天才兄妹
野村胡堂




「お嬢さん、あなたはヴァイオリンをひきますか」

 隣席の西洋人は、かなり上手な日本語で、う信子に話しかけました。

「ハ、イーエ、私のでは御座いません、これは兄ので──」

 信子は少しドギマギしながら、ヴァイオリンの革箱を椅子いすの上に置いて、心持顔をあからめました。

 身体からだも大きく、心持も大人おとなびて居りますが、信子はまだほんの十六になったばかり、可愛らしい円顔まるがおにお河童かっぱで、碧色あおいろの勝った、更紗さらさボイルの洋服も、又なくハイカラですが、まだ学校の英語の先生の外には、西洋人というものに話しかけられた事が無かったのです。

「お兄様というと?」

 中年輩の立派な西洋人は、その優しい青眼をまたたいて、腑に落ちないような顔をして居ります。

 軽井沢を宵に発った汽車が、丁度ちょうど高崎近くまで来た時のことです。二等車の中は存分に空いて居りましたが、ゆっくり寝そべるように、立花兄妹は別れ別れに席を取ったので、この若くて美しい信子に、連れがあろうとは誰も思わなかったのでしょう。

「僕です」

 幾久雄きくおは妹の迷惑そうな様子を見兼ねて、向う側から声をかけました。青白い高貴な顔をした青年で、真ん中で分けた少し長い毛と、黒のボヘミアンネクタイに、何んとなく芸術家らしい趣があります。

「失礼しました。楽器を持っていらっしゃる方を見ると、ツイ懐しくなります──わたし故郷くには中央欧羅巴ヨーロッパの小さい小さい国ですが、世界でも有名な音楽の盛んなところで、上手なヴァイオリンひきを、非常に沢山たくさん出して居ります。私も、どうせ上手ではありませんが、ほんの少しはやります、この通り──」

 見ると成程なるほど、信子の持って居る革箱と瓜二つの、よく似たヴァイオリンの箱を、これも網棚にも載せず、如何いかにも大事そうに椅子の後に立てかけて、それにもたれるように守護して居るのでした。

「ですから──」

 西洋人は続けて申します。

 夜汽車のつれづれもあったでしょうが、この西洋人の眼には、それ以上に、何んとも言えぬ人なつかしさが動いて居るのでした。

「ヴァイオリンをひく方を見ると、他人のようには思いません。御免下さい──突然知らない方に話しかけるのは、お国ばかりでなく、何処どこの国でも失礼にきまって居ります──」

「よくわかりました、お察しいたします、私もついこの春までドイツへ行って居て、貴方あなたと同じような心持になった事が幾度あったかわかりません。一人も知己の無い異国では、私と同じ好みを持った方だけが、お友達とも同胞とも思ったものです。言葉は通じなくとも、音楽の解る人であったら、私はきっとその人とお友達になれるような気がしたのです」

 芸術家らしい感激が、こう語るうちに、幾久雄の立派な顔を輝やかしく染めます。

「有難う、そう言って頂くと本当に嬉しい、こんな場所で、重ね重ね失礼ですが、貴方あなたのお名前を伺うことは出来ませんでしょうか──私の忙しい旅の思い出にいたし度いと思います。──私はポーランドの近くの小さい小さい国に生れた、フランツ・ベーカーと申す者で、祖国を離れて、こう旅から旅へ、世界中を飛歩るくのが私の仕事です」

 西洋人の顔にも、人懐かしさと、やるせなさが、ほのかに動きます。

「有難う、ミスター・ベーカー、私は立花幾久雄と申すヴァイオリンひき、これは信子と言って、私の本当の妹でもあり、私の大事な伴奏ひきでもあります」

「お、お、よく知って居ります。近頃天才兄妹として有名な、立花幾久雄さんと信子さんというのはあなたでしたか、それはいい方にお目にかかりました」

「そうおっしゃられると、極りが悪くなります」

何処どこか演奏旅行のお帰りででも? ……」

「いや、軽井沢に居る友人を訪ねて来ました、非常に悲しいような、その癖この上もなく嬉しいような事件で──」

「悲しいような嬉しい事──それは一体どういう意味ですか、差支さしつかえなかったらお話し下さい」

「エ、喜んでお話しましょう──」

 汽車は高崎へ着くと、その二等車からも二三人降りて、ベーカーの側にも一つの席が空きました。幾久雄は大急ぎでその席に移って、妹と二人でベーカーを挟んで坐ると、幾久雄の今まで居た向う側の席へは、同じ箱の中に居たらしい、二人の西洋人がやって来て、いそいそと腰を下しました。一人は眼の鋭い毛の赤い、ひぐまのような感じのする若い男、一人は東洋人との混血児あいのこらしい、栗色の髪で額を隠し、宝石をうんとちりばめたギラギラする洋服を着た、妖婦型の若い婦人です。



「私の友人というのは、金持で病身で、そして私と同じように音楽を愛する男です」

 幾久雄はこう話し始めました。

一昨年おととしの夏、私と一緒にフランスからドイツへ音楽研究の旅を続けて居る時、ミュンヘンのさる旧家の売り立てで、思いもよらぬヴァイオリンの名器を手に入れました。そのヴァイオリンというのは、銘のあるストラドヴァリウスで世にもまれなる名器ですが、何んという幸運でしょう、友人はそれをたった三万円で手に入れたのです」

「お、お、ストラドヴァリウス、それは珍らしい事です」

 ベーカーもあおい眼を見開いて、酔い心地に聞いて居ります、武士の名刀、騎士の良馬と同じことで、ヴァイオリンを弾く者に、良いヴァイオリンほど尊いものはありません。

 読者の中には、知って居られる方も沢山あるでしょうが、ストラドヴァリウスというのは、今から二百六七十年前のイタリーに住んで居た人で、ヴァイオリン作りとしては、古今独歩の名人と言われた人です。

 この人の作ったヴァイオリンで、今の世に残って居るのは登録されたように、数や持主までも判って居る位ですから、一つ売物が出たと言っても、音楽家の騒は大変なものです。

 余談はさておき──

「私の友人はその名器を三万円で手に入れ、命よりも大事に日本へ持って帰りましたが、何んとした不幸でしょう。永い間の旅行で身体からだを痛めた為に、日本へ着くと直ぐ、重い病のとこに就いて、枕も上らない有様。折角せっかく買った名器ストラドヴァリウスも、とうとう弾いて見る折もなく、枕辺に飾って、それを眺めて居るだけでした」

「お気の毒なことです、名器の尊いことを知るのは、本当の芸術家だけですが、私も何んかしら、お友達の悲しい心持がお察し出来るような気がします」

「有難う、ミスター・ベーカー、友人の心持が解って、同情して下さる方が一人でもあったら、友人もどんなにか心安く死んで行けるでしょう」

「死ぬ? その友人が亡くなられたのですか」

「そうです。可哀相に──そのヴァイオリンを痩せ衰えた手で撫でながら、三日前にとうとう死んでしまいました」

「それは、お気の毒な」

「死ぬ前に私を病床へ呼んで、

(このヴァイオリンを、私が死んだら君へ形見にやりいが、受取ってくれるだろうね──ミュンヘンの競売で、是を買った時、丁度君も一緒に居たっけ、なア──あの時分は楽しかった。立花君、僕は不幸にも日本へ帰ってから、このヴァイオリンを一度もひく事が出来なかった、そのくせ、今までは惜しんで、人にひかせもしなかったが、今死ぬという時、つくづくこのヴァイオリンの音が聴き度くなった、すまないが君、そこで静かな曲を二つ三つひいてくれないか、私はそれを聴きながら、安らかに死んで行き度い──)

 こう私の友人は言うのです。私はそんな心持にはなれませんでしたが、友人の最後の望みにそむくわけには行きません。友人の手からストラドヴァリウスを受取って、私がそらんじて居る限りの、静かな淋しい曲をひいてやりました。秋の軽井沢は、昼でも淋しいのに、その晩は又美しく晴れて、競い鳴く虫の音が、私のヴァイオリンへ伴奏の様に入り硝子ガラス窓を通して落ちた月の光りが、末期まつごの人の安らかな微笑ほほえみを青白く照して居りました」

 幾久雄の瞼には、真珠のような涙が溢れました。信子はもうハンケチに顔を埋めて、ようやく声を呑んで居ります。

「お気の毒な事です、貴方あなたもよくしておやりになりました。美しい友情です」

 ベーカーも眼をしばたたいて、この純情に燃える兄妹を、愛撫するような眼ざしで見廻しました。

「友人を葬ったのは今日、私共は、形見のストラドヴァリウスを持って、大急ぎでこの夜汽車に乗らなければなりませんでした。明日の午後、私は帝劇でヴァイオリン独奏会を開くことになって居るのです。この日取はもう三ヶ月も前から決って居て、今更変えるわけには行きません、友人を葬ってすぐ軽井沢を発ったのはその為です。その代り私は、亡くなった友人の好意で、日本での私の最初の独奏会に、日本にたった一つしかない、このストラドヴァリウスの名器で演奏することが出来るのです、悲しみの中の喜びと申したのは、斯ういうわけです」

 青年の顔には、悲しみのうちにも、包み切れない歓喜よろこびが、潮のようにさして来るのでした。ストラドヴァリウスを晴れの独奏会でひくことは、名ある武士が正宗の名刀をひっさげて、戦陣に赴くようなものです。この若い音楽家が、誇らしさと歓ばしさに、身内をふるわせるのも無理はありません。

 ベーカーと幾久雄兄妹は、何彼なにかの話に時の経つのも忘れましたが、熊谷へ来てから、信子がしきりに渇きを訴えるので、兄妹は食堂に入って、しばらくソーダ水などに喉を潤おしました。

 大宮を過ぎてから、車室に帰って来ると、先刻向う側に陣取った赤毛の西洋人と、混血美人とが、幾久雄と信子の席を奪って、ベーカーを挟んで両方に坐り込み、幾久雄兄妹が入って来ても、素知らぬ顔をして動こうともしません。それを見ると、

「アッ」

 信子は思わず驚きの声をあげました。

 赤毛の西洋人の膝の上に持ったハンケチの下には、紛れも無い短銃ピストル──黒磨きの物凄い自働ピストル──がちらりと電灯の光を受けて見えたのです。

 幾久雄兄妹は、黙って向う側の空席に着き、網棚から自分達の荷物などを移しました。ベーカーは、短銃ピストルを突き付けられて居る人にも似ず、自若じじゃくとして取乱した風も、物に驚いた風もありませんでしたが、さすがにもう先刻のように、兄妹を相手に気軽に話をするような事はありませんでした。

 汽車が上野へ着いたのは、もう夜半近い頃でした。兄妹はベーカーに目礼して別れを告げ、ベーカーもまた物言い度気たげな眼をしばたたきましたが、何をはばかるのか、そのままスタスタと改札口の人ごみの中に姿を隠してしまいました。



「お兄様、今日はまあうなすったの?」

 信子は片手に楽譜を持ったまま、追いすがるように斯う申しました。

 あくる日の午後二時、立花幾久雄、信子兄妹の演奏会が、漸くその第一部をおわって、客席は潮の寄せるようにざわめきますが、舞台裏は薄気味悪く静まり返って、ステージを退く兄妹の足音だけが、洞穴の中を行くように、空ろな反響を伝えました。

「解らん、俺には何も彼も解らん」

 狭い演奏者休憩室の椅子に、ほうり出されたように腰を下した幾久雄の唇は、雁皮紙がんぴがみのように慄えて、その眼は無念の涙さえ含んで居りました。

「お兄様、うしたのでしょう、どんな悪いヴァイオリンだって、あんな音は出ない事よ、あんなストラドヴァリウスってあるものでしょうか」

「解らん、薩張さっぱり見当も付かない、──俺は上った覚えもないし、たったと晩で、こんなに下手になる筈もない」

 新帰朝の天才提琴家という振れこみで、帝劇一杯に客を呼んで、この日の演奏会は、まるで予想もしなかった不出来で、三階の奥の方には、口笛を吹く客さえある始末でした。

 それに、何処どこから伝ったか、今日の演奏会に、立花幾久雄はストラドヴァリウスをひくということが知れわたって居たので、その失望も亦大変なものでした。

「何んという下手だろう」

「セザール・フランクのソナタを虐殺するようなものですね」

「まるで滅茶滅茶だ」

「ヴォイングが非常に悪い」

「あれ位は縁日の書生節でもひきますよ」

 知るも知らぬも、素人しろうと玄人くろうとも、廊下や運動場は悪評の渦を巻くような有様です。

 幾久雄は元よりそれを覚らないわけはありません。

「信ちゃん、僕はもう出ない、このまま帰ってしまうから、後を支配人マネージャーと相談して、いいようにしてくれ」

 立ち上ろうとするのを、

「あれ、お兄様、そんな事をおっしゃっちゃいけません。こんな筈は無いんですから、よく心持を落付けて、どうしてあんなに出来が悪かったか、静かに考えて下さい」

 たった十六になる信子は、思慮深くこう兄をなだめて居ります。

 今日はお納戸色地なんどいろじに、秋の草花の総模様の紋付、紅葉もみじを縫い出した糸錦の帯を蝶結びにした初々ういういしい姿は、この優れた伴奏者を、世にも美しく見せて居ります。

「悪いと言えば、このヴァイオリンだよ、軽井沢でひいた時はこんなでなかったが、今朝いとをかけ直して調子を合せて見ると、すっかり音色が変って居る、こんな馬鹿なストラドヴァリウスはあるものじゃない」

 パッと振り上げたヴァイオリン、三万円の名器を柱に叩き付けようとする手に、信子は必死ひっしと縋り付いて、

「あれ、お兄様、そんな事をなすってはいけません。大急ぎで家から平常ふだん使い慣れたヴァイオリンを取り寄せて、今日はかくプログラムだけはなさらなければ──」

 晴衣の紋付の袖も厭わず、涙は潜々さんさんとして溢れ落ちます。

「エッ、どうともなれ、俺の名も、芸術も、何も彼もおしまいだ、この演奏会がすんだら、すぐ又ドイツへでも飛んで行こう──もう日本へ帰らない積りで──」

 幾久雄は椅子の中へ埋まって、しばらくは涙も出ないような恐ろしい絶望のドン底に沈んでしまいました。

「どうした、どうした」

 いきなり入って来たのは、逞ましい様子をした、幾久雄と同年輩の青年。

「何んという事だい、君があんなに下手だとはどうしても信じられない、一体どうしたのだ」

 椅子の側に寄って幾久雄の肩に手をかけます。

香椎かしいさん、兄さんはもう演奏をして帰るって言うんです、うしましょう」

「何? 演奏を止す、そんな馬鹿な事が出来るものじゃない、プログラムだけはやらなければ、君は嘘をいた事になる──君はストラドヴァリウスを手に入れて、今日はそれをひいて居るという噂だ、本当かいそれは」

「エ、これがそうなんです、兄さんは怒ってそれを柱へ叩き付けようとなさるんです」

「そんな無茶をしちゃいけない、三万円もするヴァイオリンだと言うじゃないか、どれどれ僕に見せな」

 香椎六郎は幾久雄と幼な友達でしたが、幾久雄がヴァイオリンに夢中になる頃から、物理学に熱中して、幾久雄が音楽学校へ入った頃は高等学校へ、幾久雄が洋行から帰った頃は、新しい理学士になって、大学の助手を勤めて居りました。

 生れつき研究心が強い上に、妙に探偵的な事が好きで、今までもいろいろ友人や知辺しるべの間に起った不思議な事件を解決して、頭の良さを評判にされて居る変った男です。

 幾久雄が持って居るストラドヴァリウスに、まさか何事もあろうとは思いませんが、念の為に、フト取上げて見ようという気になったのも、日頃の探偵癖が顔を出した為でしょう。

 暫らくヴァイオリンをいじくり廻して居た香椎六郎、

「これは君、真赤な偽物だよ」

 勝誇ったような声を出します。

「何?」

 椅子から立ち上る幾久雄の鼻先へ、ヴァイオリンのf字穴を覗かせて、

「見たまえ、そら胴の中へストラドヴァリウスと名を書いてはあるが、これは君二百六七十年前に書いたものではない。少くとも二十世紀のアメリカあたりで造る青黒色ブリューブラックのインキではないか」

「何、何? そんな事があるもんか」

 ヴァイオリンの胴の中を覗くと、成程なるほど香椎六郎の言う通り、名前を書いたインキには、ヴァイオリンの古びとは似もつかぬ新しさがあります。

「このヴァイオリンには、未だ外におかしな点がある。偽物とわかったらち壊してもいいだろうな」

 ち壊すと言われて、さすがに幾久雄はためらいましたが、思い定めて、

よろしい、どうせ偽物とわかれば、惜しがるだけが馬鹿で、ち壊しても、焚き付けにしても構わない」

「アレお兄様」

「信ちゃんは黙ってるがいい、そして、代りのヴァイオリンを大急ぎで取り寄せてくれ」

 客席の方からは、あられがたばしるように、開演を促がす拍手の音、十五分休憩の筈のが、もう二十分位になりますが、幕はなかなか上る様子もありません。



「それ見ろ」

 ヴァイオリンの胴をはがして、中を見ると、なめし革とにかわで、胴裏に貼り付けたのは、おびただしい宝石です。

 一々胴裏から剥して、なめし革から出すと、五十カラット近い白色のダイヤが一つ、三十カラット程の、やや青色を帯びたのと、淡黄色を帯びたダイヤが一つずつ、五六カラットから、十カラット前後のが七つ、全部で十箇の見事なダイヤが、このヴァイオリンの胴の中に隠されてあるのでした。

「オウ、これはうだ、これだけ入って居れば、ヴァイオリンの音も悪くなるわけだ」

「ウーム」

「大変な事になったネ、このダイヤは何百万円の値打があるか知らないが、兎に角、我々では、見当もつかない大身代だぜ、これだけあれば、ストラドヴァリウスは百も買えるだろう、君はたった一と晩で夢のような大富豪になったんだ。お目出度う──」

 香椎六郎はこう言って剽軽ひょうきんなお辞儀をしました。

「だけれど、ストラドヴァリウスはどうしたんだ、昨日まで確かに真物ほんものだったんだが──」

 幾久雄はまだあきらめ切れません。

「馬鹿だなア、そんなものは諦めてしまいたまえ、ストラドヴァリウスなんか、百も買えると言ったじゃないか」

「だが、あれはうするんだ今日の演奏は、あれ、あの通り」

 客席からは、開幕を促す拍手が、一分ごとに激しくなるばかり、

「仕様が無いなア、入場料を払い戻して、帰って貰えばいいじゃないか」

「そんな事は出来ない、そんな事は──」

 幾久雄の心は、永久に失われた名器ストラドヴァリウスを追って、この何百万円にも積られる、見事な十箇の宝石も眼には入りませんでした。

「お兄様、お兄様」

 信子だけが、この兄の心持を知って居るのでしょう。宝石よりも貴い涙が、おもその頬を、際限もなく濡らして居ります。



 この時──

「立花さん、すみませんでした──」

 あわただしく楽屋へ飛込んで来たのは、昨夜汽車の中で一緒になった外人、フランツ・ベーカーです。

「勘弁して下さい、私は、国の為に、あなたに飛んだ御迷惑をかけました」

「…………」

 誰も返事をする人はありませんが、ベーカーは、早くも香椎六郎の前に、むき出しに並べた十顆じっかのダイヤ、燦として星の如く輝くのを見て、

「おお、気が付きましたか、ヴァイオリンの中から出したのですね」

 万事呑込んだ様子で、かき集めもし兼ねない風です、香椎六郎は驚いてそれを止め乍ら

「お待ち下さい、それは一体どうした事なのです、このダイヤは貴方あなたのものだとでもおっしゃるのですか」

「え、私の、それに相違ありません。私のダイヤと言うよりは、私の国のダイヤと言った方がいいかもわかりません。御不審もあるようですから、詳しくお話しましょう──」

 ベーカーの話というのは、大変入り組んで居りましたが、簡単に書くと、斯うなります。

 ベーカーの故郷というのは、中央欧羅巴ヨーロッパの小さい小さい国ですが、さる強国の保護国になって居るので、今度完全に独立をさして貰うように、その事を国際連盟という、世界の平和の為に出来て居る会議へ持ち出すことになったのです。それについては、日本や、イギリスやフランスに承知してもらわなければならず、特に米国は、この国際連盟会議へ入って居ないので、特別に手を延して米国の輿論よろん──政治家や新聞やの意見──を動かすように運動をしなければならなかったのです。

 ところで、このフランツ・ベーカーというのは、その国でも非常に有力な愛国者で、自分の母国を独立させるについては、大変な大きい費用をかけて、世界の強国を説いて歩いて居たのです。ことに米国の輿論を動かすには、どれだけお金がかかるかわかりません。

 それかと言って、保護して居る強国に睨まれて居りますから、そんな大金を本国から持ち出すわけにも行かず、為替かわせにして送ることは勿論出来ない相談ですから、国の大臣やお金持と相談して、運動費をこの大変な金高になる宝石にかえ、ストラドヴァリウスの偽物のヴァイオリンを造らせて、その中に入れて持って来たのです。

「それを嗅ぎ付けたのは、世界をまたにかけて悪事を働く、恐ろしい国際強盗団の一味です、シベリア鉄道から私の後をつけて、とうとう日本まで押し渡り、私の身体からだにつけて居る、宝石を、どんな事をしても巻き上げようとして居るのです」

 ベーカーはこう申します。

「あいつ等は、私の身につけて居るものは、何も彼もしらべました。帽子から靴から、弗入どるいれから、あらゆるかくし、トランクの中まで、私の留守をねらってそっと探したり、私をおどかして大ぴらにあらためたり、あらゆる方法を尽して調べましたが、宝石はどうしても見付かりません。あいつ等の目を通さないものは、私の大事に持って居るヴァイオリンだけになりました。現に、昨夜汽車の中で、立花さん兄妹が食堂へ入って居る間に、私へピストルを突き付けて、ヴァイオリンの箱を開けさせようとした二人の男女は、その強盗団の一味のもので、私も一時は危うくなりましたが、その内にお二人が帰って来たので、あの場は無事にすみました。が、あのままホテルへ帰ると、私の後をつけて来て脅迫するのは判り切って居ります。立花さんには、本当にお気の毒でしたが、私の国の運命にはかえられません。よく似て居たのを幸いに、食堂にいらっしゃる内にヴァイオリンの箱をすり換え、私は立花さんのストラドヴァリウスを持って、立花さんには宝石の入ったヴァイオリンをお預けしたのです。提琴家ほどヴァイオリンを大事にするものはありません──立花さんの手にあれば大丈夫と、私は安心して取換えたわけです。国際強盗団の一味は、昨夜私の帰りを待ち受けて、四五人で脅迫して、ヴァイオリンの箱を開けさせましたが、私の持って居るのは正真正銘のストラドヴァリウスですからいくら探しても宝石があるわけはありません。とうとう、宝石はもうとうに米国へ送ったと言ったのを信じて、漸く私を許してくれたようなわけです。立花さん、有難う御座いました。さぞ御迷惑をなすったでしょうが、国の為、同胞の為に、こんな危いところをこぎ抜けた私の真心に免じて、どうぞ許して下さい」

 ベーカーの顔には、よしや相手が、冷たい石っころでも感動せずには居られないような、火のような真情が燃えて居ります。

「わかりました。ベーカーさん、貴方あなたの国を救う真心を思うと私の演奏会などは、どうなったところで物の数でもありません」

「有難う立花さん」

 二人は固く固く手を握り合って、その上に、熱い涙をさえふりそそぎました。

「本当のストラドヴァリウスはにあります、御安心下さい。国際強盗団の連中に、宝石の事はわかるでしょうが、ヴァイオリンの事はわかりませんから、これは持って行こうともしなかったのです」

「そのダイヤ百顆ひゃっかよりも、私はこの一挺のヴァイオリンが欲しかったのです、ベーカーさん有難う、ダイヤはどうぞお持ち下さい」

貴方あなたは本当の芸術家だ──イエイエ私の偽物のストラドヴァリウスは、ち壊しても惜しくはありません。私はもう強盗団の眼をのがれて、明日は米国行の船に乗ります。これがお別れになるでしょう──お嬢さん、失礼ですが、せめてこれだけ記念に受取って下さい。貴方のお嫁入の仕度の一部に──いやいやピアノの研究に洋行なさる費用の一部に……」

 テーブルの上からかき集めた十箇のダイヤの内一番小さい、けれども一番美しいダイヤを一粒、信子の手に転がし落して、辞退をする暇もなく、

「左様なら皆さん」

 ベーカーの姿は昼も薄暗い道具裏へ消えてしまいました。

「あの西洋人もエライが、君もエライ、今日という今日、俺は本当の愛国者と、それから本当の芸術家と、それから本当に兄を思う美しい妹を見たよ」

 香椎六郎も、感歎の声をあげて、友人の高貴な顔を仰ぎました。そして信子の可憐な清純な姿にその濡れた眼を移しました。


 十五分の休憩が一時間近くなって、聴衆は割れ返るような騒ぎでしたが、

 その日の第二部「メンデルソンのホ短調の司伴楽」の美しさに、帝劇一杯の客は、涙ぐましいまでの感激に打たれました。

 第三部の小曲の美しさも、言うまでもありません。第一部があんなに悪かったのは、多分、日本に於ける初ステージで、立花君も少しあがった為だろうと、新聞の音楽批評は書きました。

 信子嬢の伴奏が、兄幾久雄のヴァイオリンにもして、その日の聴衆を酔わせたことは申すまでもありません。

底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社

   2007(平成19)年415日第1刷発行

底本の親本:「少女倶楽部」

   1928(昭和3)年11

初出:「少女倶楽部」

   1928(昭和3)年11

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※表題は底本では、「天才兄弟」となっています。が、底本で「天才兄弟」となっている箇所は、すべて「天才兄妹」の誤植です。

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2015年1117日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。