オモチャ箱
坂口安吾
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およそ芸ごとには、その芸に生きる以外に手のない人間というものがあるものだ。碁将棋などは十四、五で初段になる、特別天分を要するものだから、その道では天来の才能に恵まれているが、外のことをやらせると国民学校の子供よりも役に立たない、まるで白痴のような人があったりする。然しこういう特殊な畸形児はせいぜい四、五段ぐらいでとまるようで、名人上手となるほどの人は他の道についても凡庸ならぬ一家の識見があるようである。
文学の場合にも、時にこういう作家が現れる。一般世間では芸ごとの世界に迷信的な偏見があって、芸人芸術家はみんなそれぞれ一種の気違いだというように考えたがるものであるが、それは仕事の性質として時間正しく規則的という風には行かないけれども、仕事の性質が不規則だ、夜仕事して昼間ねている、それだから気違いだという筈もない。
元々芸、芸術というものは日常茶飯の平常心ではできないもので、私は先日将棋の名人戦、その最終戦を見物したが、そのとき塚田八段が第一手に十四分考えた。それで観戦の土居八段に、第一手ぐらい前夜案をねってくるわけに行かないのかと尋ねたところが、前夜考えてきても盤面へ対坐すると又気持が変る、封じ手などというものは大概指手が限られていて想像がつくから、この手ならこう、あの手ならこう、とちゃんと案をねってきても、盤面へ向ってみると又考えが変って別の手をさす、そういうものだと言う。
これは僕らの仕事でも同じことだ。こういう筋を書こう、この人物にこういう行動をさせよう、そう考えていても、原稿紙に向うと気持が変る。
気持が変るというのは、つまり前夜考える、前夜の考えというのが実は我々の平常心によって考案されておるのだが、原稿に向うと、平常心の低さでは我慢ができない。全的に没入する、そういう境地が要求される、創作活動というものはそういうもので、予定のプラン通りに行くものなら、これは創作活動ではなくて細工物の製造で、よくできた細工はつくれても芸術という創造は行われない。芸術の創造は常にプランをはみだすところから始まる。予定のプランというものはその作家の既成の個性に属し、既成の力量に属しているのだが、芸術は常に自我の創造発見で、既成のプランをはみだし予測し得ざりしものの創造発見に至らなければ自ら充たしあたわぬ性質のものだ。
だから事務家が規則的に事務をとる、そういうぐあいにはどうしても行かない。そこで仕事の性質として生活が不規則になるけれども、これは仕事の性質によるもので、その人間がそういう性質だというわけではない。豚は本来非常に清潔を好む動物だそうだ。日本人は豚を特別汚く飼い、なんでも汚い物をみんな豚小屋へ始末して豚小屋とハキダメは同じ物だと心得ているが、さにあらず豚は本来潔癖で、豚小屋を綺麗にするとその清潔を汚さぬために日頃注意を怠らぬ心得のあるのが豚だそうで、つまり文士というものは日本の豚のようなものだ。仕事の性質でやむなく不規則雑然としておるけれども、本来は意外にキチョウメン、然し、どうも、まア、よそうや。
文学は人間を書く仕事だから一応人間通でなければならぬ。碁将棋はその道の天分以外は白痴的という専門家が有り得るけれども、白痴的な人間通、そんな作家はいなかろう。然し稀にはある。白痴的という表現は当らないかも知れぬが、要するに、作家以外の仕事をやると半人前しかやれない、外につぶしがきかないという人がある。私なども人々からそう思われがちだがこれは間違いで、一般にあの小説家あの詩人はてんで実務に向かないなどと同業者にまで思われ易い人物も案外そうではないもので、詩人などには変に非現実的な詩をものしたり厭世的な詩を書いたりしているくせに、御当人の性癖は事務家よりも現実的な人が多いものだ。文学そのものが人間的なものなのだから、根はそうあるべきもので、文人墨客という言葉は近代文学の文人には有り得ず、世俗の人々よりもむしろ根は世俗的現実的なものだ。
三枝庄吉は近代日本文学の異色作家、彼の小説の広告のきまり文句で、然し彼は私の知る限りに於ては、小説を書く以外にはつぶしのきかない日本唯一の作家であった。
彼の小説はいわば一種の詩で、彼の作品活動をうごかす根は詩魂であるから、苦吟、貧窮、流浪、ほかにお金もうけの才覚もできない無能者であるからと云って、然し彼が人間通ではないと思うと当らない。人間に対する彼の洞察は深く又的確であり、したがって、夢幻の如くに生きながら、世間一般の人々以上に即物的な現実性を持っていた。彼は浪費家であるけれども、根は吝嗇で、つまりキンケン力行の世人よりもお金を惜しみ物を惜しむ人間の執念を恵まれているのだが、守銭奴の執念をもちながら浪費家だ。近代文士が即物的な現実家だというのは、人間通であるから、人間に通じているとは自分に通じることでもあり、人間の執念妄執を「知る」ということは、つまり自分が「もつ」ということだ。だから人間というものが複雑なもので執着ミレンなものであるなら、近代文士はみんな複雑であり執着ミレンなもので、同時に然し彼は浪費家であり夢遊歩行家の如く夢幻の人生を営んでいた。
だいたい我々貧乏な文士ぐらい、たまに懐にお金をもつと慌ててお金を払いたがるものはない。文士が三人も集ってお酒をのんで、それぞれ懐にお金があるときには、お勘定、となると最も貧乏なのがムキになって真ッ先に払いたがる。私などがしょっちゅうそうで、マアマア今日はどうあってもオレにたのむ、などと凄い意気込みで、そのくせツケがきて懐中を調べてみるとお金が足りない。ウロウロ悄然としてまだどこかにお金でもあるが如くに懐をかきまわす時に至って、かねてお金持の文士の方がチッとも騒がずオモムロに懐中からズッシリふくらんだ財布をとりだすということになる。三枝庄吉も亦、真ッ先に慌てふためいて蟇口をとりだす組で、然しこの組の連中ほど貧のつらさ、お金の有難さを骨身にしみて知る者はない。そのくせこの連中の蟇口の中のお金にはみんなそれぞれ脚が生えて我先にとびだし駈け去るシクミだから、まことに天下はままならぬ。朝の来たるごとに後悔に及び、米もなければ大根のシッポもない、今日は何をたべるの、と女房に言われて、汝女房こそ呪いの悪魔である如くギラギラ光る目でジロリと見て、フトンをかぶったり、腕組みをしてソッポを向いたりしている。
庄吉は転々と引越した。長くて半年、時には三月、酒屋、米屋、家賃に窮するからで、彼はシルシ半纏がいちばん怖しいのは、東京の四方八方に転々彼を走らせるいくらでもない借金が、そこのオヤジも小僧もたいがいシルシ半纏をきているからだ。おまけに自転車にのっている。風をきって彼めがけて躍りかかる如く見えるから自転車のシルシ半纏が恐怖のたねで、そこで彼は自動車にのって目的地へ走る、運転手に睨まれ、もじもじ恥にふるえながら目的地のアルジに車代を払って貰う、人生至るところただもう卑屈ならざるを得ない。おまけに金がかかる。お金持は自動車にのる必要などはないものだ。
彼の女房は彼の貧乏にあつらえ向きであった。貧乏を友として遊ぶていで、決して本心貧乏を好むわけではないけれども、自然にそうなった。それは庄吉の小説のためだ。
彼の小説の主人公はいつも彼自身である。彼は自分の生活をかく。然し現実の彼の生活ではなくて、こうなって欲しい、こうなら良かろうという小説を書く。けれども、お金持になって欲しい、などと夢にも有り得ぬそらごとを書くわけには行くものではなく、作家はそれぞれ我が人生に対しては最も的確な予言者なのだから、彼が貧乏でなくなるなどとは自ら許しあたわぬ空想で、芸術はかかる空想を許さない。彼の作中に於て彼は常に貧乏だ。転々引越し、夜逃げに及び、居候に及び、鬼涙村(キナダムラ)だの風祭村などというところで、造り酒屋の酒倉へ忍びこんで夜陰の酒宴に成功したりしなかったり、借金とりと交驩したり、悪虐無道の因業オヤジと一戦に及び、一泡ふかしたりふかされたり、そして彼の女房は常に嬉々として陣頭に立ち、能なしロクでなしの宿六をこづき廻したりするけれども、口笛ふいて林野をヒラヒラ、小川にくしけずり、流れに足をひたして俗念なきていである。
そういう素質の片鱗があることによって、庄吉がそう書き、そう書かれることによって女房が自然にそうなり、自然にそうなるから、益々そう書く。書く方には限度がないが、現実の人間には限度があるから、そんなに書いたってもうだめという一線に至って悲劇が起る。
思うに彼の作品も限度に達した。こうなって欲しいという願望の作風が頂点に達し或いは底をつき、現実とのギャップを支えることができなくなったから、彼には芸術上の転機が必要となり、自らカラを突き破り、その作品の基底に於て現実と同じ地盤に立ち戻り立ち直ることが必要となった。然しそれが難なく行い得るものならば芸術家に悲劇というものはないのである。
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庄吉の作品では一升ビンなど現れず概ね四斗樽が現れて酒宴に及んでいるから文壇随一のノンダクレの如く通っていたが、彼は類例なく酒に弱い男であった。
元々彼はヒヨワな体質だから豪快な酒量など有る由もないが、その上、彼は酒まで神経に左右され、相手の方が先に酔うと、もう圧迫されてどうしても酔えなくなり、すぐ吐き下してしまう。気質的に苦手な人物が相手ではもう酔えなくて吐き下し、五度飲むうち四度は酔えず吐き下している有様だけれども、因果なことに、酒に酔わぬと人と話ができないという小心者、心は常に人を待ちその訪れに飢えていても、結んだ心をほぐして語るには酒の力をかりなければどうにもならぬ陰鬱症におちこんでいた。だから客人来たる、それとばかりに酒屋へ女房を駈けつけさせる、朝の来客でも酒、深夜でも酒、どの酒屋も借金だらけ、遠路を遠しとせず駈け廻り、医者の門を叩く如くに酒屋の大戸を叩いて廻り、だから四隣の酒屋にふられてしまうと、新天地めざして夜逃げ、彼の人生の輸血路だから仕方がない。
彼は貴公子であった。彼の魂は貧窮の中であくまで高雅であったからだ。
彼は近代作家の地べたに密着した鬼の目と、日本伝統の文人気質を同時にもち、小説なんかたかが商品だと知りながら、芸術を俗に超えた高雅異質のもの、特定人の特権的なものと思っており、矜恃をもっていたから、そしてその誇りを一途の心棒に生きていたから、貧窮の中でも魂は高雅であったが、又そのために彼の作品は文人的なオモチャとなり、その基底に於ても彼の現身と遊離する傾向を大きくした。
つまり彼自身が貧窮に生きつつ高雅なることを最も意識するから、彼は強いて不当に鬼の目を殺して文人趣味に堕し盲い、彼のオモチャは特定人のオモチャ、彼一人のオモチャ、かたくなな細工物の性質を帯び、芸術本来の全人間的な生命がだんだん弱く薄くなりつつあった。年齢も四十となり貧窮も甚しくなるにつれて、彼の作品は益々「ポーズ的に」高雅なものとなりつつあり、やがてポーズのためにガンジがらめの危殆に瀕しつつあった。
鬼の目を殺すから不自然だ。彼の作品は幻想的であるが、鬼の目も亦鬼の目の幻想があるべきものを、そして彼本来の芸術はそうでなければならないものを、特に鬼の目を殺して文人趣味的な幻想に偏執する。だから彼の作品はマスターベーシヨンであるにすぎず、真実彼を救うもの高めるものではなくなっていた。
彼の下宿の借金のカタに彼の最も貴重な財産たる一つのミカン箱をおいてきた。このミカン箱には彼の一生の作品がつめこんである。彼は流行しない作家だから単行本は二冊ぐらいしか出しておらず、だから新聞雑誌の彼の作品をきりぬいてつめたミカン箱は彼の大切な爪の跡だ。あれがなくなるとオレがなくなるのだとオロオロし、すっかり陰鬱にふさぎこんでいるのに同情した後輩の栗栖按吉というカケダシの三文文士が借金を払ってミカン箱をもってくると、庄吉は大よろこび、その日からこのミカン箱を枕もとに置いて深夜に目ざめてはミカン箱をかきまわして旧作を耽読し、朝々の目ざめには朗々と朗読する、酔っ払えば女房を膝下にまねいて身振り面白く又もや朗読、自分の最大の愛読者は作者自身、次には女房、元々彼女は大愛読者で、女学生のとき庄吉先生を訪問したファンであり、それより恋愛、結婚、だから愛読の歴史はふるい。そのときから彼女自身切っても切れない作中人物の一人となったが、作中の自分がいかにも気に入るから、そうなりましょうと現実の自分が作品に似てくる。芸術が自然を模倣し、自然が芸術を模倣する。それというのも、作品に彼女を納得させる現実性があったからで、どれほど幻想的でも、作品の根柢には現実性が必要で、現実に根をはり、そこから枝さしのべ花さくものが虚構である。
ところが宿六の近作はだんだん女房を納得させなくなってきた。つまり作家の根柢からして現実とはなれてきたのだ。
彼は女房を愛していたが、然し、浮気の虫はある。これもやっぱり女学生のころ彼を訪ねたことのあるファンの一人がバアの女給となった。新東京風景というのを何十人かの文士が書いてその日本橋を受けもった庄吉が偶然その探訪に於て彼女とめぐりあい、それより酔うとここへ通ってセッセと口説く。然し彼女は昔の彼女ならず、お金持の紳士となら三日でも一週間でも泊りに行くが、庄吉ときてはとてもバアでは飲む金がなくて、後輩お弟子とオデン屋でのむ、後輩お弟子にまだいくらか所持金のあるのを見とどけると、あそこへ連れて行け、者共きたれ、といでたつ。同輩先輩をつれて行かないのは女の前で威張れないからで、そこで後輩をひきつれて大いに威張るけれども、お金がなくて威張り屋というのは娼婦の世界で最も軽蔑されるもので、女学生時代のファンなどと庄吉はまだそこにつけこむ魂胆だが、先方ではもう忘れているツナガリにつけこまれるウルササに益々不愉快になっている。けれども庄吉は酔っ払うと必ずここへ乗りつけて、前後不覚に口説き、追いだされ、借金サイソクの書状やコックが露骨にくる。それでも酔うと又でかけ再三再四きりがない。もちろん成功の見込み微塵もない。
そこまではまだ良かったが、近所にすむ同郷のお弟子にちょっと色ッぽい妹があって彼の世話で雑誌社の事務員になった。それ以来酔っ払うとこのお弟子の家をたたいて酒を所望し、泊りこみ、その横に母なる人がねていても委細かまわず妹のフトンへ這いこむ。追いだされる、不撓不屈、ついに疲れて自然にノビてしまうまで、くりかえす。これも成功の見込みはない。
次にはさる新進の女流作家を訪問する。この女流作家の作品をほめて書いたことからの縁で、この人は流行作家のオメカケさんだが、酔っ払うと、ここへ押しかける。酔っ払うと必ず誰か女のもとへ通うのは彼の如何ともなしがたい宿命的な夢遊歩行となりつつあった。
遠征の夢遊歩行はまだよかったが、女房の妹に女学生、まだ四年生、然し大柄で大人になりかけた体格だが、女房とは比較にならぬ美少女で色ッぽい。この女学生が泊った晩、あいにく夏で、カヤが一つしかないからみんなで一つカヤにねたが、この晩庄吉は泥酔したのが失敗のもとで、夢遊歩行に倅の寝床を乗りこえ女房のバリケードをのりこえて女学生めがけて進撃に及ぶ。女房に襟くび掴んで引き戻されても不撓不屈、道風の蛙、三時間余、もっとも成功に至らず、夜の白む頃に及んでようやく自然の疲労にノビて終末をつげたが、然し、まだここまではよろしかった。
浮気は本来万人のもの、酔ったからだと言ってはならぬ、浮気心のあるがままを冷然見つめる目があってその目が作品の根柢になければならぬものを、彼はその目を持ちながら、かかる目自体を俗なるものとする。自分と女房を主人公に夢物語をデッチあげるが、この目の裏づけがないから、夢物語に真実の生命、血も肉もない。もう女房は宿六の作品に納得されなくなっている。
浮気は万人の心であり、浮気心はあっても、そして酔って這いこんでも、彼はたしかにその魂の高雅な気品尋常ならぬ人であった。あるがままの本性は見ぬふりして、ことさらに綺麗ごとで夢物語を仕上げ、実人生を卑俗なるものとして作中人物にわがまことの人格を創りだすつもりなのだが、わが本性の着実な裏づけなしに血肉こもる人格の創作しうる由もない。彼は高風気品ある人だから、妹の寝床を襲撃に及んでも女房は宿六の犯しがたい品位になお評価を失ったわけではないのに、作中人物に納得させる現実の根柢裏づけが欠け、一人よがりいい気にオモチャ箱をひっくりかえしオモチャの人格をのさばらせるから、むしろそこからヒビがはいった。宿六の愛読者ではなくなったから、作中人物を疑り蔑むことによって、現実の宿六をも蔑み、その犯しがたい品位まで嘘っパチいい加減のまやかし物だというように見る目が曲ってしまったのである。
庄吉はもう四十になった。彼は女房を信じ愛しまかせきっていた。気の毒な彼はその作品の根柢が現実の根から遊離し冷厳なる鬼の目を封じ去り締めだすことに馴れるにつれて、彼は然しあべこべに彼の現実の表面だけを彼の夢幻の作品に似せて行き、夢と現実が分かち難くなってきた。
彼は雑誌社で稿料を貰う。借金とりにせめられ、子供の月謝や弁当代に事欠き、女房は彼の帰宅を待ちわびている。その借金や子供の学費が気にかかることに於て彼は決して女房以下ではないのだけれども、友だちに会う、懐中の原稿料は無事女房に渡してやりたいけれども、先刻も話した通りこのお金には脚があって慌てて走って行きたがっているのだから、せつない。まア一杯だけと思う、よく酔える、二杯、三杯、十杯、さア、景気よく騒ごう、あれも呼べ、これも呼べ、八方に電話をかける、後輩どもをよびあつめ、大威張り、陸上競技の投げ槍などを買いもとめてバルヂンという彼の作中人物の愛吟を高らかに誦しつつアテナイの市民、アテナイの選手を気どって我が家に帰る。もはや一文の金も懐中にはない。女房はくるりとふりむき別室へ駈け去って泣く、泣きながら翌朝のオミオツケのタマネギをきり又なく。宿六がこれ女房よと呼びかけても返事をしない。
この悲痛をもとより彼は見逃がしていない。彼はむしろ女房よりも貧苦がせつなく、借金が悲しく、子供の学費が心にかかっているのだ。けれども彼の作品が根柢的にその現実と絶縁に成功すると同様に、彼の現実に於ても、その絶縁に成功しなければ彼はもう身の置き場もない。彼は借金とりをラ・マンチャの紳士の水車の化け物に見たてて戦い、女房の妹を口説いてもトボソのダルシニヤ姫になぞらえる。孤高の文学だの、遊吟詩人の異色文学だの、彼の作品の広告のきまり文句を全然信じていないくせに、俺はそういうものだと胸をそらして思いこむことに成功する。
根柢に現実の根とまったく遊離した作品世界に遊びながら、その偽瞞に気づかぬどころか、現実のうわべだけを作中世界に似せ合わせることに成功することによって、彼は益々自作の熱愛読者となり、自作に酔っぱらい、わが現身の卑小俗悪を軽蔑黙殺することに成功した。彼はもうイヤでも自分の作品に酔っぱらわなければ、この現身の息苦しさに堪え生きていられないのだ。
同業者や批評家はいまだに孤高の文学、異色の文学、きまり文句でお座なりの五、六行文芸時評の片すみへこれも稼ぎのためだからと筆まめにいい加減あてずっぽうに書いてくれるのが時々いたりするけれども、もう女房だけは騙すことができない。作品と現実との根柢的のバラバラ事件をこれは頭脳が読むのでなしに骨身に徹して、骨身によって、判定しているのだ。
そこへもう女房の我慢のならないことができた。
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彼等は疑雨荘というちょっと小綺麗なアパートに住むことになった。このアパートのマダムはオメカケで、お小遣いかせぎに旦那にせがんでアパートをこしらえて貰ったのだが、内々は浮気のためで、旦那は晩酌が一升ずつという酒豪で不能者だから、芸者育ちのマダムは小さな環境にあきたらない、まことに多淫な女で、アパートの誰彼とたくみに遊びたわむれている。
旦那がきて晩酌がはじまると、今日はあの方をおよびしましょうというわけで、庄吉も招かれる。マダムは二十七、八の美人で芸者あがりだから世帯じみたところがなく、濃厚な色気そのもの、豊艶で色ッぽい。三枝先生と言ってチヤホヤもてなしてくれるから庄吉は有頂天になって、それからというもの酔余の女人夢遊訪問はアパートのマダムの部屋となった。酔っ払うと大はしゃぎで、ふだんは蚊のなくような細い声しかでないくせに、こんなチッポケな痩身のどこからでると思うような破れ鐘の声で応援団のように熱狂乱舞して合いの手に胴間声にメッキのようなツヤをかぶせて御婦人を讃美礼讃したり口説いたりする。小さなアパートにこれが筒ぬけに響くから、
「アラ先生、奥様にきこえてよ」
などと言うが、これが又わざときこえよがしの声でナガシメを送るのだから、庄吉は益々有頂天で、
「僕は女房はきれえなんだ。年ガラ年中筍の皮をむいたり玉ネギをコマ切れにして泣いたり、朝から晩までいつだってそうなんだから毎日何百本も筍を食ってるわけじゃアないんだから、アイツは一本の筍を五時間もむく妖術使いなんだなア。その妖術のほかに人生の心得は何一つないんだから」
これがきこえてくるからカンベンができない。日本の女房は概ね女中兼業で、兼業の方に主力が置かれている状況であるが、当人が好んで兼業に精をだしているわけではなくて、亭主が無力で女房と亭主友だちづきあいというわけに行かないシクミだから涙をのんで筍の皮をむいている。しかるに何ぞや。自分の無力無能をタナにあげて、女房は世帯じみて筍の妖術使いだと言う。どこの宿六でも自分の無力無能のせいで女房をヤリクリ妖術使いにしておきながら、ヤリクリなしの遊び女にひそかにアコガレをよせているいずれも不届きの曲者ぞろいで、さてこそ女房がこぞって遊女芸者オメカケを敵性国家と見なすのは重々左もあるべきところである。見えも聴えもしなければ我慢のしどころもあるけれども、目に見え耳に聴えては痛憤やるかたないのは御尤も、それでも胸をさすっていると、一緒に芝居見物に行って酔っ払っておそろいで賑々しく帰ってきて女房の部屋へは顔もださず、マダムの部屋で馬鹿笑いをしながら飲ませて貰っている。〆切に追いまくられ女房が鍋の音をガチャリとさせてもギラギラした目を三角にしてジロリと睨むくせに、マダムが先生チョットと呼びにくると困りきった顔半分相好くずしていそいそと出たまま夜更けまで帰らずベロベロになって戻って小説は間に合わず、貧窮身にせまる。
然し宿六の心事は複雑奇怪で、彼は決して女にもててはいなかった。彼はていよくマダムにあやつられ、それというのが、彼がその道にまったく稚拙で単なるダダッ子にすぎないのだから旦那の信用を博している、そこでマダムは彼をつれだし、ついでに男をつれだして、彼を気持よく酔わせておいて、アラ、チョット先生忘れた用があるからとか、買物をしてくるから、とか、人に会ってくるとか呼んでくるとかぬけだして、彼にはオデン屋の安酒をあてがって二時間ほど遊んでくる。しょっちゅう男が変っているが事情に全然変化のないのは庄吉で、ちかごろでは卑屈になって、アラ、そう、忘れた、先生、と二人の男女が立ち上ると、皆まできかずエヘヘ行ってらっしゃいなどと、あさましい。そのあさましさは骨身に徹して彼には分るが、浮気女の豊艶な魔力におさえられて一言二言うまいことを言われるとグニャグニャ相好をくずすだけが能だという、思えばかえすがえすもあさましい限りであった。こんなことは女房に言えた義理ではないから、いかにも彼が大もてで、マダム意中の人の如くに威張りかえっているけれども、女房よゆるせ、そぞろ悲しく、ここが芸術の有難さだと、わが本性に根の一つもない夢幻の物語に浮身をやつし、作中人物になりすまし、朗吟の果には涙をながして自分一人感動している。女房にこれぐらい馬鹿馬鹿しく見えるものはない。彼女は亭主の小説などもはや三文の値もつけられない。ロクデナシメ、覚えていやがれ、と失踪してしまった。
然し彼が柄にもなくマダムに熱をあげるのは恋路のせい浮気のせいでなく、むしろ文学に行きづまったためだ。なぜと云って、彼は全然女にもてておらず、女の浮気のダシに使われ、なめられ、ふみつけられ、そのあさましさを知りぬいて、見えすいた甘い言葉に相好くずして悦に入る、バカげたこと、悲しいばかり面白おかしくもないのだけれども、芸術に自信を失っては、芸術家はもう人生まっくらだ。面白おかしくもないこと、やりたくもないことに結構フラフラ打ちこむとはこれ即ちデカダンで、自信喪失というものの宿命的な成行きなのである。
数日失踪したまま女房が帰らない。気もテンドウせんばかり苦痛だけれども、マダムが冷然と、アラ奥さん浮気? お見それしたわね、先生もだらしがない方ね、あんな奥さんにミレンがあるのかしら、と毒の針をふくんだような言葉を浴せる、底意は侮蔑しきっているのが分っており目の色にも半分嘲笑がにじみでているのだけれども、先生も浮気なさらないの、などと冷やかされると、彼はもうヤケになって、
「奥さん、泊りに行こうよ。ね、いいだろう、行こうよ」
マダムは苦笑して
「先生、泊りに行くお金あるの?」
グサリと斬る。
庄吉は一刀両断、水もたまらず、首はとび甚だ意地の悪いもので地べたへ落ちてもぐりこんでしまえばいいのにフワリフワリと宙に浮いて壁につき当り唐紙にはじかれ柱の角で鼻をこすってシカメッ面を一ひねり五へん六ぺん旋回する。目をとじ耳をふさいで一目散に逃げ去りたいのに、その心をさておいて何物かネチネチ尻をまくる妖怪じみた奴がおり、
「僕ァ貧乏なんだ。貧乏は天下に隠れもない三枝さんだからな。僕ァ芸術家なんだ。僕はエレエんだ。痩せても枯れても貧乏は仕方がねえ」
何のことだか、わけが分らない。けれども腰がぬけ、すくんだ感じで逃げるに逃げられず、やぶれかぶれ意外千万なことを喚きたてる。
「そうね、死ななきゃ分らないわね」
マダムは入口の扉にもたれる。ちょうど廊下へ一人の男がタオルと石鹸もって出てくる、この男も例の男の一人で、
「え? 死ぬ?」
「死ななきゃ治らないと言うのよ」
「ああ、バの字ですか」
「そう」
マダムは頷き
「死ななきゃ分らない、か。梶さん、今晩、のみに連れてってくれない?」
男と肩を並べて行ってしまった。
数日すぎて女房は戻った。
何よりも仕事をしていないのが、せつないのだ。それがもとで、こういうことにもなる。ただ仕事あるのみ。だが、どうして仕事ができないのか。女も酒も、夢の夢、幻の幻、何物でもない。
そこで彼は後輩の栗栖按吉に手紙を書いて、当分女房子供と別居して創作に没頭したいから君の下宿に恰好な部屋はないか、至急返事まつ、あいにく部屋がなかったから、そのむね返事を送ると、もとより庄吉は一時その気になっただけ、女房と別れて一時も暮せる男ではない。按吉から返事がくると、ホッとして、
「オイ、部屋がないってさ。じゃア、仕方がねえや。ともかく、ここにア居たくないから、小田原へ行こうよ。これから新規まき直しだ」
「私は小田原はイヤよ。お母さんと一緒じゃ居られないわ」
「だって仕方がねえもの。原稿が書けなかったから外に当もねえから、ともかく小田原で創作三昧没頭して、傑作を書くんだ」
「どうして荷物を運ぶのよ」
「たのめば、ここで預ってくれるだろう」
「家賃は払ったの」
「原稿も書けなかったし、前借りがあるから、もう貸してくれねえだろう。小田原へ行きゃ、ともかく、この部屋でなきゃア、書けるんだ。書きさえすりゃア部屋代ぐらい」
「だって、今払わなきゃ、どうなるの。夜逃げなの。荷物があるわよ」
「だからよ。マダムのところへ頼みに行ってきてくれ。事情を言や分ってくれるんだ」
「あなた行ってらっしゃい」
「オレはいけねえや」
「だって親友じゃないの」
庄吉が暗然腕をくんで黙りこんでしまうと、さすがに自分も失踪から戻ったばかり、宿六の古傷もいたわってやりたい気持で、
「じゃア、行ってくるわ。部屋代ぐらい文句言われたって構やしないわよ。堂々と出て行きましょうよ」
「うん、荷物のことも、たのむ」
ところがマダムは話をきくと打って変って、好機嫌、二つ返事、折かえし挨拶にきて、
「おくにへ御かえりですってね。お名残おしいわ。御上京の折は忘れず寄ってちょうだい。銀座へんから電話で誘って下すっても、駈けつけるわ。真夜中に叩き起して下すってもよろしいわ。今日はお名残りの宴会やりましょう」
「でも、もう、汽車にのらなきゃいけないから」
「あら、小田原ぐらい、何時の汽車でもよろしいじゃないの。じゃア先生お料理はありませんけどお酒はありますから、ちょっと飲んでらして」
「暗くならないうちに着かなきゃいけないから」
「あら御自分のうちのくせに。ねえ奥様。そんなに邪険になさるなんて、ひどいわ。奥様、一時間ぐらい、よろしいでしょう。先生をおかりしてよ。奥様は荷物の整理やらなさるのでしょう。ほんとに先生たら、水くさい方ね」
庄吉はマダムの部屋へ招じられて、もてなしをうける。荷物の整理などもうできてるから残念無念の一時間、
「もう時間だわ、行きましょう」
「あら、今、料理がとどいたばかりよ、これからよ、ねえ、先生」
その言葉に目もくれず、もうマッカ、酔眼モーローたる宿六の腕をつかんで、
「さ、行きましょうよ」
「お前も一パイのめ」
「ほら、ごらんなさい。そんなになさると嫌われてよ。ヤボテンねえ、先生」
「ヤボテンだって、オセッカイよ。あなたは何よ、芸者あがりのオメカケじゃないの。私は女房よ」
変ったところで気焔をあげる。庄吉もまだ限度のわかる酔態で、都落ちの悲惨まだ胸につかえて残っているから、案外おとなしく立ちあがる。マダムがスッと立ちあがり庄吉のうしろへ廻って二重トンビをかけてやろうとすると、女房は物も言わず、ひったくり、小さな庄吉を抱きだすようにグイグイ押して廊下へでる。
「先生、御上京待っててよ。すぐ電話で知らせてね」
庄吉がふりむいて挨拶しようとすると、女房は首筋へ手をかけ捩じむけて出口へ向けて突きとばし、庄吉はヨロヨロヒョイヒョイ突かれ押されて往来へとびだし、天下晴れて振りむいたら、もうマダムの姿はなかった。
「チェッ、ざまみろ、いいきみだ」
女房はプンプン怒っているが、マダムはたぶん部屋の中で笑いころげているだろう。女房よりも、然し庄吉がもっとからかわれ侮辱され弄ばれ嘲笑されている、それが庄吉には腹にしみて分るのだ。然し、己れのほかの何人も呪うべきものはない。仕事、仕事、ただ仕事あるのみ、こうして庄吉は都を落ちた。
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小田原の生家には亡夫のあとを守って彼の母が孤独な生活をつづけている。まことに気丈な孤独生活で、長年小学校の訓導、男まさりの生活、そのうえ亡夫と一緒のころから孤独には馴れていた。なぜなら亡夫は外国航路の船長で、大部分は海で暮して、たまに帰ると家よりも青楼で深酌高唱、時にはまだ学生の庄吉をつれて出たまま倅まで青楼へ泊めてしまうていたらくで、亭主と顔を合せるたびに剣客が他流試合をするような長々の生活に馴れてきたのだ。
亡夫の遺産は年端もゆかぬ庄吉がみるみる使い果し家屋敷は借金のカタにとりたてられ、執達吏はくる、御当人は逃げだして文学少女とママゴトみたいな生活して、原稿は売れず、酒屋米屋家賃に追われて、逃げ廻り、居候、転々八方うろつき廻り、子供が病気だのと金をせびりにくる、彼女は長年の訓導生活で万金のヘソクリがあるからそれを見こんで庄吉が騙しにくるのだけれども、もう鐚一文やらないことにしている。下宿を追われ、どこかの居候もいにくくなると、小田原へ逃げのびてきて糊口をしのぎ、原稿をかいてどこかの部屋をかりる当がつくとサッサと飛びだすという習慣、恩愛の情など微塵もなく、ただもうヤッカイ千万な奴だと思っている。
然しそのとき庄吉には都落ちを慰めてくれる非常に大きな希望があった。それは東都の第一流の大新聞が連載小説を依頼してくれたからで、近頃では新聞の連載などではカストリもろくに飲めないけれども、そのころの新聞連載、それも彼の依頼を受けた第一流の新聞ともなれば、生活は一気に楽になる。
庄吉は孤高の文学だのストア派などと言われ当人もその気になっていたが、実際の心事はそうではなくて、何よりも金が欲しい。貧乏はつらいのだ。そのくせ武士は食わねど高楊子、金なんか何だい、ただ仕事さえすりゃいいんだ、静かな部屋、女房子供に患わされぬ閑居があれば忽ち傑作が出来あがるような妄想的な説を持している。
彼は然し実際は最も冷酷な鬼の目をもち、文学などはタカの知れたもの、芸術などというと何か妖怪じみた純粋の神秘神品の如くに言われるけれども、ゲーテがたまたまシェクスピアを読み感動してオレも一つマネをしてと慌てて書きだしたのが彼の代表的な傑作であったというぐあいのもの、古来傑作の多くはお金が欲しくてお金のために書きなぐって出来あがったものだ、バルザックは遊興費のために書き、チェホフは劇場主の無理な日限に渋面つくって取りかかり、ドストエフスキーは読者の好みに応じて人物の性格まで変え、あらゆる俗悪な取引に応じて、その俗悪な取引を天来のインスピレーションと化し自家薬籠の大活動の源と化す才能をめぐまれていたにすぎない。通俗雑誌の最も俗悪な注文に応じても、傑作は書きうるもの、そういうことを彼は内実は知っていた。
事実に於て文学はそういうものだ。自由というものは重荷なもので、お前の自由に存分の力作をたのむ、と言われると却って困却することが多い。本当に書きたいもの、書かずにいられぬものはそう幾つもあるものではないからだ。だから、通俗雑誌などから注文をつけられたり、こんなことを書いてくれと言われると、却ってそれをキッカケに独自な作家活動が起り易いもの、なぜなら、作家は自分一人であれこれ考えている時は自分の既成の限界に縛られそこから出にくいものであり、他から思いも寄らない糸口を与えられると、自分の既成の限界をはみだして予測し得ざる活動を起し新らたな自我を発見し加えることができ易いからだ。だから、誰からもうるさいことを言われず、家庭のキズナを離れ、思う存分に傑作を書きたいなどとは空疎な念仏にすぎず、傑作は鼻唄まじりでも喧噪の巷に於ても書きうるもの、閑静な部屋でジックリ腰でもすえればそれで傑作が書けるというような考えは悲惨な迷信だ。
同様に亦、名も金もいらない、ただ存分に、良心的な仕事を、などという精神主義も最も文学を誤るもので、作家が持てる才能を全的に発揮するには心の励みが必要で、名や金は要するに心の励みだ。心に励みがなければ、いかほど大才能に恵まれていても、それを全的に発揮することはできない。ドストエフスキーほどの大天才でも、いったん世間の黙殺にあうと二十年近く、まったく愚作の連続、いたずらに人を模倣し、右コ左ベン、全然自分の力量を現し得ない。落伍者ほどウヌボレの強いものはないが、ウヌボレと自信は違って、自信は人が与えてくれるもの、つまり人が自分の才能を認めてくれることによって当人が実際の自信を持ち得るもので、ドストエフスキーほどの大天才でも人々に才能を認められ名と金を与えられて、はじめて全才能を発揮しうる自信に恵まれることができた。
無名作家が未来の希望に燃えて精進没入するのと違って、庄吉の如くにいったん一応の文名を得ながら、いつまでたってもウダツがあがらず、書く物は概ね金にならず、雑誌社へ持ちこんでも返されてしまう。そういう生活がつづいては自信を失い、迷うばかりで、ウヌボレばかり先に立ち徒らに力みかえって精進潔斎、創作三昧、力めば力むほど空疎な駄文、自我から遊離した小手先だけ複雑な細工物ができあがるばかり、苦心のあげくにこしらえものの小説ばかりが生まれてくる。
庄吉は近代作家の鬼の目、即物性、現実的な眼識があるから、もとより這般の真相は感じもし、知ってもいた。そのくせ時代の通念がその自覚に信念を与えてくれず、自信がなくて、彼は徒らに趣味的な文人墨客的気質の方に偏執し、真実の自我、文学の真相を自信をもって知り得ない。
だから金が欲しくてたまらなくとも、通俗雑誌には書かないとか、雑文を書いちゃいけないとか、注文をつけてきたからイヤだとか、まことの思いとウラハラなことを言って、徒らに空虚に純粋ぶる。
東都第一流の大新聞から連載小説の依頼を受けて、燃え上るごとくに心が励んだけれども、子供の学校のこと、女房のこと、オフクロの顔を見てたんじゃ心が落付かないんだ、下らぬ文人気風の幻影的習性に身を入れて下らなく消耗し、ともかく小田原の待合の一室を借りて日本流行大作家御執筆の体裁だけととのえたが、この小説が新聞にのり金がはいるのが四、五ヶ月さきのこと、出来が悪くて掲載できないなどと云ったらこの待合の支払いを如何にせん、そんなことばかり考えて、実際の小説の方はただ徒らに苦吟、遅々として進まない。
せっかく燃えひらめいた心の励みも何の役にも立たなくなり、いったん心が閃いただけ、遅々として進まなくなり、わが才能を疑りだすと、始めに気負った高さだけ、落胆を深め、自信喪失の深度を深かめる。徒らに焦り、ただもう、もがきのたうつ如く心は迷路をさまよい曠野をうろつく。
元々彼の近作はその根柢に於て自我の本性、現実と遊離し苦吟の果の細工物となり、すでにリミットに達していた。このリミット、この殻を突き破り一挙にくずして自我本来の作品に立ち戻るにはキッカケが必要で、それには心の励みが何よりの条件になるものであるのに、天来の福音をむざむざ逃して、今では福音のために却って焦りを深め、落胆をひろげ、心を虚しくしてしまった。
待合の一室に無役に紙を睨んで、然しうわべは大新聞御連載の大作家、膝下に参ずる郷里の後輩共を引見して酒、酔っ払ってむやみに威張って、おい大金がはいるんだから心配するな、むかしの三枝さんと違うんだからな、酒はどうも胃にもたれていけねえ、ウイスキーはねえか、オールドパアがいいんだ、などと泥酔して家へ帰る。女房柳眉を逆立てて、
「どこをノタクッて飲んでくるのよ。お米やお魚を買うお金をどうしてくれるの。それを一々おッ母さんに泣きついて貰ってこなきゃアいけないの。おッ母さんから貰ってくるなら、あなたが貰ってきてちょうだい。さもなきゃ、私はもう小田原にはいないから」
「何言ってやあんだ。行くところがあったらどこへでも行きやがれッてんだ」
然し胸の底では彼の心は一筋の糸の如くに痩せるばかり、小説を如何にせん、もはや書きつづける自信もない、待合の支払い、連日の酒代を如何にせん、この機会にして書き得なければもはや文学的生命の見込みもない、この切なさを何処に向ってもらすべき。
酔いからさめれば、女房のくりごとも胸にくいこむ。いくらでもないお魚の代金まで母に泣きつく女房のせつなさ、もとより彼自身のせつなさなのだ。心配するな、金策してくる。そこで雑文を書き上京して雑誌社をまわり、三拝九拝ねばりぬいて何がしの金を手に入れる、友だちとお茶をのんで、なんしろ一枚のヒモノを買う金もないてんで女房の奴怒り心頭に発して、などと白昼は大いにケンソンしてお茶をなめているけれども、夕頃に近づくと、どうも飲まずに汽車にのるのはテレちゃうな、ちょっとだけ飲もう、そこでちょっと飲む、まアいいや、今の汽車は通勤の帰りの人でこんでるからなどと、終列車で深夜に帰る。泥酔して、よろめき、ころがり、泥にまみれて、無一文、おまけに襟のあたりに口紅がついている。
「この口紅は何よ」
「アハハハ。バレたか。アハハハ。それは疑雨荘のマダムに可愛がられちゃったんだ。アハハ」
本当は新橋の片隅の横丁のインチキバアで人喰人種の口のような女にかじりついて貰ったのだが、貧し貪すれば残るものは弱い者いじめの加虐癖ぐらいのもの、しすましたりと嬉しそうにダラシなく笑って、こう言う。女房は烈火の如く憤り、気も顛倒した。彼女は宿六とマダムの交際の真相については露いささかも知らないのだから、貧苦に追われて流浪十幾年、積年の怨み、重なる無礼、軽蔑、カンニンブクロの緒が切れた。
翌日早朝、手廻りのものを包みに人気のない小田原の街を蹴るが如くに停車場へ、上京して、宿六の弟子の大学生浮田信之を訪ねてワッと泣いた。
この大学生はこの前の失踪中もちょっと泣きに行って色々といたわられ、失踪からの帰りには一緒についてきてくれて宿六にあやまってくれたのである。ところがまだ大学生のことだから、一番ありふれた俗世の実相がわからない。夫婦喧嘩は犬も食わないと云って、昔から当事者以外は引込んでいるべき性質のものだが、彼はすっかり女房の言うことをマに受けて、失踪帰りの女房について送ってきたとき、先生、変な女にひっかかるの言語道断などと一人前に口上をのべて先生を怒らせてしまったものだ。
そこで鬱憤もあるところへ、再び女房がワッと泣きこんできたから、大いに同情し、行くところがないから泊めて、と言うが、脛カジリの大学生では両親の手前も女は泊められない、そんなら一緒に旅館へ泊りに行きましょうと、元々その気があってのことで、手に手をとって失踪してしまった。
一週間すぎても帰らない。庄吉もまったく狼狽して実家へ問い合せたがそこにも居らず、探してみると浮田信之と失踪していることが分った。浮田の父親は仰天して庄吉の前に平伏し、倅めを見つけ次第刀にかけても成敗してお詫び致します、マアマア、そんな手荒なことはなさってはいけません、と彼もその時は大人らしく応待したが、さてその日から、彼は一時に懊悩狂乱、神経衰弱となり、にわかに顔までゲッソリやつれ、癈人の如くに病み衰えてしまった。
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庄吉は後輩の栗栖按吉に当てて手紙の筆を走らせた。こういう時に思いだすのは、この憎むべき奴一人なのである。疑雨荘で女房が失踪したあとでも、女房子供と別居して彼の下宿へ一室をかりて共に勉強しようかと思いつき、その一室がなくて小田原へ落ちのびたが、落ちのびる前日風の如くに訪ねてきて、荷物を片づけてくれたのもあの憎むべき奴であった。
そこで庄吉は按吉に当てて、この手紙見次第小田原へ駈けつけてくれ、君の顔を見ること以外に外の何も考えることができない、という速達をだした。
然し彼はこの三年来、按吉ぐらい憎むべき奴はいないのだった。憎むべく、呪うべき奴なのである。もっとも、親切な奴ではあった。夜逃げの家も探してくれる、借金の算段もしてくれる、夜逃げごとに変る倅の小学校の不便を按じて私立の小学校へ入学させてくれる、そういう時は親身であった。然し彼は先輩に対する後輩の礼儀というものを知らないのである。
会えば必ず先輩庄吉の近作をヤッツケる。庄吉は酔っ払うと自分で自分にさんをつけて三枝さんと自称したり三枝先生と自称する。すると按吉は、うぬぼれるな、と言う。なんだい、近ごろ書くものは。先生ヅラが呆れらア、てんで小手先のコシラエ物じゃないか、殻を背負って身動きもできないじゃないか、第一なんだい、自分の小説を朝昼晩朗読するなんて、あさましいことはやめなさい。こういうことを言う。必ず言う。
三枝庄吉は怒り心頭に発し、彼を知る共同の知友に手紙を書いてアイツはウヌボレ増長慢の気違い、礼儀を知らず、文学者の風上に置けぬ奴と宣言を発し、忿怒、憎悪、三ヶ年、憎さも憎し、然し、ふと、苦悩の度に奴を思う。そして速達を書いてしまう。親友の大門次郎に絶交されたときも、やにわに奴めに速達をだして来てもらったし、然し又、すぐ腹も立つ。
按吉は速達を見るとすぐ来たが、あんまり庄吉がやつれ果ててしまったので呆気にとられた。額の肉までゲッソリ落ちて、顔がひどく小さくなり、按吉の片手の握り拳におさまるぐらい小さくなって、その中に目と鼻と口だけは元の大きさにチャンとあるから、ミイラのように黒ずんで、喋るとまるで口だけが妖怪じみて動きだす。目と鼻と口をのぞくと、あとは黄濁した皺と毛髪だけであった。
「ああ、よく来てくれたな。会いたかったな。会えてよかった。あれから君はどんなに暮していた。君の部屋は静かなのか。勉強はできたか。ああ、今日はオレは幸せだ。ようやく君に会えたのか」
按吉は又呆気にとられた。酒に酔った場合の外は、陰鬱無言、極度に慎しみ深くハニカミ屋で、およそ感情を露出することのない庄吉であったから。
庄吉は頻りに泊ることをすすめたけれども按吉は〆切ちかい仕事があるからと言って強いてことわった。それというのが、病みやつれた庄吉と話しているのが苦痛で堪えられなかったからで、一向にはやらない三文文士の栗栖按吉に〆切に追われる仕事もないものだが、それをきくと庄吉は全然すまながって、そうだったか、無理にきてくれたのか、かんべんしてくれ、小さくちぢんだ顔はそれだけでもう元々涙をためているように見えるのであった。
それでも按吉は色々と言葉をつくして、たとえ女房が浮田と失踪しても必ずしも肉体の関係があるとは限らない。元々痴情の家出ならともかく、亭主と喧嘩して飛びだす、そういう場合は別で、自分はさる娘と十日あまりも恋愛旅行をしたことがあるが娘は身をまかせなかった、女房も今度の場合のような家出はそんなようなもので、一応は必ず肉体的なことはイヤだと言うにきまっているのだから、相手がまだ学生で坊ちゃんの浮田のことだからそれを押してどうすることになる筈がなく、極めて感傷的な旅行にくたびれているぐらいのところだろう。むしろ機会を失し、帰るに帰られず煩悶しているのかも知れず、それやこれやで御両名遂に心中というようなことになってもなお肉体の関係はないかも知れぬ。世上の俗事は、案外そんなもので、一向人目につかず亭主に知られぬような浮気に限って深間へ行っているもの、こういう派手な奴は見かけ倒しで、両名却ってただ苦しんでいるぐらいのところだ、などと慰めた。そしてまだ陽のあるうちに、さっさと帰ってきてしまったのだ。
按吉に慰められているうちは庄吉も力強いような気持で、すっかり相手にまかせきり安心しきってウンウンきいていたが、按吉がさっさと帰ってしまう、待ちかねたものを待つうちはまだよかったが、すでに来り、すでに去った、按吉の居るうちこそはそこに何がしの説得力もあったにしても、按吉去る、その残された慰めの言葉は何物ぞ、ただ空虚なる冗言のみ、女房はおらぬ、男と共に失踪している、この事実を如何にすべき。
庄吉の消耗衰弱は更に又、急速度に悪化した。
庄吉の小学校時代からの後輩で文学青年の戸波五郎が、ちょうど彼の家と露路をへだてて真向いに住み、縁先からオーイとよぶと向うの家から彼の返事をきくことができる。戸波は庄吉の東京にいる頃、東京にすみ、本屋の番頭で、殆ど三日にあげず遊びにきていた仲よしで、一緒に方々借金をつくって飲み歩いた仲間であるが、この一年来小田原へ戻って駅前に雑文堂という書物の売店をひらき、毎日出かけて行く。尤も、小僧に店をまかせて、時にはオトクイ廻りもやるが、自分は昼から酒をのんでいるようなことも少くはなく、売上げをその一夜に飲みあげて足をだして、もう夜逃げも間近かなところに迫ってもいた。
心配ごとで消耗する、何よりも友達が恋しい。友達がきて一緒にいてくれると、時には苛々何かと腹が立つこともあっても、どこか充ち足り、安心していられる。
戸波は大飲み助で、宿酔の不安苦痛、そういうものは良く分り、そういう時には極度に友達が恋しいもので、その覚えが自ら常にナジミの深いことだから、庄吉の友恋しさに同情して、オーイと庄吉が向うの家で呼んでいると、出かけて行って、無理して相手になってやる。尤も彼自身宿酔とか夜逃げ以上の悩みはなくて自分にないことは敢て想像に及んでまで同情してやる余地はない。これは誰しもそういうもので、だから庄吉が話の途中に急にイライラとシゴキを握ってピンポン台の足にからみつけて、輪をつくり、輪に首を突ッこんでグイグイひいて、これじゃア死ねねえかな、イライラとシゴキを握って又首をつッこみギュウギュウ腕でひっぱりあげる。まるでもう気違いの目で、濁って青くて、暗くギラギラしている。それでも、まさかに自殺というようなことを、想像してみなかった。
それから四、五日後のことだ。
庄吉が家の中からオーイ、オーイとよんだが返事がない。そこで庄吉が下駄を突ッかけて、戸波の家の戸の外へきて、
「居ねえの? 戸波」
戸波の妻君は女給あがり、至って不作法で亭主を尻にしいてフテ寝好きの女で、部屋の中からブツブツ怒り声で、
「居ないわよ」
「どこへ行った?」
「そんなこと、知らないわよ」
庄吉はそれきり黙って戻って行った。戸波がこのとき家にいれば、元より何ごともなかったのである。
庄吉は縁側へきて、坐っていたが、イライラ立って部屋の方へ、座敷からピンポン台のある部屋奥の部屋それを無意味に足早に歩いて又縁側へ戻ってきて、イライラ坐った。ちょッと坐っていたかと思うと、又ぷいと立ち上って子供部屋へはいった。
それから十分、戸波が帰ってきた。今三枝さんが呼びに来たわよときいて、玄関からはいらず庭先から縁側の方へ廻ってきた。戸波はいつも庭先から廻ってくる習慣なのである。
子供部屋は縁側の外れにあった。この部屋はちょうど屋根裏に似て、天井がなく、梁がむきだしてあり、その梁が六尺ぐらいの高さでしかない。つまり物置のようなものをつけたして、縁側をひろげたわけ、板の間で、椅子テーブルが置いてある。洋間のようになっているが、扉がないから、庭先から中の気配が分るのだ。
何か人の気配がする。それで戸波が庭先からのぞきこんでみると、庄吉の母、訓導あがりのデップリ体格のよい堂々たるお婆さんだが、何かを両手でジッと抑えている。後向きで何を抑えているのだか分らないが、何か動くものを動かないように、ジッと抑えている感じである。それで戸波が縁側へあがって、
「御隠居さん、何ですか」
声をかけてはいって行くと、ふりむいて、光る目で、ギラリと睨んだ。
「馬鹿が死にました」
それから抑えていたものの手をはなして、出てきて、
「医者をよんできて下さい」
と言った。
戸波が中を見ると、梁にシゴキをかけて、庄吉がぶらさがっていた。高さが六尺ぐらいしかない梁だから、小男の庄吉はちょうど爪先で立っているように、ほとんど足が床板とスレスレのところで、かすかにゆれていた。洟が二本、長く垂れて目を赤くむいて生きて狂っているようにギラギラしているのが見えたのである。庄吉の母は、たぶん子供部屋に異様な物音をききつけて、すぐ立上ってはいって行ったものだろう。戸波は庄吉を梁から下して、医者へ走って行った。
★
私は電報がきて小田原へ行ったが、私がついてまもなく、その日の新聞で良人の自殺を知った女房が帰ってきた。彼女は私にちょっと来て下さいと別室へつれて行き、箪笥からとりだしたのか、喪服に着かえながら、
「あいつ、私を苦しめるために自殺したのよ」
「そんなことはないさ。人を苦しめるために人間も色んなことをするだろうけど、自殺はしないね。ヒステリーの娘じゃあるまいし、四十歳の文士だから」
「うそよ。あいつ、私を苦しめるためなら、なんだってするわ。いやがらせの自殺よ」
「まア、気をしずめなさい」
私はふりむいて部屋を去った。私には彼女が喪服を持っていたのが不思議であった。どうして喪服だけ質屋に入れていなかったのか、着る物の何から何まで流してしまった生活の中で。
私がそんなことを考えたのも、女の喪服というものが奇妙に色ッポイからで、特別それを着つつある最中は甚だもって悩ましい。そういう奇怪になまめかしく色っぽいのがポロポロ口惜し涙を流して、あいつ、私を苦しめるために自殺しやがった、という、私もこれには色ッポサの方に当てられたから、さっさと逃げだしてしまった。まことにお恥しい次第である。
私はその後いくばくもなく京都へ放浪の旅にでた。一年半、それから東京へ帰った一夜、庄吉夫人の訪問を受けた。彼女はすさみきっていた。彼女はオメカケになっていた。オメカケというよりも売娼婦、それも最もすさみはてた夜鷹、そういう感じで、私は正視に堪えなかったのである。その後、実際に、そういう生活におちたというような噂をきいた。
庄吉は夢をつくっていた人だ。彼の文学が彼の夢であるばかりでなく、彼の実人生が又、彼の夢であった。
然し、夢が文学でありうるためには、その夢の根柢が実人生に根をはり、彼の立つ現実の地盤に根を下していなければならない。始めは下していたのである。だから彼の女房は夢の中に描かれた彼女を模倣し、やがて分ちがたく似せ合せ、彼等の現実自体を夢とすることができたのだ。
彼の人生も文学も、彼のこしらえたオモチャ箱のようなもので、オモチャ箱の中の主人公たる彼もその女房も然し彼の与えた魔術の命をもち、たしかに生きた人間よりもむしろ妖しく生存していたのである。
私は然し、彼の晩年、彼のオモチャ箱はひっくりかえり、こわれてしまったのだと思っている。彼の小説は彼の立つ現実の地盤から遊離して、架空の空間へ根を下すようになり、彼の女房も、オモチャ箱の中の女房がもう自分ではないことを見破るようになっていたのだ。
庄吉だって知っていた筈だ。彼の女房のイノチは実は彼がオモチャ箱の中の彼女に与えた彼の魔力であるにすぎず、その魔力がなくなるとき、彼女のイノチは死ぬ。そして彼が死にでもすれば、男もつくるだろうし、メカケにもなろう、淫売婦にもなるであろう、ということを。
彼の鬼の目はそれぐらいのことはチャンと見ぬいていた筈なのだが、彼は自分の女房は別のもの、女房は別もの、ただ一人の女、彼のみぞ知る魂の女、そんなふうな埒もない夢想的見解にとらわれ、彼が死んでしまえば、女房なんて、メカケになるか売春婦になるか、大事な現実の根元を忘れ果ててしまっていたのだ。
庄吉よ、現にあなたの女房はそうなっているのだ。
私はあなたを辱しめるのでもなく、あなたの女房を辱しめるのでもない。人間万事がそうしたものなのだ。
あなたの文学が、あなたの夢が、あなたのオモチャ箱が、この現実を冷酷に見つめて、そこに根を下して、育ち出発することを、なぜ忘れたのですか。現実は常にかく冷酷無慙であるけれども、そこからも、夢は育ち、オモチャ箱はつくれるものだ。
私はあなたの女房のサンタンたる姿を眺めたとき、庄吉よ、これを見よ、あなたはなぜこれを見ることを忘れたのか、だからあなたはあんなに下らなく死んだのだ、バカ、だから女房が実際こんなにあさましくもなったんじゃないか、あなたは負けた、この女房のサンタンたる姿に。なんということだ、あんな立派な鬼の目をもちながら。
私は、あなたの実に下らぬ死を思い、やるせなくて、たまらなかったのだ。
底本:「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年11月14日第1刷発行
2013(平成25)年1月25日第3刷発行
底本の親本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
初出:「光 第三巻第七号」
1947(昭和22)年7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:酒井裕二
2015年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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