戯作者文学論
──平野謙へ・手紙に代えて──
坂口安吾



 この日記を発表するについては、迷った。書く意味はあったが、発表する意味があるかどうか、疑った。

 この日記を書いた理由は日記の中に語ってあるから重複をさけるが、私が「女体」を書きながら、私の小説がどういう風につくられて行くかを意識的にしるした日録なのである。私は今迄いままで日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、全く無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持にならない。

 私はこの日記をつけながら、たしかに平野君を意識していたこともある。平野君は必ず「女体」に就て何かを書き、作者の意図が何物であるかというようなことを論ずるだろうと考えた。それに対して私がこの日記を発表し、平野君の推察と私自身の意図するところと、まるで違っているというようなことは、しかし、どうでもいいことだ。批評も作品なのだから、独自性の中に意味があるので、事実、私が私自身を知っているかどうか、それすらが大いに疑問なのである。

 だから、私は、この日記が私の「作品」でない意味から、発表するのを疑ったのだが、然し、考えてみると、特に意識せられた日録なので「作品」でないとも限らない。

 そして私がこの日録を発表するのは、批評家の忖度そんたくする作家の意図に対して、作家の側から挑戦するというような意味ではないので、挑戦は別の場所で、別の方法でやります。

 平野君からの注文は「戯作者げさくしゃ文学論」というので、私は常に自ら戯作者をもって任じているので、私にとって小説がなぜ戯作であるのか、平野君はそれを知りたかったのではないかと思う。

 私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかも知れない。然し、そう、大して違わない。私はただの戯作者でもかまわない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存がけられているだけのことで、そういう賭の上で、私は戯作しているだけなのだ。

 生存を賭ける、ということも、別段、大したことではない。ただ、生きているだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。

 それで私は、私の小説がどんな風にして出来上るか、事実をお目にかける方が簡単だと思った。ところが、私は、とてもいやだったのは、この「女体」四十二枚に二十日もかかって、厭に馬鹿馬鹿しく苦吟しているということだった。それはこの「女体」が長篇小説の書きだしなので、この長篇小説は「恋を探して」という題にしようと思っており、まだ書きあげてはいないのだが、長篇の書きだしというものには、一応、全部の見透しや計算のようなものが、多少は必要なのである。伏線のようなものが必要なのである。

 そんなものの全然必要でないもの、ただ書くことによって発展して行く場合が多く、私は元来そういう主義で、そういう作品が主なのだけれども、この「女体」だけはちょっと違って、私は作品の構成にちょっとばかりとらわれたり頭を悩ましたりした。私はどうもこの日録が、妙に物々しく、苦吟、懊悩おうのうしているようなのが、厭なので、私は元来、そんな人間ではない。私はこの小説以外は一日に三十枚、時には四十枚も書くのが普通の例で、もっとも、考えている時間の方が、書くよりも長い。尤も、書きだすと、考えていたこととまるで違ったものに自然になってしまうのが普通なのである。

 それで、どうも、発表するのが厭な気がしたのだけれども、それに私は、この日記に、必ずしも本当のことを語っているとは考えていない。日記などはずいぶん不自由なもので、自分の発見でなしに、自分の解説なのだから、解説というものは、絶対のものではないのだから。

 小説家はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、この日記が、必ずしも作品でないということを、だから又、作品でもあるかも知れぬということを、一言お断り致しておきます。


七月八日(雨)

 佐々木基一ささききいち君より来信。「白痴はくち」に就ての感想を語ってくれたもの。私が日記をつけてみようと思ったのは、この佐々木君の手紙のせいだ。佐々木君は「白痴」で作者の意図したことを想像しているのだが、実のところは、作者たる私に「白痴」の意図が何であったか、分っていない。書いてしまうと、作品の意図など忘れてしまう。

 私はこれから、ある長篇の書きだしを書こうとしている。私がこの小説を考えたのはこの春のことだ。私はこの春、漱石そうせきの長篇を一通り読んだ。ちょうど同居している人が漱石全集を持っていたからである。私は漱石の作品が全然肉体を生活していないので驚いた。すべてが男女の人間関係でありながら、肉体というものが全くない。かゆいところへ手が届くとは漱石の知と理のことで、人間関係のあらゆる外部の枝葉末節に実にまんべんなく思惟しいが行きとどいているのだが、肉体というものだけがないのである。そして、人間関係を人間関係自体に於て解決しようとせずに、自殺をしたり、宗教の門をたたいたりする。そして、宗教の門をたたいても別に悟りらしいものもなかったというので、人間関係自体をそれで有耶無耶うやむやにしている。漱石は、自殺だの、宗教の門をたたくことが、苦悩の誠実なる姿だと思いこんでいるのだ。

 私はこういう軽薄な知性のイミテーションが深きもの誠実なるものと信ぜられ、第一級の文学と目されて怪しまれぬことに、非常なるいきどおりをもった。然し、怒ってみても始まらぬ。私自身が書くよりほかに仕方がない。漱石が軽薄な知性のイミテーションにすぎないことを、私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ。それで私はある一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿に於て歩ませるような小説を書いてみたいと考えた。たまたま、文藝春秋九月号の小説に、この書きだしを載せてみようと考えていたのである。

 私はそれで、この小説を書く私が、日毎日毎ひごとひごとに何事を意図し、どんな風に考えたり書いたりするか、日録をつけてみようと思ったのだ。書き終ると、私はいつも意図などは忘れてしまう。つまり、ハッキリした作品全体の意図などは私は持っていないのだ。

 午後、尾崎士郎氏より速達、東京新聞の時評の感想。雨のはれまにタバコを買いに駅前へ。歴史の本、読む。


七月九日(曇)

 新生社の福島氏来訪。小説三十枚、ひきうける。文芸時評は、ことわる。若園清太郎わかぞのせいたろう君来訪、ウイスキー持参す。仕事ができなくなってしまった。タバコを買いに外出。


七月十日(晴)

 うちの寒暖計、三十一度。ホープから随想十枚。すでに書いたのがあるから承諾。

 三枚書いた。思うように筆がのびないから、やめる。私は今、頭に描いていることは、谷村夫妻が現在夫婦である以外に精神につながりが感じられなくなっていること、二人はそれに気付いている。世間的にえば二人は円満以上にいたわり合っている夫婦だ。そこから、この小説を始めることが分っているだけだ。岡本という人物は、谷村夫妻の心象世界を説くための便宜べんぎなので、今はそれ以上のことを考えていない。

 今日はだめだ。あした、又、やり直しだ。私は筋も結末も分らず、喧嘩けんかするのだが、いつまでも仲がいいのか、浮気をするのか、恋をするのか、全然先のことは考えていない。作中人物が本当に紙の上に生れて、自然に生活して行く筈なのだが、今日はまだ本当に生きた人間が生れてはくれないから、やめたのだ。

 駅の方に火事があって威勢よく燃えているので見物に行った。火事の見物も退屈であった。火事の隣にアメリカの兵隊がローラーで地ならししている。隣の火事に目もくれず、進んだり戻ったり、地ならししている。二、三十分眺めていたが、火事の方をふりむきもしないのである。この方が珍しかった。アメリカだって弥次馬やじうまのいない筈はないだろう。尤も日本人でも、火事などちょっと振り向くだけで、電車に乗りこみ帰宅を急ぐ人も多い。私が性来の弥次馬なのである。歴史の本読む。


七月十一日(晴)

 猛暑。うちの寒暖計は三十四度。湿気が多くて、たえがたい。

 四枚書いて、又、やめる。午後、又、始めから、やり直し。六枚、書いたが、又、やめる。又、やり直しだ。谷村と、素子が、いくらか、ハッキリしてきた。始め、私は谷村をあたりまえの精神肉体ともに平々凡々たる人物にするつもりだったのに、どうもだめだ。今日は、すこし、病身の男になった。そして私は伊沢君と葛巻くずまき君のアイノコみたいな一人の男を考えてしまっているのだ。素子の方は始めからハッキリしている。岡本も、ハッキリしている。

 若園清太郎君、夕方、内山書店N君を伴い来る。ウイスキー持参。N君は戦闘機隊員、終戦で満洲まんしゅうから飛行機で逃げてきたよし。猛暑たえがたし。畳の上へ、ねむる。


七月十二日(晴)

 安田屋のオカミサン母の仏前へ花をもってきてくれる。三時に俄雨にわかあめがあり、いくらか、涼しくなった。

 五枚書いて、又、やめる。谷村が、どうも、駄目なのだ。谷村の顔もからだも心も、本当の肉づきというものが足りない。私の頭の中に、まだ、本当に育っていないのだろう。歴史の本読む。道鏡の年表をつくりかけたが、めんどうくさくなって、やめる。


七月十三日(晴)

 ようやく筆が滑りだしたが、谷村はハッキリ病弱な男になってしまった。健康な男では、どうしても、だめだ。私は平々凡々たる男の精神の弱さを書きたいのだが、肉体の弱さと結びついてくれないと、表現できない。私の筆力の不足のため。私の観念に血肉の不足があり、健康な谷村に弱い心を宿らせる手腕がないのだろう。私は谷村を病弱にするのが私の手腕の不足のようで、変にこだわっていたのだが、ハッキリかぶとをぬいだら、気が楽になったのだ。十三枚書いた。

 どうも、これと云って、とりたてて書いておかねばならぬような意図は何もないようだ。今日書いた十三枚に就ても、これはこれだけという気持であるが、谷村が岡本をやりこめる、その谷村に素子が反撥はんぱつする、私はそこから出発しようとしただけで、素子の反撥の真意が奈辺にあるか、私は漠然予想をもっていたが、書きだすと、書くことによって、あらたに考えられ、つくられて行くだけで、まったく何の目算もない。素子の肉体のもろさが私はひどく気がかりだ。まさかに岡本に乗ぜられもてあそばれることはないだろうと思うだけだ。こんな風に考えているのは、よくないことかも知れぬ。私はなるべく岡本を手がかりのための手段だけで、主要なものにしたくない。この男にのさばられては、やりきれないような気がするのだが、私は然し、そういう気持があってはいけないと思っており、尤も、書いている最中はそういう気持は浮かばない。


七月十四日(晴)

 猛暑。尾崎一雄君より速達、東京新聞の時評を送ってくれ、という。速達で返事を送る。今日は一日六回水風呂みずぶろにつかった。関節の力がぬけたような感じがしている。

 親類の人の紹介状をもって、浅草向きの軽喜劇の脚本を書きたいから世話をしてくれ、という人がきた。北支から引揚げてきた人だ。全然素人しろうとで、浅草の芝居を見て、こんなものなら自分も作れると思ったというのだが、自分で書きたいという脚本の筋をきくと、愚劣千万なもので話にならない。こういう素人は、自分で見てつまらないと思うことと、自分で書くことは別物だということを知らない。つまらないと思ったって、それ以上のものが書ける証拠ではないのだが、おそれを知らない。自分を知らない。

 夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、我身のことに思い至って、まことに、暗澹あんたんとした。まったく、人を笑うわけに行かないよ。それでも、この人よりマシなのは、私は人の作品を学び、争い、格闘することを多少知っていたが、この人は、そういうことも知らない。何を読んだか、誰の作品に感心したか、ときくと、まだ感心したものはないという。モリエールや、ボンマルシェや、マルセル、アシャアルを読んだかときくと、読んだことがないという。名前すら知らない。無茶な人だ。いつまでたっても帰らず、自分の脚本を朗読と同じように精密に語る。私は全く疲れてしまった。私はまったく、泣きたいような気持になってしまった。それは我身の愚かさ、なんだか常に身の程をかえりみぬような私の鼻息が、せつなくなったせいでもあった。

 私は素子の性格を解剖するところへきた。然し、解剖すべからず、具体的な事実によって、しかもその事実が解説のためのものではなく、事件(事実)の展開自体である形に於てなすべし、という考えになる。素子が岡本にすてられた女を如何いかに取扱い、何を感じ、何を考えたか、これは重大でありすぎる。私はずいぶん考えた。あれこれと考えた。然し、私が考えているばかりで、素子が感じたり、考えたりしているような気持にならない。私はここのところで、つかえてしまって、今日は一枚半書いただけだ。ここをつきぬけると、ひろびろした海へ出て行かれるような気がするだけで、何も先の目安がない。作品の意図らしい信念とか何かそういう立派らしいものが何もない。涼しくなってくれ。暑い暑い暑い。

 この素子に私は、はっきり言ってしまおう、矢田津世子やだつせこを考えていたのだ。この人と私は、いこがれ、愛し合っていたが、とうとう、結婚もせず、肉体の関係もなく、恋いこがれながら、逃げあったり、離れることを急いだり、まあ、いいや。だから、私は矢田津世子の肉体などは知らない。だから、私は、私の知らない矢田津世子を創作しようと考えているのだ。私の知らない矢田津世子、それは私の知らない私自身と同様に大切なのだと思うだけ。私自身の発見と全く同じことだ。私は然し、ひどく不安になっている。どうも荷が重すぎた。私は素子が恋をするような気がするのだが、それを書けるかどうか、私は谷村の方を主人公にして、それですませたい。私は素子がバカな男と恋をするような気がして、どうにも、いやだ。こんなことが気にかかるというのはいけないことだと考えている。


七月十五日(晴)

 連日寒暖計は三十八度をさしている。例の如く、水風呂にもぐってはでてきて机に向うが、頭がはっきりしない。新日本社の入江元彦という詩人と自称する二十四、五の青年がきてサロンという雑誌に三十枚の小説を書けという。書くのは厭だと言うのだが、これが又、珍無類の人物で、育ちが良いのかも知れん、大井広介おおいひろすけに似て、より純粋で、珍妙で、底ぬけで、目下稲垣足穂いながきたるほにころがりこまれて、同じ屋根の下にいるそうだが、彼は何一つ持たんです、と云う。大いにガッカリした顔である。フンドシのほかは何も持たんです、という。彼は戸籍も持たんです、という。稲垣足穂に寝台をとられ、お前は下へねろ、というので、石の上へねたそうだ。しきりに身体をかいているが、しらみでもいるのだろう。稲垣足穂に寝台をとりあげられるようでは、虱も仕方がなかろうと、おかしくて仕方がない。一人であれこれしゃべること喋ること詩を論じ文学を論じ二時間ほど喋りつづけ、あんまりおかしな奴なので私は全く面白くなって原稿を承諾した。いずれ新日本社へ遊びに行き、一緒に菊岡久利きくおかくりの銀座の店をひやかす約束をする。そのとき岡本潤おかもとじゅんに会えるようにしておいてくれと頼む。岡本潤からは三年程前一度会いたいという手紙をもらったので、そのうち飲みに誘いに行くからと返事をしたまま、いまだに約束を果さない。当時はちょうど飲む店がなくなったからなのである。半田義之が共産党になって、この青年の顔を見るたびに、お前も共産党になれ、と云って、どもって、つばを飛ばしながら勧誘大いにつとめる由だが、共産党は驚かんですが、唾が顔にかかって汚くて困るです、と言う。まったく、大笑いした。

 昨日、私は、素子は矢田津世子だと云った。これは言い過ぎのようだ。やっぱり素子は素子なのだ。手を休めるとき、あの人を思いだす、とても苦しい。素子はあんまり女体のもろさ弱さみにくさを知りすぎているので、客間で語る言葉にならないのではないか、と書いた。あの人の死んだ通知の印刷したハガキをもらったとき、まだ、お母さんが生きていられるのが分ったけれども、津世子は「幸うすく」死んだ、という一句が、私はまったく、やるせなくて、参った。お母さんは死んだ娘が幸うすく、と考えるとき、いつも私を考えているに相違ない。私は勿論もちろん、葬式にも、おくやみにも、墓参にも、行かなかった。今から十年前、私が三十一のとき、ともかく私達は、たった一度、接吻せっぷんということをした。あなたは死んだ人と同様であった。私も、あなたを抱きしめる力など全くなかった。ただ、遠くから、死んだようなほおを当てあったようなものだ。毎日毎日、会わない時間、別れたあとが、もだえて死にそうな苦しさだったのに、私はあなたと接吻したのは、あなたと恋をしてから五年目だったのだ。その晩、私はあなたに絶縁の手紙を書いた。私はあなたの肉体を考えるのがおそろしい、あなたに肉体がなければよいと思われて仕方がない、私の肉体も忘れて欲しい。そして、もう、私はあなたに二度と会いたくない。誰とでも結婚して下さい。私はあなたに疲れた。私は私の中で別のあなたを育てるから。返事も下さるな、さよなら、そのさよならは、ほんとにアヂューという意味だった。そして私はそれからあなたに会ったことがない。それからの数年、私は思惟の中で、あなたの肉体はほかのどの女の肉体よりも、きたなくけがされ、私はあなたの肉体を世界一冒涜ぼうとくし、憎み、私の「吹雪物語」はまるであなたの肉体を汚し苦しめゆがめさいなむ畸形児の小説、まったく実になさけない汚い魂の畸形児の小説だった。あなたは、もしあれを読んだら、どんなに、怒り、憎んだことか、私は愚かですよ、何も分らない、何をしているのだか、今も昔も、まるで、もう、然し、それは、仕方がない。私はあなたが死んだとき、私はやるせなかったが、さわやかだった。あなたの肉体が地上にないのだと考えて、青空のような、澄んだ思いも、ありました。

 私は今もまた、あなたの肉体を、苦しめ、汚し痛めているのだ。私はあなたの肉体を汚そうと意図しているのではなく、いつも、あなたの肉体や肉慾にくよくを、何物よりも清らかなものに書くことができますように、ほんとにそう神様に祈っていますが、書きはじめると、どうしても、汚くしてしまう。私は昔から悪人を書きたくないのです。いもの、美しいもの、善良な魂を書きたいのだが、書きだすと、とんでもなく汚い悪い人間、醜悪な魂に、自然にそうなってしまう。自然に、どうしてもそっちの方へどんどん行ってしまう。

 私は筆を休めるたび、あなたを思いだすと、とても苦しい。素子の肉体は、どうしても、汚い肉慾の肉体になってしまう。素子は女体の汚さ、もろさ、弱さ、みにくさを知りすぎているので、客間で語る言葉にならないのではないか、と書いて、筆を投げだしたとき、私はあなたの顔をせつなく思いつづけていた。あなたは時々、横を向いて、黙ってしまうことがあった。あのとき、あなたは何を考えていたのですか。

 素子は矢田津世子ではいけない。素子は素子でなければいけない。素子は素子だ。どうしても、私は、それを、信じなければならない。私は四枚書いた。筆を投げだしてしまう時間の方が多いのだ。


七月十六日(晴)

 酷熱。うちの水銀は、三十五度だ。中央公論の海老原氏から速達。火の会の雑誌に小説かエッセーを書いて、という。これはどうしても承諾してやりたい。ずいぶん無理だと思ったけれども、必ず、書こうと決意する。海老原氏は昔から私の仕事を愛してくれた人なので、私はそういう人のために、仕事をすることを喜びとしているのである。売れそうもない雑誌だと、なおさら、書いてやりたい。

 谷村夫妻はたぶん各々の恋をすることになるだろうと私は考えていた。谷村の方は、もう、肉体のない、魂だけの、燃えただれ死んでしまっていいような、恋をしたいのだ、と告白している。そこで、その恋の相手に、とりあえず、私は信子という名前をだしておいた。けれども、とりあえず、そういう名前だけ出しておいたが、どんな女だか、全然まだ考えていない。谷村自身が、信子がどんな女なのだか、やがてその性格を自然に選ぶだろう。まだ私には、それを考えるひまもなく必要もないのだから。その恋愛が、この小説のテーマになるのだろうか? そんなことは全然意図していなかったのだ。

 どうも素子の方は、だんだん恋ができそうもなくなって行く。だんだん堅くなり、せまく、ヤドカリみたいに殻の中へひっこんで行くので、どうにも意外だ。私は谷村の恋よりも、素子の方が何かケタのはずれた恋をやりだしそうな予感、あるいは予期がないではなかったが、どうも、私は、このへんで、二、三日、書くのをやめて、ボンヤリ、時間を浪費してみる方がいいのではないかと思う。私は二十八枚目まで書いた。思考の振幅が窮屈になりかけたときは、時間でも金でもただ、浪費するのがいいという、これは私が習慣から得た信条で、それに限るようだ。

 午後二時頃暑いさかり、雑談会の立野智子氏来訪。これには、ちょっと、こまった。この人は、この日記をつけはじめた前日、すなわち七月六日に、速達をよこして、インチキ文学ボクメツ論をやれ、という。先方が女なのだから、インチキ文学というのと、ボクメツというのが、なんとも、時世的に勇ましく、私は笑いがとまらなかった。女の方が勇壮カッパツ、すごすぎるよ。私はジャーナリズムの厭らしさにウンザリして、拒絶の代りに、勇敢無敵御婦人ジャーナリストをひやかす一文を草して、そくざに送ったのだ。

 おとなしそうな娘さんなのだ。けれども、時にチクチク皮肉めき、なにか、素直ということが悪さを意味するとでも思っている様子で、どうも苦しい。痛々しい。インチキ文学ボクメツどころか、坂口安吾などというのが、本当はインチキそのものなので、私が偉そうに、先輩諸先生をヤッツケ放題にヤッツケているのなど、自分自身のインチキ性に対する自戒の意味、その悪戦苦闘だということを御存知ない。誰しも御自身のインチキ性を重々知ることがどんなに大切か、この人に語りたかったが、素直に受けてくれず皮肉られそうだったから、言わなかった。本当は素直な人なのだが、ひねくれることを美徳と思っているような、身構えということが立派だと思っているようだ。善良な弱い気質をゆがめて、わざわざ武装しているような気がする。この暑いのに、何かムリヤリ精一杯、ムリヤリ思いつめているようで、痛々しい思いがした。ひどく同情してしまって、すぐ原稿引受けた。

 夜九時頃、涼しくなってから、さっそく雑談の原稿を書いた。中戸川とみゑさんのこと。一度書きたいとこの数年考えていたのだが、こんな風にカンタンに書くつもりはなかったので、いずれ「春日」を読んで、ゆっくりと考えていたのだが、手もとに「春日」がなく、むしろない方が都合がいいさ、「春日」など改めて読んで変に物々しく本格的にやるとかえって書けそうもない面倒な気がして、三時間ぐらいで、あっさり書いてしまった。


七月十七日(晴)

 酷熱、又、酷熱。小学館から速達、小説五十枚、とても書けない、ことわる。

 道鏡の年表をつくろうとしたら、エミの押勝おしかつになり、諸兄もろえになり、不比等ふひとになり、鎌足かまたりになり、だんだん昔へさかのぼりすぎて、どうも、私は、何をやっても、過ぎたるは及ばず、という自然の結果になってしまう。久米邦武くめくにたけの奈良朝史をノートをとりながら読む。深夜になお酷熱。水風呂にはいり、ようやくねむることができた。


七月十八日(曇、午後二時頃より晴)

 曇っているうちはしのぎよかった。日がてりだすと、この二階はムシ風呂だ。私は早朝から、この長篇は、今年中に必ず書けるという妙な自信がわいているのだ。まったく妙な自信だ。全然、筋もプランも目当のつかない空々漠々、何を目安に自信があるのだい。けれども全く自信満々、ふざけた話だ。一昨日、雑談の原稿書き、それから、この小説を忘れたような顔しているのが、よかったようだ。妙に、晴々とした気持になりつつある。力があふれてくるのが分るような気持だ。こういう時は何というたのしさだろう。だが一年に何日、こんな日があるかと思うと、なさけない。

 私はわざと筆をとらない。ふくらみつつある力をはかって、ねころんで本を読んでいる、なんとも壮大で、自分がたのもしい。架空かくうの影のむなしい自信と力なのだが、それを承知で、だまされ、たわいもない話だが、それでほんとに、いい気なのだから笑わせる。


七月十九日(晴)

 私は病気になった。下痢げりと腹痛、たぶん、水風呂のたたりだろう。夏の悪熱は、私からあらゆる力をはぎ、ものうさと、とがった感情だけを残す。私はうつうつしつつ原子バクダンのバクハツばかり考えている。私自身がバクハツされたいのか、人をバクハツしたいのか、分らない。ただ、全てがとがり、痛み、平和なことが考えられないのだ。熱のため、外気の暑さがわからない。


七月二十日(晴)

 猛烈に暑い。夜になっても、暑い。どうやら熱が下ったので、暑さが分ってきた。もう原子バクダンは考えないが、仕事のことも考えられない。本も読む気にならない。


七月二十一日(晴)

 猛烈に暑い。中央公論、小滝氏来訪。今度だす短篇集の話。もし長篇に没頭するなら、生活のことも考えるから、と言ってくれる。これは非常にうれしく、心強く承ったが、私は今、二つの場合を考えている。私は今、書きたいことがいくらでも有るような気がしているので、いったい何をどう書くのか、書けるだけ書き、限度のくるまで、書いてみるか。さもなければ、短篇など書きたいような気持でも書かず、長篇だけ、一つずつ、没頭してみようか。この二つ。私はともかく、一応前者をとることにしようと思った。はっきり、心をきめた。

 原稿に向う。岡本の金談のこと。岡本の媚態びたいのこと。どうしてこんな風になるのだろう。とても苦しい。岡本の媚態も汚らしく不潔で、なんとも厭だけれども、こんなに汚され、いためつけられ、弄ばれている、素子の肉体が、肉体のもろさが、あんまりだ。どうしてこんなになるのだろうか。まるで、なんだか、ただ、もう、一途いちずに、憎しみをこめて、復讐ふくしゅうしているような意地の悪さではないか。どうして、こうなるのだ。そんな意図は微塵もないのに、どうしても、こうなる。筆を投げずにいられなくなる。一句書いては、ひっくりかえって目をつぶり、三十分もたって、又一句書くというぐあい。どうにも、書きたくない気持がする。たった一枚半。


七月二十二日(晴)

 猛暑。暁鐘の沖塩徹也君来訪。会ったのは始めてだが、私の親しい友人達の同人雑誌にいた人で、名前はよく知っている人。支那で八年も兵隊生活させられたという運の悪い人で、その生活を二時間ばかり語って帰る。九月一杯だったら短篇書く約束する。

 私はどうも、書くのが苦しい。私は岡本のいやしさが厭なのだが、谷村は、その岡本をともかく、芸術家の面白さがあるじゃないかという。谷村の考えは、なんだか、危っかしい。私は今日、藤子のことを書いたとき、谷村は魂の恋などと妙なことを言っているのだけれど、結局、藤子と、その魂の恋とやらをやり、馬脚を現すのではないか、そういう不安がしつづけている。それだったらずいぶん、なさけないことだ。悲しいことだ。みすぼらしいことだ。私は素子が誰かと恋をして、谷村の変にとりすました気どった悟った一人よがりみたいなものをメチャクチャに破裂させ、逆上混乱させてくれればよいと思うのだが、素子はだんだん恋ができそうもなくなるばかりだ。尤も、素子が恋をして、谷村の足場がくずれて、そんなむつかしい関係をまともに発展させる手腕にめぐまれているかどうか、それが、又、不安なのだ。今から、こんなに苦しくて、この先、どうなるのだろうと、私は私の才能に就て、まったく切ないのだ。


七月二十三日(晴)

 猛暑。読書新聞の島瑠璃子氏来訪。荷風かふうの問はず語りの書評。私は書けないから、佐々木基一君をわずらわすよう、すすめる。佐々木君は荷風に就ては私と似たような見解を持っていることを先日の手紙で知ったからだ。

 新潟の兄、上京。かすかに、雨あり。いささかも涼しくならず、かえって、むしあつい。

 素子は岡本の媚態を「みじめ」だという。そして、その媚態が話しかけているのは自分の肉体に対してであることを「今」は気がつかない、と谷村は考える。そして、今は気がつかないということに尚多くの秘密があるように思った、というのだが、素子が果して気がついていないか、谷村はそう思ったにしても、果してそうか、どうか。私はどうも、ここで、素子の肉体に同情しすぎたようだ。私はえられなかったのだが、素子は気付かぬ筈はない。谷村が、今は気がついていないと解釈するのは変だ。谷村は気付いていると解釈するのが本当じゃないかと何度も思ったのだが、私はどうも、私が素子の肉体に就て、そうあって欲しいと思うセンチメンタルな希望を、谷村におしつけたような気がする。私はそう考えて、いやだったが、然しそうとも断言ができない。ほんとに素子は今は気がつかないかも知れないのだと、なんとなく言い張りたい気持があるので、まア、いいや、こうやっておけ、あとは野となれ山となれ、こんな小説、どうでもいいや、と筆を投げだしてしまったのだ。


七月二十四日(晴)

 同居の大野一家族、一夏の予定で故郷へ。次女の婚礼の支度だ。酷熱。無慙むざんな暑さだ。

 一日ボンヤリしている。どうも書けない。考えることもない。何やかや、ふと小説のこと考えるようだが、とりとめのない影だけで実のあることは考えていない。実にどうも空漠たるものだ。

 夜になって、兄、若園清太郎と共に帰ってくる。若園君、炉辺夜話集、探して持ってきてくれる。中央公論からだす短篇集のためのもの。若園君とまる。私は一夜ねむり得ず、若園君又ねつかれざるものの如し。深夜に至るも全く暑熱が衰えざるためである。


七月二十五日(晴のち曇)

 頭が痛む。読書新聞より、どうしても問はず語り書評を、という重ねての依頼で、本を送ったという。勝手に本を送ったなんて無茶な話だ。夕方から涼しくなる。長野の兄社用で上京、夜益々ますます涼しい。久々の涼気。今日はたった一度しか水風呂へはいらなくて済んだ。食事の用意に困却。奇怪な御飯ができあがる。今日は仕事はしなかった。


七月二十六日(晴)

 さして暑くない。文藝春秋の大倉氏来訪、原稿はまだできないが、あと四、五枚だから、おそくとも二十九日には私の方からおとどけすると答える。至極マジメな青年。こんな風なジャーナリストは今までは日本になかったタイプのようだが、近頃の若い人には往々こういうマジメ極まる人を見かける。自我を中心に、いかに生くべきか、ということを考えている。特攻隊の死に対しての覚悟の高さをうたぐると云っていた。自分自身の戦争生活の死との格闘からの結論なのである。考え自体でなく、考える態度のマジメさが、私にははなはだしく快かった。芥川あくたがわヒロシ氏の友人の由で、明日、芥川家を訪ねると云うから、その節は、葛巻義敏くずまきよしとし呉々くれぐれもよろしく、とたのむ。

 若園君、真珠をもってきてくれる。この本は私の発禁になった本。私は自分の本を一冊も持たない。黒谷村が、まだ手にはいらぬ。あの中から「風博士」一つだけ、今度の短篇集へ入れたい。それの入手を若園君にたのむ。安田屋のタカシ青年遊びにくる。近所の罹災者りさいしゃで、戦争中は私の家に住み、この家を火からまもってくれた。私の家の前後左右の隣へ各々五十キロの焼夷弾しょういだんが落ちたのをバクハツ直後の猛火の中へ水をかぶってとびこんで前後左右に火をたたきつけ、まったく物凄い。左官屋のお弟子だが、職人の良心と研究が旺盛おうせいで、実に好もしい青年だ。尤も、おかげで、どうも、今日は仕事がしたかったのだが、できなくなった。十時頃、もう、ねる。よく、ねむった。涼しいからだ。


七月二十七日(晴)

 どうも、今日は、思いがけないことになった。仁科にしなという青年が登場してしまったのだ。私は始めから素子のために一人の青年が必要だと考えていた。素子がだんだん恋をしそうもなくなったので、どうもいけない、岡本のほかに、若い青年を一人、と考えており、どうも私は、素子の肉体が岡本などに弄れるのが堪えられず、尚更、青年を、と考えていたのだが、私が昨日まで考えていたのは、もっとマジメな相当利巧な青年のつもりであったのに、まったく、あべこべになってしまった。

 原稿紙に向うと、まるで気持が違ってしまうので、私が私の好みや感傷から割りだして、予定していたことなど、とるにも足らぬことになり、書いてみると、すぐつまらなさが分り鼻につく。

 どうして、青年が仁科でなければならなかったか、どうにも、私は不愉快だ。然し、この青年でなければならなくなったので、仕方がない。どうしても、素子の肉体が弄れる宿命から、私は逃げられないのだろうか。私はこの青年と素子に恋などさせたくない。もし恋をするなら、別のも一人の相当ましな人物を登場させたい。その私の感傷が、果して許され、遂げられるであろうか。そういう私の希望のせいか、素子は、やっぱり、恋のために、動きそうもない。仁科を相手にうごきそうもない。そういう私の希望的態度がいけないと思われたので、私は今日中に書き終る充分な時間があったが、中止して、歴史の本を読むことにした。今日もさして暑くない。春陽堂の高木青年来訪、小説ひきうける。


七月二十八日(晴)

 ひどく合理的で、始めから、何かハッキリ割当てられた筋書のように首尾一貫したものができた。谷村は仁科によってかえるの正体などというものを発見した。むろん私は蛙の正体が見破られることを予想はしていたが、こんな風に、いやにハッキリと、割り切ったように見破られるとは思わなかったので、私はもっと、すべてを漠然たる不明確な姿で、ぼんやりした姿のまま描いて素知らぬ顔でいたい気持でいたのだ。ボンヤリどころか、いやに明確で、まるで、小説を書きだした時から仁科を予定していたように、いやにハッキリしめくくりがついてしまったのは、どうも変だ。どうも話がうまくできすぎているので、約束が違うという気がする。約束といっても、別に心当りはないが、強いて云えば、ボンヤリということだ。この明確さは、どこか不自然なような気がするのだが、仕方がない。

 谷村は蛙の正体を見ぬいて、素子がひそかに仁科を愛しているにしても、そういう夢は仕方がないと考える。夢のない人間はあり得ず、夢すらも持ち得ぬ人を愛し得る筈もないと考える。

 谷村のこういう考え方が、私はどうも不満なのだ。素子に恋をさせ、この気どりをコッパ微塵にしてやりたい。それでもまだ、こんな風に、気取っていられるなら、そのときこそ大いによかろう。そう思う。そのくせ、素子はやっぱり恋をしそうもない。いや、素子がしそうもないのじゃなしに、谷村がそれを巧妙にくいとめているように思われるのだ。素子のひそかな夢を肯定して、夢は仕方がないものだと谷村が思うのは、私の希望がそこに反映しているので、つまり単なるひそかな、夢だけで終らせたいという、それは谷村自身よりも作者の作意であるような気もした。

 それで、私は、谷村に素子を憎ませ、その恋心を嫉妬しっとさせ、衝突させようかと、大いに考えたのだが、どうしても、そうすることが、できない。やる気にならない。その方が却って不自然だ。このままの方が自然なので、もういい加減、これで終りにした方がいいと考えられた。いつもだと、もう勝手にするがいいや、どうにとなれ、と筆を投げるのだが、今日は尚あれこれ迷い、迷うと云っても突きつめた思いではなく漫然たる思いなのだが、結局これでいいことに決心するには、三時間ぐらい漫然と迷っていた。

 私はもう、素子をこれ以上登場させたくない。仁科とくだらぬ恋をして、ただ肉体の最後の泥沼へ落ちるように思われたり、ともかく、どうも、素子を書く限り、その肉体を汚すこと、弄ぶこと、まるで私はその清純に悪意をこめているとしか、復讐しているとしか思われない。この続篇は谷村に恋をさせるつもりなのだが、素子がそれをどう受けとめるか、私は素子に谷村の恋を知らせたくないような気持なのだ。素子がヤキモチをやいて肉体に焦燥しょうそうしだすのが堪えられない気持だから。ともかく、まア、ここまで書いたことに就ては、私は多く苦痛であったが、多少は満足もしている。ともかく精一杯なのだろう。これで駄目なら、私自身が、まだ、駄目なので、出来、不出来のたまたま不出来の方だったという気休めは通用しない。

 思索から小説依頼、とても書けない、ことわる。読書新聞から「問はず語り」がとどいたので、読んだ。軽すぎる。重い魂が軽いのじゃない。軽いものが、軽いのだ。


七月二十九日(午後より雨)

 文藝春秋へ行き鷲尾洋三氏に原稿渡す。ともかく、精一杯のものです、とだけ言った。まったく、目下はそれが全部の感想なのだ。中央公論社へ行き、小滝氏に原稿をとどける。まだ「風博士」だけが足りない。

 たったそれだけ路上を歩いただけで、会った人、東京新聞寺田、改造西田、新聞報柴野、若園君とその友人某君と酒をのむ。久々の酒、嬉しかった。大いに駄ボラを吹く。酔っ払うと、急に、大いに「女体」に自信満々たるように亢奮こうふんしだしたから、無茶で、私は酒を飲まないうちは、ともかく精一杯の仕事だった、と、むしろやや悲痛にちかい感慨で、暗く考えていたのであった。酒は無茶だ。不当に気が強くなる。ずいぶん「女体」を威張って、二人のききてを悩ましたようだ。若園君、私の家へ泊る。むりに引っぱってきたのだ。三、四日分のパンを焼いて貰う魂胆なのだ。一人になったら、実に落付いて気持がいいが、食事だけ困るのだ。

底本:「堕落論・日本文化私観 他二十二篇」岩波文庫、岩波書店

   2008(平成20)年917日第1刷発行

   2013(平成25)年45日第6刷発行

底本の親本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房

   1998(平成10)年522日初版第1刷発行

初出:「近代文学 第二巻第一号」

   1947(昭和22)年11日発行

入力:Nana ohbe

校正:酒井裕二

2016年34日作成

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