意慾的創作文章の形式と方法
坂口安吾
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小説の文章を他の文章から区別する特徴は、小説のもつ独特の文章ではない。なぜなら小説に独特な文章というものは存在しないからである。
「雨が降った」ことを「雨が降った」と表わすことは我々の日常の言葉も小説も同じことで、「悲しい雨が降った」なぞということが小説の文章ではない。
勿論雨が「激しく」降ったとか「ポツポツ」降ったとか言わなければならない時もある。併し小説の場合には、雨の降ったことが独立して意味を持つことはまず絶対にないのであって、何よりも大切なことは、小説全体の効果から考えて雨の降ったことを書く必要があったか、なかったか、ということである。
小説の文章は必要以外のことを書いてはならない。それは無用を通りこして小説を殺してしまうからである。そして、必要の事柄のみを選定するところに小説の文章の第一の鍵がある。
即ち小説の文章は、表現された文章よりもその文章をあやつる作者の意慾により以上重大な秘密がある。作家の意慾は表面の文章に働く前に、その取捨選択に働くことが更に重大なのだ。小説の文章は創作にも批判にも先ず第一に此の隠れた意慾に目を据えなければならない。
愚劣な小説ほど浅薄な根柢から取捨選択され一のことに十の紙数を費すに拘らず、なお一の核心を言い得ないものである。それにひきかえ傑作の文章は高い精神によって深い根柢から言い当てられたもので、常にそれなくしてはありえなかったものである。
前述のように、まず意慾が働いてのち、つづいて表現が問題となる。
一般の文章ならば、最も適切に分り易く表わすことが表現の要諦である。この点小説の文章も変りはない。併しながら小説には更に別の重大な要求があるために、必ずしも適切に分り易くのみ書くわけにいかない。
即ち、作家はAなる一文章を表現するに当って、Aを表現する意慾と同時に、小説全体の表現に就ての意慾に動かされている。Aに働く意慾は当面の意慾には違いないが、実は小説全体に働く意慾の支流のようなものである。従而、Aなる文章はAとして存在すると同時に、小説全体のための効果からAとして存在する必要にせまられる。つまりAとして直接の効果をねらうと共に、Aとして間接の効果をねらっている。のみならず、単に間接の効果のためにのみ書かれる文章もあるのである。
そのために、文章を故意に歪めること、重複すること、略すこと、誇張すること、さらには、ある意図のもとに故意に無駄をすることさえ必要となってくる。ことに近代文学に於て、文学が知性的になり、探求の精神が働くに順い、こういう歪められた文章も時には絶対に必要とされる場合も起るのである。
併し文章を故意に晦渋にするのも、畢竟するに、文章を晦渋にしたために小説の効果をあげ、ひいては小説全体として逆に明快簡潔ならしめうるからに他ならない。単に晦渋のために晦渋を選ぶことではないのである。
要するに小説は明快適切でなければならないものであるが、小説の主体を明快適切ならしめるためには、時として各個の文章は晦渋化を必要されることもありうるのだ。そして描写に故意の歪みを要するところに──換言すれば、ある角度を通して眺め、表わすところに──小説の文章の特殊性もあるのである。
なぜなら、小説は事体をありのままに説明することではない。小説は描かれた作品のほかに別の実体があるわけのものではない。小説はそれ自体が創造された実体だからである。そこから小説の文章の特殊性も生まれてくる。次にそのことを詳述しよう。
我々の平素の言葉は「代用」の具に供されるものである。かりに我々が一つの風景を人に伝えようとする。本来ならその風景を目のあたり見せるに越したことはないが、その便利がないために言葉をかりて説明するものである。従而、言葉を代用して説明するよりも、一葉の写真を示す方が一層適切であろうし、出来うべくんば実際の風景を観賞せしめるに越したことはない。
だが、このような説明がいかほど真にせまり、かつ美辞麗句をもって綴られるにせよ、これを芸術と呼ぶことはできない。なぜなら実物を見せる方がより本物だからである。
芸術は、描かれたものの他に別の実物があってはならない。芸術は創造だから。
単に現実をありのまま描くことなら、風景の描写には一葉の写真をはさみ、音の描写には音譜をはさむことが適切であろうが、それにせよ現実そのものの前では全く意味をなさない死物と化すの他はない。芸術の上では、写実といえども決して現実をありのままに写すことではないのである。
偉大な写実家は偉大な幻想家でなければならないとモオパッサンはその小説論に言っている。一見奇矯なこの言葉も、実は極めて当然な次の理由によるのである。
作家が全てを語ることは不可能である。我々の生活を満している無数のつまらぬ出来事を一々列挙するとせば、毎日少くも一巻を要すであろう。
そこで選択が必要となる。そして、これだけの理由でも「全き真実」「全き写真」ということは意味をなさなくなるのである。
それゆえ最も完全な写実主義者ですら彼が芸術家である限り、人生の写真を我々に示そうとはしないで、現実そのものよりももっと完全な、もっと迫るような、もっと納得の出来るような人生の幻影を我々に与えるように努めるであろう。つまり完全な幻影を与えることこそ勝れた写実家の仕事なのだ。
のみならず、世に現実が実在すると信ずることは間違いである。なぜなら各人の感覚も理性も同一のものを同一に受け納れはしないから。Aにとって美であるものがBにとって醜であることは常にありうることだ。その意味では各人にめいめいの真実があるわけだが、不変の現実というものはない。即ち我々はめいめい自分の幻像を持っているのである。
そして芸術家とは、彼が学んだそして自由に駆使することのできる芸術上のあらゆる手法をもって、この幻影を再現する人である。けれども、Aの幻影がBに納得されるには甚しい困難がある。単なる説明や一人合点の誇張では不可能である。そこに芸術の甚だ困難な技術がいる。つまり芸術家とは自己の幻影を他人に強うることのできる人である。
かように最も写実的な作家ですら、単なる説明家、写実家でないことを了解されたであろう。のみならず芸術家をして創作にからしめる彼の幻影といえども幻影として実在するものではなくて、描かれてのち、描かれたものとしてはじめて実在することができるのである。
然らば単なる説明でない文章とは何か? 次にそのことを述べよう。
併し芸術に独特な、純粋な言葉というものはない。小説に用いる語彙も我々の日常の語彙も全く同様のもので、むしろ日常用うる以外の難解な語や已に忘れられた死語やひねくれた美辞麗句を用いることは芸術をあやまる危険をもつ。
然らば同一の語彙の一を芸術にまで高めるものは何か。併しこのことを理解するには、やや超理的な理解力が必要である。なぜならこのことは職業の秘密ともいうべき超理的な要素を含んでいるからである。
けれども敢て言えば、恐らく言葉を使駆するところの作家の精神の高さによるものであろう。そして作品を底流する作家の精神は、作品の角度となって表面に現れる。この角度こそ私の最も言いたいことであるが、後章に説明することとして、とりあえず、かような文章の一例に就て述べよう。
しかし、このような文章の例を散文にもとめるのはむずかしい。なぜなら散文は一句が独立した効果をあらわすことはなく、必ず前後の文章に複雑な関係を残しているから。私は今、芭蕉の句に就てこれを説明しよう。
この句は我々にある種の感銘を与える。私は之を決して高く評価はしないが、とにかく芸術であることは疑えない。
さて、この句に就て先ず我々が気付くのは、ここから受ける感銘の理由は、古池の風景でもなく、蛙の落ちた水の音でもないということである。もしも音楽家があって、この句を作曲するに古池に蛙とびこむ水の音を克明に写したとする。物笑いの種となるばかりであろう。
私はこの和歌を五十嵐力氏著「国歌の胎生及びその発達」から引いてきた。五十嵐氏の指摘される通り、ここには更に一つの季節と淋しいという感情と、いかにも淋しさにふさわしい夕ぐれという時間まで読者に教えてくれる。我々はこの和歌によって古池の情景をかなり微細に暗示された。けれども句のもつ感銘が深まったとは思われないばかりでなく、却って下品となり、落付は失われ、淋しさは言葉となったために実感を失い、結局何ら人を打つところのない単なる風景の説明に終っていることに気付かずにいられない。即ち芸術とは写真を見せることではないという一例を之によっても知ることができよう。
作家の精神はありのままに事物を写そうとする白紙ではないのである。複雑──むしろ一生の歴史と、それを以てして尚解き得なかった幾多の迷路さえ含んでいる。そしてこの尨大な複雑が、いわば一つの意力となって凝縮したところに漸く作家の出発があるのである。言葉を芸術ならしむるものは、言葉でもなく知識でもなく、一に精神によるものであるが、併し精神を精神として論ずることは芸術を説明する鍵とならない。
作家のかかる精神は、作品の角度となって表面に現れてくる。現象の取捨選択に働く直接の母胎もこの角度であり、文章の迫真力や脹力も全てこの角度によって各々の方向を規定されてくるのである。そしてこの角度こそ文章を芸術ともならしめるものである。
作品の角度とは即ち作家の意慾に他ならない。
単なる観察(如何に辛辣であろうとも)、単なる思想(如何に深遠であろうとも)、それは芸術にとって素材であり、写真の如きものにすぎない。かかる観察、思想に通路を与え方法を与えるものが作家の意慾である。
例えば、かりに人物の取扱いに就て之を見よう。ドストエフスキーのように、その人物の特徴ある部分のみを誇張してそれによって全人格を彷彿たらしめようとする作家がある。反対に、人物の特徴にはなるべく触れぬようにして、微細なニュアンスで人物を描きわけてゆくモオパッサンがある。又人物の個性としてよりも人間の類型化に観点をおいて、タイプのもつ特徴だけを浮き立たせながら人物を進行させるバルザックがいる。かと思えば性格などは眼中に置かずに知性と心理解剖をもって人間性に解釈と、知性の極北に立つ詩とを見出そうとしたバンジャマン・コンスタンの如き作家もいる。
我々はドストエフスキーの作品の中で、彼自ら最も平凡で、ありふれた人物という注釈付きで登場させる数名の人を見出すことができる。成程彼等は私達の目になれた平凡人達ばかりだ。けれども同時になんと非凡であり風変りであることよ。けれども読者である我々はこの風変りな人々を全く有りふれた平凡人としてしか受け納れることができない。又事実平凡人はかように風変りでもあるのだ。寧ろ我々は平凡人の風変りに見馴れてはいたが気付かずにいて、ドストエフスキーが描くことになって歴々と無数の風変りな平凡人を身辺に認識したのかも知れない。斯様に、ドストエフスキーは、たとい平凡人を描くにしても、極めて目立つ特徴を更に浮き立たせるようにして扱ってゆく作家である。
これに反するものとして、私達はモオパッサンの傑作「ピエルとジャン」を読むことにしよう。野心家で激しい情熱を持つ男で、そのくせ奇妙な冷静とねばりと気紛れを持つ長兄ピエルは、この作品の中で極めて普通にとり扱われている。けれども読者である我々はそれで充分納得して、その微細なニュアンスからピエルの全貌を歴々と想像しながら読了してしまう。もしも此の同じピエルをドストエフスキーが取扱ったらどうだろう、まるでシャートフのように書くかも知れない。しかも変人のシャートフもざらにあるピエルも、結果に於て同じような人間なのだ。
勝れた作家は各々の角度、各々の通路を持っている。通路は山と海ほどの激しい相違があるけれども到達する処は等しい。同じ人物をピエルとシャートフの相違で描いても、要するに全貌を現したあとでは同じものになる。モオパッサンはピエルの方法でしかシャートフが描けないのである。
同様にゴーゴリの平凡はなんと奇抜でユーモラスであろう! 我々の平凡はこんなに奇抜ではない。併しゴーゴリを読んだあとでは無数の身辺の平凡の中に、我々は奇抜を認めずにいられなくなる。
けれどもモオパッサンにとって、平凡の奇抜な面は必要ではなかったし、奇人の奇抜な面さえ必要でなかったのである。反対にドストエフスキーは平凡人を平凡の面からはどうしても描けなかった。
角度は無限である。めいめいが各々の角度を持たなければならない。けれども如何に多くの贋物があるか。否、真に自らの角度を持ち、しかも之を正しく育てうる人は極めて稀にしかない。
以上は人物の取扱いに就ての作家の角度の一例であるが、角度は勿論人物に限るものでなく思想の取扱いにも働き、否、小説全体に働く。同時に各々の文章、さらに小には一語一語に働くものである。
だがこの小論は文章に就てのものであるために、次にかかる意慾的な文章に就て述べよう。
作家の意慾は文章よりはじめて小説全体に行きわたるとは、即ち逆に小説の文章はAなる文章としてあると同時に、小説全体の中のAなる効果としてあるということに他ならない。のみならず、小説は小説全体として完成さるべきものであるから、個々の文章が如何ほど独立した完璧を示すにしても小説全体としての完成を示さなければ高く評価することはできない。
従而小説の文章はAとして直接の効果を狙うよりもAとして間接に働き、直接の効果を殺して余裕ある歩みを運ぶことが多い。けれども斯様な余裕が如何ほど深い計算の結果選び出されたものであるか、言わずして想像し得られると思う。
たとえば読者に悲しさを伝えるために、作者が嗚乎と溜息を洩したり、すぐさま悲しいと告白したとする。成程読者はこれを読んで、作者が悲しんでいるなということは納得がゆく。併し読者の悲しみになることは決してないであろう。芸術に於て作者の悲しみは読者の悲しみとならねばならぬものであるのに。
たとい自己を描く時も、作家は描く自己と描かれる自己の二つの人格を明瞭に認識すべきものである。自分の悲歎や心境を単に無技巧に押しつけようとしても、読者はついてくるものでない。何事も言葉に表わされた以上一応は理解しうる。併し読者をして身をもって感ぜしめねば不可である。
モオパッサンは旅行記「水の上」に次のような感想を洩している。即ち自分は作家として何事にも観察者の立場に立つために遂いに恋を失ったと。なぜなら自らの恋情に当っても直ちに観察者として自らを凝視解剖する冷酷な眼を逃れることができない。そのために自分の恋に溺れることさえできなかった、と。我々はここに芸術家の残酷な宿命を感ぜずにいられないが、同時に目下の我々に与えられた一つの解答を見出すであろう。即ち、常に自らをも客観せよ。
次に我々の仕事は「計算」することである。まことに小説の文章ほど計算を要するものはない。小説を一言にして言えば「計算の文章」である。
今我々は一人物の外貌を描写しようとしている。特徴のある顔、甚だ表情のある手、それよりも短い身長と、しかも奇妙にゴツゴツした動きが特に目をひき易い。しかも猫のような声、時々まるで変化する眼の具合、これらを精密に描いたなら、読者はその外貌を読んだだけで、この男の性格や心の底を見抜くことが出来るほどだ。そこで我々はこの人物の外貌を精細に描写したいばかりに、情熱でウズウズしている。併し長い紙数を費して一気にこの男の外貌の全部を描いていたら、読者は却って退屈を感じ、そのために混雑した不明瞭な印象を受けるばかりで、大切な核心を読み逃してしまうであろう。
そこで我々は計算する。今この男は心にもない嘘をついて冷酷に相手を観察しながら喋っている場面である。そこで今は冷めたい目と、水のような声だけが必要なのだ。鼻や手や顔色や動作は次の機会に書く時があるだろう。畢竟するに小説全体の中でこの男が浮き彫りにほりあがればいいのだから。
斯様な計算は、人物の性格に就ても、作者の語りたい心境についても、思想に就ても同様である。あわてずに計算の極をつくし、余裕をもって描くべきである。たとい慌ただしい情景を描くに当っても作者が慌ててはいけない。作者はあくまで余裕ある計算をつくさねばならぬ。
然らば何事を計算するか? むろん小説の全体の配分に沿うて現象を配合すること、取りあわすこと、分離すること、綜合すること、それも必要である。その上、我々は読者の心臓を計算しなければならない。即ち斯う書けば斯う感じるに相違ないと綿密に算出して、しかも計算は前後の文章に連り全体に連るために甚だ複雑な手順をつくして読者の心臓を測らなければならないのである。同時に必ず割りきらなければならない。剰余を残して済ますことは小説の文章の計算法には許されないことである。その上、配分せられた個々の文章の総和が、自分の狙う詩や思想や雰囲気や感銘の効果を充分に生み出しているかどうか、計算に狂いがなかったか、それを正確にしかも事前に予測しうる経験、練達をつまなければならない。
最後に我々が注意しなければならないのは、文章の調子をまとめるために、右と書くべきを左と書くような無理をしてはならないことである。
我々日本人は漢文によって無理な美文を教えられてきた。これは概ね右と書くべきところを言葉の調子で左と書く風な所謂名文であった。これを名文と称ぶならば、私は躊躇なく悪文こそ芸術の文章と称びたい。
小説の文章は独立した文章として完成し、なだらかに美しく一種の詩の音律美を具えていても値打をもたない。寧ろそれは芸術を殺してしまうものである。
小説の文章は書くべき事柄を完膚なく書きつくさねばならないのである。即ち、作家の角度から選択され一旦書くべく算出された事柄は、あくまで完膚なく書きつくさねばならないのだ。たまたま文章の調子に迷い右を左と書きつくろうような過ちは犯してならないことである。
真の詩は言葉の調子からは生れないものである。まことの詩は事実の中にひそんでいる。バンジャマン・コンスタンは人性を知性にわりきった極北に詩を見出した。ドストエフスキーは人性の葛藤の中に詩を見出したのである。
(参考書)
日本語に読みうるものに、アランの「散文論」(作品社出版)が最上と思いますが、そのほかに、モオパッサンの「小説に就て」も参考になろうかと思われます。これは同人の小説「ピエルとジャン」(岩波文庫)巻頭に訳載されております。変ったところでは、マルセル・プルウストの文章論なぞは如何。これは〝Les Plaisirs et les Jours〟及び〝Chronique〟(邦訳もあることと思いますが)なぞに種々の題目で論じられております。
底本:「堕落論・日本文化私観 他二十二篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年9月17日第1刷発行
2013(平成25)年4月5日第6刷発行
底本の親本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出:「日本現代文章講座 Ⅱ─方法篇」厚生閣
1934(昭和9)年10月13日
入力:Nana ohbe
校正:酒井裕二
2015年12月13日作成
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