鉄塔の怪人
江戸川乱歩
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明智探偵の少年助手、小林芳雄君は、ある夕方、先生のおつかいに出た帰り道、麹町の探偵事務所のちかくの、さびしい町を歩いていました。
麹町には、いまでも焼けあとの、ひろい原っぱがのこっています。かたがわは、草のはえしげった原っぱ、かたがわは、百メートルもつづく長いコンクリートべい。もう、うすぐらくなったその町には、まったく人どおりがありません。気味がわるいほど、しずまりかえっています。
ヒョイと、コンクリートべいのかどをまがると、そこに、みょうなものがありました。車の上に、四角い、大きな箱のようなものがのせてあって、その箱のまえがわに、三センチほどの、小さな丸い穴がよこに五つならんでいるのです。そして、その車のそばに、ひとりの白ひげのじいさんが、立っていました。
頭も白く、口ひげも白く、そのうえ、ながいあごひげが胸までたれ、しわくちゃの顔に、昔はやった、小さな玉のめがねをかけ、そのおくに、ゾウのようなほそい目がひかっています。着ているのは、三十年もまえにつくったような、古いかたの、はでなこうしじまの洋服で、それに、でっかいドタぐつをはいて、腰のうしろで両手をくみ、ニヤニヤ笑いながら立っているのです。
人どおりもない、こんなさびしい町かどで、なにをしているのだろうと、小林君は、おもわず立ちどまって、そのみょうなじいさんの顔をながめました。
「ハハハ……、おいでなすったね。わしは、さっきから、きみのくるのを待っていたんだよ。」
じいさんは、歯のぬけた口を大きくひらいて、顔じゅうを、しわだらけにして笑いました。
「ぼくを、待ってたって? 人ちがいじゃありませんか。ぼくは、おじいさんを見たことがありませんよ。」
小林君が、びっくりして、いいますと、じいさんは、まじめな顔になって、
「いや、人ちがいじゃない。きみに見せたいものがあるんだ。この箱は、なんだか知っているかね……。知るまい。いまから三十年も四十年もまえの子どもたちが、よろこんで見たものだ。のぞきカラクリといってね。まあ、いまの紙しばいみたいなものだが、ほら、そこに、丸い穴があいているだろう。その穴から、のぞくのだ。そうすると、おもしろいけしきが見える。穴にはレンズがはめてあるから、なかのけしきが、まるで、ほんとうのけしきのように、大きく見えるのだよ。さあ、のぞいてごらん。」
小林君は、昔のぞきカラクリというものがあったことを、きいていました。これが、それなのかとおもうと、ちょっと、のぞいてみたいような気もするのです。そこで、おもいきって、五つならんでいる丸い穴のひとつに、目をあててのぞいてみました。
小林君は、あっとおどろきました。じいさんがいったとおり、レンズのはたらきで、箱の中には、まるで、ほんとうのけしきのように、ひろびろとした、山や森がひろがっていたからです。
飛行機にのって、大きな山を、上のほうから、ながめているようなけしきでした。たぶん、オモチャの木なのでしょう。それが何百本も森のようにかたまっていて、ほんとうの深山を見ているようです。
そのふかい森の中に、黒いたてものが立っています。西洋のお城のような、まるい塔のあるたてものです。それが、ぜんぶ鉄でできているように、まっ黒なのです。そのお城も、紙か、うすい鉄板でつくった、オモチャなのでしょうが、レンズのかげんで、まるで、ほんとうのお城のように見えるのです。
「よく見なさい。きみはいま、日本のどこかにある山の中を、のぞいているんだよ。鉄の城が見えるだろう。これも、ほんとうに、その山の中にあるのだ。ほーら、どうだね。ふしぎなことが、おこってきただろう。」
じいさんが、しわがれ声で、そんなことをつぶやきました。すると、のぞきカラクリのお城に、ギョッとするような異変がおこったのです。
お城のまるい塔の上に、なにかがモゾモゾと動いているのが見えました。それが、塔のふちをのりこえて、塔の壁をジリジリとはいおりてくるのです。
それは、おそろしくでっかい、一ぴきの黒いカブトムシでした。塔の窓の大きさにくらべると、そのカブトムシは、人間ほどもあります。
人間ぐらいの大きさのカブトムシが、塔をはいおりてくるのです。頭のてっぺんから、一本の黒い大きなツノが、ニューッと、つきだしています。小林君は、それを見て、西洋の怪談にでてくる、一角獣という怪物をおもいだしました。大きさといい、形のおそろしさといい、カブトムシというよりも、一角獣の怪物といったほうが、ふさわしいのです。
この巨大なおばけカブトムシは、やがて塔をはいおりると、森の中を、だんだん、こちらへ近づいてきました。すると、森のしげみの中から、ヒョイと、とびだしたものがあります。一ぴきのシカです。怪物を見て、にげだしたのです。そのシカが、カブトムシより小さく見えたのですから、怪物の大きさがわかるでしょう。
カブトムシは、シカの姿を見ると、いきなり、おそろしいかっこうで、とびかかりました。まるで大グモが、巣にかかったハエに、とびかかるような、ものすごいいきおいでした。シカは、カブトムシのがんじょうな前足に、おさえつけられて、そこへ、よこだおしになってしまいました。おそろしさに、身うごきもできないで、死んだようになっています。
シカが動かなくなったのを見ると、怪物カブトムシは、ひと足あとにさがって、あの大きなツノを、グッと下にむけて、シカのよこばらめがけて、パッとつきかかっていくのでした。
小林君は、のぞき穴から、目をはなしました。おそろしくて、見ていられなかったのです。目をはなして、あたりを見ると、そこは、もとの夕ぐれの町でした。原っぱがあり、コンクリートべいがあり、のぞきカラクリの箱をのせた車、白ひげのじいさん。ああ、よかった。いまのは、ほんとうのけしきではなかったのだと、胸をなでおろしました。まるで、こわい夢を見たあとのような気持です。
まさか、この箱の中に、あんな山や森があるはずはありません。みんなオモチャのつくりものです。カブトムシもシカも、オモチャで、かんたんな機械じかけで、動いていたのでしょう。それが、レンズのかげんで、いかにも、ほんとうのように見えたのです。
「ハハハ……、どうだね。おもしろかったかね。」
白ひげのじいさんは、小林君の顔を見つめて笑いました。そして、ふしぎなことをいうのでした。
「いまのけしきを、よくおぼえておくんだよ。これは、のぞきカラクリだが、ほんとうに、こういう山や森があるんだ。黒いお城も、あのでっかいカブトムシもね。……きみは、いまに、きっと、おもいあたるときがある。やがてこの世に、おそろしいことが、おこるのだ。ウフフフ……、それじゃ、小林君アバよ。」
じいさんは、そういいすてて、車のハンドルをにぎると、そのまま、むこうへ、遠ざかっていき、やがて町かどをまがって見えなくなってしまいました。ふしぎなことに、のぞきカラクリをのせた車は、すこしも音をたてませんでした。そして、じいさんと車とは、まるで、夕もやのなかへ、とけこんでいくように感じられたのです。
小林少年は、ぼうぜんとして、もとの場所に、つっ立っていました。なにかキツネにばかされたような気持です。いまのは、ほんとうのできごとだったのでしょうか。それとも、まぼろしでも見たのでしょうか。
小林君は、なんだか、背中のへんが寒くなって、ブルッと身ぶるいしました。夕やみは、いよいよ深くなって、まわりから、ヒシヒシと、夜がせまってくるのが感じられるのでした。
そんなことがあって、数日ののち、真夜中の銀座どおりに、じつに前代未聞の、おそろしい事件がおこりました。
中学二年の山村志郎少年は、銀座うらの小さいお菓子屋さんの二階に、部屋をかりて、おかあさんとふたりきりで住んでいました。おかあさんは裁縫がじょうずなので、あるデパートの仕立部につとめているのです。
ある晩のこと、真夜中に、山村君のおかあさんが、きゅうにおなかがいたくなり、ひどく苦しむので、少年はお医者さまへ電話をかけるために、近くの公衆電話へかけつけました。
さいわい、お医者さまは、すぐ来てくださるというので、ひと安心して公衆電話を出ようとすると、ガラス戸の外に、なにか黒い木の枝のようなものが、動いているのに気づきました。
へんだなと思って、ドアをひらくのをためらっていると、木の枝のようなものが、ガラスとすれすれのところに、近づいてきました。よく見ると、それは、ピカピカと黒びかりに光っている、棒のようなもので、その棒のさきが、ほそくなって、そのさきに、ネズミのしっぽぐらいの太さの、小枝のようなものが、何本も、クシャクシャと、はえているのです。そして、そのネズミのしっぽみたいなものが、てんでに、まるで、ムカデの足のように、動いているのです。
山村君は、それを見ると、ゾーッと、こわくなって、立ちすくんでしまいました。すると、黒い棒のようなものが、だんだんのびてきて、それがかぎのように、まがっていることが、わかりました。棒は根もとのほうほど、太くなっているのですが、それが、すっかり、あらわれると、つぎには、なにか、まっ黒な、びっくりするほど大きなものが、ガラスの向こうに、姿をあらわし、二つのギョロギョロした目で、山村君をにらみつけました。
いや、そればかりではありません。その黒い大きなやつは、おそろしい、まっ黒なヤリのようなツノを持っているのです。太さは、根もとのほうで、さしわたし五センチもあるかとおもわれ、長さは、五十センチもありそうです。その黒びかりのした、とんがったツノで、いまにも、公衆電話のガラスをつきやぶろうとしているのです。
「ワワワワ……。」
山村少年は、なんともいえぬさけび声をたてました。そして、そのまま気をうしなって公衆電話のコンクリートの床に、クナクナと、くずおれてしまいました。
しばらくして、気がつくと、もうガラスの外には、なにもいません。それじゃ、いまのは夢だったのかしらと、おそるおそる、ガラス戸をひらいて、外をのぞいてみました。なにもいません。
そっと、外へ出てみました。そこにあるのは、シーンと、ねしずまった町ばかりです。山村君は、うちのほうへ、かけだしました。そして、まがりかどまで来て、ヒョイと銀座のおもてどおりのほうを見ると、ずっと向こうのかどに、へんてこなものが、うごめいているではありませんか。
山村君は、ギョッと立ちすくんだまま、もう身動きもできなくなりました。
やっぱり怪物がいたのです。真夜中で、ネオンは消えているけれども、街灯があります。その光にてらされて、巨大な怪物の背中が、まるでウルシのように、黒びかりに光っているのです。
それは、カブトムシを万倍も大きくしたような、見るもおそろしいばけものでした。カブトムシのキングコングです。頭のさきから、ニューッと、太いツノのはえた、一角獣のような怪物です。
そのとき、山村少年のうしろから、コツコツと、くつの音がしました。またしても、ギョッとして、ふりむきますと、それは、ばけものではなくて、パトロールのおまわりさんでした。おまわりさんは、まだ怪物に気づいていないのです。
山村君は、それを見ると、ほっと安心して、いきなり「ワーッ。」と、泣き声をたてながら、おまわりさんの腰に、すがりついていきました。ふいをうたれて、おまわりさんもびっくりしましたが、山村君が、しっかり、すがりつきながら、かた手で指さすほうを見ると、こんどは、おまわりさんが、石のように立ちすくんでしまいました。
しかし、このおまわりさんは、勇気のある人でしたから、にげだすようなことは、しませんでした。山村君に、おうちへ帰るように、ささやいておいて、じぶんはひとりで怪物のほうへ、用心しながら、ジリジリと近づいていきました。
山村少年は、そんなさいにも、おかあさんの病気のことはわすれなかったので、そのまま、よろめきながら、おうちへ帰りましたが、下のお菓子屋さんの人に、怪物のことをはなしたので、たちまち、さわぎが大きくなりました。深夜の銀座に、カブトムシの怪物があらわれたことが、となりから、となりへとつたわり、くっきょうな男の人たちが、手に手に、こん棒などを持って、家の外へとびだしてきたのです。
その人たちが、山村少年におしえられた場所へかけつけたとき、夜のしずけさをやぶって、パーンと、ピストルの音が、ひびきわたりました。おまわりさんが、怪物めがけて発砲したのです。
そのとき、怪物はもう、銀座の大どおりへ、はいだしていました。それをおっかけるおまわりさん。さわぎをききつけて、近くの交番から、とびだしてきたおまわりさんがふたり、そのあとから走っています。それから、ずっとおくれて、こん棒などを持った町の男の人たちが、こわごわ、つづいているのです。その人数もいまでは、十五─六人に、ふえていました。
真夜中の二時ごろですから、銀座には、まったく人どおりがありません。電車の通らないレールばかりが、銀色にひかって、どこまでもつづいています。あの人どおりのおおい銀座が、夜中には、こんなにもさびしくなるのかと、おどろくほどです。昼間、にぎやかなだけに、夜のさびしさは、こわいようでした。
そのひとけのない大どおりの、銀色の電車のレールの上を、クマのように大きなカブトムシのばけものが、たくさんの足を、いそがしく動かして、おそろしい早さで、走っているのです。
二度、三度、ピストルが、なりわたりました。しかし、怪物は、鉄でできているのでしょうか、たまがあたっても、カーンとはねかえるばかりです。
そのとき、深夜の客をのせた一台の自動車が、むこうから走ってきました。
その自動車の運転手は、人どおりのない町を、気をゆるして運転していたのですが、ふと気がつくとヘッドライトの光のなかに、おそろしい怪物の姿を見て、びっくりぎょうてんしてしまいました。
とっさには、何ものとも、見わけられませんが、ともかく、まっ黒に光った大グマほどもある、ながい足の何本もはえた怪物です。二つの大きな目が、ヘッドライトをうけて、ギョロギョロと光っています。そのうえ、頭のてっぺんに、おそろしいツノがとびだしているのです。その怪物が、グッと、頭をさげて、するどいツノで、自動車にむかって、いどみかかってくるように見えたのです。
うしろの座席にいた客の紳士も、怪物に気づきました。そして、あっとさけんだまま、クッションの上にうつぶせになってしまいました。
こちらから、見ている人たちは、自動車がカブトムシにぶつかってくれれば、いくら怪物でも、きっときずつくだろうと、手に汗をにぎっていたのですが、自動車は、怪物のまえ五メートルほどに、せまったとき、キーッという音がして、急停車しました。運転手が、ブレーキをふんだのです。
すると、つぎのしゅんかん、じつに奇怪なことが、おこりました。
巨大なカブトムシは、前から、つきすすんでくる自動車を、ものともせず、そのまま走りつづけていましたが、それが急停車しても、すこしも速度をかえず、グングン、前にすすんで、いきなり、自動車の前部に、はいあがったのです。
運転手は、すぐ目の前にせまってくる一角獣のツノを見ました。そのうしろに光っている、巨大な二つの目を見ました。そして気が遠くなってしまったのです。
こちらから見ていると、怪物は、自動車のまっ正面から、車体の上にはいあがり、そのやねをのりこえて、自動車の後部へおり、そのまま、また電車道を走っていくのです。長い足を、めまぐるしく、動かしながら、大きなずうたいを、はこんでいくのです。
怪物と、おまわりさんや町の人たちとのへだたりが、だんだん遠くなっていきました。人間の二本の足では、とても怪物におっつけないばかりか、人間は、つかれるけれども、怪物は、すこしもつかれるようすが見えないのです。
怪物は銀座四丁目の四つかどを、数寄屋橋の方へ、まがりました。しばらく走りつづけるうちに、数寄屋橋の交番から、ふたりのおまわりさんが、とびだしてきました。そして、ピストルをさしむけながら、怪物のゆくてに立ちふさがったのですが、カブトムシはへいきで、まるで機械のように、そのおまわりさんたちを、めがけて、つきすすんでいきます。パーン、パーンと二発の銃声がひびきました。しかし怪物は、すこしもひるみません。そのまま走りつづけて、おまわりさんたちを、左右にはねとばしてしまいました。
ふたりのおまわりさんは、おそろしいいきおいで、地面にたたきつけられ、きゅうに起きあがることもできません。あのするどいツノでつきさされなかったのが、まだしも、しあわせというものでした。
怪物は、あれよあれよというまに、数寄屋橋をわたり、きゅうに右にまがったかとおもうと、どこかへ、見えなくなってしまいました。おまわりさんや、町の人たちが、橋をわたって、そのへんを、くまなくさがしまわったのですが、あの怪物のいやらしい姿は、もう、どこにも、見あたりませんでした。まるで、消えうせたように、いなくなってしまったのです。
そのおばけカムトムシの、つやつやしたまっ黒な背中には、がい骨の顔のような、白いもようが、ついていました。「黄金虫」という小説の金色のカブトムシや、死頭蛾という大きなガの背中にも、がい骨の顔がうきだしていますが、あれらと同じような、おそろしいもようが、この巨大なカブトムシの背中にもついていたのです。小林少年があとになって、そのことを新聞記者に話したものですから、翌日の新聞には、その絵が、大きくのせられました。地獄からはいだしてきた、おそろしい妖虫の姿でした。
しかし、銀座の夜のできごとがあってから、二週間ほどは、なにごともなくすぎさりました。妖虫はあの晩数寄屋橋のところで、かきけすように、見えなくなったまま、一度も姿をあらわさないのです。
ところが、二週間ほどたった、ある夜のこと、荻窪の高橋太一郎さんのおうちに、おそろしいことがおこったのです。
高橋さんは、昭和鉄工会社の社長さんで、荻窪の、およそ三千平方メートルも庭のある、広いやしきに住んでいました。家族は、主人の太一郎さん夫婦と、ふたりの男の子だけで、数人の女中や書生をおいているのです。ふたりの男の子の、兄のほうは、壮一君といって、中学二年生、弟のほうは、賢二君といって、小学校四年生でした。
その晩七時ごろ、高橋さんのところへ、木村というお友だちから、電話がかかってきました。主人の太一郎さんは、ちょうどおうちにいましたので、電話に出ますと、
「いま、村瀬というわたしの会社のものが、おじゃまするから、会ってください。くわしいことは村瀬から聞いてくださるように。」
ということでした。
まもなく、その村瀬という男がやってきました。村瀬は、三十歳ぐらいの、やせた人相のよくない男でしたが、こんいな木村さんのおつかいだというので応接間にとおして、ていねいにもてなしました。
主人の太一郎さんとあいさつをすませて、むかいあって、安楽いすにこしかけましたが、村瀬という男は、だまって、主人の顔を、ジロジロ見ているばかりで、なかなか用件をきりだしません。
「木村君からは、まだ何もきいていないのですが、どんなお話ですか。」
太一郎さんが、さいそくしますと、村瀬は、ニヤリと笑って、みょうなことをいいました。
「ぼくは、じつは木村さんのつかいではありませんよ。」
「え、それじゃ、さっきの電話は?」
「あれは、ちょっと木村さんの名をかりてぼくがかけたのです。ぼくは、こわいろがうまいでしょう。」
村瀬は、タバコの煙を、フーッと吹きだして、そううそぶいています。
「なんだって? それじゃ、きみは、木村君の名をかたったんだな。」
太一郎さんは、おもわず身がまえをしてテーブルの上のベルのボタンに手をのばしました。書生をよぶためです。
「おっと、ベルをおしちゃいけない。あんたとふたりきりで話したいんだ。ベルをおせば、これが火をはくぜ。」
村瀬は、すばやくポケットからピストルを出して、太一郎さんに、ねらいをさだめました。
とび道具をもちだされては、どうすることもできません。太一郎さんは、そのままあいてをにらみつけ、じっとしているほかはありませんでした。
「では、用件を話そう。」
村瀬は、とくいらしく、ペラペラと、しゃべりはじめました。
「鉄塔王国……といっても、あんたにはわかるまいが、そういう名まえの小さい王国が、日本のある山の中にできているんだ。世界でだれも知らない小さい王国だ。ふかいふかい山の中に、まっ黒な鉄の塔がそびえている。そこに一つの別世界ができている。おれは、その鉄塔王国の首領、いや、王さまの命令で、あんたのところへ、やってきたんだ。
王さまから、お金持ちのあんたに、一つたのみがあるんだ。そのたのみというのは、ほかでもない。鉄塔王国にたいして、一千万円寄付してもらいたい。いくら別世界の王国でも、金がなくては、やっていけないからね。それで、時間と場所をきめておいて、現金で一千万円、おれに手わたしてもらいたい。これが、こんばんの用件だよ。どうだね。返事をききたいね。」
村瀬という男は、そういって、ピストルの筒口をあげたりさげたりしながら、主人の顔を見つめるのでした。
太一郎さんは、あんまりとほうもない話に、あっけにとられてしまいました。そして、こいつは気でもちがっているのではないかと、考えました。
「さあ、返事はどうだね。」
「ハハハ……、そんな金は出せないよ。この日本の中に、べつの王国ができたなんて、だれが信じるものか。それに、一千万円という大金は、わしには、きゅうにどうすることもできないよ。」
太一郎さんは、まともに答えるのも、バカバカしいような気がしました。
「ふーん。あんたは、おれのいうことを、でたらめだと思っているんだな。それじゃもっとよく、わかるようにいってやろう。鉄塔王国では、小さい子どもが入り用なんだ。たちのよい子どもを集めて、みっちりしこんで、りっぱな兵隊にするんだ。鉄塔王国の近衛兵にしあげるんだ。だから、一千万円がいやなら、あんたの次男の賢二君を、山の中の王国へつれていくが、それでもいいかね。
どうして、つれていくというのかね。それには、すばらしい武器があるんだ。あんたは、今から二週間ほどまえ、銀座にあらわれた、でっかいカブトムシのことを、知ってるだろう。あれが、鉄塔王国のまもり神だ。あれは、カブトムシの戦車だよ。ピストルのたまだってはじきかえす鋼鉄の戦車だ。そればかりじゃない。あれは魔法つかいだ。幽霊カブトムシだ。みんなの見ているまえで、スーッと、煙のように消えてしまうんだ。それがしょうこに、いつかの晩のカブトムシは、数寄屋橋で消えたまま、どうしても見つからなかったじゃないか。
鉄塔王国には、こんなおそろしい武器があるんだよ。その武器でもって、子どもたちをさらっていくんだ。頭のいい、かわいらしい、じょうぶな子どもばかりを、さらっていくんだ。警察の力でも、ふせぐことはできない。あいては魔法つかいなんだからね。さあ、子どもがかわいければ、一千万円だ。どちらとも、あんたの心まかせにするがいい。」
聞けば聞くほど、でたらめのようで、太一郎さんは、どうしても、この男のことばを、信じる気になれません。おばけカブトムシの事件で、世間がさわいでいるのをさいわいに、こんなつくり話をでっちあげたとしか、おもえないのです。
「まよっているね。むりはない。それじゃ一日だけ待つことにしよう。あすの夕方、おれの方から電話をかける。五時から六時までのあいだ、かならずうちにいてくれ。そして、そのときに、金か子どもかはっきりきめてくれ。もし、そのとき、あんたがうちにいなければ、賢二ぼうやをちょうだいする。これははっきりことわっておくよ。」
村瀬となのる男は、それだけいうと、いすから立ちあがって、庭にむかった大きな窓の方へ、あとじさりに歩いていきました。
「まだ、ベルをおしちゃいけない。おれの姿が見えなくなるまで、じっとこしかけているんだ。でないと、このピストルが火をはくんだぜ。」
そこの窓には、あついビロードのカーテンが、床までたれていました。村瀬は、そのカーテンのあわせめをまくって、むこうがわに、姿をかくしました。しかし、そのまま、窓から出ていこうともせず、カーテンのあわせめから、ピストルのさきを出して、じっとこちらをねらっています。カーテンの下からは、かれのくつが見えています。そうして立ったまま、しんぼうづよく、身うごきもしないで、こちらのようすをうかがっているのです。
そのふしぎなにらみあいが、じつに長いあいだつづきました。太一郎さんは、安楽いすにかけたまま、村瀬は、カーテンのかげに身をかくしたまま、ふたりとも、まるで人形のように動かないで、五分間もじっとしていたのです。
しかし、太一郎さんは、もうがまんができなくなりました。そっと手をのばして、テーブルの上のベルを、つよくおしておいて、いきなりドアの方へ、かけだしました。いまにも、カーテンのピストルが、火をはくのではないかと、ビクビクしましたが、そんなようすも見えません。
ドアをひらくと、むこうからかけてくる書生に、出会いました。
「あいつは、ピストルをもって、カーテンのかげにかくれている。フランス窓のカーテンだ。だれか庭へまわれ。そして、はさみうちにするんだっ。」
書生に命じておいて、太一郎さんは、そっとドアの前にもどり、そのすきまから、カーテンの方を見ました。あいては、やっぱり、もとのままの姿でした。カーテンのすきまからはピストルが、カーテンの下からは二つのくつが見えています。さっきから、すこしも動かないのです。
なんだかへんです。しかし太一郎さんは、まだ部屋の中へとびこんでいく決心がつきません。そこに立ちすくんでいるばかりです。
しばらくして、カーテンのあたりに、ガチャンという音がしました。ギョッとして見つめていると、いきなりカーテンが、さっと左右にひらかれ、そこから、書生の姿があらわれました。村瀬ではなくて、書生です。そして、村瀬は、どこへ行ったのか、かげもかたちもないのでした。
あっけにとられていると、書生がニコニコして、カーテンのはしをもちあげてみせました。するとそのカーテンのはしに細い糸で、さっきのピストルが、ぶらさがっているではありませんか。それから床に目をやると、そこには、二つのくつがぬぎすててありました。カーテンがしまっているあいだは、いかにもそこに人が立っているように見えたのです。村瀬というみょうな男は、くつをぬぎすて、ピストルをカーテンにぶらさげておいて、とっくに、窓からにげさっていたのです。
ただ、にげだしたのでは、書生たちがおっかけてくるでしょうし、警察に電話をかけられ、非常線をはられる心配もあります。それをふせぐために、うまい手品をつかったのです。
高橋太一郎さんは、その晩のうちに、事のしだいを警察にとどけましたが、あまりにとっぴな事件なので、警察でも、きちがいのしわざと考えたらしく、いちおう、高橋さんのやしきのまわりを、警戒することにはしましたが、事件をふかくしらべようともしないのでした。
高橋さんも、鉄塔王国などというバカバカしい話は、信用できませんので、よく日村瀬から電話がかかってきても、るすだといって、とりあわないことにきめました。やくそくどおり、村瀬からは、二度も三度も電話がありましたが、そのたびに書生が出て主人は外出していて、ゆくさきがわからないとことわったのです。
ところが、事件があってから、三日目の夜になると、村瀬という男のいったことが、けっして、でたらめでなかったことが、わかってきました。つぎつぎと、おそろしいことが、おこったのです。
高橋さんの次男の、小学校四年生の賢二少年は、その晩、じぶんの勉強部屋で、机にむかって、本を読んでいました。まだ七時ごろですが、さびしいやしき町ですから、あたりはシーンとして、しずまりかえっています。おうちが広いので、ほかの人たちの声も聞こえません。この勉強部屋は、壮一にいさんとふたりでつかっているのですけれど、そのにいさんも、どこかへ行っていて、賢二君はひとりぼっちなのです。
いっしんに本を読んでいますと、机の上のどこかで、カリカリと、物をひっかくような、かすかな音がしました。へんだなとおもって、そのへんを見まわしましたが、べつに変わったこともありません。しばらくすると、またカリカリと、こんどは、ごく近くから聞こえてきました。賢二君は、なんだか気味がわるくなって、じっと机の上を見ていますと、電気スタンドの台のむこうがわから、黒い小さなものが、はいだしてきました。カブトムシです。
よく見ると、そのカブトムシには、頭のてっぺんから、ニューッと、一本のツノがはえていました。そして、背中に、みょうな白いもようがあります。
賢二君は、そのもようを見て、おもわずゾーッとしました。それは、がい骨の顔にそっくりだったからです。
賢二君は、こわくなって、いすから立ちあがりました。そして、遠くから、机の上を見ていますと、はいだしてきたカブトムシは、一ぴきだけでないことがわかりました。二ひき、三びき、四ひき、五ひき、あとから、あとからと、はいだして、今まで賢二君の読んでいた本の上を、ゾロゾロと歩いているのです。しかも、そのたくさんのカブトムシの背中には、みんな、がい骨の顔のようなもようがあるのです。
賢二君は、もうたまらなくなって、勉強部屋から、にげだしました。そして、茶の間の方へ走っていきますと、むこうから壮一にいさんがやってきました。
「なんだい、まっさおな顔をして。どうかしたのかい。」
「カブトムシ、がい骨のもようのあるカブトムシが、ぼくの机の上に……。」
賢二君は、にいさんにすがりつくようにして、べそをかきながら、いうのでした。
「ふーん、がい骨のもようだって? よし、にいさんが見てやる。いっしょにおいで。」
中学二年の壮一君は、さすが、にいさんらしく、しっかりしていました。
ところが、ふたりが勉強部屋にひきかえして、賢二君の机の上を見ますと、ふしぎなことに、さっきまで、あんなにゾロゾロはっていた、たくさんのカブトムシが、どこにも見えないのです。机の下や、ひきだしの中まで、しらべてみましたが、一ぴきも見つかりません。ゆうれいのように、消えうせてしまったのです。
あとで、そのことを、ふたりが、おとうさんにお話しますと、おとうさんの太一郎さんは、へんな顔をして、考えこんでおられました。いよいよ、あの村瀬という男が、いやがらせをはじめたのかと、なんだか、心配になってきたからです。
やはり、そのおなじ晩の十時ごろのことです。こんどは、書生の広田が、おそろしいものを見たのです。
広田青年は高橋さんに見こまれて、大学へかよわせてもらい、学校から帰ると書生として、いろいろな用事をしているのです。その広田が、いつものように、門のしまりをして、うちの中に、はいろうとすると、庭のほうに、なにかゴソゴソと動いているものがありました。
その晩は月が出ていたので、庭の木や草は、霜がおりたように、白く見えていました。その庭の中を、なにか大きな黒いものが、ゴソゴソと、裏手のほうへ、はっていくのです。イヌやネコではありません。もっと、へんてこなものです。
広田は、足音をしのばせて、そのあやしいもののあとをおいました。なんだか、おそろしい夢にうなされているような気持でした。
月の光は、庭いっぱいに、ふりそそぎ、コンクリートの西洋館の裏がわを、白々と、てらしていました。その中を、黒い巨大な怪物が、ゴソゴソと、はっていくのです。
まっ黒な背中、そこに白くうきだしている奇怪なもよう、まがった長い足、グーッと上をむいた黒い一本のツノ、ギラギラ光る二つのまるい目。広田は、そのものの正体を見きわめると、ギョッとしておもわず、その場に立ちすくんでしまいました。
そのとき、怪物のほうでも、はうのをやめて、じっと動かなくなりました。そして頭をグーッとまげて、二つの光る目をこちらにむけたのです。
広田は、はっとして、建物のかげに、すばやく身をかくしました。
「見つかったかもしれない。怪物は、あのおそろしいツノをふりたてて、こちらへむかってくるのではないだろうか。」
とおもうと、胸がドキドキしてきました。
怪物は、しばらくのあいだ、頭をこちらにねじむけて、じっとしていましたが、広田に気づいたわけでもないらしく、そのまま、またむこうむきになって、長い足で、ゴソゴソとはっていきます。広田は建物のかげから、しんぼうつよく、それを見まもっていました。
怪物は、月光のなかをはいつづけて、建物に近づき、一つの窓の下に、とまりました。それは壮一、賢二兄弟の勉強部屋の窓です。広田は、それを見て、さてこそと、おもわず両手を、にぎりしめるのでした。
怪物のまえ足が、壁にかかりました。そして、ゴソゴソやっているうちに、やつはあと足で、すっくとたちあがったのです。まえ足は、窓のしきいにとどき、二つの目が窓の中をのぞいています。
怪物が立ったので、背中が、まともに見えるようになりました。その大きな、つやつや光る背中が、月光にてらされてぶきみにかがやいています。
そして、そこに、あのがい骨の顔が、まるでリンのように青白く光っているのです。
広田は、夢をみるここちでした。この世に、こんなおそろしいけしきが、またとあるでしょうか。
かれは、月光にてらされた、この巨大な妖虫の姿を、一生、わすれることができないでしょう。
勉強部屋の窓のガラス戸は、半分ほど、上のほうにおしあげられ、ポッカリと、黒い四角な穴になっていました。部屋の中の電灯は消えていて、だれもいないらしいのです。
怪物は、左右に、首をふって、ギロギロ光る目で、部屋の中のようすを、うかがっていましたが、やがて、そのツノのはえた首を、グッと、窓の中へさしいれるようにしました。それといっしょに、長い足を、いそがしく、動かしたかとおもうと、いつのまにか、怪物のからだは、地面をはなれて、壁をよじのぼり、グイグイと、窓の中へ、はいっていくのです。
やがて、おしりだけが、窓の外へ、はみだして、ぶきみな長い足を、モガモガやっていましたが、それも、窓の中へ、かくれてしまいました。怪物は、ついに、兄弟の勉強部屋へ、侵入してしまったのです。
村瀬という男は、うそをいいませんでした。賢二少年は、いまにも、かどわかされそうとしているのです。しかも、あの見るもおそろしい妖虫の長い足にだかれて、どこかへ、つれさられようとしているのです。
ぶきみな妖虫の姿が、賢二少年たちの部屋の中に、消えてしまうと、広田は、にわかに、あわてだしました。もう夜の十時なので、勉強部屋にはだれもいません。にいさんの壮一君も、弟の賢二君もべつの部屋で、寝ていたからです。しかし、カブトムシは、その寝室までも、ゴソゴソと、はっていくかもしれません。そして、賢二君を、あの長い足でつかんで、どこかへつれさるかもしれないのです。
広田はそれをおもうと、もうじっとしていられません。いきなり、勉強部屋の外に、かけよって、いましがた、カブトムシのはいっていった窓に、よじのぼり、まっ暗な、部屋の中へ、はいっていきました。
部屋のすみに、身をかがめて、じっと耳をすましても、なんの音も聞こえません。あれだけの大きな虫が、もし部屋の中にいるとすれば、なにか音がするはずです。それが、シーンとしずまりかえっているのをみると、怪物はもう、部屋から廊下のほうへ、出ていったのかもしれません。
広田は、おずおずとスイッチのところへ近よって、パッと電灯をつけました。やっぱり、部屋の中にはなにもいません。怪物は、廊下に出てしまったのです。
「たいへんです。だれか来てください。カブトムシが、カブトムシが……。」
広田は、おもいきりどなっておいて、死にものぐるいの勇気をだして、廊下へ、とびだしていきました。
廊下には電灯がついているので、一目でわかります。左は行きどまりですから、右のほうを見ればよいのですが、長い廊下には、なにもいません。廊下のむこうには、居間や茶の間や寝室があるのですが、広田のどなり声に、そのほうから、主人の高橋さんが、びっくりして、廊下へ、かけだしてきました。そのうしろに、おくさんや女中さんの姿も見えました。寝ていた壮一、賢二の兄弟もねまきのまま、外へ、とびだしてきました。
「広田、どうしたんだ。なにごとだ。」
高橋さんが、大声で、たずねました。
「カブトムシです。おばけカブトムシが、この廊下へ、はいこんだのです。」
広田は、息をきらしています。
「どこに? 廊下には、なにもいないじゃないか。」
「ほかへ行くひまはありません。ぼくはすぐあとから、おっかけたのですから。みょうだなあ、たしかに、この廊下に、いるはずなんだが。そちらの茶の間のほうへは行かなかったでしょうね。」
「くるはずがないよ。わたしたちがいたんだからね。」
「すると、どこにも、にげみちはないはずですね。ふしぎだなあ。」
「おまえ、夢でも見たんじゃないのか。」
「いいえ、けっして、夢なんかじゃありません。」
広田はそこで、庭で見たことを、てみじかに話しました。
「広田さん、おとうさんの書斎のドアが、すこし、あいてるよ。あの中、見たの?」
壮一少年が、目ばやくそれに気づいて、遠くから声をかけました。
みんなの目がそのドアを見ました。たしかに、四センチか五センチひらいているのです。この廊下の、勉強部屋から、茶の間までのあいだには、右がわに主人の高橋さんの大きな書斎が一つあるきりで、左がわは、ずっと壁になっているのです。もし、怪物が、にげこんだとすれば、この書斎のドアのほかには、ないわけです。
「書斎の窓には、こうしがはまっている。もし、ここへはいったとすれば、袋のネズミだ。」
高橋さんはそういって、広田に目くばせをしました。ドアをあけてみよといういみです。
広田は、ドアのそばに近よりました。しかし、それをひらくのには、よほどの勇気がいります。かれは、そこに立ちすくんだまま、しばらく、ためらっていました。
すると、そのとき、そのドアが、ひとりでに、すこしずつ、ひらきはじめたではありませんか。中から、ひらいているのです。
それを見ると、人びとは、ギョッとして、あとじさりをしました。あのおそろしい妖虫が、まがった足で、ドアをひらいて、みんなの前に、とびだしてくるのだと思ったからです。
ドアは、みるみる大きくひらいていきました。中はまっ暗です。そのやみの中から、ヌーッと出てきたのは、おばけカブトムシではなくて、意外にも、もうひとりの書生の青木青年でした。
「アッ、青木君か。カブトムシを見なかったか。」
高橋さんが、しかりつけるように、いいました。
「いいえ、この部屋にはなにもいません。」
「きみは、まっ暗な書斎で、なにをしていたんだ。」
「本だなの本をおかりしに、はいったのです。いつでも、かってに読んでいいとおっしゃったものですから。本をさがして、電灯を消して、出ようとすると、廊下がさわがしくなったので、ちょっと、出そびれていたのです。」
青木はそういって、手に持っていた一さつの本を見せました。法律の本でした。
「そうか。それならいいが、しかし、おかしいな。広田は、人間ほどの大きさのカブトムシが、この廊下へ、はいこんだというのだ。そして、わたしたちと広田とで、はさみうちにしたわけだから、にげみちは、この書斎のほかにはない。ところが、きみはなにも見なかったという。どうもふしぎだ。ねんのために、書斎の中をしらべてみよう。」
高橋さんが、さきにたって、書斎にはいり、スイッチをおして、電灯をつけました。広田と、壮一君とが、そのあとにつづき、青木は本を持って、どこかにたちさりました。
書斎の中には、なにもいませんでした。机の下や本箱のうしろなども、じゅうぶんさがしましたが、なにもいないのです。窓をひらいて、こうしをしらべてみましたが、どこもこわれてはいません。
「おい、広田君。きみはやっぱりまぼろしでも見たんだろう。もし、カブトムシが、家の中にはいったのなら、これほどさがして、見つからないはずがないじゃないか。きみは、こんやは、どうかしているよ。」
高橋さんが、にが笑いをして、いいました。広田は、頭をかきながら、首をかしげるばかりです。しかし、広田は、あの怪物がまぼろしだったとは、どうしても、考えられません。たしかに妖虫が、はいこんできたのです。しかも、それがあっというまに、煙のように消えうせてしまったのです。
広田は、なお、あきらめないように、書斎の中をグルグル歩きまわっていましたが、ふと、大机のまえに立ちどまると、その上にひろげてある、手紙の用紙のたばを、じっとみつめました。
「あっ、これ、先生がお書きになったのですか。」
とんきょうな声に、高橋さんも、そこへ近よって、用紙を見ました。
「わたしじゃない。そこには白い用紙がおいてあったばかりだ。」
「それじゃ、やっぱりそうです。あいつが、書きのこしていったのです。」
その用紙には、らんぼうな大きな字で、つぎのように書きなぐってありました。
こんやは、気づかれたので、このまま帰る。だが、賢二君はかならずさらってみせるから、そのつもりでいろ。
そして、その文句の下に、子どものいたずらのような、へたな絵で、一ぴきの黒いカブトムシが書いてありました。
「壮一、これは、おまえのいたずらじゃないだろうな。」
高橋さんが、壮一少年をよんで、その用紙をよませました。
「ちがいます。ぼくでも賢ちゃんでも、そんなもの書きません。」
「青木はどうした。まさか青木が書いたのでもあるまいが……。」
高橋さんは、そういって、あたりを見まわしましたが、書生の青木の姿が見えません。
「青木君、青木君。」
高橋さんの声におうじて、壮一、賢二の二少年も、かんだかい声でさけびました。
「青木さーん……。」すると、どこか遠くで、「ハーイ。」という声がして、バタバタと階段をおりる音がして、やがて、青木が、両手で目をこすりながら、そこへ、やってきました。
そして、ときならぬ夜ふけに、みんなが書斎に集まっているのを、がてんがいかぬという顔つきで、キョロキョロしています。
「青木君、どこへ行ってたんだ。」
「はい、ぼく、自分の部屋で、寝ていました。」
「なに、寝ていたって? バカをいいなさい。いましがた、この書だなから、本をさがして、出ていったばかりじゃないか。」
「いいえ、ぼくは書斎へはいったおぼえはありません。たしかに、自分の部屋で、寝ていたのです。」
「まさか、きみは、ねむったまま、歩きまわる夢遊病者じゃあるまいな。」
「そんなことは、一度もありません。」
さあ、わからなくなってきました。青木がほんとうに、寝ていたとすると、さっき書斎から出ていったのは、何者だったのでしょう。あれは青木とそっくりでした。あんなによくにた別人があるのでしょうか。
読者諸君も考えてみてください。頭のいい読者には、このなぞが、もうとけたかもしれませんね。
これはでたらめではありません。ちゃんととけるなぞなのです。しかし、それをとくのは、もうすこし、あとにしましょう。
高橋さんは、すぐに、このふしぎなできごとを、電話で警視庁の捜査課にしらせました。捜査第一課の中村警部とは、心やすいあいだがらだったからです。
その晩のうちに、中村警部が、数名の刑事をつれて、しらべに来てくれましたが、けっきょく、なんの手がかりも発見されず、むなしく引きあげるほかはありませんでした。書生の青木は、きびしく、しらべられましたが、自分の部屋で、寝ていたのは、うそでないことがわかりました。すると、もうひとりの青木は、いったい何者だったのでしょう。さすがの中村警部にも、それは、想像がつかないのでした。
中村警部のはからいで、その夜から、数名の刑事が、高橋さんの家のまわりを、たえず見はってくれることになり、賢二少年はしばらく学校をやすんで、うちにとじこもっていることにしましたが、なにしろ、あいてはおばけみたいなやつですから、ゆだんはなりません。
事件のあったあくる日の午後、壮一少年は、学校から帰ると、おとうさんの部屋に行って、相談をもちかけました。
「おとうさん、ぼく考えてみたんだけど、こういう事件は、やっぱり、明智小五郎探偵にたのんだほうがいいんじゃないでしょうか。中村警部もえらいけど、明智探偵はもっとえらいんでしょう。」
おとうさんは、しばらく考えたあとで、
「うん、それもいいだろう。それじゃ、わたしが明智事務所へ電話をかけて、つごうを聞いたうえで、広田をつかいにやることにしよう。広田なら、わたしたちよりも、よく事情を知っているんだからね。」
といって、さっそく電話をかけましたが、明智探偵は、ちょうど事務所にいて、午後四時ごろに来てくれという返事でした。
時間を見はからって、広田は自動車にのって、千代田区の明智事務所をたずねました。げんかんのベルをおすと、ひとりの青年が、中からドアをひらきました。広田が名まえをいいますと、青年は、
「わかってます。お待ちしていました。どうかこちらへ。」
といって、さきに立ちながら、
「広田さん、きょうは用心しないといけませんぜ。うちの先生は、ひどくふきげんです。さいぜんから書斎にとじこもったきり、お茶をもっていっても、ぼくを入れてくれないほどですからね。」
と、注意してくれます。
「小林という有名な少年助手のかたがいましたね。あなたは小林君ではないのでしょう。」
と、たずねると、
「ああ、小林ですか。きょうは、遠くへつかいに行って、るすです。先生のおくさんも女中をつれて、おでかけで、うちには先生とぼくとふたりきりですよ。ぼくは、ちかごろ先生の助手になった近田というもんです。これでも名探偵のたまごですよ。」
と、この青年、なかなかおしゃべりです。
やがて書斎の前に来ると、助手は、かるくドアをノックして、「高橋さんのおつかいの人です。」と、大きな声でいいました。
すると、中から、ドアがほそめにひらいて、明智探偵のモジャモジャ頭の顔が、チラッとのぞき、
「つかいの人だけ、おはいりなさい。近田、きみはベルをならすまで、用事はない。あっちへ行っていなさい。」
と、なるほど、ふきげんらしい声です。
中にはいってみますと、写真でおなじみの明智探偵が、きょうも黒い背広をきて立っていました。明智は、広田が、部屋にはいるのを待って、ドアに、ピチンとかぎをかけました。そして、正面の大デスクのむこうがわにまわると、そこのいすに、どっかりこしかけて、客には、「おかけなさい。」ともいわず、だまって、こちらをにらみつけています。
広田は、ていねいにおじぎをしてから、デスクの前のいすに、おずおず、腰をおろしました。
「どんな用件だね。」
いつもニコニコしている明智とはちがって、まるで、にがむしをかみつぶしたような顔です。
「電話では、くわしいことを、お話しなかったとおもいますが、じつは、このごろ、新聞でさわいでいる妖虫事件です。」
妖虫事件といえば、名探偵は、きっと、ひざをのりだしてくると思ったのに、いっこう、そんなようすも見えません。
「うん、それで。」
と、さきをうながすばかりです。
そこで、広田は、ゆうべのできごとを、くわしく話しましたが、明智は、なにをきいても、すこしもおどろかないのです。無表情な顔で、うん、うんと聞いているばかりです。
「賢二ぼっちゃんを、まもることが第一ですが、そのうえ犯人がつかまれば、こんなありがたいことはありません。どうでしょう、ひとつ、この事件をおひきうけくださいませんでしょうか。」
広田はそこで、ことばをきって、じっと返事を待っていましたが、明智はやっぱり、こちらをジロジロ見ているばかりで、なにもいいません。なんだか、うすきみが、わるくなってきました。
「どうでしょうか。先生、ぜひ、ごしょうちねがいたいのですが……。」
「きみは、ぼくに、それをたのみたいというのかね。」
明智の目つきが、きゅうに変わったように見えました。声もちがってきたようです。広田はなぜかドキッとしてあいての顔をみつめていますと、明智は、ますます、へんなことをいいだしました。
「きみにきくがね。きみはいったい、だれと話をしていると思っているんだね。」
「むろん、先生とです。先生に、事件のごいらいに来たのです。」
「先生って、だれだね。」
「明智小五郎先生です。」
広田は、あまりバカバカしい問答に、おもわず、声が高くなりました。
「ホホウ、明智小五郎。ぼくが、その明智小五郎だとでもいうのかね。」
広田は、びっくりして、いすから、腰をあげました。
「あなたは、明智先生じゃないのですか。」
「わしが明智に見えるかね。」
「え、なんですって。」
「おれが明智に見えるかと、きいたのさ。ハハハハ……。おれも変装がうまくなったものだなあ。アハハハ……。」
その笑い声をきくと、広田は、はっとあることに気づきました。
「さては、きみは、おばけカブトムシの同類だなっ。」
「ハハハ……、そのとおり。きみは、なかなか頭がいいよ。」
「で、ぼくをどうしようというのだ。」
「ちょっと、とりこにしておくのさ。おっと、にげようったって、にげられやしないよ。そうそう、そこに立っていなさい。いま、明智探偵の発明したカラクリじかけをお目にかけるからね。名探偵さん、いいものを発明しておいてくれたよ……。」
そのことばもおわらぬうちに、おそろしいことがおこりました。広田青年の足の下の床板が、スーッと消えてしまったのです。あっというまに、広田のからだは、下へ下へと、おそろしいいきおいで、落ちていきました。めまいがして、なにがなんだか、わからなくなったかと思うと、ガクンと、背骨がおれるような、いたみをかんじて、そのまま気が遠くなってしまいました。
「ハハハ。どうだね、穴ぐらの、いごこちは? きみはゆうべ、カブトムシを見つけて、さわぎたてた張本人だ。きみさえいなければ、うまくいったのだ。そのばつだよ。まあ、そこで、ゆっくり寝ていたまえ……。」
そして、バタンという音がしたかと思うと、あとは墓穴のような、暗やみにとざされてしまいました。それは、ほんとうの明智探偵が悪人をとらえるためにつくっておいた、落とし穴だったのです。
さて、にせの明智探偵は、広田をとじこめておいて、これから、なにをしようというのでしょうか。
広田青年は、あっというまに、穴のそこに落ちこんで、なにかに、ひどく腰をぶっつけたかと思うと、そのまま、気をうしなってしまいました。それから、どれほど時間がたったかわかりませんが、ふと気がつくと、あたりは、真のやみで、たおれたからだの下は、かたいコンクリートの床でした。
腰のいたさをこらえて、すこし起きなおり、手であたりをさぐってみましたが、なんの手ごたえもありません。あんがい、広い地下室です。
広田は、このまま、暗やみの中で、うえ死にしてしまうのかとおもうと、ガタガタからだがふるえるほど、こわくなりました。まるで、あつい黒ビロードのきれで、目かくしでもされたような暗さです。
そのときです。広田は、うえ死によりももっとおそろしいことに、気がつきました。地下室には、なにかがいるのです。かすかに、なにものかの動いている音が聞こえます。そいつが、ジリジリと、こちらへ、近よってくるらしいのです。
広田はゾーッとしました。がい骨もようのある大カブトムシを、おもいだしたからです。あのおそろしいカブトムシが、このまっ暗な地下室に待ちかまえていて、広田にきがいをくわえようとしているのではないでしょうか。
ガサガサと、はっきり聞こえます。こちらへ、はいよってくるのです。その音が、だんだん大きくなってきました。もう一メートルほどのところへ、近づいているのです。
「だれだ! そこにいるのは、だれだ!」
広田は、おもわず大声をたてて、身がまえをしました。
すると、ふしぎなことに、怪物が人間のことばで、答えました。
「高橋さんのうちの広田さんでしょう。ぼくですよ、ぼくですよ。」
「ぼくって、だれだ。」
こちらは、まだゆだんしません。とびかかってきたら、とっくみあいをするつもりで、身がまえしています。
「ウフフフ、あやしいもんじゃありませんよ。小林ですよ。明智探偵の少年助手の小林ですよ。ほら、さわってごらんなさい。」
広田は手をのばして、さわってみました。毛織りの学生服の手ざわりです。金ボタンも、ついています。だんだん上のほうへ手をやると、少年らしい、やわらかいほおがありました。
「ああ、それじゃきみは、小林君か。ほんとうに、小林君だろうね。にせものじゃないだろうね。」
広田は、明智探偵のにせものに、こりているので、ねんをおしました。
「にせものじゃありませんよ。にせものだったら、こんな地下室にとじこめられているはずが、ないじゃありませんか。」
「ふーん、すると、きみも、悪人のために、ここへ落とされたのか。」
「そうですよ。あいつ、なんて変装がうまいんだろう。ぼくも、ほんとうの明智先生だとおもって、ゆだんしたのです。そして、落とし穴へ、落とされてしまったのです。」
「明智探偵事務所には、もとからこんな落とし穴があったの?」
「ええ、あったのです。先生は、悪人をとらえるために、この落とし穴をつくっておかれたのです。それを、あべこべに、敵に利用されたのですよ。」
「それじゃ、ほんとうの明智さんはどこにおられるのだろう。まさか、明智探偵まで、敵のとりこになったのじゃあるまいね。」
「二─三日、旅行中なのです。べつの事件で、大阪のほうへいかれたのです。きょうか、あす、お帰りになるはずだったので、ぼくは、にせものにだまされたのですよ。あいつが、先生とそっくりの顔と、そっくりの服で、いま帰ったよって、はいってきたものですから。」
「ふーん、きみまでだますとは、よくよく変装のうまいやつだね。だが、この落とし穴には、ぬけみちでもないのかね。なんとかして、ここを出るくふうはないのかね。」
「ぬけみちなんてありませんよ。ここへ落ちたら、もうおしまいですね。てんじょうまで四メートルもありますよ。はしらもなんにもないから、人間わざでは、のぼりつくこともできません。」
そのとき、ガタンという音がしたかとおもうと、てんじょうからパッと光がさしこんできました。おどろいて見あげますと、落とし穴の四角な板が、すこしひらいて、そこから人の顔がのぞいていました。
「ハハハ……、ご両人、なかよく話しているね。どうだね、落とし穴の、いごこちは?」
のぞいているのは、さっきのにせ明智でした。
「いいこころもちだよ。ヒヤヒヤとすずしくってね。それに、広田さんという話しあいてを、おくってくれたので、とうぶん、たいくつしないよ。」
「ハハハ……、まけおしみをいってるな。だが、安心したまえ。きみたちを殺しやしない。こっちの仕事のすむまで、二─三日のしんぼうだよ。二─三日で、うえ死にするわけもないからね。」
「ぼくたちは、だいじょうぶだよ。それより、きみこそ、用心するがいい。いまに明智先生が帰ってくるからね。そうすれば、きみはすぐ、つかまってしまうんだからね。」
小林少年も、なかなか、まけていません。
「ウフフフ、まあ、熱をあげているがいいさ。おれのほうの仕事は、これからすぐはじめるんだからね。明智先生、まにあえばいいがね。……まあ、その暗やみの中で、ふたりで、なかよく話でもしていたまえ。それじゃ、あばよ。」
そして、パタンとふたをしめ、止めがねをかけてしまいました。地下室の中は、また、もとの、まっ暗やみです。
「ねえ、小林君。あいつは、これからすぐ、高橋家へいって、賢二ぼっちゃんを、どうかするにちがいない。明智さんはとても、まにあわないだろう。それを思うと、ぼくは、じっとしていられないよ。ねえ、きみ、どうかして、ここをぬけだすくふうはないだろうか。」
広田は、賢二少年の身のうえが、心配でしかたがないのです。
「ぬけみちなんかないけれども、ここを出るくふうはあるんですよ。」
小林少年は、ニコニコ笑っているような口ぶりです。
「えッ、それはほんとうかい。どうして? どうしてぬけだすの?」
すると、そのとき、小林君のからだからパッと強い光が、かがやきました。懐中電灯です。
「アッ、きみ、懐中電灯もってたの?」
「探偵七つ道具のうちには、むろん、懐中電灯がはいっています。ごらんなさい。これがぼくの七つ道具です。ほらね、ぼくはどんなときでも、胴巻きのように、この袋を腹にまいているのですよ。」
小林君はビロードの大きな袋から、いろいろな品ものをとりだして、コンクリートの床にならべ、それを懐中電灯で、てらしてみせるのでした。
そこには、七つどころか、十いくつの、ひどく小さな、こびと島の道具とでもいうようなものが、ズラリとならんでいました。
てのひらにはいるような小型写真機、指紋をしらべる道具、黒い絹糸をよりあわせて作った、まるめれば、ひとにぎりになる縄ばしご、ノコギリやヤスリなどのついた万能ナイフ、虫メガネ、錠まえやぶりの名人が持っているような万能かぎたば、それから、なんだかわからない銀色の三十センチほどの長さの太い筒など。
小林少年は、その銀色の筒を手にとって、みょうなことを、いいだしました。
「これ、なんだか、わかりますか。手品の種ですよ。ぼくの魔法のつえですよ。これと、この絹糸の縄ばしごさえあれば、こんな穴ぐらなんか、ぬけだすのは、ぞうさもありませんよ。」
広田青年は、小林少年の手から懐中電灯をとって、てんじょうをてらしてみました。高さは四メートルはあります。落とし穴の板は、ぴったりしまって、鉄のカンヌキで落ちないようになっています。四方の壁からは、ずっと、へだたっていますし、その壁にも、手がかりになるようなものは、なにもありません。たとえ、縄ばしごを、なげてみたところで、どこにも、ひっかかるものがないのです。
小林君の手品とは、いったい、どんなことでしょう。わずか三十センチの銀色の筒が、なんの役にたつのでしょう。
小林君と広田青年が、地下室で、こんな話をしていたころ、一方、高橋さんのおうちの玄関に、ひとりの紳士が、おとずれていました。もうひとりの書生の青木が、とりつぎに出ますと、
「ぼくは明智小五郎です。おつかいがあったので、おじゃましました。」
というのでした。青木が、奥へそれをつたえますと、主人の高橋さんは、大よろこびで、明智となのる紳士を応接室にとおしました。
「やあ、よくおいでくださいました。新聞などの写真で、お顔はよく知っています。つかいのものからおききくださったでしょうが、わたしの次男の小学校四年生の子どもが、カブトムシにねらわれているのです。先生のお知恵で、なんとか、子どもを助けていただきたいと思いまして。」
「それは、うかがいました。ぼくのところへ、つかいにみえた書生さんは、もう帰っているのでしょうね。ちょっと、ここへよんでくれませんか。」
明智探偵は、ソファーにゆったりともたれて、タバコに火をつけながら、いうのでした。
「いいえ、書生の広田は、まだ帰りません。先生といっしょじゃなかったのですか。」
「いや、書生さんは、ぼくが、じきにおうかがいするというと、よろこんで、いそいで帰ったのです。自動車で帰るといっていましたから、まだつかぬというのは、へんですね。」
高橋さんは、書生の青木をよんで、広田をさがさせましたが、どこにもいないことがわかりました。
「へんだなあ。まさか、こんなさいに、より道なんかしているはずはないが。先生よりも、よほどまえに、おたくを出たのですか。」
「そうですね。ぼくよりも三十分ほどまえにです。電車にのったとしても、とっくに、ついているはずです。これは、ひょっとしたら……。」
「え、なんとおっしゃるのです?」
「カブトムシの怪物団のために、さらわれたのかもしれませんよ。大カブトムシが、賢二君の部屋へしのびこむのを、さいしょに発見して、さわぎたてたのは広田君でしたね。そのふくしゅうかもしれませんよ。」
あのがんじょうな広田が、くもなく、さらわれたとすると、かよわい賢二少年など、いつさらわれるかしれたものではありません。高橋さんは、もう心配でたまらなくなってきました。
「先生、広田がさらわれたとすると、いよいよ、すててはおけません。賢二をたすけてください。なんとか、うまい方法はないでしょうか。」
「そうですね。ともかく、賢二君を、ここへよんでみてくれませんか。」
高橋さんは、また書生の青木をよんで、賢二君を応接室へ、つれてこさせました。
「やあ、きみが賢二君ですか。おじさんが来たから、もうだいじょうぶですよ。さあ、もっとこちらへいらっしゃい。」
明智はニコニコしながら、賢二少年をまねいて、その肩へ手をかけました。しかし、手をかけたかとおもうと、探偵は、はっとしたように、きびしい顔になりました。
「賢二君、ちょっと、そちらを、むいてごらんなさい。きみの背中に、なんだか、はっている。」
賢二少年が、きみわるそうにして、うしろをむくと、その学生服の背中に、黒い大きな虫が、モゾモゾと、うごめいていました。
「あっ、ドクロのもようだ。」
書生の青木が、とんきょうな声をたてました。それはドクロもようの、一ぴきのカブトムシだったのです。
明智が、サッと手ではらうと、カタンという音をたてて、妖虫は、床に落ち、あおむけになって、ぶきみな足をモガモガやっていましたが、そのうちに、クルッと、ひっくりかえって、そのまま、部屋のすみのほうへ、かけだしていくのでした。
賢二少年はもちろん、おとうさんの高橋さんも、顔色をかえていました。
「まえぶれだ。あいつが、やってくるというまえぶれだ。明智さん、もうぐずぐずしてはいられません。はやく、なんとかしなければ……。」
高橋さんは、いまにも、あのおそろしい大カブトムシが、窓からしのびこんでくるのではないかと、うしろを見ながら、おびえたように、いうのでした。
「広田君が、帰ってこないことといい、いまのカブトムシといい、どうも、このまますててはおけませんね。」
明智はそういって、しばらく考えていましたが、
「高橋さん、東京都内に、ごしんせきがあるでしょう。いちじ、賢二君を、しんせきにでも、おあずけになっては、どうでしょうか。さいわい、ぼくの自動車がおもてに待たせてありますから、あなたと賢二君とが、人目につかぬように、いそいで、それにのりこむのです。ぼくも、いっしょにのります。そして、あなたのさしずなさるところへ、車を走らせるのです。」
高橋さんは、賢二君を、ここのうちにおくのも心配だし、といって、外へつれだすのも、なんとなく、気味がわるいとおもいましたが、こういうことには、なれている名探偵が、くりかえしすすめるので、ついその気になりました。そこで、高橋さんは、奥さん(賢二君のおかあさん)とも、相談したうえ、賢二君を、下谷のしんせきにあずける決心をしたのです。
書生の青木に見はらせておいて、高橋さんと賢二君と明智探偵は、すばやくおもての自動車にのりこみました。高橋さんが、小声で、行くさきをいいますと、自動車はすぐに走りだしました。
高橋さんは、自動車のうしろの窓から、しばらく、町をながめていましたが、だれも、あとをつけてくるようすはありません。あとから、走ってくる自動車もありません。このぶんなら、まず安心だと、そっと、胸をなでおろすのでした。
しばらくすると、高橋さんは、タバコが吸いたくなりました。和服の両方のたもとをさがしましたが、たしかに入れておいたはずのピースの箱がありません。賢二君を、まんなかにはさんで、むこうのはしに、こしかけていた明智探偵が、そのようすに気づいて声をかけました。
「高橋さん、タバコならここにあります。さあ、ごえんりょなく。」
それは西洋の葉巻きタバコでした。高橋さんはタバコずきで、ことに葉巻きは大好物でしたから、それをうけとって、火をつけると、スパスパとやりはじめました。
「いかがですか、その味は? ぼくはタバコだけは、ぜいたくをしているのですよ。」
「いや、けっこうです。ひさしぶりに、うまいタバコを吸いました。ありがとう。」
走る自動車の中には、むらさきの煙が、もやのように、ただよい、葉巻きのさきが、だんだん白い灰になっていきました。
それから五分ほど自動車が走ったころ、高橋さんの口から、半分ほどになった葉巻きが、ポロッと、座席の床に落ちました。となりの賢二君が、びっくりして、おとうさんの顔を見ますと、おとうさんは、うしろのクッションに頭をグッタリとよせかけて、かすかに、いびきをたてて、眠っているのでした。
「おとうさん、おとうさん。」
賢二君が、いくらゆり起こしても、目をさますようすがありません。なんだか変です。こんな場合に眠ってしまうなんて、日ごろのおとうさんらしくもありません。
「賢二君、いくらよんだって、おとうさんは、起きやしないよ。」
明智探偵が、いままでとは、ちがった、らんぼうなことばでいいました。
「なぜです。なぜ起きないのです。」
賢二君は、なんだかギョッとして、ききかえしました。
「葉巻きをのんだからさ。あの葉巻きにはね、麻酔薬が、しこんであったのだよ。ハハハハハ。」
「だれです? おじさんは、だれです?」
賢二君は、むちゅうになって、さけびました。
「わからんかね。賢二君、ほら、ちょっと、前を見てごらん。」
ぶきみな声に、おもわず、まえの運転席を見ました。
「あっ……。」
賢二君は、おそろしいさけび声をたてたかとおもうと、いきなり、眠っているおとうさんにしがみついて、そのひざに、顔をかくしてしまいました。
運転席には、なにがいたのでしょう。いままで人間だとばかりおもっていた運転手が、いつのまにかおそろしい姿に、かわっていたのです。
そいつには、おそろしく長いツノがありました。まっ黒な背中には、大きながい骨の顔が、こちらを、にらみつけていました。ああ、この自動車は、あのおそろしい妖虫が運転していたのです。
そいつが、長いツノをふりたてて、グッと、こちらへ、ふりむきました。おさらほどもある、大きな二つの目が、怪光をはなって、賢二君を、じっと、みつめました。
お話は、すこしあとにもどりまして、時間でいえば、にせ明智探偵が高橋さんのおうちへ、たずねて来るよりも、まえのことです。
そのころ、明智探偵事務所の地下室では、にせ探偵のために、そこへとじこめられた小林少年と高橋さんの書生の広田とが、地下室をぬけだす相談をしていました。
まっ暗な地下室の床が、まるくポッと光っています。小林少年の懐中電灯を、広田が手にもって、床にならんでいる探偵七つ道具を、てらしているのです。
小林少年は、その七つ道具の中から、銀色に光った三十センチほどの長さの筒を、とりあげて、説明するのでした。
「これは魔法のつえですよ。たった三十センチの筒が、たちまち、三メートルにのびるのですよ。」
「へー、ほんとうかい?」
広田はびっくりしています。
「ほら、ごらんなさい。のびるでしょう。手品師のもっているつえと同じしかけです。」
銀の筒を、サッとふると、倍の長さになり、もう一度、ふると、三倍の長さになり、四倍、五倍、六倍と、いくらでものびていくのです。それは写真機をのせる三脚と同じしかけで、銀色の筒の中に、すこしほそい第二の筒があり、その中にまた、もっとほそい第三の筒があるというように、十本の筒がかさなりあっていて、それを、つぎつぎと、ひっぱりだせば、おしまいには、十倍の長さにのびるしかけなのです。
「ね、わかったでしょう。この長い棒があれば、地下室をぬけだすことなんか、わけもありませんよ。」
小林少年は、たちあがって、その銀色の長い棒をてんじょうの落としぶたのほうへ、のばしました。
「懐中電灯で、てんじょうをてらしてください。」
広田がいわれたとおり、てんじょうをてらします。そのまるい光のなかに、落とし穴のふたを、とめている金具が見えます。小林君は、せのびをして、長い棒のさきで、その金具を、よこから、たたくようにして、とうとう、はずしてしまいました。すると、バタンと音がして落とし穴のふたが、下にさがり、そこに、四角な口がひらきました。
小林君は、七つ道具の中の、絹糸の縄ばしごを、てばやく、ほぐして、かぎになった金具のついている、一方のはしを、てんじょうの四角な穴に、なげ上げ、うまくそこへ、ひっかけました。金具は、なにかにひっかかったら、けっして、はずれないように、できているのです。
縄ばしごといっても、はしごのかたちをしているわけではありません。じょうぶな黒い絹糸を、何十本もないあわせて、四十センチぐらいのかんかくで、大きなむすび玉が、いくつもついているわけなのです。
「ぼくらを、ここに落としたわるものは、もうでかけたにきまっています。上には、だれもいません。ぼくが、さきにのぼりますから、広田さんも、すぐあとから、きてください。」
小林君は、なれたもので、まるでサルのように、ほそい縄ばしごを、スルスルとのぼっていきました。広田は、小林君のように、うまくはのぼれませんが、それでも、やっと上の部屋に、たどりつきました。
「あいつは、どこへでかけたんだろう?」
「きまってますよ。明智先生になりすまして、高橋さんのうちへのりこんだのです。そして、なんとかうまくごまかして、賢二君をつれだすつもりです。さあ、いきましょう。グズグズしていると、賢二君が、どんなめにあうかもしれませんよ。」
小林君は、そういいながら、もう、おもての方へ、かけだしていました。
それから、小林少年が、賢二君を助けるために、どんな計画をしたか、それは、しばらくおあずけにしておいて、お話を、もとにもどし、賢二君が、にせ明智のために、さらわれた、自動車の中のできごとになります。
運転台に、人間と同じぐらいの、巨大なカブトムシがすわっているのを見て、賢二君は、麻酔薬で眠っているおとうさんのひざへ、顔をかくしてしまいました。すると、となりに、こしかけていた、にせ明智が、賢二君の肩をトントンと、たたいて、
「なにをこわがっているんだ。よく見てごらん。ほら、ね、なんにも、いやしないじゃないか。」
と、笑いながらいうのでした。賢二君は、その声に、おもわず、顔をあげて、こわごわ、運転台の方を見ましたが、これは、どうしたことでしょう。そこには、もとの運転手が、ちゃんと、すわっているではありませんか。おそろしいカブトムシは、かき消すように、見えなくなってしまったのです。
では、賢二君は、さっき、まぼろしを見たのでしょうか。いや、まぼろしではありません。たしかにカブトムシでした。背中にがい骨もようのある、おそろしいカブトムシでした。
カブトムシは、またしても、魔法をつかったのです。あいつは、虫の国のふしぎな魔法の力で、思うままに、姿をあらわしたり、消したりすることができるのかもしれません。
そのあいだにも、自動車は、ずっと走りつづけていたのですが、そのとき、西がわが、森のようになった、ひどく、さびしい道に、さしかかりました。
「よし、ここで、とめて……。」
にせ明智が、運転手に命令しました。自動車はブレーキの音をたてて、急にとまりました。
「手をかしてくれ。このおやじさんを、ちょっと、このおやしろの中へ、寝かせておくんだ。朝になれば、しぜんに目をさますだろうからね。」
怪人物は、そんなことを、いいながら、運転手にてつだわせて、眠っている賢二君のおとうさんを車の外に出して、ふたりがかりで、エッチラオッチラ、暗い森の中へ、はこんでいきました。
そのあいだに賢二君がにげだす心配はありません。運転台には、まだひとりの助手がのこっていたからです。そいつが、こわい顔で賢二君をにらみつけています。とても、にげられるものではありません。
それにしても、ここは、いったいどこでしょう。まだ東京を出はなれたとは思われません。さっき、にせ明智が「おやしろ」といったのをみると、この森は、なにかの神社を、とりかこんだ森なのでしょう。東京の町の中にも、こういう神社の森は、いくらもあるからです。
賢二君のおとうさんは、その社殿の縁がわにでも、おきざりにされるのでしょう。そんなに寒い気候ではありませんから、かぜをひくようなこともないでしょうが、賢二君は心配でたまりません。
そのときです。自動車のうしろの方で、なんだか、みょうなことが起こりました。
まっ暗なので、はっきりはわかりませんが、自動車のうしろの荷物を入れる場所の鉄板のふたが、そうっとひらいたようです。そして、その中から、小さな黒い人の姿が、あらわれました。黒いこびとです。そのこびとが、まず、自動車のうしろの車のところに、うずくまって、しばらく、なにかやっていたかとおもうと、スーッと空気のもれる音がして、タイヤが、ペチャンコになってしまいました。
こびとは、つぎには、もう一つのうしろの車、それから前の両方の車と、リスのようにチョコチョコと走りまわって、たちまち、四つの車のタイヤを、みんな、ペチャンコにしてしまいました。
あとでわかったのですが、このこびとは、よくきれる大きなナイフをタイヤのうすいところへつきさして、空気をぬいてしまったのです。空気がぬけるたびに、自動車が、グンと、しずむような感じになるものですから、運転台にいた助手の男は、「おやっ、へんだぞ。」といいながら、ドアをあけて、車をしらべるために、降りてきました。
助手が、右がわへまわったすきに、こびとは左がわの後部の窓に近づいて、そのガラスを、コツコツとたたきました。
中にいた賢二少年が、びっくりして、ガラスの外を見ますと。そこに、ひとりの少年の顔が笑っていました。そして「だいじょうぶだよ。安心したまえ。」というように、コックリとうなずいてみせるのでした。
この少年こそ小林君でした。かれは、明智探偵事務所をとびだすと、高橋さんの家にかけつけて、そのおもてに待っていた、悪人の自動車の、うしろの荷物入れにしのびこんでいたのです。そして悪人どもが賢二君のおとうさんを、神社の森へはこんでいるすきに、タイヤをきずつけて、自動車を動けなくしてしまったのです。さすがに、少年名探偵の小林君でした。
小林少年は、窓の外から賢二君に、安心するようにあいずをしておいて、そのままいちもくさんに、どこかへかけだして行きました。どこへ行ったのでしょうか。
そこへ、森の中から、にせ明智と運転手とが帰ってきました。
「おい、なにをウロウロしているんだ。どうかしたのか。」
助手の男が、自動車のまわりを、なにかブツブツいいながら歩きまわっているのを見て、にせ明智が声をかけました。
「どうも、わからないのですよ。タイヤが四つとも、パンクしちゃったんです。」
「なんだって、四つともパンクした? そんなバカなことがあるもんか。よくしらべてみろ。夢でも見たんじゃないか。」
どなりつけながら、にせ明智は懐中電灯を出して、タイヤをしらべていましたが、いきなり、びっくりしたようにさけびました。
「タイヤにナイフをつきさしたんだ。おい、きみ、そのへんに、だれかかくれているんじゃないか。タイヤをだめにして、自動車を動けないようにしたやつがいるんだ。きみはそれを知らないでいたのか。」
しかられて、助手は、首をかしげながら、のろまな声で、答えました。
「そういえば、なんだかこびとみたいなやつが、あっちへ走っていきました。暗くてよくわからなかったけれど……。」
「なにっ、こびとだって? それじゃ、もしかすると……。」
にせ明智は、悪人だけに、頭もよくはたらくのです。かれは、地下室にとじこめておいた小林少年のことを、チラッとおもいだしていました。
「しかたがない。このまま、運転するんだ。なあに、車がこわれたって、かまいやしない。グズグズしていると、たいへんなことになる。」
にせ明智は、いそいで後部にのりこみ、運転手に、スタートするように、命じました。
「だが、すぐつぶれちまいますぜ。とても遠くまでは、いけませんよ。」
「かまわん。ともかく、出発するんだっ。」
自動車は、ガタンガタンと、へんな音をたてながら、動きだしました。しかし、百メートルも進むか進まないうちに、にせ探偵が、またしても、おそろしい声でどなるのでした。
「とめろ。車をとめるんだっ。見ろ、むこうの町かどに、へんなやつがいる。あれをなんだとおもう。」
ずっとむこうの町かどのぼんやりした街灯の下に、いく人かの人かげがみえます。さきに立っているのは、小さな子どもでした。そのあとに、制服の警官が、ひとり、ふたり、三人、まだまだ、おおぜいあとにつづいているように見えます。遠くてよくはわかりませんが、さきに立っているのは、どうも、小林少年らしいのです。
「いけないっ。子どもは、ほうっておいてにげるんだ。あとにひきかえして、森の中へ、そこから、別の町へ、通りぬけるんだ。いいか。むこうのやつらに、気づかれないようにしろっ。」
にせ明智が、自動車をとびだすあとから、運転手と助手もつづいて、三人は、風のように、もときた道を走るのでした。
しばらくすると、数人の警官隊が、小林少年をさきにたてて、自動車のところへかけつけました。
「賢二君、だいじょうぶか。」
小林少年が、窓の中をのぞきながらさけびました。賢二少年は、小林君を見たことがありませんけれど、味方にちがいないとおもったので、自動車の外に、とびだして、うしろを指さしながら、
「にげたよ。三人とも、あの森の中へ、にげたよ。」
と、おしえました。
それから、ふたりの少年は、警官たちといっしょに、神社の森にたどりつきましたが、いくらさがしても、悪人たちの姿は、もうそのへんには見あたりませんでした。しかし、賢二君のおとうさんはすぐ発見され、ぶじに助けることができました。
こうして、小林少年の知恵によって、賢二君はすくわれたのです。おとうさんもぶじでした。悪人たちは、とりにがしても、まず、成功といわなければなりません。
やがて、麻酔薬のねむりからさめた、おとうさんは、ことのしだいをきいて、小林少年のてがらを、ほめたたえ、くりかえしくりかえし、お礼をいうのでした。
しかし、鉄塔王国の怪人は、一度失敗したぐらいで、あきらめてしまうようなやつではありません。失敗すればするほど、しゅうねんぶかく、くいさがってくる、おそろしい、悪人です。
それから一週間ほどたった、ある朝のことです。東京駅のまえの丸ビルの中に、ギョッとするような事件がおこりました。
朝の六時を、すこしすぎたころでした。まだ会社員は、ひとりも姿を見せません。一階の通路の両がわの商店も、一けんも、店をひらいていません。大きなビルディングの中は、まるで、死んだ町のように、がらんとして、しずまりかえっていました。
その、ひとけのない、一階のひろい通路を、ひとりの小使さんらしい老人が、ほうきとバケツを持って、二階への階段の下まで、歩いてきました。そして、ふと階段を見あげたかとおもうと、電気にでもかかったように、ピッタリたちどまったまま、身うごきもできなくなってしまいました。目はとびだすほど、大きくなり、口はポカンとひらいて、まるで、あおざめたろう人形のような顔になってしまったのです。
それも、むりはありません。その階段の上には、世にもおそろしい、ばけものが、うごめいていたからです。
それは、人間ほどの大きさの、一ぴきの、まっ黒なカブトムシでした。そいつが、自動車のヘッドライトほどもある二つの目を、ランランと光らせ、するどい、ながいツノをふりたてて、ゴソゴソと、階段を、はいおりてくるではありませんか。
この妖虫は、いかめしい、ずうたいのわりには、おそろしく、ぶきようなやつです。エッチラオッチラ、まるで、よっぱらいのようなかっこうで、さも、なんぎらしく、階段をおりてくるのです。
そうして、二─三段、はいおりたかとおもうと、ズルッと、足をすべらせました。ぶきような大カブトムシは、そこで、ふみとどまる力もなく、そのまま、おそろしい、いきおいで、階段を、すべり落ちたのです。立ちすくんでいる小使さんの目の前へ、サーッと、落ちてきたのです。
「ヒャーッ……。」
小使さんは、なんともいえない、きみょうな、さけび声をたてて、その場に、しりもちを、ついてしまいました。
大きなビルには、いないように見えても、どこかに人がいるものです。このさけび声をきいて、そうじ婦だとか、とまりこみの会社員などが、ふたり、三人─五人と、どこからかかけつけてきました。
それらの人々も、通路にもがいている、異様な怪物を一目みると、やっぱり、まっさおになって、そこに立ちすくんでしまいました。
巨大なカブトムシは、階段から落ちたひょうしに、背中を下にして、あおむきになったのです。小さなカブトムシでも、一度、あおむきに、ひっくりかえると、なかなか起きなおれないものです。
まして、こんな大きなずうたいのやつですから、きゅうには、起きあがれないとみえて、みにくい腹をまる出しにして、長い足を、モガモガやりながら、ひどく苦しがっているのです。
しかし、その苦しがるようすが、じつに、おそろしいのでした。なめらかな、背中とはちがって、グシャグシャした腹のほうは、なんともいえない、いやらしい形です。それを見ていると、ゾーッとして、はぎしりがしたくなるほどです。
ところが、そのとき、またしても、じつに、ふしぎなことがおこったのです。妖虫の腹が、スーッとたてにわれてきたのです。そして、そのわれめが、だんだん、広くなって、その中から、なにか、べつのいきものが、はいだしてきたではありませんか。
それは、リンゴのように、つやつやしたほおの、ひとりの少年でした。大カブトムシの腹の中に、人間の子どもが、はいっていたのです。それが、腹をやぶって、びっくりしている人びとのまえに、姿を、あらわしたのです。
「なあんだ、子どもがはいっていたのか。」
ほんとうの怪物だとばかりおもっていた人びとは、少年の姿を見て、すこし安心しました。
少年はカブトムシの腹から、外にでると、グッタリと、その場にたおれてしまったので、人びとはかけよって、助けおこし、いままで少年がはいっていた、巨大なカブトムシのからだを、しらべました。
それは、ほんとうの虫ではなくて、うすい金属を、皮でつなぎあわせてつくったもので、中はからっぽで、そこへ少年がはいって動いていたのです。
「なあんだ、びっくりさせるじゃないか。きみはどうして、こんないたずらをしたんだ。このおばけカブトムシの衣装を、いったい、どこから手にいれたんだ。」
ひとりの会社員が、少年をだきおこしながら、しかるようにいうのでした。
少年は、さっき階段を落ちたとき、どこかをうったらしく、いたそうに、顔をしかめながら、答えました。
「いたずらじゃありませんよ。ぼくは、わるもののために、カブトムシの中へとじこめられたのです。」
「わるものだって?」
「ええ、鉄塔王国の怪人です。」
それをきくと、人びとはおもわず、顔を見あわせました。鉄塔王国という、ふしぎな怪物団のことは、新聞に書きたてられていたので、だれでも知っていたからです。
「それじゃ、夜中に銀座通りを歩いていた大カブトムシは、こんなこしらえものだったのか。なかに人間がはいって、動いていたのか。」
「そうかもしれません。そうでないかもしれません。あいつらは魔法つかいですから、なにをやるかわかりません。ぼくを、こんなものにいれて、ビルの中へ、ころがしておいたのも、なにかわけがあるのです。カブトムシなんて、こしらえものだと思わせて、ゆだんさせるためかもしれません。」
「それにしても、きみはどうして、こんなめにあったんだ?」
「しかえしですよ。新聞にでていたでしょう。カブトムシの怪物団は、高橋賢二という少年を、どこかの山の中の鉄塔の国へ、さらっていこうとしたのです。それを、ぼくが、じゃまをして、とりもどしたものですから、ぼくにしかえししたんです。
ゆうべ、町を歩いていると、だれかがうしろからくみついてきて、ぼくの口と鼻に、麻酔薬をおしつけたのです。そして、ぼくが気をうしなっているあいだに、このカブトムシの衣装をきせて、丸ビルへかつぎこんでおいたのです。
けさ、気がついてみると、ぼくは、カブトムシのよろいの中にとじこめられて、二階の廊下に、ころがっていました。カブトムシの目のところに、ガラスがはめてあるので、外は見えました。ビルの中だということも、すぐわかりました。
ぼくは、さけび声をたてましたが、だれもきてくれません。階段をおりたら、人がいるかもしれないと思ったので、はいおりようとしたのです。でも、こんなよろいみたいなものを、つけているので、うまくおりられません。足がすべって、ころがり落ちてしまったのです。」
「ふーん、それじゃ、たいしてしかえしにもならないね。きみが、階段をおりないで、じっとしていたら、そのうちに、二階の会社の人たちが出勤してきて、きみを助けるにきまっている。そうすれば、きみは、ひと晩、カブトムシのよろいをきせられたというだけじゃないか。」
いちばん年とった会社員が、ふしんらしくいうのでした。すると、少年は、さも、くやしそうな顔をして、
「ところが、ぼくには、大きなしかえしになるのですよ。ぼくの名誉がメチャメチャになってしまうのですよ。」
「きみの名誉だって? そんなにきみは、名誉の高い子どもなのかい?」
「そうです。ぼくは、少年名探偵として、わるものどもに、おそれられているんです。それが、こんなはずかしいめにあっちゃ、ぼくは先生にだって、あわせる顔がありません。」
少年はなみだぐんで、くやしがっています。
「先生だって? きみの先生というのは、もしや……。」
「そうですよ。明智小五郎先生です。ちょうど先生は旅行中なのです。そのるすのまに、こんなはずかしめを、うけたのです。」
「するときみは、あの名高い少年助手の……。」
「小林です。……みなさん、ぼくはきっと、あいつらをつかまえてみせます。明智先生といっしょに、この怪物団をほろぼします。見ててください。きっとです。ぼくをこんなめにあわせたやつを、やっつけないで、おくものですか。」
小林少年ときくと、人びとはびっくりしたように、このかわいらしい子どもの顔を、ながめました。ああ、これが、明智探偵のかたうでといわれる少年名探偵だったのかと、にわかに、人びとのあつかいが、ちがってきました。
「そうか。きみがあの有名な小林君だったのか。まあ、部屋にはいってやすみなさい。そして、電話で警察にれんらくするがいい。」
年とった会社員は、そういって、小林君の手をとると、じぶんの会社の応接室へ、あんないするのでした。
怪物団の、ぶきみないたずらは、これだけではすみませんでした。そのおなじ日の夕方、高橋賢二少年のおうちには、もっとおそろしいことが、おこるのです。一週間まえ、小林少年に助けられた賢二少年の上に、またしても、あやしい魔の手が、おそいかかってくるのです。
その日のおひるすぎ、賢二君が、にいさんの壮一君にまもられて、ちょっと、おうちの外へ出ますと、その町かどに異様な箱車をひいた、白ひげのじいさんが、待ちかまえていました。
それは、このお話のさいしょに出た、あのきみょうな白ひげのじいさんで、引いていたのはあのときののぞきカラクリの車でした。これが、その日の、おそろしいできごとのまえぶれだったのです。
白ひげをはやし、はでなしまの洋服をきたじいさんは、ふたりの少年が出てきたのを見ると、ニコニコしながら、手まねきしました。
「さあ、きみたち、ここへおいで。そしてこののぞき穴から、中をのぞいてごらん。ふしぎなものが見えるから。」
ふたりの少年は、このじいさんを見るのは、はじめてですから、べつにうたがいもせず、箱車のよこについている、ふたつののぞき穴に、それぞれ、目をあてて、のぞいてみました。
すると、箱の中には、石をつみかさねた、いんきな、広い部屋がありました。西洋のむかしの、古いお城の中とでもいうような感じです。それが、ひろびろとして、まるで、ほんとうの部屋のように見えます。
のぞき穴には、レンズがはめてあるので、小さな模型が、何百倍にも大きく見えるわけです。
「きみたち、これをどこだとおもうね。日本のどこかの山おくにある鉄塔王国のお城の中だよ。見ててごらん。いまにおもしろいことが、はじまるから。」
じいさんが、やさしい声でいいました。
すると、石の部屋の一方の入口から、なにかしら黒い虫のようなものが、はいだしてきました。それが一ぴきだけではありません。つぎからつぎと、十何びきも、ゾロゾロはいだしてきたのです。それはカブトムシでした。みんな、背中に白いもようがあります。よく見ると、あの気味のわるいがい骨の顔ではありませんか。壮一君も、賢二君も、びっくりして、のぞき穴から、目をはなそうとしました。ところが、どうしたことか、首が動かないのです。目をはなすことができないのです。
それは、ふたりの頭を、じいさんの大きな両手が、グッとおさえつけていたからです。
「もうすこし、がまんしてみなさい。なにもこわいことはない。カブトムシは、箱の中から出られやしない。いまに、おもしろいことがおこるから、よく見ているんだよ。」
じいさんは、ふたりの少年の頭を、おそろしい力でおさえつけたまま、声だけは、ひどくやさしいのです。
レンズのはたらきで、一ぴきのカブトムシが、人間ほどの大きさに見えます。それが十何びきもはいだしてきたのですから、じつにものすごいありさまです。
少年たちは、こわいけれども、見たい気持もするので、おさえつけられたまま、目もつぶらないでいました。
すると、やがて、たくさんのカブトムシのなかの、一ぴきが、コロンとひっくりかえって、腹を上にして、もがきはじめました。賢二君たちはしりませんが、それは、同じ日の朝、丸ビルの中で、小林君のはいっている大カブトムシが、ひっくりかえったのと、そっくりのかたちでした。
やがて、レンズのむこうのカブトムシも、腹が二つにさけたのです。そして、その中から、ひとりの少年があらわれたのです。おやっとおもって、見つめていますと、十何びきのカブトムシが、つぎつぎと、ひっくりかえり、つぎつぎと、おなかがさけて、中から、ひとりずつ、かわいらしい少年が、あらわれてきました。そして、その少年たちは、列をつくって、石の部屋の中を、グルグルまわりはじめたのです。
「どうだね。おもしろいだろう。これは鉄塔王国のカブトムシ少年隊だ。賢二君、きみもいまに、この少年隊にはいるのだよ。そして、カブトムシのよろいをきせられて、訓練をうけるのだ。アハハハ……。」
じいさんは、長い白ひげをピクピクふるわせながら、大きな口で笑いました。そして、賢二君たちの頭をおさえていた手をはなしました。
自由になったので、おもわず、じいさんの顔を見あげますと、しわくちゃのじいさんは、大きな口をひらいて、赤い舌をヘラヘラさせて、いつまでも笑いつづけています。その顔が、童話に出てくる魔法つかいとそっくりに見えました。
ふたりの少年は、まるで背中に氷でもおしつけられたように、ゾーッとして、いきなりおうちのほうへ、かけだしました。うしろからじいさんの笑い声がおっかけてくるようで、気がとおくなりそうでしたが、やっとのことで、おうちの中へとびこむことができました。
いきせききってかけこんできた、ふたりの少年の話をきくと、おとうさんや書生などが、その町かどへかけつけてさがしましたが、あのあやしいじいさんも、箱車も、どこへいったのか、かげも形も見えませんでした。賢二君たちは、まぼろしを見たのでしょうか。それとも、あのじいさんは、ほんとうの魔法つかいだったのでしょうか。
その日の夕方、賢二少年は、おうちの二階のおしいれの中にある、昆虫標本の箱をとりにあがって、二階の広間の外を、通りかかり、ガラスのはまったしょうじから、ふと中をのぞくと、みょうなものが、目にはいりました。
それは十五畳の日本座敷で、いつもつかわない部屋ですから、一方の雨戸が、しめきったままになっているうえ、もう日がくれるじぶんなので、広間の中は、うす暗く、ものの形もはっきり見わけられないくらいですが、その床の間の上に、大きな黒いものが、寝そべっているように見えたのです。
書生の青木は、かわりものですから、ときどき、へんなことをします。だれもいない二階の広間にかくれて、ひるねをしていることもめずらしくないのです。賢二君は、ひょっとしたら、青木が床の間に寝そべっているのではないかと思いました。それで、そっとはいっていって、「ワッ。」といって、おどかしてやろうと、考えたのです。
賢二君は音のしないように、しょうじをあけて、足おとをしのばせながら、そのうす暗い床の間へ、近づいていきました。
ぼんやりしていた、黒い大きなものが近づくにつれて、だんだんはっきり見えてきました。ああ、それはなんだったのでしょう。賢二君は、ギョッと立ちどまったまま、身うごきができなくなってしまいました。心臓がパッタリとまってしまったようで、からだじゅうから、つめたい汗がながれました。
そこには、あのおそろしい巨大な妖虫が、うずくまっていたのです。自動車のヘッドライトのような目を、ギョロリとさせて、いまにも、こちらへとびかかってくるようなしせいで、うずくまっていたのです。
賢二君は、じっと立ったまま、怪物と、にらみあっていました。にげようとして身うごきしたら、とびかかってきそうで、にげることが、おそろしいのです。
ながい、にらみあいでした。しかし、妖虫は、すこしも動きません。賢二君がうしろをむいて、にげだすのを、じっと待っているかのようです。
それには、ひじょうな勇気がいりました。しかし、賢二君は、やっとその勇気をふるいおこして、あとも見ずに、部屋をかけだすと、ころがるように階段をおりました。そして、ワッと、泣きだしたのです。「どうした、どうした。」と、みんなが集まってきましたが、またしてもカブトムシが、あらわれたときき、その場所があまりへんなので、おとうさんも、きゅうには信用しません。賢二君は、こわいこわいと思っていつづけて、頭がどうかしたのではないかと、心配になってきたのです。しかし、ともかく、ねんのために、ふたりの書生をつれて、二階の広間をしらべてみることにしました。
三人でその部屋にはいっていきますと、なるほど、床の間にへんなものがいます。
「おい、電灯をつけなさい。」
書生のひとりが、スイッチをおしますと、パッと、部屋があかるくなりました。それと同時に、三人は、おもわず「あっ。」と声をたてて、廊下へ、とびだしてしまいました。たしかに、巨大なカブトムシが、そこにうずくまっていたからです。
しょうじのこちらがわから、そっとのぞいていますと、怪物は、まるで床の間のおきもののように、すこしも動きません。いくら待っていても、こちらへ、はいだしてこないのです。
「へんですね。あいつ、死がいじゃないのでしょうか。」
書生の広田が、廊下の戸袋のところにあった長い棒を、両手にかまえて、勇敢にも、部屋の中へ、はいっていきました。妖虫と一騎うちを、やるつもりなのです。
用心しながら、ジリジリと怪物に近づいて、いきなり、棒をふりかぶると、やっとばかりにうちおろしました。
すると、怪物はブルンと身ぶるいしたように見えましたが、べつに動きだすようすもありません。それに、なんだか、みょうな手ごたえでした。まるで、ひらいたコウモリガサをたたいたような、感じがしたのです。広田は、勇気をふるいおこして、棒をかた手ににぎったまま床の間にあがって、怪物の背中に手をかけました。そして、ゆりうごかすようにしたかとおもうと、いきなり、とんきょうな声をたてました。
「なあんだ。ぬけがらか。先生、こいつ、中はからっぽですよ。」
それをきくと、高橋さんと、書生の青木も、部屋にはいってきました。
「からっぽだって?」
「ええ、セミのぬけがらみたいなもんです。しかも、これは、ほんとうのカブトムシでなくて、ビニールをはった、こしらえものですよ。」
それから、三人で、よくしらべてみますと、太い針金を、かごのように、組みあわせて、それに、黒く光ったビニールを、はりつめた、つくりものであることが、わかりました。頭としりをもって、グッとおさえつけると、小さくおりたたむこともできるのです。
その朝、小林少年がとじこめられたカブトムシの衣装とは、つくりかたがちがっていました。怪物団はこういうものを、いくつも持っているのにちがいありません。
「しかし、なぜ、こんなものが、床の間においてあるのでしょうか。ただ、おどかしのためでしょうかね。」
書生の青木が、ふしぎそうに、いいました。高橋さんはしばらく考えていましたが、やがて、ひどく心配そうな顔になって、
「いや、ただのおどかしじゃない。怪物団のやつが、その中にはいって、やって来たのだ。そして、ここで皮をぬいで、うちの中のどこかへ、姿をかくしているのだ。むろん、賢二をかどわかすためだ。おい、すぐ警視庁へ電話をかけてくれ。中村警部をよびだすんだ。」
そのとき、広田がまた、とんきょうな声をたてました。
「あ、こんな紙きれがありました。カブトムシの腹の下に、おいてあったんです。」
ひろいあげて、よく見ますと、その紙きれには、鉛筆でつぎのような、おそろしい文句が書きつけてありました。
こんやじゅうに賢二君を、つれて行く。こんどこそ、まちがいない。早く警察に知らせるがいい。だが、なんの役にも、たたないだろう。おれたちは、かならず、やってみせる。
そして、文章のおわりに、黒いカブトムシの絵が、書いてあるのです。
三人は、いそいで、階下におりました。広田は賢二君をまもる役目をひきうけ、青木は電話室にとびこむと、捜査課の中村警部をよびだしました。
中村警部が電話口に出たので、高橋さんは受話器をとって、カブトムシのぬけがらのことと、怪物団の予告文のことをつげて、すぐきてくれるようにたのみました。
高橋さんは、カブトムシの怪人が、うちの中にかくれているといいましたが、はたして、そうだったでしょうか。怪人の予告文には「警察をよべ」と書いてありました。もしうちの中にかくれていたら、警察に来られては、つかまってしまうではありませんか。
では、怪人は、どんな計略を、考えだしたのでしょう。床の間のぬけがらは、いったい、どういう役目を、はたすのでしょう。やがて、中村警部のひきいる、警官の一隊がやってきます。そして、おそろしい、知恵くらべがはじまるのです。やがて、怪物団の思いもよらぬ魔術が、人びとをあっといわせるときがくるのです。
中村警部は、高橋さんの話をきくと、ひじょうにおどろいて、すぐ、部下の警官と刑事を四人ほどさしむける。わたしも、あとからいくつもりだという返事でした。
まもなく、日がくれて、外がまっ暗になったじぶん、おもてに自動車のとまる音がして、ふたりの制服警官とふたりの私服警官とがはいってきました。
私服警官のひとりが出した名刺には、警部補正木信三と印刷してありました。
四人は高橋さんから、いっさいのようすをききとると、まず二階の広間からはじめて、うちの中はもちろん、庭のすみずみまで、くまなくしらべまわりました。しかし、どこにもあやしい人間は発見されませんでした。
「裏庭に、みょうな足跡があります。人間の足跡ではありません。大きなカブトムシでも、歩いたような、気味のわるい足跡です。それから、二階のやねへ、はしごをかけたあとがあります。庭の土にふたつ、ふかいくぼみができているのです。あいつは、そこから二階へのぼったのでしょう。はしごはだれかが、もとの場所へもどしたようです。すると、あいぼうがいたのですね。そいつの足跡らしいものも、のこっています。しかしあやしいやつは、どこにもいません。われわれが来ることを知ってにげてしまったのでしょう。」
正木警部補は、三人の部下といっしょに応接間にもどってきて、主人の高橋さんに報告しました。
「ところで、おたくの人たちを、全部ここへ集めていただきたいのですが。ねんのため、ひとりひとり、たずねてみたいと思うのです。」
そこで、うちじゅうの人が応接室に集められました。主人の高橋さんのほかに、賢二君のにいさんの中学生の壮一君、書生の広田と青木、女中などでした。
「これでおたくのかたは全部ですか。」
正木警部補が一同を見まわしてたずねました。
「いや、このほかに、もう三人います。賢二がカブトムシを見て、熱を出してしまったものですから、部屋に寝させてわたしの家内と、もうひとりの女中がつきそっているのです。」
「ああ、そうですか。よろしい。賢二君は、こちらから出むいて、話をきくことにしましょう。」
警部補は、そういって、そばにいた部下に目くばせしますと、私服と制服の警官のふたりが、いそいで、賢二君の部屋の方へたちさりました。
それを見おくって、正木警部補は、ポケットから手帳をとり出すと、そこにいる人びとに、いろいろとたずねましたが、今までわかっていることのほかに、新しいことはなにもききませんでした。
そこへ、さきほどの制服と私服の警官が、大きなカブトムシのぬけがらを、ふたりでかかえて帰ってきました。
「これは証拠物件として、警視庁へ持ってかえるほうがいいと思いますが……。」
「うん、そうしよう。自動車の中へ入れておいてくれたまえ。で、賢二君はどうだった。」
「これということもありません。ただ二階へあがったとき、なんの気なしに広間をのぞくと、あいつがいたので、びっくりして、下へかけおりたというだけです。そのまえには、べつに、あやしいものも見なかったようです。」
それをきくと、正木警部補は主人の高橋さんにむかって、
「おたくのしらべは、これで、いちおうすみました。邸内には何者もかくれておりませんから、いまのところ、心配はありませんが、なにしろ魔法つかいといわれるやつのことですから、よほど用心しないといけません。われわれは、これから、おたくのへいの外や、となり近所を、しらべてみることにします。そして、見はりのものは、表門と裏門とに、のこしておくつもりですが、賢二君には、いつもだれか、ついていてください。けっしてひとりぼっちにしてはいけません。では、ちょっと、しつれいします。」
警部補は、部下をひきつれて応接間を出ました。高橋さんは、玄関まで見おくりました。大カブトムシのぬけがらをおりたたみもしないで、ふたりがかりでかかえた警官が、それを自動車に入れているのが見えました。そして、なにか運転手にさしずをしているようでした。すると、自動車は警官たちをのこして、そのまま、どこかへ走りさってしまいました。
高橋さんは、玄関からひきかえすと、熱を出して寝ている賢二君のことが心配ですから、いそいで、その部屋へ行ってみました。そして、おびえきっている賢二君になぐさめのことばをかけてやろうと、ふすまをひらいたのですが、ひらいたかとおもうと、高橋さんは、「あっ。」といったまま、そこに立ちすくんでしまいました。
女中が気をうしなって、ころがっています。そのひたいから血が流れているのです。高橋さんのおくさんは、手足をしばられ、さるぐつわをはめられて、たおれています。賢二君のふとんの中は、からっぽです。どこかへ、いなくなってしまったのです。
「おーい、だれかきてくれ。早く、だれか……。」
高橋さんは、廊下に出て、大声でどなりました。すると、バタバタと足音がしてふたりの書生がかけつけてきました。
「いまの警官たちが、近所にいるはずだ。早くよびもどしてくれ。賢二がさらわれましたといって。」
書生たちがかけだすあとについて、高橋さんは電話室にとびこむと、警視庁をよびだそうとしましたが、いくらダイヤルをまわしても、手ごたえがありません。耳にあてた受話器からは、なんの音も聞こえません。おりもおり、電話がこしょうをおこしたらしいのです。
電話をあきらめて、玄関へとびだしていきますと、外から帰ってきた書生たちにであいました。
「どうだ、警官は見つかったか。」
「うちのへいの外を、ぐるっとまわってみましたが、どこにもいません。近所のうちをたずねても、だれも知らないというのです。警官たちは、警視庁へ帰ってしまったのじゃないでしょうか。」
「そうか、しかたがない。きみ、うちの電話はこしょうだから、おとなりの電話をかりてね。警視庁の中村警部をよびだしてくれたまえ。早くするんだ。」
書生の広田が、おとなりの門の中へとびこんでいきました。高橋さんは、それをまつのも、もどかしく、「いや、わしがかけよう。」といいながら、広田のあとをおってかけだしていきました。
おとなりの電話は、すぐに、警視庁に通じました。高橋さんは、電話口にしがみついて、
「捜査課ですか。中村警部はおられませんか。わたしは高橋太一郎というもんです。……ああ、中村君ですか。ぼくは高橋。たいへんなことがおこったんだ。きみがよこしてくれた警官たちが、帰ったあとで、賢二が見えなくなったんだ。あのさわぎで熱を出したものだから、寝かせてあったのだが、そのふとんがからっぽなんだ。」
すると、中村警部の声が、みょうなことをいいました。
「モシモシ、あなた高橋太一郎さんですね。なんだかお話がよくわかりませんが、わたしからだといって、だれかが、そちらへいったのですか。」
「なにをいってるんだ。今から一時間ほどまえに、きみに電話でたのんだじゃないか。それで、きみが四人の警官をよこしてくれたんじゃないか。」
「待ってください。そりゃへんですね。わたしは、あなたの電話を聞いたおぼえはありませんよ。ちょっと待ってください。たずねてみますから。……あ、モシモシ、いまたずねてみましたが、捜査課からは、だれもあなたのおたくへ行ったものはありませんよ。たしかに警視庁のものだったのですか。」
「そうですよ。制服がふたりに、私服がふたりだった。その中に警部補がいてね。正木信三という名刺をくれましたよ。」
「え、マサキ=シンゾウですって、正木信三ですね。高橋さん、こりゃこまったことになりましたね。ぼくの方には正木信三なんて警部補は、ひとりもいないんですよ。その四人の警官は、賊の変装だったかもしれません。ともかく、おたくへまいります。くわしいことは、そちらで、うかがいましょう。」
「それじゃ、待っています。大いそぎできてください。」
そこで電話がきれました。いったい、これはどうしたわけなのでしょうか。
高橋さんは、そのまま家へ帰りましたが、なにがなんだかさっぱりわけがわかりません。一時間ほどまえに、たしかに警視庁へ電話をかけたのです。
ダイヤルをまわすと、交換手の女の声で、「こちらは警視庁です。」と、はっきりいいました。いくら魔法つかいの犯人でも、ダイヤルで自動的につながる電話を外からどうすることができましょう。まったく不可能なことです。これが第一のふしぎ。
第二のふしぎは、いつのまに、どうして、賢二君をさらっていったか、ということです。あれがにせ警官にしても、四人のものは、高橋さんの見ているまえを、どうどうと出ていったではありませんか。賢二君をつれさることなど、できるわけがありません。
では、四人のほかに、べつのやつが、裏庭からでも、しのびこんで、賢二君をさらっていったのでしょうか。それも、考えられないことです。さっきの警官が賢二君の部屋へ行ってから、高橋さんがおなじ部屋へ行くまでに、十分ぐらいしかたっていません。裏庭からしのびこんで、女中をなぐりたおし、おかあさんをしばって、さるぐつわをはめ、それから賢二君にもさるぐつわをはめて、窓からかつぎだし、裏のへいをのりこえてにげるというようなことが、たった十分でできるでしょうか。それに、へいの外は道路ですから、夜でも人通りがあります。人の通るすきを見て、へいをのりこえなければなりませんから、それにも時間がかかるはずです。とても、ふつうの人間にできることではありません。
いくら考えてもわかりません。やっぱりカブトムシの怪人は魔術師です。魔術でなくては、こんな、はやわざができるわけがないのです。
高橋さんは、書生に医者をよばせて、気をうしなっていた女中に手あてをしてもらい、賢二君のおかあさんも、さるぐつわや縄をとって、ひと間にやすませました。そして、そのときのようすを、たずねてみましたが、いきなり、うしろから目かくしをされて、しばられたから、なにもわからなかったという答えでした。女中も話ができるようになったので、きいてみますと、これも、あっというまになぐられたので、あいての服装なども、まるでおぼえていないというのです。
そんなことをしているうちに時間がたち、やがて玄関にベルの音がして、中村警部の声がきこえました。書生に応接間へ通すようにいいつけておいて、高橋さんがはいっていきますと、応接間には中村警部のほかに、ふたりの背広の男がいました。そのひとりのほうが、なんだか、見たような顔なのです。高橋さんは、思いだそうとしましたが、どうも思いだせません。それを見てとって、中村警部が紹介しました。
「ごぞんじないでしょうが、こちらは、私立探偵の明智小五郎さんです。明智さんはやっぱりわれわれにも関係のある事件で、大阪の方へ旅行しておられたのですが、それがうまくかたづいたので、きょう東京に帰られて、警視庁へおよりになったのです。さっきのお電話の話をしますと、ひじょうにおもしろい事件だから、じぶんも、いっしょに行ってみたいといわれるので、おつれしたわけです。こちらは、わたしの部下の刑事です。」
「ああ、あなたが明智先生でしたか。なんだか見たようなお顔だと思いました。新聞の写真でお目にかかっていたのですね。カブトムシの怪人のことは、ごぞんじでしょう。あなたのおるすちゅうに、あいつは、あなたにばけて、ここへやってきたのです。そして、わたしと賢二を自動車にのせてつれだしたのですが、あなたの少年助手の小林君のはたらきで、ぶじにすみました。わたしは、あなたのお帰りをどんなに待っていたかしれませんよ。」
高橋さんが、うれしそうにいいますと、明智もにこにこして答えました。
「そのことは、小林が大阪へ電話をかけてくれましたので、くわしく知っています。とんだやつに見こまれて、あなたもご心配でしょう。じつはもっと早く帰るつもりだったのですが、あちらの仕事が、てまどって、一週間ものびてしまいました。しかし、もうだいじょうぶです。わたしは、とうぶん、このカブトムシ事件に全力をつくすつもりです。賢二君は、きっととりかえしておめにかけます。」
「ありがとう。それで、わたしも、どんなに心づよいかわかりません。」
高橋さんは、名探偵の自信にみちたことばに、すっかりうれしくなって、たのもしげに、その顔を見あげるのでした。
「それに、けさ、小林が丸ビルで、ひどいめにあっています。小林ははずかしくて、わたしにあわせる顔がないといって、しおれています。そのかたきうちも、しなければなりません。」
こい眉、するどい目、高い鼻、にこやかな、しかし、ひきしまった口、有名なモジャモジャのかみの毛、名探偵は、そのモジャモジャ頭を、指でかきまわしながら、はげしい口調でいうのでした。
高橋さんは、明智探偵と中村警部に、こんやのできごとを、くわしく話しました。
「それにしても、警視庁の電話番号のダイヤルをまわして、ちゃんと捜査課が出たのに、中村君がにせものだったというのは、じつにふしぎです。またあいつらは、賢二を、いったいどうしてつれだしたか、それが、まったくわかりません。それについて、あなたがたのお考えがききたいのです。」
と、ふたりの顔を見くらべました。すると中村警部が、首をかしげながら、いうのです。
「わたしも、電話のことは、ふしぎでしかたがありません。もしや、捜査課に犯人のなかまがまぎれこんでいて、わたしの声をまねたのではないかと、よくしらべてみましたが、交換手は、だれも高橋さんから、わたしへの電話をとりついだおぼえがないというのです。つまり、あなたは警視庁のダイヤルをまわされたが、出たあいては、警視庁ではなかったわけですね。」
「しかし、もし、電話線が、まちがったところへ、つながったのなら、警視庁ですとこたえるはずがないじゃありませんか。中村君の口まねをしたやつは、悪人にきまっているが、わたしのまわしたダイヤルで、悪人の電話に、うまくつながるなんて、そんなことはできないことですよ。」
「それは、そうですね。じつにふしぎだ。」
警部も腕をくんで、考えこんでしまいました。
ふたりの話をだまって聞いていた明智探偵は、そのとき、「ちょっと、しつれい。」といって、どこかへ出ていきましたが、しばらくすると、にこにこしながら帰ってきました。
「わかりました。電話の秘密がわかりましたよ。ちょっと庭に出てごらんなさい。」
明智はそういって、さきにたって廊下へ出ると、庭の方へおりていきます。高橋さんと、中村警部と、その部下の刑事も、わけはわからぬけれど、ともかく明智のあとに、したがいました。
「高橋さん、あの庭のすみに、小さな小屋がありますね。物置ですか。」
「そうです。がらくたが、ほうりこんであるのですよ。」
「あの中に、私設電話局ができていたのです。」
明智が、みょうなことをいいました。
「え、私設電話局ですって?」
「ここに懐中電灯があります。これで物置きの中を見てごらんなさい。」
高橋さんは、いわれるままに、懐中電灯をうけとると、物置小屋の戸をひらいて、中をのぞきこみました。
「ほら、てんじょうから二本の電線が、たれさがっているでしょう。あのさきに、電話機がとりつけてあったのです。それから外へ出てやねをごらんなさい。むこうのおもやのやねから、この小屋のやねへ、やっぱり二本の電線がひっぱってある。わかりましたか。この二本の電線は、ほんとうは、あすこに立っている電柱につながっていたのです。それを切りはなして、この小屋へひっぱり、電話機をすえつけて、私設電話局をつくったのです。
犯人は電話機を持ってにげたが、電線は、そのままにしておいたのです。あとになって秘密がばれても、犯人はすこしも、こまらないのですからね。
つまり、犯人のひとりが、この小屋にかくれて、あなたが警視庁へ電話をかけるのを待ちかまえていたのです。ダイヤルはどこをまわしても、みんなここへつながるわけです。そして、ひとりで、警視庁の交換手の女のこわいろをつかったり、中村君のこわいろをつかったりしたのです。
目的をはたすと、電話機をとりはずして、それをかついでスタコラにげだしたというわけです。敵ながら、あっぱれですね。じつにかんたんな、うまいやり方を考えたものじゃありませんか。」
「ふーん。」高橋さんは、おもわず、うめき声を出しました。
「そいつのあいずで、あの四人のやつが、やってきたんだな。しかし、明智さん、まだひとつ、かんじんなことが、わたしには、どうしてもわかりませんが……。」
「賢二君を、どんなふうにして、つれだしたかということでしょう。」
「そうです。」
「それなら、わけのないことですよ。わたしは、あなたのお話をきいたときに、その秘密がわかりました。賢二君がつれだされるのを、高橋さん、あなたは、その目でごらんになっていたのですよ。」
高橋さんと中村警部は、この名探偵のことばに、びっくりして、顔を見あわせました。そういわれても、まだわからなかったからです。
高橋さんは、ふしぎでたまらぬという顔つきです。明智は、にこにこしながら、
「これも、あいつらの手品ですよ。賢二君は、あなたの目の前で、つれだされたのです。それが、あなたには見えなかったのです。」
「え、わたしの目の前を? それはいったい、どういういみです。」
「手品ですよ。じつにうまいことを考えたものだ。にせ警官がカブトムシのぬけがらを、ふたりでかかえて出たといいますね。さっきのお話では、ビニールでできた、そのカブトムシのからだは、こうもりがさのように、小さくおりたためたというじゃありませんか。そうすれば、なにもふたりでかかえなくても、ひとりで持てるはずです。それをおりたたみもしないで、もとのかたちのままで、ふたりでかかえていったというのは、へんではありませんか。」
高橋さんは、それを聞くと、みょうな顔をして、しばらく目をパチパチやっていましたが、はっと気がついて、顔色をかえました。
「あっ、それじゃ、あの中へ賢二を……。」
「そうです。そのほかに考えようがないのです。賢二君をしばって、さるぐつわをして、カブトムシのぬけがらの中に、とじこめたのです。だから、おりたたむことが、できなかったのです。ふたりがかりでなくては、はこべなかったのです。」
「ああ、そうだったのか、そこへ気がつかないとは、わたしはなんというバカだったのでしょう。カブトムシが小さくおりたためることは、書生にきいて知っていました。しかし、あいてを警官だと信じていたので、そこまでうたがわなかったのです。まんまと手品にひっかかりました。じつに、とりかえしのつかない失敗でした。」
高橋さんは、そういって、さもくやしそうに、うつむくのでした。中村警部は、気のどくそうな顔で、
「高橋さん、そんなにがっかりなさることはありません。われわれは、賢二君をとりもどすために全力をつくします。明智さんも、きっと、ほねをおってくださるでしょう。」
と、なぐさめ、それから三十分ほど、賢二少年のゆくえをさがしだすてだてについて、いろいろ話しあっていましたが、そのとき、書生の広田が、顔色をかえて、とびこんできました。
「たいへんです。電話が、カブトムシから電話がかかってきました。……こちらへ、つなぎましょうか。」
高橋さんは、それをきくと、おもわず立ちあがりましたが、また、こしかけて、
「うん、こちらへ、つないでくれ。」
と、卓上電話の受話器をとりあげました。
「もしもし、きみはだれだね。……うん、わしは賢二の父の高橋太一郎だ。」
「おれはカブトムシだよ。わかるかね。ウフフフフ……。おい、高橋さん、さっそくだが、とりひきの相談だ。賢二君と、このまま一生わかれてしまうか、一千万円か、どちらかだ。きみの身分で、一千万円はたいした金額じゃない。かわいい賢二君を買いもどしたらどうだね。」
「わしは、いま手もとに、そんな大金はない。」
「あした一日でできるだろう。きみが、銀行にどれほど預金があるか、株券をどれほど持っているか、おれはちゃんとしらべているのだ。あすの夕方までに一千万円をつくるのはわけはない。」
「賢二はいま、どこにいるのだ。」
「東京にいる。おれは手あらいことはしないから、心配しないでもよろしい。しかし、身のしろ金を持ってこなければ、きみはかわいい賢二君と、一生あうことができなくなるのだ。」
「身のしろ金を、どこへ持っていけばいいのだ。」
「いまくわしく教える。紙とえんぴつを用意したまえ。……いいかね、あすの晩、九時だ。ちょっきり九時にくるのだ。場所は、新宿駅から八王子街道を、西へ一キロ半ほど行くと、右に常楽寺という大きな寺がある。その寺のうしろの墓地のうらに、戦災でやられたままになっている大きなやしきのあとがある。コンクリートのへいがこわれて、中は草ぼうぼうのばけものやしきだ。建物は焼けてしまったが、洋館のレンガの壁だけが、少しのこっている。その壁の中へはいって、よくさがすと、地下室への階段が見つかる。それをおりて、地下室へはいるのだ。おれはそこで待っている。」
「賢二を、そこでひきわたすのか。」
「そうだ。一千万円の札たばとひきかえだ。現金でなくちゃいけない。ちょっとかさばるし、重いけれども、ふろしきづつみを二つにして、両手でさげれば持てないことはない。……常楽寺の前まで自動車できてもかまわない。だが、そこでおりて自動車を帰し、きみひとりになるのだ。そして、ふろしきづつみをさげて、墓場のうらてまでくればいい。おれはまちがいなく地下室で待っている。暗いから懐中電灯を持ってきたほうがよろしい。」
高橋さんは、そこまできくと、ちょっと電話の送話口をおさえて、明智と中村警部に相談しました。
「ともかく、しょうちしたと答えておいてください。」
中村警部が、ささやき声で、さしずしました。
「よろしい。あすの晩九時までに、一千万円の現金を持って、その地下室へ行くことにする。きみのほうも、賢二をかならずつれてくるのだぞ。」
「だいじょうぶだ。いまきみは、だれかと相談したね。中村警部がそこにいるんじゃないかね。よろしくいってくれたまえ。……警察は、われわれの出合いの場所を知ったわけだね。だから、おおぜいで、おれを待ちぶせして、つかまえようとするだろうね。しかし、それはよすようにいってくれたまえ。おれのほうには、あらゆる準備ができているのだ。つかまるようなへまはけっしてしない。それよりも、そんなことをすれば、きみは永久に賢二君にあえなくなる。わかったね。中村君にも、よくいっておくんだ。じゃあ、まちがいなく、九時だよ。」
そこで、ガチャンと電話がきれました。
「しかたがありません。わたしのまけです。身のしろ金を用意して、賢二とひきかえることにしましょう。」
高橋さんが残念そうにいいました。
「警察としては、身のしろ金などおだしになることをおすすめはできません。しかしこのチャンスをはずすと、賢二君をとりもどすことが、むずかしくなります。こちらは、このチャンスをうまく利用するのです。わたしの部下の、うでききの刑事を十人ばかり、そのばけものやしきの地下室のまわりにはりこませます。むろん、みんな変装をして、あいてにさとられぬようにします。そして、あなたが、賢二君をとりもどすのを、たしかめたうえ、怪人団を、まわりからかこんで、ひっとらえてしまいます。お金もとりかえします。しかし、お金はにせものではいけません。あいても、じゅうぶん用心しているでしょうから、にせものと気づかれたらおしまいです。やはり、ごめんどうでも、ほんとうの札たばを、用意してくださらなくてはいけません。ねえ、明智さん、このほかにてだてはないと思いますが……。」
中村警部が相談するようにいいますと、明智はあまり乗り気でもないようすで、
「警察としては、そうするよりしかたがないでしょうね。しかし、あいてをにがさないようにしてください。賢二君をとりもどすまでは、けっして、あいてに気づかれてはいけません。刑事諸君にそのことは、よく注意しておいてください。」
明智は、それをなんどもくりかえして、ねんをおすのでした。
そのあくる日の夕方のことです。常楽寺のうらの、草ぼうぼうのおばけやしきの、こわれたコンクリートべいのそばを、酒屋のご用ききといったかっこうの、三十ぐらいの男が、あたりをキョロキョロ見まわしながら歩いていました。それは中村警部の部下の刑事の変装姿でした。
空はいちめんの雲にとざされ、風ひとつないどんよりとした日でした。歯がかけたように、こわれているコンクリートべい。その中の、ひざまでかくれるような草むら、うしろのほうには、常楽寺の墓場が、うす暗い木立ちの中に、チラチラと見えています。あたりは、シーンとしずまりかえって、人っこひとり通りません。
「なるほど、こいつはおばけやしきだ。なんて気味のわるいところだろう。」
ご用ききにばけた刑事は、そんなことをつぶやきながら、だれも人のいないのを見すまして、コンクリートべいのやぶれたあいだから、そっと中へはいっていきました。ところが、一歩足を入れたかとおもうと、かれははっとしたように、やにわに、草むらの中へ、身をかがめたのです。なにを見たのでしょう。
やはりへいぎわの、ずっとむこうの草むらの中に、なんだか黒いものが、うごめいていました。草のあいだから、首だけ出してじっとその方を見ていますと、やがて、それはふたりの人間であることがわかりました。なんだか、ゴミくずみたいな、じつにきたならしい人間です。ああ、わかりました。こじきです。こじきがこんなところに、やすんでいたのです。ひとりは女こじき、ひとりはその子どもでしょう。十四─五歳のきたない少年です。
刑事は、草の中を、その方へ近よっていきました。そして、よく見ると、女こじきはかた手で腹をおさえて、からだを、ふたつにおるようにしてうずくまっているのです。赤ちゃけたかみの毛は、スズメの巣のようにモジャモジャしていて、顔はあかでよごれてまっ黒です。着物ともいえないようなボロぎれを、からだにまとい、縄でおびをしています。
子どもこじきは心配らしく、女こじきの背中を、さすって、なにかいっているのですが、これも、黒くよごれたボロボロのシャツと、ズボンで、顔はまっ黒です。
「どうしたんだね、腹でもいたいのかね。」
ご用ききにばけた刑事が、女こじきの顔をのぞきこみながら、たずねました。
「うん、おっかあのしゃくがおこったんだ。おめえジンタン持ってねえか。あれのむと、なおるんだがな。」
少年こじきが、ジロジロと刑事の顔をながめながら、ぶえんりょにいうのです。
「ジンタンなんて持ってないね。そんなにいたいのかい。」
「なあに、たいしたこたねえんです。じきによくなります。」
女こじきが、うつむいたまま、かすれた声で答えました。
「そうか、病気ならしかたがないが、日がくれないうちに、ほかへ行ったほうがいいよ。こんやは、このばけものやしきに、おそろしいことがおこるんだ。おまえたちが、ここにいると、ひどいめにあうかもしれないよ。」
刑事はそういって、あたりを見まわしながら、へいの外へ出ていきました。ふたりのこじきも、それから二十分ほどするとどこかへ姿を消してしまいましたが、あとになって、このこじきは、にせものだったことがわかるのです。何ものかが女こじきと、少年こじきにばけていたのです。ふたりは、いったい、だれとだれだったのでしょうか。また、なんのために、このばけものやしきへ来ていたのでしょうか。
さて、その夜の九時かっきりに、高橋さんは、おばけやしきの地下室の階段をおりていきました。札たばのはいったふろしきづつみの一つをこわきにかかえ、一つを、左手にさげ、右手には懐中電灯を持って、足もとをてらしながら、一段一段、おずおずと階段をおりていきます。
まだ雨はふっていませんが、いつふりだすかわからないような、まっ暗な夜です。道もない草むらをかきわけて、ここまで来るのもやっとでした。高橋さんは、りっぱな実業家ですから、おばけをこわがるような人ではありませんが、それでも、なんとなく気味がわるいのです。それに、地下室に待ちかまえているあいてが、例のおそろしいカブトムシだと思うと、なんだかゾーッとしてくるのでした。でも、かわいい賢二君を、とりもどすためですから、どんなことでも、がまんするつもりです。
コンクリートの階段は、ひびわれて、そのあいだから草がはえているので、うっかりすると、足がすべりそうになります。高橋さんは用心しながら、だんだんふかく、おりていきました。
「懐中電灯をけすんだっ。」
足のしたの穴の中から、気味のわるい声が、ひびいてきました。高橋さんはビクッとして、立ちどまりましたが、それは地下室に待っている怪人の声とわかったので、懐中電灯をけしてポケットに入れ、
「わしは高橋だ。賢二はそこにいるのだろうな。」
とたずねました。見ると、地下室の中からボーッとあかりがさしています。電灯ではありません。ローソクの火のようです。
「賢二君はここにいる。きみはひとりだろうね。」
「ひとりだ。やくそくにはそむかないよ。」
「よし、おりてきたまえ。」
高橋さんは階段をおりきって、地下室へはいりました。やっぱりローソクでした。部屋のなかほどに古い木箱がおいてあって、その上に一本のローソクが立っているのです。
そのローソクのむこうがわに、なんだか黒い大きなものが、モゾモゾとうごめいています。高橋さんはギョッとして、にげだしそうになりました。
そこには、おばけがいたのです。まっ黒なやつが、大きなまんまるな目で、じっとこちらをにらんでいたのです。それは、あの人間よりも大きなカブトムシでした。
それはビニールのこしらえもので、中には人間がはいっているのですが、そうと知っていても、こんなさびしい穴ぐらの中で、この巨大な妖虫とさしむかいになるのは、気持のよいものではありません。
「ウフフ……、おれの姿が、おそろしいんだな。なあに、きみをとってくうわけじゃない。安心したまえ。おれは顔を見られたくないんだ。だから、こんな姿で、やって来たんだ。きみをおどかすつもりじゃないよ。」
カブトムシの、大きなツノの下のみにくい口の中から、その声が聞こえてくるのです。中に人間がはいっていることはいうまでもありません。
高橋さんも、それをきくと、おちつきをとりかえしました。
「賢二は? 賢二はどこにいるんだ。」
「よく見たまえ。おれのうしろの部屋のすみっこにいる。泣き声をたてられると、うるさいから、さるぐつわがはめてある。きみにひきわたすまでは、このままにしておくよ。」
ローソクの光があわいので、いままで気づかなかったのですが、いわれてみると、部屋のすみに、小さい姿が、うずくまっていました。賢二君はかわいそうに、うしろ手にしばられて、てぬぐいで、しっかり口のへんをしばられています。さっきから、おとうさんの姿を見ていたのでしょうが、立ちあがることも、声を出すこともできないのです。たった一日のあいだに、なんだか、ひどくやせたように見えます。
「さあ、ここに、やくそくの一千万円をもってきた。これをやるから、はやく、賢二の縄をといてくれ。」
「よし、金はたしかに、うけとった。まさかにせ札ではなかろう。きみは、そんなこざいくをする人とはおもわない。しかしもしにせ札だったら、おれのほうには、ちゃんと、しかえしのてだてがあるんだからな。……それじゃ、賢二君はかえしてやる。おれは、こんな不自由なからだだから、きみがここへ来て、縄をといて、かってに、つれていくがいい。」
いかにも、カブトムシの足では、縄をとくこともできないわけです。そこで、高橋さんは、気味のわるいカブトムシのそばをよけるようにして、部屋のすみに近づき、賢二君の縄をとき、手をとって、立ちあがらせました。そして、さるぐつわのてぬぐいをほどくと、そのまま、賢二君をひったてるようにして、階段をかけのぼり、外に出ると、いきなり、ポケットの懐中電灯をとりだして、スイッチをおし、原っぱのほうにむかって、ふりてらしました。
それがあいずでした。やみの中から、草むらをはうようにして、黒いかげが、あちらからも、こちらからも、地下室の入口にむかって、かけよって来ました。いうまでもなく、中村警部の部下の刑事たちです。
すこしも音をたてないで、黒い人の姿が、ひとり、ふたり、三人、五人、十人、たちまち地下室の入口に集まりました。暗くて、よくわかりませんが、夕方のご用ききにばけた刑事も、その中にいるのでしょう。十人が十人とも、てんでに、いろいろなものにばけています。刑事や警官らしい姿の人は、ひとりもおりません。
地下室は一方口です。この階段のほかに出口はありません。もう怪人は、ふくろのネズミです。こちらは十人、あいてはひとり、いかなる魔法つかいの怪人でも、とても、かなうものではありません。
声もたてず、刑事たちは、つぎつぎと階段をおりていきました。ローソクはもとのままに、にぶい光をはなっていました。巨大な妖虫も、もとの場所に、うずくまっていました。
刑事たちがはいっていっても、あいてはすこしも動きません。シーンとしずまりかえっています。あまりしずかにしているので、なんとなく気味がわるくなってきました。
「ぼくたちは警察のものだ。さすがの怪物も、まんまとわなにはまったな。」
ひとりの刑事が、大声でどなりつけました。すると、ああ、これはどうしたことでしょう。カブトムシが大きなツノをふりたてて、いきなり、
「ワハハハ……。」
と笑いだしたのです。おかしくてたまらないように、いつまでも笑っているのです。
刑事たちは、あっけにとられましたが、もうグズグズしている場合ではありません。さきにたっていた三人の刑事が、ひとかたまりになって、いきなりカブトムシのからだに、とびかかっていきました。
すると、そのとき、じつにきみょうなことがおこったのです。カブトムシのからだが、三人の刑事の手の下で、グニャグニャとへこんでいったのです。
刑事たちは、たおれそうになるのをやっとふみこたえて、おもわず、「あっ。」と、おどろきのさけび声をたてました。
カブトムシのからだは、からっぽだったのです。中の人間は、いつのまにか消えうせていたのです。では、いま、あんな大きな声で、笑ったやつは、いったいどこへいったのでしょう。カブトムシのぬけがらが、笑うはずがないではありませんか。
地下室には一つしか入口がありません。その入口の前には、たえず人がいました。そこからは、ぜったいに、にげられないのです。では、ほかに秘密の出入り口でもあるのかと、刑事たちは地下室のすみずみまでしらべましたが、ネズミの出はいりする穴さえありません。怪人は煙のように消えうせてしまったのです。
怪人はいったい、どんな魔法をつかったのでしょうか。
「おやっ、これはなんだろう。」
ひとりの刑事が、地下室の床においてある、一つのふろしきづつみを指さしました。
それをきくと、うしろの方にいた高橋さんが、賢二君の手をひいて、そこへ出てきました。
「あっ、これは賢二とひきかえに、あいつにやった一千万円の札たばです。」
と、ふろしきの中をしらべてみましたが、
「たしかに、わたしの持ってきたまま、そっくりのこっています。あいつは、かんじんのお金をわすれて、にげだしたのでしょうか。これはいったい、どうしたわけでしょう。」
高橋さんは気味わるそうに、あたりを見まわすのでした。刑事たちも、いよいよわけがわからなくなって、だまって立ちすくんでいました。
そのときです。とつぜん、どこからか変な笑い声がひびいてきました。
「アハハハ……、高橋さん、きみがわるいのだよ。やくそくにそむいて、刑事なんか、つれてくるからさ。おれの方では、こんなこともあろうかと、ちゃんと用意をしていたんだ。もう金はほしくない。そのかわり、賢二君を遠くへつれていくのだ。山の中の鉄塔王国へつれていくのだ。……それじゃあ、あばよ。」
そして、ふしぎな声は、パッタリととだえてしまいました。
だれもいないのに、声だけが聞こえてきたのです。高橋さんも刑事たちも、おばけの声でも聞いたように、ゾーッとして、たがいに顔を見あわせるばかりでした。
それにしても、いまの声はわけのわからないことをいいました。
お金はほしくないから、賢二をつれていくというのですが、お金もここにあるし、賢二君もちゃんと、ここにいるではありませんか。あれはいったい、どういういみなのでしょう。
高橋さんはそのとき、ギョッとして、手をひいている賢二君の顔をみつめました。
「ちょっと、その懐中電灯の光を……。」
と、そばの刑事にたのんで、その光を賢二君の顔にあててもらいました。パッとあかるくてらしだされた顔。少年はキョトンとして、こちらを見あげています。
その顔は賢二君にそっくりでした。しかし、どこかしらちがっているのです。じっと見ていると、だんだん、そのちがいが、ひどくなってくるのです。
「おい、おまえ、賢二じゃないのか。いったいきみは、どこの子だ?」
高橋さんが、はげしい声で、しかりつけるようにたずねました。
「ぼく、木村正一だよ。賢二じゃないよ。」
少年は、やっぱり、キョトンとしています。
「どうして、賢二のかえだまになったんだ。わたしは、きみを賢二だとおもいこんでいたんだよ。」
「ぼく、学校の帰りに、変なやつにつかまって、ここへ、つれてこられたのです。そして、口と手をしばられたんです。でも、がまんしていれば、いまに高橋さんという人が来て、その人につれられていけば、おうちへ帰れるし、それから、エンジンで動く大きな船のオモチャを、くれるっていうやくそくだったんです。おじさんは高橋さんだから、ぼくに船をくれるんでしょう。」
木村というこの少年は、あまりりこうでないようです。怪人にうまくごまかされて、それを信じているらしいのです。
「そうだったか。それにしても、きみはあのカブトムシのおばけが、こわくなかったのかね。」
「こわかったよ。でも、しばられてるので、にげだせなかった。それに、ぼくをここへつれてきた変なやつが、にげると殺してしまうといったんです。」
少年のいうことは、うそではないようでした。それならこの少年は、悪人のために、かえだまにつかわれただけで、べつに罪はありません。
「よし、それじゃあ、きみはうちへつれていってあげよう。しかし、船のオモチャは、だめだよ。おじさんは、ひどいめにあったのだ。それどころではないのだ。賢二という、きみとよくにた子どもを、さらわれてしまったのだからね。」
高橋さんは、くやしそうにいいました。こんなよくにた、かえだまさえいなければ、だまされはしなかったのにと、この少年が、にくらしくなってくるのでした。
ああ、賢二少年は、やっぱり、鉄塔王国とやらへ、つれさられてしまったのです。
お金さえやれば、ほんとうの賢二君を、かえしてくれたのかもしれないのに、刑事たちをつれてきたばかりに、怪人にうらをかかれて、とりかえしのつかぬことになってしまいました。
高橋さんは、中村警部をうらめしく思いました。警部さえ、刑事をはりこませるようなことをしなければ、こんなことにはならなかったのです。
それにしても、名探偵明智小五郎は、いったい、なにをしているのでしょう。小林少年は、どこにいるのでしょう。さすがの名探偵も、こんやのことは、見通しがつかなかったのでしょうか。
みんなが、うまい考えもうかばないで、地下室に立ちならんだまま、ぼんやりしていたとき、うしろの階段から、なにか黒いかげのようなものが、地下室へおりてきました。
「だれだっ、そこへきたのは、だれだっ。」
ひとりの刑事が、それに気づいて、いきなり懐中電灯をさしつけながら、どなりました。その電灯の光の中にうきだしたのは、きたない女こじきでした。夕方、ご用ききに変装した刑事が、原っぱで出あったあの女こじきでした。
「なあんだ、こじきか。いまごろ、どうしてこんなところへ、やってきたんだ。この地下室で寝るつもりなんだろう。いけない。いけない。外へ出ろ。さあ出るんだ。」
べつの刑事が、女こじきを、らんぼうにつきとばそうとしました。
ところが、こじきは、つきとばされるどころか、刑事の手をはねかえして、グングン前にすすんできます。みかけによらず力のつよいやつです。そして、高橋さんの前まで来て、みんなの方にむきなおり、にこにこ笑いだしたではありませんか。
「こいつ、きちがいだな。こらっ、ここはおまえなんかの来る場所じゃない。出ていけ。出ないと、ひどいめにあうぞ。」
刑事にどなりつけられても、女こじきはへいきです。そして、変なことをいいだしました。
「ここは、ぼくの来る場所だよ。ぼくが来なければ、きみたちでは、どうにもできないじゃないか。」
それは、はぎれのよい男の声でした。またしても、わけのわからないことがおこりました。
女こじきが、男の声でしゃべっているのです。
「ハハハ……、わからないかね。ほら、これを見たまえ。」
女こじきは、そういいながら、手をあげて、頭の毛をつかみ、グッと上にもちあげました。すると、きたないかみの毛が、スポッとぬけて、その下から男の頭があらわれたではありませんか。女のかみの毛は、カツラだったのです。
下からあらわれたのは、モジャモジャの男の頭でした。顔はススでもぬったようにまっ黒でしたが、よく見ると、どこか見おぼえのある顔でした。
「あっ、それじゃ、あなたは……。」
「明智小五郎です。おわかりになりましたか。」
ああ、そのきたない女こじきは、名探偵明智の変装姿だったのです。高橋さんも刑事たちも、あっけにとられて、しばらくは口をきくこともできませんでした。
「ぼくは、ここへ刑事諸君をはりこませたら、かえって、あぶないと思ったのです。怪人団は、もうひとつ、おくの手を考えるかもしれないとおもったのです。それで、だれにもしらさず、女こじきにばけて夕方から、この原っぱを見はっていました。そして、まんいちの場合には、とびだしてくるつもりだったのです。」
明智は、まるで演説でもするように話しはじめました。
「高橋さんが、札たばのふろしきづつみをさげて、地下室へはいっていかれるのも見ていました。それから、しばらくして、高橋さんが、ひとりの少年をつれて出てこられたのも、刑事諸君が、そこへかけつけて、地下室へおりていくのも見ていました。そして、そっと入口の階段に近づき、中のようすを聞きますと、少年が賢二君のかえだまだったことや、怪人が消えうせたことがわかりました。
ところがぼくは、一度も目をはなさないで、この地下室を見はっていたのに、だれも、ここから出ていったものはなかったのです。この地下室には、階段のほかに出入り口のないことはたしかです。
暗くなってから、原っぱのむこうに、一台の自動車がヘッドライトを消してとまっていました。ぼくは、ふと思いあたることがあったので、その自動車に注意していたのですが、つい今しがた、それが、どこかへ走りさったのです。さっき、この地下室で、だれもいないのに、怪人の声が聞こえましたね。あの声のすぐあとで、その自動車は出発したのですよ。このいみがわかりますか。」
「では、その自動車に怪人団のやつらが、のっていたとおっしゃるのですか。」
高橋さんがおもわず、ききかえしました。
「そうです。怪人団の首領が、のっていただろうとおもいます。」
「それを、あなたは、にがしてしまったのですか。自動車に気づいていながら、なにもしなかったのですか。」
「いや、なにもしなかったのではありません。そこにいるご用ききにばけた刑事さんは、女こじきが、ひとりの子どもこじきをつれていたことを、しっているでしょう。あの子どもこじきは、どこへいったと思います。怪人の自動車のどこかにかくれて、尾行しているのです。ひじょうな冒険です。しかし、あの少年ならだいじょうぶですよ。」
「あっ、それじゃあ、あの子どもこじきは、先生の助手の小林君だったのですか。」
ご用ききに変装した刑事が、とんきょうな声をたてました。
「そうです。小林はリスのようにすばしこくって、よく頭のはたらく少年です。こういう尾行は、おとなにはできません。からだの小さい少年でなくては、うまくいかないのです。小林はヒルのように、くっついたら、はなれませんよ。そして、怪人団の本拠まで、ついていくでしょう。鉄塔王国がどこにあるかを、たしかめるまでは、はなれないでしょう。
こじきにばけた小林は、大きなきれの袋をさげていました。そのなかには、いろいろなものが、はいっているのです。それをつかって、小林は、きっと目的をはたすでしょう。ぼくは、あの少年の力を信じているのです。」
それをきいて、みんなはやっと安心しました。あの名助手の小林少年が尾行したのなら、けっして怪人をにがすことはないだろうと思ったからです。
「それにしても怪人は、どうして、この地下室からにげだせたのでしょう。それから、だれもいないのに声が聞こえたのは? ……わたしには、なにがなんだか、さっぱりわかりませんが、明智さん、あなたはそのわけがおわかりですか。」
高橋さんが、みんなの聞きたいと思っていたことをたずねました。
「ぼくは、そのわけを、自動車が走りさったときに、とっさに気づいたのです。すこしおそすぎたかもしれません。しかし、怪人団の本拠をつきとめるためには、おそいほうがよかったともいえるのです。ちょっと待ってください。ぼくの考えがあたっているかどうか、いま、たしかめてみますから。」
明智はそういって、足もとにつぶされたようになって、よこたわっていた大カブトムシのうえにしゃがみました。そして、そのぶきみな口に手をかけて、グッとひらき、口の中へ、かた手を入れて、しばらくなにかやっていたかとおもうと、やがて、そこから、小さな器械のようなものを取りだしました。その器械には長いひもがついていて、口の中からズルズルと、ひきだされてくるのです。
「これです。これは小型のラウドスピーカーですよ。怪人が、自動車の中にあるマイクロフォンにむかって、口をきくと、その声が、このラウドスピーカーから出るという、しかけです。それで、カブトムシの中に、人間がいて、ものをいっているようにかんじられたのです。むろん、自動車と、この地下室のあいだには、ながい電線がひいてあったのです。草にかくしておけば、電線など、だれも気がつきませんからね。
それで、むこうの声が、聞こえたわけが、わかりました。しかし、こちらの声が、自動車の中まで、つたわらなければ、問答ができません。それには、この地下室のどこかに、マイクロフォンが、しかけてあるはずです。」
明智はそういって、刑事の懐中電灯をかりて、地下室の中を、あちこちとてらしていましたが、てんじょうのすみに、ひどくクモの巣のはっている場所を見つけました。
「あれかもしれない。クモの巣でかくしてあるのかもしれません。そのへんに、竹きれかなにかありませんか。」
それをきくと、ひとりの刑事が、どこからか、一本の竹きれをさがしだしてきました。明智はそれをうけとって、てんじょうのすみのクモの巣をはらいのけますと、あんのじょう、そこに小さなマイクロフォンが、とりつけてあったではありませんか。
「これですっかり、秘密がとけました。高橋さんの庭の物置小屋に、電話機をすえつけたのと同じやりかたです。怪人団には、電気のことを、よく知っているやつが、いるらしいですね。」
ああ、なんということでしょう。高橋さんは、カブトムシの中に怪人がいるとおもいこんで、しんけんになって、ラウドスピーカーと話をしていたのです。
「明智さん、ちょっと待ってください。それじゃあ、わたしに一千万円もってこいといったのが、むだになりますね。怪人団は、さいしょから、金をとる気がなかったのでしょうか。これがどうもふにおちませんね。」
高橋さんが、首をかしげていうのでした。
「いや、むろん、金はほしかったのです。しかし、ゆうべ、あなたと電話で話したとき、そばに中村警部がいることを感づきましたね。それで用心をしたのですよ。金に目がくれて、つかまってしまっては、なんにもなりません。そこで、こんなことを考えついたのです。あなたが、ひとりで来て、札たばのふろしきづつみをおいて行ったら、あとから、とりにくるつもりだったのでしょう。そして、なんのじゃまもなく、金が手にはいったら、そのときはじめて、ほんとうの賢二君をかえすつもりだったのかもしれません。
また、もし刑事が地下室へ、のりこんでくるようなことがあったら、札たばはそのままにして、ほんものの賢二君をどこかへつれさり、あなたや中村警部に、ざまをみろと、思いしらせる計画だったのです。二つに一つ、どちらにしても、そんはしないという、じつにうまい考えですよ。」
それをきくと、人びとは、怪人のおくそこしれぬ、悪知恵にあきれかえってしまいました。しかし、明智探偵の知恵は、さすがに、それよりも、もういちだん、すぐれていました。怪人の悪だくみを見やぶったばかりか、小林少年にさしずをして、怪人の本拠をつきとめようとさえしているのです。
原っぱのすみの、暗やみの中に、ヘッドライトも、ルームランプも消した一台の大型自動車が、とまっていました。それからすこしはなれた、ふかい草むらの中に、ひとりのこじき少年が、はらばいになって、じっと自動車の方を見つめていました。
このこじき少年は、いうまでもなく、明智小五郎の助手の小林君です。どこまでも、怪人団の自動車を尾行して、その行くさきをつきとめるのが小林少年の任務でした。しかし、尾行するといっても、こちらは自動車をもっていないのです。あいての自動車のどこかへ、もぐりこんで、かくれているほかありません。
小林君は、それには、なれていました。いつかも、怪人の自動車の後部のトランク(にもつを入れるところ)へ身をひそめて、賢二君をとりもどしたことがあります。こんやも、あの手をもちいるつもりでした。
小林君は、そっと怪人の自動車のうしろへ、はいよりました。まっ暗ですし、草がボウボウとはえているのですから、あいてに気づかれる心配はありません。
車体にたどりついて、後部のトランクのふたを持ちあげて、さぐってみますと、中には怪人団のカバンなどが、はいっているばかりで、じゅうぶん、すきまがあります。小林君はリスのような、すばやさで、その自動車のにもつ入れの中へ、すべりこみました。そして、カバンなどを、前の方へおしやり、いちばんおくのすみによこたわりました。大型の自動車ですから、足をちぢめれば、らくに、よこになれるのです。
この自動車は、どこまで行くかわかりません。どんなにながいあいだ、そこにかくれていなければならないかもわかりません。そこで、小林君は、いろいろのものを用意していました。黒いきれでつくった大きな袋を、だいじそうにかかえていたのです。その中には、探偵七つ道具や、水をいっぱいいれた旅行用のウイスキーびんや、かたパンの紙ぶくろや、着がえの服まではいっているのです。そのほかに、なんだかえたいのしれない、大きなまるいブリキかんや、こまごましたものが、いっぱいはいっていました。
小林君は、その袋の中から、針金をみょうなかたちにまげた、二センチぐらいの大きさのものを、二つとりだしました。そして、それを、自動車のにもつ入れの、ふたの両方のはしにはさんで、そっと、そのふたをしめました。すると、針金がじゃまになって、ふたは、ピッタリしまらないで、ほそいすきまがあいているのです。にもつ入れの中の空気がよごれて、息がつまってはたいへんですから、そのすきまから、空気がとおるようにしておくためです。さすがに小林少年は、そんなこまかいことまで、まえもって用意しておいたのです。
つぎには、袋の中から、大きな、黒いふろしきのようなものを取りだしました。そして、それで、じぶんの頭から足のさきまで、すっぽりと、つつんでしまったのです。これは、もし怪人団のやつが、自動車のにもつ入れのふたを、ひらくようなことがあっても、すぐにはみつからないためです。
そうして、じっとしていますと、しばらくして、エンジンの音が聞こえ、いきなり自動車が走りだしました。だんだん速力がくわわって、おそろしい早さで走っているのです。
その行くさきは、いったいどこなのでしょう。自動車の中には、手足をしばられ、さるぐつわをはめられた賢二少年が、ふたりの男にはさまって、こしかけています。怪人たちは、賢二君を、どこへつれていくのでしょう。
一時間、二時間、いつまでたっても、自動車はとまるようすがありません。ますます、速力がはやくなるばかりです。きゅうくつなにもつ入れの中に、身をちぢめていた小林君には、そのあいだが、どんなにながくかんじられたことでしょう。肩や腰が、いたくなってきました。せまい箱の中ですから、すわることも、寝がえりをすることもできません。
三時間、四時間、自動車はまだ走りつづけています。だんだん道が悪くなってきたとみえて、ガタガタと、はげしくゆれるのです。おなかもへってきました。小林君は例の袋の中から、かたパンをとりだしてかじり、ウイスキーびんの水をのみました。
ああ、このふしぎな自動車旅行は、いったい、どこまでつづくのでしょう。
途中で、一度、休みました。自動車にガソリンを入れたのです。そして、しばらくやすむと、また走りだしました。しばらくすると、のぼり坂にさしかかったらしく、速力がにぶくなりました。おそろしいでこぼこ道です。小林君は、泣きだしたくなるほどの苦しみでした。
もう、からだがしびれてしまって、気がとおくなりそうでした。それでも、自動車は、とまるようすがありません。それからまた、ながいながい時間、ゆれにゆれたうえ、やっと目的地にたっしたらしく、ぴたりととまったまま動かなくなりました。
小林君のかくれている、にもつ入れの、ふたのすきまから、うっすら光がさしています。夜が明けたのです。
自動車をおりた怪人団の男たちの話し声が、かすかに聞こえてきました。そっと、にもつ入れのふたをひらいてみますと、そこは、大きな森の中でした。自動車からおりた人たちは、森の大木のあいだのほそい道を、むこうの方へ、のぼっていくようすです。ああ、わかりました。ここからさきは、もう、自動車がとおらないので歩くほかないのです。歩いて山をのぼるのです。ここは、ふかい山の中にちがいありません。
小林君は、大いそぎで、かくれ場所からとびだしました。そして、自動車のよこにまわって、そっと中をのぞいてみましたが、車の中には、だれものこっていないことがわかりました。怪人団のやつらは賢二君をつれて、森の中へ、はいっていったのです。小林君は、例の黒いきれの大袋を、肩にかついで、そのあとを追いました。
見あげるような大木がたちならび、空も見えないほどの深い森です。その中に、ほそい道がついています。道といっても、めったに人のとおらないところらしく、クマザサのしげった中をガサガサと、かきわけてすすむのです。
音をたてて、あいてに気づかれてはたいへんですから、よほど注意して歩かなければなりません。といって、足もとに気をとられていると、あいてを見うしないそうになります。小林君の苦労は、なみたいていではありません。
それはじつに長い道のりでした。一時間いじょうも、歩きづめに歩いたのです。すっかり、つかれはてて、いまにもたおれそうになったとき、やっと目的地につきました。とつぜん、目のまえが、パッと明るくひらけたのです。
といっても、森を出はなれたのではありません。森のまん中の広い空地に、たどりついたのです。怪人団の男たちは、どんどんその空地へ出ていきましたが、小林君は見つかったらたいへんですから、森を出ることができません。一本の太い木のみきに、からだをかくして、空地をながめたのです。
そこには、びっくりするような、ふしぎなものがありました。空地のむこうのほうに、大きな黒いお城がたっていたのです。日本のお城ではなくて、西洋のお城です。一方のはしに、五十メートルもあるような、高い塔がそびえています。水道の鉄管を、何百倍にしたような、なんのかざりもない、まるい塔です。それがヌーッと、空にそびえているありさまは、じつに異様な感じでした。
その塔には、あつい鉄板がはりつめてあるように見えました。ところどころに小さな窓がひらいています。塔のよこには、やっぱり鉄でできた高いへいが、ずっとつづいていて、その中にいろいろな建物があるらしく、きみょうなかたちのやねが、いくつも見えているのです。へいの中ほどに、いかめしい鉄の門があって、その鉄のとびらは、ピッタリとしまっていました。
いつか、ふしぎなじいさんの、のぞきカラクリでみた、あの鉄塔と同じです。ですから、ここが怪人団の鉄塔王国にちがいありません。いよいよ敵の本拠にのりこんだのです。
小林少年は、そんなことを考えながら、胸をドキドキさせて、大木のみきのかげからのぞいていますと、怪人団の男四人と、そのうちのふたりに、両方から手をとられて、よろめきながら歩いている、かわいそうな賢二少年の姿が、だんだん、むこうへ遠ざかっていくのが見えました。
やがて、かれらが、いかめしい鉄の城門に近づきますと、鉄のへいの上の見はりの窓から人の顔があらわれ、上と下とでなにか問答をくりかえしていましたが、すぐに人の顔がひっこみ、鉄門のとびらがしずかにひらいて、やっと人ひとり通れるすきまができました。用心のためでしょう、それいじょうはひらかないのです。賢二少年をつれた四人の男は、そのわずかのすきまから、ひとりずつ、門の中へ、すいこまれるように姿を消していきました。
男たちを吸いこむと、とびらはふたたびしずかにしまって、あたりはシーンと、しずまりかえってしまいました。深山のふかい森にかこまれて、いかめしくそびえる鉄の城。その中には、いったい、どんなおそろしいものが、すんでいるのでしょうか。死の城、妖魔の城です。小林君はふと、その鉄の城門のむこうがわに、ウジャウジャとうごめいている、巨大なカブトムシのむれを想像して、ゾーッと、背すじがつめたくなる思いでした。
やっと、ここまで尾行はしたものの、このあと、どうすればよいのか、まるで、けんとうもつきません。うっかり森を出て城に近づけば、どこかから、怪人団のやつが見はっていて、たちまち、とらえられてしまうでしょう。それに、厳重な鉄の門をひらくてだては、まったくありませんし、あの高い鉄のへいをよじのぼるなんて、思いもよらないことです。小林君は道のない森の中を、大まわりして、ながい時間かかって、城のよこから、うしろのほうへまわってみました。しかし、よこにもうしろにも、同じような高い鉄のへいがはりめぐらされ、しのびこむすきまなど、まったくないことがわかりました。
小林君は考えこんでしまいました。いったい、どうすればいいのでしょう。しんぼうづよく見はっていて、ふたたび城門がひらくのをまち、なんとかくふうしてしのびこむか。しかし、どれほど待てばいいのか、けんとうもつきません。それに、一日いじょうは食糧がつづかないのです。
「あっ、いいことがあるぞ!」
小林君は、じつにうまいことを思いつきました。怪人団の自動車は、森の入口に、のりすてたままになっています。あすこまでひっかえして、じぶんであの自動車を運転して、どこか近くの町に出て、東京の明智先生に電話をかければよい。そうすれば、先生じしんで、ここへのりこんでこられるか、そうでなければ、なにかよい知恵を、さずけてくださるにちがいない。小林君は、自動車のところまでひきかえす決心をしました。自動車の運転には自信があります。明智先生にすすめられて、運転をならっておいたのが、いまこそ役にたつのです。
それから、また一時間あまり、例の大袋をかついで、つかれた足をひきずりながら森の中を歩きました。くるときに、ふみつけたクマザサを目じるしに、道らしい道もないところを、かきわけてとおるのですから、ときどき、道にまよって、とんでもない方角へ、まよいこむこともあり、その苦労はなみたいていではありません。
でも、やっとのことで、自動車のおいてあるところまで、たどりつくことができました。
小林君は、よろこびいさんで、自動車の運転台にとびのり、出発しようとしましたが、そのとき、ふと、あることに気づいて、ギョッとしました。胸をドキドキさせながら、ガソリンのメーターをしらべました。
ああ、やっぱりそうでした。怪人たちがのんきらしく自動車をすてておいたのには、わけがあったのです。
ガソリンがなくなっていたのです。この分量では、二キロも走れば動かなくなってしまいます。
こんな山の中に、ガソリンスタンドがあるはずはなく、ガソリンが手にはいらなければ、自動車は動かないのです。こんなところへほうりだしておいても、ぬすまれる心配はすこしもなかったのです。怪人たちが、つぎに出発するときには、城の中から、ガソリンをはこんでくるのでしょう。
小林君はガッカリして、運転台にすわりこんだまま、しばらくは、からだを動かす気にもなれませんでした。
それから、小林君は自動車をおりて、そこにぼんやりとつったったまま、あたりをながめていましたが、ふと気がつくと、遠くの方に、モヤモヤと動いているものがあるのです。おやっとおもって、よくみますと、それは白い、ひとすじの煙でした。むこうの森の中から煙がたちのぼっているのです。
煙が出ているからには、あのへんに人が住んでいるのかもしれない。そう考えると小林君は、にわかに元気づいて、その方へ、歩きはじめました。やっぱり、道もない森の中を、クマザサをかきわけて歩くのです。煙のあがっているところは、すぐそばのように見えていたのに、森の中へはいっていくと、方角がわからなくなって、なかなか、その場所がみつかりませんでしたが、ずいぶん歩きまわったすえ、やっと、小さな山小屋をみつけました。
それは、丸太を組んでつくった七─十平方メートルの、ほったて小屋ですが、ちかよって、のぞいて見ると、中に人がいるようすなので、入口に立って声をかけてみました。
すると「オー」とこたえて、小屋のあるじが出てきました。顔じゅうひげにうずまった、おそろしげな男です。かれは小林君のこじき姿を、ジロジロながめていましたが、ふしぎそうに、
「おめえのような子どもが、いまじぶん、どうしてこんな山おくへやってきただ。」
とたずねます。
「道にまよったのです。おじさん、ぼくをとめてください。つかれてしまって、おなかがペコペコで、もう歩けません。」
小林君は、あわれっぽくもちかけました。
「ふーん、道にまよったといって、こんな人もとおらぬ山おくへまよってくるなんて、おめえ、よっぽど、どうかしているぞ。だが、まあいい、こっちへはいるがいい。めしぐれえ、くわしてやるだ。」
こわい顔ににあわぬ、しんせつな男でした。小林君は、例の大袋を持ったまま、小屋の中にはいって、いろりのそばに腰をおろしました。
やがて、男は、いろりにかけてあるなべの中から、ぞうすいのようなものをちゃわんによそって、小林君にたべさせてくれました。小林君は、それをすすりながら、
「おじさんは、こんなところで、なにをしているの?」
と、たずねてみました。
「おれか、おらあ猟師だよ。この山にゃ、いろんな鳥やけだものがいるからな。それをとって、ふもとの村へ売りにいくだ。それがおれのしょうべえさ。アハハハ……。」
と、大きな口をあいて笑いました。顔じゅうひげだらけで、まっ黒ですから、ひらいた口の中が、おそろしく赤いように見えました。
「ぼく、道にまよってね、このへんの山んなかを歩きまわったんだよ。そうすると、このむこうの方に大きな鉄のお城があったよ。おじさん知ってる?」
「知ってるとも。」
「あれ、だれのお城なの? だれがすんでいるの?」
「ばけものがすんでいるさ。」
「えっ、ばけものだって?」
「カブトムシのばけものだ。この山んなかに、イノシシほどもあるカブトムシのばけものが、ウジャウジャすんでるだ。ふもとの村でも、それを知ってるから、だれもこの山へのぼらねえ。おれたちのなかまの猟師や木こりも、みんなにげだしてしまった。おれはごうじょうもんだからな、にげねえ。いまじゃ、この山んなかに、すんでるのは、おれひとりになっちまった。ワハハハ……。」
男はまた、大きなまっかな口をひらいて、笑いとばすのでした。
「おじさん、そのカブトムシに、であったことあるの?」
「なんどもあるよ。だが、おらあ、カブトムシのばけものだけは、うたねえ。たたりがおっかねえからな。カブトムシがあらわれたら、こっちでにげだすのよ。」
「そのカブトムシが、あの鉄の城にすんでるの?」
「そうだ。城の中にゃ、カブトムシの王さまがいるだ。ほかのカブトムシは、みんなその王さまのけらいだっていうことだ。」
「鉄の門がピッタリしまっているね。あの門がひらくことがあるの?」
「おらあ、ひらいているのを、見たことがねえ。いつでもピッタリしまってるんだ。おれは、いっぺん、おっかねえ音をきいたことがあるぞ。城の中が見たいとおもってね、あの鉄のへいのまわりを、グルグルまわってみたが、どこにもすきまがねえ。それで、おら、鉄の門に耳をおっつけて、中の音でも聞いてやろうとおもっただ。すると、なあ、小僧、おっかねえ音がきこえただ。何百というカブトムシがはいまわってる音だ。ゴジョ、ゴジョ、ゴジョ、ゴジョ、何千人の人が、ないしょ話をしているような、いやあな音だった。おら、ゾーッとして、いちもくさんに、にげだしただ。それからというもの、いくら命しらずのおらでも、気味がわるくて、あの城にゃ、近よる気がしねえ。遠くから、チラッとあの鉄の塔のてっぺんが見えても、おら、おじけをふるって、にげだすだよ。」
山小屋のぬしの大男は目を異様に光らせてあたりを見まわしながら、さもこわそうにいうのでした。
それから、小林君は、山男のような猟師から、いろいろのことをききだしました。そして、ここが、木曾山脈にぞくする、あの高山の山つづきであること、東京からここへ来るのには、どういう道を通るかということなどを、たしかめました。
その夜八時ごろ、小林君は、山男が眠ってしまったのを見すまして、例の黒い大きな袋をさげて、そっと山小屋をぬけだし、うらの空地に出ました。そして、袋の中から、茶つぼを大きくしたような、ブリキカンを取りだして、そのふたをひらきました。すると、中からクークーという、みょうな声が、聞こえます。小林君は、
「よし、よし、さぞきゅうくつだったろうね。だが、いよいよ、おまえの働くときがきたんだよ。しっかりやっておくれ。」
といいながら、カンの中に手を入れて、一羽のハトをひきだし、じぶんのポケットにいれていた、なにか小さなものを取りだして、それをハトの足に、くくりつけました。
「さあ、しっかり飛ぶんだよ。そら……。」
手をはなしますと、ハトは、しばらく考えているようすでしたが、やがて、大きな羽をひろげて、パッと飛びたちました。そして、見るまに、森の高い木の上に、姿をけしてしまいました。まっ暗な夜中のことですから、ハトのゆくてを見さだめることはできません。ただ、その羽音で、ぶじに大空へまいあがったことを察するばかりです。
「これでよしと。……さあ、いよいよ大冒険だぞ。」
小林君は、力づよく、ひとりごとをいって、身じたくに取りかかるのでした。
例の大きな袋の中から、黒いシャツ、黒いズボン下、黒いずきん、黒い手ぶくろ、黒い地下たびを取りだし、今まで着ていた、こじきのボロ服をぬいで、それと着がえ、頭から足のさきまで、ピッタリ身についた、黒ずくめの姿とかわりました。黒ずきんは、顔ぜんたいをつつむようになっていて、目のところに、二つのほそい穴があいているばかりです。
それから、小林君は袋の中から、黒ビロードの、はばのひろいバンドのようなものを取りだし、それをしっかりと腰にまきつけました。このバンドの内がわには、たくさんのサックがついていて探偵七つ道具が、はいっているのです。
そしてぬぎすてたこじきの服を、小さくたたんで袋にいれ、それをそこの木の枝にかけておいて、いよいよ、大冒険の第一歩をふみだすことになったのです。
目ざすのは、いうまでもなく、怪人の住む鉄の城です。小林君は腰のバンドから、小型の懐中電灯を取りだして、ときどきパッとあたりをてらしながら進むのですが、道もないまっ暗な森の中ですから、いくども方向をまちがえ、やっと鉄塔の見えるところへ出るのに、三十分もかかってしまいました。
そこは森にかこまれた、ひろい空地ですから、やみといっても、空のほのあかりで黒い巨人のような鉄の城のかたちが、クッキリとうきあがって見えるのです。
その空地へ出ると、小林君は懐中電灯をけして、城のほうへ近づいていきました。こちらは、頭から足のさきまで、ピッタリ身についた、まっ黒な姿ですから、たとえ城の中から、敵がのぞいていたとしても、気づかれる心配はありません。
城の鉄のへいのそばに近よると、小林君は、腰のバンドから、例の絹ひもの縄ばしごを取りだしました。はしごといっても、これは黒い絹糸をたくさんよりあわせた、細いけれども、じょうぶな一本のひもなのです。それに、四十センチぐらいのかんかくで、大きなむすび玉ができています。そこへ足の指をかけてのぼるのです。また、この絹ひものはじには、鉄でできた、ふしぎなかぎのようなものが、ついていて、どんなところへでも、ひっかかるようになっています。
小林君は、その絹ひもをのばし、鉄のかぎに近いところを右手に持って、高い城のへいを見あげました。へいの高さは五メートルもあるのです。その頂上をめがけて、ねらいをつけ、ヤッとばかりに、鉄のかぎをなげあげました。すると、かぎが、へいのうらの出っぱりに、ガチッと、ひっかかり、いくらひっぱっても、はずれないようになったのです。
小林君のまっ黒なこびとのような姿は、その絹ひもをつたわって、スルスルと鉄のへいをのぼり、たちまち、頂上にたどりつきました。そして、かぎをかけかえて絹ひもをへいの内がわにたらし、また、それをつたって城内の地面におりたち、たくみにひもをあやつって、へいの上のかぎをはずすと、それを手もとにたぐりよせ、小さくまるめて、腰のバンドの中へおしこみました。十メートルもある絹ひもですが、まるめると、ひとにぎりになってしまうのです。
城の中はまっ暗で、シーンとしずまりかえっています。しばらくあたりを見まわしていますと、ずっとむこうの方に、ぼんやりと四角な赤っぽい光が見えました。建物の窓の中に、あかりがついているらしいのです。小林君は、足音をしのばせて、その方に近づいていきました。
城の中には、大きな建物が、まっ黒な怪物のようにそびえていましたが、近よってみると、それは大きな石をつみかさねてつくった石の建物でした。
光のさしていた窓の戸は、ひらいたままです。城のまわりに、あんな高い鉄のへいがめぐらしてあるので、中の建物は、しまりをするひつようもないのでしょう。
小林君はその窓わくにとびついて、両手でからだをささえながら、そっと、窓の中をのぞいて見ますと、そこは大広間とでもいうような、ガランとした広い部屋で、むこうの壁の柱に石油ランプがつりさげてあって、その赤ちゃけた光が、部屋の中を、ぼんやりとてらしているのでした。
しばらく待っても、だれもはいってくるようすがないので、小林君は、そのまま窓をのりこえて、部屋の中にはいりこみました。
部屋のむこうがわのドアのところへ行って、おしてみると、これも、なんなくひらきましたので、そのまま暗い廊下を、おくの方へたどっていきました。
長い廊下は、右に左に、いくどもまがって、ずっとおくの方へつづいていました。その両がわにはたくさんのドアがしまっていて、その中には、人が寝ているようすでした。かぎのかかっていないドアを、そっとほそめにひらいて、中をのぞいてみましたが、まっ暗で、なにも見えませんけれども、たしかに、人が寝ているらしく、感じられたのです。
そうして、廊下をおくの方へはいっていきますと、そのつきあたりに、たてにスーッと、糸のようなほそい光が見えました。ドアがピッタリしまらないで、そのすきまから、部屋の中のあかりが、もれているのです。
小林君は、しのび足でそこへ近より、ドアのすきまに目をあてて、中をのぞいて見ました。
それは、りっぱな広い部屋でした。部屋のかざりつけが、みんな金色にピカピカ光っているのです。てんじょうからは、宝石をちりばめたような、ガラス玉のかざりのある、シャンデリヤがさがって、それに、十数本のローソクがもえています。その光が、無数のガラス玉を通して、キラキラかがやいているのです。
部屋のまんなかには、まっかなビロードをはった、でっかい安楽いすがすえてあって、そこに、ふしぎな人物がこしかけていました。それは、見おぼえのある「のぞきじいさん」でした。このお話のはじめに小林君に、のぞきカラクリで、鉄塔王国のけしきを見せてくれた、あの魔法つかいのようなじいさんでした。頭の毛はまっ白で、胸までたれたフサフサとした白ひげのある、あのじいさんが、やっぱり、はでな、しまの洋服を着て、そのりっぱないすにこしかけていたのです。
いすのまえの、まっかなじゅうたんの上に、二ひきの巨大なカブトムシが、よこたわっていました。一ぴきは、人間のおとなより大きいやつで、それはグッタリと、寝そべっているように見えました。中には人間がはいっていないで、ただビニールのカブトムシのぬけがらだけが、そこにおいてあるらしいのです。
もう一ぴきのカブトムシは、もっと小さくて、中には人間の子どもでもはいっているらしく思われましたが、この方は、モゾモゾ動いているのです。ほんとうに子どもがはいっているのかもしれません。
「ワハハハ……。」
とつぜん、安楽いすにかけている、じいさんが、大きな口をあけて、白ひげをふるわせて、びっくりするような声で笑いました。
「おい、どうだ、くたびれたかね。おまえにいっておくが、おまえは、きょうから鉄塔王国の兵隊だ。カブトムシ軍の新兵だ。わかったか。きょうは、その訓練の第一日だ。これから毎日、はげしい訓練をうける。そして、だんだん、えらい兵隊になるのだ。兵隊を卒業すると、将校になる。将校になると、わしの事業の手助けをさせる。東京へも、大阪へも、いや、もっととおくまで、わしといっしょに、遠征するのだ。そしてカブトムシ軍隊の力を、世間のやつに見せてやるのだ。わかったかね。
わしは、この鉄塔王国のカブトムシの威力を日本じゅうに、見せつけてやりたいのだ。わしは鉄塔王国の国王だ。カブトムシ大王さまだ。わかったか。おまえのおやじは、わしの命令に、したがわなかった。軍用金を出さなかった。その罰として、おまえを、わしの国のカブトムシ軍の兵隊にしたのだ。わしの命令にしたがわぬやつへの見せしめにするのだ。
カブトムシ軍隊の訓練は、はげしいぞ。わしは新兵が入隊した第一日に、こうした訓示をあたえ、それから、わしみずから、カブトムシの動きかたを、やってみせることにしている。こんやはすこしおそくなった。もう九時半だ。しかし、いちおう、やってみせることにする。こういうものを着て、虫のように走ったり、とんだりするんだから、なかなか、むずかしい。この鉄塔王国の将校のうちにも、わしだけの働きのできるやつは、ひとりもいないのだ。さあ、よく見ておくがいい。」
白ひげのじいさんは、そういって立ちあがると、赤いじゅうたんの上においてあった、ビニールの大カブトムシのからを、ひっくりかえして、腹の方の出入り口をひらき、服を着たまま、足の方から、その腹のさけめへ、はいりこんでいくのです。そして、頭まですっかりはいってしまって、中から腹のさけめをとじると、あおむけになっていたのを、クルッと、ひっくりかえり、ガサガサと、はいだすのでした。
それから、じつにおそろしいカブトムシの運動が、はじまりました。
頭にはえたおそろしい一本のツノ、ギクシャクした長い足、まっ黒な背中に白いどくろもようのある、巨大なカブトムシは、おそろしい早さで、部屋の中をかけまわりました。かけるにつれて、足のかんせつがギシギシとなり、ヌーッとのびた、まっ黒な長いツノが、なにかを、つき落とすように、クイクイと、あがったり、さがったりするのでした。
カブトムシのかけまわる早さは、ますますくわわってきました。今はじゅうたんの上を走るだけでなくて、安楽いすや、そこにあるテーブルの上にかけあがり、かけおりるのです。ちょうどいつかの夜、銀座の大通りで、自動車の車体をのりこして進んだのと、同じいきおいでした。
やがて、もっとおそろしいことが、おこりました。カブトムシは、部屋の壁を、よじのぼりはじめたのです。ほんとうのカブトムシは、壁でもてんじょうでも、自由にはいまわります。この人間カブトムシも、それと同じことをやろうというのです。
巨大な、まっ黒なからだが、ガリガリとおそろしい音をたてて、壁ぎわのたなをあしばにのぼりはじめました。いくども失敗して中途からころがり落ちたすえ、とうとう、てんじょうまではいあがりました。そして、そこから、パッと、じゅうたんの上へ落ちるのです。
ほんとうのカブトムシが、木の枝から落ちるように、まっさかさまに落ちてくるのです。それを、いくどもくりかえすのです。
てんじょうから、おそろしい音をたてて落ちるときには、たいてい、背中を下に腹を上にして、じゅうたんの上にころがります。そして、しばらくのあいだ、ぶきみな長い足を、モガモガやっているうちに、ピョイと、まともな姿勢になるのです。これも、よほど練習しなければ、できないわざにちがいありません。
二十分ばかりも思うぞんぶんはいまわり、とびまわったあとで、カブトムシはやっと運動をやめてあおむきになったかとおもうと、例の腹のさけめから、ぬっと白ひげのじいさんの顔があらわれました。見ると、その顔は汗でビッショリです。
じいさんはカブトムシのからから、すっかりぬけだすと、もとの安楽いすにこしかけました。そして、そこへうずくまって、じっとしていた子どもカブトムシに話しかけました。
「どうだ、わかったか。カブトムシはこんなぐあいに動くのだ。おまえには、まだとてもできないが、あすから、ほかの兵隊たちといっしょに訓練をしてやる。わしがむちをふるって、ピシリ、ピシリと、背中を、たたきつけながら、訓練してやる。
では、もう部屋へひきとって、寝るがいい。十二号室だ。わかっているだろうな。さあ行きなさい。」
そういわれると、かわいそうな子どもカブトムシは、モゾモゾ動きはじめました。そして、ドアの方にむかって、はってくるのです。ドアのすきまから、むちゅうになってのぞいていた小林君は、はっとしてとびのき、廊下のやみの中に身をかくしました。
ドアがひらいたかとおもうと、すぐにピッタリとしまりました。
暗やみといっても、どこか遠くの方のあかりが、そのへんをうす明るくしているので、やっと物のかたちを見わけることができます。
しばらくすると、壁に身をつけて、かくれている小林君の前を、黒いカブトムシが、ゴソゴソと、はっていくのが、見えました。さっきの子どもカブトムシです。やみの中に、ほんのりと、背中のどくろのもようが、ういて見えます。まっ暗な中を、同じように黒い巨大な妖虫が、モゾモゾとはっていきます。ハッキリ見えないだけに、それはなんともいえない気味わるさでした。
小林君は、やみの中にうごめく、この妖虫のあとをおって、壁ぎわをすこしずつ歩きだしました。
なぜでしょう。
読者諸君は、とっくにおわかりですね。その子どもカブトムシの中には、怪人団にさらわれた、あの高橋賢二少年が、とじこめられていたからなのです。
小林君は、子どもカブトムシのあとをつけて、十二号室にはいりました。それから、その部屋の中で、どんなことがあったかは略します。なぜなら、それは、まもなく、わかるときがくるからです。
お話は、そのあくる朝、同じ石の建物の中の、大広間でおこったできごとに、うつります。
その朝、大広間には、ピシッ、ピシッと、むちの音がひびいていました。
その広間の中を、十数ひきの大カブトムシが、ゾロゾロと行列をつくってはいまわっていました。その輪になった行列のまんなかに、はでな、しまの洋服を着た、白ひげのじいさんが手に長いむちをもって立っているのです。
それは、いつか賢二少年が、にいさんの壮一君といっしょに、おうちのそばの町かどで、のぞきカラクリをのぞいたときの光景と、そっくりでした。そして、あののぞきカラクリを見せてくれたじいさんこそ、いま、この部屋のまんなかに、むちを手にして立っているじいさんと同じ人だったのです。
「そら、しっかりあるくんだ。おい、十一号、むきがちがうぞ。列をはなれてはいけない。」
ピシリーッ。おそろしいむちが、十一号とよばれたカブトムシの背中に、とびました。
「こんどは、走るんだぞ。おくれたやつはむちのおみまいだ。そら、いいか、かけあしっ……。」
号令とともに、むちが空中で、ピシッ、ピシッとなりました。
十数ひきの巨大なカブトムシたちは、むちをおそれて、かけだしました。いくつともしれぬ足の床をこする音が、ザーッというような、異様なひびきをたてるのです。巨大な妖虫どもが、大きな輪をかいてグルグル、グルグル、広間の中をかけまわるありさまは、じつに、なんともいえないへんてこな、うすきみのわるい光景でした。
そして、かけあしで、三度ほどまわったときでした。とつぜん、
「とまれっ……。」
じいさんが、はげしい声で、号令をかけました。
「おい、十二号、こちらへこい。」
そして、十二号の背中に、ピシリーッ、とむちがあたりました。
「おかしいぞ。おまえ、いつのまに、そんなにうまくなった。きのう、はいったばかりの兵隊が、そんなに走れるはずがない。おかしいぞ。おい、あおむきになれ。そして、顔を出してみろ。」
また、むちがとびました。しかし、列をはなれた十二号のカブトムシは、じっとしたまま、身動きもしません。
「いよいよおかしいぞ。きさま、だれかにかわってもらったな。だれだ、この子どもの身がわりになったやつは。さあ、出てこい。顔をみせろ。出ないと……。」
ピシリーッ、二度三度、むちが背中にとびました。それでも、十二号は、ごうじょうにだまりかえっています。そこにうずくまったまま、てこでも動かないというかっこうです。
そのときです。部屋の外の廊下の方から、ただならぬもの音が、近づいてきました。
「さあ、こっちへこい。きさま、けしからんやつだ。ベッドの下なんかにかくれて、訓練をなまけやがって、……閣下、きのうはいった十二号の新兵が、ベッドの下にかくれているのを見つけて、ひっぱってきました。」
賢二少年が、ふたりのあらくれ男に、両手をとられて、部屋の入口にあらわれました。ふたりの男は、じいさんのおもだった子分なのでしょう。ジャンパーを着た、人相のわるいやつです。これがこの王国の「将校」なのかもしれません。
「うーん、やっぱりそうだったか。するとここにいる十二号はなに者だ。おい、おまえたち、こいつをひんむいてくれ。」
じいさんは、白いひげをふるわせて、どなりました。ふたりの男は、その命令をきくと、賢二少年をじいさんにわたしておいて、いきなり、十二号のカブトムシに、とびかかっていきました。そして、カブトムシをとらえて、しばらくもつれあっていましたが、やがて、ふたりの男の口から、おどろきのさけび声が、ほとばしりました。
「やっ、きさま、だれだっ。どこから、やって来たのだっ。」
十二号のカブトムシの、腹の中からあらわれたのは、ほかならぬ小林少年でした。
小林君は、賢二少年をかわいそうに思って、身がわりをつとめてやったのですが、十二号の身のこなしが、かよわい賢二君にしては、あまりうますぎたので、かえ玉がバレてしまったのです。そのうえ、かくれていた賢二少年までみつかっては、もうどうすることもできません。
「ワハハハハ……、おおかた、そんなことだろうと思っていた。きさま、明智探偵の助手の小林だな。チンピラのくせに、だいたんなやつだ。よくここへしのびこんだ。うん、わかったぞ。きさま、いつもの手をつかったな。わしらの自動車のトランクの中へ、かくれて、ついてきたんだな。
だが、こうして見つけられたら、もうだめだ。かわいそうだが、鉄塔王国のおきてにしたがって、厳罰にしょするぞ。わしの国には死刑はない。わしは、血を見るのがきらいだ。だから、この国の兵隊は、鉄砲やピストルや剣は持たないのだ。そのかわりに、カブトムシの妖術を武器にしているのだ。しかし、この国の厳罰というのは死刑よりもおそろしいのだ。死刑ではないが、やっぱり命がけの罰だ。さあ、このふたりの子どもを、ひっくくって、さるぐつわをかませろ!」
怪老人は、はげしい声で命令をくだしました。ふたりのあらくれ男が、用意していた縄をとりだして、小林少年と賢二君に近づいてきました。
そのときです。うっかりしていた怪老人のからだへ、黒いものが、パッと、ぶつかっていきました。黒いふくめんはとられていましたが、首から下は足のさきまで、黒ずくめの小林少年が、怪老人にとびついていったのです。そして、あっというまに、老人の長い白ひげと、しらが頭を、ひきちぎってしまいました。それは、つけひげとかつらだったのです。そして、その下から、あらわれたのは、まだわかわかしい男の顔でした。
小林少年の目にもとまらぬはやわざに、さすがの悪人も、「あっ。」とさけんで、おもわず両手で顔をおさえましたが、もう、まにあいません。こんどは、小林君のほうが笑うばんでした。
「アハハハ……、カブトムシ大王っていうのは、きみのことだったのか。それにしても、まずい変装だね。変装の名人にも、にあわないじゃないか。」
「なに、変装の名人だと?」
老人にばけていた首領は、なぜか、ギョッとしたように、ききかえしました。
「明智先生には、はじめからわかっていたんだよ。ただ、いわなかっただけさ……。」
「なんだと……。」
小林少年は、また、さもゆかいそうに、笑いました。そして、あいての顔を、まっ正面から指さしながら、
「怪人二十面相! それとも、四十面相とよんだほうが、お気にめすのかい。……こんなきちがいみたいなまねをして、世間をさわがせるやつが、二十面相のほかにあるものか。いくら変装したって、そのやりくちで、すぐにわかっちゃうよ。ハハハ……、こんどもきみのまけだったね。きみのねらいは、いつも明智先生だ。世間をさわがせておいて、明智先生がどうすることもできないのを見て、手をたたいて笑いたいのだ。明智先生をまかしたいのだ。それがきみの念願なのだ。ところが、こんども、だめだったねえ。こうして、ちゃんと見やぶられてしまったじゃないか。」
しかし、悪人たちが、小林君に、いつまでも、かってなことを、しゃべらせておくはずがありません。そのとき、ふたりのあらくれ男が、両方から小林君をだきすくめ、グルグルと、縄をかけてしまいました。
老人にばけていた二十面相は、それを見ると、さもここちよさそうに、また、大笑いをしました。
「ワハハハ……、こんどは、おれの笑うばんだよ。かわいそうに。りこうらしく見えても、やっぱり子どもだねえ。敵の城の中へ、たったひとりでとびこんできて、おれの正体をあばこうという勇気には、かんしんするが、さて、そうしてしばられてしまったら、もうおしまいじゃないか。やいて食おうと、にて食おうと、こっちの思うままだぜ。ハハハ……、きのどくだねえ。いよいよ、おれの国の、いちばんおもい刑罰にしょせられるのだ。……おい、このふたりのチンピラを、鉄塔の頂上へ、おいあげてしまえっ。」
二十面相は、そこで、おそろしい表情になって、はげしい声で命令しました。
そのときには、賢二君も、小林少年と同じように、しばられていました。そして、ふたりのあらくれ男が、二少年の縄じりをとって、大広間の外へ、ひっぱっていくのです。二十面相も、ニタニタ笑いながら、そのあとから、ついていきます。
ああ、二少年は、これから、どんなおそろしいめにあうのでしょう。二十面相がいったとおり、小林君は、すこし知恵がたりなかったのではないでしょうか。いくら敵の正体をあばいても、ふたたび生きて帰れないようになっては、せっかくの苦心も水のあわではありませんか。
石の壁の長い廊下をいくつもまがって、行きついたのは、まるい鉄の部屋でした。鉄塔の一階らしいのです。壁には黒い鉄板が、はりつめてあり、一方のすみに、きゅうな鉄のはしごが、ついています。
「さあ、これを、のぼるんだ。」
二十面相のさしずで、ふたりのあらくれ男は、二少年をおいたてて、そのはしごをのぼりました。二階、三階、四階、みんなまるい鉄の部屋です。そして、五つめのはしごをのぼると、パッとあたりがあかるくなって、鉄塔の屋上に出ました。
まるい床には、いちめんに鉄板がはりつめてあり、それをとりまいて、ひくい鉄のてすりのようなものが、ついています。
「下をのぞかしてやれ。」
二十面相のことばに、男たちは、ふたりの少年を、屋上のはじへつれていって、てすりにからだをおしつけ、下をのぞかせました。
小林少年は、それほどでもありませんが、賢二君は、まっさおになってしまいました。鉄塔の壁が、まっ縦にはるか下のほうまでつづいていて、まるで、高い高いだんがいのはじに、立っているような気持です。おしりのへんがくすぐったくなって、足がブルブルふるえてきました。
「どうだ、わかったか。きさまたちは、ぜったいに、ここから、にげだすことはできないのだ。ここは空中のろうやだ。鉄ごうしもなにもない、あけっぱなしだが、こんな厳重なろうやはない。にげようとすれば、命がなくなるだけだ。まあ、ここで、ゆっくり、やすんでいるがいい。アハハハ……、それじゃああばよ。いまは、それほどでもないが、そのうちに、だんだん、このろうやのおそろしさが、わかってくるよ。」
二十面相は、ふたりの男を、さきにおりさせ、じぶんはあとから、鉄ばしごをおりました。そして、屋上への出入り口についている、鉄のふたを、両手でおろし、そのすきまから顔だけを出して、にやにや笑いながらいいました。
「おい、小林君、ねんのためにいっておくが、この山にはワシがいるんだよ。きみたちはその大ワシと、たたかわなければならないのだ。死にものぐるいにたたかって、きみたちの力がつきたときが、さいごだよ。ワシのえじきになってしまうのだ。」
そして、バタンと、はしごの上の鉄のふたがしまり、カチカチとかぎのかかる音がしました。
ふたりの少年は、こうして、鉄塔の屋上にとじこめられてしまったのです。
「小林さん、どうすればいいの? ぼくこわいよ。」
賢二君は、泣きだしそうな顔で、小林少年に取りすがりました。
「だいじょうぶだよ。ぼくたちはまだ、まけたんじゃない。きっと、二十面相をやっつけてみせるよ。しばらく、がまんしているんだ。」
小林少年の、自信ありげなことばに、賢二君も、いくらか、元気をとりもどしましたが、それにしても、小林君は、いったいどうして、二十面相をやっつけることができるのでしょう。
小林君は、れいの絹ひもの、縄ばしごをつかって、鉄塔をおりるつもりでしょうか。とてもそんなことはできません。絹ひもの長さは十メートルしかないのに、鉄塔は数十メートルの高さです。
「小林さん、ぼくたち、どうして、ここをにげるの?」
「待つんだよ。」
「え、待つって?」
「こんばんか、おそくても、あすの朝までに、おもしろいことが、おこるんだ。それまでの、しんぼうだよ。……ごらん、空がまっさおに、よく晴れているじゃないか。歌でもうたおうよ。」
小林君は、のんきなことをいって、なにか歌をうたいはじめました。
それから、日がくれるまで、じつに長い長い一日でした。歌をうたったり、なぞなぞのあてっこをしたり、しまいには、賢二君の学科のおさらいまでして、気をひきたてようとしましたが、そのうちに、ふたりとも、おなかがへってきました。そして、日のくれるじぶんには、ものをいう元気もなくなって、鉄のてすりによりかかり、足をなげだしたまま、グッタリとなっていました。
もう、あたりはまっ暗です。遠くのほうから、もののきしるような音、うなり声のようなものが聞こえてきます。山にすんでいる鳥やけだものの、なき声です。
小林君は、てすりにもたれながら、からだをねじまげるようにして、まっ暗な森の中を、あちらこちらと、注意ぶかく見まわしていました。なにか、こころ待ちにしているようすです。
そうしてまた何時間かが、すぎさりました。ふたりとも、つかれているので、ときどきうとうと眠りますが、すぐにはっと目をさまします。寝てしまっては、たいへんだと思うからです。
もう、真夜中を、とっくにすぎていました。つめたい風が吹いてきました。耳をすますと、まっ暗な下界からは、けだもののうなり声らしい音が、だんだん、近づいてくるように思われます。
とつぜん、小林少年が「あっ。」と、小さくさけびました。やみの中をすかして見ると、ずっとむこうにホタルのような小さな光が、パッパッと、ついたり消えたりしていたのです。
小林君は、大いそぎで立ちあがると、バンドの七つ道具の中から、懐中電灯をとりだしました。そして、それを高くささげながら、こちらも、パッパッと、つけたり消したりするのでした。賢二君も、これを見ると、びっくりして立ちました。そして、小林少年のそばによってたずねるのです。
「小林さん、どうしたの? なにをしているの?」
「電灯の光で、モールス信号を、やっているんだよ。ほら、よくごらん、ずっとむこうの方に、ホタルのような光が、見えるだろう。あれは懐中電灯だよ。むこうでも、信号をしっているんだ。」
「えっ、じゃあ、あすこに人がいるんだね。いったい、あれは、だれなの?」
「みかただよ。待ちに待った明智先生さ。」
「えっ、明智先生?」
「賢二君、ぼくはね、ここへくるときに、明智先生の事務所にかっている伝書バトをつれてきたんだよ。そのハトの足に、この鉄の城のある場所を、くわしく書いた通信をくくりつけて、ゆうべ、はなしてやったのさ。その通信がとどいて明智先生が助けにきてくださったのだよ。先生ひとりじゃない。長野県の警察から、おおぜいの警官隊もきているんだって。いまの懐中電灯の信号で、それがわかったんだよ。もうだいじょうぶだ。ねえ、賢二君、ぼくたちは助かったよ。」
「わあ、すてき。伝書バトをとばすなんて、やっぱり小林さんは、えらいねえ。」
賢二少年も、にわかに、元気になってきました。
通信がすむと、むこうのホタルのような光は、パッタリ消えたまま、ふたたびあらわれませんでした。やみの中を警官の一隊が、明智探偵をせんとうにたてて、鉄の城のまわりへ、ヒシヒシと、せめよせているのでしょう。いまにも、そのさわぎがおこるかとおもうと、小林君は胸をドキドキさせながら、耳をすませて、ようすをうかがっていましたが、いつまでたっても、下の城の中の建物は、シーンとしずまりかえっているばかりです。
これはいったい、どうしたことでしょう。もう、さっきから一時間以上たちました。東の空の方が、うっすらとあかるくなってきました。夜明けにまもないのです。
しかし、そのとき、明智探偵と警官隊とは、やっぱり、縄ばしごによって、つぎつぎに鉄のへいをのりこえ、城の中へしのびこんでいたのです。そして怪人団のゆだんを見すまして、悪人たちを、ひとりのこらずとらえようと、ひそかに、計画をめぐらしていたのです。
そうとは知らないものですから、塔の上の小林君は、ひとりで、もどかしがっていましたが、すると、そのとき、空のかなたから、ブーンという、ぶきみな音が、ひびいてきました。「なんだろう。」と、ふしぎにおもって、その方角を見つめていますと、うすあかるくなった空の一方に、異様なかたちの黒い怪物があらわれて、それが、だんだん、こちらへ近づいてくるのが、かすかに見えました。なんだか、大きな鳥のようなかたちです。ああ、もしかしたら、これが、二十面相のいった、あのおそろしい人食いワシではないのでしょうか。
大ワシのような怪物は、この塔の上をめがけて、とんでくるらしいのです。みるみる、その黒いかげが、大きくなってきます。ブルン、ブルンと風を切る羽の音が、ものすごいひびきです。
ああ、それは、はたして大ワシだったのでしょうか。ふたりの運命は、どうなるのでしょう。
鉄の城の建物という建物は、数十人の警官隊にとりかこまれ、カブトムシ王国はじまっていらいの大混乱がおこっていました。さらわれてきた少年たちの兵隊は、だれも手むかいなどしません。みんな警官のみかたになって、怪人団のおとなたちの部屋の、あんない役をつとめました。
怪人団の悪人どもは、さすがに、がんこに、てむかいをしました。深夜の大戦争でした。城の中には、秘密の地下道だとか、いろいろなしかけがあって、二十数人の悪人どもを、すっかり捕えるのには、二時間あまりもかかったほどで、警官隊に数人のけが人もでました。
そうして、すっかり、しばりあげてしまって、少年たちに、もうほかに悪人はいないかとたずねますと、かんじんの鉄塔王国の首領がいないという答えでした。つまり、怪人二十面相だけが、どこかへ、姿をくらましてしまったのです。いや、姿の見えないのは、二十面相ばかりではありません。名探偵明智小五郎も、どこかへ、くもがくれしてしまって、いくら、さがしてみても、みつからないのでした。
そのとき、明智探偵は、怪人二十面相と、一騎うちの勝負をしていたのです。二十面相は、すきを見て、ただひとり鉄塔の方へにげていきました。明智は、はやくも、それをみつけて追せきしたのです。おわれていると気づいた二十面相は、とある小部屋へにげこんで、中からドアにかぎをかけてしまいました。明智は、からだごと、そのドアにぶつかって、とうとうそれをやぶりましたが、たった二─三分のあいだに、どこへにげたのか、部屋の中には、だれもいなくなっていました。出入り口は、いまやぶったドアのほかにはありません。
明智は四方の壁をたたきまわって、秘密の通路でもあるのではないかと、しらべましたが、べつにあやしいところもないのです。
そのとき、てんじょうのほうに、みょうな、もの音がしました。「さては。」とおもって、懐中電灯でてらしますと、てんじょうから、ドシンと、おそろしい音をたてて、一ぴきの巨大なカブトムシが、目の前に落ちてきました。
二十面相は、明智がドアをやぶっている、わずかのひまに、その部屋においてあったカブトムシのからを身につけて、とくいのわざで、壁をはいあがってかくれたのでしたが、いつまでも壁をはっていくことはできません。やがて力がつきて、床の上に落ちたのです。
それから、また、巨大なカブトムシと明智探偵との、おっかけっこが、はじまりました。カブトムシはスルリと身をかわして、廊下に出ると、鉄塔のほうへ、おそろしい早さで走っていくのです。
カブトムシは鉄塔の一階にかけこむと、例の鉄のはしごをのぼりはじめました。二階、三階、四階つぎは屋上です。その屋上への鉄ばしごにとりついたカブトムシは、明智探偵を見おろして、おそろしい、笑い声をたてました。
「ワハハハ……、明智先生、おれをおいつめたとおもって、とくいになっているね。だがおれのほうには、武器があるんだ。きみを、あっといわせる武器があるんだ。おい、明智先生、この上の屋上には、だれがいるとおもう。きみのだいじな弟子の小林と、それから賢二が、空中のろうやに、とじこめてあるんだ。ふたりの子どもが、ひとじちだ。きさまが、おれをとらえようとすれば、このふたりを塔の上からつき落としてしまう。ワハハハ……、どうだ、例によって、これがおれのおくの手だよ。さすがの明智先生も、こうなっては、手だしもできまい。ワハハハ……。」
いいのこして、二十面相のカブトムシは、そこの鉄のふたをかぎでひらき、屋上へ、はいあがっていきましたが、あがったかとおもうと、「あっ。」と、おどろきのさけび声をたてました。
そのころ、夜はしらじらとあけて、鉄塔の屋上は、もうあかるくなっていました。そのひと目で見える、屋上に、小林少年と賢二少年の姿が、どこにも見あたらなかったのです。二十面相のカブトムシは、あわてふためいて、屋上をかこむ鉄のてすりを、おそろしい早さで、さがしまわりました。しかし、てすりの外に、身をかくしているようすもありません。
まったく、ありえないことがおこったのです。屋上へのただひとつの出入り口には、ちゃんとかぎがかかっていました。塔からとびおりるはずはありません。そんなことをすれば命がないのです。ではどこへかくれたのか。いや、かくれる場所なんて、ぜったいにありません。ああ、ふたりの少年は、魔法をつかって、煙となって、空へまいのぼってしまったのでしょうか。
そう考えて思わず空を見あげたとき、その空のかなたから、ブーンという異様な音がひびいてきました。そして、一羽の巨大な鳥が、こちらへ近づいてくるのです。いや鳥ではありません。もう夜があけたので、その姿が、はっきり見わけられます。それは一台のヘリコプターでした。
ヘリコプターは、みるみる鉄塔の真上にきて、透明な乗員席が、よく見えるほどの、近さにありました。それを見ると、二十面相のカブトムシはふたたび「あっ。」と、さけび声をたてないではいられませんでした。その透明な乗員席には、操縦士のほかに、小林少年と、賢二少年がのりこんで、にこにこしながら、塔上の怪物を見おろしていたからです。
さっき、二少年をめがけて、とんできたのは大ワシではなくて、このヘリコプターだったのです。むろん明智探偵のはからいで、塔上の二少年をすくうために、長野県警察の手で、近くの町からの電話れんらくによって、松本市の新聞社から呼びよせたものでした。そして、ヘリコプターから、縄ばしごをおろして、ふたりを、すくいあげたのです。
そうこうするうちに、明智探偵をさがしていた警官たちが鉄塔に気づいて、塔の一階にかけつけ、鉄ばしごをふみながら、屋上へおしよせてきました。屋上は、もう警官でいっぱいです。
二十面相は、もうどうすることもできません。警察につかまってしまうばかりです。
塔上に進退きわまった巨大な妖虫は、ジリジリと、あとずさりをして、一方のすみの鉄のてすりに、からだをくっつけてしまいました。
つぎの瞬間には、おそろしいことがおこりました。カブトムシは、てずりをのりこえたのです。明智探偵も、おおぜいの警官たちも、思わず「あっ。」と、声をたてました。しかし、もうおそかったのです。
巨大なカブトムシは、てすりの外がわに、しばらく、しがみついていましたが、やがて、スーッと、目もくらむ数十メートルの地上へと、矢のようにおちていきました。そのとき、かすかに「あばよ!」という声が、聞こえたように思われました。
これが、日本じゅうをさわがせたカブトムシ大王、怪人二十面相の、あわれなさいごだったのです。
底本:「鉄塔の怪人/海底の魔術師」江戸川乱歩推理文庫、講談社
1988(昭和63)年2月8日第1刷発行
初出:「少年」光文社
1954(昭和29)年1月号~12月号
入力:sogo
校正:大久保ゆう
2016年9月9日作成
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