古銭の謎
野村胡堂
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「別ぴんさん勘定だよ、……こんなに多勢居る娘さんが、一人も寄り付かないのは驚いたネ、せめて、勘定だけは取ってくれよ」
とてもいい心持そう。珍々亭のスタンド前、一番人目に付こうという場所を一人占めにして、一人の老紳士が太平楽を極めて居ります。
「ヘエ百八十五円頂戴いたします」
そういうのは、十七八の女給、
「百八十五円? それは安い、八百五十円の間違いじゃあるまいネ」
胡麻塩になった山羊髭を喰い反らした人の好さ相な顔を、女給の鼻の先へヌッと突出します。
「間違いなんかいたしません、百八十五円ン」
事面倒と見て、切口上にまくし立てる女給の前へ、かくしから掴み出した、金銀銅銭をザラリと撒いて、
「サア、この中から好きな丈け取ってくれ」
「アッ」
女給は驚いたわけ、その一と掴みの金銀銅銭というのは、悉く古銭ばかり、小判、二分金、一朱銀、天保銭から、文久銭、駒曳銭もあれば、永楽銭もあるという有様、選りわける迄もなく、今日通用する金は一枚も交っては居ません。
「アラ御冗談なすってはいけませんよ。みんな、昔のおあしばかりじゃありませんか」
相手が少々甘いと見たか、若い女給さんなかなか負けません。
「これじゃいけないかネ、困った事に今日は金が無いんだ、尤も金が無いと言ったって無銭飲食じゃないよ、この通り、巡礼お鶴じゃないが小判というものはたんと持って居る……」
「いけませんよ、冗談をなすっちゃ、そうでなくてさえ、時々西洋の銀貨や、支那の銀貨を掴まされて、お帳場から叱られるんです。小判なんかで頂いたら、どんな事になるか判ったものじゃありません」
「相すまん、誠に私が悪かった。が、聞いてくれ、斯ういうわけだ。私は古銭を集めるのが道楽でな、家を出る時は、充分金を持って出た筈なんだが、途中二三ヶ所で古銭に引っかかって、とうとうこの通り。私のガマ口には、明治以後のおあしは一銭も無くなってしまった、ハッハッハッ驚いたか」
卓の古銭の上へ、空っぽのガマ口を投り出してカラカラと笑い出しました。
午後一時頃、珍々亭は人の立てこむ時刻ですから、この小喜劇は、たちまち店中の見物になってしまいました。第一、喜劇の主人公なる、この古銭蒐集家の風采が変って居ります。頭こそ左まで禿げて居りませんが、五十五六年配で、山羊髭で、一番贅沢な布地を一番無恰好に裁ったといったような、ダブダブの背広に、風呂敷ほどある大きなネクタイ、マドロスパイプを脂下りにくわえて居ります。
この現代人離れのした風采で、小判と天保銭を卓の上へ投り出したのですから、店中の客は「ワッ」と声をあげて喜びました。いくら銀座でも、こんな奇抜な図は滅多に見られるものではありません。
「お立会の衆、笑ってはいけないよ、私は古銭研究会の幹事、南市太郎、雅号を愛銭堂老人という者じゃ、家へ帰ると金なんか馬に食わせるほどある、嘘だと思ったら、興信録を見なさい、こう見えたって百万長者だ、……百八十五円が何んだい……」
老人、何処まで発展するかわかりません。その時、
「御免下さい、甚だ失礼ですが……」
隣の卓で茶を飲んで居た中年配の立派な紳士、見るに見兼ねた様子で声をかけました。
「な、なんですかな」
老人はぬからぬ顔をそちらへ向けます。
「甚だ失礼ですが、そのお勘定を私に立てかえさして頂けませんでしょうか」
「そ、それはいかん、あなたは見ず知らずの方じゃ、南市太郎未だ人の恵みは受けん」
「決してそういうわけでは御座いません、何時でも、お序の節お返し下されば宜しいので」
「なるほど、あなたは、なかなか話がわかり相じゃ、宜しい、百八十五円、まさに拝借いたそう、抵当は天保銭が一枚、永楽銭が……」
「イヤ、それには及びません、古銭研究会の幹事をしていらっしゃるなら、丁度鑑定して頂き度いものも御座います、手前の宅まで御一緒を願えませんでしょうか」
これは、南老人とは反対に、巾地は粗末だが、仕立は無類という、身体にピタリと合ったモーニングを着て、赤革のカバンを持った中年の紳士、懐の金と、目尻の微笑は切らした事が無い、といった感じのする人物です。
電車に揺られ乍ら、中年配の紳士は南市太郎老人にこう話しました。
「……そういうわけで、主人が私に遺した、ほんの少しばかりの古銭があるのです。古銭の中には、一枚何千円何万円にも取引される品があるという事は聞き知って居りますが、私はその道にかけては全くの素人で、どれが値打があるのやら、全く見当が付きません。いきなり商売人の手にかけるより、あなたのような有名な専門家に鑑定して頂いて、値打があるものなら、適当な値段でお引受け下されば、私は申すまでもなく、そう申しては失礼ですが、あなたも御便宜ではないかと思いましたので……」
「なるほど、よく解りました、そんな口には、得て大掘出しがあるもので、私共蒐集家には願っても無い機会なんで……」
電車は二人を乗せて、古い郊外の町を駆けて居ります。
「ところで、あなたの御主人というのは、一体何んという方ですかい」
思い出したように南老人は尋ねます。
「春山昇、……と申しました」
「オオ、あの富豪の春山さん、あの方なら私もよく知って居る、古銭蒐集家としても、日本での第一人者じゃ、いや大した方を御主人に持たれて幸せだ、すると何んかな、あなたは、春山氏の何に当って居るわけかな」
「執事とも、秘書とも、一切の事務を私がいたして、居りました、あの通り細かい事には、関係なさらない方で」
「そうそう、春山氏はお大名のように鷹揚な人物であったな、……ところで、その春山氏は、何ヶ月も前から、行方不明になって居るというでは無いか」
「そうです、そのために、数ならぬ私共まで、心を痛めて居るような次第で……」
端厳な顔を伏せて、暗然と言葉を落します。雇人といっても千万長者の執事、人品骨柄さすがに立派なものです。
「ところで、春山氏の相続人はどうかな」
「それがむずかしいのです、春山氏は古銭を友に一生独身で暮し、夫人もお子様も御兄弟も何んにもありません。遠い御親類の方が二人、──一方は若い男の方で、母親と一緒に、一方は若いお娘さんで、父親と一緒に──主人の生前から同居して入らっしゃいますが、どちらも同じような関係の方で、法律上どちらを相続人と定めようも御座いません、尤も主人が行方不明になってからまだ八ヶ月たったばかりで、失踪の手続をして、相続人を極めるには、未だ少し間があります、その期間内に、主人の生死を確かめるか、それが出来なければ、せめて遺言状を発見し度いと、私一人で気をもんで居る次第で御座います」
「なるほど、それは御心配な事じゃ、警察の手も入った事だろうが、生きて居るとも死んだとも、その辺の事が解らないとは可怪しいな」
「御身分の方ですから、警察も全力を傾けて探しましたが、少しも手がかりはありません。その頃の新聞で御承知でしょうが、八ヶ月前のある晩十時頃、陽子さん──これはお邸に同居して入らっしゃる、御親類のお嬢さんですが──に送られて、本屋の寝室へ入った事はわかって居りますが、その翌る朝、浩一郎さん──これもお邸に同居して、陽子さんの父子と睨み合って居る形になって居る青年です──が、用事があって、主人の寝室を叩くと、半ば空っぽで、主人は影も形も無かったのです。それから大騒ぎになって、警察の力も借り、あらゆる名ある私立探偵にも来てもらって、草を分けて探しましたが、主人は寝巻のままで、スリッパを突っかけて出かけたらしいという事と玄関の戸が開いて居た、という以外は何んにもわかりません」
「フムフム、そんな事は、なんだか新聞で読んだような気がするよ、それから……」
「一時は、財産争いの関係から、陽子さん父娘と、浩一郎さん母子に疑がかかりましたが、相続権こそ争って居りますが、どちらも立派な方で、人などをあやめるような方では御座いません、間もなく疑が晴れて、唯今では、自然と解るのを待つより外に方法が無いという事になってしまいました」
「成程成程、それはお困りじゃな、ところで、あなたのお名前は何と言われるな」
「アッ、申し遅れました、私は春山家の執事で、左京路之助と申します」
この時電車は急にスピードを落して、停留所に入って行きました。二人は電車をおりると、郊外の横町を二つ三つ通り抜けてとある森の中の、素晴らしい大鉄門の中へ静かに入って行きました。
門を入ると左右の植こみ、その間を小半町ほど行くと西洋風の大玄関になります。
真っ直ぐに入って行くと、左右の植込から出て来た出会頭、不意を喰って、弾き飛ばされたように、玄関の両方へ立った者があります、右は美しい若い娘、左は運動家らしい恰幅のいい青年、若い二人の眼は、火の様に相撃ちます。
「あれが相続争いの当人達です。右は陽子さん、左は浩一郎さん……」
南老人の耳へ左京路之助はこうささやいてくれました。
「これ陽子、何をして居るそんな泥棒猫のような男を見るものでは無い」
植込からぬっと顔を出したのは、岩丈造りの半白の老人、浩一郎をねめ廻して、陽子の手を取らぬばかり植込の方へ引き戻そうとします。
「ナニ泥棒猫? それは一体誰の事だ」
青年は思わずカッとして、手に持った鞭を握りしめます。見ると長靴に乗馬服凜々しく少し汗ばんで、今遠乗りから帰って来たばかりという形をして居ります。
「浩一郎さん、まあ、まあ」
南老人の後から降り立った左京路之助、青年の腕を掴むようにして、
「いつもの事に、腹を立ててはいけません、相手は老人と若い婦人では、喧嘩にもなりますまい」
「それは解って居りますが、あんまりあの老人は失礼な事を言います」
「まあまあ、そんな事は内輪同志で解決の出来ることです。今日は不思議な客をおつれしました、紹介しましょう。これは浩一郎君、こちらは南老人」
「初めて」
「宜しく」
「兎に角中へ入って、お茶でも入れさせましょう」
三人は本屋の裏手にある左京路之助の執事部屋へ入って行きました。執事の部屋といっても、さすが聞えた大富豪の邸宅ですから、その豪勢振りは、並大抵の金持の主人では追っ付かない位です。
この建物は、凹字形になって、鉄筋コンクリートの城塞風の設計で、正面──即ち、凹字形の底部──は、本屋で、表側全部と裏の二階は、行方不明になった主人春山昇が使用し、凹字形の右翼は、陽子と父、左翼は浩一郎とその母が借り受け同じ棟続きながら、呉越というと古めかしく聞えますが、手っ取早く言えば敵同志のように暮して居たのでした。
「早速古銭をお目にかけましょうか」
椅子をすすめて、左京路之助がいうと、南老人は、
「エエどうぞ」
のどから手が出るといった形ちで乗り出して参ります。
「叔父は日本一、いや世界でも有名な古銭家でしたから、珍らしい高価な品を、非常に沢山持って居る筈でした、亡くなってから見ると、ろくなのは一枚も残って居ません、不思議なことがあるものです」
浩一郎青年は、南老人にこんな事を話して居る内に、左京は二三百枚の古銭をガラスの箱に並べたまま持って参りました。
「どうせ、大したものはあるまいと思いますが、一応御覧下さい」
「フム、成程、手頃のがあるようじゃ、お望なら、これを皆んな求めても宜しい、……千五百円位、どうじゃな、いけなければ、もう二三百円は出しても宜しい」
「エエッそんな高価なものですか、これが?」
重厚な左京路之助も、少し面食って度を外したようです。
「もう少し無いかな」
「無い事もありません」
「いずれ、ゆっくり拝見しよう、ところで、私は、古銭の蒐集も一つの道楽だが、もう一つ変った道楽がある」
「どんなお道楽ですか」
「早く言えば、この節流行る探偵趣味じゃ」
「ヘエ?」
「探偵じゃよ。シャーロック・ホームスのように、警察にも解らないような大疑獄が、私にはちゃんと解るから不思議じゃ」
「ヘエ……」
「何んじゃ、疑わし相な顔をしては困るね、私の探偵能力を疑うなら、シャーロック・ホームスが、一つの帽子や時計から、持主の特性を目に見るように言い当てたように、私はあなたの身の上を言い当てて見せよう」
「私の?」
「左様、あなたの身の上、……あなたは、母親一人しか無い筈じゃ、それから、至って馬が好きじゃな、それから……」
「もう沢山、乗馬服を着て居れば、馬が好きに極まって居ますし、母親一人という事は、多分左京さんからでもお聞きになったでしょう」
「エライ、浩一郎さんの方が、私よりは又一段と名探偵じゃハッハッハッハッ」
「ハッハッハハ」
どうも、大変な自称名探偵があったもので、左京路之助も、思わず吹き出してしまいました。
間もなく三人はつれ立って、浩一郎の住居へ参りました。
この大邸宅の左翼十数室の内、四つ五つをあてがわれて、浩一郎とその母親は住んで居るのです。
「この方が探偵?」
左京執事と、息子の浩一郎に紹介されて、編物の手を休めた母親は、老眼鏡越しに南老人の顔を眺めました。
「この方があの探……」
危うく吹き出しそうになって、老女は忙しく編針を動かします。山羊髭にダブダブの洋服、風呂敷ほどのネクタイに、青い靴下の出る短かいズボン、こんな間抜な格好をさせるに、どれだけ骨が折れるだろうと思うような、飛切上等の風采を見ると、身扮のやかましい老女は、ツイ腹の底からこみ上げて来る可笑しさの始末に困ってしまったのです。
「私がしらべて解らんという事はない」
南老人はそんな事に驚くような柄ではありません、浩一郎から借りた虫眼鏡、それを持って、四つん這いになったまま、室から室へと隅々まで調べて居ります。
「南さん、主人が行方不明になったのは、八ヶ月も前の話ですよ、今頃まで、そんな所に何んかの形跡が残って居るでしょうか。当時警察の方が見えて、嘗めるように丁寧にしらべた上、この室はそれから、二百四五十回掃除して居ますよ」
左京執事に注意されて、
「な、成程」
腰を延して今更感心して居ります。
けれども、愛銭堂老人又の名素人探偵の南市太郎老人、そんな事ではなかなか止しません、しばらく、室々の壁を叩いたり床板を踏んだり、電灯をつけて見たり、額の裏をのぞいたりして居りましたが、フト思い付いたように、
「ところで、春山氏の遺産はどうなって居るかな」
「それがおかしいのです」
左京路之助待ってましたという形で答えました。
「不動産には別に変りがありませんが、非常に沢山あるだろうと思われる、宝石、現金、有価証券などが、夥しい古銭と一緒に、何処に隠してあるか、どうしても解らないのです。私の推定によると、それは、三百万円から五百万円の価格に上るものだろうと思いますが」
「ホウ、それは驚いた」
「ところで、この邸の中は、専門家が半年に亙って研究し尽しましたし、銀行その他、取引先も悉くしらべて見ましたが、どうしても行方がわかりません」
「外に、残して置いたものや、保管してあったものは無かったかな」
「何んにも」
今まで黙って聞いて居た浩一郎は、この時二人の言を障って、
「あります、たった一つ、あの古銭と鍵」
「それは何んです」
南老人が聞きとがめると、左京執事は引取って、
「私からお話しましょう、これは一向つまらないものですが……主人が行方不明になる少し前、浩一郎さんと私と、あの陽子さんを呼んで、一つの手箱を渡しました、(私に万一の事があったら、これを開け……)とこういう命令です。行方不明になって、一ヶ月ばかり後、この事を思い出して、金庫の中から預ってある手箱を出し、三人立会の上、あけて見ると、中からは不思議な品がたった二つだけ出て参りました。一つは陽子殿へと札が付いて、柄の端が輪になって、先へ刀のように少し広くなり、四寸ばかり延びて真角に切れて居る、銅で作った古代支那の貨幣で、一つは浩一郎殿へと書いて、銀で作った、可愛らしい鍵です。ところで、その古銭と鍵は、どこへ使うものか、何んの足しになるものか、少しも解りません」
「フン、面白いな、浩一郎さん、その鍵というのを、一寸私へ借して下さらんか」
浩一郎は、母親と左京の顔を見比べましたが、別に反対する風も無いので、時計の鎖から外して、銀の小さい鍵を、南老人の手の上に載せてやりました。
「そして、これから向う側のお嬢さん父娘を訪ねるとしましょう」
「これ浩一郎」
南老人と左京の後へついて行こうとする倅を、母親は驚いて呼び止めました。
「あんな場所へ行ってはいけません」
「…………」
「あんな悪人の側へ行くと、ろくな事はありません、あなたはお止しなさい」
眼鏡を取って、編物の上にそっと置きましたが、その顔には解き難い忿怒の色が、サッと動きます。
それから間もなく、南老人と左京路之助は、建物の右翼に、陽子父娘の室を訪ねて居りました。
「この方は何んじゃ、左京君」
「古銭研究者でもあり、探偵でもある相です、南さんと仰しゃる方です」
「なに探偵、何んの用があってお出じゃ」
「主人の行方不明について、探索して見たいと言われます」
「なんだ、そんな事なら止したがよかろう。名探偵が何人となく、時間も金も惜しまずに研究して解らない事が、そういっては失礼だが、その御人体に解るわけは無い」
「ウーム」
老探偵南愛銭堂老人も、一ペンに吹き飛ばされそうです。
「帰んなさい帰んなさい」
「向う側の方は、何も彼も見せてくれたのに、こっち側のあなたが見せないというのは甚だ面白くないて」
「何、何を怪しからん事をいうのじゃ、疑わしい事でもあるなら、見てもらおう。隅から隅まで、堪能するまで見てもらおうじゃないか、向う側の泥棒猫が、何んか余計な事でもたき付けたんだろう」
ベルを鳴らすと娘が出て来ます。
「この方は探偵だ相じゃ、笑っちゃ失礼だよ……、尤もこの御人体を見せて、若い娘に笑っちゃいけないという方が無理かも知れないが……ウフッ」
娘もたまらなくなって、ハンケチで顔を隠してしまいました。
南老人、そんな事は委細構わず、浩一郎母子の室でしたと、同じような事を、根気よく繰り返して、しさいらしく首を曲げて居りましたが、
「春山氏から遺された、支那の古銭というのを拝見し度い」
というと、娘は黙って引こんで、自分の室から、少し手ずれのした、青銅の刀形の古銭を持って来て、父のうなずく顔を見乍ら、南老人へ渡してやりました。
「これを一日拝借し度いが」
「それはいかんといったら、向う側の泥棒猫を引合に出すだろう、あなたを信用するわけじゃないが、向う側より秘密主義だと思われるのが業腹だから、勝手に持って行きなさるがいい」
「それは有難い」
南老人は、けろりとして、それをかくしの中に滑りこませました。が、向き直って、
「なるほど、これは美しい」
後ろ手に、床の間の一軸を拝見という格好で、何を見るかと思うと、娘の陽子の顔をつくづく眺めます。
窓から入る夕日を受けて、藤色の洋服に照り栄ゆる処女の顔の美しさは、南老人でなくとも見とれる程でした。夢みる眼、霞む眉、象牙を刻んだような鼻に、紅玉石の唇、現代娘の愛くるしさと清々しさが、この娘の顔に溢れて居ります。
「アレ…………」
娘は驚いて逃げ出してしまいました。
「ハッハッハッハ、いや罪は無い、ところで左京氏、私は今晩ここへ御厄介になっても差支あるまいな。なに、長イスか寝台さえあれば結構で、一と晩ゆるゆるとあなたの持って居られる古銭も拝見し、私一流の探偵方針も定め度い……私の宅? それは構わん、こんな事には慣れたもので、一寸電話を拝借すれば充分じゃ」
左京執事の気乗りのしない顔、陽子の父の苦々しい顔、そんなものは、てんでこの老探偵の眼へ入りませんでした。
あくる日の正午五分前、時計の針を見つめて居た陽子は、父親へこう申しました。
「お父様、あと五分よ」
「それでは、お前やって見る気か」
「エ、エ」
「あんな変な探偵のいう事が信用出来ると思うのかい」
「少し調子は変ですけれども、あの方はどっか、不思議に人を動かすところがありますワ、私はあの方の言う事をきいて、兎も角やって見る方がいいような気がしてなりません」
「フーム」
「さあ、あと三分」
「この古銭をどうすればいいのだ」
「ピアノを退かした跡に、小さい金属板が壁に打ちつけてあるでしょう、その金属板の真ん中に、古銭の頭の輪になった部分が入るほどの、小さい溝があります、それへ古銭の頭をさしこんで、右へ二つ廻せばいいんですって」
「こうか」
「未だ、お父様、廻してはいけません、もう一分」
「大丈夫か」
「さあ」
父親はまだ不安相にして居りましたが、娘の決意に促されて、真鍮板の中の溝に、古銭の頭をさしこんで、一つ二つ廻すと、今まで壁とばかり思って居た、柱と柱の間の一尺五寸ほどの部分が、スーッと内の方へ開いて、そこへ真暗な道が、ポカリと口を開きました。
「お父様、参りましょう」
「これ陽子、待った」
「イエ、私は、こうしなければ、ならないような気がいたします、あの間抜な探偵が、今朝早く私を呼び出して、こうこうしろと言った時から、私はもう、すっかり決心して居るのです」
娘の決心に励まされて、父親もすぐその後に続きました。身体を横にしなければ通られないような道は、三四間続くと、その先には恐ろしく急な階段が、奈落の底まで続くように、脚下に口を開いて居ります。
「大丈夫か」
「急な階子段ですよ、お気をつけなすって」
父娘は、懐中電灯の光をたよりに、その段々を三十幾つか下ると、今度はやや広い廊下へ出ました。広いと言ったところでせいぜい三尺そこそこ、相変らず、鼻をつままれても判らぬような、恐ろしい闇です。
その廊下を二三十間行くと、道はやや広い暗室へ入ります。湿っぽい不愉快な空気が鼻を衝いて、今にも窒息するのではないかと思われるようです。
暗室の広さは五坪程、両方に小さい入口があって、四壁は煉瓦を積み上げ、下は全部コンクリート、牢獄よりも堅固に無気味に出来て居りますが、不思議な事に、その暗室の真ん中程のところに、六尺四方の鉄板があって、その上の真ん中に、一尺そこそこの銀の盆が取り付けられ、懐中電灯の光を受けて、燦然として光って居ります。
フト気が付くと、丁度向い合ったもう一つの入口から、サッと光が射して、明かに人声、
「お母様、大丈夫ですか」
「おお気味が悪い、何んという恐ろしい道でしょう、あんな変な探偵のいう事なんか当てになるのかい」
「サア、それは僕にもわかりません、けれども、どうも、あの探偵は、何も彼も見通して居るようで、命ぜられた通りにしなければならなかったのです」
疑うべくもない浩一郎とその母親です、そう解ると、陽子父娘の表情は、足の下に横わる鉄板のように冷たくなりました。
懐中電灯で双方から照し合って、仇同士が四人、不思議な暗黒世界で落ち合った事がわかると、(あの間抜な探偵にからかわれたのではないか)という考えが四人の胸に同時に閃きました。
けれども、事件は急速に発展して、それ以上に考える暇もありませんでした。間もなく、浩一郎母子の降りて来た道から、葉巻の匂いがプンと先ぶれをして来ました、冷たいカビ臭い地下の密室に、上等の葉巻の匂い、何んというそれは不思議な取合せでしょう?
「煙草はお止しになったら」
南老人の声です。
「イヤこれだけは許して下さい、ここの空気は湿っぽくて臭くてとてもかないません」
左京執事の声です。
「オオ皆様、もうおそろいでしたな、私の言う事を信じて、こんな無気味な所へ、お出下すった事を感謝いたします」
三つの懐中電灯に照されて、山羊髭の南老人は語り出しました。
「先ず陽子さんの古銭を借して下さい、これを銀盆の上に置く……」
銀盆の上には矢張り、古銭と同じ長さ四寸ばかりの刀形の凹みがあります、それに青銅の古銭をピタリとはめこんで、ギュッと右に廻すと、銀盆はポコリと外れて、その跡に小さい鍵穴が現われます。
「今度は浩一郎さんの鍵を拝借……御覧下さい、……春山昇氏は、その二人の相続者達が争う事を好まれなかったのです、お解りでしょう。この鍵と古銭と、二つ揃わなければ、秘密の宝庫を開ける事は出来なかったのです、……春山氏は、浩一郎さんと陽子さんと、仲よく遺産を分配するように、この古銭と鍵を一つずつ分けて遺されたのです」
と鉄板の小さい穴に鍵を入れて、一つひねると、手に従って大鉄板は、スッと横の方に滑って隠れそのあとへ、方一間の大穴、物凄い口をパッと開けました。
「驚いてはいけませんよサア」
南老人が懐中電灯を差し向けると、中には金銀珠玉と思いの外、俯向になった人間の死体と、真黒な桶が一つ。
「アッ」
驚きとも恐れともなく陽子と母親は声をあげます。
「よく見て下さい、これが行方不明になった、この家の主人、春山昇氏の遺骸です、空気や湿度や、その他いろいろの関係で遺骸は腐蝕もせず、そのまま屍蝋になって居ります、が、よく見ると、頭に恐ろしい打撲傷があるから、人に殺された事は明白です」
「エッ」
「エッ」
「驚いてはいけません、春山氏を惨殺して、ここへ投げ込んだ犯人が、ここへ貯えて置いた、古銭、珠玉、金銀、有価証券、併せて五百万円程のものを奪い去ったのです」
「エッ」
「エッ」
恐怖と驚きに、ハチ切れ相に緊張した地下の闇の中に、こんな技倆があろうとも思わなかった南老人は、声さえも若やいで、明快無比の判決を下します。
「その犯人は誰です」
「よくわかって居る、死骸の側に大事な証拠が落してあった」
「誰です」
「ここに居る」
「エッ」
「それ」
指す方には、謹直無比と思われた執事の左京路之助、早くも形勢を察して、逃げ腰に南老人の方をハタと睨みます。
「エッ、老ぼれ、余計な処へ出しゃばる、お前は誰だ」
「知り度いか」
「ウム、これ程にたくらんだからくりを見破るのはどこの馬の骨かわからぬ古銭家の南老人ではあるまい」
「その通り」
「誰だお前は」
「花房一郎」
「アッ」
驚いたのは、左京路之助許りではありません。名探偵花房一郎が、老古銭家に化けて入りこもうとは、誰だって気が付くわけはなかったのです。
「これ左京、何をウロウロする、逃げようたってもう駄目だぞ、この屋敷は、出口出口をすっかり堅めて、蟻の這出る隙間も無い……、悪党なら悪党らしく、神妙に兜をぬげ」
「フン、まだ左京路之助は降参しないぞ」
「よしよし、今の内存分に威張って置け。……どうしてわかったかというのか、行方不明になった春山氏の執事が、珍々亭へ、毎日極ってお茶の時間に行くのを知って、卓の上へ古銭をバラ撒いて一と芝居書いたんだ。主人を殺して八ヶ月も経って居るからモウそろそろ隠して置いた古銭を金にかえようと思って居た矢先だから、うまうま引っかかったろう」
「フーム」
左京路之助、バリバリと歯がみをしましたが、サッと飛退くと、
「サア、どいつもこいつも聞け、その死体の側の桶へ入ってるのは、百ポンド余りの火薬だ。こんな時の用意にと、八ヶ月前に入れて置いたのが役に立って、最後の切り札をおれに握らせる事になったぞ。寄るな寄るな、この葉巻を持って来たのもその為めだ、こいつを桶へ投げ込むと、この建物は粉片微塵だ、探偵も娘っ子も一蓮托生よ、サア」
火のついた葉巻をふり上げると、
「ワーッ」
四人の男女は、必死と逃げまどいましたが、元より狭い地下室、今更騒いだところで追っ付く道理はありません。
「エッ、くたばれ」
葉巻はサッと穴の中へ、しかも桶の真っ唯中へ。
「ワッ!」
這い、転げ、躍り騒ぐ男女の中に、もう一度、物凄い叫喚があがりました。
が、何時まで経っても、火薬の爆発どころか、プスリとも音がしません。
「ウフ、フフフ、ハッハッハッハハハ」
花房一郎とうとう笑い出してしまいました。
「何が可笑しい」
「火薬は昨夜の内に片付けて、あとへ泥を入れて置いた事に気が付かないか」
「エッ」
しくじったりと、飛び退いて逃げ出そうとする左京路之助を追いすがって、後から手がかかったと思うと、毬の如く投げ飛ばして、引き起こした時はもう手錠をはめて居ります。
「エッ、世話を焼かせる」
善悪男女六人、銘々、思い思いの感動にひたり乍ら、もう一度暗い段々を辿って明るみへ出ました。外は美しい春の日の午後。
「左様なら、皆さん」
名探偵花房一郎、こう言ったまま振り向きもせず、ダブダブ服の山羊髭のまま、出口で待って居た部下に、左京路之助を引立てさして行こうとします。
「どうしてあの抜路や地下の宝庫がわかったのです、せめて、それだけ聞かして行って下さい」
浩一郎が後から追っかけて聞くと、にこやかに立ち止って、
「何んでもない事ですよ、私は春山氏が行方不明になった当時、公用の留守中で、この事件に関係しなかったので、古銭研究家に化けて、新規まき直しの探偵に入りこんだのです。ところが最初に手に入ったのは、御存じの通り、あの古銭と鍵でしょう、この前探査した人達は、多分あれを見のがして居たのでしょうが、この事件では、あの馬鹿気たような小さい形見が、一番大事な手がかりだったのです。私は馬鹿な顔をして、両方の室をしらべて見ると、予想の通り、ピアノの後ろや、柱時計の蔭に、不思議な鍵穴があります。そこで、古銭と鍵を一晩借りて置いて、昨夜あなたの室からソッと地下の暗室へ入りこんで見たのです。銀盆や鉄板を開けるのは何んでもありません、穴の中を見ると、屍蝋と火薬がありますから、火薬だけを外へ移して、今日の正午に、両方から関係者一同に入ってもらう段取にしただけの事です。入らない気遣はありません、老人方は相続の事で夢中ですし、左京は万一犯跡はバレはしまいかと、ビクビクもので見張って居るのですから。左京の奪い取った財産は、すぐ出て来るでしょう、泥を吐かせるのはわけもありません……。未だわからないところがありますか……左京が抜道も知らず鍵を持って居ないのに、どうして主人の死体と火薬を穴の中へ投げこんでから、外へ出たかと言うのですか、……それは私もいろいろ考えましたよ、けれども、実地を見れば一番よくわかります。──あの死体の入って居た穴の底に、もう一つ、正面の建物の床下へ抜ける道があったのです。春山氏は財宝を隠したら、その第三の抜け道は塞ぐつもりで、材料を用意して置いたのです、それを知って左京の奴は、その抜道から、財宝と死体とを入れ代えて、あとを春山氏の用意した材料で塞いで置いたのです。今日入った道は、多分左京も知らなかったでしょう、古銭と鍵のトリックは、あまり茶気があり過ぎて、左京のような頭の良い悪党には反って気が付かないものです。そうでもなければ、あの暗室へ私等と一緒にノコノコ降りて行く筈もありません、あの上からはどうせ開きっこは無いと、たかをくくって居たのでしょう。──どうだい、それに相違あるまい」
探偵は、縄付の左京を顧みてそう言いました。
が、二三歩行くと又立ち止って、
「お別れに、私はもう一言御注意したいことがあります。──さて皆さん。特にこれは老人方に聴いて頂き度い。相続争いや財産争いもこれで多分一段落でしょうが、老人方が物欲に血眼になって居る間に、若い人達の生命の泉を掘り下げて居たのです。最初私は浩一郎さんと陽子さんが、玄関で顔を見合せて居るのを見て、その眼に燃える光りは、浅ましい物欲とは似もつかぬものであることを覚りました。手っ取早く申せば、老人方が相続争いに夢中になって、互に憎み合って居る間に、若いお二人の胸には、可憐な恋が芽ぐんで、お互に慕い合って居たのです。どうぞ、お二人を一緒にして、伸よくこの春山家の財産を継がせてやって下さい、それが私の頂戴する唯一の謝礼です」
夕日を受けて、パッと鼻白む若い二人の顔を後ろに、名探偵花房一郎は、南老人の顔をそのまま、飄々として立ち去りました。
底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社
2007(平成19)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「踊る美人像」愛翠書房
1949(昭和24)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年10月21日作成
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