流浪の追憶
坂口安吾



(一)


 私は友達から放浪児と言われる。なるほどこのところ数年は定まる家もなく旅やら食客やら転々としたが、関東をめぐる狭小な地域で、放浪なぞと言うほどのものではない。地上の放浪に比べたなら私の精神の放浪の方が余程ひどくもあり苦痛でもあった。しかしそれはここに書くべき事柄ではない。

 放浪というほどでなくとも、思いだすと、なるほど八方に隠見出没した自分の姿にあきれないこともない。然しながらどこの風景がどうであったということになると皆目手掛かりのない市や町がある。それはみんな酒のためだ。

 小田原の牧野信一さんの所にしばらくころがっていたことがある。初夏であった。たまに海へは散歩に行った。大概ぼんやり一室に閉じこもっているだけだが(私は旅にでてもいつもそうだ)すると牧野さんが時々庭球選手のような颯爽さっそうたる服装でやってきて、おい昆虫採集に行こうと言う。牧野さんの昆虫採集も古いものだがいまだに根気よく凝ってるらしい。あの頃は病膏肓やまいこうこうの時だった。私は一匹の揚羽蝶あげはちょうをつかまえただけで、昆虫の素ばしこさには手を焼いているから、彼の活躍の後姿を眺めながら煙草たばこをふかしているのであった。小田原の山は蜜柑みかん等の灌木かんぼくだけで高い樹木が全くないから陰がない。そして空が澄んでいる。牧野さんの精神の抒情じょじょうにはもやというものがほとんどないのは彼を育てたこの風景のせだろうと私は考えている。

 小田原の記憶というとそれだけで、私は小田原の町を知らない。そのくせ毎晩小田原の町を彷徨ほうこうしていたのだ。れていたのである。

 山の頂上に豪華なキャッフェがある。そこから見ると街の灯が谷底の中で輝いていてひどく綺麗きれいだ。精神の高まるような気がする。その酒場で私は小田原の医者と知り合って共に酒を飲んだはずだ。この医者は三十を過ぎたばかりの婦人科医で、血を見ると酒を飲まずにいられないと言うのである。その人の顔は忘れたが音声だけは記憶していた。

 それから一年半後のことだが、銀座裏のおでん屋でこの医者に再会した。私はかつて眼下に見下した小田原のあの澄みきった街の灯を思いだしながら生き生きと彼に言った。

「あの山上の酒場は今も盛大でしょうね! 谷底のような下界に街の灯をみつめて、あの呑んだくれた時でさえ魂が高まるような感動を受けたのですが……」

「山上の酒場? そんな詩的な場所は小田原にありませんよ」

「そんな筈はない。それじゃあ小田原近郊でしょう。とにかく山上のその酒場で貴方あなたと酒を呑んだではありませんか」

「あれは普通の安カフェーの二階ですよ」

 私の放浪はそんなものだ。魂の放浪がひどいのである。かくまでも印象深い街の灯の風景が無残にくずれたとなると、私はもはや小田原の街について一語の印象を語る勇気も持ち合せない。

 去年は一夏信州の奈良原鉱泉というところにいた。寂寥せきりょうえきれなくなって酔い痴れ、山を降って上田市や丸子、大屋、田中村なぞの宿場の旅籠はたごに泊ったりしたが、覚えているのは目の覚めた部屋にあった掛物ばかりで「常に悔ゆる者はよし」なぞという有名なクリスチャンの書いたものがそんな場所にあったりして奇異の感をいだいたことを忘れない。酔余すいよ素敵な女に会った。忘れかね山を降りて会いに行ったら印象とまるで違った女の様子に這々ほうほうの態で逃げ出したことがあった。


(二)


 八ヶ岳の中腹に本沢という温泉がある。海抜二一〇〇メートルぐらいの地点にあるらしい。大正十二年に出版された某登山家の著書によると、この温泉は春ひらいて秋とざす。一冬八十円の報酬で留守番を置き残し一同下山するが、春に訪れてみると大概番人は死んでいる。首をくくるもあり半身焼けただれているもあり明らかに殺されている者もあると言うのであった。然し八十円の報酬に目がくらんで、番人をのぞむ者は絶えた例がないと言う。いまだにそうか私は知らない。

 例の日本一という高原鉄道小海線こうみせんが去年十一月開通した。八ヶ岳のふもと千米ほどの高原を通るのである。私はこれに乗り、もし閉じられていないなら季節の終りの本沢温泉を訪ねてみようと思った。八十円に目のくらんだ番人がいたら茶飲み話をしながら素朴な心境を探りたいとも考えていた。去年の十一月の終りのことだ。

 出掛ける途中寄り道をした。中学からの友達で哲学をやっていた男が発狂し郊外の某精神病院に這入はいっている。少年時代から周期的に錯乱が起る男で、もう退院しても仕方がないというところから一生病院にいる決心をきめているが、肺病で余命いくばくもないから一目会いたいという手紙をよこした。私は会いに行ったのだ。

 会ってみると肺もそれほど悪くはない。そう言わないと私が会いに来てくれないと考えて書いたのだと言っていたが、寂寥に悩んでいるのである。狂人といっても発作の起らない限りはほとんど常人と変りがない。それどころか見えすいたお世辞を使ったり色々俗世間的な手管てくだをかなり無反省に使駆する。私のような自意識過剰に悩む男は狂人よりも意識の表出を制限され内攻し偏執するとしか考えられない。彼の俗世間的な様々な手管が見えすいて、私はひどく腹が立ってきたのである。

 友人のW君が目下神経衰弱で帝大病院へ通っているが、療法をきいて面白いと思った。医者は薬を与えない。毎日日記を書かせそれを提出させる。日記に批判を与えるかかりがいて、ここの追求が足りないとか、ここは正しいとか朱を入れて返すのである。要するに潜在意識をさらけ出さしめ、それを隠すことによって精神を疲労せしめた原因を除去するのではあるまいかと私は愚考したわけだが、自分をさらけだし追求し反省するのは小説家の本道で、その意味では小説家は神経衰弱を通りこして一種の告白不感症にかれていると言ってよかろう。W君の場合にしろ要するに完全な私小説を書ききれば医者も文句が言えないわけで、嘉村礒多かむらいそたの小説でも帝大病院へ持って行ったら医者も辟易へきえきして朱筆を投げると思うのである。告白型という点で近代作家は狂人のるいしている。

 私は狂人の俗人ぶりに腹を立て本が読みたいと言うので所持した数冊を置き残して病院を立ち去ったが、途中池袋でにぎやかな街へ降りてみると寂寥から酒が飲まずにいられなくなった。私は見知らない小料理屋でやけに酒をあおったものだ。酔うほどに初冬の山中の温泉へ暗い人心を探して行くという重さがたまらなくなってきた。明るい南方へ行こう! 私は急に立ち上った。

 飲んだくれた私は霊岸島を十時にでた大島通いの橘丸にふらふらとまぎれこんだ自分を見出していたのである。静かな航海であったのに、私一人が吐きくだして苦しんでいた。朝の四時大島着。冬の海風がめたかろうと出てみると触る風の和やかさ! 南へ来てよかったな、旅で充実を感じたまれな経験だった。


(三)


 私のは精神上の放浪から由来する地理上の彷徨だから場所はどこでもいいのだ。東京の中でもいい。時々一思いに飛び去りたくなる。突然見知らない土地にいたくなる。土地が欲しいのではなく、見つめつづけてきた自分が急に見たくないのだ。だから私の放浪は土地ではなく酒でもいいのだ。それが可能な国にいたら阿片あへん吸飲者になっていたかも知れないと思う。私の生活はむしろ甚だストイックだが、この魂の放浪に対してはおよそだらしなく自制心がないようである。だから旅では非常に軽卒な恋愛をする。

 一夜の遊女にたわむれるなぞというのではなく、軽率な感傷に豪毅ごうきな精神を忘れたあげく、いっそあの女とこの土地に土着してしまったら痴呆ちほうのように安楽であろうと考えるのだ。言うまでもなく私自身がこういう自分を軽蔑している。然し旅には旅愁りょしゅうという素朴な魔物がいるのだ。私の旅愁やら理知を逃げる傷心やらが旅先の女に投影されているのだから、女が救いにも見える愚かな一時があるのも莫迦ばからしいと言いながら時々仕方がない時もある。

 なんの用もないのに突然ふらりと故郷の新潟市へ行った。私の生家はもうないのである。食堂車で二合びんを十六本平げた時で、新潟へ着いてからどういう順でこんな宿屋へ来てしまったのだろうといくら考えても分らなかった。翌日幼馴染おさななじみの婦人に会った。私と同年配だから女としてはもう年増としまだ。一緒に食事をし、ダンスホールへ案内されたが私は踊りを知らない。ソファに埋もれてぼんやりしていると、女も踊ろうとはしないで矢張りソファに埋もれてボンヤリしている。東京のダンスホールと違い、田舎いなかのダンスホールは設備こそ匹敵するが踊る人は数える程しかいないからちっとも陽気じゃない。朦朧もうろうと疲労して外へでると、暫く沈黙をつづけて歩いたのち、急に女が私は自殺のことばかり考えて生きつづけていると言いだした。だけど一人じゃ死にたくないと言ったのである。自殺は好きじゃないと私は答えた。そしてその日はそれだけで別れた。

 私は聖母の理想というものと自殺とは同じものの裏と表だと考えている。そしてどちらも好きになれない。そのくせこの旅先ではこの一夜から急に自殺──心中しんじゅうのことを偏執しはじめた。そしてそれが自然に見えた。

 翌日もその翌日も、それからの十日程というものは毎日女に会っていたが、今日こそ心中のことを切りだして一思いに死んでやろうという考えで会うのだが、この重圧ある意識に疲れてそんなことをおくびにも出さないばかりか異様に疲れてしまった。到頭こんどは故郷を逃げて一目散に東京へ帰ってきた。

 帰る汽車の中で、もう新潟の自分の心が夢のようにしか思いだせなかった。私は汽車の中で考えつづけた。だいたいダンスホールへ這入っていながら踊らないなんてことがこういう阿呆あほうな感傷に落込むもとなんだ。ダンスホールのソファに埋もれ、踊りもしないでボンヤリしているなんてことは、まったく古典的な精神的風景美があるからな。この風景美は大いに排撃すべきだ。よろしい、ダンスを習おう。ダンスホールへ這入った時はダンスをするようにさえすれば、こういう愚劣な哀愁にまどわされる筈はありえない、と。

 私は東京へ帰るとほんとにダンスを習いはじめた。ただし三日間。四日目にはうんざりしていた。レエゾン・ド・ビイヴルということを考えるとやりきれない。私がドストエフスキイを愛するのは彼の作中人物がみんな自分の生命力を感じたいためにあせりぬいている、それが甚だなつかしいのも一因である。

底本:「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」岩波書店、岩波文庫

   2008(平成20)年1114日第1刷発行

   2013(平成25)年125日第3刷発行

底本の親本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房

   1999(平成11)年420日初版第1刷発行

初出:「都新聞」

   1936(昭和11)年317日~19

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana ohbe

校正:酒井裕二

2015年524日作成

青空文庫作成ファイル:

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