新書太閤記
第五分冊
吉川英治
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湖畔の城は、日にまし重きをなした。長浜の町には、灯のかずが夜ごとのように増えてゆく。
風土はよし、天産にはめぐまれている。しかも、城主に人を得て、安業楽土の国とは、おれたちのことなれと、謳歌せぬ領民はなかった。
ここで一応。
秀吉の家族やら家中の人たちを見覚えておくのも無益でなかろう。
なぜなら、彼の幸福は今の家庭にあるし、彼が一国の主として持った家中の備えもここに整ったかの観があるからである。
まず、家庭には。
母があり、妻がある。
そして近頃、子もあった。
於次丸どのという。
けれど、寧子が生んだのでも、彼が他の女性にもうけた子でもない。ふたりの仲に子がないのはさびしかろ。そう主君の信長がよくいうことばから、信長の第四子をもらって、養子としたのである。
秀吉の弟、あの中村の茅屋で、よくピイピイ泣いていた弟の小竹は、いまはすでに、立派な武将となって、羽柴小一郎秀長と名のり、そのかたわらに業を援けていた。
また、妻の弟の木下吉定も。それにつながる親族たちも。
重臣には、蜂須賀彦右衛門、生駒甚助、加藤作内、増田仁右衛門、すこし若い家士のうちには、彦右衛門の子、父の名をついだ小六家政、大谷平馬吉継、一柳市助、木下勘解由、小西弥九郎、山内猪右衛門一豊など、多士済々といえる。
いやもっと、元気いっぱいで、いつも騒々しく賑やかなのは、小姓組であった。
ここには。
福島市松がいる。加藤虎之助がいる。仙石権兵衛がいる。芋の子やら雀の子やら分らないのがまだ沢山いる。
よく喧嘩があった。たれも止めないのでいい気になってやる。大きな福島市松などが、よく鼻血を出して、鼻の穴に紙で栓をかってあるいているのが見かけられたりする。
どうした?
とも誰も訊かない。
かれらはよい侍になるのが目的なので、侍のみがいるこの城中に起居していることは、すでに学寮にいる学生も同じだった。いいこと悪いことみんな真似する。取捨分別はおのずから知るに任せてある。
中でこの頃、急に大人しくなったのは虎之助である。同輩の茄子や芋が何をして遊んでいようと、
「われ関せず」
というような顔して、午まで側仕えをすますと、書物をかかえて、さっさと城下へ出て行ってしまう。
「あいつすこし生意気になったぞ。この頃、書物などかかえこんで」
とかく、いじめられるが、この頃は、前のようにかんかんに怒って来ない。にやにやして、いつもすうと行ってしまう。
市松も、彼と性が合わないので、
「大人ぶっていやがる」
と、甚だ怪しからんように、年下の小姓仲間をよく煽動した。
虎之助は、ことし十五、去年から城下の軍学者塚原小才治のやしきへ授業にかよっているのである。小才治は同姓塚原土佐守という剣人の甥とかいうことだった。いずれにせよ、その頃にはまだ道場という設けはなく、ひとりの師から軍学の講義もうけるし、槍術や剣道やまた武士の礼法戦陣の心得など、すべてを教えられるのだった。
きょうも。
虎之助はそこから帰って来た。もう黄昏に近く、西日の影が、町の豆腐屋や織物屋の軒に赤々とさしこんでいる。──その一軒に、何か、まっ黒に人がたかっていた。
「何かしら?」
と、虎之助は足をとめた。
すると、そこの軒ばにたかっていた群衆が、わッと家のまえを開いた。
逃げそこねて、ころぶ子がある。老婆がつき倒される。泣き声で人のうしろへかくれこむ女がある。
「──退けいッ。な、なにを、寄りたかって、げらげら笑うか」
酒屋だ。
奥から、よろよろと藪から大虎の現われるように、酒徳利を片手に、出て来たのは、酔っぱらいである。
頭のよこに、盃形の禿がある。よくよく酒の好きなしるしと、一度見たものは忘れまい。
長浜城の足軽頭、木村大膳の手についている足軽で、どういうところから来た名まえか、市脚の久兵衛と名のる男だった。
けれど、町のものは、そんな面倒な呼びかたはしなかった。
禿久といっても、とら久といっても、あああの足軽かと誰も知っている。
その有名なのは、禿のためではなく、飲むと暴れるからだった。
ところが、
(おれが出世しないのは、この癖があるからよ。これさえやらなければ、五百石や七百石の士分にはなっているのだ)
と、彼自身、よく豪語するとおり、実際、その腕力にいたっては、へたな侍たちの及ぶところでなかった。
戦場での功名手柄も、かぞえきれないほどあると、彼が威張るのも、嘘ではないのである。
その証拠には、何をやっても、組頭の木村大膳は、知らん顔して、彼を重用しているのでもわかる。
また、町の奉行でも、
「また、禿久か」
訴えを聞くだけで、一こう懲らしてはくれない。
彼の武勲を知っているし、また組頭の木村大膳を憚っている加減もある。
だから、この虎は、いい気になって、ややもすると、横鬢の盃形の禿について、肩をいからすのである。
「これやあ、こう見えても、生れつきのものじゃあねえぞ。そもそもは洲股の戦いで、斎藤方の湧井将監てえ八十騎持ちの侍に出会い、あの河原でだ、そいつの槍を、ふん奪くろうとしたら、突いて来やがった。交わしたはずみに、肉をチョッピリ削がれたのが、いまもって、この美男子の玉に瑕となっている。何を笑う。やい、おれの禿を笑ったな。戦の味も知らねえくせに、このおびんずるめ」
いまもこの調子で、ここの酒屋の奥で昼酒をのんでいるうちに暴れ出し、酒屋の雇人をなぐりつけたあげく、あやまりに出た老婆をうしろ手にしばりつけ、裏口から逃げ出そうとした亭主をつかまえて、威嚇しては酒をつがせ、酒をあおっては、自慢ばなしを独り言に談じていたものである。
それを門口にむらがって見物していた近所隣の者が、何かのはずみに、げらげら笑ったので、笑えばすぐひがむこの虎は、猛吼して立ち上がり、いきなり群衆を割って、往来へあらわれて来たものらしい。
もちろん、彼の足どりはもういいかげん怪しいので、女子供もよく逃げて、ひとりも爪にかからなかった。
けれど、そこに、ぽつねんと、さっきから逃げもせずに立っていた少年がある。虎之助だった。
禿久は、ぬうっと、顔を寄せて行った。逃げるかと思いのほか、一歩もうごかないので、癪にさわったにちがいない。
「チビ。汝れや何だ」
虎之助は、ぷんぷんと襲う、酒のにおいに顔をしかめながら答えた。
「御城内の於虎だよ」
「なに、虎だと」
彼は鼻を鳴らして、あいての小さい体を見おろした。
身なりのわりに眼は大きい。その眼を、なお大きくみはったまま、虎之助は、禿久を睨め返していた。
「わ、は、は、は。こいつは奇遇だ」
突然、禿久は身を反らして、仰山に笑い出した。そして虎之助の顔を、壺を持つように両手で持った。
「おまえも於虎か、おれも大とらだ。兄弟分になろう」
「いやだ」
「そういうない」
「きたない」
押しつけて来る顎を、突き退けた。怒りっぽい禿久が妙に怒りもせず、こんどは虎之助の手くびを握って、
「一杯交わそう。兄弟分のさかずきだ」
もとの酒屋の軒へ引っ張り込もうとする。虎之助はうごくまいとする。彼の腕の根が抜けるか、禿久の腰がくだけるか、果てしなく引っ張り合っていた。
体重はないし、あいては有名な強力足軽、ずるずるッと酒屋の軒下まで持ってゆかれた。あたりに見ていた近所界隈の老若男女は、
「あれッ、あれッ、かわいそうによ」
「お小姓さん。逃げなされ」
「たまるものか、そのとらに取っ捕まっては」
騒いではいるが、相手は恐いし、救う術もなかった。
だが、虎之助は、顔いろもかえていなかった。
片手に抱えていた書物を、酒屋の内へ抛りこむと、
「やめないか」
と、口をへの字にむすんで、相手に念を押した。
「来いッたら来いッ!」
禿久が、遮二無二、腕を引っぱると、虎之助は身をねじって、空いている左の手で、脇差を抜いた。
「わッ、ちッ、ちくしょうッ」
刃ものを見ると、彼の熟柿のような顔も、一瞬に、さっと青ざめた。その筈である、どうやって斬ったものか、禿久の片腕が、ごろんと、下に落ちていた。
もちろん鮮血はほとばしっていた。酒気のあったせいか、それは夥しい血だった。虎之助の胸から袴へもかかって、見ていた者の眼をおおわしめた。
「や、やりゃあがったな」
禿久は猛然、むしゃ振りついてきた。脇差はすッ飛んだ。巨きな体躯と、小さい体が、たちまち上になり下になりして、土と血にまぶされた。
いかに猛勇な禿久も、腕の一本を失くしては、もう日頃の威力もなかった。それに出血はひどく、見るまに貧血して、ぐったりと、虎之助の下に組みしかれていた。
「羽柴家の恥さらしめ。弱いもの虐めの極道め」
虎之助はそう云いながら、相手の眼や鼻がくしゃくしゃになるほど拳でぶん撲っていた。
「…………」
遠く逃げ退いて見ていた人々は声を出すのも忘れていた。あとの祟りを恐れてではない。あまりに予想が外れたからである。
虎之助は、脇差や書物を拾って、もとのように書物をかかえると、遠く見ている人々へ。
「もう大丈夫だよ。たれか酒屋の年よりの縄を解いておやり。それから、この足軽は、奉行所へ渡すといいよ。それが一ばんいいよ」
云いすてると、彼は見向きもせず立ち去った。長浜城の狭間にはもう燈灯がついて、夜となった町の辻には、いつまでもがやがや人が躁いでいた。
真っ暗な石井戸のそばで、たれか水でも浴びているような音がする。主命で探しに来た市松は、闇をすかして、
「於虎かあ」
と、よんでみた。
「おうい」
と、のろまな返辞がする。市松は怪しみながら側へ寄って、
「何をしているんだ、この夜中に」
と、裸の虎之助を見まもった。
「洗濯だよ、洗濯だ」
ざぶざぶ小袖と袴を洗っている。市松が、泥溝にでも転げ落ちたのかときくと、うむと、頷いて洗っている。違うともいわないのである。
「殿さまがお呼びだ、すぐ来い。さむらいのくせにして、泥溝になぞ落ちるやつがあるか。何のために毎日、兵法を習いに通っておるんだ」
叱言を云いながら、市松は先に行ってしまった。あかあかと燭の見える本丸の一間のほうへ。
小姓部屋へもどって、虎之助は着ものを着かえ、やがて秀吉のまえに行って、何用ですかと伺った。席には酒が出ていた。足軽頭の木村大膳は、そのかたわらに苦りきっていた。虎之助はちらとその人を見て、また主人の唇もとへ眼をかえした。
「於虎、そちは今日、えらい事をやりおったそうではないか。大膳がきつう立腹いたし、これへ来て、わしへ訴えおる。──配下の者を傷つけられては黙っておれんと申すのじゃ。道理でもある。どうするか」
「どうもいたしません」
「どうもせぬと」
「はい。相手の者が悪いんですから」
「足軽組の久兵衛とかいう者の片腕を斬ったというではないか、その方が」
「いたしました」
「家中の喧嘩は両成敗の掟、その方の身をわたせと、ここへ参って、大膳がわしを困らせおる。渡されてもよいか」
「よろしゅうございます」
「左様なことを申さずと、そちはまだ少年、大膳へここで手をついて謝ったがよかろう。わしの見ておる前で」
「いやです」
「なぜ」
と、秀吉の眼が、燭にキラとした。
「わたくしに落度はありません。また、わたくしは殿さまの側小姓で、殿さまが、御家臣から迫られて、お裁きに困るようなことは仕りません」
「ははは。云いおるわよ。よしよし、然らばわしは関わん。大膳、何といたすか」
木村大膳は、さっきからじっと虎之助の横顔を見ていたが、
「やはり、於虎の身は、てまえに下しおかれとう存じます」
と、いった。
秀吉はちょっといやな顔をして見せたが、大膳の次のことばで、また明るく冴え直った。
大膳はこういうのである。
「配下の久兵衛が、とかくよろしくないことは、存じております。けれど町なかの往来で、一小姓に、あのような目に遭わされたとなると、組頭として、黙視いたしかねましたので、最前のようなお訴えをいたしましたが、いま、於虎の面だましいを見て、にわかに考え方がちがって来ました」
「どう違ってまいったのか」
「ねがわくば、於虎をてまえの家の養子に乞いうけたいものでござる。さもなければ、てまえの組の士にいたしたいものですが」
「よかろう。於虎さえ、異存なければ。──どうじゃ、於虎。大膳の子にならんか」
「養子などに参る気はございません。真っ平です」
「養子とて、軽んずるな。この秀吉も、養子じゃが」
「でも、いやです」
「あははは。あの通りだ。大膳なんといたすか」
「いたしかたありません。あきらめましょう。しかし清々しゅうござる。よいお小姓、よいお小姓」
大膳はしきりに彼を眺めたり賞めたりしながら、秀吉の杯をいただいていた。いい機嫌に酔っていた。
木村大膳が吹聴したものとみえる。虎之助の沈着と胆気は城内でも評判になった。いや城下の街ではそれ以上のうわさだという。
「於虎、そちも故郷の母へ、便りなど書いてよろこばしてやれ。この後は、百七十石に加増してくれるぞ」
秀吉からも、そういわれた。
かれの得意は思うべしであった。いよいよ勉強し奉公に励んでいた。けれど納まらないのは、同じ年頃の生意気ざかりが同室している小姓部屋の誰彼である。
ここでは、福島市松が年上で、また一番の古顔として、その下に平野権平だの、片桐助作だの、加藤孫六、脇坂甚内、糟屋助右衛門などという大供小供が、非番でさえあれば、ひとつ池の蛙みたいにがやがや躁いでいた。
「於虎、於虎」
「なんだ、市松」
「こっちを向いて返辞をしろ。書ばかり読んでいないで」
「読んでいてもいいだろう」
「ここは寺子屋ではない」
「うるさいな。何の用さ」
「みんなも聞いていてくれ。おい、助作、孫六、甚内、聞いていろよ」
「聞いているよ。於虎に何をいうのか」
「この頃、生意気ぶっておるから、云い聞かせておくのだ。こら於虎、貴さま少し成人したと思って、悪くなったぞ」
「どうして」
「御加増になったと思って、急に威張っておるじゃないか」
「たれが威張ってなどいるもんか」
「いや、大きな面をしている。怪しからん」
「そう見えるのだろ」
「みんなもいっている。わしだけの言葉じゃない。御加増になっても、貴さまはまだおれの下役だぞ。……洲股城におった頃、貴さまは青洟を垂らして、母親の手にひかれて来たろう。あの頃のこと忘れるなよ」
「たれだって、小さい時は、洟を垂らすさ。それがどうしたい」
「みろ、その口ぶりからして、生意気になったことを! われわれだって、いまにみろ、きっと、大きなてがらをあらわして、貴さまなぞ、見返してみせるから」
「おう、結構だ。どんな功名かしらぬが、立ててみせてもらいたい」
「立てずにおくか。おびんずるめ」
「なにを」
「なにが何だ」
両方一しょに立ちかけた。ほかの小姓はあわてて止める。福島市松が逸まって、片桐助作のあたまを撲ってしまう。仲裁人を撲るやつがあるかと助作が撲りかえす。あっちで取っ組む、こっちで掴みあう。
小姓頭の堀尾茂助が、舌うちしながら駈けて来た。茂助の一喝にようやく鎮まったものの、ついこの頃、貼り代えたばかりの襖が破れ放題に破れているし、そこらの調度や机や書物なども乱脈に取りちらかって、目もあてられない有様である。
「殿さまのお眼にふれたら何とするか。はやく片づけろ。そして襖のあなを貼っておけ」
茂助は叱って、それぞれに勤めをいいつけた。獅子の児や豹の子をひとつ檻に入れておくと、彼らに退屈させておくことが、何よりも危険を生じやすかった。
その獅子の児や豹の子が、絶大な楽しみとしていることは、城外へ出て青空を見ることだった。その点、秀吉からゆるされて毎日塚原小才治の道場に通っている虎之助が、たれからも嫉視の的とされていたのは無理もない。
「於市、あしたは殿さまのお供だぞ。助作、権平のふたりもお供に加われ。朝はお早いかも知れぬから、そのつもりで不覚すな」
前の晩、組頭の堀尾茂助からそう云い渡されていた三名は、どこへお供するのか、秀吉の出先はわからなかったが、ともかく欣しさに眠れないほどだった。
さむらい十騎ばかり、小姓四人、あとは御小人の口取中間など、同勢はそれだけだった。
夜明けとともに城を出て、伊吹山のほうへ駈けて行った。狩猟にということであったが、鷹も犬も連れていない。
「殿。どこまでお出でですか」
伊吹の麓まで来ると、さむらいの一人が訊いた。秀吉はつねに先駆しながら、
「どこまでという定めはない。日暮まで駈けあるいて帰るまでじゃ」
「鹿、兎でも追い出しましょうか」
「よせよせ。狩猟などつまらん」
「では、単なる遠乗りという御意ですか」
「単なる? ──そうでもないぞ。大いに意味がある」
「はて。何ぞほかに、思し召がおありですか」
「ある」
「お聞かせ下さい」
小姓組の堀尾茂助、福島市松など、秀吉にせがんで云った。秀吉は馬を立てて、眉に迫る伊吹山を仰ぐ。さむらい達もみな手綱をやすめ、各〻、汗ばんだ顔を山巒に吹かせていた。
「髀肉の嘆──ということばがあるな。知っておるじゃろう」
「存じております」
「では、劉備玄徳の名は」
「後漢の英雄でしょう」
「そうだ。孔明を迎えて蜀を征し、三国の一方を占めて帝座にのぼった人物。この人がまだ志も得ず、孔明にも会わず、同族の劉表に身を寄せて、いわば高等食客をしていた壮年時代に、こんなはなしがある」
「はあ。どんなはなしです」
「一日、劉表と同席して、酒をのんでいたが、ふと厠に立ってもどって来た玄徳の顔を見ると、涙のあとが見える。劉表が怪しんで──君は何を悲しむのかと訊ねたところ、玄徳が答えるには──あなたのおかげで無事安穏に日々送っていられる御恩は、お礼の申しようもないが、ただいま別室で自分の体を見ると、久しく戦場の水を飲まず、美殿に安住して馬にも騎らないため、腿の肉がすっかり肥えてしまった。日月の過ぎるは早く、人生には限りがある。こうしているまに自分もつい安逸に馴れて、何も世にのこさぬうち老将の群れに入るのかと考えたら、堪らなく悲しくなって参ったのです──と、沁々、嘆息をもらしたという」
「なるほど。……玄徳はその時の何不自由ない境遇を怖れたのですね」
「わしもだ。無事は恐い。いまの秀吉はあやうい幸福にくるまれておるからな。きょうは、そう気づいて、腿の肉を削りに出たのだ。うんと汗をかこうと思う」
「では、殿には、ひそかに玄徳の志をお抱きですな」
「ばかを申せ。わしに望蜀の意はあるとしても、あんな山地の一方に屈して、曹操、孫堅ごとき者と争い、互角に一生を終るなど、手本とはいたしたくない。彼は、日没する国の英雄、わしは日出ずる国の民、秀吉の望みはちとちがう」
「働き栄えがありますな。われわれもこの先は」
「もとよりだ。腿に肉を蓄えるなよ」
「だいじょうぶです」
茂助がいうと、片桐助作、平野権平なども、
「痩せています。この通りに」
と、鞍のうえの腿を叩いた。
「もっと痩せろ。そち達、少年の肉は、刀のごとく鍛って鍛って細身にするほど斬れ味はよくなるものだぞ。さ、つづいて来い」
平野へ下るのかと思うと、七尾村から伊吹へ向って、山道を登りはじめた。
腹も空いた、喉も渇きぬいて来た。二刻あまりも山野を駈けたあとである。
「どこかないか。湯漬なと所望するところは」
午下がりの陽をあたまから浴びながら、秀吉以下の者たちは、伊吹の裾を馬けむりあげて降りて来た。
「ありました、ありました」
先に、麓の小部落へ駈け入っていた福島市松が、すこし駒を返して来て、曲り道で手を振っていた。
秀吉以下、近づくと、
「この先によい寺があります。三珠院という真言寺が」
と、すぐ先に立ってゆく。
一叢の幽翠につつまれて閑寂な庫裡や本堂が見える。秀吉は山門に駒をすて、近侍たちとともにぞろぞろと入って行った。
声をかけても、誰も出て来ないのである。秀吉はかまわず本堂へあがって、本堂のまん中にひとり坐っていた。
にわかに庫裡のほうで、人の気はいがしはじめた。寺僧の耳に通じたとみえる。それとまた、城主の休息という思いがけない不意打ちに、寺僧たちは狼狽もしたにちがいない。
「騒がすな、気の毒だ。ただ早う茶をひとつくれい。喉が渇いた」
秀吉の声が本堂ですると、側の一室に見える衝立のかげで、
「はいッ、ただ今」
と、はっきり返辞がきこえた。
衝立のほうを振向いて、秀吉はひょいと小首をかしげた。
すずやかな声であったが、女とも思われない。寂とした伽藍のせいか、よく澄み徹って、しかも可憐なうちに力がある。
──などと彼が不審を感じているうちに、その眸へ向って、つつつと、小きざみに足を早めて、茶碗をささげて来る少年があった。
「…………」
黙然と、礼儀をし、小袱紗に茶碗をのせて、秀吉の前にすすめる。
待ちかねて秀吉の手は、すぐ両手にそれを持って、がぶがぶと一息に飲んだ。
大茶碗に七、八分のただのぬる湯であった。
「稚子。もう一服」
「はい」
少年は立ってゆく。
寺の稚子と、彼は見た。
すぐ二服めを運んで来た。白湯は前よりもすこし熱加減で、量も半分ほどしかない。秀吉は、ふた口に飲みながら、眼を少年の顔に向けていた。
「稚子」
「はい」
「名は何というか」
「佐吉と申します」
「佐吉か。──佐吉、もう一服くれい」
「かしこまりました」
秀吉はしきりに、その後ろ姿にまで眼をつけていた。
こんどは、容易に運んで来なかった。
程経て、菓子を持って来た。それからまた少し間をおいて、前の茶碗よりずっと小ぶりな白天目に緑いろの抹茶をたたえ、足の運びもゆるく、貴人にたいする作法どおり、物静かに秀吉のまえに置いた。
「これで渇も医えた。うまかったぞ」
「ありがとう存じます」
「……む、むう」
秀吉は何か、こううめいた。少年の容貌は稀に見るほどよく整っていた。知性の美といおうか、長浜の小姓部屋にいる於市、於虎、於助、於権などという者どもとは、その言語挙動にしても、著しくちがっているところがある。
「幾歳になる? そちは」
「十三歳でございます」
「苗字はないのか」
「家代々、石田を姓としております」
「石田佐吉というか」
「そうです」
「この近郷には、石田姓が多いようだな」
「けれど、わたくしの家は、石田の中の石田です。たくさんある石田とはいささか違います」
何を答えるのも明晰で、妙に怖れたりはにかむふうなど少しもなかった。
「石田の中でもすこし違う石田とは……どういうわけだな」
秀吉は、微笑をふくむ。
佐吉はそれに答えて、
「この近郷で、いちばん旧い家がらですから」
と、いって、また、
「粟津の戦で、むかし、木曾義仲を射とめた石田判官為久という人は、わが家の御先祖だと、父から聞いておりました」
「ほう、その頃から、江州の武家であったか」
「はい。建武の頃には石田源左衛門という方が、菩提寺の過去帳にものっております。それからずっと後は、この辺の御領主だった京極家に仕えましたが、いつの頃からか浪人して、梓の関の近所に住み、郷士になってしまいました」
「あの関の址の附近に、石田屋敷という名がいまもあるが、そちの先祖の地か」
「はい。仰せのとおりです」
「両親は?」
「ございません」
「そちは僧になるつもりで、寺入りしておるのか」
「いいえ」
首を振った。
ニコとしたまま黙っている。
その笑靨までが、知性の光に見える。秀吉は、ふいに、
「住持はおるか」
と、訊ね、佐吉が、おりますと答えると、これへ呼べといった。
佐吉は、はいと、素直に返辞して立ちかけたが、
「ただいま御家来衆から、お湯漬をさしあげいとのおことばで、住職も厨にはいって立ち働いておりまする。ほかならぬ御城主への御膳、人手にまかせられぬと、先ほども仰っしゃって、取り急いでおるところでございますが……お召しはおいそぎでございましょうか」
「ああそうか。ならば後でもよろしい」
「いずれ、お膳ができ次第、ごあいさつに参られましょう」
佐吉は天目を下げて行った。
秀吉はすっかり気に入ってしまった。彼の小姓部屋に、野育ちの芋の子や茄子みたいなのが多いのは、彼自身、百姓の子であったので、意識して、山野の不遇な児を取り立てて来たためであったが──近頃つらつら考えてみるのに、野性と野性ばかり配していたのでは、いつまでも野性を脱しないのみか、野性のいいところも磨かれて来ない。
脆弱な文化や、爛熟しすぎた知性には、逞しい野性を配することが、本来の生命力を復活するひとつの方法だし、また、余りに粗野で豪放にすぎる野性にたいしては、これに知徳の光をそそぐことによって、初めて完全に近いひとつの人格なり新しい文化なりを構成することができるのではあるまいか。
日頃もであったが、いま佐吉を見て、秀吉はしきりと、そんなふうに、長浜の小姓部屋にある人材を考えていた。
どうして、彼がそんなふうに、常に小姓部屋などを気にしているかといえば、彼は、老臣や重職の者よりも、そこにいる年少の輩を一ばん重要に観ていたからである。
十三、四になっても、まだ時々、洟汁を垂らしていたり、甚だしきは寝小便をしたり、取っ組んだり、泣き喚いたり、始末におえない存在ではあったが、秀吉のこころでは、小姓部屋こそ、人材の苗床、わが家の宝でもあると、そこから伸び育つ者を楽しみに注視しているのであった。
「……十三か。十三にしては、ちと出来すぎてはいるが?」
しきりと、そんなことを、彼は呟いたりしていた。そこへまもなく住職があいさつに見えた。
三珠院の住職は、佐吉の身の上について、秀吉からいろいろ問われたのに対してこう答えた。
「養育はしておりますが、長く寺におくつもりではございませぬ。当人の意志も沙門になく、両親も歿しておりますから、家名を興させねばならぬ身でございまする。あれの母方と拙僧とは、遠縁にあたりますところから、何ぶんよい成人を遂げるようにと、ひそかに祈っておりますが、どうもすこし内気なほうで、女かなどとよう訊かれることなどございますから、武士の中に立つと、一家を持つようになれるかどうか、案じられております」
秀吉は、おかしそうに、
「内気じゃと、あれがか。……あはははは。とんでもないことだ。まあよい、そういう者であれば、わしにくれぬか」
「え。……くれいと仰せあそばすのは」
「取り立ててくれよう。長浜の小姓部屋へもらってゆきたい。──が、佐吉めは、そちなどには、内気と見えるかしらぬが、どうして、寸にして人を呑むという面がまえがある。当人にたずねてみい。秀吉に随身するや否やと」
「ありがとう存じまする。否やのあろうはずはございませぬが、とにかく、思し召のほどを申し聞かせ、後刻、御返辞に伺わせまする」
「どれ、そのまに、湯漬の馳走にあずかろうか」
「御案内を」
と、寺僧たちは、彼を客院に案内した。そしてほかの家臣たちをもそこに迎え、うやうやしく給仕した。
食事の終った頃、住職はあらためて、稚子の佐吉を伴れて来た。
「どうだ、返辞は」
秀吉から云った。
住職は佐吉を顧みて、
「このとおり大喜びでございまする。佐吉、ようく、おねがいをなさい」
「…………」
佐吉は秀吉を見て、にことしながら、両手をつかえた。何もいわなかったが、秀吉は満足な眼をもってそれに答えた。
「城中へ参ったら、あれらの者と仲よくせねばならぬぞ。──於市、於権、於助」
「はい」
「きょうから、そち達の組に入る石田佐吉じゃ。おとなしいと思うて、あまり虐めるな」
「はい」
「茂助。面倒を見てやれよ」
「かしこまりました」
堀尾茂助は、佐吉に向って、ていねいにいった。
「小姓頭の堀尾でござる。これからは、何分とも」
すると佐吉も、いんぎんに向き直って、挨拶を返した。
「この近郷の郷士、石田源左衛門が子、佐吉と申す不つつか者でございます。よろしくお引きまわしのほどを」
これが十三の少年とは思えなかった。その成人ぶった容子を見て、於市や於権は、寺を立つとき、そっと囁きあっていた。
「オイ、こんどの稚子は、於虎なんかより、よっぽど、生意気そうだぞ」
「さむらい雛みたいに、いやに澄ましていやがる」
「雛ならいいが、らっきょうみたいなやつだ」
「いまに皮を剥いてやろうよ」
しかし秀吉が馬をよせて鞍上にまたがると、みなぴたりと黙っていた。
伊吹のうえに夕月を見ながら、秀吉は長浜城へ帰った。もちろん佐吉もその日から彼のうしろに従っていた。
後の石田三成──佐吉少年は、そも、この夕方、どんな志を生涯のゆくてに夢みていたろうか。
秀吉が目をつけたところは、彼の機転を見て、その才能に期したのであるが、やがて卵殻を割った雛鳳は、見事、それを裏切らなかった。
一年のうちに幾つという城国がぞくぞく滅亡し去った。
新人が立ち、旧人は趁われ、旧い機構は、局部的に壊されてゆく。そしてまた局部的に、新しい城国が建ち、文化が創められて来た。
所詮──
こうなってはもう天下の動乱は行くところまで行くしかない。
そして容易に安定の見えない風雲裡の歳月は、決して人に腿の肉の肥えるほどな暇は与えなかった。
長浜の城へ、令が下った。
もちろん信長からで、越前へ──の再征令であった。
出陣の目的は。
反信長勢力の壊滅にある。
越前はつい先年、そこの朝倉一族をほろぼして、とうに彼の統業圏内におかれていたはずであるが、一年ともたなかった。
戦後政策の失敗から、領民のあいだに不平が勃発し──またそれを煽動するものもあって、たちまち新占領地の地盤はくつがえされ、ここにも一揆の火、かしこにも一揆の火があがり、全面的に、反信長色に塗りつぶされてしまったのである。
その主力は、ここでも、明らかに、一向門徒の武器と財力と信仰に結束した旧朝倉の残党、その他の混成軍だった。
それを遠くから援護するものに──西に中国の毛利家あり、北に甲斐の武田氏、越後の上杉家などがある。
軍、外交、経済、あらゆる懸引は国々の方針によって、何とも簡単でない。
晩秋、越山はもう白かった。
そこを越えて、越前へはいった信長軍の主力は、丹羽五郎左衛門長秀と、羽柴筑前守秀吉。
一揆はたちまち征服された。
翌年、両将は雪にとざされぬうちに、凱旋した。
春は、天正二年となっていた。
けれど、一月もすぎると、またふたたび越前の領内には、騒然たる空気があがっていた。
「始末のわるい! ……」
と、さすがの信長も舌打ちした。けれどまた、それに癇を立てて、一方的に焦躁することを、彼はひそかに戒めていた。──むしろ、
「その策にはのらんぞ」
という堅持をまもって、わざと、そしらぬ振りをよそおっていた。
この期間を、信長が、もっとも急務としていたのは、かえって、内政の充実と、軍備の再編成。そして自己の勢力圏内にある民心に、将来の泰平と、統業の実を示すにあった。
その一つとして。
彼は、七ヵ国にわたる大道路の改修や架橋に着手していた。美濃、尾張、三河、伊勢、伊賀、近江、山城をつらぬく国道である。
往来の幅を、三間半と定め、道の両わきに樹木を植えさせた。
そして無用な関所は撤廃した。
通商も、一般の旅行も、極めて軽快になった。この道を歩み、並木の育ちをながめる者は、もう信長を天下の司権者と認めていた。認めないでも讃えぬはなかった。
いかに精兵強馬の金剛軍をもって、焦土の占領地を満たしても、一般領民は、それをもってすぐ永久の支配者とは想像しなかった。
かれらは治乱興亡のあわただしきを見、また精兵弓馬や城塁の一朝のまに儚い消滅を告げて来たのを、土とともにながめて来た古い習性をもっている。──だが、そこの土に、永久的な文化の建設や、実利と希望をもたらされると、一も二もなく現実を謳歌する。
矢さけびや鉄砲の音にも、黙々と耕している彼らとて、やはり唖でもなく盲でもなかった。正直な声を出せば、この世を、個々の生命を、やはり謳歌したい人間だった。
──で、信長は、戦いつつ、破壊しつつ、つねにそういう方面も急務としていた。
夏になると、信長はまた令を発して、兵馬を長嶋へうごかした。
長嶋征伐は、こんどで四度目である。しかもその前の三度が三度とも、不利な戦に終っている。
その第一回には、弟の織田彦七を死なせ、翌元亀二年のときは宿将勝家が負傷し、氏家卜全が戦死し、去年の出征には、部将の林新二郎以下たくさんな戦死があるなど、苦杯を喫しつづけて来た敵である。
この始末の悪い敵にたいして、信長はこういっていた。
「さきに叡山を焼き払って、自分の態度は、厳然と示してある。よって、しばらく彼らの反省と悔悟をわしは待っていたのだ。──にも関わらず彼らの迷妄はさめず、宗教の名にかくれて世衆を惑乱し、それに与さぬ良民は趁って、兇徒を嘯集し、勢いますます猖獗して、ついに天下の禍根たらんとする現状を見るにいたっては、もう断じて、ゆるすことはできない」
そして、彼みずから、陣頭に立った日の面を見ると、さながらかつての叡山攻めのときを思わすような眉をしていた。
果たして。
六万の大兵に配するに、織田家の驍将はほとんど轡をならべたといっていい。
柴田、丹羽、佐久間、池田、前田、稲葉、林、滝川、佐々などの諸将が参加し、羽柴秀吉もまた一部隊をひきいて出陣していた。
八月二日──墨のような夏の一夜、風雨に乗じて、大鳥居城へかかった。
籠城していた男女千余人をみなごろしにして、これを焼き払ったのを手初めに、次々の小城や砦を粉砕し、翌月の中旬には、中江、長嶋の二城をとりかこんで、これを陥すと、火を放って、阿鼻叫喚する城内二万余の宗徒を、一人のこらず焼き殺してしまった。
そうなるまでも、宗徒の男女は一人として降伏しようとはしなかったのである。
或る宗徒の一団七、八百人の隊は、残暑の陽がかんかん焦りつける炎天へ、半裸体のまま刀槍を手に揮って、城中から突き出し、
「な、む、あ、み、だ、ぶつ」
「な、む、あ、み、だ」
「な、ま、い、だ」
「なまいだ、なまいだ」
と、一せいに念仏をとなえながら斬り死にしたというような猛烈な抵抗をしたのだった。
ために織田軍の損害も少なくなかった。信長の一族中だけでも、従兄信成、伊賀守仙千代、又八郎信時など、いずれも戦死し、織田大隅守、同苗半左衛門なども深傷を負ってしりぞいたが、後まもなく死んだ。
そのほか、将士の戦死八百七十余人、負傷者は、炎日の陰へ運びきれないほどだった。
犠牲は大きかった。
さすがの信長さえ、どこを見ても、敵味方とも死者負傷者の累々とかさなっている有様に、
「──ああ」
と、向け場のない声を天にもらしたほどである。
後に、天下の統業をほぼ成し遂げて、安土に君臨する日となった時、信長もまた豪奢をやったが、英雄の心事をふかくさぐって観るに、誰か、ただ自分ひとりの栄華のためだけに──そんな小さい慾望だけのために──これほど大きな犠牲に恬然としていられようか。
物慾の飽満だけなら、すでに今の信長は、七ヵ国の領主として、十分に事足りていよう。名誉や空名を欲するなら、かれは京都へむかって或る運動もできる立場と位置にある。領界の不安を除くだけの意味なら、もっと保守的にも、もっと妥協的にも、他に方法はいくらもある。
かれが真に望んでいるものを実現するには、どうしても、犠牲の大はしのばねばならなかったのである。英雄の苦衷は実にここにある。では、彼の欲していたものは何かといえば、破壊でなく、建設にある。彼の理想している組織と文化を築くことにあった。
信長と会ったこともなく、信長の生活も為人も知らないくせに、近頃よく信長のうわさを交わす堂上の公卿たちのうちには、
「信長。あれはやはり田舎者じゃ。料理の味も知らぬ」
とか、
「壊し大工も同じことで、壊すことには、驀しぐらじゃが、建てることはようせぬ男よ」
などと、一ぱし名評を下したつもりでいるような口吻を、今もって、陰ではいっている者も多かったが、事実は、徐々にそうでない信長を洛中にも見せて来た。
長嶋を平定して、まず東海道から伊勢にわたる多年の大患をとりのぞくと、翌天正三年の二月二十七日には、上洛の途にのぼっていた。
彼が七ヵ国にわたって改修を命じておいた国道も、はや完成して一路京都につづいていた。
両側に植えさせた並木も、みなよく育っていた。
「可惜、一代の弓矢をとって、都にまで入りながら、その都で、我意小慾に囚われ、都を荒廃させて都を落ち、やがて粟津で野たれ死に同様な最期をとげるなど──およそ武門のよい手本じゃ。あれにはなりたくないものよ」
信長はよくそんなことを左右に語って、自分の戒めともし、また部将をも暗に訓戒していた。
木曾義仲のことをいったのであろう。義仲の弱点は武人のたれにも一応はある弱点である。いや人間のたれもが得意となれば陥ち入りやすい穽である。信長自身のうちにも、そろそろその危険が反省されていたにちがいない。
花の三月。
入洛すると即日、彼は参内していた。天機奉伺の伝奏を仰いで、その日はもどり、あらためて堂上の月卿雲客を招待して、春の大宴を張った。
またその公卿たちへは、彼は多くの金品を贈った。兵馬倥偬の世にかえりみられず、この名誉ある権門たちが、ひどく物に貧しく、その貧しさにいじけて、すこしも、君側の朝臣であり輔弼の直臣であるという、高い気凛も誇りも失っているのを、あわれに感じたからである。
金品ばかりでなく、彼はこのなかに、自己の気魄を輸血する気をもっていた。さきに彼は、朝廷の恩命があっても拝辞したが、こんどはすすんで参議に任官し、従三位に叙せられた。
また、内奏をとげて、南都の東大寺に秘蔵伝来されている蘭奢待の名香を截るおゆるしをうけた。
この香木は聖武天皇の御代、中国から渡来したもので、正倉院に封じられて、勅許がなければ、観ることすらゆるされないものだった。
蘭奢待。
この文字のなかに、東、大、寺の三字がかくしてある。主上からこれをいただいた者は、足利義政以後、信長だけであった。
──が、これを拝受するには、実に壮大鄭重な儀式がある。
勅使、南都の大衆、ことごとく式に列し、信長自身、拝受に出、当日の奉行役としては、塙九郎右衛門、荒木摂津守、武井夕菴、そのほか柴田、丹羽、佐久間、蜂屋兵庫守など──何しても、その行装の壮観、式の厳かなことは、仰山ともいえるほどだった。
辰の刻、お蔵びらき。
名香は、六尺の長持に秘せられてある。
「生前の思い出とせよ」
と、群臣──お供の馬廻りまで末代の物語と、遠くから拝観がゆるされる。
そして、取り出された香木の端──一寸八分ほどを、信長はいただいたのであった。
一寸八分の香木のために、この盛儀が執り行われたばかりか、ために奈良の町といい近郷の伽藍や名所といい、諸国から集まって来た人出で、春の空も埃に黄ばむばかりであった。
「どうも、仰山だな、信長のやることは少し……」
若い奈良法師たちのうわさを聞くと、そういう者もあるし、またこういう者もあった。
「政治だよ。信長は、あれでなかなか政治家なんだよ」
信長はたしかに武人にして政治家でもあった。
世間の具眼者が、彼をそう観たのは、中っている。
けれど、その時代の「政治」というものは、現代でいうところの「政治」とは相違があった。「政治」ということばそのものが、もっと高潔であり明朗であったのである。今日のごとく穢されていなかった。人間の天職のうちでいちばん遠大な理想と、広い仁愛を奉行し得る職として、諸人は常にその職能に景仰と信望をかけていた。
もちろん長い歴史のうちには、その政治をにぎっても、民衆の信頼を裏切った司権者はいくらもあり、すでに前室町政治のごときもそれだったが、さりとて民衆は、政治そのものを卑しめたり疑ったりはしなかった。
奉行する「人」の如何にあることを知っていた。
「政治」というその気高いことばまでが、あたら卑しい私慾の徒の表看板かのように地に堕してしまったのは、明治末期から大正、昭和初期にかけてのことで、本来の「政治」とは、飽くまで、人間の職能として、最高の善事を奉行するものでなければならない。
その職府にある大臣や高官を、あたかも無能な愚人のように揶揄したりするとき、それは小市民の諷言や皮肉味をお茶うけのように軽くよろこばせたりするか知らぬが、その時代下の民衆はかならず不幸であり不安であるにきまっている。
故に、大臣高官は、威重く、入るにも出るにも、常に燦燗とあって欲しい。民衆はそのほうが頼もしくまた安泰を感じるのである。如才ない政治家だの民衆の鼻息ばかり窺っている大臣などは、いつの世でも民衆は見ていたくない。民衆の本能は、高い廟堂にたいして、やはり土下坐し、礼拝し、歓呼して仰ぎたいものである。形では上下の区別があっても、そのときその治下の民衆は大きな安心と国家の泰平を感じるからである。
信長はそういう庶民性をよく見ていた。
蘭奢待を賜わるべく、勅許を仰いだのも、一個の身に、名香の薫りを持ちたいだけの小慾ではなかった。むしろ自己の光栄と存在を、全土の民衆のうえに薫々と行き渡らせたいための盛事だったというほうが適切であった。
また、こういう行事から、彼はたちまち、公卿京紳の文化人と接触し、深交をむすんで行った。
彼の趣味は、観世の能、幸若の舞、角力、鷹狩、茶の湯──などであったという。
愛馬趣味もあった。
一面に文化人と融和を計りながら、信長はまた決して、民衆を置き去りにはしなかった。
自分の愛馬六十頭を出して、加茂の馬場で大競馬を催し、それには莫大な費用と善美をつくして、市民の観覧をゆるし、数日にわたって、一般の老幼男女を楽しませた。
けれど彼は、何をして遊んでもそれに溺れない自己をいつも持っていた。相国寺へ三条、烏丸、飛鳥井の諸卿を招いて、蹴鞠を催したときである。
今川義元の一子氏真は、蹴鞠の名手といわれていたが、その日も、晴れがましく装束して、庭上で得意の鞠を蹴って見せた。
「あざやか。──実にあざやか」
「天才である。氏真どのは」
公卿たちはみな褒め称えたが、信長はあとで、侍臣にこういったということである。
「あわれ、今川氏真をして、鞠を蹴る伎の十分の一でも、文武に心を入れていたら、可惜、洛陽に余伎の人となって、諸人の見世物には曝されまいものを……。祖父以来の駿、遠、三の三ヵ国を他人に取られて、ただ一個の鞠をいだき、得意がっておるあの容子は……さてさて、見るもなかなか不愍であった」
徳川家康は、ことし三十四歳、その後は、浜松の城にいた。
子の三郎信康も、はや十七となった。信康のほうは、岡崎に在城している。
むかしからのことだが、相かわらずここの士風は土くさい。京風の華奢軽薄な文化はとんと入って来ない。いや入れないのであろう。
君臣の生活も、一般の風も、時代や流行の影響なく、依然として三河色だ。地味で質実でひとえに節約を旨としている。たとえば婦人の服色でも、眼を刺すような色柄は見られぬし、髪ひとつ結う紐にしても、費い捨てにしていないのがわかる。男の服装はなおさらで、茶、暗藍色、せいぜいが小紋か霰ぐらい。
律義者の子だくさん、という諺のように、この国の特徴は、どこの軒からも嬰ン坊の声がよくすることである。その頃、浜松、岡崎を通る旅人がきっということは、
「どこの辻も、がきだらけじゃないか。こんなに国中で子どもばかり生むから、ここの貧乏はいつまでも直りはしない」
と、いう評だった。
三河武士と貧乏とは、いかなる宿縁ぞや──などとよく若いさむらいは冗談に慨嘆するが、実際、今もってそれは救われていなかった。
今。天正三年。
三方ヶ原以後、わずかまる三年とも経たないうちに、その興隆ぶりを、同盟国の織田や、敵国の武田とくらべてみても、
(なるほど、これじゃあ……)
と、無理もないことを誰もうなずこう。
まず織田家の勃興ぶりを数字のうえで見ると、ここ足かけ三年間に、足利義昭を追い、浅井、朝倉を滅ぼして、急激にその領地を拡大している。
姉川の合戦──五年ほど前から見ると、約百六十万石を増加し、いまでは総領土四百万石を越える勢いであった。
武田家は、三年前の三方ヶ原以後、およそ十一万石の地を伐り取り、全土で百三十三万石の富強を擁している。
それにひきかえ徳川家は、ここ三年ほどのあいだに、八万石の減地を示していた。──それも領域の広いうちからならそう目立ちもしないが、差引わずか四十八万石しかない現状なので、これは全体の軍需や兵力にも、また朝夕手にもつ飯茶碗のなかにも、直接、影響せずにいなかった。
「忘るるな、この稗粟の軽い飯茶碗は、殿さまがそち達を好んで飢じゅうさせよとて、下されているものではない。年ごとに武田勢に御領地を伐り奪られてしまうためじゃ。──おぬし達、人なみの飯を、腹いッぱい喰おうと思うなら、お国を強くせい。お国を強うするには、造作もない。おぬし達が今をしのんで、きょう喰いたいものは明日に、ことし楽しみたいことは来年に──自分自分を、こここの秋と、磨きあうことだぞ」
藩士の家庭では、燈火の油さえままならぬ夕餉のたびに、その父、その母が、こう子弟によく云いきかせていた。
こういう中で、岡崎城の家中近藤平六は、新規御加増となった。
もとより戦功があったからこそであるが、平六は心のうちで、
「なにやら申し訳ない」ような気がしてならなかった。
君恩のかたじけなさ、いうまでもないが、それだけ君家の禄を喰い減らす気がした。そうかといって、戦陣の恩賞を辞退するのも主家に対してよろしくない。
「近藤。貴公はまだ、大賀どのの所へ行っておらぬそうではないか」
「は。つい……取り紛れて」
「早く参って、新規御加増の采地は、どこの村か、どこを境とするか、よく地方のお指図を承って、戴いたものは戴いたようにしておかねばいかんじゃないか」
「はあ、今日は、帰りに立ち寄って、よく大賀どのから伺いまする」
番頭から叱言をいわれて、近藤平六は大いに恐縮した。その夕方彼は退出のもどりに、徳川家切っての出頭人、大賀弥四郎のやしきを訪ねた。
おそらく浜松にも岡崎にも、大賀弥四郎ほどな屋敷を構えていたものはなかったろう。
彼は、三河遠江三十余郷の代官だった。
また、地方吟味、税取立、岡崎浜松の勘定方や軍需品の買入役など、およそ経済方面の要務は、ほとんど兼ねているといっていい。
だから彼の門には、客が市をなした。外部はそうでもないが、一歩邸内にはいると、ここばかりは岡崎ではないようだった。
建築庭園にも、召使の男女の装束にも、都の華美がそのままある。
客があれば、かならず贈り品が一緒に入り、奥に通れば、かならず美酒佳肴が主客のあいだに出る。
「……どうも好かん」
主の大賀弥四郎が出てくるあいだ、近藤平六は、借物のように、豪奢な書院にぽつねんと待たされていたが、自分の加増という用向きで来ているくせに、心は甚だ楽しまない。
「やあ、失礼失礼」
出て来た。
弥四郎である。
四十二、三の巨男で、盤広な顔に黒あばたがいっぱいだ。しかし、非常な才人であることは、その応対ですぐわかる。
「──いや、しばらく」
と、座に着くと、一応は相手次第でいんぎんになり、また一転して、
「このたびは、其許へ御加増のお沙汰、なんともめでたいことだ。ひと事のような気はせん。妻ともはなしていたことだが、近藤どのも、お子は多いし、一族では本家分。さだめし、御知行が増されて、これからは多少お楽であろうよ──などとな。あははは、まあ、よかったよかった」
まったく、わが事のように、欣んでくれるのである。
三河者の朴訥を、そのまま自分としている平六には、そのよろこびが、嘘かほんとかなどと疑ってみることもできなかった。
「いえ、赤面です。さしたる戦功もないのに、御加増とは、まったく思いもよらぬ恩命で、なにやら却って、肩身がせまい気がいたしまする」
「なに、肩身がせまいと。御加増をうけて、肩身がせまいといったのは、古今、近藤平六をもって、嚆矢とするじゃろう。いや、其許は実に、正直者じゃからのう。そこがまた、勇者たる質のある所以かもしらぬて」
「なんですか、番頭のおことばには、新規に戴いた采地の地境とか、おさしずを承れと、申されて参りましたが」
「ありがたいお沙汰をうけながら、いつまでも、どうして来ないかと、わしも思っていたところじゃ。いま御采地の地方絵図をお示しする。まあ、きょうはゆっくりして行くがよい」
いつの間にか、もう平六の前にも主の前にも、美々しい膳部や酒器が並んでいた。それを運んで来たり、酒間をとりなす召使の女にしても、岡崎や浜松の女の肌目ではなかった。わざわざ京都から抱え入れたものらしい。
酒はきらいでないし、自分たちが日頃、惜しみ惜しみ飲んでいる粗製とはまるでちがう。人間、誰しもこういう一夕の悪かろう筈はない。平六はすっかりいい気もちになった。
「もう……もう充分でござる。お暇いたします」
「采地の事情も地境も、よく分ったろうな」
「わかりおります。いろいろどうもお世話で」
「むむ。……ところで、近藤」
「はあ」
「自分の口から申しては恩着せがましいが、こんどの恩典も、実はこの弥四郎が、それとなく君前へおとりなししたればこそ、お沙汰が下ったのだぞ。……それだけは、記憶してくれい。この大賀を疎略には思うまいが」
「…………」
平六は、うんもすんも答えなかった。興ざめた顔して、弥四郎のあばたを見まもっていた。
「お暇いたす。御免」
近藤平六は、急に腰をあげた。
弥四郎はおどろいて、
「や。もはや帰るとは」
「は。帰ります」
「何か気にさわったのか。貴公が、めでたい御加増となったのは、この大賀弥四郎の推挙によると、正直にいったのが……気にさわったのか」
「いや、そんなわけでもござらぬが、どうも不快で」
「そういえば、急に顔いろもよくないが」
「悪酔いしたかもしれません」
「酒は強いお身なのに」
「体のぐあいでしょう」
匆々に、席を立って、平六は門を辞してしまった。
その日、別室のほうに、もうひとり客が来て飲んでいた。これも大賀と同様に、岡崎の家中で羽ぶりのよい山田八蔵という御蔵方随一の出頭人だった。
よほど親しい間とみえ、八蔵はずかずかとそれへやって来て、主弥四郎へむかい、
「ちと、逸まった口外をなすったな。あいつ、何か感づいて帰ったのではあるまいか」
と、いった。
弥四郎にも、同じ不安があったらしく、
「日ごろ、お人好しの平六といわれている人間、いと無造作に、こっちの恩を感じるかと思いのほか、急にいやな顔をして帰った。……どうやら俺のことばの裏を、変に覚ったらしい気ぶりもある」
「では、生かしておけまい」
「そこまでの大事はまだ洩らしていないが……」
「蟻の穴からという喩もある。拙者が追いかけて」
と、山田八蔵は、すぐ庭門のほうから出て、平六のあとを追った。
近藤平六は、送りに出て来た大賀の召使たちにも、ひと口のことばも交わさず、表門のくぐりから外へ出て来た。
そして宏壮な門を出て、黙ってふり向いていたが、
「……べッ」
と、唾するように、何かつぶやいていた。
裏門から廻った山田八蔵は、その影をはやくも見つけて、
「どこで斬ろうか?」
と、土塀に身を貼りつけながら徐々に近づいて来た。
すると近藤平六は、表門から塀づたいに十歩も行くと、すぐ塀際の溝へ向って、屈みこんでいた。
どこの屋敷でも、すこし大きな構えとなると、かならず塀のまわりに溝渠があり水がながれている。──平六は口のなかへ手をつッこんで、むりに、さも苦しそうな声をくり返して、たった今、大賀家で馳走になったものをみな吐き出してしまった。
そして、涙をこすりながら、
「ああ、清々した」
と、つぶやいて、とことこ行ってしまった。
山田八蔵はその容子を見て、急に気が変った。やはり彼がふいに辞去したのは、体の加減で、ほんとに悪酔いしたものにちがいない。そのほかに深い意味があるように考えたのは、こっちの考え落ちだったと、思い直したのである。
──で、元の席へ帰って来て、
「やめて来た」
と、仔細をはなすと、大賀もかえってほっとしたらしく、
「それはよかった。とかく、大事のまえには事勿れだ。飲み直そう」
と、手をたたいて、京美人の侍女たちを呼びあつめた。ここばかりは、百難克服、挙藩一致の窮乏岡崎の城下ながら、岡崎の外のようだった。豊かなる「物」と貪慾な精神とが、門を閉じて私慾の小国を作っていた。
近藤平六は、物頭の大岡忠右衛門の私宅を訪ねた。
「せっかくでござるが、新規の御加増は、そのまま殿へ返納いたしたく存じますから、御面倒ですが、その手続をお取りねがいたいので」
「何、御加増をお返しする? ……大賀殿のところへ伺ったか」
「行きました。その結果」
「何としたわけだ」
「嫌になりましたから」
「ばかなことをいっては困る。御加増をお断りする手続など例がない」
「なくても、頂戴できません」
「理由を申してみい」
「大賀弥四郎の云い条が気に喰わないので」
「なにも、大賀どのから御加増をいただいたわけではないに」
「──でしょう。然るに、大賀がいうには、このたびの御加増も、ひとえに、自分が蔭にまわって、殿へ御推挙をしたためであるなぞと」
「そんなことを申されたか」
「大賀から恩をきるなど、耐えられません」
「大賀どのは一体がああいうお人なのだ。この先とも、あのお方の憎しみをうけては、御奉公もし難うなる。まあ、まあ」
「いやでござる」
「強情だな、貴様も」
「お頭こそ、諄いでしょう」
「何といおうが、御加増返納などという手続は取りようがない。強ってお断りするなら、自身浜松へ罷り出て、直接申し上げるがいい」
──まさか行きはしまいと多寡をくくって大岡は追い返したのである。ところが数日の後、近藤平六はのこのこ浜松へ行って、家康へ目通りを乞い、ありのままを君前で披瀝した。
「平六微賤ではございますが、大賀ごときに追従して、禄地を増し賜わらんなどという穢い心は持ちません。左様な禄なら一粒なりとも、受けては武士の汚名と存じおります。──もしごきげんを損じ切腹を仰せつけあるも御加増は断じてお返し申しあげまする」
傍らから老臣たちが、いろいろ宥めても、頑としてきかないのである。
「…………」
家康も困った顔していた。
何しろ藩の財務にかけては、懸け替えのない才腕をもつ大賀であった。殊に家康自身が、彼のその才能をみとめて、厩中間から取り立て、だんだん重用して、いまでは譜代同様な待遇と広範な職権を与えている者なので──平六の云い分もわかるが──裁決に困るのであった。
「平六。……平六」
「はッ」
「いささかの加増は、家康が心遣りじゃ。弥四郎の取りなしによるものでないことは、分っておろうが」
「でも、大賀の申すように世間に聞えましては」
「まあ、聞けい。……そちも忘れてはいまい。わしが岡崎に在城の頃、或る年、田を見廻りに行くと、泥田の中に、百姓どもと打ち交じり、大小を畦において、そちも、そちの妻子も、稲を植えていたことがあろう。……あの時、わしは何というたか。あの折の約束を、いささか今日、果したまでであるぞ。ぐずぐず申さず受けておけい」
「はッ」
と、いったきり、平六はもう返すことばもなく感涙にむせんでいた。
──出でては戦場に槍をとり、帰国しては泥田に働くこの貧しさも、長くはさせておかないぞよと、家康はその折、平六にいったのである。そのことばを、家康も忘れず、平六も思い出して泣いたのであった。
武田勝頼は三十の春を迎えていた。亡父の信玄よりは遥かに上背丈もあり、骨ぐみも逞しかった。美丈夫と呼ばれるにふさわしい風貌の持主であった。
忽然と、信玄が逝いてから、ことしは正に三年目──四月はその忌明の月にあたっている。
──三年は喪を秘せ。
と、故信玄の遺命はよく守られて来た。けれど、年々その忌日には、恵林寺をはじめ諸山の法燈は秘林の奥にゆらいで、万部経を誦みあげていた。
勝頼も、その日は、兵馬の事を廃して、毘沙門堂のうちに慎み、眼に新緑を見ず、耳に老鶯を聞かないこと三日にわたっていた。
扉をひらいて、躑躅ヶ崎の館から、香煙を払った日である。衣刀を革めて、勝頼が表の座にあらわれるとすぐ、待ちかねていたように、跡部大炊介が目通りに拝伏して、
「──火急とございますからただちに御一見のうえ、おことばでなりと、御返辞をねがわしゅう存じまする。返書は、それがしより認めてつかわしますゆえ」
と、一通の書面をわたした。
あたりには誰もいなかった。大炊介の容子では、特にそういう折を見はからっていたようでもある。
「……お。岡崎から?」
勝頼は、手にとると、すぐ封をやぶった。あらかじめ、彼の胸にも受信の用意があるものにちがいない。読み下してゆくうちに、その顔にもただならぬ色が動いた。
「……?」
が──しばらくは決しかねて考えているふうだった。凛々と、夏近い若葉青葉に、逞しい声して鶯が啼きぬいている。
勝頼は、その若いひとみを、きっと窓外の天へ向けていたが、
「心得た。──返辞は、それだけでよろしかろう。その方より答えてやれ」
と、いった。
跡部大炊介は、はッと、彼の面を見あげ直して、
「そのように申し遣って、よろしゅうございますか」
と、念を押した。
勝頼はもう決然と、
「よしッ。天の与えたもう機を逸してはなるまい。──ただし、使いは不安ない者であろうな」
「もとより大事の大事。お気づかいなものではございません」
「遺漏はあるまいが、ぬかるなと、書中、申し添えてやれよ」
「承知いたしました」
大炊介は、文殻を返していただくと、ふかくそれを懐中に秘して、また倉皇と退って行った。
私邸へではない。
館の内の一棟のほうへ。
そこは、他国の使臣や、諸方に放ってある諜者などが、よく迎えられるところで、本丸やこの曲輪とも絶縁された一秘閣であった。
大炊介がそこへ入って、幾刻ともたたないうちに、表の政務所のほうでは、にわかに繁忙なうごきが現われていた。
軍触れが発しられたのである。夜になると、その混雑はなお増していた。
夜どおし、人影がうごき、城門の出入りはやまなかった。
夜が白みかけると、城外の馬揃いの広場には、すでに、約一万四、五千の兵馬と旌旗が、朝霧の底に、粛として濡れていた。
まだぞくぞくと集まってくる将士があるらしい。出陣を触れる貝が、日の出までに、幾たびか、甲府の町々を呼びさましていた。
ゆうべ手枕で一睡したのみであった勝頼は、もう全身を鎧って、すこしも眠たげなものを顔に留めていなかった。人いちばいな健康と、大きな将来への夢は、彼の肉体に、今朝の新緑のような若い露をたたえていた。
父の信玄が亡い後も、この三年間、彼は一日だに、安閑としてはいなかった。
甲山峡水の守りは固いけれど、遺封をついで、それに甘んじているべくは、余りに彼の胆略と武勇は、父以上に備わりすぎている。
勝頼は、名門の出に多い、いわゆる不肖の子ではなかった。
むしろ、自負と、責任感と、天質の勇武があり過ぎたといっていい。
いかに秘しても、信玄の喪は諸国に洩れた。機逸すべからずである。──上杉は急撃して来た。小田原の北条も態度がちがって来た。なおさらのこと、織田、徳川など、隙さえあれば、領界から侵犯して来る。
偉大な父をもった子は楽ではない。──勝頼はいまさらにそうした立場に置かれた。
しかもなお、彼は父の名を辱めていなかった。
どこの戦でも、五分に戦うか、かならず利を得て帰った。
だから、近頃はまた、
(──信玄が死んだというのは嘘かもしれぬ。やがて、何かの大機会に、晴信入道信玄ここにありと、忽然、世にあらわれてくるのではないか)
と、いうような疑心暗鬼のうわさが、諸国にみだれ飛んでいるくらいだった。
以て、彼がここ三年の、信玄亡きあとの努力と経営は窺われる。
「御出陣の前に、美濃守どのと、昌景どのが、しばしの間、お目通りを仰ぎたいと、申し出られておりますが」
はや立とうとしていた折である。穴山梅雪から勝頼へこういう取次があった。
馬場美濃守も山県昌景も、ふたりとも父以来の功臣である。勝頼は、ふとこう訊ね返した。
「両名とも、出陣の身支度は、ととのえておるか」
「鎧うておられます」
梅雪の答えに、そうかと頷いて、やや安心したらしく、
「通せ」
と、ゆるした。
まもなく、馬場、山県の両将は打ち揃って勝頼のまえに出た。果たせるかな、勝頼の予感はやはり中っていた。
「昨夜、おそくの御陣触れ、とるものも取りあえず、かくは馬揃いまで馳せ参じましたなれど、つねにも似ず、御軍議もなく、いかなる御勝算あっての御出馬か。──今日のお立場は、決して、軽々しくおうごきあっていいものではありません」
美濃守がまずいうと、山県昌景もともに、
「故君信玄様さえ、西征の難には実に、幾たび苦杯をなめられたか分りませぬ。──小国ながら三河武士には一すじの骨があり、織田はこのところやや時を得て、計多く、うかと、図に乗って、深入りせば、足を抜くことのできない惧れが多分にあるやと考えられます」
口を揃えて、ふたりは、諫言しはじめた。
この二将は、さすがに信玄仕込みの老練なので、勝頼の胆略にも武勇にも、大して心服していなかった。──むしろ危険にさえ視ているふうであったのである。
日頃から勝頼もそれを感じている。だが、ふたりの持説とする、
(ここ数年は守るに如かず)
と、いうような保守主義は、彼の性情としても、若さからも、承認できないことだった。
「いや決して、無謀な出陣はせぬ。仔細は、跡部大炊から聞くがよい──このたびこそはきっと、岡崎の城を手に入れ、浜松を衝き、積年の望みを遂げてみせる。──そう確信あってのこと。くわしくは大炊がふくんでおる。計は密なるをもってよしとする。そこへ迫るまでは、味方にも告げぬつもり。悪しく思うなよ」
勝頼はそういって、巧みに、両将の諫言を避けた。
馬場、山県の両将は、あきらかに、不快な顔いろを見せた。
──大炊から聞け。
といわれたことが、心外らしかった。
信玄以来の宿将たる自分たちにも計らず、これほどな大事を、跡部大炊などの輩と、軽々に決めて、兵馬をうごかされるなどとは……と、ふたりは同じ心を眼に見合って、しばらく呆然としていた。
やがて、美濃守が、面を冒して、もういちど勝頼へいった。
「──後刻、大炊どのよりも充分承りおきますが、そも、その御秘策とは、いかなるものでありましょうか、一言、仰せ聞かせ下されば、われわれ老将も、死に場所の目あてに、心やすく打ち立たれますが……」
すると、勝頼は、
「ここで、他言はならぬ」
と、左右の者を見ながら拒んだ。
そして、なお、
「お身たちの、案じてくれるは欣しいが、勝頼とて、今日の大事はぞんじておる。──しかも早、今朝、御旗楯無を拝し、誓って起ったものを、いまさら思いとどまることはならぬ」
と、厳として云った。
御旗楯無!
そのことばを聞くと、両将とも手をつかえて、心にそれを拝した。
この二品は、武田家に伝わる軍神の神体であった。御旗というのは、八幡太郎義家の軍旗、また楯無というのは、家祖新羅三郎義光の鎧なのである。
どんなことでも、この宝器のまえに神盟したことは、違えないということが、代々武田家の鉄則であった。
勝頼が、その神誓の下に、起ったと云いきっては、もう二臣の諫言も、それを強いる余地はない。
──折から馬揃いで吹き鳴らす貝の音も、はや迫る時刻を告げていたので、ふたりはぜひなく君前を退った。
──が、なお。
君家の安危は、思い断つにも断たれなかった。
で、大炊の陣場を訪ねて、
「仔細は貴公から聞けとのお館の仰せであったが、いったい、いかなる秘策があって、かくは急に、御出兵と相成ったのか」
と、問い糺すと、跡部大炊介は、人を払って、得々とその内容を打ち明けた。
彼がいうところの機密な計とは、次のようなことであった。
家康の子、徳川信康がいま守っている岡崎の財吏に、大賀弥四郎なる者がいる。
その大賀は、以前から自分を通して、武田家に内通し、お館におかれても、ふかくゆるしておられる。
おととい躑躅ヶ崎に来た使いは、その大賀弥四郎から密書をたずさえて来たもので、「機はいまや熟した」と報じている。
何となれば。
この二月以来、信長は入洛していて、岐阜は留守だし、加うるにその以前、信長が長嶋門徒の剿滅にかかったとき、家康から援軍を送らなかったので、二国同盟の信義も、このところ少しおもしろくない感情に疎隔されている。
いま甲軍の疾風のごとく、三河に出て、作手あたりまで攻めて来るなら、大賀は岡崎にあって、内部を攪乱し、城門をひらいて甲州勢を迎え入れよう。──そして信康を刺し、多くの徳川方の家族を人質に捕えて、そこを足場に、浜松を攻めれば──浜松の将士もまた、続々降を乞うて、味方に走ってくることは疑いもない。家康はきっと、伊勢か美濃路へでも逃げ退くことになろう。
「どうです、これこそ、天来の福音ではござるまいか」
大炊はすべてが、自分の画策であるかのように誇って話した。
ふたりは、もう何もいうことを欲しなかった。
跡部大炊とわかれて、自分たちの隊へもどって帰る途中、暗然と、顔を見あわせて、
「……美濃どの。おたがいに、生きて亡国の山河は見たくないものだな」
と、沁々、山県三郎兵衛がささやくと、馬場美濃守もうなずいて、
「お身にしても、また、それがしにしても、早や人間の定命には達しておる。このうえは、よき死に場所を得て、先君のおあとを慕い、われわれが、輔佐の任に足らなかった罪を、お詫び申すより道はない」
と、沈痛な眉をして云った。
馬場、山県といえば、信玄の麾下に、その人ありと、多年、四隣にその名の聞えていた勇将である。
ふたりの髪には、はや白いものが増えていた。信玄が死んでから後、急にそれは目立っていた。
甲山の緑は若く、笛吹川の水はことしも強烈な夏を前に、淙々と永遠の生命を歌っていたが、別るる山河に、
(再び汝と相見えることを得るかどうか)
と、無量な思いを抱いて立った将士がどれほどあったろうか。信玄亡きのちの甲軍は、やはり昔日の甲軍ではなかったのである。どこかに一抹の悲調と無常があった。旗ふく風にも、足なみの音にもあった。
──が、公称一万五千という士馬精鋭が、陣鼓を打ち鳴らし、旗幟をひらめかせ、燦々と国境の彼方へさして流れてゆくのを見た甲府の人々の眼には、依然として、信玄在世の頃とすこしも変らない威風が映じていたに違いなかった。たとえば落日の赤さも、朝陽の赤さも似ているようにである。
武田逍遥軒──武田左馬助──穴山梅雪──馬場美濃守──真田信綱、同昌輝──山県三郎兵衛──内藤修理──原隼人佐──土屋昌次──安中左近──小幡上総介──長坂長閑──跡部大炊──松田三河守──小笠原掃部──甘利信康──小山田信茂。
部隊部隊の旗じるし馬簾などを見ても、また勝頼の前後をかためてゆく旗本たちの分厚な鉄騎隊を見ても、甲軍衰えたりとは、どこからも見えなかった。殊に、大将伊那四郎勝頼の面上には、
「敵──岡崎の城は、もうわが手の物」
としているような自信がみちていた。彼の豊かな頬には、かぶとの眉廂にちりばめてある黄金が映じて、いかにもこの壮年の大将の前途を華やかに想わせたものだった。
事実。
彼は気負うほどな実績を、信玄の死後にも挙げていた。徳川家の領域へ出て、そちこちの小城を攻め取ったり、明智城を奇襲して、信長の鼻を明かしたり、また、不利と見れば、疾風のごとく、還り去るのも見事だった。
わけてこんどの出陣には充分の画策がある。──甲府を発したのは五月一日であった。遠江から平山越えにかかり、やがて目標の地、三河へ攻め入ろうと、その夜、河原をまえに野営していた時である。
対岸から泳いで来る敵方の侍があった。
見張の兵が、すぐ生け捕ってみると、これは小谷甚左衛門、倉地平左衛門というふたりで、徳川の士だが、徳川家の兵に追われて逃げて来たものと分った。
二人は、勝頼の面前へ、すぐ自分らを連れて行って欲しいと希望した。何やら重大なことを急に告げたいというのである。
「なに? 小谷甚左と、倉地のふたりが、逃げて来たと……?」
勝頼は、待つ間ももどかしそうであった。彼には何か思いあたりがあるらしく、胸躁ぐ心の影は、眉にもすぐあらわれていた。
家康はゆうべよく眠らなかったらしい。何か、非常な心痛をいだいているかのように見える。
今朝の顔は腫れぼったい。新緑の生々たる朝だ。かつて三方ヶ原の戦いのときでも、この浜松城の門を開け放しにして、敵の包囲軍を前に、大鼾で眠ってしまったほどな人だ。──この人にしてこの気労れはめずらしいといわなければならない。
きのう、岡崎の家中近藤平六が、目通りをねがい出て、
御加増返上、
という前例のない事件を持ち出し、平六一流の武士的良心から、極めて率直に、大賀弥四郎の卑しいことばやその無礼を訴えて帰ったそのあとからのことである。
家康になだめられて、平六は感泣しながら、返上の願いは撤回して退ったが、家康の胸には、深い憂いが残っていた。
──心得ぬ大賀のことば。
と、不審を感じ出したのである。
主君たるものが、自身の重用している臣下にたいして、疑いを抱くほど、不幸の大なるものはなかろう。心痛の深いものはあるまい。──それはその責任の半ば以上を、自身の至らない罪とも思って、われとわが身も責めるからである。
外部の百難も、四隣の強敵も、それは恐るるに当らない。むしろ敵なき国は亡ぶ、という真理をうしろに、よろこんで逆境また逆境を克服してゆく快味もある。
けれど、君臣のあいだの疑心暗鬼は、ふところの敵である。ひいては藩全体の病患ともいえる。これを治すには名医のごとき老練と政治的な果断が要る。──家康はまだ若い。心身の疲労はここに原因があった。
「さむらい部屋に、又四郎はおるか。見てまいれ」
小姓のひとりがすぐ、はいと答えて立って行った。
やがて、彼のいる書院の外に、肩肉の固そうな、色の浅ぐろい、三十がらみのさむらいが手をつかえた。石川大隅の甥で、典型的な三河武士である。
「お召しでございますか」
「オオ。何やらちと退屈をおぼえた、そちを相手に、象戯でもさそうかと思うて。盤をこれへもて」
妙なことがあるものと、又四郎は変に思ったが、主命なので、象戯盤を持って来た。
「久しく手にせぬから、そちには敵うまいな。……そちは陣中でもよくやりおるそうだから」
駒をならべ始めた。そして家康はまたうしろを見て、
「小姓たちもみなも、次へ退って休息しておるがいい。下手象戯をのぞかれると、よけい気が惑うていかぬもの」
と、笑って云った。
(おまえは陣中でもよく象戯をさしているそうだから、さだめし強いだろう)
さむらいが主君からこんな賞め方をされるのは名誉でないはずだが、石川又四郎にとっては、尠なくも不名誉ではなかった。
それには、こんな理由があるからである。
或る年の合戦に、家康は、敵の小城を取り詰めて、自身たびたび攻め口を巡視していた。
するといつも、城壁の上から、家康のほうへお尻を向けて、叩いて見せる敵兵がある。
「憎いやつだ」
家康は舌打ちして通ったが、翌日通ると、また塀の上にその尻が見える。頻りと叩いている様子である。
「たれぞ、あの醜しいものを、射落せ」
供の中にいた石川又四郎が、はッと答えながら、斜めに弓を持って、駈け出して行った。
そして、城壁の下へ、近々と寄って、矢ごろを測り、丁ッと射ると、矢を立てた尻は、見事、下へ転げ落ちた。
ところが、とたんに城中からも、ひょうッと、一本の矢が飛んで来て、又四郎の喉に突き立った。
当然、彼は仰向けに倒れた。
味方は、声をあげて、快哉をさけんでいたが、その体に驚いて、たちまち彼のそばに駈け寄り、家康のそばまで、抱えて来た。
「……不愍な」
と、家康は、自分の手で、矢を抜いてやった。そして、
「小屋へ退げて、よく養生させてつかわせ」
と、命じた。
その晩、家康は陣所のうちで、干飯粥を喰べていたが、ふと、箸の間に、
「もう息をひき取ったであろうな」
と、左右へ訊ねた。
侍臣たちは、いやまだ死んだ届けはして参りませんがというと──家康は急に、
「そうか。では息のあるうち、ひと目、見舞うてやろう」
と、箸をおくとすぐ、夜中なのに、傷病兵のいる小屋へ出向いて行った。
前触れも何もないので、軽い負傷者は、笑いばなしなどしていたし、重傷者は横たわって呻いていた。
家康が入ってゆくと、そこの一隅に、蝋燭を一本立てて、象戯をさしている男がある。見ると、そのひとりが又四郎だった。
「喉の矢瘡はどうした?」
と、呆れながらたずねると、
「好きな象戯をさしていると、痛みも忘れております。明日は、御陣所へ罷り出て、役目に就けるかと存じます」
と、坐住居を直して答えた。
「ばかを申せ、もっと寝ていなければいけない」
叱って帰って来たが、家康は内心、欣しかったらしい。あくる日、彼が首の根に布を巻いて、具足を着込み、まるで俵みたいな恰好して出て来たのを見ると、にやりと笑った。家康が満足なときに洩らす微笑であったという。
彼の象戯には、こういう履歴があるので、
(あれは、喉に穴があいても、役目を怠らない男だ。いわんや、象戯の好きぐらいに、心を囚われる気づかいはない)
と、主君から保証されたかたちになっていたのである。
今、その象戯盤を間において、又四郎は主君のお相手を命じられたが、駒をならべ合ったのみで、家康はいつまでも駒をうごかそうともしなかった。
「……いざ。どうぞ」
当然、自分のほうが強い。又四郎は、こう先手を促した。
「…………」
家康は眼をこらして、彼の顔をただ見ている。
主従ふたりが、どんな象戯をさしていたか、小姓も侍臣もいなかったので、知るものはない。
初めは、静かだった。
家康と又四郎とで、何か、密談でもしているふうであった。
そのうち、象戯の駒音が、すこし聞えた。と思うと、まもなく、
「無礼であろう」
「無礼ではありません」
「いまの手は待て」
「待てません」
「主にたいして、そちは」
「たとえ、盤上の遊戯でも、勝敗のこと、主従の別はないはずでござる」
「強情なやつ。待たぬか」
「御卑怯でござる」
「こやつ、卑怯といったな、主にたいして」
大声で争いが始まったと思ううちに、家康の声で、おのれッと、起ち上がった様子。
つづいて、盤の駒が、一面に飛んだような物音と共に、大廊下のほうへ、だだだだと、逃げてゆく跫音がした。
「捕えろ、又四郎めをッ」
追いかけながら、家康はあたりへ怒号した。手に脇差を抜いている。
「殿ッ、殿。いかがなされましたか」
駈けつけて来る家臣たちへ、家康は口を極めて怒りをもらした。象戯をさしているうちに、いつか主従の見さかいも忘れ、余りに暴言を吐くので、懲らしめてくれようとしたところ、さらに悪罵を放って、逃げて行ったというのである。
「近ごろ、わしの恩寵に狎れすぎて、図に乗っていた又四郎のやつ。是が非でも引っ捕えて、窮命申しつけねばならん。──もし手抗いなさば討ち取ってもかまわぬ。すぐ縛めて来い」
いつにない激色である。
大勢して捜して見たが、もう城中にはいなかった。
夜になって、彼の住居を、追手の者がとり巻いたが、ここにもいない。
「夕方、岡崎の方へ、馬をとばして逃げて行った」
と、いう者がある。
それに違いあるまい──と追手の人数は、夜をかけて追走したが、元より手おくれであった。
それに石川又四郎の早足というものは、浜松第一の聞えがあった。これも家康に従いて戦場へ急いだ時のことである。日頃、うわさを聞いていたので家康が、
「わしの馬に追いつけるか」
と、戯れに訊ねたところ、又四郎は、
「いとやすいこと」
と、答えたので、ひとつ困らしてやろうと、家康は、乗馬に鞭を入れて駈けた。
ところが、一時は先へ駈け抜けても、やがて閉口するであろうと考えられていた予想を裏切って、その晩、宿泊する部落まで行くと、又四郎は先に着いて平然と待っていたので、
「稀代な足だ」
と、人々から驚かれたことがある。その又四郎が必死で逃げたら、どう追っても捕まるまいと、追手の者は、先にあきらめていたのである。
だが、岡崎にも、すぐ通牒がまわったので、彼の所在は、きびしく詮議されていた。
すると、それから三日目か四日目ごろの夕方。
大賀弥四郎と並んで、岡崎の御蔵方支配をしている山田八蔵のやしきへ、そこの裏門をどうのり越えて入って来たか、ぶらりと裏庭にすがたを現わした男がある。邸内の小侍を通じて、
「ぜひ、お目にかかりたい。……折入って、極く内密に」
と、主人八蔵に面会を求めた。それが石川又四郎であった。
やがて一室に通された。それも客書院でなく、奥まった密室である。──主の山田八蔵は、声をひそめて、石川又四郎に訊ねた。
「どう召されたのだ。……いったい、そのお姿は?」と。
知らないはずはない。
浜松でも岡崎でも、隠れないうわさにのぼっている又四郎の境遇である。
事情を承知していればこそ、人目のない密室へ通し、召使も遠ざけたのであろうに──八蔵はわざとそう空とぼけて訊く。
「折入って、貴殿の義心に、おすがりに来ました。日頃の誼みと、武士のおなさけに訴えて──」
又四郎は、両手をつかえ、やや声をふるわせて云った。彼の父大隅と八蔵とは、かつて同じ役目にいたこともあり、幼少から八蔵の顔はよく見知っていたのである。
「なに。武士の情けに訴えてと。──そういわれては、何事たりとも否むわけに行かぬが、ともあれ、仔細をはなせ。どうしたのだ? ……」
「実は、かようでござります。浜松の大殿と、象戯のうえで、つい雑言を吐き、無礼者めがと、あわやお手討になろうとしましたが……戦場でなら知らぬこと、武士が象戯のうえの言葉ぐらいで死んでは無念。いかに主君であろうと、多少の功名もあるさむらいを、余りなお仕打と」
「待て待て。……では、浜松を逐電いたして、御詮議中とかいうのは、貴公のことだったか」
「はッ、拙者でございます」
「何たることだ!」
慨然と、山田八蔵は声を昂めた。
「貴公のような勇士を──とりわけ父祖代々、徳川家に功労のあるものの子を──いかに御立腹なされたかは知らぬが、遊び事のうえの失言ぐらいで、お手討になされようとは、士を愛するお心がなさ過ぎる。……よろしい、匿って進ぜる。案じぬがよい」
「か……かたじけのう存じまする」
「いったい、浜松の殿は、御名君の質ではあるが、どこか冷やかだ。ときには冷厳酷薄、お家のためには、何ものをも犠牲にして顧みぬところがある。──それを思うと、われらとて、いつどんなお咎めの下に、憂き目をみるか、考えると、氷の上にいる心地がする」
そう一言いっては、眼のすみから又四郎の顔色を見、また一言いっては、相手の反応を打診していた。
打てばひびくというふうに、又四郎も図にのって、その血気と鬱憤を、不平らしいことばの裡にちらちら洩らした。
「まあ、湯にでも入って」
八蔵はやさしく情けをかけた。情熱に感じやすい若者へは、甘やかし過ぎるほどよく宥わった。
四、五日、彼はここに匿われていた。そのうち噂もうすらいだ。国外へ脱出してしまったものだろうという見解が、一般に又四郎の行方に下されて来たらしい。
「石川。……貴公のことばをお伝えしたところ、大賀殿にも、非常なおよろこびだ。ぜひ会おうと仰せられる。──しかし大賀殿のほうからこれへお運びになると、ちと人目がうるさい。こよい、そっと伴れて来いとのことだが……同道してくれるか。もちろんそれがしが伴いてゆく」
潜伏している彼の部屋へ、主の八蔵が来ての話しである。又四郎は、眼に歓びを見せて、
「ぜひ、御同道を」
と、両手をつかえた。
懐中へ入って来た窮鳥にたいして、山田八蔵が何を語らったか。彼と大賀弥四郎との関係を考えあわせれば、あえて詮索するまでにも及ばない。
ふたりは夜に入ると、おたがいに、黒い頭巾を眉深にして、裏門からそっと出て行った。
大賀弥四郎のやしきは彼方に見えて来た。
そこを指さして、山田八蔵が何か彼の耳へ囁きかけると、
「謀叛人ッ。汝らの企みはもう明白だ。そこまで行く要はないッ」
と、ふいに石川又四郎が呶鳴ったので、八蔵は驚いて身を翻したが、──すでに遅かった。
「上意!」
又四郎に組みつかれていた。
だッと、大地に投げ伏せる。そして馬乗りだ。逆らうので、又四郎は二つ三つ彼の顔の真ん中へ鉄拳を喰らわせておいてから、
「騒がない方が身のためだろう」
と、穏やかに諭した。
八蔵はあらん限りの抵抗を試みたが、その無意味を覚ると、脆くもさけんだ。
「く、くるしい。手を、手をゆるめてくれ」
「云い分があるのか」
「まったく貴様は上意をうけて来たのか。──浜松から御詮議をうけている身が」
「愚かや、今知ったか。すべては殿のおいいつけである。詐ってお城から逃げ出したのも、汝ら一味の企みを探らんためにその方のやしきへ逃げ込んだのも……」
「む、む。……では、あざむかれたのか」
「歯ぎしりしたところで、もう及ぶまい。潔く君前で自白したら、せめて打首ぐらいはおゆるしになろう」
かねて岡崎の奉行とも聯絡はあったらしい。又四郎は彼を引っ縛ると、その体を小脇にかかえて疾風のように駈け出した。そして奉行所に抛りこみ、またたく間に、人数をととのえて、大賀弥四郎の邸宅を包囲した。
奉行の大岡孫右衛門や、その子伝蔵や、また今村彦兵衛などは、又四郎の友人として、討手の中に参加していた。
その晩──
大賀のやしきには、倉地、小谷などの一味が来合わせて、やがて山田八蔵が、又四郎を連れて来るであろうと、例のごとき酒宴をひらいて待っていた。
来たものは、殺陣だった。
上意! 君命! と叫びかかる意外な人数であった。
「──露顕」
と、気づいたので、大賀弥四郎はみずから邸に火を放けて、どさくさ紛れに逃げようとしたが、かぶっていた女の被衣を却って怪しまれて、町の辻で捕まってしまった。
倉地、小谷のふたりは、ついに逃げおわせて、敵の──いや彼らにとっては味方の──武田領へさして落ちのびた様子であった。
さきに又四郎の手で縛られた山田は、すぐ浜松へ廻送され、一切を自白したかどで、一命はゆるされたが、髪を切って、懺悔の一文をあとに残し、どこへ去ったか行方知れずになってしまった。
──おそらくは、僧門にでもかくれたのだろう、という衆評だった。
で、首魁の大賀弥四郎の陰謀は、吟味までもなく、明白であった。
「厳刑に処せ」
と、家康の怒りは、いつになく峻烈をきわめた。
一族──彼の妻子から召使や、交友のある輩でも、その野謀を知りながら黙っていたものは、みな数珠つなぎにされて、念志ヶ原へ曳かれた。
打首、磔、二日にわたって、夥しい血が、大賀一個の叛心のために、士気粛正の犠牲にされた。
ついきのうまで、ひとつ領土に語らい合っていた人も、相見て笑みを見交わしていた者も、いまは刑場の他人として見送られた。傷ましい極みである。しかも国境の近くには、武田勢の進出というただならぬ緊迫の中だけに、領民の憎しみも強かったが、悲しみも深かった。
そして三日目か四日目──いよいよ最後に大賀の処刑をする日となると、激昂した民衆は、それを自分らの意志でやらなければもう承知しなかった。
あわれなのは、大賀の妻であった。取調べの口書によると、彼は捕われる幾日かまえに酒の上であろうが、妻に向って、
(これしきな生活は、まだおれを満足さすものではない。いまにそなたも、御台様と諸人から仰がれるようにしてやるぞ)
と、謀叛の旨をほのめかした。
妻は驚き、かつ嘆いて、
(冗談もほどにして下さい。わたくしは、現在の贅沢ぐらしさえ、幸福だとは思っていません。今でもなつかしく思うのは、あなたがまだ中間勤めをしていた頃の貧しい暮しです。あの時分のあなたは、妻にも真実があり、人様にも真実につきあい、夫婦ともに行く末をたのしんで、明け暮れよく働きました。……それがお上のお目にとまって、今日、御譜代衆でさえ、真似のできないほどな御出世をなさりながら、何が不満で、そんな企みをなさいますか)
と、問いつめ、泣いて意見したが、大賀はせせら笑って、耳にも入れなかったらしい。
彼女がそのとき良人に予言した天罰の日は、覿面に今日、弥四郎を迎えに来た。
それは一頭の赤い馬であった。牢役人は、彼をひき出すと、馬の三頭──尻の方に面を向けさせて、荷駄鞍にしばりつけ、刑場へ連れ出した。
すると外の辻に、もう民衆が騒いで待っていた。
ひとりは幟を持っている。
幟には──叛逆の張本人大賀弥四郎重秀と書いてあった。また同じ文字のある小旗を弥四郎の襟くびにも挿した。
幟と馬が先に歩き出すと、その後から大勢の者が、螺をふいたり、鉦を叩いたり、笛太鼓も入れて、囃し立てて行くのだった。その雑然たる音階は、罵るごとく、嘲るごとく、蔑むごとく、笑うごとく、一種不思議な交響を町中にひろげて行った。
「けだものが行く。けだものが送られて行く」
「けだもの囃子。けだもの囃子」
石を投げるもの、唾するもの、子どもまでが真似て、
「ひとでなしッ!」
と、さけぶ。
役人も止めないのである。もっとも止めたら、民衆はもっと激昂して抗争を捲き起すかもしれない。──こうして浜松中を曝されたあげく、さらに岡崎へ行って同じように城下を引き廻された。
さいごには、弥四郎の首に板をはめて、両足の筋を断り、城下の辻に生きながら首だけ出して埋められた。側には、竹鋸がおいてあるので、往来の旅人まで憎んでその首の根を挽いたという。
いかに不義を憎むにしても、ちと惨刑のようだが、大賀弥四郎もさいごまで太々しいところを見せている。彼のため、ことごとく斬刑に処された念志ヶ原の刑場を通ったとき、彼は馬の三頭からあたりを見まわして、
「みな先に行ったか。おれは殿軍とみえる。先とはめでたいものよ」
と、呟いていたという。
けだもの囃子がすむと、庶民はもう忘れたような顔していたが、家康は胸のうちで自分の不明を責めていたにちがいない。
世は戦国と誰もいう時勢である。攻城、野戦の陣頭には、英才雄才、あらゆる人材が参与しているが──それと併行してより以上にも重要な軍費財務の方面には、ほとんど進んで当ろうという偉才がない。
だからたまたま、調法な男を見出すと、つい寵用する。奢りも見のがしておく。──それに狎れてついに家康ほどな人に、生涯の苦杯を飲ませたもの、ここに大賀弥四郎があり、後に、大久保長安がある。
財務の名匠たることは、戦陣の名将たる以上、人間として難しいものとみえる。
武田勝頼の大軍は、すでに三河に入っていた。
そしてなおも大行軍の途中にあったのである。
「征かんか? 還らんか?」
勝頼の迷いは深刻だった。
落胆のほども思うべしである。
実に、こんどの出動は、ただただ大賀弥四郎の内応一つにあった。作戦、目標、すべて岡崎の内部から、攪乱と呼応のあることを、かたく期して来たのである。
ところが──
一切は大賀一味の逮捕と、露顕によって齟齬してしまった。のみならず、甲軍の方策は、早くも徳川方に読み抜かれてしまったわけである。
河を泳いで逃げのびて来た、倉地、小谷のふたりから、それと知ったときの勝頼が、はたと困惑につつまれた容子も──思えば無理はないのだった。
「ここまで来ながら、むなしく還るのも潔くない。……というて、うかと前進もならず」
彼の剛毅な気性は、ひたすらそこに悩んだ。また、甲州発向の際、しきりと軽挙を諫めた馬場や山県の両将にたいしても、意地がはたらいた。
「兵、三千は長篠へ向え。──自分は吉田城を衝いて、その地方を席巻する」
彼は夜の明けないうちに、陣地を払って、吉田方面へ行動した。
小山田昌行と、高坂昌澄の二将は、別れて長篠へすすんだ。
そして、篠場野あたりに、陣していた。
何ら、成算のない勝頼は、二連木や牛窪などの部落を放火して、いたずらに示威して廻っただけであった。吉田城へはかからなかったのである。
なぜならば、この時すでに、家康と信康の父子は、内乱者の清掃を一気にかたづけて、疾風のごとく、薑ヶ原まで、兵馬をすすめて来たからだった。
勝頼の大軍が、進退に迷って、単なる面目のためにうごいて来たのとちがって、徳川勢は、内部の叛逆どもを血祭りとして、
「亡国か。興国か」
の大きな衝動をそのまま抱いてここに駈けつけて来たのであるから、兵数は劣弱でも、意気ごみは、彼とはまるで違っていた。
薑ヶ原では、先鋒隊と先鋒隊とのあいだに、二、三度、小ぜり合いがあっただけである。甲軍もさるもの、
「これは──」
と、当り難い敵の士気をさとったので、にわかに、彼の鋭鋒を避けて、
「──長篠へ。長篠へ」
と長駆、急転回して、一たん徳川勢にうしろを見せ、他に期するものあるが如く、遠く去ってしまったのである。
長篠!
ここは宿怨の戦場だ。
城。それはまた、不落の堅城といわれている。
もと、永正年間には、今川家が抑えていた所である。それを元亀二年に武田家が収めて領としたが、ふたたび天正元年、家康の攻略するところとなって、いまは徳川家の奥平貞昌を守将に──副将松平景忠、同じく親俊など以下五百余の兵が常備に籠っていた。
地形、交通、あらゆる角度から見て、ここは軍事上、重要な地点だった。ここを持つ持たないは、単に一城の価値だけではなかった。
だから、戦のない日でも、長篠の城には、あらゆる策謀の手、裏切り、流血など反覆常なきものが繰返されて来たのである。
果然──
甲州一万五千の大兵は、城内わずか五百の兵を、天正三年五月八日のたそがれ頃からすっかり封鎖してしまった。
いま思いあわせると、さきに小山田、高坂の一部隊をさし向けたのみで、主力は吉田を衝くと見せ、急にまたここへ迂回して来たのは勝頼の巧みな偽動進軍だったかも知れない。窮したりとはいえ、二日も三日も無策にうごいて、むなしく兵馬を疲らすような凡将の彼ではなかった。
豊川の上流──大野川との合流点──三州南設楽郡の山地に拠って、長篠の城は、西南に向ってそびえている。
東北の搦手は、すべて山といってもいい。
大通寺山、医王寺山など。
また。
濠は自然にながれている大野川、滝川の二流を、幅ひろく繞らし、その幅は、三十間から五十間もあった。
崖の高さも、低いところで九十尺。高いところは百五十尺もある絶壁だった。
水深は五、六尺にすぎないが、激流だった。もっとも、場所によって、怖ろしく深いところもある。しぶきをあげ、渦巻いている奔湍もある。
平常、この水流の地理は、おそろしく秘密が厳守されている。水深を考えたり、写筆を携えたりなどして佇めば、何者であろうと、お濠番は、望楼のうえから一発の下に射殺してかまわないことになっている。
この天嶮の濠をなしている河流をへだてて、西南の一部は、平野であった。有海ヶ原、篠場の原などと呼ばれている。
その野末を、船着山の連山がかこみ、鳶ヶ巣山も、そのうちの一峰であった。
「何と、物々しい……」
城将の奥平貞昌は、その夕方、望楼に立って、余りに入念な敵の配置に、身の毛をよだてた。
物見の者の通牒を綜合してみると、搦手方面の大通寺山には、武田信豊、馬場信房、小山田昌行などの二千人。
西北には、一条信龍や真田兄弟の隊や、また土屋昌次らの二千五百が陣している。
滝川の左岸には、小幡隊、内藤隊。南方の篠場の原の平地には、武田信廉、穴山梅雪、原昌胤、菅沼定直などの三千五百余。
また、遊軍とみえ、有海ヶ原いちめんに、山県隊、高坂隊の旗じるしが、夜目にも翩々とうごいて見えた。
さらに。──勝頼は約三千をひきいて、医王寺山を本陣とし、一族の武田信実は、奇襲にそなえて、鳶ヶ巣山の一角に、兵旗をひそと沈めていた。
攻城はその夜から始まって、十一日のたそがれまで、八方から攻めたて、城中の者は防戦に息つく間もなかった。
篠場の平地にいる甲州勢は、筏を組んで滝川の激流にうかべ、城の野牛門を目がけて、幾たびも近づいて来た。
鉄砲、大石、木材などが、無数の筏を沈没させた。
が、彼らは怯まない。
筏は、あとからあとからつながって来る。城兵は、油をそそぎ、炬火を投げた。
河も燃え、筏も燃え、人間も燃えた。
「あまりに短兵急。眇たる小城一つに、犠牲のみ大きすぎる」
山県三郎兵衛は、勝頼の指揮にたいして、時折、心痛した。──何となく彼の焦躁が感ぜられるからである。老将の眼から見ると、総帥たる人のそういう心理は案じられるものだった。
──が、筏戦などは、まだしもであった。西北の一条隊や土屋隊の如きは、地下道を鑿りはじめたのである。地下道は本丸の西の廓内へ鑿り抜けて出る計画の下に、夜も日もついで、坑口から土をあげた。
蟻の穴のように、無数に盛りあげられた土山を見て、城将もさてはと気づき、城中からも坑道を鑿り出した。
そして、火薬を仕掛け、敵の坑道を、爆砕してしまった。甲軍の死者は、このときだけでも七百余人といわれている。
地下道戦に失敗した寄手は、こんどは空中作戦の挙に出た。
大手門のまえに、幾ヵ所も、井楼を構築し始めたのである。
井楼の様式もいろいろあるが、ふつうは巨材を井桁に組み上げ、それを何十尺の高さにまで築いてゆく。──その上から城中を俯瞰して攻撃基点の優位を占めるにある。
これは都市城壁をもつ中国では古くから行われている戦法で、車をつけた移動井楼などもあった。日本では、城の位置が、各地とも、山岳の山城本位から低地の平城主義に移って来た傾向とともに用いられ出したものである。
守将の奥平貞昌はまだ二十四歳の若さで、城兵五百余人の生命と、この一城の運命を担ったが、彼は沈着に、寄手のあらゆる奇手に対して、よく機を見、よく酬い、よく変じ、よく処した。
四ヵ所の井楼が完成した十三日の未明である。
武田勢は、夜明けもまたず、それへ攀じ登って、銃口を並べ、また焔の枯れ柴や油布へ分銅をつけて、火の鳥のように、大手門の内へ投げこんだ。
そこここへ落ちてくる焔に、城兵たちの消防に努める影が赤く映る。井楼のうえの空中戦は、一斉に火ぶたを切って、それを狙い撃ちした。
ここまでは圧倒的に、甲州軍の成功が予測されていた。ところが、夜来、城頭に立ったきりで、眠りもせず見まもっていた青年守将が、ひとたび、
「撃てーッっ」
と、令をさけぶと、たちまち天地を震撼して、かつて甲州の将士の耳には、聞いたこともない轟音が、城の数ヵ所から火を吐いた。
小銃の力を、何十倍にもしたような、巨銃であった。
井楼は粉砕された。
次々と、地鳴りして崩れ、そのうえにいた銃手や指揮者は、あらかた戦死したり重傷を負った。
徳川家の経済貧困はいうまでもなく、上下質素が平常であったが、新鋭な武器の購入には、どんな犠牲も払っていた。富力のある武田家が、文化の移入に不利な地勢にあるにひきかえて、三河、遠江は中央に近く、海運の便もあったので、富める甲州軍の持たないものをも、貧しい徳川勢はすでに備えていたのである。
とにかく甲州方は、よほど巨銃の威力に驚いたとみえ、
「無理押しすな」
と、それ以来、攻撃手加減が変って来たのは事実であった。
或る夜は──
おどろおどろ、夜もすがら、搦手の方面で、城壁を崩すような音がつづいた。
「躁ぐに及ばぬ」
貞昌は、兵の妄動を戒めた。
夜が明けてみると、寄手の兵が、大岩巨岩を、搦手の谷へ、ただ転げ落していただけのものだった。
「もしあわてて、城の一角でも崩れたかと度を失って躁いだら、敵に虚を衝かれたろう」
貞昌は笑って云った。
──が、若い守将のその笑いかたも、一日ましに、悲壮味を帯びてきたことは争えない。それは、怒るよりも、哭くよりも、深刻なものだった。
巨銃は長く使用にたえない。小銃の弾もない。弓や矢では防ぎに足りない。──それと、もっと現実的な問題は、あと余すところ幾日かの糧だった。
「城中兵糧は、もういくらもないぞ。いたずらに、力攻めして兵を損傷するには当らん」
十三日の総攻撃以後、寄手は求めて血みどろになることを熄めてしまった。城を繞る滝川と大野川一帯の河中に、杭を打ちこみ、大綱を張りまわし、岸にはすべて柵を結って、孤城長篠を、文字どおり、蟻の這い出るすきもないほど、完封してしまった。
「……なに、もう兵糧は、四、五日分しかない? それ以上、持ち耐える糧食は、何物もないのか。何物も」
奥平三九郎貞昌は、今日、あらためてまた、その窮迫を訴えに出た粮米方の武士を前にして、幾度も念を押した。
兵糧奉行は、沈痛な面に、はや節食も、補給の策も、ここに立ち至っては──といわぬばかりな絶望を示して、
「ございません。──何物もございません」
と、明言した。
だが貞昌は、その言葉を、そのままに受けきれなかった。城中五百の生命を、もう四、五日限りと断じてしまうと同じだからである。
「実地に見せい。──一応、穀倉を見たうえで」
彼は、自身、検分に廻った。
城中、隈なく歩いたところで、方六町しかない小城である。結果は、三九郎貞昌に、より以上、絶対的な覚悟を与えただけである。
節食はもちろん、喰えるものは喰い尽し、穀倉の中の土まで篩にかけてつないで来た奉行の苦心を聞くと、彼は、何もいえなくなった。
黙々、帰って来ると、大勢の将士がいる武者溜りの真ん中にどっかり坐ってしまった。人々は、貞昌の顔色に、すべてを読みぬいていた。
「勝吉! ……勝吉はおろうが」
ふいに面をあげて、洞窟のような大床の人影をみまわした。
明り採りの狭間に近く凭って、黙然と膝をかかえていた従兄弟の奥平勝吉が、
「これにおりますッ」
明晰に答えて、前へ進み、じっと、眸をあげたまま両手をつかえた。
三九郎貞昌は、彼を見ていた眼をふと一同に移して、
「ほかの者も聞け。いまもつぶさに調べたが、城中の糧は、剰すところ、あと四、五日分しかない。死馬を喰い、草を喰うとも、幾日をつなぎ得よう。──危急は迫ると、疾く、岡崎へ向って、援軍の後詰を仰いではあるが、なんとしたか、いまもって、お沙汰は聞えぬ」
「…………」
「むなしく餓死はせぬつもりだが、さりとて、この一城と、五百のお味方を失いたまわば、岡崎浜松も危うからんと──胸がいたむ。あくまでも──最期の一瞬までも──たとえ土を喰い草を咬もうと戦わねばならん。……そこでだ」
と、ふたたび勝吉へ、その眼を転じて、
「いま岡崎にお在す殿の許へ、わしの書状をもって、後詰の催促にまいってくれい。大任じゃぞ、勝吉。よいか、そちに命じる貞昌の心を酌めよ」
「……あ。お待ちください」
「何か」
「お断りします。──それにはこの城を出なければなりませんから」
「いやというのか」
「余人をおつかわし下さい」
「そうか。……城外の河には逆茂木をうちこみ、縄を張りめぐらし、鈴を結いつけ、岸には高く柵を結いまわしてある寄手の警備に恐れて、所詮、そちには突破できぬというのか」
「何をもって……」
勝吉は、苦笑して答えた。
「城中にいるも死、城外へ出るも死、ふた途はありますまい。私がお断りするわけは、自分、若年でこそありますが、守将たるあなたの一族です。もし無事に、濠をこえ渡り、敵の囲みをくぐって、使いを果したところで──そのあと、万一、お城が陥ちてしまったら、私はどこで死にましょう。ここは飽くまでそれがしの死所でござる。故に、城外へ出ることはできません」
すると、薄暗い隅のほうで、おうッ……嗚咽に似たような声をあげた者がある。貞昌の家来、鳥居強右衛門とよぶ軽輩であった。
みな、彼を振向いた。
そして、強右衛門か、と軽く知ると、眼の中へも入れない顔をした。
陪臣の端くれで、五、六十石にすぎない軽輩と、身分を蔑んだわけではない。
全城一心のいまだ。生死を共に期しているいまだ。そんなけじめは誰にもない。
が──強右衛門とあっては、誰でも余りに頼りに思えなかったのである。律義者の子沢山というが、この男も、まだ三十六というのに、子どもは四人もかかえている。
微禄なので、平常の貧乏は、岡崎にいても、城下で指折りのほうである。内職もやる、百姓仕事もする、それでもなお喰えないとみえ、非番の日は、腫物だらけな子どもを負い、洟垂らしの手をひいて、諸家の弓直しや具足の手入れなどさせて貰って糊をしていた。もっとも、彼の妻が生来弱いので、子を生むとか、病床にいるとか、とかく事欠きがちなので、久しぶり戦場から帰っても、強右衛門は、暢々するひまもなかったのである。
また、こういう妻には、こういう良人が、よく配偶されているように、強右衛門は、世俗でいう「気ばたらき」の至ってない、鈍々として、ただ真正直が取柄だといわれるような性格だった。
──その強右衛門がいま、何を感動したのか、奥平勝吉のことばを聞いて、すすり泣きとも何ともつかない変な声を出したので、異様な眼をふと一同から向けられたが、この緊張している場合、すぐ無視されたのも、あながち無理はない、また軽蔑でもない。
「──勝吉が参れぬとあれば、余人もまた、城を出るを、潔しとすまい。……というて、むなしく援軍の来るのを待つもどうか。わずか四、五日しかない兵糧を喰って」
三九郎貞昌は、再度、呻くようにいって、左右の者の顔を、一つ一つながめた。たれか、勝吉に代るべき、よい使いはないものかと物色しているような眼で。
「…………」
果てしない沈黙がつづく。
そのあいだを、搦手かどこかで小銃の音が聞える。小競り合いと見て、それには誰も動じなかったが、当面の問題には、まったく困憊のいろを漲らしていた。
強右衛門は、武者溜りの隅のほうから、のそのそと、這いすすんでいた。守将、副将のそばへ寄るほど、上席の者が座を占めているので、身を容れる余地はなかった。
「御評議中でございまするが……強右衛門から、おねがいのこと、申しあげてよろしゅうございましょうか」
人々のあいだから、低く両手をつかえて、彼の丸い背がおそるおそる云った。
守将の貞昌が、じっと、それへ眸をそそいだ。
「なんじゃ、強右衛門」
「ただ今、勝吉様へ仰せられていたお使いの役目は、御一族でなければいけませんでしょうか」
「左様なことはない」
「てまえでは、勤まりませぬか。そのお役目、強右衛門めに、おいいつけ下さいませんでしょうか」
「なに。──そちが行くと」
「はい。出来るものなら」
「……?」
貞昌もすぐ答えかねた。彼の鈍重を危ぶみもしたが、日頃、広言一つ吐かない男が、ふいに云い出したことなので、やや愕いたふうでもある。
ず、ず、と強右衛門は巨きな体を無意識に押しすすめて来た。そして懸命に、
「おねがい致しまする。てまえに出来ることならば、おつかわし下さいませ」
と、額を床にすりつけた。
人々はただ彼を見まもっていた。みな貞昌と同じ感を抱いていたにちがいない。──けれど誰も、それはこの男には出来ない使いであるとも云いきれなかった。なぜなら彼のすがたにも声のうちにも怖ろしい真実の光が見えていたからである。
その時、ひとりの城兵が、あわただしく駈けて来た。手に密封された一通の書面を持ち、
「今しがた、弾正曲輪の外土居を見廻っていると、土民のすがたに窶した男が、河向うから声をかけ、矢文としてこれを射込んで来ました。……どうやらお味方の密使らしく思われました」
と、いうのであった。
さては! と人々は希望の眼をかがやかした。三九郎貞昌は、すぐ被いて、一読していたが、しきりとその手紙を鼻にあてて嗅いでいた。
文面には、籠城の見舞や、信長自身の動静が、細々書いてある。主要は、何分にもいま、信長の立場は、多端なので、徳川殿からしきりに御催促はあるが、急に、派兵もでき難い。──ここは一時開城して、ふたたび奪取する機を待たれるように、という岐阜の信長からの来状だった。
貞昌は、苦笑した。やがてその内容を、一同へ読み聞かせてから、
「甲州の智者にも抜け目があるの。これは偽手紙とはっきりと云い断れる。なぜならば、信長はつねに京都へ出入りし、公卿たちと文事のやりとりもあろうに、筆墨に心を用いぬ筈はない。この墨のにおいを嗅いでみるに、京墨のあの芳香はどこにもせぬ。膠のつよい田舎墨──甲州墨じゃよ、これは」
と、大いに笑った。
けれどその後はすぐ──当面の問題と沈鬱の色に返った。貞昌はさっきからじっと自分の前に平伏している強右衛門に向って、初めて力づよく、こういった。
「強右衛門。その一心ならば、きっと寄手の重囲を脱けて、使いの役を、果し得よう。──とはいえ、元よりそれは、九死一生の僥倖をのぞむこと、死を覚悟して出なければならん。……行くか。参ってくれるか」
「おゆるし下されば、ありがたいしあわせでござりまする」
強右衛門は飽くまで大言を吐かないのである。見ている者でも不安なほど、平身低頭したままであった。
「たのむぞ」
貞昌は、その一言を、満腔からいった。城兵五百の生命と、徳川家の浮沈のためだ。主君とはいえ、彼のほうからこそ、手をついて頼みたいところだった。
「行け。──強右衛門、抜け目はあるまいが、充分の注意を払って、城を出よ。よいか」
「はい」
「そちが、身支度をととのえるあいだに、岡崎の兄貞能へ宛ててつぶさに書面を認めておく。なお城中の切迫している実情は、直接御主君家康様へ、口上をもって申しあげるように」
「かしこまりました。──こよいの夜半から明け方までの間に、お城を出、河を越えて、首尾よく敵の眼をくらまして脱出できましたら、雁峰山の頂から、狼烟をあげて合図いたしまする」
「むむ。狼烟を見たら──事成れりと思うているぞ」
「もし、明日の午までに、峰より狼烟の揚らないときは、あわれ強右衛門奴の事成らず、むなしくも敵の手に捕われて果てたものと思し召して──直ちに第二段の策をお立てくださりますように」
「よし、よう心得た」
と、大きく頷いたが、貞昌はふと彼の胸のうちを思いやって、
「もし敵の手に捕われて、そちが敢えなき死をとげた場合は、あとに遺る妻や幼子のことなど必ず案じるなよ。三九郎貞昌より、岡崎の殿へ申しあげ、われらすべてここに討死いたすとも、きっとそちの子はお取り立てを願うておくぞ。その儀は、くれぐれ心にかけぬがよい」
すると強右衛門は、頭を横に振って、いかにも屈託なく答えた。
「憚りながら、殿こそ、そんな御心配は、御無用にぞんじまする。強右衛門はいま、妻子のために働くのではございません。城中五百余の方々のお身代りに立つ覚悟……。それゆえにこそ強く大きく振舞えますものを、御斟酌では、却って、強右衛門奴が、臆病に相成って困りまする」
その晩、強右衛門は部屋へさがって、ただひとり、針を持って、縫物をしていた。
針と糸も、戦陣では、さむらいの嗜みのひとつだった。
彼は、かねて敵方の死骸から剥いでおいた人夫の短い衣服を膝にひろげている。その襟を解いて、中へ、城主貞昌の密書を縫いこんでいるのであった。
同役の者とみえ、時々、板扉を細目にあけて、
「強右衛門。……まだいるか。まだ出かけないか」
彼の大任を案じて、他人事ならず、心配してくれているらしい。しかし、強右衛門は、縫針を運びながら、振向きもせず、
「む、むう、まだだ。……まだ夜半だろう。行くときには声をかけるから、あっちに行っててくれ。部署についていてくれい」
と、膠もなかった。
三、四人の朋友は、そう聞くと、そっと跫音をしのばせて帰ってゆく。──強右衛門は、襟を縫い終ったらしく、糸を噛んだ。
針をもつと病妻のことが、眼のまえにうかんでくる。
病妻を思うとき、子の声が耳に聞えてくる。
さすがに、ぽろりと、つい涙をこぼした。
あわてて涙を拭いて、たれか人が見ていなかったかと、不覚を叱りながら、厚い板の扉を振向いた。
その下に、古脚絆、布わらじ、一本の刀、火打石、狼烟筒などが、一まとめに揃えてある。
「ええ、いけねえ」
何か、頭から振り払うように、頭を振って、一つ二つ、拳でたたいた。
そしてにわかに、身支度へとりかかった。甲州の坑掘り人夫に扮装して、いく度か、自分の衣髪に苦慮を払った。
「……よし」
ひとり呟いて、坐り直した。そして短檠の灯をふき消すと、四角な狭間から蒼い月の光が映して彼の膝近くまでとどいた。
五月十五日、生憎と、こよいは月がよく冴えている。つねならばもう梅雨雲の五月闇といわれる頃を。
「……強右衛門」
また、同役が四、五名して、板扉から顔を出した。そして、
「──いたのか。何でまた、明りを消したのだ」
と、怪しみながら入って来た。
そして自然、四角な月光の窓に眼を吸われると、みな口を閉じて立ち竦んだ。そこから一目に見える城下の大河──対岸の柵、甲州軍の黒々と野を蔽う陣地。
(あれを越えてゆくのか)
と、誰にも、その至難の大役が思いやられ、悲壮な決死行の門出にある友にたいして、餞別のことばもない心地に打たれたからである。
ひとりが、強右衛門のそばに、酒徳利をおいて、腰を落した。
「おい。すこしばかり、組頭にお願いして、いただいて来た。酒だ……お神酒だ。飲んで行ってくれ」
強右衛門は、酒が好きだ。つねには貧乏で飲めないし、近頃は糧食もない籠城中なので、なおさら酒を見ることも珍しい。彼は、友の好意に涙ぐんで、徳利へお辞儀した。
「かたじけない」
そして他の者へも、
「おい、坐れ。みなで飲もう」
いうと、人々は、
「何の、皆して飲むほどはないのだ。せめておぬしに一口と思ってようやく頂戴して来た酒。まあ、飲んで行くがいい」
「いや、ひと口、舐めるほどずつでも、皆で飲まなければうまくない。杯はあるか」
「持ってきた」
「一杯ついで、飲み廻そう。……酌いでくれい」
強右衛門から先に、杯のふちを舐めた。順々に舐めまわした。
一酌の後。強右衛門は、名残を惜しむ人々へ、
「すこし眠らせてくれ」
と、頼むようにいった。
「眠るがよい」
と、この友を宥わるに、どんな誠意を捧げても捧げ足りないような気持でいっぱいな同僚たちは、彼の乞うままに、酒徳利を持って、またそッと出て行った。
ごろりと、強右衛門勝商は、すぐ横になった。
二刻ほども寝たろうか。
鳶ヶ巣山の肩に、いつしか月も傾いていた。
「あ。……夜明けに近い」
強右衛門は眼をみひらいた。時鳥の声が耳をつきぬく。
寄手の陣地も、味方の城も、いまは銃声一つなく、深い静寂の底にある。──淙々とつねに遠く聞えるのは、石垣の根を洗ってゆく滝川の奔流だった。
「……どれ」
のそりと、彼は、外へ出て行った。背に、狼烟筒や火薬をくるんだ網風呂敷を斜めに負い、足に脚絆布草鞋をつけて。
「では、ただ今から、行って参りまする」
彼は、本丸の閣へ向って、こう独り言に頭を下げ、また城中五百の将士に、心のうちで別れを告げた。
自分のうえに、その五百余の生命がいまこそ託されて行くのだと思うとき──強右衛門は生ける効いを改めて身に覚えた。
「きょうまで、何ひとつ、人にすぐれた功も立てずに来たが……」
この大任を与えられたのは、時あって、巡り会った武士最高の幸! ほまれ! そう思うにつけ五体の肉の緊まるのを禁じ得なかった。
「強右衛門。つつがなく」
「御首尾を祈るぞ」
と、口々に別れを告げる小声がする。ふと振向くと、土塀をうしろに、彼の所属している組の組頭以下、同僚たちのこらず見送りに立ち、あとはただ黙然と眸に情をこめていた。
「…………」
強右衛門も無言。ていねいな一礼を答えて、そのまますたすたと外曲輪の方へ足を早めた。いつもは厳に消燈して真っ黒な本丸の閣にも、ちらと灯影がうごいていた。守将の三九郎貞昌も、侍臣たちも、夜来寝もやらず、ひそかに彼の決死行を見送っているらしく思われた。
強右衛門は、城の片隅にある一叢の木立へかくれ、やがて不浄門へ崖づたいに降りて行った。ここは城中の穢物を流す水門なので、味方にさえ眼につかない所なので、対岸の敵も自然、注意を欠いているし、備えも手薄と見たからである。
彼は、背の荷物や衣服を、一つに括って、頭へ結いつけた。そして猪のように、石垣の下の草むらを這い、水流を測っていたが、やがて、ザザザと激流のなかへ身を進ませた。
烈しい水圧と共に、すぐ胸や足を遮るものがあった。河中へ縦横に張りめぐらしてある荒縄だった。縄には無数の鈴が鳴子のように結びつけてある。
「八幡。加護あらせ給え」
強右衛門は、神に念じた。鈴鳴子はりんりん鳴る。彼は、脇差を抜いて、身に絡む荒縄を、切っては泳ぎ、薙いでは泳ぎ、ようやく滝川の対岸へ手をかけた。
「はてな? 鈴が鳴ったが」
柵の陰で、敵兵の声がした。強右衛門は、すぐ下の岸辺に、息をこらしていた。
すると、べつな声で、
「鯉か鱸だろう。きのうも大きな魚が捕れた。梅雨時だからなあ」
──神の助け。強右衛門は、その跫音が遠く去ると、柵を躍って、驀しぐらに駈け出した。敵陣、敵地、どこをどう駈けたか、自分でも分らなかった。
──が、明けて午すこし前、かねて約束の雁峰山の上から、彼の手によって揚げられた狼烟は、まさしく天をつらぬいた。城兵五百の歓喜と涙のひとみに、その煙と空は、いかに麗しく見えたろうか。
十日前後から、この岐阜表へ、徳川家からの早馬は、日に何度となく着いている。
長篠の情勢を、刻々伝えて来るものであった。
同盟国徳川家の急は、ただちに織田家の急といえる。
岐阜城中の空気もすでに並ならぬ緊張を見せていた。
「即刻援軍を」
という家康からの要請は、書面でも、また家臣の小栗大六の口からも、つづいて急使として来た奥平貞能からも、火のつくように、信長を急きたてた。
「よろしい」
とは答えたが、信長はにわかに軍を動かそうともしない。
評議二日にわたった。
毛利河内は、その席で、
「所詮、勝算はありません。御出馬は無用」
と、諫めたが、また、
「いや、義に背く」
と、それを駁する者もあった。
佐久間右衛門などは、その中庸を行く説で、
「河内どののいわれるごとく、甲軍の精猛に当って、勝目の乏しいことは、歴々たるものですが、もし、御出馬を見合わすにおいては、徳川家の将士は、その不信を鳴らし、へたをすると、寝返り打って、甲軍と和睦し、鉾を御当家に向け直すような惧れがないとは限りません。──ここは、とまれ、消極的な御加勢をもって、一時の責めをおふさぎになることが、最善と存ぜられますが」
と、陳べた。
すると、列座の中から、
「否。否ッ」
と、呶鳴った者がある。
急遽、長浜から手勢をひいて駈けつけて来ていた筑前守秀吉であった。
「長篠一城は、この際、さしてのことではござるまい。しかし長篠が甲軍の攻勢的足場に占められたのちは、徳川家の防禦も、すでに堤の一部を切られたも同様で、到底、長く甲州の進出をふせぎきれないことは瞭らかです。──信玄亡きあとの現状でさえ、勢い当り難い甲軍に、その優位を与えたとき、わが岐阜本城の安泰がどうしてあり得ましょう」
彼の声は大きい。彼の弁にはまた一種の情感の響きがある。人々は彼の面を見ているだけであった。
「──ひとたび、軍をうごかすからには、戦うような、戦わないような、あいまいに出陣などという法はない。余りにも小策すぎましょう。出動、それは直ちに、積極的な行為ではあるまいか。──よろしくここは大策を立て、織田倒るるか、武田捷つか、乾坤一擲のお覚悟をしかとすえられ、大軍をもって盟国の急を救い、あわせて年来の大患を一挙にお除きあるべきかと信じます」
信長の胸は知らず、いずれ援兵を送るとしても、六、七千か一万足らずの兵とは、諸将のたれもが一様に考えていたところだった。
それを、翌日となると、信長は令して、三万の大兵に、出動の準備を命じた。
「秀吉の申し条、至極もっとも」
と、評議ではいわなかったが、事実が示しているとおり、彼の言が信長の胸を云いあてたか、信長が彼の策を容れてこの挙に出たか、とにかく、
「このたびの事こそ、援軍とはいえ、織田家の興亡にもかかわる将来のわかれ目──」
と、本腰をすえて、信長自身も出馬ときまったものであった。
岐阜を発したのが十三日。──十四日には全軍すべて岡崎へ着いていた。
信長以下、援軍の全将士は、翌十五日の一日だけ休養して、十六日朝、戦場へ向うことになっていた。
岡崎の城下はそのためにごった返していた。何しろ狭い町に岐阜から来た三万人の将士が宿泊して、戸ごとに馬を繋ぎ、糧食を炊ぎ、酒も飲みするので、町中は沸くような騒ぎである。病人を除く以外、女手まで動員して、その接待に忙殺されていた。
「もう大丈夫。……もう大丈夫じゃ」
家々では老人から女子供まで、眉をひらいて、この忙しさを歓喜していた。
岐阜の援軍が来るとしても、せいぜい、五、六千であろうとは、城中の人々にも予想されていたところである。それが夥しいこの大兵力に接したので、
「両家の御人数をあわせれば、三万八千、これだけの軍勢がゆけば、いくら甲州兵が強かろうと、敵の二倍半、負けることがあるものか」
と、百姓町人まで力み返っていた。
けれど、城内の空気はそうでもない。必ずしも楽観をゆるさないものがある。
第一には、
(後詰が行くまで、長篠が持ちこたえていられるか?)
と、いう心配と。
第二には、
(甲軍にも、策があろうし、殊に彼の密集突撃隊と騎兵団の突貫戦法は、天下無比の勇として鳴りとどろいている。たとえ数では味方がはるかに優位であろうと、その大部分は、他国の援兵)
という質の問題であった。
わけても第一の惧れは多分にある。家康を始め岡崎の将士は、長篠にある兵数や防備の微弱を知りぬいているので、気が気ではなかった。
その点になると信長方は、いくら同盟国の誼みはあっても、他人事はやはり他人事で、自分自体ほど直接には、不安の危急を感じられないに違いない──あすは戦場へという十五日の晩などは、家々のどこもかしこも篝で赤く染められ、馬糞くさい町中を、暢気に謡ってあるく武者がいるかと思えば、女たちの酌にどよめいて、手拍子や鉢など叩きながら、家々の中や軒端で酔っている車座もある。
そうした光景に夜も更け初めたこの町へ。
ひょこりと、乞食のような姿をした男が、どこからか紛れこんで来た。
甲冑の武者を見ても、ぎらぎらした槍を見ても吠えない犬も、この男の影を見つけると、わんわん吠えついた。
「しッ、叱ッ……」
小石を投げながら、男の影は、逃げるように、岡崎城のほうへ駈けて行った。
濠の水と葉柳の並木が、もうそこに見えたとたんに、わらわらと駈け寄った武者たちの跫音が、
「こいつ、何処へ」
と、すぐ前後をつつみ、左右から跳びかかって、組み伏せていた。
何の抵抗もして来ない。
男は、ぺたんと大地に坐っている。そして、まわりの者を見まわしながら、
「ああ。あなた方は岐阜の御家中でございますな。援軍に……徳川勢の援軍に……これへ来ておいででございますか」
息づかいが困難らしい。非常な疲労を面にも言葉にもあらわしている。
警備の者は、それだけでも、充分に怪しんだ。ひとりが蹴とばさんばかりな身構えして云った。
「黙れッ。質すことは、此方にある。何だ貴様は。何処から来た?」
「長篠から参りました」
「なに。長篠から?」
「奥平貞昌の臣、鳥居強右衛門と申すものです。御城門までお通しください」
身なりを見れば、甲州方の人夫。顔や髪は、汗と土にまみれている。あらゆる苦心をして敵地を駈け抜けて来たことは、多くを訊かないでも、その姿に見えていた。
「なに、長篠を脱出して、これまで使いにおいでたとか。鳥居強右衛門どのといわれるか」
「はいッ。はい。──主人奥平貞昌の御書面を帯し、昼夜をわかたず参りました。城中五百の生命はいま一刻をも争うほど危急に迫っておりまする。何分、気も急かれておりますれば、即刻、通行をおゆるし下さいますように」
もちろん警固の武者たちは、すぐ徳川側へ、この事を報じ、同時に、彼を伴って、城門まで送り届けた。
貞昌の兄、奥平貞能は、そう聞くと、
「えッ、強右衛門が? ……。あの鳥居強右衛門が来たとか」
むしろ疑いたいほど、愕きもし、歓びもして、あわただしく城中の密室に彼を迎え、
「ど、どうしたッ……?」
一言、そういっただけで、あとは、胸を衝きあげられていた。強右衛門の惨たる姿を見、また、孤城を守る少数な味方の辛労、ひいては骨肉のことも、咄嗟に考え出されたからであろう。
「……ぶ、無事に、お顔を拝しまして、使いの役、これで」
強右衛門はなお意気地がない。平伏したまま泣いていた。ただし──ここまで着いたぞと思う欣し泣きであった。
「見、見せい、早く。……貞昌の書面とかを、持参いたしたそうではないか」
「はッ、これに……」
胸を正すと、強右衛門は汚い着物の下襟を、ぐっと帯から上へ引きあげて、その縫目へ咬みついた。
糸を破る。そして襟の中へ、芯のように秘して来た一通の書を、貞能の前へさし出した。幾重にも幾重にも油紙につつんである。封を切って読み下した。貞能もついに落涙を禁じ得なかった。
──城中の士気は旺んとある。弾薬は尽きたが、なお甲軍を叩きつぶす岩石の有るあり、とも書いてある。
けれど、いかんせん兵糧だ。強右衛門がお城へ着く頃は、おそらくもう二日の糧しかないであろうと告げている。
最後に。
覚悟はしかと決めている。万事休すとあれば、五百の部下の生命に代って、それがしが切腹するまで。
けれど、けれど。
この五百の部下は、たとえ一命だけは助けようとしても、怖らくは、何人生きのこるか。甲軍の手にかかって生きるを潔しとしないであろう。
ただ、今待つものは、全城をあげて、首を長くしているのは、お味方の救援のみ。
どうぞ、一刻も早く。
──貞昌の書面はそう結んであるのだった。さんさん涙なきを得ない。
「強右衛門」
「はい」
「なお、詳しいことも訊ねたいが、心がせく。即刻、この書面、殿の御覧にいれて参るほどに、しばらく、これにて休んでおれ」
「かしこまりました」
「ゆるす。足をくずせ、横になって、身を休めてもよいぞ、疲れておるであろう」
「いえ。べつに」
「腹は、どうじゃ。飢もじゅうないか」
「……実は、粥なと、すこし欲しゅうござりまして」
「申しつけてやる。さあ、脚をのばせ、気ままにしておれ」
貞能は、外へ出て、家中のひとりへ、何かいいつけていた。そしてあたふたと、大廊下を奥へ駈けた。
夜もだいぶ更けているのに、本丸の奥には、鼓の音が冴えて聞え、明々とまだ燭もかがやいていた。
客殿は両国の重臣でいっぱいだった。その上段の席に、家康と信長の顔が見える。
信長は、寛々たる態度で、手に杯をもち、好きな小舞や小鼓を所望して、眺め入っていた。
家康もここでは、気が気でないような顔つきは、客にたいして見せられなかった。
杯間、ふと、
(長篠の味方どもは?)
と、その安危が、しばしば胸を襲って来るが、強いて笑い興じ、努めて平常のごとく装い、信長をして少しでも、
(おれの援助がなければ、徳川家はいま滅亡のほかはないのだ)
などと思い上がらせるような弱体ぶりは示さなかった。
むりに彼以上に出ようともしなかったが、弱小国でも、眼前に危急を見ていようと、彼以下には、身を置かない。初めて清洲の城で、信長と会見した弱冠から、今日にいたるまで、五分と五分を持していた。
強右衛門の来たことを、そこで今、侍臣から耳にしても、彼は至って、平然たる面のまま、
「そうか。むむむ」
と、いったきりであった。
信長の小姓が、信長仕込みの小舞を舞っているのを、熱心に見入っていた。
やがて、一節の舞もすみ、鼓の音もやむと初めて、
「織田どの」
と、新たに杯を洗って、
「ちょっと、中座させていただく、長篠からの使いが今、表まで着いて控えておるそうですから」
と、断って立った。
そこは、静かに出たが、
「貞能、どこにおる?」
と、室外へ来て、仄暗い廊下へ出ると、声はすでに、心のそこのあわただしさを現わしていた。
「おッ、殿」
「貞能か。長篠より来たとある鳥居強右衛門とやらに、城中の様子つぶさに、自身聞きとりたい。どこに控えておるか」
「いや、召し連れましょう」
「手間どろう。それに及ばん。自身そこへ参ったほうが早い」
と、案内を急き立てる。
貞能は先へ小走りに駈けた。家康も大股にあるいた。強右衛門がいるのはお表の口に近い端部屋である。そこらにいた小侍たちは家康のすがたを見て狼狽を極めた。
厚い板扉を開けて、奥平貞能は中へ入るなり、大声で告げた。
「強右衛門、強右衛門。殿御自身、これへお運びであるぞ」
疲労のあまり、もしや彼が、そこに横たわってでもいたらと、先触れを急いだのであった。
が、強右衛門は、同じ所に、同じすがたのまま、ぽつねんと坐っていた。
一椀の粥だけは、そこですすったとみえて、低い足付膳が片すみに寄せてあった。
遠く退って平伏した。
「あの男か」
家康は勝手に座を取って坐った。あとから追いかけて来た家臣たちが、敷物やら脇息やらをすすめたが、それを取ろうともせず、しばし見つめていた。
「お答えしたがよい」
貞能に促されて、強右衛門は初めて口をひらき、貞昌の家来たることを告げ、また、つまびらかに城中の窮迫と苦戦の実状を話した。
家康は、頷き頷き聞いているうちに、何度も眦を指で抑えた。
「──強右衛門とやら、万死に一生もあるまじき中を、よくこれまで使いに参ってくれたな。……が、安んじてよいぞ。岐阜の援軍も来着、家康も夜明けとともに立つであろう。長篠へ到るは遅くもここ両三日のあいだにある。……大儀大儀、そちはふたたび長篠の城へ帰るには及ばぬ。ここに留守して、身を宥わるがよい」
帰らずともよい。すでに使命は果したのだから、あとに残って休養するがいい。
当然のこととして、家康はそう犒ったのである。──が、強右衛門は、
「思し召、ありがとう存じますが、ただ今からすぐ、お暇いたして、長篠へ立ち帰りまする」
と、これもまた、当然であるように答えた。
家康の愕きの眼は、じっと彼を射た。
(この男は死ぬ覚悟でいるな)
と、直感したからである。
死ぬ気でなくては、重囲の中の長篠へ、ふたたび帰るなどということはできない。そこから脱出して来る以上、至難と危険があることは分りきっているはずである。
「……帰る?」
「はい」
「すぐにか」
「一刻の間も心が急きますれば」
「それには及ばん。その心根はよく分るが、それまでに、危ない中を、往来せんでもよい。充分、体を休めて、勝軍の報らせを待て」
家康は、この男が、ふたたび帰って、城中へ援軍が近く行くことを知らせてくれれば、それだけ士気は振い、全体に及ぼす効果の大きいことは知っていたが、これほどな者を──と、むざむざ殺すには惜しい気がしたのである。
強右衛門は、再拝して、
「そのありがたいおことばだけで、身の疲れなども、忘れ果てまする。何としても、城中にあるお味方の最後のもう一耐えが大事です。案じられてなりません。さだめしまた、長篠の方々は、首を長うして吉左右を待ちおりましょう。──どうしても、帰らねば相成りません」
と、奥平貞能の方へ向き直って、
「では。おいとま致します」
と、辞儀をかさねて、立ち上がった。
「そうか……」
家康もぜひなく立った。しかしなお恋々とその素朴なうしろ姿へ向けて、
「城外まで見送ってつかわせ」
と、貞能へいった。
それから半刻ほど後には、鳥居強右衛門は、もう飄乎として、町の暗闇をあるいていた。
どこもかしこもすでに戸をしめて寝ていた。ただ、あすの早暁には出陣の空気が、どことはなく深夜の雲にも研がれている。
その夜空を、しきりと、五位鷺が啼いて行った。幾ぶんか雨気をふくんだ風である。山のほうは降っているらしい。
木戸木戸へ達しが届いていたとみえて、帰りはどこでも咎められなかった。彼はわれにもあらぬ足どりで、ふと薄暗い裏町から横へ入って行った。
壊れた板塀やら竹垣根が乱雑とつづいている。手入れの見えない草や木の間に、黒い棟と板葺の屋根と壁と──同じような家ばかりが幾つも見えた。
これでも岡崎としては五十石がらみの侍が住む組長屋だった。以て日頃の窮乏ぶりが分るのである。強右衛門は、その一つの、形ばかりな門のくぐりを押した。覚えのあるわが家の窓がすぐ眼につく。その窓から、嬰児の泣き声がしていた。表の戸は締まっている。強右衛門はそこを叩こうとはしない──凝然と、耳をすましていたが、やがて側の低い竹垣を跨いで、草のなかを足音をしのばせながら、横の方へまわって行った。
雨だれに苔さびている石がある。それに足をのせると、ちょうど窓へ頭だけ届いた。彼は竹の櫺子のあいだから、そっと半分ほど、窓の戸を開けた。
家の中が見えた。貧しい家の中が。
嬰児の声は、近々と、耳を打つ。その父が、ここに来ていることを無心な者へ、虫が知らせているように。
息をのんで、彼は、窓の外にしがみついていた。じっと、家の中を覗いていた。
わが家である。
──おい、女房。
と、一声かければ、すぐ飛んで来て、戸も開けよう、手を取って、迎え上げもしよう。けれどこの身はいま、自分のものでない。
こうして軒下に立ち寄るさえ、長篠にある戦友にすまない心地がする。──しかし二度とこの軒下に帰る日はあるまいと信じられるので、心に詫びつつ寸刻を、よそながらの別れを告げに立ち寄ったのだ。
「ゆるせ。父を」
窓のふちに掌を合わせていた。
と。末の子の襁褓でも換えているらしく、破れ障子の陰に、妻の影がうごいた。
──影の細さよ。
強右衛門は胸がつまった。
あいかわらずお身は体が弱いとみえる。大事にしてくれよ。この先とも。
この度の大任こそ、男の死にどころ。さむらいたる自分が、進んでまた歓んで、糟糠の妻や幼いものを後にのこして死所に就いたという心もちは、さむらいの妻だ、おまえはよく分ってくれるだろう。
悲しむな、それは無理だ、しかし体をそこなうな。泣きぬいたあとは、卒然、涙の底から、立ち直る生きがいをつかんでくれ。
もし、おれが死んだら。
おれが願うところはただそれのみしかない。どんな暗黒な──どんな悲嘆の底にも──そこをつらぬき通せばこんこんたる心泉があるものだ。これ限りというつき当りはないのがこの世だ、人間の生きるすがただ。
死んでも先はある。生命の無限を信じればこそ、おれは歓んで死ぬこともできる。
いまおまえが、お襁褓をあてている子どもをよく御覧。それは誰だ?
おれが死ねばおれではないか。
おまえが死んだあとはおまえではないか。
おれ亡きあとは、かたちこそ違え、たしかにおれであるその者たちを護ってくれよ。おまえならでは、それを託するものはいない。
夫婦は二世という。
あの世のことではない、この世からだ。
「……頼むぞ」
強右衛門は声をあげて云いたかった。顎がわくわくうごいた。
彼は、ふところを探って、白紙に包まれた物を取り出し、どこに置こうかと、手に持って迷った。
それは主家の紋のついている紅白の打菓子であった。城中で待たされている間に、特に、下された菓子だった。
微量ながらこれには砂糖というものが入っていると聞かされた。砂糖などというものは舐めたことは愚か、見たこともない。──特に、織田殿がお泊りなので、上賓へ馳走のため、膳部の者が自慢で製ったものだという。
こよい城中でそれをいただいた時、強右衛門は、爪のさきほど欠いて食べた。この君恩を妻や子にもすぐ頒けたくなったのである。──彼は、手をのばして、菓子の包みを、窓の下へ、そっと落した。
「……誰方?」
妻の声がした。微かな物音でしかなかったが、何とはなく、ものの気配というか──妻と良人の心の通いといおうか──ふと彼女はそこの破れ障子を開けて出て来た。
「おや? ……閉めておいたのに、ここの窓が」
子を抱いて彼女がそこから外を見た時は、もう良人は外にいなかった。
逃げるように、強右衛門は夜更けの道を駈けていた。それは、長篠へ長篠へと、行く先を急ぐ気もちよりは、人間本来の弱さを、意志で鞭打って、家と自分との距離を、一息のまに遠くしてしまいたいためであった。
暁の雲を見ると、町じゅうの馬はいななき出した。
旌旗は戦ぎ出し、貝の音は、おおらかに鳴る。
この朝。
岡崎の城下を発した兵馬は実に夥しい数であった。
小国の領民は、まったく眼を奪われて、
「さすがは、織田どの」
と、その強大な盟国の兵数と装備とを、頼もしくも思い、羨ましくも思った。
織田三万の兵は、これをそれぞれの旗印馬幟から見わけると、幾十隊に分れているか知れなかった。
柴田、丹羽、池田、滝川などの宿将はいうまでもない。
信長一族としては嫡子信忠、弟の信雄も行った。水野、蒲生、森、稲葉一鉄なども従って行く。
羽柴筑前守、前田又左衛門、福富平左衛門、佐々内蔵介──それらの若い部将の隊伍の力づよい足なみも一頻りつづいた。
「なんと、鉄砲の多いことだろう」
これは沿道の領民も驚いたことであるし、徳川家の将士の眼には、なおのこと羨望措く能わないものであった。
兵三万のうち、鉄砲隊所属の銃手だけでも、一万人近くいた。そして小銃の実数は、五千挺ぐらいあった。
巨きな鋳物の砲筒も曳っ張って行った。
それと──もっと奇異に感じたことは、小銃を持たない徒歩の兵は、ほとんどといっていいくらい、誰も彼も、一本ずつの柵木をかつぎ、柵を結ぶ縄を併せて携えて行ったことである。
「あんなに、棒杭を持って行って、どうするんだろう?」
と、百姓町人は、織田家の作戦をいぶかった。
同じ朝、やや時刻をたがえて、前線へ向って行った徳川軍は、これこそ本軍であるが、数はわずか八千に足りなかった。
ただ劣らないものは、士気であった。──織田家にとっては、ここは客土であり援軍に来た地であったが、徳川家の将士には、祖先の地だった、一歩も敵に踏ませてならない地だった。断じて退く後方を持たない、絶対の地であった。
足軽の端にまで、その意気が、ここを立つ時から漲っていた。悲壮な気さえながれている。装備も織田軍と比較しては、較べものにならない劣勢ではあったが、劣弱とは見えなかった。
家康の嫡子信康をはじめ、松平家忠、家次、本多、酒井、大久保、牧野、石川、榊原などの諸将──奥平貞能なども、もとより行軍のうちにあった。
城下を数里離れると、徳川勢は足なみを早め出した。途中、牛久保までかかると、織田軍と方向をかえ、夕立雲のように、設楽ヶ原へ急ぎに急いだ。
それより前に。もちろんそれよりも半日以上前に。
鳥居強右衛門は、単身、昼のうちに、設楽へ近づいていた。
もういたる所で、敵の斥候に会う。また、後方監視隊にぶつかる。すでにこの辺は敵地なのだ。厚ぼったい防禦線が、いったい幾重になっているのかと、その厳重さに驚かれる。
或る時は、草の根を這う鶉のように──或る時は野鼠のような迅さで──彼はようやく有海ヶ原まで敵の眼をかすめて来た。
「……ここまで来れば」
と、思った。
──がすぐに、
「その油断は禁物」
と、みずから戒めもした。
やがて遠く、長篠の城が彼方に見えた。五百の戦友がたて籠っている城。──その白壁を微かに見たとき、彼は思わず双手をあげたい程、心の奥で叫んだ。
「落ちていない! まだ落ちていないぞ」
すると、うしろの方で、にわかに馬のいななき、車の輪がとどろいて来た。それは喧騒な人声と草埃りにつつまれて──。
見ると。
馬の背には雑穀や青物、牛車には粮米のかますなど、山のように積んでいる。いうまでもなく甲軍の荷駄隊だ。近郷から徴発して来たものを前線の兵站部へ輸送してゆく途中らしい。
馬の汗、人の汗に、西陽が赤々と光っている、蜿蜒と長い列だった。兵だけでも百人からいよう。徴発された百姓も、大勢見えるし、甲州者の人夫も馬を曳き、牛車の歯車に手をかけて廻している。
「ちくしょうッ」
「あるかねえかッ」
これも戦争である。このあたりは粒子の細かい土埃りの道でなければ、葭や水草の多い沼地であった。わだちも蹄も没してしまう。
奄々たる人馬の息と臭いが、ふと途切れる、また続く、また途切れる──。そのあいだを、泥か人間か分らないような兵や担夫が、列伍なく、駈けたり物を担いだり、切れた草鞋を持ったりして歩いてゆく。
いつのまにか巧みに交じって、強右衛門はその中の一人になりすましていた。彼の前を今、ひとりの年老った百姓が、軽桟に荷を附けて重そうに担ってゆく。
強右衛門は手ぶらであった。空身の者もいるが何となく彼には気がさすのだった。足を早めて、年老った百姓のそばへ寄ると、強右衛門は、
「おい。爺さん──」
と、声をかけた。
「まるで、せむしみたいな恰好して歩いてるじゃねえか。見ちゃあいられねえ。軽桟を外しなよ、おいらが背負ってッてやる」
意外な親切者に、爺さんはむしろ狼狽していた。強右衛門は否応を待たず、彼の背から軽桟を取って、自分の逞しい肩にかけた。
「いいよ、いいよ。こんな物、おらには背負っているもいねえも同じこった。爺さん、おめえは前の牛車の後にでも取ッついて行くがいい。あれなら楽だろ」
西陽の影はもう大地にない。紅い余映を雲の端にのこしているだけだった。
「停まれーッ。停まれいッ」
前の方で大声がする。
荷駄隊の部将がどなったのだ。見れば陣所の仮屋がある柵門がある。強右衛門は、何とはなく、どきッとした。
もう武田方の陣営が密集していた。敵地の中の敵地である。前列の方から順に厳しい調べをうけているらしい。──通れ、通れ、通れ、という前の方でする声がだんだん近づいて来るにつれて、強右衛門は口の中が渇いて来た。
ついに、彼の番になった。
いきなり甲冑の武士の手が、左右から彼の肌を撫でた。髪の根を探ったり懐中へ手を突っこんだりした。強右衛門は阿呆のように口を開いていた。
「人夫か」
「へい」
「どこだ」
「へい。何がで」
「たれの手に従いて、どこの組の者かと訊くんじゃ」
「庄助って、申しますだ。岩村の衆と一緒に来たんで、岩村組におりまする。へい。岩村組の」
「もういい」
「へい」
「──通れッ」
背の軽桟を突きとばされて、よろよろと、強右衛門は柵の中に入っていた。ほっとした余り、少し戸惑っていたとみえて、彼が歩き出すと、
「おいおいッ、馬鹿ッ、何処へゆく気だ」
と、鞭を持って牛馬や人夫を督している荷駄隊の兵に、そのうろたえを呶鳴りつけられた。
馬の背の叺、牛車のうえの穀俵などを、陣屋の兵站部へ担ぎ込むのだった。
兵は殺気立っている。鞭で人夫を撲るぐらいは物の数でない。
「傍見ばかりしているなッ」
強右衛門も、幾度か背や尻を打たれた。──だが、打たれている間は安心であった。
「飯だ。飯小屋へ集まれッ」
もう宵闇。大釜の火だけが赤い。そのまわりに立ち群れて、人夫や百姓たちはがつがつ飯茶碗を持ち合い、汁の杓子を争っていた。
ところへ巡視の一将校が、歩卒をしたがえて、突然、入って来た。
「並べ。お見廻りだ」
岩村組の親方がいうと、小屋じゅうの人夫は、みな隅へ寄った。
将士の兵站部は、べつに仮屋を建て増してあるが、ここは大きな民家の土間だ。真っ暗で、そして狭い。
中は混み入って、押し合うくらいである。強右衛門は安全を信じていた。この群れに紛れこんでいる以上、草叢と同じ色をした虫のように自分が思われていたのである。
ところが、事態はただならぬ空気となった。穴山隊の部将であると名乗る巡視の一武者は、
「いや、まったく、柵を通した者の落度だが──たしかに一名、人数が多い。何者かひとり余計に陣所へ入ったものと思われる」
頭数を調べろと声高に命じているのである。
入口を兵が囲んだ。そして一人一人つまみ出して、厳重な再調べが始まったらしい。強右衛門は大いに怖れた。
まさか、人夫の一人や二人ぐらい、何の注意も払われまいと、まったく多寡をくくっていたが、甲軍の厳密さは想像のほかだった。
「しまった」
袋の鼠である。彼の眼はおのずから鋭くなった。
横歩きに──人に気づかれない程度に──彼は背中で壁をすりながら裏口の方へ身の位置を移しかけていた。
するといきなり、表の口に突っ立っていた巡視の将校が、屹と、彼の影を指さして呶鳴った。
「あッ、あいつだッ、うさん臭いッ!」
強右衛門の影は、途端に、跳ねおどった。裏手へ駈け出そうとしたところ、そこにも兵がいたからである。
彼は盲鼠のように、床の上に跳びあがり、柱にぶつかり壁にぶつかった。そして、窓にさす星明りを見るやいな、櫺子に五体を打ちつけて、その破れから外へ身を躍らせた。
パン、パンッ、と二つ三つ、弾音が宵の空に谺した。強右衛門は、藁屋根の下から脱兎のように駈け出すと、近くの桑畑へ駈けこんだ。
賢明なようで、これはまずかった。桑の葉は戦ぎ立って、彼の行くところ潜むところを敵の眼に告げた。しかも細い小枝は足にからんで、身の自由も甚だしく欠く。
「間諜ッ。敵の間諜。──もう逃げられはせんぞ。醜しいざまは止せ」
桑畑を囲んだ穴山隊の将校は呶鳴った。敵の声ながらそれは至極尤もに聞えた。
強右衛門は、身を擡げて、桑の葉のうえに半身をぬっと見せた。星空を衝くように、双つの手を挙げて、
「待てッ」
盲撃ちに撃つ小銃に対して、まず云ったのである。
「──観念した。もう抵抗いはいたさん。縛れッ」
うしろへ手を廻して、動かずにいた。ざわざわと桑の葉音が寄って来た。そして縄尻を取られて彼は出て来た。
巡視の将校は、強右衛門のすがたを、今さらのように、じっと瞠目して、頭の先から足の先まで見て、
「長篠の者か。岡崎の者か」
と、訊いた。
強右衛門は、つつまずに、
「長篠の者だ」
と、答えた。
勝頼の声は誰よりも大きい。
床几に倚せているその体躯のように。──また帷幕を圧しているその威厳のように。
彼は激してもいた。
「いつにない各〻の弱腰。馬場、内藤、小山田、山県など、四隣に聞えた武勇の輩も、いつか年には克てず老いられたとみえる。──この勝頼が眼には織田の三万は、声のみの虚勢、徳川の七、八千などは、鎧袖一触にも値せぬ。何をさまで怖れるか、勝頼には解せぬ。……跡部ッ、大炊介ッ、そちの思案はどうだ、憚らずいえ」
「おそれながら──」
と、陣幕の西側に坐していた大炊介は、すこし進んで、
「さき程よりわざと、大炊のひかえておりましたのは、意外や、余りにも宿将たる老臣がたの御意見が、一致して、退陣をおすすめ申しおる様子に──実は心外ながら、信玄公以来の弓矢もかくばかり衰えたことかと、ひそかに涙していたわけでござりまする」
「──む、む」
と、勝頼は満足なうなずきを与えた。そして彼の賛意にいよいよ力を得て、再び諸将へ向って、その主戦論を強調しようとした時、
「大炊どの! ちと、言葉をたしなまれよ。ここは、新羅三郎様より二十七代にいたるわが武田家の興亡のわかれ目、御浮沈のさかいにあることを、深く思い給わぬのか」
馬場美濃守の白髪はふるえていた。ほかの老将たちも、口を緘してこそいたが、面には朱をそそいでいる。そして厳しい眼ざしを、一斉に大炊介のほうへ向けた。
すると、大炊介は、
「たしなめとは、何をうろたえて。今は、平常ではありませぬぞ。陣中だ。しかも、前後に敵をひかえ、避け得ぬ大決戦を目睫にひかえておる。お家のため、信ずることを申すのに、何の、憚りがあろうッ」
彼も、負けずに声を励ますと、彼と、意見を一つにする勝頼は、
「跡部に発言をゆるしたのはわしである。なぜ、彼にも充分、意見を吐かすぐらいは余裕をもたぬか」
と、却って、老将たちをたしなめた。
美濃守も、山県、原、小山田たちの宿将も、恥かしいような心地に打たれた。同時に、暗然と、口をむすんだ。
跡部大炊介は、いうのである。
「岡崎の大賀一味が裏切りの策も齟齬し、また、長篠の城内へ、信長の使いと偽って、誘降の矢文を射たが、それもまず失敗のかたちに終った。──それらを挙げて、諸老臣には、この度の戦は、いずれにしても芳しからず、ここは御退陣に如くはなしと、一にも二にも、不戦主義を唱えられて、いっこう積極的なお考えを持たれぬが──かつて信玄公御在世以来、敵にうしろを見せた例しのないわが甲軍が、織田の援軍が近づくと聞くやいな、逃げ走ったと聞えたら、ふたたびこの汚名と弱味は拭われませぬぞ」
滔々、論敵を捲くしたてて、
「──不戦退陣などという、左様なお考えはまず一掃して、大きく活眼を向けて、敵なるものの正体を御覧ぜられい。なるほど、昨日以来、頻々と、織田徳川の前進を告げまいるので、いかにも物々しゅうは響くが、織田何者ぞ、三万の数は、或いは真実なるやも知れぬが、彼の出陣は、ただ徳川家を離すまいとする義理一片のもの。何でわが猛勇な陣前に当りましょうや。不利と見れば、退くか、傍観するか、恐らくその二つを出まい。──しかもいま設楽ヶ原の西まで徳川家の先鋒は、やむなく先に出て来ておる。これをも打ち叩かずに、何で、長篠の包囲を解き、むなしくここの陣を退けよう。──長篠の孤城はすでに兵糧も尽き、兵はみな生色もない。これには鳶ヶ巣の一塁と、ほか二、三の塁で抑えていれば充分にうごきは取れぬ。あとの総軍をあげて、まず徳川勢を粉砕し、つづいて織田軍を迎え、これを完全に討つは、今をおいて他日にはござらぬ。──天が快勝の機をわが武田家に与え給うもの、この機をつかめぬようなものは、武将の器ではない。断じて、兵家とは申されん」
と、説くほど鋭くなる大炊介は、どうやら弁舌の勇者らしい。
持重論の宿将中でも、馬場美濃守は多くをいわなかった。ただ軍扇を膝について、時々、黙然と評議に果てしない席を見まわしているだけだった。
「信房は、どうじゃ」
勝頼としても、多少心を労っている。父の遺臣のうちでも重きをなしている彼などが、反対では困るのである。
美濃守は、答えた。
「殿や大炊どののお説は、勇壮これに過ぎるものありませんが、けだし匹夫の勇に似てはおりませんか。──もしです! どうしても戦わんとなれば、この際、遮二無二、一夜か半日の間に、長篠城を陥れ、しかる後に、織田、徳川を迎えるべきでしょう」
勝頼は、色をなして、
「陥ちるか。城が」
と、強くなじった。
美濃守は、彼の面色にもかかわらず、自信をもって云った。
「陥ちないでどうしましょう。城中の兵は五百、鉄砲の数は、三百に過ぎますまい。──その三百銃が、第一撃に、悉く味方に中っても三百の戦死です。第二撃の頃、また同じ命中をうけても、六百の犠牲です。……すなわち犠牲を覚悟するなれば、ここに千人ほどの将士が死をちかい、屍をのりこえ乗りこえ城へしがみつけば、一夜、或いは半日の間に、落城を見ぬことはありますまい。が──ただこれは、まったくの暴戦です、窮余の策です。好んでなす戦法ではありません」
「それではやはり戦いを避けるのでなく、戦いに当るわけではないか」
「ですから、止むを得ずんば──という場合にのみ」
「同じことだ。わしは、大炊の説を採る。不服な者は、後方の備えに廻れ」
勝頼は、断を下した。
そして最後の言葉として、
「御旗楯無も照覧あれ、あすこそは、織田、徳川の二軍をむかえ、一戦に雌雄を決してみせる」
と、宣言した。
こうなってまで、なお反論を固執している者はなかった。持重論の人々も、みな沈痛な色をたたえて、
「されば、われわれも、御馬前に立って、死に狂いに、戦うあるのみ」
と、席を立ちかけた。
すると、陣幕の外で、
「穴山梅雪が手の者、八尾栂之介でござる。主人梅雪はお席におられましょうや。御評議中とは存じまするが、火急を要することゆえ、おうかがい致しまする」
と、郎党の大声がした。
「おうッ、八尾か」
評議も終ったところなので、梅雪入道は一隅から答えながら立って行った。そしてしばらく幕外に姿をかくしていたが、やがてあわただしく戻って来て、
「ただ今、自分の部下が、奥平家の士、鳥居強右衛門なる者を、引っ縛って参りました。御陣中に紛れ入って、人夫のていに身を窶しておりましたものの由──何かよほど大事な密命を帯びて城中から脱出したものらしく考えられます。どう計らいましょうか」
と、まず取調べ方の処置を仰いだ。
勝頼は、折も折なので、測らぬ獲物とよろこんだ。自身、取調べてみよう、と云い出しただけでも彼の期待したほどが窺われる。
すでに、宿将たちは、あらかた立ち去ったが、なお勝頼のまわりには、残余の将星が綺羅やかであった。
一介の軽輩。見るも見すぼらしい人夫すがたの強右衛門は、その中にひきすえられ、薪を加えて、さらに焔を新たにした篝の火に明々とその横顔を照らされていた。
「奥平家の士、鳥居強右衛門というか」
「……はい」
「いつ城を脱出したか」
「日はよく覚えませんが、三、四日前でございます」
「目的は」
「主人貞昌の書面を携え、岡崎の御城中まで参りました」
いかにも神妙なていである、この男は、いったい物事を秘すということを知らない愚直者かしらと、糾問に当った勝頼もすこし張合いのない程であった。
「──では。貞昌の書面は、そちの手から家康へ届いたわけだな」
「はい。奥平貞能様のお取次をもちまして」
「賞められたか」
と、勝頼は訊いた。
彼は、見るからに善良な、そして何を質問しても隠さないこの一捕虜にいつか軽い揶揄を試みたり、皮肉な微笑を見せなどして、糾問に当っているのであった。
強右衛門は、そう訊かれると、やや得意気に、
「はい。家康様直々に、お賞めのおことばをいただき、その上、お菓子など賜わりました」
と、答えた。
勝頼は突然、傍らにいた穴山梅雪や、跡部大炊などを顧みて、大口開いて、
「こやつは、珍重すべき正直者じゃぞ。ははははは。いや愛すべきやつじゃ。菓子を戴いたと歓んでおる──」
そしてまた、眼下の者を見て、こういった。
「何と家康は無慈悲ではないか。──この重囲を脱し、岡崎へ使いしたほどな忠義者を、ふたたび城へ帰すとは。──まるで見殺しにするような」
「いえ……」
と、強右衛門はあわててそれを打ち消した。
「決して、殿の無慈悲ではございませぬ。てまえから望んで帰城を図ったのでございます」
「ふうむ……面魂の強そうなことをいう。して、生命がけで帰ったら、どれ程な効があると存じてか」
「てまえ一名の力は、一挺の鉄砲、一すじの槍にも足りませんが、織田どのの援軍も、岡崎の後詰も、すでにこれへ近く参ると告げれば、城中の士気はいちどに奮い立ちます。最後の一瞬まで頑張りましょう。そのためには、てまえが帰らなければ、真にお使いの役を果したとはいわれません」
「……如何にもな!」
勝頼は眼をとじた。いまの声は呻きに似ていた。そしてその眼をかッとひらくと、
「ああ、忠義なものだ。感じ入った。──それにしても、これほどなさむらいを、陪臣の端くれに埋もれさせておく惜しさよ。……どうじゃ強右衛門、儂に仕えぬか。この勝頼の旗下として、もっと大きく、一方の武将となって働かんか。……どうだ。いやか」
半ば、疑うように、彼は勝頼の顔を、ややしばし、見まもっていた。
突然、声を上ずらせて、
「──では、では、なんと仰せられますか。てまえの一命を、お助け下さるのみか、御直参に、お召し使い下さると仰せられますので……」
と、強右衛門は、われを忘れて身を前へにじり寄せた。後ろ手に縛られているので、両手をつかえたいにもままにならないのが、もどかしそうに見えた。
「承知か。否やはないか」
勝頼は、念を押した。
「お戯れでなければ──願うてもない幸せ、あまりの欣しさに、夢ではないかと、お答えするにも、まごつく程にござります」
「そちのような者でも、やはり一命は、惜しいものとみえるの」
「幼少の頃、寺にやられておりまして、朝夕に、死を見ておりましたせいか、人は一度は死ぬものと、頭に沁みておりますゆえ、こよい、お縄目をうけた刹那から、一切を諦めておりましたが……ただ今、甲州へ随身なせば、生命も助け、高禄もやるというおことばを、耳に聞くや否、急に死ぬのが怖くなりました。──あわれや、わが家に残してある妻や子たちにも、もう一度、会いたくなって参りました」
「正直なやつ。……さこそあらめ。これこれ強右衛門」
「はい。……はい」
「慾のないことを申すな。いまも申した通り、この勝頼に心から従うならば、妻子の顔をまいちど見るなどとはおろか、生涯、栄達の道を開いてくれる」
「ありがとうぞんじまする。かならずそれだけの御奉公はいたします」
「純朴、そちの如き者なれば、後にはきっと大功をあらわそう。……が、まずその奉公の手始めに、そちが勝頼に他意なしという確証を見たい。どうだ、心の証を、きっと、示して見せられるか」
「……と、申しますと?」
「造作もないことだ」
「どんなことをいたしたらよいのでござりましょうか」
「明朝、そちの身を、大きな十字の杭に縛りつけ、城下の濠際まで、兵どもに担がせて参るゆえ、そちは十字架の上より、大音にてこう申せ。──使命をおびて、岡崎までは参ったれど、家康には甲軍に取り詰められて、牛久保の塁も一敗地にまみれ、織田軍もまた、伊勢京師などの不慮を恐れて、いまだに一兵の来援もなく、所詮、味方の援けなど思いもよらぬところ──わが身もまたこの通り捕われ候に──あわれ方々も観念あって速やかに城を開いて出で給え。降伏して一命を助かるこそ唯一の御分別に候ぞ──と。……かようにその方の口より城中の者へ告げるのじゃ。何と、やすいことであろうが」
「…………」
強右衛門は、うな垂れていたが、やがて神妙に答えた。
「かしこまりました。てまえの身を、お城近くまで、お運び下さるなれば、仰せの通り城中へ申し告げまする」
「むむ。こよいのうちに、いま勝頼の教えたことばを、よく暗誦じておくがよい。──もし、云い損ねなどした場合は、そのまま、十文字磔にいたすから左様心得ろ。宇宙一瞬の声が、生涯のわかれ目であるぞ。心して申せよ」
「はい。はい」
あくまで彼は素直だった。敵を計る囮には用いても、勝頼にしてさえひそかに、愛すべき男──と真実思った。
その強右衛門の身は、翌朝まで穴山梅雪の手へ預けられた。梅雪は責任の重大を感じたとみえて、部下と共に、自身も彼の縄尻を守って行った。
夜半ごろ一しきり、驟雨があった。勝頼は上機嫌で、具足をつけたまま仮寝に就く。──明けやすい夏の夜を滝川の水音ばかり高かった。
夜が明けると、強右衛門はすぐ呼び出された。
穴山梅雪はまだ眠たげな瞼をしていた。重大な囚人を主君から預けられたので、ゆうべはよく眠り得なかったらしい。
で彼は、強右衛門を見るとすぐ訊ねた。
「昨夜は、よく眠ったか」
「はい。よく眠りました」
「なに、眠った?」
「安心したせいでございましょう。今の今まで熟睡しておりました」
梅雪は疑ったが、事実、強右衛門の眸はすずやかであった。
「朝飯を与えよ」
郎党は、すぐ彼の前にそれを運んで来た。一個の梅干と、一茎の葱の白根に味噌を添えたものである。
強右衛門は美味そうに、粥を二杯まですすった。
そこへ、べつの郎党が、
「準備はととのいました」
と、告げに来る。
梅雪は床几に威儀を直して、ゆうべ勝頼が強右衛門へ諭したとおりの言葉を、もう一度反覆して聞かせた。強右衛門は終始、慎んで、
「かならず、その通りに申しまする」
と、相変らず神妙だった。
「然らば、その間、磔柱に縛りおくぞ」
云い渡すと、郎党たちは、彼を拉して、あらかじめ作っておいた十字架に、彼の手頸足頸を縛りつけた。──そして大勢してそれを滝川の岸まで担って行った。
強右衛門の体は、長篠城の方へ向って、高々と宙に掲げられた。──遠く竹楯や土塁の陰には、勝頼以下旗本の面々も来て、密かにここを見まもっていた。
十字架の下には、梅雪や立会いの武将が、頃あいを計っていた。まだ朝霧が深く、河ひとつ距てた城の石垣も狭間も白くぼかされて、十分に視野が展けないからである。
雲の破れから、かッと、夏の朝の強い陽がさした。強右衛門の髪の毛は、さすがに一すじ一すじ光ってそそけ立って見える。──城の狭間も鮮やかに見え出していた。
ここの異様な物を発見した城兵は、すぐ全城へ触れたにちがいない。櫓の狭間にも武者溜りの狭間にも、そのほかあらゆる兵の居場所に、城兵の顔が集まった。そして、何やら云い躁ぐ声が、滝川の水音を越えて、強右衛門の耳にも聞えて来る。
「強右衛門ッ、強右衛門ッ。──申せ、なぜ黙っておるか」
穴山梅雪の部下の河原弥太郎という者が、槍の柄で十字の杭をたたいた。すると、響きに応じるように、強右衛門は、くわッと、口を大きくあけて、
「あら、なつかし、城中の衆ではお在さぬか。かくいうは、先夜お別れを告げた鳥居強右衛門勝商でござる。岡崎への使いの御返事、ここより申そう程に、耳をそばだてて聞き給えや──」
明らかに声は届いてゆくとみえる。一瞬、武田方でも固唾をのんだ。強右衛門は唇をなめて、ふたたび、咽の奥まで朝の陽が映しこむばかり口を開いた。
「──まず! 岐阜の信長どのには、すでに御出馬あって、三万余の大軍、陸続と岡崎表よりこれへお進みあるぞッ。まった城之介どの(信忠)にもお出ましあられ、家康さま、信康さま、それぞれ野田の辺まで急がれ給い、すでに先手は一の宮、本野ヶ原にまんまんと陣取って候ぞ! 城御堅固にお持ちあれや。遅くも、三日のうちには、御運の開き、武田勢の末路、火を見るよりも瞭らかなれ。いま一息の頑張りですぞッ!」
武田方の人々は跳び上がって、口々にさけんだ。
「あッ。なにいう。──おのれッ」
狼狽した武士たちは、十字架の下へ駈け寄って、宙に槍を交叉した。さッと陽にけむる鮮血の虹の中から、強右衛門のさけびが、まだ聞えていた。
「おさらばーッ。城中の衆。……城中の方々」
山も揺るぎ、河も哭いた。
一死を天に抛って、強右衛門が最後に吐いた真実の声は、城中の戦友五百の人々の耳を明らかにつらぬいた。
城兵たちは、眼のあたり、崇高な彼の死を見、また彼の犠牲によって、まったく滅失のどん底にあった戦いの上に、煌々たる希望の告示をうけ、一瞬みなわれを忘れたかのように、
「わあッーあ」
「わあッ……」
と、諸声あげて感泣した。
愕然──
色を変えたのは勝頼である。あわてたのは穴山梅雪、その他、甲軍の武将たちだった。
「しッ、しまったッ」
三、四人が磔柱を蹴倒した。憤怒、地だんだ、いうまでもない。
十字の上の強右衛門は、その体を柱と共に、どんと地上に横たえて来た。
彼の体は、すでに幾つかの槍の穂に抉られていた。怒りにまかせて、武将たちはその鮮血を踏みつけたり、声なき死顔を蹴とばしたりしたが──忽ちその足は竦み、身は硬ばるような心地に打たれた。
彼らも武士だ。強右衛門の死の意義は余りにも分りすぎている。気高い士魂を抱いていかにも満足そうに死んでいる強右衛門のすがたに対して、敵とはいえ、それを足蹴にかける自分を恥じずにいられなかったのである。
「止し給えッ、城兵の見ている前で醜しいッ。今さら、足蹴にしたところで及ばぬことだ」
ひとり甲軍のうちで、こう呶鳴った者がある。勝頼のそばから駈け出して来た旗本の落合左平治であった。彼はまた、
「何をうろうろしておられるか。敵の眼にもよい笑い草。はやく強右衛門の死骸を後へ退かれてはどうか」
と、未練がましく騒いだり忌々しがる人々をたしなめて、柵の内へ退かせた。
その一瞬こそ、憎い敵と、歯がみはしたが、時経つと、甲軍の人々もみな、
「敵ながら出来した者」
と、心のうちで、彼の死を弔わない者はなかった。
これはずっと後のことで余談にわたるが、強右衛門の壮烈な最期を目撃していた落合左平治などは、その折の図を自分の旗差物に描かせて、子孫にまで伝えたということだった。
左平治の子孫は、後に紀州家に仕えて五千石の高禄をうけたといわれるが、鳥居強右衛門の子孫もまた、武州の忍侯に召し抱えられ、その裔は徳川時代を通じていまも誰かの血液にあるはずである。
敵味方を問わず、強右衛門の一死が、いかに大きな感動を与えたかということは、長篠の戦後、信長がうわさを伝え聞いて、
「わが朝にもめずらしい無双な士魂の持主だ。骨でもあれば拾い取って崇めたいが」
と、わずかに遺物をさがし求めて、作手の甘泉寺に手厚く葬ったのでも分るし、強右衛門の一言のために、大敗北を招いて潰走した甲州兵のうちでも、誰ひとり鳥居という名を悪しざまに罵る者がなかったのを見ても明らかであった。
それは、ともかくとして。
事ごとにこういう齟齬ばかり踏んだ甲軍は、もう後ろに迫っている徳川、織田の聯合軍に対して、一刻も晏如としてはいられない状態になっていた。
それもこれも皆、自分が若いからである──というような反省は、主将勝頼もなお持たなかったのである。
ただ宿将老臣たちの一部には、憂いを抱いていた人々もあるが、勢いの赴くところはどうしようもない。
「信長何者ぞ、家康また何かあらん。──設楽ヶ原こそ、彼らの骨を積むところだ」
と、勝頼は自負満々として、即日、全軍を攻城隊形から野戦陣形にあらためて、ここにわれ立つか彼亡ぶか、乾坤一擲を賭して、大決戦への備えを展開し始めた。
極楽寺山は設楽ヶ原いちめんを前に、遠くは敵の鳶ヶ巣、清井田、有海ヶ原などを、指さすことができる。
そこを信長の本陣とし、また弾正山の一方には、家康が本営をおいていた。
徳川、織田の連合軍三万八千は、その二つの山を中心として、すでに万端の備えを終っていた。
一天雲となりながら、なお一電一風もなく、じっと動かない空のようであった。
その日──
極楽寺山の織田の本陣では、山上の伽藍のうちで、織徳両家の宿将が集まって、合同会議がひらかれていた。
もちろん家康も来ていた。
評議の最中、
「お物見の渡辺半蔵どのや柘植又十郎どのが立ち帰られました」
と、家康へ披露された。
信長は聞いて、よい折である、すぐここへ召されたがよい。われらも共に敵状を篤聞き取りたい、といった。
柘植、渡辺のふたりは、両大将の前へ出て、曠がましい報告を、こもごもに語った。
「──まず敵の本陣から申そうなれば、大将武田勝頼殿には、有海ヶ原の西に陣どられ、屈強な旗本、騎馬隊など、見るからに、重厚に構え、兵数四千に近いかと見られました」
半蔵のあとをうけて、又十郎が清井田辺の模様を告げた。
「──清井田からやや南寄りの小高い丘には、小幡信貞、信秀その他が、遊撃隊として、戦場の一帯を視ております。そこから浅井境まで、厚い陣列しておるのが戦闘主力で、中軍三千余は、武田信廉、原隼人、内藤修理、菅沼刑部などの隊が見うけられ、左翼にも三千あまり武田信豊、山県昌景、小山田信茂、跡部勝資などの旗幟が望まれ、また、右翼としては、穴山梅雪、馬場信房、土屋昌次、一条信龍など──何しても物々しさ、言語に絶しております」
「長篠城の抑えには?」
質問は、家康であった。
それに答えて、渡辺半蔵がいった。
「そこにはなお、小山田昌行、高坂、室賀の精兵、およそ二千ほど残って、かたく城を制し、さらに、城の西山にも監視隊がおるらしく、附近の支塁、鳶ヶ巣山のあたりへかけ、概数一千余の兵が潜んでおるやに考えられます」
ふたりの報告は、なお多分に概略であった。それらの大部隊の部将たちにも、いわゆる音に聞えた猛将勇将は測り知れないほどあるし、馬場、小幡などに至っては天下の兵略家としても著名である。しかもその布陣の緻密なる、戦意の烈々たる、全軍の堂々重厚な用意を、このふたりから聞けば聞くほど、織田、徳川の諸将も色を失って、議席は何やら戦わないうちに一種の戦慄に襲われたかの如くしんとしてしまった。
すると、酒井忠次が、
「勝敗はすでにあきらかでござる。このうえの御評議無用。──寡少な敵軍が、なんでお味方のこの大軍に当り得ましょうや」
突然、側の者が驚くような大声でいった。
「評議はもうよい!」
声に応じて、忠次のことばを受けとった信長は膝を打って、
「忠次、いみじくも申したり。臆したる者の眼には、田に飛ぶ白鷺も、敵の旗かと見えて怯れ立つとか。はははは、まず両人の報告の程度なら、信長も大安心というもの──家康どの、祝されてよかろう」
すると、賞められた忠次は、つい図にのって、
「それがしが所存には、敵のもっとも手薄は、後方の鳶ヶ巣にありと考えられます。軽兵をもって、遠く迂回し、まず彼らの背後の弱点を衝き落せば、全軍の士気たちまち乱れ立って……お味方の」
「これ、これッ、忠次。何をいうか、何をッ。……かかる大戦に、そんな小策など、何の役に立とうぞ。さてさて汝は烏滸なる男かな、いで、一同も退出退出」
信長はそう叱りつけたのを機にして、評議の散会を宣した。酒井忠次も面目なげに、人々と共に退席した。
人々がみな去ったあとで、信長は家康に向って、こう云い直した。
「ただ今は、ちと思う仔細のあれば、諸将列座の中にもかかわらず、徳川殿にとっては大事な良臣、酒井忠次をいたく叱りつけたが、おゆるしあれ、決して彼の面目を心からつぶしたわけではない。──彼の献言、その謀、至極妙と存じたゆえ、敵に洩るることを惧れて、却って、あのようにわざと叱ったわけでした。あとで貴所からよく宥って遣わされるように」
「いや、折角の妙計を、味方ばかりの席とはいえ公言いたしたのは、やはり忠次の不注意に相違ござらぬ。彼にもよい薬、家康にも学ぶところがありました」
「しかし、咄嗟に自分が、一喝に否定したので、味方の者どもも、よもや忠次の策が採用されようとは思いも寄るまい。──貴所はすぐ忠次を召されて、彼の望みどおり鳶ヶ巣への奇襲をおゆるしなされたがよい」
「承知いたした。忠次も、そう承れば、さだめし本望でござろう」
家康はひそかに忠次を呼んで、信長の意志を伝え、同時に、
「急ぎ打ち立てい」
と、命じた。
忠次の勇躍したことはいうまでもない。極秘のうちに隊備を果し、そっと信長にも目通りして、
「日暮と共に立ちまする」
と、だけ挨拶した。
「そうか」
と、信長もなにもいわなかった。しかし岐阜から連れて来た銃手五百人を分けて、それに金森長近、佐藤政秀の二将を附けて、
「忠次を扶け、いよいよ敵塁を踏み奪ったときは、直ちに烽火をあげて合図せよ」
と、いいつけた。
総勢三千余人となった。酒井忠次以下、本多広孝、康重、松平伊忠、奥平貞能などを始め、西郷、牧野、菅沼などの諸部隊一体に、夕べと共に陣所を離れた。
まったくの五月闇であった。師ヶ原から豊川筋へかかる頃から、ポツ、ポツと白い雨の縞が闇を斜めに切って来た。やがて、沛然たる大雨は、黙々とゆく三千の影を濡れ鼠にしていた。
松山越えにかかるため、一同は麓の寺院にかくれて、みな鎧を脱ぎ、馬を捨て、身軽になって背中へ負った。
ここはひどい嶮岨である。加うるに滝津瀬のような雨水と暗闇に辷っては攀じ、攀じてはまた辷る。──先頭の者の槍の柄に、あとの者が縋り、その腰に、その槍の柄にまたつかまってようやく三町余りの嶮を踏み越えた。
夜が白みかけた。
まさに二十一日の払暁。
雲は断れて、朝陽の光彩が深い霧の海を十方につらぬいている。
「晴れたッ」
「天の幸いし給うところ」
「首尾はいいぞ」
山上で人々は甲を身に着直した。──そして全軍を三隊にわけ、一は中山の敵塁に朝討ちをかけ、一は鳶ヶ巣へ馳せ向った。
「よもや?」
と、多寡をくくっていた敵は、寝ざめの喊声にうろたえた。中山の砦からやがて黒煙が揚った。──早くも奇襲の兵が火を放ったのである。
ここから崩れ散った敵は鳶ヶ巣へ逃げて、そこの防塁に拠った。しかし時すでに防壁の一部から寄手の別働隊が塞内に混み入っていた。乱軍のなかに喉もつぶれるばかり叫んでいる声が聞える。
「武田信実を討ったぞッ。──守将武田信実は討ちとったぞうッ」
ここも忽ち炎だった。約束の烽火にも及ばず、二ヵ所の黒煙は、極楽寺山の味方の本陣からも、早あきらかに観て取れたに違いない。
前夜──酒井忠次たちが密かに鳶ヶ巣へ向った後、
「前進」
の令は、信長の全軍に発しられていた。
が、それは開戦ではなかった。
ひどい吹き降りの中を、全軍雨を冒して、茶磨山附近まで移動したのである。もちろん本営もそこへ移った。
それから夜明けにかけて、全軍の兵は、蜿蜒と百足虫のような長い柵を結い廻しにかかった。一本の杭を打ち込むにも位置や深さの法則があった。柵そのものも兵と同じく布陣の中にある重要な戦闘員と視られている。
二段柵、外開き、迷路、算木組みなど、様々な様式があるらしい。はや暁に近く、信長が馬上で巡視に来た頃は、すでに雨もあがり、柵の工も終っていた。
「見られよ。きょうこそは、甲州の敵どもを寄せつけて、練雲雀のようにして見せ申さむ」
信長は、徳川家の諸将をかえりみて、にこと微笑しながら大言を吐いた。
(──そうはなるまい)
と、誰も思った。強いて自分たちを勇気づけるものと解していた。
けれど今になってはっきり分ったことは、岐阜の兵が、岡崎を立つ時から、全軍すべての兵に、各〻一本の杭と縄とを担わせて戦場へ向って来たことである。
(あんなに大兵の悉くが杭や縄を携えて行ってどうするのか)
と疑って見ていたものだが、三万本の杭は今、一夜に長蛇の連柵となって、夜の明けないうちに、
(来れッ、甲軍の精猛)
と、余裕の程を示している。
──が、これは進撃の備えではない。信長のいうが如く敵を殲滅するには、この柵へ敵軍を寄せつけることが絶対の条件となる。恐らくは、そのための誘いであろう、佐久間信盛の一隊と、大久保忠世の銃隊の一部は、柵外に出て、敵を待ちうけていた。
わあッと、暁の空に向って、突然、諸声があがった。まだ敵と接するには不意過ぎた。鳶ヶ巣方面に立ち昇った黒煙を見出したのである。
この焔炎は、ここからは正面に見えたが、甲州全軍の備えから見れば後方にあった。甲軍の愕きはいうまでもない。
「すわ。敵は後ろにも働いておるぞ」
「後方へ敵が迫った!」
蔽い難い動揺の中に、主将勝頼は、
「一刻の猶予もすな。敵を待つは敵に思いのまま有利な配備をさせるに過ぎぬ」
断乎、進撃を命じた。
彼の自信と、それによってうごく甲軍全体の信念は、
「知らずや、信玄公以来、不敗の名あるわが武勇を」
というそれだけであった。
何ぞはからん。この時を境として観ても、時代はあきらかな推移を告げていたのだ。文化は駸々と進んでいる。西力──南蛮船による文化の東漸は──火薬、鉄砲などの武器に大変革を起していたのである。
かなしいかな、名将信玄すら文化的な先見にやや欠けていた。甲山峡水の地勢がおのずから中央に遠く、海外の影響に敏感でなく、また将士も、山国特有な頑固と自負に強く、密かにでも他を学び、己れの短を怖れる気風に乏しかった所以もある。
要するに、依然たる騎馬精鋭をもって、まず山県三郎兵衛以下、甘利、跡部、小笠原の諸隊は、猛然と、柵外の佐久間信盛と大久保忠世の手勢へ、襲いかかって来たのである。
これに対して信長は飽くまで、近代的な頭脳と兵器をもって、科学的な戦法を充分に用意していたのであった。
雨あがりである。野の土はぐちゃぐちゃだった。
甲軍の左翼──山県三郎兵衛そのほか約二千は、
「敵の柵へかかるな」
と、首将山県の指揮を耳にしながら、急に、迂回して、連子橋の南──敵の柵の断れ目から突進しようと計ったのである。
が、ひどい泥濘だ。
小さい沼がたくさんにできている。夜来の豪雨でそこの小川が溢れて大をなしたにちがいない。
これは、あらかじめ充分に地の理も予測しておいた山県三郎兵衛にとっても、計算外な天変であった。
兵の脛は、ぬかるみに没し、馬は動かない。
加うるに、それと見て、柵外の敵大久保隊が、横ざまに鉄砲を撃ちかけて来た。
「回せッ」
号令の一下に、泥の子のようになった山県勢は、急転して、大久保の銃隊へ、
「くそうッ!」
面を伏せながら突っこんで行った。
ざ、ざ、ざッ──と泥飛沫が二千の甲冑に煙り立った。──と見るまにである! 鉄砲にあたって、そこに倒れ、かしこに倒れ、朱を噴いて叫び、馬に踏まれて呻くものが、あわれや算をみだし始めた。
そしてついに、敵なるものと、敵なるものとが、相互にぶつかった。
すでにここ十数年の兵戦変革で、いにしえの優雅なる華武者と華武者とが、遠祖は清和の流れを汲み、何のなにがしの後胤にて何処そこの住人、誰の子の次男三男なり──などと、ここを曠の戦場として名乗り合うような古雅なる戦いの風は、だいぶ士門にもうすらいでいた。
従って、ひとたび、白刃白刃を噛み、肉弾肉弾を搏つの白兵戦となると──そのすさまじさは言語に絶している。
武器は鉄砲を第一に、次は槍をもって、利としていた。
槍は刺殺につかうよりも、振りかぶったり、横に振り廻したり、撲るのをもって、戦陣の用法と教えられていた。
だから長いのが有利と見られ、二間柄から三間柄に近い長槍さえある。
雑兵は、変化に乏しく、臨機の勇に欠けているので、撲ることばかり能としていると、精悍なる練磨の士が、突如として、その中を、短槍刺撃を得意として、縦横無尽に突いてまわり、ために一人の武者をして、十数人を一瞬に突き伏せさせるなどという勇名を恣にさせるような場合も絶えずある。
特に、甲州方には、こういう類の猛者が非常に多かった。
その密集団に迫られては、徳川勢も織田兵も、まったく一たまりもなかったのである。大久保隊はたちまちのうちに、惨たる潰滅をうけてしまった。
──が、この大久保隊も、もう一隊の佐久間勢も、柵外に出ている目的は、敵の誘いにあって、実は、勝つことが最善ではない。だから逃げればいいのである。しかし、顔の前に、すぐ甲州兵の顔を見ると、
「こいッ」
積年の敵愾心は燃えあがらずにいられなかった。退くにしても、背中へ、
「弱虫ッ」
という罵声を浴びたくない。そして必然、血けむりの中へ、常の人間性はかなぐり捨てられ、ただ自国と武門の名あるのみになる。
かかるうちに、頃はよしと見たか、甲州一万五千の中央部は雲の如く前進を開始して来た。これなん鳥雲の陣とでもいうのか、やがて織田軍の柵へ近づくや、原、内藤、武田信廉の諸部隊からまず鳥群のむら立つように、一斉、喚きかかって来た。
甲軍の眼には、この木柵線のごとき、何物でもなかったに違いない。一蹴の下に突破して、ただちに徳川、織田の中軍へ錐揉み戦法で押し通るつもりであったらしい。
わあッと、いちどに柵へかかったのである。或る者は、柵に攀じて躍り越えようとし、或る者は、大鎚や金鉄棒をふるって打ち倒しにかかり、或る者は鋸をもって挽き、また或る者は油をそそぎ火を放けて焼き払おうと、必死であった。
信長方では、それまでの戦闘を、柵外の佐久間、大久保の二隊にまかせて、茶磨山全山の陣々、寂としていたが、
「よしッ!」
本陣のあたりで、颯と、金采が風を切ると、各所の鉄砲組の部将すべてが、
「撃てッ!」
「撃てーえッ」
と、号令の声を競った。
ドドドドッ。ダダダダダッ──大地はとたんに狂震し出した。山も裂け雲もちぎれ飛ぶばかりである。硝煙は蜿蜒たる柵をつつみ、まるで蚊の落ちるように、その下に甲軍の兵馬は死屍を積みかさねた。
「退くなッ」
と、督戦していた将も、
「おれにつづけ」
と、我武者羅に、柵を目がけ、戦友の屍を踏んで、跳びかかって来る勇士も、驟雨のような弾道の外ではあり得なかった。くそうッ、無念ッ、何のッ──と叫びつつ喚きつつ、ばたばたと同じ屍となり終った。
ついに、耐らなくなって、
「ひッ──退けいッ」
四、五騎の将が、悲壮な声をしぼりながら駒を返すと、もうそのうちの一名は朱にまみれて落ち、一名は馬を撃たれて、いななく馬の背から振り飛ばされた。
しかし、敗れれば敗れるほど、強くなるのが甲軍の本質である。最初の猛襲に、ほとんど三分の一を失ったが、どうッ──と退くやいな再び新手の勢が木柵へ迫って来た。まだ血ぬられた三万の杭に滴る生血も乾かないうちに──。
「待っていた」
と、ばかり柵内からの銃火は直ちにそれへ答えた。
眼前、戦友の血にそめられた木柵の一線を睨みながら、甲軍の猛卒勇将は、
「死ねや」
「死に渡れッ」
「死楯押して、あとの勢を乗り越えさせよ」
と、励まし合い、喚き合い、尺地も退かぬ勢いを示した。
死楯とは、自身を犠牲として、次に進むものを防ぎ、次の者はまた、次の者のため、楯となって、一歩一歩地を踏み占める悲壮なひた押しのことである。
いかに勇なりといえ、甲軍のこういう強襲は、いささか暴勇に近い恨みもあるように思えるが、この中央軍のうちには、小幡、内藤、原などという兵学にも明るく実戦にも精通している指揮者が参加しているのである。いくら主将の勝頼がうしろで、
「驀進せよ」
と、厳命しているからといって、絶対な不可能を知るとすれば、多大な犠牲も顧みずただ無理押しを繰りかえすわけはない。
「断じて破れる!」
の信念はあったのである。
なぜならば、当時の銃器は、一発を撃って、次の弾薬の詰替えが調うまでに、かなりな手数と時間がかかる。で──一瞬の弾丸雨飛が去れば、そのあとはかならず弾音がはたと歇むのだった。その間こそ、乗ずべき空間と、甲軍の部将たちは、死楯を惜しまなかったのである。
ところが、
信長はあらかじめ、その短所を考えていた。新武器の操作と共に、新しい用兵術を考究した。三千挺を保有する銃隊を、三段にわけて、第一段千人の銃手が撃つと、急速に、左右を開かせ、第二段の銃隊が前へすすんですぐ発射する。──同時にサッと開く、またすぐ三段隊が出る──というふうに、敵の希望して来た空間の的を、この戦いでは、まったく敵に与えなかったのである。
また木柵の所々に、出口がある。潮あいを測っては、柵内から柵外へと、織田、徳川の槍組は、「それッ──」と、ばかり甲軍の両翼へ突撃して来た。
進まんか、防柵や鉄砲に阻められ、退こうとすれば、敵の追撃、また挟撃に揉みつつまれ、さしも百錬を誇る甲州武者も、その勇をほどこす間隙もなかった。
山県隊を始めとし、小山田隊、原隊、内藤隊、ことごとく多量な犠牲をのこして退いたが、ひとり馬場信房だけは、その手に乗らなかった。
信房は、敵の佐久間信盛と衝突したが、もとより信盛は、誘いなので、偽って敗走した。
馬場隊はそれを追って、丸山の陣地を占領した。けれど、それから先は、
「深入り無用」
と、命を下し、信房は、一兵も前へ出さなかった。
これには、信長の方でも、案外な空気を漂わせていた。
勝頼の本陣からも、友軍からも、
「なぜ進まぬか」
と、頻々たる催促があったが、信房は、
「自分には、ちと思う仔細あれば、ここに止まって、しばし戦況を見ており申さん。方々には御遠慮なく前進して、手柄を立てられたがよい」
と、動かなかった。
かかる者、かかる者、みな木柵まで接近すると、同じ惨敗を繰返した。織田軍の柴田勝家、羽柴秀吉の二隊は、遠く北の方の村落を迂回して、甲軍の本営と前線の中間を切断しにかかった。
甲軍の真田信綱、昌輝の兄弟は、このとき苦戦に陥って戦死した。土屋隊も全滅に近い打撃をうけ、部将土屋昌次は、奮戦して討死を遂げた。
陽は、午に近く、今日あたりから梅雨明けの空とも見える中天に、急激な暑熱と、強度な夏の色をもって、かんかんと地上を照りつけていた。
ちょうど夜明けの寅の下刻(五時)頃から戦端は開かれていたので、新手新手と代えても、甲軍は兵馬共にりんりたる汗と気息の疲れにつつまれていた。
朝の血しおは、具足の革にも、髪の毛にも皮膚にも、もう膠のように乾いていた。しかもなお次々と、新しい鮮血をあたりに見るばかりであった。
「跡部大炊も出よ。甘利、小笠原、菅沼、高坂の諸隊も、今ぞ、こぞって前へ進め」
中軍の勝頼は、夜叉王のように怒号していた。そして、万一に備えておいた予備隊まで、ことごとく前面へ押し出したのである。
勝頼が早く悟れば、一部の損害ですんだかも知れない小過を、かくて刻々と自身、大過へ運んで行った。
要するに、これはもう単なる士気や勇気の問題ではない。信長、家康の方では、ちょうど猟場に罠を設けて、鴨や猪のかかるのを待っているのと同じだった。それへ猛撃する甲軍は、いくら指揮の声を嗄らしてみても、いたずらに、惜しむべき将士を、効果なく死楯としてしまうだけに過ぎない。
可惜といえば……朝から左翼で善戦していた信玄以来の股肱の将、山県昌景もはや戦死したと聞え渡った。
そのほか、名ある侍、譜代の勇将が、続々と斃れてゆき、全諸部隊の死傷は、半分以上にのぼった。
「はや、敵の敗色は、瞭然として来ました。もう潮時ではございませんか」
信長の側にあって、始終、戦況を見ていた信長へこう促したのは、佐々成政であった。
「ううむ! よかろうッ」
信長は、すぐ成政をして、柵内の全軍の上へいわせた。
いわく、
「柵を出て、直撃、甲軍をみなごろしにせよ」
総攻撃の令だった。
丸山にいて動かなかった馬場信房は、その様子を遠く見ると、初めて、いまは信房の一命をすてる時なり──と、口の裡でつぶやいた。
高松山の一丘には、徳川方の旌旗が満ちている。大久保七郎右衛門、同苗治左衛門の兄弟も、その中に陣していた。
「兄上」
「なにか」
「きょうの御合戦は、当手こそ主体で、織田方は、御加勢でしょうが」
「いうまでもあるまい」
「だのに、今朝からの模様では、ほとんど、織田勢が主となって敵を悩まし、われわれが徒手傍観の体にあるのは、いささか徳川家の御恥辱かと思われます。戦後までも、長く織田家の下風に見られるような惧れもありましょう」
「しかし、今朝からの戦では、まだ鉄砲しか物をいっていない。鉄砲の数となると、織田家の御所有は四千六、七百挺といわるるに、御当家には僅々四、五百挺の数しかないのだ。目ざましき織田勢の働き振りに較べて、何となくわれわれの陣所の奮わぬのも致しかたない」
「──が、そのうちには、柵外へ駈け出よとの御命令が出ましょう。その時こそ、おくれをお取り遊ばすな」
「申すまでもないこと。そのときこそは」
兄弟は、柵の出入口を取って、人数を押しつめ、ひそかに山上の金采を見まもっていた。
果たして、甲軍全体をおおう敗色の濃いものを見ると、信長は急に柵外への突出を命令し、家康もまた全麾下へ、
「出よッ!」
と、進撃を命じた。
待機していた大久保兄弟は、
「今だぞ」
「武士の生きがいは」
と、まるで加茂競馬の先頭でも争うように、柵の口から、二騎、真っ先に駈け出した。
「やわ、主君におくるべき」
郎党たちも、堰を切った怒濤の相を見せて、曠野へ躍り出た。
石川数正、榊原康政、平岩親吉、本多忠勝──などの部隊も、喊声をあげて、甲軍の左翼へ襲いかかった。
織田の軍勢は、もとよりそれに数倍している。羽柴秀吉や柴田勝家は、先に遠く西方から迂回していたし、今しも柵の内の守勢から、一転、設楽ヶ原全面へかけて、潮のような攻勢へ転じた諸部隊の上には、佐々内蔵介、前田又左衛門、福富九郎左衛門、野々村三十郎、丹羽五郎左衛門などの旗じるし、離々翩翻と揉み立てられていた。
「忠三郎、忠三郎ッ」
信長は、茶磨山の小高い所に立ちながら、戦況を見まもっていたが、やがてうしろの旗本衆を顧みて、蒲生忠三郎氏郷を呼びたてた。
「お召しですか」
すぐ、床几の脇へ、忠三郎がひざまずくと、
「あれ見よ」
と、信長は右手の方の乱軍を指して、
「──敵味方のあいだに乱れ入って、敵かかれば引き、敵引けばかかり、さながら波濤を翔ける玉兎にも似たり。──あのまだ若き二人の部将。──忠三郎、見ゆるか、そちにも見ゆるか」
氏郷は、主君の指す手に伸びあがって、
「おお。ひとりは金の揚羽の蝶、もう一名は浅黄地に石餅を白く抜いた旗差物の持主にござりますか」
「それよ。最前から見てあるに、敵かと思えば味方、味方と思えば敵──まったく一陣かけ離れて奮戦しておるが、そも、何者であるか、篤と見て参れ」
忠三郎氏郷は、すぐ駒にとび乗って駈けて行ったが、間もなく戻って来て復命した。
「やはりお味方に相違なく、徳川どのの直臣、大久保七郎右衛門忠世どのに、御舎弟治左衛門忠佐どのにござりました」
「なに、両名とも、三河の衆か。酒井といい、大久保兄弟といい、さてさて、徳川どのには、良い家臣をば持たれたものかな。──あれ見よ、二人の大久保を。べったり、敵へ貼りついたまま、雷鳴が落ちても離れそうもないぞ。敵にとっては、さぞうるさい膏薬であろうな」
諧謔のうちに、士気を励ましながら、左右へ向って、信長は哄笑をふり撒いていた。
大勢は見えてきた。全甲軍をおおう敗色は、もう策の施しようもない。
勝頼の本陣すら、重囲のうちに陥ちていた。
左側から迫る徳川勢。また、錐揉み式に、前衛を突破し、中軍へ目がけて猛襲して来る織田勢。──その中に、勝頼をめぐる幾多の旗さし物や馬簾や母衣や伝令旗や、また馬のいななきや、甲冑の光や、星の如き刃影槍光は、血けむりと馬煙につつまれて、さながら潮旋風に囚われた一個の巨船のように、その運命は危うく見えていた。
「今は……」
と、丸山を降った馬場信房の隊だけは、まだそのとき、無傷を保ち得ていたのである。
信房は、麾下の一士を、勝頼のところへやって、
「もういけません」
と、いわせた。
退却をすすめたのである。
「無念だ。残念だ」
勝頼は、なお、地だんだ踏んでいたという。彼の気性としてさもあろう。しかし、大きな事実には、彼も抗し得なかった。
敵に、撃砕されて、内藤修理そのほかの中央部隊の諸将も、各〻朱にまみれて退って来た。
「ここは、一時」
「恨みをのんで、前途の御分別を」
遮二無二、本陣の将士を督して勝頼の身を、重囲から救い出した。──これを敵方から見れば、明らかに、甲州の中軍は、算をみだして、潰走し出したものといえよう。
大将勝頼を、猿橋の附近まで送って来ると、内藤修理は、殿軍のため、すぐ引っ返して、追い来る敵と戦った。彼が壮烈な戦死をとげた場所は、出沢の丘の上だった。
馬場信房も、落ちてゆく勝頼や、あわれな味方の残軍を宮脇の辺りで目送していたが、やがて、
「ああ。平常一生涯。憶えば長かった。また短かった。長いが真か、短いが真か。ただ、いま一瞬だけは、たしかに、永遠だろう。死の一瞬。永遠な生命とは、その一瞬の如何にしかない」
馬首を西へめぐらしながら、この老将は、悠々、万感を胸にくり返していた。
そして、敵の中へ駈け入る直前まで、
「故信玄公にあの世でお目にかかってお詫びをせん。やはりわれわれ輔佐の宿将どもの不つつかであった……。さらばぞ、甲州の山河」
振向いて、故国の空に、一涙を遠く捧げ、そしてやにわに駒を早め出すなり、
「死ねや。せめて、名を夏草の華ともして、信玄公このかたの、武門の名を辱めるな」
十倍もある敵の大軍のなかへ、彼のすがたも彼の声もたちまち没し去った。それにつづいて行った馬場の一族郎党も、各〻、彼に倣って、華々しい討死を遂げたことはいうまでもない。
信房ほど、この戦を、最初から見透していたものはない。恐らく彼は、この後の、武田家の衰亡から滅散にいたるまでの運命まで、悟っていたにちがいない。しかも──彼の先見や誠忠をもってしても──この危機を救うことができなかった。時代の力、偉きな大勢の推移、怖ろしいばかりである。
からくも鳳来寺山の方面へ落ちのびて、勝頼の中軍と合した総甲州軍は、そのとき数えてみると、最初約一万五千以上──二万近くもあった軍勢が、わずか三千に足らなかったという。
勝頼は、側近数十騎と共に、小松ヶ瀬を渉って、ようやく、武節の城へ逃げこんだ。──剛毅無双な彼も、終始、唖のような無口になっていた。
設楽ヶ原いちめんに、赤い──実に赤い、夕陽は落ちかけていた。この日の大戦は、夜明け方の五時頃から開始されて、たそがれ近い四時すこし前に終った。一馬啼かず、一兵叫ばず、曠野は急に寂寞の底へ、とっぷり暮れ沈んでいた。
まだ片づけられないまま夜の露に横たわっている屍は、甲軍の者だけでも、一万余とかぞえられたのである。
死体の処理や分捕品の始末などの奉行をいいつかって、戦後の曠野を、あちこち、巡視していた前田又左衛門は、
「おういッ」
誰やら呼ぶ声に、ふと駒をとめて振向くと、金瓢の馬幟がすぐ眼にとまった。
筑前守秀吉の陣所だった。
「又左でないか」
「おう、筑前か」
「無断で通ることやある。寄りたまえ」
自身、柵の外へ出て来て、招き入れた。
もとより仮屋一つない。
きのうで、大戦の一段落はついたものの、今後のうごきは、まだ最高軍事会議でも一決を見ないのである。
(この機を逸せず、甲府まで攻め入るべし)
という家康側の主張に対し、
(いや戦い占った地の、後始末こそ肝要である)
という信長の説とが、双方にもっともなところがあって、まだ決定を見ないのであった。
粮米の空俵や、薪などが積んである雑然たる中に、又左衛門はどっかり腰をおろして、
「やれやれ。戦のない日は、疲れるものだ」
と、友を見て笑った。
秀吉は、直ちに、床几を運ばせ、又左衛門にすすめたが、用いないので、彼もまた、手頃な石に腰をおろした。
そして、ひそかに、
(なるほど、このほうが、二人で語るには、ふさわしいな)
と、思った。
おたがいに、かつては、犬千代と呼び、猿々と呼ばれ合った友だちである。立身はいつか友情を疎遠にする。近頃はめったにこうして寛ぎあう日もない二人だった。
「筑前、酒をすこしくれぬか。陣所にあるかな?」
「酒を。……あるにはあるが」
「無数の死屍を弔うて来たせいか、すこし酒気が欲しい」
「前田どのへ、白湯がわりに、酒を上げたがいい」
と、うしろの小姓にいいつけてから、
「前田又左衛門ともあろう者に似気ない気弱な……」
と笑った。
小姓の捧げる冷酒の杯をとって口にふくみながら、
「船頭でも船に暈うことがあるという。こんどの御合戦ばかりは、血に暈うた」
「きのうは、如何なされた」
「ただ夢中であった。おぬしはどう働いたか」
「勝敗歴然と見えてからは、小高い所に佇って、黙然と、ただ眺めていた」
「眺めていた。ふふむ……」
「敵のために、おれは惜しんだ。もし勝頼が、滝川を防ぎとしてじっと固めていたら、長篠の孤城も、墜ちざるを得なかった。また、われわれの大兵も、長陣はつづかない。よく持って十日か半月だったろう。──そこで退陣となれば、追い撃ちを喰う。──考えると危ない戦ではあった」
「戦の仕様も、変って来たなあ。鉄砲という新しい武器が、急激に変えてきたのだ。桶狭間の合戦とこんどの大戦とを、思いあわせれば、隔世の感がある」
「むむ。これからは、戦のない日こそ、真の戦だ。──その日となっては間に合わん」
「勝頼の不覚は隣国の武備を、まったく計算違いしていたところにある。まさか織田家に、五千挺の銃があろうとは、想像もしていなかったに違いない。新しい武器装備においては宇内第一の織田家を見損なっていたものだ」
「又左。それもまた、おぬしの見損ないだぞ」
「どうして?」
「鉄砲、大筒、火薬などを保有しておるものは、決してわが織田第一ではない。織田家はまだまだ遅れておる」
「そうかなあ?」
又左衛門は、にやりと笑った。時々、詭弁を用いて、ひとに背負い投げを喰わす秀吉の癖を知っているからである。
しかし秀吉の真摯な容子は、すぐ彼の疑いをみずから潜ませた。秀吉が、真実、憂いていっていることがすぐ分った。
「これからの大事は、第一に新しい軍備の充実。それに従って、戦法の改革。なお刻々、時代に遅れない心がけが肝要だ。──一武田ごときを潰滅させたからといって、思い上がってはいけない」
「わしが意見されておるようだな。御評議の席で大いに陳べたがいい」
「いや、近頃は、多弁はちと慎んでおる。衆の中で余り多弁を振うは悪いと考えてきた」
「なぜだ。おぬしから、おぬしらしい雄弁を除くと、おぬしらしくなくなるだろうに」
「衆の席では、人各〻、胸いっぱいに、いわんとする真情を抱いておる。それがし一名が多くをいえば、それだけ他の口を緘し、他の真情を圧しることになろう。──だからこれからは、いわねばならぬ時しかいうまいと思っている。それも、できるだけ言葉を簡にし、要を得て、真を訴えるに足るよう、この頃は、日常のことばづかいなどから修練いたしておる」
「いつ会っても、何か自省したり工夫したりしておるのは、おぬしの生れ性とはいいながら、敬服する。わしも見習おう。……が、いまの話の続きはどうしたか」
「むむ。鉄砲のことか」
「織田家が第一でないとしたら──そうした新武器を多量に持っている国は、やはり西国大名のうちでなければならん。毛利家か、島津家か」
「ちがう」
「ふふむ、では北国ながら、上杉謙信の領か」
「いや、寺だ」
「寺?」
「大坂石山の本願寺を中心とする圏内とわしは観ておる。寺にはかなわん。財力がある。また、堺に接し、地の利を得ている」
「なるほど……」
「きょう早速の軍議に、徳川どのには、この機会に、武田領を席巻し、甲府までも、一挙に屠り去らんなどと御主張あったが──それは徳川本位な策、徳川家にとっては、織田勢三万を、ここまで呼び出しているついでゆえ、またとない上策にはちがいないが──わが織田家としては、採るべきでない」
「なぜそれを、今朝の御評議でいわなかったか」
「いや、末輩からいわなくても、殿御自身、徳川どののその手には乗らんというような顔をしておられた。その点は安心してよい」
本陣の方で、貝の音が聞えている。前田又左衛門は、急に立って、
「筑前。また他日会おう」
と、急に腰をあげて、従者に馬を呼ばせ、忙しげに帰って行った。
戦後の方針は、その夜の評議で決まった。もちろん信長は岐阜へひきあげ、家康もひとまず兵を岡崎へ納めることに決ったのである。
凱旋の途について、別れるとき、信長は家康へこういった。
「この後、徳川どのには、駿河へ手をつけられい。信長は岩村を取り、徐々、信濃に入る道を開いておこう」
「承知した。ここ両三年を期して、また、信濃でお目にかかりましょう」
家康は、にこやかに答えた。──信長のことばはすでに彼に対して、幾分かずつ対等を欠いて来ている。同盟国とはいえ、総領の兄が弟にものをさしずするような風があった。
家康は甘んじて、命をうけた。けれどその後、三河、遠江のうちにあった武田氏所属の城砦十何ヵ所というものを、毎月のように、一城一城攻め取って行った。たとえば、長篠の戦後すぐ、足助城をやぶり、六月には、作手、田峰などを攻略し、七月には武節を、八月には諏訪ヶ原を──というような目ざましい進出をつづけた。
長篠の敗戦は、武田方にとって、たしかに致命的なものだった。
信玄以来の宿将や謀士の悉くが──といってよいほどな数が、この戦で亡われた。
もっと大きな損失は、不敗の信念が失われたことである。必勝の信念がない軍隊はもう枯葉を落しはじめた秋風林と同じだった。剛将勝頼の胸にも、悲風蕭々たるものがあったであろう。
けれど、信玄の子だ。信玄の全部をうけず、信玄の一面だけを持った子である。そんな深傷を長篠にこうむりながらも、なお、
「われ、甲山にあり」
と、時折、嵎を負うて、虎のごとく、余勇を国境にふるって来た。
諏訪ヶ原の城を攻めて、これを一時奪回したり──小山城の急変に駈けて、たちまち矛を転じ、駿河に火を放って、家康を急襲せんと試みたり──とにかく端倪できないものがなおあった。
けれど、次第に、そのうごきは盲動になって来た。あきらかな方向を持ち得ない──また悠々たる緩急を取り得ない──奇変一法の兵となった。
実体の力が激減して来た証拠と云い得られる。かくて、さしも新羅三郎以来二十幾世という御旗楯無の名家も、いつのまにか、二流国に下がってしまった。
──が、それらの事々はすべて後のことで、信長は、大戦が終るとすぐ、五月二十五日、長篠の陣々を払って、岐阜へひきあげた。
そして、徳川家から、
「御礼のため」
として使節に来た奥平貞昌と酒井忠次とを岐阜城の奥へひいて、
「あの時は。この折は」
と、合戦中の思い出ばなしを、自分からも語り、二人にもたずねて、夜もすがら杯をあげた。
ふたりが帰る折は、
「忠次には、わが愛刀を」
と、刀を贈って、功を賞し、また奥平貞昌には、自分の名の一字を与え、
「貞昌を改め──信昌と名乗るがよい。また、折々には、遊びにも来いよ」
と、いった。
──また遊びにも来いよ。
こんな軽いことば一つも、武門にとってはまたなき誉れだった。信昌と共に、長篠に籠城した七人の家臣たちへも、それぞれ恩賞の引出物があった。
「──恩、他家の臣に及ぶ」
織田家の諸臣も、共々ふたりを祝して見送った。そうした信長の温情は、さきに長篠の戦場でも、鳥居強右衛門の骨をさがして、手厚く葬ってやったときにも感じていたことなので、
「いつもながら……」
と、主君の人がらにいよいよ尊敬を篤うするばかりだった。──そのほかあらゆる意味において、信長の位置は、この長篠の大戦を機として、一躍、また重きを加えた。目に見えるもの以上な巨利を獲得した。
「もう、北方の背後には、何の心配もなくなったぞ」
将士にいたるまで、はっきりそれを感じた。何となれば、信玄の死後も、甲州の軍馬が健全なうちは京畿に向って、そのほかの反信長の諸国に対しても、かならず背後の虎に、より以上な備えをしてかからなければ不安な状態にあったからである。
しかしまた。
「いやいや、一敵減ずれば、一敵生ず。──決して安心はならぬ。甲軍の強大があればこそ、抑えられていた越後の上杉謙信が、こんどは直接、こっちへ患いして来ようぞ。謙信の眼の黒いうちは、どうしてまだまだ……」
と、油断を戒め合う一部もあった。事実、信長の見まわしている天地の一方に、謙信の存在はなお北斗のような光芒を燦として持っていた。
夏は本格的な気象をととのえて来た。大空はかんと照りきっている。雲の峰もうごかない。
六月の二日、岐阜を出た信長の列は、いま美濃から近江の境──山中越えにかかってゆく。
遠くから望めば、蜿蜒、蟻の行列に似ていたろう。近々とそれを見れば、まことに眼もくらむばかり仰山な旅行陣であった。一個の信長が京都へ上るため、随行としては、宿将、旗本、小姓衆から銃隊弓隊、また赤柄の槍組とつづき、医者、茶道衆、祐筆、俳諧師、沙門、荷駄隊にいたるまで──見送っても見送っても人馬の列は容易に尽きない。
長篠の大戦は、つい一月前であった。
その時の鉄甲陣にひきかえて、きょうの行列は、万朶の花を一すじに引いたように、見るからに平和だった。人各〻の装いばかりでなく、馬にすら飾り、槍鉄砲も拭き磨いて、威容の備えのほかに、一種の「美」を加えていた。
あらかじめ、通過の触れは聞えていたので、あちこちの部落では、村長を始め、老幼男女、みな軒ばに坐って、黙送していた。
「ここをお越えなされるごとに、行列がお立派になる。御人数も、由々しいばかり殖えてゆく」
土民の眼にも、そう映った。
意識的に、信長自身も、そうしているらしく思われる。こうして、京都への上洛は、もう何回になるか知れなかったが、彼の心裡を窺えば、この旅行は彼にとって、大きな愉悦でもあり、またその一度一度が、生涯を期する大事業でもあった。
一地方の戦いが終ると、その役後、彼はかならず京都へ上洛した。そして平定の次第を上奏し、叡慮を安めたてまつることを怠らなかった。──たとえば他郷へ出て功をあげた子が、その都度、家郷の親へよろこびを告げにゆくように──彼は京都へ上っては、陛下に伏して身を低うするときの赤子の情を忘れ得なかった。それをもってみずから第一の歓びともし光栄ともしていた。
こんどの旅行もそれであった。
もちろん、一般に対しては、戦うごとに強大をなしてゆく、自国の隆々たる実体を、誇示してゆく気もちもある。また大いに、京洛の堂上や庶民に対しての政略とか、文化的な意図などもふくまれている。
──が、要は、
(信長の統業は、帰して、一天の君にあり、信長は叡慮によって、ただ宇内の騒乱をしずめ、陛下の民を安んじたてまつるための一朝臣である)
ことをその実践に示して、天下にあきらかにすることにあった。
しかも彼には、勤王ということばはなかった。彼のみでなく、戦国の諸将は、あえて勤王というような言を平常にそう用いなかった。いま、世はなお戦乱の熄む日もないが、一人として、朝廷に対し奉って、大逆的な行為など振舞う賊子はないのである。むしろ競って、信長のような立場になり、信長のように忠節の実を挙げ、赤子の歓びを持ちたいのであった。けれどそれをなすには、それを成すに足る器でなければ出来なかった。
──だから彼のこの旅行は、最大な満足にちがいなかった。また四隣から、全土の群雄から、いかに羨望な眼をもって見られていたかも分るのである。
「──休もう、ひと汗拭え」
ちょうど、山中の上まで来たときである。信長は、急に馬を降りた。そして真っ先に、列から脱け出し、道の傍らにある小さい馬頭観音の日陰へ大股に立ち寄った。
小姓たちは慌てた。
出しぬけを喰った宿将や側衆なども、狼狽を極めながら、
「なんでこんな所で、にわかに御休息を云い出されたのか」
と、信長の心を疑いながら、みな後から後へと、
「やすめ。──停まれ」
と、令を伝えて行った。
「お床几を。お床几を」
「いや、お褥のほうを」
信長のまわりから、近習がしきりに噪いでいる。蝉時雨もはたと止むばかりだった。当の信長は、馬頭観音堂の濡れ縁に病葉や塵も払わず腰かけて、ひとりの小姓に金扇で風を送らせていた。
──が、すぐに、夏木立をとおして来る涼風に、汗のひくのを覚えて、
「もう、よい」
と、小姓の手から金扇を取り、それを掌にたたみ込むと、
「忠三郎、忠三郎」
と、小姓組のうちの蒲生忠三郎を呼び、
「その辺に、郷民たちがうずくまっていたようだ。郷民のうちの年老ったものか、名主を呼んで来い」
と、命じた。
蒲生忠三郎氏郷も、ことしもう二十歳になっていた。何事か主君の意はわからなかったが、はいッと、かいがいしく答えて駈け出して行った。
信長は、また、
「小左衛門。──岐阜を出る折にいいつけておいた木綿は、荷駄へつけて来たか」
と、たずね、
「その木綿をこれへ積め」
と、いいつけた。
西尾小左衛門は、部下を連れて、荷駄方から木綿の荷を受け取り、梱を解いて、四、五十端の布を、信長のわきへ積みかさねた。
「……何の御用意か⁈」
と、誰も解せない面持ちであった。
信長は、その間に、堂の横手に見える池へ寄って、暑熱に渇ききッた足軽たちが、争って、掌に掬った水を飲んでいるのを遠くながめ、
「これ、勘助。あれを叱って来い。──水を飲んではならぬと、あの者たちを追い払え」
と、いった。
丹羽長秀の息子の勘助が、そこへ歩み寄って、
「お目障りじゃ。去れッ」
と、一喝すると、足軽たちは、愕いた様子で、みなどこかの木蔭へ隠れこんだ。
丹羽勘助の父五郎左衛門長秀は、信長のかたわらにいたが、怪しんで主君にたずねた。
「桶狭間の時といい、先頃の長篠の折と申し、いずれも五月の頃で、しかも暑さは、今日どころではなく、さむらいどもは、腐り水であろうと、泥水であろうと、孑孑を掌に掬って、そのまま、飲んでは戦っておりました。殿ですら、そういう悪水の味は御存じでしょうに、なぜ、この山の上の池水に限って飲むなと、お叱りでございますか」
「ははは。五郎左にも似合わんことを問う。戦場の体は金剛身じゃ。平常の装いとなれば体も平常に回る。戦場では中らなかった水でも、こういう時に不用意に飲めば中るおそれがある。彼らとて、事なき日に病などで斃れたくはなかろう。それゆえに叱ったのだ。──やがて年老った郷民でも来たら、よく水質をただした上、良い水ならゆるしてやれ。さもなくば、谷から清水を汲ませるがよい」
長秀はだまって頭を下げた。
そこへ、蒲生忠三郎が、名主らしい者と、郷の老人たち五、六名を従れてもどって来た。
郷民たちは、信長のすがたを見ると二十歩も先に、ぺたと坐って、地に額をつけたまま、いわれることを、ただ頭上に待っていた。
信長は、遠くからではあるが、直かにその者たちへ、声をかけて、
「郷の者。──この前の上洛の帰り途、この附近に夥しゅう見えた乞食の群れは、いまもつつがなくこの土地におるか」
と、訊ねた。
意外な質問に、眼顔を見合わせている家臣が多かったが、また中には、
(ああ、あのことを、お記憶あってお訊ねとみえる)
と、思い泛べた側臣もあった。
──というのは。
信長が京都への往復に、いつもこの近辺で眼につくのは、乞食の多いことであった。彼は自分の領下に、喰えない者が群れているのは、自分の働きがないような気がした。往還のたびごと、どうも眼についてならないのである。
ところが、どこの乞食も住所不定のもので、昨日見た所に今日はもういないのが通例なのに、ここの山中乞食ばかりは、長年彼が注意して見て来たところでは、せむしの男も、盲の女も、ちんばの小娘も、老幼ことごとく同じ者がいつも同じ所に群れていた。
で、この前、上洛の帰途、家臣の者から土地の者へ訊かせたのである。──どういうわけで山中の乞食ばかりはこの土地に定住しているのか? と。
すると、郷の者から、答えたことばが振っていた。
(あの衆の先祖が、この土地でむかし常盤御前をころしたと云い伝えられておりまする。その因果で、代々片輪が生れ、山中猿山中猿と呼ばれておりますが、あの衆自身は、先祖の罪業を、生涯に償うのじゃと、みな生れながら弁えておりますので、土地も去らず、ああして道中の馬糞掃除とか、何とか、出来ることは勤めながら、物乞いをしておりますようなわけで……)
聞き取った家臣は、一場の笑いばなしとして、信長の耳にそれを達したきり、あとでは忘れていたが、信長はそれを覚えていたものとみえる。
その日。
路傍に呼び出された郷の年老りや庄屋などから、信長の問いに対して、再び、
「はい。相変らず、山中猿どもは、ここに住みついておりまする」
と、何か、目障りの咎でも申しつかるかと、おそるおそる答えたところ、信長はうなずいて、
「そうか。不愍な生れつきの者どもではある。老幼のこらずこれへ集めて、この布一端ずつ頒けてつかわせ」
と、いった。
信長のわきに用意されてある木綿の山を仰いで、庄屋たちは眼をまろくした。──あんな以前のことを、しかもただの旅人さえ眼のうちにも入れない乞食の群れを──と、みな熱そうに瞼をしばだたいた。
さっそく、庄屋以下、郷の者たちは、触れに行って、大勢の山中猿を呼び集めて来た。這って来る者、跛行をひいて来る者、負われて来る者、抱かれて来る者──馬頭観音の堂を繞って充満ちている上洛の美々しい行装の将士とくらべて──これは、おかしいような奇観であった。
けれど、誰も笑えなかった。いにしえの名君は仁愛禽獣に及ぶとあるが、信長の心やりもそれに劣るものではない。人間はたれもその得意な境地にあるときほど、他を思いやることは難しいというが、信長の今は、長篠の大捷を博してからまだ一ヵ月、人生最高な会心事とゆるし、密かに男児の胸に四隣を圧しる武威を大列に耀かして、しかも京都への栄えある途中にあるのである。──誰か、その信長が、岐阜を立つときからすでにこんな路傍の飢民にまで、心をかけていたなどと思いつこう。家臣がみな意外としたのはむしろ当然であった。
「この後とも、飢え死ぬようなことのないよう、郷の者も、情けをかけてつかわすように」
信長は云い添えて、なお彼らの小屋掛料まで施して去った。その行列の遠く降りて行ったあと、峠の蝉時雨は彼の慈悲に泣く飢民の声のようでもあった。
こうした信長かと思えば、それからすぐ後の二月ほど後には、もうかつての叡山の殺戮以上、残忍極まる血の巷を、事もなげに歩いている信長でもあった。
それは。
八月十二日、岐阜を出て、十四日敦賀に入ると同時に開始された越前門徒一揆の討伐だった。
長浜の秀吉も参加した。
明智光秀は、先導役に立った。
丹羽、柴田、佐久間、滝川など──それは長篠出陣以上の堅陣だった。
「手を焼くなよ」
これが、この出陣に際しての、信長の自戒であった。
あいては一向宗の僧団や各地に散在する宗徒の寄り合いである。はっきりとした領界を持ち性格をそなえている一国ではない。
だからこれを一揆と呼んで、戦争とはいわない。時きらわず場所を選ばずに蜂起する事変である。それだけに、彼の戦法も、奇襲、詭策を専らとし、戦陣は長期を計り、一気に決戦することを好まず、長期出没して、信長を奔命につからすのが目的かのようであった。
朝倉家亡んでも、越前は失くならない。越前の主権者は変っても、庶民の中に根を張っている教団の勢力はみじん衰退しない。──いや、むしろ旧朝倉の残党や、大坂石山寺の本地との聯絡を強めて、その特有な奇変戦法は、信長の戦後の施政を、ズタズタに寸断して、その反抗は日ごとに露骨になっていた。
「──思い知らせむ」
と、信長はひそかに期していたにちがいない。
この苦手な敵ほど、信長の性格を意地悪く虐めたものはなかった。我慢、辛抱というようなことは、由来、信長の得意ではない。そのなし難いことを、この厄介な敵だけには、いつもじっと、怺えているからだった。
──だからいよいよやるとなってそれへ兵を発するや、叡山のようなことも敢えてやる、長嶋の如き殺戮をやっても顧みない。一向宗の討伐に向ったときだけは、信長もつねの信長でなかった。敵たる門徒の人々が憎み罵るとおり、まさしく彼の行為は、夜叉魔王そのものであり、その姿は悪鬼羅刹というもおろかなほどだった。
この戦陣の記録に見ても、
国中ノ一揆、スデニ敗亡イタシ、右往左往ニ、山々ヘ逃ゲノボリ候ヲ、仮借ナク山林マデ尋ネ捜シ、男、女ノ隔テニ及バズ、斬ツテ捨ツベキノ旨、仰セ出ダサレ、八月十五日ヨリ十九日マデ、諸手ヨリ搦メ捕ツテ進上サレ候分、一万二千二百五十余ト記スルノ由ナリ。ミナ御小姓衆ニ仰セテ、誅サセラレ候。
ソノ他、国々ヨリ奪ヒ取リ来ルトコロノ男女、ソノ数ヲ知ラズ。生捕ト誅殺サセラレタル分ト、合セテ三、四万ニモ及ブベク候ヒシ歟。
「信長公記」は、そう誌している。
また、その誅し方も、べつな「総見記」の記載を見ても、実に、思いきって惨烈なものだったらしい。
──寺院、坊舎、商家、民屋マデ空袋ノ底ヲサグルガ如ク、残ラズ捜シ出サレ、五十、七十ト高手小手ニ縄ヲカケ、袖ヨリ袖ヘ縄ヲ通シ、珠数ツナギニ一群レヅツ札ヲツケテ、本陣ヘ引キ参リ、或ハ駅所駅所ニテ、立チ所ニ斬リ、鳶ヤ烏ノ餌食ニマカセラル。
この信長も信長。
山中越えの片輪の飢民たちに、木綿をめぐみ、小屋掛料を施し、あとあとの生活まで、飢え凍えぬように注意して行った人もまた同じ信長であった。
越前の平定は、あらまし八月中に終った。
羽柴、明智、稲葉の父子は、徹底主義な信長の令に、余勢を駆って、加賀へまで攻め進んだが、
「いや、程よくしておけ」
と、信長は急に、或る限度で進攻を止めてしまった。
この方面の越境は、直ちに、上杉謙信との摩擦を生じるからである。
武田家の敗退以後は、当然、今までは遠隔な感にあった信長対上杉というものが、相互に、隣境を接して来たかたちに置かれた。謙信が信長を窺う眼──信長が謙信を見る眼──いずれも炯々とゆるがせでなく、
(いつかは、まみえる敵)
と、期していた。
けれど信長として、今それを果す気もちはみじんない。──程よくしておけ! である。
能美、江沼、檜屋、大聖寺の諸郡に、それぞれ守備をおき、まず将来への基点としておいて、自身は北ノ庄へ陣を移した。
ここには、宿将の柴田勝家をおいて、越前八郡をさずけ、充分に重きをなさしめる考えらしい。北ノ庄の築城、町屋の縄張りまで、信長自身で見た。
北陸経営の重鎮は、ここに定められた。そのほかの布置を見ると、金森、不破、佐々などの諸将は各郡を配分し、前田又左衛門利家にも、二郡を分け与えた。
丹後には一色左京を。また丹波には明智光秀を。
細川藤孝には、桑田、船田の二郡が、与えられた。
大略、戦後の経営と配備がすむと、信長は、新領主や地侍に対して、かなり箇条の多い「掟書」を発した。
そのうちには、
事新シキ仔細ニハナク候ヘドモ、何事ニマレ信長ノ申シ次第ニ覚悟肝要ニ候。
左候トテ、無理非法ノ儀ヲ思ヒナガラ、巧言申シ出ヅ可カラズ候。(中略)トニモ角ニモ、我々ヲ崇敬シテ、影後ニテモ、アダニ思フベカラズ候。我々アル方ヘハ、足ヲモササゲル心モチ肝要ニ候。
ソノ分ニ候ヘバ、侍ノ冥加アリテ、長久タルベク候。分別専用ニ候フ事。
などという一条もある。
おれを尊敬せよ、信じろ、そして従いて来い。それが侍冥加だぞ、というのである。
ずいぶん己れを持することの高い当時の武人といえども、これほど思いきって、自分を誇示したものはない。従来から彼に仕えていた守将たちはともかく、被征服地の地侍や一般民は何とこの高札を見たろうか。
九月の下旬。
彼は北ノ庄から府中へ、陣を移し、そして二十六日頃には、すべてを終って、岐阜へ凱旋していたのである。
──そして、また。
この前、長篠の役後、すぐ上洛して、天機を奉伺したように、この秋も、越前経略の事が終ると、すぐ上洛の途についていた。
夏の頃、駒を止めた山中越えも通って──近江路へさしかかった。
三間幅の大道路は、山陰の狭地も、渓流に荒された所も、駅々の町屋のなかも、また湖畔に沿うても、一路京都まで通じていた。
「松も柳も、通るたびに、よく生い育って見ゆる」
信長は、並木の松や柳を、さながら自分の眷族のように、ひとつひとつ見ながら駒をすすめて行く。
松の朽葉は掃かれ、柳の根がたには、水が洒いであった。これを見るも、彼が途上の楽しみの一つらしかった。
道はなるべく嶮にし、河は必要のほかこれに架けず、どこにも彼処にも関所をおいて、深く守っているのが、国々、群雄の割拠の相だった。
信玄の軍国政治などもそれだった。
浅井、朝倉もすべてそうだった。
ひとり信長だけは、その正反対を行っている。彼の領下に、関所はないといっていい。一国、二国、三国と領地を拡げてゆくたびに、そこらの関所は悉く撤廃してしまい、橋を架け、道路をひらき、そして自己を中心とする文化の放射線を外へ外へ向けて行った。
三間道路の開通は、その先駆をなしてゆく。そして、入国税とか橋税とか渡船税とか、文化の交流を邪げるものは、一時の犠牲をしのいでもみな廃した。
こんどの上洛では、特に道をかえて勢田へかかった。それは夏の初めに、彼が設計して着手させておいた勢田の長橋の工事が落成したとあるので、
「一見しておこう」
と、いう目的のためであった。
ここも乱のあるたび、幾多の攻防戦をくり返した要害の地で、その都度、往来の困難を極めて来たところだが、いま彼の前には、橋の幅二十四尺、長さ百八十間、双欄を通して、欄の袂には、大きな擬宝珠の太柱を建てた唐橋式の偉観をもって、新しき天下の大道──また文化の動脈となっていた。
「できたなあ」
信長は、左右へいって、橋のてまえで、駒を降りた。
「──歩こう」
と、いうのである。
橋の上だけを、徒歩で渡った。かつての戦闘を、ここかしこに思い泛べ、また、いよいよ中原に大きく臨む明日への備えに、しきりと湖畔の地勢を見ている容子であった。
「お渡り初めです」
みな駒をすてて、夥しく従いてゆく側臣たちの中で、誰かがいった。
渡り切ると。
勢田の西、逢坂口、山科と行くところに、たくさんな出迎えが雲集していた。
摂家、三条、水無瀬の二卿。
また、近畿の諸大名たちであった。──上洛中という奥州の伊達輝宗も来ていた。そして、南部の名馬と、鷹を贈った。
そうした中を、彼は、
「おう、わざわざ」
と、ひとりひとりへ慇懃に礼をかえしながら通ってゆく。かれの人品のいい軽薄でない微笑は、こういう時、誰をも疑わせた。──これが叡山を焼き、武田を討ち、ついきのうは、越前から加賀まで震撼させてきた猛将だろうかと思うのである。
大坂の石山本願寺も、三好笑岩と松井友閑を使者として、ともあれ、友好的な辞と、贈り物を供えに来た。信長は、その人々にも、
「遠路恐縮です」
と、変りなく相見した。
播州の赤松とか、別所とかいう地方的な武将も見えている。──総じて、招かずして来た者である。一回は一回よりも、そうした出迎えは彼をめぐって洛中にあふれた。
信長が滞在しているということだけで、京都はさながら毎日が祭りか正月のようであった。民衆のなかにこぼれてゆく金も莫大であった。何よりもまた禁裡の瑞気や堂上たちのよろこびが民心に映った。その民衆は口をあわせていう。
「ようやく、これでわし達の、親柱が立ちそうじゃ。やがて天下は、信長様で治まるだろう」
十月に入ると、信長は、妙心寺で茶会などひらいた。堺や京の数寄者が大勢集まった。いつか秀吉が、信長にささやいて、
(あれは大した名茶碗ですな)
といった堺の宗易──利休も来て、茶を点てた。
天恩は、信長に厚かった。
大納言に任ぜられたのはつい先頃であったが、近くまた右大将に官位を進められた。
大将拝賀の式は、十一月、宮中で盛大に執り行われた。文武百官式の陣坐をめぐって、朝廷の御稜威と、彼の栄光を祝して、万歳をとなえた。その旺んな景観は、前代未聞と噂された。
──忝ナクモ天子ヨリ御土器ヲ頂戴ナサレ、上古末代マデノ面目コレニ過グベカラズ
と彼の祐筆はその日の感激に最大なことばをもってもなお云い足りないように書いている。
この前。
六月の上洛の折にも、叙爵のお沙汰を賜わったが、
「ねがわくば、天恩の大を、まず臣下に知らせ給え」
と、自分の栄進は辞して、拝辞していたのであった。
そのとき叙爵の栄にのぼった部将は、約十五名であった。
柴田勝家、林信勝、佐久間信盛、丹羽長秀、池田信輝、羽柴秀吉、滝川一益など。
明智光秀も洩れなかった。
武井夕菴、松井友閑らも、ひとしく皆、従五位を授けられた。
それと共に、信長は、
「さらに、そち達に、栄光を加えてやろう」
と、昔から鎮西に名高い名族の氏姓をゆるして、臣下のそれぞれに名のらせた。
惟任、惟住、原田、別喜などという姓がそれである。
十兵衛光秀は「惟任氏」の姓をもらった。
もうそろそろ信長の意中には、四国九州の統一が考えられていたのである。鎮西の名族の姓を家名に頂かせ、やがて西征の轡を競う日のあるべきことを、各〻の部将に予想させたのだった。
彼の用いている印顆の文──天下布武──その理想への下準備である。
とかくして、京都の滞留は、長くなった。彼の旅舎は、もと足利義昭のいた二条の館を改築して宛てていた。日々、公卿、武人、茶家、文雅の輩、浪華、堺などの商賈の者まで、訪問客は市をなした。
京都が彼を引きとめるのか、彼が京都を去りがてに思うのか、もう時雨する日は寒々と冬めいている。
「あすは晴れよう」
厩の衆は、空を見ながら、馬に飼い糧を喰い込ませていた。そこここの侍部屋でも、旅装に忙しい。晴雨にかかわらずあすは岐阜へ下向と、今し方、信長の側近から達しがあった。
光秀は、主君とわかれて、ここから丹波の領地へ帰る予定である。──で、明るいうちにと、自分の宿舎からいま暇乞いのためここへ来た。
長い厩の棟を、遠く見ながら、廻廊をめぐり歩いて奥の館へ渡りかけると、
「やあ。惟任か」
と、破顔して、自分のまえに立ちどまった者がある。
「おう、筑前か」
光秀も、笑顔で迎えた。
「どうだ」
秀吉は、両手をのばして、光秀の肩を寄せた。光秀はにやにやしながら、
「どうでもない。あすはお立ちじゃ」
「そうだ、あすはお立ち。──お互いに、また会う日は、何処やら?」
「酔うておられるな」
「都にいる間は、酔わぬ日とてない。殿もまた、御上洛中は、日ごとに御酒の量が上がってゆく。……いま伺うと、また大杯を強いられるぞ」
「御酒宴中か」
光秀はふと、たじろぐような眉をした。
たしかに、信長の酒量は、近ごろ大分あがっている。
(お好きな方ではあるが、以前はあんなに召し上がらなかった)
とは、よくむかしを知る老臣たちのいうところである。
秀吉なども、その組だが、彼と信長とは、健康の程度がちがう。一見、蒲柳の質らしく見えるが、信長のほうが、遥かに丈夫である。その精神力を窺っても分るように。
その点、秀吉は反対である。外見は粗野で達者らしいが、決して頑強な質でない。長浜にいる彼の母は、いまでも彼がすこし不養生するとよく訓えていう。
(気の大きいはよいが、体だけは細心にしてたもれ。生れた時からひよわい質で、四ツか五歳頃までは、あの子はとても成人しまいと、中村の衆がみないうていた程であったに)
秀吉は、母の気遣いが身にこたえている。また、幼少のひよわかった原因も知っている。ほとんど、喰べたり喰べなかったりの貧乏中に懐胎って、その育ちざかりも窮乏のどん底であった。──それを、ともあれ人並らしく大きくなって来たのは、ただ丹精ひとつにあった。
だから、酒はきらいではないが、杯を手にすると、母のことばを思い出す。またその酒好きな良人のために泣かされた母の育児時代を思わずにいられなかった。
しかし、そうかといって、彼がそんなに酒にたいして厳粛に考えていようなどとは、誰あって知るものはなかった。むしろ、
(彼は、そう飲けもしない口のくせに、酒の座が好きで、よく飲み、よくはしゃぐが、酔うと、はや他愛のない男だ──)
という風に見られている。
何ぞ知らん、彼ほど酒と健康に小心なものはないのだった。──量といえば、今、この廻廊で出会った十兵衛光秀のほうが遥かに飲む。
しかもその光秀が、生憎そうな顔をして、
──では、今御酒宴中か。
と、彼に質している信長の酒というものは、以て、だいぶ臣下を悩ましているものであることが察しられるのである。
すると、秀吉は、
「ははは。いや戯れじゃ」
と、打ち消した。
光秀が、真面目に二の足をふんでためらっている様子を、ひとりでおかしがりながら、手と赤ら顔を一緒に振って、
「ちょびと、実は、からこうたのじゃ。──御酒宴は、もう終った。この通り筑前も酩酊して退出してまいったのが証拠。……はははは、いまのは、嘘でござる」
「はて、人のわるい」
光秀は、苦笑した。秀吉のよい機嫌に免じているばかりでなく、必ずしも彼は秀吉という男を嫌いにはしていなかった。秀吉もまた光秀とまずい感じを抱き合ったことなど一ぺんもない。つねに生真面目な彼にたいして、よく臆面もない冗談など云いかけるが、尊敬すべきところでは充分尊敬を払っていた。
で、光秀も、
(この男、用うべし)
と、許している風であった。
古参な点や、帷幕の席順からいえば、秀吉のほうに、彼より一日の長があったが、他の宿将と同じように、光秀の心裡にも、家格とか、生い立ちとか、教養とか、いうものを偏重する考えはやはり潜在していた。──決して秀吉を軽んじる気ではないらしいが、土岐一族の名門という自尊と、また、実世間の体験や新時代の教養をも兼ね備えた知識人とみずからゆるしている自負が自然、
(君は愛すべき男だよ)
というような、何とはなく、彼を下に見る態度にどこか現われて来るのだった。
彼の一性格といえよう。人から下に見られたと感じても、秀吉はそれを不快としたことはない。
やがて将来、自分に期するところがあるゆえかも知れないが、さればとて、
(今に見ろ)
などとは、かつて一度も、口外した例はない。
殊に、光秀のごとき、優れた知識人から、下目に見られるのは、むしろ当然としているふうであった。大きな人間的規格とはべつな意味で、単なる知性とか教養とかいう履歴の上では、遥かに自分より彼の優れていることを是認するだけの寛度を持っていた。
「そうそう、申し忘れておった……」
と、秀吉は急に思い出したように、
「なによりはまず、お祝いを申しあげるべきだった。このたびは、惟任の氏を賜わり、さきには丹波の御領地を加えられ、ここおよろこびが打ち続いておられる。積年御奉公の真、当然とは申しながら、あなたにもようやく御開運の時期到来、このうえとも御長久を祈ります」
これは礼儀と、けじめをつけるように、膝まで、恭しく両手をさげた。
「いや、身に余る栄誉、みな君恩です」
光秀はあくまで真面目に、礼に対して礼を返した。──が、その後で、
「丹波をいただいても、御承知のとおり、あの地方は、旧将軍家の所領で、いまなお頑強に、根城をかまえて、何者が臨んで来ようと絶対に服従はせぬぞといわぬばかり、我意を張っている土豪が多いのでござる。──果たして、光秀の力で、よく征服し、よく治領し得るやいなや──。お祝いのおことばをうけるのは、まだ早いかも知れません」
「いやいや、御謙遜に過ぎる。──すでに北陸から移るやいな、細川藤孝、忠興の御父子とともに、丹波へ進まれ、亀山の守将内藤一族を軍門に降して、着々、実績をあげておられるではないか。──亀山に入るに、いかが入られるか、よそながら、興をもって、拝見していたが、一兵も損せず、敵を降して、御入城なされた手際は……殿もお賞めになっておられた」
「亀山はまだ序戦。これからが難事でござる」
「難事を前に持っておるほど、生きがいというか、張合いのあることはない。まして、汝の伐り取りにまかすと、おゆるしを賜わった新領地の平定と経営にかかるほど愉快なものはありませんぞ。ここでは自分が主体となって、何事も建設できますからな」
ふと、出合いがしらの立ち話が限りもなく長くなりそうなので、光秀が、
「いずれ。……また」
と、別れかけると、
「あ。しばらく」
と、秀吉は、また急に、話題を一転して、
「博学な貴公なれば、御存じかも知れぬが、現在、日本中の数ある城廓のうちで、天守閣というものを築いておる城は、幾つありましょうか。また、どことどこの城がそれを備えておりましょうや」
「安房国館山の里見義弘が城──ここには三層の天守があって海に面し、威容は海路からも望まれます。また周防国山口には、大内義興の四層閣が城廓の中心として築かれ、おそらくその壮大は宇内第一かもしれません」
「その二城のみですか」
「自分の知る限りでは。……して、何でそんなことを俄かにおたずねに相成るのか」
「いや今日、殿の御前で、いろいろ築城上のはなしが出た折、森どのがしきりと、天守閣の御説明を申しあげ、近く安土にお築きになる御城廓には、ぜひその天守を取り入れられるようにと、献策しておられたので」
「ほ? 森どのとは」
「御近習の蘭丸どの」
「はてな」
光秀はふと眉をひそめた。
「なにか、御不審でも?」
「いや、べつに」
光秀はすぐさり気ない面に返っていた。そして秀吉と、なお二言三言、気軽な立ちばなしを交えていたが、やがて、
「御免」
と、わかれて、信長のいる奥のほうへ、さッさと通って行った。
「筑前どの。筑前どの」
二条の館の大廊下は、信長を本尊として、退がって来る者、伺候する者など、加茂の参道ほど往来が多い。
また、誰か呼ぶので、
「おう。朝山どのか」
秀吉は、笑顔で振向いた。
朝山日乗は、稀れに見る醜男だった。同じ醜男でも、荒木村重には、どこか愛すべき風骨があるが、日乗は脂くさい入道であった。
──近寄って来て、
「なんじゃ、筑前どの」
と、すぐ事ありげに、声をひそませる。
「何がとは、何が?」
「いま、惟任光秀と、何か、御密談らしかったが……」
「密談。ははは……。こんな所で密談はなるまい」
「けれど、羽柴筑前と惟任光秀が、二条のお廊下で、長々、囁き合っていたというだけでも、人心は脅える」
「まさか」
「いや、まったく」
「御房もすこし御酩酊か」
「だいぶ、いただき過してな。……しかし慎まれたがよいぞ」
「酒をか」
「ばかな。光秀と親しむのは、慎まれたがよかろうと、注意するのだ」
「なぜ」
「あれは余り才識すぎる」
「当世の才識は、朝山日乗なりと、人はみないうている」
「わしは、鈍じゃ」
「なかなか。御房などは隅にも真ん中にも置けない才だ。武人にとって、もっとも苦手なものは、公卿づきあいと、豪商どもの操縦だが、それを得意とする辣腕家は、織田家中において、朝山どのの右に出るものはない。──柴田どのすら恐れ入っている」
「そのかわり、わしには、武功というものは一つもない」
「武功ならば、武人はたれもひとに譲らん。禁門の御普請、洛中の市政、いろいろな財務。御房はふしぎな天才じゃ」
「賞めるのか、くさすのか」
「されば、武門の中では、めずらしい異材でもあり、生れ損ないでもあると、正直、賞めたりくさしたりしておるわけです」
「お身に会っては敵わんよ」
日乗は、からからと笑った。
大きな歯がもう、二、三本抜けている。年齢からいえば、秀吉などとは大きな差がある。しかし、息子ほど年下な秀吉ではあるが、日乗の眼には、かなり大人に映じていた。
ただ、日乗の感情は、光秀に対しては、そう楽に溶け合えなかった。ひとしく彼の才識を認めているが、秀吉の揶揄に腹が立たなくても、光秀の寸言は、何かするどく神経をついてくる。反撥してみたくなる。
「わしだけの考えかと思うていたが、近頃、同様な言をふと耳にした。これは骨相を観る名人といわれている者。その言に、誤りはないと思う」
「人相観が惟任どのを、なんとか、評したのでござるか」
「人相観などではない。当代の碩学だ。中国で名僧の聞えある、安国寺恵瓊という者が、ひそかにわしへ申しおった」
「何といいましたか」
「気のどくだが智に溺るる智者の相だと。しかも上を剋す凶相が見えると」
「朝山どの」
「なんじゃ」
「よいお年齢をして、左様なことは口外なさるものではありませぬ。御房は辣腕な政略家とかねて聞え及んでおるが、御家中においてまで政治のお道楽はなさらぬがよろしかろう」
いま広間の中ほどに、一面の大きな絵図が、小姓たちの手で展げられた。それは畳二枚ほどもあった。──江州蒲生郡安土一帯の絵図である。
「ここが琵琶湖の内湖」
「奥島。伊崎島も見ゆる」
「安土川はこれか」
「桑実寺もある。──常楽寺も描いてある」
小姓たちは、一方にかたまり合って、燕の子のように、首を揃えてのぞき合った。
ひとり蘭丸は、群れを離れて、つつましやかに控えていた。
かれはとうに加冠の年頃をこえている。二十歳にはまだ二、三年の間はあろうが、前髪をとれば、すでに立派な若侍といっていい。
(そちはそのままがよい。幾歳になっても、小姓姿のままでおれ)
主君のおことばであると──彼自身いうのである。で、蘭丸はなお、他の少年と妍を競い、髷、小袖、すべて童形のままにしていた。
「なるほど、これか」
信長も、図面の一方に、しとねを移させて、親しく見入りながら、
「よく描いてある。これは、手許にある軍図などとは較べものにならぬほど精密な。──蘭丸」
「はい」
「どこからこのような緻密な絵図を、早速にとり寄せて参ったのか」
「母の禅尼が、さる寺院の秘庫にあるのを、前より知っておりましたとかで」
彼の母というのは、妙光尼といって、いうまでもなく、織田家の忠臣森三左衛門可成の後家である。
六人の子があった。うち五人は男子である。蘭丸はその三男であるが、ほかの子もみな、信長の家中にひきとられて、各〻、寵用されている。
ここの小姓の群れのうちには、蘭丸の下のふたりの兄弟が交じっていた。坊丸と力丸がそれである。
(あまり似ていない)
たれにもいわれた。
坊丸、力丸が凡児なわけではなく、蘭丸があまりに立ち優っているのである。かれを寵愛してやまない信長の眼ばかりでなく、たれが見ても、蘭丸の聡明は衆をしのいでいた。童形でこそあれ、帷幕の諸星、側近の家士のうちに置いて、彼が小さく見えることは決してなかった。
「なに、妙光尼の手から? ……」
と、信長はふと、いつにない眼で蘭丸を凝視した。
「そちの母は、仏者のことゆえ、諸院と往来あるは当りまえじゃが、信長を忌み呪う門徒の諜者などに騙かられぬよう……女じゃ、そちからそっと折を見て戒めておいたがよいぞ」
「その辺のこと、もとより私以上よく弁えておりまする」
「いや、気づいたまでじゃ」
信長はもう身をかがめて、安土一円の絵図に熱心な眼を落していた。
ここに、信長の居府として、新城を創始する。
それは、ごく最近、信長の口からいわれ出したことだった。
彼の現在いる岐阜は、もう彼の居城として、やや地方的に偏している。
信長が、眼をつけている──また将来の進出を考えている地形としては、難波の地、大坂にあったが、そこには頑強な反信長の法城本願寺があって、当分、揺るぐべくも見えないのである。
といって、彼は、室町将軍の愚を学んで、輦轂の下、京都に幕府的な旧態を構成しようなどとは思いもしない。しかも政治的な交渉は、こことはもっとも緊密だし、一面、中国以西を睥睨し、北、上杉謙信の進出にも備えようとなると──安土はやや彼の理想に近かった。
「惟任どのが、お控えまで伺っておりまする。おわかれの御挨拶にと」
その時、広間のすそから、侍がこう取次いだ。
「光秀か」
と、信長は気がるく、
「──通せ」
そのまま、なお、安土の絵図に、見入っていた。
光秀はここへ来て、ほっとした体である。
座に、酒気がないからである。同時に、
(筑前に、からかわれたな)
と、思った。
「ここへ寄れ、惟任」
信長は、彼のいんぎんな挨拶などさし措いて、いかにも心やすげに招いた。──絵図のそばにである。
光秀は、おそるおそるにじり寄って、
「はや、新城の御創案、御他念もございませぬな」
と、あいそをいった。
世辞のいえない光秀である。この程度のことをいっても、自分で、
(追従ではないだろうか)
と、省みてみたりする性だった。
信長は空想家である。何者にも劣らない実行力を持つ空想家であった。
「どうじゃ、湖に臨むこの山一帯を城地として」
彼のあたまのうちには、もう城廓の結構から規模ことごとく設計されているもののようである。
指をもって、
「ここから、この辺まで、かようにして」
と、線をひいて見せながら、
「山の下、城をめぐって屋敷町を割りあて、町家筋は、日本のいずこにもないような整然たる町をつくる」
と、つぶやき、また、
「この築城には、思いきって、信長の擁する財力を傾けるつもりである。天下の群雄を駕御するに足る偉観をこれに持たしめねばならん。贅にはあらねど、天下無比の大観たり堅城たり、あらゆる美と質と威とをもって築きあげたい」
「そうです。ぜひ、必要です」
光秀は心のうちで、その挙が、決して信長の虚栄心や、思い上がった道楽などではないことを認めているので──自分の心もちをそのまま説明するようにいった。
つねに、派手な共鳴や、機智に富む相槌を、周囲から聞いている信長の耳には、光秀の生真面目な返辞は、もの足らなかった。
「どうだ……いかんか」
「左様なことはございませぬ」
「時機としてはどうだ」
「もっとも時を得ておりましょう」
「そうか」
信長は、自信をつよめた。光秀の才識を、彼ほど認めているものはない。信長には、近代人的な知識もあるとともに、信念のみでは押しきれない難しい政治面の苦衷も充分味わっているので、光秀の才分は、よく彼を賞める秀吉以上熟知しているはずだった。
「そちは、築城学にも、精通しているとかねて聞いた。この任にあたるか」
「いや、御築城の奉行としては、それのみでは足りません」
「足らぬとは」
「築城は、建設です。やはり大きな戦と所存せねばなりません。物と、人力とを、あわせて最高に駆使するには。──ですから、やはり宿将中の重鎮たるおひとをもって、奉行とあそばすべきでしょう」
「たれがよい?」
「人の和、それが第一にござりますゆえ、丹羽どのなどは、適任かと存ぜられますが」
「五郎左か。よかろうな」
と、実は、信長の意中もそこにあったらしく、大きくうなずいて、
「ときに、これは蘭丸の献策じゃが、このたびの築城には、その構造の中心を、天守閣におこうと思う。──天守閣を築く是非はどうじゃ」
と、訊ねた。
光秀は、答えなかった。
眼のすみから蘭丸のすがたを見ていた。
「天守造りの可否をおたずねにございますか」
「そうだ。あるがよいか。ないがよいか」
「もちろん、あるべきにございましょう。威容の上からも」
「天守閣の様式にも、いろいろあろうな。そちは若年の頃、諸州をあるいて、築城にも詳しいと聞いておる。忌憚なくそちの構想を聞かせい」
「……浅学の私如きには」
光秀は、謙遜って、
「むしろ、そこにおられる蘭丸どのの方が、御精通でしょう。諸国遊歴中も、天守閣をそなえた城と申しては、ほんの二、三しか見ておりませぬし──それも至って幼稚な構造。蘭丸どのの御献策とあれば、かならずそれについて、お考えもあるでござりましょうゆえ」
と、何か憚るようにいった。
信長は、ふたりの細かい神経などは見くらべていなかった。無造作に、
「蘭丸」
「はい」
「そちも、光秀に劣らぬ勉学家だが、いつのまに、築城まで考究したの。天守閣の構造について、そちにはどんな案があるか。それとも、母の尼などの手から、図面とか資料とかを、他家の秘庫より借りうけてでもおるのではないか」
「…………」
「……なぜ答えぬ。蘭丸」
「お答えに窮しましたので」
「それは、いかなる理か」
「──蘭丸、赤面のほかございません」
と、かれは、心から恥じ入るように、両手のうえに面を伏せた。
「明智どのも、おひとが悪い。なんで蘭丸に、天守の構造などという創案がございましょう。──実を申せば、わたくしから殿のお耳に入れた儀も──里見、大内などの諸家の城には天守があるということも──いつか宿直の折、光秀どのから詳しく伺ったおはなしを、お伝えいたしたに過ぎません」
「では、そちの献策というわけではないのか」
「いちいち、これは誰の語ったことです、これは誰の言葉ですと、お断りするもうるそうございますゆえ、漫然と、殿の御参考までに、天守閣をお築きあってはいかがと、申しあげてみたのみでございました」
「そうか。ははは、そんな軽い意味だったのか」
「然るに、明智どのには、そう軽くおとり下さらず──何かわたくしが、他人の智をぬすんで、自分の功としたかの如く──私を憚っての今の御返辞は、ちと、心外に聞えました。……いつか宿直の折、光秀どの御自身のおことばでは、大内城、里見城などの天守の写し図も、角倉なにがしの墨縄の秘書なども、すべて、お手許に御秘蔵とか聞きました。それなのに、何を御遠慮あって、私ごとき若年者におたずねあれなどと──殿へお答えなされるか。蘭丸、まことに当惑いたしまする」
まだ童形をしている蘭丸なので、つい眼に騙されて子どもと見る。ところが、事実はもう立派な若者だし、ものいえば、戦国の策士、三国の謀士なども、三舎を避けるばかり、ことばの隅々まで、智慧がゆき届いている。
「そうか、光秀」
信長に、顔を見られて、かれはその面を、何気なく装っていられなかった。
「……はッ」
といったまま、あとのことばに詰まった。遥か、年下の蘭丸とはいえ、こころのうちで恨まずにいられない──。
なぜならば。
彼がわざと、築城に対する自分の意見をいわず、蘭丸こそ、その方面に造詣がふかいといったのは、信長の寵を知っているので、彼に花を持たせるべく、ひそかに好意を示したつもりだった。──いや、蘭丸に赤面させないように、苦心をしたつもりなのである。
もし、明らさまに、
(天守閣のことや、築城の知識は、みな自分が、宿直のつれづれに、蘭丸へはなしたことで、それを蘭丸自身の創意のように、殿へ御献策したなどとは、まことに片腹いたいことです)
と、いったら、どんなに蘭丸が赤面するか、また信長が苦りきるか。──そういう不快は避けるのが自分のためとも思って──人の感能を見ぬくに敏い彼だけに、婉曲に功を蘭丸へ贈ったのである。
ところが結果は、彼の考えていたのとは、まるで逆なものになって酬われた。いまさらこの童形の大人の意地わるさに背を寒うせずにいられなかった。
信長は、彼の窮しきったすがたを見て、ほぼ彼の心のうちも、察してくれたらしい。
突然、一笑を放って云った。
「惟任にも似げない小心。そのような儀、いずれでもよい。要は天守閣の絵図、墨縄の資料など、そちの手もとにあるのか、ないのか」
「実は、光秀の手もとに、少々ばかりはござりますが、それをもって足るほどには……」
「あらばよし。信長にしばらく貸しておけ」
「承知つかまつりました。すぐ取り寄せて、お手もとまで差出します」
光秀は、かりそめにも、主君に虚言をいったことを自責して、その問題はそれですんでいながら、自分だけは苦しげであった。
諸州の城の批評、世間ばなしなどに移って、信長の機嫌は決してわるくなかった。晩餐を賜わって、彼は何の不首尾もなく退った。尠なくも、不首尾ではなかった。
あくる朝、信長は、二条を出発した。──その朝、母の禅尼の部屋をたずねて、
「お支度はできましたか」
と、見舞った蘭丸は、忙しげにしている母のそばへ寄ってそっと囁いた。
「母うえ、あなた様が、諸方の仏院へ出入りして、お味方の軍機を、門徒方の僧へもらす惧れがあると殿へ告げたものは、たしかに光秀であると、弟の坊丸からも、ほかの側衆からも聞いていましたので、きのうは、惟任どのが出仕されたのを幸いに、いささか一矢を酬いておきました。……とかくわれわれ母子の者は、父がなく、そして殿の恩寵は人いちばい篤う受けておりますから、嫉まれるおそれがあります。どうか人にお心をゆるされぬように、母うえにもご注意あそばしませ」
妙光尼は、だまって頷いた。主君の寵があればある程、六人の子を擁して、人なかに生きてゆくことは、よほど気丈が要る。
彼女はいま、手ずから荷造りしている筥の底へ、一個の位牌をしまっていたが、ふたたびそれを両手に取り上げて、念仏を唱えながら額にあてて拝んでいた。
蘭丸たちの亡父、妙光尼の良人──森三左衛門の位牌であった。
安土の築城と、それをめぐる大規模な都市計画とは、翌天正四年の正月から直ちに着手されていた。
「図面を引いて按を練るは必要だが、戦下の建設、同じ図を描くならすぐ地上へ描け」
それにかかる会議など、ほとんど一度しか開かなかった。信長のその一言で、総奉行は丹羽五郎左衛門以下、協力の割当、役人、諸職の担当など、すべて一度で決ってしまった。
その結果、驚くべき人員が、土木に動員された。
まぎれなく、これも戦争だ。建設戦である。
「なんといっても、思い立ったら、胸のすくほど、物事のお決めのお迅い大将だ」
民衆は、その迅速を讃えた。庶民性は速度を好む。そういうところに熱情を寄せる。
何しろ、京都の帰りに、安土に列をとめて、信長がそこらの山や冬田や草原を一瞥していたのが、つい年暮のことだった。──と思うと、初春早々、湖を渡って来た大船は夥しい建築の資材を浜に積みあげ、一帆また一帆、船のつくたび上がって来る人員は、忽ち近郷の民衆を、廂の端まで埋めてしまうほどだった。
「来るわ来るわ。また来るわ」
閑そうな老人は、毎日、街道へ出て、長生きはするもの──といわぬばかり飽かない顔をして見物していた。
京、大坂はもちろん、遠くは西国から、また関東地方や北陸からも、各〻、弟子や職人を連れて来る工匠たちが、陸続とこの安土へ集まった。
総奉行丹羽長秀の下に、普請奉行として、木村治左衛門、大工棟梁として、岡部又右衛門、小細工方宮西遊左、金具彫刻は後藤平四郎、漆師は首刑部。
そのほか、鍛冶、石工、左官、錺師、経師などにいたるまで、天下の工人の代表的な親方はみな腕の競いどころと一門をすぐって来ていた。──そして内部の杉戸、襖、天井などの美術的意匠には、狩野永徳が選ばれ、永徳はひとり自己の画派に偏せず、各派の名匠と凝議して、畢生の傑作をここに画いて、久しい戦乱のため、沈衰の傾向にあった芸術の光芒をここに燦として示そうとした。
桑田は一夜に変じて、規格正しい道路となり、湖に臨む山のうえには、いつのまにかもう天守閣の骨組みができていた。
須弥三十三天を象って、その主天とし、以下四天王を一楼一楼に組み、その一つを多聞天の閣とよび、多聞櫓を築き出している。総五重層の楼である。
その下は大きな石蔵。
石蔵につづいて、大座敷。また無数の座敷。座敷の上に──或いは下に、なお座敷座敷の数は何百あるのか、また何階になっているのやらわからない。
墨梅の間、八景の間、雉子の間、唐子の間など、もう画工は不眠で描いているし、塵も嫌う漆師は、朱欄や黒壁を塗りながら、わき目をふらず、職域に没頭している。
瓦師は、帰化人の一観という唐人が担当していた。中国の焼法によるとかいう。その瓦焼の窯場は湖畔にあって、夜も昼も、松薪のけむりを揚げていた。
「……なるほど。織田どのの眼識はおひろい。このお城の構成を見ると、どこやらに南蛮の風を取り入れたらしい趣があると思えば、唐様のよいところもとり容れ、しかもそれをみな日本化しておられる」
しきりと、遠くからその結構に感心している僧侶があった。一見飄乎とした旅の坊さんでしかないが、眉骨隆く、口は大きく、どこか異相なところがある。
「恵瓊どのではないか」
そっと、うしろから、驚かぬ程に、背を叩いた者がある。彼方に屯している部将たちのうちから、ひとり抜けて来た秀吉であった。
「ほうッ……これは。……筑前どのでおわしたか」
僧は振向くなり仰山すぎるくらいな表情を示した。
秀吉も、陽気に和して、
「意外なところで」
と、もいちど、恵瓊の肩をたたき、そして懐かしそうな眼を細めた。
「ずいぶん久しいことでおざった。蜂須賀村の小六どのの宅で」
「そうそう、あの折、小六の宅に泊っておられた客僧どのが、あなたであった。──つい先頃、年の暮、二条のお館で、惟任どのからちらと、御入洛のうわさは聞いていたが」
「毛利殿のお使いに加わって、京都に逗留していました。お使者はすでに帰国されたが、急ぐ用とてない野僧の身軽さ、そこここと、洛中洛外の寺々を泊りあるいて、折ふしの御普請、国へのみやげ話にもと、ふと、立ち寄って、大きな感動に打たれておりましたわけで」
「貴僧も、御普請中でしょう」
秀吉の唐突なことばに、
「え。どこに」
恵瓊がすこし顔のいろを変えると、秀吉は笑って、
「いや、城廓の儀ではありません。──近年、御定住と聞く安芸国で、安国寺という伽藍を」
「ははは。伽藍のことで」
と、恵瓊も顔を解いて笑いながら、
「安国寺は、はや落成しました。いまはそこの住持、いちど折を見て、御遊歴下されば忝いが……あなたもすでに、長浜の御城主、お身軽には参りますまいな」
「いや、城持とはなりましたが、まだ金持とはなりませんから、身軽口軽は相かわらずです。蜂須賀の宅でお目にかかった頃より見て、これでもすこしは大人らしくなったでしょうか」
「いや、少しも、お変りはない。──羽柴どのもお若いが、織田どのの御中堅は、ほとんどみな壮年、御築城の壮観といい、そこに立たれている幕将方の意気といい、旭日の勢いとは、これをいうかと、最前から見恍れておりました」
「安国寺は、毛利輝元どのの御寄進でしょうが──毛利殿こそは西国の重鎮、かつ大国、富強の程度でも、人材でも、わが織田家の比ではありますまい」
恵瓊は、そういう話に触れたがらないように、天守閣の結構を賞めたり、城地の絶景を称えたりしていたが、やがて秀吉から、
「長浜も、ここからは、すぐ北の岸です。それがしの乗船もありますから、ふた夜泊りで、お遊びに参られぬか。──きょうは自分もお暇をいただいて、一度、長浜へ立ち帰るつもりですから」
と、誘われると、急に、それを別れの機にして、
「いや、いずれまた、いつかお訪ねしましょう。蜂須賀村の小六どのに──いや当時は彦右衛門といってあなたの幕下におられる由──あの仁にも、よろしくお告げくだされ」
と、彼方へ立ち去った。
見送っていると、街道すじの民家から、弟子僧らしいのが二人、師の影を見ると、あわててあとを追って行った。
堀尾茂助ひとりを連れて、秀吉は戦場のような工事場のほうへ足をすすめていた。彼は、この築城には加役程度で、責任のある役は割り当てられていなかったので、度々、早船で来てはまた長浜へ帰っていた。
「羽柴どの、羽柴どの」
呼ぶ声がする。──見ると、蘭丸がきれいな歯並を唇もとに笑みこぼしながら、駈け寄って来た。
「やあ。於蘭どのか。殿には、どこにおられますか」
「今朝から天守でおさしずでしたが、今し方、お退りあって、桑実寺で御休息中です」
「では、それへ参ろう」
「羽柴どの。いま彼方で、あなたと親しげに語っていた僧は、安国寺恵瓊とか申す人相をよく観るひとではありませんか」
蘭丸は、何かそれに、興味をもっているらしい口吻でたずねた。
「左様。たれやらにも、そんなはなしを聞いたことがあるが、観相などというものは、中るやら、中らぬものやら」
秀吉は大して興もない顔していう。──しかし、蘭丸の性格と君側にあるその位置には、充分な認識をもっている彼のこととて、わざと、掴みどころなくしているのかもしれなかった。
蘭丸も蘭丸である。
彼が光秀に対しているときなどから見ると、秀吉にむかっては、ものをいうにも、何の警戒らしさを示していない。
与し易し──とも観ていないであろうが、時折、飄逸をあらわしたり、馬鹿を見せたりするので、交際いい男としているのは事実である。
「いや、観相というものは、中りますよ。わたくしの母などは、よく申します。亡父の三左衛門も、討死する以前、或る人相観に、それとなく予言をうけていたそうでした。……で、わたくしも実は、恵瓊どののような名人のことばなので、少々、気にかけておることがあるのですが」
「最前の恵瓊に、人相でも観てもらったのでおざるか」
「いえいえ、この蘭丸の儀ではありません。少々、他言を憚りますが……」
と、道の前後を見まわして、
「──惟任どののことです」
「ほ。明智どのが、どうしたというので?」
「あのお方の相貌には、主君をも冒しかねない叛骨が窺われると……非常な凶相だと申しおりましたそうです」
「たれが」
「安国寺恵瓊どのが」
「そう見れば、そう見えるかもしれませんな。惟任どのの人相に限らず」
「いや、ほんとに、申したそうです」
秀吉はにやにや聞いていた。よく一部の人々は、この蘭丸をひどく警戒して、辛辣な謀士のごとくいっているものもあるが──こう開放してはなしていると、やはり年齢は年齢だけで、まだまだ乳臭児という感じがはっきりする。彼にはするのだった。
秀吉がよい程に、あしらっていると、むきになって、その容易ならぬことを、軽々にいうので、
「いったい、左様なことを、何者から聞きましたか」
と、たずねてみた。
すると、蘭丸は言下に、
「朝山日乗どのから」
と、打ち明けた。
ははあ──と、彼はうなずき顔に、なお、
「日乗どのが、お身へ直かにいったことばでおざるまい。──まだ誰か、それを間で伝えたものがありましょう。当ててみますかな」
「当ててごらんなされ」
「あなたの母御、妙光尼どのでおざろうが」
「どうして分りましたか」
「はははは」
「はて。どうして、それがお分りであろう」
「妙光禅尼には、もとからそういうものをお信じでしょう。いやお好きといった方がよいかもしれぬ。また、朝山日乗どのともお親しい。それゆえ、およそ察したのでおざる。──だが、秀吉にいわせれば、恵瓊は、人相を観る以上、敵国の国相を観るのが巧みなようでござる」
「……国相?」
「人の相を人相といえるなら、国の相を国相といってもいいでしょう。恵瓊はそれを観る達人と見てとりました。──かならず、あのような者を、近づけてはなりません。彼は、僧形でこそあれ、毛利輝元の政略にも参与しておる人物です。……蘭丸どの、どうじゃ、それがしの方が、はるかに人相観の上手であろうが、はははは」
いつか桑実寺の山門がそこに見える。ふたりは低い石段を、なお何か笑い合いながら登っていた。
目に見えて、城の工は、捗ってゆく。
そして、二月末には、信長はもう岐阜を引き払って、移転して来た。
これには、普請奉行の丹羽長秀も、狼狽して、
「まだ、お移りは御無理です。御本丸の壁も乾きません。諸職人も大勢立ち入っておりまするし、その中へ、お座所をすえては」
と、信長へ訴えると、信長は無造作に、
「いや、起居のできるようになるまで、佐久間信盛のやしきに待っておる。なるべく早くせい」
と、手近な茶道具だけを携えて、臣下の邸へ、同居しているという始末だった。
「ずいぶんな御難題」
と、諸役人は、彼の短気にあきれたが、無理は無理でも、それがまた、工事の進捗へ、拍車をかけた。
城も城であるが、より以上、信長の性急な移転で、目ざましく促進されたのは、新しい城下町の勃興だった。
まだ、ろくに屋並も揃わないうちに、信長は、馬市を立てさせ、他国の相場以上に、どしどし名駿を買い上げた。
そして、宰領たちへ、
「以後、馬市の開催は、安土をもって、定例の土地とする」
と令し、他の都市ですることを、彼の勢力圏内においては、厳禁した。
「安土は将来、途方もない大城下になるぞ」
そう見込んで、諸国の商家は、移住して来た。
「早いが得」
と、地割の良い土地を争って、忽ちのうちに、ここに集まる民家は何千戸にのぼり、やがて信長が、城中の本丸へはいった頃には、すでに一万戸以上の町屋が、日々、生業の繁昌を謳歌していた。
岐阜の家督は、一子信忠に譲った。
信忠も、はや二十歳である。かれにも一城を持たせなければならない時期へ来ている。安土への進出は、そういう意味でも、織田一門の繁栄を加えた。
だが。
築城上からも、一新紀元を劃すような、天下無比の堅城が、この要地に、巍然として聳え立ったとき、その軍事的価値に、もっとも大きな関心をいだいたものは、石山本願寺であり、また中国の毛利輝元であり、北越の上杉謙信などであった。
わけて、謙信は、
「安土は、越後から京都の道を遮断した」
と、すら考えた。
謙信の意図も、もちろん中央にある。
時さえ得れば、直ちにも、越山をこえて、湖北に出、一挙、中原に旗をたてようと志しているのである。
当然、謙信としては、安からぬ思いがしたろう。
ところへ、久しく、消息のたえていた前将軍の足利義昭が、こまごまと密書のうちに、近況を知らして来た。
それには、
(安土の城廓は、外見だけはあらましできたようなものの、実体内容までの完成には、すくなくもまだ二年半はかかる。あれが完成しては、もはや越後と京都の道はないといっていい。討つならいまが絶好の機)
と、けしかけ、さらに、
(──自分はその後、諸国をめぐって、あらゆる反信長圏の連繋に成功した。中国の毛利どのもこれに加盟した。あとは、多年の宿望たる相模の北条、甲斐の武田、越後の御当家──こう三国一和の包囲圏を結成することにある。それにはまず貴国が盟主としてまっ先に奮い起ってくれなければ成就の見込みはない)
などと誌し、亡命しても相かわらず、策謀趣味を捨てない義昭の本領を遺憾なくあらわしていた。
「この雀、百まで踊るつもりか」
と、謙信は、苦笑をもらした。その策にのるほど、彼は甘い大将ではない。
天正四年から五年の夏へかけて、謙信の兵馬は加賀、能登方面にうごいて、しきりと織田の境を脅かした。
救援軍は、近江から電馳して向った。柴田勝家を大将として、滝川、羽柴、丹羽、佐々、前田などの諸部隊が続々向った。
手取川、打越、安宅などいたる処の敵を追い、また敵の援護となる部落を焼きたてて、金津の先まで進出したときである。
「謙信の陣より、鬼小島弥太郎というもの、使者として、御陣地へ近づき参り、この一書を、織田どのの直覧に入れられよと、高らかに申し入れて、すぐ立ち去りましてござりますが」
と、その日、ひとりの旗本は、二重三重に陣幕を張りめぐらしてある本営の枢要部に、一通の書面を取次いで来た。
味方すら知らない者が多かったが──実はこの陣中には、信長もひそかに来ていたのである。
信長は、驚いた。どうして自分の在陣が、敵へ洩れていたろうかと。
「まさしく謙信の直筆にちがいないが」
自身、封をひらいた。
文面には、
──久しく御高名は伺っておるが、まだ拝姿のときなきを恨みと存じていたに、遠路お立ち越えはまたなき好機です。それをむなしく、乱軍の中にかけちがっては、おたがいにまたいつか知れぬ日まで、この天縁をうらまねば相成らぬ。
ついては、明日の卯の刻を一戦と定め、金津川までお出合いのうえ、謙信をさしまねきあれ。謙信も呼ばわり申さん。
諸事、拝面の上一決。
と、ある。
いわゆる決戦状であった。
「使者の鬼小島とやらは、いかがしたか」
「すぐ立ち帰りました。御返事には及ばぬ由で」
「そうか」
信長は戦慄をかくせなかった。
その夜のうち、彼は急に、陣払いをふれ出して遠く退いてしまった。
謙信はあとで大いに笑ったということである。
「さすがは信長かな、もしあのまま居据っていたら、次の日には、ことごとくわが馬蹄にかけて、信長へ見参とともに、川へ斬りすててくれたものを」
しかし、信長もまた、一部の兵と共に、さっさと安土へ帰って来て、謙信の古風な果し状を思い出しながら、にやにや笑っていたという。
「川中島へ信玄を誘き出したのもあの手であろう。何しろ精悍な人だとみえる。彼が自慢の小豆長光の長剣をわしは眼で見たいなどとはゆめ思わない。──惜しむらくは謙信も、緋おどし金小貫など、源平武者の華やかなりし時代に生れなかったことだ。……すでに安土の城を築く職人どもの技術にさえ、南蛮美術や支那交趾などのあらゆる手法が取り入れられていることを何と観るか。あわれ彼も地方的な一英雄に過ぎぬとみえる。武器、戦術、その他の文化、すべてここ十年を境として異って来ているのに──何で戦術が変らずにいよう。彼は信長の退陣を卑怯と笑っているだろうが、信長は彼の時代認識が、工匠や職人どもにも劣っていることを笑わざるを得ない」
聞く者は、大いに学んだ。
けれど、時代を観るということは、訓えられつつなかなか学び得ないものがある。
魚に河を見ろ──といっても、急に、魚が陸に立てないように。
それはともかく、信長が帰ったあと、北陸陣に、何か一事件が起ったらしい。主将の柴田勝家と羽柴秀吉との間にである。
原因はよくわからないが、何か作戦上のことで、柴田と羽柴とが、争論を醸したらしい。
そのあげく、秀吉は自分の手勢をまとめて、随意に長浜へ帰ってしまった。
羽柴筑前事、御届ケニモ及バズ、勝手ニ帰陣仕リ候段、言語道断ノ曲事、屹度御折檻被下可キ様──
と、信長の手もとへは、早くも勝家のほうから訴えるところがあった。
秀吉のほうからは、何もいって来ていない。
信長は、彼にも理由のあることかも知れぬと、北陸陣の諸将が帰るのを待ってから裁くつもりでいたが、
「柴田どのの御立腹はひと通りではない」
とか、
「筑前どのも、ちと短気だ。陣中から引き揚げてしまうなどは。……あれでは、大将たるものの顔も立つまい」
などという風聞もしきりに聞えて来るので、
「事実、筑前は、長浜へ帰っておるのか」
と、侍臣をして調べさせたところ、
「されば至極、洒然として、長浜においでの由でございます」
と、いうことだった。
信長は、逆鱗して、
「不届きな振舞い、ともあれ、謹慎申しつけい」
と、厳重な使者をやった。
やがて、帰って来た使者に、
「秀吉は、どんな顔しておったか、予の問責を聞いて」
「ははあ……というような顔しておりました」
「それだけか」
「当分、静養か、とつぶやいておりました」
「不敵なやつ。増長しおる」
最高な辞をもって、罵りながら、信長の眉には、まだ少しも、秀吉を真から憎んでいるような色は出ていなかった。
けれど。
やがて、勝家以下、北征の諸将も帰って来た頃、彼も、ほんとに怒った。
さきに、幽閉を申しつけてあるのに、その秀吉は、長浜城にあって、謹慎どころか、日夜、飲酒高会し、或る夜のごときは、大湖にのぞむ大広間をあけひろげ、千燭を燦かして、小姓たちには金扇銀扇をもたせて舞い競わせ、自分も鼓を打ったりなどしている様子が──漁る湖上の舟や往来の帆船からも手にとる如くわかるような騒ぎだったというのである。
これで怒らぬはずはない。
悪くすれば切腹。よくいっても安土へ召されて軍法会議にまわされるだろう。
たれしも、信長の嚇怒を、そう推察していた。
けれど、いつの間にか、信長は忘れたように、そのことを口にもしなかった。
ただ、憂いたのは、前田又左衛門とか池田とか、日頃、秀吉とは心からゆるし合っている親友たちである。
一日、ひそかに長浜へ行って、秀吉に会い、
「ばかもいい加減にし給え」
と、友を愛するの余り、泣かんばかり叱った。
すると秀吉は、
「いや、ありがたい。心配をかけてすまなかった。……だが、もし自分が、柴田と反争したまま、また主君のお叱りをうけたまま、この城門をしめこんで、陰々滅々と、鳴りをひそめているとしたら──。どうだな。秀吉は閉門の命に恨んでおる、やがて逆意をいだくかもしれぬなどと、よしや殿はお思い遊ばさなくても、うるさい虫が、そこここの草叢ですだき出すだろう。おれの飲酒高会は、そういう陰性の策謀を追い払う禁厭だよ。……あははは。どうだ、ところで楼上へあがって、一杯やろうか」
と、いって、また、からからと哄笑した。
この頃、良人の秀吉は、すこし寝坊癖がついたらしい。
朝な朝な、寧子が良人の顔を見るのは、いつも陽が高くなってからである。
老母も、時折、
「近ごろ、あの子は、どうぞしているのではないか」
などと心配そうに、寧子へたずねた。
寧子も、そのたび、返辞に困った。
寝坊の原因は、毎晩のように、酒をすごすからである。奥で、家庭的に飲むときは、小さな杯で四、五杯ものむと、すぐ真っ赤になって、飯をいそぐ良人も、家臣の猛者をあつめて賑わい立つと、夜の更けるのも忘れて飲む。
そのあげくは、うたた寝してしまったり、小姓部屋の中で、小姓たちと共に寝てしまったり──。また、或る夜のごときは、何かのことで、彼女がふと大廊下を伝わって来ると、松の丸のほうへ通う橋廊下のうえを、ひとりの男がのそのそと渡りかけてゆく。
どうも、良人の影に似ているので、彼女が作り声を出して、
「これこれ。そこを渡るは何者じゃ」
と、呼びかけると、
「これは」
と、驚いて振向いた良人は、小舞を舞うような恰好して、狼狽をかくしながら、
「ここは小橋か大橋か、道にまようた者でおざる」
と、よろめいて来て、妻の背中につかまった。
「ああ酔うた。寧子、負うて行ってくれい。歩けん、歩けん」
横着な良人のてれかくしに、寧子は思わずふき出したが、わざと意地わるく、
「はいはい、負うて進ぜますが、してまた、あなた様のお行き先はどちらですか」
と、訊いた。
すると、秀吉も背中で、くつくつ笑い出して、
「そもじ様まで。そもじ様のお宿まで」
と、子どもみたいに、足を浮かせた。
「ホ、ホ、ホ」
「ホホホホ」
うしろには、大勢の侍女たちが、手燭を持って、この夫婦のさまを見ているのである。
寧子は、重たげに、背をめぐらして、
「のう、みな達、このような酒穢い旅人をひろい帰って、どこへ置いたものであろうぞ」
と、その群れへも戯れた。
侍女たちは、おかしさに、もうお腹をかかえたり、涙をこぼしたりして、いつまでも笑いが止まらなかった。
そして、長浜祭りの花車のように、この拾いものを囲んで、その夜ばかりは、寧子の部屋で、遊び更かした。
稀れにはそんなこともあるが──多くは、朝、難しい良人の顔を見るのが妻の役目のようであった。
男の肚のそこには、いったい何が潜んでいるやら?
連れ添ってからもう十六、七年にはなる。寧子も三十をこえ、良人はことし四十二。
彼女も今では、朝々の良人の苦い顔つきにも、単なる不機嫌とばかりには、受け取れない──安んじきれない年頃の──いわゆる世話女房となっていた。
その不機嫌にも、怖れると共に、もっと痛切に妻として希うことは、どうかして、良人の悩みを、少しでも分け持って、その苦悩をいささかなりと慰めてあげたいということだった。
けれど、男性の表現は、妻から見ると、全くつかみどころがなかった。いかなる不満がその裡にあるのやら、どんな苦悩が肚の底に横たわっているのやら、言葉や表現で説明はしてくれないのである。──こんな時に、そうした良人の力とも相談相手ともなれないことも、妻にとっては、男の悩みに勝る悩みでもあった。
時には大へん上機嫌なこともあるが、時には、腫れ物に触るような気づかいをさせられる日もある。そういう点は秀吉も、世間の良人とすこしも変りがない。
「御無理な」
と、寧子も、世間なみの妻のように、余りな良人のわがままや薄情らしい仕打ちに、つい、恨みがましい涙を見せたりすると、女の涙には至って弱い秀吉なので、
「こういう無理もわがままも、そもじなればこそするのではないか。そもじにはどうしてもいいと自分でゆるしているからこそ、渋い顔をしたいときは渋い顔をする。怒りたいときも怒り顔をつつまず見せる。──それが嫌なら、もっと、他人他人しくいたそうか」
などと巧く諭してしまう。
そういわれると、寧子も、女は他愛ないものと思いながらも──
「ずけずけと、怒って見せるのも、妻なればこそ。無理をいうのも、自分を妻と思っていればこそ」
と却って、良人のそうした仕方を、歓びとして、はらはらしたりするのであった。
けれど、こんどの不機嫌はすこし長い。北陸陣から帰って以来である。柴田勝家とはよほどなにか感情的に衝突をして来たらしい。そのため、主君の信長の怒りをかい、勘気をこうむっているとのことに──彼女も老母もうすうす胸をいためぬいてはいるが、女の力ではせん術もなし、また、秀吉に訊いてみたところで、
「心配せんでもよい」
と、いうだけにきまっている。
で──秀吉が無二の者としている竹中半兵衛に、陰へまわって、そっと事情をただしてみたこともあるが、その半兵衛までが、
「何の仔細もございませぬ。決してお気づかい遊ばしますな」
とのみで、内容のことも、安土の主君の首尾についても、少しも語ってくれないのである。
こういう時、秀吉の母というひとは、寧子にとって、またなき良いお姑であった。良人に代って、自分が一切の世話をして侍くひとであるが、却って彼女が老母のふところに抱かれて安らぐような日が多いのである。
今朝も、老母は、朝早く、
「寧子よ。まだ殿のお目ざめには間があろう。そのあいだに、畑の茄子でももいでおこうかの。茄子もはや秋生りの終りごろである。──籠を持って来やい」
と、誘って、まだ露のふかい、北曲輪の菜園へ出て行くのだった。
清洲に住んでも、洲股にいる頃でも、老母は鍬を離さなかった。ここへ来ても同じである。鍬をもって菜園に出ているときが、この老母にとっていちばん幸福な時のようにさえ見られた。
庭園も広いし、空地も多いが、もとより老母と寧子と、二、三の侍女のすることなので、その耕地はいくらの面積でもないが──でも時折、
「これは、母上様のお作りになったお菜でござりまする」
と、寧子が手ずから一椀の汁に入れて良人の食膳に供する青味ともなり、時には、田楽にした茄子の新鮮さを、秀吉から賞めてもらえる欣しさにはなるのであった。
老母は、それをもって、秀吉を教訓しようなどとは、ゆめ、考えてしているのではないが、秀吉は、時折に、そうした母の丹精を食膳に見せられると、
(……勿体ない)
と、感じるらしく、また、中村の貧農時代を、必然、思い出すらしく、一箸の汁の菜、一片の田楽焼の茄子にも、心をあらためて、賞味するのがつねであった。
「……寧子よ、ことしは、いつまで残暑のつづくせいか、まだ茄子の花が、尽きもやらで、たくさんに咲くことよ。これではまだまだ、小さいのが、幾朝も採れそうじゃの」
老母は、茄子をもぎ始める。寧子は一つの籠を満たして、またべつな籠を持った。何もかも忘れ果てて。
すると、うしろから、
「やあ、母上。寧子もここか」
と、この頃にはめずらしく早起きした良人が声をかけて来た。
「ぞんじませんでした。おゆるし下さいませ。お目ざめとも気づかずに」
寧子が詫びると、
「いや何、にわかに、刎ね起きたので、小姓どもすら、あわてておる」
と、秀吉は、これも近来になく晴々とした顔で──
「物見の者が申すには、安土の方から、お使番の小旗を立てた軽舸が、まっすぐに、此方へ急いで来るという。いま、竹中半兵衛がそう告げて来たゆえ、やにわに起き出て、まず、城中の御社へ詣で、ここ数十日の懈怠をおわび致して来た」
すると、彼の母は、
「ほう、神さまへ、お詫びをして来ましたか」
と、子の顔を見まもって、微笑んだ。
秀吉は、大真面目に、
「されば。──そしてその次には、母上にお詫びをし、女房どのにも、少しばかり、あやまろうかと存じまして」
「わざわざこれまでお越しとな……」
「はい。──という秀吉の気もちをお汲み下されたら、もう形をとって、お詫びするには及びますまい」
「この子の、狡さよ」
と、老母は、無性に笑い出して、
「わしはよいが、寧子には、真似事ほどでも、すまなんだと、いうてやってはどうかの」
「滅相もない」
と、寧子はあわてて、
「……どうしましょう、そんなことをしていただいたら」
と、ほん気になって拒んだ。
もとより家庭的な戯れにすぎない。けれど老母は、どうして秀吉が、急にそんなことをいい出して、いつにない快活な顔をここへ見せに来たか、多分に疑っていたが、まもなくその理由はすぐ解けた。
小姓頭の堀尾茂助が来て、
「ただ今、御城門へ、安土からのお使いとして、前田又左衛門様、野々村三十郎様、おふた方、お渡りでございまする。──御上使とのこと、すぐ彦右衛門どの、御案内に出られて、客殿までお請じ申しあげておりまするが」
と、遠くに、ひざまずいて、茄子畑の主君に告げた。
「そうか。然るべく、おもてなし申しておけ」
秀吉は、そういって、取次を帰すと、母と共に、茄子をもぎ始めた。
「なかなかよく実っておりますな。畝の肥も、母上がお手ずからおやりになりましたか」
「そのようなこと、いずれでもよい。信長様からのお使いとあるに、早うお目にかからねば悪かろう」
「いえ。およそお使者の旨は、分っておりますから、あわてるには及びません。……少し茄子を捥いで、朝露の艶やかな瑠璃色を、信長公のお目にかけようかと存じまして」
「このような物を、何でお使者の土産づとに」
「いえいえ、今朝ほどは、自分が持参いたすので」
「え。そなたが」
勘気をうけて謹慎中にある者が──と、老母は、なお今朝の秀吉を疑い、むしろ思い過して、不安をすらおぼえた。
すると、やがてまた。
「殿。……お越しを」
と、竹中半兵衛が、彼を促しに来た。秀吉はようやく、茄子畑を立って、
「では、母上にも、どうぞ毎日を、今朝のごとく、お健やかにお暮しくださいますように。……寧子も、またしばらくの留守を、たのむぞ、たのむぞ」
庭へ移って、筧の水で手を洗い、本丸の一室へはいったかと思うと、忽ち、衣服をあらため、小姓、二、三名をうしろに、書院のほうへ濶歩してゆく彼の小がらな姿が、大廊下いっぱいに映している秋の朝陽を横ぎっていた。
主君の使者、いうまでもなく上使である。
衣服をあらため、礼を正し、つつしんで旨をうけたこと、当然であろう。
吉事か? 凶か?
それは、菜園にのこされた老母と寧子だけの杞憂にすぎない。
あらかじめ、上使の内容は、前の夜にでも、秀吉へは、そっと齎されていたらしいのである。なぜならば正使として来た前田又左衛門利家とは、むかしから刎頸の友ではあるし、ここ月余にわたる主君の勘気にたいしても、秀吉のために、彼がもっとも取り做していたといわれるし、心配しぬいていたことも事実である。
「──では」
と事終って、使者、秀吉、肩をならべて、客書院からいま出て来た。
主君の代理という厳めしさをとりのぞくと、又左衛門は、日頃の友にかえって、
「よいのか、筑前」
「なにが」
「お支度は」
「このままで苦しゅうないが、まあ待て。茶なと一つ、別室で」
と、誘って、共に坐し、
「彦右衛門、彦右衛門」
と、呼ぶ。
蜂須賀彦右衛門が、それへ来て用向きをうかがうと、
「にわかに、安土へ参る。又左衛門に伴われてじゃ。──留守をたのむぞ」
「おこころ安う……」
「そちさえおれば、安心しておる。都合によっては、ちと長うなるやも知れぬ。たのむぞ」
「かしこまりました」
「それから……わしが出たあとでよろしい。母上と寧子にも、その由を伝え、また、秀吉の命じられておった謹慎も、今日かぎりゆるすとの、信長公の恩命であると、おはなし申しあげておいてくれい」
「おめでとう存じまする」
「いや、まだめでたいか、めでたくないか、ほんとには分らぬ。わしは争わぬ主義の男だ。少なくも上席の幕僚などとは。──けれど争うがよしとかたく信じるほどな理由があればこそ、勝家と争った。もし、それを汲みたまわず、御主君がただあいまいに柴田へ謝罪せよなどとお叱責あるにおいては、或いは、もう一度帰城いたして、謹慎をつづけるやもはかりがたい」
茶道衆が、茶ぶくさに、茶碗をのせて、客にすすめる。秀吉の前にもやがて運ばれる。又左衛門は、相かわらずのがぶ呑みだったが、秀吉の掌に乗った茶碗は、だいぶ秀吉とよく馴じんでいる。礼をしてのむ、また置く、すこし作法が身についている。
(いつのまにか、習っておるな。信長公のお相手ぐらいはもうできる)
又左衛門は、眺めて苦笑する。秀吉は、すぐ、
「半兵衛を、これへ」
と、退ってゆく彦右衛門へ、ついでに命じた。
竹中半兵衛の顔を見ると、
「──委細は、夜前、申しおいた通りである。合図次第、よきように」
と、何か言外に云いふくめた。
静かに──半兵衛は辞儀したまま、
「諸事、お気づかいなく」
と、答えた。
すべての用は終った顔して、
「それでは、参ろうか」
と、前田、野々村のふたりを促して、一緒に、城門を出た。
ひどく、身軽である。ついそこらまで、歩きに行くのかと思われる程だった。
「そうそう、忘れた。──安土へのおみやげを」
と、秀吉は急に、足を止めて、見送りについて来た家士に、茄子の籠を取りにやった。やがて、駈け戻って来た家士の渡した籠の茄子には蕗の葉がかぶせてあった。そしてその下の紫には、まだいっぱいに露があった。
それを携えて、秀吉は、湖岸から使者の軽舸に乗った。
新興城下町の安土は、まだ一年ともならないのに、区画整然と、その三分の一は出来て、もう繁昌を極めていた。
ここに泊る旅客はみな、
「安土景気だな」
と、その勃興ぶりに眼をみはった。
往還の商人や旅客は、いやでも安土で一泊したくなるように、あらゆる運輸の便宜と、経済の利と、旅情をなぐさめる慰楽の設けを、ここだけに許してある。
湖岸には、荷船や渡船の便に施設して、さながら小さい港場の景を呈していた。──前田又左衛門らと秀吉とは、そこから上がって、町奉行の福富平左衛門の小屋ですこし休み、まだ明るいうちに登城した。
銀砂をしきつめた大手の坂道も、巨石を組んだ石段も、塗りの多門も、金鋲の金具も、すべてが眩いほど新しい。
眩いといえば、五層閣の天守は、湖上から見ても、街道から仰いでも、また城中へ来てすぐその下に佇んでみても──壮麗豪宕、言語に絶していた。無条件に眼をうばい、人を慴伏させる姿をそれは巍然と備えているのである。
「筑前。──来たか」
信長の声は、金碧や丹青の燦くうちにただ一つある墨絵の一室──狩野永徳が画くところという遠寺晩鐘図の襖をめぐらした部屋の上段から大きく聞えた。
「はい。……秀吉、お使いをたまわりまして、これまで参りました」
彼はまだ、ずっと、遠くにいた。──次の間に、手をつかえて。
又左衛門だけが、君前に進んで、
「おことばを伝えて、召しつれました」
と、報告した。
信長の声は、たいへん響きがいい。上機嫌な証拠である。久しぶりに、秀吉のすがたを見、やはり欣しいのであった。
「筑前、聞いたであろう。折檻はゆるしおく。……はいれ。ずっとすすむがよい」
「ありがとう存じます」
秀吉は、茄子の籠をもって、次の間からにじり入った。
信長は、怪しんで、
「なんじゃ、その品は」
「おそれながら──」
と、秀吉はつつしんで、彼の前に、茄子を献じていった。
「わたくしの老母と妻とが、城内の菜園で作った茄子にござります」
「茄子か。……ほう?」
「異な土産物と、おわらいでございましょうが、軽舸で持ちまいれば露のひぬまにお目にかけられようかと、わざと、畑から捥いで持参いたしました」
「筑前。そちが予へ見せようとするのは、茄子ではあるまい、干ぬ間の露でもあるまい。……そも、何を信長に味わえというのか」
「御推量くださいまし。……不肖秀吉は、多少の功はありとはいえ、一匹夫よりお取り立てをたまわって長浜の地に二十二万石を戴く身となっております。しかも、自分の老母は、いまもって、老いの手に鍬を持ち、菜に水をそそぎ、瓜や茄子に肥をやることを怠りません。……不肖の子が、ひそかにその心を酌むに、こうであろうと思うのです。──匹夫の出世ほど危ういものはないぞ。ひとのそねみ、あげつらい、みな己れが慢心すればこそなれ。汝は、中村のむかしを忘るるなよ、主君の御恩を忘却いたすまいぞ。……それを無言に訓えての業と、常々、伏し拝んでおる次第でございます」
「……む。む」
「そうした母を持ち、母の訓えを護符とする子が、なんで、主君のお不為を陣中で策しましょうや。……たとえ上将に対し、異議論争を云いたてましょうとも、胸に二心はありません」
──すると信長の側で、
「いや、よいお土産かな。その茄子、あとでぜひ御馳走に相成ろう」
と、膝を打って云った客がある。
そこに一人の客がいたかと、それによって初めて気づいたくらい、至って風采の揚らない小男である。
年ごろは三十三、四。
唇の大きいのは、意志の強さを示している。眉骨は隆く、鼻ばしらは太い。野性というか、壮気というか、何しろ旺んな生命を内に蔵していることは赭黒い皮膚の光沢や眼の光でもわかる。
「ははは。秀吉の母が手作りの茄子、官兵衛にも御意に召したか。信長もめでとう思う。料理させて、後刻の一献に供えよう」
信長は、そういってから、あらためて客を秀吉に紹介した。
「これにおるは、播州の小寺政職が家老、黒田職隆が子にあたる官兵衛孝高である。──そちはまだ初めてであろう。ごあいさつせい」
秀吉は、そう聞くと、思わず眼をみはった。
名は絶えず聞いているのである。また、その書簡などもしばしば見ている人である。
「おう、あなたが、黒田官兵衛どのでしたか? ……。さりとは」
「其許が、つねに聞き及ぶ、筑前どのか」
「いつも書簡の上では」
「いや、そのせいか、初めての御見とも覚え申さん」
「いや。それがしも、そんな気がする。だが、未見の友と、初対面の場で、君公へ御勘気のお詫びなど、面目ないところをお目にかけたな。お笑いあれ、筑前とは、かくの如く、よく主君から叱られてばかりおる男でござる」
と、いって、何事も一掃してしまうような声で、秀吉は、
「ははは。あははは」
と、哄笑した。
信長もしんから笑った。さしておかしくないことでも、秀吉に対しては、肚のそこから笑えるのだった。
到来の茄子は、さっそく調理され、やがてべつの部屋で、黒田官兵衛をも加えて酒宴となった。
官兵衛は、秀吉よりも、九つも年下だが、時流を観察し、天下を掌中に語る胆識は、秀吉に劣らないものがあった。
彼は、播州の一勢力家の下風にある一被官の子にすぎないが、姫路の小城一つを擁して、早くから大志を抱き──しかも時勢の帰趨を見ぬいて──中国にありながらただ一人、早くも信長にむかって中国征覇の急要を、ひそかに献策して来た人物だった。
中国にはもとより毛利という大勢力がある。毛利を繞る衛星としては、播州に赤松、別所があり、南部中国には宇喜多、北部の波多野一族などあって、その勢力圏は、安芸、周防、長門、備後、備中、美作、出雲、伯耆、隠岐、因幡、但馬──など約十二ヵ国にまたがっている。
その中に住みながら、その周囲の事大主義にとらわれず、大局から観て、
(天下はこう趨く)
と、早くから卓見をもって、ひとり信長に働きかけて来た黒田官兵衛というものは、けだしそれだけでも凡物ではない。よほど傑出していた具眼者といっていい。
英雄英雄を知るというか、一会の座談は、秀吉と官兵衛とを、百年の知己のように、ふかく結んだ。
また、信長はその席で、
「さだめし、そちの髀肉も、だいぶ肥えたであろう。即刻、信貴山におる信忠の加勢に赴け。──こんどは陣中で喧嘩などすな」
と、いった。
「ありがとう存じます」
秀吉は、勇躍して退った。──信貴山城の松永久秀は、先頃から叛旗をひるがえし、信長の嫡子信忠、佐久間、明智、丹羽、筒井、細川などの諸軍はことごとく北陸から転じて、一斉に彼を攻めつつあるところだった。
いまは勘気もゆるされた。
いや単に怒りを解いたのみでなく、信長の心を、より以上、信じさせたのだ。さりとて秀吉の今日のことばは、一片の阿諛や機智では決してない。かれは飽くまで、
(あとは精かぎり働いて、事実にそれを知らせるのみ)
と、独り胸に誓っていた。
信貴山城の要害は、わずか七日で陥ちてしまった。
こう脆く陥ちたのは、松永久秀の密使が、大坂の本願寺へ援軍をたのみに行く途中、まちがって寄手の佐久間信盛の陣へまぎれこみ、手もなく、捕まってしまったことが、一因である。
信盛は、総大将の信忠と、ひそかに計って、二百余人の僧兵部隊をつくり、
「加勢に馳せつけた」
と号して、信貴山の城へ、巧みに駈け込ませたのである。
総攻撃の日となるや、その埋兵二百余が、城内からも火を放って、暴れ出したのであるから、陥ちたのは当然だった。
いつでも陥ちることが分っていながら、それまで二、三日猶予していたのは、久秀が内々秘蔵の「平蜘蛛の釜」があったからである。かねがね信長が垂涎してやまない名作と聞いていた。
で、信盛から城内へ、
「はや、御滅亡は見えておる。人寿天運、ぜひなきところ。しかし名匠の作は、流玩転賞が原則である。可惜、兵火の犠牲になすべきではあるまい。いさぎよく、信長公へお譲りあるこそ、武門のゆかしさと申すものではあるまいか」
と、譲渡の交渉をしていたものであった。
久秀は六十八歳にもなっていたが、むかしから貨殖の才に長け、老いても物質に、執着のつよい人だった。利害の打算にかけて利なりとすれば、過去の履歴が示しているとおり、将軍を殺め、主人の子をも害し、また主家の三好を滅ぼしたり、その夫人を奪ったり、大仏殿を焼いたりなど──これはできないという良心の躊躇すらない漢である。だから、彼の領下の民さえ、
(強悪様のしわん坊)
と、つねに陰口にささやいている程だった。
その彼が、なんで素直に、平蜘蛛の釜を、敵方へ譲ろう。
釜どころか、今は、彼がその強悪と大慾をもって、生涯につくり溜めた「物」の全部も──また最後のいのちをすら失いかけているのであるが、頑然と、
「嫌だ。渡さぬ」
と、断った。
その断り方も彼らしい。
「さきに、信長に、つくもがみの茶入れをねだられて、茶入れは取られたが、久秀の首と、平蜘蛛の釜だけは、信長の眼にも供えぬ」
と、豪語して交渉を蹴った。そしてその通り、落城の日は、自分の首も、平蜘蛛の釜も、鉄砲ぐすりを仕掛けて、粉々にくだいてしまうように家臣へいいつけ──その上で腹を切った。よほど忌々しかったのであろう。
また、切腹にかかる前、中風の灸をすえた。
彼の強慾は、「物」ばかりでなく、長寿にもあったとみえ、日頃から養生にはつとめていたらしい。いちど中風に倒れたことはあったが、また持ち直して頑健をとり戻していたほどである。
日頃、人に語って、
(松虫鈴虫などは、みな一年で死ぬというが、自分は試しに、松虫を三年まで飼い生かしてみたことがある。だから人間も養生の仕方では、人間自身が思っている命数よりはるかに生きられるにちがいない)
そういう信念を持っていた漢である。切腹前に、灸をすえたのは、
(もし、死に臨んで、中風が再発して、みぐるしい死に方をしてはならぬ)
と、左右に理由を語っていたというから、いかに彼でも、なお生きのびるためではなかったらしい。
乱世の間を、こういうふうに、押し太く、悪狡く、上手に生きぬいて来たつもりであった松永久秀も、たった一つ、大きな過誤を犯してしまった。
それは彼が、ここ十年ばかり仕えて来た信長をも──旧主の三好長慶や、前の足利将軍や、あらゆる旧態人のように、あまく馭せるものと見くびっていたことだった。
何ぞ知らんあべこべだった。彼のような乱世の奸悪を、きょうまで生かしておいたのは、信長の方に、それを利用する必要と寛容があったからである。
毒もくすりという原理を、信長は久秀に適用した。幕府崩壊のあとの、有象無象の策動やら、浮動分子の誘降やら、探りやら抑えやら、いろいろな裏面症状にたいして、この一毒をもって諸〻の毒素を制して来たものである。
そして、その使い方も、信長流であった。
上手をいったり、過賞を与えたり、巧く籠絡して来たのではない。
(こういう破廉恥な人間は、腹いっぱい慾を満たさせ、生命の保証さえしておいてやれば、どんな忍耐もして従いている)ことを充分に観ぬいて飼っていたのである。
だから、こんなことすらあった。
或る日、徳川家康が、信長に用談があって、その室にゆくと、座に一老将があって、いかにも鞠躬如としつつ、しきりに信長の機嫌をとっている。
──と、突然、信長はその老人を指さして、
「この漢は、松永弾正久秀という者で、もはやよい年でござるが、生涯、人にはできないことを三つなしとげておる。──第一は、足利公方の光源院殿を弑した。第二は、主人三好長慶を攻めほろぼした。第三は、南都の大仏殿を無意味に焼き払った。──そういう老体でござる。以後、お昵懇になっておかれたらよろしかろう」
と、紹介したという。
さすがの弾正久秀も、そのときばかりはうす禿のした頭まで真っ赤にして、うらめしげに信長を見、
「これは、ちと、お酷いお引き合わせ」
と、しばしは汗ばかり拭いていたということである。
こういうことも、恨みをふくむ一因であったかも知れないが、久秀は、その経歴が証明しているとおり、生来、野心とやま気の抜けない漢だった。──信長もそれを知っていたから生かしておいたのかもしれない。
(この犬は、今に飼主の手を噛む犬)と。
果たして彼は、信長に降伏してからも、眼に見えるところでは、誰よりも忠勤をはげみ、陰ではのべつごそごそしていた。
本願寺と通じては、本願寺からかねを取り、近畿の不平分子を使嗾しては、時々、信長の裏を掻く。そして気配がわるければ、それを宥めて、自分の功とする。
近年、彼の張って来たやまは、中国の毛利氏をうごかすことと、越後の謙信を引き出すことだった。この二大勢力の聯盟を作って、信長の足もとからは、本願寺その他の潜在分子を狩りたて、まず京附近から攪乱して、一挙に安土を覆す。──着々、そういう計画でいたものである。
折もよし。
この夏の北国出陣となった。彼は、中国に逃亡している前将軍義昭としめしあわせ、毛利の出動をうながし、一面、上杉謙信とも連絡をとって、
「もう、充分」
と見て、居城信貴山に、多年の仮面をぬぎ、明らかな叛旗をひるがえしたのであった。
ところが、あてが外れた。彼は、信貴山でひとり笛を吹いたが、舞台に出て来て踊るものはなかったのである。
もっとも毛利は、その陸海軍を多少うごかし、殊に水軍は大坂の川口近くまで来て、一戦はしたが、機熟さずと見て、引き揚げてしまった。また越後の謙信は、安土を重視して、容易に無謀な上洛は断行しない。
本願寺とて、そうなると、うかつに兵力や軍器の冗費は避けること勿論だ。ひとり弾正久秀だけはいちど挙げた叛旗を急に潜めるわけにゆかなくなった。
こうして、彼は孤立した。遺憾なく、自己の謀叛気の終局を見とどけた。
「なに、平蜘蛛の釜と、自分の首とに、鉄砲ぐすりを仕掛けて、粉々に砕けと遺言して腹を切ったとか。……あははは、おもしろい悪党。強情なおやじではある。──しかし一代の野望家、弾正久秀のあたまも、はや彼の釜よりも古くなったな。旧い、旧い」
彼の最期のさまを、あとで聞いた信長は肩をゆすって笑いぬいていたという。
また、この大和信貴山攻めの戦いで、噂になった名誉の者は、意外にも、兄は十五、弟は十三という稚い兄弟だった。
おそらく、初陣であったろう。共に細川藤孝の子である。
兄の細川与一郎(忠興)は、総がかりとなるや、味方のまっ先に本丸へ斬り入り、弟の頓五郎(興元)も、兄に負けじと、躍りこんで、兄弟、矢弾の中に奮戦して、松永久秀の旗本三人までを、兄弟協力して討った。
燃えいぶる建物の内から、鉄砲や矢が飛んで来るのをものともせずに、そのほか松永の家臣を幾人追いちらし斬りちらしたか知れなかった。
「信長公記」にもその状を、
兄ハ十五、弟ハ十三、マダ若輩ナガラ、一番ニ乗入ル。内ノ者共ツヅイテ込入、即時ニ攻破ツテ天主ニ詰メヨスル。──内ヨリモ鉄砲矢数射尽シテ、切ツテ出テ働クヲ、兄弟、火花ヲチラシ、つばヲ割リ、ココヲ先途相戦フ。マタタクマニ敵ノ討死、ココノミニテモ百五十余名ニ及ブ。
(中略)
年ニモ似ズ両名比類ナキ働キノ旨、御感被成、信長公ヨリ御感状ヲ下シオカル、後代ノ面目、一門ノ誉ニコソ……。
と誌されてある。
幽斎細川藤孝といえば、旧室町出の幕府人では、出色のひとりである。その歌才はかくれなく、学問識徳兼備の文化人として、その友、明智光秀と並び称されている。
光秀は、革新的な庶民育ちの知識人であるに比して、藤孝は名門から出た伝統的な文化人である。──にも関わらず、かくの如き武勇凛々たる子弟を、時代の真っ先に送り出していることは、寔に文武両道の家なればこそ、父なればこそと、子のために、その親たる人まで、大いに称揚された。
旧き人、新しき人、また、新旧両道の人など──この信貴山の一怒濤にも、或いは滅び、或いは興り、或いは没し、或いはあらわれ──時代の激動は、この地上に、変貌を余す所もなかった。
さて。
秀吉も、勘気を解かれ、同時に出陣の恩命をうけると、すぐ早舟をもって、湖上から合図をすると、かねて内命をおびていた竹中半兵衛は、即刻、長浜から軍をひきいて疾駆し、安土城外で勢揃いをととのえ、信貴山へ向って友軍と合したが、松永久秀の自滅にひとしい没落ぶりに、その全力を用いるほどな激戦にも会わず、余力綽々、やがて安土へ凱旋した。
──と、直ぐにである。
彼は、信長から特命をうけた。もちろん、親しく城中に召し呼ばれて。
信長は、いう。
「実をいえば、ここは自身出馬して、全力をも賭けたいところであるが、四隣の情勢は、まだそれをゆるさぬ。──故に、その方を選んで特に託すのだ。わが三軍を率いて、中国へ赴き、毛利一族をして、信長へ服従を誓わせい」
なお、かさねて、
「この大任は、予もひそかに、その方ならではと思うていたが、先ごろ見えた姫路の黒田官兵衛も、ぜひ、中国攻略の折の指揮者としては、羽柴筑前をこそと──熱心に希望しておった。……どうだ筑前征くか」
「…………」
秀吉の感激したことはいうまでもない。彼は、咄嗟に答えも出ないほど、満身の意気と君恩のかたじけなさに熱していたのである。
「ありがたくおうけ仕ります」
と、低頭して──
「重大な御命、私ごときを、格別な御抜擢かと、畏れながら存じあげます。粉骨砕身、ただ秀吉の駑才と精根を傾けてこれにあたり、以て、お応え申しあげるしかございませぬ」
と、ようやくいった。
信長が、三軍をあずけて、その総帥を臣にゆるした例は、さきに北国陣のとき、元老柴田勝家があるだけで、こんどは実に二度目である。
しかも、中国攻略の重大性と至難は、北国の比ではない。
秀吉も、それを知るので、千鈞の重責を肩にうけた感じだった。
──が、いつにない秀吉の慎重な容子を見ると、信長はふと、べつな不安を覚えた。
(やはり、ちと、重任すぎるかな?)
と、思い煩い、
(確たる自信があるのやら、ないのやら?)
と、彼の胸中を思い過したりした。
で──試みに、
「筑前、いちど長浜へ立ち帰って出陣いたすか。それとも、即刻、安土から立つか」
「もとより、即日、御城下から発向いたしまする」
「長浜に心残りはないか」
「ありませぬ。母あり、妻あり、よき養子あり、何のあとに憂いがございましょう」
養子というのは、以前、乞うて主君からもらいうけた信長の四男次丸(秀勝)のことである。信長は、笑って、また訊いた。
「そちの滞陣が、長びくまに、そちの所領悉く、養子のものになったら、そちはどこを所領いたすか」
「中国を征服し、中国を頂戴します」
「中国をゆるさなかったら?」
「九州を略し、九州に居城しましょう」
「はッははは」
信長は、自分の危惧をふきとばして、哄笑した。なにかしら、この漢が征けばと、安心がついたのである。
「まずまずさしずめ、播磨一州を取って吉報を知らせい。海外の夢は当分これをもって慰めておるがよい」
と、手にしていた一面の扇子を投げて餞別に与えた。
金地に日の丸。その半面は、豪壮な彩具と太い線で、朝鮮、明国、呂宋、暹羅などにわたる亜細亜の沿海と大陸の地図が画いてあった。
「これは、何よりな」
と、秀吉はすぐそれをもって襟を煽いだ。
彼の軍勢は、城下に留めてある。意気揚々、秀吉は宿営に帰り、すぐ竹中半兵衛に、君命をつたえ、半兵衛は直ちに、長浜の留守へ向けて、飛脚をとばした。
留守の蜂須賀彦右衛門は、夜をかけて、さらに一軍をひきいて参加した。そのまに、安土城から諸方の将に対しても、
羽柴筑前を総大将とし、中国入りを命ぜらる。協力加役、紛議ある勿れ。
と、発表され、飛札は廻った。
彦右衛門が、着いた朝、宿営の一室をのぞくと、秀吉はひとりで足の三里に灸をすえていた。
「御出陣に際し、よいお心がけ」
彦右衛門がいうと、秀吉は、
「まだ、背にも六つほど、幼少のときからの灸の痕がある。すえてくれい」
と、いって、やがて熱さに、歯がみしながら、
「どうも、灸は熱いので、あまり好かぬが、これをやらぬと、母上がお案じになる。そちから長浜へ便りいたす時、秀吉は毎日、よく灸をすえておりますと、書いておけよ。わしからいうよりお信じになろう」
と、語った。
灸をすえて、秀吉は、中国へ出征した。が彼の灸と、松永久秀の灸とは、その生命観といい、その意義といい、たいへん違う。
その日──安土城下から立って行った秀吉の軍容は、実に威風堂々たるものだった。信長はそれを天守閣から閲して、
「ああ、中村の猿も、ここまでになったか……」
と、無量な感慨をもらして、燦く金瓢の馬簾をいつまでも見送っていた。
毛利と、織田と。
龍虎のあいだに賭けられてある争奪の珠。それが、播州一国だった。
新興勢力の織田がたへ拠るか。強大な旧勢力をもつ毛利圏内に入るか。
播州、但馬、伯耆などにわたる中国の大名小族たちは、いまやその帰趨に迷いぬいていた。
「毛利家こそ、揺るぎない西国の重鎮」
と、観るものもあるし、
「いや、織田家の勃興も、無視できない」
と、する気運もある。
こういう場合、人々はすぐ、その判定を、双方の所領とか、兵数とか、その与国とか、表に現われた数字に求めたが──毛利の強大も織田の領有も、その国力では、ほとんど匹敵して見えた。
いずれが、将来を把握するほん物か。──観えないのである。混沌たる動揺をなすばかりで、方向を決し得ないのだ。
ここにも「魚に河は見えない」その奔流の中を、ただ迷いに迷う群魚が、押し流れている実状だった。
ただ、この際、はっきりしていることは、一朝、毛利に優勢な旗風がふけば、群魚はこぞって毛利方の岸へ寄り、織田家に勝色があがれば、招かずして、織田家に来るという──それだけは、結果として確実だといえる。
こういう測り難い明暗と、去就に迷っている中国へ、秀吉の兵馬は天正五年十月二十三日以降、西へ、西へ。
続々と西下して行ったのである。
任や重し!
馬上、金瓢の下、かぶとの眉びさしに、陰って見える秀吉の眉にも、こんどは少し、難しい顔つきが見られた。年齢、このとき四十二。
口も、あまりきかない。大きくへの字にむすんだままである。馬は、着実に歩みつづける。砂塵は全軍をおおう。
「征くのだ。中国へ」
あらためて、時々、そう思う。
秀吉のことだ。気にもかけていまいが、こんど安土を立つに際して、前田又左衛門利家とか、丹羽五郎左衛門長秀とか、堀久太郎秀政とか、長谷川宗仁といったような人々は、
(さてさて、思いきって登用なされた君のお眼もお眼だが、羽柴どのも、これで誰にも劣らぬ一方の大将とはなられた。信長公の御知遇に酬わでやあるべき。近ごろの快事快事)
と、祝福してくれたそうであるが、それに反して、甚だしく不満らしかったのは、元老の柴田勝家であったという。
(なに。征西の大将として、あれが、御任命に相成ったと。……あれが行くのか?)
羽柴とも、筑前ともいわず、あれがかといって、傍人に口汚く嗤ったそうである。
(なにができる)
と、いわぬばかりに。
もっとも、彼の眼からそう見えるのも仕方がない。まだ秀吉が信長の草履をつかみ、厩で馬と共に起臥していた一介の御小人時代から、彼はすでに織田家の重臣だった。
しかも今は──さきに浅井長政の室であった信長の妹お市の方をその後妻にむかえて、越前北ノ庄を居城とし、所領三十余万石という大身である。先頃の北国陣に総帥としてあったときには、自分の命にそむいて無断、長浜へ帰ってしまった秀吉でもある。彼としては、
(何で正直に歓べるか)
と、云いたいところであろう。まして中国攻略については、宿老として、ずっと以前から、いろいろ政治的な工作も蔭ではやってきた勝家である。
(自分をさし措かれて──)
と、果ては、信長の処置に対してすら、怨みがましい愚痴をこぼしていたと伝えられた。
征西の途上。馬のうえで。
くすくすと、秀吉はひとり笑ったりした。坦々たる山陽の道に倦んで、ふと、そんなことでも思い出したか。
彼が、独り笑いを泛べたので、共に駒をならべていた竹中半兵衛が、
「なにか。御意なされましたか」
と、用でも聞きもらしたかと、念のため訊いた。
「いや、何でもない」
馬上の姿勢を、真直ぐに向けたまま、秀吉は顔だけをすこし横に振る。
その日、行軍の旅程は、すでに播州境に近づいていた。
「半兵衛」
「は」
「播州に入ると、そちには、ひとつの楽しみがあるぞ」
「はて。何事でしょうか」
「黒田官兵衛という男にそちはまだ会ったことはあるまい」
「ございませぬが、名は疾くから聞いております」
「近頃での人物だ。そちと出会えば、かならず百年の知己になるだろう」
「ははあ、うわさにも聞き及んではおりますが」
「御著の城主、小寺の家老の子、まだ三十二、三だが」
「このたび、中国入りのお手引も、悉皆、黒田殿の政略と、その下地あってのことと、お伺いいたしました」
「その通りだ。会ってみい。話せる男。──奇謀ばかりでなく、世を観る眼がある」
「殿との、お交わりは」
「文書の往来は以前からだが、相見たのは、先頃の安土が初めてのこと。──しかし半日のまに、おたがいの胸は語りつくした。秀吉は心づよい。左に竹中半兵衛、右に黒田官兵衛、帷幕はできておる」
そのとき、うしろの列で、何かがやがや行軍が乱れた。小姓組の中で、どっと、笑い声がする。
蜂須賀彦右衛門がふり向いて、堀尾茂助を叱っていた。堀尾茂助はまた、組の小姓たちを、
「静かにせいッ、行軍は、厳粛に」
と、呶鳴りつけている。
「どうしたのか」
秀吉がたずねると、彦右衛門が困ったような顔して、
「お小姓どもにも、みな騎馬をゆるしましたので、行軍中、はしゃぎ合って、まるで遊山にでも参るよう、騒いだり悪戯し合ったりなど致し、茂助も、取締りかねておるようでござります。やはり小姓どもは、歩行させたほうがよろしくはないかと思います」
と、告げた。
秀吉は、苦笑しながら、
「幼年のときは、あれが勇躍しておるのだ。抑えきれぬ歓びにはしゃぎ立つのだ。抛っておけ抛っておけ」
と、眺めやって、
「誰か、落馬いたしたようではないか」
「いちばん年下の石田佐吉が、馬に馴れぬのを面白がって、誰やらが、わざと落馬させたらしいので」
「佐吉が落ちたか。落馬も稽古のうち、よかろうよかろう」
行軍は、またつづけられる。道は播磨に入り、その日のたそがれには、予定の地、加須屋に着くことになっている。
陰気でただ規律や形式のみ重んじる柴田勝家の統率下にあっても、冷厳峻烈な信長直属の陣中にあっても、羽柴軍だけには、いつも一つの特色が漂っていた。ひとくちにそれをいえば、「陽気」というものである。いかなる艱苦や悪戦のなかでも、その「陽気」なものと、全軍一家族といったような和気の藹々と醸されていることだった。
だから、十二、三歳から十六、七の少年ばかり一団となっている小姓組などは、とかく馴れすぎて軍紀を紊しやすかったが、たいがいな場合、この家長は、
「抛っとけ抛っとけ」
で、大目に見ていた。
薄暮の頃である。
先鋒は、粛々と、播州加須屋へ入っていた。
ここは、敵地の中の盟国だ。去就にまよい、四囲の重圧にあえいでいた盟国の土民は、篝を焚き、歓呼して、秀吉の兵馬をむかえた。
中国進駐の第一歩は印された。戛々と、夕ぐれの大地を鳴らして、糟屋武則の館にはいってゆく長蛇の列を見るに。
一番隊、旗。二番、鉄砲組。三番隊、弓。四番、長柄、槍。五番隊、切具足。──こう二行にすすみ。
中軍、秀吉の前後には、騎馬の将士が密集して行った。鼓手、邏卒、馬簾、軍監、乗り換え馬──小荷駄、物見、大荷駄など、無慮七千五百騎ばかり、見る者をして頼もしさを抱かせた。
陣門には、黒田官兵衛が迎えに出ていた。秀吉は、彼を見かけると、すぐ駒を降りて、
「やあ」
と、笑顔をつくって、歩み寄った。
先からも、やあと、手をのばして来た。ふたりは、十年の知己のようだった。
相伴って、館の奥にはいり、ここで中国の一味同心の輩と会った。黒田官兵衛はその紹介者である。そして異心なき旨をちかい、順々に、名乗りあった。
と。やがて、見るからに立ち優れている男が、秀吉にこう挨拶した。
「尼子の遺臣、山中鹿之介幸盛です。先頃は、陣中かけちがい、お目にかかる折もなく過ぎましたが、このたびの御西征と聞くよりも、心躍って、官兵衛どのにお取りなしを願い、ひと足先に、これへ来てお待ちうけ申しておりました」
手をつかえて、平伏しているすがたを見ても、その肩幅、背の丈の、人なみ以上すぐれていることがすぐ分る。
起てば優に、六尺ゆたかの身長はあろう。年三十二、三歳。皮膚はくろがねにも似、眼は、らんとして人に迫るものがある。
はてな?
と、ちょっと思い出せないような顔して、秀吉はしばし見まもっていた。
官兵衛が、口添えした。
「これは、毛利一族に亡ぼされた尼子義久を奉じて、年久しく、孤忠苦節をつづけて来た近頃稀れに見る信義のつよい漢でござる。ここ十年来、隠岐、出雲、鳥取など、各地を転戦また流浪しつつ、つねに寡兵をもって毛利を苦しめ、旧主の尼子義久を、もう一度、世に出さんものと、涙ぐましき努力をいたしておりまする。どうか、筑前どのにも、特に、お目をかけ下さるように」
「……あ。いや」
秀吉はさえぎって、
「山陰尼子氏の忠臣に、鹿之介幸盛ありとは、とうにそれがしも聞いておった。──が、先ごろの陣中でかけちがって会わなかったとは? ……何処のことかな」
と、いぶかしげに訊いた。
鹿之介は、答えて、
「信貴山攻めの折、明智光秀どのの手勢に加わり、一方に御陣借して働いておりました」
「ほ。……信貴山の戦に、その方も参加しておられたか」
「されば」
と、官兵衛がまた、話を取って、
「年来の苦節もむなしく、毛利のため、山陰に敗れ、後、ひそかに柴田どのを通じて、信長公に御助力をねがっていた関係から、明智どのの手について、信貴山攻めにも向い、そこの戦いでは、松永方の猛将、河合秀武の首を取って、信長公の知遇の恩にこたえております」
「やあ、あの河合秀武を討った勇士とは──鹿之介、お許であったか。それはそれは」
と秀吉は、前後の疑問が、初めて解けたような顔して、快然と彼を見直した。
進駐軍秀吉の威力は、すぐ事実となってあらわれた。
佐用、上月の二城を陥し、附近の宇喜多勢力を一掃したのは、その月のうちだった。
秀吉の左右には、つねに竹中半兵衛と、黒田官兵衛がいた。
本陣は、姫路へ移された。
──と、この間に、備前の宇喜多直家は、その盟主とする毛利家へ、頻々、後詰の催促を発しながら、一面には、備前随一の勇名ある真壁治次に、手兵八百をさずけて、上月城を奪回することに成功し、
「秀吉、何者ぞ」
と、早くも、上方勢を見くびる気鋒をあらわしていた。
上月城には、日ごとに、弾薬糧食が補給され、新鋭の兵が増派された。
「打ち捨ててはおかれますまい」
半兵衛のことばに、
「そうだな」
と、秀吉は、悠長だった。
彼の眼は、姫路へ来てから、中国全般を観ていて、一上月にのみ集注されていなかった。──で、こんな返辞が出るものとみえる。
「誰をつかわしましょう。このたびは、ちと難攻と思われますが」
「幸盛を遣るに限る」
「鹿之介ですか」
「官兵衛は、どう思う?」
黒田官兵衛は、それに答えて、至極でしょうと、賛意を表した。
命をうけた山中鹿之介は、
「ねごうてもない倖せ」
と、夜のうちに、勢を揃えて、上月城へ押しよせて行った。
極寒、十二月末だった。
鹿之介の部下は、鹿之介幸盛と志をともにし、
(誓って、毛利を討ち、旧主尼子氏を再興せん)
と、いう義胆の者ばかりといっていい。
その点、この一部隊には、一貫している強烈な精神がある。
一党には、
尼子助四郎、寺本半四郎、秋上甚介、立原久綱など、世に聞えた尼子浪人が、七、八百騎はいた。
「なに、尼子の一党が襲せて来ると?」
「山中鹿之介が将としてこれへ襲せては」
宇喜多方は、物見の口から、それと聞くと、非常な恐怖に襲われた。
山中鹿之介の名や、尼子浪人という声は、それを聞くだけでも、彼らは、猛虎の前の小獣雑禽のように、恐れあわてるのだった。
秀吉が、直接攻めて来たと聞くよりも、それは恐かったにちがいない。なぜならば、中国の反信長圏内では、まだ、羽柴秀吉などという者は、そう大したものとは重視していない。
その点、鹿之介の尽忠一念と、その武勇は、強国毛利でさえも、鬼神のように、多年、その禍に畏怖していたから、上月城に、幸盛を向けたことは、秀吉として、頗る効果的だった。
果たせるかな。さしもの宇喜多随一の猛将真壁治次も、
「兵を損じては」
と、戦わずに、上月城を捨てて逃げた。もちろん、これは一時的現象である。幸盛の部下が、城に入って、
「無血、奪回」
を、秀吉へ報告すると、まもなくさきに逃げた真壁勢は、主家宇喜多家に増援をあおぎ、その真壁の弟治時の軍をあわせて、総勢約千五、六百騎、馬けむりをあげて城外六十町ばかりの平野まで、逆襲して来た。
鹿之介は、望楼から眺めて、
「ここ雨のないこと、半月あまり、彼らはみずから身を焼かれている」
と、嗤った。
ふかく城寨を閉じて、恐れ守ると見せて、その夜──夜半頃、幸盛は、兵をふた手に分けて、曠野へ駈け出し、一手は、風上から、火を放って、いちめんな枯野の草を焼きたてた。
枯野の火に捲かれて、宇喜多勢は潰乱しだした。
山中鹿之介たちの奇襲部隊は、頃を計って、殲滅にかかった。当然、敵の討たれるもの、数知れない。その中には、主将の真壁治次もいた。その弟、治時も討死した。
「もう懲りたろう」
「いや、何度でも襲せてこい」
山中勢は、城へひきあげて、凱歌をあげた。
そしていよいよ上月城を堅守して、尼子一党の存在を誇っていた。
ところが、本陣の姫路から使者が来て、城へ告げた。秀吉の命として、
「城を打ち捨て、直ちに、姫路へひきあげられよ」
というのである。
尼子勝久以下、当然、不平を鳴らした。せっかく力戦して奪った城を──しかも作戦上の要地を、なんで、みずから捨てて去らなければならないのかと。
「ともあれ、御命令とあれば……」
ぜひなく、鹿之介は、主君勝久をなぐさめ、部下一同をなだめて、姫路へもどった。
すぐ、秀吉に会って、
「忌憚なく申しますれば、手の者の将士ことごとく、おいいつけに対し、懐疑しておりまする。かくいう鹿之介も、そのひとりにございますが」
と、理由を糺した。
秀吉は、笑って、
「いや、もっともだ。機密にかかわるため、使者には、理由をいわなかったが、ここではいえる。──上月城は、宇喜多を釣るに、恰好な餌だ。あれを捨てれば、かならずやまた宇喜多が、兵糧を籠め武器弾薬を運びこむ。さらに兵馬も思いきって増強するだろう──そしてだ!」
と、秀吉は、囁くように、声を落し、床几から身をのり出して、例の、信長から拝領した大明南蛮絵図の軍扇を、備前の方へ指して云った。
「この秀吉が、ふたたび上月へかかるを見越して、こんどは、宇喜多直家自身大軍を率いて、後詰に出て来るにちがいない。──その裏を掻く戦法だ。そのために、上月城は捨て餌にしたのだ。怒るな、鹿之介」
もちろんこういう方針は、ひとり秀吉の思いつきや独断であろうはずはない。参謀には黒田官兵衛や竹中半兵衛などもいる。鹿之介は、得心して退った。
年は暮れて、正月にかかる。──物見の報告は、思うつぼを伝えた。備前の宇喜多城は、蟻が物を運ぶように、夥しい軍需を、すでに上月城へ輸送したというのである。
果たして、その守将には上月景利を任じ、兵は精鋭を選りすぐって籠めた。
秀吉は、本軍をもって、それを包囲させ、一方、尼子勝久、山中鹿之介、その他、一万の兵は、そっと分けて、熊見川のほとりに隠しておいた。
宇喜多直家は、城中の兵としめしあわせて、秀吉の包囲軍を挟撃するつもりで、備前から出馬して来た。
「好餌、ござんなれ」
である。──尼子一党は旋風のごとくそれを衝いて、直家の行軍を寸断し、箇別的に殲滅を計った。
宇喜多勢は、四分五裂となり、直家は身をもって、辛くも備前へ逃げ帰った。
かくて後、尼子勢は味方の包囲軍に合し、上月城の総攻撃は、ここに初めて、本格的な行動を起した。
戦法は、火攻めを主とした。
城兵の大半は焼け死んだといわれる。──上月の地獄谷と、後世まで地名につたえられた程、多くが城と共に死んだ。
「こんどは捨てよとはいわん。よく守備せい」
秀吉は、ここを尼子一党に預け、但馬播磨の掃討を片づけると、ひとまず安土へ凱旋した。明けて天正六年の一月、湖南の春色は若かった。
「秀吉が見えたら、この品、信長より褒美ぞと申して、彼に与えよ」
信長は、家臣へそう云いおいて、初春早々、三河方面へ、放鷹の旅に出立したという。
で、安土にはいなかった。
秀吉は、将士を城下に駐めて、登城したが、家臣からその旨を聞いて、
(さては、鷹狩に事よせて、徳川どのと、どこかで御会見だな?)
と、すぐ察した。
日頃、信長が鍾愛していた乙御前の釜が宝蔵から出されてあった。秀吉はそれを拝領して長浜へ帰ると、
「この釜を懸けて、一ぷくせよとのお旨であろう。寧子、さっそく炉に懸けて、ありがたいお茶を一ぷく戴こうか」
と、母もそこへ迎え、妻とも一緒に、君恩の一碗を押しいただいた。
居ること一月に足らず、秀吉は諸般の軍備をあらためて、二月初め、ふたたび播州へ西下した。
このあいだに、中国全土も、戦時下の相貌をあわただしく強めていた。
宇喜多直家は、急使を、毛利家へ送って、
「事態は重大です。ただ播州一国の変ではありませぬ。いまや尼子勝久は、その臣、山中鹿之介らを擁して、秀吉の力をかり、上月城を占拠しておる。これは毛利家にとっても、看過し得ない将来の大事を孕んだものといえましょう。何となれば、毛利家に亡ぼされた尼子一党の復仇心たるや熾烈なもので、彼らが、失地恢復にのり出す前提でなくて何でしょう。──御猶予はなりません、速やかに大兵を出し、いまのうちにこれを殲滅すべきであります。当宇喜多家は、その前駆を承り、年来の恩顧の実意を、この秋に、事実として示すことに一致しておりまする」
と、いうのであった。
毛利輝元の左右には、ふたりの叔父にあたる名将がある。世人はこれを、毛利家の二叔ともいい、中国の二川ともいっている。
智略縦横の人小早川隆景、沈勇才徳の人吉川元春。──こうふたりは亡父元就の偉大な半面を公平に分け合って持っていた。そして、元就の嫡孫で、現在、毛利家の主君の位置にある輝元を、遺憾なく扶け合っていた。
生前、毛利元就は、その遺子たちに、こう訓誡していたという。
「およそ天下を経綸する器でないものが、天下の事を望むくらい、世に百害を生じさせるものはない。また、そのような者が、時の利と勢いを得て、一たん天下を掌握したところで、却って破滅の因たるはいうまでもない。汝らはよく自身の分を顧み、ただ中国を治して、その圏内においてのみ、人におくれぬ心がけを持ったがいい──」と。
毛利家という歴史ある大家庭に見られるいろいろな家風のうちでも、もっとも麗しいものは、父子兄弟のあいだの正しく一致していることだった。礼儀と愛と信とが、血をもって違背なく結ばれている点が、やがて君臣の道をも強くしていた。
で、元就の遺誡は、きょうまで尊重されて来た。──信長の如く、上杉、武田、徳川のごとく、積極的でなかったわけはそこにある。
だから、たとえ足利義昭を匿まおうと、本願寺と通じようと、遠く上杉謙信と或る黙契をむすぼうと、すべては、中国を守るためだった。信長の進出に対して、それらの他国の要塞を、中国防衛の一線に利用して来ただけなのである。
けれど、奔濤は、迫って来た。すでに防禦線の一角はくずれ、中国も時代の旋風の外ではあり得なくなったのである。
「──本軍の輝元、隆景の二公には、力を協せて、上月を攻められい。自分は因幡、伯耆、出雲、石見の兵をひきい、行く行く丹波、但馬の兵も合して、一挙、京畿に進み、本願寺と呼応して直ちに、信長の本拠安土を衝こう」
こういう大胆な策を立てたものは、吉川元春だった。──が、それも余り奇策に過ぎると、輝元も隆景も、賛成しなかった。そして全大軍をあげて、まず上月城を攻むべしとなった。
三月。
約三万五千の毛利軍は、各〻、本国を発して、北上しはじめた。
小早川隆景は宇喜多の兵をあわせて、備前方面から。──吉川元春は美作から、また毛利輝元も、備中松山に陣をすすめ、四月近くには、全軍、播磨へ向って、行軍を急にしていた。
それより前。──秀吉は播州に下って、加古川城を営とし、日夜、軍議をこらしていたが、彼が率いて来た派遣軍なるものは、わずか七千五百程度であった。
播州の豪族や地ざむらいの味方を加えても、その兵力は、毛利とはまるで比較にならない数である。
「機に応じて、援軍はいつでも来ることになっておる」
と、秀吉は、平然たる容子を示していたが、ひそかに、派遣軍の少数に不安を抱いて、毛利軍の強大とそれを比較し、ふたたび去就に迷う風が、地付の諸士のあいだに擡頭して来たのはぜひもなかった。
その空気は、やがて明瞭な形をとって現われて来た。三木の城主、別所長治の寝反りがそれである。
別所一族は、東部播磨八郡に分布していて、天正の初め頃から、小寺一族などと共に、款を信長に通じ、土着の味方として、有力な一翼だったものである。
「秀吉ごとき小人物を、われらの総帥には戴かれぬ」
反旗をあきらかにすると、彼らはまず、秀吉の先手を打って、悪宣伝に努めた。
その云い分によると、
「折悪しく、城主長治は、風邪ぎみのため、招状あるやすぐ、叔父の賀相、老臣の三宅治忠を名代として、加古川城へつかわし、いろいろ献策したところ、秀吉は、われわれ土着の城主の意見など耳に入れようともせず──卿らの任は、槍先の働きである。軍略はただ秀吉の胸三寸にあるのみ──と、広言を吐きおった」
と、いうのである。
もちろんこれは根もない嘘で、自己の寝反りを理由づけるための捏造に過ぎない。──しかも、彼らは、その悪宣伝をさらに拡大して、安土の信長へも、書を飛ばし、
筑前どの、諸政横逆、御味方にて、恨みをふくむ者多し。右大臣家(織田)にたいし奉り、疎意抱くにあらねど、当家も三木城にたてこもり、羽柴どのの手を離れて、善戦独歩の覚悟相定め申し候。
というような、極めて悪性な讒言と、偽装に腐心し、そのまに、毛利家の軍事顧問を入れ、城郭の濠を深め、塀を高くしていた。
「ひどい男もあるものだな」
秀吉は、何を聞いても、一笑に附していた。そして官兵衛、半兵衛の両参謀のすすめに従って、三月初旬、その本陣を、加古川から書写山のうえに移した。
そのとき、意外な報道が、上方から聞えて来た。
越後の上杉謙信が、死んだといううわさなのである。
(出師の準備中に)
と、いう説や、
(いや、すでに春日山を発し、陣中で)
ともいわれているし、また、
(平生、大酒家であったため、卒中で仆れたことは確かである)
と、常識的なうわさもあり、そうかと思うと、春日山城内で、厠にゆくところを、刺客のために殺された──などと強いて奇説を附会する者もあった。
が。いずれにせよ、謙信の死は事実であった。極まりなく世の中も人も変ってゆくらしい。秀吉は一夜、書写山に立って、一代の英傑謙信の生涯を顧み、星に憶うこと久しかった。
別所一党の三木城には、それを繞って、幾つもの小城が、衛星の役割をもっていた。
淡河の城、端谷城、野口城、志方の城、神吉城など──各所に叛旗をひるがえして、
「秀吉とは、何者だ」
「あの貧弱な小勢をひっさげて、中国攻略などとは片腹いたい沙汰」
「天下の広大を知らぬ京洛中心の輩が、思い上がった誤算にすぎぬ」
と、嘲笑していた。
黒田官兵衛は、秀吉にまず、こう献策した。
「あの小城の一つ一つを、踏み潰しているのは厄介ですが、神吉城の神吉長則、高砂城の梶原景行など、なかなか剛の者です。やはり周りの小石を一ツずつ取って、三木城を抜くのが、もっとも無難な戦法と思いますが」
秀吉は、彼らの言をよく用いた。とりわけ、左右のふたりには、常にこういっていた。
「地の利は、官兵衛が明るく、兵の進退には、竹中半兵衛が詳しい。何か憂えんじゃ。秀吉はただ床几を進めるばかりよ。この金瓢の馬印は、ふたりの案内でどうにでも赴くぞ」
で──半兵衛も官兵衛も、なおさら重責を感ぜずにいられなかった。
書写山を降った秀吉の兵は、まず手初めに、野口城を攻めて、敵の長井四郎左衛門を降し、つづいて、神吉、高砂と、附近の部落を焼きたてながら、虱つぶしに落して行った。
そして、目ざす上月の城へ迫るも近く、別所退治の軍も半ば以上すすんで来たところへ、
毛利ノ大軍当城ヲ囲ム、
事態急、援兵ヲ仰グ
という山中鹿之介の飛札をたずさえた使いが、佐用の上月城から来た。
使いの者は、秀吉の前に出て、いかに毛利勢が、その強大な国力を傾けて来たかを──ことばをもって補った。
「小早川隆景の兵二万余、吉川元春のひきいるもの一万六千。それに、宇喜多直家の軍、およそ一万五千が加わり、総勢、少なく見ても五万は下りません」
また、こう云い足した。
「敵の大軍は、まず、上月城とお味方との通路を遮断するため、高倉山のふもとや、村々の谷あいに長い空壕を鑿ち、低地にも兵をかくし、高地にも兵をひそめ、陣地陣地には、柵を植え、鹿砦を結いまわし、外部から一歩も城へ寄れないように工事をすすめています。──なおまた、播磨、摂津の海上には、七百余艘の兵船を遊弋させ、後詰の兵や糧食を、なおも続々陸上に押し揚げようと計っておりまする。──ただ、城中の者が唯一の望みとするところは、今すぐならば、何とか、外部からの御来援と聯絡のつく方法があるのではなかろうか。……それのみにござりまする」
この報告は、秀吉の進路へ、大きな歯止めとならざるを得なかった。問題は重大だ。しかも急である。
寝耳に水──というほど、それに迂遠だったわけではない。毛利勢の出動は、あらかじめ計算に入れてある。
「ううむ……。そうか」
秀吉が、ちと困ったときに、よくやる癖を、顔にあらわして、大きく唇をへの字にむすんだ理は、すでにその予測から信長へ向って、増援の兵を要請してあるのに、いまもって上方から、
(兵を急派した)
とも、
(軍の増派は相成らぬ)
とも、梨のつぶてで、何の音沙汰も来ていないことにあった。
さきに、尼子勝久とその部将鹿之介たちを籠めておいた上月城は、備前、播磨、美作の三角点にあり、山村の小城とはいえ、軍略上、重要な地を占めている。
やがて、山陰へ入るには、まずそこを抑えなければならない関門でもある。毛利勢がそこを重視したのは当然な処置と、秀吉は敵の目のつけどころに感心はしたが──さて、顧みるに、自分の麾下から分けてやる程な兵力は今ここになかった。
麾下に大役を命じて、それに委していられないほど、信長は、狭量ではなかった。
けれど、その総括は、飽くまで自己の掌になければならないのである。彼の原則として、もしその統御を冒す者などあれば、断じて免す彼ではない。
秀吉はそこのこつをよくのみこんでいた。こんど中国役の総指揮に任じられても、決して、思い上がった独断などはやらない。
傍から見ていると、
(あんな些事まで、いちいち安土のおさしずを仰がなくても)
と、歯がゆく思われるほどなことでも、早打で問い合わせたり、文書で内意を訊ねたりした。また、腹心の家来を幾度も使いに立てて、戦況をつまびらかに告げ、居ながら戦場にある思いのするまで──主君信長をして安心させていた。
従って信長も、充分に、こんどの大事は察していた。
「よし。この上は、自身出馬して、筑前を励ましてくりょう」
彼は、彼らしい決断をもって、すぐ出馬の準備を命じた。
──が、諸将は口をそろえて、
「それまでには及びますまい」
と、諫めた。
佐久間、滝川、蜂屋、明智の諸将などみな同意見であり、丹羽五郎左衛門も、それに近い考えを述べた。
人々のいうところは、
「播州の戦地は、山岳が多く、いわゆる折所難所の戦いです。──まずまず御加勢のみをさし向けられ、しばらくは、敵の変を見ておいで遊ばすべきではないでしょうか」
「もしまた、わが君の中国御在陣が、意外に長引きなどする場合は、本願寺の一類が、うしろを断って、海陸よりお味方を脅かす惧れなども絶無とは申されません」
というにあった。
安土の経営は今なお緒についたばかりである。信長は、彼らの言を容れて、自身出征することは見あわせた。
──が、この間の空気には、秀吉に対する諸将の微妙な感情が、軍議のたび動いていたことは見のがせない。
(なにせい、羽柴筑前が指揮では……)
と、このことある前から秀吉を軽んじたり嫉視していた人々の先入主である。
(荷が重すぎる)
そして、そういう感情をめくると、もうひとつその底に、
(信長公が御出馬あって、彼に功を成さしめては)
というような浅ましいそねみもつつまれていた。
嫉妬は女性にだけあるものでもなかった。いや男性のそれは、女性のように色に出さないだけなお怖れていい。戦国武者のあいだにさえ、そんな感情がやはり甲冑帯剣の下につつまれていた。
滝川一益、丹羽長秀、明智光秀──そして筒井順慶などの援軍およそ二万が、京都を発して播州へ着いたのは、もう五月の初めだった。
信長は、さらに、子の信忠を、そのあとから加勢にやった。
一方、秀吉は、援軍の先発として来た荒木村重の隊を待って、本軍に加え、総勢、上月城の東──高倉山へ陣を移していた。
だが。
ここに臨んで、上月城の位置を見直すと、その城中と聯絡をとることは、ほとんど至難に思われた。
城の山麓は、市川の本流と支流とが三方を繞っている。しかも、西北も西南も、狼山や太平山の嶮に囲まれ、近寄る術はないのである。
ただ、一すじの通路はある。しかしそこには毛利の大軍が充満していた。そのほか、河を擁し、谷を利用し、山を負い、いたるところ、敵の要塞と、敵の旗でないところはない。
天嶮の城というものも、これを死守する場合はいいが、こうなると、外部の味方の後詰が、それと相結ぼうとするには、却って、厄介な位置にあった。
「これは、どうもならん」
秀吉は、嘆声を発した。
まるで無策な大将であることを自分で告白するように、
「手が出せぬ!」
と、二度もいった。
およそ戦というものは、直感らしい。秀吉は、ここに立つと同時に、正直にそう感じたとみえる。
彼は、感じたとおり、かたく味方の手出しを戒めた。
そしてただ、夜になると、
「篝を焚け、どかどか焚け」
と、足軽を励ました。
毎夜である。
高倉山から三日月山の附近──峰谷々にわたって、旺んなる火焔をあげさせた。また、昼は、高いところの樹々のあいだから、無数の旗幟をかかげて、
(秀吉の大軍ここにあり)
を、敵に誇示し──一面、上月城にある少数な味方を励ましていた。
こうして、五月まで持ち支えているところへ、丹羽、滝川、明智など二万の援軍は来たのであった。
気勢はあがった。けれど、実績はあがらなかった。
なぜならば、偉い大将が揃いすぎたのである。みな秀吉と肩を並べて、下風につくことを好まない者ばかりだ。丹羽、佐久間は秀吉の先輩であり、明智、滝川なども、その人望才識、共に、秀吉と伯仲している。
おのずから誰が総指揮官かわからないような空気が醸された。命令は二途どころでない。諸所の部将から発しられる。そして時には、その交錯から混乱が起ったりした。
陣気とでもいうか、こういう内部の空気を嗅ぎ知ることにかけては、敵は敏感である。
(織田の援軍は怖るるに足らない──)
と、毛利勢も、その虚をつくことに、抜け目がない。
小早川隆景の兵は、高倉山のうしろを迂回して、夜襲して来た。
秀吉勢は、若干の損害をうけた。
また、吉川元春の兵は、遠く、背後の平地から飾磨あたりまで行動し出し、織田軍の輜重部隊を奇襲したり、兵船を焼いたり、流言を放ったり、攪乱に努め出した。
──ひと朝。
上月城のほうを秀吉が見ると、一夜に城の望楼が破壊されている。
「どうしたのか」
と、糺すと、毛利軍には、南蛮砲の大筒があるので、その巨弾が命中し、粉砕されたものだろうという。
「──以て、武器の精鋭、兵の練達、窺い知るべしだな」
秀吉は、毛利の強大に、感心していた。そして依然、積極的に出ないばかりか、
「京都まで行ってまいる」
と、諸将にあとを託して、ひそかに、また急に、上方へ馳せ上った。
信長は二条城に来ていた。
洛中に着くと秀吉は、供の面々へは、旅舎で休めと、宥わりを与えたが、自身は戦陣の埃にまみれた軍装と、髯の伸びた垢面のまま、すぐ二条城へ上って、
「筑前にござります」
と、目通りした。
「筑前か」
と、信長も見直した。
殊さらに、そう糺したくなる程、秀吉の面は、変り果てていた。
出陣のときの彼と、いま見る彼のすがたとは、別人のようである。眼はくぼみ、少し赤いまばらな髯は、たわしのように唇のまわりに伸びていた。
──苦労したな。
信長にはすぐ察しられた。
「筑前」
「はい」
「何しに見えた。忙しげに」
「陣中、寸閑も、抜き差しならぬ身にござりますゆえ」
「さ。……その其方がじゃ、何で急に抜けて来たか」
「おさしずを仰ぎたい儀がございまして」
「さてさて、厄介な大将。すでに指揮は、そちに一任してあるに、事ごとに、信長の意見を問うていたのでは、機微な用兵にあたって、おそらくは間に合うまい。……なぜこのたびに限って、そう固くなっておるか。そちの果断をもって振舞わんか」
「ごもっともな御焦躁です。が、御命令はつねにわが君の御一途から出でねばなりません」
「信長が授けた軍配、そちにはそれを右するも左するも免されているではないか。信長の意志だにそちの肚に分っておれば、そちのする指揮は、信長の指揮じゃ。何を惑うぞ」
「おそれながら、それゆえにこそ、いささか苦心いたしております。また、一兵たりと、あだには死なせじ。秀吉、不つつかながら、身の重任を、ひしとこたえての上洛にござります」
「なんじゃ、相談とは」
「現状のままでは、お味方の利、覚束なく存ぜられます」
「負け戦だというか」
「不肖ながら、秀吉が軍の指揮に当ります以上、みじめなる敗走はいたさぬつもりですが、敗るることは是非もございません。毛利の陣容には、彼の士気、装備、地の利、すべてにおいて敵しませぬ」
「同じではないか。──それでも負け戦は負け戦だ。第一、大将たるそちがその見越しでは、勝てるはずはない」
「勝てるなどと誤算したら、大敗を喫します。いま中国において、お味方の精鋭が、一敗地にまみるるならば──ここ鳴りをひそめている近畿、四国の敵ども、また本願寺一類の悉くも、それ、織田どの躓きが見えたぞ、右大臣の滅落今にありと、呪いの鐘をつき鳴らして、北国東国も一度に蜂起いたしましょう」
「知っておる。そんなことは」
「──が、一歩つまずけば、中国攻略の大事は、織田家の生命とりになるというところまで、ふかくお考えにございましょうか」
「当然、考えている」
「ではなぜ、秀吉より陣中から再三、御催促申しあげておるにかかわらず、御自身、中国まで御出馬遊ばされませぬか」
「…………」
「時こそ大事です。機を外して戦はございませぬ。申すもおろか、わが君こそ、この機を見るに、古今第一の御大将と存じあげておりますのに、秀吉が書をもって、御催促を重ねても重ねても、何がゆえに、お動き遊ばさないのか、実に、てまえにはお気持がわかりません」
「…………」
「今日まで、招いても、容易には出て来ない毛利軍が輝元を始め、吉川、小早川、その他の宿老まで、大兵を挙げて、一上月城や三木城の後詰に上って来たことは、これこそ天の与え給う絶対な機会ではござりませぬか。秀吉は、彼らを招き寄せる囮であってよいのです。この上は、何とぞ、君御自身、御出馬あって一挙にこの獲物を屠り尽されますよう。……お願いに罷り出ました」
信長は考えこんでいた。
こういう場合、考えたり迷ったりしている人ではない。
それが、躊躇の色を示しているのを見ると、秀吉はもう心のうちで、
(お願いはかなわぬな)
と、察していた。
果たして、信長は云い出した。
「いやいや、今は軽々しくうごく時ではない。まず毛利の手のうちを、入念に見とどけておく必要もある」
こんどは、秀吉が考えこむと、信長は、やや叱責するような口調で、
「まだ、戦いらしい戦いもせぬうちから、敗北を予期するなど、そちもすこし、毛利の軍勢に気を呑まれたか」
「敗れると知れ切っている戦をするのは、君に忠なるものと考えておりません」
「そう感じるほど、中国勢は強いのか。士気旺んか」
「旺んです。元就以来、分を守って、かたく国内の強化に励み、富は越後の上杉や、山国の武田家などの比ではありません」
「富める国が、かならず強いか。ばかな」
「いやいや、その国富の如何にもよります。その毛利に華奢驕慢の風があれば、怖るるに足らないのみか、むしろ乗ずべきですが、吉川、小早川の二将はよく輝元を扶けて、先主の遺風をまもり、将士はふかく徳になずみ、士道堅固で、たまたま、捕虜とした一兵卒といえども気概凛々、敵愾心に燃えているのを見ては、──中国の攻略──これは難事のうちの難事業と、痛嘆せずにおられません」
「筑前筑前」
信長は気に入らない顔を示して、急にこう遮った。
「三木城のほうはどうじゃ。──信忠をさし向けてある三木城は」
「御嫡子の御威光をもちましても、容易には落ちますまい」
「城主の別所長治とは、どんな将か」
「あれも人物です」
「そちは、敵のみを褒める」
「敵を知るは、兵家の第一に心得べきことかと存ぜられます。部将、軽輩の者などにさえ称えては、よろしくない儀もございましょうが、わが君に、正しき敵の真価をおつたえしておくことは、秀吉の任務かと存じますゆえ、正直に申しあげるのです」
「……それもあろう」
嫌々ながら、信長もついに、敵の強さを認めたかたちである。──が、なおどこかに疼く彼の勝気を、やがてこんな言葉で吐き出した。
「それもあろうがじゃ。味方のふるわぬ理由はなおもう一つべつにあろう。──筑前」
「はあッ」
「総大将たる役目は容易であるまい。滝川、丹羽、明智、みな一かど、一方の将たる器。とかく、そちの指揮どおりには、動かぬのではないかな」
「……御明察」
と、首を垂れて、秀吉は、戦陣窶れのしている顔を赧らめた。
「何分、後輩の秀吉、過分な大任にござりますれば」
彼は敢えて、ここで傲語はしなかった。信長の出馬の意志を阻めている陰にも、微妙な宿老たちの私心が作用していることが見え透いているからである。毛利の大軍はなお怖るるに足らないとしても、味方のうちのそういう潜在に対しては、彼はふかく戒めていた。
「こうせい! 筑前」
「はい」
「一時、上月の城は敵の手に放棄する! そして、三木城へ向っておる信忠の軍に合し、一手となって、別所長治をさきに討伐せい! ……。その上で、しばらく敵の変を見よう。そうせいそうせい」
中国戦の味方の不振は、何といっても、味方の総兵力を、三木城の攻撃と、上月城の後詰に、二分しているところに、第一の原因がある。
その一方を抛棄して、一方へ力を協せ、まず、三木城の別所一族だけを伐つ──とすれば、これは優位に立ち直る絶対方針となるにはちがいないが──
(果たして、将来の利か不利か)
という大局上の見地からは、これまでの軍議にも、しばしば、織田側のうちでも、異論のあった問題なのである。
なぜならば、今、上月城にたてこもっている尼子一族の孤軍は、織田家を頼って、数年来、その先駆的な役割を、毛利勢力圏の敵地に努めて来たものだ。それを、一朝の戦略的方針から、捨てて顧みなかったら、
(信長公とは、かかるお方か?)
と、中国の与党をして、ひとしく不安を感ぜしめ、ひいては、
(織田軍は、信頼しきれぬ)
と、大きな信望に関わって来はしまいか。
尼子勝久や山中鹿之介の党を、上月城に入れたのは、秀吉であるから、秀吉としても、当然、その憂いは抱いていたし、また情誼としても、
(彼らを、見殺しにしては)
と、忍びない情を心の底にもっていたにちがいない。
しかし、秀吉は、いま、
「そういたせ」
と、信長から指令をうけると、否やをいわず、
「承知いたしました」
と、即答して退った。
そして独り、私情を圧し伏せるために、自問自答しつつ中国へ引っ返して行った。
「──勝ちがたきは避け、勝ちやすきに勝つ。……これは兵法の当然だ。手段のためには、信義も何もないようだが、本来、われわれはもっと偉きな終局の目標へ向って戦っている筈である。私情の忍びがたきものも、そのためには、忍ばなければなるまい」──と。
で、秀吉は、高倉山へ帰陣すると、丹羽、滝川、明智などの諸将を集め、
「御意向は、こうあった」
と、ありのまま、信長の方針を告げて、即刻、ここの陣所を引き払って、信忠の軍に合流するよう命令した。
丹羽隊、滝川隊などを殿軍にのこして、まず秀吉や荒木村重の本軍から後退を開始した。
「──重茲はまだ帰らぬか」
彼は、高倉山を去る間際まで、何度もそれを訊ねていた。
秀吉の胸をよく知っている竹中半兵衛は、共にうしろ髪をひかれるように、
「まだ、戻りませぬが?」
と、上月城のほうを途上から振向いた。
重茲とは──秀吉の家中亀井重茲のことである。一昨夜、秀吉の旨をうけて、重茲は単身、上月城へ使いに赴いていたのだった。
(首尾よく、敵の囲みの中を晦まして、城中へ行き着いたか。どうか?)
それも案じられたし、また、
(山中鹿之介らの尼子一党が、どう覚悟をさだめたか?)
も、秀吉には、頻りと心懸りになっていた。
秀吉は、重茲を城中へやって、作戦の方針が一変するにいたった事情を知らせ、
(死中に活を求めるの大決心をもって、城中から突出し、われらと合体してはどうか。明一日、滞陣して待つ)
と云い送ったのであった。
そしてきのうは一日、心待ちに窺っていたが、城中の兵は、動きもせず、またそれを囲む毛利の大軍にも、何の異変が見えないため──ついに諦めて、高倉山を去ったのであった。
上月城はいま、絶望の底にあった。
「守るも死、出るも死」
さすが不撓不屈な山中鹿之介も、茫然、策を知らなかった。
秀吉の使い、亀井重茲から、その余儀なきにいたった事情は、つぶさに聞きとった。
「……誰をか恨まん。ただ天のみです」
鹿之介は、使いに云った。
そして、主君勝久、そのほかの面々と評議の後、
「せっかくのおことばながら、この籠城に疲れた小勢をもっては、到底、城中から討って出て、お味方の陣地へ合するなど思いもよりません。──所詮は、他に万全の策を求むるよりほかござりませぬ。何とぞわれらのことは、御懸念なく、お引き払いあるよう、筑前どのへ、お伝えたまわりたい」
と亀井重茲に、返辞を託した。
使いを返すと、鹿之介は、
「一時の恥は忍んでも」
と、ひそかに、書面をしたためて、寄手の総大将毛利輝元へ宛てて降伏状を書いた。べつに吉川、小早川の二将に対しても、その執りなし方を依頼した。
主人勝久の助命と、城兵七百の命乞いであったことはいうまでもない。
けれど吉川、小早川の両川は、鹿之介が再三の詫入れもきかず、飽くまで、
「開城と共に、勝久の首を」
と追求した。
最後には、
「降を乞いながら、憐愍を仰ぐなど、贅沢な云い分。否やあれば、七百の城兵もろとも、屠り尽すまでのこと」
と、断乎たる拒否だった。
鹿之介は、悲涙をのんで、勝久の前にひれ伏した。
「この上は、臣らの力も及びませぬ。……あわれ、お頼り効いもない家来をおもち遊ばしたのが御不運でした。今は是非なしと、お覚悟のおしたくを」
と、訴えた。
「否とよ、鹿之介」
勝久は、顔を振った。
「事、ここにいたったのも、決してそちたちが微力のせいではない。さりとて、織田殿を恨もうとも思わぬ。約束事じゃ。……むしろ勝久には、そちたちの忠勤にはげまされて、今日、武門の端に、大将たる名を辱めて来たよろこびの方が遥かに大きい。……毛利のため、一たび滅ぼされた尼子家を、一時でも興したのは、そちたちの義心によるもの。この勝久とて、一度は出家して、まったく世から葬られていたのを、そちのため、家名再興の志を立て、尠なくも今日まで、何十度の合戦に、怨敵毛利家をなやまし苦しめて来たことは事実だった。……たとえ今、敗るるとも、なに、惜しかろう。男子として、やる限りはやったと思う。──以て、みずから瞑すことができる」
七月三日の暁け方、勝久は、いさぎよく切腹を遂げた。
時、その人は、わずかに二十六歳であったという。
毛利氏と尼子氏との宿怨は、大永三年、尼子経久と毛利元就との手切れ以来であるから──その間の興亡流血は、ことし天正六年まで、実に五十六年間にわたる悲壮な闘争をつづけて来たわけである。
が──ここに一時不審を抱かれたのは、一党の盟主山中鹿之介幸盛の進退だった。
主君勝久に切腹をすすめながら、しかもその勝久以上、今日まで、千辛万苦、百折撓まず、対毛利家と抗争をしつづけて来た彼が──追い腹でも切るかと思いのほか、案に相違した行動に出たことである。
「主人勝久が、かく成り果てました以上は、はや尼子家も断絶、われわれの初志も、意義なきことと成り終りましたれば──」
と、その鹿之介は、即日、城を開いて、吉川元春の陣所へ出向き、雑兵同様、意気地のない降人として名乗り出たのであった。
「人の心はわからぬもの」
「いや、いかに忠義を装うても、最後の土壇場へ来ると、化けの皮も剥がずにいられなくなるのだろう」
非難は、鹿之介に集まった。
その卑劣な心事は、唾棄すべきものだと、彼がのめのめ生きながらえているのを、誹謗する声が、敵にも味方にも高かった。
降伏して、彼が城を出たときさえ、そういって罵った人々は、数日の後、もっと意外なことを聞いて、
「ほんとか?」
と呆れ顔を見合わせた。
それは、降将鹿之介に対して、毛利家から、
(周防の地において、五千石を与えるが、この後は、随身して、忠勤を励むか)
と、いったところ、鹿之介は喜悦して、すぐそれを受けたという噂なのである。
「……浅ましい犬」
「武士の風上にもおけぬ奴」
どんな口ぎたないことばをもって罵っても、罵り足らないように、聞く者はみな、「山中鹿之介幸盛」なる名を蔑んだ。
その名は、二十年も、敵たると味方たるとに関わらず、
==百難に屈せぬ孤忠義胆の武士らしき武士!
として、ふかく心に刻まれていただけに一層な憎しみも覚え、また買いかぶっていた自分の不明にも、忌々しさを感じるものらしかった。
草いきれ、人のうわさ、七月の暑い真盛りであった。
世の是々非々、あらゆる嘲罵にも、まるで耳のないような人──山中鹿之介は、その妻子や一族郎党と共に、周防の任地へ導かれて行った。
もちろん毛利家の将士が、数百名、前後について行った。案内としてではあるが、実は、警固であることはいうまでもない。いつ暴れ出すか知れない猛虎は、檻に入れて飼い馴らすまでは、決してまだ安心はないとしているふうであった。
日をかさねて、備中路へ入り、松山の麓、阿部の渡しへかかった時である。
「おつかれでござろう」
毛利家の天野紀伊守は、馬を降りて、鹿之介の傍らへ寄って来た。
鹿之介も、馬を降りて、河原にのぞむ大きな岩に腰かけていた。
「足弱な子達や女房方を、さきに渡舟で川を渡しますから、しばらくは御休息あるように」
紀伊守は、かさねていった。
鹿之介はうなずく。
きょうばかりでなく、彼はこの頃意識して、
(要らざる口は開くまい)
としているように、無口な人になっていた。たいがいな場合──召し連れている郎党たちにさえ──ただ頷くだけが多かった。
紀伊守は去って、渡舟の混雑へむかい、何か岸から声をかけていた。
渡舟は、一、二艘しかない。順々に人が山のように盛られて対岸へ運ばれた。鹿之介と苦労を共にして来た三十余名の郎党のなかに、彼の妻や幼い子も、埋もれるように船の中に乗せられていた。
その船を見やりながら、岩にかけて、肌の汗をおし拭っていた鹿之介は、
「……彦九郎」
と、呼んで、側にいた従者の後藤彦九郎に、手拭を渡し、
「冷たい川の水で、ひとつこれを絞って来てくれい」
と、いいつけた。
もう一名、鹿之介の側を、始終離れずにいた柴橋大力介も、鹿之介の乗馬を曳いて、川の岸へ下りていた。
馬に水を飲うために。
青い翅の虫が、キチキチキチキチと、鹿之介の身をめぐっていた。空には、昼間の月が、うッすらと浮いていたし、地には昼顔の花が、這っていた。
「新左。彦右衛門。……よい機だぞ。今だぞ」
紀伊守の嫡子、天野元明は、十頭ばかりの馬が繋いである木立の蔭から、小声で──しかし急な烈しい声で──誰かを急きたてていた。
鹿之介は何も気づかなかった。
妻子一族をのせた渡舟はいま、川の中ほどまですすんでいる──
胸に、川風を入れながら、眼はそれに、見惚れていた。
涙があった。彼のひとみに。
「……不愍な」
と、ふと漂泊の家族に、あす知れぬそれらの者の運命に、親として、良人として、主人として、断腸の感を抱いていたのであるまいか。
虫が啼きぬいている。
淡い昼間の月も、昼顔の花も、炎天の下ながら、なんとなく、もののあわれを人に誘う。
剛者は情に脆いという。
多感多血、人いちばい、鹿之介には、濃いものがある。持って生れた義胆と侠骨は、いまもなお、ひとみの底に、大夏の太陽よりも強烈なものをもって、燃えている。
信長には捨てられた。
秀吉とは手を別った。
そして上月城は敵手に委ね、残る唯一なるもの──すなわち主君尼子勝久の首級まで、敵に捧げてしまった。
その、今を。
彼はなお、頑然と、ここに生き残って、眸の光を、失っていなかった。
(何を望みに?)
(何の面目あって)
自分をつつむ世の嘲罵悪声を、彼は、知らないではなかった。身をめぐってキチキチ飛ぶ螽のように聞いていた。──けれど、涼風を懐中に容れながら聞いていれば、それも気にはさわらない。ひとつの風情と観ることもできる。
憂きことの
なほこの上につもれかし
かぎりある身の
力ためさん
自作の歌だ。数年まえに彼が述懐した歌である。いま、それを心の奥に口誦む。
(孤忠、かならず、つらぬき徹します)
幼少から自分を励ましてくれた母にちかい、旧主にちかい、また、天に誓って、苦戦の陣頭に臨んだとき、宙天の三日月へ合掌して、こう誓言をたてた青年の発足を、彼はいま、新たに胸へ呼び返していた。
==我ニ百難ヲ与エ給エ!
乗りこえ乗りこえ、その百難をここまで踏みこえて来たのである。一難をのりこえては、一難をふり顧るときの生命の大きな呼吸。あの愉快極まる人生の快味を、鹿之介は、みずから名づけて、
(男児の本懐)
としていた。
(百難おのずから憂いなし!)
こうした人生からさらにすすんで、鹿之介は、その百難の中に、大きな歓喜すら味わって来た。──その気持があればこそ、信長の方針が一変したと秀吉の使者から聞いたときも、茫然、一時は落胆したが、人を恨みはしなかった。また、悲しみもしなかった。
(もう、これきりだ)
というような絶望は、今もまだ、決して持たない彼であった。
(まだ俺は生きている。生きる限りは生きて!)
の望みに燃えていた。
一縷のその望みとは、吉川元春に近づいて、元春と刺し交えることだった。尼子氏の積年の敵。その一命をつかみとって、せめては、あの世で、故主経久、義久にまみえんという一念を──なお密かに胸裡ふかく秘している鹿之介なのである。
だが。
敵もさる者といおうか。
降将となって陣門へ伏しても、元春はさすがに警戒して、容易に、彼の眼の前に、その姿を許さないのであった。
そして、慇懃に、禄を送り、その采地へ、彼を誘って来たのであるが──鹿之介の本意なさは、いうまでもない。悶々、この先の機会を、いつに待つべきか、心はそれに囚われがちであったのである。
彼の妻子や郎党をのせた舟は、いま、対岸の渡し口に着いた。
「…………」
遠く、彼のひとみが、大勢の中から降りる妻子の姿に、ふと、気をとられていた刹那である。ものもいわず、うしろから躍りかかった白刃は、鹿之介の肩を斬りさげて、なお発矢と、切ッ先を岩にぶつけて火を発した。
鹿之介ほどの人物にも、乗じられる隙はあった。骨肉の情には、つい心のすべてを、奪われていたとみえる。
不意にうけた肩先の初太刀は、かなり深く斬り込まれたらしいが、
「あッ。卑怯なッ」
と、身を起すやいな、うしろの者の髻を引ッつかんでいた。
身にうけた刃は一太刀だったが、彼の背後に来ていた殺手は二人だった。天野元明の家人で、ひとりは河村新左衛門、もう一名は福間彦右衛門とよぶ大剛の武士である。
「おのれッ」
と云いざま、鹿之介に髻をつかまれたのは新左衛門のほうだった。
彦右衛門は、それを見て、
「鹿之介、覚悟の時ぞ、上意だッ」
と、喚きながら、太刀をふりかぶって、横へ迫った。
鹿之介は、聞くと、なおさら嚇怒して、
「理不尽ッ」
と眦をあげて叫んだ。
そして、新左衛門の体を、横に振って、彦右衛門の腰へたたきつけた。
彦右衛門はよろめき、新左衛門は大地へ抛り捨てられる──
とたんに、ざんぶと、すぐ前の川から高い飛沫があがった。鹿之介のすがたは、その真っ白な泡沫の中に揉まれていた。
「逃がすなッ」
三上淡路守というやはり毛利家の一将。駈け寄って来て、岸から槍を抛りつけた。大鯨を突いた銛のように、槍は真っ紅な水の中に立った。
彦右衛門が躍りこんで、鹿之介へ組みついた。新左衛門もつづいて飛びこむ。髪をつかみ、脚を引き、鹿之介を河原へねじ伏せて、ついにその首を掻き切った。──夥しい噴血は河原の小石のあいだを縦横に走って、阿部の川波は燃ゆるかのように揺れていた。
「おうッ、わが殿ッ」
「鹿之介様ッ」
同時に、哭くが如く、吠えるが如き声が岸の上に聞えた。従者の柴橋大力介と後藤彦九郎であった。
ふたりとも、主人の大事と見て、すぐ駈け寄って来たのであるが、元より毛利方としては、計画的に行ったことなので、それと一斉に云い合わすやいな、二人を鉄桶の内に取り囲んで、近づけもさせなかったのである。
「これまで!」
主人の最期を知ると、二人の従者も、それぞれ力の限り斬り死にして鹿之介のあとを追った。
大力介の首は、毛利方の渡辺又左衛門、転左衛門尉のふたりが挙げ、後藤彦九郎は、無数の敵の中に斬りさいなまれて絶命した。
かくて、鹿之介幸盛の生涯も、その壮志も、ここに終った。
所詮、人間の肉体は、永遠ではあり得ない。けれど、彼の忠烈とその義心は、長く武門に生きた。
濃藍の夕空に、ふと、三日月の光を仰ぐとき、山中鹿之介幸盛の不撓不屈を想うて、おのずから敬虔な心に打たれる──とは、後々まで、武門の人がみないったことばである。
その人たちの胸をとおして、鹿之介は、永遠に生きたといえる。
その最期のとき、首に掛けていた大海の茶入れと、腰なる新見国行の刀は、彼の首級に添えて、やがて吉川元春の前に送られた。
「もし、足下を討たなければ、いつかかならず、この元春の首が、足下の手に掻き取られたろう。武門のならいである。かくなっては、御身も莞爾として、瞑するほかはあるまい」
元春は、首へ向って、合掌しながら云った。
鹿之介の妻は、彼の領下、出雲の者なので、元春は懇ろにその妻子を、郷里へ送ってやったという。
秀吉の手勢約七千五百。
上月を去って、いったんは、その方向を但馬へとって進むかのように思われたが──急に、播州の加古川へ迂回して出て、ここで織田信忠の軍三万と合した。
七月に入っていた。
この大軍にかかられた神吉の城も、志方城も、一揉みに揉みつぶされた。
残るは──別所一族の本拠──三木城だけとなった。
こういえば、三木城へ迫るまでの戦いは、簡単に運んだようであるが、前衛の一塁一塁を陥すにも、夥しい犠牲と、猛烈な攻撃をもって、ようやく抜くことができたのである。
織田方の総兵力三万八千が、七月から攻撃を始めて、八月中旬に至ったのを見ても、いかに敵もまたよく抗戦したかがわかる。
武器の進歩につれて、刻々、必要とされて来る戦法の変革も、こう手間どる一因であった。
総じて、中国軍の兵器は、越前や北国や甲信の敵の比ではない。強力な火薬や、まだ見たこともない大鉄砲に、織田軍は初めて接したのである。秀吉としては、この敵に教えられることが多かった。敵に学びながら、敵を攻めた。
おそらく、黒田官兵衛が、奔走して、買入れて来たものであろう。旧式な石火矢や大筒を捨てて、陣前の井楼に、南蛮製の大砲を城へ向けてすえつけたのも、秀吉がいちばん早かった。
それを見て。
丹羽五郎左衛門の陣でも、滝川左近の陣でも、新鋭の巨砲を争ってすえつけた。
聞けば、こんどの中国戦を聞きつけて、遠く九州の平戸や博多あたりから、多くの武器商人が入りこんでいたらしい。それらの商人は、敵国の毛利領の哨海面を生命がけで冒して来て、播磨灘の室の津、その他の港へ、はいっている。秀吉はそれを諸将に斡旋して、金にかまわず購入させたのである。
それらの新武器の威力は、まず神吉の城で試された。
城の攻め口へむかって、築山をつき、または、材木で井楼を組みあげ、その高所に大鉄砲をすえて、城中へ撃ちこむのである。
城の土塀や門などを破壊するのは容易だった。もっとも目標とするのは、櫓と本丸の建物である。
しかし敵にも砲がある。また新鋭な小銃や火薬もある。井楼は幾たびも、粉砕され、或いは焼かれる。また組む、また撃ち砕かれる。
こういう悪戦苦闘のあいだに、一方では、寄手の工兵が濠を埋めて、石垣の下に迫り、また、「金坑の者」と称する土龍隊をつかって、地下道を掘鑿してゆく。
それを、夜となく昼となく、起番寝番と入れ交えて、間断なく継続し、城方の者をして、防ぐに遑なからしめる。──そういう戦法のもとにようやく陥落を見たのであった。
志方や神吉の小城でさえ、これくらいな努力が要った。まして三木の本城が、より以上、難攻であることはいうまでもない。
城の東──約二十町ほど離れたところに一高地がある。平井山とよぶ。
秀吉はここに陣し、兵八千を周囲に配置していた。
一日、信忠が来て、ふたりして敵状をつぶさに視察した。
敵の南は、丘陵、山また山、播州西部の山岳に拠っている。
北は、三木川のながれ。東は、いちめんの竹林帯や耕地荒地。──そして三方に高い城壁をめぐらし、本丸、二の丸、新曲輪の三部を中心に、附近の丘にはなお点々と、数ヵ所の防塁を備えている。──といったような概観であった。
「筑前、急には参るまいの」
と、信忠は、眸を城へやりながら、傍らへ独り言のように質した。
「──所詮、急には抜けますまい。まわりは朽ちているようでも、まだ根は深い齲歯のようなものですからな」
「なに、齲歯」
秀吉の奇警な比喩に、信忠は思わず苦笑をもらした。
信忠は四、五日前から、奥の臼歯を病んでいた。
そのため顔がすこしいびつに腫れ歪んでいる。──それを見て秀吉が、三木城の要害堅固を、自分の齲歯にたとえていったので、おかしいやら痛いやら、頬を抱えて苦笑せざるを得なかったわけである。
「なるほど、齲歯とはおもしろい。抜くには、根気が要るの」
「五体のうちの一歯でありながら五体に反いて、お味方を病め悩ませる別所長治。──齲歯の如き存在といってもまだ飽き足りません。……が、怒りにまかせて、短慮に退治しようとすると、歯ぐきはおろか、下手に参ると、五体のいのち取りとならぬ限りもございませぬ」
「では、どうするか。策は?」
「命数は知れています。自然、根が弛み出しましょう。糧道を断ち、折々、歯の根を揺りうごかせば」
「急攻の見込みなくば、いったん岐阜へ引揚げよと、父の信長よりさしずが参っておる。持久策と事きまる上は、そちに任せて、儂は一時、岐阜表へ立ち帰ることにいたす」
「お後の儀は、御懸念なく」
「では、明朝より、諸方の囲みは、そちの一手をもって、ぬかりなく致すように」
信忠は、そういって、平井山を降りて行った。
次の日。──岐阜中将信忠は、諸将をひきつれて、戦場を引き払った。残るは、秀吉麾下の八千だけである。
その八千の兵を、三木城の四方に配して、各所に大隊司令部を置き、半恒久的な支営をもうけて、支営と支営とのあいだには、柵を結い、哨兵を屯させ、城中と外部との通路を遮断した。
殊に、城南の通路に、監視隊は重点をおいた。この道を五里ほど西下すると、魚住の海浜に出る。ここにはしばしば、毛利方の水軍が、その豊富な兵船をもって、護送船団を組織し、武器食糧などを三木城に幾度か運び入れていたからである。
「涼秋八月。──よい月だな。市松、市松」
秀吉は、外へ出て、宵月を仰いでいたが、陣屋のうちへ、こう呼び立てた。
「はいッ」
「はい」
「はッ。御用ですか」
争って出て来たのは、みな年少の小姓輩であった。福島市松はその中にいない。いま免しが出たので朋輩と裸体になって谷川へ行水を浴びに行ったという。
加藤虎之助、石田佐吉、片桐助作など、いずれ劣らぬ顔を見まわしながら、秀吉はいいつけた。
「誰でもよい。この平井山の見晴らしのよい場所に、莚の席を拵えろ。──月見するのじゃ。そうわれ勝ちに争うな。戦ではない。月見するのだ」
「かしこまりました」
佐吉、助作などが、駈け出してゆく。虎之助は、黙って、秀吉のうしろにひかえていた。
「於虎」
「はい」
「半兵衛を誘うて参れ。──気分がよくば、秀吉と月見せぬかと」
「行って参ります」
辞儀して、立ち去る。
そこへ佐吉や助作が、お席を設けましたと告げて来た。陣営のある所からまたすこし登った平井山の山巓に近い一平地である。秀吉はそこへ行って、
「なるほど。絶景絶景」
と、まず地の利を賞めた。
そしてまた、小姓たちへ、
「黒田官兵衛も、誘うて来い。この月を、見せぬは惜しい」
と、いって、彼の小屋へ使いを走らせた。
巨きな松の根がたである。月見の莚には恰好な場所だ。
折敷には乾肴、鶴くびの一壺には冷酒。あれこれの贅はなくても陣中の小閑を楽しむには充分である。──まして皎々一輪の月は頭上にある。
秀吉を中に竹中半兵衛、黒田官兵衛、そう三人は、莚のうえに鼎坐していた。
「…………」
飽かず、月を見上げて。
秀吉は、尾張中村の芋畑を回想していた。半兵衛は初めて世の不思議を感じた菩提山の月を思い出していた。また官兵衛は反対に、この月も忽ち騒雲につつまれれば墨のようにもなる──明日を独り考えていた。
月はひとつだが、観るものの心々に観られていた。
「半兵衛どの……お寒いのではないかな」
ふと、黒田官兵衛が、そういって宥わったので、秀吉も急に案じられたものか、半兵衛の面へ眼をうつした。
「……いや、さほどでも」
静かに、そう笑って、半兵衛は顔を横に振って見せたが、その一瞬、気のせいか、彼の面は、月より白く見えた。
「才子多病か」
秀吉は嘆じた。浮いた嘆声ではない。彼の多病を嘆くこと、秀吉は、半兵衛自身よりも遥かに大きかった。
長浜では馬上で血を吐いた例がある。北陸の征途でもよく病んでいた。中国役の二度目の出立の折には、
「無理であろう」
と、止めたが、
「なんの」
と半兵衛重治は、こともなげに陣中に加わって来た。
彼が側に在ることは秀吉として心づよい。有形無形の力といえる。たとえば劉備玄徳が孔明を得て師事したごとく、義は君臣であっても、心のうちでは師と仰いでいるのである。わけても今、中国攻略の難業にぶつかって、戦いはようやく長期にわたり、また味方のうちにすら嫉視の輩も尠なくない──いわゆる人生の嶮路にさしかかっている彼として──竹中半兵衛を恃むことはなおさら切実であった。
が──その半兵衛は中国へ来てからすでに二度病に倒れていた。秀吉は憂うるの余り京都に良医があるということを口実にして、強いて陣中を去らせたが、すぐ立ち帰って来て、
「それがしの虚弱は、生れながらのものの由です。さすれば病は平常のことですから、特に療養の意味もありません。武士の陣中生活は平常のことですから」
と相かわらず帷幕に務めて、少しも倦むところがない。
けれど、病身ということは、厳然たる事実である。いかに彼の精神力をもっても、或る程度以上はそれを克服し得るわけもない。
但馬からここへのあいだ、行軍中に豪雨の日がつづいた。その無理が出たのであろう、平井山に陣地をかまえてから、
「風邪気味」
と称して、秀吉に顔を見せない日が二日あった。
病の篤い日は、秀吉に顔を見せないのが、半兵衛の常であった。心配をかけまいとするのであろう。秀吉にはわかっている。
しかし、この数日は、昼間、笑顔さえ見せていたので、秀吉は久しぶり月下に膝をくんで語ろうとしたのであるが、月の光のせいばかりでなく、やはりまだどこかに勝れない色が彼のすがたに見えてならない。
主君の秀吉も、友の黒田官兵衛も、こうして一つ莚に月を賞しながらも、共に自分の病を気づかっていてくれるらしい容子を察して、
「おお、忘れていた……」
と、半兵衛重治は、わざと、急に思い出したように、話をよそへ紛らして、
「官兵衛どの。昨日、国許の家臣から参った消息によれば、御嫡子の松寿丸どのには、いよいよ健やからしく、また、馴れぬ周囲の者にも、ようやく懐いて、息災でおられる由、御安心なさるがよい」
と、いった。
官兵衛は、にことして、
「いや、重治どののお国許にある限りは、松寿丸の身には何の心配もありません。ほとんど考えたこともないくらいです」
「でも。……折には、大きゅうなられた和子の姿を、見たいと思われることもあろうに」
「親ごころ、それだけは、いくら戦陣にある身でも、時々、思い出しますな」
それから二人して、しばしは、子どもの話が交わされた。まだ実子のない秀吉には、人の子の親と親とのはなしは、ただ、羨ましげに聞いているしかなかった。
松寿丸──後の黒田長政──は官兵衛孝高の嫡子であるが、夙に、官兵衛が将来を察して、款を信長に通じたときから、その子を、質子として、信長にさし出してあった。
信長は、質子を、竹中半兵衛に預けた。半兵衛はその郷土でもあり領地でもある不破郡の岩手城に送って、わが子のように、育てていた。
秀吉を中心に、官兵衛と半兵衛とは、こういう情誼からも結ばれていた。だからその智謀の将たる点では、非常に相似ているものを持ちあいながら、この二人が、功名や地位を争って啀みあうようなことは少しもない。両雄ならび立たずということばも、秀吉の帷幕では、実証されないことだった。
月を見、酒を酌み、古今の英雄や興亡を語り合っているうち、半兵衛もいつか病苦を忘れているかのようであった。──しかし、いつかまた、話が結論にもどって、
「朝に三軍を指揮しても、夕べには死ぬかも知らず、こよいはこうして月を見ていても、あすは知れぬ身はおたがいのことだが──やはり大志を抱いてそれを成し遂げるためには──いかなる英雄でも長寿をしなければ完成はできない。……たとえ短命であろうと、末代に名をとどめた華やかなる英雄も忠臣も世に少なくはないが、なお、それをして長命させたら? という恨みは誰にも尽きぬ気がする。……また、旧を排し、悪弊を討ちなど、破壊ばかりが英雄の事業ではない。そのあとに建てる次代の文化をも完成して──初めて英雄の業は成るというものだ。それこそ巨人の責任ではなかろうか」
と、官兵衛が云い出したのに対して、秀吉は、
「そうだ。そうなければ」
と、幾たびも、頷いたあげく、沈黙している半兵衛重治へ向って、
「そのためには、明日知れぬ生命も愛しんで、平常身の養生につとめ、長生きをせねばなるまい。……半兵衛にも、そのつもりで、どうか養生してもらいたいものじゃ」
と、いった。
「同感です──」
と、官兵衛も口を添えて、
「ぜひ、無理をなさらずに、この秋は、京都の寺院にでも引き籠り、名医を求めて、御養生ねがいたい。友人としてもお頼み申すし……また、主君に安心をおさせするという意味で、それも一つの御忠義といえると思う」
と、秀吉と共に、切に彼の静養をすすめた。話はそのことに落着いてしまったのであった。
友の情、主君の愛、半兵衛は身に沁みて聞いた。心の底からありがたいと思った。
「おことばに従い、しばし京都へ去って身の養生に努めましょう。……が、ひとつ、その前に計画中の大事がありますから、その成功を見た上のことにしたいと思いまする」
秀吉は、うなずいた。
かねて半兵衛重治の献策で、戦局の裏面工作に打ち込んだ一計がある。しかしまだそれは、成功を見るまでに至っていなかった。
「気がかりとは、明石景親のことか」
秀吉のことばに、
「仰せの通りです」
半兵衛も、頷きを返して、さて、改めていった。
「療養のお暇を賜わるまえに、五、六日の離陣をおゆるし下さるならば、それがし自身、ひそかに備前八幡山の城へ参って、明石景親に会い、まだ彼とは一面識もないあいだですが、大義を諭し、利害を説き、誠心誠意をもって、かならず彼をお味方に招きよせて参りまする。おゆるし賜わりましょうか」
「もとより、それが出来れば、大きな功だが、……万一? ……十中の八、九はむずかしいと見なければならぬが……そのときは」
「一死あるのみでございまする」
半兵衛は眉もうごかさずに答えた。それは、心にない者が、強がっていうのとちがって、いかにもすずやかに聞えた。
明石景親は、宇喜多家の被官で、八幡山の城をかため、たとえ三木城は陥し得ても、次の大敵たることはいうまでもない。
秀吉はいま、三木城ひとつすら陥しかねている苦境にはあった。けれど彼は、決して、眼前の攻城だけに、焦慮したり、囚われてはいないのである。
ここは戦いの一局部に過ぎない。秀吉が策すところは中国全体の攻略にある。半兵衛の計を容れて、ひそかに、八幡山の明石一族へ、書を送ったり、使いを求めたり、あらゆる外交折衝をこころみているのも、そのためにほかならない。
「参ってくれるか」
「参りましょう」
秀吉は、彼のすずやかな決意を見ても、なお、幾分のためらいを示していた。
いま、単騎備前へ入ることは、多くの危険が予想されるからだった。
途中の危険は越えられても、もし先の明石景親と会って、交渉が不調に終るときは、敵が半兵衛を生かして返すやいなやも分らないし、また半兵衛自身も、生きて空しく帰って来るかどうか──秀吉には心許なく思われる。
おそらく、半兵衛の真意は、
(病に斃るるも、敵中に斃るるも、ひとしく一死あるのみ。同じ死ぬものならば)
と、独り期しているのではあるまいか。秀吉には、そう思われてならないのである。
すると黒田官兵衛が、側からまた一策を献言した。
宇喜多直家の家中には、旧知の者が少なくない。この際、半兵衛どのが明石家へ働きかけるなら、自分は、その主筋にあたる宇喜多へ向って、全力的に、和議を講じてみたい──
というのであった。
ふと、そのことばに、秀吉は、直感的に、
(これは出来そうだ。……いや出来る)
という確信をもった。
中国へ入攻以来、備前の宇喜多というものを見ていると、その行動には、よほど微温的なところがある。
(危急の際だから毛利の援助を仰いだが、何も全幅的に、毛利と同盟したわけではない。信長に将来があるなら信長に拠ってもよいが、ただ、信長に味方しても、得るところがなければつまらない。のみならず、宇喜多の破滅だ……)
として、日和を見ているふうが、充分にある。
殊に上月城も陥ちて、吉川、小早川の大軍が本国へ引きあげてから後の宇喜多家には、濃厚にそれが看てとれた。
「なるほど、宇喜多が妥協すれば、その被官、明石景親も、てもなく屈服して来ようし……景親がわれに降れば、宇喜多もたちまち和を乞うであろう。これは同時に運ぶが妙だ。──さっそく、半兵衛も参るように。また、官兵衛も手をまわして、極力、宇喜多直家へ働きかけてくれい」
あくる日、竹中半兵衛重治は、
「病のため、しばらく賜暇を願って、京都へ療養に赴く」
と称し、ほんの郎党二、三を連れたきりで、平井山の陣を去った。
また数日たってから、黒田官兵衛のすがたが、ここに見えなくなっていた。
しかし官兵衛の方は、その行く先を極秘にされ、味方にさえ、なお平井山の陣所にいるように見せていた。
秘策を抱いて、彼は備前の宇喜多家へ、説客として行ったのであり、病半兵衛もまた、八幡山城の明石飛騨守景親を説きに赴いたものであること、いうまでもない。
半兵衛はまず飛騨守の弟の明石勘次郎を訪ねた。
勘次郎とは旧交というほどではないが、京都の南禅寺に参禅中、二度ばかり会ったことがあるからである。
(彼は、禅などにも、心を寄せている侍である。道をもって説けば、すぐ悟るであろうし、進んで兄飛騨守景親を説くであろう)
それだけが唯一の手がかりに過ぎなかったが、半兵衛の熱意と、その病躯を押して敵国へ使いに来た壮志とは、ついに相手の心をうごかさずにはおかなかった。
彼に会ってみるまでは、明石勘次郎もその兄の飛騨守景親も、
(秀吉の師たりまた、世に聞ゆる神算鬼謀の士、どんな策を構え、どんな雄弁をふるって、われを説かんとするか?)
と待っていたらしいが、会談してみると、案に相違して、平凡淡々何のけれんも手くだもない人物であることが分った。
この使いに当って、半兵衛が信念して行ったことは、彼の利を考えてやることと、決して、詭弁を用いないことであった。要するに、誠意という、至極平凡に似たことを、飽くまで尽したというに留まるものだった。
詭策鬼謀は、兵家のあいだに、実に目まぐるしいほど、やり取りされていた。その中にあって、真っ正直な態度を取り、相手の利を誠実に考えてやることは、却って驚くべき奇策の効を持つものかも知れなかった。
いずれにせよ、明石一族は、宇喜多家を離れて、ひそかに秀吉へ款を通じることになった。
半兵衛重治は、その間に立って相互のためよく将来の計にもあずかり、協定取りきめのことまでをすますと、初めて、
「──では、しばしおいとまを戴いて」
と、こんどは本当に病気療養のため、軍務を離れて、京地へ行った。
その際、秀吉から、
「右大臣家(信長)へお目通りを願い、秀吉に代って、明石景親の招降功を奏し、備前八幡山の一城は以後、お味方の一勢力と相成った由を、つぶさにそちからおつたえ申しあげるがよかろう」
とのことだったので、彼はさっそく、二条城へ登って、信長に謁し、秀吉の書を呈したうえ、ありのまま、報告した。
「なに、一滴の血もながさず、八幡山が手に入ったとか。よういたした」
信長の喜悦は、非常なものだった。播州一円にとどまっていた自己の勢力が、初めて備前へ踏み込んだ最初の一歩として大きな意義がある。
「見るからに、痩せたのう。大事に療養せい」
と、半兵衛の病を宥ることも忘れず、その功を賞して、彼には、銀子二十枚を薬料として与え、また秀吉の方へは、
「このたびのこと、並々ならぬ分別。委細は面晤にゆずるが、当座の歓びのしるしまでに」
と、黄金百枚を贈らせた。
半兵衛は、面目を施して、洛外の宿へ退った。そこは京都南禅寺の末院らしい一房だった。
歓ぶときは度を外して歓ぶ。信長の性情に見る特質である。彼はまた朱印をもって、秀吉を播州の探題に封じた。
平井山の長陣は、依然難攻の三木城を包囲したまま、膠着状態にあったけれど、こうして、裏面の外交工作は着々功を奏していたのである。
だがさすが大藩だけに、宇喜多家との交渉は黒田官兵衛の辣腕をもって必死に働きかけても、まだ容易に、成功を見るには至らなかった。
備前、美作の二州を擁して信長勢力と毛利圏内との、ちょうど中間にある山陽の宇喜多家は、或る意味での中国の将来は、その向背によって定まるといっても過言ではないのである。
その宇喜多家には、由来、和泉守直家を輔佐している四家老というものがある。──長船紀伊守、戸川肥後守、岡越前守、花房助兵衛の四老である。
このうちの花房助兵衛は、黒田官兵衛と一脈相通じるものをもっていた。
官兵衛は、説客として、まず彼の門をたたき、徹宵、天下を談じ、風雲の将来を卜し、また武士の心胸をひらいて、
「およそ、眼さきも見えず、勝つか負けるか、確信もなく、ただやみくもに、武名武名、と強張って滅亡の戦をするほど、愚なる沙汰はござらぬ。主家のためにも、百姓のためにもならず、大きくは、泰平の招来を遅くするだけのもので、弓矢の本義とは、決してそんなものではないはずでおざろう」
と、官兵衛一流の見解をのべて、まず相手の荒胆をなだめ、諄々と、
(──やがて、次代の世は、かくなるものである)
と、信長の抱負を語り、秀吉の人となりをそれとなく話し、いつか花房助兵衛の心をまったく捉えていた。
その花房助兵衛をもって、戸川肥後守を説かせ、四老のうち、二人までは、まず秀吉加担に傾いたところで、官兵衛は直接、宇喜多直家に会って、
「御当家の立場は、もはやいつまで、日和見をゆるすものではありません。いまや毛利どのに組すか、羽柴どのと盟約あるか、二つに一つを選ばねばならぬときに迫っています」
と、単刀直入に、
「確たる御返辞を」
と、秀吉の使いとして、態度の表明を求めたのである。
もちろん重大事である。
四老以下、重臣をあつめて、評議となった。
花房、戸川のふたりは、当然、官兵衛の口吻を代表していた。
「羽柴筑前を通じて、織田方に加担あるこそ、将来の大計と信じられる」──を、主張するのだった。
それに対して、四老の一人、長船紀伊守が、
「なるほど、秀吉とやらは、信長の卒伍から身を起して、いま播磨一円を領し、やがては山陰山陽の二十余ヵ国をも併呑せんとするかの如き概ある者、おそらく凡人ではありますまい。──しかし、御当家としては、すでに御子息のうちお三方まで、毛利家へ質子として差出してあるものを、今さら、如何ともいたし方のない立場ではござるまいか」
と、旧条約をまもって、現状維持をよしとするような意見をのべた。
それを聞くと、宇喜多直家のこころは、忽ち決したらしく、眉をあげて一同へいった。
「もし、天下の大勢が、東にありとすれば、信長、秀吉の鋭鋒にあたって、当家は、毛利家の楯となってほろぶに過ぎん。ひとたび家のほろぶ時は、父母兄弟、そのほか一族など、何百人が犠牲となるやらわからぬ。──いま眼を閉じて、三人の子を捨て、数万の将兵を救い、あわせて天下に益することができるなら──直家の子らは、よろこんで敵国の土に瞑してくれるにちがいない。この直家も、父たる情を超えて、より大きな意義に味方し、秀吉と手を結ぶも、決して武門の辱ではあるまい」
大決心といわねばならない。
こういう時に、もし首脳たるものが迷っていたら、果てしもなく、内争と対立を生んで、すべての者が、国土のためを念じながら、結果は反対に、亡滅の底へ急いで行ったにちがいない。
(三人の子を、敵国の質に捨て去るも、この国土をまもり、幾万の将士を救い得れば、自分の希うところである)
という宇喜多直家の一言には、対立も、家中の異論も、ことごとく沈黙のほかなかった。その大乗的な観点のもとに、衆心は一つになって、即座に、
(そうだ、国土あっての民)
(民あっての武門)
と、たちまち議は一決し、その日のうちに、黒田官兵衛へ和協の旨を答え、官兵衛を通じて、播州平井山へ早打を依頼した。
官兵衛の書面を見て、
「大出来」
と、秀吉は満足した。
もっと彼を感嘆させたのは、官兵衛の周到な用意である。書面のうちには、
──一件、相調ひ候上は、調印誓紙お取りかはしのため、しかるべき方を至急お遣はし被下度……
と、功を誇らずまた、やり過ぎもせず、自分は裏面の策士たる任務に止まって、盟約の正使を求めていることだった。
使者には、蜂須賀彦右衛門がえらばれた。彦右衛門は、宇喜多直家に会って、
「御当代はもちろん、子孫まで、かならず疎略はあるべからずとの、主人筑前守の、おことばでした」
と、伝えた。
直家は、恩を謝して、熊野牛王宝印の料紙に、誓約をしたためて差出した。
こうして、まだ三木城の陥ちないうちに、より大きなものを、秀吉は、一矢も費やさずに、その陣後において獲得していた。
備前、美作の二州は、血を見ずに味方へ加わったのである。彼はこのよろこびを、当然、主君の信長へ、一刻もはやく告げたく思った。
「書面ではあやうい」
と思った。まだ、極秘のことだからである。──毛利家に対しては、極力、或る時期の来るまで秘めておく必要がある。
「官兵衛。つづいての御苦労だが、信長公へ、この儀、御報告に参ってくれぬか」
「私で事足りれば」
と、彼はすぐ京都へ向って出発した。そして、安土城の中で信長に目通りした。
委細を聞いているうちに、信長の気色は、甚だおもしろくないものに変って来た。このまえ竹中半兵衛が二条へ来て、明石一族の投降を報告したときの歓びや──その功を称えたときの容子とは──余りにもちがいすぎる不機嫌さなのである。
……はてな?
と、官兵衛も、それと察して、すこし口を慎みかけると、果たして、
「待て」
と、話し半ばに、信長からこう口を圧えて来て、
「いったい、それはたれの指図によっていたしたか。筑前の命とあれば、筑前に詰問せん。──かりそめにも備前、美作二州の処分を、独断にて取りきめるなど、僭上至極。立ち帰って、筑前に左様申せ」
と、けんもほろろに叱りつけ、なお云い足りないように、こうつけ加えた。
「筑前の書面によれば、近日、宇喜多直家を伴って、安土へまいるとあるが、たとえ直家が参っても、目通りはゆるさぬ。いや、直家は当然のこと、筑前にも、会わぬぞと申し伝えい」
何しても、もってのほかな立腹なので、黒田官兵衛にも扱いようがなかった。むなしく悶々の情を抱いて、彼は播州へ立ち帰った。
「かほどな大成功を見ながら、何で信長公には、御不興のみか、もってのほかなと、お咎めか」
官兵衛には、まったく解しかねた。
信長の、いわゆる「お気難しい」性質は、万々承知だが、それにしても、
「お気の知れぬ右大臣家」
と、気落ちして立ち戻った。
ありのままを、秀吉へ語るにも、秀吉の辛労にたいして、気のどくな気がしたが、つつみも出来ぬことなので、平井山の陣所へ着くとすぐ、
「意外にも、こうおざった」
と、安土の不首尾を、つぶさに伝えた。
そして黒田官兵衛は──ひそかに秀吉の顔いろを見ていると、戦場窶れに少し削げた彼の頬に、皺のような苦笑が歪んだ。
「いやなるほど。よくわかった。要らざることを独断で取りきめたと、御立腹なされてか」
と、自分の功を無視された主君の暴言にも、少しも気にかける風はなく、また官兵衛のような落胆もせず、
「──すると、信長公のお肚の裡では、やがて備前美作をも斬り取りにし、宇喜多家も取り潰した上、その領国を御自身の幕下へ頒け与えようとの御目算であったとみえる。いや、そう事なく参ればいいがな」
と、軽く笑い放って、
「目算どおりにゆかぬのが合戦だからな。一日の生活ですら、ゆうべの考えも今朝変り、今朝の目企が昼にはかえさせられる。殊に中国平定の業は前途まだ遼遠……」
独り嘯くようにいっていたが、急に、
「いや、お使い、御苦労であったな。決して、案じられな案じられな」
と、官兵衛の機嫌と気疲れをなぐさめるのであった。
官兵衛はふと、自分の身ぐるみ生命までを、この人の手に持ってゆかれる気がした。──この人のためなら死をもいとえまいと思われるものが、自分でも、おそろしいほど切実に胸へこみあげていた。
それと。
信長のこころを読むことの明らかなことである。仕えている主君とあれば、それくらいにまで、主君の肚を知らないでは充分な奉公はできないにちがいないが──それにしても、さすがは──と、秀吉が信長の草履を取ってから二十年そこそこの間に、今日の信望と位置をかち得たことの偶然でないのを、いま眼のあたり知ったここちがした。
「──では筑前どのには、始めから信長公の不本意を御合点のうえ宇喜多との事をおすすめになられたのか」
「平常の御抱負、いずれはそうとお察し申しあげていたが……御立腹とあれば、それに間違いはない。さきに竹中半兵衛をもって、明石景親の降伏をお報らせ申しあげた折は、非常なおよろこびで、半兵衛も秀吉も過分なお賞めにあずかったが──明石一族の降伏は、宇喜多の攻略を容易にし、また所領の分配にもさしつかえなきゆえの御感賞であったのだ。……しかし宇喜多を帰順させたのでは、所領全部を奪りあげるわけには参らぬからな。そこがお気に障ったものであろう。──秀吉めが、要らざる独断と」
「そう伺って、公のお心持も、ようやく解せました。……けれどお怒りの甚だしさ、たやすくお打解けとも窺われませぬ。たとえ宇喜多直家が出て参ろうと、筑前が詫びに来ようと、目通りはゆるさぬとも仰せられていましたが」
「いやいや、お腹立ちとあればなおさら懼れはしても、伺わねばならん。夫婦骨肉の怒りは、避けているも方便だが、主君のお怒りには、それを避けてはよろしくない。御打擲もうけよう、存分お叱りもいただこうと、面を冒して、ひれ伏すほうが、自分のお詫びもはやくすもうし、なによりは、御主君のおこころをお楽にしてあげられる。……官兵衛、こんどはわしが行って来る。早速、安土へ立つといたそう」
宇喜多直家から取った誓紙は、秀吉の手に留めてあるが、もとより彼は派遣軍の総司令官である。条約文は信長の承認を経なければ当然その効は発しない。
また、礼儀としても、直家はみずから安土へ出向いて、一度は信長へ拝礼を遂げ、以後のさしずを仰ぐのが順序でもある。
そこで秀吉は近日のうちに彼を伴って、曠々と上る手筈もしていたところなので、その日取りのまま、直家と一緒に立った。
安土へ着いた。
しかし信長の怒りは、まだ冷めていなかった。
「会わぬ」
と侍臣を通じて、一言あったきりである。
秀吉は、当惑した。
「……だいぶ、おきびしいな」
城内の控えで、首をかたむけて考えた。
この折の模様を、後の「信長公記」の筆者も次のように記録している。
羽柴筑前、播州ヨリ罷リ越サレ、宇喜多御赦免ノ筋合申シ合セ候間、御朱印ナサレ候様ニト言上ノ処、以テノ他御不満ニテ、御諚ヲモ伺ハズ示シ合セノ段、曲事ノ旨仰セ出サレ、即チ播州ヘ追ツ還サレ候也
「きょうはちと、御主君の御気色がよろしくありません。旅舎へ退って、しばらくお待ち給わりますまいか」
客殿に待たせてある直家のところへ来て、秀吉は気のどくそうに告げた。
「御微恙かの」
直家は不愉快な顔をした。
降を乞うとはいえ、決して信長に憐れを求めているのではない。備、作二州の強兵と一族郎党はなお健在であるのだ。──ただ秀吉の熱情と、官兵衛孝高の説く理に従って、好まざる戦を避けようとするに過ぎない。
「──何事だ。この冷遇は」
口にこそ出さないが、憤然、そう思わずにいられなかった。
これ以上の屈辱はしのび得るところでない。急遽、国へ立ち帰って戦陣のあいだに挨拶をし直そう! 彼の眉は、はっきりそういうものを漂わせながら、
「……いや何。おさしつかえとあれば、またの折といたそう。ひとまず、城下へ降って」
旅舎は秀吉の胆いりで、桑実寺の奥院をあててある。さっそく直家はそこへ戻って、式服を解くとすぐ云い出した。
「夜に入らぬうち、当所を立って、こよいは洛内に一泊する。そして明朝は、勝手ながら、直家のみ、ひと足先に帰国いたせば、悪しからず……」
「や。それはまた、なぜですか。まだ右大臣家との御対面もすまぬうち」
「もうお目にかかる気はござらぬ」
と、直家は、初めて、色にもことばにも、感情をあらわした。
「信長卿にもまた、直家と会う御意志はないかのように存ぜられる。さる上は、ここは縁なき他国。疾く去るほうが、双方によろしかろう」
「それでは、秀吉の立場がござらぬ」
「羽柴どののお扱いには、他日御挨拶申しあげる。また、御厚志は忘れおかぬ」
「いやもう一夜、御逗留あって、よくよく御決意をお練り下さい。せっかくここまで取り運んだ両家の和議を、立ちどころに喧嘩別れとしてしまうには忍びません」
と、強って宥めて、
「今日、御対面を避けたのには、信長公のお胸に、ちと仔細のあることです。夜分にでもまた伺って、その理由をおはなし申そう。──それがしも一応宿へ退り、衣服など改めて出直すことにいたせば、夜食を召し上がらずにお待ちねがいたい」
秀吉は、彼を置き残して、帰ってしまった。
やむを得ず直家は、夕食を喰べずに待っていた。
秀吉は、衣服をかえて、出直して来た。そして夜の食事をしながら談笑の末、
「そうそう、このたびのことで、信長公が何故、この秀吉に辛く当っておられるか──その仔細をお打明けする約束でしたな」
と、彼は思い出したかの如く、そのことについて語り出した。
宇喜多直家も、それを聞きたさに、胸をさすって、出発をのばしてしまった程なので、もちろん熱心に彼の唇を見つめていた。
「実はこうでござる」
秀吉は、自分が独断で取り計らったことが、主君の気を損じた原因であると、まず無造作に、内輪を割って、
「──それがしの計らいをもって、要らざる独断と、御立腹された公の御腹中には、つまり、こういうお考えが横たわっておる。……失礼なれど美作、備前の二ヵ国などは、遅かれ早かれ織田家のもの。それをいま、宇喜多家と和議をむすぶなど、毛頭不必要である。第一、宇喜多家そのものを取り潰さねば、その分国を諸将の功労に分けて取らせることもできぬ。かたがた、安土の命も仰がず、言語道断な──と、まずこういったようなところに、お怒りの解けぬ理由があるわけでござる。ははは」
笑いながら話していることだが、元々、秀吉のそのことばには、寸毫の嘘もないのであるから、やましさのない真実の力は、微笑の裡にも充分相手を圧して来る。
直家の顔は、酔いも血の気も失ってしまった。
威圧といえばこんな酷い威圧はない。しかし、信長がそう考えているだろうということは疑えなかった。
「……で、御機嫌がお悪いのでござる。それがしにも目通りを許さず、あなたにも会わないわけです。断じてお考えをつらぬこうという御意志らしい。そう固く決められたがさいご、決して、お心を曲げないので閉口いたす。ところで何とも……貴殿にはお気のどくに堪えんが、拙者の手におあずかり申している誓紙はまだ仮条約、御朱印のいただけぬ限りは如何ともいたしようがござらぬ。お手許へ御返却申せば、何とぞ、これ限り手断れとおあきらめ下されて、明朝にでも匆々御帰国あるように」
と、かねて預かっていた誓紙を取り出して、直家へ返した。
──が、直家は、凝然と高燈台の火色を見つめたまま、それを手に収めることすら忘れているようだった。
「…………」
秀吉も、気の毒そうに、口をつぐんでいた。直家の黙考していることはかなり長かった。
「いや」
ふいに、直家は、沈黙を破って云い出したのである。しかも慇懃、両手をつかえて──。
「あらためて、お願いする。もう一応の御尽力をあおぎたい。ぜひ、信長公へのおとりなしのほどを」
こんどは心底から降伏するの態度であった。──それまでは黒田官兵衛から無理に説かせて招降したかたちであったが。
秀吉は、大きくうなずいて、
「よろしゅうござる。それほどまで、織田家へ御信頼なれば」
と、ひきうけた。
およそ十日以上も、直家は桑実寺に逗留したまま沙汰を待っていた。
秀吉は急遽岐阜へ使いを出していた。岐阜中将信忠の扱いを仰いで、信長の心をなだめようとしたのである。
上洛の用もあって、その後、信忠はまもなく京都へ出て来た。
秀吉は直家を伴って、彼に謁し、ついに信忠のとりなしで、信長も、
「では、対面しよう」
と、ようやく心を解いた。
そして誓紙に朱印された日から、宇喜多一族は完全に、毛利を去って織田方へ属したわけであるが、偶然といおうか、兵機の間髪といおうか、それからわずか七日と経たないうちに、織田方の勇将荒木村重が、信長を裏切って毛利と呼応し、突然、叛旗を織田の足もとからひるがえしたのであった。
「嘘だ。嘘であろう?」
信長は始め信じない顔つきであった。
荒木摂津守村重謀叛という報が入って、安土の内外を愕かせたときの──彼の愕きから来た一瞬の感情ではそう否定した。
やがて、その報は、
「村重にしたがって、高槻の高山右近も、茨木の中川清秀も、義をとなえ、ともに叛旗をひるがえした」
と、事態の重大さと、その輪廓が明らかにされて来るに従って、信長も、
「さては」
と、今さらのように、狼狽のいろを眉にあらわした。
ふしぎなことには、この意外な事実に当って、彼は憤怒もしなければ、日ごろの癇癖も出さなかった。
信長の性格を「火」と観るのは間違いである。また彼の冷静を観て「水」のような人だというのも違っている。
火かと思えば水。水かと思えば火。炎々冷々、二相一身。いずれでもあり、いずれでもない。──彼はただ、飽くまで信長と名乗る、人間の中には稀な型の一人間であるに過ぎない。
「筑前を呼べ」
沈思していた信長が、突として左右の者へいったとき、
「羽柴どのには、はや今朝がた、播磨へ向って、立ち帰った様子──」
と、声せわしく、答えた者がある。この急変を今、信長へ報らせに来て、そのまま黙然とひかえていた滝川一益である。
「はや、帰ったか」
つい昨夜は、降将宇喜多直家を交えて、祝盃をあげたその今朝なのである。──信長の顔いろには徐々、焦躁が濃くなっていた。
──と、見て。
「あいや、まだ遠くは距ちますまい。おいいつけ下さるなれば、私が一鞭あてて、羽柴どのを呼び返して参りますが」
快い機転である。
時にとって信長の焦躁を救うこと一通りでない。それを誰かと人々が見ると、つねに信長の陰にいる森蘭丸であった。
「おお、蘭丸か」
信長は、彼の望みを励まして、
「行って来い。すぐさま」
と、顎をすくう。
蘭丸は立って、
「しばし、お待ちを」
と、一礼して、小走りに出て行った。
午となり、午過ぎとなった。
蘭丸は、容易に帰って来ない。かかるうちにも、伊丹方面や高槻城あたりから、物見の報告は頻々とはいってくる。
そのうちでも、もっとも彼の胆を寒うさせた一報は、
「──今暁、毛利の水軍が、兵庫の海辺へ夥しく寄って、荒木村重の属城、花隈城のうちへ兵を入れた」
と、いう新しい事実であった。
花隈城の下、西ノ宮から兵庫の海道辺は、京都大坂から播州へ通う唯一の交通路である。
「筑前も、はや、そこは通れまい──」
と、知ると同時に信長は、派遣軍と安土との聯絡が遮断される危機にあることを察して、自身の喉首へ敵手が懸って来たような焦りを覚えた。
「蘭丸は、まだか?」
「まだ、戻りませぬ……」
信長はまた沈思する。
──中国の毛利と、大坂の石山本願寺、こう二大敵国を繞って、それに連鎖する山陰の波多野一族や、播磨の別所や、伊丹の荒木村重などの群れが、兀然と、いまはその敵性と一環の聯絡とを、明らかに誇示して来たなと──身の緊まる思いがするのであった。
しかも、東方を顧みると。
相州の北条家と、甲斐の武田勝頼とは、近ごろようやく和して、姻をむすび、条約を交わし、信長の力が、中国経略に消耗され尽して、やがて抜き差しならぬ羽目に陥る日を、ひそかに待っているもののようであった。
蘭丸は、馬で勢田村をすぎ、大津をこえ、三井寺の下でようやく秀吉の列に追いついた。
秀吉はそこで休息していた。──というよりも、ここまで来たところで、荒木村重の変を耳にしたので、
「なお、実相を慥めて来い」
と堀尾茂助、その他二、三の者を放って、詳細を探らせていたのであった。
蘭丸は、彼に会って、
「もう一度、お目にかかりたいとて、御主君には遽に私に命じてお後を慕わせました。急いで、安土までお戻り下さいますまいか」
と、いった。
秀吉は、即座に、
「仰せはなくても、駒を返し、諸事おさしずを仰がねばなるまいと、家来どもを、洛中まで探りにつかわしたところ。すぐ、御同道いたそう」
と、供の人数を三井寺に留め、蘭丸とただ二騎で道をあとへ引っ返した。
途中、秀吉は予想していた。村重の謀叛に対し、信長がいかに激怒しているかをである。
荒木村重が初めて信長に随身したのは、二条の館を攻撃して旧将軍義昭を駆逐したあの時からであった。すこし気に入ると、寵愛の偏する傾きは誰に対しても見せる信長であるが、その中でも、村重の武勇は、わけて信長に認められていた。今日までも、信長は人一倍、村重を愛していたといえる。
もともと村重は、何の勢力もない一介の武人に過ぎない。その器を用いて、帷幕の一員に加え、股肱の驍将に列しるなど、信長としては、最大な待遇を与えて来たものである。
わけて、秀吉の副将として、中国経略の大事に参画させてもいるのに、その信頼を裏切られた信長の気持はどんなであろうか──秀吉は思いやられるのであった。
「いや、自分にも、一半の責任はある」
秀吉は、安土へ急ぎながら、己れをも責めていた。
自分の副将であり、また、日頃から私交も浅くない村重が、こんな馬鹿を仕出来すまで、それを知らなかったとあっては──知らなかっただけではすまないと──自責するのであった。
「於蘭どの」
「はい」
「あなたは何か聞いていないか」
「荒木どのの変心についてですか」
「むむ。何が不平で、信長公に弓をひく気になどなったやら。その原因を」
長途なので、一気に馬を鞭打てば馬がつぶれる。秀吉は、平均に軽走させながら、同じ歩調でついて来る馬上の蘭丸をかえりみて話した。
「こんな噂は、前からありましたが──」
と、蘭丸は答えていう。
「荒木どのの家臣の中で、石山の本願寺方へ、兵糧米を売りこんだ者があるらしいのです。なにしろ、大坂方はいま米がないので困っています。陸路はあらかた遮断され、海上は織田家の水軍九鬼どのの手で封鎖されておりますから、毛利の兵船から輸送されてくる見込みも立たなくなりました。……で、米価は刎ね上がり、大坂城の粮米は欠乏を極めておりますため、これに米を密売すれば、莫大な利をえられるにきまっている。……それを村重の家臣がやったことが、露顕しかけたので、信長公から罪を問われることを恐れ、先手を打って、叛旗をひるがえしたものだろうと、専ら沙汰する者がありますが」
「それは、敵の撒いた反間苦肉のうわさ。根もない嘘ときまっている」
「私も嘘だと思います。私の察しるところでは、日頃、荒木どのの功を妬ましげに見ておる──或る人間の讒言が、害をなしたと思っております」
「或る人間とは?」
「明智どのです。いつ村重どののうわさが出ても、明智どのには、御主君へ対し、よく云っていたことがありません。──いつもお側に聞いていて、ひそかに、今日あることを、私なども、憂いていた一人でしたが──果たして」
ふと、蘭丸は口をつぐんだ。すこし云い過ぎたと覚って、心に悔いているらしい。光秀に抱いている感情を秘すことは処女のような蘭丸であった。
こんな時、秀吉は、決して鋭感な顔はしていない。至極、神経の粗雑な体を示して、
「やあ、もう見える。安土の御城下はあれ。急ごう、於蘭どの」
と、相手の神経などにかけ関いなく、そう指さすやいな、駒を早め出した。
城門の正門は、混雑していた。変を知って馳せつけた登城者の従者や、近国から殺到した使いの者たちである。
秀吉と蘭丸はその中をほとんど掻き分けるようにして、本丸の八景の間へ通った。
「御評議中です」
とのことに、すぐそこへ加わろうとしたところ、信長の側へ行ってまた戻って来た蘭丸が、
「竹の間で待てとの御意ですから──」
と、秀吉を誘って、本丸の三層楼へ案内した。
竹の間、桐の間などがあるこの一層は、信長の居室にあてられていた。秀吉はひとり坐って、湖をながめていた。
やがて、信長が来て、やあと云いながら、無造作に上座へすわった。秀吉は礼を執ったきり、黙然としていた。無言と無言は長くつづいたが、無駄口をかわしている遑は、どっちにもないのである。
「どういたしたものかな。筑前、そちの所存は」
これが信長の初めに出したことばであった。これを見ても、評定の席では、諸説紛々、なにもきまらなかったことがわかる。
秀吉はそれに答えて、
「荒木村重という男は至極な正直者で、申さば、武勇に長けた馬鹿者でございますが、しかもこんな大馬鹿者とは思いませんでした」
と、いった。
自分の副将であり、私的には友人である村重の暴挙を言外に惜しんでいう真情が──そう罵倒する中に、却って深いものがあるように聞えた。
「いやいや」
信長は首を振って──
「馬鹿どころではあるまい。智に溺れて、信長の前途を危ぶみ、利に晦んで、毛利と通じた彼奴──小利口者のやりそうなことよ。村重は小智に迷うた者であろう」
「だから、馬鹿というしかございません。過分な恩遇を賜わりながら、何を不足に」
「謀叛するやつは、どう遇しても謀叛するように出来ておる。たとえば松永弾正のごときでも」
感情がむき出しかける。相手をさして彼奴というようなことばを、この人が用いたのは秀吉も初めて耳にするところである。信長の感情ではすでに謀叛人たる村重を、臣とも人とも認めたくないにちがいなかった。
そのくせ一概に、憎悪も怒りも発しきれないでいるところに、信長の苦痛も、評議の決まらない原因もある。秀吉とても、問われれば、当然、そこに迷う。
伊丹城を討つべきか。
村重を宥めて、謀叛を思い止まらせるか。
問題はその二つをどう選ぶかにある。──伊丹一城を攻め陥すは至難でない。しかし中国経略の業はなお緒についたばかりである。いまこの小事につまずいていては、根本の方針に大修正を加えなければならなくなろう。
「まず、私がお使いに参りましょう。篤、村重に会って話しまする」
秀吉は希望した。すすんで慰撫の使者たろうというのである。
「──ではそちも、ここは兵を用いぬがよいと考えるか」
「できる限りは」
「惟任光秀を始め、ここは干戈を用うるべからずと、説く者も二、三ある。そちと同意見だが、しかし使いには、余人を向けてもよい」
「いや、筑前にも、一半の責任はありまする。副将として自分の部下にあった村重の、しでかした馬鹿事にござりますれば」
「いや」
と、信長は急につよく頭を振って、
「余り親しい者を遣わしては威厳がない。松井友閑、惟任日向守、万見仙千代の三人を遣ろう。──慰撫というよりは、噂の実否をただす使いとして」
「それもよろしゅうございましょう」
秀吉は逆らうことなく、ただ友のために、また主家のために、こう一言を云い足した。
「俗諺にも──仏者の嘘を方便といい、武門の変を戦略という、とか申します。──変には変をもって応じ、真っ向に乗ってゆくこと、かえすがえす厳禁です。毛利方をして、歓ばしめるような策は、ぜひともお避け遊ばすように」
「わかっておる」
「御評議の結果も相待ちたく思いますが、播磨表の動揺も心もとなく存ぜられますゆえ……筑前はすぐお暇を」
「そうか」
と、やや残り惜しげに、
「──帰路はいかがいたすか。兵庫路はもはやうかと通行もなるまいが」
「お案じくださいますな。海路もありまする」
「むむ。……では、結果は刻々早打ちをもって云い遣ろう。そちからも、便りを怠るな」
「仰せまでもございませぬ」
秀吉は、安土を退城った。
体も疲れていたので、彼は船手の者に帆船を出させた。安土の下から船で大津へ渡った。
その夜は三井寺の房に一泊し、あくる日、京都へ向った。
堀尾茂助と福島市松をそこから先発させて、
「堺の浜に、船の準備をしておくように」
と、手筈をいいつけ、自身は蹴上の下から道を曲って、南禅寺へ立ち寄った。
「──休息に」
という触れこみであったが、単に中食をとるためではなかった。
ここの寺中に、ぜひ会いたい者がいる。秀吉は、上洛の都度、彼と会うことを、恋人を見るが如く楽しみとしていた。
それは寺内の一庵で、静かに病をやしなっている自分の部下、──竹中半兵衛を見舞うことであった。
寺僧は、突然の大賓を客院に迎えて、饗応にうろたえた。
秀吉は、一僧をとらえて無造作に、
「家来どもはみな、食事の行李を携えておれば、湯茶のほか、お気づかいには及ばぬ。──また自分は、当寺に療養中の半兵衛重治をちょっと見舞いに立ち寄ったのみにござれば、酒茶のもてなしなど無用。半兵衛と用談の後に、湯漬など馳走になればありがたいが」
と、平常の待遇を断わってから、またこう訊ねた。
「ときに、病人の容体は、こちらへ来てから、どんな容子であるか」
僧は、憂わしげに、それへ答えて、
「大して、お変りもないようにございますが、さりとて、はかばかしい御快気もお見うけいたされません」
「医薬は」
「朝夕に……」
「医家も見えておろうな」
「はい。京の名医も、また、信長様からお見舞いの御医師も、しばしばお越しなされました」
「起きておるか」
「いえ、この両三日はまた」
「臥せったままか」
「はい」
「どこじゃ、病間は」
「彼方の離室が、静かでもあり、お好みのようなので」
「では、あちらへ参ろう。穿物はないか」
秀吉が庭へ下りかけた時、半兵衛に附きそっている小侍の一名が駈けて来て、
「ただ今、衣服をあらためて、主人がお目通りにうかがいますゆえ、しばらく、客院で御休息のほどを」
と、いうと、秀吉は、ばかなといわぬばかりに、
「起してはいかん。起してはいかん」
独り叱りながら、園内の一庵へ、大股に歩いて行った。
秀吉が来たと聞くと、半兵衛はすぐ病床をたたませていた。
召使に室の清掃を命じ、自分はその間に衣服を着かえた。そして木履を穿いて降り立つと、籬の菊の根を縫って来る小流に身を屈めて、口を漱ぎ手を浄めなどしていた。
「なぜ、そんな軽はずみをする。病人のくせに」
後ろへ来て、軽く肩を打った人を振向いて、
「おう、いつの間に」
と、半兵衛は、地へひざまずかぬばかりに、身を低め、
「まず……まず……あれへ」
と、清掃されている室内へ、主君秀吉を迎え上げた。
粗朴な壁に、禅家の墨蹟が懸っているほか、何もない床をうしろに、秀吉は、至極気楽にあぐらを組んだ。
安土の城廓では、そこの色彩に消されてしまう秀吉の装いも、この簡素な一庵の中にあっては、その陣羽織といい具足といい、独り燦爛と見えて、ひどく厳めしい。
「…………」
半兵衛は身を低めたまま、後から縁を上がって来た。見れば、煤竹の一節を切った花入れに、一輪の白菊を挿けてささげている。静かに、秀吉の横へ坐って、菊の姿のくずれぬ程に、そっと床脇においた。
野にあっては、さほどでもない菊も、ここに置かれると、はからずも薫々と香のたかいことが知れる。──秀吉はひそかにこう察した。病褥は片づけても薬の香や寝臭いものが漂っているのを畏れて、焚香のかわりに取りあえず、この一花をもってそれを浄めたものであろうと。
「かまうな。気づかうな」
秀吉は、こう宥わって、
「半兵衛。……そのように起き出ても、大事はないのか」
と、案じ顔に見まもった。
半兵衛は、遠く退って、あらためて拝礼した。しかし慇懃のうちにも、主君の来訪をよろこぶ容子が面にあふれていた。
「御心配くださいますな。先頃からちと晩秋らしい寒さがつづきましたので、大事をとって、衾をかぶって籠っておりましたが、きょうあたりは暖こうござりますゆえ、起き出そうかと思うていたところでした」
「京都は、冬の訪れも早い。わけて朝夕は冷えるという。どこぞなと、冬中は、暖かな地へ移ってはどうか」
「いえいえ、病も日ましに快ろしい方に向いております。冬までにはかならず癒して」
「とんでもないことだ」
わざと、秀吉は仰山に云いかぶせて、
「せっかく快い方とあればなおさらのこと、この冬は、断じて病間から出てはならん。こんどこそは、癒りきるまで、充分に療養せい。……そちのからだは、そちひとりのものではない」
「勿体ないおことばです」
半兵衛は肩を落して俯向いた。手は膝をすべって、思わず垂るる涙とともに畳へつかえて、そのまましばらく声もなかった。
──ああ、痩せたなあ。
秀吉は心のうちで大きな嘆息をいだいた。
畳につかえている半兵衛の手くびの細さ、鬢の毛のあたりの肉の薄さ。
(遂に彼の宿痾は、不治のものか)
そう考えて来ると、胸がいたくなってくる。
もともと病弱な彼を、むりに乱世の中へひき出した者は誰か。櫛風沐雨のあいだの幾戦場。また、平時のときでも、内部の経済に外交に、ほとんど安らかな日というものを与えずに、今日まで彼を苦しめ通して来た者は誰か。
しかも本来は、師とも仰ぐべき筋目のものを、家臣同様に遇して、そしてまだそれに、酬うほどな歓びにも会わせないうちに……と、秀吉は、ひとり詫び、ひとり責め、いつか自分も横を向いて、ぽたぽたと涙をこぼしていた。
その眼のまえに、竹花入れの白菊は、弥白く、弥匂やかに、ようやく、根から水をあげていた。
つい涙ぐんで、いま、軍務の苦労も一通りでない主君に、ちょっとでも、気弱い心をいだかせたのは、臣として不忠、武士として不覚、申し訳ないことと、半兵衛重治はすぐ心のうちで身を叱った。
「血ぐさい長の御陣に、さだめしお労れもあろうかと、ふと庭さきの菊一輪、竹花入れに移してそれへ置きましたが、お眼をなぐさめて戴いて仕合わせです。──花も、半兵衛も」
さっきから秀吉も、顔をそむけて、熱い眼のやりばを、床の花に紛らせている容子なので、突きつめた話をそれへ逸らすべく、わざと半兵衛からそういったのである。
「ウむ。寔に、寔に」
暗然と──ただ口を閉じていた秀吉は、そのことばに、ほっと救われたように、幾度も、花に向って頷いた。
「いいにおい!」
そういって、
「平井山の陣地にも、野菊は咲いていたろうが、かかる香いは気づかなかった。かかる色も眼にはなかった。──血草鞋に踏みつけておってはな。はははは」
と、ようやく、半兵衛を正視して、なお強いて病人へ陽気な感じを持たせようと努めた。病人の半兵衛が主君へ宥わろうと努めている思い遣りを、秀吉も同じように臣下の彼へ努めぬいているのであった。
「……ふと、ここに坐って、沁々感じることは、心身二つにして一つのものを、常に明澄な一体として生き持つことの難しさだな。いやもう、合戦とは忙しないもの、また人間を粗雑にもする。その意味でも、今日はたいへん落着いてうれしい。何やら気が澄んで肚の底に、良い覚悟がすわりそうな心地がして参った」
「閑の身境、寂の心境。やはり人間には、尊いものに相違ございません。けれど、まったくの閑人となっては、その効もありません。空寂というべきです。殿には心身ともに今、生死の裡にあって、忙また忙の寸暇なきお体でありますゆえ、ふと、こういう小閑の一瞬が、たいへんな霊薬となるのでございましょう。……それにひきかえて、半兵衛ごときは」
と、また病躯を責めて、詫び入るらしい気ぶりを抑えて、秀吉は彼のことばを不意に奪った。
「ときに、噂を聞いたか。摂津守の暴挙を。あの荒木村重が、ばかな真似をしでかしおった噂を」
「はい。昨夜、人が参って、くわしく承りました」
さして大事件ともしていないらしく、半兵衛はそう答えて眉もうごかさなかった。
「さ。そのことだが」
秀吉は、膝をすすめ、
「安土の御評議では、一応、村重の不平をも聞いて見た上、極力、宥め諭そうということに相成ったが、その御処置はよいか悪いか。また、もし村重が飽くまで反逆を明らかにした場合はどういたすか。忌憚なく、そちの意見を聞かして欲しい。……実は、それもあって立ち寄ったのじゃ。半兵衛、おぬしはこのことについてどう思う」
と全局の対策を質した。
重治は、一言でそれへ答えた。
「よろしいでしょう。当意即妙の御処置です」
「では、安土から慰撫の使者が参れば、伊丹城は、事なく鎮まろうか」
「──いや、所詮」
重治は、静かに面を横に振りながら、確信をもって否定した。
「鎮まりません。ひとたび揚げた反旗を、そのまま捲いて、安土へ帰順いたすことなどは、決してないものと考えまする」
「さすれば、伊丹城へ使いを向けても、徒労というか」
「徒労には似ても、むだ事ではありません。臣下の非を諭し、まず仁をもって臨むは、御主君信長様の徳を世に知らしめるものといえます。またそのあいだは荒木殿とて、ひそかに苦悶もしましょう──迷いもしましょう。正義の信念もなく無理に引く矢は日の経つほど鈍るものです」
「その結果、いよいよ彼を攻めるとなったときの対策は──また中国の情勢は、どう変って来ると予測するか」
「おそらく、毛利方も、また本願寺とて、そう急激には、うごきますまい。なによりは、すでに反旗をあげた村重に、血みどろな抗戦をさせ、そのため、播磨にあるお味方なり、安土の御本営なりが、ようやく疲れて来たと見れば──忽ち虚にのって、八面から起つ計画かと思われます」
「そこだ……村重の馬鹿正直なところは。……彼にいかなる不平があり、またいかなる好餌をもって誘われたか知らぬが、要するに、毛利と本願寺の楯に使われ、楯の役目を了われば、可惜、自滅のほかない。武勇は人なみすぐれているのに、不愍なもの。──やはり何とか生かせるものなら生かしたいが」
「そうです。最善の大策は、飽くまで彼を殺さずに、やはり彼の如きをも、生かして味方とするにあります。それに如くはありません」
「──が、安土からの使いでは駄目だとすると、誰が行ったら村重が服従しよう」
「まず官兵衛どのを遣わしてごろうじませ。黒田官兵衛の舌なれば、或いはよく説きさとして、摂津守村重の悪夢をさましてやることが出来るかもしれません」
「万一、官兵衛が行っても、うけつけぬ時は」
「さいごのお方が参られるしかありません」
「さいごの使いとは」
「あなた様です」
「わしか。……なるほど」
と秀吉は考えこんでから──
「さあ、わしが参っても、その期となっては早どうかな?」
「義をもって教え、友情をもって諭し、それでもなお、肯ぜぬときは断乎、反逆の罪を鳴らして、討つしかありません。──その際、一挙に伊丹を攻めるは愚です。荒木どのを勇気づけているものは、決して伊丹の堅塁ではなく、彼が両手と恃んでいる二人の協力があるからです」
「茨木の中川瀬兵衛と。──高槻の高山右近か」
「その二人だに、離してしまえば、彼は両手のない胴のようなものです。しかも、高山右近にしろ、中川瀬兵衛にしろ、これを別箇に説き降して、村重どのから切り離すことは、さして難かしい問題ではありません」
重治は、いつか病も忘れたように、耳朶をほの紅くしながら、秀吉のために説き来り説き去って、ほとんど倦む色も見えなかった。
「その高山右近を説いて降すには?」
秀吉は熱心に、なお彼の秘策をたたいた。半兵衛はことば明らかに、
「右近は、大の耶蘇教徒です。デウスの布教を許すことを条件として説けば、かならず荒木村重から離れましょう」
と、教えた。
「うむ。──至極妙」
秀吉は嘆服した。その右近をもって、さらに、中川瀬兵衛を説かせれば、いわゆる一石二鳥というものである。
これ以上、問うこともない。半兵衛もつかれたらしく見える。秀吉は起って帰りかけた。
すると半兵衛は、
「いま、しばし」
と、ひきとめた。
そして次の間から水屋のほうへ起って行ったらしいが、そのまま容易にもどって来ない。
「……腹も減った」
秀吉は思い出していた。供の者たちは、もう弁当をつかい終った頃であろう。自分も寺の客院へもどって湯漬でも──などと考えている前に、半兵衛の郎党らしい若者が、
「お待たせいたしました」
と、簡素な膳部と、べつの盆にのせた酒器とを運んで来た。
ぴたりと坐って、銚子のつるを持ちながら、
「手料理の塩味、菜や芋なども、そこらの畑の物で、お口にはあいますまいが、一献おすごし下さいますように。──主人もお後からお相伴に伺いますれば」
と、杯をすすめた。
冷酒を一口呑みながら、秀吉はやや物足らぬ顔して、
「半兵衛はいかがいたした。長話に疲れたのではないか」
「いえいえ先ほどから水屋へお入りになって、お湯漬の菜を手ずからお料理され、ただ今、御飯を炊いておられますゆえ、それのすみ次第、これへ罷り出てお給仕をなさいましょう」
「なに、わしのために、飯を炊いておると」
「はい」
「このひたし物や、芋の煮たのなども、半兵衛が自分の手でいたしたのか」
「左様でございます」
「……ほ。これを」
まだあたたかい小芋の一つを口に入れながら、秀吉はまたしても、涙に瞼をあつくした。
小芋の味は、舌のうえばかりでなく、身に沁みる心地がする。勿体ない──ほどな味である。
自分の召し抱えている部下とはいえ、兵においては六韜の奥義から三略の要諦にいたるまで、ことごとくこれを半兵衛に就いて教えられたといってもよい。
平時の民治経済、人間的な修養の要なども、日ごろ座間に彼から学んだことは一通りでない。いわば彼は、表面は家臣だが、内にあっては、自分の師であるものを。
「それはいかん。体にさわるといかん」
ふいに、秀吉は杯を下におき、そして酌人を置き残したまま、台所の方へ歩いて行った。
半兵衛は、そこにいた。飯器や茶碗などを自分の手で揃えていた。
びっくりして、秀吉を見上げた。秀吉は手をとって、
「半兵衛、あまりかもうてくれるな。それよりは少しでも座を共に、語ろうではないか」
部屋へ連れて来て、杯を取らせたが、半兵衛は、病があるので、唇をふれるのみである。
が──飯はふたりで、共に喰べた。久しぶり、こうして主従で喰う飯のうまさ、飯のたのしさ。
「見舞いに立ち寄って、見舞われて帰るようなものだったな。しかしわしも元気づいたぞ。これで戦える。──半兵衛、そちも大事に、身を養ってくれよ。頼むぞ、頼むぞ養生を」
やがて秀吉は、従者の列をしたがえて、南禅寺の山門から見送られて立った。──時、日もすでに暮れかけて、洛中の空は茜していた。
寂として弾音一つしない。これが戦場かと疑われるほどである。蟷螂ひとつ枯草へ辷り落ちた音すらカサリと耳につく。
中国の秋はふかい。紅葉もこの二、三日がさかりの峠であろう。──秀吉の眸の中まで、その紅は燃えているようだった。
ここ平井山の陣所。
相対坐しているのは、官兵衛孝高である。いつか、月見をしたあの物見の松の下に腰かけて、ふたりは数語のうちに、大事を決めていた。
「──では、行ってくれるか」
「すすんでおひき受けします。成否は天にまかして」
「たのむ」
「人事をつくして天命を待つ。官兵衛の参るのが、最後のものといえましょう。てまえが生きて帰らなかったら、もはやあとは……」
「うム。武力しかない」
うなずきながら、秀吉は木の根から腰をあげた。官兵衛も立った。
すぐ西の谷を、鵯の高い音が渡ってゆく。そこの紅葉も美しい。
黙々と陣屋のほうへ、二人は降りてゆく。死──というもの、相知る人間同士の別れというようなものなどが──この寂かな昼の大気につつまれた頭の中でしいんと考える対象になる。
「官兵衛」
先へ崖道を降りながら、秀吉はあとを振り仰いだ。二度とこの山へ還らない彼かもしれない。そんな気もちが真剣にしたので、遺言を聞いておこうと思ったのである。
「何かほかに、お許から聞いておく用向きはなかったかなあ」
「ありません」
「姫路城の方へは」
「べつに」
「宗円どの(官兵衛の父)へもなんぞ言伝ては?」
「ただこの度のお使いに官兵衛が参った由だけを、おついでの砌りお伝えおき賜われば足りまする」
「心得た」
細い崖道はまだ続く。
大気はよく澄んでいるので、敵方の三木城もあざやかに遠望される。そこへの輸送路は夏以来すべて遮断したので、城中の飢渇は想像に余りあるものがある。しかし、さすがは播州第一の骨ッぽい武将と勇卒のたて籠っただけのものはあって、今なお士気は凛々秋霜のごときものを示している。
敵も、寄手の長囲策と、粮食の涸渇にあせって、時折は、戦いを挑んで来るが、秀吉は厳重に令して、
「彼の誘いに乗るな」
と、かたく部下の妄動をいましめ、封鎖の手をゆるめなかった。
また、外部の情報が、城内へ伝わらないためにも、細密な注意を払った。──荒木村重以下、畿内の将が、信長を離反したり、この播磨においても、それと共に、動揺のあることなどが、城中へ聞えたら、いやが上にも、籠城抗戦の所信を強める惧れがあるからである。
なにしても、村重の離反は、ひとり安土を狼狽させたばかりでなく、中国経略の前途をも根柢から危うくさせたものといえる。現にこの播磨においても、御著の城主小寺政職が、荒木村重の叛旗を見ると共に、
「中国は侵略者の手に委せるべきでない。われわれは、毛利家を中心に、再組織して、外攻の敵を打つべきだ」
という声明を発して、信長を離れ、一夜に敵の陣営へ去ってしまった。
その小寺政職は、官兵衛の父黒田宗円の主君である。当然、官兵衛にとってもまた、主筋の人といわなければならない。
官兵衛は、板ばさみの苦境に立った。信長、秀吉に対して──また父と主筋の人に対して。
この苦衷を抱いて、彼はいま、何処へすすんで使いしようというのか。ただ彼としては、秀吉こそ自分の胸を知ってくれる者として、なお一道の明るさは心に失っていなかった。
日ごろ、剛胆をもって鳴らして来た男だけに、剛胆をもって自負している。摂津守荒木村重は、そうした人物であった。細かい神経とか、鋭覚な時代認識とか、そんなものは至極彼とは縁が遠い。
年は不惑。──ようやく人間の熟成にちかい四十がらみであるが、十年前の彼も今の彼も、その剛毅にかけては依然変化ないように、自然にそなわって来るはずの思慮とか教養とかいう人間的な一面のほうも、いッかな育ちもしなければ光沢も加えて来ない。──要するに、いくら城持となっても、眷族や家臣がふえてきても、彼は依然たる猛将の域から一歩も出ていないところがあった。
信長が、彼を中国探題の副将として、秀吉につけたのは、秀吉に乏しいものを、附与してやったともいえるのである。けれど彼自身は決して自分で考えてみたことはない。
──こうやるべきだ。
──そうしては戦にならん。
などと、副将の資格をもって、大いに謀議を論じたことはいうまでもない。そして自己の意見が、用兵作戦のうえで、秀吉にも信忠にも、採用されたためしはなかった。
(おもしろくないやつだ)
秀吉にたいして、彼がこう感じたことは、二度や三度ではない。しかるに彼自身が腑甲斐なく思うことには、秀吉の顔を見ると、その反感が出せなくなるのである。
(あいつはおれを誤魔化すことに妙を得ておる。あれは苦手じゃよ)
ときどき鬱憤をもらしながら自分の家臣にもよく哄笑して見せることがある。いくら腹が立っても怒れない相手というものは世の中に往々存在する。村重にとって、まさに筑前という男は、そんなふうに考えられた。
上月城を攻めたときなども、村重は前線にありながら、一方の山に陣したきり、戦機が熟して来ても秀吉から命令があっても、拱手して戦わなかったことなどもある。
(なんであの時、撃って出なかったか)
と、あとで秀吉からとがめられても、持前の剛毅な態度をもって、
(気がのらない戦には手が出せん)
と、云い放って、怯むいろもなかったという。
そのときは、秀吉が、大口あいて笑ったので、彼もつきあいのように、苦笑して、事はすんでしまったが、陣中の諸将には、もとより風評甚だよろしくなかった。
光秀などは大いにその素行を非難したということであった。
「明智ずれが、何を」
と、村重も陰で、光秀を口ぎたなく罵った。いったい以前から彼は明智光秀とか細川藤孝という文化人的なにおいのある武将をひどく蔑視していた。
(文弱者が)
と、ふた口めには、口ぐせにいう。彼らが陣中でもよく連歌の会をしたり、茶事を催したりする風をひそかに忌み嫌っている感情から発しるものらしい。
けれどただ、その村重も、心のなかで感心していることは、筑前守秀吉が、まだかつていちどでも、自分のことを、主君の信長へも信忠へも、告げ口などしたらしい容子も見えないことだった。
秀吉が、武将にかけては、遥かに自分より意気地のない人間だとは、心のうちで下目に見ていながら、なおかつ、彼を、苦手なやつとしているのは、そういうところに、一面心ならずも敬服しているからであった。
ところが。
彼のこういう在陣中の態度をあきらかに見ていたのは、味方よりも、敵方の毛利であった。
(摂津守村重には、何か不平があるらしい。あれを説けば、寝返る可能性がかならずある)
毛利の密使や大坂本願寺の密客が、あらゆる敵の眼をくぐって、彼の陣中に、また国もとの伊丹城へ、しきりと往来し出したのは、決して招かざるの客ではなく、彼の心が敵方に反映し、その行動が不言のうちに招いたものだった。
智者は智慧に溺れるという。
しかし智謀の質でない者が、智を弄ぶ場合は、もっと危険な火悪戯となるこというまでもない。
伊丹城の老職たちは、主人の荒木村重にたいして、
(そのような謀計は)
と、成否のほどを覚束ながって幾たび諫めたか知れなかった。
だが、村重は、
(ばかをいえ。毛利家からもかくの如く、誓紙までよこしてある)
といって肯き入れない。
一片の条約文というものを、それほどまで絶対に信じていながら、彼はたちまち主君の信長にむかって叛意を明らかにしたのであった。
君臣の契りすら敝履のごとく捨て去る人間もいる乱世に、きのうまで敵であった毛利の一誓紙が──どれほど文字どおりに約束を履行するか? ──そこまでは考えても見ず、またそんな大きな矛盾をすら矛盾とも感じないでいる村重であった。
秀吉が、信長に、
(彼は愛すべき馬鹿者です。お怒りになるには足らん正直者でもござる)
といったのは、けだしあの際、信長をなだめるには、最善なことばだったかも知れないのである。
けれど、信長にとって、決してそう軽視していられないことには、
──何しても彼は強い!
その豪勇と、彼の占めている重要な位置にある。
加うるに、これが麾下の諸将へどうひびくか、心理的な影響も重大視された。──ために信長としては、明智光秀や松井友閑をやって慰撫してみたり、そのほか百方手をつくしてみたが、結局、村重としては、
(いちど敵対を示した以上、うかと甘言に乗って、安土の召しに応じなどしたら、その場で刺殺されるか投獄ときまっている)
と、なおなお、猜疑を深うするばかりで、その間に却って戦備を増強していた。
(このうえは!)
と、遂に荒木退治を宣言して、信長自身、兵をひきいて山崎まで出馬したのが、十一月九日の頃だった。
安土の大軍は、三手にわかれた──一手は、滝川一益、明智光秀、丹羽五郎左衛門などの諸部隊をもって編制され、これは茨木城の中川瀬兵衛清秀をとりかこむ。
また一手は。
不破、前田、佐々、金森などの諸隊が結びあって、高槻の高山右近を包囲する。
そして、信長の本塁は天野山におかれた。こう壮観な布陣を展開しながら、彼はなお、衂らずして叛軍を降すことに、一縷の望みをつないでいた。
その望みは、播磨へ帰った秀吉のうえにつながっている。秀吉から陣中へ、
(なお、一策あり)
と、いって来ているのである。そのことばの裏には、秀吉が、村重の武勇を惜しんで、また日頃の友情からも、
(なおしばしお待ちあるように)
と、信長へ懇願している気持も充分つつまれていた。
彼が片腕とたのむ帷幕の人、黒田官兵衛孝高が秀吉の旨をうけて、一夜平井山の陣地から忽然とどこかへ去ったのは、実にこういう機運の切迫している時だったのである。
官兵衛孝高は、あの次の日、父宗円の主筋にあたる御著の城主小寺政職のところへ急ぎ、やがて政職に目通りしていた。
「摂津の荒木どのと組して、当城もまた織田家にそむき、毛利方へ随身せりとの噂が立っておりまする。右は、事実でしょうか、単なる虚伝にございましょうか」
と、官兵衛は単刀直入にいって、まずその人の腹蔵をたたいてみた。うす笑いを浮べながら政職は聞いていた。年から見れば自分の息子のような官兵衛だし、身分からいっても家老のせがれに過ぎないので、それに答えてやる彼の言葉も極めて横柄でまた露骨だった。
「官兵衛、おまえは独りでむきになっておるようだが、いったい、当家が信長の与党になって以来、どんな得をしておるか、考えてみい。……何も得ておりはしない」
「あいや、この際は、単なる損得の問題ではございますまい」
「では何だ」
「信義の問題です。この播磨において、織田方の与党として、夙にかくれもない御当家が、荒木村重の謀叛に組し、一朝にして織田方を寝返り打ったとありましては、武門の信義は廃れましょう」
「何をいう」
若輩が──といわないばかりに彼が熱しれば熱しるほど政職は軽くあしらって、
「もともと、わしが信長へ拠ったのは、決して信義に拠ったわけではない。おまえと、おまえの親の宗円が、将来の天下は、どうも信長の掌になるらしい。中央へ進出した信長へいまのうちに款を通じておくのは、当家のためである。そうすすめたゆえ、わしもその気になってみたまでだ。しかるにじゃ。以後の信長は、まことに危なげが多い。──たとえば海上をゆく大船を、これを陸から見るときは、ひどく頼もしく、あれに乗って、時勢の波を乗りきれば、至極大丈夫らしく、見ゆるものじゃが、さて、それに乗って、運命を共に約し、一身をあずけてみると、安泰どころか、なかなか心もゆるせなくなる。──一濤一濤ぶつかってくるたびに、心許なく、船の力を疑い出すのは人情というものじゃ」
「そこです……」
と、官兵衛は思わず膝をつきすすめて、
「──ですから、いちど乗った以上は、その船を途中で降りてはいけません」
「どうしていけない? とてもこの激浪を渡り切れそうもない船だと見たら、難破せぬうち、たとえ一時の目をつぶっても、未然に船を捨てて、もとの陸地へさして泳ぎ帰らねば、生命のたすかる道はあるまい」
「浅ましい御思案。一時の荒天風浪におののいてすでに身を託しおる船を疑い、同船の人々を裏切って、ひとり慌てて海中へのがれたりなどする者こそ、得てして風浪のうちに溺れ死ぬものです。そして後から晴天となり、危なく見えた船は満々と帆をあげて、目的の彼方に行き着いた頃──ばかな男よと顧みられて、よい笑いぐさにされましょう」
「ははは。口ではおまえにかなわんよ。だが、事実というものは、おまえの雄弁以上雄弁であるぞ。初め、おまえのはなしでは、この中国など、信長が手をつければ、忽ち席巻してしまうようなことを申しておった。ところが、中国探題としてやって来た秀吉の手勢は、わずか五、六千。たまたま、信忠や他の将が、援軍に参っても、畿内や京地のうしろに不安があって、長居もできぬ有様ではないか。──そしてこの小寺政職などは、ただ信長、秀吉の手先につかわれ、兵馬糧米を徴発され、敵国への防壁としてのべつ苦戦をさせられておるに過ぎん。──あれほど信長に重用されていた荒木村重が、一転して毛利家と通じ、畿内の情勢をくつがえしたことに徴しても、織田家の前途は卜されよう。村重と共に、わしが、織田家を去ったのも、そういう明白な理由からじゃ」
「誠に味気なき御意をうかがいました。いまに御後悔なされましょう」
「おまえは若い。合戦には強かろうが、世事には」
「殿」
「なんじゃ」
「御翻意ねがわしゅう存じます。なにとぞ、お考えを変えて」
「そうはゆかん。村重と約を交わし、旗幟をあきらかにして、以後、毛利方へつくと、家中へも方向を闡明したものを」
「では、もういちど、御熟考を」
「わしを説くまえに、荒木村重を説いて来い。摂津守村重が、離反は思いとまろうというたら、わしも思い止まるであろう」
大人とこども。このちがいは理窟ではない。中国の新人とか、当代の智略とかいわれる官兵衛も小寺政職というものには、是非にかかわらず初めから頭のあがらない相手だったといえる。要するに、あしらわれているしかなかった。
かさねて、政職はいう。
「ともあれ、これを携えて、伊丹へ参れ。そしてすぐ返辞を聞かせい。摂津守の所存を、なお確かめたうえ、さらにわしも明答しよう」
諾すに一書を以てした。政職から荒木村重へ宛てたてがみである。
官兵衛は、彼の書面をふところに伊丹へ急いだ。──事態は迫っている。彼ひとりの行動は、当然、大きな結果を持つ。
自己のうごきが、そのまま大きく世のうごきとなるのだ。そう感じるとき、官兵衛の旺んな血は、一身の危険など、顧みているまもなかったのである。
伊丹の城へ近づくや、いたるところの野の窪、水のほとりで、塹壕を掘ったり、柵を結ったりしている兵に出会う。
しかも彼は、単身、どんな槍ぶすまの中をも、大手を振って、
「わしは姫路の黒田官兵衛だ。摂津守に会いに参る。織田どのの味方でもなし、荒木の味方としてでもない。火急内談の儀あって、一箇の官兵衛としてまかり通るものである」
そういって押し通った。
幾つかの陣門をすぎ、やがて叛徒の本拠たる城門もそれで通った。村重はすぐ会った。会ったとき、官兵衛がすぐ読みとった相手方の印象は、
「……存外、強気でもなさそうな」
と、思ったことだった。
事実、村重の顔いろはすぐれていなかった。こんな元気で、また自信のないことで、どうして織田信長ともあろう時代の立者と、好んで事を構えたのか。強いてそのひとから離れたのみか、敵にまわして戦う気など起したものか。──官兵衛にはまず疑われた。
「やあ、しばらくだったな」
漫然と、村重からいう。それさえ世辞にきこえるほど、媚びた態度がどこやらにある。猛将村重のこんな態度に、彼はいよいよまだ村重の心中には、多分な迷いがあるものと推察した。
「お元気か、その後も」
と、まず官兵衛も、無難なところを答えておいて、にやにやと彼の容子を凝視していた。村重は、生来の正直さが、こんな場合にもつつみきれず、官兵衛の眼でなでまわされているあいだに、ひどく羞恥して、顔をも赤めたいようにむずむずしていた。
「ときに、何用で参られたか」
「いや、おうわさを聞いたのでな」
「むむ、それがしが旗挙げの儀か」
「えらい事をやられたな」
「世間は何といっておる」
「是々非々か」
「まちまちだろう。良くも悪しくも、戦ったあとの沙汰だ。いや人間の評は、死後でなければ定まらん」
「死後のことも、お考えになることがあるか」
「それはある」
「あるとしたら……こんどの思い立ちは、貴公として、取り返しのつかぬことをされたものだ」
「なぜ」
「大恩ある御主君にたいして弓をひいたとの悪名は百世まで消え去るまい」
「…………」
村重はだまってしまった。こめかみが太くなるほど、それに対しての感情は抱いているが、理をもって駁す才弁は持ちあわせていない。やはり正直者ともいえる部類のひとりに違いなかった。
「御酒のしたくが調いましたが……」
と、そこへ家臣が告げて来た。村重は救われたように、
「や。そうか」
と、客より先に立って、
「孝高、奥へござれ。何はともあれ、久しぶりだ。一献まいらそう」
と、誘った。
村重としては、余裕を示したつもりであろう。本丸の奥に酒宴をもうけて、大いに官兵衛をもてなした。酒間となると、おのずから理窟は封じられる。村重の顔いろもだいぶ解けた。──ところでまた、官兵衛は、
「どうだ、摂津。この辺で、よいほどにしておかれては」
と、そろそろ問題へ触れて行った。
「よいほどにとは」
「つまらぬ強がりを」
「おれは何も強がるために、こんな大事を覚悟したのではない」
「それはそうだろう。しかしどうあろうと、世評は貴公の戦に名分などは認めぬ。叛逆といおう。いいのか、それでも」
「まあ、飲め」
「おれはおれを誤魔化せぬ。折角だが今日の御酒は苦い。友のためにおれは心から惜しむのだ」
「羽柴筑前にたのまれて来たな」
「もちろんだ。──羽柴どのにしても、心痛はひと方でない。片腕を失くしたように嘆いておられる。しかもなお、あのお人は、誰が貴公を何といおうと、貴公を絶対に庇っている。──惜しむべき人間だ、武勇一徹とは彼のこと、彼を誤らしては相成らぬと、明け暮れ友情を忘れかねておらるる。──この官兵衛としても、じっと、それをよそ目にしてはおられんではないか」
「礼をいう」
村重は、やや酔いをさまし、やや心底を吐いて云った。
「実は、筑前からも、再三、書状を以てわしを諫めて来ておる。彼の友誼にはうごかされる。……だが、さきに信長公の使いとして、明智光秀、丹羽長秀、松井友閑などが、こもごもやって参ったが、みなはっきりと拒絶した。で、今さら筑前のことばにも従えぬ」
「いや、そんなことはあるまい。筑前どのにおまかせあれば、信長公へのお執りなしはいかようにも計らわれよう。御自分の功に代えてもといっておられるから」
「そうでない」
と、渋面作って──
「明智、佐久間などの徒は、村重が叛いたと聞くからに、手をたたいて、歓んだという。わけて十兵衛光秀は、慰撫の使いとして、これへ参り、おれには美言を以てなぐさめていたが、君前へもどったら、どう復命しておるやら知れぬ。──うかと、城を開いて、信長公の膝下へ帰ったがさいご、この襟がみつかまれて、首を打てと、左右へ命じられるそれだけなもの。老臣、家中の若手、みな復帰には同心せぬ。かくなる上は飽くまで戦うに如かず──となっておる今だ。もう村重の一存だけではどうにもならん。播磨へ立ち帰ったら、くれぐれも筑前へ、悪しゅう思うてくれるなと伝えてくれ」
急には説伏できそうもない。官兵衛はまず根気と粘りを丹田に命じた。そして数献の後、
「そうそう」
と、忘れていたかのように、小寺政職のてがみを取り出して、村重にわたした。
書面の内容は、官兵衛も一読している。秘封ではないからである。簡単だが、村重の挙に対して、政職の立場から切に諫めたものであった。
「…………」
村重は、燈火をよせて、それを披いていたが、読み終るとともに、
「ちょっと、中座するぞ」
と断って奥へかくれてしまった。
入れちがいに、そこの口や、書院窓や、廊下先から、どやどやと室いっぱいに入って来たのは十数人の屈強なる兵だった。──ぐるりと、官兵衛のまわりに甲冑と刀槍の壁を作って、
「お立ちなさい」
と一斉にいった。
官兵衛は、杯をおいて、その物々しい顔を見まわしながら、
「立ってどうするのだ」
と、訊ねた。
ひとりの部将が、沈痛な声で申し渡した。
「主人摂津守のおいいつけでござる。城内の牢獄までご案内してまいる」
「──獄へ?」
官兵衛は、こう口走りながら、からからと高笑いしたくなった。しまった! と思うとたんに、余りにも手際よく村重の陥穽にかかっていた自分の姿が──自分ながらおかしくなったものとみえる。
「やあ。そうか」
こう自問自答しながら、彼はなお笑い顔を収めずに腰をあげた。そしてこんどは彼の方から、硬ばっている周囲の武者たちをうながした。
「行こう。──いや、素直に参るしかあるまい。摂津守の御好意とあれば」
「…………」
無言のまま武者たちは官兵衛を囲んで大廊下へ流れ出した。戛々と具足のひびきと十余名の跫音が一つになる。
暗い廊下や階段を幾つも上り降りした。眼を塞がれたような闇も歩かせられた。
(このあいだに暗殺る気かな? ──)
と、多少身構えてもいたが、そんな気ぶりはない。何しても、灯のないところは奇怪といっていいような城廓建築の複雑な道であった。──がらがらっと、そのうちに重い車扉が開いた気がする。
「歩け」
と、命じられるまま、約十歩ほど、まっすぐに歩くと、もうそこは檻の中だったのである。どんと、後ろが閉まった。
「はははは」
こんどは、哄然たる声を、官兵衛は暗やみへ放った。そして詩でも吟じるがごとく、自嘲の感を、ひとり壁に向って云っていた。
「おれとしたことが、摂津守村重に計り陥されるとは。……さてさて世道人心は複雑になって来たな。どうも、常道ではいけないようだ」
武器庫の下あたりかと想像される。床は足のうらにも感じられるほど節目のある厚い板じきだ。官兵衛は、四壁に沿って、悠々と歩いている。──およそ室内のひろさは二十坪ほどかと察しられた。
「……いや、愍れむべき人間をおれは村重に見る。おれを獄中に監禁してどうするつもりかしら。何の効があると信じるのか。……彼の智謀の程度はこれでわかる。笑止笑止」
真ン中とおぼしき所へ、彼は胡坐を組んでみた。尻が冷たい。しかし莚ひとつここにはないらしい。
(──脇差は奪り上げられなかった)
これは、ありがたい気がした。これさえあれば、いつでもと思う。
尻は凍えても、気は凍えぬぞと、無言に自分へいいきかせる。こんなときは、青年の頃、よく頑張ってやった禅などが、多少は役に立つかもしれぬ。そんなこともぼつぼつ考え出す。
(いや、おれが来てよかった)
次に、思い出したのは、これだった。もし、秀吉自身来ていたらと、大難が小難ですんだことに感謝をもつ。
「…………」
いつかしら眼も半眼に、ともかく心をなだめていた。落着いてみると、ここへ歩いて来るあいだは、決して沈着を失っていないつもりであったが、血のさわいだ後が軽い疲労となって感じられて来る。人間の意志と生態とは、一つ理にはゆかないものとみえる──などと覚りめいた思索に耽る。
と。
顔の横へ、うすい灯の縞が映した。灯のさして来る方へ官兵衛はしずかに眼をむけた。
窓があいたのである。頑丈な格子の向うに、人の顔が灯に揺らいでいる。荒木村重とほかの武者輩であった。
「官兵衛、寒いか」
訊くのである。村重の声だ。──官兵衛はひとみを澄ましていたが、やがて答えた声はすこしも平静を欠いていなかった。
「いや、まだ酒のぬくみがある。──だが夜半ともなれば堪るまい。もし黒田官兵衛が、凍え死にしたと聞えたら、羽柴どのは、播磨から一夜にこれへ来て、恐らくは貴公の首を、獄門の霜に会わせずにはおくまい。……摂津、おぬしも、ろくな智嚢のない男だのう。おれを留めて何の役に立てるつもりか」
「…………」
村重はことばもない。自分に愧じることを彼も知っている。しかし、やがてその正直な自己を圧しころしてせせら笑った。
「官兵衛、愚痴はよせ。おれを智嚢なしというが、その智慧なしの計に落ちた貴さまは何か。──それでも中国の張良といえるか」
「悪態は無用。尋常に話そうではないか。なあ摂津」
「…………」
「貴さまはおれのことを、ややともすると、策士だとか、鬼謀家とか、警戒しているふうだが、黒田官兵衛は、大策はめぐらすが小策は弄さんよ。いわんや友を謀って自己のてがらにせんなどとは考えたこともない。──ただ汝のためを思い、筑前どのの苦衷を察し、また信長公を中心とし、ここはわれわれ皆、一つになって、速やかに統業を仕上げることが、天下を救う大計に相違ないと信じればこそだ。かくの如く、素裸同様、身ひとつ引っさげてここへ出向いて来もしたのだ。わからんか、筑前どのの友情が、われわれの信義が」
村重は返すことばも知らないのである。しばらく黙っていたが、やがて強いて抗弁した。
「友情だの、道義だのと、それは平和な日にだけ光のあることばではないか。いまはちがう、戦国だ、乱世だ。──謀らねば計られ、害さねば害される。箸を持つまも、斬るか斬られるかという険しい世間だ。きのうの味方もきょうは敵。敵とあれば、友であろうと、これを獄に投じるもやむを得ない。戦略だからな。まだ殺さぬだけが、慈悲といえよう」
「なるほど。それでおぬしの世のなかの観方も、戦いに対する日頃の考え方も、道義のほどもよく分った。……あわれむべき時勢の盲目、もう口を交わすのもいやになった。勝手に溺れてゆけ、亡んでしまえ」
「なに、盲目だと」
「そうだ! ……。いや、こうなっても、なお貴さまに対して、おれは微量ながら友情の温みを胸から捨てきれん。さいごに、もう一言教えてやる」
「何か、織田家のほうに、秘密な策略でもあるか」
「そんな利害の問題ではない。──おぬしは惜しい男かな。隠れもない武勇を天下に知られながら、この戦国によく生きる術を知らん。この乱世をも、なお浄め合おうとする情熱を人間として持てぬ非人間だ。──それでは武将たることはおろか、一町人、一土民にも劣ろうぞ」
「なに、人間でないと」
「そうだ、獣といってもいい」
「うぬッ」
「怒れッ、憤れッ。自分にたいして。──聞けよ摂津守。もし人の世が道徳の美と信義を失ったら、地上は獣の地上ではないか。戦いまた戦い、業火と人の相剋はなお歇まずといえ、乱れれば乱れるほど、濁れば濁るほど、おたがい人間は、この地上を獣のものと化し去ってはならんのだ。あくまで人間のものたるべく、人心の中の真美を守り通してゆかねばならん。戦の駈引、外交の術策、そのための諸政の表裏──などを見て、直ちに、個々の道義、人情までを、それの如くでよしとするような考えを致すなれば、それこそ、織田どのの敵たるだけにはとどまらん、全人間の敵、全地上の害物だ。この官兵衛孝高とて、貴さまがそういう人物なら、見よ、いまにその首を捻じ切ってくれるから」
いうだけをいって、だまりこむと、官兵衛の耳に、喧騒が聞えてきた。獄窓の外にある荒木村重をとりまいて、その旗本や側臣のあいだに──或いは主の村重を挟んでであろうか──ともかくめいめいが勝手な声を出し始めているのであった。
斬ってしまえ、という。
いや殺してはならん、という。
憎いやつ。
と憤るもあるし、
いやいやここは。
と宥めぬく声もする。
要するに、官兵衛をひき出して血まつりとすべしというのと、殺しては却ってよくないという説とのあいだに、村重は、板ばさみとなって、そのどっちへも決断を執りかねている様子だった。
──が、結局、殺すにしても急ぐにはあたるまい、というところに落着いたらしく、村重以下、がやがやと跫音も遠く去って行った。
「……割れているな」
その一事から視て、官兵衛はすぐ全城の空気を察した。
城頭の旗に反信長をあきらかとしていながら、いまだにその屋根の下では、戦うべしといきまく者と、妥協すべしという者とが、事ごとに葛藤し相剋している実状が、眼に見るごとく読みとれる。
自分を、殺せといっていたのは、主戦派であろう。殺すな、と争っていたのは、妥協組とみて間違いはあるまい。
そう二つを、一つ胸に持って、のべつ焦々しているのが、荒木村重だといえよう。──こういう抗争に引きずられ引きずられつつ、彼は、信長の正式な使者も追い返し、刻々の軍備もすすめ、今また自分を投獄したものと思われる。
「運の末とは、彼の今に看られるすがたよ。ああ……さりとは」
自分の運に悲しむのも忘れて、官兵衛は、彼の蒙を痛嘆していた。
人声の去ったあと、獄の覗き窓はもとのように閉まっていたが、ふと見ると、何か紙片らしい物が落ちていた。官兵衛は拾っておいたが、その晩は読めなかった。自分の指頭すら見えない暗闇だからである。
次の日。
朝の微光がさすと、彼はさっそく思い出して披いてみた。それは播磨御著の小寺政職から荒木村重へ宛てた書面である。文意を看れば──
例のうるさい男が来てしきりとわしに思い直せと諫言して止まない。ついては、摂津守殿のこころを先にただして参れと偽って追いかえした。いずれこの状と同着ぐらいに、貴城へも罷り越そう。何ぶん才略縦横な男だけに、いては厄介である。伊丹へ参ったらその機をとらえて、ふたたび世の中に舞い出ぬよう御処分ねがいたい。
と、ある。
官兵衛は愕いた。書面の日附をみれば、自分が政職に諫言を呈して御著城を去ったその日ではないか。
「……さては、あのあとですぐこの手紙を」
呆れ顔につぶやいて、さてさて世の中には智慧者が多いものだと感心した。そして努めて小智小策をつつしんでいる自分をさして、世間は却って才略家だという。
「おもしろいものだなあ。世のなかとは」
天井を仰いで、思わず声を発すると、声は虚音と化して洞然とひびいた。
おもしろい世の中。
それも毎日がここのように真っ暗では、彼とても、如何とも興を感じようがあるまい。
やはり虚あり実あり、色相あり、空相あり、怒りあり、歓喜あり、信あり迷いある所こそ、世の中というものである。
が、彼は以来、幾十日も、それから隔離されていた。
寄手の陣容は完くできている。
伊丹、高槻、茨木の三城を対象として、その包囲形は、
──いつでも。
の姿勢にある。
にもかかわらず、天野山の本陣からは、いっこうに「かかれ!」の令が出なかった。諸陣、しびれを切らすほど、毎日が無事だった。
「なんの沙汰もないわ。いまもって」
これは信長がきょうも二度まで口に出したことばである。彼が待ちぬいているものは、将士が待ちしびれていることとは反対なものだった。
織田家の立場というものは今、中国や関東方面や北越をべつとしても、この畿内においてすでに、非常に危ない複雑さをもっている。──能うかぎりはこの際この地域において、事を構えたくない、火の手を出したくない。信長の本心では日のたつほど、
「なんとか。ここは戦わずに」
と、解決策に苦慮していたのである。
彼の胸に、苦慮のあるとき、彼の胸の中には、かならず秀吉が住んでいた。思い出すという程度ではなく、
「彼が側にいたら」
と、のべつ秀吉が考えられるのである。
それほど恃みとしている秀吉から、先頃、こういう通報が来ている。
いわく。
──官兵衛孝高事、旧主小寺政職を説破。直にまた伊丹へも入城。摂津守村重と対面の上、御意の儀、きっと談じ遂げ申すべく、決死赴きおり候えば、紛事一決期して御待ち被遊るべく。──云々。
「あれがこれほど自信をもって云っておること。懈怠のあろうはずはなし……」
と信長が、自分の根気をなだめているうちにも、帷幕の空気は甚だおもしろくないものになっていた。
秀吉に何か些細な過誤でもあると、こういう空気は、いぶり炭のように、いつでも灰の下から立つのであった。
「官兵衛を向けたとは秀吉の気が知れぬ。官兵衛とはそも何者か。根を洗えば、小寺政職の家臣ではないか。現に父宗円は、なお政職の老臣として仕えている。──その政職は荒木村重と腹を合わせて、毛利家に通じ、御当家を裏切り、明らかに、伊丹と呼応して、中国で叛旗をあげているのに──それらの者と一つ穴のむじなにひとしい官兵衛孝高を、大事な使者につかわすとは」
と、秀吉の不明をあげる非難やら、また甚だしきは、秀吉もまた播州の出先で、毛利家と何か暗中交渉をやっているのではないか、などという疑惑を口に出すものが絶無ではなかった。
そういう諸将の手許へは、また個々にべつな情報がいろいろ入ってくる。専ら伝えられてきたのは、
「小寺政職は、官兵衛の説に伏したどころか、いよいよ大びらに、信長公の悪口や、織田家の弱勢を中国にいいふらし、中国内の織田勢力を切りくずしにかかっている。また毛利家との往来はますます頻繁を加えている」
ほとんど、これは訛伝でなく、いやいやながら信長もその事実を認めざるを得ないほど、衆口一致していた。
ために、
「官兵衛の行動こそ、眉つばものである。そんなあてにもならぬものの吉左右をお待ちあるまに、敵はいよいよ聯絡をかため、防備を充実し、ついには寄手の猛攻も効なきものとなりましょうに」
と、幾人の口から信長は同じ諫言を聞かされたかしれなかった。
そこへようやく、秀吉から便りが来た。けれど、吉報ではなく、
──官兵衛孝高事、今もって立ち帰らず、消息もまったく不明、この上は……
という絶望の嘆息が聞えるような文面だった。
舌打ちが聞えた。と思うと、うしろにいた祐筆の前へ、信長の手から書面の殻がぽんと投げ捨てられて来た。
「──今頃となって!」
忌々しげに、口のなかで呟くと、やにわに、声まで怒号となって、
「祐筆。秀吉へ宛てて、すぐ書面を認めい。自身、出て参れと。時をうつさず、天野山へ参れと」
「はッ」
すぐにまた、佐久間信盛を見て、こう訊ねた。
「竹中重治はいま、京の南禅寺に引き籠って、病気を療養中とか聞いたが、まだそれにおるのか」
「おるやの由にござりまする」
信盛の答えに対し、信長の早口は響きの応ずるようだった。
「では、そこへ行って半兵衛重治に、きっと申しつけい。──かねて秀吉より重治の国許へ預けおいてある黒田官兵衛の質子松寿丸を、すぐ打首にして、父官兵衛のおる伊丹城へ送ってやれ──と」
「……はッ」
信盛は頭を下げた。
しかし信長の左右すべての人々が、信長の震撼に慴伏して、一瞬、寂としたまま、声もないので、しばらく彼もそこを起ちかねていた。
実に信長の気色は早く変る。彼の怒りは簡単に激発するのだ。青天霹靂ということばは信長のためにあるような字句である。
けれど信長としては、それが地であって、それまでの隠忍黙想は、天性の長所ではない。努めに努めている理性である。
──だから、いったん好まぬ自制をかなぐりすてて、声を大にし、耳朶を熱し始めると、彼の面目は俄然、彼ならでは持たない風貌を帯びて来る。
「……あいや、わが君、しばらくお待ちくださいまし」
「誰だ。滝川一益か」
「一益にござります」
「なにを止める。もっと前へすすめ。なにか、信長に諫言でもこころみたいか」
「諫言と申しては、一益ごときが、烏滸に聞えまするが、何故に、黒田官兵衛の質子を、にわかに、殺せとお命じにござりますか。一応、御熟考のうえで」
「官兵衛の罪をただすに、何の熟考がいるか。小寺政職を説くと偽り、また荒木村重を談合のうえで降してみせると騙り、信長をして、ここ十数日も手出しをひかえさせたのは、まったく官兵衛孝高めの策略であったのだ。──そう秀吉は今頃になって報じて来た。あれもよほどどうかしておる。官兵衛ごときに計られるとは」
「でも、筑前どのを召して、事情をお聞きとりになるなれば。官兵衛の質子の処分も、彼と御相談の上になされては」
「かかる際、平時の処断はとっておれん。秀吉を呼びつけるのも、彼の意見を聞こうためではない。かかる失態を醸した筑前の責めを問うのだ。──信盛、はやく使いに立て」
「はい。……では御意のごとく半兵衛に伝えまするか」
「念を押すには及ばん」
と、いよいよ機嫌わるく、
「祐筆、書けたか」
と、眸を転じる。
「認めました。御一見を」
「どれ……」
と、床几へ取りよせて、それをすぐ使番頭安藤惣五郎に手渡し、即刻、播磨へ早打せよといいつけた。その早打がまだここを出ないうちであった。麓から蜂屋頼隆がのぼって来た。そして信長の前へ出て告げた。
「ただ今、筑前どのが、御陣内まで着きました。すぐこれへ見えられましょう」
「なに、筑前が?」
瞬間、激色は激色ながら、信長の面の怒りは、ふと眉の辺に、すこし晴れたかの如く見えた。
やがて秀吉の声がする。いつもの快活な響きである。信長は囲い隔てて、
──来たな。
と、耳に知ると、それまでの不機嫌とまずい顔つきを、強いてでも、持ち怺えていようと努め出した。
ふしぎな心理といわねばならない。あれほど激怒していたのに、陽に会った氷のように、胸の怒りの解けてゆくのを彼自身どうしようもなかった。秀吉が来たと聞いただけでそう変るのであった。
「やあ」
と、云いたげな調子で秀吉は囲いのうちへ入って来た。居あわす諸将に対しての会釈である。そして小腰を屈め直した。人々の前を通って、信長の正面に到り、慇懃に礼をしてから、初めて主君の面を仰いだ。
「…………」
筑前来たかとも、信長はいわなかった。
──予の立腹を見よ。
といわないばかりである。
信長のこういう顔つきと沈黙に出会って、懼れ伏さない将は幾人もいない。いや信長の一族を加えても、絶無だといってよいだろう。
宿将格の柴田勝家にせよ、佐久間信盛にせよ、信長の眼にこう見すえられたら、かならず色を失ってしまう。
丹羽、滝川などの世馴れた老巧をもってしても、途方にくれる、陳弁につとめる、そして為すところを知らないだろう。
明智光秀の聡明でも、いかんとも執りなしはつくまい。森蘭丸の寵をもってしても、とりつく島はないに相違ない。
ひとり秀吉だけは、こういう場合、その受け方がちがっていた。信長の怒りに会って、どう睨めつけられようが、顔つきを誇示されようが、いっこうに受身の彼のほうは切迫した反射を示さないのである。
それも決して、主君を軽んじているのではなく、むしろ人一倍、恐れ入って、しかも慎みながら、
──ははあ、またすこし、お腹を立っておいでだな。
と、荒れ模様の天候でもながめているように、至極大らかな顔して、平々凡々と口をさし控えているだけのことであった。
これは、他人では真似のできない、彼の天性の味らしい。もし勝家とか、光秀とかが、この模倣をしたと仮定したら、火へ油をそそぐように、信長のそれは忽ち癇癪となって爆発するにきまっている。
「……筑前。何しに来た?」
根負けのかたちである。とうとう信長から云い出した。
すると秀吉、初めて、額をすりつけんばかりにして、
「お叱りを戴きに参りました」
と、恐懼して答えた。
(──いい返辞をするやつ)
と、信長は心憎く思った。こういう返辞に対してはいよいよ怒り難くなるからである。
わざと、噛んで吐き出すように、
「なに、叱られに来たと。詫言ですむと思って来たか。この信長に、いや全軍の上に、かくまで大事を誤らせておきながら」
「てまえより早打にて差上げ置きました書状は、はやお手もとに」
「見た!」
「官兵衛孝高を説客としてつかわした儀は、明らかに失敗に終りました。ついては」
「云い訳か」
「いや、禍を転じて福となすため、お詫びをかねて、次の一策を告げ参らせんと、兵庫街道の敵地の中を、ただ一鞭に駈けて参りました。……ねがわくば、お人払いを仰せつけ下さるか、他へ床几をお移しあって、秀吉の言をもう一度お聞きとり願いたいと思います。──秀吉の罪御処分とあれば、そのうえにて、如何ようとも、慎んでおうけ仕りまする」
「……ウむ、む?」
考えていたが、信長は、彼の乞いをいれて、一同を退らせた。
諸将は秀吉の押しの太さにあきれ、顔を見あわせながら退出した。罪を待つ身でありながら何たる厚顔──と謗る者もある。虫のいいやつと、舌打ちならす者もある。
秀吉は意に介さない顔してただ一人あとに残っていた。主従二人きりとなると、信長の容子もすこし和らいでいた。
「……何じゃ。わざわざそれを申すために、播磨から馳せつけて来たという程な献策とは?」
「伊丹を攻める手段です。事ここに至りましては、荒木村重は断乎と伐つの一手しかありません」
「もとよりである。しかし伊丹は要害という程でないが、大坂をひかえ、毛利と呼応し、なかなかうるさいことになろう」
「さほどとは存ぜられません。急にしてはお味方を損じること多く、お味方の内に、なお些少でも破綻を生じれば、今日まで営々お築きあそばした堤もいちどに切れる惧れがありましょう」
「そちならば如何にするか」
「てまえ自身の思慮ではありませんが、かねてから京に療治中の竹中重治が、今日あるを観通して、こういうことを申しておりました」
秀吉は、その折、半兵衛重治から語られていた策を、そのまま信長の耳へ取次いだ。それを自分の智と見せかけて誇ろうというような気もちは少しもなかった。
他人の智を取って、自分の功にしなければならないほど、彼の智嚢は貧困でなかったし、またそういう匂いは実によく嗅ぎわける信長で、この主君の勘を口さきで紛らわそうなどと考えたら間違いの因ということを、彼はよく弁えもしていた。
要するに、対伊丹城策は、なるべく味方の兵力を毀損せぬことを前提とし、時日は要しても、まず彼の羽翼を殺ぐに全力をかけ、荒木村重をして孤立化せしめる──そういう方針であった。
「非常にいい」
信長はその策を容れるに、少しのためらいもなかった。彼の考えていたところも大体それに近かった。
方針はきまった。秀吉を咎めることなどはもう忘れ果てている信長である。以後の作戦を運ぶについて、なお何かと秀吉にただすことが多かった。
「急用も達しましたゆえ、今日直ちに、播州へ立ち帰りたく存じますが」
と、秀吉は黄昏の空を仰いで暇を告げ出した。しかし信長は、陸路の危険もあるから帰りは船にのって夜をかけて帰れという。そしてその護衛は水軍の九鬼一族に命じよう。船とすれば間もあるから、一献してゆくがいいと離さない。
「では」
と、秀吉は腰をすえ直してから急に思い出したように云った。
「それがしへのお咎めは、もはやお宥し給わりましたものでしょうか」
信長は苦笑して、
「さあ、どうかの」
と、からかった。
「ゆるすと、おことばのないうちは、どうも御酒をいただいても、沁々喉をうまく通りませんが」
重ねていうと、初めて、信長も快然と声を放って、
「はははは。よしよし」
「然らば──」
と、秀吉はその図を待っていたように、
「官兵衛孝高にもお咎めはございませんか。彼の質子を首打てと、すでにお使いは立った由にござりますが」
「いや。黒田官兵衛の心はそちにも保証はなるまい。何で咎なしといえるか。質子の首を伊丹城中へ送りつけることは取止めぬぞ。軍律の上からも。──執りなしはならん」
高圧的に、信長は、彼の口を封じてしまった。
秀吉はその夜、播州へ帰った。帰るに際して、京の南禅寺中にある竹中重治のところへ、そっと使いに一書を持たせてやった。書中の用件が何であったかは、後には自然分ったが、要するに、彼が無二の幕友としている黒田官兵衛の質子について、人知れず心を煩わしたものであった。
それとは別に。
信長の使者もまた京都へ向って急いでいた。使者は四条坊門の南蛮寺を訪れて、永禄以来日本に来ている宣教師オルガンチノを伴れてふたたび信長の陣所天野山へ帰った。
オルガンチノは伊太利生れの伴天連だった。平戸、長崎あたりはいうまでもなく、堺、安土、京都、畿内のいたる処にも無数の宣教師が日本に渡っていた。その中でもオルガンチノは信長が気に入りの異人のひとりだった。
信長は切支丹ぎらいではない。仏徒と闘い法城を焼き払っても、あながち仏法嫌いでないのと同じ意味で、宗教そのものの本来の価値は認めている。
けれど彼は、切支丹に帰依して洗礼をうけようなどとは、ゆめにも思っていないらしい。
オルガンチノばかりでなく、時折は安土へも招かれたりしている多くの伴天連たちは、どうかしてこの人を自己の宗門に入れようものと、あらゆる腐心をしてみたが、信長の心をつかむことは、ちょうど水中の月を掬おうとするようなものだった。
或る伴天連は自分が海外から供に連れて来た黒奴を、信長に献上した。信長がそれをたいへん珍しがって見ていたからである。
信長は、城外へ出る時も、供人の中に、この黒奴を加えていた。京都へも連れて行った。
南蛮寺の伴天連たちは、すこし嫉妬もあって、或るとき信長にむかって訊いた。
(公には、よほど黒奴がお気に入ったとみえますな。いったい何処がよろしくてそんなに御寵愛なさるのですか)
すると信長は、即座に、
(汝らもみな同様に、目をかけて遣わしてあるではないか)
果然──これで信長の宣教師たちに対する心持は明白になった。──彼がオルガンチノを愛するのも、他の伴天連たちを見るのも、要するに、黒奴を可愛がるのと同じ意味のものだった。
それで思い出されるのは。
かつてオルガンチノが初めて信長に謁見したとき、土産物を献じた。その目録は、
鉄砲 十挺
遠目鏡 虫目鏡 八個
伽羅 百斤
虎の皮 五十張
八畳吊蚊帳
そのほか時計鐘とか、地球儀、織物、陶器などと珍しい物ばかりだった。
信長は子どものようにそれを展列させて眺めた。わけて地球儀と鉄砲とは彼の心をいたくとらえた。──その地球儀を前にして、オルガンチノから、彼の故郷伊太利のはなし、海上の里程、北欧南欧の風物談、そのほか印度、安南、呂宋、南支那などの旅行ばなしを、幾夜語らせて、熱心に聴いたか知れなかった。その席にはまた必ず彼以上熱心に耳を傾けて、よく質問を出したりする男がひとりいた。今思うと、その頃はまだ藤吉郎とよばれていたが、今の羽柴筑前守秀吉だった。
「やあ、よく来られたの」
信長は、機嫌よく、オルガンチノを陣中に迎えた。オルガンチノはすこし日本語がわかる。礼儀も日本式に倣ってする。
「何の御用ですか。たいへん急なお召しですが」
「まあ、おかけ」
信長は、そこにすえてある一脚の曲彔を指さした。禅家で用いているそれはちょうどよい椅子になる。
「いただきます」
オルガンチノは、腰をうずめた。
手の持駒はいつかつかえる局面に会う。
信長は、いま、この伴天連を、もっとも適切な局面に用いようとしている。そのため手許へ呼んだのである。
「師父。……かねて御身は、日本に来ておる宣教師を代表して、この信長に、嘆願書を出しておったな。──京都、近畿において、宗門屋敷を構え持つこと、また耶蘇教をひろめる自由を許可してくれということを」
「お取り上げになる日を、わたくしたち、どれほど渇望しているか知れませぬ」
「どうやら、許してやる日が近づいて来たようである」
「えッ、おゆるし給わりまするか」
「無条件ではならん。およそ何の功もなき者へ、ただ恩典を与えるということは、われわれ武門にはないことだ。ひとつの功を立てて欲しい」
「……それは、どういう御意でございましょうか」
「高槻の高山飛騨守が伜……あれは十四歳の頃から切支丹に帰依した熱心家だそうだが……師父とは特別に親しかろうな」
「高山右近さまのことをおたずねでございますか」
「そうだ、あの右近の儀であるが──。知っての通り、彼は荒木村重の謀叛に与して、二人の子を伊丹城へ質子となし、共にこの信長へ故なき弓を弾かんとしておる」
「……嘆かわしいことにございます。わたくしたち宗門の友達どもは、どれほどそのために胸をいためて、蔭ながら、天主の加護をお祷りしているか知れません」
「そうか。……だが、オルガンチノ、こんな時、ただ南蛮寺の礼拝堂で、祷ってばかりいたところで何の効き目も顕われまい。──それほど右近の身を案じるなら、いま信長がいいつける命を奉じて、高槻城へ行くがよい。そしてよく高山右近に不心得を諭してはどうだ」
「それが出来ますものならば──いつでも参りたく思いますが、もう彼処のお城も、信忠卿や不破、前田、佐々様などの御軍勢に囲まれておるそうですから、おそらくわたくし達の通行はおゆるしになりますまい」
「いや、信長が、兵をつけてやる。また通行の証も与えよう。──そして首尾よく高山父子を説いて、信長の軍門に降らせたら、それは師父の大きな功だ。布教の自由と教会を持つことは、信長の名をもって、ゆるしてつかわす」
「……おお、では」
「──が待て」
と、信長はオルガンチノの歓びかがやく眼を、眼をもって抑えつけるように云い重ねた。
「──その反対に、万一、高山父子がそれを拒み、飽くまで信長に楯つくときは、伴天連一門の徒、すべて彼らと同意と見なし、南蛮寺の破却はもちろん、宗門掃滅、信徒宣教師の輩、ことごとく馘るから左様心得ておくがいい。その上で、出向いてもらいたいのだ。どうだ師父、参るかの」
「…………」
オルガンチノは血の気も失せたような顔をして、しばらくさし俯向いていた。一帆船に乗って遠い欧羅巴からこの東洋に来ているほどな彼らの仲間には、小胆者や心から柔弱なものはいなかった筈であるが──さすがに信長の前に置かれてこういわれると、身もちぢみ、心も顫くような恐怖に打たれた。
なにも、この主君の姿が、特別に天魔鬼神と見えるわけでもないし、その容貌やことばはむしろ優雅なくらいであったが、彼らも胆に銘じて知っていることは、
(この人が口でいったことは、かならず実行せずにはいない)
という先例を、叡山の焼討ちに見、長嶋の討伐に見、あらゆる政策の上でも、常に見ていたからである。
「……参ります。きっと、お使いの旨をおびて、右近どのにお会いして参りましょう」
オルガンチノは遂に約束した。間もなく十数騎の兵に護られて、彼は高槻城への道に向った。
オルガンチノを立たせた後で、信長は思いどおりに行ったと思っていた。けれど信長に頤使されて高槻城へ向ったオルガンチノも心のなかで、
「うまく運んだことよ」
と、自分を祝福していた。
信長が考えているほど、異国人の彼は甘くないのだ。いや伴天連ほど喰えないものはないとは、京都の庶民などがよく知っていていうことである。
信長から呼び出される前に、すでに高山右近とオルガンチノは、度々てがみを取り交わしていた。右近の父の飛騨守も、
(どうするのが、天の思し召しにかなうであろうか)
を、宗門の師父たる彼にしばしば訊ねて来ているのである。
オルガンチノは当然に、
(主君に叛くは道でない。信長公は荒木の主君でもあり、またあなたの主人ではないか)
と重ねがさね答えて遣ってある。
その返事として、右近からの、
(荒木の方へ、二人の子を、質子にとられてあるため、妻と老母だけが、信長公に屈するのを強く反対している。それさえなければ、自分も叛逆の名はうけたくないのだが)
という本心を打ち割った書面まで受けているのであった。
だから、オルガンチノとしてはこの使命の成功の場合、その交換条件として約束しただけのものはただ貰いも同じことであった。
右近も飛騨守も、自分のすすめに同意する、という確信はもう持っているのである。
ただそれに反対だという右近の母と妻とがあるが、
(女、年よりは、宗門のうえから説き、涙と根気をもって説けば……)
と、それには多年の経験上から、充分に納得させ得る信念があるもののようだった。ほとんど意に介しているふうはない。
こういう立場にある──高山家の家庭人の心や内情にふかく立ち入っているオルガンチノの使命が──不成功に終ろうはずはない。
だが彼は、
「──不首尾に終った。せっかく右大臣家のお慈悲あるすすめも、わしの諫めも、高山父子は、頑として、聞き入れなんだ」
と、称して、高槻城からもどると、その足で京都へ帰ってしまった。
その後から高山右近は、
「妻子には恨まれても、宗門の滅却を他目に見てはいられない。城や一族は捨て去るとも、人の道は捨てられぬ」
と告げて、一夜ひそかに、城を出て、南蛮寺へ奔りこんだ。
反対に、右近の父飛騨守は、
「怪しからぬ伜の裏切」
と、即刻、伊丹の荒木村重のところへ駈けこんで、かくかくと事情を訴えた。
村重の陣中には、高山家に縁のある親族だの親しい者もたくさん交じっている。苛烈な処置をとったり、手許にある質子に虐待を与えたりしたら、当然、内部の異変はまぬかれ難い。──で、多分に神経の粗雑な村重ではあるが、何となく、少し前後のいきさつが変だとは薄々感づきながらも、
「ぜひもない儀だ。右近が城を脱しては、用もない質子」
と、ふたりの稚子を厄介者のように、飛騨守の手へ返してしまった。
それが聞えると、オルガンチノは、右近を伴って南蛮寺を出、天野山の陣へ行って、信長に謁した。
「よくぞいたした」
信長の喜悦はひと通りでない。右近には、播州芥川の一郡を与えんといった。また小袖だの馬だのをも当座の物として与えた。
「私は、髪を剃って、余生は神につかえたいと思います」
右近は訴えたが、信長は、
「ばかを申せ、その若さで」
と、ゆるさなかった。
結果は、信長の希望どおりに行ったが、またオルガンチノの見込みどおりでもあった。右近の進退、質子の取り戻し法、すべてこの伴天連の神算だったのである。
きのうの情勢は、もう今日の情勢として考えられない。
時は刻々に変貌を作業している。
去就に迷うのもむりはない。野望を過って身を亡ぼす者が簇出する理由もある。
十一月もはや末だ。荒木村重の片腕とも恃まれていた中川清秀は、突然城を出て信長へ帰伏してしまった。茨木城は開城されたのである。
「天下大事の秋。小過は咎めぬ」
信長は、罪を問わないのみか、降将清秀に、黄金三十枚を。随いて来た家臣三名へも、黄金や衣服などを与えた。
高山右近の誘降によるものであった。右近も功として、太刀や馬を拝領した。
「稀有な御寛大だ──」
どうして彼らをそれほどまで優待するのか、幕将以下の下級将士ほど、信長の処置をいぶかった。
信長も、心のうちでは、
「さだめし、部下のうちには、不平もあろう」
と察しながら、戦争目的の完遂のためには、こうするしかなかったのである。
由来、懐柔、外交、隠忍などは彼の性に合ったものではない。だから一面では、相変らず烈しい猛断と攻撃は敵にそそがれつつあった。
たとえば、荒木と毛利の両軍が聯合してたて籠っている兵庫の花隈城へ対してなど、不断に攻撃をつづけ、須磨、一ノ谷、六甲あたりの寺院でも村々でも仮借なく焼きたてた。どんな些細な敵性行為でも、またそれが老幼男女であろうと許さなかった。
──が今や彼は、一面策略一面威嚇に成功した。荒木村重の抗戦力は、両翼を捥ぎ取られた伊丹一城だけのものになり終った。右に高山右近なく、左に中川清秀のない村重の陣形は、
「突けば倒れる案山子」
と、信長はもういつでも意のままに奪れるものと、そこを観ていた。
総攻撃は、こうして開始されたのである。十二月の初め頃からであった。
第一日は、八日の夕刻前から、夜の十時頃まで、攻めつづけに攻めた。
ところが、案外にも、頑として手ごたえは固い。寄手の一隊長万見仙千代は討死した。兵の死傷もかなりうけた。
二日目。三日目──と死傷は増してゆくが、城壁はその一角だに壊せなかった。さすが武勇をもって鳴る荒木村重、その士卒にも勇敢なのが多い。加うるに、その一族や部将は、ひとたび村重が信長の慰撫に従って旗を捲こうとしたのを、
(いまとなって降るのは、みずから首を献じに出るようなものだ)
といって押し止めた責任感もあるらしく、死にもの狂いな防禦振りを示した。
複雑ないまの情勢下にあっては、ここの開戦はまた忽ち播州にもひびき、大坂表にも動揺を与え、なお丹波、山陰地方にまで、一波万波を生ずるの様相をあらわして来た。
まず、中国にあっては。
秀吉は時を移さず、包囲中の三木城に行動を起し、援軍の佐久間勢や筒井勢をして、毛利の蠢動を備前の境に圧えさせた。──摂津地方の叫喚を耳にするや、毛利の大軍が、大挙して、上洛を図る勢いが見えたからである。
丹波には、波多野秀治の一族が、やはり今を「潮時」として、しきりに騒ぎ出していた。この方面へは、明智光秀と細川藤孝が、その治領にも接している関係から、
「すわ」
と、ばかり防ぎに駈けた。
大坂の石山本願寺勢と、強大毛利との聯絡も海路から頻繁らしい。信長、秀吉、光秀などの当面している敵は、すべてみなこの二大勢力に踊らされている「奇特な代戦者」であった。
「もうここも終ったな」
片づいた──という意味であろう。信長は伊丹城をながめて云った。
その伊丹城は、完全に孤立化したが、まだ陥落はしていない。しかし信長の眼にはもう陥ちているも同様であった。
味方の包囲陣をのこして、彼は急に、安土へ帰ってしまった。十二月の二十五日という歳末である。
「正月は安土で」
と、いうつもりらしい。
こういう不測な戦乱や遠征に追われて暮れた年だったが、城下街を見渡すところ実に濃厚な新文化のにおいが立ち昇っていた。整然たる区画整理の下に大小の店舗は軒をならべ、信長の経済政策が功を奏して、旅舎や駅亭の客はあふれ、湖畔には泊船の帆ばしらが林立し、侍小路の住宅地域も諸大将たちの宏壮な邸も、いまはあらかた完成していた。
寺院も増築しているし、また、さきに許可を得たオルガンチノ一派の伴天連も、地を選んで、南蛮寺の建立にかかっていた。
文化というものは不思議な霧である。元来、それを破壊することばかりやって来たといっていい信長の膝下に、いまや画期的な新文化がここに勃興しかけている。
音楽、演舞、絵画、文学、宗教、茶道、衣、食、住のあらゆる部門のものが、こぞって、しかも好んで、旧臭旧態を脱ぎ捨て、新鮮に新鮮にと、たとえば女子の着る小袖模様一つにでも新しい創意を生み出すことを、安土の文化は競いあっていた。
この正月。
信長はそれを、眼に映じ、耳に聴き、舌に知り、城街全体の彩に観て、
「これがわしの待っていた正月なのだ。天下の初春だ」
と、満足した。
破壊よりは建設の楽しいことはいうまでもない、彼の破壊はその下地だった。
やがては、いま安土に醗酵しつつある生気溌剌たる新文化が、東国をも陸奥の果てをも、また北陸や中国九州までも、満潮の干潟を浸してゆくように、余すところなく漲ってゆくであろう。そして津々浦々の士民までみな、ここの士民と等しい生活を享受するようになるだろう。
「そのときだ。……俺は何してこの世を楽しもう」
それまでの事業が自分の使命と考えられるとき、彼はむしろ今日までの苦難の道がもの足らない気がした。
それにしても、彼は安土城の高閣から、城下の殷盛を見るたびに、文化というものの正体をいつも不審に考えずにいられなかった。
破壊に対しては、武を用いて来たが、新文化の発育には、大づかみな方向を示しておく以外、武や権力は用いていない。
また、種々な文化の新様相も、決してそれは信長の創意したものでもなし、彼の構想でもなかった──にも関わらず、生々として、悉く新しい、悉く脱皮している、旧臭旧態は、地にとどめないばかりである。しかも伝統の本質を失わずにで──ある。
いったいどんな偉大な作者がその上にいるだろうか。
作者はない。確実にあるものは、そうした文化性というものだけである。
強いて、文化の作者を求めるならば、それは時代だというしかない。
ことし天正七年、その「時代」なるものこそ作者というべきであろう。
「よい初春空でございますな」
信長がそんな考えに耽っていたとき、うららかな陽ざしを背にして、佐久間信盛が、この高閣の一間へ御慶を述べに来た。
ふと、彼は思い出していた。
いま信盛のすがたを見てからのことである。
「そうそう、あのことは、その後どういたしたか。あのことは」
信長は、手の杯を、小姓を通じて信盛へ酌しながら、唐突にこう云い出した。
杯を押しいただいて、
「あのこととは」
信盛は、主君の眉を窺った。信長が、なお何か、思い出そうとするように、掌をそれへ当てていたからである。
「そうだ。松寿丸とか申したな。竹中半兵衛の国許へ質子としてある──官兵衛孝高の小せがれがことよ」
「あ。あの質子の件にございますか」
「そちを使いとして、京に療養中の半兵衛重治へ、首を打って、伊丹へ送れと、申しつかわしてあったが……。その後、打ったとも、送ったとも、答えがない。そちは返答を聞いておったか」
「いえ。てまえもまだ」
と、信盛も首を振りながら──そういわれれば──と去年の使いを思い出しているような顔つきだった。
使いは確実にすましているが、もとより松寿丸の身がらは、竹中半兵衛の領地美濃の不破郡に預けてあるので、すぐにといっても無理である。
半兵衛からもそのとき、
(右大臣家の御命とあらば、否やはありませぬが、数日の御猶予を)
と、当然な挨拶があったので、もちろん佐久間信盛も諒として、
(では固くお伝え申したぞ)
と、念は押したが、そのまま立ち帰って信長へ復命しておいた。
陣務の忙しさやら、間もなく信長の引き揚げなどで、信長も失念していたらしいが、実は信盛も、その結果はまったく念頭においていなかった。──多分、信長の方へは、半兵衛から直々に、処置の報告がすんでいるだろう──程度に考えていたのである。
「はて? ……。ではその後、筑前からも、半兵衛からも、なんのお届けもいたして参りませぬか」
「参らん。──何もいって参らん。あのことについては」
「いぶかしいことでござる」
「そちは確かに、半兵衛へ申し渡したろうな」
「御念までもございませぬ。ちかごろ懈怠至極」
信盛は、心外らしく呟きを発してなお云い重ねた。
「多寡が裏切者の質子ひとりの処分とは申せ、かりそめにも、重き君命にたいし、今もって、何の処置もとっていないとすれば、違背の罪、捨ておかれません。──自分帰陣の途中、京都へ立ち寄って、しかと半兵衛に質してみます。いかが致したかと」
「……そうだのう」
信長のほうは余り気のない返辞である。思い出しはしたものの、その厳命を下したときと今とでは、だいぶ心境にも相違があった。
けれど、信盛を遣って、いったん命じてしまったものを、理由なく、
(抛っておけ)
ともいわれなかった。またそれでは、使いに立った者の面はまるつぶれでもあるし……と、至極あいまいなところで、
「ムム。そうだのう」
と、頷いておいた。
それを信盛がどう取ったか。自分の使いが不つつかであったと、ただそう主君に思われる点のみ心外に考えたか──やがて年頭の賀をすまして退城すると、それから伊丹の包囲陣地まで帰る途中、わざわざ駒を南禅寺の門外に繋いで、
「半兵衛どのに御意得たい。御病中この寒気、或いは、お引き籠りかとぞんずるが、信長公よりお質しあった儀について、折入って罷り越した。よろしくお取次ありたい」
と、ひどく厳めしく、退っ引きならないような辞をもって、面会を申し入れた。
取次の寺僧はすぐ戻って来た。
「病間にて、取り散らしておりますが、おゆるしあるなれば、お通りくださいとの、半兵衛様のおことばでした。──何分、草廬もお手狭でございますから」
佐久間信盛は、
「苦しからず──」
と、頷いて見せながら、寺僧のあとに従いて行った。
離れの障子は閉まっている。しきりと咳の声がするのは、病褥にある半兵衛が、やむなき客のため、身を起しているからであろう。
信盛は、しばらく外に佇っていた。雪にでもなりそうな空もよいである。昼ながら南禅寺の山陰はしんしんと寒かった。
「どうぞ」
内から云って、小書院の障子をあけたのは附添いの家臣である。見れば病中の主も、その痩躯を畳へじかに置いて、
「ようこそ」
と、端居して出迎えている。
信盛はつかつか通って、辞儀が終ると、すぐ云い出した。
「昨年、君命として、それがしから達しておいた松寿丸を打ち首になすことは、もはや滞りなくおすましとは存ずるが、その後、確たるお答えのないため、信長公にもお不審をかけられておる。今日は再度のお使いとして、その儀、それがしをもって確かめにおつかわしなされたわけじゃ。重治殿、御返事を承りたい」
「それはそれは」
と、半兵衛は板のように薄い背を見せて、両手をつかえながら、
「つい、私の怠りのため、左様な御焦慮を煩わしましたか。──少々、病の軽くなり次第に、取り急いで御意に副うよう努めまする」
「な、なに。……なんといわれたか」
信盛はあわてた。──というよりもその顔色に示された通り、余りな答えに、怒りを駆られて、その激気の遣り場に、舌のもつれをどうしようもないような恰好であった。
胸をあげて──半兵衛は病人特有な眼で、客の激色を冷々と見ている。
「では……では何か」
さわがしい眸と、しずかな眸は、口から吐く声をよそに、絡みあったまま解けもしない。
信盛は、せきこんで、
「貴公はまだ、あの質子を、打っておらないのか。その首を、伊丹城におる黒田官兵衛のところへ、送ってもおらないのか。そうなのであるか」
「御意のとおりです」
「御意のとおりだと? はーて? 異なお答えを聞くものだ。承知のうえで、敢えて君命に違背されるか」
「滅相もない。仰せは承っております」
「ならば、なぜ斬らぬ」
「質子の身は、私の国許にしかとお預りいたしてある。左様に急がずとも、いつでも為し得ることと思いまして」
「途方もない仁だ。悠長にもほどがある。信盛とても左様な不つつかなお使いの口上を伝えた覚えはない」
「もとよりお使いの落度ではない。半兵衛がわたくしの考えの下に、わざと遅れていたものに違いありませぬ」
「わざと」
「大事な御用と存じながら、つい病体の思うにまかせぬまま……」
「お国許へ飛脚一通飛ばせば、それで事は足りように」
「いや、他家の質子とはいえ、数年お預りしておれば、おのずから人情もうつり、可憐しさにも囚われ、日常、左右にあるものでは、容易に斬れるものではありません……万が一、家来の不心得などから、贋首などを御覧に供えては、信長公にも申しわけもないことと思案の末、自身が参って斬ろうと考えておりました。……そのうちに、病もいつか」
と、半兵衛は云いかけて、寒々と咳き入った。
半兵衛は懐紙をとり出して自分の口をつつんだ。咳き始めると容易に歇まないらしいのである。傍らにいた家臣はうしろへ寄り添ってその苦しげな背をしきりと撫でている。
「…………」
信盛もぜひなく口を緘んだまま彼の落着くのを待っていた。しかし烈しい咳声を抑えて病躯を揉んでいる半兵衛を前にしては、さすがに見ているのも苦しくなったとみえ、
「寝まれてはどうじゃ。御病間へ退って──」
と、初めて労りらしい呟きをもらしたが、少しも同情のある面持ではなかった。
「ともあれ、君公からお申し渡しのこと、近日のうちにかならずお果しあるように。……貴公の怠慢には呆れたが、さりとて、今ここでと申したところで仕方があるまい。安土へはそれがしから書面を以てありのままお答え申しておく。──いかに病中といえ、これ以上の遅滞は、遂に取り返しのつかぬ御立腹を君公より強いてお求めあるようなもの。くどいが、確とお告げしておくぞ」
と信盛は、なお咳に揉まれている相手に対して、その苦しげな容子をも無視しながら、強いて自分のいうだけを云い断ると、暇を告げて座を立った。そして縁づたいへ立つと、ちょうど出会いがしらに、顔のさきへ、薬湯の濃いにおいを盆に漂わせて運んで来た女性がある。
「お……」
「これは」
彼女はあわてて盆を下におきながら、客の足もとへ身をかがめた。板縁につかえた白い指先からその襟もとまでを、信盛はつぶさに見まわしながら、
「やあ、お許には、いつかお目にかかったことがあるのう。そうそう筑前どのに招かれて、長浜へ参った時だ。その折、筑前どのに侍いておられたように記憶するが」
「はい。兄の看護をせよと、殿様からお暇を下さいましたので、しばらくここに留まっておりまする」
「では、半兵衛どののお妹か」
「ゆうと申しまする」
「ゆう殿とな。ふふむ……」
ぶしつけな唸きをもらして、
「なるほど、麗しい」
と、口のうちで云いながら、沓脱石へ足を下ろした。
ゆうは、ただ目礼を送っていた。
障子のうちには兄の咳声がなおやまずに聞える。客の感情の如何よりも、煎薬の冷えてしまうことを惧れているふうである。
外へ出たかと思うと、信盛はまた向き直って、
「播磨にある筑前どのから、近ごろ何か御消息があったか」
「いえ……ここへはべつに」
「信長公の御命を、わざと怠らせているのは、まさか筑前どののさしずではあるまいな。そう疑われる怖れもある。御立腹を蒙ったら筑前どのとてどんな迷惑をうけるやも知れぬ。重ねて申し遺すが、くれぐれも黒田官兵衛の質子の身は早速に御処分なさるがいい。……おう、降って来たな」
空を仰いで、信盛は急に立ち去った。そのうしろ姿と、南禅寺の大屋根を斜めにかすめて、降る雪の斑が白々と眼に沁みた。
「お妹さまッ。お妹さまッ」
ふと、咳もやんでいた障子の内で、あわただしく家来の声がした。どきと、胸を衝かれながら、そこを開けてみると、半兵衛は真っ赤な懐紙で口を抑えたまま畳へ俯伏しているのであった。
「あッ、血を。……兄上さまッ」
しんしん、春の雪は、見るまに草庵のまわりを白く埋めていた。
底本:「新書太閤記(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年6月11日第1刷発行
2010(平成22)年1月5日第21刷発行
初出:太閤記「読売新聞」
1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日
続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙
1949(昭和24)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「太閤記」「続太閤記」です。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2015年9月1日作成
2015年11月16日修正
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