黄金豹
江戸川乱歩
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東京都内に、『まぼろしの豹』があらわれるという、うわさがひろがっていました。
ある月の美しい晩、ひとりの中学生が、お友だちのうちからの帰り道に、大きな西洋館の前にさしかかりました。
さびしい町ですから、まだ九時ごろなのに、まったく人通りがありません。空には、満月にちかい月が、こうこうとかがやいています。ひくいコンクリートの塀をへだてて、西洋館の屋根が、月の光をうけて、まっ白に光っているのが見えます。
その屋根の上を、一ぴきの大きなネコが、のそのそと歩いていました。
「オヤッ、なんて、でっかいネコだろう。」
中学生はびっくりして、立ちどまりました。
そいつは屋根の上を、だんだん、こちらへ歩いてきます。ふつうのネコの十倍もあるほど大きいのです。そしてふしぎなことには、全身が金でできているように、ピカピカ光っているのです。その金色のからだに、黒い斑紋が、いっぱいならんでいます。
「アッ、ネコじゃない。豹だッ!」
中学生は、からだがしびれたようになって、逃げだすこともできなくなってしまいました。
それにしても、なんという美しさでしょう。金色の豹は月の光をうけて、キラキラと、後光がさしているようです。
屋根のはしまで歩いてきたとき、青く光る二つの目が、じっと、こちらを見つめました。
中学生は、あまりの恐ろしさに、もう息もできないほどです。
豹が、東京の町の中の、屋根の上をはっているなんて、夢にも考えられないことです。そのうえこいつは黄色でなく、金色に光っているのです。月の光のせいではありません。たしかに金色なのです。黄金の豹です。お化けの豹です。
そのとき、西洋館の屋根のはしから、スーッと金色の虹がたちました。豹が庭へ飛びおりたのです。
それはコンクリート塀の中なので、しばらくは、ようすがわかりませんでしたが、やがて、すかしもようの門の、鉄の扉のむこうに、キラキラ光るものがあらわれました。
アッと思うまに、その金色の怪物は、門の扉をのりこして、のそのそと、こちらへやってくるではありませんか。
「ワアッ……。」
中学生は、恐ろしい悲鳴をあげて、そこへたおれてしまいました。今にも豹がとびかかってくるだろう。そして、胸の上に前足をかけて、あんぐりと、かみついてくるだろうと、もう、生きたここちもありません。
しかし豹は、たおれている中学生には見むきもせず、その横を通りすぎて、むこうの町かどへ消えてしまいました。
ちょうどそのとき、はんたいの方から、あわただしい靴音がして、ひとりの警官がかけつけてきました。さっきの中学生の叫び声を聞きつけたからです。
「どうしたんだ。しっかりしたまえ。」
警官は中学生をだきおこして、わけをたずねました。
「豹です! 大きな豹が、いま、あっちへ……。」
中学生は、ふるえる手で、むこうの町かどを指さしました。
「なんだって? きみは夢でも見たのか……こんなところに豹なんかいるもんか。」
「いいえ、ほんとうです。しかも、金色のふしぎな豹です。あの角をまがりました。まだ、そのへんを歩いているにちがいないのです。」
「よし、そんなら、ぼくがたしかめてくる。そんなばかなことがあるもんか。」
警官はそういいすてて、町かどへ走っていきました。
角をまがると、むこうから、ひとりの人間が歩いてきました。月の光で、よく見えます。それは白いひげを、胸までたらしたおじいさんでした。ひどくはでな、こうしじまの背広をきて、ステッキをついています。
「おじいさん、今ここを、大きな動物が通らなかったかね。犬やネコじゃない、もっと大きなやつだ。金色に光ったやつだ。」
警官がたずねますと、おじいさんは、きょとんとした顔で、
「うんにゃ、なにも通らなかったよ。ネコの子一ぴき通らなかったよ。」
と答えて、ニヤニヤと笑いました。
中学生が見た黄金の豹は、それっきりゆくえ不明になったのです。あくる日になっても、どこからも豹はあらわれてきませんでした。
あの中学生は、きっと、夢かまぼろしでも見たんだろうということになってしまいました。
「うそじゃないよ。ぼくは、たしかに見たんだよ、ネコの十倍もある金色の豹だったよ。」
中学生が、いくら、ほんとうのことを話しても、だれも、とりあってくれませんでした。
それから一週間ほどたった、ある夕がたのことです。銀座通りの有名な美術商、美宝堂の陳列室は、美術品を見る客でにぎわっていました。
一方の壁ぎわに、人間ほどの大きさの古い仏像が、いくつもならんでいました。そのとなりには、よろいびつの上に、古いよろいが飾ってあります。また、美しいもようの、むかしの中国の大きな花びんなどもならんでいます。
しかし、それらの美術品の中で、いちばん人目をひいたのは、一ぴきの大きな豹のおきものでした。たぶん、金めっきをしたのでしょう。全身金色に光っている中に黒い斑紋がうきだしています。前足を立てて、神社の前にあるコマイヌのように、ちょこんとすわっているのです。
「わあ、こいつはりっぱだなあ、まるで生きてるようだ。」
「見たまえ、目が青く光っているぜ。今にも、とびかかってきそうだね。」
「それにしても、こんな大きな豹のおきものなんて、じつにめずらしいよ。しかも、全身金色に光っているんだからね。」その前を通る人たちが、口々にほめたたえています。
ひとりの紳士が、店のおくにいる支配人の前へいって声をかけました。
「あすこにある金の豹は、みごとなものですねえ。いったいだれの作ですか。時代はいつごろのものですか。」
すると支配人は、びっくりしたような顔をして、
「エッ、金の豹ですって? そんなものは、陳列してないはずですが、どこでごらんになりました?」
と聞きかえすのです。
「どこって、ほら、あすこに、おおぜい人が集まっているでしょう。仏像のならんでいるそばですよ。」
「へえ、そうですか。へんだな、うちに豹のおきものなんてないのですがね。」
支配人は首をかしげながら立ちあがって、いそいでそこへいってみました。客をかきわけるようにして前に出ますと、そこに、大きな金色の豹が、うずくまっているではありませんか。
支配人は、アッとたまげてしまいました。まったくおぼえがないのです。ついさきほどまで、そこには、豹なんて、かげもかたちも見えなかったのです。いったい、だれが、いつのまに、こんな大きなものを持ちこんだのかと、あっけにとられるばかりです。
そのとき、
「アッ、動いた。豹が動いたよ。」
だれかが、びっくりするような声をたてました。
ああ、ごらんなさい。たしかに、金色の豹が動いています。前足と、肩のへんが、ブルブルとふるえ、首がグッと上をむいたかと思うと、口が、ガッと開きました。口の中は、まっ赤でした。そこから白い牙が、ニューッとつきだしています。
それを見ると、むらがっていた客が、あわてふためいて逃げだしました。支配人も逃げました。たちまち美宝堂の店には、人かげが見えなくなってしまいました。まるで、あきやのように、がらんとした店の中を、一ぴきの金色の豹が、のそのそと歩いて、表の方へ出てきました。
「ワアッ、豹だッ。金色の豹が出たッ。」
銀座通りを歩いていた人たちが、なだれをうって逃げだしました。
もう、夕やみがせまり、空の色よりも電灯の光のほうが、明るく見えはじめるころでした。
美宝堂の前から百メートルほどのあいだ、あのにぎやかな銀座街も、まったく人通りがとだえ、電車や自動車もとまってしまいました。
そのひろびろとした銀座通りの夕やみの中を、金色にかがやく一ぴきの豹が、ゆうゆうと歩いていきます。
そのうちに、だれかが知らせたとみえて、うしろの方から、十人ほどの警官の一隊が、あらわれました。手に手にピストルをにぎっています。
豹は、まだ町を歩いているばかりで、人間には危害をくわえておりませんけれど、相手は猛獣ですから、いつ、どんなことがおこるかわからないので、できるだけ早く、ピストルでうち殺してしまわなければなりません。しかし、遠くからうって、もし急所をはずれたら、かえってあぶないのです。警官たちは、じゅうぶん近よってから、うち殺すつもりで、用心ぶかく、豹のあとを追っていきました。
銀座を歩いていた青年たちのうち冒険ずきな人たちは、その警官隊のうしろから、おおぜいついてきます。警察では、一方、上野の動物園に電話をかけて、豹などをとりあつかうのになれた人を、いそいで銀座へよこしてくれるようにたのみました。殺してしまうよりも、生きたままつかまえるほうがいいからです。
のそのそと歩いていく豹の前のほうは百メートルほど人かげもなく、がらんとした広っぱのようになっています。豹が進むにつれて、波がひくように、群集が、あとへあとへと逃げていくからです。
やがて、豹は町かどをまがりました。すると、その町にも人かげがなくなり、商店なども戸をしめて、豹が、うちの中へはいってこないように用心します。
豹は、そうして町から町へと、どこまでも歩いていきます。べつに走りだしもしなければ、立ちどまりもしないのです。ただ、のそのそと歩いていくのです。
その五十メートルほどあとから、十人の警官と、十数人のやじうまとが、用心しながらついていきます。だんだん、そのへだたりを少なくして、これならだいじょうぶというところまで近づいてから、ピストルをうつつもりなのです。
無人の境を歩いていく、ピカピカ光った黄金の豹。そのあとから、だまってついていく警官たち。それは、じつに異様な光景でした。
豹はいつのまにか、銀座を遠くはなれて、さびしい町にさしかかっていました。商店はなくなって、両がわに塀ばかりつづく住宅町です。
そういうさびしい町に、さしかかったとき、ちょっとかわったことがおこりました。豹が、道のまん中で立ちどまったのです。そして、うしろをふりかえったのです。夕やみの中に青く光る目が、燐のように、うすきみ悪く光りました。
それを見ると警官たちは、思わず立ちどまりました。もし豹が、こちらへむかってくるようだったら、すぐピストルをうたなければならないと身がまえをしたのです。
しかし豹は、そこに立ったまま首だけをうしろにむけて、じっとにらんでいるばかりです。
こちらへ飛びかかってくるようすも見えません。
そうして、人間と猛獣との奇妙なにらみあいが、しばらくつづきましたが、とつぜん、なにに驚いたのか、豹がブルッと身ぶるいをしたかと思うと、恐ろしいいきおいで、前の方へかけだしました。
「それッ、逃がすなッ。」
というので、警官たちも、豹のあとを追って走ります。しかし、人間の足は、ピョイピョイと飛ぶように走る豹の早さにはかないません。みるみる、あいだがへだたっていくのです。
豹はそれから、二つほど町かどをまがりました。そこには、赤レンガの塀がつづいています。塀の中には、古い木造の西洋館が立っているのです。だれかの住宅なのでしょう。
アッと思うまに、黄金の豹は、そのレンガ塀に飛びつきました。そして、二、三ど、パッ、パッと、飛びあがっているうちに、うまく塀の上にのぼりつき、そこで、グッと警官たちの方をにらみつけておいてから、塀の内がわへ飛びおりてしまいました。
警官隊は、そのうちの門の前にかけつけました。うちの人たちに、豹が邸内にはいったことを知らせなければならないからです。
門の扉は開いたままになっており、その中に、大きなシュロの立ち木があって、そのむこうに、西洋館の入口が見えています。
警官たちは、ピストルをかまえて、用心ぶかくあたりを見まわしながら、その門の中へはいっていきました。しかし、豹のすがたは、どこにも見えません。きっと、うら庭の方にいるのでしょう。
警官たちは右と左の二組にわかれて、うら庭の方へまわっていきます。そして、隊長らしい、ひとりの警官だけは、あとにのこって、西洋館の入口のベルをおしました。
すると、ドアが開いて、ひとりの老人があらわれ、うさんくさそうに、じろじろと警官の姿をながめました。
その老人は、太いべっこうぶちのめがねをかけ、まっ白なあごひげを、胸までたらし、はでなこうしじまの背広をきています。めしつかいでは、なさそうです。主人かもしれません。
「たいへんなことがおこったのです。一ぴきの豹が、おたくの塀をのりこして、うら庭へ飛びこんだのです。今、みんなが、庭の方をさがしていますが、豹が、うちの中へはいるとたいへんですから、窓の戸を、ぜんぶしめていただきたいのです。」
警官がそういいますと、白ひげの老人は、ニヤリと笑って、
「窓ならだいじょうぶですよ。みんなしまってます。じつは、わしのうちには、たくさん動物がいますので、窓から外へ出ないように、しめきってあるのですよ。」
「動物といいますと?」警官がみょうな顔をしてたずねました。
「いや、小さな動物です。ネコですよ。ネコが十六ぴきいるのです。わしの、かわいい友だちです。うっかりすると、窓から逃げだしますのでね。それで、いつも、しめきってあるのですよ。」
十六ぴきとは驚きました。このうちは、ネコやしきです。このじいさんは、ネコじいさんです。
そうして、話しているうちに、奥の方から、ぞろぞろと、ネコどもが出てきました。白ネコ、黒ネコ、みけネコ、ぶちネコ、色さまざまのネコどもが、じいさんのうしろへ集まってくるのです。
「しっ、しっ、おまえたち、奥へいっていなさい。恐ろしい豹がやってきたんだとよ。くい殺されたらたいへんだから、みんな、奥へ、かくれていなさい。」
じいさんは、人間にものをいうように、ネコどもに話しかけました。すると、そのことばがわかったのか、ネコたちは、一ぴきずつ、のろのろと、奥の方へもどっていくのです。
そのとき、入口の外に、どやどやと足音がして、庭をさがしていた警官たちがもどってきました。
「ふしぎです。豹は消えてしまいました。われわれは両方から、うら庭へはいっていって、築山のうしろや、木のかげを、すっかり、しらべたのですが、どこにもいません。」
それを聞くと白ひげの老人が、ニヤニヤと笑いました。
「その豹は、金色をしていましたかね。」
「そうです。全身、金色の、ふしぎな豹です。」
「ウフフフ……、うわさにたかい『まぼろしの豹』じゃ。あいつが、消えてしまったら、もう、見つかりっこありませんよ。」じいさんは、うさんくさく、笑いながらいうのでした。
それから、その付近いったいの、大捜索がはじまりました。十人のほかに、たくさんの警官や消防署員がやってきて、町から町をしらべまわったのです。
しかし、豹はどこにもいません。ほんとうに、消えてしまったとしか思えないのです。やっぱり、あれは、豹のお化けだったのでしょうか。『まぼろしの豹』だったのでしょうか。
それにしても、ネコやしきのネコじいさんは、なんだか、あやしげな人物です。このまえ、中学生が豹に出あったとき、その豹が消えた町かどから、あらわれたじいさんが、やっぱり、まっ白な、長いあごひげをたらしていました。そして、同じこうしじまの背広をきていました。まぼろしの豹が、消えうせるたびに、そのあとへ姿をあらわす、このじいさんは、いったい、なにものだったのでしょうか。
美宝堂の怪事件があってから三日めのことです。またしても、銀座通りの商店に、恐ろしいことがおこりました。こんどは美術商でなくて、宝石商の店に、とつぜん、黄金の豹があらわれたのです。
それは有名な宝石商で、広い店の中には、たくさんの大きなガラスの陳列棚がならんでいて、そのガラス=ケースのあいだを、お客さまが、自由に歩けるようになっていました。
夜の八時ごろのことです。店の中には、十何人の男や女のお客さまがあり、七人の店員が、それらのお客さまに、ケースの中から、宝石のブローチや、くびかざりなどを取りだして見せているのでした。すると、ひとりの女のお客さまが、店のむこうのすみの方を見て、へんな顔をして店員にききました。
「アラッ、あれなんですの? あっちのケースのむこうに、なんだか金色の大きなものが、動いているわ。」
店員は、びっくりして、そのほうをながめました。
ほんとうに、ピカピカ光る金色の大きなものが、ケースのむこうに動いています。ケースのガラスが、電灯を反射しているので、そのむこうがわは、はっきり見えませんが、たしかに、えたいの知れぬへんなものが、動いているのです。
その店員と、女のお客さまが、じっと、そのほうを見つめているので、ほかの店員やお客さまたちも、同じ方角へ目をやりました。
「キャーッ。」
恐ろしい悲鳴がおこりました。ふたりの女のお客さまが叫んだのです。そしてまるで大地震でもおこったように、店員もお客さまも、みんな、先をあらそって、店の外へ逃げだしました。
最後に外へ出た店員が、入口のガラスのドアを、ぴったりしめて、そのガラスごしに、店の中をのぞきましたが、すると、ピカピカ金色に光る一ぴきの豹が、ガラス=ケースの一つに二本の前足をのせ、立ちすがたになって、ケースの上に上半身をあらわし、恐ろしい目つきで、こちらをにらみつけていたではありませんか。
店員のひとりは、となりの店の電話をかりて、警察へ、このことを知らせました。
近所の店は、あわてておもての戸をしめますし、銀座を歩いていた人たちも、宝石商の前から逃げだし、そのへんいったいは、ま夜中のように、がらんとしてしまいました。
勇敢なやじうまが十人ばかり、宝石商の店員といっしょに、しめきったガラス戸のすみから店内をのぞいています。
すると黄金の豹が、ふしぎなことをはじめました。ガラス=ケースの戸を開いて、中のガラス板の上にならべてある、ダイヤのブローチや真珠のくびかざりなどを、一つ一つ、前足ではさんでは、自分の口の中へ入れているのです。黄金の豹は、宝石をたべているのです。
みな、何十万円、何百万円という、高価な品物ばかりです。豹は、それをつぎからつぎへと、たべていくのです。
「アッ、いけない。あいつ、店じゅうの宝石を、みんなたべてしまうかもしれない。だが、宝石をたべる豹なんて、聞いたこともないぞ……。」
外から、のぞいている店員たちが、ささやきあいました。外にバタバタとくつ音がして、五人の警官が、手に手にピストルをにぎって、かけつけてきました。
警官たちは、宝石商の前にくると、ガラスのドアから、中をのぞきました。
「アッ。あいつだッ。このあいだの金色のやつだ。きみ、ここをあけたまえ。こんどこそ、ピストルでうち殺してやる。」
店員が、ドアを開きました。五人の警官が、先をあらそって、店の中へとびこんでいきました。
しかし、黄金の豹は、警官よりもすばやかったのです。ドアがあいたのを見ると、豹は宝石をたべることをやめて、パッと身をひるがえしたかと思うと、店の奥のほうへとびこんでいきました。そこに、お客さまと応対をする、特別の部屋があります。豹はその部屋へとびこんで、あと足で、パタンと、ドアをしめてしまったのです。
警官たちは、ドアの前にかけつけて、それを開こうとしましたが、強くしめたはずみに、かけがねがおりてしまったのか、どうしても開きません。
「しかたがない。ドアをやぶろう。」
警官のひとりが、体あたりでドアにぶつかっていきました。それを、なんどもくりかえしていると、メリメリと音がして、ドアの板がやぶれました。警官はそこから手を入れて、かけがねをはずし、パッとドアを開いて、部屋の中になだれこんでいきました。
部屋の中はからっぽでした。しかも、たった一つの窓は、ぴったりしまって、うらがわに、かけがねがかけてあり、そのうえガラス戸の外に、太い鉄ぼうが、こうしのようにはめてあるのです。
やっぱり、まぼろしの豹でした。
あの金色の怪物は、この部屋の中で、煙のように消えうせてしまったのです。豹がたべたたくさんの宝石も、そのままなくなってしまいました。
しかし、一ぴきの大きな動物が、出口のまったくない部屋の中から、消えうせてしまうなんて、ありえないことです。
これには、なにか秘密があるのです。思いもよらないトリックが、使われたのにちがいありません。
宝石商の怪事件は、つぎの日の新聞に、でかでかとのせられ、東京じゅうの人を、ふるえあがらせました。
ただの豹が町にあらわれただけでも、大さわぎになるのに、これは金色にかがやく、ふしぎな豹なのです。しかも、そいつが、忍術使いのように消えうせてしまうのです。自由に消えられるとすれば、はんたいにまた、どこへでも、自由にあらわれることができるにちがいありません。
それを考えると、東京都民は、おちおち、ねむることもできないのでした。
さて、宝石商事件から二日めの午後のことです。こんどは、黄金豹は、日本橋の江戸銀行にあらわれました。
銀行がしまるすこしまえに、ひとりの老紳士が紹介状を持って、支配人をたずねてきました。まっ黒な服をきて、大きなめがねをかけ、白いあごひげのある六十ぐらいの、やさしい顔をした老人です。
支配人は、ほかに客があったので、しばらく応接室で待ってもらうことにしました。
女事務員が、老人を応接室に案内して、ドアをしめて、たちさりますと、老人は横丁のほうに開いている窓のそばへいって、そっとそれをあけると、ヒューッ、ヒューッと、みょうなふしで口ぶえを吹きました。なにものかを、口ぶえで呼んでいるらしいのです。……それから、そこで、どんなことがおこったか? だれひとり、それを見たものはありません。
こちらは銀行の支配人です。やっと客が帰っていったので、老人を待たせてある応接室へいそぎました。そして、なにげなくドアを開いて、部屋にはいろうとしたとき、支配人は、「アッ!」と声をたてて、いきなり、廊下へ逃げだしました。
支配人は、いったい、なにを見たのでしょう。
応接室のまん中に、テーブルがあり、そのむこうに、イスがありました。そのイスに、一ぴきの金色の豹がこしかけて、テーブルの上に、二本の前足をのせ、青く光る目で、じっと、こちらをにらんでいたのです。つまり、さっきの白ひげの老紳士が、いつのまにか、黄金の豹にかわってしまったのです。
「黄金の豹だあ! たすけてくれえ!」
支配人は、そんなことをわめきながら、廊下を走っていました。
すると、そのうしろから、あの豹が、応接室を出て、のそのそと、ついてくるのです。
天井の高い銀行の中央部には、何十人という事務員が、机をならべて仕事をしていました。支配人はそこへかけこむと、ひとりの事務員に、
「きみ、たいへんだ。応接室に黄金豹がいるんだ。すぐに、警察へ電話してくれたまえ。」
とどなりました。
その声に、何十人の事務員が、いっせいに、支配人のほうをふりむきましたが、その支配人のすぐうしろから、金色の豹が、のそのそ歩いてくるのを見ると、みんな、「ワアッ。」といって、席を立ち、イスをひっくりかえして逃げだしました。
支配人は、そのさわぎに、ギョッとしてふりむくと、黄金豹が、すぐうしろにいることがわかり、これも、「ワアッ。」と叫んで、机のあいだを、いちもくさんに走りだしました。
黄金豹は、ヒョイと机の上へとびあがって、机から机へとわたりながら、みんなの逃げたほうへ、近づいてくるのです。
豹は、銀行の中を、じゅうおうに歩きまわりました。のそのそ歩いているかと思うと、パッと机から机へとびうつり、くるったようにかけだして金庫室へとびこんだりします。
事務員たちは、「ワアッ、ワアッ。」といって、あちらこちらと、逃げまわるばかりです。
そのうちに黄金豹は、なにを思ったのか、事務室をあとにして、廊下から二階への階段をかけあがっていきました。二階には、会議室や重役室があるのです。
電話交換台の女事務員は、重役室に電話をかけて、「ドアをしめきって、豹をいれないようにしてください。」とつたえました。
しばらくすると、ひとりの重役が、階段の上に、すがたをあらわしました。
「おい、きみたち、豹はどこへいったんだ。いつまでもドアをしめておくわけにいかないので、ソッとあけて、そのへんをしらべてみたが、豹なんて、どこにもいやしないぜ。」
下にむらがっている事務員たちに、よびかけました。
そこで、みんなが、おずおず階段をあがって、二階じゅうの部屋をしらべてみましたが、豹はどこにもいないのです。階段はいくつもありますから、人のいない裏の階段をおりて、外へ出ていったのかもしれませんが、外はまだ明るいのです。あの金色の豹が、人目につかぬはずはありません。
みな銀行の外に出て、おもて通り、うら通りとさがしまわり、そのへんにいる自動車の運転手などにたずねてみましたが、だれも豹を見たものはないのです。
まぼろしの豹は、またしても、煙のように消えうせました。いや、そればかりではありません。
「おうい、たいへんだあ。百万円の札たばが十個、なくなっているぞ!」
金庫室の中をしらべていたひとりの事務員が、そこからとびだしてきました。
その事務員は、豹があらわれるまえに金庫室で、札たばの整理をしていたのですから、そこに一千万円の札たばが、おいてあることをよく知っていました。それが、あとかたもなく消えていたのです。
黄金豹はその金庫室へもはいりましたが、まさか百万円のたばを、十個もたべてしまったわけではないでしょう。そんなに長くは、はいっていなかったのです。
しばらくすると、十数名の警官がかけつけてきました。そして、銀行の中を、くまなくしらべましたが、黄金豹も、一千万円の札たばも、どこからも発見されませんでした。
怪獣も札たばも、煙のように消えうせてしまったのです。
銀行事件のあくる日の夜、名探偵明智小五郎の少年助手で、また、少年探偵団の団長をつとめている小林芳雄君は、友だちの園田武夫君をたずねて、その勉強べやで、話をしていました。
園田君は中学一年生で、団員の中ではいちばんかしこくて、勇気のある少年でしたから、副団長にえらばれ、小林君の相談あいてになっているのでした。
園田君のおうちは、麹町六番町の、しずかなやしき町にあり、明智探偵事務所からも、そんなに遠くないのです。
園田君のおとうさんは、ある会社の重役で、そのおうちは、なかなか大きく、庭もひろびろとしていました。
園田君の勉強べやは、六じょうほどの洋室で、窓ぎわに机がおいてあり、そのガラス窓の外は、立木の多い広い庭になっているのです。
ふたりはいま、まぼろしの豹のことを、話していました。
「その白ひげのじいさんっていうのが、あやしいね。月夜のばんに中学生が見たという金色の豹は、屋根からとびおりて、町かどをまがると消えてしまった。そしてむこうから白ひげのじいさんが歩いてきたんだろう。それから、銀座の美術商から逃げだした豹は、築地の西洋館の塀の中へ、とびこんでいった。そして消えてしまったが、その西洋館には、白ひげのネコじいさんが、すんでいた。きのうの銀行の事件だって、そうだよ。やっぱり白ひげのじいさんが、支配人をたずねてきて、応接室に待っているあいだに、金色の豹にかわってしまった。ね、そうだろう。だから、ぼくは、あの築地のネコじいさんのところへ、なにかに変装して、しのびこんでやろうかと思っているんだよ。」
小林団長がいいますと、園田少年もうなずいて、
「うん、ぼくも、ネコじいさんがあやしいと思う。しかし、あのじいさんと、金色の豹とどういう関係があるんだろう。まさか、あのじいさんが、金色の毛がわをかぶって、豹に化けるんじゃあるまいね。」
「ぼくも、それを考えてみた。しかし、そんなことはできっこないよ。人間の足は、豹の足よりも長いし、それに、まがりかたがちがっているからね。人間が四つんばいになると、ひざで歩くだろう。そうすると、ひざから足のさきまでが、余分になって、うしろへひきずるわけだね。だから、とてもごまかせるもんじゃない。まっ暗な夜なら、どうかわからないが、美術商のときも、銀行のときも、まだ明るい夕がただったからね。そして、長い時間、おおぜいの人に見られているんだから、とてもごまかせやしない。あれは、やっぱり豹にちがいないよ。金色に光っているのは、金のこなをにかわでといて、ぬったのかもしれない。黄金の豹なんて、いかにも、きみが悪いからね。みんなを、おどかすために、そんなことをやったのかもしれない。」
「だが、あの豹は、どうして、煙のように消えてしまうんだろう。そこがわからないよ。じいさんが毛がわをきて、化けているのなら、消えたりあらわれたりするのも、わけはないけれども、そうじゃないとすると、じつにふしぎだね。やっぱり、お化けの、まぼろしの豹かしら。」
園田君が、そういったときでした。どこかで、「えへへへ……。」という、いやな笑い声がしました。
二少年は、それを聞くと、ハッとしたように顔を見あわせました。部屋には、ふたりのほかに、だれもいません。では、ドアの外の廊下に、なにものかがいるのでしょうか。
園田君は、すばやく立っていって、パッとドアを開きました。廊下には、明るい電灯がついています。その電灯の光の中には、だれもいないのです。ねんのために、まがり角まで走っていって、むこうを見ましたが、そこにも人かげはありません。
「だれもいないよ。へんだなあ。たしかに、笑い声だったねえ。」
「うん、廊下でないとすると、もしかしたら、この窓の外じゃないかしら。」
小林君は、そういいながら、広い庭に面したガラス窓を、開いてみました。
庭は、まっ暗です。窓からの電灯の光が、四かくに地面をてらしていますが、そのほかは、すみを流したような暗さです。
「庭にも、だれもいないようだね。」
そういって、ガラス窓をしめようとしたときです。またしても、
「えへへへ……。」
と、うすきみの悪い笑い声が、こんどはまえよりも、もっと大きく聞こえてきました。
「アッ! あれはなんだろう。」
園田君が、おしころしたような声でいいました。
闇の中に、キラキラ光るものが、うごめいていたのです。
そいつが、スーッと、こちらへ近づいてきました。そして、窓からの光の中にはいったのです。
「アッ!」
二少年の口から、恐怖の叫び声が、ほとばしりました。
そこには、一ぴきの、大きな金色の豹が、ニューッと、あと足で、立ちあがっていたではありませんか……。
そいつのからだは、電灯の光をうけて、まぶしいほどギラギラと、金色にかがやいていました。恐ろしく大きな豹です。あと足で立ちあがって、前足を窓のしきいにかけ、部屋の中を、グッと、にらみつけ、まっ赤な口を開いて、「えへへへ……。」と笑っているのです。
動物は笑えないはずです。豹が人間のような声で笑うなんて、聞いたこともありません。それだけに、なんともいえないほど、きみが悪いのです。
小林、園田少年は、へたへたと、イスにたおれこんだまま、身動きすることもできません。目は怪獣の方にひきつけられて、そらそうとしても、そらすことができないのです。
怪獣は、ニューッと窓の中へ、その恐ろしい顔をつきだして、人間のことばで、ものをいいはじめました。しかし、それは人間の声ではなくて、なにかが、すれあうような、ひどくかすれた音でした。ささやき声を、ラウド=スピーカーで大きくしたような、じつにいやな音なのです。
「園田君、きみのおとうさんは、豹の絵や豹のおきものや、豹の毛がわや、豹に関係のあるものなら、なんでも集めているね。それほど豹がすきなんだね。だからおれは、きみのおとうさんが大すきだよ。
ところでね、おれは、おとうさんが、いちばんだいじにしている、豹のおきものがほしいのだ。きみも知っているだろう、銀のおりにはいった金の豹さ。二十センチほどの金むくの豹のおきものさ。それが、銀でこしらえた、かわいらしいおりの中にはいっている、あれだよ。純金のめかただけでもたいしたものだが、からだの黒いはんてんには、とびきりの黒メノウがちりばめてある。それよりも目だよ。あの金の豹の二つの目はダイヤモンドだ。一つが三カラット以上もある青ダイヤだ。二つのダイヤだけでも何百万円という値うちだよ。
あのかわいらしい豹は、まっ赤な口を開いているが、その口の中には、ルビーがならべてあるのだ。
それに、豹の彫刻がたいしたものだ。日本一の名人が作った美術品だからね。おとうさんは、けっして、あれを売らないだろうが、もし売れば、何千万円というしろものだ。おれは、あれをもらいたいのだよ。いや、もらうことにきめたのだよ。
おとうさんに、そういっておいてくれ。二、三日のうちに、かならず、もらいにくるからってね。おれは、千年のこうをへた魔法の豹だ。だから、こうして、人間のことばもしゃべれるのだよ。おとうさんが、いくら用心しても、きっと、盗みだしてみせる。おまわりさんが、何人きたって、おれは、ちっともこわくない。おれは魔法使いだからねえ。へへへ……、それじゃ、約束したよ。おとうさんによろしく。……あばよ。」
怪獣は、なにかをすりあわせるような、異様な声で、しゃべりたいだけしゃべってしまうと、サッと、窓のそばから身をひいて、庭の闇の中に、姿をかくしてしまいました。
ふたりの少年は、怪獣が見えなくなっても、しばらくは、からだがすくんで、立ちあがることもできませんでしたが、やっと元気を出して、部屋をとびだすと、園田君のおとうさんの部屋にかけつけて、今の恐ろしいできごとを知らせました。
そこで、うちじゅうが、おおさわぎになり、すぐに警察へ電話をかけたものですから、近くをまわっていたパトロール=カーがやってきて、大ぜいの警官が、手に手にピストルをかまえ、懐中電灯をふりてらして、広い庭のすみからすみまで捜しまわりました。しかし、ついに黄金の豹を発見することはできませんでした。怪獣は、またしても忍術を使って、消えうせてしまったのです。
おとうさんの園田さんは、いちばんだいじにしている純金の豹を、怪獣が盗みにくるというので、心配でしかたがありません。それからというものは、毎日、五人の警官が、園田さんのやしきの、うち外を見はってくれることになりましたが、それでも、まだ安心できないので、大学にかよっている、ふたりの書生のほかに、会社から、柔道の段を持っている社員をふたりよんで、とまりこみで、番をさせることにしました。
それから、園田さんのしたしい友だちが、せわをしてくれた、庭ばんのじいやの助造というのが、なかなか、腕っぷしが強くて、先のとがった長い鉄棒を持って、庭をぐるぐるまわることにしました。もし黄金豹があらわれたら、その鉄棒でつき殺してやるのだと、おそろしくはりきっています。
園田さんのやしきには、大きな絵画室があって、そこに、日本画と西洋画の豹の絵ばかりが、たくさん、かけならべてあるのですが、怪獣にねらわれた純金の豹のおきものは、その絵画室のまん中の、ガラスばりの陳列台の中に、入れてあるのです。でも、そんなところへ出しておいてはあぶないので、どこかへかくさなければなりません。園田さんは、そのかくし場所を、いろいろ考えたすえ、じぶんの寝室の縁の下へ、うずめることにしました。
しかし、かくしたことを、怪獣に気づかれてはたいへんですから、だれにも知られないように、仕事をしなければなりません。といって、園田さんひとりで縁の下をほることはむずかしいので、そういうことになれた、庭ばんの助造じいさんだけに、てつだわせることにしました。ほかのうちの人や、警官などには、すこしも知らせないつもりです。武夫君でさえ、あとになって、やっとそれがわかったほどです。
園田さんは、なぜ名探偵明智小五郎に相談しなかったのでしょうか。園田武夫君は少年探偵団の副団長ですから、小林団長といっしょになって、しきりにそれをすすめたのですが、園田さんは、警察がまもってくれるから、だいじょうぶだといって、明智探偵にたのもうとしませんでした。あとになって、たのまなかったことを、たいへん後悔しましたが、もうそのときはおそかったのです。
純金の豹の入れてある銀のおりは、はば三十センチ、高さ二十センチほどの、小さなものですが、まず、それをビニールで、いくえにもつつみ、頑丈な木箱に入れました。かくし場所は、園田さんの寝室の日本ざしきの、縁の下です。たたみをあげ、ゆか板をはずして、そこへ助造じいさんがシャベルを持ってはいり、下の土を深くほって、木箱をその穴の底へうずめ、上から、もとのとおりに土をかぶせたのです。
園田さんは、二、三日のあいだ、その寝室から外へ出ないことにしました。食事もそこへ持ってこさせ、洗面器や水をそこへはこばせて、顔も、部屋の中であらうという、用心ぶかさです。つまり、純金の豹の箱をうずめた、たたみの上にすわりつづけ、夜はそこへふとんをしかせて寝るわけです。
そして、その寝室のまわりの、うちの中には、ふたりの書生と、ふたりの社員が、たえず見はりをしていますし、武夫君も、武夫君のおかあさんも、大ぜいの女中たちも、みんなこちらのみかたです。さらに家のまわりの庭には、五人の警官が歩きまわり、鉄棒を持った助造じいさんが、目を光らせています。寸分のすきまもない厳重な警戒です。
これほど用心をすれば、いくら怪獣でも、どうすることもできないだろうと、園田さんは、ひとまず安心していたのですが、なにしろ、相手は千年のこうをへた怪獣です。どんな魔法を使って、純金の豹を盗みださないものでもありません。安心するのはまだ早いようです。
それが証拠に、黄金豹が武夫君の部屋の窓の外に、あらわれたあくる日から、園田さんのやしきには、じつにきみの悪い、恐ろしいできごとが、つぎつぎとおこるのでした。
あくる日の夕がたのことです。大学にかよっている書生のひとりが、部屋の見まわりをしていて、なにげなく絵画室へはいっていきました。さきにも書いたとおり、その広い絵画室の壁には、たくさんの日本画や西洋画がかけてあるのですが、それが、ことごとく豹の絵ばかりなのです。怪獣の事件がおこっているときですから、四方の壁から、たくさんの豹ににらまれると、ゾーッとうすきみ悪くなってきます。
部屋のまん中のガラスばりの陳列台は、からっぽになっていました。書生の大学生は、その中の豹のおきものが、どこかへかくされたことは聞いていましたが、そのかくし場所は知りません。でも、きのうまで、ガラスばりの中にあった銀のおりと金の豹が、かげも形もないのを見ると、なんだかへんな気もちです。かくされたことを、つい忘れてしまって、ひょっとしたら、怪獣が盗みだしていったのではないかと、どきんとするほどです。
その部屋の一方の壁に、大むかしの、どこかの寺院の杉の板戸が、一まいたててあります。むかしの名人がかいた豹の絵です。板戸いっぱいに、青みがかった岩山がかいてあり、一ぴきの巨大な豹が、岩の上に、前足をかけて、こちらをにらんでいる絵です。さすがに、名人の作だけあって、その豹は、まるで生きているようです。どこからながめても、自分がにらまれているように見えるのです。それでこの絵は八方にらみの豹と名づけられていました。
大学生は、遠くからその板戸の豹の絵をながめました。夕がたで、部屋の中は、うす暗いのですが、その絵だけが、浮きあがったように、はっきりと見えます。なにかギラギラと、目をいるように光っているのです。
「オヤッ、あの豹は金色をしていたはずはないのだが……。」
大学生は、ゾーッと背中に水をかけられたような気がしました。古い絵のことですから、ところどころ絵のぐがはげて、ぜんたいに、うすぼんやりしているのですが、きょうはそれがいやにくっきりと、しかも金色に光って見えるのです。
そればかりではありません。その金色に光った大きな豹が、もぞもぞと、身動きしたように、見えました。
ギョッとして立ちすくんでいると、たしかに、たしかに、豹は動いているのです。燐のように光る目が、こちらをにらみつけ、まっ赤な口を、カッと、開いたではありませんか。めくれあがった唇の中から、するどい牙が、ニューッとあらわれています。
大学生は、叫ぼうとしました。しかし、声が出ないのです。また、逃げだそうにも、足が動かないのです。
そのとき、豹の上半身がぐうッと板戸からぬけだしてきました。ああ、絵ではありません。生きているのです。生きた金色の豹なのです。
アッと思うまに、豹のからだは、すっかり板戸の外へぬけだしていました。まるで、飛びだし映画のように、ひょいと飛びだして、のそのそと、床を歩いてくるのです。板戸には豹の姿だけ、黒く穴があいています。
大学生は、いまにも、豹がとびかかってくるかと思いました。かみ殺されるのだと思いました。すると、やっと、死にものぐるいの声が出ました。
「ワアッ、たすけてくれえ……。」
そして、ころがるようにして、部屋の外へ逃げだしました。
その声を聞きつけて、もうひとりの大学生や、会社の社員などが、かけつけてきました。庭のほうにも、助造じいさんや、警官たちが集まってきました。つまり、板戸をぬけだした豹は、両方から、はさみうちになったわけです。
家の中の人たちは、手に手に、えものを持って、ドアから絵画室へとびこんでいきました。だれかがスイッチをおしたので、パッと、部屋のなかが明るくなりました。窓の外の庭には、警官たちが、ピストルをにぎってかけつけています。
そうして、みんなで豹をさがしたのですが、怪獣はどこにもおりません。またしても、煙のように消えうせてしまったのです。
大学生が、まぼろしを見たのではないのです。板戸には、豹のぬけだしたところだけ、えぐりとったように穴があいていました。これがなによりの証拠です。豹は、たしかにぬけだしたのです。そして、大学生が、助けをもとめている、わずかのあいだに、いつもの忍術で、消えてしまったのです。
しかし、絵にかいた豹が、生きて動きだすなんて、そんなことがおこるはずはありません。怪獣の奇術です。あらかじめ板戸の絵のところをくりぬいておいて、黄金豹がその穴に、からだをあわせて、まるで絵のように、じっとしていたのでしょう。
そして、大学生がはいってきたときに、そこからぬけだしてみせたのでしょう。おどかしです。「おれは、こんなにやすやすと、部屋の中へはいってこられるのだぞ。絵にでもなんにでも化けることができるのだぞ。」というおどかしです。そして、みんなの気もちをみだしておいて、うろたえさわいでいるすきに、純金の豹を盗みだそうという下心ではないでしょうか。
園田さんは、その手にかかってはたいへんだと思いました。それで、みんなを寝室によびよせ、けっしてうろたえないで、いよいよ見はりを厳重にするようにいいわたし、じぶんは、やっぱり寝室にがんばりつづけることにしました。
すると、そのあくる日の朝のことです。またしても、恐ろしい事件がおこりました。
その朝、武夫君は学校へいくまえに、おとうさんのいいつけで、応接室においてあった西洋の本をとりにいきました。
広い、りっぱな応接室です。丸テーブルをかこんで、大きな安楽イスや、長イスがならんでいます。床には、じゅうたんを敷きつめ、その上に、おとうさんのすきな豹の毛がわが、いくまいもおいてあるのです。長イスの上にも、大きな豹の毛がわがかけてあります。毛がわには四本の足と、しっぽがあり、頭だけは、はく製になっていて、まるで生きているようです。目にはガラスをはめ、口には牙をうえ、耳がぴんと立ち、いまにも、ウオーッとほえるのではないかと思われるほど、よくできています。
長イスの上にかけてある毛がわの頭は、ひじかけの外がわに、がくんとたれていました。はく製の頭がイスの中にあっては、こしかけるじゃまになるからです。
武夫君が、その応接室にはいって、いいつけられた本を持って、入口のドアの方へ、歩いていたときです。長イスのはしにたれさがっていた、はく製の豹の頭が、スーッと動いたような気がしました。
「オヤッ。」と思って立ちどまって、その方を見ますと、たしかに豹の頭が動いているのです。気のせいかと思いましたが、どうもそうではなさそうです。すこしずつ、すこしずつ、たれていた豹の頭が上のほうへもちあがっているのです。
武夫君はギョッとして、部屋のすみまで逃げだしましたが、しかし、ドアの外へは出ません。ひとつの安楽イスのかげに身をかくし、目だけを出して、じっと長イスの方を見つめました。きのうの絵画室と同じような異変が、この部屋でもおこるのではないかと思ったからです。武夫君は少年探偵団の副団長ですから、年はすくないけれども、大学生より勇気があります。すると、長イスの上には、武夫君が想像したとおりのことが、おこってきたのです。
はく製の豹の頭が、しゃんとしました。それから、ぺちゃんこの毛がわの肩と、前足が、むくむくとふくれてきて、生きた豹の姿になりました。
つぎは腹、つぎは尻と、だんだんにふくれあがり、あと足にも、ぴんと力がはいって、それはもう、生きた一ぴきの豹にかわっていました。ぺちゃんこの毛がわが、四本の足で、ヌーッと立ちあがったのです。
そして、いきなり長イスの上からとびおりると、ガッと、まっ赤な口を開いて、
「ウオーッ。」
と、恐ろしい声をたてました。
武夫君は少年探偵団の副団長で、なかなか勇気のある子どもでしたから、それを見ても、すぐには逃げださないで、部屋のすみの安楽イスのうしろに身をひそめて、じっとようすを見ていました。
豹は、ぐるぐると部屋の中を歩きまわっていましたが、やがて、だんだん、こちらへ近づいてくるのです。武夫君は、気づかれたのではないかと、ギョッとして、からだをちぢめました。大きな安楽イスのうしろの、せまいすきまですから、すぐにはとびかかれませんが、でも、武夫君がかくれていられるくらいですから、豹だって、はいれないことはありません。
イスのかげから目ばかり出して、じっと見ていますと、豹は、のそりのそりと、こちらへやってきます。そのあいだが、もう二メートルほどの近さになりました。
武夫君のからだじゅうに、つめたい汗が、にじみだしました。顔はもう、まっ青です。でも、目をそらすことができません。じっと豹の顔をにらみつけていました。
その恐ろしい豹の顔が、ジリッ、ジリッと近づいてきます。もう一メートルになりました。まるで映画の大うつしのように、目の前いっぱいに、その金色の顔がひろがって見えるのです。青く、燐のように光る目が、じっとこちらをにらんでいます。まっ赤な口が、すこし開いて、白い牙が見えています。
あの口が、いまにも、ガッと開いて、とびかかってくるのではないかと思うと、武夫君はもう、生きたここちもありません。全身、汗がびっしょりになって、心臓が、どきん、どきんと、恐ろしい早さで、うっています。口の中が、からからにかわいて、叫ぶことも、どうすることもできません。
豹の顔は、もう五十センチほどに近づきました。そして、ごろごろと、のどをならしていましたが、いきなり、まっ赤な口を、ガッと開きました。黒っぽい舌が、口の中で、へらへら動いています。
武夫君は、もうだめだと思いました。いまにあの口で、頭からくいつかれるのだと、かんねんしたのです。
「ウオーッ。」豹は、耳もさけるような恐ろしい声で、うなりました。武夫君は、もうだめだと、目をつむってしまいました。
ところがふしぎなことに、いつまでたっても、豹はとびかかってこないのです。オヤ、へんだなと思って、そっと目をひらいて見ますと、豹はもう三メートルもむこうに、遠ざかっていました。そして、あと足でニューッと立ちあがると、ピョンピョンととぶようにして、ドアの外へ出ていくではありませんか。
豹は、武夫君がかくれているのを気づかなかったのです。あんなに近よってきたのは、武夫君を発見したからではなかったのです。
武夫君は、まだ、からだがふるえていましたが、勇気を出して、そろそろ、かくれ場所からはい出し、ドアのそばまでいって、そっと廊下をのぞいて見ました。
豹は、やっぱり、あと足で立ったまま、ピョンピョンととぶようにして、むこうの角をまがっていきます。
武夫君は、執念ぶかく、そのあとをつけて、廊下のまがり角にいき、のぞいて見ますと、豹はまたむこうのまがり角にかくれました。
そして、どこまでも、あとをつけていきましたが、お勝手に近いところで、ふと豹のすがたを見うしなってしまいました。そこには、庭ばんの助造じいさんの部屋があります。その部屋の戸は、ピッタリしまっていましたが、ほかに逃げこむ場所はありません。豹はあの戸の中にかくれているにちがいないと思いました。
武夫君は足音をしのばせて、そこに近づき、入口の戸に耳を近づけて、ようすをうかがいましたが、中からは、なんのもの音も聞こえません。
しばらくそうして、じっとしていても、なにごともおこらないので、武夫君は、戸のすきまから中をのぞいて見ました。しかし、すきまがほそすぎて、なにも見えません。おもいきって、戸に指をかけ、そっと、音のしないように、一センチほど開きました。そこに目をあてて見ますと、助造じいさんが、たたみの上にすわって、タバコを吸っているのが見えました。
じいさんが、のんきそうにタバコを吸っているからには、部屋の中に豹がいないことはたしかです。武夫君は、ガラッと戸をあけて、じいさんに声をかけました。
「助じいや、たいへんだよ。いま、黄金豹がここへきたんだよ。じいや、気がつかなかった? この部屋しか、逃げこむところはないんだがなあ。」
そして、武夫君は、応接室の毛がわが生きた豹になって逃げだしたことを、てみじかに話しました。
「へえ、毛がわがねえ。なんて恐ろしいやつだ。だが、わしはなんにも気がつきませんでしたよ。どこへいきやがったのかな。この廊下へきたら、わしの部屋のほかには、いきどころがねえはずだからね。」
じいさんは、ふしぎそうな顔をして、武夫君を見ました。そして、なぜか、ニヤリと笑ったのです。
武夫君は、その笑い顔を見ると、なんだか、へんな気もちになってきました。ふと、さっきの豹は、このじいやに化けてしまったのではないかと、とほうもない考えが、浮かんでくるのでした。
それから武夫君は、おとうさんの寝室へいって、今のことをしらせましたが、ちょうどそのとき、寝室の机の上の卓上電話のベルが、リリリリリ……と、なりだしました。
園田さんが、受話器をとってききますと、相手は、まったくききおぼえのない、しわがれ声で、恐ろしいことをいうのでした。
「きみは園田さんのご主人だね。こちらはごぞんじの黄金豹だよ。ハハハ……、人間みたいに口のきける、千年の魔豹だよ。ところで、二、三日のうちに、あれを、ちょうだいにいくと約束しておいたね。きょうはまだ二日めだが、いよいよ今晩にきめたよ。せいぜい用心したまえ。きみがいくら用心しても、おれは、かならず盗みだしてみせるよ。時間は午後十時かっきりだ。十時をすぎても盗みだせなかったら、おれの負けだ。しかし、おれは、けっして負けないよ。それじゃ、あばよ。」
そして、こちらが、なにもいわないうちに、電話がきれてしまいました。
「たいへんだ。すぐみんなを呼んでおくれ。今夜十時に、あいつがやってくるというんだ。」
おとうさんのいいつけで武夫君は、うちじゅうをかけまわって、それをしらせました。すると、ふたりの会社員、ふたりの書生、五人の警官と、助造じいさんが、園田さんの寝室の日本間へ集まってきました。
園田さんは、みんなに、応接間に黄金豹があらわれたこと、いま電話がかかってきたことを話してから、ことばをつづけて、
「じつは、みなさんにしらせないで、わしは、金むくの豹を、この部屋の縁の下へ、かくしたのです。しかし、もうこうなったら、わしだけでは、まもりきれない。みんなに力をあわせて、まもってもらわねばなりません。じいや、ここのたたみをあげて、床板をはずしてくれ。」
と、助造じいさんに、命じました。
そこで、じいさんに、ふたりの書生も手つだって、たたみ二まいと、その下の床板をとりはずし、豹の箱のうずめてある地面が見えるようにしました。
「じいや、すこしほって、箱があるかどうか、たしかめてごらん。」
園田さんにいわれて、じいさんは、お勝手の方から、シャベルを持ってきました。そして、床下の土を、ほってみましたが、箱はちゃんと、もとの場所にうずまっていました。まだ盗まれていなかったのです。
それを見ながら、巡査部長のきしょうをつけた警官が、園田さんに話しかけました。
「床下ではあぶないですね。庭から縁の下へもぐりこめば、だれでもここへこられるじゃありませんか。」
すると園田さんは、にっこり笑って、
「ところが、ここはだいじょうぶなのですよ。この日本べやの建物は、土台がコンクリートでできているのです。縁の下は、ぐるっと、コンクリートでかこまれ、ところどころに、空気ぬきの四かくな穴があけてあるのですが、その穴にも、こまかく鉄棒をはめて、ネズミでさえはいれないようになっているのです。でなければ、このだいじなものを、床下なんかへ、うずめるはずはありませんよ。」
それを聞くと巡査部長は、感心したような顔をして、
「そうですか。それなら、だいじょうぶですね。しかし、ねんのために、そのコンクリートの土台が、こわれていないか、たしかめてみることにしましょう。相手が相手ですからね。どんなからくりがあるか、わかりませんよ。」
といって、部下の四人の警官に、懐中電灯をもって、床下へもぐるようにさしずしました。
そこで四人の警官は、帽子や、上着をぬいで、懐中電灯をてらしながら、床下へはいっていきましたが、しばらくすると、つぎつぎともどってきて、日本間をとりまいているコンクリートには、どこにも、異状がないと報告しました。
警官たちは、たたみ二まいの穴の四方にこしかけて、ピストルをかまえ、まんいち、あやしいやつが、床下にあらわれたら、いつでもピストルがうてるようにして、見はりをつづけました。
それから夜の十時までは、ずいぶん長い時間でしたが、ときどきかわりあって便所へいくほかは、だれもその部屋を出ませんでした。食事なども、そこへはこばせてたべることにしたのです。
夕がたからは、小林少年と武夫君が、見はりの中にくわわりました。武夫君が学校の帰りに、明智探偵事務所によって、小林君をさそってきたのです。そのとき、事務所には、ちょうど明智探偵もいましたので、小林君は武夫君からきいた話を、明智先生につたえて、なにか相談していました。
「ぼくは、たのまれたわけではないから、きょうはいかないが、きみが、ぼくのかわりになって、てがらをたてるんだね。」
明智先生が、ニコニコしながら、そんなことをいっているのが聞こえました。
そうして、みんなが、わき目もふらず、床下を見つめて、番をしているうちに、やがて夜になり、十時が近づいてきました。
「もう、あと十分ですよ。」
巡査部長が、時計を見ながら、だれにともなくいいました。すると、四人の警官はもとより、園田さんも、社員も、書生も、小林君も、武夫君も、からだが、ひきしまるように感じました。いよいよあと十分なのです。あいつは、いったい、どんなすがたで、どこからあらわれてくるのでしょうか。
警官たちの手にある五ちょうのピストルは、いつでもうてるように、用意されています。いくら魔法使いでも、この厳重な警戒の中に、すがたをあらわすことができるのでしょうか。
「あと五分です。」
巡査部長が、すこし、ふるえ声でいいました。
おおぜいいる部屋の中が、まるで、あきやのように、しいんと、しずまりかえっています。おき時計の、コチコチと秒をきざむ音が、異様にはっきり聞こえるのです。
「あと三分。」
「あと二分。」
「あと一分。」
みんなはもう、石にでもなったように、身うごきもしません。武夫君は、心臓がどきどきしてきました。そっとみんなの顔を見ますと、警官でさえ、青い顔になっていました。ピストルをかまえた手が、かすかにふるえています。おとうさんの園田さんのひたいには、こまかい汗の玉が、うきあがっていました。
「アッ、ちょうど十時だッ。」
巡査部長の高い声が、部屋じゅうにひびきわたりました。
しかし、なにごともおこらないのです。五人の警官が見つめる縁の下には、なにものも、あらわれないのです。
「ワハハハ……。さすがの魔法使いも、この厳重な警戒には、手も足も出なかったね。ワハハハ……園田さん、もうだいじょうぶですよ。こちらの勝ちでしたよ。」
巡査部長が、ごうけつ笑いをしながら、さも得意らしくいうのでした。
そのときです。部長の笑い声がまだきえないうちに、机の上の卓上電話のベルが、けたたましく鳴りひびきました。
園田さんと巡査部長とは、ギョッとしたように目を見あわせました。なにか、恐ろしい前兆のような気がしたからです。
園田さんは、しばらくためらっていましたが、やっと立っていって、受話器をとりました。
「こちらは園田ですが、あなたは?」
「ウフフフ……、わからないかね。いま十時をうったところだ。きっちり十時に電話をかけるのは、だれだろうね。ウフフ……、わかるだろう。」
いうまでもなく、黄金豹の怪物です。
「うん、きさまか。とうとうこなかったじゃないか、金むくの豹はまだちゃんとここにあるよ。きみの負けだね。」
園田さんが、勝ちほこったようにいいますと、電話の相手は、また、きみ悪く笑いました。
「ウフフフ……。まだあるかね。どこに?」
園田さんは、もう、うちあけてもだいじょうぶだと思いました。
「わしの寝室の床下だよ。土の中にうずめてあるのだよ。ハハハ。さすがの怪物もそこに気がつかなかったようだね。」
「ウフフフ、きみもいい気なもんだな。そんなことを知らないおれだと思っているのか。まあ、ためしにあけてごらん。え、あの箱だよ。土にうずめてある箱をあけて、中をしらべてみるがいい。」
それをきくと園田さんは、にわかに不安になってきました。電話の送話口を手でおさえて、助造じいさんに、
「早く、あの箱をほりだして、中をあらためてみるんだ。」
と命じておいて、また受話器を耳にあてました。
「なんだか、ごたごたしているようだね。箱をほり出すのか。まあ、ゆっくりやるがいい。おれは待っているよ。」
あいては、おちつきはらっています。
助造じいさんは、床下におりて、シャベルで、箱をほりだしました。それから、釘でうちつけてあるふたを、シャベルのはしでこじあけました。
「アッ、からっぽだ。箱の中には、なんにもありません。」
みんながそこへ集まって、じいさんのさし出す箱を見つめました。
ほんとうにからっぽです。銀のおりと金むくの豹と、それをつつんだビニールのふろしきまで、かげも形もなくなっていたのです。
「エヘヘヘ……。」
電話の声が、ぶきみに笑いました。
「どうだ。驚いているね。箱の中に、なにかあったかね。ウフフフ……、なにもあるまい。どうだ、これでもおれが負けたかね。ちゃんと約束どおり、盗みだしたじゃないか……。あの宝物は、だいじにするよ。ありがとうよ。」
そして、電話が、ぷっつりきれました。みんなは、まっ青な顔を見あわせました。あいつは、やっぱり魔法使いでした。それにしても、いったい、いつのまに盗みだしたのでしょう。
そのとき助造じいさんは、たたみの上にあがって、部屋から出ていこうとしましたが、それを見ると、みんなのうしろにいた小林少年が、声をかけました。
「じいやさん、ちょっと待ちたまえ。」
助造じいさんは、ギョッとしたように、うしろをふりむいて、じろっと、小林君を、にらみつけました。
すると、小林少年は、右手をあげて、じいさんの顔を、まっ正面から指さしながら、園田さんのほうをむいて、叫ぶのでした。
「おじさん、こいつです。こいつが犯人です!」
それをきいて、みんなは、びっくりしてしまいました。助造じいさんは、園田さんの家につかわれている庭ばんです。しかも、園田さんの命令で、床下に、箱をうずめたのは、ほかでもない、この助造じいさんだったではありませんか。
園田さんは、ふしぎそうに、小林少年の顔をながめて、たずねました。
「小林君、きみのいうことは、よくわからないね。このじいさんが盗むなんて、そんなことはできるはずがないよ。なぜといって、箱をうずめるときには、ちゃんと、わたしが見はっていたのだし、それから、今夜まで、じいさんは、一ども、この部屋にはいったことがない。わたしが、ずっと、ここにいたのだから、あやしいことがあれば、すぐわかるはずだ。小林君は、なんの証拠があって、そんなことをいうのだね?」
「証拠は、箱の中がからっぽになっていたことです。からっぽになっていたとすれば、だれかが盗んだと、考えるほかはありません。そうすると、あれを盗みだせる人は、じいさんのほかにないからです。」
小林君が、自信ありげに、答えました。
「それは、いつ? どうして?」
「今夜です。黄金豹は、今夜十時に、盗みだすと、約束しました。それをちゃんと、実行したのです。」
「すると、この助造と、黄金豹と、関係があるとでも、いうのかね。」
そこにいた巡査部長が、たまりかねて、口をはさみました。
「そうです。関係があるのです。ひょっとしたら、このじいさんが、黄金豹をかっていて、自由につかっているのかもしれません。」
小林少年は、いよいよ、ふしぎなことを、いいだすのです。みんなは、だまって、この有名な少年探偵の顔を見つめました。
「いつか、黄金豹が銀座の美術商にあらわれたとき、豹はみんなに追われて、築地のネコじいさんのうちへ逃げこみましたね。ここにいるじいさんは、あのネコじいさんとも、ふかい関係があるかもしれませんよ。」
小林君は、そういって、そこに立ちはだかっている助造じいさんの顔を、じろじろ、ながめました。
「うん、あのネコじいさんなら、警察でも、目をつけている。だが、助造じいさんと、ネコじいさんと、いったい、どういう関係があると、いうのだね。」
巡査部長が、しんけんな顔で、たずねました。小林君のいうことが、しっかりしているので、すっかり、感心してしまったのです。
「じゃあ、ネコじいさんのうちを、しらべてみてください。ひょっとしたら、あのじいさんは、長いあいだ、うちへ帰っていないかもしれませんよ。」
「うん、それは、わけのないことだ。築地警察署へ電話をして、ちょっと、たしかめてもらえば、わかることだ。では、ぼくが電話をかけてみよう。」
巡査部長は、そういって、卓上電話のところへいき、築地警察をよびだして、しばらく話をしていました。
そのあいだに、大さわぎが、おこったのです。助造じいさんが、そっと、部屋を逃げだそうとしたからです。
「アッ、あいつを、つかまえてください。あいつが犯人です。逃がしてはたいへんです!」
小林君が、びっくりするような声で、叫びました。
それをきくと、さっきから、腕をむずむずさせていた警官たちが、いきなり、じいさんにとびかかっていって、そのばに、ひきすえてしまいました。四人の警官にかこまれては、いくら、じいさんがすばしこくっても、どうすることもできません。
そのとき、電話の話をおわった巡査部長が、だれにともなく、いいました。
「やっぱり、あやしい。築地署でも、ネコじいさんのことは、注意していたそうですが、六日まえから、一ども、あのうちへ、帰らないというのです。るすばんのばあさんが、ネコのせわをしているそうですが、そのばあさんは、ネコじいさんの、いくさきを、まったく、しらないということです。」
そうするとネコじいさんは、助造じいさんに化けて、園田家にすみこんでいたのではないでしょうか。
「園田さん。この助造というじいさんは、いつおやといになったのですか。」
巡査部長が、たずねました。
「六日といえば、やっぱり、このじいやを、やとったのが、六日まえですよ。」
園田さんは、こまったような顔をしていうのでした。
「ふうん、たった六日まえに、やとったじいさんを、どうして、そんなに、信用されたのですか。」
巡査部長は、いかにも、ふにおちないという顔つきで、なじるようにたずねます。
「それは、こういうわけですよ。まえにいた庭ばんのじいやが、くにへ帰ることになって、友だちの助造じいやを、せわしてくれたのですが、助造は、わたしのごくしたしい友だちのうちに、ながく、つとめていたことがあるといって、その友だちからも口ぞえがあったものですから、わたしも、すっかり、信用していたのです。」
「で、助造が、おたくへきてから、そのお友だちが、こられたことがありますか。そして、助造と顔をあわせたことがありますか?」
「それはありません。わたしは、そとでその友だちと、あっていますが、助造をやとってから、ここへきたことはありません。」
「それじゃ、お友だちのやとっておられた助造と、この助造とは、べつの人間かもしれませんね。こいつは、そのお友だちのところにいた、助造というじいさんをしっていて、助造になりすまして、おたくへ、はいりこんだのかもしれませんよ。むろん、まえにいた庭ばんのじいさんも、うまくだまされたのでしょう。」
「そうかもしれません。なににしても助造は、げんに、いま逃げだそうとしたのですから、あやしいやつにちがいありません。しかし、わたしは、まだわからないのですが、助造が盗んだにしても、いったい、いつ盗んだのでしょう。そして、盗んだものを、どこへかくしたのでしょう。そこが、どうにも、まだ、ふにおちないのですよ。」
園田さんは、いかにも、ふしぎそうにいうのでした。
しかし、それは巡査部長にも、わかりません。残念ながら、こどもの小林君に、ときあかしてもらうほかはないのです。
園田さんも、巡査部長も、じっと小林少年の顔を見つめました。
「約束のとおり、午後十時に、つまり、いまから二十分ほどまえに、盗んだのです。」
小林君が、すました顔で答えました。
「こんなに大ぜいの見ているまえでかね。」
「そうです。園田のおじさんが、助造さんに盗めといわぬばかりの命令を、くだされたからです。」
「エッ、なんだって? わたしが、命令をしたって?」
園田さんが、びっくりして、ききかえしました。
「じゃあ、見ててごらんなさい。ぼくが、いま、盗まれた宝物を、とりだしてみせますから。」
小林少年は、そういったかとおもうと、いきなり、たたみのあげてある、床下にとびおりました。そして、地面をあちこちとさぐっていましたが、
「アッ、ここだ!」
と叫んで、両手で土をほり、そこから、ビニールのふろしきにつつんだ四角なものをとりだして、みんなに見せました。そしてそのふろしきをとくと、なかから、ピカピカ光った銀のおりと、金むくの豹が、あらわれたではありませんか。
「アッ、そんなところに、どうして……。」
園田さんが、おもわず、おどろきの声をたてました。
「助造じいさんが手品をつかったのです。さっきおじさんが、じいさんに、箱をほりだせと、命令されましたね。じいさんは、それを待っていたのです。さっそくシャベルをもってきて、床下におりました。そして、うつむいて土をほり、箱をとりだしました。そのとき、ほった穴のなかは、じいさんのからだでかくされて、みんなには見えなかったのです。
じいさんは、その穴の底で、手ばやく箱をひらき、ビニールづつみをとりだして、一メートルほど横の地面に、あさくうずめてしまったのです。むろん、あとになって、そっと、とりだすつもりです。……それから、からになった、箱のふたを手でおさえつけて、釘をもとの穴にさしこみ、それを上に持ちあげて、もう一ど、ふたをひらいて見せたのです。
床下は、かげがおおくて、暗いところがあるし、じいさんの大きなからだで、かくされているので、そういう手品をやったのが、だれにも見えなかったのです。
しかし、ぼくは見ていました。じいさんのせなかや腕が、妙な動きかたをするのを、見のがさなかったのです。なぜ、そんなに注意したか? それは、ぼくだけが、じいさんをうたがっていたからです。では、なぜ、うたがったのか。それは、明智先生のさしずがあったからです。
先生は、午後十時をすぎたら、きっと、だれかが、床下をほるだろう。そのとき、よく注意しているのだ。最初に、床下をほるやつが、あやしいのだからと、ぼくに教えてくださったのです。やっぱり明智先生はえらいなあ──。先生のいわれたとおりのことが、おこったのですからね。」
小林君は、鼻たかだかと、明智探偵の知恵をじまんするのでした。
しかし、ああ! そのとき……。
いきなり、恐ろしいもの音がしたかとおもうと、三人の警官が立ちあがり、ひとりの警官が、あおむけに倒れていました。そして、風のように、部屋のそとへ、とびだして、いったものがあります。
みんなが、床下に立っている小林少年に、気をとられていたのが、いけなかったのです。そのゆだんを見すまして、助造じいさんが、警官をつきとばして、おそろしいすばやさで、逃げだしてしまったのです。
警官たちは、あっけにとられて立ちすくんでいましたが、たちまち、気をとりなおして、じいさんを追っかけます。小林少年も、豹の宝物を園田さんに手わたすと、そのまま、警官たちのあとにつづきました。
助造じいさんは、まっ暗な庭へ、とびだしていました。大きな木の立ちならんだ広い庭です。警官たちは懐中電灯を、ふりてらして走りました。小林君も、そのさきに立って追っかけます。
じいさんは、老人とも思われぬはやさで走っています。パッパッと、太い木の幹から、木の幹へと、身をかくしながら逃げるのです。
庭のすみに、築山があります。じいさんは、その上にかけあがって、山のうしろの木のしげみのなかに、かくれました。そのしげみは、葉と葉が、すきまもなく重なりあっているので、いくら懐中電灯をてらしても、相手のすがたを見ることができません。
しかたがないので、警官たちは、手わけをして、両方から、しげみのなかにわけいって、はさみうちにしようとしましたが、まんなかで、両方の警官が、ぶつかっても、じいさんのすがたは、どこにもないのでした。しげみにかくれたと見せかけて、そのうしろから、どこかへ逃げさったのにちがいありません。
それがわかると、小林少年は、ふと、あることを思いついて、いちもくさんに、西洋館の建物のなかにかけこみました。そして、廊下づたいに、助造じいさんの部屋へいそいだのです。
じいさんの部屋の板戸は、ぴったりしまっていました。しかし、その前に立って耳をすましますと、部屋の中で、ごそごそと、ものの動く音が、聞こえてくるのです。じいさんは、なにかだいじなものを、部屋へ取りにもどったのかもしれません。
むろん、それを持って逃げだすつもりでしょう。やがて、板戸をひらいて、とびだしてくるかもしれません。そう考えたので、小林君は廊下のまがり角までもどって、そこに身をかくし、そっと、ようすをうかがっていました。
しばらくすると、スーッと板戸がひらきました。そして、その中から出てきたのは……。
廊下のうす暗い電灯の光のなかへ、ピカピカ金色に光るものが、パッと、顔を出したのです。燐のように青く光る二つの目、恐ろしい口から、ニューッと出ている白い牙。やがて、たくましい前足を、廊下へ、ふみだしました。黄金豹です。じいさんの部屋にかくれていたのは……あの怪獣、黄金豹だったのです。
いまは、もう豹のぜんしんが、廊下にあらわれました。そして、ゆうぜんとして、こちらへ歩いてくるのです。うす暗い電灯の下でも、黄金のかがやきは目もくらむばかりです。
小林君は、とっさに、物置らしい部屋のドアをひらいて、その中に身をかくし、ドアを、ほそめにひらいて、豹の通りすぎるのをまちました。
その前を、黄金の怪獣は、スーッと、通りすぎていきました。すぐに、ドアから首を出して見おくりますと、豹は廊下を右のほうへ、まがっていきます。小林君は、足音をしのばせて、そのあとをつけました。
黄金豹は、もう一つ、廊下をまがって、二階への階段をのぼっていきます。西洋館には表と裏に、二つ階段があって、それは、裏のほうの階段なのです。
電灯から遠くて、階段はひどく暗いのですが、豹のからだが光っているので、見うしなうことはありません。怪獣は、階段をかけあがり、二階の廊下を走って、こんどは、三階への階段を、のぼっていきます。
この西洋館は二階だてなのですが、その大屋根の上に、一坪ほどの小部屋が、塔のように、とびだしているのです。三階への階段は、その塔の部屋へのぼるためのものでした。
怪獣は、いったい、なにを考えているのでしょう。塔の部屋へのぼっても、そこがいきどまりですから、もう、逃げみちはなくなってしまいます。なんのために、三階などへのぼっていくのでしょう。
塔の部屋は、たった一坪ほどのせまい場所ですから、小林君が、あがっていけば、すぐに、相手に気づかれてしまいます。それで、階段の中途でとまって、しばらく、ようすをうかがっていましたが、すると、ガタンと、塔の部屋のガラス窓の開く音が聞こえました。
「しまった。あいつ、屋根へ逃げるつもりだったんだな!」
小林君は、いそいで階段の上までのぼり、そこから首を出して、塔の部屋をのぞいて見ました。
その小部屋には、電灯がついていないので、まっ暗ですが、空あかりで、かすかにもののかたちが見えます。あのピカピカ光った黄金豹がいれば、すぐにわかるはずですが、それらしいものは、なにも見えません。そして、窓のガラス戸が開けっぱなしになっていることがわかりました。豹はもう屋根へ出てしまったのです。
小林君は、部屋にあがって、はうようにして、窓のところまでいってみました。
窓のそとには、低いらんかんがあって、その下は、すぐ屋根になっています。赤がわらの急な屋根です。その屋根の中途に金色の大きなものが、うずくまっていました。……黄金豹です。
小林君は、しばらく、ためらっていましたが、ついに、けっしんをして、いきなり、ポケットから、探偵七つ道具の一つの、銀色の呼びこ(ふえ)をとりだすと、おもいきって吹きならしました。警官たちをよびあつめるためです。
黄金豹は、びっくりしたように、こちらに、首をふりむけました。闇のなかに、青い目が、らんらんと光っています。
小林君も負けないで、豹の目をにらみかえしました。少年と怪獣との、息づまるにらみあいです。
ああ、小林君は、いったいどうなるのでしょう? 恐ろしい黄金豹は、いまにも、小林君に、とびかかってくるのではないでしょうか。
まだ、庭にいた人たちが、小林君の呼びこの音をききつけて、西洋館の下へ、集まってきました。空には満月に近い月が、こうこうと、かがやいています。さっきまで、雲にかくれていた月が、パッと、顔を出したのです。その光で、二階の上の物見台にいる小林君のすがたが、よく見えます。
小林君は下の人たちに、屋根の上を、ゆびさして、そこに豹がいることを、しらせました。それで、下の人たちも、金色に光る豹のすがたに、気づいたものですから、ふたりの若い警官が、いきなり洋館のなかへとびこんで、物見台へと、階段をかけ登ってきました。手にはピストルをにぎっています。
警官たちは、小林君のいるところまでくると、
「よし、ぼくらが、屋根に出て、うち殺してやる。きみは、あぶないから、そこにいたまえ。」
とささやいて、らんかんを乗りこし、屋根の上へ出ていきました。しかし、ひじょうに急な屋根ですから、はうようにして、進むほかはありません。ふたりの警官は、まるで黒いヤモリのように、屋根の上に、はらばいになって、じりじりと、豹のほうへ近よっていきます。
黄金豹は、燐のように光る目で、それをにらみつけました。そして、人間どもをあざけるように、身がるに、ピョイピョイと、とぶようにして、屋根のむねを乗りこし、むこうがわへ、かくれてしまいました。
警官たちは、いそいで、そのあとを追い、やっと、屋根のむねに、たどりつき、そこに馬のりになって、はんたいがわの屋根を見おろしました。
そのときには、小林少年も、物見台から出て、むねづたいに、警官たちのそばまで、きていました。屋根のむねは、三十センチほどの幅で、たいらになっているので、そこをつたうのは、わけがないのです。
三人が、むねにまたがって、見ていますと、黄金豹は、急な屋根を、するすると、すべるように、むこうのはしへ、おりていきます。そして、屋根のはしまでいくと、からだを、グッとちぢめて、パッと、空中にはねあがりました。いきおいをこめて、とんだのです。空中に、金色の大きなかたまりが、キラキラと、虹のようにきらめきました。
「アッ、いけない。あいつ、とびおりて、逃げるんだッ。」
警官のひとりが、叫んだかと思うと、バン……と、はげしい音がしました。ピストルをうったのです。それにつづいて、もうひとりの警官も、ピストルを、うちました。
しかし、二はつとも、あたりません。そのとき、豹は、西洋館の下のコンクリート塀にとびついていました。そして、アッとおもうまに、その塀の頂上から、そとへとびおりて、すがたをかくしてしまいました。それが、ひじょうに、すばやくて、もうピストルを、うつひまもなかったのです。
「おうい、塀のそとへ、逃げたぞう。こっちがわだ。みんなこっちがわの、塀のそとへ、まわってくれ……。」
警官が、両手をメガホンのように口の前にあてて、下の人たちにどなりました。下の庭には、三人の警官と、園田さんの書生や、会社の人などが、大ぜいいましたので、「それッ。」というと、裏門からかけだしていきました。そして、豹がとびおりた場所を、さがしまわったのですが、あの金色の怪物は、もう、どこにもいませんでした。またしても、魔法をつかって、消えうせてしまったのでしょうか。いや、消えたのではありません。それから、すこしたって、黄金豹は、ふしぎな場所に、すがたをあらわしました。
園田さんのやしきから、五、六百メートルはなれた町に、一けんの大きなお湯やがありました。そこに、高い煙突がそびえているのですが、その煙突の鉄ばしごを、金色の怪物がよじ登っているのです。しかし、夜ふけのことですから、まだ、それに、気がつきません。
町の電灯が、一つ一つ、消えていくにしたがって、月の光は、いよいよ、そのかがやきをまし、家々の屋根は、雪でもふったように白く光っています。その白い屋根を目の下に見て、黄金豹は、煙突のはしごを、いちだん、いちだん、ゆうゆうとして、登っていくのです。
その近くの、一けんのうちの二階の窓から、ひとりの少女が、のぞいていました。この少女は、夜なかに目をさまして、あまり月が明るいので、カーテンをひらいて、ガラス窓のそとをながめたのです。
すると、すぐむこうのお湯やの煙突を、金色の大きなものが、登っているのが目につきました。それは、じつにふしぎなけしきでした。まっ白な月の光のなかを、金色の動物が、高い煙突へ、よじ登っているのです。少女は、「夢を見ているのかしら。」と思いました。
しかし、夢ではありません。たしかに、じぶんはおきているのです。たしかに、金色の動物が、煙突を登っているのです。
少女はそのとき、ふと、新聞に出ていた『黄金豹』のことを思いだしました。
「アッ、もしかしたら、あれが黄金豹かもしれない。」
少女は、まっ青になって、窓ぎわをはなれ部屋をとびだすと、階段をかけおりました。
下の茶の間にはおとうさんと、おかあさんが、まだ、おきていました。
「たいへんよ!」
あわただしい足音に、おとうさんも、おかあさんも、びっくりして、こちらを見ました。
「どうしたんだ。まっ青な顔をして。」
「黄金豹よ。」
「エッ、黄金豹だって? なにをいってるんだ。夢でも見たんじゃないか。」
「そうじゃないわ。お湯やの煙突を登っているの。きてごらんなさい。二階の窓から見えるから。」
おとうさんは、「そんなばかなことが。」といわぬばかりに、しぶしぶ立って、二階へあがりましたが、ガラス窓から、ひと目、外をのぞくと、「アッ。」といって、立ちすくんでしまいました。
黄金豹は、もう、煙突の頂上近くまで登っていたのです。金色のからだに、黒いはんてんがあります。たしかに黄金の豹です。おとうさんは下にかけおりて、電話口にとびつきました。そして、近くの警察へ、このことをしらせたのです。警察からは、すぐに、数名の警官が、お湯やへかけつけてきました。いっぽう、警察から園田さんの家へ電話をかけたので、まだそこにいた五人の警官や、小林少年や、書生などが、いそいで、お湯やへやってきました。
園田家と警察と、両方から集まった人たちが、お湯やの裏庭にひしめきあって、煙突の上をながめています。また、近所の人たちも、さわぎをききつけて、表へ出てきたので、そのへんは、たいへんなさわぎになりました。お湯やの三助さんや、町の青年たちは、ふろばの大屋根にのぼって、ワアワア、さわいでいます。
「よしッ、こんどこそ、ぼくたちで、うち殺してやる。」
園田さんの屋根で、豹をとり逃がした、ふたりの若い警官が、手に手にピストルをにぎって、煙突のはしごへ登っていきます。さっきの、かたきうちをするつもりでしょう。
それを見ると、下にいた人たちは、「ワーッ。」と、声をたてました。勇敢なふたりの警官を、ほめたたえているのです。
警官たちは、細いまっすぐの鉄ばしごを、ぐんぐん登っていきました。
煙突の頂上には、黄金豹がうずくまって、下を見おろしています。ふたりの警官は、かた手にピストルをかまえながら、怪獣めがけて、登っていくのです。そのふたりの黒いすがたが登るにつれて、だんだん小さくなっていきます。
ふたりは、もう七、八だんで、頂上というところまで登りつきました。ふたりの目には、怪獣が、ぐんぐん、大きく見えてきます。怪獣は、ものすごい顔でにらみつけているのです。いまにも、とびかかってきそうです。警官たちは、もし、とびかかってきたら、すぐ、ピストルをぶっぱなす、かくごでした。
そのときです。ギョッとするようなことが、おこりました。
金色のかたまりが、煙突の頂上から、パアッと、落ちてきたのです。ふたりの警官は、豹がじぶんたちに、とびかかってきたのだと思い、いきなりピストルを、ぶっぱなしました。しかし、ピストルの弾がとびだすころには、金色のかたまりは、もう警官の背中をとおりこして、ずっと下のほうに落ちていました。
黄金豹は、警官に追いつめられ、せっぱつまって、とびおりたのでしょうか。いくら怪獣でも、こんな高いところから落ちたら、大けがをするか、ヒョッとしたら、死んでしまうかもしれません。
下からは、「ワアッ。」という人ごえが、わきあがってきました。豹がとびおりたので、驚いた叫び声です。ふたりの警官は、おもわず下をながめました。煙突の下に集まっている人たちが、小さく見えています。しかし、そのへんに、豹が落ちたようすはありません。人々は、やっぱり、上のほうを見あげているではありませんか。警官たちは、キョロキョロと、足の下を見まわしました。
「オヤッ、あんなところに……。」
黄金豹は、煙突のなかほどの空中に、ふわふわと、ただよっていたのです。煙突からも、はしごからも、はなれた空中に、ただよっていたのです。
怪獣は空中に浮きあがる魔力を、もっているのでしょうか。いや、そうではありません。綱がついています。長い綱が、煙突の頂上に出っぱった鉄のわくにくくりつけてあり、そこから豹のからだまで、綱がついているのです。怪獣はその長い綱につかまって、するすると、すべりおりたのです。いったい、そんな綱が、どこにあったのでしょうか。それに、豹のような動物の足で、綱につかまることができるものでしょうか。しかし、千年のこうをへた魔もののことです。人間のように、綱につかまる力が、そなわっているかもしれません。
みるみる、その綱が、ぶらんこのように、左右にゆれはじめました。豹が綱にとりすがって、はずみをつけて、ふっているのです。綱のさがっているのは、はしごのはんたいがわで、しかも、煙突からははなれているので、警官がいくら手をのばしても、綱をつかむことはできません。ピストルの弾で、綱をきろうとして、二、三ぱつ、うちましたが、ゆれている細い綱ですから、うまくあたりません。
そのうちに、綱のゆれかたは、だんだん、大きくなってきました。豹が、一生けんめいに、はずみをつけているからです。
綱のさきの金色の怪獣は、サーッと、空中にまいあがったかとおもうと、恐ろしいいきおいで下へ落ちていき、こんどは、はんたいのほうの空中へ、高く高くまいあがるのです。ぶらんこよりはずっと長い綱ですから、そのゆれかたも、びっくりするほど、大きいのです。
恐ろしいけれども、じつに、美しいけしきでした。こうこうと、てりわたる月の光のなかを、キラキラ光る金のかたまりが、三十メートルほどの空中を、あっちへいったり、こっちへいったり、太い金のすじをひいてゆれているのです。大きな大きな時計の、金色のふりこが、大空いっぱいに、ゆれているのです。
ゆれながら、怪獣は、どこかに、けんとうをつけていたようです。そして、いちばん大きくゆれるころあいを見すまして、パッと綱をはなしました。すると、いきおいがついていたのですから、豹は、まるで大きな金色の弾丸のように、空中を、はるかむこうへとんでいきました。またしても、美しい金色の虹が、キラキラとかがやきました。
豹がとんでいったのは、町のおもて通りにある、三階だての雑貨商の屋上でした。それはコンクリートの洋館で、屋上はたいらな物ほし場になっているのです。怪獣はその屋上に、うまく、とびおりました。そして、穴のようになった下へおりる階段に、すがたを消してしまいました。
その雑貨商には、ミドリ商会という大きな看板が出ていました。それが、煙突に登っている警官にも、よくよめるのです。
「おもて通りの、雑貨屋だッ。ミドリ商会という店だッ。あいつは、いま、屋上から下へおりていった。はやく、あの店を、とりかこんでくれえ……。」
煙突の上の警官が、声をふりしぼって、下の人たちに叫びました。
お湯やから、ミドリ商会までは、五十メートルもありません。人々は、なだれをうって、そのほうへ、かけだしました。警官や園田家の人たちばかりでなく、おおぜいの町の人たちも、まじっているのです。
たちまち、ミドリ商会のまわりは、黒山の人だかりになりました。警官たちは、その人々をかきわけて、表と裏から雑貨商のなかへ、はいっていきました。そして、てんでにピストルをかまえて、一階、二階、三階と、うちのなかを、くまなく捜しまわったのです。
ミドリ商会の人たちは、豹が屋上にとびおりたときくと、寝ていたものもはねおきて、みんな一階へ集まっていました。ですから、二階、三階は、からっぽです。警官たちは、それを、すみからすみまで、捜しまわったのです。
しかし、ふしぎにも、黄金豹は、どこにもいません。おしいれも、いろいろな箱のなかも、ひとつのこらず、しらべたのです。それでも、なにも発見できませんでした。怪獣は、とうとう、最後の魔法をつかったのでしょうか。そして、空気のなかへ、スーッと、とけこんでいったのでしょうか。
いくら捜しても、黄金豹を見つけることができませんので、警官たちも、あきらめて、引きあげました。ミドリ商会には、三人の警官が残って見はりをつづけましたし、このことを、東京じゅうの警察に知らせて、非常線がはられたのですが、なんのてごたえもないのでした。
小林少年も、残念ながら引きあげるほかはありません。
しかし、もう夜がふけていましたので、明智探偵事務所まで帰るのは、たいへんですから、園田さんのうちに、とまることになりました。
園田さんのうちには、会社の人などがとまっているので、部屋が、みんなふさがっていました。しかたがないので、園田さんの書斎の大きな長イスの上で、毛布をかぶって寝ることにしました。
みんなと、いっしょに、お夜食をごちそうになったあとで、その書斎にはいり、電灯を消し、洋服をぬいで、シャツのまま長イスに寝そべって、毛布をかぶりました。窓のカーテンには、明るい月の光がさしています。窓のそとがわに、鉄のこうしがとりつけてあります。そのこうしのかげが、黒いしまになって、くっきりと、うつっているのです。小林君は、さっきからの活動で、すっかり、つかれていましたので、ふかふかした長イスに横になったかとおもうと、もう、軽いいびきをかいていました。
ぐっすりと、二時間ほども眠ったとき、なにか、みょうなもの音がしたので、ふっと目をさましました。月はもう、かくれたと見えて、部屋のなかは、まっ暗です。
「なんだろう。人が歩いているような音がしたが、まさか泥坊じゃあるまいな。」
小林君は、そう思いました。すると、また、部屋のむこうのほうで、ごそごそと、なにかが動く音がするではありませんか。
「やっぱり、だれかが、いるんだ。ふいに電灯をつけて、おどろかしてやろう。」
小林君は、そっと、長イスからすべりおりて、足音をしのばせて、手さぐりで、スイッチのある壁のほうへ歩いていきました。そして、パチッと、スイッチをいれたのです。電灯がついて、書斎の中が、まぶしいほど明るくなりました。小林君はすばやく、部屋の中を見まわしました。
アッ、黄金豹です。あいつが、部屋のまんなかの大デスクのむこうに、こしかけて、こちらを、にらんでいたのです。
小林君は、あまりのことに、立ちすくんだまま、ものもいえません。
「ウヘヘヘ……、小林のちんぴら、よくも、おれをひどいめにあわせたな。おぼえていろ。きっと、このしかえしは、してやるぞ。」
黄金の怪獣は、二本の前足を、テーブルの上で組みあわせ、その上に首をのせるようにして、燐のような目を光らせながら、人間の声で、ものをいったのです。小林君がだまっていると、怪獣はまた、口をひらきました。
「だが、おれは、ここのうちの宝物なんかに、もう、みれんはない。一度やりそこなったものは、二度と、ねらわないのが、おれのしょうぶんだ。こんどは、もっと、でっかいことを、やってみせる。そして、きさまを、ひどいめにあわせてやる。おれは、そのことを、いいわたすために、わざわざ、もどってきたのだ。よくおぼえておくがいい。」
小林君は、怪獣がしゃべっているあいだに、相手にさとられぬように、じりじりと、あとずさりをしていました。そして、入口のドアまでくると、パッとむきをかえて、ドアをひらき、そとの廊下へとびだしました。そして、ばたんと、ドアをしめ、中からあけられないように、力をこめて、とってをにぎりしめたのです。窓には、鉄格子がはめてあります。出入り口は、このドア一つです。つまり、小林君は、怪獣を厳重な密室の中へ、とじこめてしまったのです。そして、大きな声で、うちの人たちを呼びたてました。その夜は、ふたりの書生のほかに、柔道のできる会社員が、ふたりもとまっていましたので、小林君の叫び声に目をさまし、すぐにそこへかけつけてきました。
「どうしたんだ? いまごろ。」
それは、夜なかの三時だったのです。
「この部屋に、黄金豹が……。」
「エッ、なんだって? 黄金豹は、ゆうべ、このうちから逃げだしていったばかりじゃないか。きみ、夢でも見たんだろう。」
まさか、あれほど追っかけられた豹が、またここへやってくるなんて、だれも、ほんとうとは思えないのでした。
「いいえ、夢じゃありません。たしかに、この部屋のなかにいるんです。しかも、そいつは、人間のことばでものをいいました。」
小林君が、いまのできごとを、くわしく話しますと、会社員のひとりが、
「よしッ、それじゃ、ピストルを持ってくるから、そのドアをおさえていたまえ。」
といって、かけだしていきましたが、じきに、ピストルをにぎって、もどってきました。
「よしッ、ドアをすこし開くんだ。ぼくが、そこから、ねらいをつけてしとめてやる。」
小林君が、ノッブをまわして、そっとドアを五センチほど開きました。会社員は、そこから部屋の中をのぞいていましたが、へんな顔をして、小林君をふりむきました。
「きみ、なにもいないじゃないか。いったい、どこにいるんだ?」
「人間のように、デスクのむこうのイスにかけて、こちらを見ていたんです。」
「デスクには、なんにもいないよ。ほら見てごらん。」
小林君がのぞいて見ますと、なるほど、もうそこには、豹のすがたは見えません。しかし、どこにも逃げ道はないのです。窓には鉄格子がはまっています。ドアは、このドアひとつきりです。小林君は、いちどもドアの前をはなれませんでした。ですから、この金色の怪獣は、まだ部屋の中にいるに、ちがいないのです。
「どっかに、かくれているのですよ。用心してくださいよ。」
「よしッ、ぼくがはいってみる。」
勇敢な会社員は、ピストルをかまえて、部屋の中へはいっていきました。そして、デスクの下や、本棚のすみを、あちこちと捜しましたが、どこにも豹のすがたはありません。
「なにもいないじゃないか。きみはやっぱり、夢を見たんだろう。」
「夢なもんですか。ぼくはたしかに、あいつを見たんです。そしてあいつが、人間のことばでしゃべるのを聞いたんです。」
小林君も部屋のなかにはいって、すみずみを、しらべてまわりました。しかし、そこにはネズミ一ぴき、いないのでした。
小林君は、あまりのふしぎさに、ぼんやり、つっ立っているばかりです。窓の鉄格子にも、なんの、異状もありません。窓やドアから出なかったことはたしかです。この部屋には、秘密のかくし戸なんか、ぜったいにありません。それなのに、豹のすがたが消えてしまったのです。
千年の豹が、またしても、魔法をつかったのでしょうか。しかし、このお話は怪談ではありません。どんなにふしぎな魔法のように見えても、それには、ちゃんと種があるのです。名探偵ならば、その種を見やぶることができるのです。
では、この厳重な密室から、消えうせた魔法の種は、いったい、どういうことだったのでしょうか。さすがの小林少年にも、それはわかりませんでした。明智先生の知恵を、借りるほかはないのかもしれません。
読者諸君は、おわかりですか。この秘密がとけるのは、もっとずっとあとです。それまでは、黄金豹が、どういうしかけで消えうせたか、ひとつ、考えてみてください。
園田邸の怪事件があってから、三週間ほどのちのことです。お話かわって、東京と大阪に店をもっている日本でも一流の大宝石商、株式会社宝玉堂の大阪の店から、二十三個のダイヤモンドを、東京の店へ、もっていかなければならないことがおこりました。
一つ五百万円もする大きなダイヤも、まじっていて、二十三個で五千万円という値うちのものですから、途中でなくしたり、盗まれたりしては、たいへんです。そこで大阪の店の支店長次席の野村という人が、じぶんで持っていくことにしたのですが、いろいろな事情で、飛行機の時間にまにあわなくなり、といって、一日のばすわけにはいきませんので、しかたなく、夜の特急列車に乗りこみました。
汽車なら一等寝台が安全だと思いました、が、それでは、かえってめだつから、なにげなく二等寝台に乗ることにしたのです。そのかわり、宝石には保険がかけてありますし、旅行のあいだ、宝石をいれておく場所にも、特別の知恵をはたらかせて、じゅうぶん、用心をしました。そのうえ、若い腕っぷしの強い荒井という社員をつれて、ごえいにあたらせることにしたのです。
支店長次席の野村さんは、わざと、上段の寝台をえらび、その下の寝台へ、荒井という社員を寝させました。そうしておけば、悪者が上段への鉄ばしごをあがってくれば、下段にいる荒井さんに、すぐわかるので、いっそう安全だからです。
そのまよなか、列車はいま関ガ原のへんを走っていました。上段の野村さんは、ダイヤをいれた、まるい革のかばんをだくようにして、うとうとと眠っていました。すると、しめきった青いカーテンが動いて、その合わせめから、みょうなピカピカ光るものが、ニューッと出てきました。
野村さんは、なんだかへんな音がしたので、ふと目をひらいて、せまい寝台のなかを見まわしました。そして、すぐに、ピカピカ光るものを見つけたのです。カーテンの合わせめからのぞいているのは、金色に光ったものです。えたいのしれないへんなものです。よく見ると、その金色のものには、するどい爪がはえていました。猛獣の爪です。野村さんはギョッとして、身をちぢめたまま、息をころして、それを見つめていますと、またカーテンが、ゆらゆらと動いて、その合わせめから、燐のような青く光る、小さなまるいものが、のぞきました。目です。猛獣の目です。それが、ヌーッと、こちらへ近づいてくるのです。そして、猛獣の顔ぜんたいが、あらわれてきました。
その顔は、金色に光っていました。金色のなかに、黒いはんてんがあるのです。鼻のへんに、キューッとしわをよせて、ガッと、まっ赤な口を開きました。白いするどい牙が、はえています。
「アッ、黄金豹だッ!」
野村さんは、それをさとると、気をうしなうほどの驚きにうたれました。それにしても、あの怪獣が、汽車の中にあらわれるなんて、まるで、恐ろしい夢を見ているようです。やっぱり夢かしら? いや、いや、夢ではない。じぶんは、たしかに目をさましている。どうして、この人目につきやすい怪獣が、汽車の中にはいってきたのか、わからないけれど、こいつは、あの恐ろしい黄金豹にちがいありません。野村さんは、もう生きたここちもないのです。こいつに、くわれてしまうのではないかという恐れと、もうひとつは、五千万円のダイヤを、こいつに、とられてしまうのではないかという心配で、気がくるいそうになってくるのです。
野村さんは、寝たまま、だんだん、寝台のすみのほうへ、からだをちぢめて、宝石のかばんを、死にものぐるいでだきしめていました。すると、怪獣の金色の前足が、ヌーッと、その宝石のかばんのほうへ、のびてきました。しかし、せまい寝台の中ですから、逃げることも、どうすることもできません。
金いろの前足は、恐ろしい力で、野村さんのだきしめていた宝石のかばんを、つかみとってしまいました。そして、まるで人間のように、もういっぽうの前足でかばんを開き、それを、青く光る目の前へもっていって、しばらく見ていましたが、とつぜん人間の声で、いやな笑いかたをしました。
「ウヘヘヘ……、これはみんなにせものだ。そんな、あまい手にはのらないぞ。さあ、ほんもののダイヤを出せ。」
怪獣が人間のことばをつかったので、野村さんは、いよいよ、たまげてしまいました。たしかに、かばんの中にいれておいたのは、にせものなのです。ほんもののほうは、うすいニッケルの箱にいれて、長いきれでつつみ、それを、しっかり腹にまいていたのです。
野村さんは、おもわず、その腹まきの上を、両手でおさえました。
「ふふん、わかったぞ。さては、腹にまいているんだな。」
黄金豹はそういって、前足で、野村さんのきていたパジャマの胸をはだけ、いっぽうの前足を、グッとその中にいれて、むりやりに、腹まきをひき出してしまいました。
そして、腹まきの中のニッケル箱を取りだし、ふたを開いて、中をあらためてから、ピチンとふたをしめて、それを、にせもののはいっている宝石かばんにいれると、かばんのさげかわを口にくわえて、カーテンのそとへすがたを消してしまいました。
野村さんは、そのときになって、やっと、声をたてることができました。それまでは、あまりの恐ろしさに、口がきけなかったのです。野村さんが叫びたてたものですから、ほかの寝台に寝ていた人々がみんな目をさまして、なにごとかと、カーテンを開いて、まんなかの通路をのぞきました。すると、その通路を、一ぴきの金色の豹が、口にまるい宝石かばんをくわえて、のそのそと歩いていくのが見えたものですから、ワアッ、という叫び声がおこり、たちまち、寝台車の中は、おそろしいさわぎになりました。
下段にいた荒井さんも、やっとそのとき、寝台からはい出して、野村さんのいる上段のベッドをのぞきましたが、もう手おくれです。荒井さんも、黄金豹がきたことは、よくしっていたのです。みょうな黒いかげが、じぶんのベッドのカーテンにうつったので、そっと、合わせめからのぞいて見ると、そこに、思いもよらぬ黄金豹が、立ちはだかっていたので、きもをつぶして、ベッドの中で小さくなっていたのでした。いくら、腕っぷしが強くても、相手が猛獣では、どうすることもできなかったのです。
その寝台車の入口にある喫煙室に、列車ボーイが、いねむりをしていましたが、すりガラスのドアのなかから、叫び声が聞こえてきましたので、ビックリして、立ちあがるとドアを開いて、中にはいろうとしました。
すると、三メートルほどむこうから、のそのそと、歩いてくる黄金豹の恐ろしいすがたが、見えました。燐のような青い目が、グッとこちらを、にらみつけているのです。
ボーイは、ひとめ、それを見ると、「ワッ!」といって、はんたいの方角へ逃げだしました。そして、一両まえの二等車へとびこんで、ドアをピッタリしめたのです。
それは、寝台でない二等車ですから、乗客は、イスにかけたまま眠っていましたが、おきて話をしていた人たちは、まっ青になって、かけこんできたボーイのすがたを見て、びっくりしました。
「みなさん、たいへんです。このつぎの寝台車に、金色の豹があらわれたのです。そして、こちらへやってきます。用心をしてください。」
ボーイが大声で、どなりました。その声に、眠っていた人たちも、みな目をさまし、せきから立って、うろたえはじめました。
気にかかるのは、いまボーイがはいってきたドアです。それをしめたことは、しめたのですが、鍵をかけたわけではありませんから、豹が、それを開くかガラスを破るかして、はいってきたら、もうおしまいです。立ちあがった乗客たちの目は、しぜんと、そのドアを見つめました。
どうやら豹は、ドアのすぐむこうまで来ているようです。そこにうずくまって、ようすをうかがっているのかもしれません。
そのうちに、ドアのとってが動きはじめました。なにものかが、とってをまわしているのです。豹に、とってをまわす知恵があるのでしょうか。ふつうの豹なら、そんな知恵はないはずですが、黄金豹は、さっき宝石を盗んだ手ぎわでも、わかるとおり、人間と同じ知恵をもっているのです。とってをまわすくらいは、ちゃんと知っているにちがいありません。
しばらく、ガチガチやっているうちに、とってがうまくまわって、しまりがはずれ、ドアがスーッと、開きはじめました。十センチぐらい開いたとき、そこから、あらわれたのは、あの金色の前足です。それをドアにかけて、おしているのです。
やがて、ドアがぜんぶ開いて、黄金豹の恐ろしいすがたがあらわれました。「ワアッ。」という恐怖のどよめき。人々は先をあらそって、はんたいのほうへ逃げだしました。
みんながいちどに、はんたいがわのドアのほうへおしよせたので、人と人とが、かさなりあい、おされて、倒れるもの、倒れた上を、ふんづけるもの、キャーッ、という女の悲鳴、子どもの泣き声、列車の中は、恐ろしいさわぎになりました。黄金豹は、べつに、とびかかってくるようすもなく、宝石かばんを口にくわえ、のそりのそりと、歩いています。乗客たちのさわぎを、あざ笑っているように見えます。
その二等車の前にも車両がつながっていましたが、そこの乗客たちも、このさわぎを知って、そう立ちになり、はんたいのほうへ逃げだし、じゅんじゅんに、さわぎがつたわっていって、列車ぜんぶが、恐ろしい混乱におちいりました。
乗客のなかに、ふたりの警官がいて、このさわぎをしると、車掌と連絡をとって、ピストルで怪獣をうち殺す相談をしました。そして、ピストルをにぎって、人々をかきわけながら、豹のいるところへ、かけつけましたが、どうしたことか、豹のすがたが見えません。
どこへいったのかと、みんなにたずねても、人々は、すぐうしろから豹が追っかけてくると思いこんで、逃げるのに夢中になっていたので、だれも豹のゆくえを知らないのです。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、捜しまわっているうちに、車掌が、びっくりしたような声をたてました。
「アッ、ここが破れている。ここから逃げだしたのです。」
見ると、車と車とのあいだの通路の黒いおおいが破れて、大きな穴があいていました。しかし、いま列車は全速力で走っています。いくら猛獣でも、こんな列車からとびおりたら、大けがをするにきまっています。はたしてとびおりたのでしょうか?
車掌は、その破れた穴から、半身をのりだして、あたりを見まわしていましたが、上のほうに目をやったとき、「アッ。」と驚きの叫び声をたてました。
そこは、車と車とのあいだですから、さきの車の外がわに、屋根へ登るための鉄ばしごがとりつけてあります。その鉄ばしごの上の屋根から、太い金色の棒のようなものがさがっていました。まっ暗ななかに、それだけが、はっきり見えるのです。
その棒には、黒いはんてんがありました。そして、生きもののように、ぐにゃぐにゃと、動いているのです。豹のしっぽにちがいありません。
「アッ、ここにいた。屋根の上へ、逃げたのです。」
車掌がどなりました。
「どこに? どこに?」
ひとりの警官が、車掌といれかわって、破れ穴から半身をのりだし、屋根を見あげましたが、もう豹のしっぽは見えません。屋根の上を歩いていったのです。
それは、ひじょうに勇敢な警官でした。かれは、破れ穴のそとへ、足をふみ出して、そこの鉄ばしごにとびつき、ピストルをかまえながら、列車の屋根へ登りました。
列車はまだ全速力で、走っています。うっかりすると、屋根から、ふり落とされそうです。それに、そとはまっ暗ですから、しばらくは、なにも見えません。
警官は屋根の上に、四つんばいになって、すかすようにして、むこうを見ました。
いる! いる! 闇の中でも、ピカピカ光る黄金豹が、歩いていくのが見えます。
アッ! 屋根から屋根へ、とびうつりました。
警官は、おおいそぎで屋根の上をはって、こちらの屋根のはしまでいって、ピストルのねらいをさだめました。ピストルの筒口から、パッと火を吹きました。発射したのです。しかし、ごうごうと走る汽車の音にけされて、ピストルの音は、ほとんど、聞こえないくらいです。弾はあたったのでしょうか? 豹はうち殺されたのでしょうか。いや、いや、相手は魔法の怪獣です。一ぱつや二はつのピストルで、殺されるようなやつではありません。
そのとき、列車の中では、車掌が、もうひとりの警官と相談して、機関車の運転手に、急停車の信号をしました。列車をとめて、豹をうち殺すほかはないと思ったからです。
さっきまで、豹に追われて、立ちさわいでいた乗客たちは、ガクンというショックを感じて、しょうぎだおしになりました。列車が急停車をしたのです。
列車がとまると、乗客たちは、窓のところに集まって、かさなりあって、そとをのぞきました。黄金豹が、列車の屋根に登ったことは、口から口につたえられ、みんな知っていたのです。
窓のそとは、見わたすかぎり、広いたんぼでした。空は、うすい雲にとざされていましたけれど、上のほうに月があるので、そのへんいったいが、ボーッと、うす白く見わけられます。
「みなさん。いまドアを開きますが、危険ですから、車からおりないようにねがいます。」
車内にとりつけてあるラウド=スピーカーが、わめきました。
おとなしい人たちや、老人や女は、それをまもって、小さくなっていましたが、こわいもの見たさの、若い男たちは、ドアの開くのを待ちかねて、列車からとびおりました。そして、レールのしいてある土手の上を、あちこちと、さわぎまわるのです。
列車の中にのこっていた警官と、車掌とが、土手におりて、みんな車の中に帰るように注意しましたが、なかなか、いうことをきくものではありません。車からとび出してくる人のかずは、だんだん、ふえるばかりです。
警官は列車の屋根を見あげて、そこに登っている、もうひとりの警官に、呼びかけます。すると、なかほどの客車の屋根の上から、その警官が顔を出して、叫びました。
「豹は、屋根からおりた。もう屋根の上には、すがたが見えない。みんな用心してください。」
それを聞くと、うろついていた乗客たちが、ワーッと、なだれをうって、もとの車室へ、逃げこもうとします。
しかし、豹のすがたは、どこにも見えません。おりなかった乗客たちは、両がわの窓から、そとを見ているのですから、豹がどちらへ逃げても、気がつかぬはずはないのです。また、屋根の上の警官は立ちあがって、四方を見まわしていたのですから、あの金ピカのやつが、逃げていけば、かならず目についたはずです。ところが、いつまで待っても、豹はどこにもあらわれません。
「へんだな。あいつは、もしかしたら、列車の中へ、もどったのじゃないだろうか。」
だれかが、そんなことをいいますと、乗客たちは、また、さわぎはじめました。車の中にいたらいいのか、そとへ逃げたらいいのか、わからなくなってしまって、ただ、うろうろするばかりです。屋根にいた警官は下におりて、もうひとりの警官といっしょに、列車の中をしらべました。車掌やボーイなども、てつだって、長い列車の、はしからはしまでしらべましたが、黄金豹は、どこにもいないのです。
警官たちは、また土手におりて、運転手のてらす手さげ電灯で、列車の下をのぞきまわりました。車輪の間にかくれているかもしれないと思ったからです。しかし、なにも発見することができませんでした。警官たちが、客車にもどろうとすると、そこにかたまっていた乗客の中から、ひとりの老人が、前に出てきました。黒い背広をきて、白いあごひげを胸にたらした六十をこしたじいさんです。
「おじいさん。あぶないから、はやくじぶんの席にもどりなさい。」
警官が、注意しますと、じいさんはニヤニヤと笑って、
「なあに、だいじょうぶ。わしは、こう見えても、若いものに負けませんよ。ところで、あの化けものは、どうしましたね。金色の豹は、どこへいきましたね。」
「ふしぎなことに、どこにもいないのです。かき消すように、見えなくなってしまいました。」
「ふふん、また魔法をつかったな。あいつは、あぶなくなると、忍術つかいみたいに、パッと、消えうせる術を、心得ておるのじゃ。しかし、ゆだんはなりませんぞ。あいつは化けものだからね。なににでも化ける。思いもよらないものに化けて、ちゃんとこの汽車に乗っているかもしれない。そして、いまにまた、みんなの、どぎもをぬくようなことを、はじめるかもしれませんぞ。」
じいさんは、そういって、またニヤニヤと、うすきみ悪く笑うのでした。
しかし、いつまでも列車をとめておくわけにはいきませんので、車掌と運転手は相談のうえ、乗客たちを、のこりなく客車にのせて、そのまま発車することにしました。
警官は宝石を盗まれた宝石商に、くわしく、事情を聞きとりました。もとの席にもどった乗客たちは、もう眠るどころではありません。黄金豹が列車のどこかにかくれていて、また、すがたをあらわすのではないかと、びくびくしながら、一夜をあかしました。
「こんな、いのちがけの汽車には、乗っていられない。」と、途中の駅でおりてしまった人も、すくなくありません。
さっきの白ひげのじいさんは、どこへいったのでしょう。べつに途中でおりたようすもないので、どこかに乗っているのでしょうが、だれも、あのじいさんを見たものはないのです。
あやしいじいさんです。さっきは、なぜあんなことをいったのでしょう。
「いまに、みんなの、どぎもをぬくようなことがおこる。」といいました。どうして、じいさんは、それを知っているのでしょう。ほんとうにそんなことが、おこるのでしょうか。
列車は、翌日の朝はやく、ぶじに東京駅につきました。豹は一度もあらわれなかったのです。
まだ早いので、プラットホームには、人かげもまばらでした。そこへ、列車がつきますと、乗客たちは、「やれ、やれ、なにごともなくて、よかった。」と、胸をなでおろしながら、ホームにおりたち、地下道から改札口へと、いそぎました。
ホームは、しばらく、その人たちで、混雑していましたが、みんな地下道への階段をおりてしまうと、あとはがらんとして、まったく人のすがたが、なくなってしまいました。
すると、そのとき、その列車のなかほどから、ピョイととびだしたものがあります。ピカピカ光る金色の大きなものです。
そいつは、ホームにおりると、地下道の階段のほうへ、のそのそと、歩きだしました。……黄金豹です。宝石かばんは、どこへやったのか、もう口にくわえていません。まっ赤な口をパクッと開いて、長い舌で鼻のへんを、ぺろぺろとなめながら、ゆうぜんとして歩いているのです。
いくら朝はやいといっても、ホームに人がひとりもいないなどということは、めったにありません。ふしぎといえば、それもふしぎでした。しかし、もっとふしぎなのは、東京駅のプラットホームを豹が歩いていることです。しかも、そいつは、ぜんしん金色の怪獣なのです。なんだか、恐ろしい夢のようなけしきでした。
黄金豹は、列車の乗客たちと同じように、地下道の階段のほうへ歩いていきました。そして、そこをおりようとしたときです。列車の後部から、駅員の制服をきた人が、ホームへ出てきました。車掌です。しばらくは、なんの気もつかず、歩いていましたが、ふと地下道の入口を見ると、ギョッとして立ちどまりました。いま、そこをおりていく黄金豹のうしろすがたに、気づいたからです。
「アッ、豹だ! 豹があらわれた。みなさん、注意してください。そっちへ豹がおりていきます。」
階段には、まだ、おくれた乗客がいるかもしれません。車掌は、まずその人たちを助けなければならないと思ったのです。車掌が心配したとおり、そのときふたりづれの、田舎のおかみさんらしい人が、大きなふろしきづつみをさげて、階段をおりていました。
車掌の叫び声に、ふと、うしろを見ると、そこに、あの怪獣がいたではありませんか。
「キャーッ。」ふたりは悲鳴をあげて、階段にしりもちをついたまま、動けなくなってしまいました。
黄金豹は、一段、一段、ふたりのほうへ、おりてきます。
もう一メートルの近さにせまってきました。怪獣のからだは、キラキラとかがやいて、まばゆいばかりです。燐のように青く光る目が、じっと、こちらをにらんでいます。おかみさんたちは、生きたここちもありません。いまにも気をうしないそうです。
豹は、ふたりの女のにおいでもかぐように、鼻を近づけて、くんくん、やっていましたが、べつに、くいつきもしないで、そのまま、のそり、のそりと階段をおりていきました。
階段の下の広い通路には、あちこちに、人が歩いていました。そこへ、金色の怪獣が、すがたをあらわしたのだから、たいへんです。人々は悲鳴をあげて、逃げまどいます。そして、たちまち、広いホームに、かげが見えなくなってしまいました。黄金豹は、そこを、やっぱり、のそり、のそりと、歩いていきます。
さっきの車掌は、別の階段から駅の事務室にかけこみ、みんなに怪獣のことを知らせたうえ、近くの警察へ電話をかけました。
すると、まっさきにパトロール=カーがつきました。そして、ピストルをもった数名の警官が、駅の中へとびこんできたのです。
駅員に聞きますと、黄金豹の歩いていった方角がわかりましたので、そのほうに、かけつけました。そして、手洗所の前までいきますと、そこに、ひとりの駅員が、まっ青な顔をして立っていました。
「こ、この中です。豹は手洗所の中へ、はいっていきました。」
駅員が、ふるえ声でいいます。
「うん、この中だな。」
警官のひとりが、ピストルをかまえて、ドアを開き、中をのぞきました。
「なにも、いないじゃないか。」
「いいえ、たしかにいます。いま、はいったばかりです。」
手洗所の中は、まがっているので、ドアのところから、全部は見えません。警官たちは、みんなピストルを持って、中へはいっていきました。
すると、まがり角のむこうから、ヒョイと、あらわれたものがあります。ギョッとしましたが、それは人間でした。白いあごひげをはやした老人です。黒い背広を着て、大きなふろしきづつみを持っています。これから汽車に乗るのでしょう。
「アッ、きみ、いま、ここへ豹がはいってきたのを見なかったか。」
「エッ、豹ですって? こんなところへ豹なんか、くるはずがないじゃありませんか。そんなもの見ませんよ。」
じいさんは、きょとんとした顔でそう答えると、そのまま、そとへ出ていきました。
それから警官たちは、手洗所の中を、くまなくさがしましたが、豹など、どこにもおりません。窓はみなしまっていますし、べつの出入り口があるわけでもありません。どこにも逃げ場はないのです。
駅員は、まぼろしでも見たのでしょうか。それとも、黄金豹が、またしても魔法をつかって、煙のように消えてしまったのでしょうか。
それから三十分ほどたちました。あとから、かけつけた、おおぜいの警官が、駅員たちと力をあわせて、広い駅の構内を、すみからすみまで捜しましたが、豹はどこにもいないのです。
そのあいだ、乗客は改札口からいれないで、待たせておいたのですが、つぎからつぎと電車や汽車が発着するので、いつまでも、そのままにしておくことはできません。豹が駅の中にいないことが、たしかめられると、いそいで、通行どめをときました。
まだ六時まえですから、駅の中は、それほど混雑しているわけではありません。売店なども、まだ戸をしめたままのところが多いのです。
出勤時間の早い、ひとりの若い女事務員が、売店の並んでいるところを通りかかりました。すると、一けんだけ戸をあけている店がありました。新聞や雑誌や本を売る店です。
女事務員は、婦人雑誌を買おうと思って、その店の前に立ちましたが、店員のすがたが見えません。売場のうしろに、しゃがんでいるのかもしれないと思って、映画雑誌や週刊雑誌の、さげてあるすきまから、中をのぞいて見ました。
やっぱり、そうでした。だれかが、その中に、しゃがんでいるのです。
「ねえ、この雑誌くださいな。」
声をかけますと、売場の台のうしろから、ヌーッと、顔を出しました。
それをひとめ見ると、若い女事務員は、みょうな声をたてたかと思うと、いきなり、そこへ、くなくなと倒れてしまいました。気をうしなったのです。
なぜ気をうしなったのでしょう。それは、売場の台のうしろから、ヌーッと顔を出したのは、人間ではなかったからです。金色をした猛獣の恐ろしい顔だったからです。黄金豹は、いつのまにか、こんなところに、かくれていたのです。
むこうから歩いてきた会社員が、女事務員の倒れているのに気がつきました。いそいで、かけよって、助けおこそうとしましたが、そのとき、チラッと店の中を見ると、そこに、黄金豹の顔がありました。会社員は、ギョッとしてとびのき、いちもくさんにかけ出しながら、叫びました。
「た、たいへんだあ。あすこに、あすこに、金色の豹がいる……。」
きちがいのように、そんなことをわめいて走っているので、たちまち、四方から人が、集まってきました。
「どうしたんだ? しっかりしたまえ。」
「豹だ。しかも、金色のやつだ。あの雑誌の売店の中だ。」
それを聞くと、人々は青くなって、はんたいのほうへ逃げだしました。そして、駅員に、そのことを知らせましたが、駅員も恐ろしくて、そこへ近よる勇気はありません。
しかし、さいわいにも、さっきの警官隊の一部が、まだ駅に残っていて、すぐに、かけつけてくれました。
「どこだ。どの店だ。」
「あれです、あの雑誌売場です。」
会社員が、逃げ腰になりながら、遠くから、そのほうを指さします。
「よしッ。」というので、ピストルを手にした五、六名の警官が、その売店へ、ふみこんでいきました。そのうちのひとりは、店の前に倒れていた女事務員をかかえて、こちらへつれてきます。
ところが、どうでしょう。店の中には、なにもいなかったのです。怪獣は、またしても、消えうせてしまったのです。
「おい、このすみに、だれか、倒れている。手をかしてくれ。」
ひとりの警官が叫びました。見ると、そのうす暗いすみっこに、若い女が倒れていました。うしろ手にしばられ、目かくしをされ、さるぐつわを、はめられています。
いそいで縄をとき、さるぐつわをはずして、たずねてみますと、その女は、売店の女店員で、店を開いたばかりのところへ、だれかがはいってきて、うしろから、はがいじめにされ、縄をかけられてしまったというのです。
「それは、どんなやつだった。顔を見なかったか。」
「いきなりうしろから、組みつかれたので、顔なんか見えません。」
女店員は、まったく、なにも知らないのです。うしろから組みついたのは、黄金豹だったのでしょうか。あいつは魔物ですから、女をしばったり、さるぐつわをはめたりすることが、できないともかぎりません。
それから、また、そのへんの捜索がおこなわれましたが、なんのかいもありません。豹はどこにもいないのです。
警官たちが捜しつかれて、もとの売店の前にもどり、相談をしていますと、そこへ、ひとりのじいさんが、ヒョロヒョロと近づいてきました。
あの黒背広の、白ひげのじいさんです。じいさんは、警官たちの前に立ちどまって、にやにや笑いながら、こんなことをいうのでした。
「また、逃がしましたね。むりはない。あいつは魔物ですからね。煙のように、パッと消えるのです。警察のちからでも、どうにもできますまい。だが、これからが見ものですよ。あいつ、こんどはなにをやると思います。うふふふ……、きっと、あんたがたの、どぎもをぬくようなことを、しでかしますよ。」
名探偵明智小五郎の事務所は、一年ほどまえから千代田区にあたらしくたった麹町アパートという高級アパートに、移っていました。
それは都営アパートなどよりも、ずっとりっぱな建物で、明智が借りているのは、二階の一区画で、広い客間、食堂、書斎、浴室、台所など、五つほどの部屋でした。名探偵はそこを、事務所と、住まいの両方につかっているのです。入口には、『明智探偵事務所』とほった金色の小さい看板が、かかっていました。
明智夫人は、長い病気で、ずっと高原療養所にはいっていますので、いまは名探偵と少年助手の小林君と、ふたりきりなのです。ですから、ふたりは、まるで親子のような、したしいあいだがらでした。女中もおかず、食事は近くのレストランから、とりよせることになっていて、パンを焼いたり、コーヒーをいれたりするのは、小林君のやくめでした。小林君が、仕事でそとへ出ているときは、名探偵自身で、それをやるのです。
黄金豹が東海道線の列車の中にあらわれた、あの事件があってから、十日ほどのちの、ある日の午後のことでした。アパートの二階の客間で、大通りを見おろす窓のそばに名探偵と小林少年とが、イスにこしかけて話しをしていました。
「先生、黄金豹は、あれっきり、すがたをあらわしませんね。どこにかくれているのでしょう。あのとき東京駅で、みょうなじいさんが、いまに、みんなのどぎもをぬくようなことを、やるだろうといったそうですね。先生、あのじいさんは、いったい、なにものでしょう?」
小林君が、たずねました。
「あれは黄金豹と一心同体のやつだよ。きみは、ネコじいさんをおぼえているかい。ほら最初、黄金豹がとびこんだまま、消えてしまったあのうちに、へんなじいさんがいた。ネコを十六ぴきも飼っているネコじいさんがいた。あのじいさんと東京駅にあらわれたじいさんとは、同じかもしれない。いやまだあるよ。園田さんのうちに、助造じいさんに化けて住みこんでいたのが、やっぱり、ネコじいさんの変装かもしれない。いずれにしても、あのネコじいさんさえ、つかまえれば、黄金豹の秘密がわかるだろう。ぼくは、警視庁の中村警部に、そのことを話しておいたから、警視庁でも、一生けんめいに、ネコじいさんを捜しているのだよ。」
「でも、まだ見つからないのですね。」
「うん、なにしろ魔法つかいみたいなやつだからね。あいつをつかまえるのには、こちらも魔法をつかわなければ、だめだよ。」
「エッ、魔法をですか?」
「うん、魔法をだよ。ぼくはその魔法を考えている。ぼくだって魔法くらい、つかえるからね。」
明智探偵はそういって、ニッコリ笑いました。小林少年は、リンゴのようなほおを、いっそう赤くして、目を光らせて、たのもしそうに、先生の顔をみつめるのでした。
「先生なら、きっと、あいつを、つかまえられますね。」
「うん、つかまえられると思っている。……小林君、見ていたまえ、いまにきっと、あいつのほうから、ぼくに近づいてくるようなことがおこるよ。ぼくは、それを待ちかまえているのだ。」
明智探偵はそういって、窓わくにひじをかけて、アパートの前の大通りを見おろしていましたが、そのとき、なにを見つけたのか、探偵の顔に、みょうな笑いが浮かんできました。
「いまアパートの前に自動車がとまった。ほら見たまえ、りっぱな紳士が出てきた。しかし、ひどくおどおどして、あたりを見まわしている。だれかに尾行されていやしないかと心配しているのだ。アッ、アパートへはいってくる。あの紳士は、きっと、この事務所へやってくるよ。なにか事件をもってきたにちがいない。」
明智の想像は、あたっていました。まもなく入口のドアに、ノックの音がして、「おはいりなさい。」と答えると、さっきの紳士がはいってきました。
「明智先生はおいでですか。」
「ぼくが明智ですよ。まあ、おかけなさい。」
探偵はそういって、そこの安楽イスをすすめました。
紳士は、ソフト帽をテーブルの上において、そのイスにこしかけ、じろじろと、明智の顔を見ていましたが、やっと安心したように、
「ああ、あなたは明智さんにちがいありません。新聞でよくお写真を拝見しています。それから、そこにいるのは、先生の有名な少年助手の小林君でしょう。」
「そうです。ほかにだれもいませんから、安心してお話ください。」
「じつは、悪者に脅迫されていまして、そいつは恐ろしいやつですから、どこに先まわりしているかわかりません。明智さんにだって化けるかもしれないのです。それで、あなたのお顔をたしかめるまでは、安心できなかったのですよ。」
「松枝さん、あなたは宝石とゴルフがおすきのようですね。」
明智探偵が、とつぜん名をよんだので、紳士はビックリして、目をみはりました。
「エッ、あなたはどうして、わたしの名をごぞんじです。一度も、お目にかかったことはないはずですが。」
「ははは……、名をかくしたければ、帽子をテーブルの上に上むきにおおきになってはいけませんね。その帽子のびんがわ(裏のかわ)に、ローマ字で Matsueda と金文字が、おしてあるじゃありませんか。」
「アッ、そうでしたか。わたしは、びっくりしましたよ。しかし、宝石とゴルフのことは、どうしておわかりになりました?」
「あなたの指輪のオパールは、ひじょうに質のいいものです。それから、ネクタイどめの真珠も、すばらしい品です。それだけでも、あなたが宝石を見る目のあるかただと、いうことがわかります。好きでなくては、それほど目がこえるものではありませんからね。それからゴルフのことですが、あなたは上流の紳士でいらっしゃるのに、ひどく日にやけて、色が黒くなっている。そう太っておられては、山のぼりや、ハイキングではありますまい。また、いまは海水浴の季節でもありません。そこで、あなたのご年配では、近ごろの流行のゴルフに、こっていらっしゃるのだと、想像したのですよ。あたりましたか?」
「あたりました。すっかりあたりましたよ。一目みて、そこまで、お察しになるとは、さすがに名探偵ですね。かぶとをぬぎました。ところで、お願いしたいのは、そのわたしの好きな、宝石のことなのですよ。」
紳士はそういって、イスから、からだをのり出すようにするのでした。
「わたしは、昭和信用金庫の社長をやっているものですが、わたしが、命のつぎにだいじにしているダイヤモンドが、盗まれそうになっているのです。」
松枝という紳士は、ないしょ話でもするように、声をひそめていいました。
「どうして、盗まれそうだということが、おわかりになったのです。」
「電話です。あいつから電話が、かかってきたのですよ。」
「あいつとは?」
そのとき、松枝さんは、グッとからだを前にのり出して、いっそう声をひくめました。
「黄金豹です。あの恐ろしい魔ものが、きょうの昼ごろ、電話をかけてきたのです。そして、いまから二日のあいだに、おまえのもっているインドの宝石を、もらいにいくから、待っていろというのです。」
黄金豹と聞いて、明智探偵と小林少年は、「さては!」というように、目を見あわせました。さきほど、黄金豹のほうから近づいてくることがおこるといった、名探偵のことばが、早くも事実となってあらわれてきたのです。
「で、そのことを警察に、おとどけになりましたか?」
明智がたずねますと、松枝さんは、首をふって、
「いや、まだとどけておりません。それよりも、まっ先に、先生に相談したかったのです。といいますのは、わたしはあの金むくの豹のおきものを、盗まれかけた園田君と友だちでして、あのとき小林君のおかげで、ぶじにすんだことを聞いていました。
小林君に知恵をおさずけになったのは、むろん明智先生です。ですから、怪物黄金豹をふせいでくださるかたは、先生のほかにないと思って、こちらへ、かけつけたわけです。」
「わかりました。およばずながら、お力になりましょう。しかし、そのインドの宝石というのは、いまどこにおいてあるのですか。」
「じつは、ここに持っているのです。」
松枝さんは、そういって、またあたりを見まわしてから、チョッキのうちポケットに手をいれると、小さなかわの宝石箱を取りだして、パチンと、ふたを開きました。
箱の中から、パッと五色の虹がたちました。
びっくりするほど大きな、青みがかったダイヤモンドです。
「十カラットの青ダイヤです。これにはゆいしょがあります。戦争後、ある外国人から、ゆずりうけたのですが、もとはインドの奥のほうにあるお寺の本尊のひたいに、はめこんであったもので、それが、いまから一世紀もまえに、イギリス人の手にわたり、それから、いろいろな人の手をへて、戦争後日本へやってきたある外国人が、わたしに、ゆずりわたしたものです。
わたしは、宝石きちがいのような男ですから、全財産をなげだして、それを買いました。
お金よりも、宝石がだいじです。これをとられたら、わたしはもう、生きている気がしないほどです。明智先生、この宝石を、あなたに、あずかっていただきたいのです。そうすれば、黄金豹はあなたをねらうかもしれませんが、先生ならばそんなことは、へいきだろうと思いまして……。」
それをきくと、明智はニッコリ笑いました。
「ぼくをそこまで信用してくださって、ありがとう。よろこんでおあずかりしますよ。じつは黄金豹が近づいてくるのを、待っていたのですからね。けっして、盗まれるようなことはしません。ぼくの書斎には、ふしぎな金庫がそなえつけてあります。ふつうの金庫ではありません。いろんなしかけのある、魔法の金庫です。この中へ、いれておけば、けっして盗まれる心配はありません。すぐに、そこへいれておきましょう。こちらへ、おいでください。」
明智はそういって、立ちあがると、さきにたって、松枝さんを書斎へ案内しました。小林君も、あとからついていきます。
そこは、四ほうの壁が、本でぎっしりつまった、りっぱな書斎でした。その一ぽうの壁に、人間でもはいれるような大きな金庫が、すえつけてありました。
「わたしはお金もちではありません。ですから、お金をいれる金庫ではないのです。ここには、わたしがひきうけた、いろいろな事件の重要書類がはいっています。みんな、たいせつな秘密の書類なので、盗まれては、たいへんですからね。」
明智はそう説明して、金庫を開くと、ずらっと並んでいる桐のひきだしの一つをあけて、松枝さんの宝石箱をしまい、またピッタリと、金庫の扉をしめました。
「さあ、これでもう、だいじょうぶです。いまもいうとおり、この金庫には、ふしぎなしかけがありますから、どんな金庫やぶりの名人でも、この中のものを盗むことはできないのです。どうか、ご安心ください。」
松枝さんは、それからしばらく話をして、かならず宝石をまもってくれるようにと、たびたび、ねんをおして帰っていきました。
明智探偵は、客間の窓から、松枝さんの自動車が遠ざかっていくのを、見おくっていましたが、そばにいた小林君に、そっと、ささやきました。
「ごらん、あの大通りのむこうがわを、へんな男が歩いていくだろう。あいつは、さっきから同じところを、行ったり来たりしていたんだよ。ネコじいさんの仲間にきまっている。それとも、ひょっとしたら、ネコじいさんが変装しているのかもしれない。いずれにしても、黄金豹は今夜あたり、金庫やぶりに、やってくるよ。それこそ、こっちののぞむところなんだがね。」
明智探偵はそういって、ニコニコと笑うのでした。
明智探偵はそれから、どこかへ電話をかけ、探偵の部下をつとめている、ふたりの男を呼びよせました。そして、ぬかりなく、手配をさだめたうえ、夜になるのを待つのでした。
やがて、夜の九時をすぎると、そのへんはさびしい町ですから、人どおりも、とだえがちになりました。それを待っていた明智探偵は、小林少年といっしょに、前の大通りのむこうのほうに、たくさん、から自動車がおいてあるその中の一台に、身をひそめました。そして、自動車をとめたまま、麹町アパートの明智探偵事務所の窓を、じっと見まもっているのでした。
ヘッド=ライトを消し、車内もまっ暗にしてあるので、そとからは、からの自動車がおいてあるとしか見えません。
「先生、こうして、ぼくたちは、なにを待っているのですか。」
小林少年が、ふしんらしく、小声でたずねました。
「見ていたまえ、いまにおもしろいことがおこるから。あいつは、きっとやってくる。あすの晩まで待たないで、今夜、きっとやってくる。あの、ここから見える客間の窓を、すこし開いておいた。それがさそいのすきだよ。」
明智探偵も、ささやき声で答えました。ふたりとも、自動車のこしかけの前にしゃがんで、からだをかくしているのです。
「でも、黄金豹が書斎まではいって、金庫をあけたら、たいへんですね。宝石は、だいじょうぶでしょうか。」
小林君は、なにもしらないので、心配でしかたがないのです。
「それは、だいじょうぶだよ。あの金庫にはしかけがあるんだからね。」
そして、そのまま、ふたりはだまりこんでしまいました。長い長い時間でした。もう十時をとっくにすぎたでしょう。大通りは、ときたま自動車が通るばかりで、歩いている人はひとりもありません。並んでいる建物の窓のあかりは、ひとつひとつ、消えていき、町ぜんたいが、だんだん暗くなってきました。街灯の光が、四階だてのアパートの正面を、ほのかにてらしているばかりです。
そのとき、アパートの四階の屋根の上に、なんだか動いているものがありました。
「見たまえ、屋根の上を。とうとう、やってきたよ。やっぱり、待っていたかいがあった。」
明智探偵のことばに、小林君もそのほうを見あげました。
「アッ、ピカピカと光ってますね。黄金豹でしょうか。」
「そうだよ。ほら、屋根のとっぱしにうずくまった豹のかたちが、はっきり見えるだろう。」
「アッ、ほんとだ。でも、屋根なんかに登って、どうするつもりでしょうね。」
「入口に鍵がかかっているので、窓からしのびこむつもりだよ。見ててごらん。いまに、あそこから、縄をさげて、それをつたって、おりるにちがいない。」
そのとおりのことが、おこりました。四階の屋根の上から、一本の細い縄が、サーッと、下へなげおろされ、地面までとどきました。その途中に、ちょうど、明智事務所の客間の窓があるのです。
二階の窓から、しのびこむのには、下からはしごをかけるか、屋根から綱でさがるほかはありませんが、まんいち、人どおりがあったとき、はしごが見つかっては危険です。やっぱり上からさがったほうが、安全なのです。黄金豹は、となりのビルにしのびこみ、そのビルの屋根からアパートの屋根へ、つたわってきたのでしょう。あの魔もののことですから、そんな曲芸は、なんのくもなく、やってのけるのです。
やがて、たれさがった綱をつたって、金色の怪獣がおりてきました。いつかも、煙突を綱でおりたのですから、黄金豹の足の指は、綱がつかめるようになっているのでしょう。
じつにふしぎな光景でした。白いアパートの壁を、金色の豹が、するすると、下へさがってくるのです。自動車の中の明智探偵と小林少年は、息をころして、それを見つめていました。
黄金豹は、二階の窓までおりると、その窓を開いて、パッと、部屋の中へすがたを消しました。
「いまに見ていたまえ、おもしろいさわぎがおこるからね。」
明智は、なにかおかしそうに、そんなことをささやきました。
室内にはいった黄金豹は、電灯の消えたまっ暗な中を、書斎へとたどっていきました。魔もののことですから、宝石が書斎の金庫の中に、しまってあることも、ちゃんと知っているらしいのです。
黄金豹は大金庫の前に、人間のようにあと足で立ちあがり、金庫の文字盤をグルグルまわしました。いつのまにしらべたのか、文字盤の暗号まで、知っているようすでした。
スーッと、金庫の扉が両方に開きました。すると……。
アッ! これはどうしたことでしょう。金庫の中の桐のひきだしは、ぜんぶなくなって、そこに一ぴきの豹が、あと足で立ちあがっていたではありませんか。
金庫の中には、黄金豹とそっくりの、もう一ぴきの豹がかくれていたのです。
「ウオーッ。」という恐ろしいうなり声が、両方の豹の口から、ほとばしりました。
恐ろしいたたかいが、はじまりました。まったく同じ金色の豹が、とっ組みあって、床の上を、ゴロゴロころがりながら、はげしいうなり声をたてて、あらそうのです。怪獣と奇獣のたたかいです。
明智と小林少年は、アパートの前の自動車の中にかくれているので、その部屋には、だれもおりません。アパートといっても、そこは高級アパートで、明智の事務所は五室もあるのですから、いくらさわがしくても、となりまではなかなか聞こえません。二ひきの怪獣は、さんざんあらそいまわりました。横になり下になり、くんずほぐれつ、あるいはパッとはなれて、むこうの机の上にとびあがり、そこから、弾丸のような恐ろしいいきおいでとびかかる。黄金豹のレスリングです。
「オヤッ、きさま、人間だなッ!」
とっ組みあいながら、黄金豹が、人間のことばでわめきました。
「きさまこそ、人間だろう。人間が金色の豹の皮をかぶって化けているんだ。」
金庫の中にかくれていた豹も、同じように人間のことばを、つかいました。
ああ、なんということでしょう。二ひきとも、ほんとうの豹ではなかったのです。豹の皮をかぶった人間だったのです。
「きさま、だれだッ、明智小五郎か?」
黄金豹が、うめきました。
「ちがう。おれは明智先生の弟子だ。今夜、きさまがしのびこんでくるから、金庫の中で待ちぶせしていろと、たのまれたんだ。そして、きさまの化けの皮を、はいでやれといってな。」
「ちくしょう! たくらみやがったな。だが、きさまなんかに負けるもんか。おれは、千年のこうをへた、黄金豹だぞッ!」
「なにをッ! 人間のくせに、ほらをふくな。人間と人間なら、きさまなんかに負けるもんかッ。」
「ウフフフ……。おおきなことを、ほざいたなッ。見ろ、こうだッ!」
悪獣黄金豹は、こちらのゆだんをみすまして、パッと上からのりかかってきました。そして、二本の前足で、明智の部下ののどを、ぐんぐん、おさえつけるのです。恐ろしい力です。いまにも息がとまりそうです。顔がふくれあがって、耳ががんがんなってきました。助けを呼ぼうにも声がでません。もう死ぬのかと思いました。そのときです。とつぜん、むこうのドアが開いて、パッと、黒いものがとびこんできました。人間です。黒い背広をきた明智探偵のもうひとりの部下です。明智が小林少年をつれて、おもての自動車にかくれるまえに、電話でふたりの部下をよんだことは、読者諸君も、ごぞんじです。そのふたりのうちのひとりが、豹の皮をかぶって、金庫にかくれ、ひとりは書斎の奥の寝室のベッドの下にひそんでいたのです。そして、仲間があやうくなったら、とびだす用意をしていたのです。
とびこんできた部下は、いきなり黄金豹のうしろから組みついて、その首をしめつけました。アッと驚いて、両手の力がぬけたすきに、下になっていた豹が、おきなおったのです。
こんどは、一ぴきにたいする、一ぴきとひとりです。いかな黄金豹も、かないっこありません。
「うぬッ、おぼえていろ! きっと、このしかえしはしてやるぞッ。」
黄金豹は、恐ろしい声でどなりながら、パッと、ふたりの手をはらいのけて、むこうの机の上に、とびあがりました。そして、グッと身をかがめたかと思うと、三メートルもへだたった窓にむかって、サッと、一とびにとびつきました。
窓のそとには、地面までとどく長い綱が、さがっています。さっき、屋根からおりてきた、あの綱です。黄金豹は、窓わくから、その綱にとびつき、するすると、下へおりていきます。
明智のふたりの部下は、それを見るとすぐに、窓へかけつけましたが、もうおそかったのです。黄金豹は、はるか下の地面まですべりおりて、深夜の大通りをかけだしていました。
「しまった! とうとう、逃がしてしまった。ぼくたちも、この綱をつたって追っかけようか。」
「いや、そんなことをしなくても、だいじょうぶだ。おもてには明智先生と小林君が見はっている。けっして、逃がすようなことはないよ。ほら、見たまえ。自動車が、豹のあとから走りだした。あの中には、明智先生と小林君がいるんだよ。」
黄金豹の皮をきた部下と、黒背広の部下は、窓ぎわに立って、大通りのふしぎな追跡を、見おろしました。
まったく人通りのない深夜の大通りを、キラキラ光る黄金豹が、とぶように走っています。
そのうしろから、一だいの自動車が、しずかに追跡していくのです。
そのへんは大きな邸宅ばかりの、さびしい町ですし、まして、深夜のことですから、大通りには人かげもなく、街灯の光が白いアスファルト道を、ほのかにてらしています。その中を、一ぴきの金色の豹が、恐ろしいいきおいで、とんでいくのです。そして、その二十メートルほどうしろからは、ヘッド=ライトを消した、まっ黒な自動車が、影のようにすべっていきます。なんだか、恐ろしい夢でも見ているような、ふしぎな光景でした。
自動車の運転席には、明智探偵と小林少年とが、並んでこしかけ、明智が運転していました。
「あいつは、もう、この自動車に追跡されていることを、知っているでしょうか。」
「知っているかもしれない。なんでもいいから、どこまでも尾行するんだ。もし、せまい道へまがったら、ぼくらも車をおりて追っかけるんだ。今夜こそは、あいつのすみかを、つきとめなければならない。」
前を走る豹のすがたを見つめながら、小声で、そんなことを、話しあっているときでした。とつぜんむこうの横丁から、まっ黒なものがとびだしてきました。やっぱりヘッド=ライトを消した一だいの自動車です。客席のドアは、開いたままになっています。
黄金豹は、その開いたドアへ、とびついていきました。そして、アッというまに、客席の中にはいり、パタンとドアをしめてしまいました。黄金豹が自動車にのったのです。
「アッ、車が待たせてあったんだな。運転しているのは黄金豹の部下にちがいない。よし、自動車と自動車の競争なら、負けないぞ。さあ、小林君、スピードを出すよ。」
明智はそういって、いきなり速力をくわえるのでした。
むこうの車も矢のように走りだしました。風をきって進む二だいの自動車。ものすごい追跡です。前の自動車のバック=ウインドーに、キラキラ光る豹の頭が見えています。じっと、こちらをのぞいているようです。
黄金豹の怪自動車は、つぎからつぎと、町かどをまがりながら、だんだん、さびしい方へ、向かっていきます。新宿をすぎ、中野をすぎ、杉並区にはいりました。あたりは森や畑の見える、さびしい場所です。
するとそのとき、ふしぎなことがおこりました。いままで、あんなに早く走っていた黄金豹の車が、なぜか、急にスピードをおとしたのです。まるでハンドルがきかなくなったように、右へ行ったり、左へ行ったり、よたよたとして、進んでいきます。
「へんですねえ。パンクでもしたんでしょうか。」
小林君が、ささやきました。
「そうでもないらしいよ。なにか、たくらんでいるのかもしれない。」
「じゃ、黄金豹が、車からとびおりて、あの森の中へ、逃げこむつもりでしょうか。」
「そうでもないね。見たまえ、うしろの窓から、あいつの頭が見えている。じっとしているよ。」
そんなことをいっているうちに、前の車は、いよいよ速度がにぶくなり、人間が歩いているほどの、のろさになりました。
「へんだな。よし、追いこしてしらべてみよう。」
明智はそういって、みるみる前の車を追いこしてしまいました。そして、通せんぼうをするように、そこに、こちらの車をとめたのです。すると、むこうの車も、ピッタリととまってしまいました。
明智と小林少年は、車からとびだして、相手の車に近づいていきました。ふたりとも、ポケットにピストルを用意していました。いざというときには、それをぶっぱなすつもりです。
すると、むこうのドアが開いて、運転手がおりてきました。遠くの街灯の光で、ぼんやりとしか見えませんが、運転手は青ざめて、なんだか、おどおどした顔をしています。
べつに手むかいするようすもないので、明智は運転手にはかまわず、つかつかと車のそばによって、右手にピストルをかまえながら、うしろの席のドアを、パッと開きました。
黄金豹が、いきなり、とびかかってくるかと思ったのです。しかし、なにごともおこりません。車の中は、しいんと、しずまりかえっています。
黄金豹は逃げてしまったのでしょうか。いや、逃げたのではありません。あのピカピカ光る怪獣は、ちゃんと、そこにいました。うしろによりかかって、ぐったりとなっています。眠っているのでしょうか。まさか、こんなさいに、眠るはずはありません。
明智は、おもいきって、ピストルのさきで、豹のからだを、つっついてみました。なんの手ごたえもありません。豹は、ぐったりとしたままです。死んでしまったのでしょうか。
こんどは、手で豹のからだを、ゆさぶってみました。すると、相手は、くなくなと、くずれるように、自動車の床へ倒れてしまいました。いや、倒れたのではありません。一まいの敷き皮のように、ぺちゃんこになってしまったのです。
黄金豹には中みがなくなっていたのです。皮ばかりになっていたのです。やっぱりそうでした。皮を身がわりにして、いつのまにか逃げだしてしまったのです。明智はその金色の豹の皮をつかんで、車のそとへひき出し、首のところをもって、ぶらさげて見せました。
「アッ、皮ばかりですか。」
小林君がびっくりして叫びました。
「オヤッ、いつのまに……。」
運転手も、驚いています。
「おい、きみに聞きたいことがある。」
明智は運転手の前に立って、グッと、相手の顔をにらみつけながら、しかりつけるようにいいました。
明智探偵が、きびしくたずねますと、運転手は、こんなふうに答えました。
「いや、わたしは、けっして、あやしいものじゃありません。東京タクシーの運転手です。きょうは徹夜の番で、麹町のへんを流していますと、ひとりの紳士が、ここの横丁にとまっていて、おれがあいずをしたら、うしろのドアをあけたままで、大通りの方へ車を出せといい、二千円くれましたので、つい金に目がくれて、その人のいうとおりにしたのです。
ま夜中に、その人が、さあ車を出せといいますので、うしろのドアを開いて、大通りへ出ました。すると、どうでしょう。いきなり金色の豹がとびこんできたのです。そして、いまにもかみつきそうな、恐ろしいかっこうで、フル=スピードで走れというではありませんか。人間のことばで、そういったのです。
わたしは、さては、こいつが、うわさにたかい黄金豹だなと思いました。黄金豹は千年のこうをへた怪物で、人間のことばをしゃべるということを、聞いていたからです。わたしは、ふるえあがってしまいました。それからはもう、むが夢中でした。豹がうしろから、さしずするとおりに、めちゃくちゃに車を走らせたのです。
ところが、つい五、六分まえ、うしろから声をかけなくなったのです。それまでは、右へまがれ、左へまがれとさしずしていたのが、ぱったり、やんでしまったのです。へんだなと思って、うしろを見ると、黄金豹は眠っているようでした。わざと車をでこぼこ道へいれて、ガタガタやってもおきません。それで、だんだんスピードをおとして、どうしようかと考えていると、あんたの車が追いこして、通せんぼうをしてしまったのです。」
そう聞くと、この運転手は、黄金豹の仲間でないようにも、思われました。
「そうか。それじゃ、五、六分まえに、黄金豹の中にはいっていたやつが、皮だけのこして、とびおりたんだな。もう、いまから捜してもまにあうまい。よろしい。きみはガレージへ帰りなさい。ぼくらも、いちおう、ひきかえすことにする。……この豹の皮は、あずかっておくよ。」
そういって、明智探偵は、豹の皮を持ったまま、小林少年をつれて、自分の自動車にもどりました。
「きみ、さきに乗りたまえ。」
いわれるままに、小林君が、さきに乗りますと、明智はあとから運転台にはいってきて、小林君の耳に口をつけるようにして、みょうなことを、ささやきました。
「きみは、そっちがわのドアをあけて、そっと、おりるんだ。そして、そこの大きな木の幹にかくれて、あの自動車を見はっていたまえ。わたしも、この自動車を、ここから見えぬところにとめて、じきにもどってくる。いいかね。もし、あの車の中から、へんなやつがあらわれたら、そっと、あとをつけるんだよ。わかったかね。」
そういって、小林君を、はんたいがわのドアから、そとへつき出すようにしました。
小林君は、なぜ明智先生が、そんなことをいうのか、よくわかりませんでしたが、いわれるままに、そとに出て、大きな木のかげに身をかくしました。あたりが暗いうえに、自動車がじゃまをしているので、むこうの運転手には、小林君が車をおりたことは、すこしもわからなかったのです。
やがて、明智の運転する自動車が動きだして、もときた方へ走りさっていきました。あとにのこった小林少年は、木のかげから、そっとのぞいています。
しばらくすると、むこうの運転手が、あたりを、キョロキョロ見まわしたあとで、自動車のうしろの席に、上半身をいれて、なにか、ごとごとやっているのが見えました。
「オヤッ、へんだな。あいつ、やっぱりあやしいやつだぞ。」
小林君は、そう思って、息をころして、見つめています。
運転手は、なお、しばらく、ごとごとやっていましたが、やがて、仕事をおわったようすで、上半身を、車のそとに出して、二、三歩あとに身をひきました。
すると、車の中から、パッととび出してきたものがあります。人間です。ぴったり身についた、黒いシャツとズボンしたのすがたです。顔はよく見えませんが、たしかに、くっきょうな男です。
「ああ、わかった。あいつが黄金豹の皮をかぶっていた悪者にちがいない。途中でとびおりたと見せかけて、ほんとうは、自動車のこしかけの下に、かくれていたのだ。あの自動車には、ちゃんとそういうしかけがしてあったにちがいない。そうして、明智先生にいっぱいくわせようとしたんだ。なんて、悪知恵のはたらくやつだろう。だが、さすがは、明智先生だ。とっさに、それを見ぬいて、ぼくをここへ残したんだ。やっぱり先生はえらいなあ!」
小林君は、そんなことを考えながら、悪者のすがたから、目をはなしませんでした。
黒シャツの男は、運転手と、なにかひそひそ、ささやきあっていましたが、やがて、運転手は、自動車に乗り、どこかへ走りさっていきました。
あとに残った黒シャツの男は、あたりを、キョロキョロ見まわしてから、むこうの森の中へはいっていきます。小林君は、こっそり、そのあとをつけました。
それは、杉並区にこんな森があるのかしらと、びっくりするような、深い森でした。男は、立ちならぶ大きな木のあいだをくぐって、森のまん中へはいっていきます。そのへんは、街灯の光もささず、うっかりすると、相手を見うしなうほど、まっ暗です。
でも尾行しているうちに、だんだん目が闇になれてきて、いくらか、あたりのようすが、わかるようになりました。森のまん中に、まっ黒な四角なものが、そびえています。それはレンガづくりの西洋館のようでした。黒シャツの男は、いそぎあしで、その建物に近づいていきました。
まっ黒に、そびえている西洋館に近づくと、フッと、男のすがたが見えなくなってしまいました。たぶん西洋館の中へ、はいったのでしょうが、入口のドアが開いたようすはありません。窓からでも、しのびこんだのでしょうか。
小林君は、しばらく、ためらっていましたが、おもいきって、西洋館の入口のところへいって、そこのドアを、とんとんと、たたいてみました。二、三度たたきますと、中から、なにものかがドアを開いて顔をだしました。
小林君は、いざというときの用意に、ポケットの中に手を入れて、ピストルをにぎりしめていましたが、ドアを開いたのは、あのあやしい男ではなくて、小さな女の子でした。
そのとき、ドアの中の電灯がついたので、少女のすがたがよく見えたのです。女中ではありません。まだ十歳ぐらいのかわいらしい女の子です。ここのうちの娘かもしれません。
それにしても、こんなま夜中に、小さな女の子が、ちゃんと、昼まの服をきて、おきているのは、なんだかへんだと思いましたが、小林君は、ともかく、たずねてみました。
「きみ、ここのうちの子なの?」
「ええ、そうよ。」
少女は、すずのように美しい声で、答えました。
「いまね、あやしい男が、このうちへ、しのびこむのを見たんだよ。おとうさんか、おかあさんがいたら、ぼくにあわせてくれない?」
「ええ、いいわ。こちらへいらっしゃい。」
少女はそういって、奥の方へはいっていきます。なんだか、ひどく、おませさんのようです。
小林君がついていきますと、少女は応接間のような洋室へはいり、スイッチをおして電灯をつけました。むかしの西洋の絵で見るような、古いりっぱな家具がならんでいます。いっぽうの壁には、石炭をたくだんろがついていて、その上の壁に、大きな鏡がはめこみになっています。
少女はそこにある、りっぱな長イスにこしかけました。すると、へんなことがはじまったのです。むこうの開いているドアから、一ぴき、二ひき、三びきと、ネコがぞろぞろ、はいってきました。十ぴき以上です。大きさも、毛の色も、みんなちがっています。
なかには豹の子のような、大きなぶちのネコもいます。小林君はそれをひとめ見たとき、黄金豹の子どもではないかと、ギョッとしたほどです。しかし、豹によくにているけれども、豹ではなくてネコであることが、わかりました。
その子豹のようなネコは、あとからはいってきたくせに、ほかのネコたちをおしのけて、少女のひざの上にのって、あまえるように少女の手をなめるのでした。
ほかのネコたちも、少女のまわりをとりかこんで、長イスの上や、少女の足のそばに、むらがっています。一ぴきの子ネコは、少女の背中から肩にのって、少女の首に顔をあてて、あまえています。
「これ、みんな、きみのうちのネコなの?」
小林君が、びっくりしてききますと、少女はニッコリ笑って、
「そうよ。あたしのうち、ネコやしきなの。」
と、少女は、おませなくちょうで、すまして答えました。
ネコやしきときくと、小林君は、このお話のはじめのほうにでてきた、『ネコじいさん』のことを思いだして、なんだかきみが悪くなってきました。ここは、『ネコじいさん』のすみかではないでしょうか。
「きみのうちに、おじいさんいる? ネコのすきな、白いひげのあるおじいさんだよ。」
思わず、たずねますと、少女はけろりとした顔をして、
「おじいさんなんか、いないわ。おかあさんと、あたしだけよ。」
と答えましたが、その顔を見て、小林君は、また、ゾッとしました。少女の顔が、ネコとそっくりに見えたからです。
ネコはみんな、かわいい顔をしていますが、この少女の顔が、そのかわいいネコとそっくりなのです。ネコが少女に化けているのではないかと、思われるほどです。これは、『ネコむすめ』ではないのでしょうか。
小林君は、むかしの『化けネコ』の話を思いだしました。
こんなかわいい顔をしているけれど、いまに少女の口が、ギャッと耳までさけて、とびかかってくるのではないかと思うと、ゾッとして、逃げだしたくなるほどでした。
小林君は、しばらく考えていましたが、せっかく、あやしい男のことを知らせにきたのですから、ともかく、少女のおかあさんにあって、話してみようと思いました。
「それじゃ、きみのおかあさんに、あいたいが、おかあさんは、うちにいらっしゃるの?」
「ええ、いるわ、いま、ここへいらっしゃるのよ。ほら、足音が聞こえるでしょう。」
少女が、やさしいネコの顔でいいました。しかし、小林君にはなにも聞こえません。この少女は、人間に聞こえない音を聞きとる耳を持っているのでしょうか。
すると、そのとき、一ぴきのネコが、長イスからとびおりて、むこうに開いているドアの方へ、かけだしていきました。それにつづいて、二ひき、三びき、四ひきと、みんなドアの方へ、かけだしていくのです。
ネコどもは、早くも、おかあさんのくるのを、かぎつけたのでしょう。
そのとき、ドアのむこうへ、三十歳ぐらいの美しい女の人があらわれました。りっぱな洋服をきています。むかしの夜会服のような飾りのおおい、すその広い、ピカピカした洋服です。
その女の人の顔は、どこか少女ににていました。そして、やっぱりネコの感じがします。これは『親ネコ』の感じなのです。
「あなた、どなたですか?」
女の人が、西洋人が日本語をしゃべっているような、口のききかたをしました。
「ぼくは小林っていうんです。明智探偵の助手です。いま、ここのうちへ、黄金豹の皮をかぶっていたやつが、しのびこむのを見たので、おしらせにきたのです。だれか、うちの中へはいってきませんでしたか?」
小林君がいいますと、女の人はニヤリと笑いました。なんだかネコが笑ったような感じでした。
「なにもはいってきませんよ。あなたのまちがいじゃありませんか。」
「いいえ、まちがいじゃありません。よくしらべてみてください。広いおうちですから、どこにかくれているか、わかりませんよ。」
それをきいても、女の人は、だまっています。べつに驚いたようすもありません。すると、やっぱり、ここは黄金豹にばけた怪人のすみかで、この人たちは、仲間なのでしょうか。
「いまはま夜中ですが、あなたがたは、いまごろまで、おきておいでになったのですか?」
小林君が、おもいきって、それをたずねてみました。すると女の人は、ネコのように、ニヤニヤと笑って答えます。
「わたしたちは、今夜、このネコたちと、宴会を開いていたのです。毎月一度、夜あかしをして、ネコの宴会を開くのです。ここはネコやしきですからね。」
そのとき、少女が長イスからおりてきて、小林少年のそばに立ち、まるで子ネコがあまえるように、小林君に、からだをすりつけました。いくらかわいい子でも、べたべたくっつかれると、きみが悪いので、ソッと、からだをよけて、少女からはなれました。
「あなた、こちらへ、いらっしゃい。お見せするものがあります。」
おかあさんのほうが、やさしい声でいいました。
小林君は、このうちが、あやしいと思っているので、さそわれるのをさいわいに、奥へはいってみることにしました。
小林君は、心の中で、少女のおかあさんを、『ネコ夫人』と名づけました。それほど、顔もからだの動かしかたも、ネコにそっくりなのです。そのネコ夫人が、さきにたって、廊下を歩いていきますので、小林君も、そのあとからついていきました。ネコどもも、ネコ夫人のおともをして、ぞろぞろ、ついてきました。
ネコ夫人は、ある部屋のドアを開いて、小林君を手まねきしながら中にはいりました。その手まねきのやりかたが、また、ネコとそっくりなのです。
小林君もその部屋にはいってみますと、それは書斎とでもいうような大きな洋室でピカピカ光った寄木細工の床、壁には書棚があり、正面にたたみ一じょうもある、大きな机がすえてあります。
ネコ夫人はネコの歩くようなみょうな歩きかたで、スーッとその大机のそばによると、こちらをむいて、やさしく笑いながら、また、手まねきをしました。
「ぼくに、なにを見せるのですか。」
小林君が、入口に立ちどまって、たずねますと、ネコ夫人は美しいネコのような顔を、いっそう、やさしくして、ネコなで声でいうのです。
「いいものよ。あなたがびっくりするようなものよ。早く、ここへいらっしゃい。」
それは、まるでマグネットのように、人をひきつける声でした。小林君は、ふらふらとその方へ歩いていきました。歩きながら、ふと気がついて、ポケットに手をあててみました。ネコ夫人が、なにか悪だくみをしているかもしれないと思ったからです。いざという時には、ピストルを出してぶっぱなすつもりです。それでポケットのピストルに、さわってみようとしたのですが、ポケットには、なにもありません。たしかに入れてあった右のポケットが、からっぽになっているのです。
「アッ、いけない。それじゃあ、さっきあのネコむすめが、からだにくっついたとき、ぬき出したんだなッ──。」
小林君は、とっさにそこへ気がつきました。しかし、もうおそかったのです。それを半分も考えないうちに、足の下の床が、とつぜん消えてなくなってしまったからです。
アッと思うまに、小林君のからだが、スーッと、下へ落ちていきました。まっ暗な穴の中へ、恐ろしいいきおいで、落ちこんでいきました。
そこの床板が、一メートル四方ほど下に落ちこむようになっていて、それが、とつぜん落ちて、まっ暗な四角な穴ができたのです。
小林君は、その穴の中へ落ちていく瞬間に、チラッとネコ夫人のほうを見ました。
ネコ夫人はそのとき、大机によりかかって、ニヤニヤと、ネコの笑いを笑っていましたが、右手が、机の横をおしているのが見えました。きっと、そこにボタンがあるのです。そのボタンをおせば、落とし穴のふたが、下へ落ちるようになっているのにちがいありません。
ガクンと、おしりがかたい床にぶっつかって、気をうしなうほどのいたさでしたが、さいわい、ぶつかったのが、肉のあついおしりだったので、骨がおれたり、筋がちがったりするようなこともなく、しばらくして、立ちあがることができました。
まっ暗で、なにもわかりませんが、床をなでてみると、コンクリートのようでした。手さぐりで歩いていくと、これもコンクリートらしい壁に、ぶっつかりました。ここは地下室なのです。
小林君は壁をつたって、ズーッとまわってみました。四方ともコンクリートの壁で、ひとつドアのようなものがありますが、鍵がかかっているのか、おしても、ひいても開きません。小林君は地底の密室に、とじこめられてしまったのです。
ネコむすめも、ネコ夫人も、敵の仲間だったのです。それは、はじめから、かくごしていましたけれど、うっかりして、ネコむすめに、ピストルをとられてしまったのは大失敗でした。もう、身をふせぐためには、知恵を働かせるほかに、なんの方法もないのです。
小林君は、しかたがないので、コンクリートの壁によりかかって、足をなげだして、じっとしていました。小林君は、いろいろな事件で、こんなめには、たびたびあっていますので、すこしも、あわてません。おちつきはらって、考えているのです。うまい知恵を、しぼりだそうとしているのです。
しばらくすると、むこうの方で、カチッという音がしました。だれかが、ドアを開こうとしているのかもしれません。小林君は、すぐに立ちあがって、身がまえました。
ギイーッと、ドアの開く音がして、ピカッと、大きな目だまのような光が、あらわれました。しかし、それは怪物の目ではなくて、懐中電灯であることが、すぐにわかりました。
その目だまのような電灯が、ジリジリとこちらへ近づいてきます。もしピストルがあれば、こんなとき、それをかまえて相手をおどかすのですが、そのピストルもないので、小林君は、こぶしをにぎって、じっと立っているほかはありませんでした。
電灯の光で、敵はこちらのすがたを、はっきり見ているのでしょうが、こちらからは、むこうのすがたが、すこしも見えません。まっ暗な中に、なにか、もやもやしたものが動いているばかりです。
「ウフフフフ……、とうとう、わなにかかったね。え、ちんぴら探偵、おれはきみなんかの手にあう相手じゃないよ。ウフフフ……。」
男の声です。豹に化けていた、あのあやしい男にちがいありません。
「きみはだれなの? ぼくのほうからは、きみのすがたが見えないんだよ。」
小林君が、へいきな声でたずねました。
「ウフフフ……、ちんぴらのくせに、いやにおちついていやがるな。おれの顔が見たいのか。ほら、見るがいい。」
そういって、懐中電灯の光を、じぶんの顔にあてました。
それは、きみの悪いじいさんの顔でした。太い黒ぶちのめがねをかけ、白いあごひげがたれています。めがねの中から、まんまるな大きな目が、のぞいています。人間の目ではなくて、豹の目のように感じられました。ぴったり身についた、黒いシャツのようなものをきています。
小林君はネコじいさんにあったことはありませんが、この老人は、うわさにきいているネコじいさんと、そっくりです。
「やっぱり、きみはネコじいさんだね。そうだろう?」
小林君が、すこしも悪びれない声で、たずねました。
「そのとおり、おれはネコじいさんだよ。ところで、きみは、ネコじいさんが、なにものだか知っているかね。ウフフフ……、おれは千年のこうをへた、魔物の豹を使う、豹使いのじいさんだよ。せけんでは、わしのつかう豹を『黄金豹』といっている。見ろ! その黄金豹は、ここにいるんだッ!」
そういって、じいさんは、懐中電灯を、パッと、じぶんのうしろの方にむけました。
アッ! こんなことが、あるものでしょうか。じつにふしぎです。ピカッと光りました。金色の毛です。それが動いているのです。ふたつの目が、電灯の光をうけて、まっ青に光りました。ガッと赤い口が開いて、白い牙があらわれました。……それは黄金豹だったのです。じいさんのうしろから、黄金豹が歩いてきたのです。
小林君は、ほんとうに、びっくりしてしまいました。黄金豹の皮は、さっき明智探偵が、持っていったではありませんか。その皮をかぶっていた男は、この西洋館へ逃げこみました。その男が、このじいさんに、ちがいないのです。それに、もう一ぴき、生きた黄金豹がいるなんて、おもいもよらぬことでした。
じいさんは、懐中電灯で、豹の頭から、しっぽまで、ズーッとてらして見せました。すると、ますます、驚くべきことが、わかってきたのです。
これはほんものの豹でした。けっして、人間が豹の皮をかぶっているものではありません。足を見れば、わかります。あんな細い足の人間なんてあるはずがありません。ことに、あと足のまがりかたが、人間では、あんなになるはずがないのです。
「ウフフフ……、わかったかね。ちんぴら先生、いまに、こいつにきみを食わせてしまうから、かくごするがいい。」
さすがの小林少年も、それをきくと、まっ青になってしまいました。そして、「ああ、ピストルがほしい。」と思いました。しかし、ピストルは、あのネコむすめに、とられてしまったのです。もうどうすることもできません。小林君は、だんだん、あとずさりして、うしろの壁に、ぴったり、からだをつけました。あとは、ジリジリと、横のほうに、いざっていくほかはないのです。
「それ、おまえのすきな人間の子どもだ。パックリやってしまえ!」
じいさんが、はげしい声で、どなりました。
パッと、金色の大きなかたまりが、とびかかってきました。小林君の洋服の肩のところが、ばりばりと音をたてました。黄金豹が、あと足で立って、前足を小林君の肩にかけたからです。するどい爪で、服が破かれたからです。
ムッとするような、くさい動物の息が、顔に吹きつけてきました。黄金豹の顔は、小林君の顔に、くっつくばかりに近よっているのです。らんらんとかがやく、まっ青な二つの目が、小林君の目のすぐ前に、近よっているのです。
ああ、小林少年の運命は、いったい、どうなるのでしょうか。
そのとき、どこからともなく、ふしぎな口ぶえの音が、聞こえてきました。やわらかい調子の口ぶえです。それが、暗やみの地下室のむこうのほうから、だんだん、近づいてくるように、感じられるのでした。
すると、みょうなことがおこったのです。いままで小林君にいどみかかっていた黄金豹が、前足を小林君の肩からおろして、口ぶえにさそわれるように、その音のほうへ、のそのそと、歩いていくのです。
これを見た老人は、びっくりして、懐中電灯の光を、そのほうへ、ふりむけました。
「アッ! き、きさま、なにものだッ!」
地下室のむこうのすみに、黒い背広をきた、せいの高い男が、立っていたのです。その男はニコニコ笑いながら、ピストルの筒口を、じっとこちらに向けております。
老人は、そのピストルを見て、たじたじと、あとずさりをしました。老人もポケットに、ピストルを持っていましたが、それを出すひまがないのです。
「アッ! 先生!」
小林少年が、かんだかい声で叫んで、その男にかけよりました。それは、おもいもよらぬ明智探偵だったのです。
怪老人も、それをさとりましたが、相手にピストルをつきつけられているので、どうすることもできません。
「おい、じいさん。その懐中電灯を、小林君にわたすんだ。」
小林少年が老人に近づくと、老人は、しかたなく、懐中電灯をわたしました。
「さあ、きみは、これを持って、あいつを、ねらっていたまえ。いま、おもしろいものを、見せてあげるからね。」
小林君は、いわれるままに、ピストルをうけとって、右手にかまえました。懐中電灯は、左手に持って、明智と、黄金豹と、怪老人とを、かわりばんこに、てらしているのです。
明智はまた、やさしく口ぶえを吹きました。すると、あの恐ろしい黄金豹が、まるで小犬のように、明智にからだをすりよせて、あまえるのです。明智はその豹の背中を、なでながら、説明しました。
「ぼくは、自動車をかくして、すぐにもどってきた。そして、あやしい男を尾行している、きみのあとから、森のなかへ、はいった。それから、きみたちの先まわりをして、西洋館のそばに、かくれていたのだ。
あの男は、西洋館の入口からは、はいらなかった。横手の草におおわれた洞穴の中へ、はいっていった。秘密の出入り口なのだ。ぼくもあとからその穴へはいった。それは、この家の地下室へつうじていた。この部屋ではない。地下室はいくつもあるのだ。むこうのほうの部屋だ。
あの男が、むこうの地下室へはいったので、ドアのすきまから、のぞいていると、男がみょうなことをはじめた。
その部屋には、一ぴきの大きな犬がとじこめてあった。あの男は、部屋の戸棚から、金色の豹の皮を取りだして、それをその犬にきせた。すると、たちまち、一ぴきの黄金豹が、できあがってしまったのだ。
そのとき、きみが玄関のベルをおしたので、男はいそいで、一階へあがっていった。なにか、さしずをしているらしく、しばらくおりてこなかった。
そのすきに、ぼくは、豹の皮をかぶった大犬と、すっかり仲よしになってしまった。ぼくは動物を手なずけることが、得意だからね。
しばらくすると、男が上からおりてきたが、そのときは、白ひげのおじいさんに変装していた。それが、このじいさんなのだ。」
明智はそういって、立ちすくんでいる怪老人を指さしました。
「そして、いま、ぼくにじゃれついているのは、じいさんの飼っている大犬だ。黄金豹の皮をかぶせられた犬にすぎないのだ。ほら、見たまえ。こうして、腹のかくしボタンをはずせば、わけなく皮をぬがせることができる。」
いいながら、明智は手ばやく、豹の皮を、はぎとってしまいました。その皮の下から、あらわれたのは、大きな一ぴきの犬でした。皮をはがれた犬は、おとなしく明智のそばに立っています。
「おい、じいさん。きみは、あのネコじいさんと同じ人間だね。黄金豹が、すがたを消したあとには、かならず白ひげのじいさんがいた。きみはあのじいさんだね。いや、ほんとうは、じいさんなんかじゃない。きみはまだ若い、くっきょうな男だ。でなくて、あんな危険な離れわざが、できるはずはない。」
明智は、そんなことをしゃべりながら、怪老人に近づいていきました。
そして、老人のからだにさわって、ピストルのかくしてある場所を捜し、上着の右のポケットから、一ちょうの小がたピストルを取りだして、じぶんのポケットにいれてしまいました。
そんなことをされても、小林少年が、じっと、ピストルのねらいをさだめているので、老人は、どうすることもできないのです。
「きみはこの犬を、じつによく訓練した。豹に化けているときは、ぜったいに吠えないこと、追っかけられたら、かならず、さだめておいた場所へ逃げること、そのふたつをちゃんと、まもらせたので、みんなが、だまされてしまった。
しかし、きみが、この犬をつかったのは、銀座の美宝堂の美術品陳列所から歩きだしたときと、日本橋の江戸銀行にあらわれたときだけだった。
美宝堂の事件では、夜の銀座通りを、長いあいだ、警官に追われて、走らなければならなかった。だから、人間が豹の皮をかぶったのでは、ごまかせない。ほんとうの動物でなくては、うまく走れないからだ。
銀行にあらわれたときは、まず、きみが老紳士に化けて応接室にはいり、横丁に開いている窓から、この犬をいれて、豹の皮をきせ、じぶんは変装をして、若い銀行員に化けた。そして、応接室をぬけだしてしまった。そのあとへ支配人が応接室へ帰ってくると、黄金豹が安楽イスに、こしかけていたというわけだ。そして、みんなが豹に気をとられているすきに、若い銀行員に化けたきみが、金庫のなかにはいって、札たばを盗み、豹が二階にかけあがって、べつの階段からおりてくるのを待ちぶせて、豹の皮をはぎ、もとの犬にもどして、なにくわぬ顔で、裏口から逃げだしたのだ。これだけのことを、しらべるのにも、ぼくはずいぶん苦労をしたものだよ。」
明智はそこで、ちょっと、ことばをきって、じっと怪老人を見つめました。小林少年は、懐中電灯で老人の顔をてらし、右手のピストルは、老人の胸にねらいをさだめています。また、明智もポケットの中で、老人からうばったピストルをにぎって、その筒口を、老人のほうにむけているのです。いくら悪人でも、これでは、てむかうことも、逃げだすことも、できるはずがありません。動けば、命がないのです。
明智はまた、しゃべりはじめました。
「犬をつかったのは、その二どだけで、あとは、きみが豹の皮をかぶって、いろいろな曲芸をえんじたのだ。はじめに犬をだして、たしかに動物だと、おもいこませておけば、あとは人間が、豹の皮をかぶっていても、見やぶられる心配はすくない。それに、きみがあらわれたのは、夜ばかりだったし、人の目の前を、長く走るようなことはしなかった。そういうばあいには犬のほうを、つかうのだ。
きみは黄金豹に化けたばかりではない。いろいろな人間に化けている。ネコじいさんもそうだし、いま化けている老人もそうだ。それから、園田家の庭ばんの助造じいさんに化けて、思うままのことをやった。
園田家の杉戸の豹が、ぬけだしたのも、毛がわが生きた豹になって、動きだしたのも、みんな、きみのしわざだった。黄金豹が、助造じいさんの部屋に逃げこんで、消えてしまったのは、きみが手ばやく豹の皮をぬいで、もとの助造じいさんになって、その部屋にすわっていたのだ。また、助造じいさんが、じぶんの部屋に逃げこんだのを追っかけていくと、黄金豹に、早がわりしていたのも、きみが手ばやく豹の皮をきたのだ。
湯屋の煙突から、ぶらさがって、空中曲芸をやって見せたのも、急行列車の中にあらわれ、列車の屋根の上の大冒険をやって見せたのも、みんなきみだった。きみはまえに、空中曲芸師をやっていたことがあるのにちがいない。
そのほか、こまかいことをいえば、さいげんがないが、すべて、きみという曲芸師が、豹の皮をかぶっていて、とっさに、早がわりしたということがわかれば、黄金豹の怪事件は、みんな解決がつく。
しかし、どうしてもわからないことが、のこっていた。それは黄金豹が、完全な密室のなかで、消えうせたことだ。そういうできごとが二どあった。
一どは黄金豹が、銀座の宝石商の応接間に逃げこんだまま、消えうせたとき、もう一どは、園田家の書斎で小林君が寝ていると、黄金豹があらわれ、小林君が書斎から逃げだして、ドアをしめ、応援の人を呼んで、ふたたびドアをあけてみると、豹は影もかたちもなくなっていたとき、このふたつだ。ぼくには、このなぞが、なかなかとけなかった。
どちらのばあいも、窓には鉄格子が、はまっていた。ドアは一つしかなかった。ドアのそとには、ずっと人が立っていた。だから、人間にしろ、犬にしろ、その部屋から、そとに出ることは、ぜったいにできなかったはずだ。
これはじつに、むずかしいなぞだった。しかし、ぼくは、今ではそのなぞも、すっかり、といてしまったのだよ。」
明智はそういって、ニッコリ笑うのでした。
明智は話しつづけました。
「宝石商のおくまった応接室へ、黄金豹がとびこんで、あと足でドアをしめたひょうしに、かけがねがおりてしまったので、警官たちが、ドアを破ってとびこむと、部屋の中は、からっぽになっていた。たった一つの窓には、鉄格子がはまっているのだから、どこにも出口はなかった。それなのに、さっき、とびこんだばかりの黄金豹は影も形もなくなっていた。そのときの黄金豹は、むろんきみだった。きみが豹の皮をかぶっていたのだ。
きみは、うすいラシャでつくった洋服をきたうえに、豹の皮をかぶっていた。その洋服は宝石商の店員のだれかの服と、同じ色だったにちがいない。顔や、髪の毛も、その店員とにたように変装していたのだろう。
きみは応接室にはいって、ドアをしめ、かけがねをおろすと、手ばやく豹の皮をぬいで、店員になりすまし、ドアが開かれるのを待っていた。
警官はドアの板を破り、そこから手を入れてかんぬきをはずして、ドアを開いた。そのとき、きみは、開かれたドアと壁とのすきまに、身をかくしたのだ。警官たちは、部屋の中へとびこんで、机だとか、イスだとか、豹のかくれそうなところを、捜しまわった。そのすきに、きみはドアのうしろから出て、店員が警官のてつだいをしていると見せかけて、そのへんを捜すふりをし、ころあいを見はからって、ソッと、逃げだしてしまったのだ。豹の皮は、細ながくまるめて、なにかにつつめば、窓の鉄格子のすきまから、裏のろじへ捨てることもできる。それを、あとから、ソッと、拾いにいけばいいのだ。
これはぼくの想像だが、このほかに、やりかたはないと思う。どうだ、まちがっているかね。……だまっているところをみると、ぼくの想像が、あたったようだね。ハハハ……。」
小林少年のさしむける懐中電灯の、まるい光のなかに、浮きあがっている怪老人の顔は、驚きと恐れに、みにくくゆがんでいます。その表情は、明智の推理が、ことごとく、的中していることを、もの語っていました。
「ところで、もうひとつの密室のなぞが、のこっている。小林君が園田家の書斎に寝ていたときに、あらわれた黄金豹が、どうして消えたかというなぞだ。このなぞは、いっそう、むずかしかった。あのときには、警官がかけつけたわけではないし、宝石商とちがって、おおぜいの人がいるわけでもない。だれかに化けて、逃げだすことは、むずかしいのだ。
この秘密を、発見するためには、密室のなぞのほかに、もっとべつのなぞを、とかなければならなかった。黄金豹には、この犬が化けていた。それから、きみという人間が化けていた。しかし、犬でも人間でもなかったばあいがある。第三のトリックがある。それに気がつかないと、この密室のなぞは、とけないのだ。」
明智はそこで、ことばをきって、しばらくだまっていました。怪老人もだまっています。小林少年もだまっています。暗やみの地下室は、まるで墓場のように、シーンと、しずまりかえっていました。
そのときです。どこからともなく、「ウオーッ。」と、けだものの吠えるような、ものすごい声が、聞こえてきたではありませんか。
懐中電灯の光の中の怪老人の顔が、驚きのために、異様にゆがみ、小林少年も、ハッと息をのみました。犬はおとなしくしています。犬が吠えたのではありません。だいいち、犬にあんな恐ろしい声が出るはずはないのです。
「あれは、たしかに動物の声だ。このうちには、まだほかに動物がいるらしいね。行ってしらべてみよう。」
明智はそういって、ポケットからピストルを出して、怪老人の背中につきつけました。
「さあ、さきにたって、むこうの部屋へいくんだ。動物の声のした部屋へいくんだ。」
老人は、しかたなく歩きだしました。小林君と、あの大きな犬も、そのあとにつづきます。
ドアを出ると細い廊下があり、そのむこうがわのドアを開くと、パッと赤ちゃけた光がさしてきました。その部屋には、小さな電灯が、天井からぶらさがっているのです。
老人が、さきにたって、部屋にはいりましたが、ひと足ふみこんだかとおもうと、「アッ。」と叫んで、たちすくんでしまいました。
ごらんなさい。部屋のむこうがわに、大きなテーブルがあり、そのむこうのイスに、恐ろしいものが、こしかけているのです。それは、まがいもない、あの黄金豹です。金ピカの怪獣が、テーブルの上に、前足を組み、その上に、顔をのせるようにして、燐のような目で、じっと、こちらをにらんでいるではありませんか。
小林少年も、それを見ました。明智探偵も、それを見ました。
「ううん、ふしぎだ! いったい、これはどうしたことだ。」
怪老人が、まっ青な顔で、うめくようにいいました。
さっき、明智探偵は、「犬でも、人間でもないばあい。」といいました。すると、ここにいるのは、ほんものの豹なのでしょうか。それとも、……?
そのとき、明智は小林君の耳に口をつけて、ぼそぼそと、なにごとかを、ささやきました。すると、小林君の顔に、いっそう驚いたような色が、浮かびましたが、手に持っていたピストルを、明智にわたすと、そのまま、だまって、部屋のそとへ出ていきました。
「きみ、あの豹をよく見ていたまえ。いまに、どんなことがおこるか。」
明智は、ゆだんなく、ピストルを老人の背中につけたまま、いみありげにささやきました。
しばらくすると、じつに、ふしぎなことがおこりました。テーブルの上に、もたれかかっていた黄金豹が、みょうな動きかたをしたのです。こちらへ、とびかかってきたのではありません。テーブルの上から、ずるずると、すべり落ちたのです。そして、ぎゃくに、うしろのほうへ、なにかに引っぱられるように、すべっていくのです。
イスのうしろには、地底の廊下に面して窓があり、そのガラスが、二十センチほど開いていました。黄金豹は、その窓のすきまへ、ひきつけられていくのです。
豹の手足は、だらんとさがっています。胴体もまるで空気がぬけたように、グッタリしています。それが、わずか二十センチのすきまから、するすると、そとへ出ていくのです。そして最後に、大きな頭が残りましたが、それも、ひらべったく、ちぢまって、きゅうくつそうに、そとの闇の中へ出ていってしまいました。
「わかったかね。これが、園田家の書斎から、黄金豹が消えた秘密だ。あの窓のすきまが、通れるのなら、鉄格子のあいだだって、通れるはずだからね。」
明智が説明しているところへ、小林少年が帰ってきました。手には金色の豹の皮をかかえています。その皮の背中のへんに、長いひもが、くくりつけてありました。
「ぼくは、きみが自動車の中へ、ぬぎすてていった豹の皮をここへもってきた。それにひもをつけて、いまの実験をやってみせたのだ。むろん、窓のそとから、小林君が、このひもを引っぱったのだよ。ああして、テーブルの上に前足を組ませ、その上に頭をのせておくと、こちらからは、生きた豹がうずくまっているように見える。まさか、皮ばかりだとは、だれも思わないのだ。これが、園田さんの書斎から、黄金豹を消した、きみのトリックだよ。まさか、そうじゃないとは、いうまいね。……さっきの動物のうなり声は、ぼくの腹話術だよ。皮ばかりの豹が、うなるはずはないからね。」
怪老人は、もうすっかり、あきらめたようにうなだれていました。明智の推理が、ことごとく、あたっていたからです。
「さあ、もうこうなったら、きみも正体をあらわすがいい。」
そういったかとおもうと、明智は、いきなり、老人にとびかかって、そのかつらと、つけひげと、つけまゆ毛を、むしりとってしまいました。
老人は「アッ。」と叫んで、ふせごうとしましたが、もうまにあいません。かつらと、つけひげの下からあらわれたのは、若々しい男の顔でした。
「やっぱり、そうだ。きみはいくつ顔をもっているかしらないが、この顔にも見おぼえがある。きみのような変装の名人、きみのような空中曲芸の達人、そして、黄金豹という思いきった手段を考えだすやつ。そんなやつは、日本にひとりしかいない。ウフフフ、おい、二十面相! しばらくだったなあ。」
ああ、二十面相! この奇怪な犯罪は、あの怪人二十面相のたくらんだものだったのです。
「小林君、呼びこだッ。」
声におうじて、ピリピリと、小林少年が、呼びこの笛を吹きならしました。
すると、だ、だ、だ、だと、階段をかけおりる靴音! 明智が、この家にしのびこむまえに、電話で連絡しておいた十数名の警官が、建物をとりまき、そのうちの数名が、はやくも一階に侵入して、呼びこの音に、かけおりてきたのです。
かくして、名探偵明智小五郎と小林少年は、またしても、稀代の怪盗二十面相とのたたかいに、みごと勝利をおさめました。ネコむすめ、ネコ夫人、そのほかの同類も、みなつかまったことは、いうまでもありません。
底本:「黄金豹/妖人ゴング」江戸川乱歩推理文庫、講談社
1988(昭和63)年4月8日第1刷発行
初出:「少年クラブ」大日本雄辯會講談社
1956(昭和31)年1月号~12月号
入力:sogo
校正:茅宮君子
2017年7月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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