身代りの花嫁
野村胡堂



花嫁の自動車が衝突した


「花嫁の自動車は?」

「まだ来ない、どうしたのだろう、急行の発車まで、五分しかないじゃないか」

「迎えに行って見ましょうか」

 東京駅の待合室に集った人達は次第につのる不安に、入口からまっ暗な外を眺めたり、売店や三等待合室を覗いたりしました。

歩廊プラットホームに居るんじゃありませんか」

「もう乗り込んだのかも知れませんね」

 そんな事を言いながら改札口へ行った人達は、急行はたってしまって、狐につままれたように、歩廊プラットホームから降りて来る別の一隊と顔を合わせたのでした。

「新婚の夫婦は汽車へは乗りませんよ」

「新橋からたったんじゃありませんか」

「そんな筈はない。親許の関谷せきやさんや、媒酌ばいしゃくの方もこの駅に見えた位だから」

「それにしてはおかしいぜ」

 こんな評議のまっ最中、乗車口に高級車を乗りつけて、その中から十三、四の可愛らしい少女が疾風のように飛んで来ました。

「あッ、勇美子ゆみこさん、どうなすったの?」

 花嫁の後見人で親許になって居る関谷文三郎夫人が訊きました。

詩子ふみこ姉さんが」

詩子ふみこさんがどうした」

 関谷文三郎は人波を掻きわけて来ました。中年者の勤人らしい堅実な男、巨万の富を遺された富める孤児の詩子ふみこを、四、五年この方自分の娘のように世話をして来た人物です。

「お兄様達の乗った自動車に、円タクが衝突したんです」

「えッ」

怪我けがはないですか」

 大勢の人が小さい勇美子を取囲んで、質問の雨を浴びせかけました。

詩子ふみこお姉様が」

 勇美子はようやく息をつぎます。

「それは大変ッ」

「大したことはないんです、けれど、運転手は大怪我けがで、助からないかも知れないんですって」

「すぐ引返そう」

 関谷夫妻と親しい友人達は、すぐ渋谷の春藤はるふじ家へ車を走らせました。道々、勇美子の説明するのを聴くと、──花婿春藤良一と花嫁の詩子ふみこを乗せた自動車が、渋谷の春藤家を出ると間もなく、暗い路地の中から、待ち構えて居たように一台のボロ円タクが飛出して、花嫁の詩子ふみこの乗って居る側へ、全速力で叩き付けたのでした。

詩子ふみこお姉様は横っ倒しになって、ガラスのかけらを浴びましたが、お兄様がかばったので、手と足へほんの少しの傷をうけただけで済みましたワ」

「それから」

「後から来た車で運転手を病院に運び、詩子ふみこお姉様はお母様と家へ引返して手当をするんですって、皆さんによろしくって言いましたワ」

 思い出したように、勇美子はピョコリとお辞儀をしました。新郎の春藤良一の妹で遅生まれの十四、小学校の最上級に居る学校第一の人気者です。


口紅の中に恐しい毒


 自動車の衝突はよくあることですが、暗がりから飛出して、花嫁の自動車へ全速力で叩きつけるのは少し念が入り過ぎて居ります。

 その上、前燈ヘッド・ライトも消したまま、番号礼もあったかなかったか、──多分なかったように思いますが──と言う春藤良一の言葉で、警察も捨てて置けないことになりました。

 相手の自動車は、それっきり行方ゆくえくらまし、時が経つと、突き止める手掛りもありません。あれだけの衝突をしたのですから、自分の車も大分破損して居るには相違ありませんが、早くも車庫へ入れたものと見えて、気の付いた時はもう、影も形もなかったのです。

 花嫁の詩子ふみこは清純そのもののように育った娘で、なんの後暗いことも、人に怨まれる覚えもありませんが、誰かこの結婚に不服なものがあって、詩子ふみこを殺そうとしたのではあるまいか──、警察はごく常識的に、そう考えたのも無理のないことでした。詩子ふみこはそう思われても不思議のないほど、美しくあり、富んでも居たのでした。

 怪我けがは大したことはありませんが、それでも、旅先で間違があってはならぬと言う母親の心遣から、新婚旅行はそのまま中止になりました。

 翌朝あくるあさ

「勇美子さん、其方そっちへ行ってはいけません」

 花嫁の化粧室へ入ろうとする勇美子は、母親に見付かって、そのはしたなさを叱られてしまいました。

「だって」

「何がだってです」

詩子ふみこお姉様がいいっておっしゃるんですもの。それに、お化粧も学問だってお母様がおっしゃったことがあるでしょう」

「まア、この子は」

 母親も二の句がつげませんでした。

 その間に、化粧室に舞込んだ勇美子は、後から、前から、横から、言いようもなく美しい詩子ふみこを眺めながら、コッティの白粉おしろいを取ってやったり、クリームを取ってやったり、そっと髪を撫で付けてやったり、ハチ切れそうな好奇心で、お嫁に来る前からよく知って居る詩子ふみこのお化粧の世話を焼いて居りました。

「あら、その紅はどうかして居るんじゃないの?」

 と勇美子は、鏡の前の棒紅を取上げて、唇へ持って行こうとする詩子ふみこの手をとめました。

「旅行しないことになったから、ボストンケースの中から肉色のを出したの、──あんまり紅いのは変でしょう」

 詩子ふみこはまだなんにも覚りません。

「その紅のまん中に穴があいて、小さい小さい水っ玉が付いてるでしょう、一寸ちょっと

 勇美子は手に受取ってその棒紅の頭に沁み出した水っ玉を嗅ぎました。

「これは大変よ、お姉様、──私にはよく解らないけれど、化学の実験で嗅いだ○酸の匂がするワ。もしそうだったら、この紅を使った人は死ぬかも知れないワ」

「まア」

「ちょっと待ってね」

 勇美子は棒紅を持って飛出してしまいました。


疑は求婚者の氏家青年へ


 衛生試験所でしらべさせると、詩子ふみこが使いかけた棒紅の中には、犯罪史上にも珍しい詭計が仕掛けてあったのでした。

 くわしく書くわけには行きませんが、とに角、棒紅のまん中に縫針で突いたらしい小さい穴が縦に開いて、その穴の中には、人間が三十人も死ぬほどの猛毒が仕込んであったのでした。

 穴の上部は紅の屑で塞いでありますから、なんにも知らずに旅へ出かけたとしたら、三日目頃薬液が働きかけて、花嫁は旅先で死んでしまったことでしょう。

「勇美子さん有難うよ。お蔭で命が助かりました」

 詩子ふみこはそう言って、勇美子の手を取りました。日頃から落付いた詩子ふみこですが、こう聴いた時は、さすがにまっ青になってしまいました。自動車の衝突は偶然ということがありますが、口紅の中に猛毒を仕込むのは、どう考えても偶然や洒落しゃれではありません。

 すぐ警察へ──と思いましたが、新婚早々それはあまりに人騒がせなので、勇美子の口を封じて、そのまま黙ってしまいました。

 しかし事件はそれだけでは済まなかったのです。先夜新郎新婦を乗せた自動車の運転手は、負傷がもとで死んでしまったのと、口紅に毒薬を仕込んであったことが、衛生試験所の方から知れた為に、警視庁と所轄警察署が大活動を開始し、その日のうちに、一人の青年を容疑者として挙げてしまったのでした。

 それは、氏家うじいえ竜太郎という若い技師で、詩子ふみこに何べんも何べんも求婚しましたが、詩子ふみこには春藤良一という許嫁いいなずけがあった為に、その都度つど断られ、詩子ふみこがいよいよ結婚することになってからは、内地に見切をつけて、満洲へでも行って、一生を托する大事業でも見付けようか──と言って居た青年だったのです。

 何より悪い事に、詩子ふみこが怪我をした晩、十時から十一時まで何処どこに居たか、どうしても言わなかったのと、右手の甲に、ガラスの破片かなんかで怪我けがをしたらしい、大きな傷があったことでした。あれだけの衝突をさせたのですから、叩き付けた方の自動車も窓ガラス位は割れたでしょうし、ハンドルを持った竜太郎が、手の甲へ怪我けがをしたのは、誰が考えても、あまりに当然のことです。

 これだけなら言いのがれる方法もあったでしょうが、毒薬入の口紅は、竜太郎の姉の昌子がお祝に詩子ふみこへ送った華麗な化粧函の組合セットの一つで、姉の部屋にあるうちに竜太郎には細工をする隙もあったわけですし、それに竜太郎は仕事の関係上、工業薬品として、その毒薬を始終使って居たことが解ったのですから、疑はやがて一番確かな事実のようにさえなって来るのでした。

「氏家君は決してそんな人ではない」

 詩子ふみこ良人おっとの春藤良一は、一番先にそう言い出しました。

「そうだ、竜太郎君はそんな卑怯ひきょうな男ではない。これには恐しい間違がありそうだ」

 友人達もそう言い出して、いろいろ奔走して見ましたが、証拠があり過ぎて、手の付けようがありません。

 春藤良一の父は有名な大百貸店の支配人でしたが、二、三年前に亡くなって、その遺子の良一は、若い勤人サラリーマンとして、その百貨店に勤めて居たのです。そんな関係で、今は微力な一青年ですが、名家の子として世間にも知られ、何十年来関係して来た、老実な顧問弁護士もあり、

是非ぜひ氏家君を助けてやりたい」

 そう男らしく決心をすると、一生懸命氏家竜太郎が潔白だという反証を挙げることに熱中しました。


竜太郎の妹と探偵をするつもり


「陽子さん」

「あらッ、勇美子さん」

 二人は飛付いて手を取り合いました。陽子というのは、今未決に繋がれて居る氏家竜太郎の妹で、勇美子より一つ年下の十三、学校は違いますが、家と家との関係でよく知って居る上、この四月からは、同じ女学校へ入る約束で、お互に励まし合いながら勉強をして居る間柄だったのです。

「陽子さん、本当にお気の毒ねえ」

「有難う、勇美子さん、貴女あなたのお兄様が、うちの兄さんがそんな事をする筈はないとおっしゃって、いろいろ骨を折って下さるんで、母や姉がどんなに喜んで居るでしょう」

 陽子はもう泣いて居りました。有望な青年技師と言われて、若いながら特許権だけでも六つも七つも持って居る兄の竜太郎が、人殺の嫌疑で未決に繋がれて居るのですから、身内の者の心配は一通ではありません。

「陽子さん、顔色が悪いワ。お兄様の疑はきっとはれるに決って居るから、あまり心配なさらない方がいいワ」

「でもね、私よりお母様が、──近頃は毎日泣いてばかりいらっしゃるし、──この二、三日はなんにも食べずに寝たっきりなの、年をとって居るから、お兄様より此方こちらが心配だって先生もおっしゃるのよ」

「そう──」

「勇美子さん、自動車を衝突さして運転手を殺したり、口紅に毒を入れて詩子ふみこ姉様を殺そうとしたのは、本当に誰でしょう」

 二人は神宮外苑の中を、春の光を浴びて歩いて居りました。どちらも軽い洋装ですが、勇美子はクリーム色のジャケツ、陽子は白のセーラー、ロング・カットがやわらかい風になびいて、知らない者が見たら、少女おとめの幸福に酔った散歩姿とも見るでしょう。

「私、探偵をして見ましょうか?」

「…………」

「きっと、きっと、なんか解ると思うワ」

「勇美子さんが?」

 陽子は眼を見張りました。あまりこのもくろみが突拍子もなかったのです。併し、勇美子はたった十四ですが、抜群のよい頭を持った少女で、どんなむずかしい考物や謎でも、三十分も経たないうちに解くし、ことに算術が得意で、こればかりは高等師範出の、学校で自慢の数学の先生も驚いて居るという話を思い出して、勇美子さんなら、探偵が出来るかも知れないという心持になるのでした。

「黙っててネ、陽子さん、笑われるとつまらないから、──私は、自分で調べたことを石井さんにお話して、いろいろ骨を折って頂くわ」

 石井三太郎というのは、春藤家の顧問弁護士の名です。

「勇美子さんならキットよい考が浮かぶワ。ずどんな事をするの?」

 二人は噴泉の前の石垣にもたれて、数学の宿題を考えるように首を寄せました。


勇美子の探偵はこんな工合に


 勇美子と陽子は、それから毎日、学校の放課後外苑に落合って、渋谷の春藤家の門の前から、自動車の衝突した路地のあたり、それから東京駅までの間を、何べんも何べんも往復しました。

「お兄様、自動車は正面衝突したんでしょう。あれだけ此方こちらの車を滅茶滅茶に壊して、向うの車は平気で逃げて行ったんですから、なんか特別な車ではなかったでしょうか、丈夫なトラックとか、競走用自動車とか──」

 勇美子は兄の良一にそんな事を訊いたりしました。

「トラックなんかじゃない──が、競走用の自動車だったかも知れないな」

前燈ヘッド・ライトいてなくても、此方こちらの灯が映って光るでしょう」

「それが不思議なんだ。あっという間もなかったから、はっきりわからないが、前燈ヘッド・ライトなんかのない、のっぺら棒な車だったような気がするんだ」

「おかしいわねえ」

 勇美子はこんな事を言い残して、今度は新婦の詩子ふみこの部屋へやって行きました。

「お姉様、あの化粧函を竜太郎さんの姉さんが持って来て下すったのは何時いつ頃?」

「そうね、式の一週間も前だったでしょうか」

 勇美子の問が滑らかだったので、詩子ふみこもツイ心安く答えてしまいます。縮らせない毛の好みも素直で、心持ばかりの化粧も匂いそうな、高雅な美しさです。

「その一週間の間、化粧函を何処どこへ置いてらしったの?」

「私のお部屋、──沢山たくさんのお祝物と一緒にして置いたワ」

「お姉様はその間に開けて御覧になった?」

「いいえ」

「すると、棒紅だけそっと取って、二、三日してから函へ返しても判らないわねえ」

「そうね、だけど」

「関谷さんには疑われる人なんかないっておっしゃるんでしょう」

「え」

 詩子ふみこはうなずきました。詩子ふみこには大きい財産があったにしても、戸主の兄が洋行中は、遠縁の関谷夫婦が後見をして、長い間なんの間違も起さなかったし、もし、詩子ふみこを殺して財産を手に入れようとするなら、結婚式を挙げる前に、いくらも機会があったわけですから、これはどう考えても疑う余地はありません。

 勇美子は、その足ですぐ陽子を誘って、神田かんだに事務所を持って居る顧問弁護士の石井三太郎を訪ねました。

「おや、春藤さんのお嬢さん、これは一体どうした事です」

 半白の石井弁護士は回転椅子いすをグルリと廻して、この不思議な客を迎えました。

「この方は陽子さん、氏家さんのお妹さんなんです。──氏家さんのお兄さんが、自動車をっ付けたのでもなく、毒薬を棒紅に入れたのでもないと判ったら、すぐ許して頂けるでしょうね」

「それは言うまでもないことですよ、お嬢さん、が、その反証が容易に挙がらない。氏家さんは、あの晩十時から十一時まで何処どこに居たかさえ言わない位ですから──」

 石井弁護士は、おさらいをすねた小学生をなだめるような調子でこう言いました、──先ず先ず余計な苦労はよせと言った口調です。

「それがみんな判ったんです。今までみんなが氏家さんを悪者に決めてかかったからいけなかったんです」

「え、それは大した事だ」

 石井三太郎弁護士は、口ではこう言いますが、まだ本当にする様子はありません。


驚くべき明察──少女は疑を解く


「ね、石井の小父おじ様、警察ではあの晩使った競走用自動車を探しても判らなかったそうですね。競走自動車だって、前燈ヘッド・ライトのない車はないでしょう。お兄様の見た車は前燈ヘッド・ライトのないノッペラ棒な車だったんですって」

「フーム」

 一本突っ込まれた形で、石井老弁護士は唸りました。

「あれは、普通の自動車の先へ、鉄の三角な板かなんかで装甲したのじゃないでしょうか、衝突さして逃げる時、その鉄の板を隠せば、誰だって気が付きはしません、あの辺は十時過は滅多に人の通らないところだし」

「お嬢さん、大変な事を言いますね」

「それから、私達はあの近所を一軒一軒訊いて歩いて、丁度衝突のあった少し前に、不思議な自動車がエンジンの音をさせながら、なんか待って居るのを見た人があるんです」

「えッ、──それは初耳だ。がそれだけでは、氏家さんを助けられませんよ」

「氏家さんは潔癖な方で、自動車を運転する時、素手でハンドルを握るような事はしないんですって。手袋をして居れば、前の窓ガラスが壊れても、手の甲へあんな傷は受けませんね」

「フーム」

 勇美子の推理は、いよいよ馬鹿に出来なくなりました。

「それから、あの晩十時から十一時の間、氏家さんが東京駅のプラットホームに居るのを見た人があるんです」

「何? それは本当ですか。じゃ、なぜ氏家さんはそれを黙ってたんでしょう」

 と石井弁護士、

「きまりが悪かったんですワ。始は氏家さんも、詩子ふみこお姉様の新婚旅行を送るつもりで東京駅へ来たんでしょうが、いろいろわけがあって、人に顔を見られたくなかったんでしょう──昌子お姉様が(弟はあの晩東京駅へ行って居たかも知れない。人に隠れて、そっと詩子ふみこさんを見送るつもりだったかも知れない)っておっしゃるんです。だから私達はすぐ東京駅へ行って、その晩プラットホームに居た駅夫さんを探し出して聞いたんです」

「昌子さんもそれを見たのですか」

「いえ、停車場に氏家さんの居るのを見たのは、東京駅の駅夫さんですワ。ずっと離れた降車口の階段の方に、衿巻で顔を隠して一時間も立って居た人があった。──って言うんです。あまり不思議だから、駅夫が顔も様子もよく見て置いたってんですって」

「それが氏家さんに間違はないでしょうね」

駱駝らくだの黒い帽子、ロイド眼鏡、──それだけならよくあるでしょうが、赤帽の荷物と衝突して、手の甲を怪我けがなすったのを、駅夫は見て居たんですって、赤帽にはあやまちがなかったので、その顔を隠した人は、手巾ハンケチで傷を結えながら、あべこべに赤帽にあやまって──その間も、神戸行の急行に目を離さなかったんですって」

 勇美子は実によく調べました。石井弁護士もこの二人の少女の熱心と頭のよさに舌を巻きましたが、

「棒紅の毒薬は?」

 最後の大きい疑に行きつまってしまいました。

詩子ふみこお姉様の針箱の中に、一センチばかり口紅の付いた針が一本入って居たんです」

「…………」

「お姉様も知らないそうです。第一近頃忙しくて針を取る暇もなかったんですって──」

「…………」

「多分、針で棒紅へ穴をあけて、注射針で毒薬を入れたんでしょう。その時人に見られそうになるかなんかして、注射針は隠したが、縫針は隠せなかったんでしょう」

「すると──?」

 石井老弁護士はこの少女の智恵に圧倒されて唸りました。

「悪者は、詩子ふみこお姉様の側に居たんです。氏家さんなんかじゃありません。第一その棒紅でお姉様が死んだら、一番先に氏家さんが疑われるじゃありませんか」

 恐しい明智、もう疑の片影も留めません。

「判りました、お嬢さん、早速行って来ましょう。多分貴方あなたのお兄様は助かりますよ」

 石井弁護士がそう言って振り返ると、白い水兵服の陽子は、もう顔も挙げられないほど泣き濡れて居りました。


窓の外から詩子は撃たれた


 氏家竜太郎はすぐ許されました。これだけ反証が挙がると一日も未決にとめて置くわけに行かなかったのです。

 が、それまで鳴を鎮めて居た曲者くせものは、氏家竜太郎が自由の身になると同時に、又恐しい手を延べて、詩子ふみこの身辺に迫りました。

 或日電灯会社から、「漏電があるかどうかをしらべますから」

 と言って来た男が、部屋部屋の電灯を見廻って行きましたが、その晩、寝室へ入るつもりで応接間の飾電灯シャンデリアの紐を引いた詩子ふみこは、

「あッ」

 悲鳴をあげて飛退とびのきました。

 頭の上の大電灯の笠──摺硝子すりガラスに切子細工の飾を付けた、何キログラムとも知れぬのが、恐しい勢で頭の上へ落ちて来たのでした。

 咄嗟とっさの間に身をかわして、大した怪我けがもなくて済みましたが、まっすぐに頭の上に落ちたら、詩子ふみこはどんな事になったかも解らなかったのです。

 後で調べて見ると、大電灯の笠をとめた螺旋らせんを抜いて、細い針金で細工をして、電灯の紐を下から「オッフ」の方へ引くと同時に、落ちて来る仕掛になって居たのでした。

 応接間や書斎の灯は詩子ふみこが消すことになって居る事まで知り抜いた者の仕業しわざでしょう。

 この事件も一応警察に報告して置きましたが、偽電灯屋の正体が解らないので、犯人の見当は少しもつきません。

 そのうち主人の良一は会社の用事で大阪まで出張することになりました。

「こんな物騒な時だから、会社の方へよく話して、かわりの者を行って貰おうかしら」と言いましたが、

「大丈夫よ、お兄様、私が引受けますから」勇美子はなんか自信があるらしい事を言ってニコニコして居ります。

「それでは女探偵に頼むとするか、大阪の用事は二日で済むから」

 氏家竜太郎を救った手際を知って居るので、兄の良一も安心して大阪に出かけました。

 その晩。

 春藤家の庭に二人の曲者くせものが忍び込んで居りました。木蔭を拾って、詩子ふみこの居間の方へ行きながら、

「おや、誂向あつらいむきですぜ。窓際で、向う向いたまま編物をして居る──」

「シ──ッ」

 二人の曲者くせものは窓から五・六メートルのところまで忍び寄りました。

 窓は締めたままですが、硝子ガラスの内には美しいあかりが漲って、窓際の椅子にもたれた詩子ふみこの半身が、後向にはっきり浮いて居ります。何時いつもの簡素な束髪、美しく透き徹るような襟足と、温かい頬を少し見せて、おめしあわせらしい着物の柄まで手に取るようです。

「首か、胴か」

「心臓を狙うのだ、──外してはならぬぞ」

「大丈夫、拳銃ピストルは名誉の腕前だ」

 一人は拳を挙げました。ピカリと光る小型の拳銃ピストル詩子ふみこはなんにも知らずに、大阪へ行った良人おっとの事などを考えて居るのでしょう。編物の手も暫くは動きません。

「それッ」

 ドーンと押し潰されたような、が低い音、多分消音装置がしてあるのでしょう。

 同時に、恐しい音がして窓硝子ガラスが割れると、詩子ふみこ身体からだは少し動いたようです。二人の曲者くせものはそれを見定める間もなく逃げてしまいました。


閃光と同時に短刀は胸へ


 不思議なことに、春藤家はなんの騒も起しません。翌朝あくるあさの新聞には、詩子ふみこが撃たれたとも、怪我けがをしたともなく、更に驚いたことに、昨夜ゆうべ確かに射たれた筈の詩子ふみこは、朝から機嫌よく勇美子と話したり、時々は庭へ出て来て、早咲の桜のつぼみを眺たりして居るではありませんか。

悪戯いたずらっ子が窓ガラスを壊したのね。昼のうちに修繕させて下さい」

 勇美子がそんな事を書生に言い付けて居るのまで聞えます。昨夜ゆうべ忍び込んだ曲者くせものが、この様子を見て居るとしたら、どんなに仰天したことでしょう。

 翌日あくるひの晩、

 二人の曲者くせものはまた庭の中に忍び込んで居りました。

昨夜ゆうべの手際はどうした。窓硝子ガラスは町の悪戯いたずらっ子が石投で割ったと思ってるからいいようなものの、そうでもなきゃア今晩は来られやしない。名誉の腕前も当てにならないぜ」

「それが不思議なんで、あれで心臓を撃ちかないとなると、防弾チョッキかな」

「若い女がそんなものを着るか」

「窓硝子ガラスに当って弾が外れたんだろうよ親分」

「そうかなア、何しろ、今晩はお前に任せちゃ置けない。見張を頼むぜ」

「親分がやんなさるのかい」

「当り前よ」

 背の高い方の男は、建物の裏へ廻ると、窓枠に手をかけて、深い窓へソッと半身を覗かせました。今晩は居間の硝子ガラス越に撃つようなことをせずに、いきなり詩子ふみこの寝室を襲撃したのでしょう。大きい男はしきりに窓へ細工をして居りましたが、やがて盲扉ブラインドを開けて、硝子扉ガラスどを開けると、なんの躊躇もなく部屋の中へ飛込みます。

 中には寝室用の蛍光電灯が一つ点いて、なんとなく神秘な空気を漂わして居りますが、寝台の上の詩子ふみこは、物音に目を覚す様子もなく、神々しいほど美しい片面を見せて、向うを向いたまま、スヤスヤとねむって居ります。曲者くせものは二、三歩進みました。寝台の下の美しい絨毯じゅうたんを踏んで、用意した短刀を振り冠ると、目の前でキラリと光ったものがあります。

「あッ」

 驚くと同時に打ち下した短刀、寝台の上の詩子ふみこの胸に、つかとおれと刺して居たのです。


命がけの詭計──人形が可哀相


 翌日あくるひ早朝、詩子ふみこの後見人関谷文三郎は寝巻のまま、自宅で捕縛されました。

 自動車を衝突さしたのも、口紅に毒薬を入れたのも、飾電灯シャンデリアに細工をしたのも、詩子ふみこを撃ったり刺したりしたのも、ことごとく関谷文三郎とその子分の仕業だったのです。

 関谷文三郎は元支那あたりまで押廻したゴロツキでしたが、詩子ふみこの兄が外国へ行くと、正直そうな顔をして日本へ帰り、巧みに親類方に取入って詩子ふみこの後見人になり、そのおびただしい財産を片っ端から自分のものにしてたり、滅茶滅茶につかったりして居たのです。

 詩子ふみこが自分と一緒に居るうちは、殺すとすぐ疑をかけられますから、わざと結婚を急がせて春藤家へやった上、世間の習慣で、結婚の挙式と、法律上の入籍手続の間に、半年なり三月なりの余裕のあるのを見込んで、籍を入れる前に、なるべく春藤家で殺し、その疑を夫の良一か、求婚者だった氏家竜太郎に向くように細工をしたのでした。言うまでもなく入籍する前に詩子ふみこが死ねば、その財産は後見人の関谷の自由になったのです。

 併し自動車の前を包んで衝突させた鉄の被覆おおいは、子分の捕縛と共にその家で見付かりましたが、その他の事はなんとしても白状しません。散々手古摺てこずらせた揚句、

「これはどうだ。これでも、覚えはないと言うか」

 取調に当った警部に、一枚の写真を突き付けられると、関谷文三郎タラタラと冷汗を流しながら、

「恐れ入りました。私が悪う御座いました」

 と一遍に白状してしまいました。写真というのは、関谷文三郎が短刀を振り上げて、寝室ベッドの上の女を刺そうとして居るところが映って居るのでした。帽子を目深に冠って外套の襟を立てて居りますが、首が延びたところを下から映したので、誰が見ても、たった一目で関谷文三郎ということが判ります。


 その時丁度春藤家では、主人の良一が大阪から帰って来て、静かに事件の顛末てんまつを聴いて居りました。

「だから私、どうせ詩子ふみこお姉様が狙われるのなら、悪者を引寄せて、その正体を見破ろうと思ったの」

 と勇美子が説明役です。

「乱暴だね、勇美子は」

 妹の大胆な計画に良一は、すっかり舌を巻いてしまいました。

「だって、そうするより外に工夫がなかったんですもの、──で、二、三年前お父様がお店から払い下げて来て下すった、マネキン人形があったでしょう、──ホラ、博覧会で大変評判になった、ろう人形よ」

「フム」

「あれにお姉様の着物を着せて窓際へ置いてやったの。すると本当の人間と聞違えて外から拳銃ピストルを撃ったんですもの」

「危いネ」

「それから、翌日あくるひはわざと詩子ふみこお姉様に庭などへ出て頂いて、相手を散々惑わせた上、その晩は人形を寝室へ寝かして、お姉様は私のお部屋へ泊ったの」

「…………」

「すると、悪者はやって来て人形を刺したんです。絨毯の下にスイッチを隠して、それを踏むと、電球式の閃光器がいて、写真のシャッターが開くように仕掛けてあったんです。その仕掛をこしらえるのにお姉様も手伝って下すったワ」

「どうも驚いたね」良一もこの小さい妹の智恵と働きには、二の句がつげません。

「でも、可哀相よ、人形が胸を撃たれたり刺されたりしたんですもの。今日は陽子さんや、陽子さんのお兄様もお呼びして、みんなで祝賀会を開きましょう。ね、いいしょう」

「…………」

 良一と詩子ふみこは顔見合わせて幸福そうにニッコリしました。

 その日の午後の春藤家の賑やかだった事。

底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社

   2007(平成19)年415日第1刷発行

底本の親本:「少女倶楽部」

   1934(昭和9)年1

初出:「少女倶楽部」

   1934(昭和9)年1

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2015年1023日作成

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