灰色の巨人
江戸川乱歩
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東京のまん中にある有名なデパートで、宝石てんらん会がひらかれていました。そのデパートの美術部主任が大活動をして、日本じゅうの名のある宝石をかり集め、五階のてんらん会場に、きらびやかにちんれつしたのです。
むかしの華族や各地方の名家の、だいじにしている宝石類が、日本にもこんなに宝石があったのかと、おどろくほど集まったのです。宮さまからの出品もいくつかありました。
集まった宝石の中には、じつに、いろいろな美術品がありました。ダイヤモンドやルビーをちりばめた、ヨーロッパのある国の王冠、みごとなダイヤでふちかざりをした、イギリス製の置時計、サファイアをちりばめた黄金の手箱などから、日本のまがたま、中国の白玉の美しいさいくものなど、まるで、きらめく星にかこまれたようなちんれつ室でした。
そこに集まった宝石は、ぜんぶで何百億円というおそろしいねうちのもので、その中の一つでもなくなったり、ぬすまれたりしたら、たいへんですから、ちんれつ室には厳重なかこいをして、時間以外は出入り口にかぎをかけ、そのかぎは、デパートの美術主任が、はだみはなさず持っていることにしました。また、ちんれつ室のまわりには、もと警視庁のうでききの刑事だった人たち十人をたのんで、夜も昼も見はりをしてもらいました。
ちんれつ室へはいる客も、一時に五十人ときめて、あとの人は、部屋の入口に列をつくって、待ってもらうことにしました。ですから二つの出入り口だけでも、十人の店員が、立ち番をつとめていましたし、ちんれつ室の中にも、ガラスばりのちんれつ台二つにひとりのわりあいで、女店員が見はり番をしていました。
ちんれつ室の正面には、ひときわ大きなちんれつ棚がおかれ、そのガラスばりの中の黒ビロードのりっぱな台の上に、三つの宝物がならんでいました。左がわはダイヤをちりばめた置時計、右がわはダイヤとルビーの王冠、そして、そのまんなかには、高さ二十センチほどの、つぶよりの真珠を、何千と集めてこしらえた三重の宝塔が、月光殿のように、いぶし銀にかがやいていました。
この真珠塔は、三重県の有名な真珠王が出品した「志摩の女王」という、とてもりっぱでめずらしい品物で、今から二十年もまえに、東京でひらかれた大はくらん会に、出品するためにつくられたのですが、そのはくらん会で、フランスから日本まで遠征してきた怪盗アルセーヌ=ルパンが、この真珠塔をぬすみ出し、名探偵明智小五郎が、大冒険のすえに取りもどしたという、いわくつきのたからものでした。(そのお話は「黄金仮面」という本に書いています。)
東京都民は、新聞やラジオで、そのことを知っていましたので、この真珠塔「志摩の女王」は、ちんれつ室第一の人気ものとなり、人びとは、部屋にはいると、まず真珠塔をさがし、そのガラス箱の前に立って、美しい宝塔に見とれたまま、いつまでも動かないのでした。
ある朝のことです。デパートが、まだげんかんの大戸を開いたばかりのころ、デパートの事務所へ、「志摩の女王」の出品者である有名な真珠王その人が、ひとりの若い背広の男をつれてたずねてきました。デパートではおどろいて、貴賓室に通し、支配人がもてなしをしました。
「きのう上京したので、おたずねしました。じつは、ちょっと、おねがいがあるのでね。」
和服すがたの真珠王は、八十歳の老人とは思われぬ元気な声で、にこにこしながら、いうのでした。
「はい、どういうご用でございましょうか。」
支配人が、うやうやしくたずねました。
「じつは、あの真珠塔の真珠が、ひとつぶだけきずになっているのです。出品をいそがれたので、ついそのまま出してしまいましたが、どうも気になってしかたがない。それで、こんど上京するのをさいわい、うでききの職人をつれてきました。これが松村という、わしの工場のだいじな職長です。これに、そのきずついた真珠を、とりかえさせようと思いましてね。……使いのものでも用はたりるが、わしがこないと、ご信用がないだろうと思ってね。じつは、わざわざ、出むいてきたわけです。」
「では、ここでおなおしくださるのですか。」
「そうです。この部屋で、あなたの目のまえで、なおさせます。ただ、真珠塔を、ここまで持ってくればよいのです。松村君、この支配人さんといっしょに、ちんれつ室へいって、塔をここへはこびなさい。」
そこで、支配人は、松村という真珠職人をつれて、五階のちんれつ室へいそぎました。
まだ大戸をひらいてまもなくですから、ちんれつ室には、客のすがたはひとりもなく、出入り口の番をする店員たちが立っているばかりです。支配人は店員たちに、
「ちょっと修繕をするので、真珠塔を貴賓室まで持ちだすから。」
とことわって、ポケットから出したかぎで、ガラスだなの戸をひらきました。
職長の松村は、そこから、ビロードのケースごと真珠塔をとりだし、だいじそうに両手にさげて、支配人といっしょにちんれつ室を出ました。
ふたりは、まだ客のまばらな五階の売り場を通りすぎ、大階段のところへきました。支配人はその階段を、下の貴賓室の方へおりていきます。あとにしたがった松村も、その方へおりるのかと見ていますと、かれはとつぜん、上へのぼる階段にかけより、あっと思うまにおそろしいはやさで、そこをかけあがっていくのです。支配人は、五─六段おりたところで、やっとそれに気づきました。
「あっ、松村さん、ちがう、ちがう、上じゃありません。こっちですよ。」
おどろいて五─六段上にもどって、うしろからよびかけましたが、松村はふりむきもしないで、もう上の階段をのぼりきって、かどをまがり、姿が見えなくなってしまいました。
「おうい、そっちじゃないというのに。」
支配人は顔色をかえて、松村を追って階段をかけのぼりました。しかし、あいては、じつにすばやくて、支配人が六階にのぼったときには、もう七階にいました。そこは屋上なのです。
「おうい、みんなきてくれ。真珠塔を持った人を、つかまえてくれ!」
どなりながら屋上に出ました。その声をききつけて、店員たちが集まってきます。五階の警戒にあたっていた元刑事たちも、おくればせにかけつけてきました。
支配人は屋上庭園に出て、キョロキョロとあたりを見まわしましたが、松村の姿は、どこにも見えません。
屋上も、まだ客はまばらでした。黒い背広すがたで、真珠塔の大きなケースをかかえている松村が、見つからないはずはないのです。店員や元刑事たちは、ひろい屋上を、あちこちと気ちがいのようにはしりまわり、人のかくれそうな場所は、のこりなくしらべました。しかし、松村の姿は発見されないのです。
「べつの階段から、下へにげたのじゃないか。そっちの階段をしらべてくれ!」
支配人が、声をからしてさけびました。
一団の店員が、その階段をかけおりていきます。そのとき、屋上にのこっていた、ひとりの店員の口から、とんきょうなさけび声がほとばしりました。
「あれっ、あすこだっ。あんなとこに、ぶらさがっている。」
店員は空を指さしていました。みんなの顔が、いっせいに、その方を見あげました。
ああ、なんという、はなれわざでしょう。松村は空中にかくれていたのです。みんな屋上庭園ばかりをさがしていて、まさか松村が、空に浮いていようとは、少しも気がつきませんでした。
そのデパートの屋上の空には、巨大なビニールのゾウが、飛んでいました。アドバルーンなのです。ほんもののゾウの二倍もある大きなゾウが、屋上から綱でつながれて、高い空にふわふわと、ただよっていました。
元刑事や店員たちは、「わあっ。」といって、その綱のまきとり器のところへ、かけよりました。松村をつかまえるのは、わけはありません。まきとり器をまわして、アドバルーンを、引きおろせばよいのです。
空中にぶらさがった松村は、いつのまにかビロードのケースをすてて、真珠塔だけを黒い大きなふろしきにつつみ、それをじぶんの首にくくりつけて、両手で綱をたぐりながら、上へ上へとのぼっていきます。
「そら、みんなで、これをまくのだ!」
元刑事のひとりが、大きな声で号令をかけ、じぶんもまきとり器のハンドルにとりついて、エッサ、エッサと、まき始めました。店員たちも、それにならって、ハンドルをにぎり、おおぜいが力をあわせて機械をまくのです。
巨ゾウのアドバルーンは、ユラユラゆれながら、だんだんおりてきました。
綱にすがった松村は、それを知ると、いっそう速度を早めて、上へ上へと、のぼっていきます。そして、もうゾウの太い足のところまで、のぼりつきました。
しかし、いくらのぼっても、ゾウのところでおしまいです。そのゾウは、綱でぐんぐん屋上へ引きよせられているのですから、にげようとて、にげられるものではありません。
綱の長さは、もう半分ぐらいになりました。店員たちは、いっしょうけんめいです。エッサ、エッサと、かけ声をしながら機械をまわしています。
綱は三分の一になり、四分の一になり、ガスではりきったビニールのゾウが、おそろしい大きさに、見えてきました。松村は、そのゾウの腹のところに、すがりついています。真珠塔をつつんだふろしきは、やっぱり首にくくりつけたままです。
「さあ、もう、ひといきだ。がんばれっ! すぐに真珠塔は、とりもどせるぞ!」
元刑事のかけ声に、店員たちは、いっそう、力をこめて機械をまわしました。
そのときです。あっと思うまに、ハンドルにとりすがっていた店員たちが、みんな、しりもちをつきました。ハンドルがきゅうに軽くなって、からまわりをしたからです。
びっくりして空を見あげると、ビニールの巨ゾウは、はりきったガスの力で、もう五十メートルも飛びあがっていました。そして、風のまにまに、フワフワと東の方へ飛びさっていくではありませんか。
綱が切れたのです。いや、ゾウの腹にとりすがっている松村が、ナイフを出して、綱を切ったのです。
見ると、ゾウの腹の下に、ハンモックのようなものがとりつけられ、松村はその上に寝そべって、下界を見おろしながら、右手をひらいて、じぶんのはなさきにあて、さもばかにしたように、ヘラヘラと動かしています。「ここまでおいで。」といわぬばかりです。
切れた綱を見ますと、四十センチおきぐらいに、むすび玉がこしらえてありました。松村はそれに足の指をかけてのぼったのです。このむすび玉も、ゾウの腹のハンモックも、夜のうちに、だれかが、つくっておいたものにちがいありません。
その日は、西北の風が、そうとう強くふいていたので、ビニール風船の巨ゾウは、高い高い空を東南にながされて、みるみる小さくなっていきます。やがて、松村の姿が、肉眼では見えなくなり、それから、巨ゾウのすがたさえも、まめつぶのように小さくなってしまいました。
支配人は、そのときまで、ぼんやり空をながめていたわけではありません。綱がはんぶんほどに引きよせられたとき、ふと、そこへ気がついて、あわてふためいて、屋上のエレベーターの前にかけつけ、しきりにボタンをおすのでした。貴賓室に待たせてある真珠王に、このふいのできごとをしらせるためです。
エレベーターで二階におり、貴賓室にとびこみますと、ここにもまた、あっというようなことが、おこっていました。
貴賓室はからっぽだったのです。女給仕にたずねても、いつ出ていかれたのか、少しも知らないということでした。
「さては、あの真珠王は、にせものだったのかもしれないぞ。」
支配人は、まっさおになって電話器にとびつき、真珠王の東京の店をよびだしました。そして、真珠王が上京しておられるかどうかをききますと、先方の店員は、びっくりしたような声で、
「いいえ、社長はおくにのほうですよ。しばらく東京へはこられません。ちかく、こられるようなおはなしもありません。」
と、はっきり答えました。
これでもう、さっきの真珠王が、にせものだったことは、まちがいありません。松村という職長も、むろんにせものです。
支配人は真珠王に、一─二度しか会ったことがありませんので、にせものと、見やぶれなかったのです。まさか八十歳のにせものの老人が、やってこようとは夢にもおもわなかったので、ついだまされたのです。それにしても、このかえだまは、じつによくにていました。じっさい年も八十ちかい老人にちがいありません。口のききかたなども、りっぱで、まさか、これがにせものとは、どうしても思われなかったのです。
ずっと、あとになって、わかったのですが、このにせの真珠王は、賊のなかまではなくて、七十いくつのくずやのじいさんが、五万円のおれいでやとわれ、賊に教えられるとおりのことを、やったばかりでした。ほんとうの賊は職人にばけた松村のほうでした。それなればこそ、風船の綱をきって、どことも知れず、ふきながされるような冒険もやってのけたのです。
しかし、巨ゾウの風船は、どこまで、ふきながされていくのでしょう。西北の風ですから、まもなく品川から、お台場をすぎて、東京湾にながされていくでしょう。そして、気球の中のガスは、だんだんもれていって、ついには太平洋の海の中へ落ちてしまうでしょう。そばを船が通ればよいけれども、広い広い海の上です。とても、そんなうまいぐあいにはいきません。松村と名のる怪盗は、海におぼれて死ぬほかはないのです。かれは、なにを思って、こんなむちゃな冒険をやったのでしょうか。
巨ゾウの風船が、デパートの空に飛びあがって、だんだん小さくなっていったころ、元刑事のひとりが、警視庁の捜査課へ電話をかけて、この事件を報告しました。
それを聞くと、警視庁では、捜査一課長をとりまき、三人の係長が、あわただしい会議を開き、大急ぎで方針をきめました。警視庁内の広場に待機している警察ヘリコプターに、犯人ついせきの命令がくだったのです。
ヘリコプターには、操縦士と機関士のほかに、銃と双眼鏡を持った警部がのりこみました。
風船の綱がきれてから、もう三十分もたっていましたが、風船は風だけで飛ぶのにくらべて、ヘリコプターは、風とプロペラと両方で飛ぶのですから、風船においつけないはずはありません。
ヘリコプターは警視庁の上空五十メートルにのぼり、風のふく方向へ、全速力で飛びました。機上の警部は、双眼鏡を目にあてて、しきりに空中をさがしています。
やがて、ヘリコプターは、東京の町をはなれ、品川の海に出ました。もうお台場が、目のしたに見えます。
「あっ、いた、いた。あすこを飛んでいる。千メートルかな。八百メートルぐらいかな。ほら、肉眼でも見えるだろう。この方向だ。全速力を出してくれたまえ。」
ヘリコプターは、警部の指さす方向に、いままでよりも、いっそうはやく飛びました。空中のまめつぶのような点が、りんごほどの大きさになり、それから、おもちゃのようなかわいらしいゾウの形になり、そのゾウが、みるみる大きくなって、いまは、ヘリコプターから百メートルほどの空を、ユラユラゆれながら飛んでいました。ゾウの腹の下のハンモックに、のんきそうに寝そべっている、賊のすがたも、手にとるように見えます。
そのとき、警部は双眼鏡で、うしろの海面をながめました。すると、ヘリコプターのうしろ三百メートルほどのところを、一そうのランチが、白波をけたてて、ばくしんしてくるのが見えます。警視庁から水上署へ電話をして、いちばん速力のはやい大型ランチで、ヘリコプターを追うように命じてあったのです。
「よし、あれがくれば、もう、うち落としてもだいじょうぶだ。」
警部はそうつぶやいて、銃をとりあげると、前方の空の巨ゾウに、ねらいをさだめました。どこへでも、たまがあたればいいのです。そして、ゾウの風船のガスがぬけて、海へ落ちればいいのです。すると、水上署の大型ランチが、賊をすくいあげるというじゅんじょです。
一ぱつ、二はつ、三ぱつ、警部の銃は、目の前の巨ゾウのせなかをめがけて、つづけざまに発射されました。なにしろ大きなまとですから、たまは百発百中です。たまがあたるたびに、ゾウはユラユラとゆれましたが、やがて、たまの穴からもれるガスが、だんだん多くなり、風船ゾウのからだは、みるみる、しぼんでいきました。そして、海面にむかって、ぐんぐんと落ちていくのです。
「しめたっ。もうだいじょうぶだ。」
ヘリコプターも、下降をはじめました。水上署のランチは、海面すれすれにただよっている風船ゾウに近づいていきました。
そして、風船が水面についたときには、ランチはそのすぐそばまで近づいていたので、賊をすくいあげるのは、わけのないことでした。
ランチが、風船とすれすれにとまると、乗りくみの水上署員が、とび口を、しぼんだゾウの足にひっかけ、ぐっと引きよせました。
ゾウのしぼんだ腹が、こちらをむくと、そこのハンモックの中に賊のすがたが見えました。とび口がハンモックにかかりました。そのまま、引きよせて、数人の乗りくみ員の手が、賊をランチの上にだきあげたのですが、そのとき、人びとの口から、「あっ。」という、おどろきのさけび声がもれました。
「なあんだ。これはゴム人形じゃないか。」
賊とばかり思っていたのが、人形だったのです。浮きぶくろのように、いきをふきこむと、ふくれて人間の形になるゴム人形だったのです。それに、松村の黒い背広がきせてあったのです。
しかし、デパートの屋上から、風船の綱にのぼっていったのは、たしかに松村でした。その生きた人間が空を飛んでいるうちに、どうして人形にかわってしまったのでしょうか。
読者諸君、この秘密がおわかりですか。それはつぎの章でわかるのですが、それまでに、諸君もひとつ、このなぞをといてみてはいかがです。
水上警察のおまわりさんが、ゴム人形をしらべているうちに、人形の手に、白い西洋ぶうとうがにぎらせてあるのに気がつきました。なんだろうと、それをひらいてみますと、中につぎのような手紙がはいっていました。
それを読んでおまわりさんたちは、歯ぎしりをして、くやしがりました。それにしても、「灰色の巨人」とはなにものでしょう。宝石職人にばけた賊は「灰色」でも、「巨人」でもありませんでした。黒い服をきた、ふつうの男でした。では、あの男は賊の手下で、べつに「巨人」のような大男の首領がいるのでしょうか。それにしても「灰色」とは、いったいなんのことでしょう。灰色の顔をした人間なのでしょうか。
警官たちは、いろいろ考えてみましたが、どうしてもわかりません。大きな灰色の人間なんて、なんだかばけものみたいで、じつにきみがわるいのです。
それから三十分ほどして、モーターボートのおまわりさんたちが、水上警察署へ帰りますと、すこしまえにひとりの男が、じぶんの見たふしぎなできごとを、知らせにきたことがわかりました。
その男は船頭に小さな船をこがせて、お台場の近くで、さかなをつっていたのですが、今から一時間ほどまえに頭の上を、ゾウのかたちをしたアドバルーンが、おきの方へ、飛んでいくのを見たのです。
アドバルーンの綱が切れて、こんなところまで飛んできたんだなと、めずらしがって見あげていますと、ゾウの腹の下から、サアッとなにか落ちてきて、それがパッとかさのようにひらき、ふわりふわりと海の上へおりてきました。よく見ると、パラシュートに人間がぶらさがっているのです。
アドバルーンから人間がおりてくるなんて、ふしぎなことがあるものだと、あきれていますと、むこうから、ひじょうに速力のはやいモーターボートが、波をけたててやってきました。そして、パラシュートの人間が、海に落ちるのを待ちうけて、その人間を手ばやくモーターボートの中にすくいあげました。そして、ボートは品川の方にむきをかえて、全速力でもどっていくのです。
白い波が、サアッと二つにわかれて、モーターボートはその波のあいだにかくれて、見えないほどの早さでした。白い波だけが、みるみる、むこうへ遠ざかっていくのです。そして、じきに、それも見えなくなってしまいました。
あっという間のできごとでした。その男がつりをしていたそばには、ほかにも二─三そうのつり船がいて、それを見ていたのですが、パラシュートでおりたのが宝石どろぼうとは、だれもしりませんので、そのまま、つりをつづけていたのでした。
ところが、水上警察へきた男が、いちばんはやくつりをやめて、船宿に帰ってみますと、デパートの宝石どろぼうが、アドバルーンにのって逃げたということが、わかりましたので、「さては、さっきのは、そのどろぼうだったのか。」とおどろいて、とどけにきたというわけでした。
でも、そのときは、もうモーターボートが、パラシュートの男をすくいあげて逃げさってから、一時間もたっていましたので、もうどうすることもできません。東京湾にいるモーターボートを、ぜんぶしらべて、あやしいボートを見つけるほかはないのです。警察では、すぐに、その手配をしましたが、なかなか、てがかりがつかめそうにもありませんでした。
それからまた十日ほどは、なにごともなく、すぎさりました。「灰色の巨人」の手下は、モーターボートでにげさったまま、ゆくえがわかりません。「灰色の巨人」という首領が、どんなやつだか、どこにいるのか、少しもわからないまま、日がたっていったのです。
ところが、ある夜のこと、銀座の有名な宝石商の大賞堂に、ふしぎな事件がおこりました。
夜の七時、銀座通りはネオンにかがやき、なみのような人通りに、わきかえっていました。大賞堂の店にも、おおぜいの客があり、店員はいそがしく立ちはたらいていました。
そこへ、ひとりのりっぱな洋装の若い女の人が、はいってきました。そのあとから、かわいらしい少女がついてくるのです。親子ではありません。たぶん少女は若い女の人の妹なのでしょう。
女の人は、ガラスばりの売り場の前に立って、店員に真珠の首かざりを見せてくれとたのみました。
店員は、女の人が、ひじょうにりっぱな服をきているので、だいじなお客さまと見て、ていねいにあつかい、いちばん高価な首かざりのケースを、いくつも、ガラス台の上にならべてみせました。
女の人は、そのケースを、一つ一つ、ひらいて見ていましたが、ちょうどそのとき、店の外で、「ワーッ。」という叫び声がしたかとおもうと、にわかに、そのへんがさわがしくなり、大賞堂のショーウィンドーの前は、みるみる黒山の人だかりになりました。
店員がとび出していってみますと、ひとりの青年が、そこにたおれていて、それをとりまいて、人だかりがしているのでした。
「どうしたんだ。しっかりしたまえ。」
ひとりの紳士が、たおれた青年をだきおこして耳のそばで、どなりますと、青年は、ふさいでいた目をひらいて、キョロキョロ、あたりを見まわし、はずかしそうな顔で、
「だれかが、パッとぶっつかったひょうしに、目まいがして、たおれたのです。もういいんです。すみません。」
とつぶやいて、よろよろと立ちあがり、まわりの人たちをかきわけるようにして、どこかへたちさってしまいました。
大賞堂の客たちも店員たちも、そのさわぎに、みんな入口へ出ていましたが、青年がたちさるのを見て、売り場に帰りました。
さっきの若い女の人も、もとの売り場にもどって、また首かざりを見はじめましたが、しばらくすると、気にいった品がないらしく、またくるからといって、そのまま店を出ていこうとしました。
そのとき、店員は、ガラス台の上に出してあった首かざりのケースを、一つ一つあらためていましたが、ふと、びっくりした顔になって、大きな声で、
「もしもし、あなた、ちょっとお待ちなすって!」
と、いま店を出ようとしている女の人をよびとめました。
「あたし? あたしにご用なの?」
女の人は、けげんな顔で、売り場にもどってきました。
「えへへへ……、どうもすみません。このケースの中の首かざりが、なくなっておりますが、もしや、なにかのおまちがいで……。」
店員は、にやにや笑いながら、いいにくそうにいうのでした。
「あら、あたしが、持っているとでもおっしゃるの? へんなこといわないでよ。まだ、まんびきするほど、おちぶれちゃいないわ。なんなら、からだをしらべてください。さあ、おくへいきましょう。そして、女の店員に、からだをしらべてもらいましょう。」
たいへんなけんまくです。店員は、青くなって、なにか口の中で、もぐもぐいっています。
そのとき、そばにいたべつの店員が、女の人のかかりの店員の耳に口をよせて、なにか、ささやきました。
「あ、そうだ、あの女の子がいない。お客さまが、おつれになったおじょうさんが見えませんが、どこへいらしったのでしょうか。」
女の人は、それをきくと、びっくりしたように、
「え、おじょうさんですって。あたし、女の子なんかつれていませんわ。ひとりできたのよ。」
「でも、さっきまで、おそばに、かわいいおじょうさんが、いらっしゃいましたが……。」
「ああ、そんな子が、いたようですね。でも、あれは、あたしがつれてきたのじゃない。まったく知らない子ですよ。」
それをきくと、店員たちは、にわかにさわぎだしました。そして、二─三人の店員が、あわてて表へとび出していきましたが、少女のすがたは、もうどこにも見えません。
「ちくしょう、やられた。あんなかわいい顔をして、あいつ、まんびき少女だったんだな。お客さまのおつれのようなふうをして、はいってきたので、まんまといっぱいくわされてしまった。……えへへへ、まことに、あいすみません。とんだいいがかりをもうしまして、どうかごかんべんねがいます。」
店員は、しきりにおじぎをして、おわびをするのでした。
「そう? うたがいが、はれればいいわ。じゃ、あたしは、こういうものですからね。なにか用事があったら、いつでもたずねてきてください。」
女の人は、そういって、店員に名刺をわたすと、そのまま、たちさってしまいました。
そのあとで、店員たちは、からっぽになった首かざりのケースを取りかこんで、ガヤガヤ、いっています。
「おい、このケースの中に、へんな紙きれがはいっているぜ。おや、なんだかえんぴつで書いてある。」
「まんびき少女が、手紙をのこしていったのかな。」
みんなでひろげて読んでみますと、そこには、つぎのようなおそろしい文句がしるしてありました。
首かざりを一つ、ちょうだいしたが、じつはこんなものが、もくてきではない。きみの店の宝石を、ぜんぶちょうだいしたいのだ。一週間のうちに、かならず、店のしなものを、ねこそぎもらいにくる。用心したまえ、おれは魔法つかいだからね。
さっきのあやしい少女は、灰色の巨人の手下だったのです。表で、さわぎをおこした青年も、やっぱり手下のひとりだったかもしれません。そのさわぎにまぎれて、少女は首かざりをぬきとり、手紙をのこして逃げさったのです。
ああ、灰色の巨人! いったいそれはなにものでしょうか。そして、これから、どんなおそろしいことを、はじめるのでしょうか。
宝石商、大賞堂の主人は、灰色の巨人の手紙を見て、ふるえあがってしまいました。すぐに警察にとどけましたが、どうもそれだけでは安心ができません。そこで、おもいだしたのが、名探偵明智小五郎のことです。明智探偵には、まえに銀座のほかの店が事件をいらいして、盗難をのがれたことがあります。主人はそのときの名探偵のてなみをよく知っているので、明智探偵を、しんから尊敬しているのでした。
主人はじぶんで、明智探偵の事務所へ電話をかけました。
「わたしは銀座の大賞堂のあるじでございますが、じつは、新聞をにぎわしている灰色の巨人が、わたしの店をねらっているのです。それで、ぜひ先生のご助力をおねがいしたいのでございますが……。」
すると、電話のむこうから、明智探偵のおちついた声が聞こえてきました。
「それはご心配ですね。わたしも灰色の巨人という賊には、きょうみをもっているのです。くわしいようすをお聞きしたいものですね。」
「では、これからすぐ、おうかがいいたしましょうか。」
「いや、それよりも、わたしのほうから、お店へいきましょう。賊をふせぐためには、やはり現場を見ておくほうが、よいのですから。」
それではお待ちしますといって、電話をきりましたが、それから三十分もすると、明智探偵が助手の小林少年をつれて、大賞堂へやってきました。
すぐに応接間へとおし、お茶やおかしを出して、ていちょうにもてなし、主人は、こんやのできごとを、くわしく話しました。
「さっき警察のかたも見えまして、私服の刑事さんを、三人ほど、たえず店にはりこませてくれることになりましたが、どうもそれだけでは安心ができません。灰色の巨人というやつは、じぶんで魔法つかいだといってるくらいですから、どんなふしぎな手を使うかもしれません。そこで支配人とも相談しまして、こういうことを考えましたのですが、どんなものでございましょうか。」
主人は、そこでことばをきって、名探偵の顔を見ました。明智は話のさきを、さそうようにうなずいてみせました。
「店には十万円をこす品が、百以上ございます。それだけでも、五千万円のねうちがあるのです。で、そういう高価な品だけを、ケースから出して、ひとつにまとめて、どこかへ、かくしてしまうのです。そしてケースには、にせものを入れておくのです。ダイヤモンドはガラスのにせもの、真珠は安ものの人造真珠に、入れかえておくのです。そして、それをわざとぬすませるという考えです。十万円以下の品は、そのままにしておきましても、たいしたそんがいではありません。高価な品だけを、かくせばよいのです。この考えは、どうでございましょうか。」
「それで、どこへかくすのですか。」
「かくし場所については、また、ひとつの考えがあるのでございます。アラン=ポーの『盗まれた手紙』という小説の手で、ごくつまらないもののように見せかけて、ほうりだしておくのが、いちばん安全なかくしかただという、あの手でございますね。それで、十万円以上の宝石を、ケースから出して、ひとまとめにしますと、両手で持てるほどの、小さなかたまりになってしまいます。これを古新聞で、いくえにもつつみまして、物置きのがらくたの中へ、ほうりこんでおくのでございます。物置きには、こわれたいすや、荷づくり箱や、古い新聞などが、ごちゃごちゃはいっているのですから、けっしてめだつことはありません。まさか、そんながらくたの中に、五千万円の宝石が、ほうりこんであろうとは、だれだって、そうぞうもしませんでしょうからね。」
それを聞きますと、明智はニッコリ笑って、
「あなたは、なかなかおもしろいことをお考えになりますね。アラン=ポーの小説からのおもいつきとは、気にいりました。それでは、その手でやってごらんになるのですね。支配人さんとあなただけで、店員たちには、気づかれないようになさるほうがいいでしょう。」
明智はそういいながら、つと立ちあがって、足音をたてぬようにして、入口のドアのところへいって、そこにしばらく立っていましたが、やがて、そっとドアをひらいて、外の廊下をのぞいたかとおもうと、すぐにドアをしめて、もとの席に帰りました。そして、声をひくくして、
「さっき、ここへ、お茶を持ってきた女中さんがありますね。あの子はいつごろからいるのですか。」
とたずねました。
「あれは、ごく近ごろ、やといいれたものです。しかし、たしかな人のせわでいれたのですから、べつに心配はないと思いますが、あの子になにか……。」
「いや、いいのです。いいのです。」
明智は、そこで、主人のそばへ顔を近づけて、その耳に、なにかぼそぼそと、ささやきました。
「えっ、それじゃあ、あの話を……。」
「そうです。わたしが今いったとおりになされば、きっと、うまくいきます。むろん、わたしも、この小林君も、じゅうぶん注意して、お店を見はるつもりですからね。」
それから、その席へ年とった支配人もよびよせて、しばらく、いろいろな話をしたあとで、明智探偵と小林少年は、待たせてあった自動車にのって帰っていきました。
それから、二日めの夜、こんどは郵便で、灰色の巨人からの手紙が、大賞堂あてにとどきました。それにはこんなことが書いてあったのです。
三月七日の夜、きっとしなものをもらいにいく。用意をしておくがよろしい。
これを読んだ主人は、かくごのうえとはいえ、やっぱり青くならないではいられませんでした。三月七日の夜といえば、あすのばんなのです。すぐに、このことを警察と、明智探偵事務所へ電話でしらせ、その夜は、ことさら厳重な見はりをすることになりました。
灰色の巨人は、この厳重な見はりの中へ、いったいどんなふうにしてやってくるのでしょう。また、大賞堂の主人の知恵は、うまく巨人をだますことができるのでしょうか。
賊が予告した三月七日のまえのばんに、大賞堂の主人と支配人は、店員がみなねてしまってから、そっと起きだして、明智探偵と相談したとおりのことをすませました。つまり、ほんとうの宝石類のはいった古新聞のつつみは、物置部屋のがらくたの中にほうりこまれ、店の大金庫の中のたくさんの、りっぱなサックには、にせものばかりが入れられたというわけです。
さて、いよいよ、三月七日の夜がきました。
その夜は、警視庁からやってきた三人の刑事が、ひとりは、店員にばけて、店の売り場に立ち、ふたりは、夜の銀座をさんぽしているような顔をして、大賞堂のショーウィンドーの前を、いったりきたりしていました。
それとはべつに、明智探偵のほうでも、どこかで見はりしているはずです。しかし、明智探偵が、どんな計略をたてているかは、大賞堂の主人や、支配人にも、わからないのでした。
その夜は、どんなお客さまがあっても、金庫の中の高価な宝石は見せないことにしました。支配人が、そのことを店員たちにいいつけますと、店員たちも、灰色の巨人の予告のことは、よく知っていましたので、そのいいつけを、かたくまもりました。
店には支配人のほか七人の店員(そのうちのひとりは、刑事がばけた、にせの店員です。)がいましたが、夜がふけるにしたがって、いまにも怪盗がやってくるのではないかと、みんなビクビクものです。なんでもないお客さまがはいってきても、そのたびにハッとして、あいての顔を、あなのあくほど見つめるというありさまでした。
ところが心配したほどのこともなく、十時になって店をしめるときまでは、なにごともおこりませんでした。さすがの怪盗も、まだ人どおりの多い店のひらいている時間には、どうすることもできなかったのでしょう。
じつは店をしめてからが、あぶないのです。店員たちは、支配人のめいれいで、そのばんは徹夜をして、金庫の前にがんばることになりました。ほんものの宝石類が、古新聞づつみとなって、物置部屋にほうりこんであることを、店員たちはすこしも知りませんから、ほんきになって金庫のばんをしたのです。
おもての戸を、すっかりしめて、ちんれつ台には、白いきれのおおいをかけ、電灯を半分くらいにへらしました。そして、店員たちは、店の中を歩きまわったり、金庫の前のいすにかけて、ぼそぼそと、小声で話をしたりしていました。
ひとりの店員が、ちんれつ台のあいだを、ぶらぶら歩いていますと、むこうのほうのガラス箱の、おおいのきれが、ヒラヒラと動いているのに気づきました。風もないのに、きれが、動くはずはありません。
「おや、へんだな。イヌが店の中へ、はいりこんだのじゃないかしら。」
と思って、たちどまって、じっと、そのほうをすかして見ましたが、イヌやネコではありません。もっとちがったものです。
「そこにかくれているのは、だれだっ。」
店員は大きな声でどなって、そのほうへ足ばやに近づいていきました。すると、そのものは、パッとどこかへ、見えなくなってしまうのです。まるでネズミが、チョロチョロと走るようなすばやさです。
そいつは、むろん、ネズミのような小さなものではありません。しかし、人間ほども大きくはないのです。
「あっ、そこに、なんだかいる。こらっ、おまえ、どこの子だ。」
べつの店員がそれを見つけてさけびました。ちんれつ台からちんれつ台へ、すばやく姿をかくすようすが、なんだか十歳ぐらいの小さな子どものように、感じられたのです。
「あっ、そっちへにげた。きみ、つかまえてくれ。」
声をかけられた店員は、いきなりちんれつ台のかげにしゃがんで、あいてを待ちぶせました。
すると、おおいのきれが、ヒラヒラ動いて、なにものかがこちらへ近づいてきます。子どもではないようです。といって、けものでもありません。その店員はゾーッと、せなかがつめたくなりました。そいつは、なんだかえたいのしれない、ばけもののように思われたからです。
「ケラ、ケラ、ケラ、ケラ……。」
と、白いおおいのきれのかげで、じつにきみのわるい笑い声がしました。
「やいっ、そこにいるやつは、なにものだっ。」
店員は、にげごしになりながら、ふるえ声でどなりました。
すると、ケラ、ケラ、ケラという笑い声が、いっそう高くなって、きれのかげから、ニューッと大きな人間の顔があらわれたのです。その顔が、まっかなくちびるを、ヘラヘラ動かして、笑っているのです。まるで、首だけが、ちゅうに浮いているように見えました。たしかに、おとなの顔です。しかし、それが、ちんれつ台にかくれるほど低いところに、ただよっているのです。顔の下に、胴体がないのです。いや、なんだか小さなからだのようなものがあるけれども、そんな顔の大きさに、ちっとも、つりあっていないのです。十歳よりも、もっと小さい子どものからだです。七─八歳の子どものからだに、三十歳のおとなの顔がのっかって、ケラケラ笑っているのです。
「ケラ、ケラ、ケラ……、おい、おまえたち、おれは、ずっとまえから店の中にかくれていたんだよ。おまえたち、気がつかなかったね。ケラ、ケラ、ケラ……。」
そのものは、いきなり、店員の前に姿をあらわして、子どものような、かんだかい声で、あざけりました。
それは、かたわもののこびとだったのです。赤いセーターをきて、四十センチぐらいの短いズボンをはいた、一寸法師だったのです。
店員たちは、それが、あまりぶきみな姿なものですから、あっけにとられて見つめたまま、口もきけないありさまです。しかし、店員にばけた刑事は、さすがに勇敢です。つかつかと一寸法師のそばによって、どなりつけました。
「きさま、サーカスからにげ出してきたのか。いったい、なんのために、この店の中に、かくれていた。」
一寸法師は、すこしもひるまず、またケラケラと笑いました。
「そのわけが、知りたいのか。」
「ずうずうしいやつだ。早く、わけをいえ。」
「おまえたち、なぜ、戸をしめてから、店にうろうろしているんだ。」
「そんなことは、どうだっていい。」
「ケラ、ケラ、ケラ……かくしたって、知ってるぞ。灰色の巨人がこわいのだろう。今にも、やってくるかと、びくびくしているんだろう。」
「やっ、きさま、灰色の巨人のなかまなんだな。」
「ふふん、まあそんなところだね。」
一寸法師は、両方のうでをまげて腰にあて、顔をつんと上にむけて、すまして見せました。
刑事はもうがまんができません。おそろしい顔で、一寸法師につかみかかっていきました。ところが、みじかい足の一寸法師が、あんがい、すばやいのです。かれは刑事の手の下をすりぬけて、ちんれつ台のあいだの、せまいすきまへ逃げこんでしまいました。
あいてがこびとだけに、しまつがわるいのです。おとなのからだでは、とても通れないようなところばかりを、にげまわるのですから、なかなかつかまりません。そうしてオニごっこをしているうちに、とつぜん、パッと、電灯が消えてしまいました。一寸法師が、にげまわりながら、スイッチをおしたのです。
「だれか、早くスイッチを……。」
いわれるまでもなく、ひとりの店員が、スイッチをさぐりあてて、電灯をつけました。ところが、そのときには、一寸法師の姿は、どこにも見えなくなっていました。
「へんだなあ、消えてしまったぜ。」
いくらさがしても見つかりません。表は、すっかり戸じまりがしてあるので、そちらへにげることはできません。おくのほうへの通路には、二─三人の店員が立っていましたから、こちらへも、ぜったいにいけないのです。
それでいて、店じゅうを、くまなくしらべても、こびとはどこにもいないではありませんか。煙のように消えうせてしまったのです。
一寸法師のさわぎで、主人も支配人も、うちの人がみんな店へ集まってきました。
あぶない、あぶない、これは怪盗の、れいの手かもしれません。どこからか一寸法師を、やとってきて、店でこんなおしばいをさせて、みんながそれに気をとられているすきに、なにかやろうというのではないでしょうか。
そのとき、大賞堂のおくのほうの物置部屋の板戸が、ソーッとひらいていました。そして、その中から、若い女があらわれました。みんな店のほうへいって、そのへんには、だれもおりません。この女は、二─三日前に、明智小五郎がきて、主人と話していたとき、ドアのそとで立聞きした女中です。
物置部屋から出てきたその女中は、古新聞でくるんだものを、ブラウスの下にかくして、ぬき足をして、そっと勝手口のほうへ歩いていきました。そして、そこでくつをはくと、そのまま裏通りへ出ていくのです。ブラウスの下にかくした新聞づつみの中には、いうまでもなく、たくさんの宝石類がはいっているのです。
女中が、裏通りへ出たときに、その町を、ゆっくりすすんでいく、一台のからのタクシーがありました。女中は、いそいでタクシーをよびとめると、あたりを見まわしながら、それにのりこんでしまいました。
それから三十分ほどのち、女中ののった自動車は、白鬚橋をわたって、隅田公園のやみのなかに止まりました。女中はそこでおりて、まっ暗な立木のあいだへ、はいっていきます。
そのとき、女中がおりたあとの自動車に、ふしぎなことがおこりました。車のうしろの荷物をいれるトランクのふたが、そっとひらいて、その中から、ひとりの少年がはい出してきたのです。少年は運転手のところへいって、なにか、ひとこと、ふたこと、ささやくと、そのまま女中のあとを追いました。
その少年こそ、明智探偵の名助手の小林君なのです。小林少年は、明智先生のめいれいによって、知りあいのタクシーの運転手にたのんで、その後部のトランクに身をひそめたのです。そして、そのタクシーは、大賞堂の裏どおりを、しずかに行ったりきたりして、女中がよびとめるのを待っていたわけなのです。
明智探偵は、女中が物置部屋から、新聞づつみの宝石をぬすみ出すことを、ちゃんと見ぬいていました。それで、小林少年に、そのあとをつけさせて、灰色の巨人のすみかを知ろうとしたのです。
女中は、まっ暗な立木のあいだを、どんどん歩いていきます。小林君は、あいてに気づかれぬように、そのあとをつけました。
百メートルほど歩くと、女中は立ちどまりました。そして、人待ち顔に、その暗いところに、じっと立っています。
すると、木の枝をガサガサいわせて、そこのしげみの中から、なにものかがあらわれました。遠くの街灯の光が、かすかにてらしているだけですから、その人間の姿は、はっきりは見えませんが、ふつうの人間の倍もあるような、よく太った大きな男でした。うすいオーバーをきて、ソフトをかぶっています。
女中はその大男に、宝石の新聞づつみを手わたすと、そのまま、もときたほうへもどっていきます。小林君は、見つけられてはたいへんですから、いそいで、そばの木のかげにかくれました。そして、これからどうしたらいいかと、ちょっと、考えましたが、女中のほうはかまわないで、新聞づつみを受けとった男を、尾行することにきめました。
男はむこうのほうへ、大またに歩いていきます。小林君は、その十メートルほどあとから、見うしなわぬように、ついていくのです。
少しむこうに、街灯が立っています。男がその街灯の下を通るとき、小林君は、男の姿を、はっきり見ましたが、ハッと、あることに気づいて、思わず息をのみました。
その男の身についているものは、ソフトも、オーバーも、ズボンも、くつも、みんな灰色だったのです。男が横をむいたとき、チラッとその顔を見ましたが、この男は、顔までも灰色がかっていました。
それに、おそろしく大きなやつです。ふつうのおとなの倍もあります。せいが高いばかりでなく、横はばもひろいのです。つまり、ひどく太っているのです。
「灰色の巨人だ。こいつこそ、灰色の巨人の首領にちがいない。」
小林少年は、そう考えると、なんだか身がひきしまるように感じました。ところがそれからしばらくすると、じつに意外なことがおこったのです。
大男が、とつぜん立ちどまりました。そして、いつまでも動かないのです。いや、そればかりではありません。大男が口をきいたのです。
「おい、きみも立ちどまってしまったじゃないか。どうして、ここへこないのだ。おれは、きみを待っているんだぜ。」
むこうをむいたまま、からだにふさわしい太い声で、そんなことをいいました。
「きみ」というのは、だれのことでしょう。そのへんに人がいるはずはありません。こちらにかくれている小林少年のことです。大男は尾行されていることを、ちゃんと知っていたのです。
小林君はギョッとして、やみの中に、立ちすくんでしまいました。あいては、そんな大きな怪物ですから、足もはやいでしょう。にげ出したって、すぐにおいつかれてしまいます。もうかくごをきめるほかはありません。
小林君は、ぐっと下腹に力をいれて、木のかげからあらわれ、だいたんに、大男のほうへ、すすんでいきました。
「あははは……、とうとう、あらわれたな。きさま、明智小五郎の助手の小林だろう。タクシーのトランクに、かくれていたのか。おおかた、そんなことだろうとおもっていた。きみはこの新聞づつみがかえしてほしいのだろう。だが、このおれと、ちんぴらのきみとじゃ、勝負にならない。これをとりかえすことは、すっぱりあきらめるんだな。はははは……、きみはかわいい子だ。おれがかわいがってやるから、まあ、こっちへくるがいい。」
大男はニューッと、大きな手をのばして、小林君の服のえりをつかみ、まるでネコでもぶらさげるように小林君をぶらさげて、のしのし歩きだしました。ざんねんながら、こんな巨人にかかっては、もうどうすることもできません。
大男はそうして、隅田川のほうへおりていきました。そこは、船のつくところらしく、石の坂道が川の水面と、すれすれのところまで、ひくくなっています。
見ると、そこの水面に、一そうのモーターボートがとまっていました。大男は小林君をぶらさげたまま、ひょいと、そのボートにのりました。
「さあ、これで、おわかれだ。宝石もかえさないし、おれのあとをつけることも、できなくしてやる。つまり、この勝負はおれの勝ちというわけだね。」
大男は、そういうと、ボートの中から、手をのばして、小林君のからだを、そっと、岸の石だたみの所へおろしました。そして、ボートの中にあったステッキのようなもので、ぐっと石だたみをおすと、ボートは岸をはなれてしまったのです。
小林君は、ざんねんでしかたがありません。このまま負けてしまっては、明智先生にも、もうしわけがないのです。小林君は、いきなり、大男によびかけました。
「おい、のっぽくん。きみは懐中電灯を持っているだろうね。それをつけたまえ。そして、新聞づつみをひらいて、中の宝石をよくしらべてごらん。その宝石はみんな、にせものだということが、わかるはずだよ。」
大男は、それを聞くと、ギョッとしたように、こちらを見つめました。そして、いわれたとおり、懐中電灯をつけて、宝石をしらべているようすでしたが、やがて、「ちくしょう。」と、したうちをする声が聞こえてきました。
「きのどくだねえ。きみは明智先生の計略にかかったんだよ。先生は女中が立聞きしていたことをさとって、大賞堂の主人にぎゃくの手をつかわせたのさ。金庫のなかの宝石を、にせものと入れかえたようにおもわせて、じつは入れかえなかったのさ。新聞づつみの方がにせもので、ほんとうの宝石は、みんな、もとの金庫にあるんだよ。はははは……、どうだい、これでも、きみの方が勝ったといえるだろうかねえ。」
小林君は、そういって、さもここちよげに笑うのでした。
しかしこの勝負は、せっかく尾行した巨人に、にげられてしまったのですから、じつは五分五分なのです。
「ちくしょう、おぼえていろ。このしかえしは、きっとするぞ。」
大男のくやしそうな声が、エンジンの音にまじって聞こえてきました。そしてモーターボートは、隅田川のやみの中へ消えていくのでした。
大賞堂の店にあらわれた一寸法師は、いったいなにものでしょう。かれはどこからどうして、にげさることができたのでしょう。
また、モーターボートでにげた大男は、はたして、灰色の巨人なのでしょうか。やがて、それらの秘密のとけるときがきます。
大賞堂の事件があってから一週間ほどたった、ある日、園井正一君という中学校一年生の少年が、明智探偵事務所へ、助手の小林少年をたずねてきました。
園井少年は、小林君が団長をやっている少年探偵団の団員なのです。小林君は探偵事務所のじぶんの部屋へ、園井君をとおしました。
小林君の部屋は、三畳ほどのせまい洋室です。大きな机と本箱と、いすが三つおいてあります。ふたりは、そのいすにかけて話をしました。
「きみ、青い顔しているよ。なにか心配ごとでもあるの?」
小林君がたずねますと、園井少年は、
「うん、ひじょうに心配なことがあるんだ。それで、団長に相談にきたんだよ。」
といって、話しはじめました。
「ぼくのおとうさんが、こんばん、にじの宝冠を、十人ほどのお友だちに、見せることになっているんだ。その宝冠は、戦争のときから今まで、ずっと、いなかに疎開してあったんだが、それをこんど、うちへ持ってかえったんだ。そして、きょうは、ちょうど、おとうさんの誕生日だもんだから、十人ばかりお客さまがくる。みんなおとうさんのお友だちだよ。そのお客さまに、宝冠を見せることになっているんだ。」
「にじの宝冠って、なんなの?」
小林君がききますと、園井少年は目をかがやかせて、
「たいへんな宝物だよ。いまから百何十年まえに、ヨーロッパのある国の女王さまが、かぶっていたという王冠だよ。ぼくのおじいさまが、フランスの美術商からお買いになったんだって。ぼくのうちのたからものだよ。その宝冠には、ダイヤや、ルビーや、サファイアなんかが、たくさんはめこんであるんで、にじのように美しく光るんだ。だから、にじの宝冠っていうんだよ。」
園井君のおうちは、戦争のまえには、ひじょうなお金持ちでしたから、そういう宝物がのこっていたのです。
「ぼくが心配しているわけが、わかるだろう。ほら、灰色の巨人だよ。あいつは、宝石ばかり、ねらっているんだね。だから、こんや、あいつがやってきたら、たいへんだとおもうんだ。」
「だって、こんや、きみのうちで、宝冠を見せることは、お客さまのほかには、だれも、しらないんだろう?」
「しらないはずだけれど、でも、灰色の巨人は、魔法つかいみたいなやつだからね。かぎつけて、やってくるかもしれないとおもうんだ。いや、それよりもね、ぼくはきのうの夕がた、おそろしいものを見たんだよ。」
「え、おそろしいものって?」
園井少年は、さもこわそうに、あたりを見まわして、
「こわかったよ。まっかな太陽が、坂の上の空にしずみかけていたんだよ。ぼくは坂の下からのぼっていった。するとね、その坂のてっぺんの、まっかな太陽のまえに、おっそろしく大きなやつと、赤んぼうみたいな小さなやつが、ならんで、立っていたんだ。ひとりは西郷さんの銅像みたいなやつだよ。そして、もうひとりは、ちっちゃなこびとなんだよ。顔だけ大きくって、からだがあかんぼうなんだ……。わかるかい。大きいやつは、きみが隅田川であった灰色の巨人かもしれない。小さいやつは、あの一寸法師かもしれない。そのふたりが手をつないで、坂のてっぺんに、黒い影のように、ニューッと立っていたんだよ。ぼくは、ぞっとしていきなり、はんたいのほうへかけ出しちゃった。」
「その坂って、どこなの?」
「ぼくのうちの、すぐそばだよ。ほら、キリスト教会のある、あの坂みちさ。」
「ふうん、それじゃ、あいつは、もうきみのうちを、ねらっているのかもしれないね。」
「ぼくも、それがこわいんだよ。だから、ぼく、おとうさんに、こんばん宝冠を見せるのはおよしなさいって、いったの。でも、だめなんだよ。みんなにあんないじょうを出して、こんや見せるといってあるんだから、よすことはできないんだって。」
「あぶないね。十人のお客さまのなかには、巨人の手下がだれかにばけて、まじっているかもしれないからね。」
「ぼくも、おとうさんに、そういったんだよ。でも、おとうさんは、お客さまは、みんなよくしっている人だから、ごまかされる心配はない、だいじょうぶだっていうんだ。おとうさんは、ちっともこわくないんだよ。ぼくを、おくびょうものだってしかるんだよ。」
「わかった。きみがぼくに相談しにきたわけがわかったよ。少年探偵団を集めればいいんだろう。そして、きみのうちをまもればいいんだろう。」
「うん、そうなんだよ。ぼくがおくびょうなのかもしれないけれど、心配だからね。」
「よし、それじゃあ、なるべく大きい強そうな団員を六─七人集めよう。」
小林君は、応接間で、べつの事件の客と話をしている明智探偵のところへいって、部屋の外へよび出して、このことをつげますと、明智探偵は、
「きみがついてれば、だいじょうぶだとおもうが、団員の子どもたちに、けがなんか、させないようにね。もし、かわったことがあったら、すぐに、ぼくに電話するんだよ。」
と、ねんをおして、団員を集めることをゆるしてくれました。
それから、電話れんらくによって、六人の団員がくることになり、小林団長と園井君と、あわせて八人の少年探偵団員が、園井君のうちのまわりを、見まわることになりました。
そのばん、園井君のうちによばれたお客さまたちは、おいしいごちそうのもてなしにあずかったあとで、いよいよ宝冠を見せてもらうために、応接間に集まっていました。
お客さまは、夫婦づれの人が多く、男が六人、女が四人でした。みな、りっぱなみなりの人ばかりです。それに、園井君のおとうさんと、おかあさん、あわせて十二人が、大きな丸テーブルを、ぐるっとかこんでいすにかけていたのです。
主人の園井さんのまえには、銀色の美しい箱がおいてあります。園井さんは、そのふたに手をかけました。
「これがにじの宝冠です。箱のまま、じゅんにまわしますから、よくごらんください。」
ふたがひらきました。なかにはまっかなビロードの台座があり、その上に金色まばゆい宝冠がのせてあります。
宝冠にちりばめた、かずしれない宝石が、電灯の光をうけて、赤に、青に、むらさきに、キラキラ、チカチカとかがやきました。目もくらむばかりの美しさです。
お客さまたちは、それを見ると、あまりのみごとさに、思わずホーッと、ためいきをつきました。
「さあ、じゅんにまわして、ごらんください。宝石のかずを、かぞえるだけでもたいへんですよ。」
「まあ、なんてすばらしいんでしょう。ほんとうににじですわ。にじのように、五色にかがやいていますわ。」
園井さんのとなりの美しい女の人が、うっとりとして、つぶやきました。
それから宝冠の箱は、テーブルの上を、つぎつぎとまわっていきました。そして、五人めまでまわったときです。いきなり、パッと電灯が消えて、部屋のなかが、まっ暗になってしまいました。
停電でしょうか? いや、どうもそうではなさそうです。だれかがスイッチをきったのです。園井さんは、はっとして、大いそぎでスイッチのほうへいこうとしました。
「キャーッ……。」
女のお客さまのだれかが、ひめいをあげました。
「どうしたんです。いま、さけんだのはだれです。」
男の声が、どなりました。
「子どもがいます。小さな子どもが、あたしの手を……。」
「子ども? 子どもなんかいるはずがない。どこです、どこです。」
暗やみのなかで、みんないすから立って、うろうろしていました。ぶっつかりあうものもあります。
「あっ、いたぞっ。子どもだ。小さな子どもだ。」
また、だれかが、さけびました。
「みなさん、しずかにしてください。宝冠はだいじょうぶですか。どなたが、お持ちですか。」
だれもこたえません。みながいすを立ったので、宝冠の箱が、どのへんにあったか、けんとうもつかないのです。
そのとき、園井さんが、やっとスイッチをさぐりあてて、パチンと、電灯をつけました。部屋のなかが、まぶしいほど明るくなりました。
みんなの目が、テーブルの上を見ました。宝冠の箱は、かげもかたちもありません。二─三人のひとが、テーブルやいすの下をのぞきました。なにもありません。にじの宝冠は、魔法のように消えうせてしまったのです。
「さっき、子どもがいると、おっしゃったかたがありましたが、ほんとうに、そんなものが、いたのですか。」
園井さんが、みんなの顔を見まわして、たずねました。
「たしかにいました。わたしの腰くらいしかない、小さな子どもでした。」
「あたしも、その子どもにさわられましたわ。どうしたんでしょうね。どこへいったんでしょうね。」
それをきくと、みんな、きみがわるくなって、キョロキョロとあたりを見まわすのでした。
園井さんは、ふしぎそうな顔をして、いいました。
「そんな小さな子どもがいるはずはありません。わたしの子どもの正一は中学生です。そのほかに、うちには子どもはいないのです。いや、たとえ子どもがいたとしても、この部屋へは、はいれません。わたしは、用心のために、宝冠をお見せするまえに、ドアにカギをかけておきました。窓もちゃんと、しまりができております。どこにも出はいりするすきまはないのです。」
「それはたしかですか。では、宝冠はどこへいったのです。だれかが、持っていったとしか考えられないじゃありませんか。」
園井さんも、お客さまの男の人たちも、部屋じゅうを、ぐるぐるまわって、さがしました。ドアや窓の戸を、ガチガチやって、ためしました。ぜんぶ、中からしまりができています。そのほか、てんじょうにも、かべにも、ゆかいたにも、あやしいところは、少しもないことがわかりました。
ふしぎです。あの美しい宝冠は、銀の箱もろとも、おばけのように消えてなくなったのです。
みんなは、うすきみわるくなって、ただ、おたがいに、おびえた目を見かわすばかりでした。
ちょうどそのとき、園井さんの広いおうちのへいの外では、またべつの、おそろしいできごとがおこっていました。
小林団長のひきいる八人の少年探偵団は、四人ずつ、ふたくみにわかれて、園井家のへいのまわりを巡回していました。
もう夜の八時ごろでした。空がくもって星も見えない、まっ暗なばんでした。そのへんは、さびしいやしきまちで、高いへいばかりがつづいています。人どおりも、まったくありません。町のところどころに立っている街灯の光が、あたりをぼんやりと、てらしているばかりです。
小林君がさきにたって、そのあとから、園井少年と、ほかのふたりがつづいています。ほかのふたりも中学の一年生です。
「おい、とまれ! なにかいる。あれをごらん。」
小林君が、むこうのコンクリートべいの上を、ゆびさしました。それは園井君のおうちのへいです。へいの上から、大きな木の枝が、ニューッと、つきだしています。その枝が、ざわざわと動いているのです。
風にゆれているのではありません。なにかが、その枝にとまっているのです。遠くの街灯の光で、かすかにそれが見わけられます。
サルのような動物です。いや、サルではありません。人間の子どもです。こんな暗いばんに、子どもが木のぼりをしているのでしょうか。
大きな枝が、ピーンとはねました。子どもがとびおりたのです。おやっ、子どもにしては、なんて大きな頭でしょう。頭でっかちの福助みたいなやつです。黒い四角なふろしきづつみのようなものを、首にくくりつけています。そして、その小さなやつは、いきなり、むこうのほうへ、チョコチョコと走りだしました。
「あっ、一寸法師だっ。」
小林団長と園井君とは、すぐそれに気がつきました。
首にさげている黒いふろしきづつみは、いったいなんでしょう? ひょっとしたら、あの中に、にじの宝冠が、つつんであるのではないでしょうか。一寸法師が、それをぬすみだしたのでは、ないでしょうか。
「おい、あいつを、追っかけるんだ。あいてに、きづかれぬように。」
小林団長が、めいれいをくだしました。
やみ夜のついせきです。にげるのは、頭でっかちの一寸法師。ちびのくせに、なんという早さでしょう。チョコチョコ、チョコチョコ、みじかい足が、まるで、機械のように動くのです。
探偵団の少年たちは、みんなのっぽですから、足の長さは一寸法師のばいもあります。それでいて、なかなか追いつけないのです。四人の少年は、いきをきらせて走りつづけました。
一寸法師は、にぎやかな通りをさけて、さびしいほうへ、さびしいほうへと走っていきます。おとなの人が通ったら呼びかけて、つかまえてもらおうと思うのですが、あいにく、だれも通りかかりません。
まっ暗な大きな森がありました。神社の森です。一寸法師はその中へ、逃げこみました。
さあ、たいへんです。神社の中はひろびろしていて、そこに大きな木が、いっぱい茂っています。どこにでも、かくれるところがあります。
少年たちは、その広い境内を、あちこちと、さがしまわりました。しかし、一寸法師は、どこにもいないのです。あいつは、木のぼりが、うまいようですから、ひょっとしたら、大きな木にのぼって、かくれているのかもしれません。しかし、何十本とある木を、一本ずつのぼって、さがすことなど、とてもできません。もうあきらめるほかはないのでしょう。
「だが、もしかしたら、境内を通りぬけて、神社のうらのほうへ逃げたかもしれない。そっちをさがしてみよう。」
小林団長は、そういって、さきにたって、うらの道へ出ていきました。
神社のうらは、広い原っぱでした。むこうに、大きなテントが、はってあります。サーカスのテントです。
四人はそのほうへ行ってみました。テントの正面には、明るく電灯がついて、二とうのゾウと、たくさんのウマがつないであります。
入り口のだいの上に、赤いしまの服をきた人がすわって、ばんをしていました。
「おじさん。いま、ここへ、一寸法師が、こなかった?」
小林君がたずねました。
「なんだって? 一寸法師だって?」
赤い服の男が、びっくりしたように、少年たちを見おろしました。
「こびとだよ。頭がでっかくて、子どもみたいに小さいやつだよ。神社のほうから、かけだしてこなかった?」
「ふうん、このへんに、そんなやつがいるのかい。見なかったよ。もうこんやは、おしまいだから、おもてに立っているお客もなかったので、見のがすはずはない。そんなやつ、ここへはこなかったよ。」
その男は、高いだいの上にすわっているのですから、もし一寸法師が通れば、目につかぬはずはないのです。それでは、やっぱり、まだ神社の境内に、かくれているのでしょうか。
どうしようかと、まよっているうちに、ちょうどサーカスがおわりになって、入口から、見物の人たちが、どやどやと出てきました。
四人の少年は、そこに、つったって、おおぜいの人たちが、通りすぎるのを見ていました。もしや、その見物人の中に、一寸法師がいるのではないかと、目をさらのようにしていましたが、子どもはいても一寸法師はいませんでした。
園井少年は、まだ、あきらめきれないで、入口にちかよって、見物人の出ていったあとの、テントの中をのぞいていますと、だいの上の男が、大きな声でどなりつけました。
「なにを、のぞいているんだ。もう、見物人は、すっかり出てしまったよ。そんな一寸法師なんか、こんなとこに、いるもんか。さあ、かえった、かえった。」
しかたがないので、四人の少年は、そこをひきあげることにしました。そして、もう一度、神社の中をさがしましたが、やっぱり、なにも見つけることはできませんでした。
「あっ、しまった。」
小林団長が、びっくりするような声を、たてました。
「どうしたの? 団長」
ひとりの少年が、ふりむいて、たずねました。
「ぼく、すっかり、わすれていた。サーカスには、よく一寸法師の道化者がいるね。あのサーカスにも、一寸法師がいるんじゃないかしら。だからさ、ぼくらが、おっかけたやつは、あのサーカスの団員じゃないだろうか。」
小林君は、そういって、考えこんでしまいました。
一寸法師は、はたして、このサーカスのなかに、かくれていたのでしょうか。もしそうだとすれば、怪盗「灰色の巨人」と、このサーカスとは、どんなつながりがあるのでしょう。
そのあくる日の午後、小林団長は、ゆうべの少年たちのほかに、たくさんの団員をさそって、そうぜい二十人の少年探偵団員が、そのサーカスを見物することになりました。そして、二十人の四十の目でサーカスを監視し、もし、あやしいことがあったら、すぐに、明智先生に電話をかけて、応援してもらうつもりなのです。
サーカスの大テントの中では、二とうのゾウの曲芸がすんだところで、つぎには「馬にのる十人の女王さま」という、だしものがあるのですが、いまは、そのあいだのつなぎの場面で、場内中央のひろい砂場に、へんてこな道化ものの巨人が、あらわれていました。
そのひろい砂場を、ぐるっととりまいて、うしろほど高くなった、まんいんの見物せき。その見物せきのまん中に、中学の制服制帽の少年が二十人、ずらっと二れつにならんで見物していました。まるで野球の応援団みたいです。いうまでもなく、これは、少年探偵団の少年たちでした。
中央の砂場のぶたいには、おそろしく大きな人間が、のそのそと歩いていました。ふつうのおとなの三倍もあるような巨人です。その巨人は、そでのない、つりがねのようなかたちの、灰色のマントをきていました。そのマントの長さが、四メートルほどもあるのです。
マントの上からのぞいている顔は、ふつうのおとなの顔ですが、からだが、そんなに大きいものですから、顔がばかに小さく見えます。その顔は、おしろいを、まっ白にぬって、ほおに赤いまるのかいてある、あの道化師の顔です。頭には赤と白の、だんだらぞめの、とんがり帽をかぶっています。
マントの長さが四メートルですから、その巨人のせいのたかさは、五メートル以上です。そんな大きな人間が、いるはずはありません。
「あれは、きっと三人なんだよ。ひとりの肩の上に、もうひとりがのって、その上に、またもうひとりのっているんだ。そして、マントで、かくしているんだよ。」
少年探偵団のひとりが、おかしそうに、となりの少年に、ささやきました。
「でも、あのマント、灰色だねえ。おい、灰色の巨人だぜ、あいつ……。」
べつの少年が、じょうだんをいいました。あの悪人の灰色の巨人が、こんなところにいるはずはありません。これは道化師たちのインチキ巨人です。しかし、「灰色の巨人」ということばを聞くと、少年たちは、ハッとしたように、顔を見あわせました。そうではないと思っていても、なんとなく、きみがわるくなったのです。
そのとき、見物せきに、おそろしい笑い声が、おこりました。そして、大テントを、ゆるがすばかりの拍手です。
巨人が、灰色のマントをひるがえして、クルッとひっくりかえったのです。すると、いままでひとりだった巨人が、三人になりました。大中小の三人の、こっけいな道化師になってしまいました。
みんな、とんがり帽をかぶっています。顔を、まっ白にぬって、ほおに赤い丸がかいてあります。着物も赤と白のだんだらぞめの道化服です。その三人が、せいのじゅんにならんで、見物せきにむかっておじぎをしているのです。
右がわの道化師は、せいのたかさ一メートルほどの一寸法師です。まん中は、ふつうのおとなです。左がわに立っているのは、すもうとりのような大男です。その大男のせいのたかさは、一寸法師と、まん中の道化師とを、合わせたほどもあります。巨人が三人にわかれましたが、その中のひとりは、やっぱり巨人だったのです。その大中小の三人が、おそろいの道化服で、おじぎをしているようすは、思わず、笑いだすほどおかしいのでした。
「ねえ、小林さん、やっぱり巨人がいるよ。小林さんが、隅田川で出あったやつ、あいつじゃなかったの?」
ひとりの少年が、小林団長に、ささやきました。
「まだわからない。あんなに、おしろいをぬってちゃあ、見わけられないよ。あとでおしろいをおとした顔を、見てやろう。ひょっとしたら、あいつかもしれないからね。」
「でも、むこうでも、小林さんに気づきやしないかしら?」
「気づくかもしれない。しかし、だいじょうぶだよ。まさかサーカスから、にげだしゃしないよ。もしにげだせば、すぐに、あいつと、わかってしまうからね。」
「それに一寸法師もいるんだぜ。巨人と一寸法師が、ちゃんとそろっているんだぜ。へんだな。ぼくなんだかきみがわるくなってきた。」
「うん、もし、悪人が、道化師にばけているとしたらね。でも、まだわからないよ。もうすこし、見ていよう。あやしいことがあれば、すぐに、明智先生に電話をかければいいんだからね。」
また、見物せきに、「わあっ。」という声がおこり、拍手がなりひびきました。
砂場のぶたいでは、大中小三人の道化師が、クルクル、クルクルと、車のように、とんぼがえりをうって、アクロバット(かるわざ)を、やっていたのです。すもうとりのような大男も、みかけによらぬアクロバットの名人で、みごとに、ひっくりかえっています。
アクロバットがおわると、三人の道化師は、見物せきにむかって、もう一度、ていねいなおじぎをして、サアッと、とぶように、がくや口へひっこんでいきました。
つぎは、いよいよ、「馬にのる十人の女王さま」です。
バンドのいさましい音楽がはじまると、がくや口のカーテンが、サッとひらいて、馬にまたがった美しい女王さまが、しずしずとあらわれてきました。ひとり、ふたり、三人、四人……、みんな、おなじ服装です。十人の女王さまが、十とうの馬にまたがって、砂場のまわりの馬場を、グルグルと、まわりはじめました。
じつに、美しいけしきでした。女王さまたちは、みんな若いきれいな女の人で、それが、まっかなラシャを、白い毛皮でふちどった女王さまのマントをはおり、キラキラ光る王冠をかぶっているのです。王冠の金色と、マントの赤とが、てりはえて、その美しさは、なんともいえないほどです。
女王さまたちは、マントの下には、やはり赤いラシャに、白い太いすじのはいったズボンと、黒い長ぐつをはいていました。長ぐつには銀色の拍車がついているのです。
かぶっている王冠は、ひとりひとり、形がちがっていますけれど、みんな金色にかがやいて、宝石がちりばめてあるのです。金色はメッキで、宝石はガラス玉なのでしょうが、大テントのてんじょうからさがっている照明のライトに、キラキラ、チカチカと光って、目もまばゆいばかりでした。
十とうの馬たちは、いさみたって、ヒヒン、ヒヒンと、いななきながら、だくをふんで、馬場を三度まわりました。すると、そのとき、バンドの音楽のちょうしが、パッとかわったかと思うと、十人の女王さまたちは、赤いマントをひらりとぬいで、砂場になげすて、むねに金モールのかざりのある赤いうわぎに、赤いズボンの、みがるな姿になって、馬の曲のりをはじめるのでした。
まっかな服の美しい女王さまたちが、ひらり、ひらりと、右に左に、走る馬のせなかを、とびちがいました。それから、三とうの馬をならべて走らせ、ふたりの女王さまが、両はしの馬の上に立ち、まん中の女王さまが、ふたりの肩にのって、まっすぐに立ちあがり、パッと両手をひろげたまま、馬場をひとまわりします。すると、三つの王冠が、三だんになって、キラキラかがやき、そこにちりばめた宝石が、五色のにじのように見えるのです。
「小林さん、あれ、たしかに、そうだよ。」
園井少年が、となりの小林団長にささやきました。
「あれって?」
「ほら、ふたりの肩の上にのっている女王さまの宝冠ね。ぬすまれた『にじの宝冠』と、そっくりなんだ。あんなによくにた宝冠が、ほかにあるはずないよ。」
「えっ、あれが『にじの宝冠』だって?」
「そうだよ。もう、まちがいない。ほら、あれだけがほんとうの金だよ。ほんとうの宝石だよ。ほかの宝冠とくらべて、まるで光りかたが、ちがっているでしょう。」
「うん、そういえば、あれだけ、よく光るね。園井君、きみの思いちがいじゃないだろうね。形が、そっくりなのかい?」
「うん、まちがいない。あれだよ。たしかに、あれだよ。」
園井少年は、いきをはずませて、いいきるのでした。
「よしっ、それじゃあ、ぼく、先生に電話をかけてくるからね。きみは、知らん顔しているんだよ。ほかの団員にも、いっちゃいけない。さわぎたてて、あいてに気づかれると、まずいからね。いいかい、すぐ帰ってくるからね。」
小林団長は、そういいのこして、そっとせきを立ち、便所へでもいくような顔をして、テントの外へ、かけ出しました。そして、近くのタバコやの電話をかりて、明智先生に、ことのしだいを知らせたのです。
十人の女王さまのショーは、二十分あまりもつづきましたが、ありとあらゆる馬の曲のりを見せたあとで、女王さまたちが、がくや口へはいってしまうと、つぎは空中サーカスの番組でした。大テントのてんじょうのいくつかのぶらんこがおろされ、砂場の上には大きな救命網が、はりわたされました。
小林少年は、とっくに見物せきにもどっていましたが、空中サーカスの用意がすすめられているときに、テントの入口に、明智探偵のすがたが、チラッと見えました。
小林君は、すぐそれに気づいて、いそいでそこへいきました。すると、明智探偵は、小林君を、ものかげによんで、
「警官隊が、このテントを包囲している。警視庁の中村警部もきているよ。で、その宝冠をかぶった女の子は、どこにいるんだね。」
とささやきました。
「さっき、十人の女王さまのショーが、すんだばかりです。いまはがくやにいると思います。まだ着がえもしていないかもしれません。」
小林君も、ささやき声で答えました。
「よしっ、それじゃ、ぼくと中村君とで、がくやをしらべる。きみたちも、目だたないように、ここを出て、テントの外を見はってくれたまえ。」
明智は、そういいのこして、外に出ると、せびろ姿の中村警部を、手まねきして、ふたりで、がくやへはいっていきました。
サーカスのがくやは、大テントの横の小テントの中にあるのですが、そこに数十人の座員がはいっているので、たいへんなこんざつです。そのがくやの一方のすみに、さっき、「十人の女王さま」に出た若い女の人たちが、まだ女王さまの赤い服のままで、かたまっていました。みんな長ぐつをぬいでいましたが、宝冠はまだかぶったままです。そこへ、道化師の一寸法師が、こそこそとはいってきました。もう道化服はぬいで、ふだんぎのジャンパー姿です。かれは、女王さまたちの中のひとりの女の人のそばに近づいて、その耳に、なにかささやきました。その女の人は、「にじの宝冠」をかぶっているのです。
にじの女王さまは、一寸法師のささやきをきくと、びっくりしたように立ちあがって、キョロキョロとあたりを見まわしました。そして、いきなり、人びとをかきわけるようにして、テントのうら口へとび出しました。
うら口から外をのぞくと、そこには、制服の警官がふたり、目をひからせて立っていました。にじの女王は、それを見て、おどろいて首をひっこめました。そして、はんたいに、こんどは大テントの方へ走りだしました。
ちょうどそのとき、明智探偵と中村警部が、がくや口へやってきました。にじの女王は、ふたりのわきをサッとすりぬけて、大テントの中へ、とびこみました。
「あっ、いまの女が、そうだっ。」
明智探偵は、いそいで、そのあとを追います。中村警部も、いっしょに走りだしました。
にじの女王は大テントに走りこむと、てんじょうのぶらんこから、さがっている綱につかまると、スルスルと、それをのぼっていきます。宝冠をかぶった赤い服の女王さまが、てんじょうへのぼっていくのです。
そのとき、場内が、にわかに、ざわめきはじめました。
「あいつを、つかまえろ。あいつが犯人だっ。」
砂場にかけつけた中村警部が、てんじょうの、にじの女王をにらみつけて、おそろしい声で、どなったのです。
すると、テントの入口から、四─五人の私服刑事が、弾丸のように、とびこんできました。そして、砂場にかけつけると、その中のひとりが、いきなり、さがっている綱にとびついて、にじの女王のあとを追いはじめました。
このただならぬできごとに、見物せきは、そう立ちになりました。座員たちも、びっくりして、砂場へ集まってきました。
綱の上の、にじの女王は、下から刑事がのぼってくるのを見ると、いっそう手足をはやめて綱をのぼり、たちまち、てんじょうにさがっている、ぶらんこにのりました。そして、ぶらんこの棒にこしかけて、そこにかぎでひっかけてある下からの綱を、とりはずそうとしています。
ああ、あぶない。そのかぎをはずしたら、綱の中途までのぼっている刑事が、まっさかさまに、ついらくするではありませんか。
刑事も、それに気がつきました。かぎをはずされるまえにのぼりきって、ぶらんこに、とりつかなければなりません。かれは、死にものぐるいに綱をのぼりました。
そして、右手をぐっとのばして、ぶらんこに、つかまろうとしたときです。
「ワーッ。」
という声が、見物せきから、おこりました。にじの女王は、あやういところで、かぎをはずしたのです。刑事のつかまっている綱が、サーッと下へおちていきました。刑事は、二十メートルの上から、ついらくしたのです。
瞬間、場内は、はかばのように、しいんとしずまりました。みんなが声をのんで、ついらくする刑事のからだを、見つめていたのです。
刑事は、まっさかさまに落ちてきました。そのまま地面にぶっつかれば、気ぜつするか、死んでしまうかです。人びとは手にあせをにぎりました。
しかし、刑事は運がよかったのです。ぶらんこは、砂場の上にはりつめた、救命網の上にありました。刑事はその網に落ちたのです。かれのからだは、太い網の上で、まるくなって、ぽんぽんと、二─三度、はずみました。そして、うまく助かったのです。
中村警部は、男の座員の中から、空中サーカスになれた人たちをえらんで、にじの女王を、つかまえてくれとたのみました。すると、強そうな三人の男が、ぴったりと身についたシャツとズボン下の、あの衣装で、三方からべつの綱をつたって、スルスルと、てんじょうにのぼっていきました。
ぶらんこの上のにじの女王は、それを見ると、あわてました。じぶんより空中曲芸のじょうずな男たちに、三方から取りまかれては、どうすることもできないからです。
女王は、きちがいのように、ぶらんこをふりはじめました。大テントのてんじょうで、宝冠と金モールの赤い服が、サーッ、サーッと大きくゆれて、そのたびにキラッ、キラッと美しいにじが立つのです。
男たちは、もう、てんじょうにのぼっていました。てんじょうには、ぶらんこをさげる木の棒が、たてよこに組みあわせてあります。男たちは、その棒をつたって、三方から、女王のぶらんこにせまっていきました。
ぶらんこは、大テントのてんじょうにとどくほども、大きくゆれていました。それが上にあがったときには、にじの女王のからだが、まっさかさまになるほどです。でも、宝冠が落ちる心配はありません。宝冠はほそいひもで、しっかり、あごにくくりつけてあるのです。
三人の男のうちのひとりは、もうぶらんこのま上まで来ていました。そこの棒の上に、からだをよこにして、手をのばして、ぶらんこの綱をつかもうとしています。
しかし、女王さまのほうが、すばやかったのです。かのじょは、ぶらんこが、いちばん高くあがったとき、パッと手をはなして、てんじょうの木の棒にとびつきました。そして、その棒の上に、すっくと立ちあがると、大テントの合わせめを、ぐっとひらいて、そこをくぐって、テントのそとへ出てしまいました。
つまり、サーカスのやねの上へ、のぼったのです。
三人の男たちは、いそいで、そのあとを追いました。そして、同じテントの合わせめから、つぎつぎと、やねの上へ出ていきました。
見物人たちには、もう、その姿が見えません。ただ、テントのぬのに、四つの黒いかげが、うつっているばかりです。その黒いかげが、高い高いテントのやねで、おそろしいおにごっこを、はじめたのです。
そのさわぎのさいちゅうに、テントの外に、ワーッという、ときの声があがりました。
「ゾウだっ、ゾウが逃げた。」
サーカスのうらてを、みはっていた五人の警官が、いちもくさんに逃げてきます。そのうしろから、一ぴきの大きなゾウが、のそりのそりと歩いてきました。サーカスの前につながれていた足のくさりを切って、逃げだしたのです。
サーカスの人たちも、これに気づくと、テントの外へ、とびだしてきましたが、ゾウつかいの男が、どこかへいって、そのへんに、いないものですから、どうすることもできません。ただ、ゾウを遠まきにして、ワアワアさわいでいるばかりです。
そのとき、大テントのやねの上の宝冠の少女は、三人の男に追いつめられて、ちょうどゾウが歩いている上の、テントのはじまで逃げていました。そこはテントのやねのとったんですから、もう逃げるところがありません。うしろからは、男の曲芸師たちが、おそろしい顔でせまってきます。
少女はテントのはじから、下をのぞきました。そこに、だれもいなければ、とびおりるつもりだったのです。ところが、その下には、おおぜいの人が、逃げだしたゾウをとりまいて、さわいでいるではありませんか、そんなとこへとびおりたら、いっぺんに、つかまってしまいます。
しかし、いまとびおりなければ、つぎの瞬間には、うしろからせまってくる曲芸師に、つかまるのです。少女は、いそがしく頭をはたらかせているうちに、はっと、ひとつの考えがうかびました。いちかばちかの大冒険です。でも、いまとなっては、もうそのほかに、のがれるみちはありません。
ゾウはちょうど少女のま下を、のそのそと歩いていました。少女は、そのゾウのせなかをめがけて、パッと、身をおどらせたのです。ひとつまちがえば、ゾウにふみころされてしまうところでした。しかし、さすがに曲芸できたえたうでまえです。少女はうまくゾウのせなかに、とびおりて、そこにすがりつき、たちまちゾウの首にまたがってしまいました。
のんきらしく歩いているところへ、ふいに天から、人がふってきたものですから、ゾウはびっくりしてしまいました。ひと声ゴウッとうなると、長いはなをまっすぐにのばして、いきなり、タッタッタッと、かけ出したではありませんか。
遠まきにしていた人びとは、ワーッといって、クモの子をちらすように、逃げはしりました。ゾウつかいがいないので、だれもゾウをとりしずめるものがありません。うっかり前にまわろうものなら、たちまちふみころされてしまいます。
少女をのせたゾウは、どんどん走って八幡神社の森の中へはいりました。警官、サーカスの人たち、さわぎを聞いてテントから出てきた見物の人たち、百人に近い人びとが、はるかうしろから、ゾウを追ってきましたが、ただワアワアといっているばかりで、とても近よる勇気はありません。
いちばん勇敢なのは、二十人の少年探偵団員でした。かれらは小林団長のさしずで、十人ずつ二隊にわかれ、一隊は神社のむこうの二つの出口に、さきまわりをして、ゾウの出てくるのを待ちうけ、一隊はゾウのうしろから、おおぜいの人たちの、せんとうにたって走っていくのでした。
ゾウが神社の森にはいったときも、少年たちは、その入口のすぐそばまできていました。ところが、そこで、おそろしいことがおこったのです。ゾウが、いきなりクルッと、うしろをむいたのです。そして、長いはなをふり動かし、大きな耳をぱたぱたさせ、白いキバをさかだて、まっかな口を大きくひらき、ゴーッという、すさまじいうなり声をたてて、いまにもとびかかりそうにしました。
さすがの少年たちも、そのものすごいぎょうそうを見ると、いちもくさんに、逃げだしました。それにつれて、おっかなびっくりで、少年団員のあとからついてきた人びとも、ワーッと、なだれをうって逃げるのでした。
みんなが逃げさるのを見ると、巨ゾウはまた、むきをかえて、宝冠の少女をせなかにのせたまま、神社の森の中へ、姿を消してしまいました。
あんなにおどろかされたので、もうだれも森の中へ、はいろうとするものはありません。そこの入口を遠まきにして、がやがや、さわいでいるばかりです。
それから十分ほどもたったでしょうか。神社のむこうの出口にまわっていた、少年探偵団員のひとりが、いきせききって走ってきました。そして、こちらにいた小林団長を見つけると、そのそばにかけよって、
「小林さん、ゾウはむこうから出ていきました。でも宝冠をかぶった女の人は、ゾウにのっていないのです。この森の中へかくれたのだろうとおもいますから、ぼくたちは、あちらの見はりをつづけます。」
と報告し、そのまま引きかえしていきました。
小林少年が、そのことを、そばにいた警官たちにつたえますと、警官のひとりが、まだサーカスの中にいた中村警部をよびに走り、やがて、警部と三人の刑事がかけつけてきました。それから森の入口にいた五人の警官を、神社の三つの出入り口や、まわりの土塀の外に見はりをさせておいて、警部と三人の刑事は、神社の森の中の捜索をはじめました。小林少年は、そこにいた団員のうちの五人に、警官とおなじように見はりばんをさせ、あとの四人をつれて警部のあとから森の中にはいり、捜索の手つだいをしました。
むこうがわの入口に石の鳥居があって、そこから社殿まで、ずっと、しき石の道がつづき、両がわにたくさんの石どうろうがならび、社殿の前には、二ひきの大きな石のコマイヌが、石のだいの上にうずくまっています。そのあたりはいうまでもなく、森の立木の中、社務所の建物の中、社殿の中、のこるくまなく、しらべました。中村警部は、社務所の神官にたのんで、一年に一度しかひらかない、社殿のおくの扉までひらかせてみました。社殿や社務所や堂のゆかしたもしらべました。
中村警部と三人の刑事と、小林君たち五人の少年のほかに、むこうがわの入口に、見はりをつとめていた十人の少年のうちの五人が、ちゅうとから捜索にくわわったので、少年団員は十人です。それだけの人数で一時間あまりもさがしにさがしても、宝冠の少女は、どこにも発見することはできませんでした。神社への三つの出入り口は、警官と少年団員とで見はっていましたし、神社の森をかこむ土塀の外にも、警官や少年が行ったりきたりしていたのですから、少女が神社のそとへ逃げだすことは、ぜったいにできなかったのです。たしかに、中にいたのです。それが、こんなにさがしても、見つからないのですから、じつにふしぎというほかはありません。あの少女は忍術でもつかって、姿を消してしまったのではないでしょうか。
中村警部は、ひとまず捜索をうちきって、明智探偵ののこっているサーカスの中へ、ひきあげることにしました。少年探偵団員もそのあとについて、ひきあげたのですが、そのみちで、園井正一少年は小林団長に話しかけました。
「ねえ、小林さん、あの女の人、どこへかくれたんだろう。まるで魔法つかいみたいだね。」
「うん、ふしぎだねえ。しかし、きっとあの神社の中の、どこかにかくれているんだよ。明智先生ならさがしだせるんだがなあ。」
「先生はどこにいるんだろう。」
「サーカスの中だよ。」
「どうして神社へ、こなかったんだろう。」
「サーカスの中に犯人がいるからさ。」
「えっ、犯人が?」
「あの一寸法師と大男さ。ほんとうの犯人はあのふたりかもしれないよ。だから、先生は、ふたりのやつを見はっていらっしゃるのだよ。」
「ああ、そうか……。だが、ねえ、小林さん、ゾウはどうしたんだろうね。ぼく心配だよ。町の人が、はなでまきあげられたり、キバで、きずつけられたり、あの大きな足で、ふんづけられたりしているんじゃないかしら。」
「いまじぶんは、大さわぎをやってるよ。中村警部さんに聞いたらね、警察と消防署から、おおぜいの人が、ゾウをつかまえるために出動しているんだって、町の中のゾウ狩りだよ。」
「ピストルでうつのかしら。」
「いや、ころさないで、つかまえるんだって。そのために消防自動車が、何台も出ているんだって……正ちゃん、きみどうおもう? あのゾウは灰色だろう。だから、灰色の巨ゾウだね。……灰色の巨人……灰色の巨ゾウ。なんだか口調がにてるじゃないか。」
「ほんとだ。灰色の巨ゾウだね。へんだねえ。なにかわけがあるのかしら。」
「なんだか、あやしいよ。こんどの犯人は魔法つかいみたいなやつだからね。どこにどんないみが、かくされているかわからないよ。」
そんな話をしているうちに、サーカスにつきました。あんなさわぎがあったので、きょうは、興行を中止することにして、見物人たちは、みんなかえしてしまいましたので、大テントの中はがらんとして、きみのわるいほどしずかになっていました。
中村警部はがくやの入口で明智探偵を見つけて、神社のできごとを、のこらず話して聞かせました。そして、
「一寸法師と大男は、どこにいるんだね。」
とたずねるのでした。すると、明智は、まゆをしかめて答えました。
「まったく、ゆくえ不明なんだ。どこへいったのか、まるで、煙のように消えてしまった。」
「えっ、あのふたりも消えてしまったのか。宝冠の少女も消えてしまったし、こりゃいったいどうしたことだろう。」
「がくやをさがしてもいないので、見物人にまじって、にげ出しやしないかと、ぼくは、見物人がかえりかけてから、ずっと、木戸口で見はっていた。あんな大男とこびとだから、いくらごまかそうとしても、すぐわかるはずだが、それらしいやつは、見物人の中にはひとりもいなかった。」
「テントのすそをまくって、出入り口でないところから逃げだす手もあるが、それは、テントのまわりに、見はりの巡査をのこしておいたから、見のがすはずはないね。」
「そうだよ。その見はりの警官に、たずねてみたが、ぜったいに、逃げだしたはずはないというんだ。がくやのものも、ひとりひとり、しらべたが、だれも知らない。ゾウのさわぎのとき、がくやからとび出していった連中もあるが、その中には、大男も一寸法師もいなかったはずだね。」
「それはぼくの部下が見て、知っている。あの連中のなかには、そのふたりはまじっていなかった。これは、まちがいない。」
「すると、やっぱり、このテントのどこかに、かくれているのかもしれない。そして、宝冠の女も、まだ神社の中にかくれているのかもしれない。じつにおもしろくなってきた。ぼくはこういう犯罪がすきだよ。魔法つかいみたいなやつがね。それについて、ぼくは、ひとつ考えがある。その考えを、やってみるつもりだ。きっと三人とも発見してみせる。」
明智は自信ありげにいうのでした。それにしても、大男と、一寸法師と宝冠の少女は、どこにどうして、かくれているのでしょう。また、明智探偵は、あれほど捜索しても、わからなかった三人を、いったい、どんな方法で、さがしだそうというのでしょう。
あとでわかったのですが、三人は、じつにふしぎな場所にかくれていました。かれらは、いつもみんなの目の前にいたのです。それでいて、ぜったいに発見されないような、かくれかたをしていたのです。それがわかったとき、読者諸君は、あっとおどろくにちがいありません。明智探偵でさえもおどろいたのです。中村警部や部下の警官たちは、いっそうおどろいたのです。
しかしこの秘密は、あとのおたのしみとして、そのまえに、神社から町へ逃げだした巨ゾウが、どうしてつかまったかということを、しるしておかなければなりません。
八幡神社から逃げだしたゾウは、夕がたの町を、のそりのそりと歩いていきました。
ラジオが、ゾウの逃げたことを、いち早くつたえたので、そのちかくの町には、ぱったりと人通りがとだえてしまいました。いつもは、にぎやかな町が、まるで、真夜中のように、しずまりかえっているのです。
ゾウのはるかうしろから、警官の一隊がものものしく、ついせきしています。しかし、ゾウに近よるものは、だれもありません。
やがて、ゾウは電車通りに出ました。そこには、まだ自動車が走り、人が歩いていましたが、巨ゾウの姿をひと目みると、人も自動車も、大いそぎで逃げだしてしまいました。
そこへ、むこうから電車が走ってきました。運転手はラジオを聞いていなかったので、なにもしらないのです。ヒョイと気づいたときには、もうゾウが目の前に近づいていました。運転手は、びっくりぎょうてんして、ブレーキをかけました。
しかし、おどろいたのは、運転手よりもゾウのほうでした。大きな家のようなものが、じぶんの方へ突進してきたので、びっくりして、いきなり、あばれ出しました。いままで、のそのそと、歩いていたのが、おそろしいいきおいで走りだしたのです。もう手がつけられません。警官隊は、ただそのあとから走っていくばかりです。
そのころ、近くの消防署から、四台の消防自動車が出動していました。ゾウの進んでいく道は、たえず電話で知らされていたので、消防車はさきまわりをして、ゾウを待ちうけることにしたのです。その赤い車体が、電車通りのはるかむこうに、あらわれました。
ゾウは電車通りを三百メートルも走ると、横町にまがりました。消防車はそれを待っていたのです。二台は、大まわりをして、ゾウのゆくてに立ちふさがり、あとの二台はゾウのうしろから、せまりました。つまり、ゾウをはさみうちにしようというのです。
横町にはいると、ゾウはいくらか気がしずまったらしく、かける速度がにぶくなってきました。しかし、まだのそのそではありません。タッタッタッと、いきおいよく進んでいきます。
そのとき、ゾウのゆくてに、さきまわりをした二台の消防車が、横にならんで、とうせんぼうをしていました。そんなにひろい町ではありませんから、二台の消防車が横にならぶと、まったくすきがなくなってしまうのです。いくらゾウでも、あの大きな消防車を、とびこすことはできません。しかたがないので、ゾウはそこで立ちどまり、クルッとむきをかえて、うしろへひっかえそうとしました。
ところが、うしろをむくと、すぐそこに、べつの消防車が二台横にならんで、とおせんぼうをしていました。そこにも自動車のかべができていたのです。ゾウはめんくらって、また立ちどまり、もういちど、むきをかえて歩きだしましたが、五十メートルもいくと、さっきの自動車のかべです。そこでまたむきをかえる。そうして、ゾウは消防車と消防車のあいだを行ったりきたり、おなじところを、グルグルまわるほかはなくなったのです。
それよりすこしまえ、上野動物園のゾウつかいの名人が自動車でかけつけて、消防車のうしろに待ちかまえていました。またどこかへあそびに出かけていたサーカスのゾウつかいも、ラジオを聞いて、おどろいてかけつけました。
消防車で前後をふさがれ、グルグルまわっているうちに、だんだん気がしずまっているところへ、ゾウつかいがふたりもきたのですから、もうだいじょうぶです。ゾウは、なんなくゾウつかいに、つかまえられ、水や、えさをあてがわれて、すっかりおとなしくなってしまいました。
それから、ふたりのゾウつかいは、なるべくしずかな町を通って、ゾウをサーカスまで、つれもどすことができました。こうして、あれほどのゾウのさわぎも、ひとりのけが人も出さないで、ことなく、おさまったのでした。
さて、ゾウはもどりましたが、ゆくえしれずになった三人の人間がのこっています。
明智探偵は、あの大男と一寸法師は、サーカスのテントの中に、宝冠の少女は、神社の森の中に、ふしぎな魔術をつかって、かくれているというのですが、かれらは、いったい、どのようなかくれかたをしたのでしょうか。
明智は助手の小林少年に、ひとつの命令をあたえました。
小林君は、明智先生にたいしては助手ですが、少年探偵団にたいしては、指揮権をもつ団長です。
そこで、二十人の少年団員を指揮して、明智先生にかわって、三人の悪人をさがすことになるのです。
そこで、小林団長は二十人の団員を十人ずつふたくみにわけ、ひとくみの十人には、八幡神社の森の中を見はらせることにしました。宝冠の少女が、森のどこかにかくれていて、こっそり逃げだすといけないからです。のこる十人を、また五人ずつ、ふたくみにわけました。そして、ひとくみの五人には、サーカスの大テントの前に、いろいろな動物がならべてある中の、クマのおりの見はりを命じました。その鉄棒のはまったおりの中には、曲芸をする大きなクマがはいっているのです。なぜ、クマのおりを見はらせたか、そのわけは、やがてわかります。
小林団長と園井少年は、さいごの五人のひとくみの中にのこりました。そして、大テントの曲芸場から、がくやへ出入りするカーテンのところへ集まりました。
小林君はさきに立って、大きなカーテンをまくり、がくやの通路へはいっていきました。通路の両がわには、曲芸に使ういろいろな道具がおいてあります。
その中に、「玉のり」の大きな玉が五つころがっていました。土でできた重い玉で、白と赤のだんだらぞめになっています。その上に曲芸師の少女がのって、足でクルクルまわしながら歩きまわる、あの玉です。
「おや、ひとつだけ、でっかい玉があるね。巨人の玉だね。」
ひとりの少年が、五つの玉の中の、ひとつをゆびさしていいました。それだけが、直径八十センチもある、大きな玉なのです。
「これは、きっと、女の子じゃなくて、おとながのるんだよ。あの大男の道化師が、のるのかもしれないね。」
べつの少年がいいました。みんなが「灰色の巨人」のことを、考えているものですから、「巨人」とか「大男」とかいうことばが、つい口にでるのです。
小林団長は、そのとき、くちびるにゆびをあてて、みんなにだまるように、あいずをしました。そして、その大きな玉のそばへ近よると、両手で玉を動かしながら、なにかしらべようとしました。
すると、ふしぎなことがおこったのです。小林君が、ちょっと動かした玉が、そのまま止まらないでゴロゴロころがりはじめました。まるで、いきもののように、ひとりで、むこうのほうへ、ころがっていくのです。
少年たちは、それを見ると、びっくりして、立ちすくんでしまいました。
そこは、べつに、坂になっているわけではありません。ひとりでころがるどうりがないのです。しかも、玉のころがる速度が、だんだん早くなっていくではありませんか。
おばけ玉です。
少年たちは、「ワーッ。」といって、逃げだしそうになりました。
しかし、小林団長だけは逃げるどころか、そのおばけ玉を、追っかけて走りだしました。
「おい、みんな、追っかけるんだ。あの玉を、追っかけるんだ。」
団長の命令とあっては、逃げるわけにもいきません。少年たちは、団長のあとについて、おばけ玉のあとを追いました。
玉は、カーテンの外の、曲芸場の砂場へ出て、そのまん中にある、大きなまるい板ばりのぶたいへ、ころがっていきました。この板ばりの上で、いつも「玉のり」が、えんじられるのです。
白と赤のだんだらぞめの大きな土の玉は、まるで、目に見えぬ人間がその上にのってでもいるように、右に左に、ゴロゴロ、ゴロゴロ、板ばりの上をころげまわりました。
少年たちは、このふしぎなおにごっこに、だんだん元気づいて、いまは、「ワーッ。ワーッ。」と、ときの声をあげながら、おばけ玉を追っかけまわすのです。
ほんとうに、おにごっこでした。玉は、逃げよう、逃げようとする。少年たちは、逃がすまいと、さきまわりをして、とおせんぼうをする。そして、とうとう、おばけ玉は、少年たちに、四方から取りかこまれ、おさえつけられて、もう動けなくなってしまいました。
すると、そのとき、じつに、とほうもないことが、おこったのです。少年たちは、「ワーッ。」とさけんで、玉のそばから、とびのきました。
ごらんなさい! 土の玉が、まっぷたつに、われたのです。そして、モモの中から桃太郎がとびだすように、その玉の中から、へんなやつがとびだしてきたのです。
でっかい頭に赤白の運動帽をかぶり、赤いジャンパーに、はでなしまズボン、顔はおとなで、からだは子どもみたいなやつです。
「あっ、一寸法師だっ。」
それは、宝冠をぬすみ出した一寸法師でした。土の玉の中が、くりぬいてあって、そこが一寸法師のかくればになっていたのです。玉が、ひとりでころがったわけも、これでわかりました。小林団長が、ポケットから、よびこの笛を出して、ピリピリリッ……と、ふきならしました。
すると、ライトのむこうの方から、明智探偵と、中村警部と、数名の警官が、かけつけてきました。そして、一寸法師は、なんなく、つかまってしまったのです。
「おてがら! おてがら! さすがは少年探偵団だね。よく一寸法師を、さがしてくれた。」
中村警部が、ニコニコして、少年たちのてがらをほめました。
「これで、ひとりはつかまったが、あとにまだ、ふたりいる。小林君、しっかりやるんだよ。」
明智探偵が、小林団長のかたをたたいて、はげますのでした。明智は、じぶんがやれば、なんでもないのですが、こういうときに、小林君や少年団員たちに、じゅうぶん、てがらをたてさせてやろうと考えていたのです。
そのとき、ひとりの警官が走ってきて、中村警部に、ほうこくしました。
「あちらのオートバイ曲芸のおけの中に、クマがおちこんでいます。くさりをきって、逃げたらしいのです。」
それをきくと、「よしっ。」といって、明智探偵は、そのほうへ、かけだしました。小林君や少年団員たちも、そのあとにつづきます。中村警部と数名の警官は、一寸法師をとりかこんで、もとの場所に、のこっていました。
大テントのとなりに、小さいテントがあって、その中に、オートバイ曲芸の巨大なおけのようなものがすえてありました。それは直径五メートルもある、大きな深いおけで、オートバイ選手が、その内がわを、グルグルまわる、あの冒険曲芸のぶたいです。
巨大なおけの上の、外まわりに、板ばりの見物せきがあります。明智探偵と小林少年と、少年団員たちは、はしごをかけあがって、その見物せきにならび、おけの中をのぞきました。
深いおけのそこに、一ぴきのクマが、グルグル歩きまわっていました。鉄のくさりで、おりの中にしばりつけてあったのを、ひきちぎって逃げだしてきたのでしょう。はんぶんに、ちぎれたくさりが、あと足についています。
「じゃあ、こいつは、テントの前のおりをやぶって、逃げてきたのですね。」
小林君が、なにか、いみありげに、明智探偵の顔を見ました。
「そうらしいね。だが、あのおりの中にもまだクマがいるかもしれないよ。いってみてごらん。」
明智探偵がみょうなことをいいました。
「でも、このサーカスには、クマは一ぴきしかいないはずです。」
「それが、二ひきになったかもしれないのだよ。ためしに、見にいってごらん。」
明智探偵は、ときどき、こんなふしぎなことをいいます。しかし、それは、いつでも、けっしてまちがっていないのです。
小林少年は、ともかく、クマのおりをしらべるために、はしごをおりて、大テントの前へかけつけました。
見ると、そのおりのまわりには、さっき、クマの見はりをするように、さしずをしておいた五人の少年が集まっていました。そして、おりのなかには、ちゃんと、クマがいたではありませんか。
「あっ、小林さん。」
少年のひとりが、ふりむいて、声をかけました。小林君は、いそがしく、たずねます。
「きみたち、ずっと、ここにいたんだろうね。」
「うん、ここにいたよ。」
「そのクマは、一度も、おりを出なかったろうね。」
「もちろん、出るはずはないよ。」
「ふしぎだなあ。クマが二ひきになったんだよ。」
「えっ、二ひきに?」
「あっちに、冒険オートバイの大きなおけがあるだろう。あのおけのそこにも、一ぴきのクマがいるんだよ。足のくさりがちぎれてるから、おりから逃げたにちがいないんだ。」
小林団長は、うでぐみをして考えこみました。
「おやっ、そういえば、このクマの足には、くさりがついていないよ。ほらね。そして、おりのすみに、半分にちぎれたくさりがのこっている。へんだなあ。」
ひとりの少年が、それをゆびさして、いいました。
「それに、このクマ、ばかにでっかいじゃないか。まえからいたクマは、この半分ぐらいしかなかったよ。」
また、ひとりの少年が、それに気づいてさけびました。
「そうだ、こんな大きなクマじゃなかったね。」
小林少年も、そうおもいました。おりの中のクマは、オートバイのおけのそこにいたクマの二ばいもあるのです。
なんだかきみがわるくなってきました。いったい、どこから、こんなでっかいクマが、やってきたのでしょうか。ひょっとしたら、こいつが、もう一ぴきのクマを追いだして、このおりをせんりょうしたのかもしれません。
「このクマのかっこう、なんだか、へんだねえ。あと足が、いやに長いよ。かたわのクマかしら。」
ひとりの少年がいいました。いかにも、そういえば、どことなく、へんなかっこうです。小林君は、じっとクマの姿を見ていましたが、そのとき、決心したようにさけびました。
「そうだ。きっとそうだ。よしっ、先生と、おまわりさんを、よんでこよう。そして、こいつを、もっとよく、しらべるんだ。」
そして、そのばを、たちさろうとしたときです。おりの中のクマが、いきなり、あと足で立ちあがって、まっかな口をひらいて、ウオーッとうなりました。いまにも、少年たちに、とびかかってくるような、いきおいです。
みんなは、はっとして、おりの鉄棒のそばをはなれました。
すると、大グマは、前足でおりのとびらを、ガチャガチャいわせていましたが、またウオーッとうなって、大きなからだを、とびらにぶっつけたかとおもうと、それが、パッとひらいたのです。おりのとびらが、おおきくひらいてしまったのです。
少年たちは、わあっとさけんで逃げだしました。
クマは、ひらいたとびらから、おりの外へとび出し、いきなり八幡神社の森の方へかけ出していきました。
さっきはゾウが逃げだし、やっとそれをつかまえたかとおもうと、こんどはクマです。またクマ狩りを、はじめなければなりません。
小林団長は、よびこをとり出して、ピリピリ……と、ふきならしました。すると、テントの入口から、数名の警官がかけつけてきました。
「たいへんです。クマがおりをやぶって逃げたのです。ほら、あすこへ、走っていきます。」
それをきくと、警官たちは、腰のピストルをとり出して、走りだそうとしました。
「ちょっと、待ってください。」
小林君は、警官たちをとめて、なにかヒソヒソと、ささやきました。
「ね、だから、ピストルをうっちゃいけません。手でつかまえてください。そして……、ね、わかったでしょう。」
警官たちは、へんな顔をして、
「それは、まちがいないだろうね。」
と、ねんをおしました。
「だいじょうぶです。明智先生の命令です。」
「よしっ、それじゃあ……。」
というので、警官たちは、ピストルを、サックにしまい、そのまま、おそろしいいきおいで、かけだしました。小林君をはじめ、少年たちも、そのあとにつづきます。
大グマは、もう神社のうら門から、森の中へとびこんでいました。警官や少年たちが、うら門にかけつけたときには、どこにかくれたのか、そのへんにクマのすがたは見えません。みんなは、あちこちとさがしまわりました。
「へんだなあ。あんなわずかのまに、遠くへ逃げることは、できないはずだが。」
警官のひとりが、ふしぎそうに、つぶやきました。
すると、そのとき、小林少年が、空をゆびさしながら、とんきょうな声をたてました。
「あっ、あすこにいる。あの木の枝にのぼっている。」
見ると、クマは大きなカシの木の枝にとりすがって、下をにらんでいるのです。
「しかたがない。ピストルでおどかそう。」
警官は小林君とヒソヒソささやきあったあとで、腰のピストルをとりだし、空にむかって、一発ぶっぱなしました。
「こらっ、おりてこい。おりてこないと、うちころしてしまうぞっ。」
警官は、まるで、人間によびかけるように、どなりました。
すると、クマのほうでも、そのことばがわかったのか、うたれてはたまらないと、いわぬばかりに、木の枝の上でまごまごしていましたが、いきなり、ぱっと地上にとびおりたかとおもうと、すぐたちなおって、表門の方へかけ出しました。
少年たちは、「ワーッ。」といって逃げだしましたが、警官と小林団長は逃げません。ゆうかんにクマを追っかけていくのです。
クマは、木のみきのあいだをぬうようにして、ぐるぐる、逃げまわります。クマと人間のおにごっこです。
ふたりの警官が、さきまわりをして、木のかげに待ちぶせしました。おおぜいに追っかけられて、ちまよったクマは、それともしらず、ちょうどその方へ逃げていきます。
三メートルほどに近づいたとき、ふたりの警官は、ワーッとさけんで、木のかげからとびだし、クマの目の前に大手をひろげて、たちふさがりました。
クマはびっくりして、ひきかえそうとしましたが、うしろからは、べつの警官が追っかけてきます。はさみうちになってしまったのです。
さすがの大グマも、「しまったっ。」というように立ちすくむ、そのすきを見て、前とうしろから、三人の警官がとびかかっていきました。そして、くんずほぐれつの大格闘がはじまったのです。
そのころには、神社の境内を見はっていた少年たちも、みんな集まってきました。そして、格闘のまわりを取りかこんで、ワーッ、ワーッと、警官にせいえんをおくるのでした。
クマは大きなずうたいにしては、あんがいよわいやつで、しばらくすると、三人の警官にくみふせられ、地面にへたばってしまいました。
「ちくしょう! ほねをおらせやがった。いま、ばけのかわをはいでやるぞ。このへんに、ボタンがあるんだろう。」
クマの首のへんに、またがった警官が、みょうなことをいって、クマののどのあたりを手でさぐってなにかやっていたかとおもうと、こんどは、両手をクマの頭にかけて、いきなりぐいと、うしろの方へねじまげるようにしました。
すると、じつにおどろくべきことが、おこったのです。
大グマの頭が、うしろへすっぽりとぬけてしまい、それにつづいて、肩からせなかにかけて、ぐるぐると、かわがはがれていったではありませんか。
クマのかわが、はがれたあとから、あらわれてきたのは、おもいもよらぬ人間の上半身でした。
「わあっ、こいつ、サーカスの道化師の大男だっ。」
だれかが、さけびました。いかにも、それは、あの大男でした。まゆのこい、目の大きな、西郷さんの銅像みたいな大男でした。
かれは、いざというときのよういに、大きなクマのかわをもっていたのです。そして、それをかぶって、おりにはいり、大グマにばけて身をかくしていたのです。
少年たちは、ワーッと勝利のときの声をあげました。さきには玉にかくれた一寸法師をとらえ、いまはまた、クマにばけた大男をとらえることができました。あとには、あの宝冠をかぶった少女がのこっているばかりです。
「にじの宝冠」をかぶった少女が、神社の森のなかへ逃げこんだときには、神社の表門にも、うら門にも、少年探偵団員たちが見はっていたのですから、神社の外へは、ぜったいに逃げられなかったはずです。少女は神社の森の中の、どこかに、かくれているにちがいないのです。
そこで、少年たちは、さいごに、その少女の捜索をすることになりましたが、そのときは、もう日がくれて、あたりは、まっ暗になっていました。ことに神社の中は、大きな木がしげっていて、ところどころに、街灯が立っているばかりですから、この捜索は、じつにこんなんです。
小林団長は、神社の表門と、うら門にいる五人ずつの団員には、そのまま見はりをさせておいて、あとの九人の団員を、うら門の外へ集めました。
「これからサーカスの女の子を、さがすんだよ。みんな探偵七つ道具の中の、懐中電灯を出して。」
と命じました。探偵七つ道具というのは、少年探偵団員が、いつも身につけている小さい道具類で、万年筆型の望遠鏡、虫めがね、磁石、万能ナイフ、黒いきぬ糸のなわばしご(まるめると、ひとにぎりになってしまいます。)小型の手帳、万年筆型の懐中電灯などです。
少年たちは、その万年筆型の懐中電灯をとりだして、スイッチをおしました。すると、小林団長のをあわせて、十個の豆電灯が、ほしのように光って、そのへんがパッと明るくなったのです。
そのとき、ひとりの少年が、前にでて、小林団長に、よびかけました。
「団長、いくら懐中電灯があっても、あの広い、まっ暗な森の中を、さがすのは、むずかしいと思います。こんやは見はりのものだけのこしておいて、あすの朝、捜索したほうがいいと思います。」
いかにも、もっともなことばでした。広い森の中を、二十人の少年で、さがすのは、むりなはなしです。すると、小林団長がそれに答えました。
「そう思うのは、もっともだが、この捜索は夜のほうがいいんだよ。それには、わけがあるんだ。ぼくは明智先生から、あることを、おそわっているんだよ。だいじょうぶだから、ぼくの命令のとおりに、やってくれたまえ。」
そういわれると、だれも、異議をとなえるものはありません。そこで、小林少年は、つぎのように、さしずをしました。
「みんな懐中電灯を消して、ぼくについてくるんだよ。どんなことがおこっても、ぼくがつけろというまでは、懐中電灯をつけてはいけない。わかったね。それから、神社の中の、ある場所へいったら、みんなが、はなればなれになって、木のかげにかくれて、ぼくがよぶまで、じっと、待っているんだよ。へんなことがおこっても、むやみに、とびだしちゃいけない。いいかい。さあ、それじゃあ、出発!」
小林団長をあわせて十人の少年が、しずかに神社のうら門をはいっていきました。
うら門には、五人の少年団員と、三人の警官が、見はりばんをつとめていました。小林団長は、その人たちにむかって、
「きみたちは、やっぱり、ここで見はっててくれたまえ。おまわりさんにも、おねがいします。女の子は、ぼくたちで、きっと、見つけだしておめにかけます。もし見つけたら、よびこの笛をふきますから、そうしたら、おまわりさんたちも、かけつけてください。おねがいします。」
といいのこして、森の中へはいっていきました。警官たちは、中村警部から、まえもって、そのことを聞いていましたので、小林少年のことばに、うなずいて見せました。
十人の少年は、暗い森の中を、足音をたてないようにして、社殿の方へすすんでいきます。
やがて、社殿の前に出ましたが、外に大きな石のコマイヌが、ふたつ立っています。先にたって歩いていた小林団長は、うしろをむいて、ささやき声でいいました。
「みんな、ばらばらになって、かくれるんだ。そして、あのコマイヌを、よく見ているんだ。長くかかるかもしれない。でも、しんぼうづよく待っているんだよ。そのうちに、きっと、びっくりするようなことがおこるからね。しかし、なにがおこっても、ぼくが、命令するまでとびだしちゃいけないよ。」
そして、みんな、バラバラになれという手まねをしました。少年たちは、それぞれ、コマイヌのそばの木のみきのうしろへ、かくれました。小林団長も、社殿の高い床下に、身をかくして、じっと、ふたつのコマイヌをみつめていました。
コマイヌというのは、むかし中国からつたわってきた、神さまのばんをする石のイヌですが、イヌといっても、おまつりのシシのような、おそろしい顔をしています。この神社のコマイヌは人間ほどの大きさで、まえ足を立て、うしろ足をまげて、四角な石の台の上に、いかめしく、すわっています。石でそういうかたちが、ほってあるのです。
少年たちは、めいめいの、かくれ場所から、そのふたつのコマイヌを、じっと見つめていました。
長い長いあいだ、なにごともおこりませんでした。あたりはまっ暗で、しいんと死んだように、しずまりかえっています。遠くの街灯の光で、ぼんやりとコマイヌが見えています。それを、じっと見ていると、なんだか、えたいのしれない、まっ黒な怪物のように、おもわれてきます。
みんな、はなればなれになっているものですから、少年たちは、だんだん、こわくなってきました。うしろのやみの中から、おそろしいばけものが、しのびよってくるのではないかと、せなかが、ゾーッと寒くなってくるのでした。
そればかりではありません。黒い怪物のようなコマイヌが、いきなり動きだして、あのシシとそっくりのこわい顔で、こちらへ、とびかかってくるのかと思うと、いよいよ、おそろしくなってきました。
もう夜が明けるのではないかと、思うほど、長いあいだ待ちました。でも、ほんとうは、一時間もたっていなかったのです。
そのとき、じつにおそろしいことが、おこりました。
じっと見つめていると、石のコマイヌが動きだしたのです。右がわの方のコマイヌです。その黒い怪物のように見える石のイヌが、身動きしたのです。
少年たちは、気のせいではないかと、なおも見つめていますと、コマイヌの動きかたは、ますます、はげしくなってきました。もう気のせいではありません。たしかに、動いているのです。
少年たちは、キャッとさけんで逃げだしたいのを、じっと、がまんしていました。小林団長から、
「どんなことがおこっても、けっして、とびだしてはいけない。」
と命令されていたからです。おばけがこわくて逃げだしたといわれては、少年探偵団の名おれです。
やがて、コマイヌは、生きているように石の台からおりて、地面に立ちました。少年たちは、ギョッとして、いまにも、こちらへとびかかってくるのではないかと、木のみきのうしろで、身がまえをしました。
ところが、そのとき、じつにふしぎなことがおこったのです。コマイヌが地面にころがって、その中から、ひとりの人間が、はいだしてきたではありませんか。
石のコマイヌは、中が、からっぽになっていて、そこに、人間がかくれていたらしいのです。しかし、石のコマイヌの中が、くりぬいてあるはずはありません。
だから、コマイヌの中に、人がかくれているなんて、だれも考えなかったのです。
しかし、たしかに、コマイヌの中に人がかくれていました。しかも、その人がコマイヌをかぶって歩いたとすると、この石のイヌは、なんだか軽そうに思えます。石ではなくて、ほかのもので、できているのではないでしょうか。
でも、そんなことを、考えているひまはありませんでした。中から出てきた人間が、小さい女の子だったからです。しかも、その女の子は、サーカスで女王の役をつとめていた、あの少女と同じ服をきて、長ぐつをはいていました。そして、手になんだか、みょうな光るものを持っていました。暗い中でも、そのものだけは、遠くの街灯をはんしゃして、キラキラと光っているのです。
そのとき、ピリリリリ……と、笛の音が鳴りひびきました。社殿の床下に、かくれていた小林団長がよびこをふいたのです。
「みんな、あいつを、つかまえるんだ。あれはサーカスの女の子だっ。にじの宝冠を持っているっ。」
小林団長の声にはげまされて、少年たちは、かくればから、とび出していきました。少女は宝冠をだきしめて、表門の方へ逃げだしましたが、そちらに見はりをしていた五人の少年と、ふたりの警官がかけてくるので、おもわず、あとへひきかえす。てんでに懐中電灯をつけた少年たちが、四方から、これをとりかこむ。そこへ、うら門のほうからも、五人の少年と三人の警官がかけつけてきました。
こうして、かよわい少女は、たちまち、とらえられてしまいました。
それは、やっぱりサーカスの少女でした。手に持っていたのは「にじの宝冠」でした。
懐中電灯でてらしてみると、石のコマイヌと思ったのは、ショーウィンドーにかざってあるマネキン(人形)と同じつくりかたの、はりこのコマイヌだったことがわかりました。見たところ、石とそっくりにこしらえてあるので、昼間でも、それと気づかなかったのです。宝石どろぼうの「灰色の巨人」は、まえもって、石のコマイヌを、こんなにせものと、とりかえておいて、少女にそこへかくれるように教えたのでしょう。
しかし、明智探偵は、昼間から、それをうたがっていました。そして、じぶんがしらべるかわりに、少年探偵団に、てがらをさせるようにはからったのです。
少女は、警官に「にじの宝冠」をとりあげられて、そこに、泣きふしていました。少女はなにも知らなかったのです。わるものに、おどかされて、宝冠を持って逃げる役めをつとめたばかりでした。
そこへ、明智探偵と中村警部も、やってきました。中村警部は、宝冠がとりもどされたのを見ると、小林少年の肩をたたいて、ほめたたえました。
「やあ、えらいぞ小林君、それから少年探偵団の諸君、きみたちのおかげで、三人の犯人がつかまったし、宝冠もとりもどせた。警視総監にほうこくして、ほうびを出さなけりゃなるまいね。」
それから、明智探偵の方をむいて、
「これも、明智さんの、さしずがよかったからです。助手の小林君が、てがらをたてて、あなたもうれしいでしょうね。これで、さすがの灰色の巨人も、ぜんめつです。」
しかし、そうほめられても、明智探偵は、なんだか、うかぬ顔をして、こんなことをいうのでした。
「いや、ぜんめつしたと考えるのは、まちがいです。ほんとうの犯人は、まだつかまっていないのです。」
「えっ、つかまっていない? じゃあ、あの大男はなんです。これこそ灰色の巨人じゃありませんか。」
「いや、それが、まちがいのもとですよ。みんな、あの大男を灰色の巨人だと思いこんでいるが、どうもそうではなさそうです、ほんとうの犯人は、かげにかくれて、あんな大男をつかって、われわれを、ごまかしていたのです。ぼくは、この少女はもちろん、一寸法師も、大男も、たいした悪人じゃないと思いますよ。」
それを聞くと、中村警部や警官たちは、へんな顔をしました。犯人をとらえたと信じていたのが、そうでないといわれて、がっかりしてしまったのです。
この明智探偵の考えは、あたっていたでしょうか。そして、ほんとうの犯人というのは、いったい、どんなやつで、どこにかくれているのでしょうか。
それから、明智探偵と小林君が、園井正一少年をつれて、「にじの宝冠」を園井君のおとうさんのところへ返しにいくことになりました。
「園井君、どこにいるんだい、さあ、いっしょに、きみのうちへいこう。おとうさんは、きっと、よろこんでくださるよ。」
しかし、だれも、こたえるものがありません。
「園井君……。」
「正ちゃあん……。」
みんなが、声をそろえて、よびたてました。しかし、園井少年はどこにもいないのです。
「へんだなあ。どこへいったんだろう。みんな、懐中電灯をつけて、さがしてくれたまえ。」
小林団長の命令で、少年たちは、てんでに万年筆型の懐中電灯をつけて、そのへんを歩きまわりました。警官たちも、大きな懐中電灯で、森の中を、くまなくさがしました。しかし、園井少年はどこにもいないのです。
明智探偵のいうように、ほんとうの犯人が、ほかにいるとすれば、そいつが、やみにまぎれて、園井少年をさらっていったのではないでしょうか。もしそうだとすると、こんどは人間がぬすまれたのです。「にじの宝冠」どころのさわぎではありません。宝物はとりかえしても、だいじな正一君がいなくなったのでは、園井さんにもうしわけがありません。
そこで、中村警部は、近くの警察から、おおぜいの警官をよび集めて、探照灯まで持ちだして、神社の森や、そのまわりを、長いあいださがさせました。しかし、なんのかいもなかったのです。園井少年は、ついに発見されなかったのです。
明智探偵と中村警部は、園井君のおとうさんをたずねて、「にじの宝冠」を返し、正一君のゆくえ不明を伝えました。
「じつに、もうしわけありません。ぼくがついていて、こんなことになり、おわびのことばもありません。少年探偵団に、てがらをさせようとしたのが、いけなかったのです。まったく、ぼくのせきにんです。しかし、このおわびには、きっと、ほんとうの犯人をつかまえて、正一君をとりもどしますから、そのことは、ご安心ください。」
さすがの名探偵、明智小五郎も、この失策には、ただ、わびるほかはないのでした。
さて、そのあくる日、園井さんは、差出人の書いてない一通の手紙を、うけとりました。封をきって読んでみると、そこには、つぎのような、おそろしい文句がしるしてありました。
「にじの宝冠」はたしかにお返しした。そのかわりに、正一君を、しばらくあずかっておく。けっして、いたいめや、ひもじいおもいは、させないから、あんしんするがいい。なぜといって、正一君は、だいじな人じちだからね。といういみは、おれはまだ「にじの宝冠」を、あきらめていないということだ。あくまで宝冠がほしいのだ。そして、おれの美術館にかざりたいのだ。
だから、正一君は、「にじの宝冠」と、ひきかえでなければ、返さない。きみもこどもをひとりなくすよりは、宝冠をわたす気になるだろう。
きたる十一日、午後八時、きみは宝冠を持って、きみのうちを出る。そして東の方へ百メートルほどいくと、一台の自動車が待っている。きみが近づくと、ヘッドライトを、パッパッとつけたり、けしたりする。それがおれの自動車だと思え。運転手がドアをひらくから、きみはすぐにのればよろしい。それから、あるところまで自動車を走らせて、宝冠とひきかえに正一君をわたす。
明智小五郎や警察に知らせれば、おれにはすぐわかるから、正一君は永久にかえらないものと思え。
では、まちがいなく、このとおりにやるのだ。そうでないと、きみはもう、いっしょう、正一君にあえないだろう。
園井さんは、この手紙を見ると、宝冠をてばなすことに、かくごをきめました。いくら、たいせつな宝物でも、子どものいのちには、かえられないからです。
「灰色の巨人」は、明智探偵にも知らせてはいけないと書いていますが、園井さんはそれだけは、約束をやぶることにしました。こちらから、明智探偵の事務所をたずねたり、明智探偵に、うちへきてもらったりしたら、敵に感づかれるかもしれませんが、電話ならだいじょうぶです。電話だけで明智探偵に知らせて、名探偵の知恵をかりることにしました。
園井さんは、明智探偵に電話をかけて、電話口で灰色の巨人からの手紙を読みあげました。直通の電話ですから、だれもぬすみ聞きはできません。敵にさとられる心配は、すこしもないのです。
すると、明智探偵は、しばらく考えてから、答えました。
「あいてのいうとおりにしてください。あなたが『にじの宝冠』を持って、その自動車に乗るのです。賊は正一君にうらみがあるわけではありませんから、宝冠さえやれば、正一君はきっと返してくれます。また、あなたの身にも、危険はないと思います。」
「それじゃあ、みすみす宝冠を取られてしまうのですか。」
園井さんが、ふまんらしく、聞きかえしますと、明智は笑い声になって、
「いや、一度は、わたしても、じきに取りかえします。そこに計略があるのです。安心して、ぼくにおまかせください。こんどこそ、巨人をあっといわせてお目にかけます。十一日といえば、まだ三日ありますね。それまでに、あなたも、びっくりなさるようなことが、おこりますよ。まあ、見ていてください。」
名探偵が、それほどにいうものですから、園井さんも信用して、
「では、ばんじおまかせします。どうかよろしくねがいます。」
といって、電話を切りました。
そのよく日の朝、さっそく、園井さんを、びっくりさせるようなことがおこりました。
きたないふうをした、ひとりのくずやが、大きなくずかごをかついで、園井さんのやしきのうら門から、勝手口へ、ノコノコとはいってきました。あつかましいくずやです。
そこにいた女中さんが、あきれてくずやの顔をにらみつけました。
「くずはありませんよ。だまって門の中へ、はいってきてはこまります。さあ、早く出ていってください。」
と、しかりつけるように、いいました。すると、くずやは、ぶしょうヒゲのはえた、きたない顔を、きみわるくゆがめて、にやにやと笑いました。そして、いきなり、女中さんのそばによって、その耳に口をあてて、なにかボソボソと、ささやいたのです。女中さんは、こわくなって逃げだしそうにしましたが、逃げだすまえに、そのささやき声が聞こえてしまいました。
「えっ、じゃあ、あなたは……。」
女中さんが、とんきょうな声で、そういいますと、くずやはまた、うすきみわるく、にやにやと笑って、うなずいてみせるのです。
女中さんはおくの方へ、かけこんでいきました。そして、また、もとの勝手口へもどってきたときには、女中さんのほうも、にこにこ笑っていました。そして、ていねいに、くずやにおじぎをして、
「どうか、おあがりくださいませ。」
といって、おくの方へ、あんないしました。くずやは、きたないどたぐつを勝手口にぬいで、女中さんのうしろからついていきます。
通されたのは、りっぱな応接間でした。くずやはくずかごをそばにおいて、大きな安楽いすに、いばりかえって、どっかと、こしかけました。
そこへ主人の園井さんが、はいってきて、
「あなたが、明智さんですか。ほんとうに明智さんですか。」
と、うたがわしそうに、くずやの顔を、じろじろながめました。
「そうですよ。ぼくの変装は、なかなか見やぶれませんからね。じゃ、これをとりましょう。さあ、どうです。これなら、わかるでしょう。」
くずやはそういって、顔のぶしょうヒゲに指をかけると、それをめりめりと、ひきはがしました。顔の皮を、めくってしまったのです。その下から、あらわれたのは、たしかに明智探偵の顔でした。
園井さんは、あっといったまま、つぎのことばもでません。
明智は、ちょっとのあいだ、素顔を見せるとまた、つけヒゲを、顔にはりつけました。すると、もとのきたないくずやです。
くずやは、そばにおいたくずかごの、かみくずをかきわけて、二つの黒いウルシぬりの箱を取りだして、テーブルの上にならべました。そして、両方のふたをとると、いっぽうには、金色の王冠がはいっていて、もう一つの方は、からっぽの箱でした。
「この王冠は、れいのサーカスの少女たちがかぶっていた、メッキの王冠のひとつを、かりてきたのです。これが手品の種になるのですよ。しかし、このままではいけません。おたくの『にじの宝冠』とそっくりの形に、なおさなければなりません。十一日までには、まだ二日あります。そのあいだに、かざりやにたのんで、秘密にこれをなおさせるのです。それには『にじの宝冠』を見せなければなりませんが、あのたいせつな品を、外へ持ちだすのは危険ですから、ぼくが、ここで写生して、その絵をかざりやに見せて、なおさせることにします。」
くずやにばけた明智の説明を聞いて、園井さんは、みょうな顔をしました。
「にじの宝冠のかわりに、そのにせものを、巨人にわたして、ごまかすのですか。しかし、あのぬけめのないやつが、そんなにせもので、ごまかせるでしょうか。」
「いや、にせものを、わたすのではありません。あなたが持っていかれるのは、やっぱりほんものの方です。そして、あれをあいてにわたすのです。このにせものをつかうのは、そのあとですよ。正一君を取りかえしてしまったあとで、ちょっと手品をやるのです。それには、箱もおなじでないと、ぐあいがわるいので、銀色の箱のかわりに、この黒ウルシぬりの箱に、ほんものの『にじの宝冠』をいれて、持っておいでください。この箱も、手品の種のひとつなのです。この手品が、まんいち失敗しても、まだほかに、もっとたしかな手も考えてあります。その二つの計略で、かならず『にじの宝冠』を、取りかえしてお目にかけます。」
明智は、自信ありげにいうのでした。
「そのもうひとつの計略というのは、どういうことでしょうか。」
園井さんが、心配らしくたずねました。
「それは、しばらく、秘密にしておきます。やっぱり、ひとつの手品ですよ。魔法といったほうが、いいかもしれません。賊の自動車に、ほそい糸がつくのです。その糸が、どこまでものびていくのです。賊の自動車は、いくら走っても、その糸をたち切ることができないのです。」
明智は、なぞのようなことをいいました。まさか自動車に糸をむすびつけるわけではないでしょう。そんなことをしたって、すぐに切れてしまいますし、また、なんキロというような長い糸玉は、とても大きくて、かくしておけるものではありません。
園井さんは、このなぞをとくことができませんでした。しかし、明智が秘密にしておきたいというものですから、深くもたずねないで、名探偵の知恵を信用することにしました。
そこで、園井さんは「にじの宝冠」を、金庫から取り出してきて、テーブルの上におきました。明智は、やっぱりくずかごの中から、まるめた画用紙をとりだし、それをひろげて、えんぴつで写生を、はじめました。二十分ほどで、うつしおわると、テーブルの上の、からの箱だけをのこして、にせものの王冠は、もうひとつの箱に入れて、写生した画用紙といっしょに、くずかごの紙くずのなかにかくしました。
「では、十一日には、賊の手紙に書いてあったとおりにしてください。あとは、きっとぼくがひきうけますから、ご心配なく。」
と、ねんをおして、くずやは、かごをかついで、そのまま帰っていきました。
さて、名探偵の二つの手品は、いったい、どんなふうにして、おこなわれるのでしょうか。そして、それは灰色の巨人の怪物団を、うまくごまかすことができるのでしょうか。
いよいよ十一日の夜になりました。やくそくの八時すこし前に、園井さんのやしきの百メートルほど東の町かどに、一台の自動車が、ヘッドライトを消してとまっていました。運転手のほかに、うしろのせきにも、ひとりの男が乗っていました。
自動車から三十メートルほどはなれた電柱のかげに、ひとりの男がかくれるようにして、キョロキョロあたりを見まわしていました。明智探偵や警官などが、あとをつけてくるといけないので、灰色の巨人の部下のものが、見はりをつとめているのです。
そこは、両がわに、大きなやしきのコンクリートべいがつづいているさびしい町で、日がくれると、めったに人も通らないようなところでしたが、その暗やみの中を、向こうから、へんにヨロヨロする歩きかたで、ひとりの男が近づいてきました。
電柱のかげの見はりのものは、その男が園井さんではないかと、じっと目をこらしましたが、よく見ると、園井さんとはにてもつかない、きたならしい、こじきみたいな男でした。それが酒によっているらしく、口の中で、なにかブツブツいいながら、ちどり足で歩いてくるのです。
そして、電柱のまえまでくると、なにかにつまずいて、ヨロヨロと電柱のかげに、よろめいてきました。
そこにかくれていた男は、いそいで身をよけましたが、まにあいません。よっぱらいが、ころびそうになって、なにかにつかまろうとさしだした手が、男の服をつかんでしまったのです。
男は、「うるさいっ。」といわぬばかりに、かた手で、よっぱらいを、はらいのけようとしました。それが、いきおいあまって、なぐりつけたように感じたものですから、よっぱらいはだまっていません。
「やい、やい、なんのうらみがあって、おれをなぐりやがった。さあ、しょうちしねえぞ。けんかなら、あいてになってやらあ。さあ、出てこいっ。」
見はりの男は、とんだやつにつかまったと思いましたが、こっちも、けんかずきの悪ものですから、たちまち、取っ組みあいがはじまってしまいました。上になり下になりの大格闘です。
すると、そのとき、町のむこうの方から、まっ暗な、かげぼうしのようなものが、チョロチョロと走ってきて、そこにとまっている自動車のうしろに近づき、車体の下にもぐるようにして、なにかやっていたかと思うと、すぐに、そこからはいだして、またチョロチョロとかげのように、むこうの方へ走りさってしまいました。それは、子どもか一寸法師みたいに、ひどく小さいやつでした。
ちょうどそのとき、見はりの男は、よっぱらいと取っ組みあっていたので、まったくそれに気づきませんでした。また、自動車の中のふたりも、むこうの取っ組みあいを助けにいこうか、どうしようかと、その方ばかり見ていたので、やっぱり小さなかげぼうしのことは、すこしも知らなかったのです。
小さなかげぼうしが走りさってしまうと、いままで取っ組みあっていた、よっぱらいが、とつぜん、さっと身をひいて、そのまま、逃げるように走りだし、見はりの男が、あっけにとられているうちに、むこうのやみの中へ、姿を消してしまいました。
あのよっぱらいと、小さなかげぼうしとは、なかまだったのでしょうか。かげぼうしが自動車の下にもぐりこんで、なにかやるあいだ、見はりの男の注意を、そらしておくために、よっぱらいのまねをして、けんかを、ふっかけたのではないでしょうか。もしそうだとすると、あのよっぱらいとかげぼうしは、いったい、なにものだったのでしょう。
それはともかく、いっぽう、園井さんは、やくそくの八時になると、「にじの宝冠」を、明智のおいていった黒ぬりの箱にいれて、それをこわきにかかえて、門の前から、東へ百メートルほど歩いていきますと、そこに、ヘッドライトを消した自動車がとまっていました。それは、さっき、よっぱらいが、けんかをした、すこしあとのことです。
園井さんが自動車に近づくと、ヘッドライトが、パッパッと、二─三度、ついたり、消えたりしました。これが灰色の巨人の車だという、あいずでした。
そして、自動車のドアが、スーッと開き、中にいた男が手を出して、園井さんを引っぱりこむようにしました。いまさら逃げるわけにもいきませんので、引かれるままに中へはいりますと、ドアがしまり自動車は走りだしました。
「ちょっときゅうくつだが、目かくしをさせてもらいますよ。」
灰色の巨人の手下らしい男が、そういって、黒い手ぬぐいのようなもので、園井さんの目のところをしばってしまいました。園井さんに、いく先をさとられない用心です。
その自動車が、どこかへ走りさってしまって、五分ほどすると、うしろの方から、また、べつの自動車がやってきました。そして、灰色の巨人の自動車がとまっていたへんで、ピッタリ停車しました。
見ると、その運転席には、明智探偵がハンドルをにぎっています。うしろの客席には、小林少年と、大きなシェパードのイヌがのっていました。
明智は、車をとめると、注意ぶかくあたりを見まわして、あやしいものがいないことを、たしかめてから、自動車のそとに出ました。それを見ると、小林少年も、シェパードの綱を引いて、車からおりました。
「シャーロック、しっかりやってくれよ。こんやは、おまえが主人公だ。うまくいくかいかないか、おまえのはなしだいなんだぞ。」
明智探偵はイヌの頭をたたいていい聞かせました。シャーロックというのは、このシェパードの名まえです。明智が知りあいの愛犬家から借りだしてきたもので、警視庁にもよく知られた有名な探偵犬なのです。ですから名まえも、名探偵シャーロック=ホームズにちなんで、シャーロックとつけられていました。
「小林君、あれを。」
明智がいいますと、小林少年は、自動車のゆかにおいてあった、黒いドロドロしたもののついたぬのを指でつまんで、シャーロックのはなの前に持っていきました。プーンと、コールタールのはげしいにおいがします。
シャーロックは、そのコールタールをしませたぬのを、はなをクンクンいわせながら、しばらく、かいでいましたが、「もうわかりました。」というように、首をそむけるのをあいずに、小林君は、そのぬのを、もとの自動車の中にもどしました。
それから、イヌの首につないだ綱をにぎって、そのへんの地面をかがせましたが、あちこち歩いているうちに、シャーロックは、さっきのぬのと同じにおいをかぎつけたらしく、にわかにはりきって、はなを地面に近づけたまま走りだしそうにしました。綱がぴんとはって、そのはじをにぎっている小林君は、うっかりすると、ずるずると、引きずられそうです。
「よし、綱を車の前にしばりつけたまえ。」
明智のさしずで、小林少年は、自動車の前にイヌの綱をくくりつけました。そうしておいて、ふたりは車の中にもどり、明智はハンドルをにぎり、小林君は、客席においてあった、黒い四角なふろしきづつみを、だいじそうに、ひざの上にのせました。
明智も小林少年も、まっ黒なつめえりの服をきて、黒いくつ下に、黒いくつをはいていました。顔と手のほかは、全身まっ黒なのです。
ふたりは、どうして、そんなまっ黒な服をきていたのでしょう。また、小林君がひざの上にのせている、四角な黒いふろしきづつみは、いったい、なんだったでしょうか。読者諸君は、きっと、もうおわかりでしょうね。
探偵犬シャーロックは、地面にはなをくっつけて、ぐんぐん前に進もうと、あせっています。運転席についた明智は、ゆっくりと自動車を動かせました。シャーロックは、よろこんで走りだします。地面のにおいをかいで、どこまでも、どこまでも、そのあとを追っていくのです。
そのにおいは、さっき小林少年にかがされたコールタールと、おなじにおいにちがいありません。では、どうして、そんなにおいが、地面についているのでしょうか。
それは、「人間豹」の事件で、明智探偵が発明した「黒い糸」という、自動車のあとをつけるしかけでした。大きなブリキかんに、コールタールをいっぱいいれて、そのかんのそこに、はりで、ごく小さな穴をあけておくのです。そして、そのブリキかんを、自動車の車体の下へ、はりがねでくくりつけておくのです。
すると、コールタールが、かんのそこのはりの穴から、細い糸のように流れだし、自動車が進むにつれて、地面に、目にも見えないコールタールのほそい線が、どこまでも、つづいていくのです。そのかんには、四─五十分はもつほどの、コールタールがはいっていました。
探偵犬シャーロックの鋭敏なはなは、その糸のようにほそい、コールタールのにおいをかぎわけて、灰色の巨人の自動車のあとを追っているのです。
では、そのブリキかんを、だれが、いつのまに、賊の自動車に、くくりつけたのでしょうか。それはさっきの、ちいさなかげぼうしでした。つまり、小林少年だったのです。そして、見はりの男の注意をそらすために、よっぱらいのまねをしたのは、ほかならぬ明智探偵そのひとでした。
園井さんを乗せた賊の自動車は、ほそうされた、たいらな道路を五十分ほども走って、やっと停車しました。ずいぶん遠くへきたらしいのです。
「さあ、おりるんだ。これからさきは、車がはいらないから、歩くんですよ。」
園井さんのとなりに乗っていた、賊の部下が、そういって、園井さんの手をとって、自動車からおろしました。
園井さんは、宝冠の箱のはいっているふろしきづつみをかかえて、ひかれるままに、ついていきますと、いっぱい草のはえた登り道を、歩いていることがわかりました。草ばかりでなく、いろいろな木がはえているらしく、ズボンがその枝にひっかかるのです。そして、あたりは、森にでもはいったように、ひえびえとして、植物のにおいが強くただよっていました。
東京から一時間ぐらいのところに、山はありませんが、小さな丘くらいはありますから、そういう丘を登っているのだろうと考えました。
道らしい道もない森の中らしく、草や木の枝をかきわけて進むのですから、目かくしされている園井さんは、歩くのがたいへんでした。賊の部下は、そんなことはおかまいなく、じゃけんにぐんぐん手をひっぱるので、なんどもつまずいて、ころびそうになるのでした。十分ほども、そういう山道のようなところを歩きますと、こんどは、せまいほら穴の中へ、ひっぱりこまれました。
「ここから地下へもぐるんだよ。石のだんがついているが、せまいから気をつけて。」
賊の部下は、そういって、園井さんを助けながら、ゆっくりと、おりていきました。
穴の中を三メートルほどおりると、こんどはトンネルのような、よこ穴になりました。せまい穴なので、立って歩くことはできません。身をかがめて、はうようにして進まなければならないのです。
園井さんは、おそろしくなってきました。いったいこのほら穴は、どこへつづいているのでしょう。もうこのまま、うちへ帰れなくなるのではないでしょうか。
「正一は、地下室にとじこめられているのですか。」
とたずねますと、賊の部下は、ぶあいそうに答えました。
「そうじゃないよ。この道は、また登りになって、地面の上に出るのだ。あんたの子どもは、そこの、りっぱなコンクリートのたてものの中で、だいじにされているよ。」
すると、もうそこが登りの階段でした。せまい石のだんを、また三メートルほどはいあがり、広い場所に出ました。そして、二十歩ほども歩くと、いすのようなものにこしかけさせられ、目かくしをはずしてくれました。
目をひらくと、すぐまえに、りっぱなテーブルがあり、その上に、美しいほりもののある燭台がおかれ、五本のロウソクが、明るくもえていました。
テーブルのむこうがわには、まっ白なものと、まっかなものがありました。なんだかびっくりするようなものでした。よくみると、それはひとりの老人でした。まっ白なふさふさとしたかみの毛、胸までたれたまっ白なあごヒゲ、もう七十歳ぐらいの老人です。それがピカピカ光る、まっかながいとうのようなものをきて、大僧正でもかけるような、りっぱないすにこしかけているのです。赤いがいとうのえりのあたりに金糸のもようがあり、それに宝石が、たくさんついています。これも大僧正のきるガウンとそっくりの、きらびやかなものでした。
園井さんは、めんくらってしまいました。地下道を通って、べつの世界へきたような感じです。まるで、童話の国の王さまの前にでも、出たような気がするのです。
それから、部屋の中を見まわしますと、部屋そのものが、またじつにみょうな形をしていました。百畳もあるような、おそろしく広い部屋です。それが、四角ではなく、だえん形のいびつな部屋で、まわりのかべはコンクリートなのですが、それがまた、まっすぐではなくて、へんにまがっているのです。あるところでは、ぐっとくぼんでいるかと思うと、あるところでは、みょうに出っぱっているという、このごろはやる、新しい彫刻のような感じなのです。
それに、窓というものが、ひとつもありません。てんじょうは板ばりになっていて、その上が二階らしいのですが、二階への階段は、まがったコンクリート壁にそって、鉄ばしごのようなものが、ななめにかかっています。まるで、コンクリートの壁を、ヘビがはっているような感じです。
そのいびつな広い部屋のまわりには、宝石店のショーウィンドーのようなガラスだなが、ずらっとならんでいます。遠くて、よくは見えませんが、そのガラスだなの中には、赤や青やむらさきのビロードのケースにはいった金銀の美術品が、いっぱいかざってあります。それには、みな宝石がちりばめてあるらしく、キラキラと、美しくひかっているのです。宝石の首かざりや、うでわなども、ならべてあります。
じつにふしぎな家です。しかし、怪盗「灰色の巨人」のほんきょには、いかにも、ふさわしい場所です。怪盗は、じぶんの美術館にかざるために、「にじの宝冠」がほしいのだといっていましたが、たしかに、ここは、りっぱな美術館でした。
「その箱が、にじの宝冠ですか。お見せなさい。」
白ヒゲの老人が、しわがれた、おもおもしい声でいいました。
園井さんは、うっかり箱をわたして、取りあげられてしまってはいけないと思いましたので、
「これを見せるまえに、正一にあわせてください。正一とひきかえという約束ではありませんか。」
こちらも、強くいいはりました。
すると、老人はにやりと笑って、
「よろしい、わたしはけっして、約束はやぶりません。だれか、正一君をよんできなさい。」
と、うしろの方にさがっていた部下のものにいいつけました。すると、部下は、うやうやしく頭をさげて、鉄の階段を、二階へのぼっていきました。
それでは、正一は二階にかんきんされているのかと、園井さんは、じっと、その方を見ていますと、やがて、鉄の階段の上から、ひょいと、少年の顔がのぞきました。
正一君です。園井さんは、思わずいすから立ちあがりました。
正一君も、おとうさんの姿を見て、あっと小さなさけび声をたて、階段をかけおりてきました。そして、おとうさんのそばへいこうとしますと、よこから、賊の部下がとびだしてきて、正一君をだきとめました。
「まず『にじの宝冠』を見せてください。それが、ほんものだとわかるまでは、正一君をわたすことはできません。」
老人が、しずかにいいました。園井さんは、しかたがないので、ふろしきづつみをといて、黒ぬりの箱を出し、そのふたをひらいて、老人の前にさしだしました。
老人は「にじの宝冠」を手にとって、いかにもうれしそうに、長いあいだ、ながめていましたが、にせものでないことが、よくわかったらしく、深くうなずいて、
「ああ、じつに美しい、この光は、まったくにじのようじゃ。園井さん、たしかに『にじの宝冠』ちょうだいした。わしの美術館の宝物として、長く保存しますよ。それじゃあ、正一君を、おひきとりください。」
といって、部下に目でさしずをしました。部下はまた、うやうやしくおじぎをして、正一君を園井さんのそばへつれてきました。
「おとうさん!」
「正一、ぶじでよかったなあ。」
親子は手をとりあって、よろこびあうのでした。
それから、園井さんも、正一君も、また目かくしをされて、部下のものに手をひかれ、せまい地下道を通り、そこを出ると、森の中の草をふみわけて、丘をくだりました。そして、そこに待っていた賊の自動車に乗せられて、東京にもどり、神宮外苑のさびしい林の中で、おろされてしまいました。
園井さんと正一君は、目かくしをとって、どことも知れず走りさる賊の自動車を見おくってから、外苑を出て、大通りを走るタクシーをよびとめ、ぶじにおうちに帰ることができました。
それにしても、あのきみょうな形をしたコンクリートのたてものは、どこにあるのでしょうか。東京から一時間ばかりの丘の上。いったいその丘は、どこなのでしょうか。
お話はもとにもどって、こちらは、探偵犬シャーロックを自動車の前にくくりつけ、自動車には明智探偵と小林少年が乗りこんで、イヌの走るままに車を運転して、賊の自動車のあとを追っていました。
小林君が賊の自動車の下にコールタールのかんをつけておいたので、そのかんの針の穴から、タールが黒い糸のように流れ落ちて、道路にタールのにおいをのこしていきます。名犬シャーロックは、そのにおいをかいで、賊の自動車をついせきしているのです。
シャーロックは品川をはなれて、夜の京浜国道を、どこまでも走りつづけました。やがて、横浜をすぎ、さらに二十分も走りつづけますと、どうしたのか、シャーロックの速度が、だんだんのろくなってきました。さすがの名犬も、一時間以上、走りつづけたので、つかれてしまったのでしょうか。
「あ、わかった。コールタールの糸が切れたのですよ。あのかんは五十分ぐらいでからになってしまいます。ぼくたちは、ここまで一時間以上もかかったけれど、賊の自動車は全速力で走っていたので、ちょうどこのへんで、五十分ぐらいになったのです。だから、コールタールの黒い糸がつきてしまったのです。」
小林少年が、すばやく頭をはたらかせて、イヌの速度のにぶったわけを説明しました。
「うん、そうらしいね。しかし、もうすこしためしてみよう。黒い糸がたえてしまっても、まだタールのしずくが、ポツポツたれているかもしれない。シャーロックは、そのかすかなにおいを、かぎつけるだろう。」
明智探偵はそういって、自動車を徐行させながら、シャーロックの歩くにまかせておきました。
探偵犬は、しきりに地面をかぎながら、のろのろと、国道からわき道へまがっていきます。やっぱり明智探偵のいうとおり、そのほうに、コールタールのしずくが、たれているらしいのです。
しかし、そのしずくは、だんだん小さくなり、しずくとしずくのへだたりが長くなっていくので、シャーロックの苦心はひととおりではありません。長いあいだまよったあと、やっと、においをかぎつけて、すこしずつ進んでいくのです。
そうして、三百メートルほど進んだとき、いよいよ、においがなくなってしまったのか、シャーロックは、ぴったり、とまったまま動かなくなってしまいました。
「こんなことなら、もっと大きなコールタールのかんを、つけておくんだったね。」
明智探偵は、ざんねんそうにつぶやきましたが、まだ、あきらめられないらしく、
「ともかく、一度、おりてみよう。そして、シャーロックの綱を持って、このへんを歩いてみよう。」
と、小林君をうながしました。
そこで、ふたりは車をおり、にせ宝冠のふろしきづつみを明智がこわきにかかえ、イヌの綱は小林少年が持って、シャーロックの進むままに、そのへんを歩きはじめました。
そこは国道からそれた、ひじょうにさびしい場所で、かたがわは畑、かたがわは大きな森になっていました。それも平地の森ではなくて、小山のような丘で、ずいぶん深い森です。
シャーロックは、その森にそって、のろのろと歩いていましたが、ある場所にくると、なにか、ほかのにおいをかぎつけたらしく、いきなり森の中へ、ガサガサと、はいっていくのです。
大きな立木の下に小さな木がしげり、草がいっぱいはえていて、道もないところですが、シャーロックがどんどんはいっていくので、小林少年も綱にひかれて、そこへはいっていきました。明智探偵もあとにつづきます。
深い草や、足にまといつく下枝をかきわけて、しばらく丘をのぼりましたが、やっぱりだめでした。シャーロックは、きょとんとして、そこにうずくまったまま、まったく動かなくなってしまいました。
明智探偵は、なおも、そのへんを歩きまわって、しらべましたが、大きな立木ばかりで、家らしいものはどこにも見えず、こんなところに、賊のすみ家があろうとは思われませんでした。
ふたりは、とうとうあきらめて、いったん、ひきあげることにしました。こんどは、シャーロックも自動車に乗せて、全速力で東京に帰ったのです。
東京に帰ると、シャーロックを、もちぬしに返しておいて、すぐに園井さんのうちをたずねました。もう夜中の十二時でしたが、正一君がもどっているかどうか、それがなによりも心配だったからです。
園井さんのげんかんのベルをおしますと、女中がドアをあけて、すぐ応接室に通してくれましたが、まもなく、園井さんが正一君をつれて、ニコニコしながら、そこへはいってきました。
「やあ、おかげさまで正一は、ぶじにもどりました。べつに、ぎゃくたいもされなかったそうで、ごらんのとおり、こんなに元気です。」
園井さんがうれしそうにいいますと、正一君も、小林少年と、なつかしそうにあくしゅをして、明智探偵には、ピョコンとおじぎをしました。
「よかったですね。で、賊のすみかは、どこでした。その家はどんなふうでした。」
明智がたずねますと、園井さんは、こまったような顔をして、
「それがねえ、まるでけんとうがつかないのですよ。いきも帰りも目かくしをされていましたし、賊のすみかというのが、みょうな地下道をくぐってはいるような、かわったたてものでしてね。」
それから、賊の首領らしい、白ヒゲの老人のこと、ふしぎなたてもののことなどを、くわしく話しました。
明智はねっしんに、その話を聞いていましたが、やがて、なんと思ったのか、いきなり右手を頭にもっていって、指でモジャモジャのかみの毛を、ぐるぐると、かきまわしはじめました。これは、明智探偵が、なにかうまい考えが浮かんだときに、いつもやるくせでした。
そして、園井さんの話が終わると、こんどは明智が話をするばんでした。
「ぼくのほうは、しっぱいをしましてね。れいの黒い糸が、とちゅうで切れてしまったのですよ。」
と、さきほどのことを、てみじかに語り、
「ところで、あなたが賊の自動車に乗っておられたあいだは、どれほどだったでしょうか。」
とたずねるのでした。
「さあ、はっきりはわかりませんが、一時間はかかっていませんよ。五十分ぐらいでしょうか。」
それを聞くと、明智はまた、頭の毛に指をつっこみました。
「やっぱりそうだ。黒い糸が切れたのと、賊の自動車がとまったのと、ほとんどどうじだったのですよ。すると、やっぱり、横浜から二十分ぐらいむこうの、森のように木のしげった、あの丘があやしい。どうやら、あそこに賊のほんきょがあるらしい。」
「しかし、そんな丘の上に、あんな大きな、コンクリートのたてものがあるのでしょうか。」
園井さんが、いぶかしそうにいいました。
「いや、そこがおもしろいところですよ。灰色の巨人というやつは、いつでも、じつにきばつなことを考えます。その大きなたてものの秘密は、ぼくには、だいたいわかったように思われます。きっとそうです。じつに奇想天外です。あいつは、まるで魔術師みたいなやつです。園井さん、ご安心ください。『にじの宝冠』は、かならず、とりかえしてみせます。ぼくにはもう、賊のすみかがわかったのですからね。あいてが魔法つかいなら、こちらも魔法を使うのです。そして敵のうらをかいて、あの怪物をあっといわせてお目にかけます。」
明智探偵は、さも自信ありげに、「にじの宝冠」とりかえしの約束をするのでした。
さて、そのあくる日の朝早く、横浜から五キロほどむこうの、あの小山のような森の中に、ひとりのみょうな男が、うろうろしていました。ジャンパーに、茶色のズボン、とりうち帽をかぶり、黒いほそぶちの目がねをかけた、いなかから出てきた行商人といった、ふうていです。四角いはこのようなものをふろしきにつつんで、せなかにしょっています。その中には、富山のくすりなんか、はいっているのかもしれません。
その男は、道もない森の中を草をふみわけて、丘の上へのぼっていきましたが、道路から二百メートルものぼったところで、ちょっと立ちどまると、森の木のあいだから、むこうの方をすかして見て、にっこり笑いました。
この行商人のような男は、じつは明智探偵の変装すがたでした。いま、むこうの方を見て、にっこり笑ったのは、なぜでしょうか。そこには、いったい、なにがあったのでしょう。
園井さんが「にじの宝冠」とひきかえに、正一君をとりもどした、あくる日、園井さんの家へ、へんな男がたずねてきました。ジャンパーをきて、鳥うちぼうをかぶり、めがねをかけ、せなかにふろしきづつみをしょった、いなかの行商人みたいな男です。
女中さんがあやしんで、ことわろうとすると、その男は、女中さんの耳になにかささやきました。それを聞くと、女中さんはびっくりしたような顔で、おくへはいっていきましたが、すると、園井さん自身がげんかんへ出てきて、へんな男を応接間へ通しました。
「みごとな変装ですね。どう見ても、明智先生とは思えませんよ。」
園井さんは、感心したようにいいました。そのへんな男は、名探偵明智小五郎だったのです。そこへ正一君もやってきて、明智探偵にあいさつしました。
「園井さん、あなたをよろこばせる、おみやげを持ってきました。」
明智はそういって、ふろしきづつみをひらき、黒ぬりの箱をとり出して、そのふたをひらきました。すると、パッと目をいる、美しい光。
「や、それは『にじの宝冠』じゃありませんか。」
園井さんが、びっくりして、宝冠を手にとりました。
「ほんものです。きのう正一とひきかえに、賊にわたしてきた、ほんものの宝冠です。これをどうして明智さんが?」
「つい一時間ほどまえ、ぼくが賊のすみかにしのびこんで、そっと持ちだしてきたのです。かわりに、にせものの宝冠をおいてきましたよ。よくできているので、とうぶんは、賊も気がつかないでしょう。」
明智が説明しました。
「えっ? では、あなたは、賊のすみかを、つきとめられたのですか。」
「そうです。小林がよくはたらいてくれたのですよ。それで、警視庁の中村警部や刑事諸君といっしょに、賊のすみかへ、のりこむことになっています。」
明智はそういって、「にじの宝冠」を園井さんにわたし、そのまま、いとまをつげて、警視庁へいそぐのでした。
それから二時間ほどのち、横浜から五キロほどむこうの、れいの小山の森の中を、道路人夫のような、きたないふうをした七人の男が歩いていました。それは明智探偵と、中村警部と、五人の刑事の変装すがたでした。明智が、あんない役になって、これから賊のすみかへ、のりこもうとしているのです。
「明智君、こんな山の中に、賊のこもるようなたてものがあるかね。見わたしたところ、家らしいものは一けんもないじゃないか。」
人夫すがたの中村警部が、ふしんらしく、たずねました。
「灰色の巨人という賊は、奇術師だよ。だから、ちょっと、ふつうの人には考えられないような、きばつなことをやる。かれらのすみかも、じつに、きばつなたてものなのだ。」
おなじ人夫すがたの明智が、にこにこ笑って答えました。
「たてものといって、いったい、それはどこにあるんだい?」
「ここだよ、すぐ目の前に、立っているんだよ。」
「どこに、どこに?」
警部はキョロキョロあたりを見わたしましたが、どこにも、家らしいものはありません。
「ほら、あれだよ。むこうの木の上に、ニューッと頭を出して、灰色の巨人が、そびえているじゃないか。」
「えっ、灰色の巨人だって?」
「あまり大きすぎて、目にはいらないのだろう。あれだよ。あの大観音だよ。」
それはコンクリートでできた、高さ十数メートルの有名な観音さまの座像でした。小山の上にたてられ、森の木の上に、そびえているのです。
「観音さまなら、さっきから、見えすぎるほど、見えている。だが、あれは家ではないよ。人がすめないじゃないか。」
「ところが、すめるんだよ。あのコンクリートの仏像の中は空洞になっているんだ。賊は地下道をほって、下からその空洞の中へ出はいりしているんだ。そして、そこにりっぱな部屋を、つくっているんだ。」
ああ、コンクリートの大仏の中をすみかにするとは、なんという、ふしぎな思いつきでしょう。中村警部も、そばにいた刑事たちも、あっと、おどろいてしまいました。コンクリートの大仏ならば、いかにも灰色の巨人にちがいありません。人間のあだなだとばかり思って、大男などをさがしていたのですが、じつは賊のすみかの名まえだったのです。
そのとき、明智がむこうの方を指さして、みょうなことをいいました。
「中村君、見たまえ。ほら、あすこの木のねもとの草が、ユラユラ動いている。」
みんなは、その木のねもとを見ますと、たしかに、一ヵ所だけ、異様に草がゆれています。モグラでもいるのでしょうか。いや、モグラにあれほどの力はありません。もっと大きな動物が、地下から土をおしあげているのです。
「みんな、木のかげにかくれて、あすこを、よく見てください。」
明智はそういって、じぶんも大きな木のみきにかくれました。ほかの人たちも、それぞれ、木のかげにかくれました。
見ていますと、草の動きかたは、ますますはげしくなり、やがて、さしわたし五十センチほどの土が、草といっしょに持ちあげられ、その下に黒い穴ができました。そして、その穴の中から、ニューッと人間の顔が、あらわれたではありませんか。
その人間は、地面から顔だけ出して、あたりを見まわしていましたが、だれもいないと思ったらしく、やがて、穴の外へ全身をあらわしました。セーターをきて、大きな黒めがねをかけた、二十五─六の若ものです。
「あいつは賊の手下だ。しばってくれたまえ。」
明智がそっとささやきますと、中村警部は、部下の刑事にあいずをしておいて、まっさきに、木のかげからとび出していき、若ものの方へ、つかつかと近づくと、いきなりピストルを出して、「待てっ。」とどなりつけました。
若ものは、このふいうちに、びっくりして、両手をあげて立ちどまりましたが、すると、ひとりの刑事が、うしろからとびついて、カチンと、手錠をはめてしまいました。
「足をしばるんだ。それから、さるぐつわだ。」
警部のめいれいで、刑事は若ものをおしたおしておいて、ほそびきで、その足をグルグルまきにしばりあげ、てぬぐいで、さるぐつわをかませました。そして、若もののからだを、ゴロゴロころがして、木のしげみの中にかくしてしまいました。
「おどろいたね。あの中が、コンクリート大仏の体内への出入り口になっているんだね。」
中村警部がいいますと、明智は、うなずいて、
「そうだよ。けさもこの穴から出てきたやつがある。ぼくはそいつをとらえて、その男の服をきて、賊の手下にばけて、賊のすみかへ、しのびこんだのだ。そして、にせの宝冠と、ほんものの宝冠と、とりかえてきたんだ。そのときの賊の手下は、そのまま、ここの警察の留置場にほうりこんであるよ。
あの穴をはいると、せまいトンネルのような地下道が、大仏の下までつづいている。そこに広い部屋があって、賊の首領がいるんだ。長い白ヒゲをはやした、じいさんだよ。きみたちは、そいつをとらえてくれたまえ。部下もいっしょに、つかまえるんだね。いま、あすこにいるのは、三人か四人ぐらいのものだ。ぼくは、ほかに、ちょっと仕事があるので、ここでわかれるよ。」
「え、きみはどっかへ、いってしまうのか。」
警部が、おどろいて聞きかえしました。
「うん、むろん灰色の巨人にかんけいのある仕事だよ。それはね……。」
明智は警部の耳に、なにごとか、ささやきました。すると、警部は、いよいよ、おどろいた顔になって、
「ふうん、きみは、そこまで、しらべたのか。いつもながら、ぬけめがないね。よし、それじゃ、ぼくたちは、安心して、賊を攻撃する。きみのほうも、しっかりやってくれ。」
ふたりは、ちょっと、あくしゅをして、わかれました。そして、中村警部と、五人の刑事は、地下道の穴の中へ、はいっていきました。その中には、土の階段があって、それをおりると、まっ暗な、長い横あなが、つづいています。立ってあるけないほど、せまいトンネルです。人びとは、せなかをかがめ、はうようにして、そこを進んでいました。
コンクリート大仏の体内の、広い部屋には、まっかなガウンをきて、大僧正のような姿をした、白ヒゲの首領が、りっぱないすにもたれて、洋酒をのんでいました。前のテーブルには、めずらしい西洋のお酒のびんが、いくつもならべてあります。首領はそれを、つぎつぎと、グラスについで、さもうまそうに、ちびりちびりと、やっているのです。
首領は、グラスを口へ持っていこうとして、思わず、その手をとめました。なにかへんなもの音が、聞こえたからです。
その音は、部屋のすみに開いている、地下道の入り口からのように思われたので、首領はぎょっとしてその方をふりむきました。すると、そこに、見もしらぬ道路人夫のような男が六人、だまって、つっ立っていたではありませんか。
「だれだっ。きみたちは、いったい、なにものだっ。」
首領は立ちあがって、身がまえながら、どなりつけました。
「警視庁のものだ。きみをむかえにきたのだ。」
中村警部が、どなりかえすと、五人の刑事は、すばやく、賊の首領のまわりを、とりかこみました。
「警視庁から、おむかえか。ははは……、そいつは、光栄のいたりだね。だが、おれになんのつみがあるというんだ。」
白ヒゲの首領は、おちつきはらっています。宝石をちりばめた、まっかなガウンが、キラキラ光って、なんだか、近よりがたいような、りっぱなすがたです。
「灰色の巨人のいみが、わかったのだ。それをわれわれは、人間のあだなだとばかり思っていたが、そうではなかった。きさまたち、わるものの、すみかの名だった。このコンクリートの大仏は、たしかに灰色の巨人にちがいない。こんなへんなところに、すんでいるだけでも、きさまは、警察にひっぱられるねうちがある。まして、いま、世間をさわがせている宝石どろぼうと、わかっているのだから、もう、のがれることはできないぞ。見ろ、この部屋のガラスのケースの中の宝石は、みんな、きさまが、ぬすみ出したものばかりじゃないか。おとなしく手錠をうけろっ。」
中村警部の目くばせで、ひとりの刑事が、つかつかと前にすすみ、首領に手錠をはめようとしました。
「待ってくれ。こうなったら、おれは、もうひきょうなまねはしない。だが、ちょっということがある。この二階に子どもがひとり、かくしてあるんだ。おれや部下がひっぱられると、その子どもが、うえ死にする。こどもを助け出すあいだ、待ってくれ。」
首領はみょうなことをいいだしました。
「うそつけ。子どもは、きのう、にじの宝冠とひきかえに、園井さんに返したじゃないか。」
「いや、園井正一じゃない。じつは、もうひとり子どもを、ぬすみだしたんだ。その子どもが、秘密の部屋にかくしてある。外からかぎがかけてあるから、おれたちがいなくなれば、子どもはうえ死にしてしまうのだ。」
「その秘密の部屋は、どこにあるのだ。」
「二階のてんじょうの上だ。そこは、おれでなければ、ひらけないのだ。ひらきかたに秘密があるんだ。だから、きみたちは、おれについてきて、見はっていればいいだろう。けっして逃げやしない。逃げようにも地下道のほかには、逃げ道がないじゃないか。」
「よし、それじゃ、二階へいくがいい。ぼくたちが、厳重にかんしする。」
中村警部はそこで、刑事たちに、さしずをしました。
「こちらはぼくと、もうひとりでいい。あとの四人は、そのへんにかくれている手下のやつらを、ひっくくってくれたまえ。」
四人の刑事は、ばらばらと四方にわかれて、家さがしをはじめました。首領がつかまったのですから部下たちは、てむかいするものもありません。二階と下とにかくれていた四人の賊が、たちまち、つかまってしまいました。
中村警部と、ひとりの刑事とは、白ヒゲの首領といっしょに二階にあがりました。そこは、ふつうの二階ではありません。コンクリート大仏の内部に、板をはり、鉄の階段をつけて、上と下の二つにわけただけで、二階の部屋は、てんじょうが見あげるほど高く、上の方はうす暗くて、はっきり見えません。それに、大仏の首から上の内がわは、ぐっとせまくなって、ほら穴のような感じです。
「秘密の部屋は、どこにあるんだ。」
警部が聞きますと、首領は、そこの鉄ばしごを指さしました。それはコンクリートの壁にそって、まっすぐに、とりつけてある細いはしごで、大仏の肩と首のさかいめのへんまで、ズーッとつづいているのです。
「ここからは見えないが、あのはしごの上に秘密のドアがある。それは、おれでなければ、ひらくことができないのだ。きみたちは、このはしごの下で待っていてくれ。すぐに、おれが子どもをつれて、おりてくるから。」
首領はそういって、いきなり、はしごをのぼりはじめました。しらがのじいさんとは思えない、すばやさです。ちゅうとまでのぼると、足にまきつくガウンを、パッとぬぎすてました。するとガウンは、まっかな大きな鳥のように、ふわりと宙にういて、警部たちの前に落ちてきました。
首領は、ガウンの下に、ぴったり身についた黒ビロードのシャツと、ズボンをきていました。まるでサーカスの曲芸師のような、かっこうです。それが、サルのように身がるに、まっすぐのはしごをのぼっていくようすは、とても老人とは思われません。
はしごの下にいた刑事は、それを見て、なんだか心配になってきました。
「あんな高いところに、秘密の部屋があるなんて、うそじゃないでしょうか。あいつ、はしごをのぼってどこかへ逃げるつもりじゃないでしょうか。」
刑事は中村警部に、ささやきました。
「うん、そうかもしれない。なんだか、ようすが、おかしい。ぼくらも、のぼってみよう。」
警部は、そう答えたかとおもうと、すばやく、はしごにとびついていきました。そして、賊のあとを追って、スルスルと、のぼりはじめたのです。刑事も、すぐ、そのあとにつづきました。
なかほどまでのぼって、上を見ますと、はしごの頂上に、なにか黒い穴のようなものが見えました。電灯が暗いので、はしごの下からは、よく見えなかったのです。
賊の、首領は、その穴にむかって、まっしぐらに、のぼっていきます。
「待てっ。きさま、逃げるつもりだな。とまれっ、とまらぬと、うつぞっ。」
警部がピストルを出して、つつ口を、上にむけて、さけびました。
そこまでのぼると、はしごの頂上に、さしわたし六十センチほどの、丸い穴があいていることが、よくわかったからです。首領はその穴から、大仏の外がわへ、逃げだそうとしているのです。
警部がさけんでも、首領は、そしらぬ顔で、ますます、速度を早めてのぼっていきます。そして、とうとう、頂上までのぼりつき、穴のふちに手をかけました。
「待てっ。」
さけぶとどうじに、警部はピストルを発射しました。しかし、ころすつもりはないので、わざと、まとをはずしたのです。
曲芸師のような、まっ黒な賊の姿が、コンクリートの穴の外へ、パッと、とびだしていきました。
その穴は、大仏の首のへんにあるのですから、地上数十メートルの高さです。もし、そこから、とびおりたとすれば、賊のいのちはありません。
かれは、はたして、とびおりたのでしょうか。それとも……。
怪老人が、穴からそとへ逃げだしたときには、中村警部は、まだ、はしごのなかほどにいたので、とても、あいてを、つかまえることはできません。
てんじょうの小さな穴から、大仏像の肩の上に、とびだした怪老人は、そこに、はらばいになって、穴のそとから手をいれて、鉄ばしごのてっぺんが、コンクリートの壁にとりつけてあるのをはずして、両手で、はしごを、ユサユサとゆすぶりはじめました。
「あ、あぶない。係長、はしごがたおれますよっ。」
下にいる刑事が、大ごえをたてました。
怪老人は、ひとゆりごとに、はずみをつけて、はしごを、壁から、つきはなそうとしています。
中村警部は、ふりおとされないように、両手で、はしごに、しがみついていましたが、だんだん、はげしくゆれだして、はしごといっしょに、たおれそうになるので、とうとう、中段から下へ、とびおり、どさっと、しりもちをつきました。
ほとんど、それとどうじでした。長い鉄ばしごが、おそろしい音をたてて、サーッと、たおれてしまったのです。
そのとき、てんじょうの穴から、怪老人の顔がのぞいて、白ヒゲのなかの、まっかなくちびるが大きくひらき、気ちがいのような、笑いごえが、ひびいてきました。
「ワハハハ……、ざまあみろ。子どもがかくしてあるなんて、でたらめだよ。ここが、おれのさいごの逃げ道さ。これから、おれは天国へのぼるんだ。きみたちが、どんなにくやしがっても、ついてこられない。高い高い空へ、のぼるんだ。」
そして、老人の顔が、ぱっとひっこんだかとおもうと、パタンと音がして、てんじょうの穴が、まっ暗になってしまいました。そとから、ふたをしめたのです。
そこは大観音像の肩の上でした。怪老人は、コンクリートの大きな肩の上を、ヒョイヒョイと歩いて、仏像の巨大な頭へと、よじのぼりはじめました。
観音さまの頭のかぶりものに、うねうねしたひだがあるので、それを足ばにしてのぼるのですが、垂直のがけですから、まるで登山のロック=クライミングみたいなものです。よほど、冒険になれた人でなければ、のぼれるものではありません。
しかし、白ヒゲの怪老人は、まるで青年のような、すばやさで、そこをよじのぼり、とうとう、観音さまの頭のてっぺんに、あがってしまいました。
コンクリートの巨大な頭の上に、スックと立ちあがった怪人の姿!
ぴったりと身についた、黒のビロードのシャツとズボン、そのすらっとした姿が、なんのさえぎるものもない、広い広い青空のなかに、立ちあがっているけしきは、じつに異様な感じのものでした。
怪人は、両手を高くあげて、なにか、あいずのようなことをしました。そして、目の下に見える森をこして、そのむこうの広っぱのほうを、じっと、ながめています。
そこに賊のなかまが、かくれてでもいるのでしょうか。そのなかまにむかって、手をあげて、あいずをしたのでしょうか。
しばらくすると、森のむこうから、ブーンというかすかな音が、聞こえてきました。そして、そこから、大きなトンボみたいなものが、空中に浮きあがってきたのです。それは、一だいのヘリコプターでした。すきとおった、大きなまるい操縦席が、とほうもなく、でっかい目玉のように、キラキラ光っています。
それを見ると、コンクリート仏の頭のうえの怪老人が、また、両手をあげて、あいずをしました。
ヘリコプターは、あおあおと晴れわたった空を、だんだん、こちらへ近づいてきます。
ヘリコプターの操縦席には、賊の部下が乗っているのにちがいありません。怪老人が、警官にとりかこまれても、へいきでいたのは、これがあったからです。ヘリコプターで、逃げだすという、さいごの切りふだが、ちゃんと用意してあったからです。
しかし、怪老人は、いったいどうして、このヘリコプターに乗りこむのでしょう。ヘリコプターを、地上へおろすことはできません。そこには警官隊が、待ちかまえているからです。仏像のなかの一階にのこった三人の刑事は、賊の部下をとらえてから、近くの警察署へ、電話で、ことのしだいを、しらせましたので、はやくも十数名の警官隊が、仏像のまわりに、かけつけていたのです。
「ワーッ。」というときの声が、はるか下のほうから、わきあがってきました。警官隊が、仏像の頭の上の怪老人にむかって、くちぐちに、なにかわめいているのです。
怪老人は、それを見おろして、白ヒゲの中のまっかな口を、いっぱいにひらいて、カラカラと笑いました。そして、右の手をひらいて、おやゆびを鼻のあたまにつけ、五本の指をヒラヒラと動かして見せました。
「やーい、ざまを見ろ。ここまで、のぼってこれないだろう!」
と、からかっているのです。
警官隊は、くやしいけれども、どうすることもできません。消防自動車の、くり出しばしごがあれば、仏像の肩まで、とどくかもしれませんが、いまから電話をかけにいったのでは、とても、まにあいません。ただ、下から「ワーッ、ワーッ。」と、さわいでいるばかりです。
そのとき、ヘリコプターは、もう仏像の頭の上にきていました。そして、そこの空中にとまってみょうなことをはじめたのです。
まるいすきとおった操縦席の出入り口がひらいて、そこから長い縄ばしごが、サーッと、おろされました。縄ばしごは空中にブランブランと、ゆれています。
仏像の頭の上の怪老人は、そのほうに手をのばしましたが、なかなか、とどきません。ヘリコプターは、空中で、すこしずつ、あちこちと動いて、老人に縄ばしごを、つかませようとします。じつにあぶない曲芸です。下から、それを見あげている警官たちは、おもわず、手にあせをにぎりました。
あっ、あぶない! あっ、もうすこしだっ! いくら悪ものでも、あの高いところから落ちたら、たいへんです。うまく、縄ばしごに、つかまってくれるようにと、いのらないではいられませんでした。
あっ、うまくいったぞっ!
怪老人は、とうとう縄ばしごのはじに、とりつきました。そして、それをのぼりはじめたのです。
長い縄ばしごは、ブランコのように、はげしくゆれています。高い空の上で、それをのぼるのは、サーカスの空中曲芸よりも、むずかしくて、あぶないのです。
怪老人は、若い曲芸師のような、しっかりした身のこなしで、縄ばしごを、一だんずつ、のぼっていきます。ブランブランゆれながら、のぼっていくのです。
ああ、よかった。とうとう、操縦席にたどりつきました。そこにいた、若い操縦士が、老人の手をとって、中にひきあげ、そのあとで、縄ばしごも、ひきあげてしまいました。
ヘリコプターは、きゅうに動きだし、東京のほうにむかって、とびさっていきます。まるいすきとおった操縦席には、怪老人とその部下が、ならんで、こしかけているのが見えました。しかし、その姿も、ヘリコプターが、遠ざかるにしたがって、だんだん小さくなり、見わけられなくなり、そして、しばらくすると、ヘリコプターそのものが、眼界から消えさってしまいました。
ヘリコプターの操縦席では、怪老人と操縦士が、笑いながら話しあっていました。
「ワハハ、……警察のやつらの、くやしがっているのが、豆つぶのように見えるぞ。ざまを見ろ。ワハハハ……。明智探偵のやつ、灰色の巨人の秘密を、さぐりだしたのはいいが、おれをつかまえることができなかったじゃないか。さすがの名探偵さんも、ヘリコプターとは、気がつかなかったらしいね。」
怪老人がいいますと、部下の操縦士も笑いだして、
「空中に逃げるのは、首領のくせですからね。いつかは、デパートの屋上から、アドバルーンで、品川おきへ逃げだしたし、こんどはヘリコプターです。そこへ気がつかないとは、よっぽど、ぼんくら探偵ですよ。……しかし、ねえ、首領、あのたくさんの宝石を、のこしてきたのは、ざんねんです。首領がながいあいだに、ためこんだ宝石が、みんな警察にとりあげられるじゃありませんか。」
操縦士は、三十五─六歳のすばしっこそうな男でした。かわの飛行服をきて、飛行めがねをかけ、その下から黒いチョビひげが見えていました。怪老人に、いちばん信用されている長野という部下です。
「うん、それはざんねんだが、宝石まで持ってにげる、よゆうがなかった。なあに、あれぐらいの宝石は、またすぐに、ぬすんでみせるよ。なんにしても、明智のやつを、あっといわせたのが、ゆかいだ。あいつには、いつも、さいごに、やられているからね。ところが、こんどは、そうはいかなかった。あいつ、さぞくやしがっているところだろうて。」
「いいきみですね。ところで、首領、明智はどこにいましたかね。首領をとらえにやってきた人数のなかに、明智がいましたかね。」
「いや、いなかった。それが、ちょっと、ふしぎなんだ。やってきたのは、中村警部と五人の刑事だけだった。」
「へえ、そいつは、おかしいですね。すると、あの探偵さんは、いまごろ、どこにいるんでしょう? なんだか、うすきみがわるいですね。」
「うん、おれも、それが、なんとなく、気がかりなんだよ。」
ヘリコプターは、町や村の上を通らないようにして、山づたいに、東京都の西のはじの奥多摩の方にむかって、すすんでいました。目の下には、山々の、こんもりしげった森と、あかい地肌とが、まだらもようになって、小さく見えています。
「首領にうかがいますがね。デパートの屋上からアドバルーンで逃げだしてからあとの、首領のやりかたは、ひどく、はでやかでしたね。宝石を手にいれることよりも、うでまえを、見せびらかすのが目的だったように見えますね。そのあいては、明智小五郎だったのじゃありませんか。うらみかさなる明智のやつを、あっといわせて、どうだ、こんどは、おれが勝ったぞと、いいたかったのでは、ありませんか。」
部下がそうたずねますと、怪老人は深くうなずいて、
「むろんだよ。宝石もほしかったが、明智をやっつけるのが、第一の目的だった。あいつは、おれのしょうがいの、かたきだからね。」
「へえ、そうですかい。しかしね、首領、明智のほうでは、負けたとは思っていないかもしれませんぜ。首領は、うまく逃げだしたと思っていても、明智は、首領をつかまえたと、考えているかもしれませんぜ。」
部下の長野が、みょうなことをいい出しました。
「なんだって? 長野、きさま、どうしたんだ。へんなことをいうじゃないか。それはどういういみだ。もう一度、いってみろ。」
怪老人は、ぎょっとしたように、長野の顔を見つめました。
「なんどでもいいますよ。明智は、ちゃんと、首領を、つかまえているんです。」
「ワハハ……、ばかなことをいうな。おれはこうして、明智の手のとどかない、空の上にいるじゃないか。どうして、つかまえることができる?」
「ところが、手がとどくかもしれないのです。ハハハ、……おい、二十面相! それとも、四十面相といったほうが、お気にいるかね。もういいかげんに、そのしらがのカツラと、つけヒゲをとったらどうだね。そうすれば、ぼくも、素顔を見せてやるよ。」
そういったかと思うと部下の長野は、左手で飛行帽をぬぎ口ヒゲをむしりとり、素顔を見せました。
「あっ、き、きさま、明智小五郎だなっ。」
部下だとばかり思っていた男が明智探偵だったと知って、怪老人はあっけにとられてしまいました。
「きみの部下の長野君は、観音像のむこうの森のなかに、手足をしばられて、ころがっているよ。そうして、ぼくが入れかわったのさ。ヘリコプターの操縦ぐらい、ぼくだってこころえているからね。さあ、そのカツラを、とるんだっ。」
パッと明智の左手がのびて、となりにこしかけていた怪老人のカツラと、つけヒゲが、むしりとられ、その下から、わかわかしい顔があらわれました。四十の顔をもつという男ですから、どれがほんとうの顔かわかりませんが、それは四十面相のひとつに、ちがいなかったのです。
正体をあばかれた四十面相は、そうなると、もう、ずぶとく落ちついて、笑いだしさえしました。
「ウフフフ……、こいつは、おどろいた。さすがは名探偵だねえ。だが、どっちが勝ったかということは、まだわからないぜ。ところで、きみはヘリコプターを操縦している。ハンドルから手をはなしたらきみもおれも、おだぶつだ。それにひきかえ、おれのほうは、両手が自由なんだからね。どうやら、こっちに、勝ちめがありそうだぜ。ほら、これだ。」
四十面相は笑いながら、ポケットから、ピストルをとりだして、明智のわきばらにさしつけました。
「ハハハ……、とうとう、とび道具とおいでなすったね。きみは人殺しは、ぜったいにしないと、いばっていたじゃないか。だから、きみはピストルはうてないのだ。うっても、たまのほうで、えんりょしてとび出さないのだ。ハハハ……、よくそのピストルをしらべてごらん。たまがはいっているかね。」
四十面相は、それをきくと、ハッとして青くなりました。そして、いそいでピストルをしらべましたが、どうしたわけか、たまは一発も、はいっていないことがわかりました。
「ハハハ……、どうだね。ぼくは、けさ早くきみのもうひとりの部下にばけて、仏像の体内へ、はいっていった。そして、『にじの宝冠』を、にせものと、とりかえたんだが、そのまえに、きみと話しているあいだに、きみのポケットから、そっとピストルをぬきとって、たまをすっかりとりだしてしまった。きみは、そのからっぽのピストルを、いままで、だいじそうに、持っていたのだよ。ハハハ……。」
それをきくと、四十面相はくやしそうに、はがみをして、ピストルを、足もとへたたきつけました。
「こんどは、ぼくのばんだよ。さあ、しずかにしたまえ。」
明智が、ピストルをとり出して、ぎゃくに、四十面相につきつけるのでした。
すると、そのとき、ふたりのうしろに、おいてあった、カーキ色のきれでつつんだものが、ムクムクと動きだして、なかから、かわいらしい少年の顔が、あらわれました。四十面相は、なにか機械がつつんであるのだろうと、気にもとめなかったのですが、じつは、そこに小林少年がかくれていたのです。
小林少年は、かぶっていたきれをはねのけると、用意していたはりがねを、大きなわにして、パッと四十面相の頭の上からかぶせ、それをぐっとひきしめて、両手を動かせないようにしてしまいました。
四十面相は、すっかり、ゆだんしていたので、この、うしろからの攻撃には、なんの手むかいもできず、まんまと、両手をしばられてしまいました。小林少年は、リスのように、すばしっこく働いて、つぎつぎと、はりがねをとり出し、あっというまに、四十面相の両ほうの足くびをしばり、ひざをしばり、まったく、身うごきができないようにしてしまいました。
これが怪人四十面相のさいごでした。あとは、かれを警察にひきわたせばよいのです。
ヘリコプターは、にわかに、方向をかえて、東京のまちにむかいました。そして、四十分もたたないうちに品川駅が、目の下に見えてきました。それから、新橋駅、東京駅、日比谷公園、警視庁。
ヘリコプターは、警視庁の上空を、グルグルと、せんかいしながら、だんだん高度をひくめていきました。警視庁の屋上や中庭に、たくさんの警官が出て、ヘリコプターを見あげています。「四十面相をたいほした。このヘリコプターは、警視庁の中庭に着陸する。明智小五郎」と書いた紙を、プラスチックの筒に入れて、なげおろしたからです。
ヘリコプターは、いくども、せんかいをつづけたあとで、しずかに、中庭に着陸しました。それを見ると、何十人という警官が、四方からかけよって、ヘリコプターを、とりかこみました。
怪人四十面相が、ぶじに、警官の手にひきわたされたことは、いうまでもありません。そして、あくる日の新聞に、明智探偵と小林少年の写真が、大きくのって、そのてがらばなしが、書きたてられたことも、これまでのいろいろな事件の時と同じでした。
底本:「灰色の巨人/魔法博士」江戸川乱歩推理文庫、講談社
1988(昭和63)年3月8日第1刷発行
初出:「少年クラブ」大日本雄辯會講談社
1955(昭和30)年1月号~12月号
入力:sogo
校正:茅宮君子
2017年6月19日作成
2017年7月31日修正
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