踊る美人像
野村胡堂



不思議な手紙


「兄貴、こいつは一杯食わされたらしいぜ」

ッ」

 関東新報の社会部長で、名記者と言われた千種ちぐさ十次郎は、好んでんな伝法な口をきく、部下の早坂勇──一名足の勇──をたしなめるように、霞門の方から入って来る狭い道を指しました。

「あれを見ろ勇」

「女だ」

「しかも、若くて美しくて贅沢ぜいたくな女だ」

成程なるほど、こいつは面白い」

 二人は口から耳へ、斯う囁き交してフッと口をつぐみました。

 日比谷公園の新音楽堂の裏手、滅多めったに人の来そうも無い、忘れられたようなベンチを見守って、一時間余り我慢して居た二人だったのです。

 若くて美しくて贅沢な女は、ベンチの傍まで歩み寄った。不安そうに四方あたりを見廻しながら、崩折くずおれるように腰をおろしました。少し遠い電灯は、青白くその顔を照し出します。

 二人の新聞記者は、黙って藪の陰にうなずき合いました。この美しさは、間違えようもありません。帝都劇場の花形柳糸子の人目を忍ぶ姿だったのです。

 広場は躑躅つつじの客で一杯ですが、この辺は森閑として人の気配もありません。時々風の具合で、寄る浪のように聴えるのは、ヨハン・シュトラウスのワルツらしい。柔かい甘い旋律メロディです。

 千種十次郎を、におびき寄せた不思議な手紙は、ツイ三時間ほど前に新聞社に配達されました。渋谷局から出した速達書留で、中には斯う書いてあります。

──素晴らしい新聞種を提供しよう、今夜九時頃、日比谷公園新音楽堂裏のベンチを見張って居るがい。ただし姿を見せると鳥が飛ぶぞ。──

 新聞社へ舞込んで来る投書は、十中八九まで馬鹿気たものですが、此手紙には、捨鉢な文句のうちに何んとなく心惹かれるものがありました。手の空いて居る足の勇を促して、公園の闇にしゃがむというのは千種十次郎ほどの顔になれば容易の事ではありません。


テンポの早い生活


 十分間ばかり美しい女優はっとして居りました。やがて、

「チェッ」

 舌打を一つ、ベンチから身を起します。わざと目立たぬように、地味な和服を着ては居りますが、贅沢癖は夜目にも隠せず、身体からだを動かすごとに、虹のような宝石が、身体からだのあちこちからキラリキラリと光ります。此時何処どこから飛出したか、

「…………」

 黙って女優の行手に立ち塞がったのは、腐ったソフトを鷲掴みに、素袷すあわせを着流した痩せた男、百舌もずの巣のような髪の下から妙に大きい眼が二つ、魅入るように美しい女優の顔を見詰めます。

「あッ」

 女優は一歩下りましたが、気を取り直して遠い灯に男の顔をすかし乍ら、

矢張やは貴方あなたねえ。手が変って居るから変だとは思ったが、あんな事を言われると来ないわけには行かない──」

 勝気らしい次高音メツォソプラノが、夜の空気になまめかしく響きます。

「斯うでもしなければ、俺に逢ってくれるお前では無い」

「そう判って居るだけ感心よ。サア、物わかりの良い坊ちゃんは、こんな気障きざに筋書を書くものじゃない、黙ってわたしを帰らして頂戴」

「いけないよ」

「じゃ、うしようと言うの」

「これでも昔の良夫おっとじゃないか、一時間や二時間は付き合ってもよかろう」

「御免蒙るワ。今晩は私のアパートへ大勢客をんで居るから、昔の亭主などを相手にしちゃ居られない。御存じの通り私の生活はそりゃテンポが早いんだから」

「何?」

貴方あなたの顔を見ると、胸が一杯になるという事なの、横須賀行の電車見たいな顔だわねエ。ホ、ホ、ホ、ホ」

 抑え切れない嬌笑が、闇の中に突っ走ります。

「畜生ッ、まだ俺を馬鹿にする気か」

「あら、御免なさいよ、そんな気じゃないワ。だけど、本当に今晩は付き合っちゃ居られない、次にして下さいな。無期延期よ、ね、ね」

「いけないよ。お前の為に、名誉も財産も、体面も自尊心も失ってしまった男が、最後の怨みを言う為に此機会を作ったんだ。男から、男へ、庭石を踏むように渡って歩くお前でも、丹波にわ高一のこの落ちぶれ果てた姿を見たら、少しは何んとか思うだろう」

「お気の毒様、何んとも思ってやしないワ。一年でも半歳でも柳糸子ほどの女をままにしたんだもの、五万や十万の身上を棒に振ったって、何んでもないじゃないの。丹波さん、左様なら。もうこんな気障きざな事は止して頂戴、益々可愛気がなくなるばかりだワ、ホ、ホ」

 と身をかえして、霞門の方へ逃げようとする女優の襟首へ、男の手はむずと加わりました。

「あれエ──」

「ウフ、いい思い付きだ、出来るだけ大きい声を出して見ろ。帝都劇場の柳糸子が、元の良夫おっと──乞食のように落ちぶれ果てた丹波高一──に手籠てごめにされたと判ったら、東京中の新聞屋がどんなに喜ぶかわからない」

「畜生、畜生ッ」

「それで無くてさえ、この芝居にはちゃんと見物があるんだ」

「えッ」

「驚くなよ、今ぐ殺そうとは言わない」

一験いったいどうすればいんで、早く言っておくれ」

「お易い御用だ、俺が心血を注いで彫った、あの『踊る美人像』を返してくれ。お前という者に愛想が尽きると、俺は急にあの彫刻が恋しくなったんだ」

「厭だよ。それに、あんな大きい物を持って歩いてるわけじゃなし」

「今でなくていよ、後日の為に抵当だけ受取って置こう」

「抵当なんか持っちゃ居ないよ」

「第一にその指環ゆびわを渡すさ」

「これはお前──」

「知ってるよ、近頃夢中になって居る、石郷いしごう氏が買ってくれたんだろう」

「…………」

 柳糸子は黙って指環を抜きました。こんなもので済めば幸いと言った色が、その美しい顔の表情をひどくたかぶらせます。

「それから帯」

「えッ」

「それだって安くは無かったよ。俺が買ってやったんじゃ無いか、俺が剥くのに不思議はあるまい──」

 争うことの不利益を覚ったのか、糸子はクルクルと帯を解きます。

「それから着物だ」

貴方あなたは、まさか私を裸にする積りじゃ無いだろうね」

 細帯一つになった女優は、丹波高一の冷酷な事務的な言葉を聞いてさすがにふるえ上りました。

「お前は一度俺を裸にしたじゃないか。俺は何もも失なってしまったが、お前は家へ帰ればまだ沢山たくさんの物を持って居る。から虎の門のアパートまで、花形女優の柳糸子が、裸で道中するのも洒落しゃれて居るだろう」

「えッ」

「サア、脱ぐんだ。厭なら手伝ってやろう。不服なら巡査でも弥次馬でも何んでも呼んで見るがいい」

 恐ろしい復讐でした。日比谷公園から虎の門まで、織るが如き往来の中を、花形女優に裸で歩かせようというのは、何んという旋毛つむじの曲った企てでしょう。その上関東新報の記者を二人、藪陰の特等席へ呼んだのは、今は間違いもなくこの男の仕業しわざだということが判ります。

「厭、厭、いや」

「脱げと言ったら脱ぐんだ、脱がなきゃア」

 不気味な眼が二つ、気違い染みた熱心さで、美しい女優の姿を追います。手には何やら刃物を持って居る様子、って厭だと言ったら、どんな事をするかわかりません。

 飛出そうか、飛出そうかと潮時を見て居た足の勇も、妙に悩ましい丹波高一の眼に射すくめられて、剽盗おいはぎ退治の一役を買って出る出鼻を挫かれます。

「畜生ッ、柳糸子ほどの女を剥ぎゃア、貧乏彫刻師はさぞ本望だろう。モデル代は安くないよ。見るがいい」

 女は細紐を解きました。それでも灯にそむいて、袷の襟を滑らせると、丸い真珠色の肩が、夜の空気にほのかに匂うようです。


新聞記者操縦


「勇、あの男を追っかけるんだ、それから、一番先に出逢でっくわした自動車を呼んで、霞門の外で待って貰うんだ」

合点がってん

 綽名あだなまで取った得意の章駄天いだてんです。中距離競走の要領で駆け出す勇を見送って、千種十次郎は女の側へ、

「サア、柳さん。せめてこれでも引っかけて、外へ出ましょう」

 セルの上へ羽織ったの夏羽織を取って、消えも入りそうな真珠色の女の肩へ掛けてやります。

「アッ、千種さん」

 商売柄、この名記者を見知って居た柳糸子の顔には、新しい苦悶の色が浮びます。

「何んにも知らずに、無名の手紙で呼び寄せられたんです。しかし、新聞記者は見た事を、皆んな新聞へ書くものと思ったら、あの男は大変な違算をしたでしょう」

「え、じゃ今晩の事は」

「大丈夫、書きやしません。それより急いで帰りましょう。勇は多分霞門まで自動車を廻して居てくれたでしょう」

「有難う、千種さん、本当に感謝するワ」

 この美しい女優を抱き上げるように、公園の外へ出ると、果して一台の自動車が人待顔に停って居ります。

 不思議そうな顔をする運転手には、百円札を何枚か、それで何も彼も封じてしまいます。絽の羽織に包まれた、美しい女優と並んで、虎の門のアパートに着いたのは、九時半過ぎでしたろう。

「千種さん、から帰っちゃ厭よ。今晩は私客をして居るんです。貴方あなたも臨時のお客になって、玄関から真っ直ぐに私の部屋へ通って下さいネ。私は裏からそっと入って、女中に着物を持って来さして入って行くわ。いでしょう、ネ。そうでもしないと、お客様の手前を誤魔化ごまかし切れないワ、一寸ちょっとの間だけ、久美子に繋ぎを頼んでは来たけれど──え、帝都劇場のたちばな久美子よ──あの人はドジだから心配よ、ね、ね」

「…………」

 千種十次郎は、それにもかかわらず、此まま帰ろうかと思いましたが、柳糸子は早くもその気振けぶりを察して、

貴方あなたは、本当に親切よ、しっかりお礼がしいワ。ね、帰っちゃ厭」

 いきなり柔かな腕が十次郎の身体からだを引止めます。


歓楽の渦


「あら、うなすったの」

「お客を放り出して、雲隠れはひどいよ」

「随分長かったワ」

「まさか夜逃げをしたんじゃあるまいね」

 一座の客は、柳糸子を取り巻いて半円を描きました。んなで六人、半分は女優で、半分は男、金と智慧には困ったことの無いような顔をして居る人種ばかりです。

 美しい主人公の帰ったのを見て、急に踊りの輪が崩れたのでしょう。電気蓄音機に掛けっ放しにされたジャズのレコードは、一番俗悪で、一番刺戟的な歌を、臆面もなく歌い続けて居ります。

「済まなかったワねエ。その代り、すばらしい冒険をやっちゃったワ」

うなすったの」

「日比谷公園へおびき出されて、身ぐるみ剥がれちゃったの。成っちゃ居ないワねエ」

「まア」

 成程、気が付いて見ると、何時いつの間にやら糸子の着物が変って、飛上り、西洋人が着るような、素晴らしい友禅縮緬ちりめん単衣ひとえになって居ります。

「その代り、私を救ってくれた一人の勇士を紹介するワ。千種十次郎、関東新報社の社会部長よ。この方を知らないと、芸人でも、芸術家でもモグリにされるワ」

 ゆびさされた入口の扉を背にしてったのは、この空気とは相応そぐわない、名記者千種十次郎の和服姿です。知ってる顔も知らない顔も、一わたり軽い目礼を交わすと、話題の中心は又柳糸子の襲撃事件に移って行きます。

「で、何処どこ怪我けがは無かったのかい」

 有名な石郷氏は楔形くさびがたの髭を反らせて、斯う鷹揚に言います。柳糸子の新しいパトロンを以って任じて居る富豪で、言葉遣いの尊大なのは、身分柄のせいばかりではありません。

怪我けがなんかしないけれど、公園の真中で身ぐるみ剥がれちゃったんだから、そりゃ口惜くやしかったワ。こんな事と知ったら、これでも持って行けばよかったのに」

 部屋の中程、窓際に据えたテーブルの抽斗ひきだしを開けて、糸子は何やら光るものを取り出します。

 見るとそれは、拳の中へ隠れてしまいそうな、華奢きゃしゃ短銃ピストル

「危いじゃないの、そんな物を振り廻しちゃ」

「大丈夫、これでも弾はちゃんと六発共こめてあるんだから」

「あッ、お悪いわ」

っとしておで、的が動いちゃ困る」

「冗談じゃない。お止しよ。あれッ」

 金切声をあげて飛上ったのは、同じアパートの隣りのへやを借りて住んで居る、篠井しのい智恵子という、同じ帝都劇場の花形、柳糸子に劣らず美しい癖に、柳糸子と姉妹のように仲よくして居る女優でした。

 競争者の地位に居るこの二人が、こんなに仲の良いことは、帝都劇場に取っても、どんなに幸せだったかわかりません。もっとも柳糸子は喜劇的で明るくて、篠井智恵子は悲劇的で暗く、同じように美しいうちにも、性格も役柄も違って居るのが、かえって二人の友誼ゆうぎこまやかにしたのかもわかりません。

 十坪ばかりのへやの中を、美しい男女はしばらく、キャッキャッと逃廻りました。これは糸子が客間とも居間ともなく使って居たへやで、一方は境のは厳重にとざしては居るが、篠井智恵子の借りて居るへやに通じ、一方は廊下を隔てて女中部屋に面し、一方は窓、一方は小さい寝室に扉一つで通じて居ります。

 部屋の調度はなかなか洒落しゃれたもので、窓掛も、椅子いすも、卓子テーブルも、飾電灯シャンデリヤも存分に贅沢な趣味と、無法な浪費とを物語って居ります。建築はこの節の高等アパート並に鉄筋コンクリートですから、夜中まで騒いだところで、同宿人を困らせるようなことは滅多にありません。

 暫らく女達を追い廻して居た糸子は、いきなり長椅子の上へ身体からだほうり出して、

「ア、ア、何んて臆病な人達だろう、そんなこっちゃ、鉄砲屋の前も通れやしない」

短銃ピストルが怖いんじゃない、持ち手が恐ろしいんだワ。全く何をするか解らないから──」

「言ったね智恵ちゃん」

「言わなくってサ。少し今晩はどうかしてるワよ」

「そうだろうとも、日比谷公園へ引っ張り出されて、身ぐるみ剥がれて御覧、誰だって少しはどうかするから」

 智恵子は同じ長椅子に腰を下して、そっと糸子の短銃ピストルの手の上へ自分の手を持って行きました。油断を見て、取り上げようと思ったのでしょう。派手な和服と派手な洋服と、およそ似つかわしくない二人の様子ですが、その辺に醸し出される空気には、何んとなく舞台の上のような劇的な趣があります。

「どっこい、そんな事だろうと思った」

「ワッ」

 智恵子は短銃ピストルを突き付けられて、驚いて飛上りました。油断を見すまして取上げようとしたのが、見事にしくじってしまったのです。

「皆んな怖がるから、斯うしようね智恵ちゃん」

 糸子は立ち上って、へやの一方──書斎に使って居る大卓子テーブルの後ろのカーテインを引きました。重い織物に淀んだ光が、サッと入って行くと、中から現われたのは、踊って居る美しい女──と見たのは、およそ世にも精巧に出来た等身大の美人像です。


短銃ピストルは美人像の手に


「あ」

 一座の人々は思わず感歎の声をもらしました。噂にだけは聞いて居りますが、柳糸子が魂を打込んで可愛がって居るという、これはその道でも有名な美人像だったのです。

 元よりザラの飾窓ショーウィンドなどにあるような人形ではありません。一時世に鳴らした彫刻家丹波高一が、心魂を打ち込んで刻んだ出世作で、のみの跡も匂うような木彫に、木目を生かす程度に彩色を施し、素人眼しろうとめには、限りもなく美しく仕上げたものです。

 三年ばかり前さる展覧会に出品されて、囂々ごうごうたる賛否の中に世の視聴を集めた作品ですが、その頃から有名になりかけて居た女優の柳糸子が、作者の丹波高一にせがんで貰い受け、それが縁になって、二人は同棲するまでになった由来付きの彫刻です。玄人くろうと筋からは、題材が今様に過ぎて、卑俗ではないかと言われ、美しい淡彩も当時専門家の間には、大分論議の種になったこともあります。

 それにも拘らず、素人の人気は非常で、会期中この像の前は観客の黒山を築き、絵ハガキの売高はレコードを作ったと言われて居ります。上品な夢見るような顔も美しいが、とりわけこの像の値打は、その顔の高雅な表情に似ず、妖艶極まる不思議な媚態ポーズだとされて居りました。

「これならいでしょう」

 糸子は「踊る美人像」の前に立って、短銃ピストルをその右手に持たせましたが、踊りの姿勢になって居る手になかなか短銃ピストルは止まって居ません。

「悪い人は遠慮なく撃っておくれよ、ね京ちゃん」

 袂から手巾ハンケチを出してとうとう美人像の手に短銃ピストルを結えてやりました。──京ちゃん──というのは、その頃丹波高一と柳糸子が、愛の巣を見守って居るこの「踊る美人像」につけた名前だったのです。

「少し埃っぽくなって居るワ。可哀そうに」

 ついでに袖で埃を払って、人形の冷い頬へ、自分の温かい頬を。

「あら、石郷さん、妬かなくたっていワ。これは魂があるにしても女の人形よ、ホ、ホ、ホ、ホ」

 もう一つ、美人像の頬に自分の頬を当てて、つと身をかえします。

「さア、踊りましょうよ、滅茶滅茶に」

 電気蓄音機が再び獰猛にフォックス・トロットを唸って、女中はせわしくグラスを運び代えます。

「明日は帝都劇場の初日だろう、もうボツボツ引上げた方がよくは無い?」

 石郷氏は、誰へともなく斯う言います。多分皆んなは引上げてくれ。わしだけ残る、と言った謎だったかも知れません。

いわよ、まだ十時少し廻ったばかりじゃないの。十二時までは大丈夫よ」

 踊りの輪は又活々いきいきと廻り始めました。和服姿の千種十次郎はそぐわない心持で、マジマジとこの歓楽の渦を眺めて居ります。入るべからざる禁苑に入り込んで、見ては悪い妖精の乱舞を見て居るような、異様な自責に息がはずみます。

 踊りの輪は妖しくも華やかに咲き崩れます。アルコールに浸った狭いへやの空気は、この六人の男女を気違い染みた亢奮に誘って行くのでしょう。

「千種さん」

 そっと囁くように呼びかける者があります。振り返ると、日蔭に咲いた花のような、若い淋しい娘が一人、物言い度気たげに十次郎の顔を差し覗いて居ります。

何誰どなたでした」

「私──柳の妹、雪って申します」

 柳糸子に美しい歌い手の妹があることを聞かないではありませんが、それが、歓楽の渦を巻くこのへやの隅っこに、置き忘れた人形のように、誰にも構われずに居ようとは思いもかけなかったのです。

 尤も、気が付いて見ると、雪子は足が悪かったのです。足の悪い人が、ジャズに踊り狂う一座に入って居たら、どんなにじめなものか。十次郎はツイ同情らしい眼を、この娘の淋しい顔に注いで居りました。

「申上げ度いことがあるんです、そして御智慧を拝借し度いことが──」

 訴えるような眼差まなざしを見ると、十次郎はツイ斯う言わなければなりませんでした。

「廊下へ出ましょう。少し風に吹かれないと毒です」

 二人は廊下を真っ直ぐに進んで、このアパートの浅いベランダに出て居りました。

「千種さん、今晩姉の身の上にどんな事が起ったでしょう。詳しくお話し下さいませんか。私、心配で心配でたまらない事があるんです」

 雪子は物の影のように、淋しく寄り添います。

「と言うと──」

「姉の命は、誰かにねらわれて居るんです」

「どうしてそんな事がお解りです」

「御存じの通りの姉ですから、一向気にしませんが、それはそれは恐ろしい脅迫状が、毎日のように舞い込むんです」

「…………」

「それから、舞台で姉の頭の上へ、倒れる筈のない大道具が倒れたり、姉の取り寄せたランチへ、毒薬が振りかけてあったり、後から後からと怖いことが起るんです」

 この姉思いの妹は、本人の糸子よりも神経を悩まして居るのでしょう。斯う話すうちにも、ほっそりした身体からだは痛々しく顫えて居ります。

「それは放って置けない、明日にでも私から、警視庁の花房はなぶさ君に話して、何んとかして貰いましょう。まあ、あまり心配しない方がいでしょう」

 気休めと知りつつも、十次郎の口からはツイこんなお座なりが出ます。それほど相手の雪子は物怯えがして居たのです。


恋の敗残者


「新聞屋の先生、面白かったろう。ハッハッハハハハ」

 斯う声をかけられて、足の勇は思わず立ちすくみました。後をけて来た相手に呼びかけられては、誰でも一寸ちょっと面喰います。

「驚くなよ、わざわざ手紙で招待して、特別席からの活劇をお目にかけたんだ。遠慮することは無い。明日の新聞には、三段抜かなんかで頼むよ、『女優柳糸子、日比谷公園で身ぐるみ剥がる』なんていうのは。全く良い標題みだしだぜ、ちと特種料を出しな──」

 勇の前へヌッと片手を出したのは、言うまでもなく彫刻家丹波高一という落ち果てた姿です。

「尤も、亭主が女房を剥いだんだから、これは泥棒じゃないぜ。面喰って恐れ乍らとめると、飛んだ恥を掻くかも知れない、念の為に申して置くがね──」

「…………」

「君なんかも、このはチョクチョク用いるだろう。ハッハッハハ、隠すな隠すな。何? まだ女房がえ、情ねえ男だな、女房が無きゃア女給でももりっ娘でも剥いで来るがいい──」

 二人は何時いつの間にやら日比谷の電車通へ出て居りました。

その辺で一杯やろうよ」

 今度は勇の方から水を向けます。

「有難いね。君はなかなか種取りに熱心だ、キット出世するよ」

 足の勇は忌々いまいましそうに舌打をしましたが、それでもこの男を逃がすのが惜しかったので、最寄のバーへ引張り込んでしまいました。

 それから三時間あまり、二人はすっかり肝胆相照あいてらして、数寄屋橋から銀座へ、手当り次第に五六軒飲み廻りました。どちらもイケる口で、話が面白いと来て居ますから、初めは苦々しいと思った足の勇も何時いつの間にやら、この小汚いボヘミアンと腕を組んで、銀座のペーヴメントを、鼻唄で押し廻すほど酔って居りました。

「ゲープ。ネ、新聞屋の先生、それに付けても女は悪魔だ。君なんかも気をつけなくちゃいけないぜ。──柳糸子だって、昔はあんな女じゃ無かったんだが、何時いつの間にやら淫蕩の生活に踏み込んで、今じゃ手の付けようの無い妖魔になっちまいやがった。あの女の為に身上や名誉を棒に振った男は何人あるかかぞえ切れはしない。俺なんかもその一人さ。自殺したり殺されたりした人間もある筈だから、これでも俺は浅傷あさでの方なんだ」

 淫怪な妖魔、柳糸子の罪悪史が、アルコールに燃えさかる丹波高一の舌で、残すところ無く描き尽されました。

「サア、電車が無くなったようだぜ、帰ろう」

 と言い出したのは、七軒目のバーで、十二時を聞いた時でした。

「ね、新聞屋の先生、こんな特別上等の特種を持って行くんだから、どうせ今晩の会計は官費にして貰えるだろうが、それにしても、丹波高一ともあろう者が、一銭も出さないと言われちゃ恥だ、なア亭主、これでも取って置いてくれ」

 時間過の客に気を揉んで居る亭主の前へ、ポンとほうり出したのは、先刻さっき柳糸子の指から抜いて来た、ダイヤ入の指環です。


女優の怪死


 女優柳糸子が、不思議な死様しにざまをしたと知れたのは、その翌日の午後、夕刊の締切近い時刻でした。

「勇、飛んで行ってくれ。出来るだけの事をして検視の模様を夕刊へ入れるんだ」

「よしッ」

 足の勇は自動車の後押しも仕兼ねまじき勢で飛出しました。

 千種十次郎は飛んで行って見度いと思い乍らも、夕刊の仕事があるのでうすることも出来ません。日頃「編輯へんしゅう者は、窓の外で人殺しがあっても、卓子テーブルから動くな、冷静を欠くのは一番悪いことだ」と言って居る編輯長の手前、用事にかこつけて外へ出るわけにも行かなかったのです。

 その内に「女優殺しの情報」が、いろいろの方面から集って来ます。幾つかの社会部通信、市内通報員の電話、特別通信──などを総合して、千種十次郎は夕刊の記事を整理しなければなりません。

 午後二時、最後の締切という時までに集まったところによると「女優柳糸子の怪死」に関する情報はザットこんなものでした。

 ──昨夜、柳糸子の客が帰ったのは十時半頃、糸子と特別関係があると思われて居る石郷氏は、皆んなの後まで残って、何か糸子と争って居りましたが、それも十一時前には引揚げてしまいました。話の内容はわかりませんが、その時まで姉に暇乞いをしようと思って廊下に残って居た妹の雪子と隣室を借りている女優の篠井智恵子が、激しい言い争いのあった事を証言して居ります。

 石郷氏と雪子と前後して帰りました。隣室の篠井智恵子が電灯を消して寝たのは丁度ちやうど十一時、それからは、このビルジングに一人の訪問者も無かったことは、門番夫婦が明言して居ります。

 明る日──というと今日です、何時いつも十時頃に起きる糸子が十一時過ぎても顔を見せなかったので、廊下を隔てた女中部屋に居る、女中のおなおず心配し出しました。

 十二時には帝都劇場から電話が掛かって来まして、初日の打合せがあるから、二時前には楽屋入をして貰い度いというのです。お直はそれを取次ごうとしましたが、うしてもは開きません。ノックしても駄目、大きい声で呼んでも駄目。仕方がないので、門番を呼んで来て、代りの鍵でを開けてもらったのです。

 女中のお直は鍵を持って居なかったばかりでなく、糸子の持って居た鍵も、の鍵穴へ内から差込んだままになって居りました。は当然糸子の手で内から閉め切ったままと見なければなりません。門番の代鍵は手提金庫に入れて、子の無い門番夫婦の間へ置いて川の字なりに寝る位ですから、盗み出して元へ返すことなどは思いもよりません。

 ところで、を開けた門番のじいと女中のお直は、たった一ぺんで腰を抜かしてしまいました。主人の柳糸子は、昨夜ゆうべのまま、派手な友禅縮緬ちりめんを着たまま、卓子テーブルの上へ俯向になって死んで居たのです。背後うしろからは恐ろしい血潮が吹き出して、黄と銀とで大柄な模様を出した帯の上に溜り、その先は床に流れて贅沢な絨毯じゅうたんに恐ろしい汚点しみを作って居ります。

 時を移さず係官は出張しました。検屍の結果、傷は背後から短銃ピストルで真っ直ぐに撃ち抜かれたものと判りましたが、弾は胸骨に止って居りますから、絶対に自殺ではありません。が、同時に、犯人の這入はいった形跡も絶対に無いのです。

 そればかりではありません。弾丸たまは糸子の二間ほど後方にある「踊る美人像」の手に手巾ハンケチで縛った短銃ピストルから発射されたもので、此場合、美人像が引金を引いたとでも思わなければ、どうしても解釈の方法がありません。

 廊下に面したは締め切った上、内から鍵が差し込んであったとすれば、から入れる道理はありません。ほかが二つ、一つは寝室に通じて居りますが、寝室は一方口で、も問題にならず、もう一つのは、隣の篠井智恵子のへやに通じて居りますが、これは長い間釘付けになって、絶対に開けた形跡がありません。

 床にも天井にも、四隅の金網を張った小さい空気抜きの外には、鼠の通れるほどの隙間もなく、窓は寝室のも客間のも、厳重にとざされて、一々掛金が下りて居りますから、から入れる道理もありません──

 編輯局の机の上に集った情報はこれだけです。この記事を適当に整理してセンセイショナルな標題を付けて、十次郎はホッと額の汗を拭きました。

 ──悪い人は遠慮なく撃っておくれ──と言い乍ら、短銃ピストルを美人像の手に持たせ、引寄せるように頬摺りをしていた、昨夜の糸子の嬌態を思い浮べて、千種十次郎はすっかり憂鬱になってしまいました。

「千種さん電話」

 気が付くと助手が受話器を持って此方こっちを見詰めて居ります。

何誰どなた? あ、勇か、どうした。何? 嫌疑者が挙げられた、誰だ? 何、石郷氏? うして殺したんだ、何、其処そこまでは解らない。呆れたなア、よしよし、それだけでも夕刊へ入れて置こう。後引続きやってくれ、朝刊へは事によったら昨夜ゆうべの事件もぶちまけよう。あれはい特種になるよ、糸子が死んだんだから、構わないだろうよ。左様なら、しっかり頼んだよ──」


鍵穴からもぐる


「柳糸子の怪死事件」は全くセンセイションそのものでした。新聞は毎日煮えくり返るように書き立てましたが、犯人はどうしても挙らないばかりでなく、事件の真相も、絶対にわかりません。

 石郷氏は身分の関係で、任意同行の形式で取調べられましたが、間もなく釈放されてしまいました。女優と最後に争ったのは事実ですが、それは前の情人から贈られたという美人像に糸子が不思議な愛着を持って居る様子を見せつけられて、妙に嫉妬を感じたというに過ぎなかったのです。全く石郷氏がどんなに細そりして居ても、鍵穴やの隙間から入って、人を殺せるわけは無かったのです。

 続いて関東新報の記事──柳糸子が前夜日比谷公園で脅迫された──というのにヒントを得たのでしょう。丹波高一が木賃宿から挙げられました。併しそれもダイヤの指環と、糸子の着物を入質しようとしたという以外には、犯罪と関係のある証拠は一つもあがりません。それに、糸子の殺された推定時間──十二時前後──には足の勇と銀座あたりを梯子はしごで飲み廻って居たのですから、立派な現場不在証明アリバイを持って居るわけです。

 ガストン・ルルウの書いた「黄色の部屋」の犯罪のように、外で撃たれた柳糸子が、何んか重大な理由で、苦痛を忍んでへやの中へ入って倒れたのではあるまいかと言う説を立てた人もあります。が、屍体解剖の結果、そんな事は絶対にあり得ないということが証明されました。第一部屋の外へは血が一滴も流れて居ないのですから、屍体解剖を待つまでもなく、そんな探偵小説染みた解釈は成り立ちません。

「兄貴、三人目の容疑者が挙ったぞ」

 足の勇が帰って来たのは、その翌日でした。

「誰だ?」

「隣室に居る女優の篠井智恵子さ」

「えッ」

「これが一番本当らしい」

「何んかえ、智恵子は鍵穴からもぐって隣室の柳糸子を襲撃したとでもいうのか」

「冗談じゃない、まあ聴いてくれ。──智恵子が、アパートの窓の外にある、幅三寸ほどのコンクリートの張出しを伝わって隣室に行き、多分一つだけ開いて居た窓から入って糸子を殺したろうというのだ」

「で、何処どこからうして帰ったのだ」

「元の窓から出て、もう一度張出しを伝わって──」

「待ってくれ、それじゃ、智恵子が逃げた後で、死人の糸子が起き上って、証拠を湮滅いんめつするために自分を殺した智恵子の出て行った窓を閉めてやったとでも言うのか」

「どうも、お先っ走りをして困るな。そうじゃないんだ、窓は智恵子が出る時、上から激しく降したはずみで、独りで掛金が下りたろうというのだ」

「本当にそんな馬鹿な事を言う人間があるのかえ、呆れたもんだ。あの掛金は最新式ので、指でグイと廻さなきゃ下りない筈だ。気の毒だがもう一度行って見張ってくれ、智恵子は直ぐ帰されるに決って居るから」

「やれやれ、やり切れないね」

 口では不承不承に言い乍らも、足の勇は持前の気軽さで、猟犬のように飛出してしまいました。


名探偵の出馬


 それから三月経ちました。事件は完全に迷宮に入って、女優殺の犯人は永久に挙りそうもありません。

 多分──世間では斯う言いました──あの女の淫蕩な生活を憎んで、美人像が殺したんだろう。名作に奇瑞きずいは昔から付き物だ──と。

 警視庁の花房一郎が、事件の中心に飛込んで来たのは、もうすっかり夏になってからの事です。

 糸子の妹の雪子が、「せめて姉のかたきを」と言って千種十次郎に泣き付いたのが発端で、この淋しい娘のために、かつて姉を保護する約を果すことの出来なかった十次郎は、其足ですぐ花房一郎を訪ねたのです。

「それは困る」

 所轄署への遠慮で、なかなか腰を上げなかった花房一郎も、十次郎と雪子に口をすっぱくさせた揚句、とうとう、

「では、調べて見るだけでも」

 ということになりました。

 それから三日、花房一郎は文字通り糸子の殺されたへやに籠りました。「日本家屋には滅多にない秘密の通路でも発見する気だろう」とか「床から壁から天井まで、一尺四方ずつにでも区切って、め廻るように調べて居るだろう」と噂されましたが、事実は大違い、糸子の部屋に籠った花房一郎は、電気蓄音機を聞いたり、新聞を読んだり、煙草たばこを吸ったり、一向取り止めの無い顔をして暮してしまいました。四日目の朝、急に電話を掛けられて雪子と十次郎がやって来ると、

「今晩小さい舞踏会を開いて下さい。いつぞやの晩と同じ顔触れで、同じ人数で、すっかり同じ事をやるのです。話も、飲物も、何も彼もあの晩の通り繰り返さなければなりません。事情があっても無くても、故人の追悼の意味で是非出席してもらい度いと言うのです、それでも来られないと言う人があったら、私の名を持出しても構いません」

 花房一郎の頭には、何んかしら素晴らしい計画がありそうです。


奇蹟は現われた


「あの晩の通り繰り返して下さい、一つも違ってはいけません。二と二をかければ、いつでも四になるように、同じ原因を積み重ねて行けば、必ず同じ結果になるものです」

 花房一郎の言葉に、一座の人達は呆気に取られて居ります。一座というと、あの事件があって以来、すっかり評判を悪くしてしまった石郷氏をはじめ、気味が悪いと言って、隣室から三日目に引越してしまった女優の篠井智恵子、柳糸子の妹の雪子、それに千種十次郎、あとは糸子の女弟子橘久美子、糸子の憧憬者で、始終に出入して居た若い紳士が二人、それに花房一郎を加えて都合八人です。

 花房一郎の計画を聞かされると、石郷氏は「フフン」と言った顔をしましたが、相手が相手なので素早くとりつくろって、真面目まじめにうなずきます。

「ところで、死んだ糸子さんの代りは、帝都劇場の舞台と同じように、篠井智恵子さんに勤めて貰わなければなりません。篠井さんの代りは、雪子さんがやるのです。サア──」

 花房一郎は独り呑込みに呑込んで、矢継早やつぎばやにジャズのレコードを掛けたり、途方もなく賑やかな話を始めますが、皆んなの心持は、あの晩の通りになるどころではありません。舞踏も不承不承、話も兎角とかく滅入り勝ちで、お通夜のような、重い心持がへやの中に漲ります。

「これでよし。と、此辺で丁度千種君が入って来た事になるだろう。お直さん、飲物を間違わないように」何んと言う不思議な再現でしょう。舞台監督の花房一郎が浮れれば浮れるほど部屋の中の空気は次第にチグハグになるばかりです。

「此辺で糸子さんは、『踊る美人像』の手へ短銃ピストルを持たせたのでしょう、これは私が代ってやろう」

 用意して来た同じような小型の短銃ピストルを、これも特に用意したらしい女持の手巾ハンケチで美人像の右手に堅く縛ります。

 十一時が鳴ります。

「皆さんは帰る時刻です──イヤ、本当に帰ってはいけません。帰った事にして、だけを開けて、又閉めて、部屋の隅の方に掛けて、もう暫らく様子を見て居て下さい。それからお気の毒ですが、石郷さんは糸子さんの代役──智恵子さん──と言い争いをしなければなりません。最初、石郷さんはんなことをおっしゃいました?」

「──」

 何んと言う馬鹿馬鹿しい芝居でしょう。石郷氏はすっかり腹を立てて黙り込んでしまいました。

よろしい宜しい、って実演しなくとも、言い争いがあったと仮定しましょう。──ところで今度は私が石郷氏の代りになって腹を立てて外へ出ましょう、智恵子さんはその儘、卓子テーブルの前に掛けて、糸子さんがやって居た通り、少し俯向になって居て下さい。──後ろを振り向いてはいけませんよ」

 智恵子は真蒼になりました。後ろを振り向くどころの沙汰ではありません。卓子テーブルの前に死んだ糸子と同じ姿態ポーズで坐るのは、首の座へ直るような恐ろしさでしょう。が、花房一郎はそんな事に少しも頓着しません。

「私が石郷さんの代りになってへやの外へ出たら、何誰どなたか、の鍵をかけて、そのまま鍵穴へ入れて置いて下さい。──あ、この役目は千種君がい」

 糸子の代りになった智恵子は、卓子テーブルの前に掛けて、美人像に背を見せたまま、身動きも出来ないほどの恐怖にさいなまれて居ります。眼はすっかり見開いてしまって、藍のような顔に、恐ろしい神経性の痙攣けいれんが走ります。

 あとの七人は、部屋の一隅に固まって、カーテンの間からわずかに見える美人像の手先──其処そこに気味悪く光る短銃ピストル──と、智恵子の打ち顫う姿を見詰めて居ります。

 一分、二分、三分と過ぎました。最初は嘲笑して居た石郷氏の顔も、すっかり硬ばって、一座は本当に大きい息をくものもありません。到頭、奇蹟が現れました。いきなり、

 ドーンと轟く短銃ピストル、美人像の手から一条の焔が走ると見るや、

「ウーム」

 的になった智恵子は、そのまま気絶して卓子テーブルに俯向きになります。

 の鍵を開けると、一陣の風と一緒に飛込んだ花房一郎、

「美人像は矢張り短銃ピストルを撃ったでしょう。併し、今度のは空砲だから、怪我けがは無い筈だ」

 ズカズカと気を失った篠井智恵子の前へ。抱き起して介抱するかと思うと、そうではなくて、気を喪ったままの女へ、ガチリと手錠をはめてしまいました。

「お騒がせしてすみません。犯人は此女です。皆様はどうぞ御随意にお引取り下さるように」

 花房一郎は慇懃に小腰を屈めます。打って変って隼のような慧敏な面魂。石郷氏に嘲られた、間延びのした面影などはもう微塵みじんもありません。


「どうして智恵子を犯人と判ったんだ」

 あくる日の朝、警視庁の記者倶楽部くらぶで、花房一郎はニコニコし乍ら此問に答えました。

「あの美人像の手に縛り付けた短銃ピストルを発射させ得る者は、智恵子より外には無いのだ。──あの晩石郷氏が帰ってから直ぐ、智恵子はもう一度、糸子のへやを訪ねると、糸子は美人像の短銃ピストルに背中をそむけたまま、卓子テーブルに顔を埋めて泣いて居たのだ。で、フト見ると美人像の後ろが、自分の部屋との境ので、は厳重に締って居るがピストルの後方一尺位を距てて水平の位置に鍵穴があることを発見したんだ。

 それが智恵子の為には恐ろしい誘惑さ。舞台の上で自分の競争者であるばかりでなく、長い間自分に眼をかけてくれた石郷氏までが、近頃すっかり糸子のものになったのを見て、さり気ない様にして居ても、腹の中は煮えくり返って居た矢先だ。──ところで、短銃ピストルうして発射さしたというのか、まだ解らないかなア。智恵子は細くて丈夫な紐を一本用意して、その端っこを三つ四つ、短銃の引金に巻き付け、一方の端っこを、境のの鍵穴を通して、自分の部屋へ通したのだ。そして──用心が悪いから私が帰ったら後のを閉めて下さいよ──とか何んとか、泣いて居る糸子にお為ごかしに言って引揚げ、糸子がを締めて、元の卓子テーブルの前に戻った様子を、鍵穴から覗いて確かめた上、短銃の引金に絡んだ紐の端っこを、鍵穴を通して、向うの部屋から急に強く引いたのだ。短銃ピストルは発射する。紐の先は結えてないから、そのまま引かれて此方こちらへ来る。証拠は毛程も残らずに、憎い相手は短銃ピストルに撃ち抜かれて死んだ──これで全部だ。そんなに事件がよく解って居るのに、うしてあの晩の出来事を再演さしたかと言うのか。──それは斯うだ。あの犯罪はあまりに巧妙に過ぎて、とても一通りの女の考え出せる手ではない。智恵子に相違ないと理窟の表は示して居ても、万一違って居ては大変だ。そこであの、間の抜けた芝居を思い付いて、犯罪当夜の事をそのまま再演さしたのだ。どんなに気の強い犯人でも、自分のった犯罪を冷静に二度繰り返せるものではない。私は智恵子の心の動きを見たかったのだよ」

 花房一郎は斯う言って記者室を出て行きました。

底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社

   2007(平成19)年415日第1刷発行

底本の親本:「悪魔の顔」愛翠書房

   1949(昭和24)年1

初出:「文芸倶楽部」

   1930(昭和5)年6

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2015年98日作成

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