葬送行進曲
野村胡堂
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「どうなさいました、貴方」
若い美しい夫人の貴美子は、夫棚橋讃之助の後を追って帝劇の廊下に出ました。フランスから来た某という名洋琴家の演奏が、今始まったばかりと云う時です。
「とても我慢が出来ない、あの曲は俺に取ってはヒドク不吉なんだ」
「マア──」
ショパンの「葬送行進曲ソナタ」を第一楽章だけ聴いて飛出すのは、随分乱暴な態度だとは思いましたが、美しい夫人は別に逆らおうともせず、玄関前の大きい丸椅子の上へ夫と並んで深々と身体を埋めました。
「あの曲を聴くと碌な事は無いんだ、一応プログラムを見て来るとこんな馬鹿な目に逢う筈は無いが、まさか初日のプログラムに、あんな曲目を出す筈が無いと思ったのが仰々の間違さ」
棚橋讃之助は葉巻へライターを鳴らして、享楽的に紫の煙を吐き乍ら、夫人を相手に、それでも心持声を潜めます。
三十七八の、実業家らしく脂の乗って来た風采ですが、年にも風采にも紛らせない、坊ちゃんらしいところのあるのは、苦労知らずに先代の仕事を承け継いで、伝統と暖簾と忠実な支配人のお蔭で、素晴らしい儲けを黙って受取って居られる身分のせいもあったでしょう。
充分に若くてハイカラで、妖艶な感じのする夫人は、良人の頑固な態度が心憎いと思う様子で、クッションの上を摺り寄って、男の丸々と肥った膝に、華奢な片手を掛けました。
「あらそんな、大きい声をなさると、中へ聞えますワ」
「併しそんな事を言うのも、決して根拠の無いことでは無いんだ、知っての通り、仏滅も鬼門も担がない俺だが、何うしたものかあの葬送行進曲だけは恐ろしいよ」
「どんな事がありましたの?」
気味も悪くもあるが、充分好奇心を動かされたらしく、良人の顔を仰いで、いつも物強請をする時のように、大きい眼を細めて少し受け口の唇を歪めます。
「笑っちゃいけないよ──」
讃之助は、もう葬送行進曲を了えて華やかな第四楽章のプレストに入ったらしい音を遠音に聞き乍ら、場所柄を超越した呑気さで話し出しました。
「俺の学生時代には、レコードに入って居るパッハマンの弾いたあの曲は不吉だと言われたものだ。俺の経験から言っても、あのレコードを買った翌る日の晩母に死なれたのを手始めに、あの曲のレコードを掛けて聴く毎に、何んかしら不吉な事が一つずつ起るんだ、全く不思議だったよ」
其処まで言って讃之助は、フッと言葉を切りました。
「まア」
「最後に──之は話して宜いか悪いか分らないが、隆の母──話に聞いたろうが之はピアノをよく弾いた──それが生きて居る時好んで弾いたのはあの曲だったよ、それからまだある──」
話は思いの外真剣になったので、貴美子夫人も美しい眉をひそめて、寒々と良人の側に寄りました。二十四五とも見えますが、何んとなく華奢な体質で、地味ではあるが贅沢な総模様を縫った羽織が、ソロリと肩を滑り落ちそう、何んか紙人形のような感じのする弱々しさです。
「もう沢山──怖いワ」
「あと、たった一つだ──五六年前、家へ大勢の客をした時、その客の中に交って居たピアニストの石井と言うのが、一曲所望されて弾いたのがあの曲だった。その時は何んとも思わなかったが、翌る日父が心臓麻痺を起して死んだ」
「厭ですわねえ」
「だから俺はあの曲が恐ろしいと言うんだよ。あんな美しい曲は無いが、何うも凝っとして聞いては居られない」
そんな話をして居るところへ、第一部が済んだらしく、猛烈な拍手に追い出されるように、八方の入口から聴衆の大量が廊下へ流れ出して来ました。
「何うしたんだ。途中から抜け出したりなんかして」
遠くの方から二人を見付けて、揉み合う盛装の男女の間を摺り抜けるように近づいたのは、讃之助と同年配の美しい髭のある男、貴美子夫人の兄で、酒巻四郎というドクトルです。
「あの曲は不吉で嫌いなんですって──」
先走る貴美子夫人の口を押えるように、
「そんな人聞きの悪い事を言っちゃいけない──昨夜遅くまで麻雀を付き合って、寝が不足のせいだろう、頭痛がして敵わないんだ」
「それは惜かったネ、素晴らしい葬送行進曲だったよ。山北さんなんか、ポロポロ泣いて居た──」
「あら先生、泣いたんでは御座いません。眼が痛かったんで御座いますよ」
家庭教師の山北道子は、十二三になる弱そうな少年──讃之助の先妻の子で、たった一粒種の隆──と一緒に其後から人混みを抜けて近づきました。
山北というのは、三十二三の未亡人らしい淋しい婦人で、悲しみの為か人造人間のような硬い表情をして居りますが、そのくせ、包んでも包んでも、包み切れないと言った、妙に魅惑的な、ぞんざいに扱った宝石のような感じのする女です。併し刻みの深い顔はお面のように冷たく、額が少し抜け上って、軽い跛を引く恰好などは、何う譲歩して考えても、決して美人ではありません。
「山北さんは眼なんか悪いんじゃない、矢張り泣いてたんだよ」
「まア、お坊ちゃま」
賢こそうな少年を抱え込んで、父親の側へ割り込ませ乍ら、家庭教師はさすがに顔を赤らめます。
「ピアノで泣くのは珍らしい──義太夫を聞くと、山北さんなんか眼をまわす方ですねハッハッハッ」
「まア」
良人の無遠慮な高笑いを取りなすように貴美子はやさしく家庭教師の方を振り向きました。黒装束の淋しい姿、少し肩の曲った醜い恰好などを見ると、顔に何んか魅惑らしいものが残って居るにしても、神経質な夫人に嫉妬らしいものを感じさせる点は微塵もありませんでした。
棚橋讃之助の予感は見事に当りました。
一粒種の隆は、翌る日の朝、自分の寝室のベッドの上に、冷たい死骸になって見出されたのです。
「旦那様、お坊ちゃまが、お坊ちゃまが──」
と寝室の扉を叩く音に驚いて、寝巻姿の讃之助が飛出すと、廊下の絨毯の上に崩折れた家庭教師の道子は、その不思議に刻みの深い顔を硬張らせて、涙も無く泣きじゃくって居りました。
「何うしたんです?」
「お坊ちゃまが、冷たくなって在っしゃいます」
「何?」
讃之助は素足で梯子段を飛下りて、隆の寝室へ飛込みました。寝室の上に安らかに瞑目して居た愛児の死骸は、父の手にも最早揺り起しようがありません。
「隆、隆ッ」
額へ、頬へ、肩へ触った手を、その恐ろしい冷たさにゾッとして引込めると、其儘寝室の側に寝巻の膝を突いて、讃之助は男泣きに泣き入りました。一人ッ子と言うばかりでなく、この十三になったばかりの繊弱い子の裡には、十年前に別れた先妻の忘れ難いおもかげが残って居たのです。
暫らくして顔を上げると、寝台の向う側にすがり付いた家庭教師の山北道子が、これも身も浮くばかり泣き入って居ります。雇入れてからたった一年にしかなりませんが、この女の教え子に対する愛情は不思議な位で、時々は、子煩悩な讃之助が嫉妬をさえ感ずる程でした。
そのうちにこれはさすがに寝巻だけは着換えた貴美子がアタフタ飛込んで来ました。
「隆さん、何うしたんでしょうね、可哀想に、隆さん」
寝台の前に廻った夫人は、その華奢な手を少年の蒼白い額に当てましたが、恐ろしい死の冷たさに脅えて、ゾッとした様子で引込めてしまいました。
電話で呼んだ酒巻ドクトルが、自動車で駆けつけてくれたのは、それから十分とも経っては居ませんでした。悲歎に暮るる人達を遠退けて、丁寧に診察しましたが、病気は心臓麻痺、死亡時間は夜半の二時頃、という以上には何んにも判りません。十三歳の少年が夜中に寝台の上で心臓麻痺を起すのは不思議と言えば不思議ですが、外に病名の付けようが無いとすれば、それを信じないわけに行きません。それに、日頃虚弱で、腺病質の見本見たいな子でしたから、夜中に急死したと言っても、誰も疑を挟むものはありません。
子供の事でもあり、翌る日は告別式を済ませ、その日の夕刻、直ぐ火葬場へ持って行くことになり、十三歳になった一つの生命の始末が、何んのこだわりもなく、トントン拍子に片付いてしまいそうに思われましたが、その日の夕刻、思いもよらぬ事件が起って、このプログラムがすっかりこわされることになってしまいました。
それは、所轄警察署から、一応死骸を検屍さして貰い度いと言って、司法主任と刑事二人、警察医を伴れてやって来たのです。
父親は名誉も地位もある実業家で、酒巻ドクトルの死亡診断書にも手落は無かった筈ですから、通例こんな事は無いのですが、何分所轄署へ重大な密告書が、速達郵便で舞い込んで来たので、其儘捨て置くわけには行かなかったのです。
密告書は通常の安用箋へ郵便局備付の墨汁で書いた物で「棚橋讃之助の一子隆の死亡は、他殺に相違ない。火葬にする前に一応検屍しなければ、重大な手落になるだろう」と言った文句が、少し乱暴な字ではあるがかなりの達筆で書いてあったのです。
併し警察医の丁寧な検屍も、結局は何んの得るところもありませんでした。死体には鵜の毛で突いた程の外傷もなく、鬱血も、斑紋も、苦悶の跡も無いばかりでなく、毒物で殺したという疑も絶対にありません。反対に酒井主治医の説明で、日頃肺門淋巴腺が腫脹して居たことや、胃腸の弱かったこと、ヒポコンデリーの症状のあったことなどが解って、警察医も心臓麻痺という以外には、判断の下しようが無くなってしまいました。
「此上は解剖して見るんですね、併し解剖しても恐らく無駄でしょう」
警察医が斯んな事を言うのですから、まるで問題になりません。
「密告書には何うかすると、筋の悪いのがあるからなア」
司法主任も甚だ気が乗りません。
念の為、家族全部を調べて見ましたが、疑われるような人は一人もありません。音楽会の帰り、此処まで一緒に来た酒巻ドクトルは、暫らく無駄話をして十一時に立ち去り、主人讃之助夫婦は、それと同時に寝室に引取りました。
家庭教師の山北道子と隆少年は、それと前後して自分の部屋に引取り、隆少年は直ぐ寝室に入ってしまいました。尤も疳が昂ぶって寝付けない事があるので、家庭教師と隆少年の寝室は別で、夜中でも用事があれば呼出せるように、少年の枕元には呼鈴が備え付けてあります。
讃之助は実によく眠って何んにも知らず、夫人の貴美子も一歩も寝室も出なかったと言って居ります、隆少年の隣室に寝て居た、山北道子も不思議によく眠ったそうで、これも何んにも知っては居ません。讃之助が隆少年を愛して居ることは眼に余るほどで、貴美子夫人も、自分に子が無い関係か、この継子を親身に可愛がって居ります。山北道子の可愛がりようは又法外で、母親より乳母の方が愛情が濃やかな事があるように、此家庭教師も、親身になって教え子を育てて居りました。あとは雇人ばかり、鍵は無かったにしても、主人の子供の寝室へ、夜中に入り込む者などがある筈もありません。
所轄署の方はそれで済みましたが、翌日は検事局と警視庁へ同じ密告書が配達されました。その文面は大同小異ですが、非常に厳重な口調で「主治医の出鱈目な診断書を信用して、解剖もしないというのは重大な手落ちだ。死因の判らないような巧妙な殺人は、決して少くない」と法医学上の有名な例まで挙げて、手厳しく捻じ込んであります。
斯うまで筋が立って来ると、一片の密告書も放っては置けません。即刻火葬を差し止めて、翌る日解剖に付しましたが、さてわかりません、
外傷が一つも無いことは前にも見た通り、外国の犯罪に、耳の穴へ拳銃を撃ち込んで、血を拭き取って居た為に、どうしても死因が判らなかったというのがありますが、全身解剖をしたのですから、そんな事が判らない筈もありません、毛際から小脳部へ針を刺したという例もありますが、もとよりそんな痕跡もありません。
注射──猛烈な毒物や、空気の静脈注射と言うことも考えられますが、全身の皮膚は剥いたゆで卵のように綺麗で、蚤に螽された痕も見付かりません。胃の内容も極めて念入に調べましたが、毒物の痕跡などは爪の垢ほどもなく、そうかと言って、病気で死んだと言うほどの証拠も掴まれなかったのです。なるほど、酒巻主治医の言うように、肺門淋巴腺は著しく腫脹し、胃腸も弱っては居りますが、浸出性体質の虚弱な少年であったというだけの事で、今が今死ぬというほどの病気は一つもありません。
「成程。心臓麻痺とでも言わなければ──」
執刀の博士もすっかり投げてしまいました。
「絶対に他殺と見ることは出来ないでしょうか」
助手の学士が怪訝そうな顔を挙げると、
「たった一つ疑えば疑える点がある──が、それは考えられない事だ」
そう言った切り、博士は口を緘んでしまいました。
併し事件はそれだけでは済みません。
家庭教師の山北道子の寝室にある水差し──あの騒以来、うっかり水を換えるのを忘れて居た水差し──の中には明瞭に識別される程度の、かなり濃厚な催眠薬が交って居ることが発見されました。山北道子に聞きましたが、そんな事は一向知らないと言いますし、毎晩鎮痛剤の持薬を呑んで寝る習慣であるのを知って、夜中家庭教師に目を覚まさせない為に、水差しの中へ催眠薬を投入した者のあることは疑いもありません。
と言ったところで、それだけの事です。解剖の結果隆少年の死が他殺で無いと決定すれば、それ以上調べたところで何になるものでしょう。
警視庁と検事局へ、それから幾通も幾通も密告状が舞い込み「──隆少年の死は他殺に相違ない。あれを放って置くのは怠慢だ」と言って来ましたが、死んだ人の近親者などには、悲歎のあまりよく単一狂になる事もあり、又誰かに怨のある者が、柄の無いところへ柄をすげて、何んにも知らぬ第三者を陥入れようとすることもある例ですから、警察も検事局も、まるで相手にしません。
父親、棚橋讃之助と家庭教師山北道子の悲歎は、見る眼も気の毒なほどでしたが、日が経つにつれてそれも次第に薄れて行きます。それに夫人の貴美子は悲しんで傷まずと言った態度で、よく夫を慰めたせいもあったでしょう。もう一つは健康で事業欲の旺んな讃之助は、忘れるともなく隆少年の事を忘れる時間の方が多くなって行きました。
教え子が死んで了えば、当然家庭教師の山北道子に用事が無くなって了います。そのまま傭い続けて、家政婦になって貰もうと言う話もありましたが、まだ老い朽ちたと言う年でもなく、妙に魅惑的な黒装束の年増振りが、貴美子夫人の神経の為にもよくなかったので、隆少年の四十九日が過ぎると、一応解雇することに決定してしまいました。
「あッ。誰だッあんな曲を弾くのは?」
外から帰って来た主人の讃之助は、自動車から飛降りると思わず玄関へ呶鳴り込みました。
隆少年が死んで五十日目、昨日中陰を済ませたばかりの家の中から、存分に叩くピアノの音が、玄関の外までも凜々と響いて居るのです。しかも曲は因縁付きのショパンの「葬送行進曲」讃之助が思わず自分の家へ呶鳴り込んだのも無理はありません。
「お帰り遊ばしませ」
出迎えた女中達は、主人の以ての外の機嫌に、少しおどおどして居る様子。
「奥さんは何うした」
「──あの歌舞伎へ入らっしゃいました。今日はお坊ちゃまの忌明けだから、久し振りで気保養に行って来る、旦那様は会社の方から直ぐ木挽町へお廻りになる筈だからと仰しゃいまして──」
主人の不意の帰宅に怪訝な顔をし乍らも、女中頭らしい年配の一人は、弁解らしく斯う言います。そう言われれば成程二三日前から、貴美子がそんな事を言って居たようでもありますが。それにしても腑に落ちない事があります。
「山北さんから会社へ電話が掛ったんだ。奥様と御一緒に申上げ度い事があるから直ぐお帰りになるようにって、可怪しいねえ──山北さんは何うしたんだ」
「お二階でピアノを弾いて在っしゃいます」
女中頭は、家庭教師の出過ぎた仕打ちに不平があるらしく、ひどく角目立った物の言いようをします。
「何? 山北さんが。あれが山北さんか?」
讃之助は全く驚いてしまいました。家庭教師の山北道子がピアノを弾くと言うことは、想像もしなかった事で、しかも此処から聴いた様子では、余程の玄人です。夫人の貴美子は勿論のこと、隆のピアノの先生だった人も、とてもあれだけには弾けません。
それにしても、此家に取っては何より不吉なショパンの「葬送行進曲」を弾くとは何んと言う心持でしょう。
「お前達は二階へ来るな」
讃之助は何んかしら重大な心持になって、外套と帽子をかなぐり捨てるように、深い絨毯を踏んで二階へ昇って行きました。
大広間の扉を細目に開けて、ソッと覗いて見ると、贅沢な調度を照して、中は一パイに流るる夕陽、その中にひたり切って、窓際のグランド・ピアノを叩いて居るのは、家庭教師の山北道子の後ろ姿です──が、何んと言う変りようでしょう。
この家を今日が名残りと思ったのか、日頃の黒い洋装を捨てて、十年位前に流行った裾模様に古代帛を散らした小浜の紋付に、黒地に山桜を織出した西陣の丸帯、襟足を見せて、少し古風な根の高い束髪に結った後ろ姿は、今までの山北道子とは、まるで違った心持があります。
棚橋讃之助は、何かなしギョッとして立ち止りました。この女には見覚えがある。山北道子としてではなく、もっともっと古くから知って居る女に相違ないということを、はっきり覚らされてしまったのです。
第一この古代帛を染出した古風な小浜縮緬の紋付にしても、黒地に山桜を織出した、変った好みの帯にしても、讃之助にしては決して昨今初めて見たものではなく、日頃あまり触れずに置いた、古い古い下積になった記憶──そのくせ一番生々しい深刻な記憶の中にある幻だったのです。
「葬送行進曲」は終りに近づこうとして居ります。その特異なアクセント、啜り泣くような実感的な哀愁、冥途の妖鬼の叫びを思わせる物凄い表情は、忘れようとして忘れることの出来ない、讃之助の古い記憶を揺り動かします。
そればかりではありません。夕陽を一パイに受けた女の美しい首筋の曲線から、左の耳朶の後へ辿って行くと、讃之助の眼は大変なものを見付けてしまいました。有るか無きかの小さい小さい赤い黒子。
「あッ」
それを見た時は、さすがに讃之助も、愕然として声を立ててしまいました。
紅玉石の如く赤く、焔の如く燃える黒子ですが、あまりそれは小さかったので、山北道子風に首筋で髪を束ねて居れば気が付くわけではなく、夕陽にでも照されなければ、根の高い束髪に結って居ても黒子は見えもしなかったでしょう。
女は、讃之助の声に驚いて振り返りました。珍らしく薄化粧をして居りますが、淋しく笑うと深々と笑靨の寄る頬を見た丈けで、讃之助の記憶も幻想も微塵に打ち砕かれてしまいます。この女は、どう考えても昔讃之助と交渉のあった女ではなく、たった一年前から、死んだ隆少年の家庭教師として迎えた山北道子その人でしかあり得ないのです。
「貴女でしたか、貴女でしたか──」
「何を驚いて在っしゃいます」
「イヤ、何んでも無い」
讃之助は付き纏う蜘蛛の巣でも払うように、額から頬のあたりを掻き撫で乍ら、安楽椅子の上へドッカと坐り込みました。
「大層お顔色がお悪いようですが」
差し寄る道子を、払い退けて、
「イヤ、もう何んとも無い──貴女の後ろ姿が、私の昔知って居る人に、あまりよく似て居たので、吃驚しただけなんだ」
「マア──後ろ姿だけで御座いますか、顔は少しも似ては居ませんかしら」
「少しも似て居ない」
讃之助の口辺には、何やら皮肉な微笑が漂います。
「その方は、私より美しかったので御座いましょう」
「いや──」
と言ったが、讃之助の顔は道子の言葉を無条件で肯定して居ります。
「今日はいよいよお暇申さなければなりません、あまりお名残が惜しいと存じまして、お留守中に一寸ピアノを弾かして頂きました」
道子はピアノの前から立ち上って、讃之助の側へ歩み寄ります。
「それは構わない──が、どうして今まであんなにうまいピアノを弾かなかったのです」
「いえ、決してうまくは御座いません、それに──弾くとツイあの曲になりますので、お気に障ってはと存じまして、差控えて居りました」
「と言うと」
「あの弾きようには、いろいろ思い出がおありの筈で御座いますが──」
「えッ、貴女は何を言うんです」
讃之助はもう一度愕然としました。安楽椅子の凭れに手を掛けて、中腰に差覗くと、女の顔は何んと言う冷たさでしょう。その黒耀石のような瞳を見ただけで、讃之助の全身は凍り付いてしまいそうです。
「それから私の耳の後ろの紅玉石のような黒子にも──」
「何?」
「この古代帛を染め出した小浜の紋付にも、黒地に山桜の帯にも、並々でない思い出がおありの筈で御座います」
「つまらぬ事を言って脅かしてはいけない、貴女は一体何だ。あの女の何に当るのだ」
讃之助は到頭立ち上ってしまいました。あやかしを払い退けるように、双腕を振って女を戸口の方へ追いやろうとします。
「脅かしはしません。よく御覧下さい」
「…………」
女は一歩前へ踏み出しました。物悲しくも華やかな春の夕陽の中に、その不思議に冷たい顔、あらゆる情熱を封じ込んで、その上を理性で塗り潰したような顔を曝して、
「よく私の顔を御覧下さい、鬢の抜け上ったのは、年齢のせいもありますが、一本の毛抜でいくらでも額は広げられますわねえ」
「…………」
「眉は植毛手術でどんな形にでも変えられることを御存じでしょう。私のこの太過ぎる眉を削って、少し三日月形にしたら、どんな恰好になるでしょう」
「…………」
「一重瞼を二重瞼にする手術は何でもありませんが、眼の色を変えるのは一番難かしいそうです。それでも虹彩へ色素を注入して、茶目が黒目にも、黒目が茶目にもなります。私のこの真っ黒な眼が、もう少し茶色だったらどんなでしょう」
「…………」
「鼻はパラフィンの注入や、象牙の嵌入でどんな形にでもなります。私の鼻がもう少し低くて、軟かいカーブを描いて居たとしたらどうでしょう。唇の恰好を変えるのも、歯並を見違えるようにするのも、ほん当に少しばかりの手数です、笑靨さえ電気針で自由に作られるのですもの──」
そう言って山北道子は、片頬に深々と笑靨を寄せて、淋しく微笑みました。
「そんな馬鹿な事が、そんな馬鹿な事が──」
道子の顔を魅入られたように見詰めて居た讃之助は、二足三足よろめくと、卓の角に片手を支えて、急に戦闘的な調子になりました。
「これほど申上げてもお解りにならなければ──貴方は卑怯です」
「卑怯では無いが、そんな事は断じて信じられない」
「信じられない筈はありません、貴方の前に立って居るのは、貴方の元の妻で、死んだ隆の母、十年前にお別れした勢子です」
「そんな事があるものか、顔が違う、顔がすっかり違う」
「私の顔は日本とアメリカの整形外科の名医が、手習草紙のようにして造り変えてしまったのです。昔の人の考えた、一時的の生優しい変装では承知が出来なかったのです」
「いや、嘘だ嘘だ、勢子は死んだ筈だ」
「そうです仰しゃる通り死んだ筈でした。併し誰も死体を見た人もなく、葬式をしてくれた人もありません」
「あ、あ、俺は気が違いそうだ」
讃之助は到頭打ちのめされたように、長椅子の上に半身を投げ掛けてしまいました。
「何も彼もお話し致しましょう」
暫らく讃之助の様子を見て居た勢子──山北道子と名乗った不思議な女──は、同じ長椅子の上へ並んで掛けて、打って変って静かな調子で斯う始めました。
「私は盗癖があったに相違御座いません。実業家棚橋讃之助の夫人が、デパートで、常習的に万引を働いたのが見付かったのですから、離縁になっても、お怨みするどころか、みんな自業自得とあきらめて、せめて手を廻して下すって、縄付になるのだけでも救って頂いた御恩を感謝して居りました」
勢子の述懐は、妙にハキハキした事務的な口調のうちにも、隠し切れない物悲しい調子がありました。讃之助の何んと返事をして宜いか、迷い抜いているような顔を、物悲しく顧みて、委細構わず続けて行きます。
「私は死んだと言う噂を撒き散らして、実はアメリカへ渡りました。それから八年間、あちらで何んなに骨を折って勉強もし、働きもし、それから顔や形や声までも変えることに骨を折ったことでしょう。この通り私の顔を変える為に、近代の整形外科の出来る限りの事をした上、薬品で声帯を腫らして、ソプラノの声をアルトに変え、身体の恰好を違った心持にする為に、右足の腱を切って、わざわざ跛にまでなりました」
何んと言う恐ろしい変装でしょう。此処まで行けば、変装と言うよりは破壊です、更生と言っても宜いでしょう、讃之助はこの変り果てた、昔の妻の姿を見て、声も無くただ舌を巻くばかりでした。
「私は隆の事が気になって、どうにも我慢が出来ませんでした。それに久し振りで貴方にも一度お逢いしたかったのです、──家庭教師を探して居るという話を人伝に聞いて、あらゆる運動をして、到頭此家に入り込んだのは其為で御座います」
子供に逢い度かったと強調しては居りますが、勢子の未練は昔の夫の讃之助の上にも充分に残って居たのでしょう。長椅子に押し並んで掛けた身体は、兎もすれば讃之助の方へ摺り寄って、盲目的に犇とすがり付きそうな衝動に悩まされて居る様子がマザマザと見えます。
「それからの事は申す迄もありません。昔私の占めて来た地位は、あの貴美子夫人が占めて、私などはもう寄付けそうもありません。せめて自分の腹を痛めた隆が、本当の母とも知らずに、盲目的な本能に引摺られて、私になついて来るのを慰めに、この一年間は無事に過ぎました。この儘隆が殺されさえしなければ──」
「オイオイ、待ってくれ。お前は隆が殺されたと思って居るのか」
驚いて起き直った讃之助の言葉は、何時の間にやら昔の夫のそれに返って居ります。
「え、え、誰が何んと言っても、隆は殺されたに相違ありません。母の私が、本能で嗅ぎ出したんですもの」
「そんな馬鹿な事はあるまい、警察も、酒巻君も──」
「そんなものは当になるものですか」
勢子の鋭い声音です。
「何うして隆が殺されたと言うんだ。俺も隆の親だ、もう少し詳しく話してくれ」
「警察にも検事局にも、幾度も幾度も注意して、あの通りですもの、此上は私が自分で隆の敵を討つより外はありません。私は五十日間、夜の目も寝ずに研究して、漸くこの秘密を突き留めたのです」
「え? それはどう言う意味だ、話してくれ」
「隆は矢張り殺されたんです。あの晩、私に催眠薬を飲ました犯人は、貴方にも催眠薬を飲まして、恁々と隆を殺して、何食わぬ顔をしてすまして居たのです」
「誰だ、それは?」
讃之助は、半信半疑乍ら少し気色ばみました。盗癖があって離別したにしても、この勢子と言う女の異常な精神力や、根強い研究心を知って居るだけに、斯う言われると真剣に訊いて見度くなります。
「それは後でお話しましょう──隆の死因が、毒物でなく、刃物でなく、注射で無いとすれば何んでしょう? あんな気の弱い子はひどく脅かした丈けでも死ぬことがあるそうですが、死んだ隆の表情は極く穏かで、脅かされて死んだものとはどうしても思えません」
「…………」
「私はいろいろ考えました。本も読み、人にも聴きました──最後に私の遠縁の甥の、若い医学士を訪ねて大変な事を教えられたのです」
「…………」
恐ろしい圧迫感に、讃之助はコックリと咽喉の奥を鳴らしました。
「──浸出性体質の人、つまり副交感神経の過敏になって居る人は、或方法で或部分を圧迫すると、迷走神経の作用で心臓の働きが止るんだそうです。詳しいことは危険だからと言って教えてくれませんが、この実験を発表したドイツ人のアッシュネルという人は、この方法で一人死んだ例が有ることを報告して居るそうですし、日本の実験例にも、医者が危うく患者を殺し損ねた事があるそうです」
勢子はそこで言葉を切りました。
「…………」
恐ろしい沈黙。
「隆は申すまでもなくあの通り浸出性体質の見本のような子で──その上変な事には、酒巻さん──貴美子夫人の実兄の酒巻ドクトル──が神経衰弱の診察をするんだとか言って、大分前から、隆に目隠しをさせたり、腕に引っ掻きをこさえたり、いろいろ変な事をやって居ました」
「そんな事は無い、嘘だ、酒巻君は紳士だ。──隆を殺すなんて」
「イエ、私は酒巻さんが殺したとは申しません」
「すると誰だ、誰が隆を殺したと言うのだ」
「酒巻さんは、心臓麻痺と言う診断書を書いただけの事なのです」
「誰だ、誰だ」
讃之助が物凄まじい亢奮に囚えられると、勢子は反対に益々冷静になって行きます。
「お目にかけましょう、その犯人を」
「サア見せてくれ」
「その前に」
「その前に何んだ、何が入用だ」
「私の手柄に酬いて下さるでしょうね」
「それは酬いる、何が望みだ」
「愛情、昔のような」
「馬鹿なッ」
払い退けようとする讃之助の首に、サッと飛付いた勢子は、双腕を巻いて──。
「エッ、何をする」
と言ったが及びません。
妖艶な年増の魅力は、この一瞬間に蘇返って、造り変えた人造人間のような不気味な顔にも、火のような情熱と、不思議な美しさが咲き乱れます。
「エッ離せッ」
「もう沢山、これ以上、どうもしようとは申しません。サア、入らっしゃい、隆の敵、──恐ろしい殺人鬼の姿を見せて上げましょう」
讃之助は不思議な興奮の中にも、恐ろしい期待に顫えて勢子に従いました。
一度廊下へ出て、真っ直ぐに三つ目、左の扉を開けると讃之助の書斎です。
「────」
勢子は黙って入って、向うを指して居ります。
見ると、室の隅に置いた安楽椅子に凭れて安らかに眠って居るのは、讃之助の愛を一身に集めて居る美しい貴美子夫人の盛装した姿です。
「何んだ貴美子ではないか、まさかお前は?」
「驚いたでしょう、あの女ですよ、あれが隆を殺した相手なのです」
「そんな馬鹿な事があるものか、これ貴美子」
奮然とした讃之助、近づいて貴美子の額に触ると、氷のよう。
「あ、死んで居るッ」
「ホ、ホ、ホホホホ」
物凄いロボットの笑いが、夕闇迫る書斎の空気に突っ走ります。
「お前だろう殺したのは」
カッとして飛び付こうとすると、早くも身をかわして、扉の外へ。
「お察しの通り──仕合せな事にその女も浸出性体質で、ほんの少しばかりの手数で死んでしまいましたよ」
「悪魔、悪魔、待て」
「死亡診断書はその女の兄の酒巻ドクトルが書いてくれますよ、──心臓麻痺と──」
「悪魔」
中では讃之助、扉に飛び付いて開けようとしましたが、外から鍵を廻したので、何うすることも出来ません。
「左様なら、私は貴方を愛し続けて死ぬでしょう。悪く思わないで下さい、本当の悪魔は、其処に死んで居る美しい若い女の方なんです、左様なら」
涙にかすれた声が、次第に階段の方へ消えて行きました。
底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社
2007(平成19)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「踊る美人像」愛翠書房
1949(昭和24)年2月
初出:「文芸倶楽部」
1931(昭和6)年4月増刊
※表題は底本では、「葬送行進曲」となっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年9月1日作成
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