向日葵の眼
野村胡堂
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「あら、麗子さん、どうなすったの」
「あッ、加奈子さん」
「近頃学校へもいらっしゃらないし、みんなで心配して居てよ、──それに顔色も悪いわ、どうなすったの本当に」
「困った事が起ったの、加奈子さん、私どうしたらいいでしょう」
加奈子は、お使いに行った帰り上野の竹の台で、お友達の麗子にバッタリ出逢ったのでした。
麗子は、加奈子と同じ年の十三、今年女学校へ入ったばかりですが、小学校からズッと親しいお友達です。
「困った事って、何んな事なの、聞かして頂戴、──ネ」
「大変な事なの、お母様が見えなくなったの」
「エッ」
加奈子は、自分の耳を疑うほど驚きました。麗子の母親なら、松井理学博士の未亡人で、麗子によく似た物静かな優しい方、加奈子もよく知って居ります。
「何時? 何うして、──もっと詳しく話して頂戴──」
加奈子はせっかちに問いかけましたが、麗子は返事の代りに、両方の袖を顔に当てて、往来に立ったまま、さめざめと泣き出してしまいました。
陽は少し昼を廻りましたが、公園の中は、あまり人通りもありません。
咽び泣く麗子を扶けて、深い木立の中のロハ台に陣取った加奈子は、涙の隙から、漸くこれだけの事を聞きました。
麗子のお父様というのは、日本のエジソンと言われた、有名な発明家で、いろいろお国の為になるものを発明した上沢山の実用品を創り出して、一代に数百万という財産を拵え、谷中の奥に、立派な家を建てて、心静かに研究をして居りましたが、昨年の暮、風邪から肺炎を起して亡くなってしまったのです。
後に残ったのは、未亡人と一人娘の麗子ばかり、偏屈な学者の事で、日頃あまり知合も作らず、身寄の者と言っても皆遠方で、別段頼りにする者もありませんので、自然お父様の助手をして居た、紺野左一郎という人が、研究の仕残りやら家政上の事やら、母子の者の身の振り方まで、立ち入って世話をするようになりました。
まもなく紺野は、亡くなった松井博士の仕事を仕上げるという口実で、博士が人に隠して、そっとやり掛けて居た、沢山の大発明の設計図を見せてくれと言い出したのです。
それから、これは博士の遺言だからと言って、財産の事にまで口を出し、自分は母子の後見人だということを、大ぴらに世間へ言いふらしたりするようになりました。
ところが、博士がやりかけて居た筈の、沢山の発明の設計図は、何処を何う探しても見当らないばかりでなく、博士が残した筈の、何百万円という財産も、何処へ匿してあるのか、さっぱりその行方がわかりません、博士はどこか、秘密の室に隠しているのではないでしょうか?
そうするうちに、今から丁度一週間前に、麗子の母親は不意に行方不明になりました。本当に不意に、掻き消すように姿を隠してしまったのです。
元より警察へも届け、少しばかりの知り合いは言うまでもなく、遠方の親類へも問い合せて貰いました。が、それもこれもみんな無駄骨折で、麗子の母親は、死んだとも、生きて居るとも、今にまだ様子が判りません。
麗子の歎きはどんなでしたろう。
お母様が、生きて居るか死んだかもわからず、おまけに身寄も知合も無く、たった一人ぼっちにされてしまっては、十三になったばかりの、内気な麗子には、とても背負い切れないほどの恐ろしい運命です。
北海道の奥には、たった一人、年老ったお祖母様がいらっしゃるそうですが、あまり遠過ぎて、何分急場の役には立ちません。その上紺野は、多勢の雇人に片っ端から暇をやって、お城のような広い屋敷に、麗子唯一人残るように仕向けて行くのです。
此上寂しい空屋敷にいるより、思い切って、北海道の奥の年老ったお祖母様の許へ行こう、麗子は悲しくも斯う決心して、そっと邸を抜け出し、上野停車場へ行こうとして居るところだったのです。
「まア、そんな事があったの随分大変ね、だけど、もう少し踏み止って、お母様を探す気にはならないこと?」
加奈子は涙に濡れた麗子の手を取って、力を吹き込むようにこう申します。
「どうして私に探せるでしょう、加奈子さん、教えて頂戴な」
麗子がこう言うのは、理由のあることでした。優しい弱々しい麗子に比べて、加奈子は、明るく強く、怖れというものを知らないように生れ付いた少女でした。その上、クラスの六つかしい事、判らないことをはじめ、紛失物まで探し出して、近頃は頭の良さが学校中で評判にされて居るような有様だったのです。
「サア──」
加奈子は、その可愛らしい頬に両手を当てて、考えこみました、木の間を漏るる真昼の陽は、お河童の髪の上に落ちて、天鵞絨のような毛並と、その美しい首筋をクッキリ照して居ります。
「貴方のお母様のお書きになったものが無かったの、遺書とか手紙とか──」
「何んにも、──紺野は一生懸命探したけれど、手紙一本、日記一冊見付からないって言って居たワ」
「何うかしたらお母様に、深いお考があったかも知れないわネ、それでは、貴方が平常お母様から言い含められて居ることとか、預った品とか、頂いたものとか、兎に角、お母様が大事にしていらしたものは無かったでしょうか」
「それならあるワ」
「エッ、何? どんなもの?」
せき込む加奈子の前へ、麗子は可愛らしいなめし革の蟇口を開けて、その中から蒲鉾形の金の指環を一つつまみ出しました。
「これなの、なんでもお母様がお父様から頂いた指環で、大変大事なんですって、それを御母様が見えなくなる二三日前に私へ下すって、この指環は大事だから、一生大事にしまっておくれ、その指環には亡くなられたお父様の魂が彫んでありますよ──って仰しゃったワ」
「どれどれ、一寸見せて頂戴な」
手に取って見ると、蒲鉾形の平凡な指環ですが、その上には、見事な向日葵の花が一輪高彫になっていて、その蕊は一カラットもあろうかと思う、小さいながら美しいダイヤがはめ込みになっておりました。
内側を見ると、K18という刻印の外に、丁度ダイヤの裏側へ、何やら細かい文字が毛書きに彫ってありますが、加奈子の良い眼で見てもこれは読めません。
「麗子さん、此裏に彫ってある字を読んだことあって?」
「いいえ」
「何んと彫ってあるかしら、虫眼鏡があるといいけれど、──」
加奈子は思わず四辺を眺めました、が上野公園の木立の中で、虫眼鏡を手に入れる工夫は思いつきません。
「麗子さん、これにはキット深いわけがあるんだワ、お母様だって、まだ何処かで、貴方が助けて上げるのを待って入らっしゃるのかもわからないし、北海道なんかへ行って仕舞う時じゃないと思うワ」
「そうでしょうか、加奈子さん、じゃ私は何うすればいいでしょう」
「待ってらっしゃい、秘密はキット此指環にあるワ、虫眼鏡でなくたって、凸レンズの代りをするものならいいわけでしょう、これはどうでしょう」
加奈子は自分の蟇口から、穴の明いた十銭白銅を一枚取り出しました。
直ぐ近くにある水道の口から、指の先へ水を一滴受けて来て、それを十銭の白銅貨の穴へ滴し込むと、水の滴りがそのまま穴を塞いで簡単なレンズが出来上ります。
「毛細管の現象で、凸レンズになるわけよ、指環を拝借──」
指環を受取って、十銭玉のレンズを通して見た加奈子は、思わず吹き出してしまいました。
「プッ、反って小さく見えるワ、──私は何んという馬鹿でしょう、同じ毛細管の現象でも、これは凹レンズよ、穴の大きさに比べて、水が少なかったんだワ」
もう一度その上へ水を滴し込んで、水の膜を真ん中で盛り上るようにさせた上、一生懸命十銭玉の穴から、指環の文字を覗いて居た加奈子は、思わず喜びの声をあげました。(皆さんためしてごらんなさい)
「麗子さん、今度はハッキリ読めそうよ、随分素晴らしい凸レンズね──聞いて頂戴、最初は向の字──その次は日の字──、それから葵という字──、向日葵と書いて、ひまわりと読むんでしたね、その次は、に、眼、を、与えよ──続けて読むと『向日葵に眼を与えよ』となるワ。何んの意味でしょう、指環の彫刻も向日葵だけれどなんか外に意味がありそうネ」
「サア──」
麗子には、何んの考もありません。
「これから直ぐ、貴女のお家へ行って見ましょう、そうしたら又何んか気がつくかも知れない」
加奈子に励まされて、麗子もいくらか快活な気分になったのでしょう、上野から北海道へ発つ筈だった事も忘れて、そのまま谷中の家へ引返してしまいました。
谷中の松井博士の屋敷は、近所の人から「日廻り御殿」と言われている位で、装飾と言う装飾は、何から何まで向日葵ずくめで、麗子に案内されて行った加奈子も、あまりの事に、吃驚してしまいました。
第一門の扉の飾りが向日葵、一歩中へ入ると、庭の花壇は向日葵と姫向日葵だらけ。
中へ入って見ると、壁紙の模様から、カーテンの刺繍から、欄間の欄干の彫まで悉く向日葵で、立派な応接間には、有名な書家の描いた、真物の向日葵の絵まで掲けてあります。
どうしてこんなに向日葵ばかり集めたのかわかりませんが、兎に角、これだけ向日葵が沢山あると、どれに眼を与えていいのか、加奈子には少しも見当がつきません。
家の中をぐるぐる一と廻りすると、紺野という助手と、その仲間の者でしょう、彼方此方を叩き廻ったり探し廻ったりしながら、二人の少女を険悪な眼で、ジロリジロリと眺め廻しております。「紺野が怪しい」と加奈子は咄嗟に思いつきました。
「麗子さん、今晩は私の家へ行って泊りましょうよ」
「そうさして下さると、どんなに嬉しいでしょう」
「後は構わないでしょうか」
「ええ、どうせ私がいてもいなくても同じことなんですから──」
二人はそのまま連れ立って、夕暮れの街を電車へ急ぎました。
二人の少女から、詳しい話を聞いた加奈子の母親は、どんなに驚いたことでしょう。
「まア、可哀相にネ、どんなに悲しかったでしょう」
と我が子のように麗子を慰めます。其処へやって来たのは加奈子の母親の弟で、加奈子には叔父さんに当る、探偵好きの若い理学士香椎六郎でした。
「何? 松井博士のお嬢さん、──松井博士なら僕の大学にいる頃の先生だよ、それは捨てて置けない。よしよし明日朝早くから一緒に行って、すっかり探して上げましょう。紺野とか言う男は加奈子さんの言う通り確に曲者に違いない。まだまだ泣くことはない──」
そう親切に言われると、麗子はなお泣かずにはいられません。
明る日、朝早く出かけた三人は、麗子の案内で、「日廻り御殿」へ探検の足を踏み入れました。
紺野は大勢の仲間を引きつれて玄関から一と部屋一と部屋と片づけて、打ち壊しをやっている様子で、時々、凄じい物音が聞えます。「悪漢め! 発明の設計の在所を探しているんだな。今に鼻をあかしてやる」と香椎六郎は微笑みました。そして、香椎六郎の一行がいきなり、紺野達がまだ手をつけていない二階へ上がろうとすると、
「これこれ、お前は何処へ行く」
人相の悪い襯衣裸の男が前に立ち塞がります。紺野もその後についています。
「何処へ行こうと勝手だ、この家の主人の麗子さんが案内しているのが見えないか」
「…………」
「お前こそ何者だ、誰の許を受けて、そんな乱暴なことをするのだ」
香椎六郎は逆ネジを食わせます。スポーツで鍛えぬいた、見事な体格を見てはあまり強そうもない紺野などは、側へ寄りつけそうもありません。
「無礼を言うな、松井博士の遺言で私はこの屋敷の管理をしている紺野左一郎だ。諒解も得ずに、屋敷の中に入ることは許さんぞ」
「何をッ」
二人は屹と睨み合いました。紺野左一郎の後ろには、その仲間らしい荒くれ男が五六人、香椎六郎の後ろには、加奈子と麗子、成行如何と固唾を呑んで居りましたが、二人は睨み合ったままスーッと別れて、紺野は玄関の方へ、香椎は客間の方へ足を返します。
家の中は何処へ行っても、向日葵だらけで、流石の香椎六郎も面喰いましたが、それでも、素人探偵らしく落付き払って、客間の名画、卓の上の巻煙草入れの象眼、梯子段の手すりと、一つ一つ丁寧に調べながら、二階、三階へと登って行きます。
一時間ばかりで、大方家の中の部屋部屋を見て仕舞いましたが、向日葵の眼らしいものは一つもありません。
「叔父さん、判って?」
「いや」
加奈子の問にも、簡単に答えただけ、香椎六郎は六つかしい顔をして、屋上へ抜ける狭い段々の下に立って居ります。
「麗子さん、この上には何があります」
「屋上庭園です、それから、お父様の小さい実験室もありますが、見るようなものは何んにもありません」
「兎に角行って見ましょう」
香椎六郎は先に立って、狭い梯子を登り、頑丈な扉を開けて、屋上庭園へ出ました。
取っ付きは二間四方程の小さい実験室で、天体観測か、光学の研究などに使ったものらしく、天井の半分ほどは透明なガラスで張り、その下へ写真屋のように幕を張り渡して、其処から入って来る烈しい陽を遮って居りますが、中には、目ぼしい品は何んにもありません。
卓が一つ、椅子が二三脚、本棚が一つ、その中には本が少しばかり詰って居りますが、あとは卓の上に大理石へはめ込んだ古い置時計が一つあるだけです。
実験室の外は、かなり広いコンクリートの展望台で、彼方には、道灌山やら上野の森やらが、手に取るように見えて居ります。
「ああ、良い心持だ」
忙しい中にも、この雄大な眺めに対して、香椎六郎は思わず胸をくつろげます。
「叔父さん、これは何んでしょう?」
不意に、加奈子の声、驚いて指した方を見ると、寄木細工になった実験室の真ん中の床の上に、二尺四方程の大きな彫刻がはめ込まれて、その真ん中の部分が直径三寸ほど、丸く穴になってポカリと口を開いて居ります。
寄木細工が古くなって、一寸見は判りませんが、注意して見ると、そのはめ込みの彫刻は大きな向日葵に相違ありません。
「向日葵に眼を与えよ──、これだこれだ」
香椎六郎は思わず飛上りました。
「叔父さん、眼を与えよって何?」
「それだよ、その眼が解れば、謎はわけもなく解けるんだ──待て待てもっと明るくして見よう」
壁に垂れている綱を引くと、天井硝子の下へ張った幕は引かれて、真昼の烈しい光線が、カッと床の上へ落ちます。
「向日葵に眼を与えよ、──向日葵に眼を与えよ──」
香椎六郎は歌のように節を付けながら口ずさんで、向日葵の彫物の真ん中の穴へ手を入れましたが、手は真鍮板らしい金属に遮られて、いくらも深くは入りません。
「麗子さん、大きい凸レンズは無いでしょうか、──虫眼鏡ですよ、──余程大きいのでないといけないが──」
「ありましたワ」
麗子は卓の抽出を抜いて見ましたら、其処は綺麗に空っぽにされて、紙片一つ残っては居りません。
「階下へ行って持って来ましょう。此処になければ、お父様の書斎にあったようですから」
出口の扉へ手をかけましたが、防火のため、薄い鉄板を張った頑丈な扉が、いつの間にやら、内側から鍵を掛けられたものと見えて、ピクとも動きません。
「チョッ」
麗子に代って、暫く扉を動かしていた香椎六郎は、とうとうあきらめて手を放してしまいました。三人が屋上へ出たのを知って、紺野の一味が、日干しにする積りで鍵をおろしてしまったのでしょう。
「向日葵の眼と言うから、この彫刻の向日葵の蕊に当る穴へ凸レンズをはめ込めばいいだろう、麗子さんのお父様は理学の大家だったから、キットそんなことを考え出されたに違いない……何んかレンズに代るものは無いかなア──」
香椎六郎が四辺をキョロキョロ見廻すと、
「十銭の穴明き白銅なら持って居てよ」
加奈子はそんな事を言います。
「そんな小さいものじゃ指環の文字は読めるだろうが、此向日葵の眼にはならないよ、しっかりおし、女探偵さん」
昨日上野の森の苦心談を聞かされて居るので、六郎はこんな事を言って加奈子をからかいます。
「あら、叔父さんヒドいワ、──では此時計の硝子なら何う──」
加奈子に指されて見ると、卓上の置時計──とうの昔から止って居る大理石の置時計──の硝子が、不思議なほど見事な曲線を描いて、コンモリ円くなっていることに気がつきました。
「これだこれだ、エライゾ加奈ちゃん」
六郎は飛付くように時計を取り上げて、その裏の螺旋を引抜き、わけもなく表の硝子を外してしまいました。手に取って見ると、硝子板に小さいお皿ほどの半円を描いて、丁度掌の中へポトリと入り込みます。
その硝子を床の向日葵の真ん中の穴へ仰向に置いて、
「水だ水だ」
騒ぐ迄もありません、実験室に付き物の水道は、すぐ鼻の先にあります。久しく使わないので、すっかり錆び付いてしまった蛇口を、大骨折でひねって、コップへ一杯の水を出すと、それを床の穴へ仰向けに置いた時計の硝子のお椀の中へ注ぎ込みます。
時計のガラスは、水を入れられると、立派な凸レンズになって、天井から落ちて来る、烈しい真昼の日光を受けて、向日葵の穴の中へ焦点を落します。
暫らく恐ろしい沈黙が続きました。五分、十分、二十分、三人の顔は不安と期待に緊張しますが、床の向日葵には何の変化も起りません。
「こんな筈は無いが──」
香椎六郎はこらえ兼ねて、急造レンズへ手をかけようとすると、不意に、レンズの下で、玩具の煙火を鳴らしたような、不思議な爆音が聞えます。
パン、バラ、バラ、バラバラバラバラ。
続いて豆を炒るような音がすると、驚き呆れている三人の眼の前へ、二尺四方もある向日葵の彫刻が、床から抜け出して二三寸セリ上ります。
「アッ、締めたッ」
香椎六郎は手をかけて引剥そうとしましたが、向日葵は床に固着してビクともしません。
「叔父さん螺旋じゃありませんか」
「成程」
花弁へ手をかけて右へ廻すと、思いの外滑らかに動いて、方二尺の向日葵は、そのままポカリと床から抜けます。──跡は真っ暗な穴、覗くと狭いながら下の方へ走る段々も見えます。
これは後で判ったことですが、向日葵の蕊の穴の中には、薄い真鍮板で包まれた、煙火仕掛の爆薬があって、レンズで集めた太陽の熱を長く当てると、中の爆薬が独りでに発火して、自然向日葵を押し上げる仕掛けになっていたのです。
真鍮板の中の極く小さい一点を、長く温めなければ、下の爆発は起らないのですから、これは成程、天気の好い日に、レンズで焼くより外に手段はなかったのです。わかってしまえば、他愛も無い仕掛けですが、「向日葵に眼を与えよ」という言葉を知らなければ、この秘密の戸はどうしたって開かれるわけはありません。
さて、思いもよらぬ場所に通路を見付けた三人は、恐ろしさも何も忘れて、その梯子を降りて行きました。香椎六郎が先頭、次は麗子、殿は加奈子、カビ臭い風が顔を撫でて、その気味の悪さというものはありませんが、今はもう三人とも緊張し切って、ろくに口をきく者もありません。
十段ばかり降ると、小さい小さい一つの部屋があります。天井から落ちて来る少しばかりの光線で見ると、コンクリートで塗りこめた、金庫室のような部屋で、その中には大きい戸棚が一つ、開けて見ると、中にはいろんな設計図やら、発明の途中にある品物やら、それから、夥しい証券やら、勘定も出来ないほどの現金やらが入って居ります。ああ、ここに、博士が苦心の設計図と財宝が隠されていたのです。
「これだこれだ」
紺野が探しているのは、言うまでもなくこの戸棚でしょう。
「叔父さん、これは何んでしょう」
加奈子の囁やく声に振り返って、瞳を凝らして見ると、降りて来た方とは反対の壁際に、もう一つ二尺ほどの鉄の扉がついて居ります。
引手を廻して引くと、わけもなく開いて、その先に、もう一つ小さい密室があります。
「シッ」
何やら物の気配、三人は思わず顔を見合せました。密室の闇の中には、動物とも人ともわからぬものが、僅かに蠢めいて居る様子です。
三人は壁際に身を寄せて、上から落ちて来る光線を入れると、中に居るのは、正しく人間、しかも中年過ぎの婦人の姿です。
「お母様ッ」
場所柄も何も忘れて、麗子はいきなり半死半生の母親に飛付き、薄暗い中に泣き崩れてしまいました。
加奈子や、香椎理学士の想像通り、紺野は果して悪漢でありました。博士の死後、今迄仮面を被っていた紺野は忽ち悪漢の本性を現わし、博士の残した多くの設計図や財産を奪い取ろうとしたのでした。そして、その所在を探すに邪魔になる麗子の母をこの密室に監禁したのです。
麗子の母親は、一週間も此密室に監禁されて人心地も無いほど弱って居りました。
悪辣な紺野は此密室のあることは知って居たのですが、其奥にもう一つの密室があって其処に、設計図と財産が隠してあることには気がつかなかったのです。尤も気がついたところで、其処へは天井の実験室から、しかもお天気の好い真昼でなければ、降りて行くことが出来ないような仕掛けになっていたのです。
母親と麗子と加奈子を、暫らく第一の密室に留めて置いて香椎六郎は独り実験室へ帰りました。そして屋上庭園から、建物の裏手の出張りや庇を伝わって、辛うじて下へ飛降り、一目散に最寄の警察署へ駆け込みました。
時を移さず一隊の警官は、「日廻り御殿」を取り囲みました。そして、此時までもまだ、何んにも知らずに、財産と設計図の発見に夢中になって、見当違いの方を、片っ端から打ち壊して居た紺野左一郎とその一味の者を、縛り上げてしまったのです。
密室から救い出されて、一週間目で天日を仰いだ麗子の母親は、間もなく人心付いて、娘と抱き合ったまま涙を流して喜びました。
加奈子は首尾よくお友達を救って、もう一つ手柄話が出来たわけですが、無邪気な加奈子は、そんな事を別に自慢にもして居ません。
密室から出たお金と債券は大変な額でしたが、それよりも松井博士の研究しかけていた発明の方が大事なものでした。麗子と母親の身の上が安定すると、改めて博士の弟子の香椎六郎が引継いで、お国のために研究を続けることになりました。
底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社
2007(平成19)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「少女倶楽部」
1929(昭和4)年11月
初出:「少女倶楽部」
1929(昭和4)年11月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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