咢堂小論
坂口安吾



 毎日新聞所載、尾崎咢堂おざきがくどうの世界浪人論は終戦後現れた異色ある読物の一つであったに相違ない。言論の自由などと称しても人間の頭の方が限定されているのであるから、にわかに新鮮な言論が現れてくるはずもなく、これを日本文化の低さと見るのも当らない。あらゆる自由が許された時に、人は始めて自らの限定とその不自由さに気付くであろう。とはいえ、ともかく新鮮な読物の極めてまれな一つが八十を過ぎた老人によってされたことは日本文化の貧困を物語ることでもあるかも知れぬ。

 咢堂の世界浪人論によれば、明治維新前の日本はまだ日本ではなく、各藩であり、藩民であって、各藩ごとに対立し、思考も拘束されていた。日本及び日本人という意識は少なかったのである。この藩民の対立感情が失われ、藩浪人もしくは非藩民となったとき日本人が誕生したのであって、現在は日本人であり他国に対する対立感情をもっているが、要するに対立感情は文化の低さに由来し、部落の対立、藩の対立、国家の対立、対立に変りはない。今後の日本人は世界浪人となり、非国民とならなければならぬのだが、非国民とは名誉の言葉で高度の文化を意味している。日本人だの外国人だのと狭い量見で考えずに、世界を一つの国と見て考えるべしと言うのであった。すなわち彼の世界聯邦論せかいれんぽうろん根柢こんていである。

 その一週間ほど前の朝日新聞には志賀直哉しがなおやの特攻隊員を再教育せよという一文が載っていた。死をみること帰するがごとく教えられ、基地において酒と女と死ぬことと三つだけを習得した特攻隊員が終戦後野放しになり、この生きにくい時節に死をみること帰するが如く暴れられては困るから、彼らを集めて再教育せよという議論である。彼は世人に文学の神様などと称せられているのであるが、このピントの狂った心配に呆気あっけにとられたのは私一人ではなかったであろう。

 死を見ること帰するが如しなどと看板を掲げて教育を施して易々と註文ちゅうもん通りの人間が造れるものなら、第一に日本は負けていない。かかる教育の結果生れた人格の代表が東条であり真崎であり、軍人精神の内容のみじめさは敗戦日本に暴露せられたカラクリのうちで最も悲痛なる真実ではないか。日本上空の敵機は全部体当りして一機も生還せしめないと豪語した結果の惨状は御覧の如くであり、飛行機のことはおれにまかせて国民などは引込んでおれと怒鳴り立てた遠藤という中将が、撃墜せられたB29搭乗員の慰霊の会を発起して物笑いを招いているなど、職業軍人のだらしなさは敗戦日本の肺腑はいふえぐる悲惨事である。軍人精神には文化の根柢がないから、崩れると惨めである。浮足立って逃げ始めると大将も足軽も人格の区別がなくなり一様に精神的に匪賊化ひぞくかして教養の欠如を暴露する。死生の覚悟などというものは常に白刃の下にある武芸者だの軍人などにはかえって縁の遠いもので、文化的教養の高いところに自ら結実する。問題は文化、教養の高低であって、特攻隊員の死をみること帰するが如しなどという教育などは取るに足らない。

「文芸」九・十月号に志賀直哉は原子爆弾の残虐さについいきどおりをもらしているが、この人道ぶりも低俗きわまるものである。原子爆弾を一足先に発明した国にこの戦争の軍配が上るであろうことは戦時国民の常識であって、その期待をたのみしていた国民にとって、十万円の研究費すら投じなかったという軍部の低脳ぶりは国民を驚倒せしめたものである。憤るべきはこの軍人の低脳ぶりだ。残虐なのは戦争自体であって、原子爆弾には限らない。戦争と切り離して原子爆弾一つの残虐性を云々うんぬんするのが不思議な話ではないか。志賀直哉の人道だの人間愛というものはこの程度のものであり、貴族院議員が貴族院の議席から日本を眺めているのと全く同じものである。特攻隊員を再教育せよなどという心配も、単に昔ながらの小さな平穏を欲しているからの心情であり、日本がそのあらゆる欠点を暴露した敗戦泥濘でいねいのさなかに於て、彼の人生の問題がこんなところに限定されているということが、文学の名に於てあまりにも悲惨である。戦争、そして、敗北。国家の総力を傾け、その総力がすべて崩れてあらゆる物が裸体となった今日の日本に於て、その人の眼が何物を見つめ、ねらい、何物をつかみだすか、ということは、興味ある問題だ。その人の内容だけの物しか狙い又掴みだすことができず、平時に瞞着まんちゃくし得た外見も、ここに至ってその真実を暴露せずにはいられない。志賀直哉の眼が特攻隊員の再教育などということに向けられ、ただ一身の安穏を欲するだけの小さな心情を暴露したということは、暴露せられた軍人精神の悲惨なる実体と同じ程度に文学の神様の悲痛極まる正体であった。

 これに比べれば咢堂の眼は衆議院の議席からも国民の常識からもハミだしており、思考の根が人性そのものに根ざしていることを認めざるを得ぬ。彼は政治の神様と言われているが、文学の神様よりはよほど人間的であり、いわば文学的であったのである。

 文化の低いほど人は狭い垣を持つ。国民は国民同志対立し、より文化の低い藩民は藩民同志対立し、もっと文化が低くなると部落と部落が対立すると咢堂は言う。かかる対立感情が文化の低さのみを原因とするかどうかは問題だが、之は咢堂の肉体的な言葉であり、いわば自らを投げだして対立をもとめている文学的な一態度だ。日本人だのアメリカ人だのと区別を立てる必要もなく、誰の血だなどと言う必要もない。まもるに値いする血など有る筈がないのだ、と放言する咢堂に至っては、いささか悪魔の門を潜ってきた凄味すごみを漂わしているのであるが、僕の記憶に間違いがなければ、咢堂夫人はイギリス人であった筈で、こうなると意味が違う。なぜなら純粋に日本人であり、日本人の女房をもち、日本人の娘があるとなかなかこうは言えないものだ。理論よりも本能の方が一応は強力だからである。この本能をつぶして正論を掴みだすには確かに悪魔的な眼が必要で、女房や娘を人身御供ひとみごくうにあげるくらいの決意がないと言いきれない。咢堂は悪魔の助力なしに之を言いきれる立場にいるのであるが、それにしても、この言葉が人間の一大弱点を道破しており、日本将来の一大問題を提出しているものであることは争えない。共産主義者などはいたずらに枝葉の空論をふりまく前に、ずこの人性の根本的な実相に就て問題を展開する必要があった筈だ。咢堂の世界聯邦論がこの根柢から発展していることは、一つの思想の重量であって、日本の政治家にこれだけの重量ある思想の持主はまずないだろう。この重量は人間性に就ての洞察探求から生れるもので、彼の思想が文学的であるのも、このためだ。

 けれども、ここに問題は、部落的、藩民的、国民的限定を難じ血の一様性を説く咢堂の眼が、更により通俗的な小限定、即ち「家庭」の限定に差向けられていないのは何故なにゆえであろうか。

 家庭は人間生活の永遠絶対の様式であるか。男女は夫婦でなければならぬか。国家や部落の対立感情が文化の低さを意味するならば、家庭の構成や家庭的感情も文化の低さを意味しないか。咢堂はこれらのことに就てはふれていない。そして僕の考えによれば、人間の家庭性とか個性というものに就て否定にせよ肯定にせよ誠実なる考察と結論を欠き、いきなり血の一様性や世界聯邦論へ構想を進めることは一種の暴挙であることを附言ふげんしなければならぬ。

 部落的、藩民的、国家的な対立感情を取除くことによって全ての対立感情が失われるかといえば、決してそうは参らぬ。ここに個人的対立感情があって、この感情は文化の低さに由来するどころか、むしろ文化の高さと共に激化せられる如き性質を示している。即ち、原始社会に於てはむしろ個人的対立感情は低いもので、男女関係はルーズであり、夫婦とか家庭というものもハッキリしておらず、嫉妬しっとなども明確ではない。文化の高まるにつれて、家庭の姿は明確となり、嫉妬だの対立競争意識というものは次第にむしろ尖鋭の度を示しているのである。

 我々小説家が千年一日の如く男女関係に就て筆をろうし、軍人だの道学先生から柔弱男子などとののしられているのも、人生の問題は根本に於て個人に帰し、個人的対立の解決なくして人生の解決は有り得ないという厳たる人生の実相から眼を転ずることが出来ないからにほかならぬ。

 社会主義でも共産主義でも世界聯邦論でも何でも構わぬ。社会機構の革命は一日にして行われるが、人間の変革はそうは行かない。遠くギリシャに於て確立の一歩を踏みだした人間性というものが今日もなお殆ど変革を示しておらず、進歩の跡も見られない。社会組織の革命によって我々がどういう制服を着るにしても、人間性は変化せず、人間性に於て変りのない限り、人生の真実の幸福は決して社会組織や制服から生みだされるものではないのである。自由といってもれる自由もあれば、それを拒否する自由もある。平等などと一口に言うが、個という最後の垣に於て人は絶対に平等たり得ぬものである。賢愚、美醜、壮健な肉体もあれば病弱もあり、強情な性癖もあれば触れれば傷つく精神もあるのだ。憎しみもあれば怒りもある。軽蔑もあれば嫉妬もある。人間というものを机上きじょうにのせて、如何いかなる方程式だの公理によって加減乗除してみても、計算によって答がでてくるシロモノではないのだ。しかも人生の日常の喜怒哀楽というものはに存しているのであって、社会機構というものは仮の棲家すみかにすぎず、ふるさとは人間性の中にある。之なくして人間に生活はない。

 ひところ友愛結婚などということが言われて、夫婦が恋人に、恋人が複数の友達に変化するような一部の流行があったけれども、為政家いせいかが人間性というものに誠実な考察を払うなら、これらのことは社会制度の根柢に於て考慮せらるべき重要な問題となるであろう。なぜなら人の真実の生活や幸福がそこに存しているからである。為政家が社会制度のみを考えて人間性を忘れるなら、制度は必ず人間によって復讐ふくしゅうせられ、欠点を暴露する。

 咢堂の世界聯邦論は人間の対立感情に就ての歴史的考察によって基礎づけられて一応はかなりの重量を示しているが、個の対立に就てなんら着目するところがないのは彼がなお相当誠意ある人間通でありながら、真に誠実なる人生の求道家ではなかったことを示しているものであろう。

 彼は人の虚飾を憎み、真実なる内容のみを尊重する人の如くでありながら、実は好んで大言壮語し、自らの実力の限定に就て誠意ある内省をもっていない。彼は政治の理論家であるが、実務家ではないのであって、彼は大臣になっても決して立派な成績を上げることはできない。彼が今総理大臣になったところで食糧問題が好転する筈もなく、他の総理大臣よりもましである見込みもない。之を文学にたとえれば、文学理論家であって、小説の書けない男であり、小説が書けないという意味は芸術的な筆力がないというだけでなく、一応の理論はあるが究極的な自我省察が欠けているという意味でもある。日本に於ては異色ある人間的政治家であったけれども、しかもなお中途半端な思索家だった。

 彼が政治家として残した業績の最大なものは彼の反骨で、彼は常に政府の敵で、常により高い真実と道義と理想に燃えていた。之は又、政治家の魂であるよりも、むしろ文学者の魂であったと僕は思う。

 文学というものは常に現実に満足せざるところから出発し、いわば現実と常識に対する反骨をもって柱とし、より高き理想をもって屋根とする。政治と妥協する文学は一応は有り得ても、その政治が実現したとき、文学は更にその政治の敵となって前進すべきものである。より高きもの、より美しきもの、文学は光をもとめて永遠に暗夜をすすむ流浪者だ。定住すべき家はない。政治の敵であることによって、政治の真実の友となるのであって、政治は文学によってその欠点を内省すべきものである。なぜなら社会制度によって割りきれない人間性を文学はみつめ、いわば制度の穴の中に文学の問題があるからだ。政治が民衆を扱うとすれば文学は人間を扱う。そして政治、つまりは現実と常識に対する反骨が文学の精神であり、咢堂の精神はおおむねかくの如きものであったと僕は思う。

 彼は大臣にもなったけれども実務家として無能であって、彼の政治行動は一貫した反骨精神の中に存していた。そしてこの反骨と理想と理論は、議会の議席の中にあって始めて意義を生ずるかといえば、必ずしもそうではない。筆陣を張っても不可はない性質のもので、必ずしも議席を占める意味のない性質のものであった。なるほど政党に所属していたこともあるが、多くは中立であり、中立などというものは議会政治の邪魔者にすぎない。なぜなら、議会政治は現実に即した漸進的ぜんしんてきなものであって、直接民衆の福利に即し実務的な効果をもって本質とする。漸進的な段階を飛びこした革命的な政治理論は議会とは別のところに存在する。けだし直接民衆の福利に即した政治家は地味であり、大風呂敷おおぶろしきの咢堂はそういう辛抱もできないばかりか、その実際の才能もなかった。いわば彼の役割は筆陣だけで充分だったにかかわらず、代議士だの大臣などになり、大臣などでは無能でしかなかったにも拘らず、そういうことが忘れられて、政治の神様などと言われているところに、大きな間違いがある。こんな政治の神様がいては困りもので、実際の政治というものは社会主義とかニュー・ディールとか実際に即した福利民福の施策を称するものである。彼にはそういう施策はない。政治家としての実質的な内容に於て、実はゼロであった。つまりは政治理論家にすぎず、理論家としては決して高度の理論の所有者でもなかった。

 要するに、咢堂は文学的な精神をもった男であり、「文学の神様」志賀直哉よりは文学的な、人間的な深さをもっているけれども、文学自体の深さにくらべれば低俗な思索家で、真に誠実な人間的懊悩おうのうというものは少い。政治家としては最も傍系的人物であるに拘らず、今日の如くジャーナリズムが彼を政治の主流的存在の如く扱うことは甚だ危険であることを忘れてはならぬ。


党派性を難ず


 明治維新の大業が藩閥はんばつとか政党閥によってゆがめられ、あげくの果が軍閥の暴挙となって今日の事態をまねくに至った。閥とか党派根性というものは日本人の弱点であって、それによって日本の生長発展が妨げられてきたことは痛感せられているに拘らず、敗戦後、政治に目覚めよといえば再び党閥にひろがる形勢を生じ、正しい批判と内容の目を見失おうとしている。

 民衆は先ず「生活」すべきものであって、決して党派人たることを要しない。政友会だから民政党の嫁はもらわないというのは田舎いなかの実話であるよりも笑話であるが、今日でも同じことで、近頃の激化した党派性では、あいつは共産党だから嫁にやらぬとか、あいつはブルジョアの娘だからどうだとか、結局再び同じ笑い話が笑われもせず堂々と横行しはじめる形勢にある。

 人間は先ず生活すべきものであり、生活は常により高い理想に向って進むべきものであって、固定してはならないものだ。民衆が政治をもとめ、よりよき政党を欲するのは、自らの生活を高めるための手段としてで、政治家は民衆の公僕だとはその意味だ。先ず民衆の生活があり、その生活によって政党が批判選択せらるべきで、民衆が党派人となることは不要であり、むしろ有害だ。

 政治は実際の福利に即して漸進すべきものであり、完璧とか絶対とか永遠性というものはない。政党はその時の状態や条件に応じて民衆の批判を受け、民衆はその都度つど事態に適合した政策をもつ政党を選ぶのが良い。明日の政治に社会主義が最適ならばその党を選ぶべく、しかしその党に固定し、又、束縛せられる必要はごうもない。ところが日本人は党閥に走りがちで、自ら固定し、束縛せられて、生長とか発展とか、正当な変化や広い視野を好んで限定してしまう。その結果は再び議会政治の正しい運用を忘れ、党派による独裁政治に走ることとなって、国運の不幸を招く結果となり、民衆の生活を不当に歪める事態を生ずるに相違ない。

 何故にかかる愚が幾度も繰返さるるかと云えば、先ず「人間は生活すべし」という根本の生活意識、態度が確立せられておらぬからだ。政党などに走る前に、先ず生活し、自我というものを見つめ、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく見究めることが必要だ。政治は生活の道具にすぎないので、古い道具はいつでも取変え、より良い道具を選ぶことが必要なだけである。政治の主体はただ自らの生活あるのみ。自らの生活は宇宙の主体でもあって、自我が確立せられてのみ国家もまた確立せられるだろう。

 日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先ず自我の確立だ。本当に愛したり欲したりかなしんだり憎んだり、自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭どうこくによく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生れない。近頃の流行によれば学徒や復員軍人が「魂のよりどころを見失って」政党運動に走っているというのであるが、之は筋違いで、政治は人間生活の表皮的な面を改造し得るけれども、真実の生活は人間そのものにる以外に法はない。自我の確立、人間の確立なくして、生活の確立は有り得ない。

底本:「堕落論・日本文化私観 他二十二篇」岩波文庫、岩波書店

   2008(平成20)年917日第1刷発行

   2013(平成25)年45日第6刷発行

底本の親本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房

   1998(平成10)年522日初版第1刷発行

入力:Nana ohbe

校正:酒井裕二

2016年34日作成

青空文庫作成ファイル:

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