ケシの花
三好達治



 ケシの花はマリー・ロランサンの絵を思はしめる。後者はまた前者を連想せしめる。双方はかなげで、煙となつて消えさうで美しい。はかなげといつても、それがきつぱりとしてゐて、何やら凜としてさへ見える。ケシの花は花期が短かい。三日を出でず、と歳時記などにも記されてゐる。サクラの花よりもいつそう散りぎはがいい。草本であるのが惜しまれるくらゐ、喬木ででもあればいつそう評判がいいであらう。それのうけもつ季節もいい。初夏六月、麦は枯れても野外の緑はまだそれほど暑くるしくはない。羽化して空に舞ひさうなあの四弁の紅白紫、とり〴〵に遠景近景の浅緑と映じあつて、夢のやうな好ましいトーンを生む。そのつり合ひはこの季節そのもののはだざはりのやうで、微妙なものはこはれやすい、花の命の短かいのもやむをえないことかとさへ思はれる。ロランサンを思はしめるのもあるひはそんな点であらうか。一茎に一花をささげた姿もシヤレてゐる。


けしの花籬すべくもあらぬかな


 といふのは蕪村の句である。畑作りのものではなく、庭前のものではあつても、なるほどこれにまがきを結ひめぐらすわけにはいくまい。もつともなことをいつて淡如とした詩感を寓すること、まず村翁のやうな巧みな作家はない。いまの俳家のうちこれにならふ人を見ないのは惜しまれる。


僧になる子の美しやけしの花


 人事に結びつけたこの方は一茶である。ケシの花がやがて青坊主になる、といふのに意を寓してひつかけた作と見ると、たいへんいや味な句のやうであるが、ただそこいらにさういふ行末のかれんな少年が遊んでゐてかたはらにこの花が咲いてゐたといふ風に、単に叙景の作としてのみうけとると、これもなか〳〵面白いいい句である。花の命をつまみ出すやうにとらへてみせた手腕はさすがである、と私ならさうあつさりと見ておきたい。

 ヒナゲシの虞美人草は、古美人の伝説があつて、花ものいふ如くひとしほそれがいたいけに佳麗に見える。


はつ夏の空青ければ

いよいよにふかき紅

みじかかる命と知りて

こは艶によそふひなげし


 右は拙作、はばかりもなく古人の作の後にかかげるのはまことに面はゆい。かう書きながら座右の俳書をひるがへしてゐると、古人はすでに同じ心をいつそう簡潔に品よくうたつてゐるのが目にとまつた。


雨の日は雨に粧ふ美人草


 作者は雪秀、いかなる仁かは知らない。作はまことによろしい。みじかかる命と知りて、などと理窟にもつてまはつてはいはない。「粧ふ」の一語にそれほどの消息のこもつてゐるのを見る。──ここに至つて面はゆいどころか、両わきに冷汗を覚えないではゐられない。この花に雨を配したのはまことによろしい。取合せはうますぎるくらゐによろしくて、しかしあぶないところで決して月並にはおちてゐない。雨の日は、とゆつくりいひ起したその気味合ひが平凡に似て平凡ではない、おほやうな気息に救はれてゐるのであらうか。雪秀をどういふ仁かは承知しないが、どうやら大家のお武家さんでもあらうかと思はれる、そんな感じがする。

 同じ俳書にまたこんな句が見つかつた。


芥子まくやこの月の夜にあやかれと


 ケシまく、は季題で秋八月ごろとなつてゐる。

「十五夜にまけば花殊にうるはし」などと注にある。作者は流水、貞徳の孫弟子くらゐに当るらしい、尾張の人。古人の句はそれ〴〵に心の深いのに何とも感服しないでゐられない。

底本:「花の名随筆5 五月の花」作品社

   1999(平成11)年410日初版第1刷発行

底本の親本:「三好達治全集 第一〇巻」筑摩書房

   1964(昭和39)年12

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2015年116日作成

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