新書太閤記
第七分冊
吉川英治
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備前岡山の城はいま旺んなる改修増築の工事にかかっている。
ここの町を中心として、吉備平の春を占めて、六万の軍馬が待機していた。
「いったい戦争はあるのかないのか」
熟れる菜の花を見、飛ぶ蝶に眠気を誘われ、のどかな町の音響や、城普請の鑿の音など聞いていると、将士は無為に飽いて、ふとそんな錯覚すら抱くのだった。
三月上旬の三日。──すでにかの甲州方面では、信長、信忠の指揮下に、大軍甲信国境からながれこんで、ちょうどこの日、武田勝頼は運命の非を知って、その拠城新府にみずから火を放ち、簾中そのほか一門の女性までが、天目山のさいごへさして、炎々の下から離散を開始していた日である。
だが、ここの岡山は、折ふし上巳の節句とて、どこのむすめも女房たちも、桃の昼に化粧をきそい、家の内には、宵に燈す雛まつりの灯や、盃事の調べなどして、同じ天の下ながら、地上はまるで別な世かのように平和であった。
「おや。お早打が」
二騎、町木戸から、ほこりを立てて、城門の方へ駈け去った馬蹄の音にも、さして事々しく、天下の急変の前駆とは、耳そばだてる者もなかった。
──が、城門の前へ、弾丸のように駈けついた使者は、
「黄母衣の者、山口銑蔵ですッ」
「同じく、松江伝介。ただ今もどりました」
と、番の者へいう大声にも息を喘いで、こんどは二人同音に、
「甲州御陣へお使いして、今日帰着。通りますッ」
と、どなる。
番の将士がわらわらと出て来てふたりの側へ寄り集まった。何事かと思うと、たちまち一人の将は、
「やあ、御苦労。御大儀」
と、ふたりの肩をたたいてねぎらい、その部下たちは、馬を取って、内へ曳き入れ、また使者の袖や背の埃を払ってやるのもあるし、汗拭を与えて宥るもあるし、口々に、
「お早いことで」
「遠国から一息に、大変だったでしょう」
「さあ、あれにて、湯なと召し上がれ」
と、その労を慰めた。
だが、使者は、髪なで直すと、すぐ足を早めて、
「一刻もはやく、君前におこたえをすまさねば」
と、馬をそこに捨てて、もう足は駈けていた。
秀吉はそのとき、岡山城の本丸の一室で、ことし元服したばかりの宇喜多直家の子秀家と共に、その秀家の妹たちから招かれて、雛のお客になって遊んでいた。
八郎という幼名を、秀吉から名をもらって、秀家と改め、加冠したのはついこのあいだである。秀吉はこの遺子たちを遺して死んだ直家の心を思いやって、わが子のように、日常左右においていた。
その妹たちはなお幼い。もとより雛のお客のもてなしは、侍く女たちがすべてするのであったが、秀吉は彼女たちが嘻々として離れないほど歓んで見せた。兄妹はいつのまにか自分たちのよい友達みたいに思って、秀吉の背なかへ絡みついたり、小さい手に杯を持って、
「もう参れぬ。参れぬ」
と、酔うた振りして謝りぬく秀吉の唇へ、むりにそれを押しつけたりして、さながら狆と狆のように戯れ合っていた。
福島市松が次の間まで来て秀吉へ告げた。
「殿。……殿」
「なにか」
「先頃、甲州御陣までお遣わしあそばした使者たち両名。ただいま戻りました」
「お。山口銑蔵、松江伝介のふたりが帰って来たか」
これは人知れず待ちかねていたものらしく、屹と、われに回ったような容子を示し、
「鷺の間へ待たせておけ」
と、すぐ起ちかけた。
秀家の妹や女童たちは、まだ戯れて止まず、その袖を持ったり、肩にからんで、
「いや。いや」
と、かぶりを振り、駄々をこね、秀吉が困った顔をすると、なお離さなかった。
「市松、市松」
「鷺の間へ参るついでに、わしがいいつける。そちは、この女童たちと遊んでいてやれ」
「……は」
「なんという顔をするのか」
「それがしは、女の子などと、遊ぶ術は知りませぬ」
市松ももう一かどの大人と自負している。そんな御用を承るのは武人の心外であるといわぬばかり。また、いつまでも洟をたらしていた頃のおつもりでは迷惑仕る──と云いたげな構えである。
秀吉はくつくつ笑って、
「遊ぶ術など知らんでもよい。わしの代りにここへ坐って、雛の客になっておればよいのだ。女童たちの玩具になって神妙にしておればすむ」
「戦陣の我慢ならば、如何ようにもいたしますが、左様な忍耐は市松のよくするところでございません。余人に仰せつけねがわしゅう存じます」
「女の子はきらいか。そちは」
「はい。きらいです。どうかすると撲りたくなることもあります」
ちか頃、家中でも、また宇喜多家の諸臣のあいだでも、市松は評判がよい。鳥取城や上月城で、功をあらわしたことも聞えている。将来ある若武者、よい骨がらである。などと多少おだて気味な声も当人の耳にはいっている。そんな加減か、めっきり成人し、顔にはぼつぼつ面皰まで誇示している。時々、秀吉にも手におえないことがある。自分と秀吉とは親戚のあいだだという気持がそのうらにあることはいうまでもない。
秀吉は舌打ちして、
「たれだ。廊下にいるのは」
「虎之助にございます」
「ああ。そちがいい。虎之助これへ来い」
「はい」
「聞いていたであろう。於市めは嫌だと申す。おまえ、代りにここにおれ。雛の客になってつかわせ」
「はい」
「よいか」
「かしこまりました」
秀吉が起ったので、市松もあわてて起った。唯々としてそこへ坐った虎之助を軽蔑するように、しり目をその背へくれて。
鷺の間は密室である。何か極秘の用談だけを訊くところとされている。山口銑蔵と松江伝介がそこへ入って慎んでいるとすぐ、
「帰ったか」
と、秀吉もすぐ座についた。
銑蔵はふところから一書を取り出して秀吉の前にさしおいた。元より二重三重に桐油紙につつんである。自身、秀吉は上紙をのぞき、また封を切って、
「ああ、久しぶりに、御筆蹟を拝む」
と、まず披くに先だって、額に押しいただいた。織田右府信長の直書であることはいうまでもない。
見終って、
「たしかに」
と、秀吉は、信長の書を、自身のふところに奉じ、それから使いの労を犒った。
「大儀であった。退って休息いたすがいい。──が、信州甲州にあるお味方は、みな赫々と戦果をあげておるか」
「ほとんど、破竹の勢いと申してもよいほどでございます。私どもが立ち帰る頃、すでに信忠卿の軍は、諏訪口へ入ったと聞えておりました」
「さすがは、御威光である。信長公みずから御出馬の戦。そうなくてはならん。右府様にもいよいよお元気にお見上げ申したか」
「はい。このたびの甲州入りは、時も春、峡山の花見にひとしい。帰途は東海道に出、富士見物の御予定などと──これは侍側の方々から伺ったことですが、余裕綽々たる御陣中の様であると承りました」
「そうか。いや大儀。はやくやすめ」
任務をこれでおわった二人は、初めて疲労を姿にあらわしながら退出した。
が、秀吉はなおそこにいた。襖絵の白鷺を見つめている。自鷺の眼だけに黄色い彩具が塗ってあった。鷺が彼を睨んでいるようでもある。
「……やはり官兵衛かな。官兵衛をつかわすしかあるまい」
つぶやくと、小姓を呼びたてた。石田佐吉がまかり出た。佐吉もめっきり成人して、いよいよ端麗な小姓振りであった。
「お召しあそばしましたか」
「呼んだ。……二の丸に、黒田官兵衛が詰めておるはず。それと、蜂須賀彦右衛門とを、同時に呼んで来てくれい」
「どこへ御案内いたしますか」
「これにおる。これへでよろしい」
秀吉は、ふたたび、ふところの書を取り出して見ていた。それは書簡ではない。秀吉から求めた誓紙である。
いま彼は、ここに坐ながらも、六万の兵は優にうごかすことができる。しかもなおすぐそこの国境を突破して備中へ入ることをひかえていた。備中に入らずして、毛利を破砕することは当然できないことだから、そこに何らか、大きな障碍を感じているものと思われる。
わざわざ使いを信長の許へ送って、信長の誓紙を求めたのも、実にそのためだった。彼は、その障碍を、戦わずして除こうとしていた。つまり備中国境にある敵の防禦線七城をつらねてその中核塁をなしている高松の城。それをまず衂らずに抜こうと苦心していたのであった。
「やあ。これへ」
黒田官兵衛のすがたが見えると、秀吉は気軽にすこし席を譲った。室は狭いのである。次に彦右衛門もそっと入って、官兵衛と並んですわる。
「上様の誓紙が今しがた届いた。ついては、いつも難渋なことのみ頼むが、高松城まで参って欲しい」
「拝見いたしてもよろしいでしょうか」
「御一見あれ」
官兵衛は、その人に対するような礼儀をもって、誓紙の内を見た。
志を翻して、織田の軍門に降伏するならば、戦後、備中、備後の両国に多分の領地を宛て行わん。神明に誓って違背はない。そういう意味の墨付で、すなわち信長から高松城の守将、清水長左衛門宗治へあてて示すものであった。
「拝見いたしました」
「これを携え、すぐにも出立してくれ。彦右衛門、御身も副使として、官兵衛とともに高松城まで参るように。──そして清水宗治に会うた上は、官兵衛にぬかりはあるまいが、極力説いて、味方に降伏させるよう努めい。このお墨付を示さば、いかに彼とて、うごかぬことはあるまい」
至極、楽観的な顔していうのである。その秀吉の意中がふたりには酌みかねた。秀吉は心からこのお墨付一通で、敵の清水宗治の離反を実現できるものと信じているのだろうか、それとも、べつに意があるのであろうか──と。
「行け。すぐに」
秀吉はかさねて促す。
もとより異議をいっているところではない。黒田官兵衛も、蜂須賀彦右衛門も、
「かしこまりました」
直ちに座を立った。
起ちかける両名へ、秀吉はなおこう云い足した。
「ともあれ、城中の士気配備、よく見てまいるように。──そして供は大勢を連れぬがよい。市松、虎之助のふたりほど伴ったらよかろう。なるべく和やかに扮装って」
「はい」
ふたりは去る。
秀吉もそこを出て、ふたたび奥の雛の間へ帰って来た。
はて、もう誰もいないのか。
と、彼は襖の外であやしんだ。あんなにはしゃいでいた女童たちの声が少しもしない。ひそとして、無人のように感じたからであった。
市松がうしろから手をのばして彼の前の襖を開けた。
見れば、秀家もいる。また秀家の妹も、ほかの女童も侍女たちも、いることはそこにいた。
けれどひどく前とは空気がちがっていた。みな黙りこくって、雛壇の前に坐っている雛の客に眼をすえていた。秀吉の代りとして、そこにいよと命じられた小姓の加藤虎之助は、
(主命もだし難く……)
といわんばかりな顔して、迷惑を怺えながら、厳然と、両手を膝において坐っていた。孤軍の中に、一方の口をひとりで守っているような眼で、侍女や女童たちを睨みすえていた。
膝のまえに、菓子の高坏がおいてあるが、手もふれてない。盃に酒がついであるが、飲みほしてもない。
初めはいろいろ、からかわれたとみえて、頬に白粉をつけられたり、背に紙きれをさげられたりしているが、虎之助は、
(おかしくもないことをするものだ)
と、相手にもならずに、この構えのまま、さっきからただ忠実に君命のみを守っていたものと思われる。眼だけをうごかして、秀吉のすがたを仰ぐと、救われたように、吐息をついた。
「大儀大儀」
秀吉は笑って彼の任を解いた。そして、もうよいから、すぐ支度して、市松とともに、高松城へゆく使者に従いてゆけと命じた。
「ありがとう存じます」
籠から放される鳥のように、出ないうちから羽搏きをした。秀吉はなお懇ろにこう喩した。
「敵の中へ使いに行くということは大事なものであるぞ。その方たちが笑われるようなこといたすと、秀吉も敵に笑われるのであるぞ。さりとて、今見たように、鯱こ張ってのみおると、あれは小胆者ぞと敵に肚を押し測られるぞ。途々も、木戸の要害、兵糧の運輸、地についておる車の輪の痕から、城中に入ってはなおさらのこと、将士の眼ざし、防塁の備え、草木のたたずまいに至るまで、よくよく眼をとどかせて来ねばならん。その方たちをつかわすのは勉強のために遣るのであるぞ。よいか、心して行って参れよ」
馬首を北方に向けて、城外数里の先へ出ると、満目の山野には、
「いくさだ」
と感じるものが漲っていた。
岡山から敵の高松城までは一日足らずの行程。騎馬なのでなお早めに行き着こう。黒田、蜂須賀の両使に、随行の市松、虎之助、そのほかを加えておよそ十名ばかりの一行だった。
重厚な味方の前線陣地を行き抜けて、吉備山脈の彼方に赤い西陽を仰ぐころから、一行はしばしば、
「とまれッ」
「どこへ参る」
と、山蔭や林の暗がりから咎めをうけた。もう出会うものは、敵の人ばかりだった。ここには岡山の城下に見るような春もない、人もない。田に百姓の影すら見あたらなかった。
敵の前線から城下の柵門へ早馬の駈けてゆくのが見られた。城内のさしずを仰いだものらしい。やがて迎えに来た部将の案内に従って、使者たちは柵門に入りまた城門へかかった。
高松の城は平城だ。大手へかかる道の左右までが田圃や野である。深田の中に一叢の林と堤と石垣を構え、そこから石段を登るごとに本丸の狭間や剣塀が頭の上へ近づいてくる。
本丸に入ると、さすがに国境七城の主城だけのものはあって、城中はかなり広く、守兵二千余人を容れながらなお寂たるものがある。
いや、いまこの城内には、その二千余の兵以外に、なお三千余人の人命を収容していた。総計五千余人の大世帯となっていることは確実だった。
それはすでに籠城を決意した清水宗治が、領土下の農民と女子老幼のすべてをみな城中へ収容したためで、以て、疾くからこの一城に拠って、東軍数万の怒濤をふせぎ、一戦を決せんとするの覚悟は明らかだった。
一室へ通ったのは、使者の黒田官兵衛と蜂須賀彦右衛門の二人だけである。官兵衛は例のごとく片脚不自由な身なので、杖を持たぬ室内では殊にひどく跛行をひく。
茶も出た。菓子も出る。
「しばらく、御休息くださいませ。ただいますぐ主人がお目にかかりますれば」
退ってゆく二十歳足らずの小姓らしき者へ、使者の二人はしずかな眼をそそいでいる。襖際の作法行態、平常と変りはない。召使の者にこれだけの落着きがあるからにはと、城中一般の心がまえ、また守将宗治のたしなみも、まずは充分に窺われる。
やがてのこと。
「長左衛門宗治にござる。羽柴どのからお使いに見えられた由。ようこそ」
それへ来て、容態ぶりもなく、坐った人がある。
年五十がらみ。腰がひくく、粗服をまとい、左右にも物々しい家臣などは並べず、十二、三の子どもひとりを小姓としてうしろに置いているだけだった。もし帯刀とその小姓をのぞけば、この近傍の庄屋とも変りはない。それほどに覇気や衒気のみじんも見えない人がらであった。
「これは」
と官兵衛は、却って、威容ぶらない敵将に、敢えて慇懃な心づかいをした。
「初めてお目にかかる。それがしども両名は、羽柴家の臣、黒田官兵衛」
「また、蜂須賀彦右衛門ともうす者」
挨拶をうけるごとに、宗治は、あいそのよい眼でうなずいた。──このぶんでは、この人なら、或いは、説き落せるかも知れぬ。ふたりの使者は、ひそかに唇をぬらしていた。
「蜂須賀どの。あなたからひとつ主命の趣を、宗治どのへおはなし下さらぬか」
官兵衛はこう譲った。正使格の自分から口を切るのが当然とは承知しているが、相手の温雅淳朴なすがたを見て、自分よりは年上の、そして気の練れている彦右衛門が、懇ろに利害を説いたほうが効果的とその場で考えたからである。
「では、それがしから申しあげますが」
彦右衛門は、辞退なく、こういうと、すこし宗治のほうへ膝をにじりすすめて、
「何事も腹蔵なく御談合を願えと、主人より申しつけられて来たままをただお伝えするに過ぎませんが、およそ益なき戦は避けられるだけ避けたいと願うのが主人の本旨にござりまする。いま東西の両軍ここにまみえ、お許には七城の壕塁を聯ねて、国境のお守りに当っておられますが、すでに中国の帰趨は決したものということは充分お心のうちにはお分りであろうと存ずる。数をもっていえば、東軍は優に十五万の兵力はうごかし得るのに較べて、恐らく西軍毛利方は、残余の兵力をことごとく挙げても、四万五、六千から、乃至五万といえば精いっぱいなところでしょう。しかのみならず毛利家との聯携の越後上杉、甲州武田、叡山、本願寺などの盟国もみな亡び去って、それらの与国も毛利家も一つの名分として謳っていた旧幕府の形態も、公方という人物も、もう昨日のものとなって、その存在は地にないものではありませぬか。いったい毛利方としては、今日、何をもって、名分となし、この中国を焦土に化しても戦おうとするのか。われらには存じ寄る儀もござりませぬ。それにひきかえ、わが織田全軍のいただく右府信長公におかせられては、かたじけなくも親しく禁門の護りを命ぜられ、朝廷の御信任も弥篤く、君臣の分を明らかになし、上宸襟をやすめ奉り、下衆民にしたわれて、いましようやく長い戦乱の闇を出て世も黎明を祝ぎながら、一宇万生のすがたに復そうとしているところです。……いや、ちと喋舌りすぎましたが、まあそういった情勢です。いつわりのないところです。かかる日に当って、申しては失礼ながら、其許のごときお人を、また無辜の百姓、老幼から多くの将士までを、みすみすこの城とともに田土の底へ埋め去るなど……これは何としても惜しい。この犠牲なく処置する工夫もあらばと、主人筑前には心をいため、先にも一応のおすすめはいたしたなれど、其許の容れたもうところとならず、面目を欠いたここちも致されたらしいが、なお重ねて、もう一度、最後の御談合を遂げてみよとの仰せに、今日ふたたび両名して罷りこしたわけでござる。いかに主人筑前が、真実、心を尽してのおすすめかは、官兵衛どのよりさらにお聞きとりねがいたい」
次には、官兵衛がいう。
かねて携えて来た秀吉の添状に、信長の誓約書を添えて示したうえ、
「決して、利をもって説くというのではなく、士を惜しむ主人秀吉と、士を愛する右府信長公のお心とをこれに示されたものとして、篤御賢慮をうながしたい。すなわち、あなたのお考え一つでは、備中備後の二ヵ国を進ぜようとまでの御誓紙でござる。如何でしょう、宗治どの」
「…………」
宗治は、誓紙に一礼した。しかし手にとって開こうともせず、そのまま正使の前に返して、
「寔に、寔に、過分なおことばやら恩賞のお約束やら、何と申してよいか、お礼のことばもない。毛利家より日頃頂戴の禄は正直七千石に足らないものを。ましてや老齢に近いこの田舎侍をば。──いやありがたいことでござる。お志だけはくれぐれも忝う存ずる。忝う存じ奉る」
うんとはいわない。
ただ腰ひくく清水宗治は、そう繰り返しているのみだった。
沈黙がつづく。
そのうちに、何か手持ぶさたを覚えてきたのは、使者側のふたりだった。
宗治としては、それ以上、何を説かれても、
「ごもっとも。ごもっともで」を温和に、辞低く、繰り返しているにすぎない。
彦右衛門の老巧も、官兵衛の才気も、この相手には用をなさないかたちであった。
が、使者としては、その壁をも抜く意気で、なお説く限りは説き、最後の努力としてもう一言、
「この方から申しあげることは、すべてを申しあげ尽してござるが、貴公として、何ぞ、特に御希望とか、条件を附したいとか、お考えがあるなれば、承って、お取次もいたそう、またお力になりたい所存でござるが、御腹蔵ないところ、お聞かせたまわるまいか」
と、いわゆる膝詰に、宗治の本音を押してみた。
「腹蔵なくと仰せあるか」
宗治は、呟くように、そういってから、眼を、ひたと二人へ等分に向けた。
「さらば、聞いて戴きますかな。それがしが望みというは、せっかく人として生れ、人の生涯の終りにも近づきおれば、この期にあたって、人たるの道を踏み外したくない、という一義に極まりまする。わが毛利家といえども、一天の下、蒼生の一藩、あなた方の御盟主たる右府様にも、禁門へたいし奉る臣情においては、優るとも劣るものにはございませぬ。不肖宗治は、その毛利家に属し、碌々為すなき身を、多年七千石の高禄をたまわり、一族みな恩養にあずかって、今日この変にあたり、国境の守りを命ぜられたこと、ひとえに主家の御信任によるところと、この日頃、生きがいありと、朝夕たのしく暮しておるところでござる。──さるをいま、小利に眼をくれて、羽柴どののお扱いをうけ、右府様の麾下に参って、二ヵ国の領主に坐ろうとも、所詮所詮、近頃のような心楽しき日が送れようとは思われぬ。ましてや、信義に背き、主家を売り、何のかんばせあって、宗治、天下の士民に面を向けられましょうか。……小さくは、それがしの家庭においても、妻にも子にも、甥にも姪にも、左様なことは、人の皮をかぶった者のすることと、日頃より教育もしておりますれば、自身で自身の家風をやぶる儀にも相成りまする。はははは、そんなわけですから、折角の御好誼とはぞんずるが、おはなしの儀は、なかったものと、お忘れくださるように羽柴殿へも、よしなにお伝えたまわりたい。篤くお礼は申しあげる」
「……そうですか。むむ」
肚のそこから唸くように頷くと、官兵衛はすぐ明瞭にいった。
「もはやおすすめは仕らぬ。彦右衛門殿、立ち帰るといたそう」
「ぜひもない」
彦右衛門は、自分たちの努力の至らなかったことを嘆息した。しかしその気持はここへ臨んでからのものである。清水長左衛門宗治は決して利にはうごくまいと観ていたのは、ふたりとも前から予期していたことではあった。
「闇夜は途中が危険。こよいは城内にお泊りあって、早朝にお帰りあってはいかが」
宗治はひきとめた。それも単なる世辞でなくうけとれた。実篤な人物かな。敵ながら正直にそう推服できる。
「いや、主人も返辞を待ちかねておりますれば」
と、使者たちは、松明だけを乞いうけて帰途についた。宗治は、途中、間違いを生じてはならぬと、家臣三名を添えて、前線の境まで送らせた。
往復とも、使者の一行は、眠らずに帰って来た。
岡山へ帰るとすぐ、官兵衛、彦右衛門のふたりは、秀吉のまえにあった。
「招降の儀は、不調に終りました。さすが宗治の決意は、固うござります。これ以上、いかにお手をくだいても、談合は無用と存ぜられます」
清水宗治の云い分なども、つぶさにそのまま、秀吉に達した。
使いの返辞は、平凡がよい。そのあいだに使いの者の主観や感情の混入するなく、ありのまま、有体の報告が、最上とされている。
「さもあろう」
秀吉は、意外ともせず、ひとまず眠るがいい、疲れたであろう、そち達、一睡の後、あらためて寄ろうと云った。
「では、休息して、ふたたび参りまする」
二人は、秀吉の居室を退る。
秀吉はなお、一隅に、これも眠たげに畏まっている虎之助、市松を見て、
「両名」
「はい」
「何を見て来た」
「敵中、いろいろ、見て参りました」
市松の答えである。
虎之助は、正直に、
「どこへ眼を注いでも、さして敵の気配は窺えません」
と、いった。
秀吉は、そのいずれも、是とも非ともいわず、
「たくさん寝て来い」
と、室から放した。
午を過ぎてから、べつな部屋に、秀吉はまた官兵衛、彦右衛門、そのほか、六、七名の将をあつめて謀議していた。宇喜多秀家も若年ではあるが、当然、一方の大将として、ここには参加していた。
「──敵の七城は、ここと、ここと、これであります」
秀家と官兵衛とは、専ら地理を説明していた。秀吉の眼を落している絵図面へいま傍らから解説を加えているのは官兵衛だった。
「高松の城から西北三里余に、足守と申す町があります。そうです、その辺にござります。──その足守の裏山に、宮路の一城があり、これには乃美元信が兵五百余をもってたて籠っておる筈。また、そこより少し東に、冠山の城があり、これには林重真が守備をなし、兵数は三百五、六十と見れば間違いのないところでしょう」
「して、高松の主城には」
「平常、ここには、やはり六、七百の兵力しかなかったのですが、毛利方の末近左衛門が、約二千の兵をひきつれて来援し、城下の農民女子老幼を悉く収容しておりますので、頭数にすれば五千から六千人のあいだかと考えられます」
「そうか。そんなにおるか」
ここで、そうか──と呟いた秀吉の独り語のうちには、後に思い合わせると、すでにこの一瞬、彼の胸には、或る大計がもう立っていたものらしかった。
「その他は」
「高松から半里ほど東南に、加茂の城があり、これには、兵約千人を擁して、桂広繁が守り固めておりまする。さらに、山陽道の道をへだてて、半里の先に、日幡景親が守るところの日幡の城、これにも兵約千人余。──また、南松島の城には、梨羽中務丞の兵八百。なお一里ほど先には、井上有景が千人をもって、南庭瀬の城を頑強にかため、国境の道の喉首を、後生大事と守備しております」
「……なるほど、七城連環か」
秀吉は、絵図のうえから面をあげて、くたびれたように胸を伸ばした。
その日、甲州方面から、早打が入った。戦況報告である。
この月十一日、武田一門、勝頼以下、天目山に滅亡し了んぬ──ということ。また、甲府占領接収のこと。信長公を始め味方の中軍は上諏訪に進駐、近く甲府御入城の予定──などの事柄であった。
「お早いこと哉」
秀吉は顧みて、中国攻略の難にひきくらべ、前途はなおこれからだがと思った。
「硯を」
と、求めて、とりあえず、信長へ宛てて、戦捷の賀状を書いた。かたわら、中国の状況をしるし、また清水宗治を招降の策は断念した旨をそれに伝えた。
三月のなかば頃。姫路に待機していた秀吉直属の二万は、岡山へ入って来た。それへ宇喜多の兵一万を合わせ、総勢三万の装備は完くととのい、いよいよ備中へ進軍した。
「このたびの挙は、よほど慎重にお懸りとみえる」
秀吉の心を、たれもみなそう忖度した。
一里ゆくにも、偵察の結果を待ち、二里進むにも、偵察して進んだ。
甲州方面の迅速な戦果と、赫々たる大勝の報は、もう一卒まで聞いている。で、この慎重な行動を中には飽き足らなく思って、高松城や、その余の小城のごときは、この三万を以てすれば一撃の下に──などと逸り切る声もないではなかったが、
「なるほど」
実地の戦場にのぞみ、ふかく敵の布陣が分ってみると、いかにこんどの戦が重要であり、また必勝の地を占めるまででも難しいことがよく頷けた。
秀吉はまず、高松城の北方遠くにある一高地──龍王山に陣した。
ここから、真南に、高松の城を俯瞰す。
すると、敵の七城の位置と、主城の高松と、唇歯の関係をなしている地勢が一目にわかる。
のみならず、さらに遠く、芸州吉田の毛利の本国を中心とし、伯耆、備中、その余にわたる敵国のうごきを大観し、吉川元春の軍、小早川隆景の軍、毛利輝元の軍などが、これへ来援してくる場合の大勢をもあらかじめ察するに便であった。
龍王山の本陣 一万五千人
平山村附近 羽柴秀勝五千人
八幡山 宇喜多衆一万人
大別して秀吉の陣はこうわかれていた。秀吉はまず主力戦に入るまえに、
「高松の右翼、宮路と冠の二城。左翼の加茂、日幡の二城。こう両翼を取り除くを先とする。たれか宮路の城を一気に攻め落す自信のあるものはないか」
ことばの下に。
「それがしが」
「私が」
「てまえにお命じを」
と、諸将は争って、この緒戦の先鋒に選ばれんことを願った。
その中に、福島市松もあった。小姓組から名乗り出たのは彼一名だった。
「市松。お汝、行く気か」
「おいいつけ下されば。……はい」
「自信があるのか」
「ちと心外なおたずねです」
「ははは。よかろう。たかだか四、五百たてこもっている砦。小姓どもが攻め取るには手頃であろう。行って来い。福島市松にこれは命じておく」
市松は勇躍した。
人々の羨望する眼を身に感じながら、すぐ準備のため、座を立ったのはよいが、その際、彼の持前として、ついいわずともよいことをいったので、人々は心のうちで、
(生兵法と生意気、ふたつを具備した市松、下手を踏まねばよいが)
と、危うがった。
いわでもよいことというのは、
(不肖、一策を持っていますから、部下は多くを要しません。百名か百五十名もつれて参れば充分です)
と、得意になって、その場で秀吉へいったことである。
秀吉は、苦笑をもちながら、ただ頷いた。市松が生意気づいて来たことは彼も充分知っている。また市松が、幕下の若い将校たちのあいだでは、憎まれ出していることも分っている。けれど秀吉は公平に彼の才能と押し強い気性も買っているのである。ただ時折、
(殿とおれの家とは、むかしから親類だった。だから今でも親戚関係だ)
を、ややもすると、鼻にかける気味があるので、その鼻ののびる頃にはヘシ折る必要がある。それだけが困り者と思われる以外、いまではこの男も一かど秀吉麾下の異色であった。
年も虎之助より年上で、ことし二十三、四歳になる。功名を望むこと火よりも旺といっていい。
「腰兵糧はつけたか。いでたちは身軽がいいぞ。絶壁へとりついても、進退の邪げられぬように。──馬。馬は無用だ、みんな徒歩で行く。おれも歩く」
百五十の手勢をならべ、彼は武将として、一場の訓示と、注意とを垂れた。
戦はもうこの中国へ来てから充分に体験ずみである。天正六年、初手の中国入りに、別所家の剛の者、末石弥太郎の首をあげたときが、十八歳の初功名といわれているから、実際の場へのぞんでの強さも、当人の自慢するだけのものはあるらしい。
「出発まで休んでおれ」
準備が終ると、市松は、営中へかくれてしまった。
秀吉の前に出ている。これより行って参りますという挨拶を述べていたのだった。
「市松」
「はッ」
「敵の砦へかかってからよりは、途中が危ない。途中の覚悟はよいか」
「だいじょうぶです」
「たれぞに、もう三百も兵をつけて、後詰に添えてやろうか」
「それには及びません」
「よし、行け」
市松はむっとした顔して出て行った。このむかっ腹も、秀吉を親類のおじさんと心のどこかで考えているところから起るものらしい。
宮路の砦は、足守とよぶ小さい町の裏にあたる。足守の人家を横に見て、その山麓に近づいたのはもう夜だった。夜をかけて遮二無二道もない山を登りつめる。ここはかなり高地である。
「しまった。身を沈めろ」
銃声を聞いたので、市松は、部下全体に、うごくなといった。そしてなお低声で、
「この山のうえに、水之手がある。城の者が命の綱としている蓄水池だ。そこへ出るまでは、いくら撃たれても、斬って出るな。おれが、よしというまで、勝手に斬って出てはならんぞ」
と、かたく戒めた。
この砦の弱点は、確かに、市松が眼をつけたその飲料水の溜にあった。
彼は、そこへ奇襲して、水之手番の兵、二、三十名を撃ち取り、つづいて、
「水門を破壊しろ。池の堤を切りくずせ」
と、命じた。
山上から中腹の城内へ、津波のように濁水が押し流れて行った。
「水之手へ敵が襲った」
と聞くと、城中の兵は、戦わないうちから士気を失ってしまった。なぜなら、そこを占領されては、一滴の飲用水も他から求め得ない地勢にあるからだった。
「あんな所へ、どうして敵が現われたろう」
城将の乃美元信は、守備の誤算にうろたえた。彼としては、万全な備えをしていたつもりだったに違いない。
「水之手を奪回しろ」
当然、こう下知して、城兵をまとめてみたが、山城に位置していながら、奇襲の敵は、自分たちより高い所にいるのだった。それに下を防ぐことのみに専念していた構えが、逆に頭上から敵をうけたので、ほとんど、戦意は昂らない。
それでも、山上へ向って、すこし登りかけると、市松の手勢は、岩、樹木、石ころ、思いのままを、下へ落した。
そんなことを、六、七度もくりかえしている間に、人声がしなくなった。市松は、真っ先に、
「突っ込め」
槍を向けたまま駈け下りた。
果たして、城兵はみな逃げ去っている。守将の乃美元信も見えなかった。
逃げるに際して、敵が城へ火を放って逃げたのは勿論である。山城なので風当りも強い。みるまに、大きな焔と黒煙が立ちのぼった。
「この煙は、龍王山からもよく見えるはず。もう陥ちたかと、味方はみな、この方らの神速に舌を巻いているだろうよ」
士卒とともに、腰兵糧を解いて、空腹をみたしながら、市松は愉快そうに云った。
きのうから寝ていないので、交代で一睡した。午睡からさめてみた頃、焼けるにまかせておいた砦も、三分の一を焼いて、下火になっていた。
一部の兵をのこして、その晩、市松は龍王山へ引っ返した。秀吉に会って報告したのは次の日である。ずいぶん褒めてもらうつもりで市松は得々と戦況をはなした。もとより秀吉も機嫌のわるいわけはないが、さりとて市松が期待したほど賞揚もしてくれない。
「そうか。よくいたした」
それっきりである。
これきりか、といわぬばかりな顔して、市松がなお水之手奇襲の着想を誇らしげに談じていると、
「もしあの砦へ、麓からかかって参るようだったら、そちは武将の資格なしと見ていたが、でもよく気がついた。なお精励せい、やがて、一かどになれるだろう」
と秀吉はいって、あとは周囲の人々と、ほかのはなしをしていた。
「退りますが……他には別に?」
市松が起ちかけると、
「むむ。休息して、次の命を待て」
彼のうしろ姿は、見送られもしなかった。黒田、蜂須賀、その他の帷幕と、彼は何か凝議中である。それはみな小声と小声に交わされているので、極く身近のもの以外には、何を相談しているのかわからなかった。
福島市松は、おもしろくない。隊を解いて、部下へも、休めを令し、自分は空いている幕へ入って、ごろりと寝ていた。
幕の蔭で、虎之助の声がする。ざわざわと、大勢して何か行動の準備中らしい。市松は、幕のすそを揚げてのぞきこんだ。
「於虎。どこへ行くのだ?」
虎之助は具足の緒をむすんでいた。彼もことし二十二の若者とはなっている。市松と同様に、三木城攻略、そのほかにおいて、初陣もすみ、一かどの働きもしていた。
総じて、ここ五年にわたる中国陣は、秀吉の子飼の小姓、或いは、家中の子弟などの、武将の雛鳥たちにとっては、絶好なる実戦の練習場となったことは、次の時代を負って出た人材の多くが、まだこの頃には、みな年少十六、七歳から二十歳だいであったところからも見のがせないことである。
とはいえ、秀吉の小姓部屋にも、いつか洟たらしは一人もいなくなった。一柳市助の息で一柳四郎の十五というのが最年少であった。蜂須賀彦右衛門の子家政も二十三歳。藤堂高虎が二十七。後の刑部──大谷平馬吉継が十九歳となっている。仙石権兵衛などはすでに三十をこえて、小姓部屋の雛仲間から巣立ち、一方の指揮官として、淡路や四国へ派遣されたりしていた。
思うに、秀吉も充分意識的に、これら子飼の少年をその才能によって、随時適所に、使ってみていることは慥かである。そして、
(これはものになる。これはここに使える)
などその素質を見とどけておき、かたがた、生死の大道場で、朝夕にこれらの次の中堅を孜々錬成の真っ最中であったということもできよう。
「市松、おぬしこそ、陣中も憚らず、何でごろごろ怠けているのか」
問われたことには答えず、虎之助は、具足を着け終ると、こういって、幕の裾をふり向いた。
その幕の隣から福島市松は、腹這いのまま覗きこんで、今なお姿勢もあらためないのである。で、頭から幕をかぶって、頬杖つきながら物をいっているような恰好だった。
「おれは、いいのさ」
市松は傲慢にいう。
虎之助に対するとき、いつもこう兄貴顔するのは、彼の持前でもあった。
「ゆるゆる休めと、殿から公然おゆるしをいただいた体だ。おとといから昨日にかけ、たった一日半夜で宮路山の城を陥し、このたび備中入りの魁に第一の功をあらわした俺だ。ただ怠けているのとはちがう」
と、いよいよ大きな鼻をして、
「ところで、貴様はどこへ行くのか。いやに武者振りばかり作っているじゃないか」
やはり気になるものとみえ、じろじろ虎之助の支度を見、また、辺りの部下たちを見まわしていた。
市松が見まわしたのもむりはない。虎之助と共に、頻りと身支度に余念ない侍たちは、みな忍びの者ばかりだった。
甲賀侍の美濃部十郎。伊賀侍の柘植半之丞などの顔も見える。
「え。おい。どこへ行くのか」
市松はとうとう起き上がって、こっちの幕へ来た。
「いえないよ。行き先は」
虎之助は、意地わるく、明かさなかった。
「なぜいえぬ」
市松はくってかかる。後輩に対してこの先輩は常に敬意を強要した。
「軍の機密。あとで分る」
「あとなら聞く必要はない。機密とは、敵の間者に対することだ。おれに機密をまもる必要があるか」
「まず味方をあざむけと、孫子か何かにありました」
「生意気をいうな。こら、どこへ行くんだ。於虎、いえ、いわんか」
「では、敵へもれたら、貴公が密報したとするが、よろしいか」
「よろしい」
「それほどまで、責任をとるなら告げます。おさしずのあり次第に、冠の城へかかるべく待機しているところなので」
「なに、冠へ」
「いかにも」
「冠には、先日から杉原七郎左衛門の手勢千五百が、攻め向っている。七城中の堅固、なかなか杉原どのの手にもおえぬと、苦戦が報ぜられておるのだぞ」
「そのような由です」
「そこへ貴様などが、何の足し前にまいるか」
「わかりません」
「わからずに戦場へ出るやつがあるか」
「ひたすら殿のお旨にあることでしょう。虎之助は、殿が行けと仰っしゃれば、地もくぐり天も翔けてみせます」
「これだけの人数をつれてか。わずか二十名ほどしかおらんではないか」
「人数など問うところではありません」
「いちいちおれの鼻面をこするような物云いばかりするやつだ。於虎、貴様は同郷の後輩だから親切に教えてやろうと、俺は好意を示しているのだぞ」
「戦だけは一命仕事、いのちを抛りだして、してみること以外には、ひとのはなしや、ものの書からも楽に学ぶことはできません」
「勝手にせい」
市松が、背を向けたとき、
「加藤どの。殿が、すぐ来いと、呼んでおられる」
平野権平が来て呼びたてた。
「はいッ」
と、素直に虎之助はその姿へつづいてゆく。
市松はなおあとに立って、甲賀侍の美濃部十郎にはなしかけていた。
「冠山は、日幡よりも宮路山より要害な城と聞く。杉原どのの手勢すら難攻にあぐねているのだ。奇襲するにせよ、よほどな決意でかからぬと不覚をとるぞ」
誰も感心した顔もしない。美濃部も柘植も黙笑して聞いているだけである。市松は手持不沙汰に立ち去った。
虎之助はなかなか君前から帰って来なかった。備中平にはきょうも赤々と陽が落ちかけていた。敵の主城高松城のあたりに薄い炊煙がたちのぼっている。
「いざ。行こう」
虎之助の声がした。片鎌の槍を持って一同のうしろへ来ていた。この槍は、彼が十八歳のとき、鳥取城の搦手で功名をたて、その折、秀吉にねだって拝領した彼のまたなき愛槍であった。
冠山の城は、地勢は嶮、守将は剛、出城として、充分守るに足る資格をそなえていたが、ひとつ欠陥があった。
城中の将が、和を欠いていることである。具体的にいえば、守将林重真の部下黒崎団右衛門と松田九郎兵衛とが、平常から私党を擁して、合戦となるや事ごとに、意見の一致を欠いていることだった。
秀吉はあらかじめこの弱点を偵知していたが、杉原七郎左衛門の手勢にこれを攻めさせると、さしも不和な城兵も、そのときだけは一体に結束して、猛烈に寄手に当ってくるのだった。
今暁も──である。
秀吉は、その杉原隊へ、
(朝駈けして、一揉みに、揉みつぶせ)
と、厳命を出し、少なくも午頃までには、陥落の報があるかと、期待していたものらしい。
ところが、夥しい損傷をうけたのみで、依然、城は陥ちない。攻めれば攻めるほど、城兵の結束は強固を示してくる。彼の要害がものをいうので、所詮、急にこれを陥すことは不可能に近い、と使番のつぶさな報告であった。
虎之助にたいして、秀吉からひそかに、
(忍びの者をつれて、城中へ入れ。城中に流言を放ち、あわよくば、火をつけて逃げて来い)
という命が出たのはそれからのことだった。
伊賀、甲賀の者の役目は、いつも攪乱戦か偵察だった。極めて小隊をもって敵の内部に入りこみ、流言蜚語を放ったり、水之手や火之手を脅かしたり、あらゆる手段で敵の神経を衝き、自信を掻きみだすのである。
いわば陰性の戦だ。華々しくない。勇ましくない。──それと甲賀侍や伊賀侍を部下として駆使するのは甚だつかいにくい。この組の者にはこの組特有な底意地のわるさと専門の智能と、そして陰性な気性をもっている者ばかりだからである。
誰も嫌がるこの乱波の役をいいつけられて、虎之助はいま、冠山の城へ近づいた。
自分の家来はわずか六人しかつれていない。あと二十名は使いにくい忍びの者だった。ここも山城なので、虎之助が裏山へかかろうとすると、甲賀侍の美濃部十郎が、
「加藤どの」──と耳のそばへ口をよせていう。
「寄手から見て、敵の弱点と思われるほど、敵も用心しています。うっかり裏山へは登れませぬ。まず支度をしますから、すこしお待ちになるがよい」
十郎は、手下を招いて、同じように耳打ちした。
四、五名の忍びが、大手の方へ、風のように消えて行った。
しばらくすると、野良犬の吼えあう声がけんけんと遠い闇に聞えた。
大手の狭間から二、三発、小銃の音がする。──遥かに退いている寄手の陣、杉原隊のあたり、墨を流したような夜気もにわかにうごくかのような気配が感じられた。
「もうよい頃合い。ぼつぼつ登りにかかるとしましょう。敵中の注意はいま悉く大手にそそがれている。どうです、いまの犬の啼き声は、人間とは思われますまい」
美濃部十郎はそんなことを語りながら先に立った。日頃でも敵の中に半分、味方の内に半分、両棲を常としている伊賀、甲賀の者は、すこしも敵地深く入って来たというような危惧を持たないもののようである。坦々たる自分の家の庭でも歩くように攀じのぼって行く。
搦手に北之門がある。
裏山の絶壁と、その門とのあいだに、細長い谷が繞っていた。もちろん人工の空壕である。
虎之助と、伊賀、甲賀の者は、その底を這っていた。
「大将」
十郎はまた虎之助の耳元へ口をよせた。息子のような若い虎之助に向かって、飽くほど戦の場数を踏んで来た老甲賀武士が、わざとそう呼ぶことばの中には、単なる敬称ともちがう子ども扱いに似た揶揄がいくらかふくんでいた。
「あなたは、ここにおればよい。敵城の中というものは、よほど胆がすわって来ないと、どんな小城でも、勝手のわからないものだ。どうしたって、逆上ってしまいますからな」
「…………」
「いくら巧みに忍びこんでも、ひとりが中でどじを踏むと、全体の者が、動きがとれなくなる。足手纒いだ。それにあなたは、今夜の大将だから、これにいて、吉左右をお待ちくだされば、それでよい。決して、あなたの御使命を為損じるようなことはせぬ」
こう囁くと、美濃部十郎や柘植半之丞の輩は、仲間だけで、野鼠のように、壕の底を走り去った。そして北之門から百間ほど先に、やや塀の低いところを見つけて、そこから城内へ忍びこむつもりらしく、一かたまりになって、前後を窺っていた。
すると、虎之助は、家来の者の肩車に乗って、壕の上へ這い上がった。つづいて二、三名が、彼と共に上がって来る。
壕の上で、また人間の踏み台を作った。ひとりが這う。ひとりがその背中へ乗る。その肩の上に虎之助が立つ。
手が、塀の上にとどくと、虎之助は身を弾ませて、家来の肩から離れた。すぐひとりが下から片鎌の槍をその手へ渡す。
虎之助は、槍を左の小脇に持ちかえた。そして城内を望みながら、
「冠山の城へ、一番に乗り入る者。羽柴筑前守の小姓、加藤虎之助清正ッ」
と、大音にどなった。
姿はとたんに城内に跳びこんでいる。不意をくったのは搦手の城兵だったことはいうまでもないが、むしろより以上あわてたのは彼方の塀の下に寄って、草のそよぎにも神経をつかっていた伊賀、甲賀の仲間だった。
「あッ。無茶なッ」
「ばッ、ばかなまねを」
罵ってみたが、追いつかない。いかに敵の虚を衝くにせよ、総体で二十六、七人の小勢で、むらがる敵の中へ入ってどうする気だ。命知らずにもほどがあると、呆れかえるよりは腹が立ってしまったのである。
とはいえ、虎之助ひとりを見殺しにして、逃げ帰ることもできない。美濃部十郎は、舌打鳴らしながら、
「飛びこめ。こうなったら、存分暴れて帰るしかない」
手下にいって、無二無三、塀へ取りついた。人の性根というものは、こういうとき、遺憾なく出るものである。十郎はその手下へ、飛びこめ、と命令しながら、また終りに、帰ることをいっている。
同じ侍でも、伊賀、甲賀の者には、行ったきり、死んだきり、という信条はないことになっている。いかなる辱をしのんでも艱苦しても、生きて還って来ることが、使命の完うになる役儀だからである。
「美濃部十郎ッ。二番乗り」
彼が、忌々しげに、大声で呼ばわったとき、それを奪うように、彼方の塀の上でも、
「城乗り二番! 加藤虎之助家来。飯田覚兵衛ッ」
と同時に名乗って、城中へ躍りこんだ者があった。
この搦手には、城方の一将、松田九郎兵衛の手勢が守っていた。
あわてふためいて、
「北之門だ。いや水門だ」
と、右往左往する混乱ぶりが闇のなかにもよくわかる。
虎之助は、その片鎌の槍をしごいて、敵兵二、三名を引っかけた。
うしろから、続いて来るものがある。頻りに、敵を斬って自分のあとについてくる。
振り向いているいとまはないが、虎之助は心のうちで、
(覚兵衛だな)
と、知っていた。
飯田覚兵衛という家来は、彼が十七のときに召し抱えたものである。その頃、長浜の城で木村大膳の手に属し、主人秀吉から初めて三百七十石の禄をもらったとき、虎之助はそのうち百石を割いて、山城八幡村から一名の浪人をよんで抱えた。それが飯田覚兵衛だった。
(まだ幾人もの郎党をお持ちにならなければならないのに、三百七十石のうち、てまえ一人がその三分の一も戴いてしまっては)
と、覚兵衛はひどく迷惑がったが、虎之助は、
(いや、その十倍も百倍も与えなければ、おまえほどの男前の者に、主人顔はできない。小身のうちは、それだけでゆるしておけ)
と、ほとんど長上に対するような礼をもって抱えていた。
(この人のためには)
と、覚兵衛が誓っていたことは無言のうちにもあらわれていた。以後、いついかなる戦場でも、覚兵衛の影が、虎之助の影から離れていたことはない。
その覚兵衛の眼から見ても、前にある虎之助の働きぶりには、何の不安もなかった。覚兵衛はもちろん虎之助よりずっと年上だし、戦争の場数も多く踏み、浪人してもよい主人をと心がけて容易に仕えなかったほどであるが、彼は実にいまの主人には心から惚れこんでいた。
(──このお若い主人の豪胆は天質のものだ。単に大豪の質があるのみか慈悲もおふかい)
ひとたび仕えれば自分の生命も自分の生命ではない。覚兵衛が心のちかいには、この大豪にして慈悲ある青年の将来を天寿にいたるまで生かしてみたい念願がある。そのためにはいつでも主人の生命に代って自分の生命を打ち捨てる覚悟でいた。そこにこの主従はむすばれていた。
「あッ。おのれッ」
覚兵衛は、本能的に、ひとりの敵へとびかかった。おそろしく敏捷精悍な敵が、虎之助のうしろへまわって、長巻を振りかぶり、あわや斬り下ろそうとしていたのを見つけたからであった。
地ひびきがした。
血漿のけむる中に、主従は顔見あわせ、にこと笑った。
覚兵衛は注意した。
「そこらはもう砦の本丸に近いようです。ちと深入りしすぎはしませんか」
虎之助はかぶりを振って、
「一気に、わざと、城の真っただ中まで駈けて来たのだ。覚兵衛、呶鳴れ、呶鳴ってあるけ」
「喚けとは」
「搦手の守りは、城将の松田九郎兵衛とみえた。その九郎兵衛と日頃から不和な黒崎団右衛門が、城内から裏切りを起したように、云い触れて駈けまわれ」
「承知しました」
ふたりはまた、乱脈に駈け惑う城兵のなかを、縦横に斬って通りながら、こもごもに声を放った。
「裏切者、裏切者ッ」
「団右衛門の組が火を放けて歩いておるぞ。黒崎団右衛門の手の者に油断するなッ」
平常の内訌は、こういう時、収拾のつかない混乱となって現われた。
城兵は城兵を疑い、共に防ぐ味方でありながら、味方同志が恐れ合って、敵をよそに同志討ちを演じ、果ては、城をすてて、思い思いな口から逃散し出した。
この頃、大手方面でも、
「すわ、搦手の辺りから、奇襲して城内へ入った味方の一手があるとみゆるぞ。突っこめ、正面から」
と、先頃から攻めあぐねていた杉原七郎左衛門の手勢も、無二無三、城壁へとりついた。
ここの一番乗りは、杉原の郎党山下九蔵という者だった。
しかしそのときすでに城兵の大半は潰走し、前日までの頑強性は失われた後のことなので、正確なる城乗り一番の軍功は依然搦手からはいった虎之助の上にあることはいうまでもない。
こうして、この夜、冠山の城も陥ち、城将の林重真も、城と運命を共にした。
虎之助は、あとの始末を、杉原七郎左衛門の手に委せて、龍王山へもどるとすぐ、秀吉のまえに出て、
「おいいつけの度を超えて、つい独断、立ち働きいたしました。万一仕損じたみぎりは、生きて帰らないつもりでしたが、思いどおり城が陥ちたので立ち帰りました。御命令に違背の罪、どうぞお叱り置きねがいまする」
と、いった。
秀吉は、否と、頭を振り、
「違背ではない。万一、敵の搦手に接近して、敵に間隙があれば、そう致すであろうとぞんじたゆえ、特に、思慮勇気ふたつあるそちをさし向けたのだ。よしよし。……このたびは二人ともよくいたしたぞ」
と、賞めた。
だが、二人ともとは、もう一名誰のことをさしたのか、虎之助が顔を上げて見まわすと、秀吉のかたわらに、福島市松が見えた。それまでやや仏頂面していた市松が、急に顔を赧らめて、はっと指先を下へつき、喜色を姿にかがやかしている。
「褒美は他日みなとともにつかわすであろう。当座のしるしまでに」
市松にも、虎之助にも、同様な感状が下りた。虎之助が感状をうけたのは中国陣に臨んで以来、これで二度目であった。
宮路、冠山の二城を失って、七城連環の敵の外輪は、その防禦陣に歯の抜けたような揺ぎを呈し出した。一歯を失えば両歯がゆらぐ。秀吉は努めて味方の兵を消耗せずに、次々の歯を抜いてゆこうとするもののようであった。
それからまもなく、また加茂の城が、ほとんど手ぬらさずに、羽柴軍の手に帰した。これは、守将の生石中務を東軍に内応させ、無血占領の効を収めたものだった。
高松の城についで頑強と思われたのは、日幡の城である。ここには城兵が千余人もたてこもり、中国の豪将日幡景親がおり、また軍監としては、毛利家の一族上原元祐がこれを扶けていた。
これをいかに陥すかの問題である。三万の味方全部を配置して、敵の諸城をして完く反撃に出るの余地もなからしめながら、龍王山の中軍、秀吉のいるところには、なお一万五千の大兵をそなえ、余裕を充分に示威しながらも、彼は敢えてその大兵をみだりに用いて功を急ごうとはしない。
「何か、あれは。……陣外に賑やかな音曲が聞えるではないか」
営中の幕をあけて、秀吉はぶらりと出て来た。耳に喧しいばかり笛や鉦や太鼓の音がする。戦陣ながら晩春の真昼、彼も作戦に倦んだか、にこにこしながらその音曲につられて顔を見せたのであった。
小姓の脇坂甚内や片桐助作や石田佐吉など。また侍たちも各〻の幕囲いから飛び出して来て、秀吉のそぞろ歩きに従った。
「あれは、旅芸人の群れが、ふもとの市に、小屋を掛けて、人寄せをしている音曲でございましょう」
蜂須賀彦右衛門の子、小六家政がそう答えた。
小六という名は、蜂須賀代々の名で、父のものであったが、いまは青年家政が譲りうけてそう称えている。
「ほう。この麓に、いつのまに市などができたか」
見にゆくつもりか、秀吉は龍王山の坂道をのぞいていた。何の予告もなく、彼が陣外へ逍遥して来るのを見て、哨戒の兵たちは、眼をみはっていた。
「実に、早うござります。商人というものは」
生駒甚助が、傍らから答えた。これは近侍中での老武士で、世態を観る眼をそなえている。
「ここへ御本陣がさだめられたと知ると、翌る日はもう近村の男女が、働きを求めに来たり、残飯を乞いに来たり、野菜、菓子、針や糸の類まで売りに参ります。さらに御滞陣が十日にわたると、ぼつぼつ露店を並べ出し、洗濯女や一杯売りの酒瓶屋も集い、やがて半月ともなれば、こんどは遠郷近国からも、あらゆる商人どもが寄って来て、忽ち、市を開き、市を目あてに、旅の芸人までが寄って来るというわけで、はやここの麓には、小さな町ほども人々が賑わって生業をいたしおるのでございまする」
生駒甚助の説明は親切であった。
「そうか。そうか」
秀吉は満足らしい。
家に客が多いのを喜ぶのと同じような気もちで、自分の本陣のまわりに、そうした庶民が集まって来るのは彼として嬉しいらしい。
「……なるほど」
と、その実景を、彼はほどなく麓に近い高所から眼に見ていた。
軍の行動をさまたげない範囲に一劃を区ぎって、市を許可してあるらしい。そこに見られる掛小屋だの露店の数は社寺の賽日を思わせるほど雑鬧している。もちろんここを中心とする三万の将士を顧客として始まったものであろうが、その人間を目標にまた人間が集まって複数的な繁昌を呈しているのであった。
「……なんと、盛んなものではございませんか」
と、甚助は、秀吉の下にひざまずきながら、彼の面を仰いで、
「諸国に戦は多く、戦のあるところ、かならず本陣も置かれますが、こういう景観が見られるのは、まったくわが殿の陣せられるところにのみ見られる現象でございまする。……殿御自身におかれても、このような光景は、いかなる戦陣の場所でも、御覧になったことはござりますまい」
「……む、む。ないな」
「決して、諂るわけではございませんが、たしかに、殿の御人徳によるものかと存ぜられます。それとこの中国において、わが羽柴軍が、ふかく民心を得た証拠とも申されましょう」
「…………」
足もとの声をそら耳にして、秀吉の眼はただ下の市の賑いに見とれている。ひそかに彼は、主君信長に従って赴いた北陸や伊勢の陣を思いくらべていた。
ひとたび、信長の征馬行くところは、秋霜の軍令と、罰殺の徹底に、草木も枯れる概がある。ために、信長その人について、深い理解をもち得ない敵国の民衆は、織田軍と聞けば、涙も仮借もないものと一途に怖れおののいて、その幕営をめぐって市が立つどころか、求めても、人は逃げてしまうし、捜しても、物資は地下に蔵されてしまう。
秀吉は多年、それを見て、それに倣うことを避けていた。また彼の性格からも、信長のようにはできなかった。
まもなく秀吉のすがたは市のなかを歩いていた。もちろん微行して。
旅芸人の一群が、鄙びた曲楽にあわせ、刀玉取という曲芸を演じている。ここには戦場の陰影も恐怖もなく、無数な顔がただ嘻々としてそれを見ている。
秀吉は見物人の喝采している旅芸人の手元よりは、べつな方へ眼を逸らしていた。その視線をうけているのをまだ気づかずに、これも頻りに芸人の刀玉取に見恍れながらにこにこしていた若い旅支度の商人風な男がある。
男は、見物人の輪の向う側に腰かけていた。側には大きな荷物をおいて、片肱を凭せ、ひどく屈託のない若々しさを顔にたたえて、ときどき、大口あいて笑ったり、自分の鼻を抓んでみたりしている。
「オ。弥九郎がおる」
秀吉はつぶやいて、
「小六」
と、そばに佇んでいる蜂須賀家政へそっといいつけた。
「向う側の木の根に腰かけて、けらけら笑うておる色黒い痩せがたの若者。そちは覚えないか」
「見たようにもぞんじますが」
「泉州の弥九郎じゃ。後から本陣へ召しつれて来い」
云いのこすと、秀吉は他の者に守られて、先へ山へ帰った。
小六家政も、あとから程なく登って来た。弥九郎という若い商人をうしろに連れて。
「来たか」
秀吉は営中の楯を敷きならべた上に毛皮を展べさせて坐っていた。茶道衆に命じて一ぷく求めていたためである。信長から拝領した名碗をこんな所へも持って来て無造作に用いている。──それを茶道衆の手へもどして、
「ここへでいい。すぐ」
と、家政へいう。
家政は、念を押して、
「ここへ召し連れますか」
と、たずね、秀吉のうなずきを見て、すぐ弥九郎を呼び入れた。
「はいはい。恐れ入ります。……お座所は、こちらでいらっしゃいますか」
幕の外から弥九郎の声がする。堺ことばの軽快な語尾と商人らしい気ばたらきが、みじかい辞の中にも鮮明に働いている。
「お久しゅうございました」
はるか下に手をつかえたときは、さすがに能う限り身を低め、額も地につかぬばかり平伏した。
秀吉は、見て。──近習の輩へいった。
「しばらくそち達は、退っておれ」
ここを起つのは何か不安なように、弥九郎の姿へ警戒の眼をそそいでゆく侍臣もあった。けれど間もなくこの幕のうちは、秀吉とこの若い一商人とふたりきりになっていた。
「寄れ。もそっと」
「おそれ入ります」
「弥九郎」
「はい」
「この辺へ何しに来ていたか」
「商用で参りました」
「薬は売れるか」
「宇喜多様にも、黒田様にも、諸所の御陣中で、大量にお買上げをいただいておりますゆえ、このたびは店の者どもも総出でこちらに出向いておりまする」
「来たらなぜ筑前の所へも、稀には顔を見せぬか」
「御陣務のおさまたげと存じまして。──けれど、御家臣衆のそれぞれの御陣所へは、欠かさずに御用を伺いながら廻っておりますので」
「そうか」
と、間をおいてから、秀吉はまたいった。
「では、毛利方のあちこちの城へも、商用に歩くであろうな。日幡の城などへも、折々は商いに参るかの」
弥九郎の眸は、ちょっと慌てたような光をうごかした。
けれど、この若者には、ひどく豪胆な一面があるらしい。
いったい堺そだちの商業人は、荒胆の戦国武将たちをも、そう眼中には措かないくらいな独自の豪毅を持っている。よくいえば海外との交流に自然、養われている大気濶達な風であり、悪くいえば財力を背景とし、経済的に訓練されたするどい智能が、どんな場合にも肚の底に人を喰った観察をなすほどな余裕をもっていることだった。
まだ三十にも届かないこの小伜の弥九郎にすら、秀吉は、それを見る。
(これも堺人的な才物)
と、その一言半句、ひとみの働きまでを、彼はながめ入った。
弥九郎は、小鬢のあたりへ、手をやって、しきりと自分の襟を撫でた。
「どうも、恐れ入りました。お察しのとおり、商人でございますから、御註文をうければ、おことわりはいたしませぬ。日幡の城へも、冠山の城へも、先頃は御用品を届けに参りました。──けれど近頃は伺いません。何分、御軍勢がとりまいておられますゆえ、易々、往来はゆるされませんので、はい」
明快に答えてから、急に、
「そうそう。このたびは、宮路の城も冠山の城も、早速お手に入れられ、御戦果のほど、まことにおめでとう存じあげまする。中国の百姓町人はみな今日では、一日もはやく御平定の日をみて、御仁政の下に安心して働けるように、と心から祈っております。世辞ではございませぬ。このことは、市に集まってくるあの賑いを御覧じましても、おわかりでございましょうが」
と、云い足した。
秀吉は疑わない。弥九郎のことばを、その顔いろは、すらすら受け容れている。──が、次に彼の云い出したことは、弥九郎もちょっと予想していなかった問題だった。
「そちに訊いたら詳しくわかろう。日幡の城には、中国の豪勇日幡景親が主将として坐り、その軍監として、毛利元就の妾腹のむすめ聟、上原元祐が彼を扶けているかたちだが、一方は毛利の外戚、一方は剛骨な勇将、こうふたりが一城にあって、折合はうまくついているかの。城兵などの評判はどうじゃ。そこらの内輪を、ちと聞きたいのだが……もしそちに、日幡への義理合があっては正直を語れまい。語れぬものならむりに訊こうともいわんが……どうじゃな弥九郎」
「あちらへの義理合などは、決してございません。薬種をお納めいたしたのも、数回はございますが、日幡家の老職、竹井惣左衛門様と、てまえどもの養家の先代が少々の縁故がございましたためで、てまえ自身も日幡景親様へは、直接お目にかかったこともない程度でございますから」
弥九郎はなお、この話題こそ、相手の人が自分をここへ招いた重点と覚ったので、ことばの不足を云い加えて、
「──むしろ、てまえどもといたしましては、御当家こそ、ずいぶん前々からの大切なお出入り先と心得ておりまする。殿にはもうお忘れかもしれませんが、いちばん初めにお目にかかりましたのは、もう十三、四年も前、たしか信長様が、初めて堺へ兵をお入れ遊ばした年で──わたくしもまだ堺の生家小西屋におり、年も十二、三歳の頃でございました」
「そうそう。そちはなかなかきびきびした小僧であった」
「殿が、小西屋の店へお立ち寄りくださいまして、店頭で遊んでいた私の頭を撫で。──この小蛙は人怯じせぬ面がまえしておるわ。どうだ、侍にならんか。──そう仰っしゃって下すったことを、ただ今でもよく覚えておりまする」
思い出を語られると、秀吉もつりこまれて、懐かしそうに笑った。
「そうか、あの時、そんなことを申したかなあ」
「子ども心に沁みたことは、妙にいつまでも、忘れないもので」
弥九郎は、ぽつんと、ことばを切って、黙った。
横道へ逸れた話を、後へ戻して、秀吉から質問をうけたことについて、答を胸の中で纒めているらしい。
やがてまた口を開いた。
「日幡の城の内情について、聞き及んでいる要点のみ申しあげます。ただし多くは人の風評、真偽は御賢慮をもってお判じ下さい」
「む、む」
「ひと口に申せば、日幡城の内輪は、うまく一致していないそうです。主将たる景親殿と、軍監の元祐殿と、いつも命令二途より出て、たがいに固執し、論議するといったような場合が多く、老職の竹井惣左衛門様も、ほとほと、困ったものと、てまえ如き者にまで、嘆息を見せられたことがありました」
「上原元祐の妻も、日幡の城内に住んでおると聞いておるが」
「あの奥方は、さすがに毛利元就様の血をうけ、御妾腹から出たお方ではありますが、賢夫人であると、評判のよいお人です」
「良人の元祐の人物は」
「これは、とるに足らないお人ではないかと思われます。自分の妻が元就公のむすめだということを鼻にかけて、何事につけても、格式ばかりやかましくいう。これも両将不和の一因とか聞き及んでおりますが」
「ウム、なるほど」
あらかじめ偵知していたことと、弥九郎のはなしとは、よく一致していたらしい。
秀吉は、ひとみを大きくして、もういちど深く顎をひいた。
「弥九郎」
「は」
「もっと、前へ寄れ。これからの談合じゃ」
「はい」
怯せず、弥九郎は、前へすり寄った。ほとんど、膝もふれあう程まで。
「何事でございますか」
「どうだ、侍にならんか。──これは十数年前にも、小西屋の店さきで、そちの頭を撫でながらいったという、わしの言葉手形を、ここで実行することになるわけだが」
「……左様ですな」
うんと、すぐにはいわないのである。弥九郎は熟慮してから答えた。
「──成ってもよろしゅうございますが」
「が──と濁るのは、成ってもよし成りたくもなし、というわけか」
「忌憚なく申しあげます。御承知のとおりてまえは、堺の薬種問屋、小西屋寿徳の次男と生れ、のちに岡山御城下の同業の家へ養子として参り、たえず堺と中国を往来し、諸家へ、薬をお納めしておりますが、これはなかなか悪い身分ではございません」
「……ふム」
へんなことをいう臆面のない男だと、秀吉は、感心しているような、またすこし、鼻白んだような面持で、まじまじと、弥九郎の唇もとを見まもった。
弥九郎は、当然なことを、当然いっているような態度である。
「人様には、腰を低め、身には粗服、足にはわらじで、こう忙しくしておりましても、これで心はなかなか楽しいのでございます。申してはちと憚りありますが、中国御陣のお蔭で、外傷の薬、そのほかの薬種は、おもしろいほど売れますし、将来は海外とも交易し、あちらの薬種香料なども買い入れ、ずいぶん商人として大きく働ける時代でございますからな。──ここで商いの道を捨て、侍衆の端について、槍の持ちようから習い覚え、戦場の中をまごまごして見ましょうとも、どうも大した自信は持てそうもありません。これは考えものでございますな。子どもの時なら一も二もなく仰せに従ったでしょうが、唯今では急に御返辞はいたしかねます」
大きくても小さくても、町人は町人として、社会的にはっきり階級づけられている今日である。さむらいに取り立ててやるといえば、随喜して、仰せにしたがうというのが人情であり常識であった。
ところが、小西屋弥九郎は、そうでない。
この逢いがたい時代に逢って、将来大いに、武家には成す理想が多いというなら、同様に、商売としても千載一遇の時、何もさむらいに転じなくとも、自分は自分の職をもって、この時代に充分、希望も生きがいも持ち得ている者。──せっかくながら簡単には御返辞いたしかねるというのであった。
「むむ。そうか」
秀吉は一応唇をつぐんだ。
これが堺人士の特徴というものだろう。本来ならば、利害をこえて、不つつかな身にありがたいお言葉、犬馬の労をとり申さんとか、お眼鑑にこたえ奉らんとか、打算を捨てて答えるのが普通なのに、将来の利害をあきらかに云い立てて、
(よく考えたうえで)
という返答は、近頃、武門の間では聞き馴れないことであった。
けれど秀吉は、それを不愉快らしくは少しも聞かなかった。むしろこういうはっきりした男も大いによろしい。いったん義によって然諾しながら後になって利害損得にぐちぐちいうよりは遥かにましである。それにこういう特徴も大いに用いどころがあるし、使うには使いよいことなども考えられた。いや多分にそういう男だということは、知っての上の交渉であるから、さして不快とする理由もなかったのである。
「弥九郎。商人というものは、目さきが大事ということをよく申すが、目さきとは、目の前という意味ではあるまいな。見越し、先行きということではないか」
「仰っしゃるとおりでございます」
「すると、そちの見越しは、ちと目の前に滞りすぎておる。なぜ、先行きの大利を考えん。商売として立っても男児の仕事は大いにあろうが、十間間口を五十間に広げ、三戸前の土蔵を百棟の土蔵に増してみたところで知れたものではないか。一国一城の主となるのとは大へん趣がちがう。働きがいがちがう。男と生れた生涯の幅もちがうが、どうだな」
「もとよりその辺はよく分っておりますが」
「当座の禄も、喰えぬほどな微禄は与えぬ。古参並に扱ってやろう。戦場の往来が不得手ならば、筑前のうしろに控えて、帳面算盤を持っておるもよろしい。軍のうちには汝のような才能も必要なのだ。いや、とかく麾下のさむらいどもは、陣頭へ出て、華々と生死の中をくぐりたがってのみいてこまる。糧米や軍需の数字を按じ、帷幕の蔭に経営の苦心をするなどはさむらいの潔しとする仕事でないようにみな嫌っていかん。というて、それに不適な才能をむりに持って来ても、これは当人の天性をつかいころすことになるからな。そこでそちのような人間も、大いに重用され得る理由が生じてくる」
「殿。……御返辞申しあげまする。てまえのような者でも、お用いいただければ、お役に立ちそうに思われて来ました。御奉公することにいたしましょう。何とぞ弥九郎の生涯を、不足なく使いきったと後に思し召すように、充分お召しつかい下さいまし」
「承知したか」
「何のかのと、自分の申し分ばかり云いたてて恐れ入りました」
「左様なこと詫びるに及ばん。随身のうえは、早速にも、そちに命じることがある。いわば奉公始め。弥九郎。まず一働きしてみせい」
小西屋弥九郎は、暇を乞うていちど岡山へ帰った。けれどまたすぐ帰陣して、その日から秀吉に仕える身となった。
小西弥九郎行長とみずから称え、ここに一かどの侍になったが、弥九郎は、髪も姿も、前の町人作りのまま、秀吉の命をうけて、間もなくどこかへ立ち去った。
数日の後、彼は、日幡城の中にある竹井惣左衛門の邸へ、客として訪れていた。
密談半夜に及んで、そっと城中から帰った。
惣左衛門は、軍目付上原元祐の家老である。弥九郎が去ると、ひそかに元祐の前に出て、
「昵懇の小西弥九郎ともうす者がぜひお取次ぎを得たいとて、夜前、この一書をたずさえて手前を訪ねてまいりました。一応、殿のお目にだけは入れておくと答えて帰しましたが」
云いながら、ふところから秀吉の書簡を出して、元祐のまえに供えた。
元祐は精読した。
主人が、それを見て、どんな気色を顔に示すだろうか。それを、惣左衛門は、うわ目づかいに、窺っていた。
まんざらでない顔色である。秀吉の手紙はもちろん招降の書簡で、内応して、城をわたすなら、信長に取り次いで、戦後充分な恩賞をもって酬おう。備中一国は貴下に呈してもよい。そう認めてある。
「惣左」
「はい」
「そちはどう思う」
「てまえは、ただ殿と、生死をともにいたすもの。殿の御意のままに従いまする」
惣左衛門のことばは、すでに元祐の中にうごいている心をすすめているのと同じであった。
が、さすがに、元祐も迷っていた。容易に決意はつかなかった。
惣左衛門が重ねていう。
「何分、ここの城主、日幡どのが、あのように頑迷では、いかに防いでも、落城の日の遠からぬことだけは確かです。それにひきかえ、敵の秀吉はこの中国においても、日増しに衆望を昂めているようで……」
と、主人の眉をまた見つめていたが、元祐もむしろそれに同意らしく窺われたので、次のことばにはもう忌憚なく自分の意思を述べた。
「ひとたび落城を見てからでは万事休すです。御最期か、生捕りの憂き目を見るかの二つを出ません。お意あるなればいまのうちで」
「むむ。……惣左。そちもそう考えるか」
「思慮の乏しい日幡景親どのと共に惨敗を喫するよりは、むしろ……と」
「料紙と硯をかせ」
元祐は、筆をとって秀吉へ返簡を書いた。
内応のこと承知と。
「惣左。ではこれを」
「はッ」
「覚られるな。景親に」
「何のぬかりが」
惣左はふところへ入れた。
小西弥九郎が、一商人として、種々の薬品を納入に来たのは次の日だった。城内では、欠乏を告げていた品なので、彼の労を多とし平常に倍する値を払った。
代価は、惣左衛門の手から払われた。金子のうちに上原元祐の返書もつつみ込まれてあった。
「ありがとう存じます」
弥九郎は、公然、日幡城から出て行った。その足ですぐ彼が龍王山の陣地へ急いで行ったことは、不覚にも、日幡景親の手勢は気づかなかった。
滅亡に終るものは、たいがいな場合、外敵よりも内敵にその素因がある。内部に禍いの根のない限りは、外敵も乗ずることはできないからである。
日幡の城はすでに病を内に持っていたものだった。小西弥九郎を躍らせた秀吉の策は、単にその患部へ外から熱を加えたにすぎない。果然、内訌の疾患は遂に膿を出した。
城将日幡景親と、軍監の上原元祐のあつれき、味方同志の暗闘や中傷、それをめぐって策動する下部層の士気のみだれなど──城下に秀吉の大軍を迎え、背後に毛利家の興亡をにないながら、この中の人心は、人心の真美も純熱もあらわすことができないで、いたずらに人心の弱点──私慾、私憤、私闘といったような醜いものばかりを助成するような形態の下にあった。
捨てておいても、当然、瓦解するものだったにちがいない。──けれど弥九郎の往来は、急転直下、その日を早めた。
あれから間もない一夜。
「──即死された」
「たれだ、下手人は」
「城中に容易ならぬ裏切者がひそんでおるぞ。油断すな、面々」
声から声へ、騒然たることばが伝えられ、夜の明けるまで鎮まることを知らなかった。
城将の日幡景親が、北曲輪の防備を巡視中、何者かに、鉄砲で狙撃されたのである。
敵の弾にではない。明確に、味方の弾だ。鼎のわくような混乱と物議が果てしなく夜を徹し、そのあげくは、
「日頃、景親どのと不和な上原元祐のさしがねにちがいない」
「元祐の家老、竹井惣左衛門があやしい。先頃から薬売りの小西屋弥九郎と幾度か密会し、彼をもって、寄手の羽柴勢となにか聯絡をとったような形跡もみえる」
「元祐の邸へ行け。ともあれ、押しかけて、彼らの本心をたたいてみれば顔色でも知れる」
景親の郎党たちは、集結して、上原の住居へ殺到した。
夜来の騒動を、同じ城内にいながら、軍監たる上原元祐が知らないはずはない。にもかかわらず、元祐はゆうべから誰にも顔を見せていない。
「元祐を出せ」
「元祐に会おう」
日幡の郎党は、門を囲んで、怒号し合った。
「出ぬからには、やましい覚えがあるのであろう。われら長年の主人をうしない、しかも城下に大軍の敵を持ち、やり方もない鬱憤をもってこれへ参ったもの。押し入って元祐の首を挙げるがいいか」
邸内にも、上原の郎党がひしめいている。何事か凝議している動揺が感じられる。するとやがて、家来に門をひらかせて、静かに立ちあらわれた女性がある。
「しずまりなさい。城外の寄手に覚られたら何としますか」
上原元祐の妻である。手に薙刀をかかえていた。
元祐の妻としては、反感をいだいている日幡の郎党も、この婦人が、毛利元就の血をうけた妾腹の子であることは知っている。その点において、この女性の一声は、彼らの怒りを一時にせよ宥めるに効があった。
「夜来の変には、女であるわたくしとて、共々、胸をいためているところです。もし良人や、わが家の家中に、そのような異端を味方のうちに招いたものがあるなれば、あなた方のお手はかりませぬ。……今も今とて、そのことを、取りただしているところでした。しばし、調べのつくあいだ、静かに始末をお待ちください」
いうと、元祐の妻は、ふたたび門の扉を閉めさせて、邸の内へかくれてしまった。
「立ち帰ったか」
元祐は、室内へもどって来た妻にたずねた。
彼の妻は、涙の中から、良人の顔を蔑むごとく、恨むごとく、じっと見てから、
「いいえ」
と、だけ答えた。
そして、しとやかに、
「惣左衛門をこれへお召し下さいませ」
と、願った。
元祐の近侍は、すぐ家老の竹井惣左衛門をつれて来た。そして、惣左のすがたが縁に見えると、
「入るに及びません」
と、夫人みずから室の外へ出て行った。
とたんに、するどく、
「不忠者!」
と、夫人の叱る声がそこに聞えた。元祐は愕いて座を立って室外へ顔を出した。見れば、夫人は隣室から携えて出た薙刀の一颯の下に、竹井惣左衛門を手討ちにしていたのである。
「あッ。そ、そなたは、何で惣左を……。何で?」
蒼白な面の裡に、元祐は、抑え難い怒りを燃やしていう。
「お席へおもどり遊ばせ」
立ち騒ぐ近侍をしりぞけて、彼の妻は、一室を閉めきった。夫婦ただ二人となった。
手をつかえると、妻は、おろおろと泣きわなないた。しかし、もう泣くまいとするもののように、彼の妻は、やがて涙を拭って、良人へ迫った。
「御一緒に、相果てましょう」
「……な、なに」
元祐は、つめよる妻の膝から膝を退げた。
彼の妻は、ふたりの間に、懐剣を置いた。そして真心を声涙にこめて説いた。
「いかに日頃から御意見の相違があるとは申せ、竹井惣左衛門に命じ、日幡どのを暗討ちさせるとは何事でござりますか。──しかもその前に、敵の秀吉に気脈を通じ、利に惑わされて、味方を売る諜し合わせを遊ばしての上とは……」
「た、たれが一体、そのようなことを云い触らしたか」
「あなた様の妻です。あなた様のお心が分らいでどうしましょう。はや門外には、景親どのの郎党がお首を所望に来ておりまする。妻がお側におりながらやみやみお首級を人の辱めに任せるわけにはまいりませぬ。わたくしもお供いたしまする。潔く、罪を詫びて、お腹をお召しあそばしませ」
「腹を切れと。──奥方。そちは気でもちごうたか」
「元就のむすめです。亡父の遺訓には、利を求めて名を捨てよとはございません。あなた様とて、毛利家に忠義のゆえをもって、わたくしを娶合わされ、さらにまたこの度は、輝元様の目鑑をもって、軍目付にこの城へさし向けられたお立場ではありませぬか。……いかなる天魔がわが良人をこうも浅ましい者にはなしたかと、人の心の頼りなさが情けなく思われまする。……あれ、あの声、門の外にひしめくお味方の罵る声をお聞き遊ばせ。生きれば生きるほどお身の辱です。毛利家の名を汚しまする。さ。お急ぎ遊ばしますように」
血相をこめて、迫ると、元祐はなお死を惜しんで、ふいに逃げかけた。
「御卑怯なッ」
夫人は、良人へ抱きついた。鮮血が走った。
それから程経て、彼女の美しい死骸は、城廓の東の丘に発見された。良人元祐の首を前に置き、一枝の花を供えて、そのまえで見事に自害していたのである。
俯伏した黒髪は、西の方、毛利の本国芸州の方へ向いていた。
一城一城、連環の小城は、かくて箇々に潰滅された。
のこるは一つ、高松城の主力のみが、ここにぽつねんと孤立のすがたになった。
もとよりこうした頽勢は、高松城の清水宗治から、毛利家へ向って頻々と、
「事態いよいよ急。一刻もはやく御援軍を」
と、飛書、早馬、相継ぐ急使をもって、訴えられたこともちろんであるが、いかんせん、事情は急速に毛利の軍勢をして、ここへ反転進出してくるのをゆるさなかった。
なぜならば、小早川隆景は、筑前の立花や豊後の大友宗麟などと交戦中であった。吉川元春は、鳥取城を中心とする敵勢力の山陰展開にたいしその処置に忙殺されていた。また、主将毛利輝元にしても、こう両翼の一致と、対秀吉軍の大方針が決せぬうちは、その本国吉田山の城をめったに揺るぎ出ることも当然ならない。
輝元を中心に、その両川の意見が一致し、毛利家はじまって以来の、大戦端を予測しながら、全軍四万が方向を転じて、この備中の境へ出てくるまでには、どうしてもなお半月以上の日数はかかる。
「極力いそぐ。かならず大軍をもって援軍に赴く。ただ問題はそれまでの防ぎだ。頑張りだ。高松の一城だに頑としておれば、敵は芸州へ一歩も入ることはできぬ。──清水宗治以下の一心一致をくれぐれ頼みまいらすぞ」
輝元の側近は、輝元のことばとして、度々の使者にこう答えた。激励した。またその一線の任と籠城の意義がいかに大きく重いかを説いて、声援鞭撻、怠りもなかった。
元春や隆景からも、宗治へあてて、同じような激励と、そして急援の準備にかかっている消息は幾度か聯絡されていたはずである。けれど、やがてその通信は、中断され、杜絶した。
四月二十七日からである。
「今は」
と、秀吉は、周到な用意のもとに、すべての邪魔をのぞいて、いよいよ残る一城高松の包囲を行動しはじめた。
龍王山の本陣一万五千はなおうごかない。
平山の高地へ、羽柴秀勝が五千をひきいて進出し、八幡山には、宇喜多秀家の一万が戦気を昂めていた。
宇喜多勢の背後には、秀吉の譜代と見られる諸将が陣していた。盤上の駒組は一応まずととのったかたちである。宇喜多のうしろへ譜代を配したのは、なおまだ宇喜多の配下にふた心を抱く者が絶無とはかぎらない──万一に備えてであることはいうまでもない。
包囲形勢をとったその日から、寄手と城兵のあいだには、もう先鋒で一部隊の衝突があった。
「──今朝、池の下口での合戦では、宇喜多どのの家士の中、戦死傷あわせて五百余名とかぞえられ、城兵の損害は約百に足らず。うち八十余名は悉く討死。のこる数名のみ生捕りましたが、それらもみな全身に深傷を持ち、はや五体もきかぬまま捕われた者どもでありました」
前線を視察して、例の輿に乗ってもどって来た黒田官兵衛が、龍王山の秀吉の前に来て、序戦の第一日からすさまじい激戦であった模様をつまびらかに話していた。
秀吉はうなずきながら、
「道理、道理。こんどは、血を見ずに陥れるわけにはまいらぬ。……しかし、宇喜多勢も、よく戦うとみえる」
と、いった。──宇喜多の先陣は、その心底と戦闘力を彼の目から試されているものだった。
すぐ五月に入った。
梅雨の空は、むし暑く掻き曇ったり、そうかと思うと、ただならぬ照りつけかたをする。
序戦に、大損害をうけた宇喜多勢は、あれから五日間、夜ごと夜ごと和井元口の附近に、こっそり塹壕を掘っていた。
二日の朝。この辺に攻め口取って、城へ挑んだ。
清水宗治の麾下は、宇喜田の兵が、城戸や石垣近くへ寄りたかって来るのを見ると、
「うじ虫めが」
と、口ぎたなく罵った。
ひとたびは、毛利家に属し、転じては秀吉の先鋒となって、かつての味方へ攻めて来るものに対し、必然な憤怒をおぼえるのだった。
腕を扼し、歯がみをして、しばし見ていたが、機を計って、城門をひらくと、
「うじ虫を追っ払え」
「いや一匹も生かして帰すな」
怒濤を作って、討って出た。
この怒濤のなかには、戦いを凄惨にする太い感情が波打っている。猛烈な槍の走り、唸ってゆく太刀のきらめき。それが、思う敵とぶつかるやいな、すぐ惨烈な血けむりとなって、いたるところに、
「来たかッ」
「うぬ」
一騎一騎、一兵一兵。組む、刺し交える、或いは、首をあげる、その首を奪うなど、到底、ほかの戦場では見られぬほどな猛闘が演じられだした。
「退けッ。退けッ」
土けむりの中で、宇喜多の部将のしゃがれ声が聞えると、彼方此方の散兵も、わっと鬨を合わせて退いて行った。
城兵は、眦をあげたまま、
「突っこめ」
「あの旗印の見える所まで」
と、宇喜多の中軍をも、この図にのって、踏みつぶすばかりな意気で追い捲して行った。
──と。先の平地に、一線の塹壕が見えた。しまったと、先頭に立っていた城方の部将は足をすくめたが、のめるばかり追いかけてゆく兵には大地も見えなかった。しかし塹壕の一線近くまで近づくやいな、そこの蔭からいちどに起った銃声と硝煙が、たちまち城兵の姿をばたばたと野に倒した。
「誘いだ。敵の誘いにのるな。身を伏せろッ。身をッ──」
そしてはまた、
「撃たせて、弾の間合を見、その隙に、飛びこめ」
と、励ましあい、幾人かの犠牲は覚悟の前として、わざと起って、弾雨を浴び、敵の銃手が、次の弾ごめをする瞬間を計っては塹壕へ近づき、ついには坑の中へ飛び込んで、ここに血みどろな土中戦が行われた。
……雨となった。その夜から。
龍王山の陣々は、旗も幕も濡れびたっている。秀吉は陣小屋にかくれて、鬱陶しい五月雨雲を廂の外にみながら、だいぶ晴々しくない顔をしていた。
「虎之助──」
と、うしろを顧みて、
「雨の音か、人の跫音か。木戸の方が騒めいておる。見て来い、何事か」
「はい」
虎之助はすぐここへ帰って来て主人に答えた。
「ただ今、黒田どのが、戦場からお帰りになられたのです。途中、輿を担う者が、この雨のため、坂道で足を辷らし、そのため官兵衛様には、輿の上からしたたかに振り落され、蓑をかぶせられて、御家来がたの背に負われて今おもどりのところでした。皆して、それをお詫びしますと、黒田どのには、おかしげに笑いこけて、腰が痛いぞ、とお手でさすりながら、お小屋の内へ這ってお入りなされました」
あの、脚の不自由な身をして、この雨中にも、前線へ出ていたのか。今さらのことではないが、秀吉も、官兵衛の倦まない精力には、ほとほと感心していた。
「程なくお見えになりましょう」
虎之助は、委細の返辞を終ると、次へ退って、炉の中へ、太い薪を入れていた。
ぼつぼつ蚊が出はじめてきた。雨のふる日は、わけてうるさい。蒸し暑いうえに暑くはあるが、炉の中の薪は蚊いぶしになる。
「けむいのう。うう。けむたいぞ」
呟きながら、そこらにいる小姓組の若者たちの中を、跛行の人が、案内もなく秀吉の室へ通って行った。
官兵衛である。もう彼方の室では、その官兵衛と秀吉との談笑が、梅雨じめりをふきとばしている。どちらも負けずに声が大きいのだった。
「何を笑うているのだろ」
小姓組の面々も、炉ばたで湯をのみながら、くつろいでいた。──申しては勿体ないが、御主君のあの笑い声を聞くと、うちのおやじが御機嫌だと、共々愉快になってしまう。──そうここの若い者は、常に主君の部屋に対して敏感に喜憂をともにしているのだった。
「きっと、あのことでしょうよ」
石田佐吉が、腰をさするまねすると、福島市松が、
「それ、それ」
といって、膝をたたいた。
「なんだ」
「何かあったのか」
片桐助作やその他が、眼をまろくして聞きたがる。この五月雨に、陣中至って無聊なところだ。若い者は話題に渇いている。
「於虎から聞いたのだが」
と、市松は例の横柄な顎をもって、虎之助をさしながら、今しがた、黒田官兵衛が、帰陣の途中、輿を担う者が、坂道に足をすべらせ、そのために官兵衛が輿から落ちたというはなしを、かなり誇張を加えて、一同に語った。
「それは、愉快」
といったのは、加藤孫六。それからまた、
「見たかったな。黒田どのが転げたところを」
と、奥へ聞えそうな声して笑ったのは、平野権平であった。
お気のどくな──とはたれもいわなかった。
いわないはずである。この若者輩にたいしては、相当、つね日頃から官兵衛は、苦言や鞭撻を加えている。ときどき、仲間へ入って来て、
(どうだ)
というような親しみも見せてくるのだが、もっぱら敬遠して、親しまないことにしている。というわけは、酔いでもすると、痛烈に、若い連中を頭からこなしつけるからである。
(いまに見ていろ)
悪意や宿意では決してない。いい意味をもって、ここの若い連中は、ひそかに他日を期している。いつかいちどは、黒田官兵衛をして、舌を巻かせ、
(先輩とて、あまりに、今の若い者などと、大口はきくまじきものなり)
という戒めを、事実をもって、目に見せてくれねばならんと、誓っているのだった。
「お小姓衆」
坊主あたまが一つ、けむたそうに煙の中に畏まった。茶道衆のひとりである。市松がふりむいて、
「おい。なんじゃ」
と、無頼漢のような口のききかたをした。
「殿のおことばです」
そう聞くと、若者たちは、みな具足の着込みであったが、一斉に坐り直して、もう戯れ口もひそめてしまった。
「──黒田様とおはなし中、しばらく小姓溜りの方へ、退っておるようにとの仰せです。何か大事なおはなしがおありらしく……」
「むずかしかろうか」
と、秀吉。
「むずかしいと思います」
官兵衛はいう。
沈黙がつづくと、ふたりのあいだには、粗雑な陣中の仮普請のため、廂からあふれ落ちる五月雨の音のみが蕭条と耳につく。
「要は、日数の問題でしょう。二回の総攻撃を試みて、およその短期力攻の至難なことは知れました。さらば、長陣を覚悟し、悠々、包囲するとしますか、それにも必然、大きな危険が予測される。──毛利方四万という本国勢の急援が間に合って、高松城と聯絡をとり、呼応してお味方へ攻勢を展開してくるおそれのあることです」
「む、む。……それゆえに筑前もちとこの入梅には滅入っておる。官兵衛、何ぞ名策はないか」
「きのうも今日も、前線をめぐり歩き、敵城の位置、四囲の地勢をつらつら見ますに、ここで乾坤一擲という大策は、ただ一つしかありません」
「高松の陥ちるか否かは、敵にとっても、味方にとっても、ただ一城を争うだけの問題ではない。ここが落ちれば、芸州吉田山の毛利の府は、はやわが掌中のものにひとしく、ここで蹉跌いたせば、五年にわたる中国攻略の業も一敗地に崩れを来すであろう。──大策こそよけれだ。官兵衛、お汝の考えは何か。次の間の輩も遠ざけてあれば、忌憚なくいって欲しい」
「おそれながら、殿にも、腹中の一案はおもちでしょう」
「ないこともない」
「さきにお伺いいたしましょう」
「お汝も書け」
傍らの硯をよせて、自分も筆をとり、官兵衛にも料紙を与えた。
秀吉の書いたのを取って、官兵衛が見た。「水」と一字書いてある。官兵衛が書いたのを取って秀吉が見た。それには二字「水攻」としてあった。
「はははは」
「あははは」
笑いながら、ふたりは、丸めた紙くずを、袂へ入れて、
「官兵衛。人の智というものは、やはり人の智以上には出ぬものだの」
「左様仰せられますが、高松の城は、平野と耕田の底地に位置し、四囲には手頃な山々をひかえ、加うるに、足守川をはじめとし、大小七つの河川が八方へ奔馳しています。これをあつめて平地の一ヵ所に注げば、あの城を、湖水の底となすことも、さして至難ではありません。けだし、活眼の士でなければ思いも及ばぬ大規模な作戦であります。殿が早くもそれへお心づきあったことは敬服にたえませんが、なおかつ、何ゆえ、その実行を御躊躇あそばしておられますか」
「されば、古来、火攻めをもって攻城に成功したためしは幾多もあるが、水攻めをもって功をとげた例はほとんどない」
「三国時代、後漢の戦記には見たように思いますが。そうそう、わが朝でも、天智天皇の三年、九州水城の城において、唐軍の来寇にたいし、堤を築き水をみなぎらせ、これを切って氾濫せしめ、一挙に唐軍を押し流そうと作戦したとか──何かの記に見たことがありました」
「いやいや、それも実行までに及ばず、唐軍が退いたらしい。これを行えば、実に、秀吉がまったく前古に類なき戦法をとるわけになる。で実は──ちと入念を要するゆえ、地理数字にくわしい奉行人どもに命じて、それに要する土木の人員、日数、費用などをあらまし調べさせておるところじゃ。官兵衛、お汝の胸算用では、いったい幾日をもって、どれほどな人員をもって成し得ると考えておるか。ひとつ成算を聞かしてもらいたいが」
秀吉が求めているのは、単なる案でなく、具体的な数字と、誤りのない設計の確証であった。
「ごもっともです。それらの腹案については、てまえの家臣の中にも、いささか才覚ある者がおりまして、精しく工事の計数を立ておりますれば、その者をこれへお召しくださるなら、直々、明瞭なお答えができ得るかとぞんじます。──この官兵衛より御献策申しあげたものの、つまりはその男の算数と設計とに基づいてのことでございますから」
官兵衛の言に、
「その家臣とは?」
秀吉がかさねて問う。
「吉田六郎太夫と申す者です」
「いま、在陣か」
「おりまする」
「では、すぐ呼べ」
そう命じてから、秀吉は、
「実は、わしの手許にも一名、そういう工事の差配や土地の事情に通じている男をひとり留めおいてある。同時にこれへよんで、吉田六郎太夫と合議させてはどうだろう」
「けっこうです。して、そのお人は?」
「家中ではないが、備中玉島の郷士で千原九右衛門という。いま陣中ではもっぱらこの附近の絵図面などを製らせておるが」
「それは、至極よい人物。ぜひこれへお召し寄せを」
「──おいッ。誰か来い」
秀吉は手をたたいた。
みな遠く退けて、近侍も小姓もいないので、手の音は容易にとどかない。雨音もそれを邪げている。秀吉は自分で起って、次の間まで歩み、戦場で出すような大声して、
「おういッ。たれかおらぬかッ」
と、陣小屋のうちへどなった。
あわただしく跫音が近づく。愕いたとみえ、それも四方からだった。秀吉は何か、二、三人にいいつけてから、厠へはいった。雨はいよいよ降りつのる。
吉田六郎太夫が来る。また、千原九右衛門もまかり出る。
「こちらでおひかえを」
小姓は、べつな広い部屋へ、ふたりを案内した。洞然として、そこは暗い。かなりたってから、燭台がところどころに配られた。
秀吉と官兵衛とは、なおさっきからの部屋で密談をつづけていた。──ほどなく、陣外からこの雨中を、蜂須賀彦右衛門が上がってくる。
さらに、浅野弥兵衛、木下備中守、生駒甚助、堀久太郎。また山内猪右衛門一豊などもよばれて同じ広間のほうへ通る。
ほどなく秀吉と官兵衛とは、相伴って、この席へあらわれた。ここへ臨むまでに、二人の間には、すでに基本の方針は一致していたこと勿論である。要するに、これから開かれようとする軍議は、その原案を基礎として千原、吉田両人の持つ実際的な知識に諮問し、同時に、人員の配備と、軍全体の戦闘も、すべてそれへ一転集中させるためのものであることはいうまでもない。
「雨中、大儀だった」
と、まず参集の諸将へいって、秀吉からそのことについて口をきり出したとき、遠い陣地にある羽柴秀勝、同小一郎秀長などの一族から宇喜多秀家、杉原家次にいたるまでも、帷幕の諸将はあらまし顔をそろえた。
仙石権兵衛、森勘八、一柳市助、山下九蔵、堀尾茂助、蜂須賀家政、黒田吉兵衛(松寿丸改名)といったような中堅の士は、ゆるされて次の細長い部屋にいならんでいた。
軍議は夜に入った。
いつのまにか雨はやんだらしいが、やんだ後のむしあつさはよけいであった。燭台の灯は山霧にぼやけ、蝋燭はいくたびか継ぎ足された。そのあいだ秀吉も官兵衛も一碗の白湯すら求めなかったので、茶道衆だけは用もなかった。
「水攻」を決行するとなると、龍王山の本陣では、すべてに便が悪い。また遠すぎる。
石井山は高松城の東に見える高地で、距離も程よく、ほとんど、敵城と直面するの位置にある。
準備として、秀吉はまず、そこへ本陣を移した。五月七日のことである。
翌八日。
「縄取始めをする。九右衛門も来い。六郎太夫もつづけ」
と、秀吉は幕僚、六、七騎をつれて山を降り、はるか高松城の西──その城を右手にのぞみながら、足守川の門前とよぶ地点まで遠乗りした。一汗ぬぐって、
「九右衛門」
と、よび、
「石井山の山鼻から、この門前までの距離は」
「一里足らず。くわしく申し上げれば、二十八町余にござります」
「そちの図面をかせ」
千原九右衛門の手からそれを取って、築堤の工事と、四方の地勢とを見くらべる。
ここに佇って観ると。
西は、吉備から足守川の上流の山地へ、北は龍王山から岡山境の山々まで。そして、東は石井山、蛙ヶ鼻の山端れにわたって──実に南の一方をのぞくほかは、ふところ深い天然の湾形をなしている。
その平野の湾のまん中にぽつねんと高松の城は、平城式構築を示している。
秀吉の眼には、その平地の畑も田圃も馬場も人家も、すでに悉く水面に見えていた。かかる眼で観るとき三方の山岸は、曲線の多い磯や岬とながめられるし、高松城はまさに人工的な一孤島ということができる。
「うむ。よかろう」
図面を九右衛門に返し、実地に対しても、自信をふかめると、秀吉は、ふたたび馬にのって、
「帰るぞ」
と、幕僚たちの上に呼ばわってから、工事奉行、吉田六郎太夫、千原九右衛門のふたりへ云った。
「ここの山際から、彼方、石井山の蛙ヶ鼻の下まで、筑前が馬を走らすゆえ、その馬蹄のあとを、築堤の縄とりとせい。よろしいか」
「しばらくお待ちを」
ふたりは、附近の民家へ、人夫をはしらせ、何ごとか早急にいいつけ終ってから、秀吉に再度答えた。
「よろしゅうございまする」
「よいか。さらば、こう引け」
と秀吉は、まっすぐに東へ馬を向けて駈けだした。
門前──福崎──原古才──その辺までは竿を置いたように直線を描き、原古才から蛙ヶ鼻までは幾ぶん弓なりに内ぶところを拡げてゆく。
九右衛門と六郎太夫は、騎馬の幕僚たちと、秀吉とのあいだを馬で追いながら、時々、何か白い粉を落して行った。麦の粉か小米の粉であろう。白い線が地にのこる。
振り向くと、その後を辿ってもう幾人かの人夫が、築堤線に杭を打っていた。
秀吉は、蛙ヶ鼻へ立って、
「これでよかろう」
左右へいった。
いま引いて来た一線を堤と見、これに七川の水を入れると、ちょうど半開きになった蓮の葉形の巨大なる湖ができあがる。──人々は初めて地形の認識をよび起され、この備前、備中の境あたりも、遠い太古のむかしには、やはり海だったのではなかろうかなどと急に考え出した。
戦闘は開始された。血の戦いではない。土とのたたかいである。
築堤の長さは。
二十八町二十間という距離。
また、堤の幅は。
上で六間。下の地面部はその倍の十二間という厚さ。
問題は、高さである。この高さは水攻めとする対象の高松城と比例せねばならない。実に、水攻めの成功を確信し得る素因は、なによりもその高松城が平城式なる上に、石垣もわずか二間しかないところにあった。
で、築堤の厚みも、その高さ四間という基本から割り出したのである。──四間の高さいっぱいに水をみなぎらせれば、城の石垣を浸して、なお二間の水嵩を、城廓のうちへ氾濫せしめることができるという計算になる。
が、土木というものは、いつの場合でも、予定日数より早かったという例は稀である。
ここに、黒田官兵衛も、もっとも頭を悩ました問題は、工事にしたがう人力であった。
もちろんその大部分は、土着の農民に求めなければならないが、近郷の部落には、いまやその人口はすこぶる稀薄だった。
なぜならば、敵の守将清水宗治は、籠城と同時に、農民の家族五百余を、城内へ収容していたし、また領外へ分散したものも少なくない。
(御領主さまと、生死をともにするならば)
と、城内にたて籠った農民は、日頃から宗治をしたっている善良淳朴な民であり、部落にのこっている者の多くは、素質のわるい怠け者か、あわよくば戦場稼ぎを考えている不純分子が多かったのである。
もちろん宇喜多家の協力もあるので、岡山方面からも人力は徴発して来た。数千人をこえる頭数は、まず忽ちにして集まったといってよい。しかし官兵衛の悩みは、その頭数をそろえる事務ではなく、この人力の結集から最高度な能率をあげさせることにある。
「どうだ、工事の捗りは」
巡視のたびに、吉田六郎太夫をよんで訊く。
六郎太夫もそれについては、
「どうも、御予定の日どりまでには、難しくぞんぜられます」
と、沈痛に答えるしかなかった。
この計数家の企画的にはすぐれた頭脳も、数千の人員の──しかも度し難いあぶれ者まで交じっている雑人たちの心理から──誠意と汗をひき出す方法は割り出すことができなかった。
で、築堤二十八町余のあいだ、五十間おきに小屋をたて、総数三十二ヵ所の監視所から常備の将士が督励にあたっていたが、単なる督励そのものでは、蟻のごとく土を担い鋤鍬をふるっている数千の者に、何の拍車も加え得なかった。
しかも、秀吉が掲げている期日は、極めて無理な短期間であった。そして、
「是が非でも」
と、その期間内の竣工を部下に求めてやまないのである。
「毛利の援軍四万は、吉川、小早川、輝元の本軍と、三部隊にわかれ、刻々、国境に近づきつつあります。すでにその先鋒の一部は、某の村落まで来たという情報もありまする」
朝に夕に、飯を噛むまも、そういう飛報を耳にしている秀吉である。またその心中をよく知っている官兵衛である。昼夜兼行の労働につかれはてて、もう昼中はのろのろとしか、うごかない数千の人夫を見ると、官兵衛の胸は、この頃の梅雨雲のようにいらいらせずにいられなかった。
予定としては、大体、全工事を半月以内に完成したい。いや絶対に、その期間内に、築堤を終らなければ、毛利の来援とともに、この計画はまったく無意味に帰してしまうのみか、味方の統率上には、大なる破綻を来すおそれすらある。
二日。三日。すでに五日。
「いかん。どうかせねばならん。こんな遅々たる捗りようでは、半月はおろか、五十日、百日をかさねても、全長二十八町二十間という堤はできまい」
官兵衛は坐視していられなくなった。奉行の吉田六郎太夫も、千原九右衛門も、ほとんど、不眠不休のすがたで、工事監督や人夫の鞭撻にあたってはいるが、いかにせん使役する人夫は、不満不服のかたまりといってもよい占領地下の敵国民である。また、ふてぶてしいあぶれ者の交じりである。比較的おとなしい人夫までを、何かにつけて、煽動し、怠業の仲間にひき入れ、故意に予定を支障させて、表には出し得ない卑屈な反抗を、当事者の狼狽と、秀吉軍の敗北という結果に見て、故意に満足しようとしている始末のわるい人間群であった。
「怠けるやつは、何者だ」
官兵衛は、ついに、自身、杖をついて、工事場に立った。
ようやく、幾町かの一部出来かけた堤の新しい土の山に立って、その怖ろしげな眼を、数千の人夫のうえに、熒々とくばった。
そして、少しでも、怠けているものを見出すと、ちんばに似気ない迅さをもって、いきなりその人夫のそばへ駈け寄って行き、
「働けッ。なぜ怠けるッ」
杖をふるって、打ちすえた。
人夫たちは、ふるえあがって、
「ちんばの鬼武者が見ているぞ」
と、働き出した。けれど、その眼のとどく所においてのみである。
苛烈な厳をもって彼らの汗を強要すれば、彼らにはまた特有な彼らの怠ける戦法は幾らでもある。さすがの官兵衛も、手を焼いた。数千の人夫の、しかも広い工事場の範囲にわたって、そうそう眼も鞭もとどきかねるからであった。いかに数百人の目付をそれへつけて叱咤させてみても、決して、能率は上がって来ないことを知った。
「所詮、予定のうちに、終ることは、不可能です。──万全を期すために、工事なかばに、毛利の援軍は、これへ着くものと、あらかじめ作戦上に、お覚悟を願っておきたいものでございます。……いや雑人どもをよく使うことは、用兵以上、むずかしいもので」
秀吉の前に出て、官兵衛はついに、こう訴えた。そして心からその至難を痛嘆した。
秀吉はだまって指折りかぞえていた。秀吉の心中にもただならぬ焦躁はある。たとえば、やがて空をおおう夕立雲が、すぐ山向うに見えているように、毛利の大軍の近づきは、刻々予報されていた。
「官兵衛、そう落胆するにはあたらぬ。まだまだ、七日の余裕はある。何とかできようが」
「日は予定のなかばをこえているのに、工事はまだ三分の一も進みませぬ。何条、あとわずかな日数で総工事が成りましょう」
「いや、できる」
秀吉は、決して、官兵衛の言を肯定しない。およそ官兵衛の献言にたいして、彼がこうつよく否定したことは初めてといっていい。
「かならずできる。ただし三千の人夫が、三千の力だけしか出さないでいてはできない。ひとりが三人前、五人前の労力を出せば、三千の人夫は、万余の力になる。それを督する侍どもとても同じように、一人が十人分の気力をふるい出せば、何事か成らぬという理由があろう。──官兵衛。こういたせ、秀吉も一応工事場へ臨むであろうから」
何事か、秀吉はささやいた。
翌日の朝頃である。
突然、黄母衣の使番が、工事場をかけめぐって、全員に、工事の中止を命じ、
「一同、あの小旗の見える下へ集合しておれ」
という命が下った。
「なんだろう?」
人夫頭は、寄々、首をひねりながら、ともあれ小旗の立っている堤の下へ集まった。
ゆうべから徹夜で土をかついでいた人夫も、いま交代して、堤の土盛りにかかり出していた人夫も、すべてその組々の親方に従って、一ヵ所に蝟集した。
土の色とも人の色ともわからない数千人の頭数が、
「おい、なんだね」
「なにがあるんだ?」
と、半ば不安に駆られていながら、しかも虚勢を失わず、彼らの通有性である戯れ言や揶揄を露骨な態度に示したまま、黒々と人波をゆるがしていた。
そのうち急にひそとなった。小旗のわきにすえてあった床几へ秀吉の姿が倚ったからである。小姓、旗本などが左右にわかれて厳かに控える。人夫達から日頃、憎悪の的になっているちんばの鬼武者黒田官兵衛は、すこし離れた所に、竹の杖をついて立っている。
やがて、その官兵衛が、堤の上から数千人のうえへ、大声で告げた。
「筑前守様の御上意で、きょうはお前たちの所存を訊いてやれとのお言葉だ。かねて汝らも知るがごとく、築堤の日限ははや半ばをすぎておる。然るに、工事は遅々として進まない。その原因は、一にお前がたが業に対して、死力をふるい出していないからだと、筑前守様は仰せられる。──そこでだ。一体お前がたの間には、どういう不満があるのか、何が不足なのか、どうしてくれと望むのか、それを忌憚なく、きょうは訊いてつかわすためにこれへ集合を命じた次第である」
「…………」
官兵衛はしばらくここで舌を休めながら、数千の頭をながめていた。所々の頭と頭が、何かささやき合っている。明らかに全体も動揺している。眼と眼を見あわして。
「組々の親方どもは、人夫達の気もちを充分に弁えておるであろう。このときを逸しては、汝らの願い事を、殿のお耳へじかに聞いて戴く折はないぞ。──どの組からでもよい、五、六名これへ出て来て、一同の代表として、不足不満、希望を申せ。筋目の正しいことなれば聞きとどけてつかわすであろう」
すると、大勢の人夫の中から、見るからに不逞な面がまえをした半裸体の大男が、ここで仲間へ顔を売ろうという気か、のしのし堤の上へあがって行った。
それを見ると、また三、四人の土工頭が、
「いおうじゃねえか。ああ仰っしゃるんだ。なにも、びくつくこたあねえ」
と、強いてあたりへ豪語を払いながら、これまた、堤の上に立った。
「これだけか。代表は」
「へい」
と、各〻、床几間近なので、膝をついて、土下座しかけると、官兵衛は、
「坐るに及ばん」
と、制して、
「きょうは篤と、その方どもの不満を訊いてやるとの殿の思し召だ。せっかく土工一同のかわりに立って御前にまかり出ながら、いいたいこともいえないではこちらも困る。要するに、この工事が、期日までに成るも成らぬも、一にその方たちの働き如何にかかっておること。遠慮なく、日頃、その方たちの胸にかくしておる鬱憤なり不平なりを、ここであきらかに申したてて欲しいのだ。──まず、一番さきにこれへ出た右側の男から申してみい。さあさあ、遠慮なくいうてくれ」
と、官兵衛もきょうはくだけた調子ではなしかけた。
ここでこの工事に従った人夫たちが、どの程度の給与をうけていたかを一瞥しておくのもむだではあるまい。
「武将感状記」の記載によると、総工費の支用は、
銭六十三万五千四十貫文
米六万三千五百余石
を要したと書いている。
が、この巨額な米や金が、秀吉の陣中に用意してあるわけではない。征旅五年にわたる中国陣では、多くの敵産も獲ているが、より以上莫大な数字にのぼる軍費を遣っている。そうそう無限に安土からそれを仰ぐのも秀吉の本意でない。
また、この総費用をまかなう米と金の一部ぐらいは、宇喜多家の城庫にもあることはある。だが、それは万一の備えとして、涸渇させたくなかった。また今、宇喜多家からそれを取り上げることは、山陽方面の経済上からみても人心の影響から考えても、決して善策でない。
では、ない金、ない米を、秀吉はどう捻出したろうか──である。
あきらかな資料はないが、およそこういう局面にゆきあたるのは軍政上ままある慣いだ。秀吉はまずこの地方の米を帳付(軍票)で買い上げたにちがいない。
後払い制度の軍札以外には、占領地の山とか田とかをお墨付として、功労があるとか、献納物をしたとかいう、所の庄屋や豪農などへ下附したであろうことも疑いない。
また、それらの者を差配として、土着民の協力をうながしつつ、まず極力、陣中に物資を収めていた。
しかし、この政策は、多少強権をもってするので、なるべくは現在の占領地内では無理をせぬことに命じてある。実施の目標とされた地方は、やがて毛利の援軍が来て布陣するであろうと思われる国境の街道に面した村々、また長良山、岩崎、日差山などのあいだに散在するたくさんな部落だった。
大軍の敵の到来に先だって、まず敵の食糧を味方へ引き上げておくという、作戦上の意義も多分にふくまれているのである。
「物」は「金」だ。秀吉はこんどの工事にあたって、人足の賃銀を、一日割の日傭(日給)にせず、請負制度にして、その募集とともにこういう高札を立てて約束した。
土俵一俵運ぶごとに
銭百文、米一升与う
これは優に、当時の労銀としては、農民の一日以上の収入にあたる。土工の手間賃としても破格なものだった。汗を惜しまず体力の精かぎり働けば、一日のうちに平常の半月分の稼ぎをすることも易々たるものだ。うわさを聞いて、
「ひと稼ぎ」
と、たちまちこの仕事場へ人力が蝟集してきた理由の第一はその効果だといってよい。
けれど、収入の歩が好ければ歩がよいで、彼らは決して、無限には働かない。むしろ小さな慾の足りるところで汗を惜しんで、あとは懶惰を楽しみたがる。こうまでして自分たちを優遇する雇用者にたいし、その恩を謝すよりも、その逼迫している急場の足もとをつけこみ、故意に怠けてはそれを揶揄し、鞭で強いられれば俄然不平を鳴らすというふうであった。
──人情、ぜひもないところ。
と、秀吉はかなり寛大にこの状態をみていた。腹からのあぶれ者もいるが、ほとんどは占領下の民である。きのうまで、領主と仰いでいたものから俄かに離れて、まったく人情風習も馴じまない他国の陣営に雇われてきているのである。むしろ不憫ともいうべき者、
「むりもない」
と、秀吉はその無智を哀れみこそすれ、決して、怒ってはいない。
しかしこのままでは、当然、全作戦の意図は、行わるべくもないので、遂に黒田官兵衛に旨をふくめて、きょうの事とはなったのである。
「名代ども。人夫一同に代ってこれへ出たからは、云い怯じいたしておっては、折角、何の意味もなすまい。望むことなり、日頃の不満なり、何なりと申したててはどうか」
二度まで、官兵衛にこう促されると、不平分子の代表として、そこの堤に立った五名の土工頭のうちのひとりが、云い出した。
「では、仰せに甘えて、申しますが、どうか御立腹下さらないで。……ひとつ、その……よろしくお聞き届けをねがいたいんで」
「よし、よし。何だ」
「土俵一俵はこべば米一升、銭百文くださるってんで、実あ、てまえども、何千人てえ貧乏人は、よろこんでお雇われ申したわけでございますが、なんのこった、その約束がちがうじゃねえか……ッてなところがその、下司根性と申しやすか、こちとらを始め、ここにいるみんなが皆の不服なんで」
「これこれ。かりそめにも、羽柴筑前守さまの名をもって、高札した約定に、御違背ないはずだ。その方たちは、一箇一俵運ぶたびに、お焼印のある竹串をもらい、それを夕刻お勘定場で、約束どおりいただいておらんのか」
「そりゃ旦那、戴いちゃあおりますが、一日十俵二十俵運んでも、お勘定場のお払いは、現米一升に銭百文きり。あとはみんな後払いの、軍札と米券でござんしょ」
「そうだ」
「そいつがどうも困るんで。……へい。稼いだものは稼いだだけ、米でも金でもようございますから、現の物でいただかなくちゃ、こちとら、日稼ぎの貧乏人は、女房子を食わしちゃゆかれませんので」
「米一升に、銭百文あれば、その方たちの暮しでは、ふだんの収入よりもはるかによいはずではないか」
「ごじょうだんを仰っしゃっちゃいけません。牛や馬じゃあるめえし、年がら年中、こんなに働いていたひにゃ、体が了えてしまいまさ。──それを合点の上で、羽柴様のおいいつけに従い、日頃の何倍も夜昼なく働いているんでございますから、この後には、酒も飲みたし、うまい物も食いたいし、借金も返そう、女房に夏着の一枚もと、慾と道づれなればこそ、無理な仕事もやれるんでさ。それを、日頃の相場とたいして変りねえ駄賃で追ッ払われちゃ、精も根も続きッこはございません」
「はてさて、わからぬやつ。わが羽柴軍は、その方たち領民へ臨むに仁政を旨とし、不愍をもってこそおるが、まだかつて、苛政を布かれたためしはない。いったい、汝らのぶつぶつ申すところは、どこにあるのか」
「へへへへへ」
五名の土工たちは、みなあざ笑った。不逞な面がまえを揃えて、こんどは口々に、
「旦那。文句は云いませんから、働いただけを払っておくんなさい。軍札だの、米券だのと、紙屑をいただいたって、腹はふくれやしません。第一この戦に、羽柴様が負けたひには、その紙屑を持って、いったい何処の誰から金を引き換えてもらうんですか」
「心配いたすな。その儀なら」
「おっと、待っておくんなさい。──戦にはきっと勝つからとおっしゃるんでござんしょう──とんでもねえこった。御大将や旦那がたは、命を賭けたばくちでござんしょうが、そんなばくちに、半口乗るこたあ、こちとらあ、真っぴらおことわり申しますぜ。……なあオイ、みんなッ、そうじゃねえか」
堤の上から手を振って、数千の人夫に合意を求めると、たちまちわあっとそれに応じて、見える限りの人間の頭と手とが波のように騒ぎだし、
「やれ! やれ! しっかりッ」
と、名代たちを応援した。
「それだけか。不平は」
官兵衛のことばに、五名は、
「へい。まず一番に、それからかたをつけていただきたいもんで」
と、衆を恃んで、怖れ気もなく云いたてた。
「成らんッ!」
官兵衛は、初めて、ほんとの声をふりしぼった。竹の杖を投げるやいな、陣刀を抜いて一人を真二つに斬り、逃げるのを追って、また一人斬った。同時に、うしろにいた吉田六郎太夫も、千原九右衛門も太刀を払って、抜打ちに、他の三名を鮮血の中に打ち果していた。
黒田官兵衛、千原九右衛門、吉田六郎太夫、こう三人が手分けして、電瞬に、五名を斬ったわけになる。
その迅さと、意外とに打たれて、数千の人夫は、墓場の草のようにひそとしてしまった。
それまでの横着そうな面がまえも、不平の声も、反抗的な眼つきも、一瞬に拭き消されて、ただ土色の無数な顔が、胆を失ったようにむらがっているに過ぎなかった。
五ツの死骸を地上におきながら、官兵衛、九右衛門、六郎太夫は、なお雫する血がたなを手にさげたまま、それらの無数な頭の上を無気味な眼でながめていた。
「──改めて、一同へいうが」
と、やがて官兵衛はありったけな声を張って告げた。
「おまえたちの名代、五名の者は、いまこれへ呼んで、その云い分なるものを聞いてつかわした。そしてかくのごとく明瞭な返辞を与えたわけである。──が、まだほかに申し分もあろう。これへ出て云いたいものを抱いておる輩もあるに相違ない。──次には、誰だ。われこそ、一同を代表して、何かいおうと思うものは、いまのうちに出て来るがいい」
「…………」
「出ろ。出て来ないか」
「…………」
「もはや、云い分はないのか。あらば、誰でも、これへ出て申せ」
「…………」
官兵衛は、またしばらく口をつぐんで、彼らの反省するいとまを与えていた。無数の顔のうちには明らかに恐怖のいろを悔いにかえている者もみえた。そこで官兵衛は、はじめて、血がたなの糊をぬぐって、陣刀の鞘におさめ、その威容を正しながら、かつ顔いろをやわらげてこう人夫一同へ諭した。
「五名の者につづいて、誰もあとから出て来ないのを見れば、おそらくおまえ方の本心は、この五人とは違うものと思われる。そう解釈して、これからは、こちらの云い分をいってつかわすが……どうだ、異存はないか」
数千の顔は、救われたように、声をそろえて、それに答えた。──毛頭異存などはございません。元々わしらは何も知りません。また、不平や不満をいった覚えもありません。ただ、そこへ上がって御成敗をうけた頭株の連中に嗾かされて怠けただけに違いございません。──どうかわしらはどんなにでも御命令に服して働きますからごかんべん下さいまし。
数千の者が口々にいうので、がやがやと大きい声、小さい声が波打つばかりで、どの顔がどんなことをいってるか分らないが、ともかく全体の者の気もちだけは聞きとれた。
「よしよし。……しずまれ」
官兵衛は、手を振って、制しながら、
「そうだろう。さもあるはずとわしも思う。難しいことは説かぬが、要するにお前がたは、はやくよい御政道の下に、安民楽土という境遇を得、妻子とともに、楽しく働いてゆければゆきたいのだろう。──それを、目前の小さい骨惜しみや利慾にとらわれていたら、お前たち自体で、おまえたちの望む日の来るのを邪魔しているようなものになるぞ。また、これだけは固く信じるがいい。わが織田右府様より御派遣の羽柴軍は、絶対に、毛利にやぶるるものではないということをだ。毛利こそはいかに大国でも、はや凋落の運命にある国。これは毛利が弱いわけではなく、時の大勢というもの。またわが織田軍は、朝廷に仕えて、よく禁門の御心を体し、もっともよく、いまの諸国を統一し、治めるものとの、御信頼もあつい武門であるがためでもある。どうだ、わかったか」
「わかりました」
「では、働くかッ」
「働きます。どんなにでも、働きまする」
「よしッ……」
と、つよくうなずくと官兵衛は、秀吉の床几の方をふりむいて、
「人夫一同、あのように申しておりますれば、何とぞこのたびだけは、御寛大をもちまして」
と、大勢になり代って詫びを述べた。
秀吉は床几を立って来た。ひざまずいた官兵衛や奉行たちへ何か命じている。と、忽ちそこへ勘定方の武士に率いられた足軽たちが重そうに銭叺をかついで来た。一荷や二荷ではない。何十という叺の山、いや銭の山がまたたくうちに積まれた。
なお茫然と、恐怖や悔いにつつまれている人たちへ向って、官兵衛がふたたび云った。
「ふかくとがめるな、汝らは元来不愍なものである。仲間のうちの二、三の悪者に嗾かされ、心にもなく不平を鳴らしたにすぎぬ者。──そう筑前守様にはおおせられて、他意なく働くからには、酒代も充分とらせて励ませとの御沙汰だ。ありがたくお礼をのべて、酒代をいただき、すぐ仕事にかかれ」
足軽に命じて、そこにある限りの叺を、悉く破らせると、銭の山は雪崩をなして堤上をうずめた。
「いくらでも掴めるだけ掴んで行け。ただし一人一掴みずつだぞ」
云い渡したが、なお狐疑して、たれひとり出て来ようとはしない。眼と眼を見あわせ、仲間と仲間とささやき合い、依然、銭の山は置かれてあった。
「はやい者勝ちであるぞ。なくなった後に不服を申すな。一人一つかみずつ下されるものゆえ、掌の大きい者は大きく生れたが得というもの。小さい掌の者は落着いて取りこぼさぬように戴くがよい。あわてて損するな。そして、少しも早く仕事に就け」
もう人夫たちは疑わなかった。彼の笑顔と冗談のなかに真実を知ったからである。前のほうにいた人夫たちの一群が銭の山へ駈け寄った。余りにある銭に竦んだようにちょっとためらったが、ひとりが先んじて一掴み取って退ると、同時に、わあっと凱歌のような歓声があがった。
たちまち、銭か人か土のかたまりか分らないような混雑が起った。しかしただひとりも誤魔化そうとする者はなかった。日頃の狡い心も不平も、このときはどこかへ投げやった人間のみになっていた。そして一つかみの酒代を持つと、さながら生れ変った人間のようになって、各〻脱兎のごとく自分自分の仕事の持場へ駈け出していた。
力づよい鍬や鋤を入れるひびきが満地に起りだした。
「それッ」
とばかり土を担ぐにも、もっこへ棒を入れるにも、土俵を肩へ担うにも、気あいがはいる、精神がふるい興る。
彼らにも、出してみれば、その精神があったのである。ここからしぼり出る汗は、その者の心をいよいよ愉快にさせ爽快にさせる。そして彼ら自体のうちから、
「くそッ、二十八町ぐらいな堤築が、あと四日や五日もあるに出来ねえでどうするものか。みんなあ、大洪水のときを思い出してやろうぜ」
「そうだ。出水の時の防ぎをやる気ならこんなものは何でもねえ」
「やろうぜ。根かぎり」
「やろうとも。へたばるものか」
その日の半日だけでも、工事は、その前の五日分にも勝るほど目ざましく捗り出した。
仲間と仲間も、もうむだ口一つきく者はない。たまたま、生爪でも剥がしたのが、まごついてでもいると、
「泣きッ面するな、男らしくもねえ」
と、彼ら自身が立派に励ましあい、また仲間の自治を保っていた。奉行の鞭も、官兵衛の杖も、いまは無用のものでしかない。
かがりは夜を焦し、土けむりは昼を晦くして、二十八町二十間の大堤の工事もいまは余すところわずかとなった。そしてこの陸の築港も完成に近づきつつある一面、なお、高松城附近の七ヵ所の河川では、べつにここにも劣らない難事業がすすめられていた。
それは。
河川の水路を変えて、そのすべてを、やがて大堤のうちへ注ぎ入れる傍系工事だった。
この方面にも、武士、足軽、人夫などあわせると、二万に近い人員がうごかされている。
わけても、難事業と見られるのは、足守川の堰止め工事と、鳴谷川の引き込み工事とであった。
「いかにせん、このところ山岳地方の大雨に、日々水嵩を増し、これを堰止めようにも、工事の術もありません」
足守川の受持奉行から秀吉へしばしば苦境を訴えて来た。秀吉はこれを官兵衛に諮ったが、官兵衛にも、名案はない。なぜならばその前日、家臣の吉田六郎太夫とそこを視察して、至難を知っていたからである。
「何分にも、その烈しさは、およそ二、三十人して動かし得るほどな大石を無数に落しても、忽ち押し流されてしまうほどな激流ですからな」
官兵衛すらそう嘆じるのみだったが、秀吉は、
「ともかく現場を見て」
と、足守へ急いで行った。
しかし実地に立って、すさまじい奔濤を見ては、なおさら自己の小智に圧倒を感じるばかりだった。
六郎太夫が来て云った。
「上流の森林を伐って、葉の茂ったままの大木を矢つぎ早に押し流してみたら、或いは堰止まるかも知れませぬ」
献策を用いて、約半日、数千の人夫を森林に入れ、夥しい材木を葉付のまま川へ投じてみたが、その枝と枝と交錯して、水の淀むに役立つかと見えるのも一瞬で、何の効もないことがわかった。
「さらば、ちと大仰ではございますが、かようになされては如何」
と、六郎太夫が第二に立てた案は、数千人の足軽人夫をもって、大船三十艘を下流から曳きあげ、これへ大岩巨石を積んで、ほどよき地点へ沈めるという計画である。
「よかろう」
ものものしい光景はその日のうちに現出した。しかしこれも、それらのおおぶねを水に逆らって上流へ曳いて来ることは到底不可能で、ついに陸上に板を敷き、その上に油を流して、えいや、えいや、地上を曳船して来て、すなわち予定どおりこれを足守川の堰口へ石とともに沈めることができた。
この策は成功した。
ときすでに、一里にわたる大築堤も、一方にできあがっていたので、ここに堰かれた激流は、水けむりの方向を変えて、とうとうと、高松城をめぐるひろい田野や民家のある平地へ目がけて、奔馳して行った。
同じ頃、他の七川の水も、ひとしく注ぎこまれた。ただ鳴谷川の引き込みだけがなおその難工事のため、間に合わなかったに過ぎない。
五月七日から工を起して、実に十四日目。わずか半月足らずで完成を見たのである。──よもやと思っていたにちがいあるまい。吉川、小早川などの毛利がたの援軍四万が、すぐそこの国境の山々まで着いたのは、すでに高松城のまわりが、いちめんな泥湖となった翌五月二十一日のことだった。
その二十一日の朝、秀吉は、石井山の本陣に立って、諸将とともに、
「あな、目ざまし」
と、一夜のうちに変貌した泥湖を見ていた。
壮観といおうか、惨憺といおうか、夜来の雨を加えて、濁り漲った水は、高松城ひとつを、その湖心にぽつんと残しているほかは、その石垣も、濶葉樹の森も、刎橋も、屋敷町の屋根も、部落も、田も畑も、道も、水底にかくして、なお刻々、水嵩を増していた。
「足守はどの辺?」
秀吉の問いに、官兵衛が、はるか西に煙っている一叢の松林を指さして、
「御覧じませ、あの辺りの堤が、百五十間ほど切ってあります。足守の本流を堰かれた水は、彼処からあふれこんでおりまする」
「──すると、あの北にある小高い山が、虎之助清正のおる陣所だな」
「そうです」
「敵の左翼、長良山とは、最も近い。──於虎も腕をうずかせておろう」
秀吉は眼を、そのまま、遠い山々の線に沿って、西から南へとうつしていた。
国境、真南の空に、日差山が見える。
きょうの夜明けとともに、この山には小早川隆景の旌旗が無数に見出された。おそらく夜のうちに着いて陣営を布いたものであろう。ここの兵力だけでも二万は下るまいと察しられる。
すこし離れた天神山にも、先鋒の一部隊が出ているらしい。その日差、天神の山あいを、山陽街道が通っている。
また、毛利輝元の本軍は、福山の半腹に先鋒をおき、そこから西へかけ猿掛城あたりを中心に、後詰をそなえていた。その兵力は約一万余。
さらに。吉川元春の一万騎がある。
これは岩崎山、寺山、長良山などに散開して全軍の羽翼をなし、もっとも敏捷に軽変のふくみを持って備えていた。
「隆景も、元春も、あれへ着いて、今暁この泥湖に対し、どんな感を抱いたやらと、敵ながら思いやられます。さだめし、足ずりして、無念がっておりましょう」
官兵衛がそういって、秀吉の顔を見たとき、秀吉はうしろを振り向いていた。
鳴谷川の工事場から、そこの水奉行たりし者の子息と家来とが、使いとしてここに見え、平伏したまま泣いていた。
「どうした?」
秀吉が訊くと、その一名が、
「今暁、鳴谷川の現場において、お奉行には、申し訳がないと、このとおりお詫びの一通を書き遺し、見事にお腹を召して果てました」
と、いう。
そこの引き込み工事は、二百六十六間の山を切り拓くという難工事だったため、あと五十余間をのこして、遂に、今暁までに間に合わなかったのである。工事督励の任にあたった水奉行は、その責任感から自害したものであった。
秀吉は、その息子という者の姿を見つめていた。手足はもちろん髪も顔も泥に汚れている。やさしく、側へ招きよせて、
「おまえは、腹を切るなよ。父の菩提は、戦場で弔え。よいか」
と、その汗くさい背をかるくたたいた。
奉行の息子は、手ばなしで哭きだした。また、雨が来る。ひくく降りた密雲からもう白い雨の縞が泥湖へそそぎはじめていた。
五月二十二日の夜。すなわち毛利の援軍が国境まで着いた翌晩のことである。
小雨ふる闇の泥湖を、怪魚のようによく泳いで、堤の一部へ這いあがったふたりの男がある。
ぐわらぐわらと鳴子や鈴が烈しく鳴った。水際や堤のうえには、ほとんど茨のように篠や柴を結いかけ、それへ縦横に縄が渡してあったからである。
そして、長堤一里の間、五十間おきには、番小屋があり、赤々とかがりを焚いていたので、たちまち番兵が駈けつけ、格闘のすえ、一名は捕えられ、一名はついに逃げてしまった。
「城中の兵か、毛利の使いか、ともあれ、御吟味あるべき者です」
番所の将は、捕えた男を、石井山の本陣へ送った。
秀吉は陣屋の灯火をよせて書面をかいていた。
使番の佐柿弥右衛門は旅装をととのえて、下に控えている。秀吉の書面ができたらすぐそれを携えて早打に立つべく命じられているものらしい。
「いかがなさいます」
山内一豊が、縁先から秀吉へ尋ねた。召し捕った敵の男を、その廂の下にひきすえているのである。
秀吉は、うむ、うむ、とうなずきながら、とうとう書状の終りまで書いてしまった。そして封までしてから、
「どれ、どれ。どんな男か」
と、縁先へ出て来た。
佐柿や山内が、左右へ燭をもち出した。そして、雨の落ちる廂の下に、傲然と、両腕を縛められている敵兵をながめて、
「これは城兵ではないな。毛利の陣中から高松の城へ使いを命じられたものであろう。何も持っていないか」
と、一豊にたずねた。
一豊は、下調べに当って、男の懐中から見出したという一片の書状を秀吉のまえにさし出した。あの泥湖を泳ぐあいだも水に浸らぬように、それは小さい尹部徳利に詰めてかたく栓をほどこし、さらに油紙で入念にくるんで肌へつけていたということも云い添えた。
「……ふム。これは城主の宗治から、隆景と元春へ宛てた返書らしい。灯を、もそっと手もとへ」
秀吉は披いて黙読していた。
その返書の文面から察しると、毛利の援軍が、見るかぎりな泥湖に当面して、いかに失望落胆したかがよく窺われる。
折角これまで、大軍をもって急援に駈けつけて来たが、四方満々の水に囲まれた高松の城へは如何とも救いの手をのばす策がない。──如かず、一時羽柴軍へ降伏して城中数千の生命をたすけ、然る後、時期を見て本国へ帰って来い。
察するにまずこんな意味の密書を、隆景と元春の名で城中へ届けたものにちがいない。
それに対して、いま秀吉が手に入れた宗治の返書は、こう答えているのであった。
われら城中の者を、不愍と思し召され、まことに御仁慈のこもった御命ではありますが、この一城は、今や全中国の要、高松の落ちることは、即、毛利家の失墜を意味します。せっかくながらわれら元就公以来恩顧のともがらは、敵に凱歌を売って一日たりと生きのびんなどという者は、匹夫の端に至るまで思いもしておりません。みなこの城と共に死なんの覚悟で籠城を固めておるのです。どうかわれらにお懸念なく、そちらのお味方御一統にも、どうかここ興亡のさかいに千載の悔いをおのこしあらぬように、万全のお備えを祈っております。
孤城のうちの宗治は、こういう返辞の下に、却って援軍の味方を、励ましているのであった。
捕われた毛利の臣は、秀吉の訊問にたいして、思いのほか率直に答えた。──すでに宗治の返書を敵に読まれている以上、頑なに隠しだてしたところで無益と覚っているものらしい。
「逃げ去ったもう一名の使者は誰か」
という質問にも、その男は、
「吉川家の臣、転小四郎」
と、明白に答え、
「汝は」
と、訊かれて、
「同じく、山澄六蔵」
と告げ、少しも悪びれない。
秀吉もまた、そう執こく根掘り葉掘りはしなかった。士を辱めずという程度である。大局から観て無用なことは無用に附し、むしろ彼の気もちはべつな方へはたらいていた。
「一豊」
「はい」
「いいだろう。もうよい。この武士は縄を解いて、陣外へ放してやれ」
「え。放しますか」
「泥湖を泳ぎ渡って、寒げにみゆる。粥など喰べさせて、途中、また捕まらぬよう、持宝院下まで、送ってやれ」
「かしこまりました」
山内一豊は、縁を下りて、彼の縄を解いてやった。当然、死を覚悟していたにちがいない山澄六蔵は、却って、急に度を失っていた。一豊にうながされて、秀吉のほうへ黙礼し、早々に起ちかけると、秀吉はまたよびかえして、
「そちの主人、吉川元春どのには、近ごろも健在かな。このたびはまた、馬之山以来の対陣と相成った。筑前がよろしく申しおったと伝えてくれよ」
と、いった。
六蔵は坐り直していた。秀吉の恩に感じて、心から頭を垂れた。
「申し伝えまする」
「それと、毛利どのの帷幕には、参謀を承って、恵瓊という軍僧が出入りしておらるるであろう。安国寺の恵瓊というて」
「はい。おられまする」
「久しゅう会わぬ。あの御房へも、会うた節には、よろしくたのむ」
雨の中を、戸外の人影が立ち去ると、秀吉はすぐ佐柿弥右衛門を室内に顧みて、
「いまの書状は持ったか」
「確とおあずかり申しました」
「大事な機密もしたためてあるし、かたがた、右府様(信長)へ直々お目にかけるもの。途中の変に心してまいれよ」
「ぬかりはございませぬ」
「いま捕われて来た吉川家の臣にせよ、そちに劣らぬ覚悟をもって使いに立ったにちがいない。しかも捕われてかくの如く、清水宗治と吉川元春との意志は手にとるごとく筑前に読みとられてしもうた。くれぐれも、要意のうえに要意をしてゆけよ」
「はいッ……」
「では、大儀だが、すぐ立て」
「おいとまをいただきまする」
佐柿弥右衛門もやがて退った。
秀吉はひとり燭に対していた。こよい弥右衛門に託して安土へ急がせた書簡は、急遽、信長自身の来援をこの地に仰ぐためのものだった。
孤城高松の運命は、もう網の中の魚に似ている。
それを救うべく、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の総将から全軍も、挙げてこれへ会同している。
時なる哉。中国の覇業は今、この一挙に完成しよう。秀吉は、この壮観を、信長にも見せたいと希った。また、この重大なる勝敗のわかれを、決定的に確保するためにも、信長の出馬を仰ぐことが万全と信じたのであった。
──一転、眼を移して、安土の府のきょうこの頃を眺めるならば。
ここの城市の景観と、中国の戦陣とは、一脈の繋がりもない別天地かと、疑われるほどな相違がある。
香りの高い新鮮な文化。
それに相応しく華麗豪放な往来人の姿。燦爛たる大天守の金碧を繍いつづる青葉若葉、──ここでは中国に見られたあの泥土の闘いも人の汗も、遠いものにしか考えられない。
五月十五日から、十六、十七、十八、十九日の頃といえば、まさに高松城を孤立化するために、あの大築堤を前提とする水攻めの計が実行にうつされて、秀吉以下、黒田官兵衛その他不眠不休に、その工を督していたあいだである。
その時分を、この安土では、さながら盆と正月を、一度に迎えたような賑いで、全城全市、盛装していた。
何事ぞといえば。
この安土城に信長が一箇の大賓を迎えるためであった。
それほどな大賓とは、一体誰か。
もとよりかくれもない人ではあるが、今日信長からこれほどな礼遇をうける人として、あらためてその人を想念にのぼすときは、世のなかも革まって来たが、人も進み時代の先駆もみな、ようやく大人になって来たものだという感がなきを得ない。
すなわち、五月十五日、府に着いて、安土の城へはいったその大賓とは、徳川家康、ことし四十一になる人だった。
表面の称えは、
「十三年ぶりに上方見物を」
というにあったが、信長が甲州凱旋の道を東海道に選んで、多分に彼の好遇と歓待に甘えて帰った後、わずかまだ一ヵ月を出ないうちのことであるから、信長としては、その返礼の意味をふくめ、家康としては、さらにその効を大にすべく、また、ようやく革新統業の第二段階に入ったこの際に、将来の大策について怠るべきときでないとして、彼としては実にめずらしく、大がかりな行装と列伍をしたがえて、公式に訪れたものであった。
宿所は城下の大宝院。
接待の奉行は惟任日向守光秀。
信長の息信忠も、中国へ加勢にゆく支度中だったが、信長は、
「何を措いても珍客には」
と、彼をも督して、その振舞のために手つだわせ、京都、堺の商賈に命じては、あらゆる佳肴鮮味の粋をあつめた。そして、十五日から十七日まで、三日にわたる大饗宴を予定した。それについて、
(いったい、信長公ほどなお方が、どうして、八ツも年下な、しかもその国がらとて、貧しい弱小からやっと近年勢威を示し出した徳川殿などへ、これ程までな御歓待をなさるのか。何か弱いしりでもおありなのか)
坊間、多少こんな取沙汰がないでもなかった。
或る者は、いう。
(あたりまえなことを、異なように云いなさんな。織田徳川の同盟は、そもそも二十余年の誼みではないか。この譎詐権謀だらけな乱世の下に、二十余年来も、おたがいに猜疑せず、違約せず、争わず、信義の交わりをつづけて来ただけでも、こんなうれしいことはないじゃないか。何の理窟や理由が要ろう。それだけでも信長公としては、心から歓びあう値打があるというものだ)
(いやいや、それもあるが、甲州御凱旋の時の、お礼心であろう)
(何の何の、そんな小さい意味ではない。信長公は将来いよいよ中国から九州、九州から海外へまでも、御雄飛なさろうというお気もちがある。それには、関東以北を、徳川殿の手にゆだねて、後顧の憂いなく、西へも南へも進出できる構えをまず立てねばならぬ。そうした御談合などもぽつぽつ運んでいるにちがいないよ)
等、等、等。庶民たちの臆測にも、時によって、ばかにならない含蓄がある。
実をいえば、家康の参向は、信長にとって、折から、出先の客、というものであった。
これより前に、秀吉との打合わせもあって、彼は近日、自身中国へ出馬し、中国もまた甲州のごとく、一挙に席巻し、一気に統治の実をあげてしまおうと、息信忠もつれてゆく予定で安土へ呼び、今や出陣の準備に忙しい最中であったのである。
──にもかかわらず。
ひとたび安土の大賓として家康を待つや、それらの大事も抛って、心から客を迎え、また全家中の臣もことごとく、その接待のために用いて、
「最善をつくせよ。お客をして寸毫の不興もあらしむるな」
と、ほとんど軍令と異らない意気をもっていいつけた。
宿舎の結構、調度の善美、朝暮の佳酒珍膳など、もちろんのことだが、信長が家康にうけてもらいたいものは、やはり市井人の長屋交際とか、田舎人の炉辺の馳走とも違わない、その「物」よりは「心」であったこというまでもない。
信長にこの「こころ」があったればこそ、二十余年の同盟がこの乱世に完うされて来たともいえよう。また家康のほうからいわせれば、恃む味方としては、ずいぶん気骨の折れる相手だが、時によってのわがままも、得手勝手も、皮を剥いた信長の真底には、利害一てんばりのみでない、真実と呼び得るもの。──それがあるのを知っているので、稀には、三斗の酢を呑まされるようなことがあっても、まずまずと、飽くまでこの人を立て、この人に従いてゆこうという気もちを持ち続けたものであろう。
そうして、この両者の、同盟二十余年間のうち、いずれが得をし、いずれが損をなしたかを、極めて第三者的にながめるならば、それは両方の得であったといい得る。
もし、青年立志のとき、早くから、信長が家康を盟友としていなかったら、今日、安土の府の厳存を見ることなど、思いもよらないし、またもし、家康が信長の援助を得ていなかったら、その生い立ちから栄養不良の児みたいであったあの弱小三河の国が、よく以後の四隣の圧迫に耐え得てきたかどうか。たとえば、長篠の一戦を考えてみただけでも、猛虎のまえの一片の餌でしかなかったのではないかと思われる。
心交と利害。こう二つの結びあいを離れて、さらにふたりの性格を箇々にながめてみると、なおその友誼を完うし合った底に、津々たる両者の人間の味が噛みしめられる。
一言にしてそれをいえば。
信長には、用心ぶかい家康などには、到底、空想もなし得ない経綸の雄志と、壮大極まる計画があった。理想に伴う実行力があった。
これを反対に、信長から家康を観るに、自分の持たない特徴を多分に持っていることを認めていたにちがいない。辛抱づよい、困苦に耐える、奢らない、誇らない。また織田家の宿将とのあいだにも、かりそめに摩擦を起さない。分を知って野望をあらわさず、よく内に蓄えて、同盟国に危うさを気労わせない。そして同じ敵対国にたいしては、常に重きをなしているから無言の防塁はつねに織田の後方を確乎として扶翼している。
いわば理想的な友国であり、個人としては頼もしい知己だった。二十余年間にあったあらゆる辛苦と危機を顧みるとき、信長は家康を、
(わが糟糠の妻)
とも思ったに相違ない。安土第一の殊勲者とも心では称えていたろう。その人に報うきょうの饗宴であり礼遇である。彼としてはなお足らないほどな気はしても、過ぎるとは思わなかったにちがいない。
──けれど、主人側の余りな緊張が、時によって、却って客をはらはらさせるような場合は、世上一般の饗宴にもまま例のあることである。
その日、客の家康は、安土山上の総見寺の舞楽殿で、猿楽能を見物した。桟敷には、近衛殿もおられたし、主人役の信長のほか、穴山梅雪、長雲、友閑、夕菴、長安などの年寄衆、小姓衆、そのほか徳川家の家臣もいながれて陪観していた。
梅若太夫が、大織冠、田歌の二番を舞った。出来栄えよく、主客はやんやと褒め囃した。
で、梅若太夫へかさねて、
「お能を御覧に入れよ」
と、命が下った。
ところが、どうしたのか、能のほうは、不出来であった。謡のことばを忘れて、二、三度もつかえたりした。
やや興をそがれたが、そのあとをすぐ幸若八郎九郎太夫が、和田のさかもりを舞って、鮮やかに舞い納めたので、主賓の家康始め、一同みな興じ入って、梅若太夫の些細な落度などは、たれも心にとめていなかった。
殊に家康は、主のこの馳走に、心からの歓びを示すことに怠りなく、自分の家臣を楽屋へ使いに立てて、
「いずれも結構に拝見した。わけて幸若の舞は、もう一さし見たいほどである」
と讃辞を言伝けさせ、梅若、幸若のふたりへ、金子百両、帷子五十を祝儀として贈りとどけた。
しかし楽屋では、同時に、それどころでない騒ぎが起っていた。──というのは、梅若の能の失態にたいして、信長から、
「大切な尊客の前において、不用意なる能をお目にかけなどしたは、醜しき曲事たるばかりでなく、芸者として、平常の心がけの不つつかによる。芸道の鍛錬も、武家の兵法も、変りあるべきでない。見せしめのため、梅若太夫の首を刎ねい」
という叱責が、家臣菅屋九右衛門、長谷川竹の両人から厳かにここへ沙汰され、楽屋中の者は、色を失って、打ち顫えながら詫び入っていたところなのである。
家康のとりなしで、後にようやく、信長も怒りを解いて、
「ゆるしおく」
とはいったが、そのため、一時はみなどうなるかと、きょうの宴楽も仇に思われたほどだった。
しかし、他人が衝撃をうけたほどは、信長自身は、その不快をいつまでも持っているわけでもなかった。その証拠には梅若の過怠をゆるすと、
「褒美を惜しんでの叱言にはあらず──」
といって、森蘭丸を楽屋へやり、幸若同様に梅若へも、金子拾枚の祝儀を与えている。
また、こういう歓待の行き過ぎもひとえに信長が客へたいしての、誠意のあふれにほかならないと思われる例には、その翌日、高雲寺御殿での馳走には、右大臣信長自身が、家康のまえに、饗膳を据えた一事を見てもわかることである。
──が、家康は、かくまで自分をなぐさめてくれる信長以下、接待役の丹羽長秀、堀久太郎、菅屋九右衛門などの真心に無上な感謝を抱きながらも、時折、ふと物足らないものを覚えて、ついそれを座談のうちに信長へ質してしまった。
「御馳走役として、初めから私へ附けおかれた日向殿(光秀)にはいかが致されたか。きょうも見えず、きのうの御能拝見にも見うけず、おとといも姿を見なかったようにぞんずるが……?」
家康の問いに、信長は、
「ああ、光秀のことをお訊ねであるか。彼は、都合によって、十五日の夜、坂本へ帰城いたした。……そうそう、にわかのこととて、御宿所へ、挨拶に参じるいとまもなく、安土を退去いたしたものとみゆる」
至極すずやかなのだ。そう答える信長の眉にも容子にも、ほとんど、何らの特殊的な感情といったようなものはあらわれていない。
実のところ家康はすこし心配もしていたのである。巷間、噂まちまちで、変な揣摩臆測も行われているからだった。しかし今、信長のあっさりした返辞やこだわりのない姿を見ては、巷の取沙汰はすべて無用な思い煩いに過ぎないものと否定された。また、そうあるべき筈とも彼の常識で考えられた。
ところがその夜、家康が自身の宿所大宝院へ帰ってから、酒井左衛門尉、石川伯耆などの家老たちが、家中の人々が聞き知ったところを蒐めてのはなしによると、惟任日向守光秀の帰国については、そう軽々とは聞き流せない複雑性があるようにまた考え直されて来たのである。
まず、衆説を取りまとめた真相というのは、大体、次のような事柄が、光秀の急なる帰国の原因となったことは確かだった。
それは。──家康の着いた十五日のこと。信長は予告なしに饗応奉行の台所屋敷へ臨検した。このところ安土は照入梅のような蒸暑さであったせいか、乾物や生魚の臭いがぷんぷんと鼻へ襲った。のみならず堺や京から大量に集荷した食糧が、解きかけてあったり積んであったり、ひどく散らかっていた。内容がどんな珍味佳肴であろうと用捨なく蠅は群れたかってくる。信長の顔にも肩にもそれはたかる。
「くさい。くさい」
突然、門内へ姿を見せたときから彼の呟きは不機嫌を吐き出していた。つづいてずかずか調膳の大部屋へ入って来て、また一語を誰へともなくぶつけた。
「何事だ、この埃は。この不始末は。かような物ぐさい所で賓客の膳をしつらえるつもりか。ましてやこの時節、腐敗した物などお客にすすめられようか。取り捨ていッ、取り捨ていッ、腐った魚などは……」
不意ではあるし、思いがけない人のすさまじい叱言に、饗膳方の小役人たちが、顛倒狼狽の状は、気のどくなほどであった。
材料の蒐集やら調度食器の配合などに頭を使って、このところ幾日かはほとんど寝る間もなく家中や組の者を督してきょうもここに懸命に努めていた光秀は、信長の声に、初めは耳を疑っていたが、家臣から、
「お成りです」
と聞くや、びっくりして君前に出で、低頭平伏して、ここに満ちている異臭も決して魚類が古いためではないことなど説明し出した。
「云い訳はよせ」
と信長は抑えて、
「一切、取り捨ててしまえ。こよいの御馳走は他の物をもってする」
と、耳もかさずに、帰ってしまった。そのあと、光秀がまだ茫然と腰が抜けたように坐っているところへ、使者が来て、
其方儀、中国表へ、先陣として出勢すべきの旨、仰せ出さる、則、即刻御暇被下もの也
という状一通が手渡された。
珍膳美肴を山と集めて、こよい大賓の盛燭に照らさるべく、すでにあらかた調えられていた馳走の数々から木具魚台までが、その晩、明智家の家臣達の手によって裏門から運び出され、まるで芥か犬猫の死骸でも棄てるように、どぼんどぼん、安土の濠へ投げ棄てられていた。みな無言で、みな悲涙をためて、ただ黒い濠水の面へ、こみあげる感情をたたきこんでいた。
夜となると、ここの邸内の古い大池には、蛙の声が喧しい。
沈湎とただ独り、燭にうつむいて、物思わしく在る人に、
(何を考えこむか)
と、蛙の声は、問うて揶揄するごとく、また同情してともに嘆くが如く、或いは、その愚痴を嗤うようにも、聞きようによって、どのようにも聞える。
「たれも入るな」
とでも命じてあるのだろうか、この広い座敷に、燭一つ、光秀一人、ほかに小姓の影すらみえない。
ひそやかに、側を通るのは、仄暗い微風だった。まだ初夏、湿度はあるが、夜風はすずしい。
「…………」
つねにも増して、この夜、この人の顔いろは、すぐれていなかった。甚だしく蒼白い。
燭のゆらぐたび、鬢の毛も立つようにうごいている。それが惨として、そそけ立つかに見えるほど、憂悶の陰がその姿に濃い。
「──ああ」
嘆息は彼の癖であった。何事にまれ胸中を打ち割って他に語るとか、憂いを磊落に霧散してしまうとかいうことのできない彼は、それを独り──ああという一語によってせめてもの自慰としていた。
しかし同じ嘆息にしても、ああ──と満腔から鬱を天へ吐きすてるのもあるし、われとわが身へ、ああと歎いて、世の憂いをいよいよ身一つに蒐めてしまうものとがある。光秀のは、後者の場合に陥りやすかった。
「…………」
ふと彼は、信長が名づけたところのその「きんか頭」を重そうに上げていた。前庭の闇を正視した。樹林のあいだに遠く見える幾つもの灯──それを見つめていた。
思うらく。安土の城中はいま饗宴第一夜の歓語談笑に華やいでいる頃であろう。主賓の徳川殿以下、浜松の家臣と、安土衆の面々とが、綺羅星といながれている様も思いやらるる。饗応奉行には、自分のほかに、二、三名も任命されていることゆえ、こよいの宴に事欠くことはなかったにちがいない。──多少、料理や膳具に模様がえはあったとしても。
「このまま御命令どおり、安土を立つべきか。また、もう一度、お城へ伺候して、御挨拶をのべた後立ち去るべきがほんとか」
光秀はさっきからそんな些事に迷っていたのだった。事務に過ちないことにも思案のかかるほど彼の明晰なあたまもこよいは少し労れていた。
些末な事務が、重大な問題に考えられ、その判断を追えば追うほど、いずれにしたらよいのか分らなくなった。──それは彼が彼の性格をもって、信長の気心をつきとめようと焦っているところに起因しているのである。
ああと、思わず出る嘆息のなかには、その困難に逢着している苦しさが多分にあった。君臣という絶対なものを措いて、彼をして正直にいわせるならば、
(あんな気心の知れない人が世の中にあるだろうか。いったい、どうしたらあの人の気にかなうのか。実に難しい。無類に気難しい人だ)
と、信長を評したいにちがいない。いや、もっともっと深刻に信長の心理を剔抉し、皮肉な解剖を加えていうかもしれない。人間の心理を察し、人生を批判することなどにかけて、普通人以上な眼と判断力をそなえている光秀のことなのである。強いてその眼を掩い、その思考をみずから晦くすることはできない。
ただひとつ、その人が、主君であることによってのみ、彼は、自己の批判を慎み怖れていることができた。
「妻木、妻木」──光秀は呼んで、にわかに左右の襖をながめた。
「伝五でもよい。伝五はいないか」
けれどやがて、襖をあけて手をつかえた者は、藤田伝五でもなし、妻木主計でもなかった。側臣のひとり四方田政孝なのである。
「両名とも、無駄になった御饗応の物のあと始末やら、お引き払いの俄か支度に忙殺され、ほとんど席にすがたを見る間もありません。何ぞ御用なれば、政孝に仰せつけ下さいましょう」
「そうか。……いやその方でもよい。お城まで供して来い」
「お城へ。お城へお上がりになられますか」
「やはり退去の前に、いちど信長公に御挨拶して去るのが穏当であろう。支度せい」
その決意のまた鈍らぬうちにと、強いて自分を駆り立てるように、光秀はすぐ身づくろいに起ち上がった。
政孝は、うろたえ顔に、
「夕刻、或いはそのために、御登城もあろうかと、御意を伺いましたところ、急の御命、登城しているいとまもない。右大臣家へも徳川殿へも御挨拶せずに立ち退くとの仰せに、実は、お供方にもその由を伝え、御小人もすべて跡かたづけの方にかかっております。……しばし、しばらくのあいだ、お待ちねがいとうぞんじまする」
「いやいや、供人など、多くは要らぬ。そちひとりでも足る。馬を曳け」
光秀は、玄関へ出た。
そこまで通って来るあいだの部屋にも家来のすがたはなかった。ただあわただしく、二、三の小姓が従いて来たのみである。
しかし一歩外へ出ると、そこらの木蔭やら厩の蔭などに、三々五々とかたまり合って、何事か額をあつめている家中の者の影が黒々見えた。いうまでもなく、きょう突然、饗応役を免ぜられて、即日、中国出立をいいつけられたことにたいしては、光秀以上、明智の全家中は、
「理不尽である」
と、いい。
「あまりに酷いお沙汰だ」
と、哭き。
「故意に、われらの主人をお辱めなさるものとしか考えられない」
など、寄々に恨み合い、悲涙をたたえ合い、甲府以来、信長へ対して頓につのらせていた忿懣やら反感に油をそそいで、いまやそれは、危険な発火作用を帯びるやも知れないまでに醞醸していた。
すでに甲府出征中、下諏訪の陣所で、主人の光秀が、衆人のなかで耐えがたい辱めに遭ったということは、家中全般、隠れもなく知ることであった。どういうわけで右大臣家には近年事ごとにかくも主人光秀をいびり給うのかと、彼らは、親を視るごとく、光秀の苦悩を見て、
「きょうこの頃のおからだの勝れぬのも、無口におなり遊ばしたのも、すべてそのため──」
と、平常一日でも、胸を傷めないで来た日はなかったほどなのである。
きょうの衝動は、いままでのどんな場合よりも、最も大きい。なぜならば、徳川殿という曠の大賓をむかえ、浜松の家中にも、京の貴紳にも、織田家の宿将たちにも、のこらず知れ渡ることだからである。ここで恥辱をこうむることは、天下に恥をさらすにひとしい。恥を思うとき、彼らは、武門の中に生きてゆくに耐えなかった。
「お馬を──」
あわただしく、四方田政孝が、光秀の方へ、駒を曳き出してゆく姿にすら、彼らはまだ気もつかずにいた。それほど家中の者すべてが何へも手がつかない心地で、ただ彼方此方に立評議をつづけていた。
光秀が門を出ようとすると、そこの門前で駒を降りていた人がある。信長の使者、青山与三であった。
「やあ、日向どの、お立退きか」
「いやいや、ま一度お城へ罷り出て、右府様にも徳川殿へも、御挨拶をして去らんかと考えまして」
「さるお気労いもあろうやと、わざわざそれがしへ、御口上をもってお使いに命ぜられましたから、火急の中を、強いて御登城には及び申さぬ」
「なに、かさねてのお使いとな」
にわかにまた、邸の内へもどった。そして席を正し、慎んで、上意を聞いた。
信長の旨として、青山与三は告げた。
「今日お振舞役を免ぜられ、お暇を下さるる趣は、さきにお達し致した通りであるが、中国御発向の先陣として、其許の赴かるる方向について、再び、次のようにお沙汰がありました。よく聞きおかれたい」
「……はッ」
「明智一勢には、軍旅を取りいそぎ、日ならぬうち、但馬より因幡へ入り候え。敵毛利輝元の分国、伯州、雲州へも、構えなく乱入に及ばれい。油断あるな、猶予あるな。早々、丹波へ帰国、陣用意をととのえ、高松城包囲中の羽柴秀吉にたいし、山陰道より側面牽制のふくみあって然るべし。──信長自身もやがて間もなく後詰に西下あらん。おくるるな、軍略の機を万が一にも外すな。……以上のとおりなおことばでありました」
光秀は、拝伏したまま、
「かしこまりました」
と、答えた。
それがわれながら余りに小声で卑屈らしく感じたのか、光秀は胸をあげて、与三の面を正視しながら、
「君前へは何とぞ宜しなに」
と、語音を昂げて云った。
青山与三は、その眼をすぐ逸らしてしまった。光秀の細かい神経は、それほど自分の面に、視るに耐えない陰があるのかと、反射的に傷みを抱いたが、
「では、御機嫌よく」
与三は起って、すぐ立ち帰った。
それを見送りに出る。玄関から立ちもどる。そのあいだの光秀には、人まばらな邸内を吹き抜ける夜風に浮いて、何となく踵が畳についていない。
「……つい数年前までは、お暇を賜わって帰る夜までも、立ち際にはまいちど顔を見せよ。茶なといたさん、朝立ちなれば朝まだきにも城へ来いと、諄いばかり仰せを重ねられた信長公が……なんとてはかく光秀がお嫌いになられたのか。青山与三をおつかわしあったのも、光秀の顔を見るのがお嫌なので、こちらからの登城を避けるお心から出たものではなかろうか」
考えまい、思うまい。そう努めれば努めるほど、何たる愚痴、心は綿々と、声なき独り言を、腐水の泡つぶのようにつぶやいて熄まない。
「──誰が観ん、この花も、はや無用」
彼は、床の間の、大きな瓶へ手をかけた。見事に挿けてあった花も、彼の腕にみだれ、瓶の口からこぼれる水は、縁側まで滴々と音をさせて運ばれて行った。
「はや行くぞッ。立つぞここを。支度はよいかッ」
そこから大声で家中の者へ呼ばわりながら、光秀は、その壺を、両手で斜めに、肩のあたりまでさしあげた。そして庭さきの平たい沓ぬぎ石を目がけて、力まかせに叩きつけた。
陶土の破片、水のしぶき、それが快然たる一爆音を発して、光秀の面から胸へ刎ね返った。光秀は、濡れた顔を、夜空へあげて、呵々と笑った。独りで笑っていた。
夜は深い。じっとり霧がこめて、いとど蒸暑い夜だった。
家中は残らず旅装をととのえ終った。荷梱は馬の背に、弓道具は扈従の手や肩に、そして先発から供の末まで、門外に出て、すでに隊伍を立てていた。
雨雲の低い空を望んで、頻りに馬が嘶き合う。供頭は、駈け歩きながら、
「雨具は用意したか」
と、注意をくばり、ふたたび門内を覗いて、
「こよいは、星明りだにない。それに降り出せば、悪路となろう。松明はすこしよけいに用意されたがよいぞ」
と、誰やらへ呶鳴っていた。
職責上、供頭の声だけが、やや張りを帯びているだけで、鉛のように重くるしいものが、家中全体をおおっていた。箇々に見ても、さむらい達の面は、こよいの空のように暗澹としていた。険をふくんだ眸、涙をたたえた眸、悲痛な光を潜めた眸、悶々としてものいわぬ眸。
──たれの目もかれの目も、決して、平静ではない。
そのうちに、光秀の声がした。大玄関前の駒寄を離れて、一塊の騎馬の影が此方へ流れて来る。
「なんの坂本までは、見えているほど近い距離。一雨あるとも、一鞭の間に着いてしまう。──懸念すな。懸念すな」
案外明るい主人の声を聞いて供の面々は、却って意外な気がした。
この日の夕方。すこし微熱があるとかで、典医から薬を上げたということを聞いていた側臣たちが、もし夜半の雨にでも逢われては、と案じて云ったことばに対して、光秀があたりの者へ答えながら、また、門内門外に佇んでいる家中たちへも、わざと聞えるように云った声であった。
光秀のすがたを見ると、供の者は、松明の火へ松明の先を蒐めて一つの火から無数に増やした。そして続々、焔を曳いて先頭から歩き出した。
半里も進むと、果たして、白い雨のすじが闇を截って来た。盛んに赤い煤煙を噴く松明の焔へも、
……ぷつ、ぷつ、ぷつ
と、ひと粒ひと粒、雨が音をたててはじけた。
「安土のお城に、まだ人々は寝もせず、夜を更かしているとみゆる」
光秀は、雨を見なかった。駒を立てて、湖岸のあとを振り向くと、そこには墨のような宇宙にもなお巍然たる大天守があった。雨の夜はよけいに光るという屋上の黄金の鯱は、この闇夜に何を睨んでいるのかと思われる。
そして舎殿楼閣の沢山な火は、湖に映じて寒いほど戦いていた。
「殿、殿。降りだして来ました。お風邪をひどくするといけません」
主人の馬わきへ、馬をすり寄せて、側臣のひとり藤田伝五は、光秀の背へ雨具を着せかけた。
まだ五月雨ぞらの定まりきれないせいか、今朝も琵琶湖は模糊として、降りみ降らずみの霧と小波に、視界のものはただ真っ白だった。
が、道は思いのほか泥濘っている。馬の睫毛まで濡れ雫であった。全軍の将士は黙りこくったまま、夜来の雨とこの道を冒して、蕭条といま坂本までたどりついた。右は湖水の三津の浜、左は叡山延暦寺への登り坂。人々の着ている蓑は、吹きおろす風、返す風に、みな針鼠のように戦ぎ立った。
「おお、あれまで、左馬介様がお迎えに出ておられまする」
四方田政孝は、主人の日向守光秀にささやいた。湖畔の城、坂本城が、もう一行のまん前に見えたときである。
光秀は早くから気がついていたようにかろく頷いた。
──安土からこの坂本まで、振り向けばまだうしろに見えそうな近くであるにかかわらず、彼は千里も歩いて来たかの如く疲れきった面をしていた。そして従兄弟の明智左馬介光春が住むこの城の前に立つと、
(やれやれ、着いたか……)
と、まるで虎口をのがれて来たかのような思いを抱いた。
しかし扈従の面々は、光秀のそうした胸のうちよりは、光秀が時折に咳声く容子を見て、より以上な心配を寄せ、
「お風邪のおからだで、この雨気のなかを夜徹しのお歩行。お疲れもひと方ではござりますまい。城内へお入りあそばしたら一刻もはやく身を温めてお寝みなされますように」
と、口々に云い合った。
「そうしよう。そうしよう」
まことに彼は素直な主人であった。家来たちの忠言をよく肯き、またよく一同の心配を分ってくれる。こうした主従の情には蜜のごときものがあった。
馬の口取は、藤田伝五。大手の松原前にかかると手綱をとめ、介添えして鞍わきへ立つ。そして光秀が降りると、馬を部下にあずけ、自分は主人に添って、濠橋へ歩いてゆく。
そこに光春の家臣が堵列していた。ひとりの老臣は、傘をひらいて、恭しくさし出した。それを四方田政孝がうけ取って主人の上に翳しかける。藤田伝五は、光秀の蓑を持つ。
光秀は濠橋のうえを歩んで行った。濠の水は湖水とつづいている。欄の下をのぞくと、水は青く、橋杭の根をめぐって、白い水鳥が、花を撒いたように游んでいた。このあたりの汀にたくさんいる鳰であった。
「今暁からお待ち申しておりました」
城門へ出て迎えていた従兄弟の左馬介光春は、そこに数多並んでいた諸士をうしろに数歩出て、まず礼を行い、そこから先導して大玄関へ入った。
家中の老臣から諸士など、次に続々と奥へかくれてゆく。光秀について来た側臣の重なる人々も、そこで泥土の手足を洗い、濡れ蓑を積んで、十幾名かは、本丸のほうへ通されて行った。
そのほかの多くの家来は、まだ濠の外にとどまって、馬を洗い、小荷駄をととのえ、これからの宿営や配備に混雑しているとみえる。馬のいななきや喧騒する人声が遠くに聞えていた。
その頃もう光秀は一室で衣服を着かえていた。従兄弟の住居は、さながらわが家のような居ごこちだった。どの部屋からも湖が見える。松原が見える、或いは叡山が望まれる。ここの本丸は絶好な景勝の地にあった。
けれど誰がいまこの自然を愛するだろうか。叡山は過ぐる元亀二年の信長の一令によって大焼打にあったまま、今なお山上の七堂伽藍も中堂も山王二十一社も当年の灰燼を積んで、復興の目鼻もついていないという。
従って、麓の町屋すら、つい近年にいたって、ぼつぼつ建ち始めた程度である。森蘭丸の父森三左衛門が悲壮な討死をとげた宇佐山の城址もこの近くであったし、浅井朝倉などの大軍と織田勢が取り合って死屍を積んだ比叡の辻の戦場も遠くない。
思いを過去のそういう跡にめぐらせば、山水の美は、却って鬼哭を心に聴かしめる。
いま光秀は、ここに坐して、五月雨の雨滴の中に、冷々と、そうした感傷の思い出を心に聴き、また従兄弟の光春は、彼の目に触れない遠い小間で、炉の火加減をのぞき、釜師与次郎が作るところの名釜のあたたかな沸りを聞き、ひたすら茶境に浸ろうとしている。
一つの城に、異なる二つの心が住んだ。光秀と光春とは、まだ光春が弥平次といっていた幼い頃からほとんどひとつ家に育ち、それからの久しい困窮も、戦場の艱苦も、家庭の中の楽しみも、共にして来た上の従兄弟でもあったから、長じて後、疎遠になりがちな兄弟などよりも、はるかに骨肉的な情愛をもち合っている仲だったが、生れながらの性格だけは一つのものに縒りあうことはできない。今朝なども、こう二人は、ひとつ軒に住むとすぐ、かくの如くすぐその心のとおり違った姿をもってしばらく隔てていたのだった。
「どれ。……もうお召しかえもすんだ頃であろう」
やがて光春は、独り語して、釜のまえを起った。
そして濡れ縁をわたり、橋廊下をこえ、従兄弟の室として宛てがった幾部屋のうちのひとつへ、静かに入って行った。
隔てた部屋には、光秀の側臣たちの居住まう気配が聞えるが、そこにいたのは光秀ただひとりであった。
正坐してじっと湖を見ていた。
「いかがでしょう。およろしければ、あちらの茶室で、ともあれ、一ぷくさしあげたいとぞんじますが」
光春が、そのために、これへ迎えに来た意を告げると、光秀は夢からさめたような面持を向けて、
「茶か」
と、つぶやいた。光春はいささか得意そうに、
「ちか頃、京の与次郎へたのんでおいた一作がようやく出来て参りました。蘆屋のような典雅な地紋などありませぬが、よい具足を見るようなあらあらとした味のもの。釜の新しきは悪しといいますが、さすがに与次郎、湯味も天妙の古きものにも劣りませぬ。殿がお越しのせつはぜひそれでと心がけていた際、今暁、突然安土から御帰国とのお報らせに、さっそく炉に火を入れてお待ちしていたようなわけで」
「いや、せっかくだが、茶も欲しくない」
「では、お風呂のあとにでも」
「風呂もやめておこう。ともあれ、左馬、一睡させてくれ、慾はない」
つねづね聞き及んでいることも多々ある。光秀の心事を解するに全く晦い左馬介光春でもなかった。
殊にこんどの唐突な帰国については、彼も解せぬものを抱いていた。信長公が安土の城に大賓として迎えた家康の饗応に、その数日のあいだの接待役として惟任日向守光秀が任ぜられたことは、世間にかくれなく沙汰されたところである。
にもかかわらず、その饗宴の第一日を前にして、突然、光秀の役目を解かれたのはどういうわけか。当の賓客たる家康はなお安土にいるのに、接待役を交代させられて、急遽、本国へ引き揚げて来た光秀には、いったい如何なる身辺の変が起ったのか。
左馬介も、這般の消息はまだふかく聞いていないが、今暁、ここの城門をたたく者があって、云々の由を、寝耳に聞かせられたときから、彼としては、
(さてはまた何事か、信長公の感情にふれたな)
と察して、光秀の顔をここに見るまでは、ひそかに胸を傷めていたものであった。
案のじょう今朝城門に迎えたときから、光秀のけしきはすぐれて見えなかった。しかしこの人のこういう深刻な陰を眉目に見るのは、左馬介としてさほどな驚異ではなかった。なぜなら広い世の中にも、自分ほど光秀の性情をよく知っているものはないはずと、彼は信じて疑わないだけの過去を持っていたからである。
十六、初めて加冠して、十兵衛光秀と彼が名乗った頃、左馬介光春はまだ九歳ぐらいで、名も弥平次とよばれ、元服の席のもようを珍しげに、母のそばから眺めていたものであった。
その加冠の儀式も、十兵衛光秀という名を選んで与えた者も、実に、左馬介の父三宅光安であった。光秀の実の親たちは土岐一族の名流であったが、早くから両親も亡く、両親の住んでいた明智城も亡び果てていた。そして叔父にあたる左馬介の父三宅光安の手許で養育されたのである。
ふたりは七歳ちがいだった。幼少から一つ家で、机をならべて書を読み、燈火を共にして箸をとった。従兄弟とはいえ、情においては、兄弟よりも深いものがあった。三十余年後の今とても。
義は主従であるが、情愛としては、兄とも慕っている。おそらく光秀としても左馬介を家臣とみるよりは弟と思う情のほうが濃いであろう。故に、他人には示さない顔いろも、彼にはわがままに現わしもする。それは寧ろ左馬介光春にはうれしいことであった。
「──いや、ごむりもありません。安土から夜を徹しての馬上では。……おたがいに、五十を境にしてくると、若いときのようには体も持てませぬな。では、ともあれ御寝所へお入りあってゆるりとお休み遊ばすがよろしいでしょう。用意は申しつけてありますから」
強いもせず、逆らいもせず、左馬介は彼の意のままにうながした。
「そうする」
と、光秀は口少なく、そこを起って、まだ朝の間の気はいが漂う蚊帳のうちへ身を入れた。
光秀が眠りについた後、やがて左馬介が退がって来ることを予期して、その姿を待ちうけたように、一室の杉戸の端近く座をしめていた天野源右衛門、藤田伝五、四方田政孝の三名が、
「あ。もし……」
と、呼びとめて、ひとしく手をつかえ、
「恐れ入りますが、しばしそれがしどもへ、お顔を拝借ねがわれますまいか。折り入っての儀で」
と、常にない容子でいった。
むしろそれは、左馬介のほうでこそ、待っていたことのごとく、
「おそろいで、茶室のほうへ渡られぬか。殿にはお寝みになられたので、釜の火がむだになるかと思うていたところだった。如何であるな」
「お茶室なれば、人を遠ざける要もなく、至極結構でございますが」
「では、ご案内しよう」
「というても、われら武骨者ぞろい、茶は弁えもいたしませぬし、また今日は、そうしたお心入れをいただく程、心にゆとりも持ちませぬが」
「さもおざろう。各〻の胸底もいささか左馬介とてお察しはしておる。さればこそ、語るには、茶室がよいのではあるまいか。お気づかいなく──」
左馬介は導いてゆく。
人々は後についた。そして狭い壁と障子明りの中に坐り合った。
釜の湯はよく練れてさっきよりはその沸りも和やかに聞かれる。左馬介の武勇は幾多の戦場でたれも目に見ているが、炉の前の人とは何か別人のような気がされるのであった。どこといってその武勇が姿の上にはあらわれていないからである。
「では、茶は参らせぬことにする。源右どの、政孝どの。折り入って、おはなしとは」
こう促されて、三名はややかたくなった顔を見合わせていたが、その中でも最も剛直な感情家らしい藤田伝五が、
「左馬介様。……無念です。おはなし申すにも、無、無念が、先に立って」
左の手を膝がしらから下へ辷らせると、われにもなく右の肱を曲げて涙の目をかくした。
と、共に、ほかの二人も眼をしばたたいた。伝五のように泣きはしなかったが、瞼はかくしようもなく赤らんだ。
「何事があったのか」
左馬介は却って冷静を示した。火を見るべく予期していたのが、水を見たように三名ははっとわれに回った。自分たちの瞼を見ながらこういう顔いろを先ず示すようでは、この人に共感を求めることも期待を持つのもむだに近い気がして来た。そしてこう行き過ぎた感情を顧みては、もう語ろうとする内容も自然内輪にならざるを得なかった。
「思いもよらぬ急な御帰国に、何か右府様(信長)のごきげんでも損ねしやと、実はこの左馬介も案じていた。いったい如何なるわけで、饗応のお役を不意に免ぜられたのか。忌憚なくはなしてくれい」
頻りと、左馬介はそういうが、なお三名の胸を焦がしている烈火とは、到底、差のあるものであった。
三名はこもごもに訴えた。
まず、藤田伝五が、
「わが御主君たるゆえに、非には目をふさぎ、理には事を曲げて、強いて忿怒の言を弄し、信長公を故なく恨む仔細では断じてございませぬ。──まったくこのたびの御罷免ばかりは、いかなる御事情によるものか、何の落度を理由と召されたものか、右大臣家のお心のほど、われらずれには解するにも苦しみまする。奇怪至極ともうすしかありません」
嗄すれ途切れることばの渇きを救って、四方田政孝が次を述べた。
「──が、一応はそれがしどもも、胸をなでて、御政治向きの都合かとも考えてもみましたが、どう見まわしても、左様な点は思い合わせられず、では軍の作戦上かといえば、それらの大策は疾くより信長公の御胸中に確とあるべきはずで、徳川殿の御饗応にあたり、その日に迫って、ひとたび接待役に任ぜられた者の役目を剥ぎ、余人にそれを振り代えるなどという内輪の不統一を、何でわざわざお客殿に示す必要がありましょう」
天野源右衛門も口をそろえて、
「──御両所のいわれた通り、そう観じて参りますと、もはやわれらには、ただひとつの理由にあらざる理由しか考えられませぬ。すなわち年来わが御主君にたいして事ごとに邪視あそばしておられる信長公の執拗きお憎しみが……ついに、ついに、かくばかり露骨となられ、事ここにいたらしめたものであると。──われら、明智家の輩は、いまはそう観念のほかなき心地に追い詰められておりまする」
ここで三名は口をつぐんだ。
これ以上、云いたいことは、山ほどあった。
たとえば、甲州打入りの際、諏訪の陣所で、主人光秀に飲めない酒をむりに強いて、酒興のうえとはいえ、廻廊の板敷へ面を捻じ伏せて、
「きんか頭。きんか頭、飲め」
と衆人稠座のなかで御折檻のあったことや、安土の城内でもしばしば同様な辱めを加えられて来た例や、或いは、日頃といえ、光秀といえば目のかたきに嘲蔑し憎悪されている実証が他家の侍たちの中にすら語り草になっている空気だの、思い出せば限りもない。
けれど、今日以前のことは、改めて告げるまでもなく、主人の光秀とはほとんど一心同体といってもさしつかえない一族中での一族、左馬介光春が知っていないはずはないので、政孝も源右衛門も敢えてよけいな言は吐かなかったのである。
ところで、その左馬介光春は、始終を聞き終るとともに、少しも変る色なき面のまま、静かにひとつ頷いて、
「では、殿の御帰国は、なんら、これという理由もなき御罷免のためであったか。……いや、それを聞いて大きに安心した。右大臣家の御気色による首尾不首尾は他家たりともありがちのこと。まずよかった、よかった」
と、むしろ慶賀するような口吻をもって答えた。
三名はさっと眉色を変えた。わけて伝五は唇のあたりの筋をひっ吊るように顫わせて、つとその膝へつめ寄った。
「まず、よかったとは。──心得ぬ仰せ。左馬介様。それは、一体、いかなる意味を御意あそばすか」
「繰り返すまでもあるまい。わが殿の落度に非ずして、信長公の御気色悪しきためならば、また御機嫌のよい折に、御不興を取りもどすこともできよう」
「そ、それでは……」
と、伝五は、いよいよ早口となって、
「あなた様には、わが殿をもって、ひたすら信長公の御機嫌を取りむすぶお伽芸人の輩と同視しておいでられますか。明智日向守様ともある武門を、それでよいとお考え遊ばすのか。何ら、御無念とも、恥辱とも、またかくて自滅の淵へ追いやらるるとも、お感じになりませぬか」
「伝五。そちのこめかみの青筋は、ちと太り過ぎておるぞ。気を落着けい」
「昨夜も一昨夜も、一睡もしておりませぬ。あなた様のごとく、冷然とはあり得ない。非道、嘲笑、恥辱、忍耐、あらゆる無念の沸り立つ油釜の中に煮られておる明智主従です」
「……だからいうのだ。まず胸をなでて、二夜三夜は熟睡してみたがよい」
「ば、ばかな仰せを」
かりそめにも主君の従兄弟たるお方ぞと戒めながらも、藤田伝五はついに喰ってかかった。
「ひとたび泥塗られた武門の恥は拭い難しというのに、わが殿も家中も、あの安土のじゃじゃ馬殿のために、何遍、それを怺えて来たことか。きょうも衆人環視の中でかくありしと、涙を抑えて語らるる殿光秀さまを取り囲み、主従なだめ合うては、泣き明かした夜も幾夜かござる。──ましてこの度は、ただ単に、饗応役をお奪り上げになられたのみならず、すぐそのあとの命令では、──本国へ立ち帰って出陣の準備をなせ、中国にある秀吉を側面から援けるふくみをもって、毛利の分国たる山陰諸国へさっそくに攻めかかれ。と、まるでわれら明智の一勢を、猪鹿を追う勢子か猟犬のように見ての陣沙汰。どうしてこの気持のまま戦場へ赴かれるものぞ。これこそあのじゃじゃ馬殿の恐るべき例の策智だ」
「つつしめ。じゃじゃ馬殿とは、誰をさして?」
「わが殿を見れば人前でも、きんか頭きんか頭と常に呼ばわるあの信長公のことです。そのじゃじゃ馬時代から左右に輔佐して、今日の安土の大を成さしめた織田家の功臣林佐渡どのといい、佐久間父子といい、ようやくその地位封禄に酬われる日にいたれば、たちまち些少の罪をとらえて死に処し、或いは追放さるるなど──あのじゃじゃ馬殿の奥の手は、いつも追い落しときまっておるのだ」
「だまれ。右大臣家にたいして、恐れ多い雑言。そち達と同席はできない。立て、立て」
ついに左馬介も怒って、こう叱りつけたとき、人が来たのか、病葉が散るのか、かすかな気配が庭に聞えた。
敵性人は絶対にいないはずの廓内でも、防諜上には、日夜細心な警戒を怠っていない。これだけは例外なく、どこの城も同じといえる。
茶室といえ露地やそこらの附近には、庭見の侍がかならず佇んでいた。──今、にじり口の外まで来て、沓ぬぎの前に額ずいた庭番はそれであろう。一通の書面を内なる主人へ手渡して後も、やや久しいあいだ蟇のように身うごきもせずそこにひかえていた。
やがて光春の声が、ようやく内から聞えた。
「返書をとあるゆえ、認めてつかわすが、すぐとは参らぬ。使いの僧は、待たせておけ」
閉めてあるままのにじり口へ向って庭番は、
「かしこまりました」
と、ていねいに礼をして、草履の音も偸むように、露地の木の間を戻って行った。
その後は──
光春も、三名も、またしばらく、溶け合わない気もちのまま、じっと、黙りあっていた。
時折、どこやらで、ぽと、ぽと──と大地を撞木で叩くような音がした。その軽い響きだけがわずかにここの沈黙を救っていた。
梅の実がしきりに落ちるのであった。また梅雨雲がすこし断れたか、障子の腰へつよい陽ざしが不意に映した。
「どれ。おいとまして、退がろうではないか。……何やら御用の生じた御様子でもあれば」
友を促して、この機にと、四方田政孝が、退がりかけると、光春は、いま三人の目の前でつつみ隠す風もなく繰りひろげて読んでいた手紙を巻き返しながら、
「まだ、よかろうに」
ほほ笑みながらいったが、
「いや、おいとま仕ります」
「まことに、お邪げいたしました」
源右衛門も伝五も、袖をつらねて、次へ辷った。そしてあとの襖を閉めきると、やがて橋廊下の方に、薄氷でも踏みやぶってゆくような冷たい跫音を消して行った。
光春も、程経てから、やがてそこを出て来た。そして廊下を歩みながら侍部屋へ声をかけた。
小姓までが慌てて彼のあとに従ってその居室へ入った。光春はすぐ料紙と硯を求め、もう書くべき文言は頭のうちに出来ていたものの如く、苦もなく筆を走らせた。
「返書じゃ。これを横川の和尚の使いに持たせて帰せ」
と、侍臣のひとりに渡すと、もうその用件には何の顧念ないように、ほかの家臣を顧みて、
「光秀様には、あれからずっと、御熟睡しておらるるようか?」
と、たずねた。そして、
「御寝所はいとお静かのように窺われまする」
と聞くと、初めて、
「そうか」
と、眉をひらいて、自分もともに心の安まったような顔をした。
十九、二十日、二十一日と、それからの数日を、光秀はなすこともなく、坂本城に過していた。
すでに中国出陣の命をうけている身である。なお多少の余日はあるにしても、一刻もはやく居城の丹波亀山へ帰って、家中に動員を令し、万端の準備をいそぐべきではあるまいか。
「その途中にこうして、幾日も無為においで遊ばしては、いよいよ安土への聞えもよろしくあるまいに」
光春は直言したかった。
しかし光秀の心気を思うと、それも云い出し得ないのである。藤田伝五や四方田政孝などが痛言した──この気持のままでは戦場へ赴けない──という悶々たるものは、光秀の胸にも勿論あるにちがいない。
──とすれば、静かに、ここに滞留している幾日かの小閑こそ、光秀にとっては、何よりも先にしている出陣の用意かもしれないと思いやられもする。そうだ、そうあるはずと、光春はあくまでも、光秀のつよい理性と日頃の聡明を信じていた。
──今日も。
いかにお過しかと、彼がそっと光秀の居室をうかがってみると、光秀は毛氈のうえに筆洗や墨池をならべ、一巻の絵手本をひろげて、他念なく画の稽古をしていた。
「ほ。これは」
光春は側へ坐った。そして光秀にこの余裕があることを、心からよろこんで、共にこの境地を楽しもうとした。
「や、左馬介か。見てはいけない。まだ人前で描ける画ではない」
光秀は筆を置いてしまった。
そして五十以上の人とは見えないような羞恥みを示して、困ったように、あたりの描き反古までかくしてしまった。
「ははは。これはお邪げになりましたか。手本にお用いの画巻は、誰の筆ですな。狩野山楽にでもお命じになったもので?」
「いや、海北友松」
「友松ですか。あの仁はちか頃どうしておりましょう。とんとこの辺でも消息を聞きませぬが」
「先頃、甲州陣の折、ふと宿所へ訪ねてみえたが、あくる朝、夜もあけぬ間に、また飄然と立ち去ってしもうた。これはそのとき彼が画いたものだ」
「変り者ですな」
「いや、ひと口に、変り者というては当るまい。志節一貫、竹のごとく心の直な男だ。武士は捨てても武士らしい人物と思う」
「斎藤龍興の旧臣と聞いておりますが、その旧主にたいして、今なお節を曲げない点を、お賞めあそばすのでございますか」
「安土の御普請にあたって、右大臣家からお招きがあっても、彼のみはおことわりして、名利にも権勢にも屈しなかった。何ぞ、亡主の仇の障壁を画かんや──という気概を抱いておるものとみゆる」
そのとき光春の家臣が、何か用ありげに、うしろへ来て坐ったので、二人とも口をつぐんだ。
光春は振り向いて、何か──と取次の者にたずねた。手に一通の書簡と、奉書の嘆願書らしいものを重ねて、当惑顔に、そこへ控えた侍は、
「また御城門まで、横川の和尚の弟子が参りまして、強って、もう一応、この書面を御城主へ取り次いで欲しいと申し、何と刎ねつけても、命をかけて来たお使いですからといって、立ち帰りません。いかが致したらよろしいものでございましょうか」
と、光春の顔いろを惧れながらいった。
「なに。また来たのか」
かろく舌打ちをして、
「先頃も横川の和尚へは、光春みずから返書を与えて、嘆願の趣は、到底、相かなわぬ儀なれば、無用にいたせと、篤と答えてつかわしたのに、その後も、二度三度と、執こく書面を持たせて城門まで参るそうな。聞きわけのない法師ではある。──構えて、取り上げるな。何といおうが、突っ返して、追っ払うがよい」
と、いった。
取次の侍は、
「はい。はい」
とのみで、自分が叱られたように、倉皇と、書面も願書も、そのまま手に持って退がって行った。
すると、光秀はすぐその後で、こう訊いた。
「横川の和尚とは、叡山の亮信阿闍梨のことではないか」
「さようでございます」
「すぐる歳、元亀二年の秋、叡山焼打の折には、この光秀も一手の先鋒を命ぜられ、山上の根本中堂、山王二十一社、そのほかの霊社仏塔、悉くを焔となし、刃向う僧兵のみか、稚子上人、凡下高僧、老幼男女のさべつなく、これを斬って、火に投じ、ふたたびこの深山には、人はおろか、草木の芽も出まじと思わるるほど、掃滅殺戮のかぎりを為し尽したが……もういつしかそこには、また生き残りの法師たちが帰って来て、生きる道を求めておるとみゆるの」
「さればです。人伝てに聞きますと、山上は依然、荒涼として廃墟のままだそうですが、その後、横川の和尚亮信や、宝幢院の詮舜や、止観院の全宗や、また正覚院の豪盛とか、日吉の禰宜行丸などの硯学たちが、諸方に散亡していた山徒をよびあつめ、あらゆる手段を尽して、山門復興の運動をしておるようでございます」
「信長公のおられるうちは、まずその実現はむずかしかろうな」
「──と、彼らも知って、多くの力を、堂上の諸卿に向け、主上より綸旨をもって信長に諭し給わらんものと、だいぶ烈しい運動を試みたらしゅうございますが、それも勅許になる見込みなく、近頃ではもっぱらただ民力にありとなして、諸国を勧進し、諸家の門をたたき、山王七社の仮殿の建立をなしつつあるとか聞き及んでおりまする」
「では。……先日から再三、お許に使いをよこしておる横川の和尚の用向きも、何かそれについての嘆願じゃの」
「いえ」
光春は急に眸をあらためて、光秀の面をしずかに見つめた。
「実は、お耳に入れるまでもない儀と、この左馬介が独断で刎ねつけておりましたが──そうお訊ねをうけましては、つつみ立てしておるも如何。あらためて申しあげてしまいます。まこと横川の和尚から再三の申入れは、あなた様が当城に御逗留中と知って、ぜひ光秀様に、いちどお目通りさせて欲しいと、この光春を介して、切なる願いを申し入れて来たわけでござりました」
「亮信阿闍梨が、折り入って、この日向守に会いたいといっておるのか」
「それと、もう一通の嘆願書には、山門復興の勧進に、惟任日向守様の尊名をも、御拝借ねがいたいということでございました。……が、その二つとも、もちろんお肯き入れはかなわぬにきまっておる儀であると申して、私から固く断っておいた次第でございます」
「それ程、相成らぬ儀と、断っても断っても、なお再三再四、城門へ来て、命をかけてもと使いの僧までが申しおるとは……。不愍な心根ではある」
「…………」
「左馬介」
「はい」
「勧進の連名に、光秀が名をかしては、安土の君にたいして、畏れあるが、阿闍梨に会うてつかわすぐらいは、べつに憚ることもあるまいが」
「いや、御無用になされませ。山門焼打に一手の大将をお勤めになったあなた様が、何の必要あって今日、生き残りの法師とお会い遊ばす要がありましょう」
「その節は、敵であったが、いまの叡山は、まったく無力化して、安土に対しても降伏恭順を誓うておる良民ではないか」
「かたちの上では確かにそうです。しかし伝教以来の宝塔仏舎を灰燼とされ、万を数える師弟骨肉を殺戮された衆徒や有縁の者どもが、何で、まだ生々しい当年のうらみを、心から忘れておりましょうか」
「さればこそだ……」
光秀は、ほっと大きな息を天井へ吐いて、
「当年、わしもまた、信長公の御命やむなく、その狂炎の一ツとなって、山徒の悪僧のみか、無辜の老幼僧俗まで無数に刺し殺した。……今日、それを思うと、この胸は、さながら当年の燃ゆる山の如く呵責される」
「つねに仰っしゃる大乗的なお考えに似げないおことば。叡山ばかりのことではありますまい。興る者、亡ぶ者、春去れば秋の来るように繰りかえしている地上の相です。一殺多生、一山を焼いても、五山百峰の法を明らかに照らしめれば、わたくしたち武人の殺は、決して敢えなく無辜の命や文化を亡ぼすものでは、決してないはずと存じまする」
「いかにも、その通りだ。それしきの道理を弁えぬ身でもないが、一個の情として、今日の叡山にたいして、わしは一滴の涙を禁じ得ないここちがするのだ。……左馬介。公の惟任日向守としては憚りあろうが、ひとりの凡人が、御山の址を弔う意味でなら何のさしつかえもあるまい。わしは明日、微行でそっと山へ行きたい。そして横川の和尚に一片の布施をして戻りたいと思うが……どうであろう?」
その夜、光春は、眠りについてからも、独り思い煩った。
(何であのように、叡山の者に御執心を持たるるか)
と、光秀の心事を疑い、また明日は微行で山へ登りたいという光秀のいぶかしい思い立ちに対して、
(飽くまでお止めすべきか。それとも、御意にまかせておいたがよいか)
と、夜もすがら、とつこうつ、思案していたものであった。
(山門再興のことなどには、今のお身として、一切触れないに限るし、横川の和尚とお会いあるなどは、なおさらよろしくないことだ)
とは、彼の胸だけには、はっきり考えを決めていたが、なぜか光秀は、光春が独断で、亮信阿闍梨の使いを拒んでいたことにも、山徒の嘆願書を突っ返したことについても、余りよろこばない顔いろであったのみか、根本的に光春の処置とは喰いあわない考え方を抱いているらしく思われた。
(今の叡山を対象に、いったい何事を胸に夢みておらるるのか?)
そこに光春は多分な不安と疑惑を抱いた。明らかにこれは反信長行為と誹られる好材料になろう。しかも中国陣への発向を前にして何の必要もない道くさでもある。
(止めよう。なんと仰せられても、お止めしよう)
そうきめて、彼は瞼をとじた。面を冒して諫止するからには、多少、光秀から気まずい激語をうけようとも、いかに立腹されようとも、断乎として、その袂を抑えきろう。──そう決心して眠りに入ったのであった。
ところが。
翌る朝は常より早目に起きたにもかかわらず、彼がうがい手洗をつかっていると、もうどかどかと早暁の大廊下から玄関へと、人の跫音がながれてゆく気配であった。光春は侍をよびたてて、早口にたずねた。
「いま、誰が出て行ったのか」
「日向守様でいらっしゃいます」
「なに、光秀様が」
「はい。山支度の軽いお身装で、天野源右衛門どのただひとりをお供に召され、日吉の下までは馬で飛ばさんと、お語らい遊ばしながら、いまお玄関で草鞋を召していらせられます」
「さては、夜の明けぬ間に、はやお支度であったか」
彼は、どんな朝でも、欠いたことのない神前の朝拝と、仏間の称名とを、この朝に限って、怠ってしまった。
倉皇、室にもどるやいな、衣服大小を身に正して、大玄関まで駈けて行った。
──が、すでに光秀主従は、そこを立ち出てしまったあとで、見送りに出た数名の側臣たちが、朝の顔をそろえて、
「梅雨もここらで霽がりであろう」
と、大廂からすぐ仰げる四明ヶ嶽の白雲を仰ぎ合っているところであった。
城外の松原はまだ明けきれぬ朝霧に湖の底でも行くようであった。
人をのせた二頭の馬が、その中を軽い脚さばきで駈けぬけてゆく。鵜か、烏か、二騎をかすめて大きく翼を搏った。
「源右。日和はたしかだの」
「このぶんならば、山もかならず晴れておりましょう」
「久しぶり気も清々しい」
「御気分をお麗しゅうするだけでも、きょうの山詣では、無意味ではございません」
「なによりは、横川の和尚に会うてつかわしたい。それだけだ、光秀の用向きは」
「こちらからわざわざ山上へお越しあっては、さぞかし恐懼いたしましょう」
「坂本城へ招いては、やはり人目がうるさい。山上人なき所で、極く密かに、会うのが望みじゃ。源右衛門、そちがよいように計らえよ」
「人目は山よりも麓にありましょう。惟任日向守様がお登りになったなどと、里人のうわさにかかっては面白くありません。日吉あたりまでは、ひたすらそのお頭巾を眉深にしておいで遊ばしませ」
「かようにか」
と、光秀は、顔から頭に巻いている布を一そう深くつつみなおして、ほんの眉と唇元だけを見せて振り向いた。
「身装はお粗末、鞍もただの武者用に過ぎない物。これなれば誰が仰いでも、惟任光秀様とは思いも寄りますまい」
「源右、そちも怠るな。余り慇懃に侍きおると、それだけでも怪しまれようぞ」
「ははは。いかにも、そこまでは気がつきませんでした。これからは無造作にいたしまする。無礼をお咎め下さいますな」
つい両三年ほど前からやっと仮屋普請の軒並みが建ち始めて、やや旧観の坂本宿を復活して来たばかりの街道を駈けぬけて、延暦寺道の登りに向いかけた頃、ようやくうしろの湖水に、朝の陽が耀やきはじめた。
「途中、乗りすてたお馬は、いかが致しておきましょう」
「日吉神社のあたりには、仮御社も建ちかけておるという。その辺りには、農家もあろう。さなくば、日吉における工匠にでも預けて参ればよろしかろう」
「や……。たれか後ろの方で呼ぶ声がいたしはしませぬか」
「追うて来た者があるとすれば、それはかならず左馬介光春であろう。光春はきのうわしの微行を止めたい顔しておった」
「温順誠実、稀に見るお人でござります。武人には優し過ぎる程な」
「……お、見よ源右。やはり左馬介じゃ。麓のほうからただ一人して駒を追いあげて参る」
「あの御容子では、なお強ってでも、殿をお止め申すつもりかも知れませんが、はや、これまでお出ましあった上は……」
「もとより彼が何と申そうと、引っ返す心はない……。いや、恐らく彼はもう止めまい。止めるくらいなら城門でわしの轡をつかもう。あれ見い、左馬介も山支度をして参った。光秀とともに、きょう半日を山巡りなとせんものと、思い直して追いかけて来たにちがいない」
光春の心を覚るもの光秀ほどな者はなく、また光秀の心を知るもの光春ほどな者は世にない。
──果たして、その左馬介光春は、もうここへ来る前に、強いて光秀に逆らうよりは、共に一日を山で送って、彼に大過なきように側にいて努めるに如かず──と、思い直して来たものだった。
で、駒を近づけて来たときから、極めて明るい面を見せて、
「お早い、お早い。何というお早いことです。今朝ばかりは、左馬介も不意をうけて、尠なからずあわてました。……こう早暁にお登りとは思いませんでしたので」
「いやいや、左馬介。お許を供に連れ参ろうとは、光秀も思うていなかったのじゃ。そのように追って来るほどならば、前夜に約しておいたものを」
「それがしが不覚でした。たとえお微行にせよ、従者の十騎くらいは具され、茶や弁当の用意なども持たせて、悠々お出ましのものとのみ独り合点しておりましたために」
「は、は、は。つねの遊山なれば、そうありたいが、きょうの山詣では、飽くまで往年の業火のあとを弔い、無数の白骨に一片の回向をもせばやと思う菩提の心にほかならない。──酒壺珍味をさげて登ってはすむまいが」
主人の光秀がそういう横顔を、天野源右衛門はつよい眸で見つめていた。左馬介はそのことばを少しも疑わない様子で、
「きのうは何かとお気にさわるような儀を申し上げたかもしれませんが、それがしは生来の小心者とて、この際、ただただ安土への聞えの悪しからぬようにと希う余りに申し上げたまでに過ぎません。かく御軽装にて、ふと菩提のお心が、山へお運びを促したものとあれば、たとえ信長公のお耳へ入ろうと、よも深いお咎めはございますまい。実はこの光春も、つい坂本の近くに在城いたしながら、まだいちどもその後の山上を見ておりませぬ。きょうはお供をいたしながら、諸所一見できるのも、時あっての倖せとぞんじまして、後をお慕いして来ました。源右どの、さあお先へお立ちなさい」
と、駒をうながした。
そして光春は、光秀と馬首をならべて、彼の心を飽かしめないように、道々に見える草の花を説いたり、新樹のみどりの鮮やかさを語ったり、数々の鳥の音を聞きわけて鳥の習性を話してみたり、あたかも楽しまない病人の機嫌をとる婦人のように、細やかな心づかいを傾けていた。
「そうか。……むむ。……いかにもな」
光秀もその真情にたいしては、膠ない顔はできなかったが、左馬介の語ることのほとんどが自然の風物であり人事以外のことだった。光秀の心にはどうしても染まって来ないものばかりだった。光秀とても決して自然の美や雅懐を解さないものではなかったが、いかにせん彼の心はなお寝ても起きても絵筆を持ってみても、人と人との葛藤の中にあった。修羅相剋の人間社会にあった。瞋恚怨念の炎の裡にあった。昼時鳥の啼きぬくこの山道にかかっても、彼のこめかみは、安土退去以来の血が太くつきあげたまま、いまなお決して鎮まってはいないのであった。
ひとたび、本能寺の濠に、狂兵の矢石が飛び、叛逆の猛炎が、一夜の空を焦がしてから後には──世人はあげて今さらのように、事前の光秀のこころを──その変心の時と動機を、いろいろに揣摩臆測しあった。
或る者は、
(彼の逆心はもう長年のものだ)
と云い、また或る者は、
(いや、安土を退去して、亀山城に帰国してからだ)
と、例証をひいて説き、またもっと穿った者は、
(亀山に帰国してからの一夜、愛宕の社に参籠して、神鬮を引いたそのときに、むらむらとわいた出来心だ。その証拠にはその夜から彼の態度というものが変っている。当夜、連歌師の紹巴などを交えて百韻を催した席でも、
時はいま天が下知る五月かな
と大胆に胸中のものを吐いているし、またその晩は同室に寝た紹巴にたびたび起されているほど夜どおし魘されていたということを見ても、彼の大それた逆心がこの日から胸に醸されたものだということができる)
とも縷々詳説している。
どれもこれも、その解釈するところを聞けば、なるほどと頷ける説ばかりである。では、それらのうちのどれか一説が真に光秀の本心とその変化を云いあてたものかといえば、これまた一概にそうだと決定し得ない理由も他にないことはない。
およそ深秘なものは人のこころのうごきである。あの聡明と年配の分別をもちながら、敢えて晩節の生涯を逆賊の名に堕し去るの盲挙をなさしめたその原因が何であったか? ──という謎と同様に、彼の変心が、いつの日いかなる時にということは、おそらく彼の胸にとり憑いた魔もの以外にそれを知ることは困難だといってよかろう。
けれど、今日までの史家が、史証だけを頼って推定した以上幾つかの時機において、彼が逆心を抱いたとなすのは、なお軽率をまぬがれない。
なぜならば光秀の心境にとっては最も重視されなければならない安土退去の五月十七日の夜から、坂本滞留中の五月二十六日までの十日間というものは、従来、全く史家にも閑却されているからである。
光秀の叛逆がまったくの暴挙で、長年にわたる計画の下に行われたものでないことは、前夜の事情と、作戦の踏襲によってこれだけは明確に断言してよい。
──とすれば、彼の胸に、魔が憑いたのは、まさに安土退去の後だ。そのときの衝動こそ、彼の一代の修養も理性も微塵となって去喪していたものにちがいない。──帰国途上の坂本の城に逗留十日という空間は──かくして光秀の心理にとっては、朝に夕に、一刻一刻に魔となっては人に回り、菩提となりまた羅刹となり、正邪ふた道の岐路に、右せんか左せんかと夜も日も懊悩しつづけていたものに間違いはないであろう。
いま、彼はその一日を、叡山へ登って行った。もちろんこの間といえ、彼の心は、寸時も一道に安まってはいなかった。行けども行けども、迷いの岐路を見くらべていた。
かつてこの山の盛時を思うと、何という寂寥さであろう。権現川にそい、東塔坂をのぼって行くあいだも、ほとんど、人らしいものには行き会わなかった。
変らないのは、鳥の音ばかりである。ここは古くから百鳥の仙境といわれているほどなので、慈悲心鳥の声もする、仏法僧も稀れに聴かれる。耳をすませば瑠璃鳥、深山頬白、くろつぐみ、駒どり、ひよどり、また昼時鳥までが、谺するばかり啼き交わしているのだった。
「ひとりの僧も見えぬ」
文殊堂の址に立ったとき、光秀は憮然としてつぶやいた。今さらのように、信長の威と、その武力による駆逐の徹底に、愕いたかのような顔いろであった。
「左馬介」
「おつかれでございましょうに」
「なんの。……どうしたものだ。この山上にも、さらに人影はないではないか。中堂のほうへ参ってみよう」
なぜか少なからず失望した様子である。彼としては、いかに信長の表面的な制圧があっても、山徒の潜勢力は、もっと目にも見える復興を山上に現わしているものと思っていたらしいのである。
だが、やがて中堂の焼け跡、また大講堂や山王院や浄土院のあたりを経巡ってみても、そこにはかつての堆い焦土がそのままあるだけであった。ただ学寮附近に、山小屋にひとしい幾棟かが建っていて、香煙のにおいもするので、天野源右衛門をして内を窺わせてみたが、四、五の山僧が炉の粥鍋をかこんでいるだけで、
「たずねてみましても、横川の亮信阿闍梨は、これにおらぬ由でございます」
と、いうことであった。
「横川の和尚が不在なれば、たれか以前の碩学とか長老とかはおらんのか」
ふたたび、光秀はそういって、問わせてみたが、源右衛門の伝えて来た返辞には、
「さるお方は、ひとりも山にはおらないそうでございます。山上へまかるにも、いちいち京都詰のお奉行か、安土のおゆるしを得ねば許されず、また山上の常住は、限られた平僧と堂衆のほかは、今なおお認めなき掟とやらで」
それを光秀は聞きながして、
「いや、掟は掟であるが、宗門の熱意というものは、水をかけたら消える火のようなものでは決してない。思うに、われらをやはり安土の武士と見、かたく秘しておるのであろう。横川の和尚はじめ生き残りの長老たちは、いまなお山上のどこかに住んで、平常は人目を避けておるものにちがいない。……決して左様な心配のあるものではないとよく諭して、もういちど訊ねて来い」
「はい」
源右衛門が行きかけると、左馬介はそれを止めて、
「わしが参ろう。源右のいかつい問いかたでは、山僧どもが、よう物を申すまい。──光春が参ってねんごろに問うてみまする」
ことばの半分は、光秀へ向って告げ、光秀のうなずきを見ると、彼は小屋のほうへ歩き出した。
ところが、その光春のもどりを待っているあいだに、光秀は、会おうともせぬ人物に、はからずもここで会ってしまった。
鶯茶の投げ頭巾に、同じ色の道服を着、白脚絆のわらじを穿いている。
年は七十をこえているが、唇は少年の如く紅く、眉は白雪、さながら鶴に道服を着せたような老人であった。
ふたりの下僕と、ひとりの童子をつれ、四人づれで今、四明ヶ嶽の谷道から上って来たのであるが、ふと光秀のすがたを見かけると、
「おう、日向どのではないか」
と、一目してその人とすぐ知ったらしく、供の者をうしろへおいて、無造作に側へ来て話しかけた。
「お久しいことでおざった。やれやれ、これはまた、思いがけぬ所で、思わぬお方にお会いするものではある。安土においでて、寸暇もなくお勤めと伺っていましたが、きょうはまた、どうしたお序で、かかる無人の山中へわたらせられたか」
老齢に似もやらず、非常によく透る音声の持主である。そして白い眉もその唇もとも、屈托なくたえず微笑をたたえている。
それにひきかえて光秀は少なからず狼狽の容子であった。この明るい老人の眉には、眩しいような眼をさまよわせて、その答えも平常の彼とも思えないほど紊れていた。
「や。どなたかと存じたら……曲直瀬殿か。なんの光秀とて、徒然の日もおざる。数日来、坂本の城に滞在中とて、山でも少し渉りあるいたら、梅雨じめりの鬱気も少し散じようかと思うて」
「稀に、大岳を踏んで、自然に接し、気を洗うのは、何よりの心養、またおからだの薬です。……お見うけするところ、ひと頃よりは、心身ともおつかれの体に見うけられる。病のため、お暇を乞うて、御帰国の途中でもあらせらるるか」
針のように眼を細めていう。なぜかこの眼の前には欺けないものを感じさせられる。曲直瀬道三、名は正盛、字は一渓。当代かくれのない名医であった。
足利義輝がまだ室町将軍として健在であった頃から、すでに医として、道三の名は洛内に高く、その寵遇もうすくなかった。管領の細川も松永弾正も三好修理も、みな彼の手にかかっていたものだし、わけて禁中の御信任もあつく、余暇を施薬院の業に尽し、また後輩のために学舎を設け、高齢七十余歳というになお少しも倦むところがない。
ここ久しく会わなかったが、光秀はこの大医と、安土の城内でいくたびか同席したことがある。そのうち二度ほどは茶席であった。信長は、茶の相手にもよく彼を招いたが、病気といえばすぐ、
(道三を呼べ)
と、いうのが寝つくよりも先で、常に左右にいる典医よりも、彼への信頼のほうがはるかに篤いようであった。
けれど道三は由来、権者に召し抱えられるのは好まない質だし、住居は京都にあるので、そのたびごとに安土まで通うのは、いくら丈夫といってもなかなか有難迷惑のようであった。
光春は小屋まで行かずに戻って来た。急に天野源右衛門が呼び返しに来たからである。
源右衛門は小声で、
「どうも、まずいお人に出会うてしまいました」
と、歩みながら囁いたが、光春はやがて曲直瀬道三のすがたを見て近づくと、むしろ僥倖のように、
「これはおめずらしい。一渓老ではありませんか。いつも壮者をしのぐばかりなお元気。きょうは京都からお登りでしたか。何か、御遊山のお連れとでも?」
などと日頃の親しみを示して、光秀との話の仲へ立ち交じった。
はなし好きな道三は、この山上に思わぬ知己を拾って、いとど愉快そうに、
「春から夏の四、五月。秋の末の九、十月頃には、毎年こうして、山登りを欠かしたことがない。この峰谷谷には、本草のなかでも貴重な薬種が勿体ないほどたくさんあるのでな」
と、遠くにひかえている供の一人をさし招いて、携えている籠の内から、
「これは、山うずら。これは、あけぼの草。これは、錦ごろも。これは、菊ごけ。これは、なるこ百合……」
と、採取した百合科や龍胆科や蘭科植物などの薬草を種々そこへ取り出して、その医効を説明したり、また本草の由来を聞かせたりして、
「信長公は何事にも、新しいもの好きでいらっしゃるし、わけて海外文明には、鋭感なお方なので、安土の南蛮学校にいる紅毛人の医師に命ぜられて、伊吹山のふもとに、薬園をもうけられ、西洋薬草を七、八十種も植えおかれておらるるが、何もそうまでせんでも、この叡山だけでもまだわれらの眼に見出されぬ深秘の薬種がどれほどあるかわからない。かつてこの山の聖が、眼にふれた千種の薬を百首の歌に詠み入れた『天台採薬歌』という冊子が中堂に所蔵されていたと聞いたことがあるので、ぜひ一覧したいものと思うていたが、そのうちにあの元亀二年の兵燹で、かくの如くみな焦土となってしもうた。……かえすがえすもその『天台採薬歌』を見ずにしまったことだけは、今もって残り惜しい気がしてならぬ」
と、語り来って語り飽きない道三であったが、ただ終始沈黙がちであるばかりか、はなしの間にも、どこかに空虚の窺える光秀の容子にだけは、彼も時折気にかかってならないらしく、その横顔へ、しばしば医家らしい眼をそそいでいる。
で、話題はまた、いつか光秀の健康に及んで来て、
「光春殿から伺えば、日向殿には、近日、中国へ御出陣とのこと。よほどお体を大事にお保ちあるように。人間五十をこえると、いかにお丈夫でも、自然の生理は否み難く、いろいろな変革が体に起る大機でもありますからな……」
と、ことば以上、憂いをふくめて、くれぐれも注意した。
「そうでしょうか」
光秀は、強いて一笑に附しながら、道三の注意へ他人事のように答えた。
「先頃、かろい風邪気味ではありましたが、生来強健のほうでべつにこれという病も覚えませんが」
「いや、そうもいえない」
道三は、自家の医学と体験の権威をもって、それを否定した。
「病を病と自覚している病人はつねに意を用いているからまだよいが、あなたのように無病を過信していると、まま大きな過ちに陥る。充分お気をつけなさい」
「では、どこが光秀の宿痾であろうか」
「お顔の色を見、お声を聞いただけでも、尋常な御容態でないことはすぐわかる。どこといえる宿痾ならまだしも、おそらく五臓すべてにお労れが来ているのではあるまいか」
「労れがあろうと仰せなれば、それは自身でも頷けます。年来の転戦、君側の勤め。いやもう、無理に無理を押して来た体ですからな」
「日向殿の如き知識の人へ、こういうのは釈迦に説法であろうが、よくよく御養生あるがよろしい。肝、心、脾、肺、腎の五臓は、五志、五気、五声にあらわれて、色にも出で、ことばにも隠せぬものでおざる。たとえば、肝を病めば、涙多く、心をやぶれば、恟々としてものに恐れ、脾をわずらえば、事ごとに怒りを生じやすく、肺の虚するときは憂悶を抱いて、これを解す力を失う。また腎弱まれば、よく歓び、即座にまた悲しむ。……」
じっと、道三は、光秀の顔色を見つめた。病人でないことを自信して光秀は、その言を聞こうとは思わなかった。強いて微笑に紛らわせていようとすると、不快になり不安になり、理由なき焦躁に駆られてくる。で、努めて答えずに、この老人とはやく別れる機会を見つけたいような面持であった。
しかし曲直瀬道三は、自身がいおうとすることを、決して途中で云い濁すようなことはなかった。そうした光秀のひとみや気色を覚りながらも、なお話をつづけて、切言した。
「あなたにお会いしたときから気にかかったのは、あなたの皮膚の相色であった。何を憂い、何を恐れておらるるか。──しかもお眼は怒脈をひそめ、匹夫のごとき怒りと、婦人のような涙とを、一眼のうちにたたえておられる。──夜、手足の爪まで凍えるような冷えをお覚えなさらぬか。しかも耳は鳴り、唾液は渇き、口中に棘を咬むようなお心地はあらせられぬか」
「まま眠りかねる夜もありましたが、昨夜はよく寝みました。何くれとなくお心づけ、辱うござった。出陣の後も、何か薬餌を摂りましょう」
と、光秀はこれを機に、左馬介や源右衛門を顧みて、参ろうかと道を促しながら、また、
「そのうちに改めて使いをつかわしますゆえ、何ぞ、持薬をお授けください。いや、途上まことに失礼いたした」
と、のがれるように先へ別れて行った。
この日、明智の家中進士作左衛門は、一小隊の従者をつれて、遅れ走せに、安土から坂本城へ引き揚げて来た。
主人光秀の退去が、事遽かであったため、あとに残って、残務の整理や邸の始末をすまして来たものである。
待ちもうけていたように、彼が旅装を解くやいな、一室に彼を囲んで、妻木主計、藤田伝五、並河掃部、四方田政孝、三宅藤兵衛、村上和泉守などの人々が、
「あとの情勢はどうか」
「御退去のあと、安土では、どんな噂が交わされておるか」
などと膝つめよせて訊ねた。
作左衛門は切歯して云った。
「過ぐる十七日の御退去以来、きょう二十五日まで、わずか八日の間だったが、明智家の禄を喰む身にとっては、針の莚に三年もすわっているような辛抱だった。──あのあと俄かにがらんとした饗応屋敷の門外を通ってゆく安土の小身どもや町の者までが声高に──これが日向殿の空屋敷か、道理で腐った魚のにおいがする、こう不首尾とけちが続いては、もうきんか頭の光もここらで萎むであろうなどと憚らぬ雑言が、耳をふさいでも、朝夕に聞えて来るしのう……」
「それほど御不評か」
「安土の膝下に生きておる輩じゃ、たれひとり信長公の処置を、無理とも悪いともいう者はない。一に殿への誹謗ばかりだ」
「上層の面々には多少ものの分った人もあろう。そういう方面のうわさはどうか」
「いや、以後の数日は、ただもう大賓の徳川殿をもてなすことで、安土城内は持ちきっている。その徳川殿にも、急に饗応の奉行がかわったので、不審に思われたか、信長公にむかい──明智どのの姿が見えぬがどう召されたか──と訊ねられたそうじゃ。すると信長公は、事もなげに、あれは国許へ帰したと、眼のうちにも入れてないような御返辞であったという」
「…………」
聞く者はみな唇を噛んだ。進士作左衛門はなお語をつづけて、安土の重臣間には、主人光秀の失意をむしろ快となす空気が多分にあること。また信長自身の胸にも、ふたたび昔日の寵遇はわが主人にないばかりか、明智家の領地までを、他の僻地へ移封させるお心がないとも断じきれないものがある。
これも噂には止まるが、火のない所に煙は立たない。安土の奏者森蘭丸が、往年この坂本で戦死した森三左衛門の次男であるところから、ひそかに現在の美濃の領からこの坂本へ領地がえになりたい希望を抱いているし、すでに信長公からその黙約をうけているという沙汰すらある。
で、このたびの山陰道への出軍令は、主人光秀に、その地方を攻め取らせて、現地の山陰にそのまま明智家を封じ、後あらためて坂本附近の──地理的にも安土のすぐ側にある──この要地は蘭丸へ下されるものではないかと観察している者も決して尠なくない。
「その証拠には」
と作左衛門は、この十九日に信長から明智家に伝達された軍令状を例にひいて、さらに眦を裂いた。
進士作左衛門が云い出すまでもなく、この十九日附け発令で、安土から明智家に手交された軍令状というものは、光秀のみならず全家中をして、憤怒せしめたものだった。
いまその全文を見るならば、
この度、備中の国へ、後詰のため、近日、彼国に出馬あるべきに依り、先手の各〻、我に先だって戦場にいたり、羽柴筑前守の指図を相待つ可き者也。
池田惣三郎殿 同紀伊守殿 同三右衛門殿 堀久太郎殿 惟任日向守殿 細川刑部大輔殿 中川瀬兵衛殿 高山右近殿 安部仁右衛門殿 塩川伯耆守殿
天正十年五月十九日
とある。
かりそめにも軍令状に過ちのあるはずはない。また祐筆などの私情によって左右されるわけも絶対にない。信長公のさしずであり、故意なること明白であると、明智家の将士は、この廻状に接したとき、悲憤、怒涙をしぼって、
(御当家は当然、池田や堀などの上位であって、羽柴、柴田と同格に扱わるるのが、従来の慣いであった。──だのに、それらの諸将の下に、主君のお名を記し、あまつさえ秀吉の指揮をうけよというに至っては、武門に加えられる侮辱の最大なるものだ。饗応役褫奪の恥を、軍令状の中にまで及ぼし、明智家の不面目を戦陣にまで曝さるる苛酷なお仕打というしかない)
と、恨み合ったものである。
進士作左衛門は、このことが、やはり安土一般の人士にも、相当注意されているらしいと、自己の観察をつけ加えて、
「必定、領土がえが行われて、この坂本四郡は、やがて蘭丸へ下される思し召しであろうなどという風説の出所も、軍令状の表に示された格下げの御意志を、みなが敏感に読みとって、沙汰し廻るものと考えられる。……何しても、心外千万なことだ。無念というも云い足りぬ」
語り終っても彼はなお幾たびも、膝にかためている拳を眼へやっては、暗然と、鳥肌のようになった面をそむけていた。
折ふし黄昏れていたので、各〻の居ずまいと壁を繞って夕闇がふかくたちこめ、その後は、たれひとり口をきく者もなく、ただ頬をつたう涙ばかりが白く見えたが、このとき大廊にあたって侍たちの跫音が聞えたので、さては、殿のお帰りと、人々はあらそって出迎えに出てしまった。
ひとり進士作左衛門だけは、召しのあるまで、旅装も解かずにひかえていた。終日、山を歩いて戻った光秀は、風呂に入り、夜食をとってから、作左衛門を招いた。
席には、左馬介しかいなかった。作左衛門はこのとき初めて、まだ家中には誰にも洩らしていない報告を一つつけ加えた。
それは、信長が、いよいよ月の末二十九日に、安土を発向、京都に一泊して、直ちに西下するという日取の決定や準備の聞き込みであった。
きょうはすでに二十五日。
この二十九日には、信長が安土を立つと聞いては、光秀もさすがに、ここ七日間の逗留を顧みて、心をせかれずにはいられなかった。
「して、安土御本城のお留守居衆などの顔ぶれも決まったようか」
作左衛門はそれに答えて、
「お留守には津田源十郎どの、加藤兵庫どの、蒲生右兵衛大輔どの、野々村又右衛門どの、丸毛兵庫守どのなど、御本丸守り、二の丸詰の方々まで、数十将におさしずあらせられたように承りました」
聞き入る光秀の耳はその眸とともに、彼の聡明と観察の叡智を象徴していた。作左の一語一語にうなずきを与えながら、
「また、御発向のお供には」
と、たずねた。
「誰々と、いちいち審かには聞き及びませんが、左右の御近臣数名と、お小姓衆三、四十人ほどお召し連れとのみ伺いましたが」
「なに、ただ四、五十名の軽装で御上洛とか」
信長の発向としては余りに軽々しい。むしろ疑うべきだと、思い惑ったものか、光秀のひとみはそのせつなに、燭を横に見ながら、熒として妖しくかがやいた。
光春は一語も吐かずにひかえていたが、光秀がそれきり沈黙をつづけているので、進士作左衛門に向って──
「退がって、旅装を解き、夜食なとすましたがよかろう」
と、ねぎらった。
あとは光春と光秀のふたりとなった。自己の分身も同様なこの骨肉にたいして、光秀は何やら心を割って語りたいような素振でもあったが、とかく光春のことばは光秀にそれを吐かしめないのみか、切に、一刻もはやく中国へ出陣して、これ以上信長公の忌諱に触れることのないようにと、一にも信長、二にも信長と、ただ服従と奉公一念をすすめる以外にないのであった。
この正道一義な従兄弟の性格は光秀としても四十年来、たのみがいある男よと、力にもし、愛して来た性情である。いまとてもそうした光春なればこそ、
(わが一族中の随一の者)
と信頼しているのだった。
だから、彼のそうした態度に対しては、いかに内心自分のいまの気もちにそぐわぬものであっても、光秀はそれに怒ることも圧伏を加えることもできなかった。沈々と黙し合うことややしばしの後、光秀は唐突に、
「そうだ、こよいのうちにも、先発を出して、亀山の家中の者どもに、はや陣用意を触れさせておこう。左馬介、計ろうておくりゃれ」
と、云い出した。
光春はよろこんで立った。
その夜たちまち並河掃部、村上和泉守、妻木主計、藤田伝五などの将は、一部隊をひきいて、亀山城へいそいで行った。
四更の頃、むくと、光秀は刎ね起きて、臥床のうえに坐っていた。
夢でも見たのか。
或いは、なにかまた、否と思い直してしまったものか。しばらくすると、ふたたび衾を被いで、枕に顔を埋め、努めて眠ろうとしているもののようであった。
霧か、雨か。
湖の波騒か、四明颪しか。
夜もすがら大殿の廂を繞る嵐気が絶えない。枕頭の燭は、風もないのに、ものの気に揺れ、光秀の閉じている瞼のうえにゆらゆら明滅を投げかける。
光秀は寝返りを打った。みじか夜のこの頃とはいえ、彼にはなかなか明けるに遅い夜々であった。──がようやく、そのまま寝息に入ったかに思われたが、ふとまた夜具を掻い退けて、がばと半身を起し、
「於香。於香はいるか」
と小姓部屋へ呼びたてた。
遠くのふすまが辷る。宿直の山田香之進が音もなく入って来て平伏した。光秀は一言、
「又兵衛にすぐ来いと申せ」
いいつけるとそのまま、独り沈吟していた。
さむらい部屋の者は、みな眠ってはいたが、同僚の一隊は宵のうちにもう亀山へ立ったし、主人光秀もつづいていつ出発を触れ出すやも知れないしする気持から、家臣はみな常ならぬ緊張を抱いて、各〻、旅装を枕許へおいて横になっていた。
「お召しでございますか」
四方田又兵衛はすぐ見えた。これは屈強な若者であり、四方田政孝の甥でもあるので、光秀が眼をかけていた侍である。──もっと近くへ寄れと、眼ざしでよびよせてから、光秀は声をひそめて何事かいいつけていた。
はからずも光秀から直接に機密な命をうけた若者は、異様な感激を満面に示して、
「行って参ります」
と、主君の信頼に、身をもってこたえた。
その若さを、頼もしくも、気遣いにも思うように、
「夜の明けぬまに早く行け。明智の士というと、人目が多いぞ。不つつかをすな、ぬかるな」
──又兵衛の退がった後も、なお夜の白らむには間があった。光秀がほんとに眠りついたのは、それからであったらしい。
いつになく彼は日の三竿にいたるまで寝所から出て来なかった。亀山への出発はおそらく今日と察して、それも早朝に触れ出されるであろうと待機していた家臣たちには、主君のこの常ならぬ朝寝坊がひどく意外なようであった。
「きのうは終日、山をあるき、昨夜は近来になく熟睡した。そのせいか、きょうは寔に気分がよい。風邪も本格的に癒ったとみえる」
午ごろ、光秀のうるわしい声が広間に聞えていた。家臣たちの間にはそれを自分たちの健康のように歓びあう容子が漂っていた。そして間もなく側臣からこういう令が伝えられて来た。
──こよい酉の下刻、当所を御出立、白河越え、洛北を経、亀山へ御帰国被遊。御用意とどこおりなきように。
亀山へ供して行く将士の同勢は三千に余った。夕べ迫ると、光秀も旅装をととのえて、本丸の広間に臨み、この日にかぎって、光春の家族たちと一緒に晩の食事をした。
「お門立ちの祝ぎにと、奥方や老人どもが、いささか、丹精こらした膳部です。何もございませぬが、彼らの心根を召し上がっていただければ、どんなに歓ぶかわかりませぬ」
と、左馬介光春からいわれたので、光秀も、その心を酌んで、
「中国へ出陣すれば、またいつの日帰るとも知れぬ。では久しぶりに御内方と共にいただこうか」
と望んだところから、出立を間際にして、急にこういう団欒になったのであった。
光春の夫人は、妻木主計のむすめである。光秀の家庭は子沢山で有名なものだが、光春と夫人の妻木氏のあいだには、八歳になる乙寿丸しかない。
老人としては、叔父の長閑斎光廉がいる。洒落な老人で、ことし六十七になるが、病も知らず、冗談ばかりいって、いまも乙寿丸をそばに置いてからかっていた。
この気さくな老人のみは、始終、にこにこしていて、明智一族の今ぶつかっている暗礁も知らず、春の海をゆく船に老いの余生を託しきって、しかも安心しぬいているような姿なのである。
「賑やかで、もうわが家へ帰ったようなここちがする。老人、この杯を、光忠にやってくれ」
光秀は、二、三献すごしたそれを、手近な光廉入道にわたすと、光廉はそれを、傍らにいる甥の明智次右衛門光忠にわたした。
光忠は八上の城主で、きょうここへ会したばかりである。三人従兄弟のうちではいちばん年下であった。
「ありがたく戴きました」
光秀の前へ進んで、光忠は杯を返した。光春の夫人が銚子を持って注いだ。そのとき、光秀の手がびくりと震えた。太鼓の音に愕くような光秀でもないのに、表の方で鳴った太鼓とともに何か顔いろまですこしうごいたように見えた。
「はや酉の刻でおざれば、御人数の衆へ寄場へ集まれと、供頭が触れておる太鼓でござりましょうで」
ふと眼をこちらへ向けていた光廉入道がそういうと、光秀はそれまでの機嫌を一ぺんに沈めて、
「知っておる」
と苦そうに終りの杯をのみほした。
半刻の後には、彼はすでに馬上だった。星青き夜空の下、三千の人馬と、炬火の数が、うねうねと湖畔の城を出で、松原を縫い、日吉坂を登って、四明ヶ嶽の山裾へかくれてゆく。
左馬介光春は、城頭から見送っていた。彼は坂本の家中だけで一戦隊を編成し、後から亀山へ赴いて本軍と合する予定になっている。
この夜は二十六日、明ければ二十七日という間を、光秀以下の人馬は、眠らずに歩いていた。そして四明ヶ嶽の南から寝しずまった京都の町を西方の盆地に見出したのが、ちょうどその両日の境にわたる真夜中の頃だった。
白河越えは、これから瓜生山の尾根へ降って、一乗寺の南へ出る道。──ここまでは登りづめであったのが、あとは一路降って行くばかりとなる。
「やすめ」
次右衛門光忠は、光秀の旨をつたえて人馬に令した。
光秀も馬を降り、床几を取りよせて、しばらくこの嶺のいただきに休息した。昼ならばここから一眸になし得る京洛の町々も、特徴のある堂塔や大きな河をのぞいては、ただ全市の輪郭が闇の底おぼろに望まれるだけだった。
「四方田又兵衛はまだ追いついて来ておらぬか」
側にいる四方田政孝にたずねたのである。が、その甥の行く先は、政孝こそ、光秀へ問いたいことであった。
「昨夜から見えませぬが、殿より何かお使いを命ぜられたのではございませんか」
「そうだ」
「どこへ参りましたので」
「やがて分ろう。──もし戻って見えたら、歩行中でもかまわぬから、すぐわしの馬側へよこしてくれ」
「畏りました」
政孝はふかく訊ねなかった。何事にも御腹蔵のない主君が口に出したくないことなら触れないのが道であると考えたからである。
口をつぐむと、光秀のひとみはまた、墨のような京洛の屋根を、飽かずに眺めていた。夜霧の流れが濃くなり淡くなるせいか、それとも夜眼の馴れてくるためだろうか、次第にそこの建物なども判別されて来る。わけて二条城の白壁はほかの何物よりも明らかだった。
当然、光秀の凝視は、その白い一点にとらわれた。そこには、信長の子、三位中将信忠がいる。また数日前に安土を辞して上洛した徳川家康も泊って、大勢の案内衆や接待役に囲繞されながら歓待の幾夜かを過ごしたであろうなどということも──思うまいとしてもすぐ想像にのぼって来る。
「徳川どのにも、はや京を立たれたろうな」
呟くような主人の問いに、政孝が答えて、
「いまは大坂に御滞在かと存ぜられます。そのような御予定と承っておりましたが」
「……む。む」
それきりであった。このことばには、後もなく、前もない。
「さ、行こう。馬を──」
光秀は不意に起つ。諸将はあわてた。
この不意打から受ける部下の狼狽は、光秀一箇の心が、箇のまま発作的に行動するため起る波紋であった。そのまえに政孝へ云っていた首尾のないことばと同じもので、この数日間の光秀には、時々、一家中という大勢から遊離して、一藩の主脳でも一列の主体者でもない、孤のごとき一箇の人間として挙止するような姿がまま見られた。
しかし彼に続く将士は、
「降りは早いぞ」
「馬を躓かすな」
と、夜道の難にも怯まず、主君をかこみ、友を戒め合い、洛外へ向ってひたすら道を捗っていた。
人馬三千の列が、下加茂の河原まで来て立ち淀んだとき、人々は期せずして、うしろを振り向いた。光秀も振り顧った。
眼のまえの加茂川に映え耀いた紅波を見て、後ろなる三十六峰の背から朝陽が昇ったのを知ったからである。
「朝のおしたくは河原で遊ばしますか、西陣へ行っておしたためなされますか」
兵糧方の部将が、光忠の側へ来て、朝食のことをたずねていた。光忠は光秀の内意を訊くため少し駒を寄せかけたが、そのとき四方田政孝と光秀が駒をならべて、いま通って来た白河の方を凝視している容子だったため、しばらく此方にさしひかえていた。
「政孝。あれは又兵衛ではないか」
「そのようでございますな」
光秀と政孝のひとみは、彼方から急いで来る一騎を待っているものらしく、朝霧を衝いて、その影が近づいて来ると、
「おお、やはり又兵衛であった」
と、光秀は心待ちにしていた彼をそのままそこに待ちながら、左右の将に向って、
「さきへ渡れ。わしは一足あとから河をこえる」
と、云った。
前隊の列はもう一部分加茂の浅瀬をひろって、対岸へ渡っていた。諸将は光秀のそばを去ると、つづいて清冽の中へ白い水泡のすじを作って、続々、徒渉して行った。
それを機に、光忠がたずねた。
「お弁当はどこでおつかい遊ばしますか。西陣なれば便宜もございますが」
光秀は一言に、
「みな空腹であろうが、町中は好ましくない。北野まで参ろう」
もうそのとき、これへ近づいた四方田又兵衛が、十間ほど彼方に駒を降りて、河原の杭に手綱を巻いていた。
「光忠も、政孝も、わしにかまいなく、先に越えて、河向うで待っていよ。すぐ参る」
最後の二人までを、そういって遠ざけた後、光秀は初めて、又兵衛の方に向い、顔をもってさしまねいた。
「寄れ。もっと近う寄れ」
「……はいっ」
「どうであった。安土のもようは」
「さきに承りました進士作左衛門どのの御報告に間違いはないようでございます」
「再度、そちを遣わしたのは、二十九日御上洛の儀、またお供の勢など確かなところを見極めにやったのだ。──ないようでござります、などという曖昧なことでは何の効もない。確実か、否か、はっきり復命せい」
「二十九日、安土御発向のこと、これは確かです。お供方には、主なる大将方の御名も聞えず、ただ御近衆お小姓たち四、五十名としか触れ出されておりません」
「して、御在京中の御宿所は」
「本能寺の由にござりまする」
「なに。本能寺」
「はい」
「二条城ではないのか」
「たしかに、本能寺とのこと、いずれでも沙汰されておりました」
また叱られないようにと気をつけて、又兵衛は、特にはっきりと答えた。
巨大な山門を中心として、附近に多くの末院がそれぞれ土塀をかまえ門を持っている。眼のとどく限り掃いたような土肌をしているここの松原全体がひとつの禅苑をなして、梢からこぼれる陽も幽かな鳥の声も、その静寂を助けている。
馬をここにつないで、光秀以下明智家の将士は、朝と午とを兼ねた弁当をつかった。加茂河原あたりで朝食をとるべきなのに、北野まで我慢して来たので、時刻がそういう半端になってしまったのである。
将士はみな一日分の腰兵糧を携帯していた。生味噌と梅干と玄米の飯という簡単なものであったが、夜来の空腹は、これに舌鼓を打って睦み合うに充分なほど、人々の慾を謙虚にしていた。
「──これは惟任日向守様の御人数ではいらせられませぬか」
妙心寺の塔頭大嶺院の僧が三、四人してこれへ茶を運んで来た。そして、
「おさしつかえなくば、何の用意もございませぬが、寺中の一院を、御休息所にお宛て下さいますように」
と、つけ加え、
「いずれ住持が、間もなく、御挨拶をかねて、御案内に罷り出でまする」
と、携えて来た湯茶を侍臣にあずけて帰りかけた。
光秀は、小荷駄の者が、簡単に張りめぐらした幕の陰に床几をすえて、いま食事もすまし、祐筆の者に、何か一通の手紙を口述して書かせていたが、
「妙心寺の僧よな。ちょうどよい使い。呼びもどせ」
と、小姓にいいつけ、僧たちが遥かにひざまずくと、祐筆の手になったその書面を託して、
「連歌師の里村紹巴の宅まで、この一通を大急ぎで届けおいてくれぬか」
と、いった。
そしてすぐ床几をたたませて、馬の側へ立ち寄り、
「いとまなき途中であれば、寺中の和上たちにもお目にかからず罷りこえる。よろしく申し伝えてくれい」
と、すぐ出発を令して立ち去ってしまった。
昼中は暑かった。仁和寺から嵯峨へとかかる平坦な道は、殊に乾いて、真夏のような草いきれが埃と共に馬の足もとから燃えてくる。光秀は黙々として、終始、渇も訴えなければ左右とも語らなかった。
が、彼は彼自身と、間断なく問いつ問われつしていたのである。天地間の何者も窺い得ないほどな大事を、彼は彼と対立して、胸の中に論争の激流を渦まかせていた。そしてそのことの可能性やら、世人の輿論やら、または一朝不成功に帰した場合までの結果を、彼らしい用心ぶかさをもって綿密に考えつめていたものだった。
払えども払えどもたかって来る馬蠅のように、それはもう心の内から追いきれない彼の白日夢となっていた。かかる悪夢が、いつの間に彼の毛穴から忍び入って満身の邪気となったものか、彼の聡明ももう反省する力をすでに欠いていた。
光秀は、五十五年の生涯のうちで今ほど、自己の聡明を、ふかく恃み、またかたく信じたときはなかった。
客観的には、彼の知性というものが、いまほど危ない亀裂を呈した例はあるまいと思われるのに、彼自身には、その正反対が信じられていた。
(──自分の思慮には水の漏るほどな錯誤もない。誰がいま光秀のこの腹中を知ろう)
ひとり綿密に練っていたその腹中の企図も、坂本にいたあいだはまだ、実行にうつすべきか、実行すべきでないか、迷いは半々であったが、今暁、下加茂の河原で、四方田又兵衛から二度目の確報を聞くとともに、光秀はぞくと身の毛をよだてて、
(──今だ)
と、心のうちに決して、
(天、光秀にこの時を与え給うものである)
という、自我の妄信を強く抱いた。
信長が扈従わずか四、五十名の軽装で、本能寺に泊るという──またとないその絶好な機会こそ、彼の心を囚えた魔のささやきといってさしつかえない。いかなる大胆な人間も謀み得ないほどなことを、今は小心そのものの光秀が、咄嗟に実行しよう──と思い極めるに至ったのは、彼の積極性ではなく、むしろ彼以外のものだった。
人は各自の意志によって生きもし動きもしていると思っているが、その人以上の何ものかの力が人をうごかしているという儼然たる宇宙の理は、人間はどうしても否みきれない。いまの光秀とてもそれくらいなことは考える。そして彼はこの機会と自分の腹中のものに、天の味方を信じながら、半面絶えず、天を怖れ、下加茂から嵯峨まで来る半日の道にも、それのみ心にかかりだしていた。自分の一挙一動に天の眼がそそがれているような恐怖に近い心理だった。
「六右衛門。六右衛門」
清涼寺を過ぎ、北嵯峨の松尾神社の前まで来たとき、彼は近衆のうちの東六右衛門をよび出して、
「そちはこれから愛宕の山上へ参って、威徳院の行祐どのに伝えよ。明日、光秀参拝のうえ、同夜は光秀と日ごろ親しき輩四、五名集うて、歌夜籠り仕りとう存ずると。──俄かに房を騒がせぬためじゃ。そちは明夜まで山上に留まっておるがよかろう」
さきには、京都の紹巴に招き状を送り、いまは愛宕の参籠を先触れさせていた。彼は、天の味方を信じながら、天の眼をあざむくことに、自己の聡明を駆使していた。
列は、桂川を渡り、松尾の間道をこえ、その夕方、陽もとっぷり暮れたころ、亀山の本城へ着いた。
城主の帰国を知った亀山の町民は、夜空も染まるほど篝火に祝いの心を見せていた。事実ここの領民は旧国主の波多野氏時代よりも、いまの善政に悦服し、光秀の徳になついていた。
おまえ見たかや
おしろの庭は
いつも桔梗の
花が咲く
こんな民土の謡が興ったのも、正に明智領になってからである。こよいも濠をこえ、狭間をこえて、城下の謡が本丸まで聞えていた。
「長々の留守居、ご苦労であった。光秀もまずかくの通り健在、歓んでおくりゃれ」
彼は城中に入るとすぐ、大広間を用いて、斎藤内蔵助以下、多くの留守居衆に謁を与え、各〻から挨拶をうけて後、初めて奥曲輪に入った。
何十万石という住居はあっても、賑やかな家族はいても、戦国の武将はひとり光秀のみでなく、誰もひとしく、家庭に帰って楽しむような日は、一年のうちに指折るほどしかなかった。少し長陣の合戦には、二年も三年も帰らなかった。
故にひとたび、父なる人が稀〻のすがたを、そこに見せた夜の奥曲輪というものは、たいへんな賑わいであった。夫人も和子も老いたる叔父叔母の輩まで嬉々として、侍女たちの顔から燈火の色まで華やぎ立ち、その陽気なことは到底、節句や正月の比ではない。
わけて光秀は子福者で、女子は七女まで、男子は十二男まで持っている。もちろんそれらの子たちの三分の二はもう他家へ嫁いだり養子となっているが、まだまだ小さいのも幾人かいたし、叔母の子やら、誰れやらの孫というのも養っているので、夫人の煕子は、いつも笑って、
(いったい私は、幾歳になったら子どもたちのお世話から離れることができるのでしょう)
と、述懐している程だった。
戦死した一族の子も引き取っているし、また光秀の子ではあっても、自分の腹をいためていない子もその中にはいたのである。けれどこのひとは細川藤孝が常に褒めてやまない賢夫人であって、齢五十になってもそうした乳のみ児や腕白に取り巻かれている境遇を心から甘受して、むしろ生涯の満足としているような姿だった。
かつて、まだ光秀が、江湖を浪々して、病中の薬代にも、旅籠料にも窮していたとき、彼女がみどりの黒髪を切って金に換え、その急場を切りぬけて、良人の素志を励ましたことなどは──彼女自身はおくびにも語ったことはないが、三ばんめの娘伽羅沙の良人細川忠興の父──細川藤孝は酔うとよくこのはなしを持ち出して、光秀の苦笑を求めたものだった。
坂本以来、いや安土以来、彼は初めてなぐさめられた。彼のその夜の眠りは円かであった。あくる日となっても、なお嬉々たる子たちや、貞節な妻の笑顔は、どれほど彼の棘々しい心をなだめていたかしれない。
「やはりわが家はよいな」
沁々と、いまの幸福を顧みてもみる光秀であった。
けれど、一夜を過して、そのために、彼の心の奥のものが、何かの変化を来たしていたろうかといえば、それは少しも変っていなかった。むしろ、より以上胸中の秘事に、べつな野望を加えて、その実行を勇気づけていたかとも思われる。
浪人時代から連れそうて来た糟糠の妻が、いまの境遇に満足しきって、子ども相手に他念ない姿を見ては、
(まだまだこんな程度でおまえの良人は終るものではない。いまに将軍家の御台所とも仰がれる身にしてやるぞ)
と思い、また一族の老幼をながめても、
(やがてみなそれぞれ、天下人のお身内と、諸人から敬われる身になる者たちぞ。こんな田舎びた館からあの安土にも優る所へ住まわせたら、これ以上、どんなに狂喜することだろう)
と空想したりして、自己の画策にふと恍惚となる寸間もあった。
この日、彼は午過ぎからわずかな従者を具して、城外へ出た。身装も軽装だし、常に左右におく重臣すら連れていない。けれど特に触れなくても、城門の将士にいたるまで、
「こよいは愛宕へ御参籠あるそうな」
と、その目的を弁えていた。
──中国出陣の前に、一夜を愛宕山に詣で、武運長久を祈り、かたがた、日頃の友を招いて、参籠の一夕を、連歌なといたして、大いに心養して参ろうと思う。
とは、きのう亀山へ来る途々からすでに、光秀の口からたびたび洩らされていたことばであった。
従って、このことは、
二十七日、亀山御着
二十八日、愛宕御参詣
二十九日、御帰城
というふうに、主人の予定行動として、家中一般へは、あらためて触れるまでもない儀と知れ渡っていたのである。
戦勝祈願の参詣といい、都から風雅の友を招いての連歌の催しといい、光秀の風懐と余裕を疑うものは誰とてない。日頃の光秀の人がらに照らしてみても、この際、
(お心ばえとして、さもありそうなこと)
としていた。
従者二十人ほどに、側臣五、六騎。鷹野に行くよりも身軽だった。保津川を渡り、丹波口から水尾へ上ってゆく。道は嵯峨村の本道から登るよりもはるかに嶮しい。
前日、東六右衛門をもって威徳院まで知らせてあるので、水尾村には、山上の僧や神官たちが出迎えに出て待っていた。光秀は、その人々へ、乗りすてた駒をあずけると、すぐ僧の行祐にたずねた。
「紹巴は来ておるか。……なに、もう疾くに登って待っておるとか。いや、それは満足。そして都の歌詠みたちも、幾名か連れて来ておろうな」
歌道や茶の友には、礼儀のほかに、階級を超えた心と心の親しいものがある。行祐はすこし仰山な手真似で答えた。
「いや、紹巴どのも、慌てられたにちがいございません。何しろお誘いのお文を手にしたのが、きのうの夕方に近い頃だそうで、しかも場所がこんな不便な所です。誰を誘うてみても余りに急なので埒はあかず、やむなく御子息の心前どのに、お弟子の兼如と御姻戚の里村昌叱どのを加え、お三名だけを連れて来られましたが──前後の時日を伺ってみれば、なるほどずいぶん御無理なお誘いのようで」
「ははは、そうか、そんなにこぼしておったか」
そんなことも、歌よむ仲間には、興の一つらしく、光秀は他念もない容子でおかしがりながら、
「無理とは知ったが、いつも駕籠の迎え、馬の送りで、いと重々しゅう扱っておるから、稀には風流の交わりらしく、苦労して集まるのも、一だんと好かろうかと存じて、場所も此処、時も不意に、誘うたのじゃ。……しかしさすがは里村紹巴、仮病を装うてのがれもせず、嵯峨口からでも五十余町もある山を、あたふたと登って参ったところは、似而非風流ではない。わが友とするに足る漢だ」
行祐、宥源の二僧を先に、東六右衛門やその他の従者をしりえに、光秀もまた高い石段を上っていた。そして少し平地を歩むかと思うとまた次の高い石段があった。
上るに従って、杉や檜の青い闇が深まってゆくのと、夏の日の空が桔梗色にたそがれてくるのと重なって、忽ち夜に近い心地がしてきた。そして一歩一歩、山上の冷気は、麓とは甚だしい差のあることを肌に思わせてくるのでもあった。
「つい、失念しておりましたが、紹巴どのからお詫びおきして賜われと、お言伝てを聞いていました。途中までお迎えに伺うべきですが、きょうの御登山は、おそらく御祈願事第一と存じますゆえ、山廟へのお詣りがおすみ遊ばした頃、ごあいさつに伺いますからと──」
威徳院の客殿に入ってから、行祐がこう伝えると、光秀は黙ってうなずいて見せた。そして一杯の白湯を飲み終るとすぐ、
「何よりはさきに氏神に祈願し、愛宕権現に参詣いたしたい。まだ夕方の仄明るい間に」
と、案内を求めた。
道は掃き清めてある。禰宜は先に立って、拝殿の階を踏み、神あかしを燈した。
光秀は、額ずいた。やや久しいあいだ祈念をこらしていた。
榊の風が、三度、颯、颯、颯と彼の頭上を払った。神官はまた彼の前に神酒の土器を置いた。
光秀は、その後で、
「当社は、火神を祭ると、伺っておるが、左様であるか」
「仰せのとおりにございます」
「火神には、火のもの断ちをして祈れば、霊験疑いなしと聞くが如何であろう?」
「はい、はい。──仰せの通り古来からよくそのように申し伝えられておりますが」
と神官は、光秀の質問には、明答を避けながら、その問いを、却って光秀へ向けて云った。
「火避け火断ちをすれば、火神の霊験で必ず願望が成るとは、里人の信仰ですが、そのような伝説は、いったい何から由来したものでございましょうか」
巧みに話題を転じて、神官のはなしは、いつのまにか神社の縁起に及んでゆく。
当社には、貞観四年頃の旧記もあるということから、またここは松尾の雷神の神別所で遠いむかしは、丹波山城の国境もふくめて、この地方一帯を「阿多古」と称え、阿多古の神山と仰がれていたが、いつの世の頃からか、朝日ヶ嶽、大鷲ヶ峰、高尾山、鎌倉山、龍上などの峰々に仏舎宝塔が建って以来は、五台の仏地としての方がより世上へ聞えが高くなり、修験道の優婆塞たちが天狗を修める道場ともなるに至って、いまではかくの如く神仏併祭のお山となっておりまする──などということから、また、
「──御承知でもございましょうが、盛衰記に──柿本の紀僧正は日本第一の天狗と成って愛宕山の太郎坊と申さるる也──と見えますのは、当山の太郎坊の縁起とされております。もっと古くは、大宝年中、役の小角が、嵯峨山の奥に住みたもうとあるは、この御山なりと、申す説などもございまして、修験者たちにいわせると、いまでもなお当山には天狗が棲んでおると、真しやかに奇蹟を説いて、少しも疑いを容れませぬ」
耳をかしているのかいないのか、その長いはなしの間を、光秀は拝殿の奥にゆらぐ神あかしを見つめていた。そして黙然と起つともう階を降っていた。すでに宵闇がふかい。彼はその足で愛宕権現に賽し、僧たちを白雲寺の前に残して、今度はただひとり、彼方の将軍地蔵の御堂へ詣った。そして、そこでは番僧から神鬮をうけていた。
神鬮は、凶と出た。
彼はまた求めた。
二度めの神鬮も凶であった。
しばらくは石のように凝然としている光秀であったが、次には僧に乞うて、自分の手に神鬮筥を受け、額に捧げて瞑目した。そして自己の祈念を自己の手で振った。
と、鬮にあらわれた。
光秀は去った。御堂を離れて待っている人々のほうへ歩いて来た。人々は彼が神鬮をひいている様子を、あだかも彼の気まぐれか興味のように遠くから眺めていた。なぜならば光秀の理念的な性格と、その知識人をもって誇りとする彼が何事を判別するにせよ、それを神鬮に託すようなことはあり得ないと決めていたからである。太郎坊の客院であろう、若葉のあいだに、一際白々と燭が見られた。紹巴やほかの輩には、歌会硯に墨などすりつつ、佳吟を想うのほか、はや他事もない宵らしい。
やがて西之坊の広間で、光秀を主とする饗膳の宵が過された。ここでは紹巴やその連れもひとつになり、また山房の住持たちも席に交わった。
放談哄笑、一しきりは、杯よくめぐり、談もよくはずんで、連歌などは、どうでもよいような興じ方であったが、
「夏の夜は短うおざる。余り更けては、百韻の成らぬまに、夜が明けてしまいましょう」
と、ここの院主行祐が、頃をはかって湯潰を出し、ともあれ彼方へと、用意の雅席へ、人々をうながして起った。
べつの部屋には、歌莚ができていた。各〻の褥の前に、懐紙も、筥硯も、さあ名吟をたくさんお詠みなさい、とすすめぬばかりに備えられている。
紹巴や昌叱はこの道の達人である。わけて里村紹巴は、宗祇、宗長以来の聞えを当代に持っている者で、信長にも愛せられ、秀吉とも親しく、茶道では堺の宗易とは昵懇だし、顔のひろいことにおいては、無類の社交人でもある。
「さあ、殿、ひとつ御発句を……」
光秀へすすめていう。
しかし光秀はまだ懐紙に手もふれていないし、その肱は、脇息に託し、その面は、若葉時特有なそよぎを持つ庭面の闇へ向けていた。
「御執筆はどなたかの?」
紹巴は、歌の席に、場馴れている。なにくれとなく心をくばり、また席の空気を、息づまるような佗しさにさせまいとする。
座敷の隅に、小机を抱えていた明智家の士、東六右衛門が、
「不束ですが、主君のお申しつけ、もだし難く、私が認めまする」
と、紹巴へ答えた。
紹巴は、如才ない調子で、
「御謙遜でしょう、あなたのお筆ならば、勿体ない程のものです。これなどは──」
と、子息の心前をさして、
「歌の真似詠みは小賢しゅうとも、書とあっては、不勉強なので、ひと前には出せないような文字しか書けません」
父の悪口を、心前は笑いにまぎらして、
「それは御無理です。東どののお父上は、明智家随一の能書家と伺っております。その御子息ですからね」
「すると、おまえの悪筆も、父親のせいか」
「似ないでは、子として、不孝とぞんじまして」
「やりおる」
と紹巴は苦笑して、光秀のほうへ、身をのばしながら、
「──殿。こういう不所存者でございますよ。ちと、お叱り下さい」
と、告げ口した。
「…………」
光秀は、こちらを向いて、にたりと笑ったが、親子の戯れを、よく聞いていたのか否か、あいまいな顔いろであった。
こよいの彼はどことなく変っていた。けれど平常が寡黙で生真面目なほうだから、だれもそれを怪しまなかった。
「御苦吟の体でございまするな」
「発句か」
「さればで」
「いや、できた」
と、光秀は筆を取った。
まず、ひとりが起句を詠むと、次の者が脇句をつける。また受けて前句を出すと、他の者が下の句を附けてゆく。
こうして百韻なり五十韻まで歌い連ねてゆくのだった。文台の執筆者は巻に記して、後で披講する。
当夜の連歌会では、光秀の発句に始まって百韻に及び、終りの揚句も光秀の附句で結ばれたが、後まで伝えられた聯詠はわずか十吟にも足らない。
ときはいま天が下知る五月かな
と、光秀が発句すると、
水上まさる庭の夏山
と、威徳院の行祐がつけ、次に紹巴が、
花落つる流れの末を堰とめて
と、詠み、以下、
などとあって終りに心前の、
色も香も酔をすすむる花の下
なる詠に対して、光秀が苦吟の末、
国々はなほ長閑なる時
と附けて百韻を結んだといわれている。
参籠の歌会であるから、詠巻は愛宕権現に納められたはずで、本来この巻は世に伝わりそうなものであるが、本能寺変の後、秀吉から吟味をうけた紹巴が、これを愛宕から取り出して、
(このように夜もすがら百韻に興じ明かしたに相違ございません。日向どのの歌でも、後になって見ればこそ、この時、逆意の兆しすでにありと、察しることもできましょうが、虚心風吟の席、誰があんな大事を予知することができましょう。たとえば明智家の家中すら大部分は本能寺の朝まで、日向どのの胸の中は知らなかったではございませんか)
と、縷々、弁証して、巻は秀吉の手もとへ差し出したままとなったので、以後の伝来は不明になったものという。
すべて、当夜のことは、秘中の秘とされたものか、謎が多い。
紹巴が秀吉に差し出した巻には、光秀の発句、
「──天が下知る」を「天が下なる」と書き直してあったというが、これもどうであろうか。
また、光秀が、苦吟のうちに、粽の皮を剥かずに口へ入れたとか、或いは、紹巴へ向って、
(本能寺の堀は、浅きか深きか)
と訊ねたところ、紹巴が、
(あら勿体なし)
と答えたとか、いかにも真しやかではあるが、これらも乱後の噂にすぎまい。一日にして天下の相貌を一変させた大乱であったから、あとの噂は真偽も紛々と一しきり巷雀を賑わしたにちがいない。同時に紹巴は、彼こそ未然に光秀の計画を知っていた唯一人だ──という嫌疑を一時濃厚にかけられたであろうことも想像するに難くない。
さて、会の後。
もちろんその晩は、みな威徳院の房に泊まったのであるが、部屋数も少ないので、紹巴は光秀の寝室のすぐ隣に眠った。
夏の夜ではあり、心やすい歌の友というので、境のふすまも払ってある。紹巴は枕につく前に、
「山上は蚊もいませんから、今夜は快く眠れましょう。どうも都は蚊が多くて……」
などと問わず語りをしていた。
寺僧が燭を消して退がると、光秀はすぐ寝入っていたように思われた。紹巴のつぶやきにも何の返辞も返さずに──。
枕に顔をあてがうと、戸外の山風は樹々を揺すり、屋の棟を吠えめぐって、さながら天狗の喊の声かと怪しまれてくる。光秀は火神の拝殿で聞いた神官の話がふと思い出されて、漆黒の宇宙に跳梁する天狗の姿を脳裡に描いていた。
天狗が火を咥えて飛ぶ。
大天狗、小天狗、無数の天狗がみな火となって、黒風に翔けまわり、その火が落ちて、火神の御社が、忽ちまた団々たる炬火となる。
──眠りたいものだ。眠ろう。
光秀は思う。彼は夢見ているわけではない。にもかかわらず脳膜はそんな幻想を描いてやまないのである。
寝返りを打つ。
そして、今日はと考える。明ければ二十九日と意識する。夢は天狗と化し、うつつは安土の城を考える。二十九日、二十九日、信長は安土を立ってこの日京都に向う。
うつつと夢のさかいがなくなってゆく。寝入るともなく醒めているともない彼だった。そしてその浅い半睡半醒のうちに、彼と天狗のけじめもなくなっていた。
天狗は雲を踏んで天下を見まわした。一朝の大事を挙げたとき天下はいかなる動きをなすかを俯瞰しておく用心のためである。そして天狗の観るところ、悉くみな自己に有利であった。
まず中国の秀吉は吉川、小早川の大軍と、いまや四つに組んだかたちで、高松の城に釘づけとなっている。もし款を毛利家に通じ、彼に利をもってすれば、あわれ遠征宿年にわたる羽柴秀吉以下の軍は、中国の地を墳墓として、ふたたび都を顧みることはできまい。
いま大坂にあるらしい徳川家康は無二の世渡り上手、すでに信長亡しと見たら、彼の向背もただわが誘いの如何によろう。一たんの憤りはなすであろうと思われる細川藤孝も、わが娘の舅たり、年久しき刎頸の友でもある。嫌とはいうまい、協力しよう。
肉がうずく、血が鳴る。久しく忘れていた青年の血が、ふたたび甦って来たかのように耳までが熱い。──天狗は寝返った。枕の音とともに、うーむとわれ知らず呻いた。
「……殿」
となりの部屋から紹巴が身をもたげて声をかけた。
「殿……。どうか遊ばしましたか」
光秀はかすかにそれを知っていたが、わざと返辞をしなかった。
紹巴はすぐ元の寝息に回っている。みじか夜はすぐ明け放れた。起きるやいな、光秀は人々と別れて、まだ朝霧もふかいうちに下山した。
左馬介光春が亀山へ来て、合したのは三十日であった。彼の坂本勢だけでも少なくないところへ、所在の明智衆が近郡からそれぞれ分に応じた人数と家の子を伴って集合しているため、城下は兵と馬に埋められ、辻々には輜重の車馬が輻輳して道も通れぬほどである。急に真夏を思わせて陽はかんかんと照りつけ、行儀のわるい荷駄人夫が物売り店にたかって盛んに喰ったり喚いたりしているかと思えば、兵糧を載せた牛車を挟んで足軽同士の口喧嘩だ。それを見物している女子供の輪と足もとの馬糞牛糞に蠅も唸りをあげて巡っている。
光春は馬上から見て通った。
景観すでに常ならぬものがあった。一歩、城門に入ればなおさらである。
「つづいて、お体はおよろしゅうございますか」
まずは光秀に会った。
「このとおりだ」
光秀は莞爾として見せた。坂本頃よりは、ずっとにこやかである。血色もよい。
「御発足のお日取は」
「少しのばして、月の初め出陣ときめた。物事始まるの日、朔日こそよからめと存じて」
「六月一日ですか。して、安土の方へは」
「その旨、沙汰申した。が、右大臣家には、すでに御入洛であろう」
「二十九日の夕、つつがなく京都にお入りの由です。信忠公には妙覚寺に、右大臣家には本能寺を御宿所として」
「そうとな……」
低く、語尾も消して、光秀はそのまま黙る。
光春はすぐ起って、
「奥曲輪の女房方も和子たちにも久しぶりでお目にかかって来ましょう」
「まず、旅装でも解いて、身を休めたがよい」
ねぎらいながら、光秀は立ち去る従兄弟の背を、飽くなく見送っていた。そのあとでは、吐きも嚥みもできないような胸の閊えを満面にみなぎらしていた。
次の間のまた次の一室では、髪の毛の白さでもすぐその人とわかる斎藤内蔵助利三が、諸将と膝を寄せ合って、軍役帳や書類をくりひろげ、何か凝議していたが、やがて彼一名、光秀の前に来てたずねた。
「……仰せの、小荷駄大荷駄ともすべて、前日の三十日に、山陰へ向けて、先に出発させますか?」
「荷駄? ……むむ、あのことか。いや先発させるのは、皆までには及ぶまい。一部でいい」
そこへ、ひょこりと、実にひょこりとした姿で──光春とともに今日着いたばかりの叔父長閑斎がここを覗いて、
「おや、おりませんな。坂本の殿には、どこへ行かれたか。はて何処に?」
と、きょろきょろ見まわした。いつもながら腹の立つほど陽気で楽天顔をしている老人だった。
出陣の間際であろうと、主君や家中にどんな心配があろうと、いつも変らないおひゃらくな老人よ──と観られて、本丸の諸将からは、一箇の無用人視されている明智長閑斎も、ひとたび向きをかえて、ひょこひょこ奥曲輪の局へ顔をあらわすと、ここでは絶対的な人気で、女房たちから沢山な和子とそのお相手の童まで寄ってたかって、
「オオ、おひゃらく様がお越しなされた」
「おひゃらく様。いつお見え」
と、起っても、坐っても彼のまわりから嬉々たる声と茶目が離れないのであった。
「おひゃらく様。今夜はお泊り?」
「おひゃらく様。御飯はまだ?」
「おひゃらく様。お茶を召せ」
「おひゃらく様。抱いてえ」
「お歌を謡って聞かせてえ」
「踊って見せていの」
膝にのる。じゃれる。からみつく。そのうちに耳の穴をのぞいて、
「おひゃらく様のお耳には、お耳の中から毛が生えている」
「一ぽん、二ほん」
「三ぼん、四ほん……」
節をつけて歌いながら、女童たちが耳の毛を抜いていると、男の子は、背中へ跨がって、
「お馬になれ。お馬になってヒンと嘶け」
と、白髪頭を圧し伏せる。
「ひん、ひん、ひん」
長閑斎は甘んじて這い歩くのである。そしてくしゃみをした途端に、背中の子が落馬した。侍女も傅人も、腹をかかえて笑いこける。
奥の一間で何かしめやかに話しこんでいた光秀の夫人と左馬介光春も、此方を振り向いて、誘い込まれるように笑っていた。
夜に入っても、この笑いさざめきは止まない。光秀のいる本丸とここでは、さながら氷雪にとざされた冬の野と、春の国ほどな相違があった。
「叔父上には、お年もお年、戦陣へお出向きあるよりは、ここにござあって、和子や女子たちの、後顧の者をお傅り下されたほうがありがたい。大殿にも私からそう申しあげておきましょう」
奥曲輪から退がる折、光春がいうと、長閑斎は、
「わしに果せるお役目はまずそれくらいかも知れんな。何しろこのとおり皆が離さんしのう」
と、顧みて苦笑しながら、局中の者を集めて、夜は夜で、得意の「むかし噺」をせがまれ、盛衰記の一節を、おもしろおかしく物語っていた。
出陣までの余す日はあと一日しかない。その夜のうちにも総評議があるかと予期していたが、本丸は寂としているので、彼は二の丸へ入って寝た。
次の日は、月の晦日。光春は終日、心待ちに控えていたが、依然そのことの沙汰はない。夜に入るも何ら本丸の空気にうごきはなく、家臣をやって様子を訊かせると、光秀はすでに寝所へ入って眠ったという。
「……はて?」
光春はあやしんだ。しかし彼も眠るほかなかった。
──だいぶ眠ったという気もちがする。従って夜はすでに丑満の頃おいであろう。左馬介光春はふと眼をさました。
ひそひそ、人声がする。
眼がさめたのはそのためだった。ふた間ほど隔てた宿直部屋あたりである。
やがて人跫が近づいて来る。そして静かにふすまが開いた。彼からものをいわぬうちに光春のほうで、
「なにか」
といったので、眠っているとのみ思っていた宿直の侍はすこし戸惑いしたらしい。
あわてて、ぺたと手をつかえて告げた。
「大殿光秀さまが、御本丸でお待ちうけの由でございます。折り入って御対談あそばしたいとの御意に、時ならぬお迎えが参られました」
「お、そうか」
何のためらいもなく、光春はすぐ寝床を出た。顔を洗い、うがいをすませ、髪には笄を与えた。そして衣服を改めながら、
「いま、何刻か」
と、たずねた。
「子の上刻でございます」
「三更か」
室を出る。廊は暗い。その墨のような廊の杉戸口に踞まっている髪の白い人影を見て、光春はさらにこの時ならぬ迎えの容易ならぬことを察した。迎えの者は光秀の側近くいる常の小侍でもなかった。老臣の斎藤内蔵助利三である。
「御老体か」
「……おお、これは」
「深更に大儀だな」
利三は紙燭を持って先に立つ。幾巡りする廻廊の長い間行き合う人もない。
本丸もまた寝しずまっていた。しかし奥の限られた一劃だけには、ただならぬ気が充ちていた。二、三の部屋にも人の起きているらしい様子があった。
「お座所は」
「夜のお間でございます」
利三は、寝所の畳廊下の口で、紙燭を消した。そして光春へ促すような眼をしながらそこの重い戸を開けた。
光春が入ると、すぐ後は閉められた。寝室までになお三つの部屋があった。そのいちばん奥にだけ仄青い燭の光が洩れている。光秀はそこにいた。近習も小姓も見えない。ただ独り白絽の小袖を着、太刀、脇息を寄せて坐っていた。
燭の影がことさら青く見えたわけは、光秀のまわりに翠紗の蚊㡡が広く繞っていたからであった。その翠紗の蚊㡡は、眠るときは四方とも垂れるようになっているものだが、今は前の一面だけを開いて、蚊㡡竹の上へ幕のように掛けてある。
「左馬介。ずっと寄ってくれ」
「はい」
と、にじり寄って、
「──何御用ですか」
「折り入っての談合だが。……お汝。この光秀に、命をくれぬか」
答えない。左馬介光春は、ものいう口を忘れたかのように、いつまでも、答えない。
彼のそのひとみと。
光秀の異様な耀きをおびたひとみと。
一穂の燭を横にして、凝視を相交わしていることも、依然であった。
「…………」
「…………」
命をくれぬか──という光秀のことばは簡にして明である。坂本以来、夢寐の間も、光春が心ひそかに惧れていたものは、実に、光秀がいつか自己に敗れて、この言をなすのではあるまいかという予感であった。
こよい、ついに光秀は、自分に向って、それを口に出した。光春としては必ずしも唐突なる驚きには打たれない。しかし何といっても満身をめぐる血しおが氷のように凝結する感じに蔽われたことは否めない。
──怖ろしいお人ではある。
今さらのようにその人を見るのだった。幼少十二、三歳ぐらいから衣食住も共にし、長じては戦陣の生死も共にして来た仲なのに、今日、あらためて知るというのも甚だ迂濶のようであるが、明智日向守光秀なる人間のうちに、かかることを思い立つ素質があろうとは、やはり彼にはどうしても信じられないことだったのである。
「……光春。いやか」
沈痛極まるかすれ声が、やがてまた光春の耳を訪うた。光春は、なお答えなかった。
「…………」
光秀もまた沈黙しつづけた。
その顔の何という蒼白さであろう。これは、翠紗の蚊㡡のせいでもない。燭のゆらぐ加減でもない。光秀の心のうちにあるものの色であり影であろう。
もし光春が、いやです! と云い断るならば、光秀はあらかじめ思い極めていることを即座に行わなければなるまい。ふかく思慮するまでもなく、光春もそれを直感している。知りぬいている。
蚊㡡越しではあるが、九尺の大床の脇には、武者隠しの小襖がある。その金砂子は、内に秘してある刺客の呼吸と殺気とに気味悪く燦々しているではないか。
また、右側の大襖のとなりもかたという物音ひとつ聞えないが、さっき自分をこれへ導いて来た斎藤利三が唾をのんで聞き耳たてている気がする。その内蔵助利三のほかにも、素槍をかかえ刃を握りしめた幾名かの者が同じように身を硬めていることは慥かである。──光春の感覚はあきらかにそれを見抜いている。
こういう中へ、かりにも自分という者を引き入れて、そしてただ一言いのちをくれぬかという光秀のつきつめている心の底を窺うと、光春には、その無情も、その陰険な仕打も、恨む気にはなれなかった。
──愍れが先に立ってである。
こうも思い詰めてしまわれたものか。あの聡明な人が。あの理性に富んだ人が。いったい自分が幼少から見ていた明智十兵衛という者はいずこに失せてしまったものかと、いまはその人間の形骸のみを見つめているような心地しか持てないのであった。
「光春。──返辞は?」
われともない容子で、光秀はにじり寄って来た。光春は、彼のその息づかいに、重病人の熱のようなものを感じた。
「わたくしに、一命をくれぬかとは、そも如何なるわけですか。左馬介には解しかねますが」
初めて彼はこう答えた。
それは決して、光秀が欲している、言下の然諾を、巧く交わそうとしたのでもないし、また、彼の胸底を見ぬいていながら、わざと空とぼけたわけでもない。
彼にはまだ、未練があった。どうかしてこの人を、そんな暴挙と不徳の思い立ちから引き戻したいと希う──最後の望みを捨てきれなかったのである。
が、光秀のまなじりは、彼のそのことばによって、なおさらこめかみの青い筋と結ばるばかりになった。
「……お汝。それをわしに問うのか」
声も常ならずかすれがちに、
「安土退去このかた、光秀の胸に怏々として霽れやらぬものあることを、お汝としたことが、察してはいなかったのか。──左馬介」
「ほぼお察しはしていました」
「然らば何で……。何も、多言は要しまい。いやか、応かでよろしい。まずその返辞からさきに聞かせい」
「殿」
「…………」
「殿──」
「…………」
「あなた様こそ、何でお口を結ばれておられますか。かりそめにも、ここの御一言は、明智一族の浮沈にはとどまりますまい。事天下にかかわりましょう。あなた様とて、はっきりお答えください。殿!」
「なにか」
「どう遊ばしました。あなた様ともあるお方が……」
はらはらと落涙して、光春は畳へ手を落しかけたが、やにわに光秀の膝のそばまですり寄って、
「わたくしは今宵ほど人間というものが解らなくなったことはございませぬ。おたがいにまだ幼少と若年の頃、父の家に、机をならべて、何を読み、何を学んで参りましたか。この国の先賢の遺書に主君を弑してもよしなどという辞句が、一字でもあったでしょうか」
「光春。しずかにいえ」
「何洩れましょう。武者隠しの内も、襖のとなりも、あなた様のお声を待つ刺客の刃あるのみです。──殿、御聡明なるわが殿。わたくしは、一日たりと、あなた様の叡智をお疑いしたことはありません。けれど、坂本以来のあなた様は、まるで別人のようにお変りあそばしていた……。それほど自己にお弱いあなた様でもないはずですのに」
「もう遅い。光春、諫言なれば止めにいたせ」
「申します」
「むだだ」
「たとえむだでも、申しあげずにはおられません。……残念です。口惜しゅうございまする」
よよと、光春はひれ伏した両手の上に泣きふるえた。
そのとき、武者隠しの襖が、がたと鳴った。
事難しいと見て、内に潜んでいる刺客が、腕をうずかせたためかもしれない。だが、光秀の口からはなお何の合図もない。光秀は、自分の前に泣き伏した光春を見まいとするもののように、凝然、面をそむけていた。
「書は人いちばい読み、理性は誰よりも明るく、お年も人の分別ざかりを越えて、何事にまれ、お弁えのないことはないあなた様だけに……愚鈍な光春は、いいたいにも、いう言葉に困ります。けれど私ごとき者でさえ、忠孝の二字だけは読んで、心に咬んで、血に入れておりまする。たとえ万巻の書が胸中におありであろうと、これを見失われては、何もなりますまい」
「…………」
「殿。聞いていて下さいますか。──名族土岐源氏のながれを汲んだおたがいの血しおは、ひとつものだと信じて申し上げるのです。ひとたび家門の名をけがしては、あまた御先祖がたの霊にたいし、生める親たちにたいしても、大不孝ではございませぬか。しかしあなた様はいま、何人の子の親御様でいらせられますか」
「…………」
「嫁がれている御息女や、他家の御養子となられている御子息たちも、またあと幾人もの幼い者まで──いや子々孫々にいたるまでが、あなた様のお心ひとつで、いかに世の果てまでも、辱ある思いをして行かなければならないかを……」
「数えれば限りはない。左馬介、この光秀の思い立ちは、あらゆるものを超えている。何事も万々承知だ。しかもなお光秀は決して思い歇もうとはせぬ。堪忍に堪忍をかさね、考えに考えぬいたあげくである。よせ。むだな諫言はよせ。お汝のいうぐらいな思慮は、夜ごと夜ごと、光秀たりと、繰り返しては、思いに思うた。……ああ、ただ一言、顧みて五十五年の道を見れば、この身が、武門にだに生れなければ、かくも悩むまい。またかかることも思い立つまい」
「さ。その武門なればこそです。たとえいかほど御堪忍なり難いことあろうと、かりそめにも、主君に対し奉っては」
「信長たりと、足利義昭を追っている。また叡山の焼打、幾多の悪業は人も知るところだ。見よ彼の宿老、林佐渡、佐久間右衛門父子、荒木村重。ひとの末路とのみは思えぬ」
「あわれ、殿。丹波六十万石を下され、惟任の姓をも賜わって、一門なに不足なく、かくある御恩をも思いたまえば」
この語は、それまで、井の水のようであった光秀を、いちどに奔河の形相にさせた。
「これしきの恩禄が何だ。光秀に才なくばこれもあるまい。しかも、その働きを、用い尽せば、彼の目には、安土に飼える狆か、無用の贅物としか見えなくなって参るのだ。わしを秀吉ずれの下におき、山陰へ討ち入れとの令は、すでにやがて来る明智家の運命を予報しておるものでなくて何ぞ。──身、武門にそだち、男として土岐源氏の血をうけながら、やわか、信長ずれの駆使に身を屈め、生涯を終ろうや。光春、お汝には読めぬか、信長の腹ぐろさが」
「…………」
憮然と口をとじた後、光春はたずねた。
「その御意志は、御左右の中の誰と誰に、お打ち明けになりましたか」
「──されば、お汝を除いては光忠、光秋のほかに……」
と、光秀はここでほっと息をついで、
「腹心の者、妻木主計、藤田伝五、四方田政孝、並河掃部……村上和泉守、奥田左衛門、三宅藤兵衛、今峰頼母……。そのほか、溝尾庄兵衛、進士作左衛門、斎藤内蔵助利三……などにも語っておる」
「その十三名だけでございますか」
「天野源右衛門の名は挙げたかの、まだか。……源右衛門にも告げたと思う。若輩であるが、特殊な使いを命じたため、四方田又兵衛も、光秀の心底を、或る程度、覚っておるものと思われる」
「──ああ」
左馬介光春は、聞き終るとともに、天井を仰いで長嘆した。そして、
「今さら何をか申しましょうや。御自身以外へ、さまでお洩らし遊ばしている以上は」
光秀の膝がつと光春の膝へ迫った。いきなり詰め寄ったのである。すぐ左の手は光春の襟元をつかみ、
「否か」
右手は小剣の柄をにぎって、恐ろしい力で締めた。
「応か」
「…………」
押されるたび、光春の首は、骨のないように、仰向いたまま、左右にうごいた。その面上から飛びちる珠は涙だった。
「この期になって、否も応もあるものではございません。……殿がまだ、余人にこれをお洩らしあそばさぬ前なら知らぬこと」
「では、承知してくれるか。……わしと共に、起ってくれるか」
「あなた様と光春とは、ふたりであって一人も同じです。あなた様なくも生きていようとする光春ではございません。主従の名においても、血縁の上からも、同根同生、ここまでの生涯も共に参りましたからには、この先の運命も元より共にする覚悟ではございまするが。……ああ、それにしても」
「案ずるな光春。乾坤一擲伸るか反るかだが、かく一同に語ろうて、この日向が起つからには、勝算は胸にあることだ。事成ればそなたにも、坂本の小城一つを持たせてはおかぬ。尠なくも、われに次ぐ栄爵と数ヵ国の太守はお汝にも約されておる」
「ええ。そ、そんな、問題ではありませんっ」
つかまれている襟元の手を振りほどいて、光春はいきなり光秀の体を畳へ突きとばした。
「わ、わたくしは、……わたくしは、哭きたい。……殿、哭かせて下さい」
「何を悲しむ。ばかめ」
「ああ。……ばか!」
「ばかっ」
「ば、ばかっ」
「ばかだっ。そちは」
「ばかだ! あなたは」
ふたりは罵りあいながら、しかも互いに男の力でひしと相擁して哭いていた。そのまま慟哭していた。
武者隠しの内でも、となりの襖の蔭でも、ひとしく啜り哭く声が揺れていた。
気象も夏、気温も夏、夏はすっかり本格になった。
わけて六月朔日は近年にない暑さだった。朝から雲一つなく照りつづけ、午過ぎてからは北の空の一方は雲の峰に蔽われたが、なお暮れるまで夕陽の熱と光は丹波の山河を焦いていた。
亀山の町はこの日を期して、がらんとしてしまった。あれほどいた兵馬輜重が、いちどに城下外へ出て行ったためである。
その鑓鉄砲の列や、銃丸火薬そのほかの軍用品を積んだ輸送部隊が、汗の顔に焦けつくような黒鉄のかぶとをいただき、旗さし物を負い、武者わらんじを踏みしめて、きょう本国の地を立つと見るや、町の者、郷土の老幼たちは、沿道に群れ立って、
「あれ。角屋敷の次郎丸様もゆく。御池前の旦那さまも、馬に召されて行かっしゃる」
「村越様もあの御老年で」
「笈川様の若さまも」
と、日頃出入りの屋敷屋敷の恩人や知己をさがして、声かぎりその武運を祈り、勲功を励まし、あわれ百姓町人でなくば、その列について、自分たちも尾いて行きたいような感情をあらわして、歓送の手を打ち振っていた。
が──誰が予測し得たろうか。このときまだ送る者も送られる将士も、この出陣が、中国進攻の門出ではなく、本能寺を衝く一歩のものであったことを。
光秀と、帷幕の十三、四将のほかは、まだたれひとり知る者はなかったのである。
城外の東に平らかな田野がある。遠いむかしは大枝山から生野を経て裏日本へ出る駅路のあった跡だという。篠村八幡の森を中心として、この辺りを能篠畑とも、篠野の里とも称んでいる。
北に保津川の一水を隔てて、愛宕山や龍ヶ嶽の諸峰をのぞみ、南は明神ヶ嶽、東は大枝山というふうに、山裾から山裾にかこまれている一盆地だ。──亀山を離れた軍馬のながれ、旌旗の列は、前後して、続々とこの一地点に集まったのである。
まさに、申の刻(午後四時)。
血のような西陽と草いきれの中で、いんいんと、高く低く、貝の音が次々に答え合って、鳴りぬいていた。
それまでは屯々に、ただ蝟集していたに過ぎない全兵員が、忽ち草を蹴って立ち、列伍を正し、おおよそ三段にわかれて、旌旗粛然と勢揃いの態をととのえた。
能篠畑の地表は、兵と旗と馬で埋められた。一瞬、馬のいななき以外、天地は声をひそめた。四山の濃い青葉や浅いみどりは、匂うばかり戦いで、人間の肺の中まで染まるかのような青い夕風が無数の面を吹いた。
ふたたび貝が鳴った。彼方の森の中からである。程なくそこの篠村八幡の境内から光秀以下、騎馬の幕僚たちが、西陽を斜めに、燦々として騎歩しずかに、各部隊を閲しながら順次こなたへ近づいて来るのが見られた。
彼の閲兵のすむ間、将士は鉄の列そのものだった。そして各〻、馬上の光秀を、目の前に仰いだ兵は、卒伍の端まで、
(よい大将を持った。よい主人の下についた)
ことを今さらのように誇りとも感じ、幸福にも思った。
光秀は白地銀襴の陣羽織に黒革の具足を纒っていた。縅しの糸は総萌黄であった。太刀も佳く、良い鞍をすえていた。常の彼よりはこの日の彼は非常に若々しく見られた。もっともこれは彼のみのことではない。ひとたび身に甲冑を着ければ、武将に年齢はないからである。十六、七歳の初陣の武者と伍しても、老いは見せじ、老いても劣らじ、と心を粧うのが武門の人々だった。
わけて今日の彼には、この全軍勢の誰よりも必死なものが胸ひそかに誓われていた。故に、一兵一兵を視てゆく眼ざしにも、悽愴の気に近い光があったにちがいない。総帥たる人のその気魂は当然また全軍の兵気に映らずにいない。──およそ明智軍として、今日まで馳駆した大小二十六、七度の戦場のいずこへ臨んだときよりも、この日の勢揃いには、すでに毛穴のそそけ立つような緊張があった。無言のうちに誰もみなただならぬ行くての戦場を予感していたといってもさしつかえない。平時の凡身とちがい、生還を期さない出陣に際しては、どんな卒伍の者であろうと、これくらいな霊感はみな抱く。──そしてその無数なる霊感は霧のごとく蕭殺たるものをみなぎらし、各部隊の上にはためく水色桔梗の九本旗にも、雲を搏つようなすがたがあった。
光秀は馬をとどめて、傍らの斎藤利三にたずねていた。
「総人数は何程になったか」
「一万七百。小荷駄、大荷駄の者を加えれば、一万三千に達しましょう」
うなずいて、間を措いて。──やがて次に、
「物頭どもをこれへ」
と、いった。
槍隊、鉄砲隊、長柄隊など、およそ部将格以上の者が、それぞれの隊首を離れて、一令の下に、光秀の馬前に集まった。
光秀は駒を退げた。代って、一族の明智光忠が、四方田政孝や妻木主計の宿将を左右に引いて前へすすみ、
「これは京都の森於蘭殿から昨夜到来した書状であるが、心得のため、物頭ども一同へ達しおく」
と、馬上で奉書をひらき、
「──右府様御諚ニハ、中国ヘノ陣用意出来候エバ、家中ノ士馬、旌旗ノ有様、御覧成サレ度キ御旨ニ候間、早々、人数召連レラレ罷リ上リ候エ。……と、かようにある」
と、読み聞かせた後、
「依って、道は篠野から大枝山、老坂へ出る。武者立ちは、酉の上刻(午後五時)。はや、間もないによって、兵糧をつかい、馬にも飼い、また休息もとって、ぬかりなく時刻に備えおくように」
と、重ねて云い渡した。
一万三千の人数が兵糧をつかう一しきりの野面の景は、壮観でもあり、和やかでもあった。
そのあいだに、使番が、
「比田帯刀どのお召しです」
「堀与次郎どの、御本陣で召されます」
「村越三十郎どの。お召し」
さっき馬前に呼ばれた部将中の主なる人々が再度、光秀のいる八幡の森の中へ呼ばれて行った。
ここは薄暮の日蔭と、ひぐらしの声に、涼気は水のようだった。
いましがた拝殿の方で、柏手の音が聞えた。光秀以下、幕僚たちも揃って、神前へ願文を籠めたものらしい。
──思いあわせると。
この篠村八幡へは、かつて元弘の頃、足利高氏も、願文を籠めたことがある。高氏はこの駅路に来て旗を立て、勅命にこたえ奉るなりと声明して、一挙京都に入り、六波羅を陥した。高氏の部下が矢を納めたという矢塚も遠くない。
敵こそ違え、測るに光秀の胸には、こここそは足利氏が室町十数代の基をなした発足の地という由縁をかならず想起していたであろう。こういう古蹟なので、従来、室町幕府は代々ここの社には特別な崇敬と保護を寄せていた。光秀がその由来に無知なわけもない。
昭々たる神のみ前に、光秀は自己なるものを、いかに辱なく持とうとしたろうか。
腹心の家臣が、眦を裂き、いかに哭いてこの挙をすすめたとしても、彼と信長との間の私憤私恨だけでは、なお顧みて安んじきれないものがあろう。
いつ自分も、荒木村重や佐久間父子のような末路に終るかもしれないという危惧不安が──窮鼠の如く、生きんがために、一転この先手を打たせるに至ったものだ──という自己弁護も、彼の良心を頷かせるまでの理由にはなるまい。
ここからわずか五里。目と鼻のさきに当の怨敵は、いとも軽装で逗留している。またなき機会だ、絶好な天運だとする──出来心にも似た野望と自身で意識しては、なおさら神のみ前に祈願はこめられまい。
が、彼の頭脳は、以上のすべてを別として、ほかに自分を正当づける理由を索すのに、さして困難はしなかった。
それは二十余年来の信長の悪い半面だけを罪状として数えることである。わけて信長の極端な文化破壊と旧制度の変革をもって、もっとも大罪として世に問うことだった。
文化人光秀の知性のすみには、多年信長の部将として働いて来ながらも、なお旧文化や旧制度への愛惜が整理しきれず澱んでいた。そしてその跛行的精神を天下一般のもののように誤認し、狭い知性の池に溺れている知性に過ぎないものとはみずから覚り得なかった。
再度、何事の召しであろうと、怪訝り顔に、各隊の部将たちは、呼び込まれた幕囲いの中に、膝つめ合せてひかえていた。
光秀の床几に、まだ光秀のすがたは見えない。いま神前に御祈願中であるから、やがて程なく、これへ渡られるであろうと小姓組の者がいう。
そのうちに、幕を払って、
「やあ」と会釈し、また、
「おう」と、眼顔で挨拶しながら、近側の重臣たちが次々とこれへ入って来た。並河掃部。進士作左衛門、妻木主計などである。最後に光秀は、老臣斎藤利三、一族の光春、光忠、光秋などと一緒にすがたをあらわし、中央の床几に倚った。
「これだけか、物頭一同は」
「左様です」
と、溝尾庄兵衛の答え。
三宅藤兵衛と今峰頼母は、そのとき奥田左衛門尉を振り向いて、何か目じらせした。そして三名ともついと幕の外へ立ってゆく。はてなと怪しむまに、囲いの外は一隊の兵が取り巻いてしまったらしい。光秀の面にもその用意が読まれたし、宿将たちの眼からも明らかにこの中へ無言の警戒が注がれだした。
やがて光秀が口をきって、
「家中は一体、わけてわが手足と恃む旗本どもに、かかる備えをして、談合に及ぶは、水くさしと思うであろうが、天下の大事、われらの浮沈、今に期す大事を打ち明けるためぞ、悪しく思うな」
と、冒頭して、重々しく意中を打ち明けはじめたのである。
身を硬めて、その唇もとを仰いでいた部将たちは、いつか自己をも見失っていた。
「この身、まだわずか三千石より一躍二十五万石を拝領、以後、近江丹波にわたるこの位置、公私何くれとなき重恩、右大臣家のこの光秀に施されたる御恩は決して忘れるものではないが」
と、彼はまずそれからいって、次に、明智家が報じた数々の功を称え、一転して、信州上ノ諏訪で折檻をうけたこと、以後たびたび不興にふれ、高家大名たちの前では、忍び得べからざる辱を蒙って来たこと。かつは先頃、家康の馳走役を剥がれ、世上一般のわらい草に供され、あまつさえ、中国出陣の上は秀吉の下風につけといわぬばかりな軍令をうけるに至っては、武門として、今は堪忍なり難い切迫というのほかはないということ。
さらに、それから、信長のために多年功労をささげては自滅し去った人々の先例をあげ、彼の無残苛烈な性格の一面を抉り、また叡山焼打のこと、義昭追放の件、そのほか彼の覇道的な猛進をもって、信長こそ道義の敵、文化の破壊者、制度と伝統を紊す国の賊子であるとなして、その末に、
「この程、光秀は一切を思い断って、こういう述懐の一首を詠じた。そちたちはいかに聴くか。──心知らぬ人は何とも云はばいへ、身をも惜しまじ名をも惜しまじ」
自分の歌を微吟してゆくうちに光秀は、われとわが身をあわれむような心地になって、はらはらと落涙した。宿老旗本、囲いの中の者すべて、みな嗚咽し、或いはすすり泣いた。中には鎧の袖を咬んで俯っ伏す者さえあった。
中に、哭かない者が一人いた。老将斎藤利三である。
さっきから耳かたむけて聞いていたが、光秀の言に、彼はまだ不備を見出していた。──全軍の中堅たる部将一同に、ここで天地神明にかけての誓いをなさしめるべくは、さっきからの光秀の言は、余りに述懐的だし、理論にわたり過ぎているし、また反対に、感傷に紊れている。
で、内蔵助利三は、一同の悲涙と無念とを、血の誓約へ、一つに結びつけるため、突として、こう提言した。
「いかに各〻。われら風情をも、恃むべき輩と思し給えばこそ、かほどの大事をも、お胸を割って、打ち明け下されたものと存ずる。君恥かしめらるれば臣死す。やわか殿おひとりのみに苦患をおさせ申そうや。人は知らず内蔵助利三ごときは、あとも短き老い骨、一夜たりとも、己が主君を、天下様と仰ぎ、ひいてはお怨み積る右府信長公の滅落をこの目に見たら、もう死んでも思いのこりはない。──何と、そこらの若い方々にはどうじゃ」
すぐ左馬介光春が唱えた。
「ことわざにも、天知る地知る我知る人知る、と申すたとえもあるに、悉く殿の股肱とはいえかく大勢の中において、いったんお口にお出し遊ばされた似上は、何で今のおことばをふたたび世に包めましょうや。──さもあらば何の評議や要り申さん。ただ驀しぐらの道ひとつ。斎藤どのならずとも、死に遅れはせぬ。のう各〻」
異口同音に、物頭たちは、おうっと答えた。おうっと一声にいう以外、ことばを知らないような感情の閃光が、面々の眸に見えた、ひッ吊れた唇に見えた、膨らんだ鼻腔に見えた、また呼吸に見えた、打ち顫える手脚に見えた。
「よしっ」
光秀が床几を立つと、人々もその感動に乗って身をゆるがした。重臣たちは、出陣の吉例として口々に、
「目出度き御思し召しを立たせられ、事成就は必定にござりまする。室町家累代御信心浅からぬ当八幡宮におかれても、御願をおききいれあらんこと、疑いもありませぬ」
と、賀を述べた。
四方田政孝は、
「はや、酉の刻」
と、空を仰いで、発足の心支度を人々へうながしながら、
「これよりは、野路山路、およそ京まで五里、おそくもほのぼの明けには、本能寺をひた巻きになし得る。──その本能寺を五刻前(午前八時)にお片づけあって、二条の御所をも、一手をもってお討ち果しあれば、諸事、朝飯前に一決しましょう」
と光秀や光春へ向っても、確信にみちた口吻で話していた。もとよりこれはここに始まった献策でも評議でもない。中堅の部将たちへ、すでに天下の事はわが掌にありと、血ぶるいを励ますためである。
酉の下刻。山かげの道はすでに暗い。
鉄甲の人馬、一万三千余は、流れをなして黒々と王子村をすぎ、やがて老坂へかかった。その夜の星の夥しさ。都も同じ下だった。
本能寺の空濠には、西陽が赤く落ちていた。六月朔日は、一日じゅう京都もひどく照りついて、かなり深い濠の底まで、ところどころ泥の乾きを見せていた。
東西の築土一町余。
南北の築土二町。
濠はそれに併行して、幅は二間をこえ、通例のもの以上築土も高い。いわゆる町の城廓のそれとなき様式をこの本山日蓮宗八品派の寺域もまた踏襲していた。
で、往来からは、わずかに中心の伽藍と、十数坊の大屋根が仰がれるだけで、外部からは窺うこともできなかったが、ただ寺域の一隅にある有名な「さいかちの木」だけはどんな遠方からもよく見えた。その喬木を指して、
ともいい、また、
とも称んで、東寺の塔ほど、よい目じるしになっていた。
その高い梢が夕日に染まるたび、きまってたくさんな鴉が一しきり噪ぎぬくのだった。﨟たけた人々がいかに潔癖に雅やかを守っても、夜の野良犬と夕方の鴉と朝の牛の糞だけは除かれなかった。
もっともそれが今の京都をあらわしている文化の横顔といえるかも知れない。本能寺そのものも、外観はできているようだが、内部にはまだ多くの空地を残していた。天文年間の焼亡以前にはあったという二十坊舎の輪奐の美を完成するにはなお多大な普請を要するし、現に建築中の部分もあった。
また、外の本能寺界隈を見まわしてもそうである。惣門前通りから四条の方へ寄った往来は、所司代の第宅もあり、武家の小路もあり、町も整って、都らしくなるが、北側の錦小路あたりは、今なお整理されない貧民窟が、室町の世頃をそのまま、島のように残っていて、そこの狭い往来などは、いまもってむかしの呼名の「尿小路」で通っている。
宇治拾遺にいう
清徳トイウ聖アリケリ、多食ノ人ナリ、四条ノ北ナル小路ニ、シ散ラシケレバ、下司ナドモ穢ナガリ、尿小路トツケタリケルヲ──
四条の南に綾小路があるゆえ、それと対比して以後は錦小路と呼ぶべしと、官から申しつけが出たことなどもあったらしい。だが、その面影は今も失われず、「さいかちの木」の鴉とこことは朝晩にがやがやと物音たかい生活力を昂げていた。
「ばてれんが来たよ」
「ばてれんが行くよ」
「きれいな鳥籠持って、南蛮寺の坊んさんが通るよ」
ひん曲った板屋廂の下や、荒壁と荒壁の路地のあいだから、この界隈の子達が、あせもだの腫物だの、鼻くそ光りの顔をもって、羽の強い虫みたいにいま飛び出して来た。
三人のばてれんは、声をきくと微笑をもって、友人達を待つように歩を緩めた。
南蛮寺はここから遠くない四条坊門にあった。この界隈の貧民窟には、朝に本能寺の勤行が聞え、夕べには南蛮寺の鐘が鳴りひびいた。
本能寺の門は厳めしく、本能寺の僧衆はみな怖い顔して歩いているが、南蛮寺のばてれん達は、この汚い裏町を歩くときも、愛嬌を撒いて行くのを忘れない。
腫物の子を見れば、その頭を撫でて療法を教え、病人のある家をのぞけば度々見舞って施して去る。夫婦喧嘩は犬も喰わないというが、南蛮寺のばてれんが通りかかればその夫婦喧嘩にまで立ち入って、懇ろに裁いてやる。
裁かれた夫婦者にはべつにありがたくも何ともないが、物見高い近所合壁やまわりの見物は実に感心する。ばてれんは親切だ。ものがよく分る。ほんとに世の中のために働いている。できないことだ。やっぱり神の使徒というだけのものはある──などと。
日頃にも彼らは単純に感心しているのである。ばてれんの社会救済事業は洛中洛外の野や橋の下にいる貧民や病人にまで及んでいて、その寺内には施療所だの養老院に似た組織まで設けているからだった。おまけにそこのばてれんはみな子供好きである。必然、子供の親はばてれんをみな神のようにいう。
ところが、このばてれんも、ふと往来で本能寺の僧と行き会いなどすると、なかなか子供に撒いているような愛嬌は示さない。一敵国と見ている国の人間と出会ったように、じろと、碧眼を、投げたのみで通ってゆく。
だから尿小路の狭い路を遠まわりしても、なるべく本能寺の門前は通らないようにしている彼らだったが、昨日今日だけは、その本能寺のうちへ、身を屈めて日参しなければならなかった。さきおとといの二十九日の夜から、そこは右大臣信長の宿営となり、彼らにとっても、この日本で一番怖い人間が、つい目と鼻のさきに逗留しているからである。
今も。
名知らぬ南方の小禽を黄金の鳥籠に入れたものと、ばてれん達が本国から連れて来た料理人に製らせた南蛮菓子を器に容れた物とを捧げて、三名のばてれんは、これから信長の台下までそれを献上に行く途中であるらしかった。
「ばてれんさん。ばてれんさん」
「その鳥、なんていう名?」
「その筥ん中、何?」
「菓子ならおくれよ」
「おくれよ。ばてれん」
尿小路の子供たちは、忽ち道を阻めて、寄りたかったが、三名のばてれんは、うるさい顔もせず、片語の日本語でにこにこ諭しながら歩いていた。
「これ、右大臣様へ上げる。勿体ない。みんなに上げるお菓子、南蛮寺へお母さんと来たとき上げる。いま、ありません」
それでも、なお、後に尾いたり先へ廻ったり、ぞろぞろ取り巻いて来るうちに、その中のひとりの子が、本能寺の角の空濠の中へ、ぽしゃんと蛙のような音をさせて落ち込んでしまった。
水はないので溺れる気づかいはないようだが、濠の底は沼に似た泥である。今そこに落ちた子は泥鰌のように踠いたため、あれよと上で騒いでいる間に、すぐ一命の危険となった。
大人でも落ちたがさいごやすやすと上がれない石垣だ。広大な、本能寺の地域を平均何尺か地盛りしたほどの土を浚った溝渠である。また万一の備えにも、この濠は、重要な意味をもつので、深ければ深いほどよいわけでもある。水の漲っている雨の夜など、よく凡下の酔っぱらいなどが落ちこんで、中には溺死した暢気者すらある濠であった。
「たいへんだよ」
「おうちの腕白が本能寺の濠へ落ちたとさ」
逸はやく、誰か知らせたとみえる。尿小路の近所合壁は、鼎のわくような騒ぎで、親たちは跣足で飛び出す。隣の夫婦や裏の老人も出て来る、娘も走る、犬も尾いてゆく。文字どおりたいへんなことだった。
だが、その人達が、濠ばたまで来て見たときは、すでにその子は救われていた。掘りたての蓮根みたいに上げられて、わんわん泣きぬいていた。
それと二人のばてれんも、手や衣服を泥だらけにしていた。もう一名のばてれんは、咄嗟に濠の中へ飛びこんだとみえて、これは後からようやく這い上がって来たが、ほとんど手も顔も分らない姿になっていた。
「わアい。ばてれんさんが鯰になったい。赤いお髯も泥ンこだい」
子供たちはそれを見て、囃したり手を叩いたり、よろこび廻ったが、救われた子の親たちは、決して信徒でもないだろうに、
「神さま」
と、鯰たちの足もとへ額ずき、掌を合わせたままありがた涙にくれていた。
そのほか黒山のようになった人だかりからも、口々にばてれんの徳を称える声が揚った。自分たちの純朴をもって、単純にみな随喜した。
「よいでしたね。この子には、天主様のお守りがありました」
ばてれん達は折角これまで来たのにという悔いも惜しみも見せず、無駄になった献上の品々を抱えて、そのまま、後へ引っ返して行くのであった。彼らの碧い眼には、一箇の信長も、一箇の町の子も目的の対象としては、同じものに過ぎなかった。それがまた、この界隈の長屋から長屋へ話のたねになって、なお後々、どれほど大きな感激の波動になって行くかをも彼らはよく知っていた。
「──宗湛。見たろうが」
「いや、感心しました」
「怖いの。あの宗門は」
「怖い。ほんとに考えさせられますな」
顔見あわせて、こう嘆声を交わし合う声が聞えた。──その後の、ほかに人なき濠ばたにである。
ひとりは三十前後、ひとりはずっと年配をこえた老人だ。親子と見れば見えないこともない。堺町人の大物とも少し趣は異るが、どこか大まかな幅と教養の奥行きがその人柄に感じられる。とはいえ勿論ふたりとも、ただ見ればただの町人ではあった。
ひとたび信長が泊まると、寺も単なる寺ではなくなってしまう。二十九日の夜以来、本能寺の惣門は、車駕輻輳して、出入りの諸人の雑鬧は驚くべきものであった。
まさに、今この人の一謁を得ることは、天下の大事でもあるようなふうだった。そして信長の一顧の言、或いは一笑にでも触れて退がれば、献物の珍器宝什や美酒佳肴の百倍千倍にも値いするものを獲たような歓びを抱いてみな帰り去るのである。いわゆる御威光というものだろうか、人界に稀な人として自然に寄る徳望というものだろうか。いずれにせよ、不思議なばかり奕々たる人気の彩霞が、本能寺の惣門から甍にまで棚曳いているのは事実である。夜霧へ映え射すそこからの天明りは、尿小路の裏町からも仰がれるほどだった。
またこの両三日中の訪問者には、京都の名だたる貴紳を網羅しているといってよい。菊亭晴季を始め、徳大寺、飛鳥井、鷹司の諸卿。また九条、一条、二条の諸家も訪れ、きょう朔日の午頃には近衛前久夫妻がおそろいで見えた。これはだいぶ長時間いて戻ったが、その間にも聖護院の門跡、諸山の僧、都下の富豪や諸職の名ある人々など、個人または公人として出入の絶え間もなかった。
「叔父さん。すこし此方でひかえましょう。誰かまた御門へ入られるようですから」
「春長軒どのじゃろ。供の衆がそう見える」
ふたりは足を止めた。
さっき濠ばたの角では、大勢の見物の中に交じって佇み、尿小路の子やばてれん達が去ると、またぶらぶら濠のふちに沿って、惣門の方へあるいて来た彼の二人の町人であった。
惣門の前には、今所司代の村井長門守(春長軒)が供の者をひかえて佇んでいた。ちょうど内から出て来た貴人の輿に遠慮しているふうだった。間もなく輿、駕籠の行列につづいて、武者ぶりよい男が、二、三頭の鹿毛や葦毛の駒を曳いて出て行った。武者たちは長門守の顔を見ると馬の口輪を片手に、辞儀して通った。
長門守の姿はその混雑が終ってから惣門の内へかくれた。また、それを見届けてから、二人の町人も、遠くからそろそろそこへ向って行った。
もちろん惣門の固めは厳重を極めている。出入する人々のすがたには見られない戦時下の眼光が鎗や長柄とともに光っているのだ。衛士すべて甲冑を帯し、怪しと見ればすぐ大喝して糺す。
「待てっ。どこへ行く」
二人の町人もこれを浴びた。
年上の老人が慇懃に、
「博多の宗室でござりまする」
まず、頭を下げると、次の若い町人もそれに倣って、
「博多の宗湛にござりまする」
と、いった。
番士たちには、それだけでは分らない顔つきがあったが、奥の衛士小屋の前で番頭の侍が、どうぞ、どうぞ、と笑顔で通行を促していた。
表御堂が建築の中心となっているが、人の中心は信長の座所にあった。本堂内陣横の橋廊下をこえ、さらに大廊下に従って、墨絵の間、金碧の間、何の間と、幾つも数えて行かなければ、彼の声は洩れ聞えて来ない。
その信長の声のする所、外にはせんかんと庭園の泉流がせせらぎ、向う側の幾坊の棟からは、折々、明るい女性たちの嬌笑が風に送られて来た。それはまた訪客たちの耳にもふと和やかな気やすさを与え、峻烈をもって鳴る主の一面に、べつな親しみを抱かせた。
「──そうか。……するとあすの朝はもはや住吉の浦から立つわけだな。老練な五郎左の佐けおることだ。諸事、安心いたしておると五郎左にも伝えおけ、信孝にもいえ。やがて中国で対面するであろう。信長も近日には下る」
信長のことばに、額を畳につけたまま、見上げも得ずにいる侍は、お座之間の次に姿を置いていた。いまし方これへ、信長の三男信孝と丹羽長秀の書をもたらして来た大坂表からの使いである。
その神戸信孝、丹羽五郎左衛門、津田信澄などの一軍は信長に先だって、諸般の軍備をととのえ、明朝兵船で住吉からまず阿波へ渡ることになっている。──その報告やら、また数日前に、大坂を去って堺へ入った旅行中の徳川家康の様子をも併わせて告げて来たものだった。
「では、お暇をいただきます」
使者は信長へ、また信長と対座していた織田家の嫡子信忠へ向っても、はるかに礼をして、それから少し膝の向きをかえ、なお一段低い所にいる所司代の村井長門守へも、同様に辞儀をしてからようやく退出して行く。
信長は、急に、気づいたように、暮色を見まわして、
「暮れたぞ。西窓のすだれを捲け」
と、小姓にいい、
「お汝の宿所も暑いか」
と、信忠にきいた。
信忠は父よりすこし先に入洛して、二条城のそばの妙覚寺を宿舎としていた。父が入洛の夕も、きのうも今日もここへ詰めて、いささか疲れぎみでもある。で、きょうはもう暇を告げる考えでいたが、それを犒う心か、信長が、
「こよいは内々で静かに茶でも喫もう。きのう一昨日の両日は夜まで客だった。余りに閑なきは精神の貧困を来す。遊んでゆけ、おもしろい人間にひきあわせてやる」
と引き止めるまま、否みもならず侍していた。
けれど、子としてのわがままをもしいわして貰えるなら、信忠はこうも云いたかったであろう。──それがしは生年二十六歳、父の如くにはまだ茶も解しきれません。わけてこの戦国に閑を偸んで悠々風雅のみこれ事としている茶人なるものを忌むこと甚だしいのです。折角おひきあわせて戴いても、茶人ではありがたくもありません。正直、一刻もはやく、弟信孝にもおくれぬよう、中国の戦陣に立ちたい武者心が逸り立つのみであります──と。
長門守も、きょうは所司代としてではなく、春長軒という、一箇の知人として、信長に招かれたらしいが、やはりどこか君臣という固さと職掌の範囲から解かれず、座談もどこかぎごちない。
このぎごちなさが、信長の嫌いの一つである。兵馬倥偬の日常、政務の繁劇と、門客の出入りと、睡眠不足と、あらゆる公人的な規矩から寸分でも解かれて、ほっと一息つく間に、こういう光秀的な慇懃に対していると遣りきれない気がしてくるらしい。
すると、ふと、秀吉が思い出されてくる。
あれは屈託がない。と、慕わしくさえなって来るのだった。
「長門」
「はっ」
「子息はどうした。見えぬのか」
「伴れ参りましたが、不束者、わざと控えさせておきました」
「つまらぬ遠慮をする」
信長はつぶやいた。今夜は息子も連れて来いといったのは、気軽に語るためだ。君臣の接見ではない。
が、呼べともいわず、
「はて、博多の客衆は、どうしたかの」
信忠と長門をそこへ置いたまま彼は立って奥へ入りかけた。
小姓部屋で坊丸の声がしていた。何か兄の蘭丸に叱言をいわれているらしかった。蘭丸兄弟は三名とも小姓組にいる。これはよく兄弟喧嘩の因となるらしい。すでに森三左衛門可成の子もみな成人したと今さら思い出されて来る。近頃それについて誰いうとなく、明智領の坂本四郡を父の遺領なるために蘭丸が欲しがっている、という風聞などがちらちら聞える。もってのほかなことだと、信長は今も思う。──しかしそういう世上の誤解をとくためにも、彼自身のためにも、いつまでも若衆めいた小姓姿をさせておいて近側に置くのはいけないことでもあると反省してみたりする。
「庭面をおひろい遊ばしますか」
ふと、縁に佇んでいたので、すぐその蘭丸が小姓部屋から走り出て、沓脱石に穿物をそろえた。こういう気転と、使うに物柔らかなことが、つい側へおく人間には程よいので、いつか十数年も使い馴れたが、見遣りながら、
「いや、庭へ出るのではない。措け、措け」
と、控えさせて、
「暑かったのう、今日は」
「まことに照りつけました」
「厩の馬はみな元気か」
「馬も少々弱り気味です」
「そうだろう。蜀の劉備ではないが、信長の髀肉もすこし肥えたからの」
と、ふと中国の空でも遠く思いやるか、夕星仰いで深い眼を澄ましていた。
蘭丸は何ということもなく、信長のその横顔をじっといつまでも仰ぎ見ていた。信忠もうしろに来て佇んでいたが、その人のあるも忘れて眺めていた。あたかも今生の名残のように。
もし彼の霊能がその霊に自覚を持っていたならば、その時のふしぎな心理と、何ものか肌にそそけ立つような感じを、特にもっと意識してみたであろう。後に時刻をかがなえば、まさにその頃、明智光秀の軍は篠村八幡を出て、老坂の麓あたりへ来ていた時分であった。
大台所から吐かれる夕煙が寺内にたち籠め始めた。一切の煮焚から炊ぎや風呂も薪である。宵にかかる前の一刻はここばかりでなく洛中洛外が炊煙をたなびかせているのだった。これを東山あたりから眺めると壮観なものがある。
信長は風呂所で水を浴びていた。ここのも屋形造りの蒸風呂で、汗を流して出たあとで水をかぶる。流し場は十坪もある広さで、高い切窓の竹格子に夕顔の蔓が白い花を一つ見せていた。
小姓達はいわゆるお湯殿部屋二間にひかえている。衣服から髪までさばさばそこであらためて彼は橋廊下を戻って来た。と、その下から犬のように跳び出して、宵闇の庭面に土下座した小者がある。その顔は闇より黒く、歯ばかり白く見えたので、
「誰だ」
思わず足をすくめた。
笑いながら後ろで小姓が答えた。
「くろんぼの御小人でございまする」
「あの黒冠者か。時々、黒には脅かされるの」
信長も苦笑した。
半年ほど前、新しく日本へ来たばてれんの一行は南から連れて来た黒人の奴隷を安土へ献上した。人間の献上物とは珍しい。もし自分が黒人国の王であるなら、たとえどんな貧家の子たりと、外国への音物に領土の人間は用いないであろうにと、彼はそのとき左右の者に語ったが、若い黒人は、なかなか愛嬌者に見えたので、御小人の中に預け、外出の時など、例の南蛮笠にモール織の羽織を着、馬のあとには、この黒人を供に連れ歩いたりなどしていた。
蘭丸が来て告げた。
「博多の宗室どのと宗湛どののお二人が、いつなとお越し賜わるようにと、お茶室の方にひかえられておりまする」
「もう見えていたのか」
「まだ明るいうちから見えられて、お茶室から露路の掃除、縁の雑巾がけまで、すべて人手を借らずお二人でなされ、宗室どのは水を打ち花を活け、宗湛どのは自身台所へ出られて、さし上げるお膳部のおさしずをなさるなど、傍目にも並ならぬお心入れのようでした」
「なぜ告げなかったか」
「いや、御両所のおことばには、席は御宿所でもお招きは我らでいたすこと、われらの亭主役なれば、構えて時刻までは、お取次なくとの仰せに、わざと申し控えておりました」
「なんぞまた、趣向しているとみゆるな。信忠にも伝えたか。長門にも」
「これからお誘いに参りますので」
蘭丸が去ると、信長は一室に入って、すぐまたその足を一坊の茶室へ向けた。
特に数寄屋めいた建物はない。席は書院であり、屏風をめぐらして小間囲いを作ってある。
客は信長、信忠、村井春長軒父子、燭はすずやかに、囲いのうちは、人もなきかの如くひそやかであった。
けれどやがて茶事もすんで、広間へ座を移すと、客なく亭主なく、話は果てなく弾み、夜の更けるのも忘れているかのようであった。
ここでは、茶の「寸法」も「清寂」も措いて、客亭主、わけ隔てないくつろぎだけに、話も自然多岐にわたった。
信長はまた健啖だった。茶室でも一通り満腹したろうに、広間へ移ってからも、彼の前に供えられる木皿や高坏はみな空になってゆく。わけて紅玉を溶かしたような葡萄酒を愛飲し、時々、菓子器に盛ってある南蛮菓子を取っては食べ、かつ語るのであった。
「いちど宗室を案内とし、宗湛を供に連れて、ぜひ南を廻ってみたいものだ。宗室はさだめし幾度か巡ったことがあるのだろう」
「いや、この年にいたるまで、まだついぞ」
「ないのか」
「思いつつ行かれませぬ」
「宗湛は、若いし、健康に見ゆる。そちは行ったか」
「私もまだでございます」
「ふたりとも、まだ南を知らんのか」
「はい。持船の水夫、店の者たちは、絶えず往来しておりますが」
「さりとは商売冥利のわるい。……信長などは望んでもまだ日本を離れてよい日を得ないゆえ、ぜひもないが、お汝らは、船も持ち、出店も持ち、便も常にありながら、なぜ参らぬか」
「天下の御事とは、忙しさがちがいますが、やはり何とはなく、家事にさえぎられ、つい一年二年とは、国を離れかねまする。……いずれ右府様にも、宇内のことが、ひとまず御決着の日には、ぜひ宗湛とてまえとが、御案内に立ちまして、御一巡あそばしませ」
「ぜひ参ろう。宿願の一つとしておこう。──が宗室、その日までお汝は生きているか」
小姓に葡萄酒を酌がせながら、信長が、老人の彼をからかうと、宗室も負けてはいないで、
「いやそれよりも、どうかてまえの生きているうちに、あなた様の御統業を、一日もお早く、宇内に確とお示しください。そのほうが余り遅れますと、てまえもそうそうお待ちしきれないかも知れません」
といった。
信長は微笑をもって、
──「間もないことだ」
というような面をして見せた。宗室から逆襲をうけたかたちであるが、こういう歯に衣を着せないことばは、たまたま、信長をしてたいへん愉快にさせるものだった。
このほか、座談のうちには、信長の宿将たりともいえないような思い切った直言や、諷諫を、宗室という男は、平気でいって退けるのである。連れの宗湛もまだ若いくせになかなか辛辣なことをいう。
側にいた子息の信忠も、所司代の村井春長軒父子も、それには時々はらはらして、
(あんなことを申し上げてよいものか)
と、虎威を窺う程だった。
同時に、いったい、博多の町人というこの宗室、宗湛のふたりは、なにをもってかくまで信長の信寵をうけているのだろうかを、注意せずにいられなかった。
単に茶人なるゆえをもって、茶友としてそれを信長がゆるしているものとは考えられない。
もちろん信長は詳しいに違いないが、たまたま、安土で見かけたり、人のうわさや茶室づきあいの程度の者では、こう二人の町人が、いったい何の理由で、諸侯以上にも信長の寵と信用を得ているのか、その素姓と本質の理解に苦しむのは当然である。
──こよいは、おもしろい者に会わせてやる。
と、かねていわれていた信忠にしてさえ、時折には、面白くも何ともない顔つきが見える。
ただ信長と彼らのあいだに、ひとたび南のはなしが弾むと、これは信忠にも興があった。事々に耳新しく、彼の若い夢やら大志を駆りたてた。
ふかい理解のあるなしにかかわらず、南は今や知識ある者の関心の一つだった。眼ざめた天正の文化は、その本質の日本性に、急潮な海外からの文物に刺戟されていた。鉄砲渡来以後の目ざましい社会面の変り方はそれによるものである。ぽるとがる、いすぱにや、などから相次いで渡って来た夥しいばてれん達がその媒介者であった。
南の知識も、当初はもっぱら、そのばてれん達によって伝えられて来たものが多いが、ここに今宵いる島井宗室の如きは、必ずしも、それから示唆を得て今の家業を創めたものではない。
同行の神谷宗湛の父の紹策などは、もう天文初年頃から朝鮮へも渡っているし、中国にも行き、厦門、柬蒲寨などとも交易していた。
それ以前の家の業はいわゆる鉱山師で、石見銀山の採掘をもっぱらにしていたものだが、同じ富を掘るものなら海外の無限な天地に求めるべきだと、貿易へ転業したのである。
「海の彼方だ。物は南にある」
と、頻りに彼を示唆したものは、後に西方から来たばてれんではなく、その地理上、当然、九州博多の一端を巣としていたわが和寇の輩だった。
で、宗湛はその父の遺業をうけて、今では呂宋、暹羅、柬蒲寨の数ヵ所に、支店まで設けていた。南支の櫨の実を移入して、製蝋の法を開き、内地の夜の燈火をより明るくしたのも彼であり、海外の冶金術を入れて改良を加え、いわゆる南蛮鉄の製錬を齎したのも彼だといわれている。が、人もしその功を称えれば、
「そんな小さいことではまだお賞めにあずかる程なものではありませんよ」
と、むしろ辱じ入るように辞を低めるのが常だった。
島井宗室も、同じ海外貿易を業とする町人で、宗湛の家とは親戚にあたっている。九州の諸大名でこの家の金を借りていない者はない。港には十数艘の大船と数百の小船を持ち、家には常にたくさんな武士と水夫とも商人ともつかない男を養っている。彼らは疾くに八幡大菩薩の船旗を下ろしていたが、海洋を見ること平野を視るごとき胆と、小事に顧みることなく爛々の眼をたえず海潮の彼方に向けて、男児の業はそこにありとしている気質とは、今もまだ決して変っていない。
とにかく、ここでは一茶人にすぎないが、島井宗室も神谷宗湛も九州の家にはそういう事業をもっている人々だった。
総じて、ひとり武門の出にかぎらず、天正という今の世代を観るに、町人の部門にも、実に、人物は在る。
武門に信長、秀吉、家康があれば、町の部門にも、町人の信長、町人の秀吉、町人の家康がいる。
それも九州博多ばかりでなく、堺にはいわゆる堺商人の称もあるほど、天王寺屋宗及、千宗易、松井友閑など、当代の武将に伍しても、人物達識決して見劣りしない傑物は、何人となく数えられる。
地勢上、博多町人は、進取の気宇と、呑海の豪気に秀で、堺町人は経営の才と、文化性に富み、またこれを政治に結ぶことを忘れない特性をもっていた。
貿易家とも呼べようし、政商ともいえるであろうそれらの町人に対して、信長は表面茶遊をもって接しているが、戦国下の経済から文化政策、対外国の諸問題、たとえば対ばてれん策、或いは、将来の海外雄飛にわたる抱負までを、何くれとなく諮問していた。
信長の海外知識は、ほとんど、これらの人々から、茶をのむ間に、学び取ったものといっても、過言でないほどである。
いまも信長が、はなしに我を覚えなくなると、南蛮菓子へ手を出して、幾つでも食べる様子を見て、島井宗室が、
「それには、砂糖という物を用いてありますから、お寝みの前に、たくさんはおよしなさい」
と、注意すると、信長は、
「砂糖はどくか」
と、訊ね返した。
宗室はそれに答えて、
「どくにはなっても、薬にはなりますまいな。いったい蛮土の物は濃厚で、日本の物は淡味です。菓子でも、干柿や糯の甘味で、十分舌に足りていたものが、砂糖に馴れると、もうそれでは堪能しなくなります」
「九州にはもうだいぶ砂糖が渡って来ておるか」
「あまり輸入ません。じゃがたら砂糖一斤に、黄金一片の引き換えでは、余りにこちらの割があいませんから。──そのうちに砂糖黍を舶載して、暖地に移植してみたらと考えていますが、莨と同様これも国内に拡まっていいものか悪いものか、考えさせられます」
「そちらしくもない」
信長は一笑した。
「狭く考えるな。善いも悪いも、一括されて、舶載されて来るのが、文化の特質だ。低きへ水のつくように。ここ当分は、とうとうと西洋南洋からいろいろ雑多に入って来るだろう。いまやそれの東漸は止まらない勢いにある」
「御気性として、その広大なおこころは分りますが、それに委せておいてもよろしいものでしょうか。……と致せば、てまえどもの商売はたいへんやりよいわけですが」
「よいとも、新しい物はどしどし輸入るがいい」
「ははあ」
「そのかわり、噛んで吐き出せよ」
「吐き出せとは」
「よく噛んで、よい質は胃に摂り入れ、滓は吐き出してしまうことだ。それを四民が心得ておりさえすれば、何を舶載しようと仔細はない」
「いけません、いけません」
宗室は手を振った。頭から反対なのである。信長の言に対して、しかも国政の方針へ、彼は、ずばずば私見を述べるのであった。
「天下人のお大気としては、まさにそうあるべきでしょうが、近頃、心痛に堪えないものを見ておりますゆえ、にわかに御同意はできません」
「何を見てか?」
「異教の蔓延です」
「ばてれんの問題か。宗室、お汝も寺にたのまれたの」
「ちと、お蔑みが過ぎましょう。大徳寺なども、こちらのほうがよいお客様ですよ。真実、国を憂いてのことでございます」
宗室は真面目に、国政上の進言を呈した。──きょう連れの宗湛と本能寺へ来る折、空濠に落ちた子どもを見かけた事実を例にあげた。それに対する三名のばてれんの行動が、いかに殉教的で、庶民を感動させなければ措かないものだったかを、まず話して、
「ここわずか十年ともいわぬうちに、大村、長崎はもとより九州、四国の辺土、また大坂、京都、堺などにかけても、先祖からの仏壇を捨てて、耶蘇教に帰依する者がどれほどあるか底知れませぬ。右府様にはただ今、何を日本へ舶載しようと、噛んで吐き出せばよいと仰っしゃいましたが、宗門の儀だけは、さようにも参りますまい。噛めば噛むほど、魂までが、異教の風に化して、磔になろうと、首を打たれようと、異教を改めることは致しませぬでな」
信長は黙ってしまった。これは問題が深刻で一言にいうには大き過ぎるという顔いろである。
彼は、叡山を焼き、根来を攻め、日本在来の教団に対しては、かつての平相国すらなし得ない暴をもって慴伏させて来た。弾圧などという、手ぬるいものではない。業火を降し、剣殺をもって臨み、為に一応の処理はついたかに見えるが、今なおその怨みは決して信長在る地上からは消ゆべくもあるまいことを誰よりも彼自身が知っていた。
その半面、宣教師らには、南蛮寺の建立をゆるし、布教を公認し、折々の饗宴にも招いたり、これを高野や根来の僧から見れば、彼はいったい、いずれを異国人として見ているのかと、大呼したいくらいなものがあったにちがいない。
信長は説明を忌む。何につけ説明しきってしまうことが嫌いである。云いかえれば、人と人との直感を尊ぶ、というよりも、楽しむといった方が適切かもしれない。
「宗湛──」
と、こんどは向きをかえて、新たな相手へ、
「どうだな、お汝の考えは。お汝は若い、老宗室とはおのずから違うものがあるだろう」
宗湛は慎重な面をして、しばらく燭を見ていたが、はっきり答えた。
「やはり右府様の仰せられたように、異教のことも、噛んで吐き出す、で宜しいのではないかと思われます。いや唯今、そう、ふと覚りました」
「それよ。それ」
信長はわが意を得たもののごとく、転じてその眼を宗室へ、
「案じるな、大きく掴め。いにしえ、道真公が、和魂漢才と唱えて、時人の弊風と、遣唐使の制を戒めたことがあるが、唐風の移入も、西欧の舶載も、春なれば春風の訪れ、秋なれば秋風の湿り、この国の梅や桜の色は変らぬ。むしろ池水に雨が注げば池を新たにする。──本能寺の濠を以て海洋を測るから間違ってくる。そうじゃないか、宗室」
「いや、分りました。まこと、濠は濠で」
「海の外は、海の外よ」
「老ゆれば、いつか島井宗室も、濠の蛙となりましたかな」
「どうして、そちは鯨だ」
「いや、とんと、眼幅の狭い鯨ではありました」
濠ということばから思い出されたか、気がつくと、伽藍の天井高く、夜気は更けて、遠くに、濠の蛙の声がする。
「誰ぞ、白湯を持て」
うしろに居眠っている小姓へいいつけて、信長はなお夜に飽かない顔をしていた。もう食べもせず飲みもせず、夜噺の興があるだけだった。
「お父上」
信忠は、膝を辷らしかけて、
「夜もだいぶ更けました。わたくしは、お暇をいたします」
「まだよい。まだよい」
いつになく信長はとめた。
「二条ではないか。更けたとてすぐそこだ。春長軒はすぐ門前。博多の客殿は、まさか博多へ帰りもなるまい」
「いえ、てまえだけは」
と、島井宗室も帰る体を示して、
「明朝、会う約束の者がございますゆえ」
「では、泊るのは宗湛ひとりであるか」
「わたくしは、宿直を仕ります。茶室のあと片づけも仕残しておりますから」
「宗湛の泊るのは、信長のためではあるまい。大事な道具を携えて来ておるため、道具の宿直に残るのであろう」
「御賢察にたがいませぬ」
「正直に云いおるわ」
一笑してから、ふと後ろの床を振り向いて、壁間の一幅を飽かず見つめ出した。
「……さすがに、この牧谿はよいの。近頃の眼福。信忠もよう観ておけ。これがかねて噂にも聞く牧谿の遠浦帰帆之図。なんと宗湛は、憎い名幅を所持なす男ではないか。──が、この男、かほどな名画を持って、持ち負けせぬ男かどうかの?」
突然、宗湛、大口あいて笑い出した。これでこの男の面目は躍如と見えた。眼に信長もない笑い方である。
「宗湛、何を笑う」
すると宗湛は傍人を顧みて、
「ごらんなさい。右府様がまた例の神算鬼謀をもって、わたくしが所持の牧谿の一幅を、召し上げようとなされていられる。……この男が、遠浦帰帆など持って、持ち負けせぬかな? などというお言葉は、そろそろ乱波を放って、敵国を攪乱しにかかっているものです。──叔父御あなたの御秘蔵の楢柴の茶入れもお気をつけなさいよ」
と、なお笑い止まない。
これは中っていた。さっきから信長の眼はそれを明らかに渇望している。けれど、島井家の楢柴の茶入れも、神谷家に伝来する牧谿の遠浦帰帆も、ともに博多の名物として有名なものだけに、信長も無碍に云い出しかねていたのである。
が、いま、持主の宗湛のほうからこれを表面化してくれたのは、さほどお望みならば進上してもよい──と約束してくれたも同様だと信長は考えた。なぜならば、こう傍若無人に人を笑っておいて、そのあげくその人の欲する物は与えないという情理はあり得ないからである。
で、信長も、
「はははは、いや宗湛も隅にはおけない。信長の年頃ともならば、やがては遠浦帰帆を持っても然るべき茶人となり得よう。それまでは安土へ預け置くことじゃな」
と、戯れの裡に、真意を吐いた。
「これは、いずれに置くのが正しいか、数日後、堺の宗易どの、宗及どのなどともお会いしますから、よく一同で熟議しておきましょう。まったくは、筆者の牧谿その人に糺すのが、いちばんですが」
信長の機嫌はいよいよ麗しい。それからも侍臣が燭を剪ること数度だったが、白湯のみ飲みながらなお時の移るも知らない。
夏の夜とて、伽藍の蔀も扉もみな開け放してある。
そのためか、燈火の火色はたえず揺らぎ、夜霧の暈がぼっとかかって、牧谿画く遠浦帰帆の紙中の墨にまで滲みあうような湿度であった。
もし誰か、燈火占をなすものがいて、この夜の灯に対していたら、すでに何かの凶兆が、夜霧の暈や丁子の明暗にも、卜われていたかも知れない。
表の寺門を叩く音がした。程経て近習から、中国の戦場からお飛脚がいま到着と披露してくる。
それを機に、信忠が立ち、宗室も辞した。
「……帰るか」
信長もついに一緒に起って、橋廊下のこなたまで共に歩いた。
「御寝なされませ」
信忠はもういちど、橋廊下から父の影を振り向いた。
村井春長軒父子は、その側に、紙燭を持って佇んだ。もとより何の予感があったわけではないが、父子が今生の永別を一瞬惜しみあうために、その紙燭はしばし夜風に燃えているようだった。
本能寺十余坊の堂舎伽藍は、墨のように寝沈んで、夜は子の下刻(午前一時)を過ぎていた。
老坂。──ここから先は山城国になる。
丹波口から登りつめて、右すれば、山崎天神馬場から摂津街道、一路備中の国へつづく。
左に降りれば、沓掛、桂川をこえて、道はそのまま京へ入る。
光秀はここに立った。まさに頂である。あたかもこの日までの彼の人生の如くここまで登りつめた。
道はふた筋ある。
なおまだ、彼の前にはそのいずれでも選べば選び得る二つが、最後のものとして岐れ目を示していた。
だが、一眸に入る夜色は、もう何らの反省を彼に強いるものでもなかった。むしろ宇宙は、この一箇の人間に宿命づけたものをもって、明日からの大きな世の一転革を約しているもののように、静かな星のまたたきを見せていた。
「…………」
休めの令は下っていないが、光秀の駒が止まったため、また彼のすがたが星空を衝いてじっと鞍上に坐ったまま、しばらく動きもせぬために、それを仰いで、前後にきらめく諸将の甲冑も、あとに続く夥しい鉄甲の影、旗の影、馬匹の影も、黒々と立ち淀んで、そのあいだに汗を拭い、草鞋の緒を見、馬の口輪を持ちかえなどしていた。
「そこらに、清水が湧いているな。ちょろちょろ水音がするが」
一万三千という大部隊では、列の末の方は、まだ頂上に遠い坂道の途中に歩を止めていた。組々の部将は当然近くにいるが、中軍の幕将や光秀のすがたは伸び上がっても遥かで見えない。──命令もなし、何のために行軍が停頓しているのか、もちろん足軽組あたりには分らなかった。
「あった。……水がある」
ひとりが、道に沿っている崖の肌を探って、ようやく暗がりの岩蔭に小さいせせらぎを見つけると、われもわれもと、そこへ寄って、竹の水筒へ清水を満たした。
「これで天神馬場までは助かる」
「兵糧は山崎か。いや夜が短いから、海印寺あたりで暁けるだろうな」
「日中は馬も疲れるから、なるべく夜のうち朝のうちに、道を捗るお考えではないかな」
「そうありたいものだ。中国までは」
足軽たちはもとよりそれ以上の士分でも、物頭格の部将以外、まだ何も知らなかった。
戦場はまだ遠い──としていたのである。組頭の耳に入らぬ程度の囁きや笑い声はそのゆとりを現わしている。中で一名、腹痛を訴えている兵があった。出陣早々もう病苦を訴えるのは何事だと同僚たちが咎めつつも励ますと、
「いや俺は、ふた月も前から腸を病み通しで、いまだに本復していないのだ。だがなあ、この御陣に洩れてはと、歯を食いしばって出て来たのさ。──老親にも女房子にも、稀には、帰って功名ばなしの一つも聞かせ、一合のお扶持でも御加増に逢って、歓ばせてやりたいからな」
列は前へ揺るぎ出した。粛々、行軍の足なみに回る。その頃から素槍を引っさげた部将が、一倍大股な足どりで、絶えず隊側を監視しつつ進んだ。
左へ左へ。しかも黙々と。
軍馬は老坂の分水嶺を東へさして降り始めた。西、中国への道へ折れたものは一兵もない。
(……はてな)
怪しみは眼から眼へ光った。だが怪訝る者もまた続いた。彼ら末輩は、ただ翻る旗を仰いだ。
──この旗の赴く道に間違いはないのだ! と。
戛、戛、戛、石ころを蹴る馬のひづめに坂路の急は度を加えてくる。たまたま、谷へ落ちてゆく石の響きはひどく大きい。
すでに一万余の隊列は、どうどうと、何物にも阻められない滝津瀬の水にも似ていた。加速度に脚は早くなってくる。堰くも止まらず、阻めるも堰かれず、遂に、赴くところまで赴くものとなった。
汗か露か。具足の肌着はすぐ濡れる。焔々、馬も人も、その喘ぎに燃えてゆく。大枝の山間を繞りまた降って、淙々と聞く渓流のすぐ向うに、松尾山の山腹が壁のように迫って見えたときである。
「やすめ」
「腰兵糧を解け」
「馬にも草を飼え」
「火は焚くな」
令から令が伝えられて来た。
ここはまだ山腹の沓掛の部落である。僅か十数戸の山樵や炭焼の小屋があるにすぎない。にもかかわらず、中軍の警戒は甚だきびしく、麓の方にも、過ぎて来た道の方にも忽ち哨戒隊が配置された。
「どこへ行くっ」
「水を取りに渓へ降ります」
「隊伍を離れてはならぬ。他の者の竹筒から貰え」
崖道でこんな声もする。
士卒は腰兵糧を解いて黙々それに向い始めたが、口に噛む間の私語がだいぶ聞える。この山中で時ならぬ腹拵えは何のためだろうと怪しみ合うのであった。すでに夕方篠村八幡を立つ折に一食は解いてある。
なぜ山崎なり橋本なりで、夜も明けた頃、人里で馬を繋いではいけないのか。
彼らにはその疑いが解せないと共に、どこまでも今なお中国へ向うのだという気持そのままでいたのだった。──なぜならば中国道には、老坂の分れに限らず、この沓掛からも、右折すれば、大原野を経て山崎、高槻へ出ることはできるからであった。
だが、ふたたびここを立つと全軍の歩みはわき目もせず真っ直ぐに塚原へ降り、川島村へ出で、すでにして眼の前には、全軍おおかたの将士にとっては、真に思いもかけなかった桂川のながれを四更の空の下に見ていた。
「あ、桂川だ」
「桂川?」
俄然、士卒は譟ぎ始めた。こう来ればこう出る当然な歩みをして来ながら、われにもあらぬ眼をみはって、一颯、冷風に吹かれるや否、惣勢足なみを竦み止めた。
「しずまれっ」
「立ち譟ぐな。濫りに私語するな」
馬上の物頭幾名かが、動揺の見えた全軍に大呼しつつ駈け繞る。
水明りに、また川風に、水色桔梗の九本旗は長竿を弓となすばかり、はためき鳴った。
「源右衛門、源右衛門」
騎馬の一将が高々と手を挙げて呼びぬいている。一隊の部将として右翼の端のほうにいた天野源右衛門は、お召しと感じたので、馬を隊伍の中へおいて此方へ駈けて来た。
光秀は河原に立っていた。
炯々たる幕将たちの眼もとは源右衛門へ注がれた。霜鬢白き斎藤内蔵助の面、ほとんど仮面かとも見えるほど悲壮な気稟をおびている左馬介光春の顔。諏訪飛騨守、御牧三左衛門、荒木山城守、四方田但馬守、村上和泉守、三宅式部、そのほか幹部たちの夥しい甲冑の影が幾重にも光秀を囲んで、鉄桶のごときものを作っていた。
いうまでもなく、ここの幹部だけには、やがて二刻とは経たないうちに、天下に何事が突発するか分っている。天下の何人たりと知るよしもない地異人乱を、未然に知っているということのいかに空怖ろしきものであるかを、さすがにここにいる面々とて、その眉目なり五体なり、また、ことばの五声に包みおおせている者はない。
「寄れ。源右」
光秀自身からであった。近々とさしまねいて、
「はや夜明けも程なかろうず。そちは一隊をひきいて先へ川を渡れ。西七条から堀川へ出よ。仔細は、味方の内より駈け抜けて、万一、本能寺へ事を告ぐる者などもあれば、直ちに、これを斬って捨てる事一つ。また未明のうちとて、早立ちの旅人やら京に通う物売りなどは疾く往来しているやも知れぬ。これに要意あるべき事一つ。──以上だ。すぐ先を駈けい」
「承知仕りました」
「あ、待て──」
と呼びとめて、また、
「同じ要意のために、疾く、保津の宿より山中の間道を経て、北嵯峨へ降り、地蔵院より西陣の道を備えつつゆく味方がある。忠秋、藤田伝五、並河掃部たちの一隊だ。霧を隔てて同志打ちすな。桔梗旗一本、竿横ざまに携えて行け」
と、かさねて云った。
命令は緻密である。声は切れるように鋭い。いまや高度に働いている光秀の頭脳と、裂けん一歩の前まで緊張している満身の血管がそれによっても分るほどであった。
天野源右衛門の手勢数百が、ざぶざぶと、桂川を徒渉してゆくのを見て、明け空近い旗風の下の一万余人は、いよいよ不安を募らせた。
光秀は馬上へ回った。
以下、続々駒の背へ移る。
わずかな遑でも、すぐ駒を降りて、甲冑の重さを背から除いてやるのが、馬に対する武将の思い遣りでもあり、また戦場を前にしての細心な備えでもあった。
「心得を触れおく。──聞き洩らして不覚すな」
光秀の側から物頭の一名が口へ掌を囲んで、二度三度、大声を繰り返していた。
「馬の沓を切り棄てろっ」
触れの声の第一番から高く聞え渡った。
「よいかっ。馬の沓は切り棄てにいたせよ。──徒歩立ちの面々はすぐ新しきわらじをは穿け。山道で弛んだ緒をそのままに穿いているなよ。緒はゆるく確と結べ。水に浸って足を食われぬ程に」
大音声ではあるが、物頭は噛んで含めるように、繰り返し繰り返し、その声もつぶれきるほど風の中で告げるのだった。
「──鉄砲組の者どもは、火縄切り、尺五寸に切り揃えろ。その口々に火をわたし、火さき五本ずつ逆さに提げて、かりそめにも、手ぬかりあるな。兵糧殻、身まわりの物、些細なりと、四肢のうごきに荷となるものは、何なりと後を思わず、川のうちへ投げ捨てろ。ただ得物得物のほか持つな」
触れは終った。
愕然たる気色が、全軍の上に、川波より明らかにうごいた。同時に騒然たるものが湧いた。声ともつかない、行動ともつかない。右を見、左を見、しかも私語は禁じられているので、ただその顔と顔との、何とも名状し難い、声なき声であった。
だが、どこを見廻しても、命令後、一瞬の間も措かず、忽ち行動は起されていた。それも迅速極まるもので、日頃の訓練にも勝るこの一斉な外面だけを眺めては士卒個々の心のなかに、前にいったような、遅疑、不安、驚愕などが譟いでいるとは一見思われない程ですらある。
馬の沓、火縄、わらじの緒、身拵えの構えまで、一瞬の動作が、大きな一体のすがたで忽ち終ると斎藤内蔵助利三は、老人とはいえ、百戦に鍛えた武者声をはりあげて、次の如き云い渡しを、文書から読み伝えるように云い渡した。
「──歓ばれよ面々。今日よりして、わが殿、惟任日向守様には、あやまりなく天下様にお成り遊ばさるるにてあるぞ。ゆめ疑うな。足軽、草履取の末とても、勇みよろこび候え」
声はその位置から遠い足軽草履取の端にまでよく届いた。死せる如くみな呼吸をとめていた。──が、この一呼吸の後にあらわれたものは、歓びでもなく、喊呼でもなく、哭くが如き蒼白な戦慄と無言の硬直であった。
内蔵助は、眼を閉じてなお一倍、われをも励ますかのように叱咤に似たことばで告げた。
「今日を措いてあるまじき日はまさに明けようとするぞ。手柄あれ各〻。侍分にはわけても恃み参らすぞよ。よし斃るるも、兄弟子ある者には、跡職の儀は申すに及ばず、兄弟子なき者どもとて筋目筋目の縁を尋ね出し、後々の跡目恩賞は決して相違あるものではない。尤も働きの高下にはよるが」
終りに至って、内蔵助の語気は著しく昂らなかった。これはもとより光秀の命による布告で、彼としては何となく、自身の心にそぐわぬものがあったのではあるまいか。
「いざ、渡れ」
天はまだ暗い。
桂川の流れは、一時、徒渉の陣馬の堰にせかれて、対岸まで幾条となく白々と逆捲いた。
振り返れば、もう桂川の中には、余している人数もない。
濡れ草鞋を踏み叩いて、全軍は身ぶるいした。身は濡らしても、火縄を濡らした兵はなかった。
膝ぶしまで浸けた清冽は氷よりも冷たいものだった。そのあいだにも将士は思い思いの考えを抱いたに違いない。──徒渉にかかる前に物頭と老臣から云い渡された戦闘に入ることばについて。
(さては、徳川殿を討つのだ)
こう判断していた兵がまだ大部分であったろう。漠として、
(いま討つべき者としたら、徳川家康を措いては、手近にはいない)
と、思いつつまた一方で、
(それにしては、今日よりわが殿が、天下様に成られるとはどういう意味か)
を頻りに考えた。
そこまで思い及びながら、まだなお念頭に、信長の名は敵として思い出されて来ないほど、彼ら明智一家の将士は道義人倫に一筋な者どもだった。迂遠といえばいえるが、その道義に固められて来た頑固な一筋気は、物頭格より組頭、組頭よりは小頭、小頭よりは足軽草履取といったような末の者ほどそうであった。これを無智単純と見、或いは慾に釣られての附随とし切るのは、この場合、余りにも傷ましい数である。
「おお、明けてきた」
「はや夜明けだ」
ちょうど如意ヶ嶽と東山のあいだあたりに当るだろう。一朶の雲の縁がキラと真っ赤に映えた。
ひとみを凝らすと、京都の町も、暁闇の底に、見えないことはない。だが、老坂や三草の丹波堺をふりむくと、まだ鮮明な星が数えられた。
「や、死骸だ」
「……ここにも」
「おっ、彼処にも」
道はすでに京都の西七条の入口に近い。東寺の塔の下までも、所々の藁屋根や森を除く以外、右も畑、左も青田、いちめん露をおびた耕地であった。
その道傍の松の根方や、往来の真ん中や、いたる所に死骸が倒れていた。みなこの近くの農民らしい。茄子の花の中へ、眠っているような顔を伏せて、笊を抱いたまま一太刀に斬り殺されていた若い娘もある。
血しおは今こぼされたばかりに見える。朝露よりも新しい。思うに本軍の前を先駈けして行った天野源右衛門の手勢が、早起きする農民たちの姿を田や畑に見かけて、大事のためには代えられじと、その無辜を愍みながらも、逃げるを追って刺し殺し去ったものにちがいない。
地に鮮血を見、空に鮮紅な雲を仰いだとき、光秀は、手の鞭をやにわに挙げて、
「本能寺へいそげ。本能寺を覆い包め。──光秀の敵は、四条本能寺と、二条妙覚寺の内に在るぞ。行けッ、行けっ。踏みおくるる者は斬るぞ」
鐙の革も断ち切れんばかり鞍腰上げて絶叫した。
それを戦機として、水色桔梗の九本旗は、三旗ずつ三部隊にわかれ、七条口を突破して、中町の木戸木戸を踏みやぶり、いちどに洛内へ混み入った。
時をあわせて、五条の木戸、四条三条筋の木戸木戸へも、明智軍は駈け分れて殺到した。
まだ霧こそ深いが、東山のうえは紅々と黎明に染められている頃なので、往来人のために、常のごとく木戸の潜りは開かれていた。
その潜りからどうと、馬も人も、槍も鉄砲も、押し合って混み入ろうとした。旗竿は寝かして通った。この混雑をながめた部将は、
「押すな、慌てるな。後の隊はしばらく潜りの外に待て」
と、一応、むりに抑えて、大扉のかんぬきを抜き、八文字に開け放してから、
「それ、通れ」
と、大声で励ました。
本能寺の濠に迫るまでは、枚を銜んで、喊声を発すな、旗竿も伏せてゆけ、馬も嘶かすな──と軍令されていたが、ひとたび木戸を突破して、町なかへ駈け入るや否、明智の部下はすでに、半ば狂乱の状態をあらわしていた。
前の方で、わあっと、吾れもなきかのような声があがると、駈けつづく中ほどでも、わあっと叫び、後の方でも、わあっと呼応した。
その喊声のつむじは、何とも名状しがたい卒伍の感情をふくんでいた。怒るが如く、猛るが如き中に、悲痛哭くが如き絶叫も交じっていた。
町々はまだしずかな朝霧につつまれて眠っていたし、ここにはなお侵すべからざる聖域のあることは、卒伍の端といえど深くわきまえている。
よし、いかなる匹夫下郎にせよ、都といえばすぐ、大君のおわします都、華の都、文化の都──と、あらゆる意味においての平和と伝統への尊敬がその観念のなかに泛び出ずにはいられない。
──行け、本能寺へ。
反き得ない主命に従い、また武門同士の後ろ見できぬ気持に押し押されて、彼ら卒伍の者たちは、いまや自分自分の踏み込み難い観念の一線からまず眼をつぶって踏み越える気もちであった。──わあっという声の中に血をもっているような声のあらしは、そのせつなに、彼の脳膜を半狂態にして捲き揚ったものである。
「なんじゃ?」
「何事かよ?」
愕いて、彼方此方の家で、戸の音も聞えたが、外を見ると、みな首をひそめ、もとのように急いで戸をたててしまった。
こうして七条、四条、三条の各方面から本能寺へひた寄せに押し縮めて来た幾部隊かのなかで、もっともはやく本能寺へ接近したのは、明智左馬介光春、斎藤内蔵助利三などの率いる一軍で、わけて利三のすがたは、その中でもかなり先方に見られて、
「霧の小路はうす暗い。抜け駈けせんと、町辻を踏みたがえるな。──本能寺の森は、さいかちの木が目印ぞ。その大竹藪を、雲のすきに目あてとせよ。あれだ。あれこそ、本能寺のさいかちの木」
と、この朝をもって老いの武者声の一期と誓っているもののように、馬上、天をつくばかり指揮の手を振っていた。
べつに明智光忠の率いる第二軍と称するものの行動がある。これは三条筋へあふれて、煙のごとく辻々をよぎり、二条妙覚寺へさして包囲形を作りながら取り詰めた。いうまでもなくそこに宿泊している信長の長子信忠を、本能寺方面と、ときを同じゅうして、討ち果すためである。
ここと本能寺との距離はいくらもない。すでにその頃、暁闇をへだてて、本能寺方面の空には何とも形容し難い物音が揚りはじめていた。いんいんと吹き鳴らす陣貝の音や鉦鼓のとどろきも聞えた。それは、天を震い地を揺るがすといっても、決して誇張ではないほど、この世の相をただならぬものにした。およそこの朝、洛内の全市民は、寝耳に水をあびて刎ね起きたか、家の者に絶叫されて、飛び起きなかった者もあるまい。
禁裡の諸門をめぐる公家たちの、常にはひっそりしている第宅の地域ですら、忽ちさまざまな物音や人声が騒然と起った。それらのものと鼓譟する軍馬のひびきで、一瞬、京都の空はぐわうと鳴るような思いがあった。
けれど、市民の狼狽はせつなの寸間だけで、堂上やしきも一般民家も事態を知った直後には、却って、寝しずまっていた前よりも、ひっそりとしてしまった。もちろん人っ子ひとり往来をあるく影もない。
外はまだなお、ようやく咫尺に人顔の見わけがつく程度であったから、妙覚寺へ向った第二軍は、べつの小路から迂回した味方の影を敵と疑ったり、また部将が、
「号令のあるまでは撃つな」
と、かたく戒めても、辻の曲り角へ来ると、気の逆上っている卒は、忽ちパチパチと霧の中を銃を盲射し始めていた。
硝煙を嗅ぐと、なおさら彼らの気はそぞろに猛り紊れた。この状態は、何度戦場を踏んだ卒でも、捨身になりきれるまでの間には、どうしても一度は通る気持だった。
「おっ、彼方で貝や鉦が聞える。──始まったぞ、本能寺の方は」
「やっているな」
「やっているっ」
彼らは自分の足が地についているかいないかも覚えなかった。駈けつつもまだこんな声が誰の口からともなく衝いて出るほど前面に何の抵抗も現われていないのに、満身の毛穴はそそけ立ち、その鳥肌になった顔や手に冷たい霧があたって知覚もないようなここちであった。なにか、声を発しないではいられないような気もちに揺りあげられた。
為に、妙覚寺の築土を見ないうちに、ここでも、わっと喊声をあげてしまった。突如として、部隊のさきの方でも、わあっと答え、また金鼓乱鉦を急拍子に鳴らし始めた。
光秀は第三軍にいた。
彼のいるところ即本営といってよい。その本陣は堀川に駐まっていた。一族の十郎左衛門忠秋、御牧三左衛門、荒木山城守、諏訪飛騨守、奥田宮内などに取り巻かれ、床几はそこにおいてあったが、一刻もその床几に倚っていなかった。そして全身を耳にして、雲の声、霧のさけびを望みながら、たえず二条方面の空を見ていた。
刻々、朝雲の紅さは漲っていたが、まだ火もあがらない、煙も見えない。
信長は、ふと眼ざめた。
何に刺戟されたというわけではない。熟睡のあと、いつもの朝のごとく、極めて自然に、醒めかけたのである。
早起きは彼の習性であった。どんなに遅く寝ても、未明に眼をさますことは、若年からの生活が自然に躾けてくれたものだった。それともうひとつ彼には彼特有な習性があった。
眼がさめたとたん──まだ眼がさめたともはっきり意識せず、もちろん枕から顔もあげないうちのことである。だからそれは、夢から現へ転じる電瞬のような秒間であるが、その短いあいだに、彼の頭の中では、実に、さまざまな想念が、あたかも電光のごとき速度で往来するのであった。
多くは、幼時から今日までの、あらゆる体験と、現在の生活にたいする反省をなしている場合が多いが、将来の理想とか、明日の備えとか、或いはその日に成し果たそうとすることなども、その夢うつつの間に、考えるともなく考えるのである。
習性というよりは先天的なものかもしれない。幼少すでに彼は稀代な空想児だった。だが生い育つに従って、荊棘の現実は、空想の子を空想の中にのみ夢みさせておかなかった。現実は艱難また艱難を与えて、彼に荊棘を切り拓く快味を教えた。
試されては剋ち、剋っては試されつつある成長の期間に、遂には、与えられる艱難を征服するだけに止まらず、求めて艱難へ突入し、艱難をうしろに振り向くときの愉快な人生を、人生の最大なよろこびとなすことを覚えた。さらに、それから得た自信に固められた信念は、いつか世人の常識をはるか超えた上に住むような心態になっていた。安土以後にいたっては、およそ、彼の限界には、いやまだ構想中の思界においても、不可能というものはなかった。なぜならば、彼の今日までの業は、ことごとくみな世人の常識外に出て、不可能を可能として来たことばかりといってもよいほどの道だったからである。
──今朝も。
眼はさめても、なお意識まではさめきれず、血管のなかにはまだ夜来の酒気もそのまま香っているかのような夢中と現身の境に、彼の脳裡には、南方の島々や高麗の沿海や、ゆくてに大明国をさしている大船列や、その船楼に立つ自分のすがただの、宗及や宗室のすがたまでも描かれていた。いやもうひとりそこにはぜひ秀吉もいなければならないなどと思ったりした。生涯のうちいつかはと実現を期していた日も遠くない心地がしていた。
彼の意中ではすでに、中国九州の統一のごときは、終生の事とするに足らないとしていたのである。
「……明けたな」
つぶやいて、寝所を出た。
廊へ出る所の重い杉戸は、工匠の精巧な工夫で、引くと自然に、キリキリッと閾が啼くようになっている。遠い小姓部屋の者も、それを聞けば、すぐにがばと眼をさますのであった。
油で拭き磨いたような太柱や板縁を、紙燭の光がてらてらと揺れうごいて来る。お目ざめ──と覚って、厨のわきのお手水の間へ足を急がせて来る小姓の森坊丸、魚住勝七、祖父江孫丸などであった。
その途中、寝殿の北廊下のほうで、カタンと切窓の蔀を上げる音が聞えた。小姓たちは、
「殿?」
と、思ったのか、足をとめて、覗くように、そこの袋廊下を振り向いた。けれど奥に見えた人影は、涼やかな大模様の帷子に、住吉の松と吉野の桜を染めわけたうちかけを掛けて、その背までみどりの黒髪をうしろへ辷らせている女性であった。
蔀をあげたそこの窓に、桔梗色の暁空が切り抜いたように望まれた。そして吹き入る風にその人の黒髪が揺れ、小姓たちの佇んでいるところまで、伽羅の香いが送られて来た。
「あ、あちらに」
小姓たちは駈け出した。厨の方に水音を聞いたからである。
庫裡の寺僧も起き出ていないので、当然、天窓も大戸もまだ開け放されてはいない。それにおそろしく広い厨の土間や板の間には、まだ昨夜の闇と蚊うなりもそのまま残されているので、夏の朝の何ともいえない温蒸がむっと顔の脂を撫でるのであった。
信長はその甚だ爽やかでない一刻が人いちばい嫌いである。彼が寝所を出たと思うと、いつも小姓たちが駈け寄るのも間にあわないほど、朝のうがい手水は迅速だった。いまも仮の便殿に入ると、筧の注いでいる大甕のかたわらへ寄って、自身小桶をつかんで塗りの盥にそれを汲み入れ、まるで鶺鴒のようにあたりを水だらけにしながら、せっかちに顔を洗いぬいていた。
「あ、お袖が濡れまする」
「お水をおかえいたしましょう」
小姓たちは恐懼して、ひとりは慌てて信長のうしろからその白綾のたもとを持ち、またひとりは水を汲みあらため、さらに一名は手ぬぐいを捧げてその足もとにひざまずく。
ときを同じゅうして、侍部屋の人々も、宿直の間を立ち、御殿の妻戸を開けているかのような気配だったが、折ふしはるか表御堂の方にあって、ただならぬ物音がしたと思うと、遠くからこの奥殿へ向って、だ、だ、だ、だっと烈しい跫音がとどろいて来た。
信長は、鬢の毛のしずくもそのままきっと振り向いた。そして、
「見て来いっ。坊丸」
と、性急に命じてから、その後で、手にしている布で面をつよく拭きこすっていた。
「表御堂の御番衆が、争いでも起したのでございましょう」
そのときもう彼の後ろへ来て侍列していた山田弥太郎、今川孫二郎、薄田与五郎などは、問われるともなくこう答えたが、信長は否ともいわず頷きもしなかった。そしてその眼は一瞬、深淵の水にも似て、外へ求める光よりも、彼自身の内に澄んで、自身の記憶の中のものを探し求めるかのように耀いていた。
それは実に束の間であった。
表御堂ばかりでなく、ここの客殿も、棟から棟へつづく十幾坊の堂舎も、たとえば地殻から揺りあげて来た地震の力にでも委されているかのように、何とも名状しがたい物音と凄愴の気にくるまれて来たのであった。
「……?」
こういうとき、いかなる人間の思力も、他に紊されずにはいられない。信長の面色も血を退いていた。近衆小姓の面々もさっと色を失っていた。
それも呼吸の数にすれば、わずか七息か十息の間に過ぎない佇立であったろう。忽ちすぐ近くの大廊下を非常な迅さで駈け過ぎようとした人影があった。烈しい声でつづけさまに、
「殿っ、殿っ」
と、その血まなこは、あらぬ方へ求める人を捜していた。
小姓たちは、一斉に、
「森どの、森どの。殿は、こちらですぞ」
と、声を合わせて、居どころを示し、信長自身もまた、
「於蘭、於蘭、どこへ参る」
と、呼ばわった。
「おうっ、そこにおいで遊ばしましたか」
森蘭丸なのである。のめるようにひざまずいた彼の姿を見ただけで、信長はすでに五体の皮膚から感じていたこの異様なるものの気はいが、決して表御堂のさむらい達の争いや厩者の喧嘩などという生やさしいことではないことをなおさら強く覚った。
「於蘭、何事が起ったのだ。そも、何を騒動しておるのか」
早口にこう問うと、蘭丸もまた、より早口に、
「──明智の者が推参いたしたのです。まぎれもなき桔梗旗を振り譟いで」
「なにっ、明智?」
愕然と出た一語には、まったく予測も夢想もしていなかった驚き方が、余すところなく現われていた。しかし、それによって起る肉体の異様なる衝動も感情の憤激もことごとく彼の唇もとにきっと結び止められたまま表面の彼なるものは常の信長とそう変らない程に平静を保ちながら、やがて次の一語をその唇から唸くように洩らした。
「明智か。……是非もない」
身をひるがえすと、信長は居間の内へ駈け入った。蘭丸もその後を慕いかけたが、五、六歩立ち戻って、うろうろする小姓の面々へ、
「各〻は、はや出合え。坊丸には今、縁まわりの大戸妻戸など、めったに開け放つなと、云い触れさせた。諸所の戸口に立ちふさがり、殿の身近に、敵を寄らすな」
と、叱咤した。
そのことばも終らぬうちに、雨の土砂でも横ざまに打っつけて来るように、厨の戸や近くの窓などへ、ばしゃばしゃッと矢や弾丸がそそがれて来た。板戸を深く射抜いた矢は、そのするどい鏃の光をすでに何本も植えて、屋内の者へ戦いを宣していた。
六角の南、錦小路の北、洞院の西、油小路の東、本能寺の四面両門はもう明智勢の甲冑と、先途を争う寄せ声で埋まっていた。
が、濠を前にしているので、一見難なく見えるそこの築土へも、たやすくは取り付かれなかった。槍、旗竿、鉄砲、長柄などの林が犇めき動いているに過ぎなかった。
「なんの」
「われこそ」
と、無碍に逸って、その中から築土の根がたへ跳んだ者も、跳び損ねた者も、例外なく濠の中へ落ち込んでしまった。具足の重みもあるため、そこへ落ちたがさいご、腰の辺まで異臭を持つおはぐろのような泥土の沼に埋められ、あがいても叫んでも、戦友すら顧みてくれないのである。
錦小路側の一部隊は、すぐ附近の貧民窟の民家をぶちこわしにかかっていた。潰された家の下から嬰ン坊を抱いた女や老人や子どもらが、貝殻の中から逃げるやどかりみたいに逃げ散った。またたく間に、明智勢は柱を運んで濠へ渡し、戸板や屋根をもって濠を埋めた。
どっと、われがちに築土へたかる。鉄砲組は銃をそろえて、その上から内部の伽藍へ向って、第一弾を撃ちこんだ。
そのときまだ本能寺の境内も、諸坊の建物も張合いのないほどひっそりしていた。表御堂の扉もすべて閉まっていて、この内に目ざす敵が在るや否やを疑わしめるほどだった。
この朝の火の手と煙は、本能寺の外の尿小路から先に揚ったのである。ぶちこわされた家屋の下にあった火気が忽ちいぶり出して苦もなく次々の板屋建てを焼いていった。そのためにこの一劃の貧しい住民はおたがいに踏み殺し合うような騒ぎを捲き起して、泣き喚きながら一物も持たずに河原や町の中へあふれ出した。
これを正反対の惣門の方から望むと、あだかもその煙は、すでに裏門を突破した味方が、庫裡へ火を放け始めたかのように思われた。で、正門の前へ雲集した第一軍の主力は、
「裏門の味方におくるるな」
と、猛り合い、刎橋の此方でただ時を移しているかのごとく揉み揺れている将校の一団にたいして、
「踏みつぶせ」
「押し通れ。何をしている」
と、うしろの卒伍から呶鳴る声すら沸いていた。
これはそこに立った三宅式部や村上和泉守などが、門内の番士へ向い、
「これは中国へ下る明智の軍勢に候うが、右大臣家の尊覧を仰ぐため、勢揃いして罷り越え候。御開門を乞う」
と、奇略を試みて、惣門の扉を敵に開かせようとしていたために、却って手間取っているものだった。
けれどもとよりこれほどな空気を門衛の将士が不審に思わぬわけもないし、また信長の意も伺わず一存で開門する理由もない。
「待て」
と、一言聞えたのみで、それきり門内の声のないのは、急を表御堂へ告げて、咄嗟の防禦に狂奔しているものに違いなかった。
これしきの濠を越えるのに計を用いるなど、もどかしと見て犇めいていた後ろの将士は、そことはべつに、どうと前列を押して、
「かかれ、かかれ。何を猶予」
「築土へ取りつけ」
と遮二無二、槍の一番口を取ろうと競い合って、怯む者は、押し除け押し倒した。
為に、前列の一部はいやおうなく、濠の中へ突き落された。わっと濠の底でも上でも喊声を沸らせる。ほとんど故意に、そこをまたうしろの組が押す。また落ちる。また押し雪崩れる。──みるまに空濠の一ヵ所は泥土にまみれた人草で埋まった。
「御免」
と、一人の若い母衣武者が、その人間のかたまりを踏みつけて築土の根がたへ跳びついてゆく。
それに倣って、また一人が、
「踏まれていろ、踏まれていろ」
と、呶鳴りながら、槍の石突を突きながら、踏み渡って、早くも築土のうえへしがみついた。
濠の中の人草は、刎ね出そうとする泥鰌のように揉み合ったが、その背を、肩を、頭の上を、次々に味方の者の武者草鞋が踏みこえてゆくので、惨たる犠牲になっている。
しかしその隠れたる勲功者のために、はやくも本能寺の墻壁の上には、明智の三羽鴉と呼ばるる古川九兵衛、箕浦大内蔵、安田作兵衛の輩が、
「一番っ」
と、誇って呼ばわる声がとどろき、またそれらの者といずれが先か後かも疑わるる程、むらがり攀じた武者たちのうちには四方田又兵衛、堀与次郎、川上久左衛門、比田帯刀などの勇姿も見えた。
当然、築土の内側には、すでに門側の衛門小屋や厩の辺りから駈けつけた織田のさむらい達が、得物を選ばず押っ取って、奔河の決潰をふせぎに当ったが、まさに切れた堤を手で支えんとする業にも似ていた。
それらの刀槍をまるで無視して、ひらりひらり跳び降りて来た明智の先手は、接戦たちまち幾つかの死骸を踏みこえ、敵の血しおに彩った姿をもって、
「右大臣家御一方こそ、ただわれらの目ざすところ」
と、なすもののように、表御堂や客殿をさして驀しぐらに駈け進んだ。
表御堂の広縁や客殿の高欄のあたりからは、それへ向って、叫ぶ風そのままな矢唸りが吹いて来る。距離は弓に有利な矢ごろであったが、矢の多くは武者に中らず、土を掘り、地を辷り、或いは遠く築土に刎ね返った。
その中に、寝衣一つで、或いは半裸体で、しかも得物も持たず、やらじと甲冑の敵に組みついている猛者も見えた。これらの番士は非番の暇を得て、夏の夜の暑さに心からくつろいで寝ていた者どもであったが、その出遅れを恥じてか、ほとんど、体当りの勇気だけで、明智の武者をいささかなりと食い止めんものと、死力を発していた。
しかし防ぐべくもあらぬ鉄甲の怒濤はすでに、伽藍の大廂の下までひたひた迫り襲っている。
いちど室内へ駈けもどった信長は、白綾の小袖の上に、大口の袴を穿ち、奥歯を咬むほどな力で、その紐を結んでいた。
「弓を。弓をっ」
そのあいだに、二度三度、こう求めて、誰やらがひざまずいて、眼の前に捧げる弓を、引っ奪くるように掴むや否、
「女どもは落ちよ。女は遁れてゆくも苦しゅうない。足手まといになるな」
と、云い捨てて妻戸の外へおどり出た。
彼方此方、踏みやぶる戸障子の物音をも衝きぬいて、女たちの泣きさけぶ声、呼び交う悲鳴が、一層、ここの揺れる甍の下を凄愴なものにしていた。部屋部屋を逃げまどい、廊を奔り欄を越えなどする彼女らの狂わしい裳や袂は、その暗澹を切って飛ぶ白い火、紅の火、紫の火にも見える。
そしてそこらの蔀にも柱にも欄にも、矢や弾丸の来ない所はない。すでに信長が広縁の一角まで出て射戦しているので、その姿に集注してくるものが奥へ外れて来るらしかった。
「匹夫が」
と、一矢を放ち、
「推参な」
と、眦を切っては一矢を射る。──その信長の戦いを見ては、怖ろしさに、自分を見失っている女たちですら、ここを落ちて行くにも行けない気がして、声かぎりに哭くのであった。
──人間五十年、化転ノウチヲ較ブレバ、夢幻ノ如クナリ。とは、彼が好きな小唄舞の一節であり、若年に持った彼の生命観でもある。彼は決して、今朝の寝ざめを、天変地異とは思っていない。人間同士のなかにはあり得る出来事であり、それが今や、自分の前に来ているという観念でしかない。
とはいえ、彼は、はやくもその観念の眼をふさいで、
(もうだめだ。最期だ)
とはしなかった。むしろここで死んでなろうかという猛気に燃ゆる戦いぶりであった。生涯の大業としている胸中の理想はまだ半ばも遂げていないのである。この中道に敗れんか、余りにも無念だ。この一朝に死なんか、余りにも残念なのだ。つがえては切って放つ一弦一弦の弓鳴りはその憤りを発するに似ている。しかもその弦もほつれ、弓も折れようとしていた。
「矢を。矢がない。矢を持て」
彼は、うしろへ叫びつつ、そこらの廻廊に落ちている敵の外れ矢まで拾って射た。そのとき練紅梅の鉢巻して、大模様の片袖をかいがいしく脱ぎ絡げたひとりの女性が一抱えの矢を運んで来てその一本を彼の手に捧げた。信長は見て、
「阿能か。もうよい。落ちろ落ちろ」
と、烈しく顎で追いやった。けれど阿能局は、信長の右手へ次々に矢を渡して、叱られても去らなかった。
腕よりは、気稟である。弓勢というよりは気魄である。信長が射る矢は、
(匹夫の冥加となせ。天下取の矢の根を賜わるぞ)
と、いうが如き豪壮な矢唸りがあった。しかも阿能局の運んで来た矢数も忽ち射尽してしまったほど、矢つぎ早であった。
寺内の庭上、そこかしこ、彼の矢に中って、斃るる敵が見えた。けれど矢風を冒して、
「右大臣家と見奉る。いまはのがれ難きところ。いさぎよく御首級をさずけ給え」
と呼ばわり呼ばわり、そこの欄の直下へ或いは橋廊下へ攀じのぼって彼の側面から、必死と迫って来る甲冑の敵は、ちょうど此寺のさいかちの木に朝晩群れる鴉のようであった。
もちろん、信長を中心に、そのうしろ、その横の廻廊では、
「寄せじ」
とする近衆小姓の刃が、必死の火を降らしていた。
森蘭、森力、森坊の兄弟三人もそこにいた。魚住勝七、小河愛平、金森義入、狩野又九郎、武田喜太郎、柏原兄弟、今川孫二郎なども終始主君のそばから離れずに斬りふせいでいた。
すでに討死をとげて、廊壁を血にそめている屍には、飯河宮松がある、伊藤彦作がある、久々利亀之助がある。中には、敵と組んだまま、重なり合って、相討ちをとげている者も見える。
一方、表御堂番衆の組は、本堂を戦場として、敵を御殿に近づけまいと、さっきから猛烈な血戦を起していたが、御殿へ通じる橋廊下の口を敵勢に取られそうなので、総勢といっても、わずか二十名たらず、一手になって奥へ駈け集まって来た。
そのために、橋廊下へ踏みのぼった明智の武者は、挟撃に遭って、突き立てられ、斬り落され、その下に屍を積んだ。
なおまだそこに無事だった信長の姿を見るなり、表御堂の面々は、われを忘れて叫んだ。
「いまのうちに。おうっ、今の間にこそ。一刻もはやく、ここをお立ち退きあらせられませ」
「ばかなっ」
信長は、弓を捨てた。弓も折れ矢も尽きていたのである。
「退ける所かは、退ける所でもない。長柄をかせ」
彼は、そう叱咤すると、臣下の得物を引っ奪くって、獅子のように廻廊を走った。彼方の欄に手をかけて、登ろうとした敵の一武者を見、その真っ向へ一撃を下したのである。
明智方の川上久左衛門は、槙の木の蔭から半弓を引きしぼっていた。矢は信長の臂に刺さった。信長はよろめいて、うしろの蔀に背を支えられた。
が、これしきの傷手に、信長はまだ屈するものではない。かつて彼が四十三歳の天正四年、大坂若江の合戦のときなどは身すでに大納言右大将という高位であったにかかわらず、足軽の中に交じって駈けまわり、足にも鉄砲をうけ、身にも太刀傷をうけつつ、わずか三千の兵で、一万五千の大敵を衝きくずした例もある彼である。死は怖れないが、いたずらに死を急ぐ彼ではない。また、貴人の名分にとらわれて、敵の雑兵と戦うに怯なる右大臣家でも決してない。
そのとき、ちょうどその頃といえる。西の築土の外でも、小戦闘が起っていた。
本能寺附近にあった所司代邸の内から打って出た春長軒村井長門守父子とその家来小者の一勢が、明智軍の包囲を外から衝いて、正門の内へ駈け入ろうと試みたものであった。
前の夜、春長軒父子は、信忠などとともにおそくまで信長の前に語らい、官邸に帰って眠ったのはかれこれ三更に近かった。
そのための熟睡も、今朝の不覚をなした原因といえよう。彼の職分としても、尠なくとも明智勢が洛内へ足を踏み入れると同時にこの変を知るべきであった。また知るや否、すぐ前の本能寺へ寸前にでも急を告げていなければならない。
何もかも油断だった。だが油断は実に信長ひとりだけでなく、市中に宿泊し、或いは在邸していた者すべてにあったといってよい。
「何事か外が騒がしいようで」
と、初めに起されたときも、春長軒はまだ、かかる大事とは覚らず、
「喧嘩でもあるか。見て来い」
と、配下にいった。それから悠々起床にかかる間、土塀門の屋根上で、小者が、
「錦小路あたりに煙が立ちのぼっております」
というのを聞いても、
「また、尿小路の失火か」
と、舌打ちして呟いた程だった。
それほど世は泰平と錯誤していたのである。ゆうべも今朝も、実に変らぬ戦国下の一日であり、その中の都でもあることを、ふと忘失していたのである。
「なに。明智勢が?」
と、仰天したのは、それから一瞬ともいわない直後であって、
「すわ」
と、ほとんど着のみ着のままで、一度は邸外へ躍り出たのであった。
ただ見るほどの暗い朝霧の中いちめんに、濛々と立ちけぶっている物の具きびしい騎馬剣槍を見るや、長門守はまた急いで邸内に引っ返し、よろい櫃を覆えして、具足を着こみ、打物とって、
「つづけ」
と、子息二人、その余の者、ひっくるめて、三、四十人を手兵とし、信長の側へ駈けつけようとしたものであった。
とはいえもちろん、本能寺を中心として、八方の大路小路は、明智の諸部隊が手分けして、瞬時に交通を遮断していた。衝突は西の築土の角あたりから始まって、猛烈な白兵戦を展じ、哨戒の一小隊を衝きくずして、惣門のやや近くまで迫ったが、ひとたび明智方の中堅がそれを顧みて、
「小癪な」
と、槍を揃えて来るや、ほとんど、歯も立たないほど突き立てられ、長門守父子も傷を負うし、小勢の味方は半数に打ち減らされてしまったので、
「この上は、妙覚寺へ参って、信忠卿と一手にならん」
と、道をかえて奔り出した。
振り向いて、本能寺の大屋根を仰ぐと、そのとき初めて、雷雲のような真っ黒な煙が、噴きのぼっていた。
坊中へ火を放った者は、寄手の明智か、信長の家臣か、また信長自身か、今は到底、それらの行動をつぶさに見分け得るようなここの状況ではない。
煙は、表御堂からも、殿中の一室からも、大台所からもほとんど同じ頃に噴き出した。
大台所では、小姓の高橋虎松と、二、三の者が、鬼もあざむくような奮戦をしていた。
ここでは納所の僧が、疾く起きていたらしく、僧の影はひとりも見えないが、二斗炊きの大釜をかけた竈の下には、薪が焚きつけてあった。
虎松は、大土間の戸口に立ち、混み入る明智の者を、のっけに二人まで突き刺し、槍を奪われて、多数に立ち向われるや、板敷へ上がって、厨房の器具を手あたり次第投げつけて防いだ。
針阿弥という茶道の者、平尾久助という年少の小姓も、切っ先をそろえて、彼とともに力戦した。武装もせぬ弱冠の敵が、わずか三、四名に過ぎないのだと見縊りながらも、多くの甲冑武者は、容易にそこの板縁まで踏みのぼることができないでいた。
「何を手間取っているか」
部将らしい一武者は、ここを覗くと、竈の下の火の薪をつかみ出して、いきなり高橋虎松や針阿弥などの面を狙って投げつけた。また、納戸の内へも投げ入れ、天井へも抛りあげた。
「奥へ」
「奥にこそ」
信長が目標である。途端に、どどどっと押し上がり駈け入り、武者草鞋は薪の火を踏み散らして屋内へ分れた。その後はもうここかしこ蔦紅葉のように柱やふすまを這う火であった。ふたたび動くことなき虎松や針阿弥の姿にも火がついていた。
厩の方面は騒々しい。十頭ほどの馬が床を蹴り羽目板を打って狂いぬいている。うち二頭ほどはついに横木を外して外へ暴れ出した。これは狂奔して、明智勢の中へ飛びこんで行ったが、あとの馬は、火を見ていよいよいななき猛っているのみだった。
厩方のさむらい矢代勝介、伴太郎左衛門兄弟、村田吉五などはそこを去って、信長の姿の見えた御殿の階下に立ち、ここを最後の奉公場所としてみな討死の枕をならべた。
逃げようとすれば逃げられないこともなかった厩中間の端にいたるまで、それらの組頭について二十四人悉く戦って死んだ。虎若、小虎若、弥六、彦一、岩、藤九、小駒若などという御小人たちである。日頃は名もなき輩といわれていたのが、血を以てする奉公の一日には、禄の隔てにも官位の高さにも劣らぬことを無言で示した。
健気にもゆかしい男は、町中の宿所にいた湯浅甚助と小倉松寿の二小姓である。変を知るやふたりとも、本能寺の中へ駈けつけて来た。おそらくは明智勢の混雑のなかを無二無三紛れこんで入ったものであろう。すでに煙にくるまれている信長の居間近くまで飛びこんで来るや否や、
「甚助まいりましたっ」
「松寿っ、駈けつけました」
叫びつつ、求めつつ、出会う敵と、斬りむすんでいた。
明智方の進士作左衛門は、湯浅甚助を突き伏せた。
血に染んだ大槍をひっさげて、二間三間踏みこえてゆくと、味方の箕浦大内蔵の影を煙の中に見た。
「大内蔵か」
「おうっ」
「お手柄は?」
「まだ、まだ」
たがいに信長の姿を求めているのである。いや競っているといったほうがいい。すぐ相別れて煙の下を潜ってゆく。
火はすでに屋根裏へも廻っているらしく、ぐわうと伽藍の中は鳴っている。甲冑に触れば皮革や金具が手に熱く覚えるほどだった。──が、それにしても見わたすところ、瞬時にして、人影が見えなくなった。ありと見れば屍であり、いると思えば、明智の同衆である。その明智の人数も、棟木に火がついたというので、あわてて外へ溢れ出たものが多い。
事実、なお中に踏み止まって、彼方此方と駆けている者は、時には煙に咽せ、時には火塵をかぶっていた。燃え切れた金襴やら板切れに火のついたものが、襖も扉も踏み外された広間のうちを霏々と吹きみだれ、さながら焼け野のように明るくしていた。
奥の小間や控えの辺りは、それに反して濛々と晦い。濃い煙で、中廊下も袋廊下も見さだめ得ないほどだった。
森蘭丸は、いま閉て籠めた一間の杉戸を、その背で守るが如く抑えて、凝然と突っ立っていた。
血ぬられた槍を手に、右を見、左を見、跫音と感じれば、すぐ槍を向けた。
「……お声はまだか」
室内の気はいにも、彼は全身を耳にしていた。たった今、そこへ駈け入った白きものの影こそ、右府信長にちがいない。
寺中一円に火を見、また側近の者があらまし討死を遂げて行く最後の一瞬まで、彼は戦いきった。敵の雑兵をも相手にして雑兵の如き奮戦すら敢えてした。「名もなき者に首を取られんことの口惜し──」などという生やさしい名聞などは彼の顧慮するところでない。──死のうは一定だ。いのちを惜しむのではない。いのちの持つ大業を惜しむのだ。
二条妙覚寺は近い。所司代邸はすぐそこだ。市中に在宿の侍たちもある。万が一にもあれ、外からの聯絡があれば、血路をひらき得ないこともないと彼は思う。そういう閃めきと、いや謀叛人はあのきんか頭である。明智ほどな者が、かかることを仕出来すからには、水も漏らさぬ用意の上であろう。所詮は覚悟のときか。──とする二つのものも、彼の脳裡には闘っていたであろう。
枕をならべて討死した扈従の面々の骸をあわれと見やりながら、ついにそれらの者の死を生かし得ない刻々に取り巻かれて、信長もついに、
「今は」
と、戦うを休め、蘭丸を外において、そこの一室へ退いたのであった。
「──内で、信長の声が聞えたら、信長が自害をとげたものと思え。空骸にはすぐ襖を積み火を加えよ。それまで敵をここへ踏み入らすな」
蘭丸へ向って、信長はこう告げてある。
杉戸の口は固い。四方の障壁にはまだ恙ない金碧の絵画が眺められる。どこからともなく薄煙は流れ入るが、火焔が伝わって来るには微かな遑がありそうである。
──死に就くのだ。あわてるには及ばない。
誰か自分へいっているような心地がする。そこへ入るやいな、彼は四囲の熱気よりも喉の渇を焦けるように思った。そして崩るる如く、座敷の中央に坐りかけたが、思い直してすぐ一段高い長四畳ほどの床の間へ坐した。下は平常、臣下の坐るところと限られていたからである。
一杯の水を喉へ下ろしたという仮想を持って、彼は慥と精神を丹田に落着けるべく努めた。そのために膝を正し、姿をととのえ、平常ここにあって衆に君臨するときのままな自分を保とうとした。
あらい呼吸が鎮まるにはやや遑があったが、心は、
──これで死ぬのか。
と自分でさえ疑われるほど平静であった。呵々と、一笑を発したいようなものすら覚える。
──おれも抜かった。
と思い、光秀のきんか頭を想像してみても、いまは何の憤りも出ない。あれも人間だから怒ればこれくらいなことはやるだろうと思った。それにつけても自分の油断は嘲うべき一代の失策だったし、彼の怒りも愚かなる暴挙に過ぎないことを愍れんだ。あわれ光秀、汝もまた、幾日をおいて、予のあとを追わんとするや、と問うてみたい。
左の手に鎧通しの鞘を持った。右手でそれを抜いた。
──急ぐことはない。
なお自分で自分に云い聞かせる。火はまだこの部屋に燃えついていない。
瞑目した。
すると、物心ついた少年時代から今日までのことが、それを千里の駒に乗って見て来るように頭に映った。
それは非常に長い時間を要するかのようであるが、事実は一瞬の呼吸のうちに過ぎない。死なんとする刹那、人の生理は、異常な機能を働かせて自己の通って来た全生涯に、平常の追想に似た訣別をなすものらしい。
「悔いはない」
信長は大声で云った。
そして眼をひらくと、四壁の金泥と絵画は赤々と燦いていた。格天井の牡丹の図も炎であった。
一声、悔いはないと、外にまで聞えたので、蘭丸はすぐ駈け入って来た。白綾の小袖は鮮血を抱いてすでに俯っ伏している。蘭丸は武者隠しの小襖を引いて柩へ納める如く信長の屍を抱え入れ、ふたたび静かにそこを閉めて、床の間から退がった。そして彼もすぐ屠腹すべく短刀をにぎったが、なおその室がまったく焔と化しきるまでは、らんらんたる眼をくばって信長の屍を守っていた。
ひとりの卑怯者もいなかった。ひとりの死汚い者も出なかった。悉くみな信長に殉じた。外泊していた者まで駈けつけて来て、主君の側に忠誠の枕をならべた。
昨夢一燼灰
枕頭鳥不啼
さいかちの木の藪へ逃げこんで辛くも難をまぬかれた寺僧のひとりは、茫然、口のなかで呟いた。
男女を合わせて、侍童から厩中間の端まで加えれば、信長の扈従百余名はいたはずであるが、本能寺全伽藍、ただ見るぐわうぐわう燃える一炬となったときは、一箇の人影も、一声の絶叫もなかった。火は水の如く寂たるものだった。
百霊の痛恨は思いやられる。悲惨はいうもおろかである。さはいえまた、極まりなく美しい生命の業火よとも仰がれた。
ただしその炎へ身を挺しなかった人々もないことはない。それらはもちろん武門以外の者に限られていた。本能寺常住の老僧や庫裡の僧たちは逸早く禍いをまぬかれた。明智勢の方でも寺僧を殺戮する意志はないので、僧形の者と見れば、むしろ積極的に脱出を援けたのである。
あわれなのは女達だった。火とともに信長から「落ちよ、逃げよ、女どもに仔細はない」と追われるように急かれても、彼女たちにはここを遁れ出る道があろうとは思えなかった。寺僧の群れと一緒に明智軍の中を駈け抜けても、武者輩は婦女子になど目もくれなかったであろうが、怖ろしくて近づきも得ず、ただ火の下を逃げ惑ったのはぜひもない。
これは、後に分ったことであるが、それでも彼女たちの大部分は、一命を取りとめ得ていた。
火が鎮まって後、池の中からぞろぞろ這い上がって来たのである。被衣やうちかけなどを濡らして頭からかぶったまま、蓮の如く池の中に浸って、焼け落ちる伽藍と信長の終焉を目のあたりに見つつ、
(この世のことか)
と、茫然、火の粉の下に半ば自失していたものである。
やがて一纒めにされて、明智勢の手で拉し去られた女たちの中には、阿能局なる女性はいなかった。ほとんど奥仕えの侍女や雑婢たちに過ぎない。それゆえに、阿能局なる女性が信長の側にいたかいないかすら疑問視された。当時のうわさはそれを悼み合っても、名は伝説に付されて証すべきものも後にない。
滑稽なる道化者が、この中で独りその愕きを慎みなく踊って見せたのは皮肉である。それは信長の愛僕であった例の黒奴の黒助であった。彼は弥助という日本名までもらっていたが、日本の武将と武将の変乱に殉じる理由は毛頭ないし、当人には何が何だか分らない出来事にちがいない。何処をどう逃げたか、横ッ飛びに駈けて、近くの南蛮寺へ飛びこんで行った。
折ふし師父カーリオンも、そのほかのばてれんも、その朝の鐘や祈祷もわすれ果てて、みな二階の露台に立ち並び、本能寺の火事を見物していたところだった。すぐ門前の往来を駈ける騎馬武者や避難する貧民の群れなども、南蛮風な柵の外に影絵のように眺められた。
例外な存在者としては、ほかにもう一名あった。婦女子でもない、外国人でもない、堂々たる男子である。
昨夜、本能寺に泊った客、博多の神谷宗湛だった。
宗湛が眠りに就いたのは、信長よりもおそかったはずである。席の後始末、道具の片づけなどをすまし、臥床に入って間もないことだったにちがいない。
何はともあれ、彼の身辺へも矢弾が飛んで来たろうし、事態の重大も直感したろう。だが、この胆太い海外貿易家の若い博多町人は、
(ほう、これは大浪だ。凡の暴風ではないぞ)
と、呟くかのような眼をして、衣服を着、帯をしめた後も、寝床をたたんで、しばらくは一室の中に坐っていた。
そのうちに、明智衆の謀叛と聞え、とたんに火の手を見たので、
(これはいけない)
と、思ったらしく、自分の泊っていた南坊から長い廊橋を駈け出した。
武者にもぶつかった。信長の小姓ともすれちがった。あやうく矢風にも掠られた。
二度ほど、物につまずいて、勢いよくころんだ。べとりと掌を血の中へ辷らせた。気づいてみると、よろい武者と小姓衆のひとりが打ち重なっている。
死者のすがたが眼に映ると、宗湛はみずから辱じた。
自分は武門でない。ここで斬り死にする任はない。恩顧のある信長に対して義をもって殉じるよりも、なお価値の高い使命が、町人にはべつにある。だからここを遁れ出ることは不義でも恥でもないが、戸惑いうろえたて逃げたといわれては尠なくも博多町人の不名誉である。何のため日頃、茶道などに心入れしているかともいわれては、茶人の名折れともふと思った。
そこまで、駈けて来たのは、ゆうべ深更まで信長と語り合っていた茶席の広間へ行こうとしたのであるが、そのときまでは、ただそこに置いてある自分の道具のひとつが惜しかった心理に過ぎなかった。けれどこう意識してから後は、正しくべつな理由をもって、彼はそこの座敷へ入っていた。
近くの廻廊では、戦っているし、ふた間ほど先の部屋まで火は移っていた。それをよそにして彼は床の間の前へ立った。信長の乞いに委せて遠く博多から携えて来て鑑賞に供えた家伝来の幅、牧谿の遠浦帰帆之図は、たちこめる煙の中にも、名画の気品をすこしも譟がしてはいなかった。
これを失うことは自己の一財を失うというような小さなものではなく、ふたたび生るるなき名画と国の宝を失うものである。宗湛は慥とそう意志しながら静かに壁間の懸物を外して巻き、箱にまで納めて、それを小脇に持った。
人心地もないかの如く、先を争って遁れ出て行く寺僧の群れも見たが、彼にはどことなく何も危険はないという信念があった。──で、悠々と、明智衆の剣槍を掻きわけて、惣門の外へ通ってしまったのであったが、彼の確信に過りなく、何の危難にも遭わず、ひとりの武者にも咎められなかった。
宗湛はその足ですぐ三条の茶屋四郎次郎の家へ行った。
「おはよう。御主人はもうお目ざめですか」
四郎次郎の家族たちはみな家の外へ出て、本能寺のほうに立ち昇る黒煙を眺めていたので、まずこう問うと、
「おや、宗湛さまですか。どうぞお上がり下さいまし」
主の弟夫婦があわてて奥へ告げにゆく。
この辺に住む者はまだ詳しいことを知らないらしい。つい目と鼻のさきながら、ただの火事かのように見物していた。近くの小橋だの河原に具足をつけた明智方の哨兵が立っていたが、それも本能寺にある信長の警備の兵と考えて不審に思う者もないらしい。
「いえいえ。今朝はちと急ぎますから、お庭口から通させて戴きます」
宗湛は庭から入った。ここの主の茶屋四郎次郎もいわば自分たちと同業の海外貿易家のなかまである。茶屋の本店は堺にあり、堺の納屋衆の一人であるが、多くは京都に住んで、加茂の清流に臨む閑雅な寮で、余生を楽しんでいる閑人かのように表面は見えるが、実は政治の中心地にあって、武門や堂上に接するためのここは支店ともいえる住居なのであった。
庭へ通ると、その四郎次郎は縁先で草鞋を穿きかけていた。ふと、宗湛の姿を見ると、いきなり大声で先から云った。
「や。驚いたじゃろ、宗湛どの」
「いや、驚きましたよ。えらい所へ泊りあわせて」
「まったく、えらいことになったの。天下はどうなるか、ちょっと先が知れなくなった」
「もうご存じでしたか」
「いま知ったのじゃ。里村紹巴から使いをよこしてくれたので」
と、紹巴の文を出して見せた。
「して、御主人には、これからどちらへ?」
「泉州まで行きます」
「御本宅へ」
「いや、ちと……」
と、四郎次郎は云い濁しながら、よほど先を急ぐとみえてもう立ちかけた。
宗湛は携えていた遠浦帰帆之図の箱をそこへさし置いて、
「ご迷惑でございましょうが、これをしばしお宅へ預かっておいて下さいませぬか。実は私もこれから中国まで急に下りたいと思いますので」
「ほ、中国へ」
四郎次郎はあいての顔を見た。
にこと、うなずいて、
「ええ、私は中国へ急ぎます。あなたは泉州まで。──そこまで御一緒に出かけましょうか」
家の者に草鞋を乞うて、宗湛もすぐそこで旅装をととのえた。
徳川家康は、その後、京都大坂を経て、いまは泉州附近に滞留中と聞えている。茶屋四郎次郎は平常から家康を将来の人と見て接近し、常に何くれとなくその恩顧もうけていた。
中国にはいま誰がいる?
ふたりは不問不語のうちに、次代の期待をべつの人間に賭けていたのである。そしてそこは一緒に出たが、淀附近まで行くと、
「では、ここで」
「途中、気をつけたがよい。いやお互い様に」
と、西と東へ袂を分った。
この朝、明けかけた空は、ふたたび暗くなった。本能寺から立ちのぼる煙は全市の上を蔽い、町筋は人影ひとつ見えず、蕭殺の気にみちていた。
凝然、うごかざる兵二千騎は、堀川の堤に集結したまま、ひとしく一天の黒煙を仰ぎ合っていた。
光秀を中心として、ここに帷幕している荒木山城守、奥田宮内、諏訪飛騨守、御牧三左などの諸将も、
「吉左右はいかに?」
と、先手の情勢を刻々に案じながら、まさに、かたずを呑むの思いで、伝令の騎馬を待つのであった。
すでにその使番は二度までもここへ、
──お味方は築土をこえ、一斉に御堂内へ雪崩れ入って候。
と伝え、すぐ後からまた、
──全殿に火を放け、右大臣家の側衆もあらまし討ち取り、当の御方の御首を挙ぐるもやがてのうちに候わん。
とも報じてはいたが、それ以後の伝令はまだない。
で、本陣の将士は、
「十のうち九つまでは、もうわが軍のものだ。わが事成れり」
という勝色の中にどよめいていたが、帷幕のうちの光秀は、祐筆を側へひき寄せて、次々に書状を認めさせ、それに自身が花押して、また、側臣と何か密議しているなど、多忙と緊張の極に、ほとんど、現も知らぬ容子であった。
それでも本能寺の空に煙を見るまでは、彼も、万一を気づかって、諸将とともに、堤の上に佇んで、眸を一天に凝らしていたのであるが、立ち昇る噴煙を彼方に見、すぐ第一の伝令を聞くやいな、
「よし」
と、ひとり大呼して陣幕のうちに入り、それからは、刻々の戦況よりは、べつな方面に向って、大きく頭脳をはたらかせていたものである。
ここにおいての味方の勝ちと、信長の死とは、もう決定的なものと観てよい。それに顧念しているにはあたらない。
主将の頭脳は、より大局に対して、間髪を措かずに、第二のそなえを天下に布く必要がある。この勝利を決定づけ、この大機を政治づけるためにである。
遠くは相州小田原の北条家へ。
四国の長曾我部元親へも、彼はすでに、この帷幕から書簡を持たせて急使を立てた。
いうまでもなく、内容は、
(──天、信長を討つ。呼応して起たれよ。ここにおいて協力あらば、後日共栄あらん)
という檄である。
泉州鷺ノ森の本願寺一門、伊賀上野の筒井順慶、山陰の細川藤孝、その子忠興などの親族から、近畿のこれと思う有力者には、悉く飛檄した。
特に、大軍と思う先方には、光秀自身、筆をとって書いた。いま秀吉と対峙している中国の毛利家にたいして、直接、毛利輝元へ宛てて、その檄文にもいちばい想を凝らした。
「原平内と、雑賀弥八郎を呼べ」
持たせてやる使いの者まで、彼自身が名ざして、数ある家中のうちでも一かどの士と恃める男を選んだ。
原平内という士は、もと山中鹿之介の部下で、尼子再興のため、光秀を介して信長へ働きかけ、以後久しく明智家へ寄っていたいわば客臣ともいえる筋目の者だった。
が、尼子一族も主人鹿之介も、中国の戦いに先駆して、織田勢の至難な先鋒をつとめていたにかかわらず、ひとたび毛利の大軍が、その孤塁をつつむや、信長の令は、前後の懸引と利害の大小をにらみあわせて、鹿之介たちのたてこもっていた前衛基地上月の城に、秀吉の救援をとどめ、みすみすそれを敵中へ捨児としてしまった。ために、尼子氏は絶え、鹿之介も死んだ。
そのときの織田方の仕方を、ゆるすべからざる不信義、また無情なりとして、以来、原平内の信長にたいする恨みというものは骨髄に徹していたのである。
いま光秀が、その平内を帷幕へ招いて、
「これは毛利殿へあてた重要な密書であるが、そちならばと見込んで申しつける。すぐ大坂へ出て、海路芸州へ渡り、同所の杉原盛重どのの手を介して、毛利殿へお取次を乞え。一日一刻も争うぞ。いそいで立て」
と、いいつけると、さっきから本能寺の煙を仰いで、右大臣家の末路こそ心地よし、と狂喜していたほどな原平内は、
「身の面目」
とばかり勇躍して、すぐここの陣中から大坂方面へ急いで行った。
しかしこの大事を託すに、光秀は彼一箇の使いをもって、万全なものと、安んじてはいなかった。
彼の出たあとですぐにまた、同文の書状を、雑賀弥八郎にさずけ、
「陸路、潜行して、これを毛利家へ届けよ」
と、命じた。
摂津から、備前までの間、いま陸路の交通は、秀吉の軍に扼されている。海路芸州へ行くよりは至難中の至難といわねばならない。
「死を賭して果しまする」
弥八郎もまたすぐ本陣を離れたが、彼は途中で姿を変えた。その変装ぶりは彼の知人と出会っても分らないほど巧妙であった。すなわち竹の杖の中に密書を秘し、盲人となって、摂津から先は夜も昼もとぼとぼ歩いて行ったのである。光秀が特に彼を選んだのは、雑賀弥八郎は、そういう潜行には打ってつけな隠密組の逸材だったからである。
一方に戦い、一方に政治し、檄の文章や使いのことにまで、こうして緻密な頭脳をはたらかせていたので、光秀の面色は今暁、京都に入るまえの凄愴な眉から、さらにいちばいの必死と「われにもあらぬ」ものを加えて、側へ寄るのも怖いような形相となっていた。
──が、自身は努めて、平静にあろうとするもののように、語気は至ってしずかに、
「まだ左馬介光春から、次の使いはないか」
と、心ひそかに信長の首級を確実に挙げたかどうか、たえず一縷の気がかりとしているようであった。
信長の長子信忠の、その暁の愕きこそ、思いやらるるものがある。
──時刻をやや遡って、一転、ここで彼の宿所妙覚寺へうつる。
朝まだほの暗い一天にただならぬ鼓や喊の声を聞いて、信忠たちが刎ね起きたときは、すでにここも明智勢の囲みのうちにあったことは、本能寺と変りはない。
しかしここには、本能寺よりも多くの手勢が屯していた。約五百六、七十人の兵力はあった。忽ち明智謀叛と分り、敵近し、とも聞えたので、その騒ぎは言語に絶したものだったが、それでもまたたく間に全員戦闘の部署につき、
(ここで防ぐか、斬って出るか?)
の信忠の命を持っていた。
いうまでもなく、明智の主力は、本能寺へそそがれている。妙覚寺の兵力は本能寺以上とは事前に知れているが、ここへ向けられたのは明智光忠の第二軍で、その兵数は、第一軍よりはるかに少ない。
(右府の御首を挙げれば、直ちに援軍を割ち得る。それまではただ信忠を遁さぬことを旨となせ)
光忠が光秀からうけた作戦はこうであった。必死の兵六百余人がいのちを振りかざして、一角の突破に邁進して来れば、その約四倍はある光忠の軍といえど、水も漏らさぬ包囲はなかなか保し難い。
で、明智方でも、ここの攻撃には、本能寺のような急襲猛突をとらなかったため、信忠以下は驚愕のうちにも、なお鎧具足に身をかため、前後の策を議するいとますらあった。
議といっても、この期に、区々な意見の出ようはずはない。
「本能寺へ」
「何よりは、信長公の御身を」
と、そこへ合流して、ひとつに守りを固めた上の思案と、信忠以下、全軍は即時に、ここを捨てて本能寺へ急ごうとしたのである。
だが、それほどに急いだようでも、事実においては遅すぎていた。──信長や信長の扈従の面々などは、具足をつけるいとまはおろか、太刀や槍を取る間もなく敵とまみえていたくらいだった。──いかに距離は近いにせよ、ここの人々が、具足をまとったり、隊伍を整えて駈け出ようとした時では、たとえ駈けつけて行っても、時間として、信長を救うべき機はすでに逸していたものといってよい。
この迅速を欠いたのは、信忠の罪ではなく、ここに却って六百余という兵数があったための遅れである。六十人の兵が狼狽するよりは六百の兵が一度にあわてる混雑のほうが大きい。六十の小人数ならば裸でも猪突して行ったかもしれないが、六百の軍なるために、武装をととのえ、隊伍を成し、なまじ軍隊としてうごき出したために、時遅れたのはぜひもないことだった。
かくて信忠とその将士が、今し妙覚寺を発せんとしているとき、彼方から十人たらずの人影が、乱髪蒼面、各〻血に濡れて駈けて来た。本能寺に入ろうとして入るを得ず、ついにここへ落ちて来た所司代の村井春長軒父子とその家来であった。
すでに本能寺は、敵の鉄桶の内であり、信長の一身を、絶望のほかなきものと、春長軒父子から聞いて、信忠は、
「無念」
と、唇を咬みふるわせ、
「大不孝の子とはなったか……」
と、悲涙をたたえた。
「中将様。お気を慥とお持ちあそばせ。お気をたしかに」
誰かに、うしろから抱き支えられて、彼はそのとき、それを聞くとともに、よろめきかけていたことを自分の身に知った。
同時にその喪心を強く反撥していたのも彼自身だった。
(信長の子だ、織田信長の子ではないか。三位中将信忠ともあるものが、女々しく哭いているときではない)
しかしまた、彼方の空の黒煙と火を見ると、彼の脳裡も狂気せんばかり燃え熾った。あの煙の下、あの火の下に、なお父やある。父や亡きかと。
あたりの土塀や梢やまた路面などへ、もう敵から撃って来る小銃弾や矢が異様な物音をあげ始めている。彼を囲む諸将は、楯となって、信忠を守りながら、
「このうえは早、ぜひもありませぬ。血路を斬りひらいて安土へお急ぎあるこそ、万全の策と思われます。安土へだにお入りあれば、あとの手段は如何ようともつきましょう程に」
と、口々にすすめた。
まだうしろから支えている一武将の手を、信忠は腹立たしげに振り払って云った。
「父の生死もたしかめ参らせずに、子としてここを一歩でも去れようか。──しかもかくばかり謀った明智が、むざと信忠を通そうはずもない。わが武門と、子の道とは、ここで戦えるかぎり戦うしかない」
さらに、きっと振りむいて、
「備えろ。敵は近い」
と、全将士へ向って叫んだ。
彼の気魄に励まされて、一戦の決意はすぐ一致した。とはいえ、この土塀ひとえの妙覚寺では防ぐよしもない。すぐ間近には二条城がある。二条城こそ、たてこもるには屈強と信忠にすすめ、諸将は先にそこの門へ向って駈け出した。
妙覚寺と二条御所との間は、外濠の広い道一すじ隔てているだけだった。
かつては、ここに室町幕府の営があった。足利義昭を追放した後、信忠の父信長が、旧館を破毀して、新たに造営を加え、入洛の折は、ここを宿所としていたこともあるが、いまは恐れ多い御方の御所となっていた。
正親町天皇の皇子、誠仁親王がここにおいで遊ばすのであった。──で、信忠の臣は恐懼しつつも、まず御門へ事情を訴え、おゆるしを仰いでそれへ混み入った。
この移動を邪げんとするもののように、すでに外濠の道路の一角では、明智勢と殿軍のあいだに血戦が捲き起されていた。
が、折ふし続々と、市中の味方でここへ駈けつけて来る者も多く、小勢の織田方にとっては尠なからぬ気勢を添え、そのあいだ信忠も無事に二条城へ移ることができた。
本能寺が手狭のため、市中の宿舎に、わかれわかれに泊っていた麾下の士もかなりあったのである。
信長の馬廻り衆、小沢六郎三郎は、烏帽子屋町に泊っていた。その明け方、本能寺の変を聞いて、刎ね起きるやいな、
「不覚不覚」
と、われとわが身を叱りながら、具足をまとい、表へ駈け出そうとすると、宿の亭主も家人も、
「もうあの通りな火の手で、信長公も御生害あそばし、御近習衆もひとり残らずお討死と沙汰しております。妙覚寺の方も明智の軍勢がいっぱいで、辻々も通れますまい。ここで犬死なされるよりは、屋根裏へでも隠れておいでなさいませ。きっとお匿い申しますから」
と、日頃の誼みからみな袖をとらえて引きとめた。
小沢は一礼して、
「ありがとう、御好意はありがたく思うが、そう聞けばなおさらのこと、一歩もいそいで信忠卿と一手になって御奉公の最後を尽さねばならない。長々世話になったが、みなの息災を祈るぞ」
袂を払って、うしろ見もせず、往来へ駈け出して行った。
よほど日常から徳望のあった士とみえ、あれよ、六郎三郎様が死にに行くわ、と近所の者までみな表に出て、そのうしろ姿へ涙の眼を送り合っていたという。
このほか、町中の宿舎に思い思いに泊っていた面々には──野々村三十郎、菅屋九右衛門、猪子兵助、福富平左衛門、毛利新助、篠川兵庫などがあった。
猪子兵助や毛利新助などは、古参の馬廻り衆で、すでに桶狭間の合戦頃からその勇名は聞えている士だった。とりわけ毛利新助という名は、その折、今川義元へ槍をつけた殊勲者として知らぬ者はない。
戦場に立てば、これらの人々とて、各〻一かどの部将である。これらの者が、せめて本能寺の近くに泊っていたら、ああやすやすと、明智勢に事を成さしめもしなかったであろうが、いかにせん皆ちりぢりに、そしてまた距離もあった。
で、この上はと、それらのすべての者は、期せずしてこの妙覚寺へ駈けつけて来た。折から、信忠以下、二条城内へ転陣のところだったので、その妨害戦に出た明智の先鋒と、織田方のしんがりとの烈しい序戦に、まず真っ先に、その人々の助勢が大いに功を立てた。
忽ち、その場で討死するもあり、傷を負って敵の中へ捲き込まれてしまった者も少なくないが、かくて大部分の者は、機をはかって、驀しぐらに城門のほうへ退き、最後の刎ね橋を上げてしまった。
妙覚寺にいた信忠の手兵約六百と、市中から駈け集まった約三百余人をあわせて、総数一千の将士はかくてその死ぬ所をこの朝に持った。
明智方では、信忠の手勢が、妙覚寺を脱して、二条城へたてこもろうとは、少しも予期していなかった。
親王の御名において、そこはまったく戦場の外ときめていたものである。
「しまった」
という困惑のいろが、一時明智軍をつつんだ。主将の明智光忠も、
「入れたか。不覚な」
と、先手の妨害の手ぬるさを責めて、敵が城門を固めぬうちにと、すぐ城の三門へ兵をわけて、これを包囲にかかった。
西門、東門、南門の三つがあった。
濠は深く、幅も広い。本能寺のそれとはちがって満々と水をたたえている。どこかに自然と湧水があるとみえて、蒼々と漣たてて澄んでいた。
「いるのか、敵は」
すでにかたく鉄扉を閉じている城門と、濠の距離とを眼で測りながら光忠はつぶやいた。そう疑われるほど、四囲の空気はしいんとしていた。
すると城内の石倉の上の櫓から一本の矢が濠をこえて来た。並河掃部が拾い取ってすぐ光忠へ捧げに来た。矢文が結いつけてあったからである。
三位中将信忠の名をもって、寄手にしばしの休戦を申し入れて来たものだった。
要旨は、
──当御所には、親王様若宮様がおいであそばされる。暁の御夢をおどろかし奉ったことすら恐懼にたえないのに、このままわれらが合戦に及ぶにおいては、金枝玉葉の御身にいかなるお怪我や思わざる不敬あるやも測り難い。
依って、まずは双方とも、しばらく弓矢をひかえ、宮様方を他へ移し参らせたうえで存分、いさぎよく血戦いたそうではないか。寄手の意嚮は如何に。
というのであった。
「もとより異存のあるべき」
と、光忠はすぐ返答に及ぼうと思ったが、並河、藤田、松田などの幕将たちの言を容れ、
──しばらく待て。
と城中へ矢文を返しておいてから、すぐ使番を走らせて、堀川の本陣にある光秀に意見を訊きにやった。
そのとき光秀は、初めの陣地をうごいて、二条の近くまで移っていた。
本能寺は、落去したので、いまはただ、ここあるのみと、同時に令を発して、本能寺方面の人数を割いて、すぐ二条城へ向い、光忠に協力せよとも伝えていたところだった。
信忠の申し入れを読むと、
(さすがは信長の子だ)
と、言外に感動をあらわしながら、快諾すべき旨を伝え、かつまた、
「宮家の御移徒ある折には、いささかのあやまちもなきように、軍の端々にいたるまで充分に触れ伝えおけよ」
と、戒めた。
命をうけるや、光忠は直ちに、その旨を城中へ返答した。時、ようやく卯の刻ごろ(午前六時)本能寺の煙をうしろにして、その方面からの軍勢も続々これに加わり、濠の水の繞るかぎり明智の兵馬を見ぬ所はないまでに包囲も成った。
やがて、休戦の不気味なしじまの一瞬を。
親王、若宮の御ふた方、女官扈従を召しつれて、お心もそぞろに、東の御門を出でられ、畏くも内裏まで徒歩でお移りになられた。
唐橋までは、城中の将士がお守り申しあげ、濠の外から先は、明智方の将が護衛して、甲冑の中をお通り遊ばして行ったのである。
血まなこの将兵と剣槍のあいだを女官たちや、まだおいとけない若宮には、いかばかり恐ろしげなお気もちで通られたことか。
が、この朝、父信長を失い、また自身の命も目前に迫っている際に、信忠はよくこの処置に沈着であったものといってよい。
敵将光秀も、さすがは信長の子と感じたらしいが、死せる信長も、まだ漲りつつある余煙の天から「よくした」と、ながめていたかとも思われる。
織田氏族葉の一将校──まだ生年二十六歳に過ぎない信忠に、この沈勇の処置と、臣子の道あきらかな態度のあったことは、いったい何によるものだろうか。
日頃の教養か、ゆうべの茶道の心態が役立ったのか。それとも夙に中国の役に参陣して、秀吉などと共に多少生死の境を味わった戦陣生活の賜ものか。
そのどれもみな彼を教養したものの一つではあろう。けれど全部とはいえない。むしろ根本的なものは、彼の生れた家の家風と血液にある。
ひとたび旗を中原に立ててからの彼の父信長という人は、いずこに戦っても、一戦果せば直ちに上洛して禁門に戦果を奏し、国のよろこびあれば歓びを闕下に伏奏し、日本の武威ととのえば馬揃えをなして上覧に供し、四民に示すに禁裡の造営をもってし、その石を運ぶにはみずから石に乗って群集に石を曳かせ、麾を振り、そして事実を見せて、大君に仕え奉ずる臣子の楽しみと歓喜とを大衆に教えもし、自身もしかと信念していた人であった。
時人の一部には、いや後の或る史家なども、彼のそうした行動をさして、信長の勤皇は、人心収攬の一策であり、政治的に皇室の尊厳を認めて、功利的にそれに努めたものであるなどという評を下している者もあるが、これは政治経世の業を視るに、すべてを時の司権者の策であり、理智の略でありとする利口者の見解であって、日本の臣民大衆には、君臣ひとつのながれもなく、それに因る情念もなしとする謬見に過ぎない。もし信長の勤皇が、彼一箇の功利や方便のものであったら、いかに彼が御所造営のため、みずから石に乗って麾を振っても、その巌をうごかす四民の力は民衆の中から出なかったにちがいない。またその庶民が、彼とともにあのように歓び歌うわけもない。
その信長の勤皇はまた実に先代の信秀から血にうけたものであった。──いま信秀の孫信忠が、その血液の命ずるまま、臣子の道を正しく踏んで誤らなかったのは、まさに織田三代の家風であり、武門の一臣として、ただ自然にありのままに、日頃の日本心をあらわしたものに過ぎない。
閑話休題。──ここで少しばかり作者の駄説をゆるされたい。
いったいに後の史家が、戦国期の武門の人々をさして、多くが、国家観念の欠如を云い、勤皇精神に似たものはあるが、真の勤皇はない、統一のための方便であり、政治的仕組みの上になしたもので、彼らのうちにあるのは、その封建的主従の道義のみだとなす説が強い。
毛利元就も然り、上杉謙信も然り、本願寺も然り、みな皇室に献金もし、御造営にも手つだい、綸旨にも恭順している。が、それはこの時期の傾向であり、ひとり、信長の業でもなく、ただ信長はより徹底し、一貫して、それへ積極的につとめ、以て、統一の中枢となしたものであるともいう。
こういう一時の史家の流行説は、戦国武人のために、その寃をここに雪いでおかねばならない。なるほど室町時代を通じての皇室への仕えの怠りは言語道断なものがあるが、信長以後、黎明期の時人は、あきらかな日本的自覚と国家観をすでに呼びもどしていたことを、自分は信じて疑わないものである。
現わされた行為をもって、政治的意識によるとか、経世の方略であるとかいって片づけてしまっては、臣子の赤誠はあとかたもなくなってしまう。彼らの尊皇は、世をあざむくの偽善であるということにもなる。
史家はなぜもっと深く行為の底を流れている本然の血液を観てやろうとはしないのか。伝統すでに二千年、ときには建武の前後、室町末期のごとき、世風の壊敗、人心のすさびなど、嘆かわしい一頃はあったにせよ、皇室への臣民の真心にはかわりはなかった。幕府の為政者にその久しい妄念があれば、その間は、民草の家の一戸一戸のうちに、村々の神社の森の一叢一叢に、その不朽をちかう精神は無言に守られていたのである。
御所の造営とか、何かの御仕え物の献納などでも、それが元就とか、謙信とか、信長とか、時代の代表者によってなされると、史上に記録もされ、批判的な眼で、あらぬ意思まで忖度されたりするが、世にも聞えず、記録もされぬ無名の民草の奉仕にいたっては、絶え間なく限りなく、世代を問わず続けられていたものと私は観る。
それらは皆、一升の小豆か、一籠の蔬菜か、或いは一本の木材に過ぎないものであったかもしれないが、名もない田舎の郷士だの田野の民が、伝手を求めて、ひそかに御所へ献納を希い出ている例も多い。
信長の父信秀が、伊勢の神垣へ御仕えしたり、禁裡への奉仕につとめたのも、要するに、こういう田野の人々と同じ心のものだった。日本の家に伝えられている家風のものを、家の主として心がけから行為へ現わしたものにほかならない。
信長もまた、そうした家から生れ、この民草の中から出た一民である。形の大小は論ずるに足らない。彼の勤皇も一民の勤皇だった。元就も然り、謙信も然りである。この国土と家の家風をうけた子が、なんで武権政争の事とそれとを混同しようか。勤皇はただそれを奉じ得た身のよろこびである。
──たった今、主人信長を弑逆した光秀すら、信忠から書を以て、親王の御移徒を仰いだうえで決戦せんとの申し入れには、欣然、応諾の旨を答えている。いかに私闘混騒、生死を賭けている中でも臣子の大道たるこの一事だけは見失っていない。
さればこそ光秀は、この日から十一日目の後、小栗栖の山村で、土民の竹槍をうけ、死なんとするや、部下の者に、筆をとらせ、
順逆無二門 大道徹心源
五十五年夢 覚来帰一元
と、最後の一語を吐いたといわれているが、まさに彼にとっては、本能寺の挙は、順逆に問われる問題ではないとしていたものであろう。
信長も一臣子、自分も一臣子。真の大義と、一臣の大道とはまったくべつにありとなして、独り天に誓っていた悲心があったにちがいない。
だが、すでに主を殺す。これは、武門と武門の道義がゆるさない。いかに情を酌むも民衆もまたゆるさないことだ。故に、この道義と秩序を破壊したひとりの民を裁く者も、また民の中なる者だった。
休戦の約は解かれた。
戦闘開始。
期せずして、一鼓の下、城中からも、寄手からも、わっと武者声がわいた。
とき、すでに陽は高い。夏の朝だ。朝からかんと照りつけている。
城兵の一隊は、つい今し方、親王のおわたりあった唐橋の大手門から、槍をそろえて突き出して来た。
これは、そこにあった藤田伝五と並河掃部の両部隊が、攻口を争って、混み合って来たため、その機先を制した反撃であった。
──が、城兵も寄手も、顔を見あうと、唐橋の中ほど約三間ほどを、まったくの空虚にして、双方とも、ふいにその出足を、はたと止めてしまった。
そして、束ねたような無数の槍の穂だけが、ぎらぎらと陽を刎ね返し、その燦光で武者たちの塊りもけむるばかり、ただ、にらみ合っていた。
「…………」
「…………」
声なき中に異様な声がある。しかもその最前列の武者には、天地みな音もないような心地がした。いかに場数を踏んだ武者でも、この一瞬には耳に音なく、眼に何ものも見えず、胆はすくみ、具足で固めた脛までも、わななき顫えるのをどうしようもないという。
しかし、もとよりそれは短い短い一瞬のことである。たとえ顫えている踵でも、一寸でも退きはしない。じりじりと前へ出ている。勿論、彼も刻むように、足の先で近づいてくる。
「うわうっ」
と、ひとり誰かが、怒濤の中へ飛び入るように吠えて、だっと出る──。間髪を入れず、だっと味方の四、五名も続く。
それに気押されて、敵の前側の列が、ぐっと凹んだせつなが、血の吹きとぶ途端である。敵たりとも、凹んだきりではいない。すぐ逆巻く波がしらを作って、蔽いかぶさるようにぶつかってくる。
橋上すでに渦巻いて、血は欄にとび、濠にながれ、死屍を踏む者、また死屍へ重なり合うとき、明智方は彼方の濠ばたから、銃をそろえて城兵を狙撃し出した。
「踏みこめ」
「突きすすめ」
彼を圧して、明智勢は城門の下までむらがり駈けた。
城方の将士は、力尽きて、その中へ追い込まれたが、つけ入る明智の兵を、せつなに断つため、どんと咄嗟に鉄扉を閉めたのである。
ところが、なお城門の外にふみとどまっていた織田方の武者が四人ほどあった。その中に小沢六郎三郎もいた。うしろ見しない者どもではあるが、城門を内から閉められたので、まったく敵中に置き去られた運命とはなった。しかし彼らは寧ろそれを強味とするかの如く、橋上を突破して、ついに敵のまっただ中へ躍り込み、行くところを血にそめた。
わけても小沢六郎三郎は、濠ばたに立って指揮に夢中になっていた明智の一将を目がけ、たしかにその敵へも一太刀与えた上、八方から寄る槍の中に、男らしい戦死をとげていた。
城中の兵は、唐橋門の下へむらがり寄る敵へ、瓦を投げ、石を飛ばし、小銃弾を集中した。
局限されている攻口なので、明智の将士たちは、おびただしい屍をそこに積んだ。ついには攻めあぐねて、
「立ち直れ。立ち直れっ」
一たん橋上から後退すると、織田兵はすぐ城門をひらいて、死者手負いを踏みこえ踏みこえ、槍をそろえて突き出て来た。
敵味方おたがいに、かつて安土に在る日には、顔も見知りあい、友の交わりをなしていた仲の者も多い。それだけになお、この戦いは切っ先から火を降らし、槍を折り太刀をくだき、まさに、肉親に怒る肉親の格闘のごとき、凄まじいものを現出した。
明智光忠は、左の肩のあたりに、一すじ矢を負った。駈けよる郎党に、矢を抜かせながらも、混戦中の味方を声もひしげるほど、励ましていると、猪のように味方を掻き分けて来た一名の勇士が、
「日向の甥よな」
と、いきなり突いて来た。
深股を突かれたので、横ざまに倒れた。二番目の槍は、顔へむかって来た。その千段のあたりをつかんで、刎ね起きようとしたとき、彼の旗本が、駈けあつまって、その敵を滅茶滅茶に斬り伏せた。
自分の身から血があふれ、敵の血も頭から浴びてしまったので、光忠は全身紅になってしまった。気がつくと、部下の兵は、自分の足をもち、頭をささえて、どんどん陣外へ向って駈けてゆくので、
「どこへ連れてゆくかっ。わしをどこへ運ぶかっ」
と、叫びつづけた。
従いて来る二、三の旗本たちが、口をそろえて、
「お気をたしかにお怺えください。傷は浅うございます」
というと、光忠は歯がみをして、なお暴れながら、
「ば、ばかをいえっ。これしきの傷が何だ。戦場へ返せ。返せと申すにっ」
と、もがいた。
けれどもかなり重傷だったので、大地へこぼされて行く血しおとともに、その声も次第に弱まった。
光忠が退くと、光秀はすぐ本能寺を引き揚げて来た四方田政孝をその手の大将に補充して、
「時移すな」
と、そう急攻撃を命じた。
政孝は、大手へ臨むとすぐ、
「そこらの木を伐って、濠の中へ抛りこめ」
と、士卒を督した。
六、七十本の木材が濠の中へ落された。それを筏に組んでいるいとまもなく、明智の猛士たちは跳び渡って、石垣の下へゆく。そして石垣の隙に、足懸りを打ちこんでは、上へ上へと攀じのぼった。
しかし、ここの石垣はふつうの石垣組とややその線がちがっている。二条城の普請の当初、光秀も奉行の一員として加わっていたので、彼は独特な築城技能をもって石垣の縦の線に、弓なりの反りをもたせて築いてあった。
そのために今、明智の士卒は途中までは登ってゆけたが、ようやく上の近くまで達すると、自分の体の重量でみな下へ落ちてしまうのだった。
光忠に傷を負わせて、同時に斬り死にした織田家の士は猪子兵助だといわれている。村井春長軒も、唐橋門の下で討死にした。
しかし明智勢がもり返せば、また忽ち鉄門を閉めてしまうし、石垣は所詮、攀じのぼる術もないし、寄手はあせるほど犠牲を増し、また攻め疲れるのみだった。
裏門の搦手でも、同じような戦況がくり返されていた。かくて午近くなるほど、暑さも加わり、石垣も焦げ、甲冑も焦げ、こぼるる血しおもすぐ黒くなった。
「ここに引きよせられたまま、日を過しては一大事である」
光秀は焦躁した。馬を曳かせて跨がると、自身、本陣を出て、濠ばたを半巡した。たちまち城のほうから彼を狙って小銃弾や矢が集まってくる。左右の者が諫めるまでもなく、光秀はすぐ引っ返して来て、
「城の北隣りに見ゆるあの大屋根は、たしか近衛殿のお館であったかと思う。三左衛門、一走り走って、御挨拶いたして来い。しばしお屋根を、拝借いたしたいと」
御牧三左衛門をそれへさし向けるとすぐ、荒木山城守、奥田宮内の二将に、
「弓組、鉄砲組をひきつれて、あの大屋根へのぼらせ、城内へ矢弾を撃ちこめ」
と、命じた。
この策は、的確だった。そこへ登ると、平城なので、充分、内部へ狙い撃ちができる。城中の兵には、たしかに致命的なものだった。
さだめし驚きもし、迷惑もしたろうと察しられるのは、屋根を借りられた近衛家である。しかもここの当主夫妻はつい昨日かおとといの昼、牛車を打たせて本能寺へ信長を訪ねてもいる。信長とは長年昵懇な近衛前久が住んでいるのだった。
当然、城中からも、矢や鉄砲がそこへ注がれる。双方とも大砲を持たないだけがまだ仕合せである。由来光秀は銃器の研究にかけては、随一の知識でもあったから、坂本や亀山には、その備えもあったろうが、目標が本能寺と妙覚寺であり、こういう攻城戦をなそうとは予期しなかったせいもあろうか、ここの陣中では使用されていない。
だが、やがて城内の一角からまっ黒な煙が揚がり出した。石垣を登るのに成功したか、三門のうちどこかを突破したか、忽ち構えのうちに乱入した明智勢の影が見え出した。
「陥ちる。いや陥ちた」
光秀は鞍つぼを叩いて、こう叫びつつ西門の前まで駈け寄った。もう矢弾も来ない。まさに城兵は逼塞したとみえる。光秀はかたわらを顧みて、
「光秋もかかれ。飛騨も行け」
と、総攻撃をうながした。
西門、東門、南門、すべて今は突破され、混み入った明智勢は、いたる所で、少数の敵を大勢でつつんでは撃つ殲滅戦にかかった。
城内にも一すじの内濠があったが、そこは溝渠のような幅しかない。累々と重なりあう死骸の血が、そこの水まで紅くした。
「信忠卿のお首こそ」
「信忠どのを」
と、ここでもそれを合言葉にしつつ、すでに構えの奥近く迫った明智の将士は、建物へ火を投げてその煙の下を突き進み、或いは、火の中から出て来る者を待ってこれを討った。
信忠は奮戦した。信長の子らしく最後の最後まで戦った。すでに守る一門を破られても、なお血けむりの下を退かなかった。
けれど、福富平左衛門、野々村三十郎、赤座七郎右衛門、篠川兵庫など、みな彼の楯となっては殪れて行った。
「今は」
と、彼も死所を心がけた。
ふり向くと、館の建物は黒けむりにつつまれている。それへ向って、彼が驀しぐらに駈けるのを見ると、団平八、桜木伝七、服部小藤太なども、あとを慕った。
そのほか、遠方此方にいた水野九蔵とか、山口半四郎とか、逆川甚五郎とか、小姓衆や侍たちも、みな煙の内へかくれこんだ。
「玄以、まだいたか」
信忠は、館の中まで従いて来た前田玄以のすがたを認めると、こう叱った。烈しい声で、彼がここに留まっているのをなじった。
「なぜ逃げのびて行かぬか」
「はい」
「はいではない。そうこうするうちに、機を逸しように。……早く去れっ」
「はい……」
「いうことをきかぬやつだ。わしの主命だ。落ちて行ったとて、卑怯とは誰もいうまい」
「せめて、御最期なりとも、見届けませぬうちは、なんとしても、退きかねまする」
「まだそんなことをいっておるか。……死は必定だ。もののふの死にふたいろはない。無益に時を移すよりも、わしのいいつけたことを完うせい」
「……では、これをもちまして」
前田玄以は泣きながら出て行った。あとに残って死すべき人々は涙も持たないのに、生き長らえるべく出て行く者は涙にぬれて行くのだった。
彼のうけた使命は、
(そちひとりは、岐阜城へ赴いて、この急変を家中に告げ、わが子の三法師を守って、後図を善処してくれい)
という信忠の遺命にあったのである。
これほどな中でも、脱け出そうとすれば脱出できるものとみえる。前田玄以はどう落ちて行ったか、ともかく遺命を守って、後、三法師を奉じて清洲へ移っている。そしてなおずっと後年には、秀吉の五奉行の一員の中に彼の名が見える。
玄以を追いやると、信忠はそこに居合う旗本小姓たちの面々へ、
「さらばここで、その方たちも思いのままよい死所を得るがよい。主従は二世という、また次の世でめぐり会おう」
と、別れを告げ、鎌田新介ひとりを従えて奥殿へ駈け入った。
「御生害とみゆる」
家臣たちは、せめてその間だけでも、敵を寄せつけまじとして手分けして口々に立った。そしてその口々の防ぎを最後の奉公としてみな血に伏した。
信忠は奥へ入ると、
「新介。介錯をいたせ」
と、いいつけ、また、
「わしの死骸は、板縁をあげて床下へかくし、すぐ火をかけろ」
と、死後の処置まで命じ終ると、すぐ正坐して見事に割腹した。
主命のままに、鎌田新介は、涙をふるって信忠の介錯をつとめて、その死骸を、板縁の下へかくした。
縁の板を、もとの通りに並べてもなお、
「敵兵に見出されはしまいか? ……」
と、危惧されてならなかった。
煙はいちめんにたちこめてくるが、火はまだ容易に奥殿まで燃えて来そうもないからである。
「あれほど、御自身のなきがらを、厳に敵の目に曝すなと仰っしゃったものを」
彼は外へとび出した。何か燃えつきやすいものを持って来て、自分でここへ火をかけようと考えたのである。
庭づたいに、築山の裏を這って、じめじめした北の隅までゆくと、庭番の者が、日頃に枯れ枝を払って束ねては積んでおいた柴の囲いがあった。新介は何気なくその柴の束把をくずして左右の腋へ抱え込もうとした。
すると、その囲いの中で、
「……あっ?」
という人間の声がした。
見ると、敵ではない。──味方も味方、御一族の織田源五郎長益だった。
戦いをよそに、ただ一人この中に柴をかぶって潜んでいたものらしいのである。この人は、信長の舎弟にあたる者だが、信長とは似ても似つかない「怖がり坊どの」であった。どうして武門になど生れたろうかと、不平ではなく、腑甲斐なき自分をつねに自分で嘆いているおひとでもある。しかし非常に気心がよく出来ている人間なので、信長も愛し、信忠もこの叔父は立てていたが、今暁以来、よほどびっくりしたものとみえ、軍中にも影も見せず声もしなかったので、いずれ逸早くどこかへ逃げたものとのみ皆思っていたらしかった。
「…………」
新介は、気のどくで、その人のすがたへ何も物がいえなかった。くずれた柴をもとのように積み直して、ほかの方へ向いて行った。
──あさましいお人ではある。
彼は心のうちで源五郎殿を蔑んだ。一瞬は唾棄してやりたいような憤りすら覚えた。……が、こんもり茂った木蔭の下の古い石井戸の口をみると、鎌田新介は無自覚に足をとめていた。
「この中に隠れていれば?」
と、彼もまた、われにもあらず命が惜しくなっていた。
──という気持が、ふと、影のように映したとき、彼はもう日頃の武門のたしなみも一切無意義なものにしていた。さながら臆病者のごとく、釣瓶にすがって古井戸の中へ辷るが如く影を沈めてしまった。そこの冷気はいよいよ生の執着をつのらせ、急にわくわくと総身がふるえて来た。
半刻も経ったろうか。もう剣槍のひびきもなく、館もあらまし焼け落ちたかと思われる頃、井戸のふちで明智の兵の声がした。
「や、いるぞ、一匹」
「井戸の中か」
鎌田新介は、南無三と思ったが、飛び出すこともできなかった。上の兵は覗きこんで、
「いるいる。たしかに一匹潜んでいる。どうせ、獣のようなやつだ。なぶり殺しにしてやれ」
三、四本の槍さきが、井戸の中へ逆さに向けられた。どぼんと高い水音を深い闇の底に聞くと、明智の兵はどっと嗤った。「いのち」こそ、ただ捨てどころ一つで、その生涯の美も醜もきまる。末代、その人間も価値づけられる。
鎌田新介とて、一かどのさむらいに間違いなかったろうに、可惜その「いのち」を死に際の寸隙に惑わしめたため、逆臣と世間でののしる明智の部下からさえ、
(獣にひとしいやつ)
と、嗤い蔑まれたあげく、抵抗ひとつできず、刺し殺されて、古井戸の鬼と化してしまった。
けだし人間の本性は、誰にせよ死にたいしては弱い。故に、いさぎよければ美しいものである。またそれを超えた境地が絶大な強さともなるのであった。だからまた、武門といわず、禅門の者も、あらゆる芸能の士も、その生死無境を目がけて、弱い自己をみがきもし、修養にも幾年月の苦行を敢えてするのであるが、これも到底、生半可では、いざという大事なときに、鎌田新介のような醜を演じないとはなかなか云いきれない。
(修行はできている。なんの、死を視ることは生も変りがあるものか)
などと自負している生修行こそ却って往々にして、やり直しのきかない末代までの不覚をとるものである。むしろ平生において自分の覚悟のほどを危ぶんでいるくらいな者のほうが誤りが少ない。それがむしろまったく、雑智や生分別などなく、素朴ありのままな生き方か死に方かである。
けれど、本能寺でも、二条城においても、鎌田新介などは例外な者であった。武門といっても無数なさむらいである。このひとりをもって織田家のさむらい達の名は少しも日頃を辱めてはいない。たまたま、泥土にまみれて汚く踏まれる花はあっても、満山の落花の偉観には少しも関わりないようにである。
同じ日、同じ刻限だが、例外でも、こういう勇壮な、そして麗しい例外もある。
もと、安藤伊賀守の身内で、松野平介という一士があった。伊賀守が信長の不興を蒙って、先年追放されたとき、
(平介は見どころある者なれば留めおけ)
という信長の特旨から、以後領地をもらって一かどの待遇をうけていた。
本能寺変の前日、平介は近郷の知人の家に泊っていた。今暁、乱を知って、宙をとんで駈けて来たが、元より間にあうはずもない。
すぐ妙覚寺へ行ったが、ここの一隊もすでに二条へたてこもり、城内は濛煙につつまれている様子。はや落去の後だった。
「よしこの上は、ここにおいて、最後の戦いをなし、信長公、信忠卿のおあとを慕いまいらせん」
と、妙覚寺の大門の前にただ一名で立ちはだかり、彼方にどよめいている明智勢にたいして、
「やあアい」
と、まず大音で呼びかけ、
「──汝ら、まだ勝鬨をあげるは早いぞ。信長公の一兵まだここに罷りある。乱賊どもの首一束持たぬうちは、泉下の御主君にお目にかかってもあの世で手持ち不沙汰。いざ来い。松野平介の一卜槍うけて末代の語りぐさとなせ」
と、頻りに敵軍をさしまねいていた。
落城の煙を仰いで、濠ばたの明智勢はもう傷口の手当をし合ったり、息休めをしていた。
松野平介の声は、たしかにそこまで聞えている。ときどき、明智の兵は、妙覚寺のほうを振り向いた。
「変なやつがいる?」
とでも思っているのか、たれも相手に立って来ない。
平介は、業を煮やし、味方が寺内に残して行った鉄砲を持ち出して来て、狙い撃ちに、明智の兵を三、四人撃った。
俄然、土けむりが、此方へ向って駈けて来た。そして妙覚寺の大門を包囲したが、まさか平介ひとりとは思わないので、
「油断すな。寺内に残兵がひそんでおる」
と、ひしめきつつも、容易に近づく者もなかった。
平介は、槍を把り直して、最前の大言をもういちど繰り返して、
「冥途のみやげに手頃な首はどれだ。どれもこれも愍れむべき細首。逆に組し、乱の手先に働いて末始終、胴によくつながっている首はあった例しがないぞ。どうせ捨てるものなら潔く松野平介の槍をくらって、せめてもの名残にしろ」
と、らんらんと睨め廻した。
妙覚寺にはまだ敵が残っているという沙汰に、附近にいた斎藤内蔵助利三の一部隊が、すぐ加勢に駈けつけた。
ところが、敵はただ一名で、しかもその一名の敵に、すでに幾人か討たれ、なおまだ仕止めかねているというので、内蔵助利三が、
「いかなる者か」
と、訊ねると、松野平介という者ですとの答え。
利三は驚いた。松野平介とは年来の昵懇だからである。あんな気持のよい男を死なしてはならない。にわかに、旨をそこへ伝えさせて、利三自身すぐそこへ馬をとばして来た。
(なる程、平介だわえ)
と、味方の囲みをわけて馬を前へ出し、まず、
「松野平介ではないか」
と、ふだんの通り呼びかけた。平介は、
「利三来たか。汝なれば、泉下へ伴って、信長公へごらんに入れる首としてややふさわしい。日頃の友とて、今日の悪行はゆるしがたい」
と、きびしく槍を構え直した。利三は苦笑をゆがめて、
「平介にはまだ聞き及びないか。本能寺はもとより、当二条城もはや落去。今しがた信忠卿にも御生害あった。天下はこの半日に一変いたしたのであるぞ。何を血迷うて吠ゆるか。日頃の誼みをもって内蔵助利三が案内申そうほどに、まず御本陣へおざれ」
「なにしに?」
「日向守様に、御挨拶をなすがよい。利三口添えするであろう」
「見損のうたか、斎藤老人。おぬしのむかしの友松野平介はそんな男ではない。一たん流浪なすべき身を信長公に拾われ、今日ある御恩を、何で弊履のごとく捨てられようか。武門とはこうしたものだ。見よ、おれのさいご」
だっと、真っ直ぐに駈け出して来た。そして利三のそばまで、達しないうちに、むらがる敵刃と渡り合って、血けむる中に壮烈な戦死をとげた。
「惜しい。実に惜しい男を」
と、利三にも光秀にも、後までしきりに惜しまれたが、その松野平介も、もし利三に誘われて、明智の陣門に降伏しても、そのいのちはやはり後十日のものでしかなかったであろう。なぜならば、明智そのものが十日の後には亡んでいるからである。
洛中はよく落首が立つ。殊にこんな騒乱のあとに宣伝される。奇蹟的に助かって逃げた織田源五郎長益だの、古井戸で犬死した鎌田新介などは悪しざまに謳い囃された。
その中で、たれか妙覚寺の土塀に、こんな今様めいたのを書いたのがあった。
いのちよく持て
いつくしめ
花とかおって散る日には
さっときれいで
あるように
朝の一ときは、夜のままみな戸をおろして、死の街かのように、ひっそりしていた洛内の市民も、やがて午近くには、いちどに往来へ出はじめて、大路小路の辻々には、かならず人が群れているし、常には人通り少ない道筋まで、日頃の十倍もぞろぞろと人が流れてゆく。
光秀はさすがに民衆の心理を察して、まだ本能寺や二条城のけむりが墨の如く天を蔽っているうちに、全市へ向って、軍令をかかげた。
それによって、市民は事態の真相を知り、愕きもしたろうが、また安心もしたらしいのである。──そして、家々みな戸をあけると、用のない者まで辻にあふれ出し、あちこちの風聞を耳に拾って歩くのであった。
「立たないで下さいっ。歩いて下さいっ。見ていたっておもしろいものじゃない」
「水を撒きますぞ。退かないと泥水がかかりますぞ」
又学舎の門人たちは、門前にたかって覗きこんだり、塀の穴をさがしている弥次馬を追うのに、大汗をかいていた。
「閉めてしまえ、閉めてしまえ。もう怪我人もこれ以上は収容できない」
玄関わきで、べつの門人がどなっている。
見わたすと、なるほど、広い邸のうちは、庭も屋内も、板敷もところ狭きまで、うめき声と、負傷者のすがたで埋まっている。
ここは白河道へ通じる松原の一角で、市民は、又学舎とよび慣れているが、庭園の柴門には翠竹院の板額が見えるし、講堂には、啓廸堂の額がある。
あるじの曲直瀬道三が、その著書「啓廸集」を脱稿したのは天正二年のことである。翠竹院の号はその折、叡覧の光栄に浴したうえ、彼の本邦医学に寄与した功労を嘉したもうて、朝廷から下賜あらせられたものとか、都の人々も聞いている。──で、俗称するは勿体ないとしてであろう、又学舎が通り名になっていた。
「なぜ、門を閉めるか」
その本邦医学の泰斗、曲直瀬道三は、今暁からまだ朝飯もたべていないはずである。上着のもろ肌を脱ぎ、下着の袖を片だすきに結んで、多くの門下生を指揮し、いまや屋の下にみちている多くの負傷者を、ひとりひとり手当していた。
「開けておくと女子供までが覗きに寄って、うるさくてかないません」
門生が、外で答えると、
「往来の者が覗くぐらいは、邪魔にもならん。まだまだ落人も通ろう。怪我人もよろ這うて通ろう。門を閉じておいては、それらの衆が気づかずに過ぎてしまう。──容れる場所がなかったら薬干し場へも莚をしいて、はいれる限りお容れせい」
道三はそう告げてから、また諸所に横臥している怪我人を見まわった。金創の洗滌やら、繃帯やら、くすり塗布に当っている門生たちと共に、自分も負傷者の治療へかかった。
彼のきれいな白髯は、負傷者の血しおに染み、彼の懸命な面には、空腹を喞つ容子もなく、また、天下の大乱すら知らないもののようだった。
幸いにも、又学舎には、たくさんな門生がいた。もともとここは、道三が後進を誘掖すべく興した医の塾だからである。
それらの若い学徒を励まして、門をひらき、全舎を提供して、ここに本能寺の負傷者や二条城の合戦からよろ這い落ちて来る武者たちを収容し始めたのは、実に、戦いが始まると同時の夜明け頃からだった。
一しきり、風が西へ変ったころは、この辺、風下になったので、附近のやしきでは、火の粉をおそれ、避難の準備に恟々としていたものだが、曲直瀬道三は、
(燃え移って来たら、怪我人を負うて先へ移ればよい。それまでは)
と、学生たちを外に立たせて、怪我人をかかえ入れ、眼のまわるような忙しさに、この半日を、ほとんど、われなく人なく、必死の治療に過していたのだった。
初め、ここの医学生たちは、
「明智の兵など容れるな。逆賊の家来などを手当する医学は学んでいない……」
などと昂奮にまかせて罵り合っていたものだったが、師の道三から、
「ばかを申せ。わしは仁なき医学を教えた覚えはない。明智の家来とて、主に仕え、その主に命じられた以上、まことにやむを得ないことであったろう。何も知らぬ軽輩ほど、それと知ったせつなには半狂乱にもなり、死にもの狂いに戦ったことであろう。そう思えば、むしろ気のどくなのは明智方の人々、わけて可憐しいのは足軽小者の心根じゃ。──汝ら、医に志しながら、もののあわれも弁えぬほどなら、医者学問などは止めてしまえ」
と、一場の訓諭をうけたので、若い学徒は、たちまち師の大度に習って、織田家の士であろうと、明智兵であろうと、けじめなく収容にかかったのみか、焼け出された貧民街の怪我人や迷子まで容れて労った。
従って、白昼二ヵ所の合戦中、そこで織田明智の両勢が、互いにしのぎを削り、切っ先に火をふらして戦っていたが、ここの一宇の屋根の下では、敵味方枕をならべて、うめきの中に顔を見あい、しかもひとりの仁者の手から差別なく温かな手当をうけていたのである。
「おう、おう。これはこれは、よくこそこの火急の中になされておられる。足のふみ場もないが、さすがは道三どの、ありがたいところにお気づき下されたの」
これは負傷者ではない。日頃から親しい主の友人とみえる。門内へ入って来るなり、訪れの代りにこう独りで云いながら、負傷者の莚のあいだを通りぬけ、奥の講堂の縁先へ来てまた云った。
「道三どの。手伝おうか」
「やあ、紹巴どのか。まずあがれ。この際じゃ、そこからでも」
「こんな折じゃ、お邪げしてはすまぬが、何せい喉が渇いた。白湯一杯たまわらぬか」
連歌師の里村紹巴は、裾の埃をたたいて上がった。彼の草履も顔じゅうの汗も、さすがに今日だけは、日頃に似ず真っ黒によごれていた。
紹巴の訪れをしおに、道三も朝から初めて一息ついた。
「ここへ円座を持て」
と、門人にさしずして、書物ばかり積んである一室に対坐して、白湯を呑み合いながら、
「さて、どうなるのじゃ、この後は──」
と、お互いに、顔見あわせた。
紹巴は、二条はまださかんに焼けているが、今暁の本能寺のすさまじい焔は御覧になったかと訊ねた。
道三はかぶりを振って、
「何も見ぬ。まだ、一歩も外へすら出ぬ。そんな暇はない」
と、邸中の負傷者をながめ、
「戦と同時に、ここも戦の場となった。ただ気づかわるるは、御所のあたりじゃが」
「いや、あのあたりは、別条もございませぬ」
「とはいえ、本能寺や二条の火の粉は、禁裡の御苑にふりそそいだであろう。恐れ多いことではある」
「恐れ多いといえば、二条御所の親王様や若宮様には、戦いの中をおひろいで禁裡へお移りあらせられた。ふと道ばたに伏し拝み、余りの勿体なさにわれを忘れて、近くの公家やしきの門を叩き、ありあう破れ牛車を曳き出してそれへおすすめ申しあげ、無我夢中で禁門のあたりまで牛を打っていそいだが……あとで思うと、いかに非常の中といえ、近々と御裳をとり参らせなどいたして、まだいまも身の縮む思いが失せぬ」
「それは機転。よいことをなされた」
むしろ称えるごとく道三が云ってくれたので、紹巴もすこし胸撫でおろした容子であった。
しかし道三はその次に、この友が事変の直前に、光秀と愛宕権現で一夜を過していることについて、本気になってこう責めた。
「どうしてその折、日向守が大それたことを仕でかす気ぶりでも、その動作やことばの端でもわからなかったか。聞けば日向守としては不審な連歌も詠まれたとかいうではないか」
「それは無理ですよ」
紹巴もむきになって打ち消した。
「臣として主を弑逆するなどということは、この紹巴のあたまには考えようとしても考えられぬ。たとえ変だと気づいても自分の道義が合点しません。自分の中にないものを未然に感づけといってもそれは無理で……それが咎められる程ならわしはむしろあなたを責めたい」
「どうして」
「日向守が坂本城におる間、一日叡山のうえで会ったといわれたことがある」
「今思えば、たしかにあのときすでに日向守の容体には、ただならぬ脈搏があらわれておった」
「なぜそれを黙っておられましたか」
「病人のことじゃもの。わしにいわせれば、光秀の謀叛は、一夜に大熱を発した狂病じゃよ。熱を起すも病症をあらわすも、その心身に素因を持っているからであるが、まあ半分は病勢が手伝ったのじゃ。さもなくてこんな日本一の莫迦を日本一の理性家が仕出来し得ようか」
光秀を評して──日本一の利口者が日本一の莫迦をやった──という曲直瀬道三のことばに対して、紹巴も、
「いや大きに」
と、共鳴の容子だったが、道三の声が憚りないので、こうして同じ屋の棟の下にいる明智方の負傷者たちに聞えはしまいかと、気の立っているそれらの人々の耳を怖れるように、また気のどくがるような眼ざしで近くの部屋部屋を見まわした。
けれど、道三はいっこうおかまいなく、
「日向守の日頃を、常識の人、知性の人とみるときは、欠けるところのない教養をそなえ、織田どのの一将としてほとんど非の打ち所もない。またよく天下の人心を察知し、信長公がこれまでやって来た統業の功罪をひそかに批判し、それを称える者も多い半面には、その犠牲となった者や、うらむ者も世にはたくさんある点を冷静に算出して、その数を味方なりと考え、この時期において、公を弑逆するの機をとらえた彼の頭のはたらきは、まことに賢いものだというほかはない。……しかしじゃな。ひるがえって、その野望が成るものか、成らぬものか。旗上げの名分をどう称える気か。彼は、その名分も理論で捏ね上げられるものと思っておるらしいが。……ばかな。たれが、そんなややこしい理論構説に耳をかそう。名分とは、民の直情に合致するものだ。大義とは、民のなかに持っている鉄則の信条じゃ。この標的を外しては、戦も政治もうまく運ぶわけはない。かりそめにも、逆と呼ばれる旗を持っては、たとえ、日向守がどれほど努力しようと、もうこの先は見えすいておる」
碗の中にのこっている冷めた白湯をのみほして、道三はなお云った。
「──それだけでも、利口者の莫迦を証するには充分だが、日向守一箇についていえば、もっともっと彼の愚は大きくなる。それは、もう彼もずいぶん功を立てたろうが、主家の恩寵は眷族におよび、丹波、近江にかけて、六十万石に封ぜられ、酬わるるに何の不足もない。しかも自分の心ひとつで、まちがえば一瞬のまに、わが身のみか、眷族の妻子老幼から、家中の将士の家族までを、いかなる運命に投げこむか……それを思えば、いかなる堪忍とてもできぬことはない。大家族の家長としてもじゃ。何も知らぬ末々の者や女子どものために、世に対してはつらい涙ものんで、しかも大船に乗せたここちの安心を与えておくのが、家の主ではないか。──そもそも主人の統業にたいし、その情熱に与みして来ながら、おりおり批判的な眼で主人を見たりなどしていたことが怪しからぬ。あれやこれ、いえばまあ限りもないが、要するに、日向守の逆事は、知性に疲れた智者の破綻じゃ。それと、五十五の坂にかかった人間の生理的な焦躁とか、我慢のおとろえとか、脾、肝、心、腎、肺の五臓の衰気も多分に手伝うていることは疑いもない。──もし彼が老いてもいよいよ健康であるか、或いは、もう十歳も若かったら、決してこんなばかをやって、天下を騒がすことはしまい」
道三の長ばなしについ聞き入っていたが、紹巴はふと、べつな方に騒がしい人声を聞いた。──と思うまに、ひとりの門生があわただしく廊下を駈けて、道三をさがしに来た。
門生はそこに師の道三を見つけると、あわただしく告げていう。
「早くも都下一帯に、残党狩りが始まりました。もちろん明智の衆が、なお全市には織田方の士が潜伏しおるものと見ての追求です。さきほどから町ごとに、各戸へわたってきびしい検察だそうですが、ただ今、ここへもやって参りました」
道三はその門生の浮き腰な容子をたしなめた。
「来てもよいではないか。家探しいたすなら致すで、よくご案内いたしてあげろ」
「……でも」
「何をうろたえているか」
「ここに収容してある三分の一ほどは、織田方のさむらい衆でありますので」
「わしが手をかけた怪我人には指もささせはせぬ。よもまた、それらの傷負いを拉して行こうとは検察の明智衆もいうまい」
「ところが今、それでお玄関で争っているのです。残党狩りの衆は、たとえ瀕死の重傷者であろうと、織田のさむらいは、引っ立てて行くといって肯きません。──拒むなら拒んでみよ、町にかかげてある軍令に照らして、このやしきをも焼き払うぞと、あれ、あのような声で威嚇しておりまする」
「……そうか」
道三はそばにいる紹巴へ、会釈をして、
「ちょっと、中座いたすが、おゆるしを」
と、云いながら起った。
その面を見あげて、紹巴は、
「ま、門生たちに、委せておかれてはどうか。明智の武者は気が立っておるにちがいない。お怪我でもしてはならぬ」
「ご心配に及ばぬ」
道三は玄関へ出て行った。
武者たちは玄関にいなかった。家人の案内にも及ばず中門から庭へ入っていた。そしてたくさんな負傷者を見まわすと、やや冷静にかえった様子で、どれが明智の家臣か、どれが織田の武士か、見分けるにちょっと困難な顔つきをしていた。
で、端のほうから、負傷者に訊問をし始めようとしていたところだった。
「残党のおしらべか。ご苦労にぞんずる」
検察の武者たちは、道三の声にふり向いた。白髯痩躯、鶴のような老医家のすがたに明智の部将も、いんぎんに礼を返した。
「当家の主か」
「されば道三でおざる」
「それがしは、並河掃部の手についておる山部主税であるが、今暁来の合戦に、味方の傷負いをおいたわり下されたこと、明智の殿の御名をもってお礼をいう」
「医として、為すことを為したまでのこと。ごあいさつで痛み入る」
「しかし、お囲いの中には、織田の臣もだいぶ交じっておるらしいが、布告のとおり、織田にゆかりある者は、女子年少といえ、一応は連れてまいる。いわんや傷負いはまさしく合戦に立って刃向った敵。……ひとり残らず、即座に、お引き渡しあれ」
「いけない。ひとりとて、渡すことはできぬ」
道三は拒んだ。
門外にもまだいるらしいが、居あわせた十数名の武者は、彼のまわりを取り巻いていた。
「なに。渡さぬと」
まわりを囲んでいる者の具足や太刀は音をさせてひしめいた。
が、曲直瀬道三は、部将の山部主税の面を見ているのみで、その眸もうごかさなかった。
「渡すの、渡さないの……というのは、少しおかしかろう。ここにいる多くの傷負いは、たとえ織田衆であろうと、明智衆であろうと、いずれは皆、主人のためと、さむらいの名にかけて、よく戦って怪我した衆である。品物ではない。物とは違う。──ひとつひとつ尊いいのちじゃ。わしはそれを治療する医家であるから、わしの門に入れた以上は、健康にしてあげぬうちは出すことはできない」
「この戦時、しかも敵の残党を詮議しておる此方にたいして、御辺のいっていることは、まるで平時の医者の言だ。いまはそんなことに耳をかしているいとまはない。織田の傷負いはのこらず引っ立ててまいるからご承知ねがいたい」
「そんな承知はできません」
「なぜ」
と、ついに山部主税もその顔に殺伐な気をあらわした。
道三は却って微笑をふくんで、諭すようにそのいきりたつ相手をなだめた。
「考えてみなさい、明智どのが乱の直後、早速に市中へかかげた軍令というのを聞いても、わが軍は決して天下をうらむ者ではなく、織田殿の年来の悪弊を討ったに過ぎず、わけても朝廷を仰ぎ奉るの念にはもとより変るところあるべき理はないと唱えておるではないか。そしてこれからは、租税の地子銭も軽くする。大いに善政も布く。だから市民は安心して、常のとおり家業に励めと、高札に令しておられるではないか」
「…………」
「刀折れ矢尽きて、医家の垣の内に療治をうけている兵は、もう主を失った浪人じゃ。ただの一民じゃよ。いや元々から朝廷の御民であった者どもではないか。まして医家の眼から見れば、織田もない、明智もない、ひとしき御民としか見えん。御覧あれ。そこここには、明智衆の傷負いと、織田衆の傷負いと、枕をならべておるが、もうこの垣の内では、互いに、斬り結ぼうともしておらん。呻きと、痛手の顔をむしろお互いに、憐れみ合うかのごとく、黙って、顔見あわせているではないか。……彼も御民の子、これも御民の子、あらそい難い一つ血をもっている証拠じゃ。なお分らなければ、わしの書斎までござれ。むかし楠木正行が渡辺橋の合戦の折、足利の大軍を討って、暗夜の河中に溺れんとした足利の兵を救いあげて諭しおる一条が──あの太平記の中にある。貸して進ぜるから太平記を読んでみるとよろしい」
部将の山部は辟易した顔つきであった。この老医家が朝野に重んぜられていることも知っているし、そのいうところも大所に立っていることばなので、自分たちの単なる威嚇や小理窟ではとても背が届きかねる。
で、やむなく彼は一案を出してこう促した。
「ご足労だが、ひとつそれがしと同道して、御本陣までお歩き下さらぬか。そして直接、日向守様へ何とでも申しあげてみられるがよい。それがまたいちばんよい方法とも考えられる」
「お供してもよいが、この通り大勢の生命をかかえ、猫の手もかりたいほど忙しい折じゃ。──あなたの部下を走らせて、ありのままを、御本陣に伝え、日向どののお指図を聞かせて下さい」
道三はこういって、それにも従わないのである。
残党狩りの一組は、部将の山部主税が、やむを得ぬ容子のもとに、
「然らば、後刻もう一度、沙汰に及ぶであろう。織田方の傷負いは、そのあいだ預けおく」
と、いうことばを機にして、どやどやと立ち去った。
──どうなることか?
と、ひそかに案じていたらしい織田方の負傷者たちは、やがて彼が縁を通って奥へ入ってゆく姿を、仰臥したままの眸で拝むように見送っていた。
「どうなすった?」
紹巴は案じていたので、彼の顔を見るとすぐ訊ねた。道三はべつだん、どうという容子もなく、
「帰ったよ」
と、いった。
けれど、それから間もなく紹巴が辞しかけると、彼はにわかに、
「お頼みがあるが」
と、声をひそめた。
「何ですか」
「実は、さきほど明智衆が調べに来たとき、わしにも胸のうちに弱味があった。というのは、この家のうちに負傷者でもない落人がひとり匿まってある。彼らが出直して来たときは見出されるかも知れぬ。すまぬが、一時お宅へお供申し上げて、適当な頃、どこかへお隠しして下さらぬか」
「誰ですか、その落人とは」
「承知してくれるなら打ち明けるが」
「もとよりこの紹巴とて信長公の御恩顧にあずかって参った者。またあなたという友を裏切るわけもない」
道三は耳をつけて囁いた。
「……信長公の御舎弟、あの源五郎どのだよ」
「…………」
紹巴は目をまるくしたが、だまって頷いた。そして帰る折には、台所門からひとりの男を連れて出て行った。男は医者仲間の恰好を作っていたが、織田源五郎長益なることは、見る者が見れば分ったであろう。
たそがれ迫る頃おい、さきの残党狩りの部将山部主税は、果たして、ふたたび門を叩いた。
けれどこんどは、駕籠をしたがえて、いんぎんなる迎えであった。最前の卒爾をふかく詫びて、おことばのままを主人光秀に伝えたところ、却って、医家の仁はさもあるべきだと、非常な御感銘であったとも告げ──
「その儀は、構いなしとの仰せでしたが、今日の合戦に御一族の光忠様にも、二条の東門で深傷を負われておりますし……かたがた、日向守様にも甚だしいおつかれにあらるる由で、まことに御足労ながら、妙心寺の営内まで、御来診下さるまいかとのおことばです。……お乗物もそなえて参りました。恐れ入るが、お越しねがいとう存ずる」
と、鄭重なる頼みだった。
道三は承知した。──その晩、六月二日夜の陰々たる洛中を剣槍に守られて通ったものは、実に一般の市民としては彼ひとりあるのみだった。
二日のその朝。
まだ事変の最中に、博多の宗湛とともに、京都を立ち、その宗湛と、淀の船つき場でわかれて、堺へ急いでいた茶屋四郎次郎は、焦りつける田舎道の炎天を枚方から二里ほども来ると、彼方から埃立てて来る一隊の兵馬を見かけた。
「もう、この辺にも本能寺のことが知れ渡ったか。それにしても早い駈けつけよう。……明智の与党か。織田の衆か」
──いずれ変を知った近郷のさむらいが、家の子を伴って、戦場へいそぐものと独りぎめして、四郎次郎は身を畦の横へ避けていた。
すると、通りかけたその隊の中から、思いがけなくも、大将らしい者が、彼へことばをかけた。
「四郎次郎ではないか。どこへまいる」
ひょいと、畦から仰ぐと、それは彼がこれから今日の大変を今日のうちにも告げ知らせたいと、こうして急ぎつつある意中の人、徳川殿の身内でも、錚々たる直臣のひとりだった。
「おう、本多様でいらっしゃいましたか。あなた様こそどちらへ」
「京都までまかり上る」
「では、本能寺へ」
「いかにも」
「どうしてそのように迅くお知りになりましたか」
「知ったかと?」
「今暁の変を」
「はて。……四郎次郎、はなしが遠い。もっと寄れ」
本多忠勝はさしまねいた。
はなしの辻褄があわないので、さてはまだ知らないなと思ったので、四郎次郎はすぐ彼の鞍わきへ寄った。そして声をひそめて、
「信長公にお会い遊ばすおつもりで行かれますか」
と、訊ねてみた。
「そうだ」
忠勝はじっと四郎次郎の顔を見ながら、その眼の中のものを何とは知らず、ただこれは何事かあったなという予感を持って読みとった。
四郎次郎は一そう声をひそめて一言に告げた。
「右大臣家には、もはやこの世のお方ではありませぬ。今からでは御空骸だけにお会いすることもかないますまい」
「……?」
忠勝はいつも持っている自慢の槍を抱えたまま馬上に胸を伸ばした。そして青田の果て遠く枚方の堤から京都方面を凝視していた。
夏の雲が、ふわと遊んでいる。ここからは二条の煙もわからなかった。
「みなの者、木蔭へ寄って、しばし休め」
すこし先に、藪があった。忠勝も駒を降りた。そして木蔭の床几に、四郎次郎とただふたりきりになると、彼は、
「おぬし、かりそめならぬことをいうが、よも間違いや戯れではあるまいな」
と、念を入れた。
「何でかりにも、そのようなことを」
四郎次郎こそ、ここまで来るには、命がけだったのである。冗談どころの沙汰ではない。
「本能寺はもちろん、今頃はもう二条のお構えも陥ちておりましょう。──この辺りは初夏の空と青田の何知らぬ静けさですが──洛内は夜が明けても夜のままで、降る火の粉と馬蹄の音のほか、人影ひとつ見ることはできません。もとより洛外への道々はきびしく断たれ、ずいぶん怖い思いもいたしました」
彼は真相をつぶさに語った。
忠勝は何よりも、
「謀叛人は」
と訊ね、明智と聞くと、初めて得心の色を示した。──それならあり得ないことではないという容子で。
しかしその予感も、こう突然、表面の事実にあらわれたとなると、忠勝も驚愕した。さしあたって、いま京都への途中にある自己の進退にも迷った。
「ではお許は、乱と同時に、急いで来たのだな」
「一刻も早くお館のお耳に入れたいとぞんじまして。……右大臣家亡き以上、さしずめ天下は乱脈の相を呈しましょう。それに処するお館の御思慮は重大ですからな」
「よくぞ。よくぞ」
と、忠勝は惜しみなく賞めて、同時に自分もここから引っ返すことに肚をきめた。
彼の主人家康の、ここ数日間の動静はどうかと見ると──月の末(五月二十八日まで)は京都見物に過し、二十九日には堺へ向い、晦日には、堺奉行所の公式の饗応に招かれたり、また松井友閑の案内で、遊覧などに送っている。
明けて六月一日も堺泊り。
その朝は、今井宗及の宅で、朝茶の招きがあり、種々の名器など見て、午すぎの半日は諸所の寺院など見てまわった。
その晩、家康は、
(右府様にも、そろそろ御上洛ある頃。安土以来のお礼を申しあげねばなるまい。──先発として忠勝には一足先へ立て)
と命じ、その本多忠勝が、出発のあいさつをうけてから、客舎に就寝したのであった。
忠勝が堺を出たのは、まだ真っ暗な早暁であったから──以後の主君の動静はわからない。が、恐らくは今日もまだ、堺に御逗留ではないかと想像されていた。
四郎次郎とともに、彼は堺へ引っ返したが、家康はもう堺にいなかった。
土地の人々は、
「午すこし前、急に、右大臣家とお会い遊ばす急用が起ったと触れ出されて、お昼食その他の御予定も一切抛たれ、慌ただしゅう京都へお立ちになった」
という。
けれど、この頃には、もう誰からともなく、本能寺の変は聞えていたので、堺には騒然たる人心の動揺が見られた。
「──はて、それならば、途中でお目にかかっているわけだが?」
忠勝は首をかしげた。直臣の忠勝にすら行く先が解けなかったのであるから、今日知った異変の報とともに、堺の人々が、家康の行方不明をも語り合わせて、一そうその騒ぎに臆測を加えていたのは無理もないことであった。
堺附近の人心に徴しても、本能寺変の一事が、いかに天下を震駭させたかは、想像以上なものがある。
こういう場合の民心の動揺は、得てして行き過ぎに奔りたがる。
或る者は、
「今からまた、世の中は前のような大乱になるだろう」
と云い、またある者は、
「室町末頃の群雄割拠がふたたび実現する」
と称し、なおその間に、
「もう、どこそこでは、合戦が始まっている」
などと果てしない噂も生じ、いずれにせよ、畿内はもちろん、中国方面でも、関東でも北越でも、地上に戦いの行われない所はなくなるであろう。そしてなお容易には、このまま明智光秀が一夜に取って替ったものを、ゆるすことではあるまいというのが、一般の観測でもあり、また恟々と、明日を怖れる所以でもあった。
そしてその騒然たる不安と浮説は、三日は二日よりも強く、四日は三日よりも濃く、日のたつに従って、全国的なものとなった。──つまり、報道される地域が拡まってゆく相と、それを知ることによって次々に起って来る地方の新しき事件とが、相搏ち、相称え、一波万波のしぶきをいよいよ人心に駆りたてるからである。
で、事変後の数日、その余波のもっとも高そうな人と地理と情勢とを、いまその禍乱を離れて、天下の全面を高所から大観してみると、帰するところ、どこもかしこも、愕きの余りに、
──如何にこの大変動に処すべきか。
は、誰もまだ混沌として、明らかに帰趨を見とおしている者は、ほとんどないような有様としかいえない。
まず、信長麾下の宿将たちの立場を見るに、第一に指を屈すべきは柴田勝家であるが、折から彼は、越中に出征中で、本能寺の事あった翌日六月三日でさえ、まだ京都の凶変を知らずに、上杉方の魚津城を懸命に攻めたてていた。
木曾、信州を経て、事変の真相が裏日本いったいへ聞えて来るまでには、尠なくも、三、四日を要していたろう。
勝家は、この驚愕に打たれるとすぐ魚津を退いて、
「ひとまず北ノ庄へ」
と、自国の本城へ帰ったし、彼とともに、戦列に加わっていた佐々成政も前田利家も、各〻、急潮の退くごとく引きあげた。
利家は能登の七尾へ、成政は越中の富山へ。そして勝家は北ノ庄にひとまず旗を収めたが、かかるあいだの各人の天下観も、自己の処する方針も、箇々同じものでなかったろうことは想像に難くない。
その際、利家から勝家へ、
「即刻、上洛して、明智と一戦なすべきでしょう」
と、勧告の使者があったとも伝えられ、或いは反対に、勝家から前田勢に、
「すぐ、京へ入らん。御辺も続け」
と、出兵を促したが利家は対上杉軍との懸引を理由に、それをことわったという説も行われている。
いずれにせよ、裏日本の事態は、柴田勝家にとって、迅速な行動をゆるさないものではあったが、余りに憂いて、諸所へ兵を配し後顧に備えてから、ようやくにして彼が江州へ越えて来た頃には──時すでにおそしで、天下の変貌はまったく勝家の予想とは相反するものを旬日のまに招来していたのであった。
柴田勝家はしばらく措いて。
東国にある滝川一益はどうこの大転機をうけ取ろうか。
彼の立場も、地理的には非常にまずい所にあった。
上州厩橋といっては、たとえ光秀討伐を志しても、ちょっとには駈けつけられない。
本能寺の急変を告げて来た書状を彼が見たのも、月の九日ごろだったという。この飛脚もちと遅い。かほどな天下の大事である。早馬に早馬を継いで、昼夜駈けさせれば、もっと日数は短縮されるはずである。
──が、その使いを派した安土の留守居衆からして、すでに混乱狼狽していたので、日頃の駅伝組織も完全な用を果していなかった。それと、どうせ知れることながら、一日でも多く秘密を保とうとしていたせいもある。
「きのうきょう。頻りに信長公が死なれたという噂があるが、実否如何であるか」
小田原の北条家から彼へこう訊ねて来たのが、十一日のことだったとあるほどゆえ、以ていかに関東方面の報道は遅鈍なものだったかがわかる。
要するに、駅伝よりも、それら武将間の早打よりも、民衆の耳から耳への沙汰がいちばん迅速だったのである。
一益の場合は、その動きのつかなかったことも、恕さなければならなかった点は多い。
上州は新領地だった。そしてまた彼が赴任したのも日が浅い。殊に、小田原の北条というものは到底ふだんでも安心していられる存在ではない。
だから彼は、変を聞いても、動かなかった。いや動き得なかった。──にもかかわらず北条は、月の中旬には、
「事を成すは今にある」
となして、上州高崎の境へたいして侵略を開始していた。
同時につい先頃、織田軍によって、武田そのものをも跡かたもなく攻め潰した甲州方面でも、物情騒然、蜂の巣をついたような妄動があらわれ出した。固守、攻略、合流、分離の争乱が随所に起った。
それらの新領地におかれていた蘭丸の兄の森長可も、河尻秀隆も、毛利秀頼も、いずれはみなこの大地震にも似た地表の変動にその位置を失い、戦歿、流亡、惨たる末路にただよった。
要するに、この三月、信長が取ったばかりの旧武田の新領は、全部、一夜にしてふたたび、その所有者を変えたといってよい。
機を見て小利をむさぼるに敏なこの行動者は何処の何者ともいえないほど無数である。が、大なるもの北越の上杉、小田原の北条、そしてその慾望の触角は、柴田勝家の境へも、徳川家康の界へも、ほとんど見さかいなき相で侵攻を開始し、まさに、天下再乱の恐慌を思う民衆の予想は中っているかとも思われるばかりであった。
「しかし、たとえどうあろうと、信長公にもっとも近い血族のうちから、なぜただ一人の毅然たる者も立たないのか。名分ある旗をかかげないのか」
とは、民衆の中にある斉しき焦躁であった。その気もちは、信長の第二子北畠信雄と、三男神戸信孝の在るにたいして、当然抱かずにいられない一般の同情でもあったのである。
安土本城の留守居衆は、この際において、どう処したろうか。
地理的に見ても、京都とは、目と鼻のさきである。おそらく同日の夕刻には、すべてのことは、安土へ分っていたにちがいない。
蒲生賢秀の所へは、早くも同夜ひそかに光秀から手を廻して、招降の書が届けられていたともいう。
「ばかな」
と、彼が顧みなかったことはいうまでもない。彼は、信長の夫人生駒氏以下、主君の眷族を奉じて、翌三日には、郷里蒲生の東郡にある日野城へ退き移った。
そしてその子氏郷とともに、居城日野に堅守のそなえを急ぎ、一方伊勢の松ヶ崎城にある信長の第二子北畠信雄へ、
(御遺族にたいして、光秀の来襲あるは必定、急遽、援軍をこれへ派し給え)
と、早打した。
そのときすでに、北畠信雄は、軍勢を催していた。──が、これはそのためではなく、やはり中国出兵の用意だったのである。
変を知るや、ここにも驚愕と顛動と方針の狼狽が起った。とりあえず、信雄は、蒲生家の一女子を人質にとって援軍を派した。
かつまた、自分も、
「父右府のうらみ、いかで晴らさずにおこうや」
と、悲壮なる決意の下に、江州土山まで進んでみたが、背後の領内伊勢にも、途上の伊賀地方にも、表裏二態をとって、応変の凶兆ただならないものがある。
信雄は、右顧左眄して、
「もし、光秀と結ぶ者が、ふいに江州一円に蜂起しては? また伊勢の後ろに起っては?」
と、もっぱらその鎮圧と、形勢を見まわす方に、せっかくの意志を奪われて、むなしくこの進撃の時機を逸し去った。そして、彼方此方の小乱に打ち向い、一死一番、大義と大道へましぐらに赴くことをなさずにしまったのである。
これを見ても分るように、絶対に光秀を忌避して、光秀を逆賊となす者のある一面には、暗に、彼の聯絡にたいして黙契をもってこたえ、情勢の進展とにらみ合わせて、明智側に拠って立とうとする諸豪族も決して少なくはなかった。
とりわけ、大坂城にあった織田信澄は、光秀の女婿でもあるし、その父の織田信行は、かつて信長の成敗をうけている。一族とはいえ、父を信長に殺されているその子の信澄である。──彼こそはかならず味方に応ずるであろう。──光秀は当然、彼が大坂表から呼応するであろうことを期していた。
六月二日の本能寺変の当日。
折も折、その信澄は、信長の第三子神戸信孝や、丹羽長秀などと共に、阿波、中国への出軍の装い成って、今しも住吉の浦から兵船に乗ろうとしているところだった。
「京都に大変が勃発した」
そう聞えるや、全軍、なすことを知らず、早くも逃散する兵さえ続出した。丹羽長秀は、信孝と謀って、ひとまず大坂城へもどり、五日の夜、ふいに信澄を襲って、これを千貫櫓で刺し殺してしまった。──打ち洩らされた信澄の部下の少数は京都へ奔って、直ちに明智軍に投じた。
結局、一信長の死は。
──為に、天下みな、驚愕顛動して、一夜に変る世態世路を、踏み迷い、踏みうろたえぬ者もなし。
という実状というほかはない。
平常は一方の知識たり、歴乎たる武将であっても、かかる場合は、ほとんど、例外はなかった。
むしろ、枢要な位置にあるものほど、また、生なかの知識ある者ほど、
(どうなるか? どうせんか?)
に迷いと狼狽は甚だしかったといってよい。──あの徳川家康においてすらなおかつそうであったところを見ても。
急に、堺を引き払って、何処へともなく立ち去った家康の一行をさがし廻った茶屋四郎次郎と本多忠勝はようやく、
(河内の飯盛辺を、それらしい御同勢が東の方へいそいで行かれた)
という噂を路傍でひろい、その晩、尊延寺に泊っているのをつきとめて、急いで行ってみたが、ここにもすでにいない。
寺僧のはなしによると、
「よほどお急ぎとみえ、ここでは御休息をなされたきりで、夜道をとおして、草内の方面へまた立たれました」
とある。
追いついたのは翌日の三日で、信楽の里のいぶせき山寺に、家康はつかれて昼寝していた。
寺のまわりには、老臣の酒井忠次、石川数正、井伊直政などが、物々しく、警戒していた。平和な旅行中の出来事だったので、重臣はみな扈従していたが、兵はいくらも連れていない。故に、上下のわかちなく非常の装いをして、榊原康政なども、素槍をかかえて、自身、方丈の外に立っていた。
「京都より、逐一、御報告のため、茶屋四郎次郎が、お慕いして参りました。なお、本多殿も、四郎次郎と途中で行き会い、唯今、これへ帰られましてございまする」
康政が、小姓をとおして、家康の耳へ入れた。
──忠勝が戻ったらすぐ起せ。
と云いおいて家康は、昼寝の手枕にほんのわずかな間を横になっていたのである。
「なに、四郎次郎が来たか」
これはよほど欣しかったらしい声だった。
なにぶんにも、詳しいことは少しもまだ分っていない。彼はなによりもそれを知りたかったのである。
起き出て、あわただしく顔を洗い、もとの方丈へもどってみると、二人はもう通されて平伏していた。
「右大臣家の御生害はまぎれなきことか。兵乱はなお京都だけに止まっておるか。途中の人心のもようはどうか」
それらの質問にたいして、茶屋四郎次郎は、知る限りのことを、つぶさに伝えた。といっても、昨日の午頃までの情勢しか彼にも分らないので、その範囲にとどまるものであったが、昨日以来、ひたすら本国岡崎さして、道のみ急いでいた家康にとっては、それだけでも、大体の全貌を知る上に、よほど明瞭な判断を持つことができた。
次の間まで住持が来ていた。
人々はそれを知ると口をつぐんだ。家康はふり向いて、
「調うたか」
と訊ねた。
住持は答えて、
「御案内申しあげまする」
と促した。
家康は住持について起ちながら、みなも来い、と云った。何か先にいいつけておいたことがあるらしい。康政も忠勝も四郎次郎も従って行った。そこはこの田舎寺の小さい本堂であった。
「外におる忠次や直政もこれへ呼べ」
家康のことばに、寺の附近を警備していた酒井忠次や井伊直政なども席に列した。仰ぐと、この藪寺のいぶせき厨子に昼の燈明が白々ゆらいで見える。そして壇の正面に右大臣織田信長の俗名を誌した紙位牌が置かれてあった。
(さては仮に御弔いをなされる思し召か)
家臣たちは家康の心を察し、また世の変転を観じながら、ひそと坐っていた。
住持が型のような礼拝を行ったあとで、家康は香炉の前へすすんで久しいあいだ合掌した。ながるる涙も頬に乾いてしまうであろう程な長い瞑目であった。
酒井忠次や石川数正、以下井伊、榊原、本多などの人々も順々それにならった。そしてまたしばらく対坐のまま黙然と無量の感を抱きあっていた。
住持はしずかに去ってゆく。廻廊の下にいる警固の武士の槍のさきが見えるだけで、茶屋四郎次郎ひとりを除くほかは、主従水入らずの徳川家だけの者になった。
「……まだ、ほんとのような心地がせぬ。四郎次郎の口から慥と実状を聞いても」
家康はつぶやいた。声のうちにも嘆息も聞える。しかし彼のひとみは何らの懐疑もたたえてはいない。この大きな事実を誰よりも正確に見つめている眼である。そして少し若禿げを呈している大きなおでこが、どういう考えをいま抱蔵しているか、余人をして容易に窺わしめないような緊まりきった顔をしていた。
「……夢のように存ぜられます」
「なんとも。……右大臣家のお心を察すれば察する程、刹那の御無念。……どうあったかと思われまして」
人々もみな嘆声した。喞ちあえば限りもなく思い出がわく。安土でその人の舞を拝見したり、哄笑を聞いたのも、つい十日ほど前のことである。
だが、家康は、人々の余りな詠嘆は好まない容子であった。家臣としても実はそんな余裕はなかった。果たしてこれから無事に三河まで帰り着けるか否かすら、みな疑問の中だった。途中の安全は扈従の誰にも確信はないのである。──にも関わらず、危険を冒しても、浜松まで帰ろう。後図の何をなすにしても、ひとまず本国へ立ち帰った上で──と、急に堺を去ったものの、地方の情勢は都会以上険悪であったし、山野には早くも土寇の出没もあるらしい。その中を軽装にしてしかも小勢な一行が、この際、主人の一命を守って三河まで押し通ろうということは、ほとんど天助を祈るしかない冒険だったのである。
──いわば信長の奇禍は、惹いて直ちに、家康のこの災難ともなって来たわけであるが、彼やまさに、四十になったばかりの男ざかりである。うろたえはしていない。眼前の困憊などは、次の、大きな意欲の膨らみにうち消されて、むしろ歓びですらあった。
縷々と、香炉からのぼる香煙をながめては、
(右府の死を一期として、世の中はこれで大きくひとつまわった)
と考える。なによりも彼はそれを思う。
現実をはなれて家康の思考はない。これは幼少からのものだ。今とて、そうである。表面の彼と、肚の彼とは、見たとおりのものではない。
昨夜来、信長の死が信ぜられた時から、これを家臣たちが眺めていると、しばしば、人の無常を嘆じ、多年の盟国たり親友たる信長の非業な死をかなしんで、その傷心のあまりには、ふと、腹でも切って、故人に、殉じそうな気ぶりすら見られたのである。
だが、きょうの家康は、やや逞しくなっていた。家臣たちはそれを見て、
(お気を取り直されたものとみえる)
と、ひそかに慶し合っている容子だが、家康のほんとの肚のなかは、宿老たちよりは遥かに老熟しているのである。そんな燈心のようなかぼそい神経をとおして、この生涯に一度あるかないかという世の大転機を観ている者ではなかった。
(右府亡きあとは、たれがその統業を継ぐか、天下人たる者か)
もう一すじ眉毛を置いてもおかしくないほど広い額の中では、もうこれが考えられていた。彼は彼の胸中問にたいして、
(気のどくだが光秀ではない)
と、あきらかに断定をつけ、そして、当然のように、独りこう答えていた。
(自分を措いて、ほかに誰があるものか)
織田、徳川というものは、年来の盟国である。盟国の仇として旗幟をかかげるとせんか、その名分は諸侯へ檄を飛ばすに足る。さらにそれへ、信長の遺子ひとりを守り加えるならば、以て外は光秀を圧し、内は旧織田軍を包括して、自然、次代の中心勢力を持つにいたるであろう。──たとえ、織田の遺臣中に二、三の野望家があらわれることを予期しておいても、さして思慮実力とも両全といえる程な人物は見あたらない。丹羽、柴田、滝川、羽柴──まずどれもこれも急には活動できまい。できたとしてもさしておそれるに足るほどな者はいない。
家康はそう観ていた。諸事、肚の底にそれを深く据えておいてのことばであり行動であるのだった。しかし扈従の面々には、やはり眼前の問題──この危地をどうして無難に三河まで切り抜けて通ろうか──のほうが、もちろん重大に苦慮されていた。それがまた、普通人の普通でもある場合だった。
「道を見に参った物見のものが帰りました、あちらへ控えさせておきましょうか」
小姓のひとりが、家康のそばへ来てたずねた。家康は、頷いてみせた。待たせておきますか、と小姓はもう一度念を押した。家康はかさねて頷いた。
そのとき石川数正が、ふと言葉をさし挟んだ。
「物見の者の報告を、さきに聞きとり遊ばしてはいかがですか。如何なる変が待ちうけておるやも測られませぬゆえ」
すると家康は笑った。
「いや、いまの取次の容子では、そんな憂いはない。もし異変を知って帰って来た物見なれば、必定、その血相は取次に移り、取次の語気は、またその凡ならぬものをこれへ移して来たであろう。いまの小姓の気ぶりでは、問わずとも、さしたる異常のないことを無言にも語っておる」
数正は赤面した。同じ気持であった他の宿老は、救うように、話題をほかへ紛らした。
「いったい、光秀ほどの者が逆意を仕果して、それが天下に容れられるものと思っておるのであろうか」
家康は黙って、聴く立場を取った。家臣の評も概して一般と異ならないものだった。何よりは光秀が君臣の道義を破壊した点をみな非難した。
「殿のお考えは」
終りに榊原康政が問うた。ほかの家臣も、主人の光秀観を知りたい態であった。
「一言にいえば、光秀はあの賢才を抱きながら、いつのまにか、たった一つの美徳を心に失っていた」
家康はそう前提して、
「謙虚を失っておる」
と、いった。
康政が、かさねて、
「けれど、日向守には平常もずいぶん慇懃な方で、人いちばい謙虚に見うけられましたが」
と得心のゆかない顔を示すと、家康はなお否定して、次のような感想を加えた。
「それは彼が努めてきた教養の結果で、本質ではなかったのだろう。知性の人にはままある姿だ。……が、ついに彼はその一面を持ち切れなくなった。知って放擲したか、思い上がりが磨滅させたか、とまれ謙虚を失ったのは、一代あれほど蓄えて来た知識をすべて鼠に喰わせてしまったようなものだ。謙虚だにあればたとえ事情心情如何にあろうと、あの暴挙には決して出られぬ。──およそわれらが謙虚を打ち捨ててよい時は敵陣へ駈け入る時だけだ」
家臣はみな傾聴していた。そこで康政がふたたび、
「暴とはいえ、光秀の乾坤一擲は、ひとまず図に中ったかたちですが、このまま、うまく後の画策がすすむでしょうか」
聞くと、家康は、まるで問題にしていないように笑って云った。
「すでに、おのれに敗れている者が、何で外に勝てるものか。いわんや、世を統べて、まとめ上げることなどができるわけはあるまい」
この席はこれで起った。そしてもとの方丈へ移ると、家康はすぐ待たせてある物見の男を、縁さきへ招いて、あちこちの情勢を聞きとった。
諸方に物見を放って、昨日から家康が耳に蒐めた情報は少なくない。けれど肝腎な京都、安土方面のうごきは、皆目知れない。交通が遮断されているためと、彼は観察を下していた。
それらの詳細も知りたいはもちろんであったが、さし当っては、帰国までの通路にあたる地方の領主の志向と、土匪の出没や一揆の有無などが重大だった。その形勢によって、帰国の道を選ばないと、みずから求めて網に入る魚となる惧れが多分にあるからである。
「宇治方面は、まださして騒がしい動きも見えませぬ。あれから信楽へ出られ、伊賀へとかかれば、おそらくまだ明智勢の手は廻っておるまいかと察しられます」
午まえに聞いた物見の言も、いま戻って来た物見の報告も大体に同じであった。家康は、それに対して、
「郡山の筒井順慶は、なお奈良に留まっておるか、奈良を出た様子か」
と、糺した。物見は、
「なお奈良に滞在したままでおりますが、家臣の井戸良弘どのは、筒井家を代表して、光秀と会うために、京都へ入ったとか、行くとかいう噂がありました」
と答えた。
「そうか。よろしい」
その程度で、物見の男は退けた。そして家康はまた、左右の重臣たちと額をよせて、ひそかに協議し始めた。もとよりこれからの道すじをどう取るかのことだったのであろう。
この草内に留まって一休みしたのは、夜来の疲れもあったが、かたがた、筒井順慶の向背が気懸りだったことにもよる。筒井家と明智家とは姻戚の関係がある。光秀の一子十次郎は筒井順慶の養子となっていた。当然、こんどの挙には、事前から両家のあいだに黙契があったのではないかと考え得られる理由があった。家康はそれを恐れたのである。
しかもその筒井順慶は、これまた中国出陣の命をうけていて、居城郡山を発し、装備された軍団を擁して奈良まで来ているのだ。時をまたず、いつでもすぐその意志を行動に移す備えができている。それだけに、小勢にしてしかも武装もない家康主従としては、甚だ不気味な存在にちがいなかった。
「奈良に滞陣したまま、きょうもまだ動かず、わずかに槙島の井戸良弘を京都へ行かせているようでは、事前に明智方と諜し合わせがあったものとは思えぬ。……なお数日の形勢を見、光秀の勢いが日に増して加わらば光秀につき、不利と見たら鉾を収めてべつに策を求めようとしているのが順慶の肚ではないかの、わしはそう観るが」
家康の見とおしに宿老たちもみな服した。その見極めさえつけば、宇治を通って、伊賀越えの間道をいそぎ、伊勢へ出て、海路、三河へ渡るのが、困難な道ではあるが、もっとも安全のように考えられる。
「こういう時に迷うていたら限りもあるまい。寧ろ、時が大事だ。一時も早いがよい。それと決めよう」
物事について非常によく考える人でもあるが、また時には、驚くべき放胆と不敵を示す家康であった。そう一決を下すと、彼はすぐ云った。
「腹がすいた。寺僧に湯漬を命じておけ。そのまに支度して黄昏とともにこの寺を立とう」
一行わずか五十人足らずの主従であった。そのうち騎馬の者は六、七名。小姓侍をあわせて三十名とはいない。あとは乗換馬を曳いたり、荷を持ったりしている足軽小者である。
もし土寇の群れにでも襲われれば、たちどころに包囲され、全滅するほかはなかった。乱を見れば忽ち蜂起して、好餌を漁りまわる土匪の徒や野武士の集団は、故信長の遺業がここまでになっていても、まだまだ決して根絶されてはいない。天文、永禄の世頃から見れば、ずいぶん減って来てはいるが、なお少し山間僻地に入れば、さながら百鬼夜行のごときものと随所に出会うのが常であった。
──果たして。
家康の一行が、信楽から伊賀へと向って来たときあとから追いついて来た家士の一名が、その戒めともなる生々しい一事件を告げた。
「同じ泉州に居られた穴山梅雪どのは、御一行がお立ち遊ばした一刻あとから堺を立たれ、甲州へお帰りあるべく、山城の草内まで同じ道を御通過なされたらしく思われますが、途上の者の語るのを聞くと、草内附近で大勢の野武士に襲撃され、敢えなく打ち殺されたということでござります。……いよいよ大乱の余波は山野の隅々まで揺れ寄せて来たようです。──先々、御油断はなりません」
折も折、穴山梅雪の非業の死は一行の者の胆をすくなからず寒からしめた。山城国あたりですらすでにそんな凶相があらわれ出した以上、これからかかる伊賀山中の柘植地方や加太越えあたりの間道はその危ないこと、思いやらるるものがある。
「心配すな。かかる時はいたずらに、心を労うも及ばぬことだ、ただ天に順じ、一路まどわず急ぐに如くはない」
家康はつかれも知らぬ容子である。元来が健康な体質でもあるが、より以上、頑健を誇っている家臣の者がすでに喘ぎ出していた。堺以来、昼夜もわかたず急いでいたし、眠るまも、お互いに見張りし合って、草に臥し、石に枕して、わずかに休む程度に過ぎなかった。
しかし、ここにただ一つの力を得たのは、先年故あって徳川家を去り、以後牢人していた本多正信が、郎党十名ほど連れて、家康を伊賀山麓に迎え、そこから、先導に立って、道案内に努めてくれた一事である。
扈従の人々は、口々に、
「まこと、地獄で仏」
と、云い合ったが、家康はかくべつなよろこびも示さず、
「正信であったか。大儀」
といったのみであった。
ようやく伊勢に入り、船で三河の大浜へ渡りこえた。
人々は初めて蘇生の思いをした。
時は六月の五日。堺からわずか中三日で帰国したのである。
まったく身をもってこの大難中をのがれて来たといってよい主君を迎えて、徳川家の家中はみな泣かんばかり狂喜した。
六月朔日以降、二日も三日も、京都及び近畿地方はほとんど晴天で、照りつける暑さだったが、中国地方の気象は、概して晴曇半ばしていた。
五月末は、大雨がつづいた。六月に入ってのここ両三日も、山岳地方は依然荒れ気味で、西南の風がつよく、南から北へ移行する乱雲に照ったり曇ったりの空をなお持ち続けていた。
(ごろごろと、ひと雷鳴やって来れば、梅雨もここらで霽がる頃だが)
とは、この長雨と黴に飽々した一般の喞ち言であったが、備中高松の一城を、長囲攻略中の羽柴軍にいわせれば、
(もっと降れ。いつぞやのような豪雨が、二夜も三夜も降り流せ)
と、なお八大龍王の暴威を祈りたい程だった。
雨こそはいま、この戦場を決定づけていた。秀吉の作戦は、その設計どおり、全面積約百八十八町歩にわたる渺茫の泥湖を作りあげていた。
孤城、高松の城は、その大湖沼のなかに、ぽつねんと水漬いている。はるかその附近に、禿頭病者の髪の毛の如く見えるものは、森であり並木であり、ところどころの木々だった。
城下の民家もわずかに屋根だけを水面にとどめていた。低地の農家などはすでにその屋根すら現わしていない。分解された無数の木材は濁流のままうごき出して、この大湖沼の周囲を浮游していた。
流木の迅さを見てもわかるとおり、一夜にして出現したこの人工の泥湖は、いまなお刻々水嵩を増している。足守川と長良川の二川を合したものが、どうどうと注ぎ込まれているのである。一見、黄濁のさざなみはただ満々と静止しているかに見えるが、水際の渚を少し見ていると、見ている間にも一寸二寸と、周囲の岸が侵されてゆくのもわかる程だった。
「きょうは暢気者がおるぞ。──あれを見ろ。そち達と似合いの暢気者が」
秀吉は馬の背から、うしろにいる小姓たちの一組へ云った。
──どこに?
と、問いたげな顔をして、小姓たちは皆、馬上の主人が指す方を見た。
なるほど、泥湖の流木のうえに、たくさんな鷺が止まって遊んでいた。
石田佐吉、大谷平馬、一柳市助の弟など、まだ十三、四歳から十六、七歳の小粒組は、首をすくめて、くすくすと笑った。
「わしたちは、鷺かしら?」
すると、中で年上の、森勘八郎がいった。
「戦いの中でも、よく遊んでばかりおるゆえ、殿さまがああ仰っしゃったのだ」
小粒組は、負けていない。
「じゃあ、勘八どのは、なんだろう」
「鴉々。鴉の勘八どのだ」
そんな、子どもらの戯れをうしろ耳にしながら、秀吉はのたりのたり馬を打たせて帰って行く。
いつものように、傘、馬印、以下五十騎ほど連れて陣廻りをして来たもどりである。
それは、六月三日の夕方。
彼はまだ何も知ろうはずはない。
秀吉は日々の陣廻りを欠かさなかった。ほとんど日課としていた。
五十騎、或いは百騎を従え、ときには子ども(小姓)も連れ、長柄の大傘を翳させ、燦々と、馬印を立てて練り歩く彼の「御通過」を仰ぐと、味方の兵は、
──うちのおやじが通る。
そう思った。見かけない日は何となく物足らなかった。
秀吉もまた、右顧左眄。
──やっているな。
汗や泥にまみれている兵、食うにたえない程な物を美味そうに喰べている兵、常にどこか笑いをもって退屈を知らない兵。そうした若々しい生命のかたまりを眺めない日はものさびしい。
かがなえば、この中国へ一司令官として軍務について以来、五年にわたる長い戦陣生活であった。上月城、三木城、その他、各地の転戦苦闘は言語に絶えるものがあった。戦いの困苦や危険のほか、主将としての精神的苦境にも幾たびとなく遭った。
あの気むずかしい信長へ遠くから仕えて、つねに三軍のうちにその主君在るかのごとく慎み、信長をして、満足させ、安心させておくだけでも、容易なる気苦労ではない。
いわんや、信長の周囲、味方の諸将のうちにすら、彼の出頭を、余り快しとしない、幾多の人間的内争もあるにおいてはである。
しかし、秀吉は、
──ありがたい。
と、この五年間のあらゆる艱難にたいして、朝、太陽を拝むときの、あの心のままで、感謝していた。
こんな試煉は、求めて得られるものではない。そも、いかなる思し召があって、天はかかる百難また百難をこの身に与えて下されつつあるのかを、ひとり考えることもあった。
ひいてはなお。
生れつき余り丈夫でもない肉体なのに、この矮短な一小躯をもっても、それに剋って来られただけの意志を作っておいてくれた幼少時の貧苦と、世路の逆境にも、沁々ありがたさを思う日もあった。
そして彼は今や、この世へ「人」として生れ出た意義の無限大を覚えるとともに、生きている日々が、楽しくてならない「時」と「年頃」に到っていた。
だから彼が放つ声は、
──やあ。やってるな。
という何でもないことばでも、将士の心をして愉快にさせた。辛くても、喰わないでも、彼とともに暮す日を最大のよろこびに思わせた。
そのくせ、彼の顔は決してにこにこものではない。石井山の本陣にあっても、なかなか十日に一ぺんの湯浴みもできず、皮膚は五年越しの戦場焦けにくすぶり、赤っぽい髯はとかくもじゃもじゃたまりがちであった。
いま敵の高松城へは水攻めの計をまったく施し終って、信長の西下を待つのみとなっているものの、長良川の一水をへだてた日差山その他には、毛利の吉川、小早川軍の三万余が近々と孤城の援けに来ているのである。──それらの山地にある対峙中の敵陣からは、秀吉が陣廻りに歩いている傘や馬印も、陽の晴れ間には、よく見えるはずであった。
彼の列はやがて石井山の麓へ来ていた。龍王山から移って後、本陣はこの上の持宝院に置かれてあった。
「お帰りあそばされませ」
一ノ木戸に迎える者、山内猪右衛門一豊であった。同様、二ノ木戸にある者、浅野弥兵衛長政。
若葉の夕闇に、ここかしこ、陣屋の炊煙が上がっていた。どんな幽邃な寺院も、ひとたび軍馬の営となると、そこは忽ち旺盛な日常生活の厨房や馬糞のぬかるみになった。
「おいよ。馬を取れ」
山門の前で秀吉は降りた。藤堂与右衛門高虎、ことし二十七である。走り寄って、
「いただきます」
と、手綱をうけて、厩の方へ曳いてゆく。
秀吉はなお、雑士たちのあいだをぶらぶら歩いて、
「おいよ」
と、また声をかけた。
四、五人の兵が炊事用の薪を伐っていたのである。そのなかに桜の木もあった。秀吉はそれをさしていうのだった。
「なるべく、雑木を捜して伐れよ。桜は伐るな。花見する日の百姓がさびしかろうて──」
それから門側の一柳市助の陣屋をちょっと覗いて、炊事番が何か煮ている大釜のにおいを嗅ぐと、
「うまそうだな」
と、左右の部将とともに笑い、この頃はまずいという物は知らなくなったなどと語りながら出て行ったが、ふと、右側の陣幕のすそに屈まっているいとも小さい幼な武者を見かけて、
「この童は、たれの子か」
と、訊ねた。
一柳市助が、恐縮顔に答えた。
「私のいちばん末の弟です」
「ほ。……幾歳になる」
「十三に相成ります」
「名は」
「名は四郎右衛門と申します」
「かわいそうに、爺みたいな名じゃないか」
「このたび、中国へお供仰せつけられ、家を出る折は、もっと小そうございましたが、連れて行けとせがんで、どうしても肯きません。足手まといと存じましたが、許してやるについて、いずれ叔父の名跡を継ぐ者でございますゆえ、四郎右衛門と名のらせましたもので」
「そうか。足手まといなどと申すな。戦陣に加えてさえおけば、武者だましいは自然と備わる。小さいほどいいわさ。幼少のうちほどいい。……これ童、於四郎というか」
秀吉は、歩み寄った。四郎右衛門はその前に、はやちょこねんと地に坐って礼儀していた。が、その膝に、兵士の陣笠をかかえて、何か大事そうにしていた。
「何だ、それは? ……何を拾っていたのじゃ」
「はい。桜ンぼを拾っておりました」
「なるほど。だいぶ赤く実っておるな」
──秀吉は暮れかかったあたりの梢を仰ぎ、いきなり四郎右衛門の膝にある陣笠の中へ手を伸ばして、
「甘いか。……ウム、これは甘い」
ふた粒三粒、それを口に噛みながら、本堂のほうへ立ち去った。
本堂は桐紋の幕に囲まれていた。それも、廻廊も、階も、梅雨湿りで水気を含んでいないものはない。
秀吉の歩んでゆく所、甲冑の人影が、次々出迎えた。営中はすでに仄暗く、随所、短檠の灯やかがりが点っている。彼は、客殿とみゆる一室にようやく坐った。
「おつかれも嵩みましょう」
しとねを並べて、一客が坐していた。堀久太郎秀政である。
信長の下向に先だって、中国に着く予定の日取やら、陣営の準備、ほか万端を、秀吉と打合わせておくため、一足さきに、これへ来ているものだった。
「いや、戦陣生活もよく身についた。近頃はとんと、不自由とか、疲れとかを覚えない」
秀吉はそう笑って、
「稀に、安土へ上がると、御主君までおいたわり下さるが、ふいに厚い衾などに寝ると、却って寝苦しゅうて、よう眠れぬ。……具足のまま、手枕かって、戦いのひまに、ごろりとやる一睡の味は、戦場ならでは貪れぬ無上のものでな」
──その語につづいて、
「食事はなされたか」
「まだでございますが」
「では、いっしょに戴こう」
と、小姓を顧み、
「支度をいそがせい」
──と命じながら、
「彦右衛門は、いかがいたした?」
と、たずねた。小西弥九郎が、それに答え、
「蜂須賀どのは、此寺の一僧をつれて、どこぞへお出かけになりました。多分──」
と云いかけるのを打ち消して、秀吉はまた、
「茂助も見えんか」
と、つぶやき、夜食のお相伴の者を求めるように見まわした。
「その堀尾どのには、実はてまえから御足労をねがって、近村の庄屋寄合いへ、お出向きを願ったので」
と、弥九郎が云い足すと、
「何しに」
と、秀吉は理由を質した。
弥九郎は自分の役儀上、この近村から軍糧の徴発に当っていたが、とかく庄屋や百姓たちのあいだに、不正や非協力的言動が絶えないので、堀尾茂助に行ってもらって、庄屋どもを大いに叱ってもらうつもりで──と、実状を説明した。
「そう百姓たちを狡いものと、頭から見るな──」
秀吉は却って弥九郎を叱った。
「本来、純なものだ。小利は知っても大利を覚らないほど素朴なものだ。また、不正不正というが、これもぜひもないことよ。およそ、戦いの世には、人の神性も飽くまで高く顕われるが、人の弱点や小悪の性も、それと同じ程度に、平時よりも容易に横行しやすい。──その神性はいよいよ昂まるように、その悪質はこれを出ぬようにするのが、まつりごとと申すものぞ。叱るばかりが能ではない。百姓のよいところもふかく観ていたせよ」
「はい」
「久太郎どの。あちらで飯を食おうか」
秀吉は、秀政とともに、方丈へ入った。──ちょうどその頃である。岡山道の飯倉の木戸で、早馬を降りた一人の使いが、番の武者たちに囲まれていたのは。
この往還、岡山から秀吉の石井山へも通じるし、日幡を越えて、小早川隆景の陣営、日差山へ行くこともできる道である。
当然、ここの木戸は、いわゆる抑え口として、守備厳重だった。
「──長谷川宗仁様からの使いですッ。怪しい者ではない。京都を二日の昼立って、いま着いたのだ。決して、うろんな者ではない」
きびしく、そこの武者たちに、左右から腕を組まれて、暗い道を行くあいだも、飛脚の男は、のべつ、囈言みたいに、さけび続けていた。
彼の脚もとと、疲れきっているその体とを親切に左右から扶けながら歩いている武者たちは、
「何をいうか」
と、笑って、
「たれも、怪しんで、馬から引き下ろしたわけじゃない。早馬から降りたとたんに、腰が抜けて歩けぬ様子だから、介添して、連れて行ってやるのではないか」
「だが、この道は?」
と、飛脚は、なお肩越しに、うしろを見たり、前の闇に、足をすくめて、
「いったい、どこへ行くのでござる。どこの道で」
「知れたこと。石井山の御本陣へまいるのであろうが」
「では、あなた方は、まちがいなく、羽柴殿の麾下ですか。毛利方の者ではありませんな」
「先にこっちで訊いたことを、今度は自分から訊いていやがる。はははは。この飛脚、よほどどうかしておるぞ。逆上ッておる」
送りの武者たちが、顧み合うと、飛脚の男は、ぐたと、坐りかけてしまった。
「おいッ。どうした」
ひとりが松明を近づけて、彼の顔の前でいぶした。
「あッ。いけない。──気を失っている」
武者たちはあわてて、附近の小川から泥水を掬って来てその唇へ飲ませたり、飛脚の背を打ったりした。
「おいッ。しっかりしろ。──いま気を失っちゃいかんぞ。本陣はまだだぞ」
飛脚の顔はまッ青である。うなずきうなずき歩き出した。
飲まず食わず、きのうから早馬に鞭打って来たものらしい。そう思うと、初めはよい程に、おもちゃに扱っていた武者たちにも、
(──ただ事ではない)
と、思われ出した。
すぐこのことは、山麓にある山内猪右衛門の隊から浅野弥兵衛に伝達され、中途から弥兵衛の部下が、半病人の飛脚を受け取って、やがて本堂の下まで伴った。
営中の夜もすでに、更けて、所々のかがり火のほか、墨の如き夜色である。──番に立った浅野の家来の足もとに、飛脚の男は、ふたたび失神したように地上に平たくなっている。
桜の実か、毛虫か、時々そこらに、ぽとりと、何か落ちる音がしていた。
夜は亥の刻(午後十時)頃であった。
まだ秀吉は起きていた。
食事後。折ふし何処からか立ち帰って来た蜂須賀彦右衛門を見ると、彼と堀秀政だけを伴って、陣中の居室としている書院へ移っていた。
そこでの鼎坐はだいぶ長かった。小姓たちまでみな退けて、極く内輪の密談らしく思われた。ひとり許されていた連歌師の幽古のみが、頃をはかって、陰で茶筅の音をたてていた。
そのとき、たたたたと小走りな足刻みが遠くから聞えた。かたく人払いを命じられているので、杉戸口まで来ると、当然、その跫音は小姓溜りの咎めに会って、遮られているふうである。
一方はひどく急きこんで来た様子だし、一方は血気生意気ざかりの年少者ばかりなので、何かことばの弾みから喧嘩でも始まったような声もしてくる。
「幽古……何だ?」
秀吉のいる所からこう問われて、幽古は耳をすましたが、
「何か、わかりませぬ。小姓衆と御番衆らしく思われますが」
「見てこい」
「はい」
炉辺の物をそのまま、幽古はすぐ起って行った。
見ると、表御番の士と思いのほか、浅野長政自身なのである。
だが、小姓溜りの年少者たちは、たとえ長政殿だろうが、誰だろうが、お人払いの中は、断じて取次はできない。それを、取次がぬなら押し通るぞ、などと威嚇するのは怪しからぬ。通るものなら通ってごらんなさい、小姓たりとも、ここに控えているのは、伊達や飾り物ではありませんぞと、負けずに息まいているのだった。
「まあ、まあ。お静かに」
幽古は、まずきかん坊の小姓たちから宥めておいて、
「浅野様。何事でございますか」
と、たずねた。
弥兵衛は手につかんでいる状筥を示して、京都からたった今着いた早馬の使いの容子、ただ事ならず思われるので、何かお人払い中と聞くが、すぐこの由を、殿のお耳へ入れてもらいたいと云った。
「お待ちくださいまし」
幽古は奥へかけこんで行ったが、すぐ引っ返して来て、
「どうぞ」
と、導いた。
弥兵衛は流し目に、横の部屋を見ながら通った。その中の小姓たちは急に黙って、皆、そっぽを向いたまま知らん顔していた。
「弥兵衛か」
短檠を遠ざけて、秀吉はこなたへ膝を向け直した。
「はい。おはなし中とは承りましたが」
「何の、早馬ともあれば。──して、たれからの状だ」
「長谷川宗仁からの由でございますが、ともあれ、御披見を」
長政はそれを差し出した。姫路革の状筥の朱漆に短檠の灯がてらと照った。
「はて。宗仁から早馬とは、何事であろう?」
秀吉は、状筥を取り上げながら、堀秀政の顔を見てつぶやいた。
秀政も、同様に、
「解せませぬな」
と、小首を傾げるのであった。
長谷川宗仁といえば、信長の茶道衆である。日頃からさして親しくもしていないし、わけて茶道の者が突然この陣中へ早馬を打って書状をよこすというのはおかしい。
しかもまた、弥兵衛長政がいうところによれば、その飛脚は、昨二日の正午の刻に京都表を立って、いま三日夜の亥の刻にここへついた者だというのである。
京都からこの地まで七十里余の道を、ざっと一日半夜で来たことになる。飛脚としても、これは容易な迅さではない。おそらく途中飲まず食わず、夜も駈けとおして来たものにちがいない。
「彦右衛門。燭を、もすこし横へ寄せてくれい」
秀吉はやや身を屈めた。
宗仁の書面は彼の指に解れた。極めて短文であり、また非常な走り書である。──が、一読卒然として、秀吉の頸もとの毛は、燈火にそそけ立っていた。
「…………」
「…………」
各〻控え目に膝を退げて坐っていたが、秀吉の頸から耳のあたりまで、さっと色が変ったので、久太郎秀政も、弥兵衛長政も、彦右衛門正勝も、思わず身を前へのばして、
「……殿。……殿ッ。いかがなされましたか」
こう三人の者に左右から訊かれたとたんに、秀吉ははっとわれをよびかえしていた。一読してせつなに眼もかすみ、心気も昏くなっていたのであった。
そしてふたたび、書中の文言を疑うように、眼をそれへ努めてみたが、疑うべくもない文字の上へ、はや滂沱と涙がさきにこぼれていた。
「──これは。何としてのおん涙ですか」
「常にもない御容子」
「宗仁の書中。何事かおかなしみのことでも告げてまいりましたか」
この際、三名が、ひとしく察し取ったことは、長浜にのこしている秀吉の老母の身であった。
陣中、稀にでも、国元のはなしが出るときは、かならず老母のことをいう秀吉であった。秀吉が母を語るときは、小姓部屋の子どもらともかわらない思慕をあらわしていうすがたを誰もみな眼に見ている。
──さてはと、すぐそのひとの危篤か死去に聯想したのであったが、やがて涙をぬぐって、秀吉が襟を正した容子を仰ぐと、悲痛な色のうちにも甚だしい厳粛な気と怒りをふくんでいる。その烈しい憤怒、きびしい涙は、母子の悲情に打たれたものでは到底ない。
「……秀吉。ことばをもっていま告げる力もない。久太郎どのにも、正勝も、長政も、これへ寄って見られい」
なお彼は、面をそむけて、しばしば肱を曲げては哭いた。
三名とも霹靂に打たれたような面である。──久太郎秀政も、彦右衛門正勝も、弥兵衛長政も、茫然、自失しないばかりに。
信長の死。信忠の戦死。
いまのいままで、考えられもしなかったことが、儼として事実を示し、早打状は、目に見るごとく、昨二日朝の本能寺の実状を急報している。
──あり得ることか。世の中とはかくも不測なものなのか。一瞬は驚く心すら痺れて、涙も出なければ、声も出ない。
わけて秀政は、ここへ来る直前に、信長とは、親しく会いもし、何かと直接に、指命もうけて来たのであるから、ほとんど、信じられないように、幾度も幾度もその飛脚文を見まもっていた。
その秀政も涙にくれ、彦右衛門も落涙して、ここの一燈は、涙に掻き消えるかと思われるばかり暗澹な夜色に沈みきってしまおうとした。
──と。秀吉はむずむずとからだをうごかし出した。坐り直したのである。そしてすこし力むような顔して大きく唇をむすんだかと思うと、ふいに、
「おういッ。誰か来いッ」
と、遠い小姓部屋へ呶鳴った。
天井をつきぬくようなその声には、日ごろ胆太い蜂須賀彦右衛門も堀秀政もとび上がるほどびっくりした。第一、その秀吉も共々涙のそこに沈んで、身も世もなく泣きぬれていた態だったので、よけいに胆をつぶされたのもむりではなかった。
「はあいッ」
返辞と共に、小姓部屋から元気のいい跫音が飛んで来る様子である。その跫音と、秀吉の声のために、秀政も、正勝も、とたんに悲嘆をふき飛ばされてしまった。
「──お召しですか」
「参ったのは誰だ」
「石田佐吉でございます」
答えながらなりの小さい佐吉は、次の間のふすまの陰からもっと進んで、畳のまん中まで出て隣室の一燈へ向って手をつかえ直した。
「佐吉か。よかろう、おまえでもよかろう」
「はい」
「官兵衛孝高の陣屋まで一と走り行って来い。官兵衛にちと、話があるから、寝る前に、顔を見せい、と申せばよい」
「それだけでよろしゅうございますか」
「それだけでよい。──黒田の陣屋だぞよ。暗夜だから間違えるなよ」
「はい」
「待て待て。皆は、何しておるか」
「退屈しております。戦いがないのは辛いものと皆で話しておりました」
「幽古は、次におるか」
「おりまする」
「小姓部屋へ菓子など与えて、おでこ押しでも腕相撲でも取れと申してやれ。こよいはちと夜更かしせねばならぬゆえ、あれ達の居眠りふさぎに」
「かしこまりました」
「佐吉。行け」
「行ってまいります」
秀吉こそ、ゆるされるなら声をあげて泣きたい今であろう。
信長にまみえたのは、年まだ十八歳のときからだ。その手で頭も撫でられ、この手で草履もつかんで仕えた人である。
いまやその主君は亡い。
信長と彼とのあいだは、他人の思うような単なる主従観念では決してない。血もひとつ、信念もひとつ、死生もひとつと期していたのである。はからずもその主はさきだち、われのみなお生命ある身かと、それをあらためて秀吉は意識するほどだった。
(──君はわれを知る。われを知り給うものまた君を措いて世にあらじ。本能寺に御最期の火裡一瞬、君の御心中に、われを呼び給い、われに遺託ありしこと必せり。われ秀吉、微身たりとも、君が怨念と遺託に、なんで応え奉らずにあるべきや)
彼はひとりこの夜誓った。いたずらなる嘆きをいわなかった。それをいうならば、痛涙に身をただよわし、慟哭に血を吐いても、なお足らない。思うはただ死せる信長が、死の直前に、何を自分に遺命されたか──ということのみである。
あきらかに、彼は主君の無念を知ることができた。日頃の主君に徴しても、いかにここまでの統業を半途にして世を去ることの残念であったかをも、惻々胸に酌むことが出来た。
──それを思うとき秀吉はたとえ寸分たりと嘆いてなどいられなかった。後図をいかにすべきやなど考えているいとまもなかった。身は中国にあるが、勃然、心はすでに敵明智光秀へ向き直っていた。
そして。
眼前の敵、高松城をいかに処理するか。毛利の大軍三万余をどう捌くか。なおまたその大敵と四つに組んでいるかたちにあるこの陣地から、どうして一刻も早く上方への転進を策すか。かつ、光秀を打ち破るかなどの──考えれば、山また山の如く横たわっている幾多の難問題に対しても、秀吉は今、もそもそと坐り直したときに、
(深く考えるにも及ばぬ。天機は寸秒の間にもうごく。何よりはすぐ行動だ。着々、実行あるのみ。一難一難、身をもって当りつつ、その都度、ずばずば考えを決してゆけばよい)
と、肚をすえてしまったもののようである。俗にいう──ここ千番一番のかねあい──とする生涯の大覚悟は眉にも見え唇にもうかがわれた。
「そうだ。──飛脚の男はどこへ置いたか」
石田佐吉が去るや否、ほとんど、いとまを措かず、秀吉は、浅野弥兵衛に訊いていた。弥兵衛が、
「士どもに命じ、御本堂の下に、控えさせておきました」
と答えると、秀吉は蜂須賀彦右衛門に眼くばせして、
「御辺、その男を台所へ伴うて、飯なと食わせ、一室へ監禁して、誰にも会わせぬように始末しておけ」
といいつけた。
彦右衛門が心得顔に、起つのを見て、弥兵衛が、その儀なれば自分が参りましょうか、というと、秀吉は顔を振って、
「いや、弥兵衛にはべつに申しつけることもあれば、しばし待て」
と、云った。
「弥兵衛には、これよりすぐに、麾下の士の目きき足きき選りすぐって、京都表から毛利領へ通ずる往来という往来、間道という間道に、水も漏らさぬような手配をなせ。要路は遮断いたすもよい。怪しの者と見たら引ッ捕えろ。さなき者と見ても、一応は厳しく持物や素姓を検めろ。──この儀は、大事中の大事であるぞ。いそげ。念を入れて」
秀吉は半眼のまま、一息にこういいつけ終った。
浅野弥兵衛はすぐ出て行った。あとには、堀秀政と、歌人の幽古だけが残った。
「幽古。何刻だな? いまは」
「亥の下刻(午後十一時)とも相成りましょうか」
「きょうは、三日だったな」
「左様でございまする」
「あすは四日か」
ひとり呟いて、
「四日。五日」
ふたたび睫毛を半眼にふさいで、何か数うるごとく膝のうえで指をうごかしていた。
「久太郎」
「はッ」
つい先刻までは、久太郎殿といい、秀政殿と敬称していたが、このときから秀吉は無意識か意識してか、呼び捨てにしていた。
秀政もそれに対して、何の感情をさし挿む余裕もなかった。むしろこうして見ている間にも、その人間が一変してゆくかのように思われる秀吉の威圧にたいしては、みずからも手をつかえて答えざるを得ないような感じすら受けていた。
「──秀政とて、こうしてはおられませぬ。何がな、お指図くだされたい」
「いや、もうしばし、ここにいて欲しい」
と、秀吉は彼の焦躁をなだめてから、
「やがて、官兵衛孝高も見ゆるであろう。──そのいとまに、飛脚の処置、どういたしたかちと心がかり、彦右衛門が参っておるが、念のため見て来てくれぬか」
「承知しました」
秀政は起ってすぐ寺の大台所へ行ってみた。
飛脚の男は、厨のすぐそばの小部屋で、がつがつと湯漬飯を掻っ込んでいた。
きのうの午頃から、飲まず食わずだったこの男は、腹いっぱい食べ終ると、
「ああ」
と、独り胃を伸ばしていた。
すんだのを見て、
「飛脚。こちらへ来い」
彦右衛門が手招きして、庫裡の一室へ連れて行った。塗籠の経蔵である。ゆっくり寝むがよいと宥って、男を中へ導くと、彦右衛門は外から錠を卸してしまった。
久太郎秀政は、そのときそっと側へ来て、彦右衛門の耳へささやいた。
「万一、お味方の中たりと、京都の変が漏れてはと、あちらでお案じの態だ。いっそいまの飛脚は……」
と、殺意を目にあらわすと、なぜか彦右衛門はかぶりを振った。そして、そこから、数歩を移してから、
「あのままでも、おそらく死ぬ。食っては堪らない。他愛なく死ぬものですよ」
と、云い足して、経蔵の方を片手で拝んだ。
底本:「新書太閤記(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年7月11日第1刷発行
2010(平成22)年8月2日第20刷発行
初出:太閤記「読売新聞」
1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日
続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙
1949(昭和24)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「太閤記」「続太閤記」です。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2015年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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