アラスカの氷河
中谷宇吉郎
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アラスカの氷河は、景観の美しさという点では、世界第一といわれている。
氷河の壮大な美しさは、ずっと昔から、文学者や地理学者たちの讃美の的であった。もっとも、近年までは、一般の人々が近づき得る氷河は、ほとんどアルプスの氷河に限られていた。それで氷河の美についての文献は、主として、アルプスの氷河についてのものが多かった。
しかし氷河は、アルプスに限られたものではない。ヒマラヤやその周辺、いわゆる世界の屋根には、もっと壮大な氷河が、いくらもある。その外にも、南極大陸や、北極圏内のグリーンランドおよび、カナダ群島の北氷洋岸には、ヒマラヤをしのぐ壮麗な氷河が、たくさんある。
これらの氷河の景観は、世人の想像をはるかに絶するもので、自然のふところに秘められた天工の美と、規模の壮大さとを、如実に示すものである。しかしその美に驚嘆することは、一般の人々にはできない。それは、現在のところはまだ、ごく少数の探検家たちだけが享受し得る天恵である。
十年前までは、アラスカの氷河も、この部類に属していた。しかし定期航空路が、アラスカの沿岸に開かれた今日では、アラスカの氷河は、もはや探検家たちだけのものではなくなった。北方航空路をとる一般旅行者の眼にもふれるものとなった。
アラスカの氷河の代表的なものは、太平洋岸にある。アンカレージから、海岸にそって、カナダの方へ伸びた海岸地帯がそれである。この氷河の特徴は、氷河の末端が、海岸のすぐ近くにまで達している点にある。そしてそのうちのかなりのものは、直接海に流れ入っている。
先年、ディズニイの映画で、氷河が崩壊して、海へ落ち込む場面を見せてくれたものがあった。氷河の末端は、三十メートルを越す氷の断崖となって、大洋に迫っている。北海の荒浪は、その氷の絶壁の根を噛んで、はげしく飛沫を散らしている。
この白い絶壁は、如何にも千古の懸崖の如き様相を呈しているが、しばらく見ているうちに、上部の方に、徐々に縦の割れ目が入り、やがて絶壁の一部は、数百個の氷の大塊に割れて、海に崩れ落ちる。まさに息をのむばかりの壮烈な景観であった。
こういう景色は、特別に船をやとって、氷河の末端に近づかないと、見られない。しかしその遠望は、飛行機の上からも容易に見られる。ノースウエスト機も、日航機も、氷河地帯のすぐ近くの海上を飛ぶからである。
もっとも天候が問題である。冬の間は、日が短かくて駄目、夏も北海特有の霧や、低い層雲が海上を埋め、氷河の上まで蔽っていることが多い。そういうときは、雲上飛行をつづけるだけで、何一つ見えない。ずっと北に延びたカナダロッキイの高峰が、雲上に頭を出していたら、それで満足するより仕方がない。
アラスカの氷河は、このカナダロッキイに降った雪が、万年雪となり、それが渓谷にそって、太平洋側へ流れ下ったものである。アラスカのこの地域は、あんがいに気温が高い。旧首都ジュノウの平均気温は、一番寒い一月でも、零下三・二度にすぎない。札幌の一月の平均気温は、零下五・九度であるから、札幌よりはずっと暖かい。零下何十度のアラスカの厳寒というのは、奥地のフェァバンクス地域とか、北氷洋岸とかの話である。
この気温の高いことが、アラスカの氷河の特徴であって、氷河の氷自身の温度は、ほとんど零度に近い。こういう氷河は、流動しやすく、流下の速度も大きい。流下速度の正確な測定はないので、はっきりしたことはわからないが、アルプスの氷河などと較べて、一桁くらい大きいのではないかと思われる。
いずれにしても、アラスカの氷河では、氷の流動性を示す現象が、非常に顕著に見られる。その代表的なものは、マラスピーナの氷河であって、こういう奇妙な様子の氷河は、ちょっと、ほかに例がない。まるで水あめを流したような形である。
この氷河は、アンカレージから、東へ五百五十キロばかりのところにある。氷河の末端に近いところで、渓谷が非常に広く開けているので、氷河はそこで横に拡がり、広い氷原になっている。一番広いところでは、幅が六十キロ以上にもおよんでいる。
ところで面白いことには、この広大な氷原は、白一色の氷の原にはなっていない。その上に、流線のような形をした黒い線条が、一面に流れている。これは氷河の堆石が示す線条である。
氷河には堆石がつきものである。氷河が流れ下るときには、両岸や底の岩壁を削りとって、たくさんの小石を運んでくる。また両側から、石や泥が、氷河の上に転落する。そういう小石を、堆石というのである。氷河の末端には、この堆石がたくさん集る。それでその堆積が何段にもなっていると、氷河が後退したことがわかる。
氷河は、非常にゆっくりと、流れ下ってゆく。その際、表面にある堆石は、流れの方向にならび、流線の形が、黒い堆石の線条となって見える。これはアルプスの氷河などでも、よく知られている。二つの渓谷が一本になるところでは、各々の渓谷から出た氷河が、一本に合流する。こういう場合は、合流点からずっと下流のところまで、右側の渓から出た氷河と、左側のものとが、はっきり区別される。その境ははっきりしていて、両方の氷河がまざることがない。一方の渓の氷河に、とくに堆石が多い場合は、合流点の下流では、氷河の半分が黒く、半分が白くなる。アルプスには、そのよい例がある。
マラスピーナの場合は、末端に近いところへきて、急に幅が六十キロ以上にも拡がる。それで氷河はここで、水あめを板の上に落したような形に拡がっている。その流線の形は、堆石の線条によって示されるが、無数の線条は、うねうねと曲って流れている。その特徴は、各線条が常にならんでいて、決して互いに交錯しない点にある。その形は、墨流しの模様に、そっくりである。
この線条の模様が見られる機会は、非常に少ない。夏は濃霧にとざされていることが多く、秋になると、早々に雪がきて、全体が白一色の世界になってしまう。幸い昨年の九月の末、氷島からの帰途、好晴にめぐまれて、初めてこの天工の墨流しを見ることができた。
墨流しは、水面につくった薄い墨膜に、たくさんの孔をあけ、それを揺り動かしたときにできる模様である。孔をつくるには、微量の脂肪を使うので、この孔というのは、実は脂肪の薄い膜なのである。この脂肪の薄膜と、墨の薄膜とは、揺り動かされている間も、決してまざらない。それで墨の線条と、白いところすなわち脂肪の線条とが、交互にならんだ恰好になる。別の言葉でいえば、二本の墨の線条間には、必ず白い線がはいる。それで墨の線条は、どんなに曲りくねっても、常にならんでいて、互いに交錯することはない。
この性質は、流体が層状流となって流れるときには、常にあらわれる性質である。流体が、その粘性によってきまる特定の流速以下で、ゆっくりと流れる場合は、渦が起きないで、流線は互いにならんだ形になる。この層状流の流線の形が、墨流しの場合にも、またマラスピーナの氷河の場合にも、でてきているので、両者が同じ形をしているのも、当然なのである。
それにしても、平安朝時代の宮廷婦人たちの手遊びであった墨流しが、広ぼう六十キロの規模において、アラスカの氷河の上で見られるというのは、ちょっと面白い話であろう。
アラスカの氷河には、学問的にいって、非常に面白い問題がある。それは氷の大きい単結晶がしばしば見られることである。どの氷河にもあるわけではないが、今いったマラスピーナ氷河や、ジュノウの近くのメンデンホール氷河には、ときどき一抱えもある大きい氷の単結晶が発見されている。
氷は、川や池にできる天然の氷でも、人工のいわゆる造氷でも、皆小さい結晶の集合体である。一つの結晶は、大小さまざまであるが、平均して、小指の先くらいの大きさと思ってよい。そういう結晶が、いろいろ勝手な方向をとって集ったものが、ふつうの氷である。それに反して、氷の塊全体が、一つの結晶からできている場合は、それを単結晶というのである。
ところで、氷の結晶は、水晶と同じく、六方晶系に属している。水晶の縦の方向を、結晶の主軸方向といっているが、氷の場合にも、もちろん各結晶について、主軸の方向はきまっている。ここでちょっと注意しておく必要があるが、この場合、結晶といっても、外観まで水晶の六方石のように、六角になっているのではない。原子の配列が六方晶系に属しているというだけで、本当は結晶質といった方がよい。しかしそれを単に結晶という習慣になっている。
水晶の印材は、勝手な形にできるが、内部は、もとの水晶の結晶と、同じ原子配列になっている。それで水晶の球もやはり結晶である。氷の場合にも、同様なことがいえるので、大きい氷の単結晶といっても、外形が大きい六方石のような形をしているという意味ではない。内部の原子配列が、単一の結晶質になっているという意味であって、外観は、ふつうの氷と同じような塊状をしている。
ところで氷の結晶には、不思議な性質があって、結晶主軸の方向と、それに直角の方向とでは、機械的の性質が、まるでちがうのである。普通の氷は、この縦の性質と横の性質とのまるでちがったものが、勝手な方向にまざり合ったものである。それで全体としての性質は、非常に複雑であって、どうにも手のつけようがない。厳密にいえば、全く同じ氷の標本は、二つとないのである。
氷の機械的性質については、従来からも、何十何百という論文が出ているが、いずれも、奥歯にものがはさまったような、論文である。標本の一つ一つが、皆少しちがっているのであるから、当然な話である。それで氷の物性の研究を、本格的にやろうと思ったら、単結晶について、結晶軸の方向とその物性との関係を調べるのが、第一に着手すべきことである。それが分ってからはじめて、多数の結晶の集合体であるふつうの氷の研究にとりかかり得るのである。
こういうことは、前からわかっていたので、大きい氷の単結晶をつくる研究は、世界中ほうぼうで試みられた。アメリカでは、三年がかりで、数万ドルの委託研究費を出して、この研究を推進させた例もある。しかし大きい氷の単結晶をつくることは、非常に困難であって、いまだに十分な結果が得られていない。
温度を百分の一度くらいの精度できめ、一週間もかかって、やっと人差指くらいの単結晶ができる。それも結晶軸の方向を、希望した方向にすることはできない。それでは、とてもまとまった研究はできないので、氷の単結晶の研究は、ちっとも進まなかった。
ところが、自然というものは、恐ろしいもので、そういう貴重な氷の単結晶が、アラスカの氷河へ行くと、ごろごろしているのである。
その一番の産地は、マラスピーナ氷河である。この氷河の中心地付近には、直径三十センチないし五十センチもある氷の単結晶が、いくらでもある。そういう塊りを拾ってきて、低温室に貯蔵しておいて、実験に使えばよいわけである。
もっともマラスピーナくらいの大きい氷河になると、氷を掘りに行くことは、非常にむつかしい。氷河の表面は、決して平坦なものではなく、ひどく凸凹している。それにクレヴァスが一面にあって、落ち込んだらとうてい助からない。そういうところを、テントや食糧をもって、二十キロも三十キロも歩くことは、ちょっと実行不可能である。それで先年、ヘリコプターを使って、単結晶を採集することが企てられた。しかし不幸にして、そのヘリコプターが墜落したので、その試みは中止になった。
ジュノウの近くに、メンデンホールという氷河があって、その末端は、ジュノウのごく近くまできている。この氷河にも、氷の大きい単結晶が、かなり存在していることが分っている。
この氷河の末端は、小さい湖の中に流れ入っている。氷河が水の中にひたり込むと、結晶間の境界がまず融けるので、単結晶の塊りは、離ればなれになって、水面に浮んでいる。それを拾ってくればよいわけで、その上ジュノウの街からごく近いところであるから、運搬は非常に簡単である。あとでわかった話であるが、ジュノウの街には、氷屋(アイス・マン)がいて、昔から、このメンデンホールの氷塊を拾ってきて、カクテル用の氷として売っていたそうである。ジュノウの人たちは、人工でつくったら数万ドルもかかる氷の単結晶を、カクテルにずっと使っていたわけである。
この氷河から、氷の単結晶をもってこようという話は、米国で、雪氷永久凍土研究所が創設された当時からあった。そしてそれは、一九五三年に実行された。
ベーダー博士が指揮者となり、適当な単結晶の塊りを約二トンばかり採集した。それを冷蔵トラックに積み込んで、シカゴ郊外にある雪氷永久凍土研究所まで運んできた。単結晶の大きさは、ふつう差しわたし二十センチくらい、なかには四十センチを越すものもあった。
これらの単結晶を、零下四十度の低温室の中に保存しておいて、必要に応じて、取り出してきて、実験に使った。当時二年間私はこの研究所開設の手伝いに行っていたが、その間に、約一トンばかり、この単結晶を使った。ずいぶんぜいたくなことをしたものである。
ある透明物質が、結晶であるか、否か、を調べるには、偏光を使ってみればよい。二つの偏光板を交叉しておいて、その間に標本を入れて見ると、結晶ならば色がついて見える。結晶の方向によって色がちがうので、多数の結晶の集合体だと、その一つ一つがちがった色になる。標本全体が一色ならば、それは単結晶である。
従来一つの氷の標本が、単結晶であるか否かは、この方法で検査してきた。そしてそれが単結晶だと分れば、それからあとは、X線で調べた結晶格子の概念をそのままあてはめて、原子は一様に六方晶系の配列をしていると考えていた。しかしここに一つの盲点があった。「結晶では、原子が規則正しい配列をしている」というのは、結晶の定義であって、天然にそういう結晶が存在しているか否かは、別の問題である。偏光で調べたとき、一様に色がつくものは、「光学的単結晶」であって、光に関係しない不規則性があっても、ここにはあらわれてこない。X線でラウエ斑点をつくって、結晶性を調べる場合にも、同様なことがいえる。それは「X線的単結晶」である。
それでは、光学的にも、X線的にも、完全な結晶と見えるもので、なお不規則性のあるものがあるかといえば、それは存在するのである。そして氷の単結晶の場合には、簡単な実験によって、それをはっきりと眼に見えるようにすることができる。
氷の単結晶の塊りから、主軸と直角の方向に、四角の棒を切り出す。その両端に近いところを楔で受け、真中に荷重を加える。この実験は、材料のヤング率を測定するときに、いつでも使われる方法である。
この場合、ふつうの物質では、棒は円の弧の形に曲り、その彎曲度から、ヤング率が計算される。ところが氷の単結晶だと、全く別の曲り方をして、棒はV字型に変形する。これは非常に面白い現象であって、その理由をいろいろな方法で調べてみた。けっきょくわかったことは、氷の単結晶には、層状の構造があるということであった。すなわち紙を重ねたような構造になっていて、重ねる方向は、主軸の方向である。そして標本の変形は、紙と紙との間が滑ることによって生ずる。
更に面白いことには、変形後の標本を、影写真法という特殊の撮影法で写真にとると、この滑った面が、写真に写るのである。この方法によって、一枚の「氷の紙」の厚さは、約百分の五ミリであることも分った。
結晶が、原子の完全な配列からできているものならば、こういう層状構造にはならないはずである。天然でも、人工でも、実際に存在する「完全な結晶」は、必ず或る不規則性のあるもので、それもないものは、人間が頭の中でつくったイメージである。この考えは、近年の物性論における転位論の考え方であって、新しい概念ではない。しかし氷の場合は、それがはっきりと眼に見えるところが面白いのである。
雪氷永久凍土研究所では、その後、単結晶を使った研究が、つぎつぎとなされた。そしてもうほとんど二トンの単結晶を使い果した恰好である。
しかし氷の研究が進むにつれて、単結晶の需要は、ますます多くなる。それでもう一度メンデンホールへ、単結晶を採りに行こうという話は、二、三年前からでている。しかしアメリカ西部のあの広漠たる沙漠地帯を横切って、冷蔵トラックで氷を運ぶことは、アメリカの資力をもってしても、相当な大仕事である。経済観念の発達した国であるから、それだけの金をかけるほどの価値があるかどうかというのであろう。なかなか実行には移されない。
ところが、ここに一つ面白い話がある。アメリカの氷をもって来るには、日本の方が、アメリカよりも有利な立場にあるという話である。
それはアラスカ・パルプ会社が、ジュノウの近くの島のシトカに工場をもっていて、製品を運ぶ船が、毎月通っている点である。その船の冷蔵庫に入れさせてもらえれば、そのまま東京まできてしまう。もっとも、これは他人の褌で相撲をとる計画ではあるが。
こういう虫のいい計画をたてたのには、理由がある。現在世界中で、氷の大きい単結晶を持っている研究所は、どこにもない。アメリカでも品切れになっている。一方、単結晶さえあればすぐにもできる重要研究は、山積している。今までの氷の研究は、全部単結晶で一度やり直さないと、本当の物理的研究にはならない。しかもこの研究は、氷だけの問題ではなく、物性論全般につながっている問題である。
これは茶の間の話題に止めておくべきではない。実行に移そうじゃないか、という話が、北大の私たちの仲間の間で起きた。昨年北極の氷島へ行っているうちに、東晃博士が主唱者となり、地質の橋本教授や、理学部及び低温科学研究所の人たちで、メンデンホール遠征の計画が進められていた。
動機は、北米州北極研究所(Arctic Institute of North America)の広告にあった。この研究所は、米国とカナダとの連合からなる民間の研究所で、本館はカナダのモントリオールにあり、研究関係の事務は、米国のワシントンでとっている。ちょっと変った形式の研究所である。
この研究所から、『北極』という極地関係の専門雑誌が出ている。その雑誌に、昨年の春「極地関係の研究をしたい人は、プランと予算とを申し出られたい。適当と認められた研究には、当研究所から援助をする」という広告がでた。それで東君たちは、早速それにメンデンホール遠征の案を申し入れた。
単結晶の採集が、氷の基礎研究に絶対必要であることは、新しくいうまでもない。しかしこの遠征には、いま一つ別の目的がある。それはメンデンホールの氷河で、何故そういう大きい単結晶ができるかという点を、解明する仕事である。すぐ近くにある同様な氷河では、大きい単結晶が見られないのである。
この研究のためには、隊員は、氷河の末端から、ずっと源ちかくまで登って、各地点で、結晶の大きさを調べる必要がある。源ちかくでは、結晶は小さいにきまっているが、氷河の流下とともに、次第に生長する。その生長の様子がわかれば、大きい単結晶がどうしてできるかという点もわかるであろう。
この調査は、本当は、たいへんな仕事なのである。困難な氷河のトラバースは、それこそ何十回としなければなるまいし、結晶の大きさを調べるには、クレヴァスの中に降りなければならないであろう。よほど熟練したアルピニストを必要とするが、橋本君はマナスルの勇士の一人で、ヒマラヤの氷河で、十分経験をつんでいる。東君も他の人たちも、皆冬山の猛者で、低温室内の生活にも、もう十分馴れている。
題目もプランも申し分なく、隊員もまずこれ以上適当な人間は、アメリカなどでは探せないであろう。折り返し手紙がきて、非常に興味深い研究であるから、何とか考慮しようと、色よい返事であった。
それで勇気をえて、アラスカ・パルプ会社の方へ頼みに行ったそうである。虫のよい話で、氷を運んでもらうばかりでなく、八人の隊員を、食費だけで、往復便乗させてもらいたいと頼みこんだ。無茶な話のようであるが、それには理由がなくもない。
北極研究所は、民間の研究所であって、会員の会費と、有志の寄付と、委託研究費とで、経営している。けっして金持の研究所ではない。それにアラスカの氷を日本へ持ってきて研究するのに、アメリカから金を出さすことは、考えてみれば、少しおかしい。「科学に国境はない」というのが、唯一の論拠であるが、吹っかけるのは、どうも少し気が引ける。それでアラスカ滞在中の経費三千ドルだけを、依頼することにした。従来の例から見て、北極研究所が、出し得る金額は、この程度のものである。
そうすると、どうしても、船賃の方は、アラスカ・パルプに頼むより仕方がない。会社の方も、とんだ連中に見込まれたものである。しかし社長の笹山さんは「それで北大の低温研究所が、世界で唯一の性格をもつものになるのなら、一つ考えましょう」と、案外簡単に引き受けてくれた。アラスカの森林資源に眼をつける人は、さすがにちがっている。これは、船賃を無料にしてもらったからほめるわけではない。
あとは観測に必要な機械と、装備関係である。それには百万円ていど必要であるが、その方は、大学と文部省とで、出してもらえそうである。アラスカの氷河を探検して、氷の単結晶を一トンもって帰るなどというと、たいへんな大事業のように聞こえるが、内情はかくの如くつつましいものである。
北極は、ごく近いうちに、欧州と米大陸とを結ぶ交通の要衝になるであろう。それで北極の開発には、米ソともに、大いに力瘤を入れている。
北極の開発は、けっきょく雪と氷とを、如何にして征服及び利用するかという点に帰する。雪も氷の一種であるから、氷の基礎的研究が、この問題解決の基盤となるべきものである。そしてその研究は、氷の単結晶から始めるのが、唯一の正統な道である。
単結晶を使って実験してみると、ふつうの氷では決して見られない、いろいろ不思議な性質があらわれてくる。例えば、単結晶の塊りから、主軸が四十五度の傾きをもつように、円筒形の標本を切り出す。この円筒を立てて、上に重りをのせて放置する。すると、この氷の円筒が、数十時間のうちに、ぐずぐずと崩れてくる。もちろん零度以下の低温での話である。
前にいったように、氷の結晶は、主軸の方向に紙を重ねたような内部構造をもっている。そして紙と紙との間は、容易に滑ることができる。それならば、主軸が四十五度傾いた円筒は、円く切った紙を、四十五度傾けて重ねたような構造をもっている。これに上から圧力をかければ、紙と紙との間が滑って、ぐずぐずと崩れるはずである。そしてそのとおりのことが、実際に起こるのである。同じ氷から切り出した標本でも、主軸が垂直方向だったら、何年圧力をかけておいても、全然変形しない。
これを簡単な言葉でいえば、氷の結晶は、主軸の方向には、石の如く硬く、それと直角の方向には、水あめの如く軟かいということになる。氷の硬さなどという言葉は、本当は意味のない言葉なのである。こういう奇妙な性質をもった無類の氷の結晶が、各々勝手な方向をとってまざり合ったものが、日常われわれの見る氷である。石と水あめとの両様の性質があることを知らなくて、氷の力学的性質を論じても、奥歯にものがはさまったような感じの論文になるのは、当然のことである。
ところで、氷の単結晶を、われわれが必要とするのは、なにも北極の開発に役立つためだけではない。近年の物性論の研究は、非常に急激な進歩をとげている。トランジスターの発見なども、その一例であるが、その領域は、もっと広い範囲にわたっている。金属の物性の研究が、それである。
金属は、鉄でも、銅でも、アルミニウムでも、すべて結晶の集合からできている。その点は、氷と全く同様である。結晶の大きさおよび配列の仕方は、各標本ごとにまちまちである。その点も氷と同じことである。それで同じ鉄の塊りから切り出した二つの標本でも、厳密にいえば、ちがった資料である。それでふつうの金属を使ったのでは、本当の物理的な研究にはならない。やはりまず単結晶について実験をして、結晶方向との関係を調べないと、理論と比較検討することができない。
近年、金属の物性の研究が、急激に進歩したのは、金属の単結晶をつくることができるようになったからである。単結晶についての結果ならば、これを理論的に取り扱うこともできるが、勝手な方向をむいた大小さまざまの結晶の集合体では、理論の立てようがない。けっきょく統計的に扱いえるだけで、変形の機巧にまで立ち入ることはできない。しかし今日では、たいていの金属について、実験資料をつくるのに十分な大きさの単結晶がつくられ、その物性は、非常によくわかってきた。
ところで、氷の単結晶について、金属の場合と同じような実験をしてみると、金属と全く同じ性質がでてくる。もっとも氷は六方晶系に属するので、六方晶系金属、例えば亜鉛と同じ行動をするわけである。そういう意味では、氷は金属の一種である。
それで氷について行なった実験の結果は、そのまま金属にもあてはまることになる。
金属の物性の研究に、氷の単結晶を使うというと、何か奇矯なように聞こえるが、氷の方がかえって都合のよい点もある。
第一に、一抱えもあるような単結晶をつくることは、金属ではちょっとむつかしく、また金がかかる。氷なら無料でころがっている。第二に、金属では内部を見ることができないが、氷は透明であるから、内部に起こっている現象、たとえば滑りの面とか、微角境界とかいうものを、眼で見ることができる。
それから最後に、融点に近いところでの物性の研究は、金属では、実験が非常にむつかしい。銅の融点下五度における性質を調べるには、千七十八度の高温で、実験をしなければならない。氷なら、零下五度の低温室内で実験すればよい。低温実験としては、快適な温度である。
それでこの夏のメンデンホール遠征が、所期の成果をおさめ、十分な量の氷の単結晶をもち帰ることができたら、たくさんすることがある。「内部摩擦による格子欠陥の研究」とか「結晶表面エネルギーの研究」とか「自己拡散」とか「核磁気共鳴」とか、およそアラスカとは縁のなさそうな問題をたくさんならべたてて、一同腕をさすって待っている次第である。
底本:「中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河」岩波文庫、岩波書店
2002(平成14)年12月13日第1刷発行
2011(平成23)年12月16日第3刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店
2001(平成13)年5月7日
初出:「極北の氷の下の町」暮しの手帖社
1966(昭和41)年
入力:門田裕志
校正:雪森
2015年8月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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