暮れていたので、今度はそれを書斎へ持って出て、電燈の下にひろげた。むかし、恐らくは三四十年も前に、吉野郡国栖村の百姓家で、行燈の灯影にうずくまりつつ老眼の脂を払い払い娘のもとへこまごまと書き綴っていたであろう老媼の姿が、その二たひろにも余る長い巻紙の上に浮かんだ。文の言葉や仮名づかいには田舎の婆が書いたらしい覚つかないふしぶしも見えるけれども、文字はそのわりに拙くなく、お家流の正しい崩し方で書いてあるのは、満更の水呑み百姓でもなかったのであろう。が、何か暮らし向きに困る事情が出来て、娘を金に替えたのであることは察せられる。ただ惜しいことに十二月七日とあるばかりで、年号が書き入れてないのだが、多分この文は娘を大阪へ出してからの最初の便であろうと思われる。しかしそれでも老い先短かい身の心細く、ところどころに「これかかさんのゆい言ぞや」とか、「たとえこちらがいのちなくともその身に付そい出せいをいたさせ候間」などと云う文句が見え、何をしてはならぬ、彼をしてはならぬと、いろいろと案じ過して諭している中にも、面白いのは、紙を粗末にせぬようにと、長々と訓戒を述べて、「此かみもかかさんとおりとのすきたる紙なりかならずかならずはだみはなさず大せつにおもうべし其身はよろずぜいたくにくらせどもかみを粗末にしてはならぬぞやかかさんもおりとも此かみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんと苦ろういたし候」と、二十行にも亘って書いていることである。津村はこれによって、母の生家が紙すきを業としていたのを知り得た。それから母の家族の中に、姉か妹であるらしい「おりと」と云う婦人のあることが分った。なおその外に「おえい」と云う婦人も見えて、「おえいは日々雪のつもる山に葛をほりに行き候みなしてかせぎためろぎん出来候えば其身にあいに参り候たのしみいてくれられよ」とあって、「子をおもうおやの心はやみ故にくらがり峠のかたぞこいしき」と、最後に和歌が記されていた。
この歌の中にある「くらがり峠」と云う所は、大阪から大和へ越える街道にあって、汽車がなかった時代には皆その峠を越えたのである。峠の頂上に何とか云う寺があり、そこがほととぎすの名所になっていたから、津村も一度中学時代に行ったことがあったが、たしか六月頃のある夜の、まだ明けきらぬうちに山へかかって、寺でひと休みしていると、暁の四時か五時頃だったろう、障子の外がほんのり白み初めたと思ったら、どこかうしろの山の方で、不意に一と声ほととぎすが啼いた。するとつづいて、その同じ鳥か、別なほととぎすか、二た声も三声も、───しまいには珍しくもなくなったほど啼きしきった。津村はこの歌を読むと、ふと、あの時は何でもなく聞いたほととぎすの声が、急にたまらなくなつかしいものに想い出された。そして昔の人があの鳥の啼く音を故人の魂になぞらえて、「蜀魂」と云い「不如帰」と云ったのが、いかにももっともな連想であるような気がした。
しかし老婆の手紙について津村が最も奇しい因縁を感じたことが外にあった。と云うのは、この婦人、───彼の母方の祖母にあたる人は、その文の中に狐のことをしきりに説いているのである。「………ずいぶんずいぶんこれからは御屋しろの稲荷さまと白狐の命婦之進とをまいにちまいにちあさあさは拝むべし左候えばそちの知ておる通りととさんがよべば狐のあのようにそばへくるようになるもみないっしんの有る故なり………」とか、「それゆえこのたびのなんもまったく白狐さまのお蔭とぞんじ参らせ候是からは其御内の武運長久あしきやまいなきようのきとう毎日毎日致し参らせ候随分随分と信心なされるべく………」とか、そんなことが書いてあるのを見ると、祖母の夫婦はよほど稲荷の信仰に凝り固まっていたことが分る。察するところ「御屋しろの稲荷さま」と云うのは、屋敷のうちに小さな祠でも建てて勧進してあったのではないか。そしてその稲荷のお使いである「命婦之進」と云う白狐も、どこかその祠の近くに巣を作っていたのではないか。「そちの知ておる通りととさんがよべば狐のあのようにそばへくるようになるも」とあるのは、本当にその白狐が祖父の声に応じて穴から姿を現わすのか、それとも祖母になり祖父自身になり魂が乗り移るのか明かでないが、祖父なる人は狐を自由に呼び出すことが出来、狐はまたこの老夫婦の蔭に附添い、一家の運命を支配していたように思える。
津村は「此かみもかかさんとおりとのすきたる紙なりかならずかならずはだみはなさず大せつにおもうべし」とあるその巻紙を、ほんとうに肌身につけて押し戴いた。少くとも明治十年以前、母が大阪へ売られてから間もなく寄越された文だとすれば、もう三四十年は立っているはずのその紙は、こんがりと遠火にあてたような色に変っていたが、紙質は今のものよりもきめが緻密で、しっかりしていた。津村はその中に通っている細かい丈夫な繊維の筋を日に透かして見て、「かかさんもおりとも此かみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんと苦ろういたし候」と云う文句を想い浮かべると、その老人の皮膚にも似た一枚の薄い紙片の中に、自分の母を生んだ人の血が籠っているのを感じた。母も恐らくは新町の館でこの文を受け取った時、やはり自分が今したようにこれを肌身につけ、押し戴いたであろうことを思えば、「昔の人の袖の香ぞする」その文殻は、彼には二重に床しくも貴い形見であった。
その後津村がこれらの文書を手がかりとして母の生家を突きとめるに至った過程については、あまり管々しく書くまでもなかろう。何しろその当時から三四十年前と云えば、ちょうど維新前後の変動に遭遇しているのだから、母が身売りをした新町九軒の粉川と云う家も、輿入れの前に一時籍を入れていた今橋の浦門と云う養家も、今では共に亡びてしまって行くえが分らず、奥許しの免状に署名している茶の湯、生け花、琴三味線等の師匠の家筋も、多くは絶えてしまっていたので、結局前に挙げた文を唯一の手がかりに、大和の国吉野郡国栖村へ尋ねて行くのが近道であり、またそれ以外に方法もなかった。それで津村は、自分の家の祖母が亡くなった年の冬、百ヶ日の法要を済ますと、親しい者にも其の目的は打ち明けずに、ひとり飄然と旅に赴く体裁で、思い切って国栖村へ出かけた。
大阪と違って、田舎はそんなに劇しい変遷はなかったはずである。まして田舎も田舎、行きどまりの山奥に近い吉野郡の僻地であるから、たとい貧しい百姓家であってもわずか二代か三代の間にあとかたもなくなるようなことはあるまい。津村はその期待に胸を躍らせつつ、晴れた十二月のある日の朝、上市から俥を雇って、今日私たちが歩いて来たこの街道を国栖へ急がせた。そしてなつかしい村の人家が見え出したとき、何より先に彼の眼を惹いたのは、ここかしこの軒下に乾してある紙であった。あたかも漁師町で海苔を乾すような工合に、長方形の紙が行儀よく板に並べて立てかけてあるのだが、その真っ白な色紙を散らしたようなのが、街道の両側や、丘の段々の上などに、高く低く、寒そうな日にきらきらと反射しつつあるのを眺めると、彼は何がなしに涙が浮かんだ。ここが自分の先祖の地だ。自分は今、長いあいだ夢に見ていた母の故郷の土を蹈んだ。この悠久な山間の村里は、大方母が生れた頃も、今眼の前にあるような平和な景色をひろげていただろう。四十年前の日も、つい昨日の日も、ここでは同じに明け、同じに暮れていたのだろう。津村は「昔」と壁ひと重の隣りへ来た気がした。ほんの一瞬間眼をつぶって再び見開けば、どこかその辺の籬の内に、母が少女の群れに交って遊んでいるかも知れなかった。
最初の彼の予想では、「昆布」は珍しい姓であるからじきに分ることと思っていたのだが、窪垣内と云う字へ行って見ると、そこには「昆布」の姓が非常に多いので、目的の家を捜し出すのになかなか埒が明かなかった。仕方がなく車夫と二人で昆布姓の家を一軒々々尋ねたけれども、「昆布助左衛門」を名乗る者は、昔は知らず、今は一人もいないと云う。ようようのことで、「それならあそこかも知れない」と、とある駄菓子屋の奥から出て来た古老らしい人が縁先に立って指さしてくれたのは、街道の左側の、小高い段の上に見える一と棟の草屋根であった。津村は車夫を菓子屋の店先に待たして置いて、往来からだらだらと半町ばかり引っ込んだ爪先上りの丘の路を、その草屋根の方へ登って行った。めっきりと冷える朝ではあったが、そこはうしろになだらかな斜面を持った山を繞らした、風のあたらない、なごやかな日だまりになった一廓で三四軒の家がいずれも紙をすいていた。坂を登って行く津村は、それらの丘の上の家々から若い女たちがちょっと仕事の手を休めて、この辺に見馴れない都会風の青年紳士が上って来るのを、珍しそうに見おろしているのに気づいた。紙をすくのは娘や嫁の手業になっているらしく、庭先に働いている人たちはほとんど皆手拭いを姐さん被りにしていた。津村はその、紙や手拭いの冴え冴えとした爽やかな反射の中を、教えられた家の軒近く立った。見ると、標札には「昆布由松」とあって、助左衛門と云う名は記してない。母家の右手に、納屋のような小屋が建っていて、そこの板敷の上に十七八になる娘がつくばいながら、米の研ぎ汁のような色をした水の中へ両手を漬けて、木の枠を篩ってはさっと掬い上げている。枠の中の白い水が、蒸籠のように作ってある簾の底へ紙の形に沈澱すると、娘はそれを順繰りに板敷に並べては、やがてまた枠を水の中へ漬ける。表へ向いた小屋の板戸が明いているので、津村はひと叢の野菊のすがれた垣根の外に彳みながら、見る間に二枚三枚と漉いて行く娘のあざやかな手際を眺めた。姿はすらりとしていたが、田舎娘らしくがっしりと堅太りした、骨太な、大柄な児であった。その頬は健康そうに張り切って、若さでつやつやしていたけれども、それよりも津村は、白い水に浸っている彼女の指に心を惹かれた。なるほど、これでは「ひびあかぎれに指のさきちぎれるよう」なのも道理である。が、寒さにいじめつけられて赤くふやけている傷々しいその指にも、日増しに伸びる歳頃の発育の力を抑えきれないものがあって、一種いじらしい美しさが感じられた。
その時、ふと注意を転じると、母家の左の隅の方に古い稲荷の祠のあるのが眼に這入った。津村の足は思わず垣根の中へ進んだ。そしてさっきから庭先で紙を乾していたこの家の主婦らしい二十四五の婦人の前へ寄って行った。
主婦は彼から来意を聞かされても、あまりその理由が唐突なのでしばらく遅疑する様子であったが、証拠の手紙を出して見せると、だんだん納得が行ったらしく、「わたしでは分りませんから、年寄に会って下さい」と、母家の奥にいた六十恰好の老媼を呼んだ。それがあの手紙にある「おりと」───津村の母の姉に当る婦人だったのである。
この老媼は彼の熱心な質問の前にオドオドしながら、もう消えかかった記憶の糸を手繰り手繰り歯の抜けた口から少しずつ語った。中には全く忘れていて答えられないこと、記憶ちがいと思われること、遠慮して云わないこと、前後矛盾していること、何かもぐもぐと云うには云っても息の洩れる声が聴き取りにくく、いくら問い返しても要領を掴めなかったことなどがたくさんあって、半分以上はこちらが想像で補うより外はなかったが、とにかくそう云う風にしてでも津村が知り得た事柄は、母に関する二十年来の彼の疑問を解くに足りた。母が大阪へやられたのは、たしか慶応頃だったと婆さんは云うのだけれども、ことし六十七になる婆さんが十四五歳、母が十一二歳の時だったそうであるから、明治以後であることは云うまでもない。それゆえ母はわずか二三年、多くも四年ほど新町に奉公しただけで、じきに津村家へ嫁いだことになる。おりと婆さんの口吻から察するのに、昆布の家は当時窮迫こそしていたものの、相当に名聞を重んずる旧家で、そんな所へ娘を勤めに出したことをなるべく隠していたのであろう。それで娘が奉公中はもちろんのこと、立派な家の嫁になった後までも、一つには娘の耻、一つには自分たちの耻と思って、あまり往き来をしなかったのであろう。また、実際にその頃の色里の勤め奉公は、芸妓、遊女、茶屋女、その他何であるにしろ、いったん身売りの証文に判をついた以上、きれいに親許と縁を切るのが習慣であり、その後の娘はいわゆる「喰焼奉公人」として、どう云う風に成り行こうとも、実家はそれに係り合う権利がなかったでもあろう。しかし婆さんのおぼろげな記憶によると、妹が津村家へ縁づいてから、彼女の母は一度か二度、大阪へ会いに行ったことがあるらしく、今では大家の御料人様に出世した結構ずくめの娘の身の上を驚異をもって語っていた折があった。そして彼女にも是非大阪へ出て来るようにと言づてを聞いたけれども、そんな所へ見すぼらしい姿で上れるはずもなし、妹の方もあれなり故郷を訪れたことがなかったので、彼女はついぞ成人してからの妹と云うものを知らずにいるうち、やがてその旦那様が死に、妹が死に、彼女の方の両親も死に、もうそれからはなおさら津村家との交通が絶えてしまった。
おりと婆さんはその肉親の妹、───津村の母のことを呼ぶのに「あなた様のお袋さま」と云う廻りくどい言葉を用いた。それは津村への礼儀からでもあったろうが、事によると妹の名を忘れているのかも知れなかった。「おえいは日々雪のふる山に葛をほりに行き候」とあるその「おえい」と云う人を尋ねると、それが総領娘で、二番目がおりと、末娘が津村の母のおすみであった。が、ある事情から長女のおえいが他家へ縁づき、おりとが養子を迎えて昆布の跡を継いだ。そして今ではそのおえいもおりとの夫も亡くなって、この家は息子の由松の代になり、さっき庭先で津村に応待した婦人がその由松の嫁であった。そう云う訳で、おりとの母が存生の頃はすみ女に関する書類や手紙なども少しは保存してあったはずだが、もはや三代を経た今日となっては、ほとんどこれと云う品も残っていない。───と、おりと婆さんはそう語ってから、ふと思い出したように、立って仏壇の扉を開いて、位牌の傍に飾ってあった一葉の写真を持って来て示した。それは津村も見覚えのある、母が晩年に撮影した手札型の胸像で、彼もその複写の一枚を自分のアルバムに所蔵しているものであった。
「そう、そう、あなた様のお袋さまの物は、───」
と、おりと婆さんはそれからまた何かを思い出した様子で附け加えた。
「この写真の外に、琴が一面ございました。これは大阪の娘の形見だと申して、母が大切にしておりましたが、久しく出しても見ませぬので、どうなっておりますやら、………」
津村は、二階の物置きを捜したらあるだろうと云うその琴を見せて貰うために、畑へ出ていた由松の帰りを待った。そしてその隙に近所で昼食をしたためて来てから、自分も若夫婦に手を貸して、埃の堆い嵩張った荷物を明るい縁先へ運び出した。
どうしてこんな物がこの家に伝わっていたのであろう、───色褪せた覆いの油単を払うと、下から現れたのは、古びてこそいるが立派な蒔絵の本間の琴であった。蒔絵の模様は、甲を除いたほとんど全部に行き亘っていて、両側の「磯」は住吉の景色であるらしく、片側に鳥居と反橋とが松林の中に配してあり、片側に高燈籠と磯馴松と浜辺の波が描いてある。「海」から「竜角」「四分六」のあたりには無数の千鳥が飛んでいて、「荻布」のある方、「柏葉」の下に五色の雲と天人の姿が透いて見える。そしてそれらの蒔絵や絵の具の色は、桐の木地が時代を帯びて黒ずんでいるために、一層上品な光を沈ませて眼を射るのである。津村は油単の塵を拭って、改めてその染め模様を調べた。地質は多分塩瀬であろう、表は上の方へ紅地に白く八重梅の紋を抜き、下の方に唐美人が高楼に坐して琴を弾じている図がある。楼の柱の両側に「二十五絃弾月夜」「不堪清怨却飛来」と、一対の聯が懸っている。裏は月に雁の列を現わした傍に「雲みちによそえる琴の柱をはつらなる雁とおもいける哉」と云う文字が読めた。
しかしそれにしても、八重梅は津村家の紋でないのであるが、養家の浦門家の紋か、あるいはひょっとすると、新町の館の紋ではなかったのであろうか。そして津村家へ嫁ぐについて、不用になった色町時代の記念の品を郷里へ贈ったのではないか。恐らくその時分、実家の方に年頃の娘かなんぞがいて、その児のために田舎の祖母が貰い受けたと云うことも考えられる。またそうでもなく、嫁いでからも長く島の内の家にあったのを、彼女の遺言か何かによって国元へ届けたとも想像される。が、おりと婆さんも若夫婦も、一向その間の事情に関して知るところはなかった。たしか手紙のようなものが附いていたと思うけれども、今ではそれも見あたらない、ただ「大阪へやられた人」から譲られたものであることを聞き覚えている、と云うのみであった。
別に、附属品を収めた小型の桐の匣があって、中に琴柱と琴爪とが這入っていた。琴柱は黒っぽい堅木の木地で、それにも一つ一つ松竹梅の蒔絵がしてある。琴爪の方は、大分使い込まれたらしく手擦れていたが、かつて母のかぼそい指が箝めたであろうそれらの爪を、津村はなつかしさに堪えず自分の小指にあててみた。幼少の折、奥のひと間で品のよい婦人と検校とが「狐噲」を弾いていたあの場面が、一瞬間彼の眼交を掠めた。その婦人は母ではなく、琴もこの琴ではなかったかも知れぬけれども、大方母もこれを掻き鳴らしつつ幾度かあの曲を唄ったであろう。もし出来るならば自分はこの楽器を修繕させ、母の命日に誰か然るべき人を頼んで「狐噲」の曲を弾かせてみたい、と、その時から津村はそう思いついた。庭の稲荷の祠については守り神として代々祭って来たのであるから、若夫婦たちもその手紙にあるものに相違ないことを確かめてくれた。もっとも現在では家族の内に狐を使う者はいない。由松が子供の頃、お祖父さんがよくそんなことをしたと云う噂を聞いたが、「白狐の命婦之進」とやらはいつの代にか姿を現わさないようになり、祠のうしろにある椎の木の蔭にむかし狐が棲んでいた穴が残っているばかりで、そこへ案内をされた津村は、穴の入口に今は淋しく注連縄が渡してあるのを見た。
───以上の話は、津村の祖母が亡くなった年のことであるから、宮滝の岩の上で彼が私に語った時からはまた二三年前に溯る事実である。そして彼がこの間中から私への通信に「国栖の親戚」と書いて来たのは、このおりと婆さんの家を指すのであった。と云うのは、何と云ってもおりと婆さんは津村に取って母方の伯母であり、彼女の家は母の実家に違いないのだから、そののち彼は改めてこの家と親類の附き合いを始めた。そればかりでなく、生計の援助もしてやって、伯母のために離れを建て増したり、紙すきの工場を拡げたりした。そのお蔭で昆布の家は、ささやかな手工業ではあるけれども、目立って手広く仕事をするようになったのである。
「で、今度の旅行の目的と云うのは?───」
二人はあたりが薄暗くなるのも忘れて、その岩の上に休んでいたが、津村の長い物語が一段落へ来た時に、私が尋ねた。
「───何か、その伯母さんに用事でも出来たのかい?」
「いや、今の話には、まだちょっと云い残したことがあるんだよ。───」
眼の下の岩に砕けつつある早瀬の白い泡が、ようよう見分けられるほどの黄昏ではあったが、私は津村がそう云いながら微かに顔を赧くしたのを、もののけはいで悟ることが出来た。
「───その、始めて伯母の家の垣根の外に立った時に、中で紙をすいていた十七八の娘があったと云っただろう?」
「ふむ」
「その娘と云うのはね、実はもう一人の伯母、───亡くなったおえい婆さんの孫なんだそうだ。それがちょうどあの時分昆布の家へ手伝いに来ていたんだ」
私の推察した通り、津村の声は次第に極まり悪そうな調子になっていた。
「さっきも云ったように、その女の児は丸出しの田舎娘で決して美人でも何でもない。あの寒中にそんな水仕事をするんだから、手足も無細工で、荒れ放題に荒れている。けれども僕は、大方あの手紙の文句、『ひびあかぎれに指のさきちぎれるようにて』と云う───あれに暗示を受けたせいか、最初にひと眼水の中に漬かっている赤い手を見た時から、妙にその娘が気に入ったんだ。それに、そう云えばそう、どこか面ざしが写真で見る母の顔に共通なところがある。育ちが育ちだから、女中タイプなのは仕方がないが、研きようによったらもっと母らしくなるかも知れない」
「なるほど、ではそれが君の初音の鼓か」
「ああ、そうなんだよ。───どうだろう、君、僕はその娘を嫁に貰いたいと思うんだが、───」
お和佐と云うのが、その娘の名であった。おえい婆さんの娘のおもとと云う人が市田なにがしと云う柏木附近の農家へ縁づいて、そこで生れた児なのである。が、生家の暮らし向きが思わしくないので、尋常小学を卒えてから五条の町へ下女奉公に出たりしていた。それが十七の歳に、実家の方が手が足りないので暇を貰って家に帰り、そののちずっと農事の助けをしているのだが、冬になると仕事がなくなるところから、昆布の家へ紙すきの手伝いにやらされる。ことしももうじき来るはずだけれど、多分まだ来ていないであろう。それよりも津村は、まずおりと伯母さんや由松夫婦に意中を打ち明けて、その結果によっては、至急に呼び寄せて貰うなり、訪ねて行くなりしようと思うと云うのである。
「じゃあ、巧く行くと僕もお和佐さんに会える訳だね」
「うん、今度の旅行に君を誘ったのも、是非会って貰って、君の観察を聞きたかったんだ。何しろ境遇があまり違い過ぎるから、その娘を貰ったとしても果して幸福に行けるかどうか、多少その点に不安心がないこともない、僕は大丈夫と云う自信は持っているんだが」
私はとにかく津村を促してその岩の上から腰を擡げた。そして、宮滝で俥を雇って、その晩泊めて貰うことにきめてあった国栖の昆布家へ着いた時は、すっかり夜になっていた。私の見たおりと婆さんや家族たちの印象、住居の様子、製紙の現場等は、書き出すと長くもなるし、前の話と重複もするから、ここには略すことにしよう。ただ二つ三つ覚えていることを云えば、当時あの辺はまだ電燈が来ていないで、大きな炉を囲みながらランプの下で家族達と話をしたのが、いかにも山家らしかったこと。炉には樫、櫟、桑などをくべたが、桑が一番火の保ちがよく、熱も柔かだと云うので、その切り株を夥しく燃やして、とても都会では思い及ばぬ贅沢さに驚かされたこと。炉の上の梁や屋根裏が、かっかっと燃え上る火に、塗りたてのコールターのように真っ黒くてらてら光っていたこと。そして最後に、夜食の膳に載っていた熊野鯖と云うものが非常に美味であったこと。それは熊野浦で獲れた鯖を、笹の葉に刺して山越しで売りに来るのであるが、途中、五六日か一週間ほどのあいだに、自然に風化されて乾物になる、時には狐にその鯖の身を浚われることがある、と云う話を聞いたこと。───などである。
翌朝、津村と私とは相談の上、ようやくめいめいが別箇行動を取ることに定めた。津村は自分の大切な問題を提げて、話をまとめて貰うように昆布家の人々を説き伏せる。私はその間ここにいては邪魔になるから、例の小説の資料を採訪すべく、五六日の予定で更に深く吉野川の源流地方を究めて来る。第一日は国栖を発し、東川村に後亀山天皇の皇子小倉宮の御墓を弔い、五社峠を経て川上の荘に入り、柏木に至って一泊。第二日は伯母ヶ峰峠を越えて北山の荘河合に一泊。第三日は自天王の御所跡である小橡の竜泉寺、北山宮の御墓等に詣で、大台ヶ原山に登り山中に一泊。第四日は五色温泉を経て三の公の峡谷を探り、もし行けたらば八幡平、隠し平までも見届けて、木樵りの小屋にでも泊めて貰うか、入の波まで出て来て泊まる。第五日は入の波から再び柏木に戻り、その日のうちか翌日に国栖へ帰る。───私は昆布家の人々に地理を尋ねて、大体こう云う日程を作った。そして津村との再会を約し、彼の成功を祈って出発したのであったが、津村は事によると、自分も柏木のお和佐の家まで出向くような場合があろう、それで私が柏木へ戻って来たら念のためにお和佐の家へ立ち寄って見てくれるように、それはしかじかの所だからと、出がけにそんな話があった。
私の旅はほぼ日程の通りに捗った。聞けばこの頃はあの伯母ヶ峰峠の難路にさえ乗合自動車が通うようになり、紀州の木の本まで歩かずに出られるそうで、私が旅した時分とは誠に隔世の感がある。が、幸い天候にも恵まれ、予想以上に材料も得られて、四日目までは道の嶮しさも苦しさも「なあに」と云う気で押し通してしまったが、ほんとうに参ったのはあの三の公谷へ這入った時であった。もっともあそこへかかる前から「あの谷はえらい処です」とか「へえ、旦那は三の公へいらっしゃるんですか」とか、たびたび人に云われたので、私もあらかじめ覚悟はしていた。それで四日目には少し日程を変更して五色温泉に宿を取り、案内者を一人世話して貰って明くる日の朝早く立った。
路は、大台ヶ原山に源を発する吉野川の流れに沿うて下り、それがもう一本の渓流と合する二の股と云う辺へ来て二つに分れ、一つは真っすぐに入の波へ、一つは右へ折れて、そこからいよいよ三の公の谷へ這入る。しかし入の波へ行く本道は「道」に違いないが、右へ折れる方は木深い杉林の中に、わずかにそれと人の足跡を辿れるくらいな筋が附いているだけである。おまけに前夜降雨があって、二の股川の水嵩がにわかに殖え、丸木橋が落ちたり崩れかかったりしていて、激流の逆捲く岩の上を飛び飛びに、時には四つ這いに這わないと越えることが出来ない。二の股川の奥に「オクタマガワ」があり、それから地蔵河原を渡渉して、最後に三の公川に達するまで、川と川との間の路は、何丈と知れぬ絶壁の削り立った側面を縫うて、ある所では両足を並べられないほど狭く、ある所では路が全く欠けてしまって、向うの崖からこちらの崖へ丸太を渡したり、桟を打った板を懸けたり、それらの丸太や板を宙で繋ぎ合わして、崖の横腹を幾曲りも迂廻したりしている。こんな所を歩くのは、山岳家なら朝飯前の仕事であろうが、私は元来中学時代に機械体操が非常に不得手で、鉄棒や棚や木馬にはいつも泣かされた男なのである。その頃は年も若かったし、今ほど太ってもいなかったから、平地を行くのなら八里や十里は歩けたけれども、こう云う難所は四肢を使って進むので、足の強弱の問題でなく、全身の運動の巧拙に関する。定めし私の顔は途中幾たびか青くなり赤くなりしたことであろう。正直のところ、もし案内者が一緒でなかったら、私はとうにあの二の股の丸木橋の辺で引っ返したかも知れなかった。案内者の手前きまりが悪いのと、一歩進んだら後へ退くのも前へ出るのと同じように恐ろしいのとで、仕方がなしに顫える足を運んだのであった。
そう云う訳で、その谷あいの秋色は素晴らしい眺めであったけれども、足もとばかり視詰めていた私は、おりおり眼の前を飛び立つ四十雀の羽音に驚かされたくらいのことで、耻かしながらその風景を細叙する資格がない。だが案内者の方はさすがに馴れたもので、刻み煙草を煙管の代りに椿の葉に巻いて口に咬え、嶮しい道を楽に越えながら、あれは何と云う滝、あれは何と云う岩、と、遥かな谷底を指して教えたが、
「あれは『御前申す』と云う岩です」
と、ある所でそんなことを云った。それからまた少し行くと、
「あれは『べろべど』と云う岩です」
と云った。私はどれがべろべどで、どれが御前申すと云う岩やら、こわごわ谷底を覗いただけではっきり見届けなかったが、案内者の云うのに、昔から王の住んでいらしった谷には、必ず御前申すと云う岩と、べろべどと云う岩がある、だから四五年前に東京からある偉いお方、───学者だったか、博士だったか、お役人だったか、とにかく立派なお方がこの谷を見に来られて、やはり自分が案内をした時、そのお方が「ここに御前申すと云う岩があるか?」とお尋ねになったから「へい、ございます」と云って自分があの岩を示すと、「ではべろべどと云う岩はあるか?」と、重ねてお尋ねになったので、「へい、ございます」と、又その岩を見せて上げたら、「なるほど、そうか、それならここは自天王のいらしった所に違いない」と、感心してお帰りになった、───などと云う話をしたが、その奇妙な岩の名の由来は分らなかった。
この案内者は外にもまだいろいろの口碑を知っていた。昔、京方の討手がこの地方へ忍び込んだとき、どうしても自天王の御座所が分らないので、山また山を捜し求めつつ、一日偶然この峡谷へやって来て、ふと渓川を見ると、川上の方から黄金が流れて来る、そこで、その黄金の流れを伝わって溯って行ったら、果して王の御殿があったと云う話。王が北山の御所へお移りになってから、毎朝顔をお洗いになるのに、御所の前を流れている北山川の川原へ立たれるのが例であったが、いつも影武者が二人お供していて、どれが王様か見分けがつかない。討手の者がたまたまそこを通り合わせた村の老婆に尋ねると、老婆は、「あの、口から白い息を吐いていらっしゃるのが王様だ」と教えた。そのために討手は襲いかかって王の御首を挙げることが出来たが、老婆の子孫にはその後代々不具の子供が生れると云う話。───
私は午後一時頃に八幡平の小屋に行き着き、弁当箱を開きながらそれらの伝説を手帳に控えた。八幡平から隠し平までは往復更に三里弱であったが、この路はかえって朝の路よりは歩きよかった。しかしいかに南朝の宮方が人目を避けておられたとしても、あの谷の奥は余りにも不便すぎる。「逃れ来て身をおくやまの柴の戸に月と心をあわせてぞすむ」と云う北山宮の御歌は、まさかあそこでお詠みになったとは考えられない。要するに三の公は史実よりも伝説の地ではないであろうか。
その日、私と案内者とは八幡平の山男の家に泊めて貰って、兎の肉をご馳走になったりした。そして、その明くる日、再び昨日の路を二の股へ戻り、案内者と別れてひとり入の波へ出て来た私は、ここから柏木まではわずか一里の道程だと聞いていたけれど、ここには川の縁に温泉が湧いていると云うので、その湯へ浸りに川のほとりへ行ってみた。二の股川を合わせた吉野川が幾らか幅の広い渓流になった所に吊り橋が懸っていて、それを渡ると、すぐ橋の下の川原に湯が湧いていた。が、試みに手を入れると、ほんの日向水ほどのぬくもりしかなく百姓の女たちがその湯でせっせと大根を洗っているのである。
「夏でなければこの温泉へは這入れません。今頃這入るには、あれ、あすこにある湯槽へ汲み取って、別に沸かすのです」
と、女たちはそう云って、川原に捨ててある鉄砲風呂を指した。
ちょうど私がその鉄砲風呂の方を振り返ったとき、吊り橋の上から、
「おーい」
と呼んだ者があった。見ると、津村が、多分お和佐さんであろう。娘を一人うしろに連れてこちらへ渡って来るのである。二人の重みで吊り橋が微かに揺れ、下駄の音がコーン、コーンと、谷に響いた。
私の計画した歴史小説は、やや材料負けの形でとうとう書けずにしまったが、この時に見た橋の上のお和佐さんが今の津村夫人であることは云うまでもない。だからあの旅行は、私よりも津村に取って上首尾を齎した訳である。
底本:「ちくま日本文学014 谷崎潤一郎」筑摩書房
2008(平成20)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十三巻」中央公論社
1982(昭和57)年5月25日
初出:「中央公論」中央公論社
1931(昭和6)年1月~2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
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校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
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