ウィネッカの冬
中谷宇吉郎
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ウィネッカの冬は寒い。緯度はだいたい北海道の真中くらいで、寒さも似たようなものである。
雪は少なくて、普通の年では五寸も積れば、皆大雪と思っている。三寸くらいのことが多く、根雪になることはまずない。気温が低いので、融けることは滅多にないが、風が相当強いので、二、三日もすると、皆蒸発してしまう。雪は少なくても、北海道くらいの寒さで、風が強いから、外はずいぶん寒い。しかし出歩きはたいてい自動車だし、家の中は煖房がよく設備されているので、寒さはそう気にならない。問題は雪だけで、三寸も積ると、自動車がスリップをして、まことに危険である。
自動車のスリップは、非常に怖いもので、相当速度の出ている時に、急にブレーキを踏むと、車体がぐるぐると独楽のように廻って、どこへ行くか分らない。道の上には、たくさん外に自動車が走っているので、たいていどれかとぶつかってしまう。
夕方居間の窓越しに、表の道路を見ていると、仕事場から帰る自動車が、どれもこれも、そろそろと、まるではうように動いて行くことが、時々ある。夕方から気温が下って、雪が凍って滑りやすくなったのである。そういう晩に、娘たちが何か出かける約束でもしてあると、妻が心配して、くどくどと注意をする。そして「分っていますよ。ブレーキの踏み方、私がママに教えて上げたんじゃないの」と、剣突をくっている。
一番怖いのは、朝である。夜中に気温が下って、雪が凍り、その上に明け方少しばかり新雪があったりするのが、最悪の条件である。そういう時には、町役場の方で、トラックに砂と岩塩の粉とをまぜたものを積んで、それを道路の上にまいて歩く。朝の八時の出勤に間に合うように出かけて行くと、よく途中で、このトラックに会う。
歩道の上も、危険である。婦人たちは、皆ハイヒールをはいているので、滑って頭を打ったりすると、たいへんなことになる。それで、これも町役場の方で、ごく小型の除雪自動車を朝早く出して、歩道の上の除雪をする。全部ではないが、各家庭では、玄関から歩道までと、自分の家の前の歩道とに、岩塩の粉をまく。夕方でも、パーティをする時などは、少し危険だと思ったら、階段のところと、歩道までの石だたみの上に、この粉をまいておく。お客の令夫人に転ばれたら、折角のパーティが台なしになってしまうからである。
私が通っていたのは、国立の雪と氷の研究所で、隣り町のウィルメットというところにあった。自動車ならば、七分くらいで行けるところである。それで自宅と研究所との間を、往復しているだけならば、シカゴの雑沓を知らなくてすむ。事実、シカゴへ出かけるのは、一月に一度くらいで、二年間きわめて閑散なところに住んでいたわけである。
雪は今言ったように、ほとんど降らない。寒さといっても、アメリカとしては、そう寒い地域とはいえない。氷の研究にも別に有利なところではない。ミシガン湖は凍るが、それもごく岸のところだけで、全体としては、凍らない湖である。
そういうところに、どうして雪と氷の研究所をつくったか、という質問をよく受ける。私も初めちょっと不思議に思ったが、きいてみたら、よく分った。日本で雪や氷というと、北陸北海道などの雪害とか、オホーツク海の氷とかいうことを、念頭におくが、アメリカの場合は、大分スケールがちがうのである。
第一に欧洲と米洲とを北極越えの定期航空路でつなぐという問題がある。それからアラスカに石油発見の見込があり、また加奈陀の北氷洋側にウラニウムの鉱山が発見されたので、この数年来、北極圏内の開発という問題が、大きく表面に出てきた。それで雪や氷といっても、対象になるのは、北極圏内の雪や氷なのである。
それで研究材料がいつでも手近かなところにある、という場所を選ぶとなったら、グリーンランドかアラスカに、研究所を建てなければならないことになる。それは非常に無理な話であるし、またそういう現地にはいろいろ施設も出来ているので、時々出かけることも出来る。欲しいのは、そういう各地の試験や調査の元締をするところであって、今度ウィルメットに出来たのは、いわば中央機関なのである。
そうなると、選定の条件がまるでちがってくる。けっきょくワシントンへ飛行機で二時間くらいで連絡出来ること、有能な科学者をもった大学が近くにあること、良い住宅地域であること、などという点で、この場所が選ばれたわけである。グリーンランドへ行くのなら、百マイルや二百マイル北へ行こうが、南へ下ろうが、たいしたちがいはない。それよりも環境のよい住宅地ということの方が、もっと大切である。そうでないと、人を集めにくいからである。
研究材料の方は、運んでくればよいので、事実、アラスカの氷河から、大きい氷の単結晶を何トンと運んできて、それを低温室の中に貯えておいて使うことになった。冷凍トラックで運んでくれば、何でもないことである。もっともそれは原理としては、という話であって、実際に氷河の氷を、アラスカから加奈陀を通り、アメリカ大陸のあの荒漠たる沙漠を横切って、シカゴまでもってくることは、大変な難事業である。しかしよいとなったら、そういうことを平気で計画し、すぐ実行に移し、そしてそれをやり遂げるところが、いかにもアメリカ流である。
雪の方は、もう少し話が簡単である。シカゴの北方へ三百マイルも行くと、加奈陀との国境近いところに、たくさん雪の降るところがある。冬のうちに、それをトラック一杯運んできて、これも低温室の中に貯えておく。シカゴ及びその北方は、冬の数か月の間、ずっと零下十度以下になっているので、運搬は普通のトラックで十分である。日本で問題になる雪は、大部分湿雪で、水分を含んでいる。そういう雪の性質を調べるには、現地へ行くより仕方がない。運んできて、低温室の中に貯えておくと、水分が凍って、まるで別の雪になってしまう。しかしアメリカの場合は、グリーンランドにしても、アラスカにしても、問題となる雪は全くの乾雪で、雪温も零下数十度である。これは全くの氷の粒の集りであるから、低温室の中に貯蔵しておいても、蒸発を防ぐようにしておけば、性質はそう変らない。それでアメリカの雪の研究の方が、日本の場合と較べて、ずっとやさしい。
シカゴ郊外の住宅地域に、この研究所が建てられたことは、私たちには、たいへん有難かった。ウィネッカの町は、木の多い町で、夏の間は、町中が森になっている。ほとんどが、樫や楢のような落葉樹で、冬になると、葉は皆落ちてしまう。しかし細い枝が、網の目のように空を蔽っている冬の大木の姿には、また別の美しさがあった。
外の気温は、零下二十度にも下っているが、家の中は、春のような暖かさである。家によっては、夏くらいにしているところもあって、そういうところへ行くと、汗をかいて、ひどい目にあう。よほど大きい家では、スチームを通しているところもあるが、たいていの個入住宅では、重油を焚く熱風煖房である。
私たちは、あまり暑いのには馴れていないので、袷くらいの温度にしていた。しかしたいていのアメリカの家では、八十度くらいにしているので、夫人たちは、冬でも夏とほとんど同じ着物を着る習慣になっている。その代りオーバーだけは、毛皮か、人造毛皮の、暖かいものを着る。毛皮のオーバーなどというものも、アメリカの中流階級の生活状態では、贅沢品というよりも、むしろ一種の必需品である。自動車の中は暖かくなっているが、門から玄関まででも、オーバーなしには歩けない。零下二十度のところを夏服で歩くわけだから、当然な話である。
アメリカの中流階級の人たちの、冬の楽しみといえば、まずパーティである。もちろんパーティは、年中いつでもやるが、冬はとくに盛んである。パーティといえば、クリスマスがすぐ連想される。しかしクリスマスの晩に、大ぜいの友人を家へ招いたり、あるいはキャバレーなどで酒を飲んで夜っぴて騒ぐのは、日本の習慣であって、アメリカのクリスマスは、いわば家庭の行事である。家族のものと、両親や近い親類のものだけで、静かにクリスマスの七面鳥を食べるのが、普通の家庭の仕来りになっている。
日本では、クリスマスの晩は、銀座などの料理店やキャバレーが、大繁昌をする。それに相当するのは、大晦日の晩である。大晦日の夜は、若い元気な連中は、皆繁華街に出かけ、盛んに酒をのむ。そして十二時の鐘が鳴ったとたんに、かんしゃく玉のようなものや、小さい爆弾のようなものを、盛んに鳴らして、誰にでも「新年御芽出度う」をいう。街路は人で一杯になり、たいへん賑かなものらしいが、これはたいてい若い連中のすることで、一度も出かけたことはなかった。零下二十度のところに、数時間も出かける勇気は、われわれにはない。それにしても、お年越しは外の遊び、クリスマスは家庭の行事と、こういう風にちゃんと区別があるところが、ちょっと意外であった。ウィネッカに二年住んでみて、アメリカの中産階級は、家庭では案外に健全な生活をしていることを知って、ちょっと驚いた。こういう住宅地域では、夜の九時になると、町中まっ暗になってしまう。冬はとくにその傾向が強く、夜になると自動車もほとんど通らず、ひどく深閑としたものである。しかし家の中だけは暖かくなっている。そういう時に、隣りからピアノの音が聞えてきたりするのは、ちょっと悪くないものである。
底本:「中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河」岩波文庫、岩波書店
2002(平成14)年12月13日第1刷発行
2011(平成23)年12月16日第3刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
2001(平成13)年3月
初出:「随筆」
1955(昭和30)年2月
入力:門田裕志
校正:雪森
2015年5月25日作成
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