女記者の役割
野村胡堂




「オヤお揃いだネ」

 カフェー人魚シレネドアを押して、寒い風と一緒に飛込んで来たのは、関東新報記者の早坂勇──綽名あだなを足の勇──という、筆より足の達者な男でした。

「早坂君かい、どうだい景気は」

 声を掛けたのは、高城たかぎ鉄也という、東京新報の花形記者で、足の勇とは商売敵に当るのですが、敵愾心てきがいしんよりは友情の方をどっさり持って居ようという、優秀な感じのする若い男でした。

「ボーナスかい、いやもう、とてもつかい切れないほど貰ったよ、少し融通しようか」

「あら、早坂さん大変な景気ね」

「イヨウ、女史も御一緒か、珍らしい事があるものだネ」

 二三人の新聞記者に囲まれて、華やかな笑顔を向けたのは、その花枝という同じ大東京新報の婦人記者、筆の立つのと素性のわからないのと、それよりもズバ抜けて美しいので有名な女でした。

 わざと職業婦人らしく、ほのかに葡萄ぶどうがかった灰色薄ラシャの地味な洋装に、美しくウェーヴさした毛を、白い頸筋の上へ無造作に束ね、黒毛の大外套を椅子いすもたれへはね退けた、名ある踊子ダンサーにも無いような、美しい両足を卓子テーブルの外へ重ねて、らせた様子は、少しお転婆ではあるが、またなくスマートに可愛らしい感じのものでした。

「景気と言ったって、ボーナスの事じゃないよ。その口はどうせ御同様だが、今晩はもう少し面白い話が始まってるんだ」

 高城鉄也は、ウイスキーを一丁、足の勇の為に通させながら、園花枝と顔を見合せて、悪戯いたずらっ子らしく莞爾にっこりしました。その青年記者のロイド眼鏡めがねの底に光る鋭い眼と、山羊やぎ髭を付けた可愛らしい口元は、顔の表情に一種不思議な矛盾を感じさせます。

「何んだエ、どうせ金儲けの話じゃあるまい。真っ直ぐにちまけてしまいな」

「つまり、その賭なんだよ」

角力すもうの春場所かい、今頃野球でもあるまい──」

「そんな古風なんじゃない。新聞記者冥利に、特種競争をしようと言うんだ」

「フーン」

 足の勇も少し呆気あっけに取られました。特種競争などという言葉は、今まで聞いたことも無かったんです。

「賭は今日から始まるんだ。一番先に特種を取って、天下をアッと言わした者に、みんなで言いなり放題奢ろうというんだよ」

「面白いな。そんな話なら、俺も一口入れて貰おうじゃないか。気の毒だが東京中の一流の料理屋を、しらみ潰しに二三十軒飲み歩いて見せるよ」

 足の勇は、ズボンの上からすねを叩いてニヤニヤとして居ります。新聞の特種競争を、マラソン競走と間違えそうなところがこの男の身上です。

「なるべく多勢、各社を網羅した方がいいが、一度入ったらあれは冗談だなんて言っちゃいけないよ」

「そんな事を言うもんか」

「特種の条件は、一社独りよがりの種では駄目だ。その特種が新聞へ出たら最後、東京中の新聞が、否応いやおうなしに引ずられて付いて行くような種でなくちゃいけない」

もち──」

「動物園のお猿が児を産んだ──位の種じゃ駄目だぜ」

「くどいな高城、俺にはちゃんと成算があるんだよ」

「本当か」

「本当にも嘘にも、──今日は土曜日だろう。エート、関東新報の遅くも火曜の朝刊で、お前達が皆んな目を廻すような、驚天動地の特種に出っわすぜ。大丈夫か」

「何を言うんだ、気はたしかか」

「何を言うんだとは何んだ、見くびってもらいくないネ」

「ところがネ早坂君、俺の方にも取って置きの種があるんだよ」

「ヘエ──、敵にもまた伏があるってわけだね、有難いな、相手に用意があると聞くと、張合があっていい」

「言う事が大きいネ」

「ボーイさん、カクテールを一杯ずつ、人数だけだ、前祝に献じよう。──どっこい、園女史はアルコホールでもあるまい。お人柄だけに甘いものでも差上げてくれ」

 足の勇はいい心持そうに大束おほたばめて居ります。

「勇。大層な勢だな」

 折から、ドアを押して入った一人、足の勇は肩に手を置いて、眼は高城、園、某、某、と一座に会釈えしゃくして居ります。

「エッ、吃驚びっくりさせる、誰だ──何んだ兄貴か」

 足の勇には大先輩、関東新報社の社会部長、千種ちぐさ十次郎という名記者です。

「馬鹿に驚くじゃないか、まるで兇状持見たいに──」

「厭な事を言いっこなし、兇状なんか持っちゃ居ないが、真っ正面に美しい方が居るから、一寸ちょっとした事にも虫が起る」

「あらッ、早坂さん」

 園花枝は、少し顔を染めて、足の勇をたしなめました。嬌嗔きょうしんを発した顔は、咲き立ての芙蓉ふようを見るような、かぐわしい美しさに輝きます。



「千種さん、一寸ちょっとお顔を」

 一足先に、カフェー人魚シレネを出た千種十次郎は、闇の中からう呼び止られました。

誰某どなたです」

 隣の洋品店の飾窓ショーウィンドーの前へ立ち止ると、ついて来て同じ灯の中へ顔を出したのは、ツイ今しがたまでカフェー人魚シレネの隅っこに、一人で洋酒をめて居た、勤人風の男でした。

「私が解らないかなア」

 ソフトをって、顔を一つ撫でると、慧敏けいびんはやぶさのような男。

「アッ花房はなぶさ──」

 紛れもないそれは、名探偵と言われた、警視庁の花房一郎です。

「困った事が起ったよ、かく、その辺までブラブラ歩いて見よう」

 両手をポケットに突っ込んだ花房探偵は、千種十次郎を誘うともなく、黙々として、銀座から数寄屋橋の方へ切れます。

「どんな事が起ったんだ、話してくれなきゃ気になるじゃないか」

 千種十次郎が斯う言った時は、二人は日比谷公園のロハ台の上へ、二羽の十姉妹じゅうしまつのように押し並んで居りました。

 もう十時を過ぎたでしょう。銀座あたりはまだ宵の内でしたが、公園の中はすっかりけて、街の遠音が波の音のように聞くのさえ、何んとなく滅入めいる心持です。

「実は──」

 花房一郎はようやく口を開きました。それでも言っていいか悪いか、しばらく思案をする様子でしたが、やがて思い切った調子で言葉を継ぎます。

矢張やはり君には話して置いた方がいだろう。実は斯うだ。今日十時頃、園田敬太郎氏から電話で、至急事務所の方へ来て貰い度いと言うのだ。園田氏というと、言うまでもなく前の外務大臣で、今は外交研究会の会長だが、口吻くちぶりに何んか知ら重大な匂いがあるから、大急ぎで飛んで行くと果して大変──永田町の外交研究会の事務所へ、昨夜ゆうべ泥棒が入って、金庫の中から、一番大切な機密書類を盗んで行ったという騒ぎだ。外交研究会は歴代の外務大臣に取っては小姑だと言われて居る位。外交上の重要な問題は、一応で研究討議されないものは無いとまでにいわれて居る、──それは君の知っての通りだ。ところで、盗まれた機密書類というのは、外交上の重要な覚え書で、万々一新聞にでも掲載されるような事になると、ず現内閣は間違なく潰れるだろうし、外務大臣の大原氏をはじめ、外交研究会の園田氏、その外委員一同、腹でも切らなければ納りの付かない事になる」

 千種十次郎は思わず固唾かたずを呑みました。事件の重大さがわかるにつけて、それを軽々しく打ち明ける、探偵の真意が呑み込めなかったのです。

「どうして盗ったかというと、実に簡単だ──」

 花房一郎は、相手の思惑などに構わず、話を進めます。

「外交研究会は、平常ふだんは至って閑散だから、三人の書記が交代で泊ることになって居る。昨夜ゆうべの泊り番に当ったのは、小柴静夫という上席の書記で、元園田氏の秘書をした事もある男だから、先ず絶対に信用されている人間だ。それが今朝けさ、宿直室の寝台ベッドの上で、クロロホルム臭い手巾ハンケチを顔へ当てられて、死んだまぐろのようになって眠りこけて居たんだ。小使が発見して、ウロウロして居るところへ、外の書記が出勤して来て大騒動になり、園田氏に電話をかけて、早速来てもらって調べると、会議室の金庫に入って居た、一番大事な機密書類が無くなって居る。これには園田氏も青くなったそうだ。一つ間違ったら腹切り道具だから。新聞へ機密書類の内容が掲載される前に、どんな犠牲を払っても取り返し度いというのも無理のない話だ。ところで、問題の性質上この事件はく内々に始末をつけなければならない、うっかり新聞記者の耳にでも入ったら、大変なことになる。──もっとも君も新聞記者だが──」

 花房一郎は莞爾かんじとして振り向きました。千種十次郎は、不用意にこの名探偵の友情を見せられたような気がして、不安のうちにも、何んとはなしに心強さを感じます。

「暖かい所へ行って話そう、──事務所にはまだ園田氏が居られる筈だから、此機会に君を紹介してひと肌脱いで貰うことにして置き度い」

「僕でも役に立つような事があるか知ら」

 二人はそのまま口をつぐんで、永田町の方へ登って行きました。雲模様の冷い、風が、無人の坂道を吹き上げて、時々気違い染みた自動車が、恐ろしいスピードで二人の側をスッと飛んで行きます。

「何んという嫌な晩だろう」

 花房一郎は、腹立たしそうに肩を縮めます。日頃快活な男が今晩に限ってこんなに不機嫌なのは、機密書類紛失という事件以外に、何んか人知れぬ屈託があるのではあるまいか、──千種十次郎は、フトそんな疑念に閉されて、肩を並べた探偵の横顔を差し覗きました。



 会長室に居残って、果てしもない幽鬱ゆううつな冥想に耽って居た園田敬太郎は、帰って来た花房一郎の顔を見ると、わずかに平常の冷静を取り返しました。

「何んか手掛りがありましたか、花房君」

「あるとも、無いとも申し上げられません。それは兎に角、御紹介いたしましょう、これは関東新報の千種十次郎君、この事件について、何彼なにかと助力して貰わなければなるまいと思いまして、私から頼んで一緒に来てもらいました」

「千種さん、イヤよく存じて居ります。ようこそ」

 花房一郎の背後うしろから進み出た記者を迎えて、園田氏の顔からは名残なく屈託の色が消えました。そして政治界や社交界で、飛ぶ鳥を落すと言われた持前の寛濶さに返って、鷹揚な笑顔さえ向けます。

「飛んだ御災難で──」

「いや、その事です、警視総監に無理を願って、特に花房君に秘密にしらべて貰うことになりましたが、何分事件が重大ですから御助力を願います。千種さんのような方が新聞記者としての立場から観察されたら、思いもよらぬ光明が見出されるか知れません」

 千種十次郎を見た刹那は、幾分不満足らしい様子でしたが、練れた人物だけに、思い直して斯うわだかまり無く歓迎の手を差し伸べます。

「千種君、現場をお目にかけよう、此方こっちへ来たまえ」

 花房一郎は潮時を見て、会長室の一方のドアを開けました。

「さあ、どうぞ」

 園田氏の声を背後うしろに聞いて、二人はそのまま問題の会議室に入って行きます。

 其処そこはかなりの広間で、マホガニーの大卓子テーブルを、凹字おうじ形に配置した上には、素晴らしい飾電灯シャンデリアを三つまで下げ、クリーム色の壁に、胡桃くるみ色の鏡板の腰張りを廻して、安い壁紙などを一枚も使わないところに、場所柄らしい威厳を示して居ります。黒大理石で張った大きい煖炉ファイヤープレースには、夕刻まで続いた会議の名残なごりと見えて、焼余もえさしの石炭が、少しばかりの焔を吐いて居るのも物々しい情景です。

この金庫に入れてあったのだ、合鍵を使って苦もなく開けて居る」

「────」

 会長席の横手、壁の中へはめ込んだ大金庫は、厳重なドアを明るい灯に照らしては居りますが、実は泥棒が開けたまま、まだ鍵が掛って居ないのです。

「此へやの入口は二つ、一つは今僕等が入って来たので会長室に通じ、一つは反対側から廊下を隔てて、食堂の戸口と向き合って居るのだ。窓は厳重に閉されて居て、何んの異状も無い。犯人は裏の塀を乗り越えて、食堂の入口のガラスを一枚叩き割り、差し込んだままになって居た鍵を捻って、楽々と入ったのだ。小使は内証で飲んだ寝酒がきいて何んにも知らずに熟睡して居たらしい。犯人は食堂から先ず宿直室へ入って、小柴書記の顔の上へ麻酔薬クロロホルムを浸した手巾はんけちをのせて、麻酔させ、此会議室に入って、悠々と機密書類を取り出し、入った道を逆に取って、落付き払って出て行ったものらしい──」



「ところで千種君、是非君に判断して貰い度い問題があるんだが」

「…………」

 花房一郎は、千種十次郎の手を取らぬばかりに、金庫へ近々と立たせました。

「その金庫をハメ込んだ壁に、何んだか文字が書いてあるだろう」

成程なるほど

 見ると、丁度金庫の肩のあたり、クリーム色の壁の上へ、鉛筆で太々と、

暫らく

借りて行く

 と二行に書いた文字があります。

「それを見て、君はう思う」

「サア──」

 千種十次郎は、暫らく呻吟しましたが、何んか言わなければ折角誘われて来た甲斐が無いように思ったのでしょう。

「犯人の悪戯いたずらだろう」

 恐る恐る斯う言って退けると、

「イヤ」

 花房一郎は断乎とした調子でそれを否定しました。

「それではこの落書に何んか特別な意味があるというのか」

 素人しろうとの悲しさ、反対されるとたちまちタジタジになります。

「私はあるだろうと思う。非常な危険を冒して、機密書類を盗み出した犯人が、無意味な悪戯書いたずらがきをして証拠を残すような愚かな事をする筈は無い。私は、この二行の文字から、少くともこれだけの事を判断することが出来ると思う──」

「例えば」

「第一に、この犯人は、機密書類の『写しコピー』を取って、真物ほんものを返す積りで居るらしい。『暫らく借りて行く』と書いたのはその為だ。機密書類の謄本コピーを取って内容だけを盗もうとする者は、さて、何んだろう。私は現内閣を瓦解させる目的でやった、政敵の仕事か、そうでなければ、機密書類の大きい新聞価値ニュウスヴァリュウに目がくらんだ、新聞記者の仕業しわざだろうと思う。この機密書類のホンの一部分を公開しただけでも、天下は驚倒して蜂の巣をつついたように騒ぎ出すだろう。その場合には、機密書類の真物ほんものを手元へ置いて、家宅捜索を受けたり、起訴されたりするのは愚かな事だから、コピーを取ったらさっさと元の場所へ真物ほんものを返すにきまって居る。第二に、この犯人は、十中八九まで、新聞記者だろうと思う、──君は変な顔をするが──決して私は当てずっぽうを言ってるのでは無い──」

 花房一郎の顔には、何んとなく自信が充ち満ちて、一句、一句、千種十次郎を説き伏せるように迫って来ます。

「政治ゴロの仕事なら、こんな落書をするにしても、万年筆か、少くともシャープ鉛筆を使うところだ。ところが此鉛筆は、この通り芯が太くて、色にムラがあって、粉を吹くところを見ると、余程粗悪な石墨を使った、一番下等な品だろうと思う。東京の真ん中で、こんな鉛筆を使う者は、新聞記者の外には無い。新聞記者が、贅沢ぜいたくな万年筆やシャープ鉛筆を使ったんでは、一時間に二三百行も書くような、恐ろしいテンポの早い原稿は書けないと言うことだ。これは君から聞いた話だから嘘ではあるまい。そして、その原稿を書く武器は、社からダースで支給する、恐ろしい粗悪な雑用鉛筆だというでは無いか。新聞記者のポケットには、こんな鉛筆が二三本屹度きっと忍んで居ることは、私もよく知って居る。さて第三に、この犯人は、身の丈五尺一寸前後、身体の非常に軽快な小男だ。これは説明するまでもなく、探偵術の初歩を応用すれば判ることだ──人間は壁などへ物を書く時は、必ず自分の眼の高さに書くものだ。この文字の高さから見ると、犯人はかなり小柄な方で、君のようなノッポでないことだけは確だ」

 話はだんだん具体的になって、千種十次郎の頭の中にも、犯人の風貌を描き出すことが出来るようになりました。

「それで、犯人の見当が付いたのか」

「イヤ、付いたような、付かないような──実を言うと、君をわずらわして、最後の決定をして貰うためにまで誘って来たのだ」

「と言うと──」

「今晩、そのために私は、あのカフェー人魚シレネへ行って居たのだよ。あすこは、新聞記者の巣見たようなところだから、出入の人の話を聴いて居る内に、何んか暗示ヒントを掴むことが出来るかも知れないと思ったのだ」

「で?」

「果して、君も聞いた通り、あのカフェーで特種競争というのが始まった」

「僕も後から行ってよくは知らないが、言い出したのは何んでも東京新報の高城鉄也君だとか言ったぜ」

しかし、二三日のうちに、驚天動地の特種を提供して見せると言ったのは、君の社の早坂勇君だったと思うが──」

「何?」

 謎は読めました。花房一郎は足の勇を疑って、同じ社の監督者の地位にある千種を、までおびき寄せて口占くちうらを引いて見たのです。

「そんな馬鹿な事があるものか。あの正直者の勇に、そんな大それた事が出来る筈は無い」

「イヤ併し」

「断じてそんな事は無い。第一あの壁の上の字は足の勇の字とは少しも似て居ない」

「けれども、手を変えて書くという事がある」

「上手が手を変えて下手へたには書けるだろうが、足の勇のような名題の悪筆が、どんなに手を変えたって、あんな器用な字が書けるわけは無い。勇はそんな事をする男じゃないよ。俺は保証する。それに、機密書類を盗んで、新聞に発表する気なら、社会部長の俺に相談をしないって筈は無い」

 千種十次郎は必死と足の勇の為に弁じましたが、花房一郎の根強い疑念は、こんな事ではなかなか解けそうもありません。



「そんな馬鹿なことがあってたまるものか、足の勇は盗などの出来る男じゃ無い」

 必死と抗争して見たところで、千種十次郎には一つも反証というものが無いのです。併し何を感じたか、花房一郎は強いて争おうともしません。

「よし、君の意見を尊重しよう。一つでも、二つでもい、犯人は早坂君でないという証拠を示して貰えまいか。僕もあの男はよく知って居る、大抵の事なら、あの快男子に汚名を着せたくないよ」

「証拠は沢山たくさんあるさ」

 引摺られるように、千種十次郎は斯う言ってしまいます。

「例えば」

「例えば──」

 名探偵と言われた花房一郎の見込みを、一瞬にして覆すような反証が、熱心より外には何んにも持って居ない素人しろうとの手に入るでしょうか。この友達思いの新聞記者は、暫らくは物をも言わずに、──シャーロック・ホームスのように──其辺中を探し廻りました。

「これだッ」

「────」

「不用意に壁へ物を書く時は、人間の眼の高さに書くものだと君は言ったね」

「ああ、言った」

「不用意でなく、自分の身長を隠すために、たくらんで書いたとしたらうだ」

「何? 何?」

 花房一郎は愕然として立ち上りました。

「これを見給え、この鉛筆の字の縦の棒は、筆始めに力が入って、下の方へ行って力の抜けるのは何んの為だ。背の高い人間が背の低い人間の書いたように見せるために、顎から下の辺りの見当へ書くと、鉛筆の先が下向になるから、丁度こんな字が出来るよ」

「────」

「花房君、それでもこの字が、背の低い足の勇が書いたものだろうか」

 千種十次郎は、凱歌を挙げ度いような心持になりました。

「それから──」

「それから、足の勇がどうして金庫の合鍵を手に入れたか」

「────」

「合鍵位はどうでもなるとしても、金庫なら合言葉があったろう。園田氏と何んの関係も無い足の勇が、そんなものを知る道理が無いじゃないか」

 勝利はもう千種十次郎のものです。かさにかかって言うのを、黙って聞いて居た花房一郎は、

「有難う。これで私の自信がまった。イヤ飛んだ心配をさしたが、少しでも疑念のある所は、最後まで突き詰めて研究して置かなければならない。問題は金庫の合言葉がどうして漏れたかということに、集注して来るようだ。もう一度園田氏に逢って見よう」

 斯う言って踵を返そうとすると、丁度帰り支度をした園田氏は、外套を羽織ったまま、帽子を手にして二人の前へ現われました。

「私はこれで失礼しましょう。後には書記を二人止めて置きますから、何んなりと御用があったらおっしゃって下さい」

 丁寧に挨拶して出て行こうとするのを、

「暫らくお待ちを願います」

 花房一郎は呼び止めました。

「何ですか、花房君」

「これは非常に大事なことですから、ハッキリお答えを願い度いのですが──」

「────」

「金庫の合言葉を知って居られるのは貴方あなたと──」

「先程も申した通り、私と私の娘だけじゃと思うが──」

「お嬢様は、唯今お屋敷にいらっしゃいますか」

「イヤ、宅には居りません」

 園田氏の顔には、何んとなく一抹の苦渋の色が浮びます。

「では、何方どちらいらっしゃるのでしょう」

「そんな事も言わなければなりませんか」

「恐らく、この事件の探索で、一番大事な点で御座いましょう」

「イヤ、そんな筈は無い、これは家庭の私事じゃ。娘の在所ありかは暫らく訊かずに置いて下さい」

「────」

 白け渡った一座の空気を後に、園田氏はもうドアの外へ踏み出して居ります。

「もう一つお願いがあります」

「何です」

「金庫の中には、もう大事なものはありませんか」

「何んにもありません。残った機密書類は、外務省へ預けました」

「それでは、此事務所の警備をすっかり解いて、平常通りにして頂き度いものですが如何いかがでしょう」

「と言うと──」

「犯人は、今晩か遅くも明日の晩、盗んだ機密書類を返すために、もう一度へ忍び込んで来ます」

「エッ、そんな事がありましょうか」

「それは確かです。電灯は煌々こうこうと点けて、五人も七人もの人間が、と晩中見張って居ては、返し度くとも返されません。折角返そうという意志のあるのを、返させないのは嘘です。出来るだけ犯人に便宜を与えてやりましょう」

うなとよろしいようにやって下さい。書類を返して貰えば、これ程有難いことは無いのですから」

「お喜びになるにはまだ早いかも知れませんが、兎に角書類だけは、間違いなく返りましょう」

「どうか、そうあって欲しいものですな」

 異様な心持で、帰って行く子爵の後ろ姿を見送り乍ら、花房一郎は爪を噛みます。

「事件は非常につかしい、最初からやり直しだ」

「園田氏の娘というのが、此事件に何んか関係があるのかえ」

「あるかも知れないが、無いかも知れない。兎に角た晩ばかり此事務所を空っぽにして、相手の出ようを見よう。俺の手にはもう切札は無い」

 花房一郎は深沈たる顔を伏せて、底の知れない冥想に落ちて行きます。



 その翌々日。花房一郎から千種十次郎へ、勝ち誇ったような電話が掛って来ました。

「千種君か、私は花房。──書類は到頭とうとう金庫へ帰ったよ、元の通りそっくり其儘そのままだ。園田氏は大喜びだが、事件はこれからが本筋だ。し手が空いて居るなら、大急ぎで外交研究会へ来てくれないか、待って居るよ。面白いことがあるんだ、素的に──左様なら」

 言い度い放題の事を言うと、電話はプツリと切れてしまいます。

 大急ぎで出かけて行くと、先夜クロロホルムで麻酔させられた書記の小柴が、もうすっかり元気になって、会長室へ千種を案内してくれます。会長室の前へ行くと、

「これで安心とはうして言えないのです」

 ドアを通して、廊下まで筒抜けの園田氏の声。

曲者くせものの仕事は、これから始まるのです」

 花房一郎の声も、それに劣らず凜々と響きます。これでは、秘密の相談などが出来そうでありません。ノックして入って行くと、

「あ、千種君、丁度良いところでした」

 園田氏は如才なく立って迎えてくれます。

「書類が返ったそうで、先ず御安心で御座いました」

「ところが千種さん、それが一向安心でないと花房君は言うのですよ」

「そして、曲者の業は、これから本筋に入るのだと私は申しました」

 花房一郎は眉も動かさずに、事務的な調子で斯う申します。

「本筋? それはどんな事です」

「曲者は、機密書類の真物ほんものに必要が無かったのです。言い換えれば、あの謄本コピーが欲しかったのです」

「エッ」

「私が本筋と申すのはこれです。恐らく、誰かに売る積りは無いでしょうが、政府の反対党か、新聞があの書類の謄本コピーを必要だったのでしょう」

「そんな事があるでしょうか」

「外に考えられません。それに私は、曲者の写真を手に入れて益々その考えを強めました」

「曲者の写真?」

 園田氏も千種も、花房一郎の言葉に、思わず驚きの眼を見張りました。

「これです。御覧下さい」

 花房一郎は騒ぐ風もなく、かくしの中から、手札形の写真を取出して、二人の前へ押しやりました。

 写真は台紙にも何んにも貼らず、大急ぎで焼き付けたばかりと見えて、まだ生々しく濡れて居りますが、中折帽なかおれぼうを目深に、手巾はんけちで下半分を隠した曲者の顔が、非常に明瞭に映って居ります。

 鼠らしい中折の下から、縁の太いロイド眼鏡めがねの光って居る具合、手巾はんけちの下から、ほんの少しばかりですが、山羊やぎ髭の覗いて居る工合、どう見てもそれは、東京新報の記者、高城鉄也の肖像でなければなりません。

「これは高城の写真じゃないか」

 千種十次郎が驚きの声を挙げると同時に、

「アッ」

 園田氏は、ほとんど真っ蒼になってしまいました。

「どうなされたのです園田さん」

「イヤイヤ、こんな筈は無い、こんな筈は無い」

 園田氏はけがれたものを見せられた人のように、頑なに写真を花房一郎の方へ押し返し乍ら、

「とても信じられない。花房君、この写真はどうして撮ったのです。いやどうして手に入れたのです」

「お疑いは尤もですが、これは決して胡麻化ごまかしや偽物の写真ではありません、確かに昨晩書類を金庫に返しに来た曲者の写真です。──斯う申したばかりでは、まだ御信用が無いかも知れません。実は此写真は、紫外光線で撮った写真なのです。申すまでもなく、写真の乾板は紫外光線を一番よく感じます。紫外光線ウルトラ・ヴァイオレット・レースと言うのは、太陽の光りを七色に分解した時、菫色の外へ来る、人間の眼に見えない光線でこの光線を取り出すことが出来ると、闇の中でも自由自在に写真に撮ることが出来るのです。人工的に紫外光線を出すには、ギバ太陽灯を用いてもよし、クーパーヒュウイット灯でもよし、いろいろ方法はありますが、要は水銀灯へ電気を通して発光させればいのです。尤もそれだけではまだ人間の眼に見えますから、そのランプか可視光線を吸収して紫外線だけを通す特殊の濾光障の中へ入れて置けば、人間の眼には、殆んど光が見えませんが、写真は充分に撮れます。濾光障というと面倒ですが、酸化ニッケルで着色した黒いガラスで、それには 30651 という硝子ガラス番号まで付いて居ります。私は金庫の中へこのランプを装置してドアを開けると一緒に点火し、同じく金庫の中へ装置した小さい写真機のシャッターを自動的に動かして、一瞬に曲者を写真に撮るようにして置いたのです。一向他愛もない玩具おもちゃ見たいなものですが、お望みなら後で実験してお目にかけましょう」

 花房一郎の説明は、怪奇を極めますが、園田氏はもうそれをさえ聞いては居りませんでした。

「失礼だが、私は一寸ちょっと中座して出かけて来ます。多分三十分と経たない内に帰る積りです。どうぞ、それまで待って居て下さい」

 蹌踉そうろうとして、座にも堪えないように立ち上って、何方いずれともなく出て行ってしまいました。



「どうしたんだ花房君、俺には一向解らないが──」

「今に解るよ、だんだん事件が面白くなるだろう」

「園田氏は何処どこへ行ったんだ」

「それも今に解るよ。一寸ちょっと考えさしてくれ、私にもまだ一点だけ疑問が残って居るんだ、たった針の目ほどの疑いだが、これがなかなか六づかしい」

 花房一郎は、それっ切り黙ってしまいました。十分、二十分、三十分、やがて小一時間も経つと思う頃、玄関から廊下が急に騒がしくなって、勢よく開いたドアの蔭から、二人の男女が旋風つむじのように飛込んで来ました。

 一人は忿怒ふんど懊悩おうのうに、日頃の冷静を失った、園田敬太郎氏、それに手を引かれて、さからい乍ら入って来たのは、東京新報の女記者、あの匂いこぼるるような、美しい園花枝です。

「どうなさるんです、お父様、痛いじゃありませんか」

「黙って此方こっちへ来なさい。お前に見せる物がある」

「お父様、そんな乱暴をなすって──」

「何が乱暴。両親の顔に泥を塗って、それでも飽き足らずに、父親の首へ縄を掛けようとする不孝者には、これ位の事ではまだ手緩てぬるい」

 女記者園花枝は、矢張り園田氏の令嬢だったのです。自由にあこがれてこの美しい令嬢は、父と、家名とにそむいて、文筆労働者の群に投じ、とうとう名を変えて東京新報の女記者になりおおせて居たのです。が、本人は素性を秘し隠し、旧弊な家族の者は、家名に恥じて、令嬢の行方ゆくえとその奇抜な職業をおくびにも漏らさなかったのです。

「花枝、此写真を見ろ。これは、お前を誘惑して、そんな職業へ引摺り込んだ、高城鉄也じゃないか。少しばかり才気があるようだからと思って眼をかけて置くと、何時いつの間にかお前に悪智慧をつけて、女文士やら女記者やらにしてしまった不都合な男だ。実にしからん奴だが、まさか泥棒をするとは思わなかった──」

「お父様、それはあんまりで御座います。高城さんが何時いつ泥棒をしました」

 父親の園田氏に、小雀のように掴まれ乍らも、美しい花枝はあまりの事に必死とさからいます。

「この金庫から重大な機密書類を盗み出し、謄本コピーを取って、原本を返すところを、紫外光線写真で、此通り撮られたのだ。どうだ、お前の崇拝するこれが高城鉄也の姿だ立派だろう、ウム」

「そんな事は御座いません、それは何んかの間違いです。高城さんはそんな方では御座いません」

「何を言う。証拠はそればかりでは無い、──この金庫の合言葉を知って居るのは、私とお前ばかりだ。自宅の金庫は、亡くなったお前の母親の名を合言葉にし、事務所の金庫は、お前の名のハナエを合言葉にしてあることは、私とお前より外に知ってる者がある筈は無い。お前は高城にこの合言葉を教えて、金庫の中から書類を盗ましたろう。あの書類の内容が世間へ発表されると、私は腹でも切らなければ申訳が立たない事になる。サア、此上の迷惑をかけずに、教えたら教えた、盗んだら盗んだとはっきり言え。には警視庁の花房君が居る、電話を一つ掛けさえすれば、三十分と経たない内に、高城鉄也は縛り上げられるのだ」

「お父様、お父様、そんな事は御座いません。私が何んにも知らない位ですから、高城さんが金庫を開ける道理がありません」

 美しい花枝は、犇々ひしひしと膝に取縋って、いじらしくも涙に濡れた眼に父親を見上げますが、燃えさかる父親の忿怒は、そんな事ではなだめようもありません。

「花房君、電話を掛けてくれ給え、一刻も早く高城を縛らせて、謄本コピーを回収しなければならん」

「かしこまりました」

 卓上電話に伸びた花房一郎のへ、砕かれた大輪の花のように、身体からだごと縋り付いた花枝は、

「待って、待って下さい──花房さん。金庫を開けたのも私、書類を盗ったのも私です、高城さんは何んにも知らない」

「エッ」

「高城さんは何んにも知らない、私に頼まれて書類を金庫に返した時、運が悪く写真を撮られてしまったのでしょう」

「何んと言う事だ。それが、それが人の子の道か、見下げ果てた奴!」

 園田氏はさすがに手は下しませんが、床の上へ崩折れた美しい娘の上から、きっと睨み据えて、思わずモザイックの床を踏み鳴らします。

謄本コピーは今返させます。私に電話を掛けさして下さい」

 這い寄るように、卓上電話を掴んで、泣きじゃくり乍ら番号を呼ぶ花枝の顔は、恐怖と激動にふるえ歪んでは居りますが、真珠色の蒼白さの中には、恋人をかばおうとする女の、不思議な美しさが発散するのでした。

 ──此まま許してやればいいに、──千種十次郎はあまりのいじらしさに、そんな気にさえなるのでしたが、父園田氏の容赦せぬ顔と、花房一郎の冷たい眼とを見ると、局外者の千種にはどうにも仕様がありません。

 その内に、高城鉄也が電話へ出たようです。

「あ、貴方あなたは高城さん、私は花枝──あの、謄本コピーを返して下さい、──父の手許へ。──エ、エ? 機密書類の謄本コピーですよ、──外交研究会の事務所の金庫から出た、──わかりませんか??? ──私は今、事務所に居るんです、──イエイエ、いらっしゃるには及びません、謄本コピーを返してさえ下されば。──解りません? ──うしたんでしょう、そんな筈は無いんですが。──今大変なのです、紫外線写真で、貴方あなたは写真を撮られたんです。エ? エ? へいらっしゃる。それはいけませんワ、父と、花房さんと、千種さんがいらっしゃるんです──エ? ──謄本コピーは? 御存じない、どうしても──」

 花枝は受話器を握ったまま、途方に暮れて、呆然と父の顔、花房探偵の顔、千種十次郎の顔を順々と見廻しました。



 高城鉄也は、とうとうこの一座の中へ飛込んで来ました。花枝の電話が要領を得なかったので、自分から進んで外交研究会の騒の中へやって来たのです。

「高城、君は実に怪しからん男だ」

 会長室へ入って来る高城鉄也の清躯を見ると、園田敬太郎氏はたまり兼ねて一喝を浴せました。

「何をおっしゃるのです」

 高城は慇懃いんぎんに挨拶し乍らも、園田氏の一喝を受けて、思わず屹と立ち止りました。

 ロイド眼鏡めがね山羊やぎ髭、青白い顔までが、何んとなく思想家じみて、機密書類を盗みそうな人柄ではありませんが、同時に、花房一郎のうつした紫外光線写真の曲者とは、紛れもないほどよく似て居ります。

の金庫から機密書類を取ったのは君だろう」

「何を言われるのです。本気でそんな事をおっしゃるなら、園田氏といえども許しませんぞ」

「無礼な事を言うな。此写真を見るがいい、これが君自身で無いと言い切れるか」

 突き付けた写真を眺めて、

「フーム」

 高城鉄也は唸るばかりです。

「サア、何より先ず謄本コピーを返し給え。そうすれば又、私にも考えようがある」

「これには何んか恐ろしい行違ゆきちがいがあるようです。私には何んの事やら一向解りません」

 何んと言う高雅な穏当おんとうな顔でしょう。一たんの怒を押えて、斯う清み切った眼を見開いた高城鉄也の顔を見ると、どんな恐ろしい写真があるにしても、此男を曲者と疑う気にはなれません。

「イヤ、胡麻化ごまかしてはいかん、娘はもう白状して居る。花房君、何を遠慮して居るんだ、其奴そやつを縛り上げて、謄本コピーを取り上げてくれ給え」

「かしこまりました。それではで曲者を縛っても構いませんでしょうな、園田さん」

「宜しいとも、これだけの証拠があれば、現行犯も同様だ」

「では、御免下さい」

 身を翻した花房一郎、高城鉄也の腕を掴むと見せて、後ろのカーテンをサッと引きました。其陰には一人の男、驚いて廊下へ飛出すのを、後ろからギュッと首筋を掴んで引戻します。

「あッ、お前は小柴」

此奴こいつが機密書類の犯人ですよ」

「えッ」

 一座の驚きは絶頂に達しました。書記の小柴静夫は、花房一郎の腕からけようとして、暫らくは死物狂いで争いましたが、恐ろしい剛力に締め付けられて、貧乏ゆるぎも出来ないとわかると、あきらめた様子で、そのまま床の上へヘタヘタと崩折れてしまいます。



 小使を呼んで探させると、小柴の卓子テーブルの中には、横着なことには、機密書類の謄本コピーがそっくり保存してあります。灯台下暗しとでも思って、こんな手近なところへ隠したものでしょう。

「どうして小柴が犯人と解りました。この写真は高城君が写って居るのは一体どうしたわけです」

 間の悪さも忘れて、園田氏は花房一郎に問いかけます。

「それより先に、此奴こいつの始末を付けましょう。園田さん、これは矢張り警視庁へ引っ立てましょうか」

「イヤイヤ、事件はなるべく表沙汰にし度くない。多年の恩をあだで報ずるような心掛けは実に憎むべきだが、阿呆払いにして我慢をしよう。書類が無事に返って、謄本コピーが手に入れば、私の方はそれで宜しい」

 園田氏も漸く日頃の寛濶な自分に還りました。

「聞いたか小柴。此ままで許すのは惜しいが、御主人のおっしゃることも道理だ。其辺にマゴマゴして居ると承知しないぞ、サア西の海へすっ飛んで行けッ」

 窓を開けて、永田町の往来へ、小柴の身体からだは放り出されてしまいました。

「ところで花房君、どうして小柴が犯人と解ったか、それを聞かない内はどうも安心が出来ない」

 園田氏はなお花房一郎を追及します。

「イヤ、何んでも無いことです。──この二日ばかりで、いろいろ調べ上げて見ると、斯ういう事が解ったのです。小柴は秘書をして長くお屋敷に出入して居る内に、──御本人のいらっしゃる前で申しては何んですが、──お嬢様へ恋着れんちゃくしたのです。ところがそのお嬢さんは、高城鉄也君と親しくなられて、家出をされてしまったので、一つは恋讐こいがたきの高城君に仇をする積り、一つは、あの謄本コピーを反対党に売って、大金をせしめる積りであんな芝居を仕組んだのです。私が最初早坂勇君を疑ったのも大間違いでしたが、紫外線写真で釣られて、高城君を疑ったのも恐ろしい間違でした。犯人の小柴は恐ろしく猿智慧の廻る男と見えて、最初から嫌疑が高城君へ向くように、新聞記者の仕業らしく仕組んだ上、書類を返しに来た晩は、どんな都合で不意に人に顔を見られるかも知れないと思って、ロイド眼鏡をかけて、付け髭をしてすっかり高城君に変装して、来たのです。危いところでしたよ。私ももう少しで騙されるところでしたが、フト気が付くと高城君は恐ろしい強度の近眼なのに、この写真の曲者の眼鏡めがねは、同じようなロイド眼鏡めがねでも、全く度の無い、素透しの眼鏡めがねなのです。これは誰が見ても解ります」

 説明されて見れば成程と気が付きますが、あまりの意外な成行きに、園田氏はもとより、千種も、高城も、花枝も、呆然として暫らくは言葉もありません。花房一郎はそれに構わず言葉を継いで、

「小柴の顔は、ロイド眼鏡めがねをかけて山羊やぎ髭をつけると、高城君そっくりになります。違って居るのは、小柴の眼が、少し三白眼になって居るだけで、これは写真で見ても、注意すると区別がつきます。金庫の合言葉は、書記長の小柴が一番知る機会が多いわけで、園田さんが金庫を開けられるのを始終見て居れば、恋するものの敏感さで、合言葉が令嬢のお名前になって居ることは、ぐ気が付きます、鍵だって同じことです。書記の小柴は一番手に入れ易い地位に居ることは申すまでもありません。食堂のガラスを外から叩き割ったのや、塀を乗り越えた跡の細工などは、どんなにでも出来ます。最後に、この部屋のカーテンの陰に隠れて、此場の様子を見て居るのが小柴とわかれば、もう疑う余地がありません。いきなり引捕えて、頭から脅かしてやっただけの事です。併し実によくたくらみましたよ。自分でクロロホルムを嗅いで、犯人に麻酔させられたように見せる位の曲者ですから、馴れた筈の私でも、もう少しで一杯引っかけられるところでしたよ」

 斯う説き進めて来る花房一郎の態度には、淡々として何んの誇らしさもありません。

「有難う花房君、お蔭で何も彼も無事に済んだ」

 園田氏は椅子からって、心からなる感謝の手を伸べます。

「イヤ園田さん、まだ一つ済まない事があります」

 花房は意地悪く手を引込め乍ら、園田氏の顔を仰いでツケツケと言います。

「まだ一つ? ──」

「どうぞ私の無礼をお許し下さい。──もう一つ済まない事と申すのは、お嬢さんと高城君の問題です」

「…………」

「高城君は稀に見る人格者で、お嬢様のお配偶つれあいとして決して恥しい人物ではありません。どうか、高城君を一度でも疑った罪亡ぼしに、この似合いの二人の手を、永久に握らせてやって頂き度いのです。先刻高城君を犯人と思い乍らも、最後まで庇おうとした、お嬢様の犠牲的な態度で、若い人達の心持は充分お解りでしょう。この事件で受持たれたお嬢様の役割は実に素晴らしいものです。──それでは皆様、千種君は私と一緒に帰ろう、君にも飛んだ心配をさせちゃったなア」

 花房一郎は丁寧に一揖いちゆうして、そのまま廊下へ出ようとしました。

「あ、待ってくれ給え、これほどのお骨折に、早速お礼をしなければ、私の気がすまない」

「イエイエ警視庁の小吏が、これしきの事で謝礼を受けてはすみません。お嬢さんと高城君を並べて紫外光線写真でも撮って下されば、それで私は充分です」

 美しい花枝と高城鉄也の、極り悪そうな顔を後に、二人は小走りに午後の街へ出ました。

「どうだ、清々せいせいしたろう」

 外は美しい冬の日和ひより、花房一郎は立止って大きく新しい空気を吸います。

「カフェー人魚シレネへでも行って、独り者同士のさかずきでも挙げようか」

「よかろう」

 二人は何時いつの間にやら手を組み合せて居りました。

底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社

   2007(平成19)年415日第1刷発行

底本の親本:「悪魔の顔」愛翠書房

   1949(昭和24)年1

初出:「文芸倶楽部」

   1930(昭和5)年3

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2015年98日作成

青空文庫作成ファイル:

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