妖怪博士
江戸川乱歩
|
空いちめん、白い雲におおわれた、どんよりとむしあつい、春の日曜日の夕方のことでした。十二、三歳のかわいらしい小学生が、麻布の六本木に近い、さびしい屋敷町を、ただひとり、口笛を吹きながら歩いていました。
この少年は、相川泰二君といって、小学校の六年生なのですが、きょうは近くのお友だちのところへ遊びに行って、同じ麻布の笄町にあるおうちへ帰る途中なのです。
道の両がわは大きなやしきの塀がつづいていたり、神社の林があったりして、いつも人通りのすくない場所ですが、それが、きょうはどうしたことか、ことにさびしくて、長い町の向こうのはしまで、アスファルトの道路が、しろじろとつづいているばかりで、人の影も見えないのです。
空はくもっていますし、それにもう日暮れに近いので、泰二君は、なんだかみょうに心ぼそくなってきました。口笛を吹きつづけているのも、その心ぼそさをまぎらすためかもしれません。
ところが、足早に歩いていた泰二君は、とある町かどをまがったかと思うと、ハッとしたように、口笛をやめて立ちどまってしまいました。
みょうなものを見たようです。二十メートルほど向こうの道のまんなかに、ひとりのぶきみな老人がうずくまって、みょうなことをしているのです。
老人は映画に出てくる西洋の乞食みたいなふうをしていました。長いあいだ床屋に行ったこともないような、モジャモジャのしらが頭、顔中をうずめた白いほおひげ、あごひげ、身には、くず屋のかごの中からでも拾いだしたようなボロボロの古洋服を着て、靴下もない足に、やぶれ靴をはいています。
その乞食のような老人が、道路のまん中にうずくまって、はくぼくで地面に何か書いているのです。
泰二君は、「おかしいな。」と思ったものですから、町かどに身をかくすようにして、ソッと見ていますと、老人は地面に何か書きおわると、立ちあがって、うさんらしくキョロキョロとあたりを見まわし、そのまま向こうへ歩いていきます。
泰二君は老人の立ちさるのを待って、その場所へいき、何を書いたのかと、地面のアスファルトの上をながめましたが、そこには直径八センチほどの丸の中に、十字が書いてあって、その十字の一本の棒のはしに矢のしるしがついているのです。
年よりのくせに、こんなみょうないたずら書きをするなんて、あのおじいさん、気でもちがっているのかしらと、向こうへ遠ざかっていく、そのうしろ姿を見ますと、どうしたというのでしょう、向こうのまがりかどで、老人がまたうずくまっているではありませんか。そして、まえと同じように、地面へ何か書いているのです。
相手がそこを立ちさるのを待って、いってみますと、やっぱり同じ丸の中に十字です。そして、一本の棒のはしに、方角を示すような矢のしるしがついています。
「へんだぞ。ひょっとしたら、あのじいさん、何か悪だくみをしているんじゃないかしら、仲間に何かあいずをするために、こんな暗号みたいなものを書いて歩いているのかもしれない。」泰二少年は、ふと、そんなふうに、うたがってみないではいられませんでした。
「よしッ、ひとつ、あのじいさんのあとをつけてみてやろう。」そう心につぶやいて、少年は相手にさとられぬように注意しながら、ソッと尾行をはじめました。
読者諸君は、小学生の泰二君が、こんな探偵みたいなまねをするのはへんだとお考えでしょうね、しかし、これにはわけがあるのです。
「怪人二十面相」や「少年探偵団」をお読みになった諸君は、よくごぞんじでしょうが、名探偵明智小五郎の少年助手小林芳雄君が団長となって、小学生十人ほどで組織している、少年探偵団という団体があるのです。そして、相川泰二君も、じつは、その少年探偵団員のひとりなのです。
そういうわけですから、何か犯罪に関係のありそうなものに出あいますと、ついその秘密をさぐってみたくなるのも、むりのないことだったのです。
さて、見えがくれに尾行をつづけていきますと、怪老人はそれとも知らず、ますますさびしい屋敷町へと、テクテク歩いていきましたが、みょうなことに、町かどへ来るたびに、かならず地面にしゃがむのです。そして、前後を見まわしながら、はくぼくで、例の丸に十字の符号みたいなものを書くのです。
「やっぱり、あいつあやしいやつだ。町のまがりかどに来るたびに、あの符号を書くのをみると、きっと仲間の悪者に、どこかへの道順を知らせるためにちがいない。」泰二君は心の中でつぶやきながら、いよいよねっしんに尾行をつづけました。
老人と泰二君とは、それから五つの町かどをまがりました。つまり丸に十字の符号が五つ書かれたわけです。ところが六つめの符号は、町かどではなくて、一軒の洋館の門の前の地面にしるされました。
泰二君は、その町は今まで通ったことがなく、その洋館もはじめて見たのですが、これが今の東京にある建物かしらと思われるような、ひどく古めかしい、なんだか一世紀もむかしの西洋の物語にでも出てくるような洋館でした。
ずっと赤いれんが塀がつづき、その中ほどのこけのはえた石の門に、唐草もようになった鉄のとびらがしまっています。その中にある建物は、同じ赤れんがの二階建てで、三角形にとんがった屋根には、むかしふうな四角い暖炉のえんとつがニューッとつきだしています。窓は小さくて数もすくなく、家の中はさぞうす暗いだろうと思われるような、陰気なうすきみの悪い建築です。
そのれんが塀のかどに身をかくして、じっとようすをうかがっていますと、怪老人は、その石門の前の地面にうずくまって、ねっしんに例の符号を書いていましたが、それを書きおわって立ちあがると、またあたりをジロジロと見まわしてから、唐草もようの鉄のとびらに近づき、それを細めにひらいて、洋館の門の中へ、しのびこむように消えていきました。
「いよいよへんだぞ。あんなきたない乞食じいさんが、このりっぱな洋館に住んでいるはずはない。しのびこんで何かぬすむつもりじゃないかしら、それとも、もっとおそろしいことをたくらんでいるのかもしれないぞ。」泰二君はそう考えますと、もう心配でたまらなくなりましたので、急いで門の前に近づき、とびらの唐草もようのすきまから、中をのぞきこんでみました。
すると、ああ、どうでしょう。案のじょう老人は悪者でした。洋館の外を右がわへまわって、そこの窓をよじのぼっているではありませんか。家人にさとられぬよう、部屋の中へしのびこもうとしているのです。
「ああ、たいへんだ。どうしようかしら。」と泰二君がまよっているうちに、怪老人の姿は窓の中へ消えてしまいました。中で何をしているのかと思うと、もう気が気ではありません。
おまわりさんに知らせるのがいちばんいいことはわかっていました。でも、遠くの交番までかけだしているうちに、老人は目的をはたして逃げだしてしまうかもしれません。
「そうだ。玄関のベルをおして、ここの家の人に知らせてあげよう。」泰二君はとっさに心をきめて、ソッと門のとびらをひらくと、足音をたてぬように気をつけながら、正面の玄関へかけあがっていきました。
呼びりんのボタンをさがしますと、入り口の柱の上のほうについていることがわかりましたので、背のびをして、いっしょうけんめいそれをおしつづけました。
ところが、いつまでおしていても、だれも玄関へ出てくるようすがありません。ひょっとしたら呼びりんの電線が切れているのかもしれないと思って、こんどは、玄関のドアをおしたり引いたりしてみましたが、かぎがかけてあるらしく、ビクとも動かないのです。家の人はるすなのかもしれません。
門の外をふりかえって助けを求めようとしても、人通りはまったくありませんし、泰二君はこまってしまいました。といって、このまま賊を見のがして立ちさる気にはどうしてもなれません。名誉ある少年探偵団の名折れのようにさえ考えられるのです。
しかたがないので、少しうすきみ悪くは思いましたけれど、思いきって怪老人のしのびこんだ窓の外へまわってみることにしました。
相手にさとられてはたいへんですから、背をかがめ、足音をしのばせて、まるで、はうようにして、その窓の外まで、やっとたどりつきました。
しかし、立ちあがって窓の中をのぞくのは、なかなか勇気のいる仕事です。もし窓の中の怪老人がこちらを見ていたら、たちまちとびだしてきて、泰二君をとらえてしまうかもしれません。いや、とらえるばかりならいいのですが、ピストルか短刀でも持っていたら、それこそたいへんなことになります。それを考えますと、窓をのぞくというだけのことが、命がけの冒険なのです。
泰二君は、胸をドキドキさせながら、一ミリずつ一ミリずつ、まるでなめくじのはうような速度で、用心にも用心をして、窓のところへ顔をあげていきました。そして、長いあいだかかって、やっと部屋の中を、チラッとのぞくことができました。
のぞいたかと思うと、泰二少年の顔色がサッとかわりました。黒目がちのかわいらしい両眼が、とびだすのではないかと思うばかり、見ひらかれました。何かしら、よほどおそろしいものを見たのにちがいありません。
ああ、部屋の中にいったい何があったのでしょう。もしやそこには、あのぶきみな怪老人が、「おまえの来るのを待っていたぞ。」といわぬばかりに、おそろしい顔で、こちらをにらみつけていたのではないでしょうか。
その部屋は客間らしく、まんなかにテーブルがあって、そのまわりに、みょうなかっこうのイスがならんでいました。なんとなくうす暗い陰気な部屋でしたが、すみずみが見わけられぬほどではありません。
泰二君は、忙しく、そこを見まわしましたが、予期に反して、さいぜんの老人の姿はどこにもありませんでした。そのかわりに、テーブルの足のところに、老人などよりは、もっともっとびっくりするようなものがころがっていたのです。
それはうす暗い部屋の中に、パッと一輪のバラの花が咲いたように、美しい色彩のものでした。ひとりの美しい少女なのです。目もさめるばかり、はでやかな洋装をした、十六、七歳の絵のように美しい少女なのです。
しかし泰二君は、そのおねえさまの美しさにおどろいたのではありません。少女のむごたらしいありさまにギョッとしたのです。少女は洋服の上から、太いなわで、手足をグルグル巻きにしばられていました。口には白い布で、さるぐつわさえはめてあるのです。
「あの悪者の老人が、おねえさまを、こんなひどいめにあわせたんだな。」泰二君はそう思うと、もうじっとしてはいられませんでした。美しい少女がかわいそうでしかたがないのです。あのおいぼれじじいと一騎うちの勝負をしても、このおねえさまを救わないでおくものかと、少年の胸には、勇ましいいきどおりがこみあげてきました。
正面のドアはひらいたままになって、その向こうにズッと廊下がつづいているのですが、そこにも怪老人の姿は見えません。きっと、たったひとりでおるす番をしていた、この少女をしばっておいて、何かをぬすむために、奥のほうへはいっていったのにちがいありません。
「よしッ、このまにおねえさまを助けてあげよう。そして、おねえさまにかぎをかりて、老人を家の中へしめこんでしまって、おまわりさんを呼びに行くことにしよう。」
泰二君はとっさに決心しますと、窓のふちに両手をかけ、学校で習った器械体操の腕まえで、パッと身をおどらせ、みごとに部屋の中へとびこんでしまいました。それから、急いで少女のそばへかけより、ポケットからナイフを出して、なわを切り、
「しっかりしてください。ぼく助けに来たんです。」と、少女の安心するようにささやきながら、だんだん手足のなわをといていきました。
ところがみょうなことには、なわがおおかたとけてしまっても、少女は石のように身動きさえしないのです。
気をうしなっているのかしらと、肩へ手をあてて、ソッとゆすり動かしてみました。
「しっかりしてください。きみ、しっかりしてください。」
でも、少女は少しも動きません。いや、そればかりか、なんだか手ざわりがへんなのです。やわらかいはずの肩の肉が、コチコチとかたくてぶきみにつめたいのです。
泰二君は、それに気がつくと、思わずゾッとしました。このおねえさまは死んでいるのかもしれない。そして本で読んだ死後の硬直状態になっているのかもしれない、と思ったからです。
泰二君は、どうしていいのかわからなくなりましたが、なわをといたのですから、さるぐつわもはずしてあげようと、顔の前にまわって、その白い布をとりさろうとしました。
そして、少女の顔をつくづく見ますと、泰二君はまたしても仰天してしまいました。ああ、なんということでしょう。あんなにも胸をドキドキさせて、助けてあげようと骨折ったこの少女が、人間ではないことがわかったからです。それは、まるで生きているようによくできた、ろう細工の人形がしばられて、さるぐつわをはめられて、そこにころがっていたのです。
いったいだれが、なんのために、こんなみょうなことをしておいたのでしょう。さいぜんの怪老人が、わざわざ人形をしばったりなんかするはずはありません。老人がここへしのびこむ以前から、この人形はしばられていたのにちがいないのです。
ろう人形は、そこによこたわったまま、かわいらしいガラスの目で、じっと、泰二君を見あげていました。ほんとうに生きているように美しい顔です。お友だちの桜井君のおねえさまにそっくりです。
泰二君は、なんだかこわくなってきました。魔法にでもかけられているような、おそろしい夢でもみているような、なんともいえないへんてこな気持ちです。
あの怪老人はどこへかくれてしまったのか、さっきから、もう十分ほどもたっているのに、もどってくるようすもありません。この古めかしいうす暗い洋館の中に、たったひとりとりのこされたような、うすきみの悪いさびしさです。
泰二君はしばらく、ものを考える力がなくなってしまったように、ぼんやりとそこにたたずんでいましたが、ふと気がつくと、いつのまにか、部屋の中がまっくらになっているではありませんか。
「おやッ。」と思って、ふりむいてみますと、今しがたまでひらいたままになっていた、ただ一つの窓がいつのまに、だれがしたのか、がんじょうな鉄のよろい戸で、ぴったりとふさがれていることがわかりました。そのよろい戸が外からの光線をさえぎって、こんなに暗くなったのです。泰二君はびっくりして、そこにかけより、両手で力いっぱいよろい戸をひらこうとしましたが、おしても引いてもビクとも動きはしないのです。
ああ、なんというへんてこな建物でしょう。外から見ただけでも、なんとなくうすきみが悪かったのですが、その部屋の中には、美しい少女の人形が、さも生きた人間のようなかっこうでしばられていたり、人もいないのに、ひとりでに窓のよろい戸がしまったり、まるで化け物屋敷ではありませんか。
泰二君は、とうとう、まっくらな部屋の中に、とじこめられてしまったのです。出口をさがそうとすれば、奥の廊下のほうへ出てみるほかはありませんが、しかし、そちらには、あのきみの悪い老人が、ニヤニヤ笑いながら待ちかまえているかもしれないのです。
泰二君はとほうにくれてしまいました。といって、いつまでもこの暗い部屋に、人形とふたりきりでいるわけにはいきません。だいいち、こわくてたまらないのです。少女の人形が、あまりよくできているものですから、暗やみの中で、ヒョッコリ立ちあがりそうな気がして、もういたたまれないほどおそろしいのです。
そこで、怪老人に出あうのはかくごして、とうとうその部屋から、廊下へ逃げだしてしまいました。
ビクビクしながら、廊下を見まわしましたが、そのへんに、あの老人がかくれているようすもありません。家中がしいんと静まりかえって、ほんとうにあき家のような感じです。
廊下はかぎの手にまがっていて、そのところどころにドアがついているのですが、どのドアも中からかぎがかかっているとみえ、とっ手をまわしてみてもあくようすもありません。みんなきみの悪い「あかずの部屋」ばかりです。泰二君は今にも泣きだしそうになるのを、やっとの思いでこらえながら、とうとう、廊下のいちばん奥にある部屋の前までたどりつきました。
見ると、そのいちばん奥の部屋だけは、ドアが半分ほどあいているのです。「この中にだれかいるのかしら。」と思うと、また、みょうにこわくなってきます。ドアがしまっていればしまっているで、うすきみが悪いし、あいていればあいているで、やっぱりこわいのです。
でも、いまさらためらっているばあいではありません。泰二君は下腹にグッと力を入れて、勇気をふるいおこしました。そして、そのあいたドアの中を、ヒョイとのぞきこんだのです。
ドアの中をのぞいてみますと、その部屋が思ったよりずっと広くて、たいへんりっぱなのに、まずびっくりしてしまいました。
部屋の四ほうのかべは、高い天井までとどく書だなになっていて、金文字の洋書が、ぎっしりつまっています。それから、その書だなの四つのすみには、おとなほどの背の高さのいかめしい石膏像が、ニョキニョキとつっ立っているのです。正面の右手に立っているのは、にいさんの西洋史の本のさし絵で見た、ギリシャの詩人ソフォクレスの彫刻によく似ています。あとの三人も、きっとソフォクレスにおとらない、昔の偉い人たちの像でしょうが、泰二君にはよくわかりませんでした。
部屋の正面には、書だなを背景にして、長さ二メートルもありそうな、大きな机がすえてあります。足にいちめんに彫刻のある、茶色にくろずんだ、見たこともないようなりっぱな机です。その表面は、まるで鏡のように光っていて、うしろの書だながありありとうつっているのです。
その机の向こうがわに、みょうな人物が腰をかけて、机の上に顔をふせ、何かしきりと書きものをしています。こちらを向いている頭の毛が、なかば白くなっているのを見ますと、相当の年配の人にちがいありません。むろん、さきほどの怪老人とは、似ても似つかぬりっぱな人物です。身には、西洋の衣とでもいうような、ダブダブした将校マントのようなものを着ています。
泰二君はそれを見ると、ホッと安堵のため息をつきました。こんなりっぱな人ならば、まさか、子どもをひどいめにあわせるようなことはあるまいと感じたからです。そこで、思いきって、声をかけてみました。
「おじさん、おじさんはこの家のご主人ですか。」
書きものをしていた人は、それを聞くと、しずかに顔をあげて、じっと泰二君を見つめたまま、ニヤニヤとみょうな笑い方をしました。そこで、その人の顔がわかったのですが、半白の長い髪をふさふさとしたオールバックにして、半白のピンとはねた口ひげと、半白の三角に刈ったあごひげをたくわえ、黒いふちの大きなロイドめがねをかけて、その中から、よく光る大きな目が、ジロリとこちらをにらんでいるのです。
ただニヤニヤ笑っているばかりで、返事をしてくれないものですから、泰二君は、もう一度、同じことばをくりかえしました。
すると、その人は、腹の底から出てくるような太い声で、
「ウン、わしが主人じゃよ。まあ、こちらへおいで。」といいながら、右手を机の上にのばして、まるで犬でも呼ぶように、人さし指で「来い来い。」という形をして見せるのです。
なんだかうすきみの悪い、へんなおじさんだと思いましたが、いまさら逃げだすわけにもいかず、いわれるままにツカツカと部屋の中へはいっていって、鏡のように光る大机の前に立ちました。
「おじさん、ぼく、だまってあなたの家へはいってきて、ごめんなさいね。さっき、あやしい乞食のじいさんがあちらの窓からしのびこむのを見たんです。ぼく、泥棒かもしれないと思って、玄関の呼びりんをおしたんだけれど、だれも出てこないもんだから、そのじいさんのあとをつけて、同じ窓からはいってしまったんです。……ぼく、相川泰二っていうんです。」泰二君が、やっとそれだけいいますと、奇妙な人物は、やっぱりニヤニヤ笑いながら、
「きみが相川泰二君ということはよく知っている。わしはきみを待っていたのじゃからね。」と、いよいよきみの悪いことをいうのです。
しかし泰二君は、さいぜんの怪老人のことが気になって、相手のみょうなことばを、うたがっているよゆうがありませんでした。
「おじさん、そのあやしい乞食じいさんは、まだ、この家の中のどこかにかくれているんですよ。きっと泥棒です。早くさがしてください。」
「ハハハ……、あのじいさんのことなら、心配せんでもいい。ちゃんとこの部屋の中にいるのじゃ。」
「エッ、この部屋に?」
泰二君はびっくりして、キョロキョロとあたりを見まわしましたが、主人のほかには、人のけはいもないのです。このみょうな人物は、いったい何をいっているのでしょう。
「だれもいやしないじゃありませんか。」泰二君は、ふしぎそうに主人の顔を見つめました。
「いないことはない。ほら、そこをごらん。そこにちゃんといるじゃないか。」
指さされてうしろをふりかえりますと、書だなのすみの、一つの石膏像の足もとに、きたならしい洋服がぬぎすててあるのが目にはいりました。洋服ばかりではありません。一足のやぶれ靴と、それから、しらがのかつらのようなもの、つけひげのようなものまで、そこに投げすててあります。
泰二君は、それらのものをながめているうちに、さっきの怪老人の着ていた洋服、はいていた靴、それから、しらが頭、あの白ひげにそっくりであることに気づいて、あっけにとられてしまいました。いったいこれはどうしたというわけでしょう。
「ハハハ……。わかったかね。あの乞食じじいは、このわしだったのさ。たった今、その変装をぬいで、もとのわしにかえったばかりじゃよ。」
泰二君はギョッとして、思わず二、三歩あとじさりをしました。
「ハハハ……、びっくりしているね、どうじゃ、わしの変装はうまいものだろう。」
「おじさん、あなたはいったい、だれですッ。」泰二君は、いざといえば、逃げだす身がまえをしながら、するどくたずねました。
「ハハハ……、わしの名が知りたいのか。わしは蛭田博士、医学博士じゃ。さっきもいうとおり、この家の主人じゃよ。」
「では、なぜ、あんなじいさんに変装して、窓からしのびこんだりなんかしたんです。主人が、自分の家へ、窓からはいるなんて、へんじゃありませんか。」
「へんかもしれないがね。それには、わけがあるのだよ。じつをいうと、だれにも知られないように、きみをここまで呼びよせたかったんじゃ。わかったかね。」
「ぼくを呼びよせるんですって。それならば、あんなまねをしないでも、ぼくの家へそういってくださればよかったじゃありませんか。」
「それが、そうはできないわけがあるんじゃ。今にわかる。今にわかる。ハハハ……、きみはなかなか用心ぶかい、かしこい子どもじゃからね。うかつに手出しをしてはあぶないからじゃよ。計略でおびきよせなければ。」
「じゃあ、じいさんが地面に書いたしるしも、ぼくをここへ来させるためだったんですか。」
「そうとも、そうとも。きみは少年探偵じゃからね。ああすれば、だれにもいわないで、ソッとついてくるにちがいないと思ったのさ。うかつなことをして、泣いたりわめいたりされるよりは、少し手数がかかっても、ああいう方法をとったほうが、てっとり早くて、安全だからね。」
聞いているうちに、蛭田博士とやらいう人物のおそろしいたくらみが、だんだん、はっきりしてきました。博士は、もっとも安全な方法によって、少しの抵抗もうけず、まんまと泰二少年を誘かいしたのでした。
「じゃあ、あの人形も……。」
「そうじゃ。やっとわかってきたようじゃね。むろんあれも、きみを部屋の中へおびきよせるための奇抜な手だてだったのさ。きみは義侠心にとんだ子どもじゃからね。まさかあれを見すてて、立ちさってしまうようなことはあるまいと思ったが、案のじょう、あの娘を助けようとして、勇士のようにとびこんできた。感心な少年じゃよ、きみは。」蛭田博士は、さもとくいらしく、舌なめずりをして説明するのでした。
「すると、きみの知らぬまに、窓のよろい戸がしまってしまった。むろん、わしがしめたのじゃ。この家にはいろいろな機械じかけがあってね。ボタンひとつおせば、どんなことでもできるのじゃよ。そこで、きみはまんまと、わしのとりこになったというわけさ。もう、泣こうがわめこうが、世間に聞こえる気づかいはない。さて、窓がしまったとなると、きみは、こちらへやってくるほかに道はないのじゃ。わしはここで、じっと、それを待っていさえすればよかったのさ。
わしは、ごく自然に、きみがここへはいってくるように仕向けたばかりで、きみをさらったわけでもなければ、手紙や電話でおびきよせたわけでもない。また、きみ自身さえ、わしが何者か知らぬくらいじゃから、きみのおとうさんやおかあさんが、わしというものを知っているはずはない。つまり、きみがこの家へ来たということは、あの老人とわしのほかには、だれも知らぬのじゃ。ところがあの老人は、すなわちこのわしじゃから、広い世界に、きみがここへ来たことを知っているのは、わしのほかにはひとりもないのじゃ。わかったかね。
だから、もしきみのおとうさんが、警察にたのんで、きみのゆくえを捜索したところで、けっしてわかるはずはない。わしのほうで少しもむりをしていないのじゃから、手がかりというものが、これから先もないからじゃ。つまり、きみは完全に、永久に、わしのとりことなったわけじゃ。ハハハ……。」蛭田博士は、さもゆかいでたまらないというように、にくにくしく笑うのでした。
泰二君は、あまりのおそろしさに、口もきけないほどでしたが、もういよいよのがれる道がないときまると、子どもながら、かえって、度胸がすわってきました。そして、この魔法使いみたいな顔をした博士が、むしょうににくらしくなってきました。
「き、きみは、ぼくになんのうらみがあるんです。そして、ぼくをこれからどうしようっていうんです。」
泰二君は腹だたしさに、かわいいほおをまっかにそめて、怪博士につめよりました。
「ハハハ……、なあに心配しないでもいいよ。きみをとって食おうというのではない。ただな、きみにちょっとおもしろいものを見せてあげようと思うのさ。」博士は、大きなロイドめがねの中から、泰二君の上気した顔を、じっと見つめながら、みょうなことをいいました。
「おもしろいものですって?」
「ウン、そうだよ。」
「そんなもの見たくありません、ぼく、帰ります。」
「ハハハ……、帰るといっても、わしがゆるさんよ。」
「でも、帰るんです。」泰二君は、決心の色をうかべて、強くいいはなちました。
「ハハハ……、帰れるものなら帰ってごらん。そら、これでもきみは帰るというのかね。」博士はいいながら、ソッと机の下がわにしかけてあるボタンをおしました。すると、どうでしょう。泰二君の立っていた床板が、とつぜん、ガタンと落ちこんで、まっくらな四角な穴があき、アッと思うまに、泰二君のからだは吸いこまれるように、その中へ消えうせてしまいました。
おとし穴です。博士はさいぜんから、泰二君が、そのおとし穴の上に立つのを、待ちかまえていたのでした。
泰二君のさけび声が、ひじょうな早さで、地の底に消えていきますと、落ちこんでいた床板が、ギーと、もとにもどって、部屋の中はなにごともなかったかのように静まりかえってしまいました。
「ウフフフ……、これでよしと。」博士はさも満足そうに、そんなひとりごとをいって、ゆっくりイスから立ちあがりました。そして、うしろの高い書だなに近づいて、大きな洋書を二冊ぬきだし、そのあとの穴へ手を入れて、何かゴトゴトやっていましたが、すると、書だなの一部分が、まるでとびらででもあるように、グーッと奥のほうへひらきはじめたではありませんか。ここにもまた、みょうな機械じかけがあって、書だなの奥に秘密の部屋ができていたのです。
博士はそのまっくらなせまい密室にはいりますと、書だなのとびらをもとにもどしておいて、電灯のスイッチをひねりました。なんという奇妙な部屋でしょう。いっぽうのすみには、三、四十もひきだしのある大きな台があって、その上に床屋さんにあるような、りっぱな鏡が立っています。
それから、四ほうの壁には、いく十組ともしれぬ洋服、和服、がいとう、帽子などが、古着屋さんの店のように、つりさげられ、その下には、いろいろな形の靴、ぞうり、げた、こうもりなどが、ズラリとならんでいるのです。
博士はそこにはいりますと、いきなり黒い衣のようなものをぬぎすて、シャツ一枚になって、鏡の前のイスに腰かけました。それから、じつにふしぎなことがはじまったのです。博士はまず、めがねをはずして、台の上におきますと、両手で半白の髪の毛をつかみ、まるで帽子でもぬぐように、スッポリととりはずしたかと思うと、こんどは口ひげと三角形のあごひげに手をかけ、これもメリメリと、ひきはがしてしまいました。
ああ、なんということでしょう。博士は二重の変装をしていたのです。さいぜんまでは、きたならしい乞食じいさんに化けていて、その変装をといたかと思うと、その下にまだ、かつらやつけひげがあったのです。
それをとりさってしまった、今の姿こそ、ほんとうの蛭田博士にちがいありません。見れば黒々とした髪の毛、つやつやとした顔の色。老人どころか、まだ三十歳を少しこしたばかりの若者です。
博士は鏡の下のひきだしを、あちこちと開いて、何かさがしているようすでしたが、やがて、クシャクシャとみだれたしらがの老婆のかつらをとりだして、手早くそれをかぶりますと、つぎには、絵の具ざらのたくさんならんでいるひきだしを開き、そこにあった絵筆をとって、鏡を見ながら、顔に何かかきはじめました。
みるみる、鏡の中に、おそろしくしわくちゃなおばあさんの顔ができあがっていきます。まゆ毛もまっ白にそめられ、歯にはところどころ、まっ黒なうすい金属のさやのようなものがはめられて、たちまち歯ぬけばあさんの口ができあがってしまいました。
顔のおつくりがすみますと、博士はイスから立ちあがって、壁につりさげてある衣装の中から、西洋の老婆の着るような、白っぽい上着と、ひだの多いスカートを選びだして、手ぎわよく身につけ、その上から大きな茶色の肩かけをはおりました。足には靴下もはかず、そこにあった一足の不細工な木靴をつっかけたままです。そうしてできあがった変装は、西洋の童話にある魔法使いのおばあさんそっくりでした。
おばあさんは、からだを二つに折ったように腰をかがめ、両手をうしろにまわして、歯のない口をモグモグさせながら、ヨチヨチと歩きはじめました。
その小部屋の、書だなとは反対がわに、小さなくぐり戸がついています。おばあさんは、それをかぎでひらいて、その向こうの穴ぐらのようなまっくらな中へ、はいっていきました。どうやらそこに地底へおりる秘密の階段があるらしく、おばあさんの姿は、コトンコトンと、一段ずつ下のほうへ、おりていくように見えました。
お話かわって、こちらは泰二少年です。アッと思うまに、足もとの床板が消えうせてしまったような気がして、からだが、スーッと宙にういたかと思うと、何かひどくツルツルした、公園などにあるすべり台のようなものの上に落ち、そのまま、ひじょうな早さで、下のほうへすべっていきました。
やがて、ドシンとなにかかたいものにたたきつけられたように感じましたが、そこが穴ぐらの底でした。少しおしりのへんが痛かったくらいで、からだに別条はありませんので、すぐ立ちあがって、あたりを見まわしました。
いま落ちてきた穴もふさがれてしまったとみえて、そこはやみ夜のようにまっくらです。ただ穴ぐらの中ほどに石でつくったいろりのようなものがあって、その中に少しばかりのたきぎが、チロチロと赤い舌を出してもえています。光といっては、ただその炎ばかりなのです。
でも、やみに目がなれるにしたがって、穴ぐらのようすが、おぼろげにわかってきました。広さは八畳ほどもあるでしょうか、四ほうの壁は、ゴロゴロとした大きな石でつみあげてあって、地下室というよりも、大昔の穴居時代の穴ぐらといった感じです。
火のもえているいろりの上には三本の木の枝を組みあわせて、三脚のようなものが立てられ、そこにみょうななべがつりさげてあります。なべの中には何がはいっているのか、下の炎にあぶられて、ゴトゴトとにえたち、白い湯気がたちのぼっています。
それからいろりのすぐそばに、一脚の大きな木のイスがおいてあります。これも西洋の童話にあるような奇妙な形の、古めかしいイスで、両ほうのひじ掛けがヘビの形に彫刻してあって、前から見ますと、二ひきのヘビが大きな口をあいて、今にもこちらへとびかかってきそうに思われるのです。それが、いろりのかすかな赤い炎にてらされて、生きているようにものおそろしく見えます。
泰二君は、そんな陰気な、ものすごい穴ぐらが、東京のまん中にあろうとは思いもよりませんでした。話に聞く、暗やみの地獄へでも落ちこんだような、なんともいえぬうすきみの悪さです。それがあまりありそうもない景色なので、ひょっとしたら、おそろしい夢をみているんじゃないかしらと、うたがわれるほどでした。
ところが、そうしてしばらく穴ぐらを見まわしているうちに、こんどは、いきなり背中につめたい水をかけられでもしたように、心の底からふるえあがるほどの、おそろしいことがおこりました。
ふと見ますと、向こうの暗やみの中に、もうろうとして、何かしら、ほの白い物の姿があらわれたのです。泰二君は幽霊などは信じないのですけれど、でも、場所がこんなうすきみ悪い穴ぐらの中だものですから、もしや幽霊が出たのではないかと、ゾーッと身もすくむ思いでした。そのものは、やみの中を、少しずつ、少しずつこちらへ近づいてきます。近づくにしたがって、だんだんその姿がはっきり見えてきました。足で歩いているようすですから、まさか幽霊ではありますまい。しかし、これは幽霊などよりも、いっそう、おそろしく、ぶきみな姿をしています。
銀色の針金のようなまっ白なしらがが、モジャモジャともつれ、肩のあたりまでさがっています。そのしらがの下に、うす黒いしわくちゃのおばあさんの顔が、歯のぬけた口をあいて、ニヤニヤと笑っているのです。
上半身をおおいかくした茶色の古い肩かけの下から、ひだの多いスカートがたれ、足には、先のとがった木靴をはいています。西洋の妖婆です。魔法使いのおばあさんです。さすがの泰二君も、それを見ますと、アッと声をたてて、思わず部屋のすみへ逃げこんでしまいました。
「オホホホ……、よく来たね。いい子だから逃げるんじゃないよ。おばあさんがおもしろいお話をしてあげるからね。さあ、こちらへおいで。」妖婆は、肩かけの下から手を出して泰二君をまねきながら、ジリジリと近づいてきます。右へ逃げれば右へ、左へ逃げれば左へ、おばあさんは、泰二君の身をかわすほうへ、まるでひもで引かれてでもいるように、こんよくつきまとってくるのです。
どこに逃げ道もない穴ぐらの中、いくら逃げまわってみても、いつかはつかまるにきまっています。泰二君は、とうとうかくごをきめました。ほとんど死にものぐるいの決心をして、まっさおな顔で、そこに立ちどまると、おばあさんを待ちかまえて、おそろしい目でにらみつけました。
「おお、いい子だ。いい子だ。おまえは男らしい子だねえ。勇気がおありだねえ。さあ、おばあさんとにらめっこをしましょう。先に笑ったほうが負けだよ。いいかい。」おばあさんは、じょうだんとも本気ともつかない、みょうなことをいって、泰二君の前に立ち、しらがのまゆ毛の下でギロギロ光っているおそろしい目で、またたきもせず泰二君の目を見つめました。
しばらくのあいだ、なんとも形容のできない、ふしぎなにらみあいがつづきました。
泰二君は、今にも気を失いそうになるのを、やっとがまんして、歯を食いしばって、いっしょうけんめいおばあさんをにらみかえしていましたが、おばあさんの目は、だんだん大きく見ひらかれていって、何かしら動物のような青い光をはなちはじめました。なんだかそこから、目に見えぬ電気のようなものが、泰二君のほうへとんでくるような感じです。
やがて、目だけはするどく見ひらいたまま、おばあさんのしわくちゃの顔にうすきみの悪い微笑がうかんできました。そして、おばあさんは両手を宙にあげて、泰二君の頭の上で、何か拍子でもとるように、ゆっくりゆっくり左右に動かしはじめました。
すると、それがあいずででもあったように、泰二君は、目の前がボーっと白くなって、おばあさんの顔が見えなくなってきました。おばあさんの顔ばかりではありません。穴ぐらの中ぜんたいが、こいもやにでも包まれたように一面にうす白くなって、頭がぼんやりしてきました。
「アッ、いけない。ぼくは、いま、おばあさんの魔法にかかっているのだ。しっかりしなけりゃいけない。」そう思って、なんども気をとりなおすのですが、やっぱりおばあさんの目から出る、電気のようなものに負けて、ウトウトと夢みごこちになるのです。
「ぼくは、ぼくは、帰るんだ。おかあさん、助けてください。」そんなわけのわからない、寝言のようなことを二言三言つぶやいたかと思うと、かわいそうに、泰二君はとうとう気力がつきて、クナクナと、その場にたおれてしまいました。たおれてからも、むちゅうで起きあがろうとして、しばらくはもがいていましたが、その力もだんだんおとろえ、しまいには、グッタリとなって、死人のように、前後も知らずねむりこんでしまいました。
「オホホホ……、とうとうおねむりだね。催眠術の力はおそろしいねえ。さあ、いい子だから、そうしてねむりながら、わたしのいうことを、よく聞いておぼえておくのだよ。いいかい。」おばあさんは、たおれた泰二君の上に、身をかがめて、やっぱり両手は宙にうかし、ゆっくりと左右に動かしながら、何か呪文でもとなえるように、クドクドとしゃべりはじめるのでした。
泰二君は妖婆の魔法にかかったのでしょうか。いやいや、今の世に魔法なんてあるはずがありません。おばあさんがひとりごとをしたように、それは、催眠術というものの力だったのです。人を自由にねむらせ、ねむっているあいだに、いろいろなことを命令して、目をさましてから、それを実行させることができるという、あのおそろしい催眠術の力だったのです。
その晩七時ごろ、泰二少年は、なにごともなかったように、おうちに帰ってきました。
おかあさまが、「泰ちゃん、どうしてこんなにおそくなったの。」と、おたずねになっても、ただ「友だちと勉強していたんです。」と答えるばかりで、なぜか、ほんとうのことを言おうとしないのでした。
おかあさまが、「泰ちゃん、ごはんまだなのでしょう。ちゃんと用意してありますから、早くおあがりなさい。」とおっしゃっても、泰二君はまるで、おかあさまや女中たちの顔を見るのがこわいとでもいうふうに、だまって勉強部屋へはいったまま、何をしているのか、コトリとも物音をたてませんでした。
いつもならば、八時ごろになりますと、おかあさまのお部屋へ来て「何かお菓子。」と、おねだりするのがくせのようになっているのですが、今夜はどうしたのか、いっこうに部屋を出てくるようすもありません。
おかあさまは、もう心配でたまらなくなったものですから、お菓子とお茶を持って、わざわざ泰二君の部屋へ、ようすを見にいかれました。すると、どうでしょう。いつもは十時ごろまでも起きている泰二君が、いつのまにかひとりでふとんをしいて、寝ているではありませんか。
「あら、もうおやすみなの? へんですわねえ、気分でも悪いんじゃない?」おかあさまが声をかけられても、泰二君は、だまりこんでいて返事もしません。そうかといって、ねむっているのではないのです。青い顔をして、マジマジと目をひらいて、何かしきりと考えごとをしているようすです。
「まあ、なぜ返事をしませんの? 何を考えこんでいるんです。何か心配なことでもあるの? それともおなかでもいたむの?」くりかえしたずねても、泰二君はだまっています。そして、じっと天井を見つめた両眼が、涙ぐんでいるように、ギラギラ光っているのです。
「泰ちゃん、ほんとうにどうしたんですの? おかあさん、心配するじゃありませんか。ね、なんとかおっしゃい。」おかあさまは、まくらもとにすわって、やさしく泰二君の肩をゆり動かしながら、真剣にたずねられます。
すると泰二君も、もうがまんができなくなったのか、涙をいっぱいためた目を、おかあさまのほうに向けて、やっと口をききました。
「おかあさん、ぼく、苦しいんです。」
「エッ、苦しいって、どこが? どこがいたむの?」おかあさまは、やさしい顔を少し左のほうにかしげて、さも心配らしく、泰二君の顔をのぞきこむようにされました。
「いいえ、痛むんじゃありません。ぼく、心配でたまらないのです。」
「ですからさ、いったい何がそんなに心配なの?」
「それが口ではいえないのです。はっきりわからないのです。でも、ぼく、今になんだかおそろしいことをしそうでしかたがないのです。ぼくの心の中へ別の人の心がはいってきて、おそろしいことを命令しているような気がしてしかたがないのです。」
それを聞いて、おかあさまはギョッとしたように、顔色を青くされました。泰二君が何をいっているのか少しもわからなかったからです。もしや頭がどうかしたのではないかと、びっくりされたのです。
「ねえ、おかあさん、ぼく、お願いがあるんだけれど……。」泰二君は、熱にうかされているような目で、さもせつなそうに言いました。
「まあ、おかしいことをいうのね。お願いだなんて。どんなこと? 早くいってごらんなさいな。おかあさん、泰ちゃんのことなら、なんでも聞いてあげてよ。」
「へんなことだけれど、おかあさん、びっくりしちゃいけませんよ。あのー、ぼくをね、身動きできないように、細引きでしばってほしいんです。」
おかあさまは、「まあ。」といわれたきり、二の句も出ぬようすで、悲しげに泰二君を見つめました。子どもがおかあさまにしばってくれとお願いするなんて、正気のさたとも思われません。泰二君は、かわいそうに、ほんとうに気がへんになったのではありますまいか。
「ねえ、おかあさん、お願いです。」
「何をいっているんです。泰ちゃん、それじょうだんなんでしょう。そんなことをいって、おかあさんをびっくりさせて、あとで笑おうと思っているんでしょう。」
「いいえ、じょうだんなんかじゃありません。ぼく、真剣なんです。ほんとうにしばってくださらないと安心ができないのです。」
「まあ、本気でそんなことをいっているの? じゃあ、わけを話してごらんなさい。おかあさんがおまえをしばったりなんかできると思って?」
「わけは、ぼくにもよくわからないのです。でも、どうしてもそうしなければ、安心できないのです。ねえおかあさん、しばってください。お願いです。でないと、ぼく、気がくるいそうなんです。」
泰二君の青ざめた顔を見ますと、何かしら心の中で、はげしく苦しみもだえていることが、はっきりわかります。気がくるいそうだというのも、まんざらうそとは思われません。
おかあさまはこまってしまいました。あいにく、おとうさまは、会社のご用で関西のほうへ旅行中ですし、ほかには召し使いばかりで、そんなときの相談相手にはなりません。
「ねえ、早くしばってください。でないと、ぼく、死にそうです。」
泰二君は、さも苦しそうに身もだえをして、ポロポロ涙をこぼしています。それを見ると、おかあさまも、むしょうに悲しくなって、じゅばんのそでで目のふちをふきました。
「いいよ、いいよ。じゃあ、おかあさんがしばってあげますからね、そんなにもがくんじゃありません。しずかにして待っていらっしゃいね。」
おかあさまは、とにかく、泰二君を安心させるために、まねごとにでも細引きでしばるほかはないと考えたのでした。そして、納戸へいって、こうりをしばる細引きのたばを持って、泰二君のそばへ帰りましたが、いくら本人のたのみとはいえ、親がわが子をしばるなんて、形だけにもせよ、いやな気がするものですから、どうしたものかしら、とためらっていますと、泰二君は、そんなことはおかまいなく、早く早くとせがむのです。
やっぱりしばるほかはありません。このうえイライラさせれば、ほんとうに気がくるわないともかぎりません。それほど泰二君は真剣なのです。そこで、おかあさまは、なれぬ手つきで、さも悲しげに、ねている泰二君の手と足とに、細引きをぐるぐるまきつけて、形ばかりしばってみせました。
「もっと、きつくしばってください。どうしてもとけないように、強くむすんでください。」
「いいとも、いいとも、ウンときつくむすびましたよ。さあ、これでいいんですか。じゃあね、じっと気をしずめてね、もう何も考えないでねむるのですよ。」おかあさまは、そう言いながら、ぬいであった掛けぶとんを、泰二君の上に着せかけ、その上から、泰二君のからだを赤ん坊でもあやすように、かるくたたいてやるのでした。
しばらくそうして、ようすを見ていると泰二君は、細引きでしばってもらってやっと安心したのか、やがて、スヤスヤと静かなね息をたてて、ねむりこんでしまいました。
おかあさまは、ソッと泰二君のひたいに手をあててみましたが、べつに発熱しているようすもありません。またふとんの中へ手を入れて、泰二君のしばられている手首にさわってみても、脈搏もふだんと変わりはないことがわかりました。
「これならば、お医者さまをお呼びするほどのこともあるまい。まあ、あすの朝までソッとして、ようすをみてみましょう。」おかあさまは、そんなふうに考えて、そのまま自分の部屋へ帰りました。
ところがその夜ふけ、一時ごろのことです。部屋でやすんでいたおかあさまは、ふとみょうな物音に目をさましました。だれかが、廊下を足音をしのばせて歩いているような物音なのです。
おとうさまのおるす中ですし、奥の書斎には、たいせつな会社の秘密書類がしまってあるのですから、もし泥棒でもはいったのでしたら、たいへんです。おかあさまはこわいのもわすれて、ねまきのまま起きあがって、ソッと廊下へ出てみました。
大部分の電灯は消してしまってあるものですから、廊下の向こうのほうは、まっくらで見通しもききません。でも、その暗やみの中に、何かしら人間らしい黒い影が、ゆっくり動いているのが、かすかに見えるではありませんか。おかあさまは、ギョッとして、今にもさけび声をたてそうになりましたが、もしそんなことをして、賊が手むかってきてはいけないと、のどまで出た声をかみころし、なおもその人影を、じっとすかして見ました。
すると、目がなれるにつれて、暗やみの中にも、少しずつ物の形が見わけられるようになり、あやしい人影も、大きさ、輪かくだけはわかってきました。
「おや、泰ちゃんじゃないかしら。」
いかにも、その怪人物は、十二、三歳の背たけで、うしろ姿が泰二君とそっくりに見えました。
さいぜん、おかあさまは泰二君をしばりましたけれど、むろんまねごとに細引きをまきつけたばかりですから、とこうと思えば、泰二君自身でやすやすととけるのです。
おかあさまは、それが泰二君にちがいないとわかると、泥棒にはいられたよりも、もっとおそろしく感じました。いよいよ泰二君は頭がくるったのではないかしら、何かの悪魔にみいられたのではないかしら、と考えられたからです。
そこでおかあさまは、足音をしのばせて、ソッとその黒い影に近づき、
「泰ちゃん、泰ちゃん。」と、小声に呼びました。
そこまで近づいてみますと、もう、まぎれもなく、その怪人物は泰二君でした。それなのに、いくら声をかけても、まるでつんぼにでもなったように、返事もしなければ、ふりむこうとさえしないのです。
そして、グングンと廊下を進んで、おとうさまの洋室の書斎の前まで来ますと、いきなり、そのドアをひらいて中へはいっていくではありませんか。
おかあさまはあまりのきみ悪さに、もう声をかける勇気もなく、ただ胸をおどらせて、ドアの外から、わが子のしぐさを、じっと見つめているばかりです。
書斎にはいった泰二君は、まず壁のスイッチをおして、電灯をつけ、それからわき目もふらず、部屋のいっぽうのすみへ歩いていきます。
おかあさまは、ふと泰二君が夢遊病にかかったのではないかと、うたがいました。夢遊病というのはねむっているまに自分では少しも知らず、寝床からぬけだして、そのへんを歩きまわる病気なのですが、泰二君が宙に目をすえて、フラフラと歩いていくようすは、なんとなくその夢遊病らしく思われるのです。
泰二君は、おとうさまの大きな机の前に近づきますと、その足をえぐって作ってある秘密の小ひきだしをあけて、一つのかぎたばをとりだしました。それからそのかぎたばを右手にぶらさげたまま、また夢遊病者のような歩き方で、いっぽうのすみにある鋼鉄製の大きな書類箱のところへ行き、その前にしゃがんで、手にしたかぎを、そこのかぎ穴へさしこみ、苦もなく書類箱のふたをあけてしまいました。
それを見ているおかあさまは、もう気が気ではありません。今、泰二君がひらいた書類箱の中には、会社のたいせつな秘密書類がおさめてあるのです。いや、会社のためにたいせつなばかりではありません。この秘密書類が、もしスパイの手にでもはいるようなことがあれば、国のためにも、たいへんな支障をきたすことになるのです。
泰二君のおとうさまは、東洋製作会社という大きな製造工場の技師長をしていられるのですが、その工場で製造している機械の部分品の、設計図とか、見積もり書とか、注文数量、引き渡し期日などを、詳細に記した書類が、ちょうど今、おとうさまの手もとに来ていて、その金庫のような書類入れの中にたいせつに保管されているのです。
おとうさまは、関西へ旅行なさるときにも、あれは会社だけの秘密ではなくて、国の秘密なのだからじゅうぶん注意するようにと、くれぐれもいいのこして出発されたほどです。
でも、たとえ泥棒がはいっても、その鋼鉄箱をひらくかぎは、大机の足の秘密のかくし場所にしまってあるのですから、まさかそれを見つけられることはあるまいと、おかあさまも気をゆるしていられたのでした。
ところが、泥棒は外からではなくて、家の中にいたのです。しかも、おとうさまとおかあさまのいちばん愛していられる泰二君なのですから、机の足の秘密も、むろん聞き知っていますし、鋼鉄箱をあけるのは、なんのぞうさもないのです。
それにしても、泰二君は気でもくるったのでしょうか。まるで泥棒のように、真夜中にソッと起きだして、書斎にしのびこみ、おとうさまのたいせつな書類箱をひらくなんて、まったく考えもおよばないおそろしいしわざではありませんか。これにはきっと、何か深いわけがあるのです。そのかげに、妖魔ののろいというようなものが、ひそんでいるにちがいありません。
やがて、泰二君は、とうとう書類箱のひきだしの中から、その秘密書類をつかみだしました。そして、もとのとおり鋼鉄箱のふたをしめ、かぎたばを秘密のかくし場所に返し、スイッチをおして電灯を消しますと、なにごともなかったかのように、また夢遊病者の歩き方で、書斎から出てくるのです。
おかあさまは、もうじっとしているわけにはいきませんでした。力ずくでも書類をうばいかえそうと、いきなり泰二君のゆくてに立ちふさがり、「泰ちゃん、おまえなにをするんです。」と、はげしい語気でおしかりになりました。
「泰ちゃん、しっかりおし、おまえ夢でもみたんじゃないの? それ、なんだと思っていますの? おとうさまのたいせつなたいせつな書類じゃありませんか。さ、お返しなさい。それが悪い人の手にわたったら、それこそたいへんなんだから。」
しかし、催眠術の魔力によって、別人のようになった泰二君は、おかあさまを見むきもしなければ、そのことばを聞こうともせず、おしのけるようにして、グングン廊下の向こうへ立ちさろうとします。
「これ、泰ちゃん、泰ちゃんたら!」おかあさまは、パジャマのそでをつかんで、ひきとめようとなさいましたが、泰二君はそれをはげしい勢いではらいのけると、ヒョイとふりかえって、ゾッとするほどおそろしい顔で、おかあさまをにらみつけました。
おかあさまは、それをごらんになると、わが子ながら、その形相のおそろしさに、思わず立ちすくんでおしまいになりました。なんだかいつもの泰二君と、まったくちがった人のように見えたからです。ひょっとしたら、催眠術をかけている蛭田博士の魂が、泰二君に乗りうつって、顔までもあのぶきみな蛭田博士と、そっくりになっていたのかもしれません。
あまりのおそろしさ悲しさに、おかあさまがためらっていらっしゃるあいだに、泰二君は廊下の窓に近づくと、手早く掛け金をはずして、ガラス窓をひらき、アッと思うまに、外の暗やみへとびだしていってしまいました。それは、人間わざとは思われぬほどのす早さでした。一ぴきの大きな大きなコウモリが、サッと目をかすめてとんでいったような、なんともいえぬものおそろしい感じでした。
おかあさまは、そのままたおれてしまうほどの、はげしい胸さわぎをじっとこらえて、ヨロヨロと窓に近づき、まっくらな広い庭を、すかすようにして、のぞいてごらんになりました。
すると、大入道のような大樹がムクムクとしげっているやみの中を、大小二つの人影が、物の怪のように走りさっていくのがながめられました。
小さいほうの黒い影が泰二君であることはわかっていますが、もう一つの大きい人影は、いったい何者でしょう。おかあさまは少しもごぞんじなかったのですけれど、それはあの蛭田博士なのでした。
博士はいつのまにか、相川邸の庭園にしのびこんで、泰二君がしゅびよく目的をはたすかどうかを、窓の外の暗やみから、リンのように光るおそろしい目で、じっと見まもっていたのでした。
泰二君が書類をぬすみだしますと、博士はその眼光をいっそうするどくし、催眠術の念力を強めて、泰二君に窓の外へ逃げだすようにと、無言の命令を伝えたのです。そして、とびだしてくる泰二君の手をとると、おそろしい勢いでやみの中をグングン走りだし、あらかじめあけておいた裏口から、どことも知れず逃げさってしまったのです。
蛭田博士は、泰二君のおとうさまのたいせつな書類を手に入れたら、もう泰二君に用はないはずではありませんか。書類だけ受けとって逃げだせばよいはずではありませんか。
しかし博士は泰二君の手をはなそうともしなかったのです。またしても、泰二君をどこかへ連れさってしまったのです。いったいこれは、どんな意味があったのでしょうか。
それはともかく、このふしぎなありさまをごらんになった、おかあさまのおどろきは申すまでもありません。けたたましいさけび声をたてて、救いをお求めになったものですから、召し使いたちも起きてきますし、それから近所の人が集まってくる、電話の訴えによって、数名の警官がかけつけてくるという大さわぎになりました。
そして、その夜中から朝にかけて、げんじゅうな捜索がおこなわれたのですが、泰二君が、何者によって、どこへ連れさられたのか、想像さえつきませんでした。
庭のやわらかい土の上に、泰二君のはだしの足あととならんで、おとなの靴のあとが、点々として残っていました。それによっても、何者かが泰二君を連れさったことはあきらかですが、泰二君は蛭田博士邸でおそろしいめにあったことを、おかあさまにもうちあけなかったものですから、その靴あとのぬしが何者であるか、だれにもまったく見当さえつきませんでした。
翌日のお昼すぎには、泰二君のおとうさまが、電報の通知を受けとって、とるものもとりあえず、関西の出張先から、特急こだまでお帰りになる、おとうさまの会社では緊急幹部会議をひらいて、重要書類紛失の善後策をこうじる。この犯人捜索には、警視庁管下の全警察をあげてあたるという、ものものしい大事件になってしまいました。その日の夕刊には、泰二君のふしぎな家出を大きく報道し、この事件のかげにはおそるべきスパイの魔手がおどっているのではないかなどと、書きたてましたので、泰二君の学校友だちにも、たちまちこのことが知れわたりました。
受け持ちの先生はもちろん、同じ級のお友だちは、みなひじょうにおどろいて、泰二君の身のうえを心配しましたが、中にも胸をさわがせたのは、大野君、斎藤君、上村君という三人の少年探偵団員でした。
少年探偵団というのは、名探偵明智小五郎の少年助手小林芳雄君を団長にいただき、冒険ずきな十人の少年たちが組織している団体なのですが、その団員は、中学の一年生が三人、小学校の五年生がひとり、あとの六人は小学校の六年生ばかりで、学校もいろいろにわかれているのですが、泰二君の小学校には、泰二君のほかに、今いった三人の団員がいたのです。
その三人の少年は、事故の翌々日、学校がひけますと、申しあわせて、相川君のおうちをお見舞いしました。そして、おかあさまから、その夜の泰二君のふしぎなようすや、庭のおそろしい人影のことや、警察でいっしょうけんめい捜索しているのだけれども、まだ、なんの手がかりもえられないことなどを聞いて、ますます胸をいためながら、相川邸の門を出たのでした。
三人は電車道のほうへと、肩をならべて歩きながら、このふしぎな事件について、ヒソヒソと語りあいました。
「いったいどうしたっていうんだろうね。相川君がそんな泥棒をはたらくわけがないんだから、きっと悪者におどかされたんだぜ。書類をぬすみださなければ、殺してしまうとかなんとか。」上村君が考えぶかく口を切りました。
「ウン、そうにきまっているさ。だが、その黒い影みたいなやつって、いったい何者だろうね。スパイにはちがいないんだけれど。」と、大野君が、小首をかしげました。
「ぼくは日本人じゃないと思うよ。そいつ、きっと外国人にちがいないよ。」と、これは斎藤君です。スパイといえば、だれしもまず外国人を思いうかべるのが人情でした。
「おい、これからみんなで、明智先生の事務所へ行ってみないか。小林さんに会って、相談すれば、何かうまい考えがあるかもしれないぜ。」上村君がふと思いついて、さけぶようにいいました。
「ウン、そうしよう。小林さんも、ぼくたちにあいたがっているかもしれないよ。」斎藤君が、賛成しますと、大野君も、
「それがいい、それがいい。」と同意を表しました。
明智探偵事務所は、同じ麻布の竜土町にあるのですから、歩いていってもわけはありません。
そこで、いよいよ少年探偵団長の小林君をたずねることにきめて、三人が足を早めたときでした。うしろから、だれかが追っかけるように近づいてきて、とつぜん三人に声をかけました。
「ちょっと、きみたち相川泰二君のお友だちでしょう。そして、少年探偵団の団員でしょう。」
びっくりしてふりむきますと、すぐうしろに、三十四、五歳の自動車の運転手みたいな人が立っていました。会社の制服を着て、大きな金モールの記章のついた運転手帽をかぶって、にこにこと笑っているのです。
「ええ、そうです。何かご用ですか。」立ちどまって聞きかえしますと、運転手は右のてのひらに何かのせて、三人の目の前にさしだしながら、
「これ、きみたちの探偵団の記章じゃありませんか。」と、たずねるのです。
見れば、いかにもそれは、少年探偵団のBDバッジでした。
BDバッジというのは、小説「少年探偵団」をお読みになった方はごぞんじでしょうが、小林君の考案で、「少年」と「探偵」にあたる英語の頭字BとDとの組み合わせ文字で、百円銀貨ほどの大きさの鉛のメダルをたくさんこしらえさせ、団員が、めいめい三十枚ずつほど持っている、団員記章のようなものでした。
記章ならみんなが一つずつ持っていればよさそうなものですが、それを二十枚も三十枚も用意しているのにはわけがあったのです。団員のひとりがほかの団員に、ある場所を知らせようとするときに、その道すじのところどころへバッジを落としておけば、キラキラ銀色に光っているのですから、じゅうぶん目印になるのです。
げんに小林君が怪人二十面相のためにとりこにされ、おそろしい水責めにあったとき、このバッジのおかげで、そのゆくえがわかり、ぶじに救われたという事実さえあるのです。そのバッジを、見知らぬ自動車運転手が持っているのを見ますと、三人は思わず顔を見あわせました。
「ええ、それBDバッジっていうんです。ぼくたちの記章です。あなたはどうしてそれを持っているんですか。」
上村君がうたがわしげにたずねますと、みょうな運転手はにこにこして答えました。
「拾ったんですよ。」
「エッ、拾ったって? どこで?」
「このへんじゃありません。ずっと遠いところです。だから、きみたちが落としたのを拾ったわけではないのですよ。」
「遠いところって?」
「麻布ですがね、ぼくも町の名ははっきり知らない。行けばわかるんだけど。」
「じゃ、今でも、これの落ちていたところを、ちゃんとおぼえているんですね。」
「ええ、おぼえてますとも、みょうな赤れんがの洋館の前でしたよ。」
それを聞くと、三人の少年たちは、また意味ありげに、目と目を見かわすのでした。
もしかしたら、その赤れんがの洋館の前に落ちていたBDバッジは、ゆくえ不明の相川泰二君のポケットから出たものではないかしら、そして、泰二君はその洋館の中に、とらわれの身となっているのではあるまいか、三人の少年は、ふとそこへ思いあたりました。まちがっているかもしれません。でも、いちおうたしかめてみるねうちはじゅうぶんにあります。
「おじさん、じゃ、今からぼくたちを、その洋館の前へ連れていってくれませんか。」斎藤君が、一同の心持ちをくんで、運転手にたのんでみました。
「そうかい、いってみるかい。ぼくもね、なんだかそんな気がするんだよ。あの洋館に相川の坊ちゃんがいるんじゃないかってね。」
「ええ、だから、ぼくたちもいってみようと思うんです。おじさんお願いです。早くそこへ連れていってください。」
「ああ、いいとも。それじゃ、ぼくの車に乗せていってあげよう。ついその横町においてあるんだよ。」
運転手は、こころよく三人のたのみを承知して、すぐうしろの横町を指さしました。
あたりには、もう夕暮れのうすやみがせまっていました。それに、そのへんは大きな屋敷の塀ばかりがつづいている、ごくさびしい町で、人通りもほとんどありません。運転手について、その横町へ行ってみますと、どこかの屋敷の高いコンクリート塀の前に、あまり新しくない一台の自動車が、ものさびしくとまっていました。
運転手が客席のドアをひらいてくれましたので、三人の少年はその中にはいり、よごれたクッションのうえに目白おしにならびました。
読者諸君、この少年たちは、少し考えがたりなかったのではないでしょうか。バッジが落ちていた場所をたしかめてみることは、必要にはちがいありませんが、そんなに急いで、自分たちだけで行ってみるよりは、そのまえにまず、相川君のおうちなり、警察なりへ、このことを知らせ、おとなの手でしらべてもらうのが、かしこいやり方ではなかったでしょうか。
それに、運転手も運転手です。そんなたいせつな手がかりを、ほかの人には教えないで、まだ小学生の少年たちにだけ知らせるというのは、なんとなくへんではありませんか。それに、この運転手は、三人が少年探偵団員であることや、BDバッジがその記章であることを、いったいどうして知っていたのでしょう。よく考えてみれば、ふしんなことばかりです。ああ、もしや行く手には、何かおそろしい運命が待ちうけているのではないでしょうか。
しかし、少年たちは泰二君のゆくえがつきとめられそうなようすに、ただ、気があせるばかり、そんなことをうたがってみるよゆうもないのでした。
自動車は走りだしていました。そして、五分も走ったかと思うと、もう目的地に達したらしく、運転手は、とある町かどに車をとめて、
「ほら、あすこに赤れんがの塀が見えるだろう。この記章は、あの家の門の前に落ちていたんだよ。」
と、向こうに見える古めかしい洋館をさししめしました。
「じゃあ、ここでおりて、前まで行ってみよう。」
上村君が先に立って、三人が車をおりますと、運転手も運転台をとびだして、
「ぼくもいっしょに行ってあげよう。」と、さも親切らしく言いながら、三人の先に立って、洋館に近づいていきました。
門の前まで行ってみますと、みょうなすかしもようの鉄のドアが半分ひらいたままで、中の洋館の入り口まで見とおしになっていましたが、その入り口のドアも、あけっぱなしたまま、あき家のようにガランとしているのです。
「おじさん、ここ、なんだかあき家みたいだね。」
「そうだね。ほんとうにあき家かもしれない。見たまえ表札も何も出ていないじゃないか。ひょっとしたら相川の坊ちゃんは、このあき家の中へおしこめられたんじゃあるまいか。」
運転手は、しさいらしく小首をかしげながら、門の中へふみこんで、しきりとそのへんを見まわしていましたが、
「きみたち、ひとつ中へはいってみようじゃないか。やっぱりここはあき家らしいぜ、どの窓もみんなしめきったままで、人の影もさしてやしない。ね、はいってみようよ。」と、もう先に立って、ドンドン入り口のほうへ近づいていくのです。三人はいわれるままに、胸をおどらせながら、そのあとにしたがいました。
玄関をはいって、声をかけてみても、だれも答えるものはありません。
「いよいよあき家だ。かまわないから、中へはいってみよう。」運転手は、まるで自分の家へでも来たように、なんのためらうようすもなく、靴ばきのまま上にあがって、うす暗い廊下を、グングン奥へはいっていきます。
少年たちは、なんだか少しきみが悪くなってきましたけれど、この中に泰二君が監禁されているかもしれないと思うと、逃げだす気にはなれません。そのまま運転手のあとについて、奥へ奥へとたどっていきました。
「この部屋が、なんだかあやしいぜ。」運転手は、とある小部屋のドアをひらいて、中をのぞいていましたが、そんなことをつぶやくと、少年たちを手まねきして、その中へふみこんでいきました。
三人もつづいてはいってみますと、それは四畳半ほどの、窓の一つもないうす暗い小部屋でした。道具といっては何もなく、敷き物もない床板がまる見えになっていて、物置き部屋とでもいった感じです。
しかし、すみずみをあらためてみても、べつにあやしいところもないものですから、三人がもとの廊下へ出ようとしますと、おや、これはどうしたというのでしょう。運転手が、入り口に立ちふさがって、通せんぼうをしながら、何か意味ありげに、ニヤニヤ笑っているではありませんか。
「おじさん、どうしたんだい、早く外へ出ようじゃないか。何をそんなところに、立ちはだかっているんだい。」斎藤君が、なじるようにいいますと、運転手はとつぜん大口をあいて、さもおかしそうに、カラカラと笑いだしました。
「ハハハ……、おいおい、きみたちは、おれをいったいだれだと思っているんだい。おれはここの家の主人なんだぜ。ハハハ……。」
三人の少年は、そのみょうな笑い声に、思わずギョッとしましたが、むろんそんなことを本気に受けとることはできません。
「主人だって? そんなことがあるもんか。主人なら、なぜ他人の家みたいに、しのびこんだりなんかしたんだい。それに、きみは運転手じゃないか。運転手がこんなりっぱな家に住んでいるもんか。」斎藤君が口をとがらせていいかえしました。
「ハハハ……、かわいいことをいっている。おいおい、きみたちは少年探偵じゃないか。まさか変装ということを知らないわけでもなかろう。おれはほんものの運転手じゃない。きみたちを、ここへおびきよせるために、こんな姿に化けたまでさ。」
「じゃあ、じゃあ、きみは、いったいだれなんです。」
「ここの主人さ。蛭田博士というもんだ。ほら、この顔をよく見るがいい。」と言いながら、運転手帽をかなぐりすてて、右のてのひらで顔をツルリと一なでしたかと思うと、今までのやさしい顔は、たちまち消えうせて、見るもぶきみな相好にかわってしまいました。
モジャモジャとみだれた長い髪の毛、凶悪むざんなひたいのしわ、糸のように細められた、しかし、ものすごく光る目、キューッと三日月形にまげたまっ赤なくちびる、身の毛もよだつおそろしさです。
三人の少年は、その糸のような目でにらまれると、まるで金しばりにでもあったように、じっと立ちすくんだまま、身動きもできなくなってしまいました。
「ハハハ……、青ざめてしまったね。こわいのかい。だが、こんなことでこわがるのはまだ早いぜ。ハハハ……、まあ、そうしておとなしくしているがいい。今に、うんとおもしろいものを見せてやるからね。」
そういったかと思うと、運転手姿の蛭田博士は、パッと飛鳥のように部屋の外へとびだして、入口のドアをピッタリとしめ、外からかぎまでかけてしまいました。と同時に、三人の少年が立ちすくんでいた足の下に、何かしら異変がおこりました。床板が、地震のように、グラグラとゆれはじめたのです。
しばらくのあいだ、はげしくゆれていたかと思うと、アッというまに、とつぜん床板がとびらのようにまんなかから二つにわれて、ガタンと下のほうへひらいてしまい、少年たちは折りかさなって、床下の穴ぐらの中へと落ちこんでいきました。なんというおそろしいしかけでしょう。そこは部屋ぜんたいがおとし穴になっていたのです。
穴ぐらの底にすべり落ちた三人は、しばらくは気をうしなったようにたおれていましたが、やがて痛さをこらえて起きあがってみますと、そこは上の部屋の倍ほどもある、陰気な地下室でした。そのコンクリートの床のまんなかに、セメントだるのような大きなたるが、たった一つおいてあるばかりで、ほかには何もありません。たるの上には、西洋ふうの燭台がのせてあって、二本のろうそくがチロチロと、魔物の舌のようにもえています。
その光で、いま落ちてきた高い天井をながめますと、いつのまにしまったのか、とびらのようにひらいた床板が、もとのとおりピッタリとくっついて、少しのすきまもなくなっているのです。はしごも何もないこの地下室、そのうえに出口をふさがれてしまったのですから、もうのがれるすべもありません。少年たちは思いもかけぬおそろしい運命に、まだ、何を考える力もなく、ただおびえきった目を見かわすばかりでした。
するとそのとき、どこからともなく、陰にこもったうすきみの悪い笑い声がひびいてきました。
「フフフ……、びっくりしているね。かわいそうに。だが、それでおしまいじゃないんだぜ。まだつづきがあるんだぜ。きみたち、そのたるの中にいったい何がはいっていると思うね。勇気があったら、ひとつふたをあけてごらん。フフフ……、あけられるかね。」
三人はその声にゾーッとして、部屋のまんなかの奇妙なたるを見つめました。
ああ、その中にはいったい何がはいっているのでしょう。少年たちはいいあわせたように、あるおそろしい物の姿を、思いうかべないではいられませんでした。
それはむざんに切りころされた相川泰二君の死体でした。そのたるは十二、三歳の子どもならば、じゅうぶんはいれるほどの大きさがあるのです。じっと見つめていますと、たるの板を通して、その中に丸くなってとじこめられている、相川君の青ざめた姿が、ありありと見えてくるように思われました。
三人は、おたがいの心の中をさぐるように、また目を見かわしました。
「きっと相川君が、とじこめられているんだぜ。」上村君が、思いきったようにいいました。でも、死体ということばは、恐ろしくて口にすることができなかったのです。
「ぼくもそうだろうと思う。あけてみようか。」これは斎藤君です。
「エッ、くそっ、やっちまえっ。」大野君がやけくそのようにどなりながら、おそろしい勢いでまっ先にたるのそばへとんでいきました。そして、あとのふたりの手もかりず、両手でたるにだきつくと、いきなりそれを横だおしにころがしてしまいました。
そのひょうしに、パッとたるのふたがとれ、床に落ちた燭台のろうそくが、メラメラと異様にかがやいたかと思うと、その赤茶けた光にてらされて、たるの中から、無数の青黒いひものようなものが、もつれながら、床にこぼれ落ちてくるのがながめられました。
泰二君だとばかり思いこんでいた三人は、意外なたるの中身に、しばらくあっけにとられて、目をパチパチさせるばかりでしたが、やがて、その青黒いひものようなものの正体がわかると、こんどはべつのおどろきとおそろしさに、まっさおになって、ふるえあがらないではいられませんでした。それは、たがいにもつれあった、何百ぴきともしれぬヘビだったのです。
大小無数のヘビは、たるからこぼれ落ちますと、ろうそくの光に、うろこをギラギラと光らせながら、うえた目をうすきみ悪くかがやかせ、赤黒い炎のような舌をチロチロと出して、獲物をさがすように、床の上をはいまわりはじめました。それが、つぎからつぎへと、たるの中からあふれ出てくるのですから、みるみる地下室いっぱいにひろがり、コンクリートの床も見えぬほど、ヌメヌメとうねる波におおわれてしまいました。
三人の少年は、一ぴきや二ひきのヘビをこわがるほどの弱虫ではありませんが、これほどのおびただしいヘビを見ては、おそろしさにふるえあがらないではいられませんでした。
ヘビの来ぬほうへ、来ぬほうへと、三人ひとかたまりに身をよけて、ついに、地下室のいっぽうのすみに、おしつめられてしまいましたが、ヘビどもは、少年たちを、餌食とでも思っているのか、逃げるあとへ、逃げるあとへと、おそろしいかま首をそろえて、赤黒い舌を出し、進軍でもするようにおそいかかってくるのです。三人の少年はその勢いのものすごさに、もう逃げる場所もない地下室のすみで、たがいにだきあうようにして、とうとう悲鳴をあげないではいられませんでした。
ああ、蛭田博士は、なんという残酷な悪人でしょう。相川泰二君を、あんなめにあわせただけで満足せず、またしても三人の少年を、ヘビやしきへとじこめてしまったのです。
相川君のばあいは、その目的がちゃんとわかっていましたけれど、この三人の少年に、博士はいったいなんのうらみがあるというのでしょう。そして、こんなめにあわせたうえ、こんどはどんな悪事をたくらもうというのでしょう。
蛭田博士のやり口は、まったく不可解というほかはありません。しかし、読者諸君、その不可解なしぐさの裏にこそ、この犯罪の深い深い秘密がかくされているのかもしれません。ああ、蛭田博士とは、そもそも何者なのでしょうか。
相川泰二少年がかどわかされ、泰二君のおとうさまのたいせつな秘密書類がぬすみさられたうえに、こんどは泰二君の学友、大野、斎藤、上村の三少年までが、ゆくえ不明になってしまったのですから、おとうさま、おかあさまたちのご心配は申すまでもなく、学校でも大さわぎになりますし、警察は犯人捜査のために大活動をはじめる。新聞はその記事を、四人の少年の写真入りで、大きく書きたてる。世間は今、この大事件のうわさで持ちきっているありさまです。
そのなかでも、いちばん心をいためておいでになるのは、相川泰二君のおとうさまでした。おとうさまは東洋製作会社の技師長なのですが、その会社で製造している機械の機密書類が、泰二君といっしょに紛失してしまったのですから、会社にたいしても申しわけないうえに、泰二君のことも、じっとしていられないほど心配なのです。
むろん、警察では全力をあげて、犯人捜査にしたがっていましたけれど、東洋製作会社としては、警察にまかせっきりで、のんきな顔をしているわけにもいきません。なにしろ、国の機密に関する重要書類を紛失したのですから、その責任のうえからも、できるだけの手はつくさなければならないのです。
そこで、会社は幹部会議の結果、相川技師長の発案で、民間の名探偵明智小五郎氏に、この事件を依頼し、警察と協力して、犯人捜査にあたってもらうことに決し、技師長みずから探偵事務所をたずねて、このことをたのみこみました。
明智探偵は、こころよく会社の依頼をひきうけましたが、何をいうにも、手がかりというものがまったくない難事件のことですから、いくら名探偵でも、そう、きゅうに犯人を発見することはできません。
心痛のうちに、二日、三日とむなしく日がたっていくばかり、警視庁からも、明智探偵事務所からも、なんの吉報もなく、相川技師長をはじめ会社の人たちは、ただイライラと気をもむばかりです。
さて、機密書類がぬすまれてから五日めの午後のことでした。ひとりの奇妙な人物が、東洋製作会社の玄関にあらわれて、相川技師長に面会を申しこみました。こんどの盗難事件について、お話したいことがあるというのです。給仕のとりついだ名刺を見ますと、「私立探偵 殿村弘三」と印刷してあります。聞いたこともない私立探偵ですけれど、相川技師長は、ともかく会ってみることにして、その人物を会社の応接室へ案内するように命じました。
技師長は先にその応接室へ行って、客の来るのを待っていましたが、やがて、給仕の案内ではいってきた人物を見ますと、そのあまりに異様な風采に、アッとおどろいてしまいました。
殿村という私立探偵は、見たところ五十歳ぐらいの、おそろしいせむし男でした。まるで大きなこぶでもできているように、背中がふくれあがり、上半身が二つに折れたようにまがって、顔だけが、かま首をもたげたように、ニューッと空を向いているのです。
姿ばかりではありません。その人物は、またじつにおそろしい顔を持っています。何年まえにかったともわからぬ、ぼうぼうとした髪の毛、二ひきの毛虫がはっているような、ねじれまがった太いまゆ、その下にギョロリと光る目、上くちびるがめくれあがったようになって、いつもむきだしになっているひどいそっ歯、ほおからあごにかけてのうすぎたない無精ひげ、見るからにゾッとするような顔つきです。
それが、何十年まえに流行したかと思われるような、おそろしく古びた黒の背広を着て、背中をまげて、みょうにまがりくねった木の枝のステッキを力に、ヨチヨチとはいってくるさまは、これで探偵の仕事ができるのかしらと、うたがわれるほどでした。
「わたし、相川ですが、あなたが、殿村さんですか。」技師長は、あっけにとられて、名刺と相手の顔を見くらべながら、たずねました。
「そうです。わしが私立探偵、殿村弘三です。さっそくですが、相川さん、あなたはお子さんの命をおしいとは思いませんか。会社の重要書類を一刻も早く、取りもどしたいとはお思いなさらぬのかな。」
殿村は無作法に、そこのイスへ、ヨッコラショと腰をかけ、ステッキを前に立てて、その上にあごをのせるようにして、ジロジロと技師長を見あげるのでした。
「それはむろんですが……。」相川氏が相手の気持ちを察しかねて、口ごもっていますと、殿村はおそろしいそっ歯の間からつばをとばしながら、やつぎばやにまくしたてるのです。
「それなら、あんた方のやり方は、まちがっとる。聞けばあんた方は、明智小五郎にこの事件を依頼されておるということだが、あんな青二才の腕で、この事件のなぞがとけると考えておいでなのかな。ウフフ……、とてもとても、この犯罪は明智の未熟な腕にはあいませんわい。
あれがぬすまれてから、きょうでいく日になるとお思いですな。五日も、むだについやしたじゃありませんか。警察も警察じゃが、名探偵のなんのといわれている明智の、このざまはなんです。
相川さん、あんた方は、なぜこのわしに捜索を依頼なさらん。わしなれば明智の半分の日数で、かならず書類を取りもどし、四人の子どもを助けだしてお目にかける。わしはもう、あらかた犯人の目ぼしさえつけておるのです。」
名探偵明智小五郎を、青二才とののしるなんて、この男はいったい何者であろう。気でもちがっているのではあるまいかと、相川技師長は、あきれかえってしまいました。
「待ってください。するとなんですか、あなたは、この事件の犯人の目ぼしが、もうついているとおっしゃるのですか。」
「ついております。わしは明智などの夢にもしらぬ手がかりをにぎっておりますのじゃ。どうです、相川さん、明智なんかお払い箱にして、このわしをやといなさらんか。かならず十日とたたぬうちに、書類と子どもたちを取りもどしてお目にかける。」殿村はさも自信ありげに、落ちつきはらっていうのです。まんざらでたらめとも考えられません。うすばかのようなみょうな顔はしていますけれど、よく見れば、そのギョロリとした両眼には、人の心の奥を見とおすようなするどい光があって、なんとなく、ひとくせありそうな人物です。
相川氏は、相手のようすを見、ことばを聞いているうちに、だんだんこの怪人物を、むげに追いかえすようなこともできないような気持ちになってきました。
「殿村さん、もしそれがほんとうでしたら、わたしたちは喜んであなたのお力をおかりしたいんですが、しかし、会社としては、明智探偵にいっさいをまかせる約束になっていますので、明智さんにむだんであなたに事件を依頼することはできません。いちおう相談しましたうえ、のちほどご返事したいと思いますが。」相川氏が、ものやわらかに答えるのを、怪探偵は、おっかぶせるようにして、どら声をはりあげました。
「いや、ごもっとも。それじゃあひとつ、ここへ明智小五郎を呼んでくださらんか。犯罪捜査というやつは一分一秒の手おくれから、とりかえしのつかぬことがおこるものです。いずれのちほどなんて、そんなのんきなことをいっているばあいではありますまい。さあ、ひとつ明智君をここへ呼んでください。電話をかけて、すぐやって来いといってやってください。わしは、ここで待たせてもらいます。
明智がここへ来れば、わしがどんな男だかということもおわかりになるじゃろう。やつも名探偵といわれているほどの人物です。一目わしを見れば、このわしの実力がどれほどのものか、たちまちさとるにちがいありません。」
ああ、なんという自信、なんといううぬぼれでしょう。それを聞きますと、相川氏もつい、言いまくられた形で、いちおうこのことを重役に相談してみる気になりました。そして、相談の結果は、それほどにいうところをみれば、何か確信があるにちがいないから、ともかく殿村の希望をいれて、明智探偵を呼んでみてはということになり、すぐさま明智探偵事務所へ電話をかけて、このことを伝えました。
さいわい、明智探偵は事務所にいあわせ、自分から電話口に出て、殿村のようすをくわしく聞きとったうえ、それでは、すぐそちらへ出かけるからという返事でした。
それから三十分ほど後、応接室で相川技師長と、殿村探偵が、だまりこくって待ちかまえているところへ、明智探偵が、例のにこやかな微笑をたたえてはいってきました。相川氏は、さっそく、両探偵を紹介し、かんたんなあいさつがすみますと、殿村はすぐさま用件にとりかかりました。
「明智君、きみはこの事件には内心すくなからず弱っているのじゃないかね。おみうけするところ、まだ何もこれという、いとぐちをつかんでおられぬようじゃが。」
このぶしつけな質問に、明智は、さして立腹するようすもなく、さもおかしそうに笑いだしながら、
「ハハハ……、お察しのとおり、ぼくは、まだなんの手がかりもつかんでいない。しかし、けっして弱ってなんかいませんよ。このくらいの難事件には、今まで何十度となく出あっている。そして、ぼくはまだ一度も、その解決に失敗したことはないのです。」
「ウフフフ……、きみもなかなかうぬぼれが強いねえ。だが、手がかり一つつかんでいないとは、お気のどくじゃ。このわしは、きみ、もうちゃんと犯人の目ぼしまでつけている。ただ、そいつのありかさえさがせばよいのじゃ。手がかりなんて、二つも三つも有力なやつをにぎっている。
どうだね、明智君。これでもかぶとをぬがんかね。わしは今も相川さんにいったのじゃが、きょうから十日間に、書類と四人の子どもを取りもどしてみせるつもりじゃ。え、明智君、十日間にじゃよ。」殿村はさもとくいらしく、サルのように、黄色いそっ歯をむきだして、しきりとつばをとばしながら、まくしたてるのです。
明智はだまって、そのようすをながめていましたが、やっぱりにこにこ笑ったまま、平然として答えました。
「十日間とは少し長すぎるようだねえ。ぼくは、その半分の五日間で、犯人を見つけだすつもりでいるんだが……。」
それを聞きますと、殿村はギョッとしたように明智の顔を見つめましたが、みにくい顔を、いっそうみにくくして、ほえるようにいうのです。
「なんだって? きみは手がかりをまだ少しもつかんでいないといったばかりじゃないか。それに五日間なんて、でたらめもいいかげんにするがいい。」
「でたらめじゃあない、手がかりをさがして犯人をつきとめ書類と子どもたちを取りもどす。これだけの仕事には五日でも多すぎるというのさ。ぼくは捜索の期限を約束して、これまで一度だって違約したことはない。」
「フン、なんの目あてもなくて、ただ期限を切るのか。むちゃな探偵さんだ。よし、それじゃ、わしは四日間にやってみせる。四日間だ。」殿村はみにくい顔をまっ赤にして、くやしまぎれにどなりました。
「よろしい。ぼくも四日間と約束しよう。」明智は少しもさわぎません。まるで犯人は、手の中にあるといわぬばかりです。
「ちくしょう! から約束ならだれでもする。わしのはそんなでたらめじゃないぞ。」殿村は明智の前に立ちはだかって、歯をむきだし、今にも食いつきそうな顔になって、三本の指をつきだしました。
「三日だ。わしは三日間にかたづけてみせる。きょうは九日じゃから、十一日の夜までにかならずやってみせる。」
「よろしい。ぼくも十一日の夜までと約束する。」明智はいきがかり上、引くに引かれず、きっぱりといいはなちました。
読者諸君、なんだか心配ではありませんか。相手の殿村は何か有力な手がかりをつかんでいるらしいのです。その殿村でさえ、最初は十日間といっていたほどなのです。それを、何一つ手がかりを持たぬ明智が、いかに名探偵とはいえ、こんな約束をするなんて、あまりに無謀ではありますまいか。
相川技師長は、ふたりの探偵の口論を、だまって聞いていましたが、このままにしておいては、どこまで争いがつづくかしれませんので、気をきかして、ふたりの間にわってはいりました。
「いや、ここでそんな日限争いをしていてもはじまりません。それでは、こういうことにしようじゃありませんか。わたしたちとしては、どなたにもせよ、少しでも早く書類を取りもどし、子どもをさがしだしてくださればよいのですから、おふたりべつべつに、できるだけ早く犯人をつきとめていただくことにしてはどうでしょう。何もあなた方を競争させるなんてつもりはないのですが、殿村さんも、せっかくこうして助力を申しでてくださったのですから、おことわりするわけにもいきませんし、ねえ、明智さん、どんなものでしょうか。」
「いや、相川さん、おとなげない口論なんかはじめて、お耳ざわりでした。そういうことでしたら、ぼくとしては異存ありません。ひとつこの殿村君とやらと、犯人さがしの競争をしてみましょう。ぼくのほうには、まだ捜査の手がかりが一つもないのですから、この競争は、ぼくのほうに大きなハンディキャップがついているわけですね。しかし、少しもかまいません。かえって働きがいがあるというものです。」明智はおだやかに、相川技師長の申し出に応じました。
「殿村さんはいかがでしょう?」
「明智君では、相手にとって不足じゃが、そっちがやるというのなら、わしも挑戦に応じましょう。だが明智君、きみは今のうちにかぶとをぬいだほうがよくはないかね。とてもこの競争は、勝ちめがなさそうだが。ウフフフ……。」殿村は、あくまでふゆかいな毒口をたたくのでした。
それからしばらくたって、明智探偵と殿村探偵とは、相前後して、東洋製作会社の門を出ました。
殿村は別れのあいさつをするでもなく、ぶあいそうな、敵意にもえた目で、ジロリと明智をにらんでおいて、例のまがりくねったステッキをつきながら、からだを二つに折るようにして、ヨチヨチと歩いていきます。
すると、どこに、かくれていたのか、ひとりの乞食の子どもが、石門の中からヒョッコリ姿をあらわしました。のびほうだいにのびた髪の毛、すすをぬったように黒くよごれた顔、ボロボロにさけやぶれた洋服、十四、五歳ほどの、見るもきたならしい乞食少年です。
乞食は門の外へ出ますと、まだそこに立って、殿村のうしろ姿を見送っていた明智探偵を、ヒョイと見あげました。明智のほうでも乞食の顔を見ました。そして、ふたりの目と目がぶっつかりますと、明智も乞食少年も、なぜか意味ありげにニッコリと笑いました。おや、明智探偵は、こんなきたない乞食と、知りあいなのでしょうか。知りあいでなくて、あんなしたしそうな笑顔を見せるはずはないのですが。
しかし、乞食少年は、べつにものをいうでもなく、そのまま、殿村のあとを追うように立ちさっていきました。つえを力に背中をまるくして、ヨチヨチと歩くせむし探偵、その少しうしろから、お供でもするようについていく乞食の小僧、ふたりの姿は、まるで奇妙な親子のように見えました。
明智探偵は事務所に帰りますと、そのまま階下の洋室にとじこもって、のんきらしく読書をはじめました。べつに捜索のために外出するようすもないのです。
夕食をすませてからも、やっぱり同じ部屋にとじこもったまま、こんどは机の上に紙をひろげて、むずかしい高等数学の計算をはじめました。これは明智の一つの道楽で、ひまでこまるときにはいつも、ふつうの人には頭のいたくなるような、数学の問題をといて楽しむのがくせでした。みょうな道楽もあればあるものです。しかし、そんなのんきなまねをしていいのでしょうか。三日のうちに犯人を発見するという約束ではありませんか。相手の殿村は、今ごろきっと、ひじょうな意気ごみで、活動しているにちがいありません。それに明智のほうでは、そのたいせつな時間を、事件とはなんの関係もない数学の計算をして、まったくむだについやしているのです。いったい明智は何を考えているのでしょう。
ところが、その夜八時ごろになって、みょうなことがおこりました。数学の計算にむちゅうになっている明智の部屋へ、窓からしのびこんだものがあるのです。窓の外の、まっくらに木のしげった庭に、人の影が動いたかと思うと、何者かが、窓ガラスにピッタリ顔をあてて、部屋の中をのぞいているようすでしたが、やがて、そろそろと窓がひらかれ、ひとりのきたならしい乞食少年が、そこから、室内へはいりこんできたではありませんか。
ああ、あいつです。昼間、殿村探偵のあとを追っていった、あの乞食少年です。明智探偵の部屋へしのびこんで、いったい何をするつもりなのでしょう。もしかしたら、殿村の命をうけて、明智に危害をくわえるために、やってきたのではありますまいか。しかし、明智探偵ともあろうものが、いくら計算にねっちゅうしていたからといって、窓がひらき、人がしのびこんだのを気づかぬはずはありません。乞食少年が窓を乗りこして、そこに立ったとき、探偵は机の上からヒョイと顔をあげて、そのほうをふりかえりました。
明智は乞食少年を見て、アッとおどろいたでしょうか。また、乞食少年は探偵に発見されて、ギョッとして逃げだしたでしょうか。いやいや、けっしてそうではなかったのです。じつにふしぎなことには、探偵も乞食少年も、少しもおどろくようすはなく、おたがいに顔見あわせて、ニコニコと笑いだしたのです。
それから、ますますみょうなことがおこりました。乞食少年はなんのえんりょもなく、ツカツカと明智の机のそばに進みよったかと思うと、探偵の耳に口をあてて、何かしらボソボソとささやきはじめたのです。そして、長いあいだささやいてから、顔をあげて、またニッコリと笑いました。
明智探偵は乞食少年のことばを、しきりにうなずきながら聞いておりましたが、聞きおわりますと、無言のまま、右手をあげて、みょうなあいずをしました。すると、乞食少年は、だまって机のそばからしりぞき、もとの窓にかけよって、ヒラリと外のやみへ姿を消してしまいました。
こうして、捜査第一日を、明智探偵は自分の部屋にとじこもったまま、何をするでもなくすごしましたが、第二日めもまったく同じことがつづいたのです。探偵は一歩も外出しないで、あいかわらず、さものんきそうに、数学の問題にむちゅうになっていました。たいくつでしかたがないといわぬばかりです。
夜になりますと、時間もちょうど八時ごろ、ゆうべと寸分たがわぬことがおこりました。れいの乞食少年が窓からしのびこんできて、ボソボソと探偵の耳に、なにごとかをささやき、そして、また窓から立ちさってしまったのです。
読者諸君、これはいったい何を意味するのでしょうか。明智探偵は殿村との競争にかぶとをぬいで、捜索を断念してしまったのでしょうか。まさかそんなことはありますまい。とすると、明智が一歩も外出しなかったのは、なぜでしょう。もしかしたら、明智は、何か奇想天外の手段によって、競争相手の殿村をアッといわせるつもりかもしれません。では、それはいったい、どんな手段なのでしょう。
また、あの奇妙な乞食少年は、そもそも何者だったのでしょう。見るもむさくるしい乞食のくせに、明智の耳に口をつけんばかりにして、ボソボソとないしょ話をするなんて、じつに奇怪せんばんな話ではありませんか。
いよいよ約束の三日めがきました。相川技師長は、ふたりの探偵のどちらが先に吉報をもたらしてくれるかと、首を長くして待っていましたが、待っても待っても、なんの知らせもなく、とうとう日が暮れてしまいました。
あんなに約束をしておきながら、やっぱりだめだったのかと、ほとんどあきらめて帰宅の用意をしているところへ、ひとりの給仕が、名刺を持ってとんできました。殿村弘三がたずねてきたのです。
さっそく応接室に通して、面会しますと、殿村は相川氏の顔を見るなり、さもとくいげにいうのです。
「お約束のとおり、とうとう賊の本拠をつきとめました。明智小五郎はまだやってこないでしょうな。それごらんなさい。この勝負はわしのかちじゃ。では、あんたもいっしょに来てくださらんか。途中で警視庁へ寄って、係りの刑事たちを同道して、それからいよいよ賊の本拠へ乗りこみますのじゃ。」
「おお、そうでしたか。ありがとう。もししゅびよく書類を取りもどし、子どもをさがしだすことができたら、こんなうれしいことはありません。で、その賊の本拠というのは、いったいどこにあるのですか。」
相川氏は報告に、相好をくずしてたずねるのです。
「いや、それは今にわかります。壁に耳ありじゃ。うかつにしゃべることはできません。なんにしても、わしと同道してくださればよろしいのじゃ。」
そこで、相川氏も深くは問わず、まだいのこっていた重役にこのことを伝えておいて、会社の自動車に殿村と同乗し、警視庁へと急がせました。
警視庁には、おりよく、この事件担当の中村捜査係長もいあわせ、殿村の報告を聞きますと、ともかくその真偽をたしかめてみようということに一決して、部下の刑事数名を引きつれ、二台の自動車に分乗して、いよいよ賊の本拠をおそうことになりました。
殿村のさしずによって、自動車がとめられたのは、麻布の六本木の、とあるさびしい屋敷町でしたが、一同はそこで車をおり、殿村のあとにしたがって、暗い町を半キロほども歩きますと、赤れんがの塀にかこまれた、古風な洋館の前に出ました。読者諸君は、よくごぞんじの怪人蛭田博士の邸宅です。
「みなさん、ここが犯人のかくれがです。しずかにしてください。相手にさとられてはなんにもならん。ところで、犯人が逃げださぬように、手分けをして、出入口をかためていただきたいのじゃが。」
殿村のことばに、中村係長は刑事たちに命じて、洋館の表口と裏口を見はらせることにしました。
「では、わしたち三人だけで、ひとつ案内をこうてみましょう。仕儀によっては、戸を蹴やぶってもふみこまねばならぬが、最初は、まずおだやかにあたってみるのがよろしい。」
そこで、殿村と捜査係長と相川技師長の三人が、しずかに門内にはいっていきました。
ところが、洋館の玄関まで行ってみますと、みょうなことには、その入り口のとびらが、ひらいたままになっていて、家の中には電灯の光もなく、まるであき家のような感じなのです。
「おや、おかしいぞ。こんなはずはないのじゃが。」殿村探偵が、背中をまるくして、小首をかたむけました。
「犯人は、目ぼしをつけられたと知って、逃げてしまったのじゃないか。」捜査係長が、ささやき声でいいます。
「いや、そんなはずはない。わしはけっして相手にさとられるようなヘマなことはしておりません。ともかく中へはいってみようじゃありませんか。」殿村はそういったまま、ツカツカと洋館の中へはいっていきましたが、やがて、壁のスイッチをさがしあてたとみえ、廊下の電灯がパッと点じられました。
「こちらへ。この廊下の奥に犯人の書斎があるはずです。ひとつそこをさがしてみましょう。」
殿村はこの家のようすは何もかもこころえているらしく、先に立って廊下を奥へ奥へと進んでいき、ふたりを例の書斎へと案内しました。ところが、書斎へはいってみても、そこもガランとして、人のけはいもないのです。
「おかしいぞ。じゃあ、やっぱり風をくらって逃げたのかな。しかし、まださがす場所があります。このいえには地下室があるのです。」殿村はいいながら、書斎の大机の上にあった燭台のろうそくに火をつけ、それを持って、正面の書だなの前に近づき、たなの中段から二、三冊の洋書をぬきとって、そのすきまへ手を入れ、何かしたかと思うと、ふしぎ、ふしぎ、書だなの一部が、まるでとびらのように、音もなくひらいて、その奥に秘密部屋があることがわかってきました。
読者諸君は、この書だなのしかけを、よくごぞんじですが、はじめて見る相川氏と中村係長は、あまりのふしぎさに、あっけにとられてしまいました。そして、殿村探偵が、よくここまでしらべたものだと、すっかり感心してしまいました。
「この奥に、地下室へおりる階段がありますのじゃ。」殿村はとくいらしく説明しながら、ろうそくをかざして先に立ち、読者諸君もご承知の衣装部屋とでもいうような密室を通りすぎて、せまい階段を、おりていきます。
まがりくねったつえをついて、背中をまるくして、エッチラ、オッチラおりていくようすは、この陰気な場面によく似あって、殿村自身が、人間ではなくて、どこかよその世界から来た、魔物のように感じられるのでした。
中村係長は、まんいちのばあいのために、用意してきたピストルを取りだし、相川氏を、うしろにかばうようにして、ゆだんなくあたりに目をくばりながら、殿村のあとにしたがいます。
階段をおり、鉄のとびらをひらきますと、泰二少年が妖婆のために苦しめられ、大野君はじめ三人の少年がヘビ責めにあった、あのおそろしい地下室です。しかし、今はそこに人の影もなく、ただジメジメした地下室特有のにおいが、鼻をうつばかりでした。
殿村は、ろうそくをふりてらして、その地下室のすみからすみまでしらべまわりましたが、何一つうたがわしい物もありません。人のかくれるような道具とてもないのです。
「おかしいぞ。ここはまるでからっぽじゃ。」殿村は、さも、いぶかしげにつぶやきました。
いぶかしく思うのは、殿村ばかりではありません。読者諸君もさだめし小首をかしげていらっしゃることでしょう。泰二君と三人の少年は、いったいぜんたいどこへ雲がくれしてしまったのでしょう。それから、あのおびただしい青大将は、どこへ行ったのでしょう。ヘビのはいっていたあのたるさえも、今は影も形もないのです。
それから、外に待たせてあった刑事たちの手を借りて、建物の二階から地下の部屋部屋を、くまなく捜索しましたが、どこにも人のけはいさえなく、この洋館は、まったくのあき家であることがたしかめられたばかりでした。
さがしあぐねて、殿村と相川氏、中村係長の三人は、またもとの書斎へひきかえしました。そして、大机の前に立って、だまりこんだまま、たがいにまじまじと目を見かわしました。
「殿村さん、結局、われわれは、犯人の引っこしをしたあとへ、ものものしくふみこんだというわけですね。」捜査係長が、今夜、相川氏から紹介されたばかりの、奇怪なせむし探偵を、うたがわしげにジロジロながめながら、なじるようにいいました。
「いや、そんなわけはない。犯人はたしかに、この建物の中にいるはずです。犯人ばかりではない。れいの書類も、子どもたちも、ちゃんとここにいるはずです。」殿村は気でもくるったような目で、キョロキョロとあたりを見まわしながら、つぶやくのです。
「しかし、だれもいないじゃありませんか。きみはまださがしかたがたりないとでもいうのですか。」
「待ってください。これには秘密がある。わしは四人の子どもたちが、すぐ目の前にいるような気がするのです。しかも、それを見つけだすことができないのです。」
殿村は、例のステッキを、コトコトいわせながら、部屋の中を、行ったり来たり、忙しく歩きはじめました。
毛虫のような太いまゆの下に、ぶきみにするどい目がらんらんとかがやいています。くちびるからとびだしたそっ歯の間に、プツプツとあわをふいて、何かしきりとつぶやいています。心を一点に集中して、なにごとかを考えだそうと、思っているようすです。
しばらくそうしているうちに、殿村の足がピッタリと止まりました。そして、「そうじゃ、そうにちがいない。わしはなんというばか者だ。そんなことがわからないなんて。」と、みょうなひとりごとをしたかと思うと、部屋の四すみに立ててある石膏像の一つ、読者諸君もご承知のソフォクレスの像の前に、ツカツカと進みより、いきなりステッキをふりあげて、その石膏像の肩を、めちゃくちゃになぐりはじめました。
ギリシャの大詩人ソフォクレスの像は、ユラユラとゆれて、まずその右腕が、つけ根から折れてこなごなにくだけ散り、その破片が、せむし探偵の腕や背中に、雪のように降りかかるのでした。殿村探偵は気でもちがったのでしょうか。それとも、このとっぴな行動には、何か深いわけでもあったのでしょうか。
その場にいあわせた相川技師長と中村捜査係長は、びっくりして殿村のそばにかけよりました。
「殿村さん、何をするのです。犯人が見つからないといって、罪もない石膏像にあたりちらすことはないじゃありませんか。子どもらしいまねはおよしなさい。」相川技師長が、殿村探偵のふりあげた右腕をささえて、しかるように言いました。
すると、殿村は、腹だたしげに、その手をはらいのけながら、みにくい顔を、いっそうみにくくゆがめて、どなりかえすのです。
「罪がないって? フフン、罪がないどころか、この石膏像こそくせ者なのじゃ。あんた方、それがわからんのか。まあ、よく見てごらん。この像には足がないじゃないか。
ほんもののソフォクレスの像は、着物の下から二本の足がニュッと出ていたはずじゃ。ところがこの石膏像にはその足がない。下まですっかり着物でかくれてしまっている。ほかの三つの像もみな同じことじゃ。一つとして足のむきだしになっているやつはない。あんた方、これがふしぎには思われぬかな。
古代ギリシャの彫刻は、まっ裸か、でなければ、着物を着ていても、手や足はニュッとむきだしになっているのがふつうじゃ。それが当時の風俗なのじゃ。ところが、そのギリシャ彫刻を模造したこの石膏像には、四つが四つとも足がない。下まで着物におおわれて、釣り鐘をふせたような形になっている。
なぜじゃろう。あんた方おわかりにならんかな。わしは今、ふっとそれに気がついたのじゃ。この家の主人は、わざと足のない下ひろがりの石膏像を作らせておいたのじゃ。なぜか? この像の中へ何かをかくすためじゃ。何か大きなものをかくしても、像がたおれないように、あらかじめすわりをよく作っておいたのじゃ。ハハハ……、まだわからんかね。まあ見ていてごらんなさい。わしが今、この石膏像の秘密をあばいてくれるから。待て、待て、こんなステッキじゃしょうがない。たしかあの秘密室の中に金づちがあったはずじゃ。」殿村はそんなことを言いながら、アタフタとれいのおびただしい衣装のかけならべてある密室へはいっていきましたが、まもなく一ちょうの大きな金づちをさげてもどってきました。
「さあ、よく見ていてごらんなさい。わしの想像がまちがっていなければ、この中から、とんでもないものがとびだしてくるはずじゃ。」いいも終わらず、殿村の右手が宙におどって、金づちの先が弾丸のように、石膏像にぶっつかっていきました。
一うち、二うち、三うち、……たちまち石膏像は、大きな音をたてて、こなごなにくずれていきます。すると、石膏の内部のうつろの中に、何かみょうなものが見えはじめました。人間の頭です。白い布でさるぐつわをはめられている、青ざめた少年の顔です。
「おお?」相川技師長の口からおどろきの声がもれました。殿村はかまわず金づちをふるいつづけ、とうとう石膏像を、あとかたもなく、たたきこわしてしまいました。
その中には、さるぐつわをはめられ、からだじゅうをぐるぐる巻きにしばられた、ひとりのねまき姿の少年がうずくまっていたのですが、像がこわれてささえるものがなくなったものですから、フラフラと台の上からころがり落ちて床にたおれてしまったのです。
「泰二! おまえ泰二じゃないか。」相川技師長はさけびながら、そのそばにかけよって、たおれている少年をだきおこしました。それはまぎれもなく、技師長の愛児相川泰二君でした。誘かいされたときのまま、パジャマ姿でしばられていたのです。
中村捜査係長も手つだって、大急ぎでさるぐつわをはずし、なわをといてみますと、泰二君はべつに手傷を受けているわけでもなく、ただおそろしさと息苦しさに、気が遠くなっていたばかりですから、たちまち正気づいて、相川技師長の姿を見ますと、いきなり、「おとうさま。」とさけびざま、そのなつかしい胸にすがりつくのでした。
「ハハハ……、どうです。相川さん、賊の魔術がおわかりになりましたかな。それにしても、石膏像のかくし場所とは、じつに奇抜な思いつきじゃありませんか。……待ってください。まだ三つの像が残っている。あいつらもたたきこわしてみなくてはならん。」殿村せむし探偵は、さもとくいらしく、金づちを手にしたまま、ヨチヨチとみょうな歩き方で、別のすみの石膏像に近より、それもまた勢いこめてたたきこわしてしまいました。
すると、はげしい物音とともに、石膏のかけらが、雪のようにとびちる中から、こんどは黒い服を着た少年が、泰二君と同じように、さるぐつわをはめられ、ぐるぐる巻きにしばられたまま、ころがりだしてきました。それが大野敏夫君だったのです。殿村はますますとくいでした。
「おれの知恵はどんなもんだ。」といわぬばかりに、例の黄色の歯をむきだして、ゲラゲラ笑いながら、まるで幼い子どもが、おもちゃをこわしでもするように、残りの二つの石膏像も、見るまにたたきこわしてしまいました。
その二つの像の中に、斎藤、上村の二少年がかくされていたことも、殿村の想像どおりでした。このようにして、せむし探偵は、なんの苦もなく四人の少年を発見してしまったのです。
少年たちはみな、べつにけがをしているようすもなく、さるぐつわとなわをといてやると、元気に立ちあがって、四人が一かたまりに寄りそって、おたがいの無事を喜びあい、そこにいる三人のおとなたちに、口々にお礼をいうのでした。
中村係長と相川技師長とは、少しまえまでは、せむし探偵を、なんだか大ぼら吹きのように感じていたのですが、いま目の前に、このふしぎを見せつけられては、殿村のすばらしい腕まえを、認めないわけにはいきませんでした。化けものみたいなみにくい姿はしているけれど、なるほど、この男は名探偵にちがいないと、心から感心しないではいられませんでした。
そうしているところへ、書斎のドアの外にドカドカと大ぜいの足音がして、何かはげしくいいあらそっている声が、部屋の中まで聞こえてきました。
なにごとがおこったのかと、中村係長がドアをひらいてみますと、その廊下に、部下の刑事たちと見なれぬ数名の背広姿の男とが、口々に何かわめきながら、もみあっているのでした。
「どうしたんだ。その人たちは、いったい何者だ。」係長が大声でたずねますと、刑事のひとりが、
「新聞記者です。いくらとめても、殿村さんと約束がしてあるんだから、どうしても入れろといって聞かないのです。」と、申しわけなさそうに答えました。
すると、殿村探偵は、その声を耳さとく聞きつけて、ヨチヨチとドアのところへやってきました。
「やあ、新聞記者諸君か。よく来てくれた。さあ、かまわんからはいりたまえ。中村さん、この連中は、わしがここへ来るまえに電話で知らせておいたのですよ。二時間ほど後に、この犯罪事件の真相を発表するからといってね。」
「そんなことをしてくださってはこまりますね。まだわれわれは犯人もとらえていないのだから……。」
中村係長は顔をしかめて、殿村をなじりました。
「犯人? ハハハ……、犯人も、やがてわしがとらえてお目にかけますよ。中村さん、そんなにこわい顔をしないで、まあ、ここはわしにまかせてください。四人の子どもをぶじに取りもどした功労にめんじて大目に見ておいてください。」そういわれてみますと、いかにも殿村はひじょうな手がらをたてたばかりなのですから、係長も、しいてとめだてするわけにもいきませんでした。それに、これほどの名探偵のことですから、新聞記者を呼びいれたのにも、何か深い考えがあるかもしれません。中村係長は、不承不承に一歩あとへさがって、新聞記者たちの室内へはいるのを黙許しました。
「さあ、諸君、こちらへ来たまえ。そして、こわれた石膏像と四人の少年を見てくれたまえ。これが、れいの誘拐された相川、大野、斎藤、上村の四少年じゃ。なに、写真? この子どもたちの写真をとりたいというのか、よろしい。とりたまえ。じゃが、そのまえにもう一つ、諸君に見せるものがある。
それはほかでもない。例の製作会社の機密文書じゃ。わしは、それがどこにかくしてあるかも、ちゃんと知っている。ちょうど諸君が来られたから、諸君の目の前で、あの重要書類をさがしだしてお目にかけることにしよう。さがすといっても、なあにぞうさはないのじゃ。ほら、それはここにある。ここじゃ、このくずかごの中じゃ。」
殿村はじょうだんのように言いながら、部屋のまんなかの大机に近より、その下においてあった大きなくずかごの中から、クシャクシャにまるめた書類のたばを取りだしてみせました。
「相川さん、これがあなたの金庫からぬすみだされた書類かどうか、ひとつしらべてみてください。」
相川技師長はそれを聞きますと、ハッと顔色をかえて、殿村のそばにかけより、いきなり書類をひったくりました。たいせつな機密文書を、新聞記者などの前でひろげられては、たいへんだと思ったからです。それから、部屋のすみに行って、パラパラとページをくってしらべていましたが、ていねいに紙のしわをのばして二つに折りますと、たいせつそうに洋服の内ポケットにしまいこむのでした。
「相川さん、そうしてポケットにおしまいなさったところを見ると、どうやらほんものらしいですね。まったく例の機密文書にそういありませんか。」
「たしかにぬすまれた書類です。さいわい紙数もちゃんとそろっていました。しかし、あんなに苦心をしてぬすみだした書類を、くずかごの中へほうりこんでおくなんて、いったいこれは、どうしたことでしょう。」相川技師長は、さもふしぎそうに、殿村探偵の顔を見つめました。
「ハハハ……、相川さん、これはあんた方の、あたりまえの頭ではわかりません。相手は手品使いなのじゃ。手品使いというものはね、見物の目をぬすむために、じつに思いもよらぬ、とっぴな手を考えるものじゃ。」
よろしいかな。やつは、まず四人の子どもを、四つの石膏像の中にかくした。これも手品使いの芸当じゃ。それと同じことで、書類のほうも、だれが考えても、まさかと思うような、きばつな場所へかくしたのじゃ。いくらなんでも、あれほどたいせつな書類が、紙くずどうぜんに、くずかごの中へほうりこんであろうなどと、だれが考えるじゃろう。しかも、クシャクシャにまるめてほうりこんであるのじゃ。
さがすほうでは、かぎのかかったひきだしとか、秘密の戸だなとか、そういうむずかしい場所にばかり気をつける。くずかごなんか、てんでふりむきもしませんのじゃ。ところが、かしこい泥棒は、そのだれもふりむかんようなところへ、もっともたいせつなものをかくしておく。これは紙くずですよ、つまらないものですよといわぬばかりに、いつでも人の目につく場所へ、ほうりだしておく。これが手じゃ。手品師の種じゃ。おわかりかな。」
せむし探偵は、ここでまた、いちだんと男をあげました。専門家の中村捜査係長でさえも、このむぞうさな書類の発見には、ため息をついて感心したほどですから、新聞記者たちが目をまるくしたのも、むりではありません。
殿村探偵はとくい満面でした。まがった背中をむりにのばして、ごうぜんとそっくりかえり、右手には例のまがりくねったステッキをつき、左手のおや指を、チョッキのわきの下にかけて、残った四本の指で自分の胸をハタハタと、拍子をとるようにたたきながら、演説でもするようにしゃべりはじめました。
「さて、新聞記者諸君、四人の少年と機密文書とが、どんなに思いもよらぬ場所にかくしてあったか、また、それをわしが、どんなに手ぎわよく発見したか、それは諸君が今ごらんになったとおりじゃ。それだけでも、あすの朝刊に、三段や五段の記事にはことかかぬじゃろう。
だが、それにつけくわえて、わしはもう一つ重大なことを報告したいのじゃ。というのは、ほかでもない。この事件には、名探偵といわれる明智小五郎が、わしよりも早くから手をつけていたことじゃよ。よいかな。諸君がいつも、日本一の名探偵と書きたてている、あの明智だよ。
つまり、こんどの事件では、わしと明智とが一騎うちの勝負をあらそったわけだが、その結果はごらんのとおりじゃ。名もない一私立探偵の殿村弘三が、みごとに明智の鼻をあかしたのじゃ。
諸君、このことを一つ、はっきりと世間に伝えてもらいたい。こんにちただ今から、明智はもう日本一の名探偵ではない、殿村という新しい探偵があらわれたのじゃ。そして明智先生のじまんの鼻をへし折ったのじゃ。フフン、名探偵が聞いてあきれるわ。あの先生、今ごろどこをうろつきまわっていることか、あす、この事件が新聞にでるのを見て、やっこさん、さだめしきもをつぶすことであろう。ハハハ……、わしはとうとう、あいつをやっつけたぞ。こきみよくやっつけたぞ。
諸君、このことをひとつデカデカと書きたててくれたまえ。よいかな、名探偵明智小五郎みごとにしょい投げを食うとな。ワハハハ……。ああ、明智先生の顔が見たいものじゃ。あの先生、このわしに向かって、かならず三日のあいだに事件を解決してみせると、えらそうに広言しよったが、その三日が二時間あまりで切れるという今ごろになっても、この賊のかくれがさえ、さがしだすことができないのじゃ。ワハハハ……おい、おい、明智先生、きみはいったい、どこを、うろうろしてござるのじゃ。」
殿村がとくい満面、黄色い歯をむきだし、つばをとばしながら、そこまでしゃべったときでした。とつじょとして、部屋の中にみょうな笑い声がおこりました。
「ワハハハ……。」殿村の笑い声にもおとらぬ高笑いです。それが、さもおかしくてたまらないというようにいつまでもつづいているのです。
せむし探偵はびっくりしたように話をやめて、声のするほうをにらみつけました。
「だれじゃ。そこで笑っているのはだれじゃ。わしが真剣に話をしているのに、笑うとはけしからん。やめんか。こら、やめんかというに。」
するとそれに答えるように、新聞記者の一団のあいだから、ひとりの男が前に進みでてきました。服装を見れば、やっぱり新聞記者のひとりらしいのですが、その男はまだ笑いのとまらぬにこにこ顔で、殿村探偵の目の前に立ちはだかりました。
「殿村君、明智はここにいるよ。きみはいま明智はどこにいる、明智の顔が見たいとどなっていたが、それほど見たければ、ひとつこの顔をよく見てくれたまえ。」
それを聞きますと、殿村はギョッとしたように、顔色をかえて、二、三歩あとじさりしました。見れば、新聞記者らしい服装はしていますけれど、たしかに明智探偵にちがいないのです。
「ハハハ……、なんだかひどくおどろいているようじゃないか。さいぜんから新聞記者諸君のうしろにかくれて、きみの大演説を拝聴していたんだよ。なかなかうまいもんだねえ。おかげで、ぼくはすっかりおなかの皮をよってしまったぜ。」明智探偵は、歯切れのいい口調で殿村をからかって、またしても、さもおかしそうに笑いだすのでした。
一座の人々は、明智探偵のとつぜんの出現に、ひどくめんくらってしまいましたが、なかにも殿村せむし探偵のおどろきはひとしおでした。まさか、この部屋へ明智があらわれようなどとは、夢にも考えていなかったからです。しかし、さすがは殿村探偵、たちまちおどろきの色をおしかくして大声に笑いだしました。
「ワハハハ……、おそかりし明智探偵じゃ。きみは今ごろになって、ノコノコと、何をしにおいでなさった。もう捜索はすっかりすんでしまったのじゃよ。誘かいされた四人の子どもは、ごらんのとおりぶじに取りもどした。世間をさわがした機密文書も、ちゃんと相川さんのポケットにおさまっている。むろん、みんなこのわしが発見したのじゃ。ざんねんながら、明智探偵が見つけだしたのではないのだ。明智君、きみはいったい何をしに、ここへ来られたのじゃ。あかはじをかくためにか、それとも、わしの腕まえにかぶとをぬいで、弟子入りでもするためにか。」
しかし、われらの明智探偵は、少しもさわぎませんでした。あいかわらず、ニコニコとほほえみながら、落ちつきはらっていいかえしました。
「いかにもきみの腕まえを拝見に来たのだよ。きみの推理はすばらしいねえ。だが、弟子入りしようなどとは思わない。なぜといって、ぼくもきみの知っているだけのことは、ちゃんと知っているからさ。ただきみがどんなにお芝居げたっぷりに、それをさがしだしてみせるかと、わざと姿をかくして拝見していたのだよ。きみのお芝居はすてきだったぜ。」
「フフン、負けおしみもたいがいにするがいい、あとからノコノコやってきて、そんなほらを吹いたって、だれがまにうけるもんか。わしの知っていたことは、きみもすっかり知りぬいていたんだって? フフフ……虫のいい言いぐさもあったもんじゃ。」
「ところが、ぼくはそれ以上のことを知っているのさ。なんなら、ひとつ、そのしょうこをお目にかけてもいいが……。」
「いよいよ負けおしみの強いお方じゃ。おもしろい。それではひとつ、そのしょうことやらを見せてもらいましょうかな。」
「見たいというんだね。」
明智はなぜか皮肉な微笑をうかべて、じっと殿村のみにくい顔を見つめました。しかし殿村は、いっこうひるむようすもありません。
「見たいもんじゃね。」
「それではまず聞くが、きみはいったい、この事件の犯人を、とらえてみせるという約束はどうしたんだね。なるほど四人の少年と機密文書は取りもどしたが、かんじんの犯人を逃がしてしまったじゃないか。それで、約束をはたしたなんて大きな口をきくのは、少しおかしくはないかね。」
「フフン、そうらおいでなすった。どうせそんなことだろうと思ったよ。明智君、それは無理難題というものじゃ。きみにしてからが、犯人をとらえるのはおろか、この賊のかくれがさえ見当がつかなかったのではないか。それに、これほどの手がらをたてたわしを、ただ犯人をとらえないからといって、せめるのは、むりというものじゃ。そんなにいわれるからには、きみ自身は、さだめし犯人のありかをごぞんじじゃろうね。それとも、もう犯人をとらえたとでもおっしゃるのかな。ウフフフ……。」
ところが、その殿村のあざけりを、明智は、もののみごとに、ピシリと打ちかえしたのです。
「いかにも、ぼくは犯人のありかを知っている。いや、そればかりじゃない。もうちゃんととらえてあるのだ。」
「エッ、なんじゃと? 犯人がとらえてある。ハハハ……、これはおもしろい。それでは、その犯人というのを見せてもらおうじゃないか。それとも、ここへは連れてこられないとでもいうのかね。」
「見せてほしいか。」
「ウン、見せられるものなら見せてほしいね。」
「犯人はここにいる。この部屋の中にいるのだ。」
明智の思いもかけぬことばに、人々はハッとしたように目を見かわしました。犯人がこの部屋にいるといって、そこには相川技師長と、中村捜査係長と、刑事たちと、新聞記者と、四人の少年のほかには、べつにあやしい人物も見あたらぬではありませんか。
それとも、犯人は新聞記者の中にまじっているとでもいうのでしょうか。しかし、なんの必要もないのに、犯人がわざわざ警察官や探偵の大ぜいいる中へ、やって来るはずもありません。
「おいおい、明智君、きみは気でもちがったのじゃないかね。それとも夢でもみているのか。その犯人というのは、この部屋の中の、いったいどこにかくれているんじゃね。」殿村はなぜか少し顔の色を青くして、くちびるをなめながら、いきりたった声でつめよりました。
明智探偵はやっぱり、ニコニコしていました。そして、サッと右手をあげますと、人さし指を殿村探偵の鼻の先につきつけました。
「殿村君、それとも、蛭田博士と呼んだほうがお気にめしますか。……きみだ。きみが犯人だ!」
殿村はまるで弾丸で胸を打ちぬかれでもしたように、ヨロヨロとよろめきました。その顔は、いっしゅんかんサッと、青ざめたかと思うと、つぎのしゅんかんには、憤怒のため紫色にかわりました。そして、まるで追いつめられたけだもののように、黄色い歯をみにくくむきだして、明智探偵に食ってかかるのでした。
「ば、ばかな。な、なにをいうのだ。とんでもないことだ。わしは殿村弘三という、れっきとした私立探偵じゃ。明智、きさま気がちがったな。中村さん、こいつ、わしとの勝負にまけて、逆上したのです。引きずりだしてください。部屋の外へ引きずりだしてください。」
「殿村君、いや、蛭田博士、悪あがきはよしたまえ。ぼくには何もかもわかっているのだ。きみが犯人でないのなら、どうしてあんなに顔色をかえたのだ。きみがおどろきのあまりたおれそうになったことは、ここにいる人たちがみな見てしまったのだ。かぶとをぬぎたまえ。この期になって、ジタバタするなんて、きみらしくもないじゃないか。」明智は平常と少しもかわらぬ声で、しずかに言いきかせました。しかし、殿村は少しもひるむようすがありません。
「でたらめだ、気ちがいの妄想だ。それとも、しょうこがあるか。何をしょうこに、そんないいがかりをつけるのだ。」
「しょうこがほしいのか。」
「あるまい。このわしが犯人だなんて、そんなでたらめなしょうこがあってたまるものか。」
「しょうこか、しょうこはこれだ。」叫んだかと思うと、明智探偵のからだが、サッと宙におどって、殿村のからだにぶつかっていきました。
殿村はふいをつかれて、明智に組みしかれましたが、死にものぐるいにもがきまわって、相手をはねのけようとします。そして、ふたりのからだは、組んずほぐれつ、床の上をころげまわるのです。
いち座の人々は息をのんで、このおそろしい格闘を見つめていました。ふたりの意気ごみの、あまりのはげしさに、きゅうには、だれも手出しをすることさえできませんでした。
しかし、たたかいは一分もかからないでおわりました。明智が勝ったのです。格闘のあいだに、殿村の仮面をすっかりはぎとってしまったのです。
まず、明智が起きあがって、うつぶしたまま顔もあげない殿村の腕をつかんで、引きたてるように起きあがらせました。すると、ああ、これはどうしたことでしょう。殿村の顔形が、まるで別人のようにかわってしまっていたではありませんか。
髪の毛だけは、あいかわらずモジャモジャにみだれていましたが、毛虫のような太いまゆは、かっこうのよい細いまゆにかわり、あのいやらしいそっ歯もどこへやら消えうせて、赤いくちびるのあいだから、まっ白な美しい歯並が見えています。ほおやあごの長くのびた無精ひげはあとかたもなく、なめらかなはだにかわっているのです。
何よりもいちばん目につくのは、例の背中のこぶがとれてしまって、すっきりした姿に、かわっていたことです。見れば、今の格闘のあいだに、明智のために、上着もチョッキもぬがされ、ワイシャツもズタズタにひきさかれて、その中にかくしてあった、せむしのこぶを抜きだされてしまったのです。
そして不承不承に立った姿は、さいぜんまでのみにくいせむし男とは、似ても似つかない、すらっとした好男子でした。年もまだ三十前後なのです。
「みなさん、これが殿村探偵の正体です。こんな変装を、どうして見破ることができなかったのかと、いぶかしくお思いでしょうが、それは、みなさんの目がにぶいためではなくて、こいつが、おそろしい変装の天才だからです。犯罪史上にも例のないほど、ふしぎに変装のうまい男です。」
明智の説明を聞いても、人々はまだ半信半疑でした。あの化けものみたいな不具者が、こんな美しい青年だなんて、まるで夢のようで、きゅうには信じることもできないのでした。
せむしの変装を見やぶられた殿村は、何がおかしいのか、いきなりゲラゲラと笑いだしました。
「ワハハハ……、ぼくが蛭田博士だって。こいつはおかしい。明智君、きみは気でもちがやしないかね。あの蛭田博士という犯人が、こんな若造だったとでもいうのか。ハハハ……。こいつはゆかいだ。ハハハ……、みなさん、よくぼくの顔を見てください。まだ、かわいらしい青年じゃありませんか。これが蛭田博士でしょうか。え、このぼくが蛭田博士という老人と、同じ人間でしょうか。
だれも蛭田博士を知っている方はないのですか。こまりましたね。ああ、いいことがある。ここにいる四人の少年諸君は、蛭田博士にひどい目にあわされたんだから、むろんあの怪博士の顔を見ているでしょう。さあ、相川君も、大野君も、斎藤君も、上村君も、こっちへ寄って、ぼくの顔をよく見てください。このおじさんが蛭田博士と同じ人だと思いますか。え、きみたちどうです。」
そういわれて、四人の少年は、思わずおたがいに顔を見あわせました。そして、何かボソボソささやきあっていましたが、やがて、四人を代表するように相川泰二君が一歩前に出て、はっきりした口調で答えました。
「ちがいます。この人は蛭田博士ではありません。蛭田博士はもっと年よりで、顔も声もちがっていました。」
殿村はそれを聞きますと、さもこそと言わぬばかりに、いよいよ勢いをえてきました。
「どうです。ぼくには、こんなかわいい証人が四人もいるんですぜ。それにだいいち、このぼくが、もし犯人の蛭田博士だとしたら、みなさんをこの家へご案内するはずがないじゃありませんか。そして、せっかくかくしておいた子どもたちや書類を警察に引きわたすはずがないじゃありませんか。蛭田博士自身が蛭田博士の秘密をあばくなんて、じつにとんでもない話です。え、そうじゃありませんか。ハハハ……。」
殿村はまたしても、さもゆかいらしくゲラゲラと笑うのでした。
ああ、読者諸君、なんだか心配になってきたではありませんか。もしや明智探偵は、ひじょうな失策をしたのではないでしょうか。殿村のいうところは、いかにも筋道が立っています。犯人が犯人自身の秘密をあばくなんて、ほんとうに考えられないことです。
明智はと見ますと、べつにおどろいたようすもなく、平気な顔をして、にこにこ笑っていますが、でもほんとうに大じょうぶなのでしょうか。もしや、やせがまんで、あんな笑顔を見せているのではありますまいか。
すると、そのとき、たまりかねた中村捜査係長が、横あいから声をかけました。
「殿村君、じゃあ、なぜきみは、あんなみょうな変装をしていたんです。きみがもし、犯人とはなんの関係もない正しい人物だとすれば、変装なんかする必要は、少しもないじゃありませんか。これをどう説明します。」
いかにももっともな質問です。殿村がたとえ蛭田博士その人でないとしても、あやしい人物にはちがいありません。
「ハハハ……、なるほど係長さんらしいおたずねですね。しかし、あんたは一を知って十を知らぬというものです。ぼくは私立探偵なのですよ。犯罪捜査のばあいは、そのときに応じて、どんな変装でもしなければなりません。ここにいる明智君だって、ずいぶん変装の名人じゃありませんか。探偵が変装するのは少しもめずらしいことではありません。つまり、ぼくは捜査の必要上、あんな変装をしていたにすぎないのです。おわかりになりましたか。ハハハ……。」
またしても殿村は、たくみに言いのがれてしまいました。そして、人を、こばかにしたような高笑いをしてみせるのです。ああ、とうとう明智探偵は、この知恵くらべにやぶれてしまったのでしょうか。
いや、そうではありません。読者諸君、ごらんなさい。われらの名探偵は、何か胸に期するところあるもののようなおももちで、じっと殿村をにらみつけたではありませんか。
「ぼくが変装の名人だって? ハハハ……、きみのようなその道の天才にほめられるとは、光栄のいたりだねえ。だが、ぼくなんかざんねんながら、きみの足もとにもおよばないよ。きみの変装は、くろうとの中村係長でさえ、見やぶることができなかったのだからね。ハハハ……、うまいもんだ。それほどの変装の天才が、もう一つ別の人物、すなわち蛭田博士に化けたのを、この子どもたちが見やぶりえなかったとしても、なんのふしぎもないじゃないか。」
「エッ、なんだって?」殿村がとぼけた顔をして、聞きかえしました。
「つまり、きみは一人三役をつとめたというのさ。蛭田博士に化け、せむしの殿村にも化けることができたというのさ。」
「フフフ……、でたらめもいいかげんにするがいい。なるほど、そういえば、きみは、つごうがいいだろうが、それにしても、やっぱり犯人自身で、犯人の秘密をあばいたことになるじゃないか。つまらないいいがかりはよしてくれたまえ。それとも何かしょうこでもあるというのかね、ハハハ……、おい、明智先生、苦しまぎれに、あてずっぽうなんかいわないで、しょうこを見せたまえ、しょうこを。え、何かたしかなしょうこでもあるかね。」殿村はいよいよとくいになって、突っかかるように、言いつのるのです。しかし、読者諸君、ご安心ください。ぼくらの明智探偵は、けっして負けてはいませんでした。それどころか、さも自信ありげに、ニコニコと笑いながら、しずかに反問しました。
「しょうこが見たいというのかね。」
「ウン、あれば見せてもらいたいもんだね。」
「それじゃあ見せてあげよう。きみちょっと、頭の上を見てごらん。いや、そんなところじゃない。あの天井のすみだよ。」
明智がみょうなことを言いますので、殿村は思わず、その天井のすみを見あげましたが、見あげたかと思うと、さすがの彼も「アッ。」と声をたてました。
ごらんなさい。高い格天井のいっぽうのすみに、ポッカリと、四角な黒い穴があいているではありませんか。そこの天井板が一枚、いつのまにかはがされていたのです。そして、その黒い穴の上から、みょうな人間の顔が、部屋を見おろして、ニヤニヤ笑っているではありませんか。
殿村でなくても、この不意うちには、ギョッとしないではいられません。部屋にいあわせた人々は、いったいなにごとがおこったのかと、あっけにとられて、天井を見つめました。
見ていますと、その人の顔が、ヒョイと屋根裏のやみの中へ引っこみました。オヤッと思ううちに、こんどはその穴から、きたない二本の足が、ニューッとおりてくるではありませんか。
そして、ひざからもも、腰、腹と、すべるようにズルズルさがってきたかと思うと、いつのまにか、二本の手で天井にぶらさがり、器械体操でもするように、はずみをつけて、ヒラリと部屋の中へとびおりました。
じつにみごとな早わざです。あの高い天井からとびおりて、しりもちをつくでもなく床の上を二、三度ピョンピョンはねて、スックと立ちあがると、人々の顔を見まわしてニコニコ笑っているのです。
それは十四、五歳ほどの、乞食のようなうすぎたない少年でした。思いもよらぬ天井から、子どもの乞食がふってきたのです。人々がアッと仰天したのもむりではありません。
「殿村君、この子どもに見おぼえはないかね。きみがさいしょ東洋製作会社へやってきたときから、この乞食の子どもは、たえずきみの身辺につきまとっていたんだぜ。よく見たまえ、きみは今までこの子どもに、たびたび出あっているはずだ。」
殿村は乞食少年を、穴のあくほど見つめました。見つめているうちに、彼の顔がだんだん青ざめていくではありませんか。たしかに見おぼえがあるようです。何かしら、ひしひしと思いあたることがあるらしいのです。
明智は殿村のうろたえるありさまを、しりめにかけながら、一同に話しかけました。
「みなさん、ご紹介しましょう。この子どもは、こんなきたないふうをしていますが、けっしてほんとうの乞食ではありません。ぼくの少年助手小林芳雄君です。わざとこんな変装をさせて、先日から、この男を尾行させておいたのです。小林君は殿村の一挙一動を、残るところもなく見とどけました。そして、毎日ぼくに報告していたのです。」
読者諸君は、この数日、毎晩のように、窓から明智探偵の書斎へしのびこんだ乞食少年をご記憶でしょう。あの異様な乞食少年こそ、今ここにいる小林芳雄君だったのです。
人々はそれを聞いて、またべつのおどろきにうたれました。「ああ、こんな奥の手が用意してあったのか。やっぱり明智探偵はたいしたものだ。」と、声をのんで感嘆しないではいられませんでした。
「では、この小林君の口から、殿村の秘密をお話しさせることにしましょう。小林君、かいつまんで話してみたまえ。」明智がさしずしますと、乞食少年の小林君は、すぐ快活に語りはじめました。
「ぼくは明智先生の命令で、殿村を尾行しました。そして、殿村が人目をしのびながら、コッソリこの家へはいるのを見とどけたのです。
そこで、先生とご相談したうえ、殿村のるすを見はからい、ぼくは、この家の屋根裏へしのびこむことにしました。それにはひじょうな苦心をしましたが、けさ、やっとその目的をはたしたのです。
ぼくは天井の上をはいまわり、天井板にナイフで、下から気づかれぬように、小さいすきまを作って、部屋の中のようすをすき見していたのです。
そして何もかも見てしまいました。この人はせむしの殿村探偵だけでなくて、また別の人にも化けるのです。三角形のあごひげをはやして、大きなめがねをかけた、五十歳ぐらいのりっぱな紳士に化けるのです。
この人はそういう姿に化けて、地下室から相川君たち四人の子どもを、じゅんじゅんにこの部屋へ連れてきました。そして、みんなをしばりあげてさるぐつわをはめて、あの石膏像の中へかくしたのです。石膏像の底に大きな穴があいているのです。みんなをひとりひとりその中へいれて、またもとのように立てておいたのです。
そうして、相川君たちを、おどしつけているとき、この人は自分のことを蛭田博士といっていました。それから、ぼくは殿村が夕方外出するのを待って、事務所へかけつけ、ぼくの見たり聞いたりしたことを、すっかり明智先生に報告したのです。」
こんなに見とどけられてしまっては、もう運のつきです。殿村の蛭田博士は、まっさおになって、ギリギリと歯がみをしながら、小林君をにらみつけていましたが、なんという強情なやつでしょう。まだ、やせがまんをはって、気でもちがったように、ゲラゲラ笑いだしたのです。
「ワハハハ……、おい、小僧、でたらめもいいかげんにしろ。きさま夢でもみたんじゃないか。このおれが蛭田博士に化けたんだって? ば、ばかな、おれは知らん。おれはそんなまねをしたおぼえはない。」
しかし、小林少年は少しもひるみませんでした。いきなりきたない着物のふところから、何か髪の毛のかたまりのようなものを取りだして、それを殿村の前にさしつけながら、はげしい口調で、たしなめるように言いました。
「それじゃ、ひとつ、これをかぶってごらんなさい。きみが蛭田博士に化けたときのかつらと、つけひげと、めがねです。きみが昼間、変装をといて、あの衣装部屋へ投げこんでおいたのを、ぼくがソッと手にいれたのです。さあ、これをつけてごらんなさい。そうすれば、きみが蛭田博士かどうか、相川君たちが一目で見わけてくれるでしょう。」
ああ、さすがは小林少年です。相手にうむをいわせぬ、りっぱなしょうこ品を、ちゃんとにぎっていたのです。
いくら強情な殿村でも、このかつらや、あごひげをつけて、四人の少年に顔を見せる勇気はありません。もう絶体絶命です。
殿村は血走った目で、助けでも求めるように、あたりをキョロキョロ見まわしました。そして、ゾッとするようなおそろしい表情になって、ジリリ、ジリリと、あとじさりをはじめたのです。殿村はそのとき、書斎のまんなかの大机の前に立っていたのですが、だんだん、あとじさりをして、机のうしろにまわりました。そして、人々にさとられぬように、そっと机の下の床に出ている小さなボタンのようなものを、ふみつけました。
ああ、あぶない! それはいつか、相川泰二少年が蛭田博士のために地下室へ落とされた、あのおとし穴をひらくボタンなのです。
ところが、いったいどうしたということでしょう。殿村がいくらボタンをふんでも部屋の中には、なんの異変もおこらないではありませんか。ちょうど明智探偵と小林少年の立っているあたりの床に、四角な穴があくはずなのですが、そんなようすは少しも見えぬではありませんか。
「ハハハ……。」とつぜん、明智探偵が、さもおかしくてたまらない、というように笑いだしました。
「おいおい、つまらないいたずらはよしたまえ。そのボタンはききゃしないんだよ。こんなこともあろうかと思って、ぼくはこの部屋へ来るまえ、そっと、地下室にはいって、機械装置をとりはずしておいたのだ。いくらきみがふんだって、おとし穴はあきゃしないよ。」
ああ、なんというぬけめのないやり口でしょう。さすがは名探偵です。これではいかな悪人も、手も足も出ないではありませんか。
「ちくしょう!」殿村は憤怒の形相ものすごく、口をゆがめてさけびました。そして、いきなり身をおどらせて、あいたままになっていた書だなのうしろの衣装部屋へかけこんだかと思うと、とつぜん、パッと電灯が消えて、部屋の中は墨を流したような暗やみになってしまいました。むろん、殿村が衣装部屋にしかけてあるスイッチを切ったのです。
たちまち暗やみの部屋の中に、そうぞうしい物音がおこりました。何かわめく声、走りまわる靴の音。その中にひときわ高いさけび声が聞こえます。
「みなさん、さわぐことはありません。しずかにしてください。あいつは袋のネズミです。この部屋の出口には、ちゃんと刑事諸君が見はり番をしていてくれるのです。いくら暗やみでも、逃げだすことはできません。」
それは明智探偵の声でした。明智はこの書斎へはいるまえ、中村警部の部下の刑事たちに、そっと身分をうちあけて、廊下への出口はもちろん、衣装部屋から地下室に通ずるドアの外にも、ちゃんと見はりを立てておいたのです。
やがて、部屋の中がボーっと明かるくなりました。ろうそくの光です。さいぜん殿村が地下室を案内してまわった燭台が、大机の上においてあったのに気づいて、中村係長がそれに火をつけたのです。
そのうす明かりをたよりに、明智は衣装部屋にかけこんで、壁にかけならべた衣装のかげまで、くまなくしらべましたが、どこにも人の姿はありません。
「そのドアを、あけたものはありませんか。」地下室に通ずるドアの向こうがわへ声をかけますと、パッとそのドアがひらいて、ふたりの刑事が顔を見せました。
「いいえ、だれもこちらへは来ません。書斎がまっくらになったので、じゅうぶん注意していたのですが。」
刑事のひとりが懐中電灯を手にしていましたので、明智はそれをかりて、もう一度、衣装部屋を、すみからすみまでさがしました。でも、やっぱり殿村の姿は見えないのです。そのとき、電灯のスイッチもしらべてみましたが、殿村はスイッチのとっ手を引きちぎってしまっているので、きゅうに電灯をつけるわけにいきません。そこで、こんどは反対がわの廊下にあいているドアのところへかけつけてみますと、ここには、外の見はり番にたずねるまでもなく、大ぜいの新聞記者が、おたがいに手をつないで、げんじゅうな通せんぼをしていてくれました。
「ここからはだれも出たものはありません。」記者たちは口々に答えました。
明智は念のために、懐中電灯をかざして、部屋の窓をしらべてみました。しかし二つの窓はしめきったまま、なんの異状もありませんし、その窓のそばには相川技師長や、四人の少年たちが立っていたのですから、そこからも逃げだせるはずがありません。すると、もう殿村の逃げだす個所は、どこにもないのです。それなのに、明智をはじめ、中村係長や、小林少年や、新聞記者などが、すみからすみまでさがしまわってもあやしい人影はどこにも見えません。じつにふしぎです。蛭田博士は忍術でも使って、煙のように消えうせてしまったのでしょうか。
「みなさん、しばらく動かないで、じっとしていてください。あいつはこの部屋にいるのです。みなさんの中にまぎれこんでいるのです。」
明智の声に、人々は立ちどまったまま、うすぼんやりしたろうそくの光の中で、おたがいの顔をジロジロとながめあいました。なにしろ相手は、変装の名人です。それにさいぜん、変装の材料がいっぱいならんでいる衣装部屋へとびこんだのですから、どんな変装をしているかもしれたものではありません。
まさか子どもに化けることはできませんから、小林君や相川君たち五人の少年ははぶくとしても、その部屋には、明智のほかに中村係長、相川技師長、それから、六、七人の新聞記者がいるのです。もしかしたら、中村係長がふたりになっていたりするのではないでしょうか。そう考えると、知りあいの顔をさえ、うたがってみないではいられません。そのうえ、この暗さです。赤茶けたろうそくの光に照らされて、どの人もどの人もなんだかお化けめいた顔つきに見えてきます。
明智探偵は、立ちすくんでいる人々の顔を、じゅんじゅんに懐中電灯で照らしていきました。最後に新聞記者の一団です。明智は、記者たちの顔をいちいち見おぼえているわけでないのですから、ことに念を入れてしらべなければなりません。
「きみたち記者諸君は、たしか六人でしたね。」明智がたずねますと、
「いや、七人ですよ。廊下の外でかぞえてみたときは、たしか七人でした。」記者のひとりが答えました。
「いや、それじゃ、やっぱり六人です。廊下にいたときは、ぼくもきみたちの仲間だったのですから。」
いかにもそのときは、明智は、まだ本名を名のらないで、記者のような顔をしていたのでした。
「ああ、そうだ、それじゃあ六人ですね。」
「かぞえてみてください。たしかにきみたちは六人ですか。」
記者たちは、てんでに仲間の人数をかぞえました。
「おや、へんだな。やっぱり七人いますぜ。」
それを聞きますと、明智はなぜかにこにこと笑いました。
「そうでしょう。ぼくも、さいぜんからへんだと思っていたのです。」なにげなく、そんなことをつぶやきながら、七人の顔に、つぎつぎ懐中電灯の光をあてていきましたが、やがて、最後の七人めにきたとき、懐中電灯のまるい光が、ピッタリ止まったまま動かなくなりました。
「諸君、この人は何新聞社の人です? 見おぼえがありますか。」
そこにはまるい光の中に、まるで映画の大写しでも見るように、ひとりの若い新聞記者の姿がうきあがっていました。黒々とした髪を、きれいに分けて、ロイドめがねをかけ、鼻の下にチョビひげをはやしています。
「はてな、きみはどこの社の人だっけ。どうも見おぼえがありませんね。」
二、三人が同じ意味のことをつぶやきました。
「ハハハ……、見おぼえがないはずですよ。こいつは、きみたちの仲間じゃないのです。……ごらんなさい。じつにすばやく変装したじゃありませんか。」いうかと思うと明智の手がパッと相手の頭にのびました。そして、かつらをむしりとり、めがねをはね落とし、つけひげをひきちぎってしまいました。その中からあらわれたのは、なんと殿村の素顔だったではありませんか。さすがの悪人も、とうとう観念したのか、今にも泣きだしそうな渋面をつくって、ものをいう元気もなく目をふせています。
「逃げ道がなくなったものだから、こんなところにまぎれこんでいたんだね。あわよくば、記者諸君といっしょに、何食わぬ顔でこの部屋を出る気だったのだろう。ハハハ……、さすがの悪人も、よくよくこまったとみえるね。中村さん、こいつをとらえてください。」
いわれるまでもなく、中村係長は、もう殿村の肩に手をかけていました。そして、ドアの外の刑事を呼びこみ、なんなく後ろ手にしばらせました。こうして、怪物蛭田博士は、ついに明智探偵にうち負かされ、あわれなとらわれ人となってしまったのでした。
四人の老練な刑事が、蛭田博士と称する怪青年のなわじりをとって、赤れんがの家の玄関を立ちいでました。悪人はしおしおとうなだれて、抵抗する元気など、どこにもなさそうです。たとえ抵抗しようとしても、後ろ手にしばりあげられているうえ、四人のくっきょうな刑事がつきそっているのですから、どうすることもできはしません。
明智探偵、中村係長、相川技師長、それから小林君はじめ四人の少年は、まだ書斎にいのこり、新聞記者にとりかこまれ、質問ぜめにあっていました。
明智探偵は虫が知らすとでもいうのか、引かれていった蛭田博士のことが、なんとなく心配になって気が気ではないのですが、新聞記者というものは、記事をとるためには、戦争でもするような意気ごみですから、その執念ぶかいかこみを切りぬけることは、なかなかむずかしいのです。
それに、中村係長も、深く部下を信じていて、あの四人のものにまかせておけば、まんいちにも、まちがいなどおこるはずはないと、うけあったものですから、用心ぶかい明智も、つい、心をゆるしていたのです。
ところが、そのちょっとしたゆだんから、じつに取りかえしのつかぬ一大事をひきおこしてしまいました。どんな強い刑事が、何人いたところで、それを防ぐことはできなかったのです。それは力の争いではなくて、知恵の争いだったからです。四人の老練な刑事の知恵を一つに合わせても、とうてい悪人の悪知恵にはおよばなかったのです。
四人の刑事が、後ろ手にしばった犯人をひったてて、門を出るまでは、なんのかわったこともありませんでした。門の外は、大きな邸宅ばかりのさびしい町です。ところどころに、街灯があわい光を投げているばかり、それにもう夜もふけているので、人通りはまったくなく、まるで遠いいなかのほうへでも行ったような、暗さ静けさです。
その暗い道路に、一だいの自動車がとまっています。警視庁の自動車です。四人の刑事は、犯人をそれに乗せて、ひとまず警視庁の留置所へ、連れていくわけなのです。
ところが、そうして二、三歩門をはなれたときでした。犯人のなわじりをにぎっていた刑事は、とつぜん、腕をグンと引っぱられるような感じを受けました。
「おや、逃げる気だな。ちくしょう、逃がすものか。」とっさにそう考えて、いよいよ腕に力をこめ、ウンと足をふみしめたのですが、そのひょうしに、刑事はドッとうしろへしりもちをついてしまいました。
アッと思うまに、もう犯人は風のように、かけだしていました。
いっしゅんかん、刑事たちは何がなんだかわけがわかりませんでした。たおれた刑事はちゃんと、なわをにぎっているのです。それに、とくべつのしばり方がしてあるので、犯人が、なわをぬけることなど思いもよりません。いや、げんに犯人の腕はちゃんとしばられたまま、なわの先についているではありませんか。いったいこれはどうしたというのでしょう。犯人の上着だけが、後ろ手にしばられた形で、そこにとりのこされているのです。
犯人はわれとわが腕をきりおとして逃げさったのでしょうか。まさか、そんなばかばかしいことができるはずはありません。でも刑事たちは、犯人の両腕が、肩のところからスッポリぬけてしまったような気がしたのです。その腕が手もとに残っているのが、何よりのしょうこではありませんか。
またしても魔術です。まるでお化けにでもあったような、うすきみの悪い感じです。
しかし、いくらふしぎだからといって、逃げだす犯人を追わぬわけにはいきません。三人の刑事たちはたおれた同僚をあとに残して、いきなりかけだしました。
とりのこされた刑事は、まだしりもちをついたまま、きみ悪そうになわを引きよせて、その腕を手にとり、門灯の光にかざしてみました。
たしかに人間の手です。指の形もちゃんとそろっていますし、色といい、弾力といい、さいぜん刑事がなわをかけたその手首にちがいありません。
しかし、このつめたさはどうでしょう。たとえ、切りおとした腕にもせよ、たった二秒か三秒のあいだに、こんなにひえきってしまうはずがありません。
刑事は、その腕の切り口に、もしや血が流れてはいやしないかと、こわごわ洋服の肩へ手を入れてみましたが、そのようすもありません。ただツルツルした丸いものが、指にふれるばかりです。
「おや、へんだぞ。」刑事はふとあることに気づいて、急いで立ちあがると、しばられたままの両の手首を、近々と門灯にさしつけ、目をこらしてながめました。
すると、どうでしょう。おどろいたことには、それはたくみにこしらえたゴム製の腕だったのです。指の形から色合いから、ほんものそっくりにできている義手だったのです。
ああ、あいつはなんという手品使いでしょう。そでの中に義手をぬいつけた上着を着て、わざとそのにせの腕をしばらせ、ゆだんを見すまして、パッと上着をぬぎすて、義手だけを残して逃げさったのです。
あいつが電灯を消した意味も、これではっきりわかってきました。あいつは部屋の出入り口に刑事が見はっていることは、とっくに感づいていたのです。ですから、電灯を消したのは、部屋から逃げるためではなくて、この義手のついた魔法の上着を身につけるためだったのです。そして、わざと変装を明智に見やぶらせ、あのほの暗い部屋の中で、にせの手首をしばらせるためだったのです。そう考えると、スイッチのとっ手を引きちぎって、きゅうに電灯がつかぬ用心をしたわけも、よくわかってくるではありませんか。
刑事はそれをさとると、くやしいよりも何よりも、あまりのことにあいた口がふさがりませんでした。
いっぽう三人の刑事は、ふしぎなできごとに気をうばわれて、二秒か三秒のあいだ、ためらっていたものですから、いくらがんばってみても、きゅうに犯人に追いつくことはできません。つい十五、六メートル向こうに、白いワイシャツの背中をながめながら、そのへだたりが、なかなかちぢまらないのです。
これがにぎやかな町ならば、たちまち弥次馬があらわれて、犯人の逃げ道をふさいでくれるのでしょうが、このさびしい屋敷町では、いくらわめいたところで、なんのかいもありません。
三人は、ただ死にものぐるいに追っかけるほかはないのです。犯人が町かどをまがるたびに、姿を見うしないはしないかと、ビクビクしながら、息のつづくかぎり走りました。
そうして、三つほど町かどをまがりますと、そこは、両がわに高いコンクリート塀が百メートル以上もつづいている、ことさらにさびしい通りでしたが、刑事たちは、とうとうそこで、犯人を見うしなってしまいました。
「おや、どこへ行ったのだ。たしかにここをまがったはずだが。」
「おかしいね。両がわは高い塀で、かくれるところなんかありはしない。」
「おい、見たまえ。あすこに火の番の小屋があるじゃないか。だれかいるようだ。犯人を見たかもしれないぜ。聞いてみよう。」三人は息を切らして、そんなことを言いながら、火の番小屋に近づきました。
「おい、だれかいないかね。ぼくたちは警察のものだが、今この前を走っていったやつはいないかね。ワイシャツ一枚の男だ。」大声でたずねますと、中から、寝ぼけたようなじいさんの声が聞こえました。
「へ、なんですって? 何かあったんですか。」そして、小屋のすりガラス戸を、ガラガラとひらき、うすぎたないじいさんが、ノロノロと外に出ました。
見れば、古びた洋服に、ぞうりばきで、頭には、やぶれたソフト帽をまぶかにかぶり、長いひものついたひょうし木を、首にさげてブラブラさせています。こんなおいぼれに、よく火の番がつとまると、おどろくようなじいさんです。
刑事たちは舌打ちしながら、もう一度同じ質問をくりかえしました。
「へ、警察のだんな方ですか。そいつはね、今しがたこの前を、おそろしい勢いで走っていきましたよ。わたしゃ戸のすきまから、チラッと見たばかりですがね。たしかにワイシャツ一枚のやつでがしたよ。あっちのほうへ走っていきました。もう二、三百メートルも向こうへ行っているころですぜ。」
刑事たちは、それを聞きますと、こんなおいぼれじいさんに、たずねたことを後悔するように、礼もいわないで、そのまま、またかけだすのでした。
夜番のじいさんは、ぼんやりつっ立ったまま、三人のあとを見送っていましたが、刑事たちの姿が町かどに消えてしまうと、なぜかニヤニヤとみょうな笑いをもらしながら、いきなり首にさげていたひょうし木をにぎって、チョンチョンとたたきました。そして、これから町を一まわりするつもりなのでしょう。ヨチヨチと、刑事たちの走りさった反対の方角へ歩きはじめました。
やがて、刑事たちはしおしおとして、明智探偵や中村係長のいる、怪博士邸の書斎へ引きかえしてきました。明智の力によって、せっかく逮捕した怪盗を、あっけなく取りにがしてしまったものですから、申しわけなさに、刑事たちがしおれかえっているのもむりはありません。明智探偵は、ひじょうにざんねんそうなようすでしたが、なにぶん犯人が思いもよらぬ手段で、なわめをすりぬけたのですから、刑事たちをせめるわけにもいきません。それよりも、あの怪博士がいったいどこへ逃げ、どこへかくれたかをつきとめるのが、さしあたっての急務です。
明智探偵はすぐさま、刑事たちにするどい質問をあびせかけました。
「逃げる犯人と、追っかけるきみたちとの間は、はじめは十五、六メートルしかへだたっていなかったというのですね。それが、いくつめかの町かどをまがると、とつぜん消えうせたように見えなくなったというのは、おかしいじゃありませんか。どこかの家へ逃げこんだのじゃありませんか。」
「しかし、あいつの消えうせた付近の家は、あとで一軒一軒たたきおこして、庭などもしらべてみたのですが、どこにも人の逃げこんだ形跡がないのです。」刑事のひとりが、ふしぎでたまらないという顔つきで答えました。
「で、きみたちは犯人を追っかけているあいだに、通行人にはひとりも出あわなかったのですが。」
「はあ、どの町にも、まったく人通りはありませんでした。」
「思いちがいではありませんか。ほんとうにだれにも出あわなかったのですか。」明智は、なぜかその点をくどくたずねるのです。
「ええ、ひとりも出あいません……。しかし、ああ、そうそう、出あったといえば、ひとり出あった者がありました。夜番のじいさんです。われわれは、そのじいさんに犯人の逃げた方角をたずねたのですが、なんのかいもなかったのです。」
「え、夜番のじいさん? そいつは犯人の逃げた方角から歩いてきたのですか。」
「いいえ、夜番小屋の中にいたのです。われわれが外へよびだしてたずねたのです。」
「では、きみたちは、その夜番小屋の中へは、はいらなかったのですね。」
「ええ、むろんはいりゃしません。一秒でもおしいときですからね。」
「小屋の中をのぞいても見なかったのですか。」
「ええ、のぞきなんかしませんでした。しかし、どうしてそんなことを、おたずねになるのですか。犯人があの小屋の中にかくれていたとでもおっしゃるのですか。まさか、いくらおいぼれた夜番のじいさんでも、もし、犯人が小屋に逃げこめば、それを気づかぬというはずはありませんよ。」刑事は明智のみょうな質問を、少し腹だたしく感じたようすで答えました。
「いや、ぼくの考えているのは、そのぎゃくですよ。ぼくはそのとき、夜番のじいさんが、小屋の中のどこかにたおれていやしなかったかとうたがっているのです。」
「エッ、なんですって? じいさんはピンピンして、小屋の外へ出てきたのですよ。たおれているなんて……?」といいかけて、刑事はハッと顔色をかえました。名探偵のみょうな質問の意味を、このときやっと気づいたのです。
「では、あのじいさんがにせ者だったと……。」
「これは、ぼくの想像にすぎません。しかし、あいつならば、そういうきわどい芸当もやりかねないと思うのです。ともかく、急いでその夜番小屋へ行ってみましょう。」
そこで、明智探偵は中村係長といっしょに、四人の刑事の案内で夜番小屋にかけつけることになりました。小屋について、声をかけてみますと、中からはなんの返事もありません。さいぜんのじいさんは、もうそこにはいなかったのです。明智探偵はものをもいわず、ガラス戸を引きあけて中にふみこみました。そして、せまい小屋の中を、忙しく見まわしていましたが、土間のすみに、炭のあき俵が二つ三つ立てかけてあるのに気づきますと、いきなり、そのそばに近づき、あき俵をパッとはねのけました。
すると、おお、案のじょう、そのかげにひとりのじいさんが、服をはぎとられて、シャツ一枚になり、手足をしばられ、さるぐつわをはめられ、身動きもできず、ころがっているのが発見されたではありませんか。名探偵の推察がみごとに的中したのです。刑事たちの質問に答えたじいさんはにせ者で、そこにころがっていた老人こそ、ほんものの夜番だったのです。そのなわをとき、さるぐつわをはずしてやって、介抱しながらたずねますと、老人は、からだの痛みをさすりながら、さもくやしそうに、事のしだいを語りました。
老人がイスにかけたまま、ウトウト居眠りをしていますと、いきなりガラス戸があいて、ワイシャツの男がとびこんできたのだそうです。そしてうむをいわせず、じいさんにさるぐつわをはめ、着ていたボロ洋服をぬがせて手足をしばり、土間のすみへたおして、あき俵をかぶせてしまったのです。
そのワイシャツの男が、殿村の蛭田博士であったことは申すまでもありません。犯人はそうしてじいさんの洋服を身につけ、顔にすすをぬり、ソフト帽をまぶかにかぶって、とっさのあいだに変装を終わり、まんまと刑事たちをあざむきおおせたのです。夜のことではあり、あいては変装術にかけては天才のようなやつですから、刑事たちが、おいぼれじいさんとあなどって、つい見のがしてしまったのもむりはありません。
犯人の身につけていたワイシャツやズボンは、じいさんのころがっていた同じ土間のすみに、クシャクシャにまるめて投げすててありました。
「じつにざんねんなことをしました。ぼくが刑事諸君といっしょに、犯人を監視していれば、そんなことはおこらなかったのです。それを新聞記者にじゃまされてしまったものだから。」
明智探偵は刑事たちをせめようともせず、まるで自分の手ぬかりででもあったようにくやむのでした。
「いや、ぼくこそ申しわけないゆだんでした。ただちに全都に非常線をはって、草の根をわけても、あいつをとらえないではおきません。」
中村係長は、部下の刑事たちの責めをおって、わびるようにいうのです。
「しかし、おそらく、それはむだでしょう。中村君、あなたはあいつを何者だとお思いですか。」
「何者といっても、殿村探偵に化けていた蛭田博士ではありませんか。」係長は、けげんらしく、明智の顔をながめて答えました。
「ところが、その奥に、もうひとりのおそろしいやつがかくれているのです。殿村や蛭田博士なれば、逃がしたとても、さしてくやむことはありません。誘かいされた子どもたちも、機密文書も、取りかえしたのですからね。しかし、殿村というのも、蛭田博士というのも、あいつのかりの姿にすぎないのです。あいつはそんななまやさしい悪者ではないのです。」
「エッ、なんですって? それじゃあ、あいつは、まだほかにも何か大罪を犯していると、おっしゃるのですか。」
「中村君、こんどの事件には、ひどくつじつまのあわぬ点があるのを、お気づきでしょう。殿村もそれをただ一つの武器にして、ぼくに食ってかかりましたが、なぜ犯人が犯人自身の罪をあばいたかということです。蛭田博士が殿村に化けて、せっかくかくしておいた子どもたちや機密文書のありかを、わざわざ発見してみせたかということです。これをどう解釈すればいいでしょう。
答えはただ一つです。あいつはふくしゅうしたかったのです。」
「エッ、ふくしゅうですって? いったいなんのうらみで、だれにふくしゅうしたいというのですか。」
明智の意外なことばに、中村係長はびっくりして、聞きかえしました。
「ぼくたちにです。ぼくと少年探偵団にです。」
「エッ、少年探偵団に。」
「そうです。少年探偵団のことは、あなたもむろんごぞんじでしょうが、考えてごらんなさい。蛭田博士に誘かいされた四人の少年は、残らず少年探偵団の有力な団員ではありませんか。」
「ああ、そうでした。それはぼくも知らぬではなかったのですが、しかし……。」
「あいつはもうちゃんと目的をはたしてしまったのです。目的をはたしたからこそ、少年たちは、われわれの手に返す気になったのです。その目的とはなんであったかといえば、あの子どもたちを思うぞんぶん苦しめることでした。あいつは蛭田博士という、うすきみの悪い怪人物に化けて、子どもたちをとりこにし、さんざんこわがらせ、いじめぬいたのです。それであいつのふくしゅうの目的は、じゅうぶん達したわけなのです。」
「しかし、あの機密文書は?」
「あれも少年探偵団をこらしめる手段にすぎません。団員の少年だけでなく、その一家を苦しめて、ざまをみろと言いたかったのです。ちょうど相川泰二君の家に、技師長のおとうさんには命にもかえがたい重要文書が保管されていたので、得たりかしこしと、それをぬすみださせて、相川一家を不幸のどん底におとしいれたのです。もしほかの少年たちの家にも、あれほどたいせつな品物があったら、きっとぬすみだしていたことでしょうが、さいわいにそんな重大な品物がなかったのです。」
「すると、あの機密文書は、スパイに売りわたすためにぬすんだのではなかったのですか。」
「そうですよ。もし金にかえるのが目的だったら、何を苦しんで、自分自身でそのかくし場所をあばいたりするでしょう。あいつは新聞などで、おそるべきスパイだとか、国賊だとかいわれていましたが、それだけは無実の罪です。」
「すると、犯人はただ少年探偵団員をいじめたいばっかりに、あんなことをしたとおっしゃるのですね。しかし、それなれば、なにも危険をおかして探偵に化けたりして、子どものかくし場所をあばいたりする必要はないじゃありませんか。あのままほうっておけば、子どもたちはもっと苦しむわけですからね。」
「ところが、そうしていられない事情がおこったのです。」
「といいますと?」
「ぼくがこの事件の探偵を引きうけたことが、あいつにわかったからです。あいつはぼくの実力を知っています。ぼくが事件を引きうけたからには、遠からず蛭田博士のかくれがが発見され、子どもたちもとりもどされるかもしれないと考えたのです。あいつは、相川君たち四人だけでなく、少年探偵団員ぜんぶを同じようなひどいめにあわせようと考えていたらしく思われます。ところが、ぼくが事件に関係して、にわかに蛭田博士の身辺があやうくなったものだから、ほかの少年たちを誘かいすることはあきらめて、そのかわりに、こんどはぼく自身にたいしてふくしゅうしようとしたのです。
しかし、いくらあいつでも、まさかぼくを誘かいすることはできませんが、そんなことをしないでも、ぼくをいじめる手段はちゃんとあるのです。ぼくは探偵事業を生命としているものです。そして、名探偵とかなんとかいわれているものです。そのぼくが、もしべつの私立探偵と競争して、むざむざ敗北したならば、こんな痛快なふくしゅうはないじゃありませんか。ぼくの探偵としての名声は、その日からうしなわれ、そのべつの探偵がかわって名探偵の名をほしいままにするわけですからね。ぼくとして、これほどつらいことはありません。
あいつはそこへ気がついたのです。そして、あんなせむしの探偵に化けて、ぼくに競争をいどみ、ぼくの鼻をあかそうとたくらんだのです。自分でかくしておいたものを、自分でさがしだしてみせるのですから、こんなたやすいことはありません。あいつは、確実にぼくをうち負かすことができるのです。
少年たちを、さんざんいじめて、目的をたっしてしまった。その少年たちのかくし場所を利用して、こんどはぼくをいじめようというのです。なんとうまい思いつきではありませんか。
もしぼくが、なんの用意もなく、あいつに立ちむかったならば、まんまと敵の思うつぼにはまったかもしれません。ところがぼくは小林君という、リスのようにすばしっこい助手を持っていました。その小林君を変装させ、殿村探偵を尾行させて、しゅびよく敵の裏をかくことができたのです。」
中村係長も刑事たちも、この明快な説明を聞いて、なるほどそうだったのかと、いまさらのように明智探偵の明察に感じいりましたが、しかし、まだどうもふにおちぬところがあります。
中村係長は、もどかしそうに両手をにぎりあわせながら、明智の言葉をさえぎって、質問しました。
「しかし、これほど世間をさわがせて、わが身の危険をおかしてまで、そんなふくしゅうをするというのは、いったい何者です。まるで気ちがいざたではありませんか。」
「そういうとっぴな気ちがいめいた犯罪者を、われわれはたったひとり記憶しているはずです。変装のたくみさといい、誘かいした子どもたちを傷つけなかった点といい、それに、まるで奇術師のようなやり口といい、ある人物をまざまざと思いださせるではありませんか。
少年探偵団というものが、どういうきっかけで組織されたか、また少年探偵団が、そんなにうらまれるほど苦しめた相手は、いったいだれであったかを、思いだしてごらんなさい。」
それを聞くと、中村係長はギョッとしたように、明智の顔を見つめました。
「おお、それじゃ、あなたは……。」
「そうですよ。ぼくはあの怪盗二十面相のことをいっているのです。」
明智探偵は、とうとう、そのおそろしい人物の名を口にしました。
ああ、怪盗二十面相。二十のまったくちがった顔を持っているといわれた、あの変装の名人、由緒ある美術品ばかりをねらって、金銭などには目もくれず、血を見ることがきらいで、ピストルや短刀などをほとんど使用したことのない、あの紳士盗賊。小説「怪人二十面相」や「少年探偵団」をお読みになった読者諸君は、その二十面相が、どんなふしぎな盗賊であったかを、よくごぞんじでしょう。
明智探偵は、せむしの殿村も、怪人物蛭田博士も、その二十面相の変装にすぎないというのです。
しかし、二十面相は「少年探偵団」の物語の最後で、地下室の火薬のたるに火をつけて、みずから爆死してしまったではありませんか。死んでしまった二十面相が、どうして蛭田博士や殿村に化けることができたのでしょう。
中村係長は、そんなばかなことが、といわぬばかりに、聞きかえしました。
「あなたはあの二十面相が、まだ生きているとでもおっしゃるのですか。」
「そうです。生きていたのです。今から考えてみると、ぼくたちは、あいつにまんまといっぱい食わされたのです。
あの爆発のとき、ぼくらは遠くへ逃げていたのですから、二十面相が死んだのを、直接この目で見たわけではありません。
あいつは逃げようと思えば、逃げることができたのです。そして、遠くから導火線で火薬を爆発させ、さも自殺したように見せかけることもできたのです。
そのしょうこに、あとで爆発の場所をしらべてみても、あいつの死がいらしいものは、どこにも見あたらなかったではありませんか。当時は、大爆発のために、粉みじんになってしまったのだろうと考えたのですが、じつはそうではなくて、あいつはわれわれの目をくらまして、こっそり逃げだしていたのです。」
「では、あなたは、さっきの青年の顔に見おぼえがあったのですか。あれが二十面相の素顔だったのですか。」係長は息をはずませて、明智探偵につめよりました。
「いや、見おぼえがあったのではありません。あいつは二十のちがった顔を持つといわれる怪物です。さっきの青年の顔もほんとうの素顔ではないかもしれません。あいつの素顔なんて、だれも知らないのです。」
「じゃあ、あなたは、何をしょうこに?」
「ざんねんながらしょうこはありません。しかし、あらゆる事情が、ぼくの考えを裏書きしているのです。二十面相でなくて、あれほど、とっぴな、ずばぬけた芸当のできるやつが、ほかにあろうとは思われません。ぼくは、確信しているのです。ぼくの長い探偵生活の経験が、それをはっきりぼくに教えてくれたのです。」
まさか、われわれの名探偵明智のことばに、まちがいがあろうとは思われません。すると、あの希代の変装魔二十面相は、やっぱり生きていたのでしょうか。ああ、なんということでしょう。あの怪物が、この東京のまんなかを大手をふって歩いていたなんて。
「二十面相とすれば、なおさらほうってはおけません。ぼくはすぐ警視庁に帰って、そのことを報告し、逮捕の手配をしなければなりません。」係長は、それほどの大物をとりにがしたくやしさに、地だんだをふまぬばかりです。
「いや、いまさらあわててもしかたがありません。相手が二十面相では、一度逃がしてしまっては、きゅうにとらえる見こみはないのですよ。あいつは今ごろは、どこか別のかくれがに身をひそめ、まったくちがった人間に化けて、ぼくらをあざわらっていることでしょう。
しかし、ご安心なさい。あいつはいつまでもかくれがにじっとしているはずはありません。今にまた、ぼくらに挑戦してきますよ。それだけが、あいつの生きがいなのですからね。ぼくらは、ただあいつが挑戦してくるのを、待っていればいいのです。こんどこそは逃がしませんよ。名探偵明智の名にかけて、きっと、とらえてお目にかけます。」明智は、何か心に期するところあるもののように、力強く言いきるのでした。
ちょうどそのとき、まるで明智の今のことばを裏書きでもするように、意外なことがおこりました。
「ここに、明智さんとおっしゃる方がおいででしょうか。」夜番小屋の外で、大声にわめいているのが聞こえました。
明智探偵は、それを聞きますと、何かハッとしたように緊張の色をうかべましたが、急いでガラス戸をひらいて、外のやみをのぞいて見ますと、そこに自動車の運転手らしい若い男が、手に折りたたんだ紙きれを持って立っていました。
「明智はぼくだが。」
「ああ、あなたですか。これをわたしてくれってたのまれたのです。」
運転手がさしだす紙きれを受けとって、小屋の電灯にかざして見ますと、それは手帳の紙を二枚切りとったもので、鉛筆でつぎのようにおそろしい文句が書きなぐってありました。
明智君、ひさしぶりだったねえ。
おれが生きていようとは、さすがのきみも意外だったろう。魔術師の腕まえはザッとこんなものさ。ところで、今夜は、きみのためにさんざんのめにあわされたね。ざんねんだが、おれの負けとしておこうよ。だが、最後のどたんばで、きみはあっけなく獲物を逃がしてしまったじゃあないか。明智君、これまでのところは、おれのふくしゅう事業の序幕にすぎないのだぜ。これからほんとうにおそろしいことが始まるのだ。きみも小林も、それから探偵団のチンピラどもも、首を洗って待っているがいい。今におれの知恵のおそろしさを堪能するほど見せてやるから。
ああ、やっぱり名探偵の推理はまちがっていなかったのです。それをいち早くみてとって、先手を打って名のって出た二十面相も、さすがではありませんか。この好敵手は、たがいにその心中の秘密を、手に取るように読みあっていたのです。
使いの運転手は、その場から警視庁に連行され、げんじゅうな取りしらべをうけましたが、ただ道で出あったきたないじいさんから、千円の謝礼をもらって、何も知らず手紙をとどけたのだということがわかりました。
かくして、名探偵と怪盗との知恵くらべのたたかいは、いよいよ本舞台にはいりました。正体をあらわした二十面相は、つぎにはどんなおそろしい悪だくみをするでしょう。ああ、なんだか、少年探偵団員たちの身のうえが、気づかわれるではありませんか。
前回のできごとがあってから数日後の、ある夕方のことでした。少年探偵団員のひとり、小泉信雄という小学校六年生の少年が、学校からの帰り道、ただひとり、渋谷のある小さな公園の中を通りかかりました。
小泉君は学校の野球チームの選手だものですから、その練習のために、こんなに帰りがおそくなったのです。
ちょうど夕飯時なのと、もう人の顔も見わけられぬほど、うす暗くなっていますので、小さな公園の中はひじょうにさびしく、いつもは幼い子どもで、ウジャウジャしている、すべり台や砂場にも、人の影さえ見えません。
小泉君は、その公園が近道だものですから、毎日通りぬけるのですが、こんなにさびしいのははじめてでした。あの大ぜいの子どもたちは、どこへかくれてしまったのだろうと、ふしぎに思われるほどでした。
ところが、公園の中ほどまで歩いていきますと、そこのブランコの前に、五歳ぐらいの、おかっぱの女の子が、つっ立ったまま、両手を目にあてて、シクシク泣いているのに出あいました。
人っ子ひとりいないうす暗がりの中で、おいてけぼりにでもあったように、さも、さびしそうに泣いている女の子を見ますと、なんだかかわいそうでたまりませんでした。
小泉君はツカツカとそのそばによって、女の子の肩に手をかけ、そのかわいらしい顔をのぞきこみながら、声をかけました。
「どうしたの? なぜ泣いているの?」
すると女の子は、目にあてていた両手をはなして、パッチリとしたお人形のような目で、小泉君を見あげ、泣きじゃくりながら、
「おうちがわかんないの。」と、かすかに答えるのです。
「ああ、まい子なんだね。きみひとりでこんなところへ来たの? だれかといっしょに来たの?」
「おじちゃんがいなくなったの。」
「ああ、おじさんといっしょに来て、どっかではぐれてしまったんだね。こまったなあ。きみんちいったいどこなの。遠いの?」
「ズーッとあっちなの。あたちわかんないの。」女の子は、もつれる舌でそういって、またシクシク泣きはじめました。
こんな幼い子どもに、いくらたずねても、住所がいえるわけはありません。小泉君はこまってしまいましたが、もしやまい子札をつけてはいないかと、ふと気がついて、女の子のからだを見まわしますと、うまいぐあいにエプロンのわきの下のところに、小さな銀色のメダルのようなものがぶらさがっていて、それに「世田谷区池尻町二二〇 野沢愛子」と彫りつけてあるのを発見しました。
「池尻町ならばわけはないや。電車にのれば十分もかからないで行ける。よしっ、ぼくが送っていってあげよう。きみのおうちでは、どんなに心配しているかしれやしないんだからね。」小泉君は半分ひとりごとのようにつぶやいて、女の子の手を引きますと、急いで公園を出て、近くの停留場へ急ぎました。
これが少年探偵団の精神なのです。犯罪者とたたかうばかりでなく、とくいの探偵眼を利用して、少しでも世間のためになることなら、喜んではたらくというのが、団員たちの日ごろの申しあわせなのでした。
池尻町の停留場で電車をおりて、二百二十番地をさがしますと、愛子ちゃんのおうちは、ぞうさもなくわかりました。
そのへんはいけがきでかこまれた、庭のひろい邸宅がならんでいる、さびしい町でしたが、そのいけがきにはさまれて高い板塀をめぐらした洋館の門に、野沢という表札が出ていたのでした。
愛子ちゃんは、「ここよ。ここ、あたちのおうちよ。」とさけぶと、小泉君の手を引っぱって、大喜びで門の中へかけこみました。
門をはいってみますと、さしてりっぱな建物ではありませんが、それでも、なかなか大きい木造の洋館がたっていました。庭などもひろいようすです。
愛子ちゃんが、うれしさのあまり、大きな声をたてたものですから、おうちの人は早くも気づいたとみえて、玄関のドアがあくと、そこから五十歳ぐらいの、あごひげのある、りっぱな紳士の顔がのぞきました。
それを見るやいなや、愛子ちゃんは、「おじちゃん!」とさけんで、いきなり、紳士の胸にとびついていきました。この人に連れられていて、まい子になったのにちがいありません。
「おお、愛子ちゃん、よく帰ってきたね。おじちゃんは、どんなに心配していたかしれやしないよ。」紳士はそういって、女の子の頭をなでていましたが、ふとそこに小泉君が立っているのに気づきますと、ニコニコして、声をかけました。
「ああ、きみが連れてきてくださったのですか。ありがとう、ありがとう。うちでは大さわぎをしていましてね。いま電話で警察へ捜索を願おうと思っていたところですよ。
まあ、こちらへおはいりください。いろいろおききしたいこともあるし、お礼も申しあげたいし、立ち話もなんだから。ね、きみ、ちょっとこちらへはいってください。」
小泉君は女の子を送りとどけてしまったら、もう用事はないのですから、そのまま帰ろうと思っていたのですが、紳士が玄関の外へ出てきて、手を取るようにしてすすめますので、それをふりきって帰るわけにもいかず、つい家の中へさそいこまれてしまいました。
はいってみますと、まさかこの大きなおうちに、老紳士と愛子ちゃんとふたりきりで住んでいるのではないでしょうが、みょうなことに、おばさんも、女中も、書生も、だれも出てこないのです。家の中が、なんだかあき家のようにガランとしていて、へんにうそ寒いような感じなのです。いや、みょうなのは家ばかりではありません。老紳士の風采がまた、ひどくかわっていました。半白の長い頭髪をオールバックにして、ピンとはねた軍人のような口ひげと、三角に刈ったいかめしいあごひげをたくわえ、黒いふちの大きなロイドめがねをかけ、西洋の衣とでもいった感じの、黒いダブダブした服を着ているのです。
読者諸君は、この風采をお考えになっただけで、その紳士が何者であるか、もうお気づきのことと思います。お察しのとおり、それはあのおそろしい妖怪博士蛭田でした。いうまでもない、二十面相が化けているのです。
しかし、小泉君は、蛭田博士の名は知りすぎるほど知っていましたけれど、会ったことは一度もないのですから、まさかそれがおそろしい二十面相の変装姿であろうとは、夢にも知らず、ただ、みょうなおじさんだなと感じたばかりでした。ああ、あぶない。小泉君はまんまと敵のわなにおちいったのを、まだ少しも気づいていないのです。二十面相は、小泉君を家の中にさそいいれて、いったい、何をしようとするのでしょうか。
それにしても、いたいけな女の子を、わざとまい子にして、やすやすと小泉少年をおびきよせるとは、なんと心にくい手ぎわではありませんか。
「ほんとうにありがとう。わたしがどんなに感謝しているか、ことばにあらわせないほどですよ。もしきみが救ってくれなかったら、愛子はどんなおそろしいめにあっていたかしれません。人さらいというものは、今でもないとはいえませんからね。さあ、奥へ通ってください。奥の部屋で、ゆっくりお話しましょう。わたしは、きみのような活発な子どもさんが大すきなのですよ。わたしは、こうみえても、発明家でしてね。あるすばらしい機械の発明を完成したところなのです。それもきみにお目にかけたいのです。
その機械は、奥のわたしの部屋においてあります。さあ、こちらへ。なにもえんりょすることはありません。きみは愛子を助けてくださった恩人なのですからね。」
蛭田博士はさも好人物らしく、ニコニコと作り笑いをしながら、ネコなで声でそんなことをしゃべりつづけ、うしろから小泉君の背中をおすようにして、うす暗い廊下を奥へ奥へと連れていきました。
廊下をグルグルまがってつきあたったところに、ふつうのドアよりはずーっと小さいみょうなひらき戸があります。蛭田博士はそれを外へグッとひらいて、小泉君に、先におはいりなさいという身ぶりをしました。
「さあ、この部屋です。これがわたしの研究室で、すばらしい機械がおいてあるのです。さあ、どうぞ。」
いわれるままに、小泉君はついうかうかと、先に立ってその部屋へはいってしまいました。
見れば、なんというへんてこな部屋でしょう。二メートル四ほうほどのごくせまい場所でイスもテーブルもなく、みょうなことに、四ほうの壁も天井も床板も、すっかり鉄板ではりつめてあるのです。その鉄ばりの壁のいっぽうのすみに、小さなくぼみができていて、そこに自動車のルーム・ランプのような、豆電球が光っています。
「その機械ってどこにあるんですか。この部屋には何もおいてないじゃありませんか。」小泉君がふしんそうにあたりを見まわしてたずねますと、まだ部屋の外にいた蛭田博士はひらき戸を半分しめて、その間からニューッと顔をつきだしながら、とつぜん、今までとはまるでちがった声を出しました。
「きみはその機械が見えないかね。きみの今はいっている部屋そのものが、一つのすばらしい機械なのだよ。わしの大発明さ。ハハハ……。」らんぼうなことばに、オヤッと思ってふりむきますと、博士の顔までが、うってかわったうすきみの悪い形相でした。
「おじさんは、どうしてそんなところにいるんです。なぜ部屋の中へ、おはいりにならないんです。」小泉君はひじょうな不安を感じて、なじるようにたずねました。
「なぜはいらないかって? フフフ……、わしは命がおしいからさ。自分で発明した機械だけれど、そこへはいるのがこわいのだよ。フフフ……、きみは勇気のある子どもだ。ひとつわしの発明した機械のあじをためしてくれたまえ。そこにじっとしているとね、今におもしろいことがはじまるんだよ。まあ楽しみにして待っているがいい。フフフ……。」
「エッ、なんですって。じゃ、きみはぼくをここへとじこめるつもりですか。きみはだれです。きみはいったいだれです。」小泉君は、いきなりドアのところへとびついていって、怪紳士をおしのけようとしましたが、そのとき早くも、ドアは、ピッタリと外からしめられ、かぎをかける音がカチカチと聞こえてきました。
小泉君は、何がなんだかわけがわかりませんでした。親切にまい子の少女を連れてきてやったのに、いきなりこんなみょうな部屋へとじこめてしまうなんて、ここの主人は気でもちがっているのでしょうか。
でも、主人は見たところ、なかなかりっぱな紳士です。三角形のあごひげをはやし、大きなべっこうぶちのめがねをかけて、偉い学者のような風さいです。そのりっぱなおじさんが、少女の恩人でもある小泉君を、こんなめにあわせるなんて、いったいどうしたわけなのでしょう。
しばらくすると、どこか壁の向こうがわで、ジジジ……という、モーターでもまわりはじめたようなうすきみの悪い物音が聞こえてきました。
小泉君は、外科病院の手術台にでものせられているような、なんともいえぬおそろしさに、口の中がカラカラにかわいてしまって、ものもいえないほどでした。きっと顔色もまっさおにかわっていたにちがいありません。
そのうちに、モーターらしい音にまじって、歯車と歯車とがかみあうような、そうぞうしいひびきがおこり、気のせいか、鉄ばりの部屋が、小きざみに震動しはじめたように思われます。
小泉君の心臓は、早鐘をつくように、ドキドキしてきました。ああ、ぼくはどうなるのだろう。今にどんなおそろしいことがおこるのだろうと思うと、もうじっとしてはいられません。逃げ道のないことはわかっていても、どうかして逃げだせないものかと、追いつめられたけだもののように、キョロキョロとあたりを見まわしました。
そして、ふと天井を見あげますと、おお、なんということでしょう。その黒い鉄ばりの天井が、少しずつ少しずつ、まるで虫のはうようなのろさで、下へ下へとおりてくるではありませんか。
小泉君は、この悪魔のようなできごとを、きゅうには信じる気にはなれませんでした。自分の目が、どうかしているのではないかとうたがいました。でも、じっと見あげていますと、天井はたしかにジリジリとおりてきます。一秒間にほんの一ミリほどのおそい速度ですけれど、確実に、少しの休みもなく、小泉君の頭上を目がけておりてくるのです。
「おじさん、ここをあけてください。早くあけてください。」小泉君は死にものぐるいで、鉄ばりのドアをたたきつづけました。
「ハハハ……、やっとわかったようだね。天井を見たかね。その天井は、あたりまえの天井じゃないんだよ。厚さが一メートルもある、重い重い天井なんだよ。その天井がドンドンきみの上へ落ちてくるんだ。すると、おしまいには、どういうことになると思うかね。え、小泉君、きみにはそれがわかるかね。」歯車のひびきのあいだから、しわがれ声がきみ悪く聞こえてきました。
小泉君はゾッとして、その重そうな鉄ばりの天井を見あげました。するとどうでしょう。天井はいつのまにか、もとの高さよりも五、六センチ低くなっているではありませんか。そして、なおも下へ下へと、少しの休みもなくおりてくるではありませんか。
「おじさん、もうわかりました。おじさんの発明はわかりましたから、早く機械をとめてください。そしてぼくを外へ出してください。」小泉君がいっしょうけんめいの声をふりしぼってさけびますと、すぐさま外からしわがれ声が答えました。
「ハハハ……、きみはそこを出るつもりでいるのかい。ハハハ……、ところが、わしはけっしてこのドアをひらかないのだよ。」
「エッ、なぜです。なぜ、ぼくをこんなひどいめにあわせるのです。おじさんはいったいだれです。」
「ウフフフ……、だれだと思うね。ひとつあててごらん。きみは少年探偵団の団員だったね。その探偵の知恵をしぼって、ひとつ考えてごらん。わしがだれだか、なぜきみをおそろしい機械部屋の中へとじこめたか。」
「え、おじさんは、ぼくが少年探偵団員だということを知っているのですか。」
「知っているとも、知っていればこそ、あの少女をおとりに使って、ここへおびきよせたのだよ。かわいそうだが、チンピラ探偵さん、まんまといっぱい食ったねえ。ハハハ……。」
「エッ、それじゃきみは二十面相……。」
「ハハハ……、やっとわかったかね。頭の悪い探偵さんだ。わしは二十面相ともいうし、蛭田博士ともいうし、殿村探偵ともいうし、まだそのほかにいろいろの名を持っているよ。で、わしが、なぜきみをここへとじこめたか、よくわかっただろうね。つまりふくしゅうさ。わしは、いつかきみたちチンピラ探偵のために、ひどいめにあわされた。そのお礼をしようというわけだよ。まあ、そこでゆっくりわしの機械を見物してくれたまえ。ハハハ。」そう言いすてたまま、しわがれた毒々しい笑い声が、だんだん向こうのほうへ遠ざかっていきました。二十面相は機械を運転したまま、その場を去ってしまったのです。
小泉君は、もう死にものぐるいです。何かわめきながら、からだぜんたいで、ドシンドシンと、ドアにぶつかってみました。しかし、鉄ばりのドアは、びくともするものではありません。
そうしているうちに、何かかたいもので頭をおさえつけられるような気がして、ヒョイと上を見ますと、どうでしょう。天井はもう、まっすぐに立っていられないほどさがってきているのです。
小泉君は、むだとは知りながら、両手で、そのつめたい鉄ばりの天井を、力いっぱいおしあげてみました。しかし、人間の力でこの機械をとめることは思いもおよびません。力いっぱいおしあげている両手が、ジリリジリリと下へさがってくるのです。
しばらくすると、小泉君はそこへしゃがんでしまわなければなりませんでした。しゃがんでいても、その頭を、重い天井が、グングンおしつけてくるのです。
考えてみますと、高い天井がそこまでおりてくるのに、十分あまりしかかかっていないのです。このちょうしでさがりつづければ、あと五分もかからないで、小泉君はおしつぶされてしまうでしょう。それを思うと、もう生きた空もありません。
「おかあさーん! 助けてくださーい!」さすがの小泉君も、幼い子どもにかえって、むがむちゅうで、そんなさけび声をたてないではいられませんでした。
すると、そのさけび声に答えるように、どこからか、例のしわがれ声が聞こえてきました。
「ウフフフ……、小泉君、どうだね、その気持ちは。もうたくさんかね。いや、心配しなくてもいい。わしはきみの命をとろうとは考えていないのだよ。ただ、二度とわしに手むかいなどせぬよう、きみをこらしめたまでさ。どうだ、少しは身にこたえたかね。」
こわい夢でも見たあとのように、あぶら汗でビッショリになった小泉君が、声のするほうをふりむきますと、鉄板の壁の一ヵ所が、二十センチ四ほうほど、窓のようにひらいて、そこから蛭田博士に化けた二十面相の顔がのぞいているのです。少しも気づきませんでしたが、そんなところにのぞき穴のかくし戸があったのです。
「ハハハ……、こわかったかね。まっさおな顔をしているな。安心するがいい。もう機械はとめてしまった。これでわしのお仕置きはおしまいだ。今そこから出してあげるよ。だが、そのまえに、ちょっときみに書いてもらいたいものがある。ここにペンと紙があるからね、わしのいうとおりに、そこへ筆記してもらいたいのだ。いいかね。もしきみがいやだといえば、また機械が動きだすのだよ。それがこわければ、さあ、このペンを受けとって、書くのだ。なあに、なんでもない、やさしい文句だよ。」二十面相は、ネコなで声でそんなことを言いながら、のぞき窓から、一枚の用せんと万年筆を差しだすのでした。
お話かわって、それから三十分ほど後、小泉君のおうちの近くの神社の森の中を、四十歳ほどのデップリふとった紳士が、和服の着流しに、帽子もかぶらず、ステッキをふりながら、歩いていました。
その紳士は小泉信雄君のおとうさまの小泉信太郎氏でした。信太郎氏は、いくつもの会社の重役をつとめている、富裕な実業家なのですが、毎日、会社から帰って、夕飯をすませると、近所の神社の森の中を散歩するのが、おきまりのようになっていたのです。
きょうは少し夕飯がおくれたので、散歩の時間ものびて、神社の境内はほとんどまっくらになっていました。それでも、くせになっているものですから、散歩をしないと、なんとなく気持ちが悪いので、信太郎氏は、その暗い森の中を、ブラブラと歩きまわっているのでした。なぜ夕飯がそんなにおくれたかといいますと、それはひとりむすこの信雄君が、いくら待っても学校から帰らなかったからです。でも、きっとまた野球の練習をしているのだろうと、あまり気にもかけず、みんなで夕飯をすませたのでした。
小泉君のおうちは渋谷区桜丘町にあるのですから、世田谷区池尻町の二十面相のかくれがとは、電車で十分もかからぬ近さです。そのすぐ目と鼻の間で、かわいい信雄君が、あんなおそろしいめにあっているとも知らず、おとうさまの信太郎氏は、のんきそうに散歩なさっていたのです。
「もしもし。小泉のだんなじゃあございませんか。」とつぜん暗やみの中から呼びかけるものがありますので、信太郎氏はびっくりしてふりむきました。見ると大きな木のかげに、乞食のようなボロボロの洋服を着た、白髪白髯の老人が、ニヤニヤ笑いながら立っているのです。
「わしは小泉だが、きみはだれでしたっけ。」信太郎氏は、そう言いながら、ひとみをこらして、相手をながめましたが、いくら考えても、こんなきたない老人に知りあいはないのです。きたないというばかりでなく、ふさふさとのばした白いあごひげがなんとなく仙人じみて、うすきみ悪くさえ思われます。
「エヘヘヘ……、お見おぼえのないのもごもっともで、じつははじめての者でございますが、だんなに少しお話し申したいことがありましてね。ヘヘヘ……。」
なんというきみの悪いやつでしょう。暗やみの森の中で、いきなり木のかげから姿をあらわし、みょうな鳥のような声で笑いながら、話したいことがあるというのです。物もらいでしょうか。いや、物もらいにしてはなんだか口のきき方がへんではありませんか。
「話というのは、どんなことだね。こみいった話なら、あらためて宅のほうへ来てもらいたいのだが。」
信太郎氏は素性の知れぬ相手を警戒するように、ぶあいそうに答えました。
「ヘヘヘ……、なあに、そんなこみいった話でもございませんよ。じつはお宅のお坊ちゃまのことにつきまして……。」
「エッ、信雄のことだって? 信雄がどうかしたのですか。」
小泉氏は、老人のしさいありげな口ぶりに、思わずギョッと聞きかえしました。
「エヘヘヘ……、そうらごらんなさい。わしの話を聞かずにはいられますまいがな。信雄さんは、学校からお帰りになりましたか、え、今お宅においでですか。」
「いや、さいぜんわしが家を出るまで、まだ帰っていなかった。どうしたのかと心配しているのです。きみは何か信雄のことを知っているのかね。」
「知っているどころか、わしはつい今しがたまで、あの子どもと話をしていたのですよ。」
「エッ、話を? で、信雄は今どこにいるのですか。」
「エヘヘヘ……、それはちょっと申しあげられませんが、わしはその場所もよく知っております。だんなのお心しだいで、いつでもお宅に帰るようにいたしますよ。」
「わしの心しだい? それはどういう意味だね。きみは信雄をどこかへかくしたとでもいうのか。」小泉氏は、はげしい口調で聞きかえしました。
「ヘヘヘ……、そうご立腹になっては、お話もできません。じゃあ、ひとつこれを読んでいただきましょうかね。これをごらんになれば、何もかもわかるのですよ。」怪老人はそんなことを言いながら、ポケットから、何か書いた二枚の紙きれを取りだして、小泉氏にさしだしました。
「あそこに常夜灯がついております。あの下へ行って、ひとつよく読んでみてください。」
小泉氏は、こんなあやしいやつにとりあわず、そのまま立ちさってしまおうかと思いましたが、しさいありげな書きものを見ますと、やっぱりいちおう読んでみないではいられませんでした。
常夜灯の下へ行って、紙きれをかざして見れば、まずその一枚には、見おぼえのある愛児信雄君の手跡で、つぎのようなおそろしい、手紙がしたためてありました。
おとうさま、
ぼくは悪者のためにおそろしい目にあっています。苦しくって、苦しくって、今にも死にそうです。早く助けてください。この老人のいうとおりにしてくだされば、ぼくは助かるのです。お願いです。早くぼくをこの苦しみから救ってください。小泉氏はそれを読みますと、ハッとしてまっさおになってしまいました。どこからか、信雄君のいっしょうけんめいに救いを求めるさけび声が、かすかに聞こえてくるような気さえします。
急いで、もう一枚の手紙のようなものを読んでみました。
今夜正十二時、きみはきみの家宝、雪舟の山水図の掛け軸を持って元駒沢練兵場東がわの林の中へ来るのだ。そこに一台の小型自動車が待っている。きみは掛軸をその自動車の中の人物に手わたすのだ。そうすれば信雄君はただちにきみの手に帰る。
きみひとりだけで来るのだ。ぜったいにほかの者を同伴してはならぬ。もし、このことを警察にうったえるようなことがあれば、信雄君は永久に帰らぬものと覚悟せよ。
これで見ますと、二十面相は信雄君にあんなこわい思いをさせて、少年探偵団にたいするふくしゅうをとげただけではたりないで、さらにその信雄君を利用して、彼の病いの美術収集の目的をはたそうとしているのです。なんという虫のいいたくらみでしょう。
雪舟の山水図というのは、先祖代々小泉家に伝わっている家宝で、国宝に指定されている由緒ぶかい名画でした。もしこれを売却するとすれば、二千万円をくだるまいといわれているほどの宝物です。二十面相は、その名画と引きかえでなければ、ぜったいに信雄君を返さないというのです。
「エヘヘヘ……、おわかりになりましたかな。で、さっそくですが、ひとつご返事がうけたまわりたいもので。」怪老人は、手紙に読みいっている小泉氏のかおを、ジロジロとながめながら、毒々しいちょうしで、返事のさいそくをしました。
小泉氏は、どう答えてよいのか、きゅうに思案もうかびません。信雄君を取りもどさなければならぬことはいうまでもないのですが、そうかといって、国宝にまで指定されている宝物を、むやみに手ばなすわけにはいきません。
「で、わしがこの申し出を承知しないとすれば?」小泉氏は、老人をにらみつけて、叱りつけるようにたずねました。
「ヘヘヘ……、それはちゃんと手紙に書いてあるじゃあございませんか。おぼっちゃまが、永久にお宅へもどらないというだけのことですよ。」
この口ぶりから察しますと、老人はただ手紙をたのまれたというだけでなく、二十面相の部下のひとりにちがいありません。
相手は一人です。しかもヨボヨボの老人です。こいつをここでとらえて、警察へつきだし、二十面相のかくれがを白状させるわけにはいかぬものでしょうか。そうすれば、信雄君も救いだせますし、宝物をわたさなくてもすむのです。
「ウン、それがいい。まさかこんなおいぼれに、おくれをとることもあるまい。」小泉氏は、とっさに決心をしますと、いきなりステッキをにぎりしめて、ツカツカと老人の前に近よりました。
「おや、だんな、目の色をかえて、どうなすったのです。わしをなんとかしようというんですかい。」老人はびっくりしたように、小泉氏を見つめました。
「きさま、二十面相のかくれがを知っているだろう。信雄のいるところも、きさまにはわかっているはずだ。さあ、わしといっしょに来い。警察へつき出してやるんだ。」小泉氏はさけびながら、おそろしい勢いで老人につかみかかろうとしました。
すると、おや、これはどうしたことでしょう。相手は飛鳥のようなす早さで、サッと身をかわし、今まで腰をかがめてヨボヨボしていたじいさんが、まるで青年のようなおそろしい元気でやみの中にスックと仁王立ちになったではありませんか。そして、ズボンのポケットから、何か取り出したかと思うと、それを右手ににぎって、ヌーッと小泉氏の鼻の先につきつけました。ピストルです。
「おいおい、ばかなまねをするもんじゃない。そんなことをすれば、信雄君ばかりか、きみ自身までとりかえしのつかぬことになるのじゃないか。ハハハ……、おれはきみなんかにとらえられるほど、もうろくはしていないつもりだぜ。」声まで歯切れのよい、若々しいちょうしにかわりました。まだ若いくっきょうな男にちがいありません。それが相手をゆだんさせるために、わざと、ヨボヨボの老人に変装していたのでしょう。
小泉氏はギョッとして、立ちすくんだまま、身動きすることもできません。ピストルをつきつけられては、もう手も足も出ないのです。
「ハハハ……、二十面相に手むかいしようとすれば、つまりこんなことになるんだぜ。わかったかい。その紙きれに書いてある命令を、忠実に守らなければ、おれはようしゃはしない。信雄は永久にこの世から姿を消してしまうんだ。よく思案をして、どちらともきめるがいい。信雄をすてるか、家宝を思いきるか。ついでにいっておくがね、二十面相は魔法使いだ。どんな姿をして、どこにかくれているかわからないのだ。きみがへんなまねをすれば、すぐにわかってしまうんだ。用心するがいい。ハハハ……、それじゃあ今夜の十二時に、きっとまっているぜ。」
老人はピストルをかかえたまま、ジリジリと、あとじさりをして、やがて、木のかげのやみの中へ、姿を消してしまいました。姿は消えても、その遠くのやみの中から、あのぶきみな笑い声が、だんだんかすかになりながら、いつまでもつづいているのでした。
小泉氏はしばらくのあいだ、何を考える力もなく、ぼうぜんと立ちつくしていましたが、やがて、ハッとわれにかえると、いまいましそうにつぶやきました。「おお、そうだ、わしは今の今まで二十面相と話をしていたのだ。今の老人こそ、二十面相の変装姿だったにちがいない。」
それから二、三十分ののち、小泉信太郎氏は、自邸の書斎の大机の前に腰をかけて、卓上電話の受話器をにぎっていました。
「もしもし、明智探偵事務所ですか、わたしは渋谷の小泉ですが、明智さんはご在宅ですか。」
小泉氏と明智探偵とは、同じ社交倶楽部の会員だったものですから、懇意というほどではなくても、二、三度話しあったこともあるあいだがらでした。
そういう関係から、信雄君が少年探偵団に加入したと聞いても、べつに心配もせず、明智探偵を信頼して、黙認していたわけです。こんなおそろしい事件がおころうとは、夢にも考えていなかったのです。
この事件は警察へ訴えるわけにはいきません。そんなことをすれば、あのすばしっこい二十面相のことですから、たちまち感づいて、どんなおそろしい仕返しをするかしれません。
そこで、小泉氏は、明智探偵に相談することを思いつきました。明智探偵ならば知りあいでもあり、ことに少年探偵団とは深い関係があるのですから、真剣になって、骨を折ってくれるにちがいないと考えたのです。やがて、電話口に明智が出たようすです。
「ああ、明智さんですか。わたし、小泉です。電話ではなはだ失礼ですが、じつは至急お力をお借りしたい事件がおこったのです。事件の内容は、電話ではなんですから、お目にかかってくわしく申しあげますが、ともかく、あなたのお力にすがるほかはない重大事件です……。え、おいでくださる? ありがとう。ではどうか。わたしの家は、あなたのところの小林君がよく知っておられるはずですから。じゃあ、お待ちします。」
ガチャンと受話器をかけて、小泉氏はホッとため息をつきました。明智探偵が、ちょうどうまいぐあいに事務所にいたのは、なによりのさいわいでした。明智なれば、たくみに賊をあざむいて、信雄も取りもどし、家宝の掛け軸もわたさないですむような、すばらしい手段を考えだしてくれるかもしれません。小泉氏はそう考えますと、いくらか気も落ちつき、青ざめきっていた顔にも、なんとなく生気がよみがえってくるように見えました。
ところが、小泉氏が電話にむちゅうになっていたあいだに、その書斎の一方にみょうなことがおこっていました。それはちょうど明智と話をしているさいちゅうでしたが、小泉氏の横手のガラス窓の外から、しらが頭に白いあごひげを生やした怪しげな老人の顔が、じっと室内をのぞきこんでいたのです。
窓の外は広い庭になっているのですが、いつのまに、どうしてしのびこんだのか、さいぜんの怪老人、つまり二十面相が、その庭から、小泉氏の電話をかけている姿を、まるで獲物をねらう蛇のような、執念ぶかい目つきで、じっと見つめていたのです。神社の森の中で、立ちさったように見せかけて、じつは小泉氏のあとをつけてきたのにちがいありません。
そして、小泉氏が受話器をかけるのを見ますと、ヒョイと首を引っこめて、庭のやみの中へ姿を消してしまいました。むろん小泉氏は、それを少しも気づかなかったのです。
二十面相の怪老人は、それから、庭の木立ちの間をくぐって、裏の塀ぎわにたどりつき、まるでサルのような身軽さで、塀を乗りこえました。塀の外は人通りもないさびしい裏町です。二十面相は何食わぬ顔で、その町を通りすぎ、にぎやかな商店街のほうへと急ぎました。そして、そこの四つかどの公衆電話にとびこみますと、いきなり受話器をつかんで、明智探偵事務所の番号をまわしました。
おや、これはどうしたというのでしょう。二十面相が明智探偵に電話をかけるなんて、思いもおよばぬへんてこなしわざではありませんか。いったいこれは何を意味するのでしょう。怪盗は、どんな悪だくみを考えだしたのでしょう。なんだかひどく気がかりではありませんか。
それはさておき、お話をもとにもどして、小泉邸では、その夜どんなことがおこったか、まずそれを記さねばなりません。小泉氏が明智探偵に電話をかけてから、二十分ほどもしますと、門前に自動車のとまる音がして、いつもながらかっこうのよい黒い背広姿の名探偵が、小泉邸をおとずれました。
待ちかまえていた小泉氏は、みずから出むかえて、明智を奥座敷に案内し、召し使いたちを遠ざけておいて、事のしだいをくわしく物語るのでした。すっかり聞きおわった明智探偵は、しばらくのあいだ無言のまま腕組みをして考えこんでいましたが、やがて顔をあげますと、何か妙案がうかんだらしく、たのもしげな口調で答えました。
「小泉さん、お引きうけしました。こんどこそあいつの鼻をあかしてお目にかけます。信雄君を取りもどすのはもちろん、雪舟の掛け軸もわたさず、そのうえあいつを引っとらえてごらんにいれます。じつをいうと、ぼくはこういうことのおこるのを待ちかまえていたのですよ。二十面相には、かさなるうらみがありますからね。こんどの事件は、ぼくにとって願ってもない機会です。それに信雄君は少年探偵団に加わっていたため、こんなめにあったのですから、ぼくにもじゅうぶん責任があるわけです。かならずぶじに取りもどしてお目にかけますよ。」
「ありがとう。それをうかがってわたしも安心しました。しかし、いったいどうして信雄を取りもどすのです。あなたには、二十面相のかくれががおわかりになっているのですか。」
「いや、それはぼくにもまったくわかりません。」
「では、どうして……? わたしには、あなたのお考えがさっぱり見当もつきません。」
「あいつは雪舟の掛け軸と引きかえに、信雄君を返すというのでしょう。」
「そうですよ。それですから、あの絵をわたさないかぎりは、信雄を取りもどす手段がないように思われますが。」
「ですから、その掛け軸をわたしてやるのです。」
「エッ、なんですって? それじゃあ家宝をあきらめろとおっしゃるのですか。」
「いや、雪舟の掛け軸をわたすわけではありません。それと似たべつの掛け軸でいいのです。お宅には賊にやっても、たいしておしくないような掛け軸がおありでしょう。その中から雪舟の掛け軸によく似たやつをえらんで、替え玉に使うのです。」
「なるほど、それはうまい考えですが、あいつがそんな手に乗るでしょうかね。中身をあらためないで受けとるようなへまをやるでしょうか。」
「ハハハ……、ただあたりまえにわたしたのでは、むろんばれてしまいますよ。ちょっと手品を使うのです。二十面相もなかなかの手品使いですが、ぼくもあいつに引けは取らぬつもりです。まあ、おまかせください。」
「しかし、手品を使うといって、その掛け軸はわたし自身で持っていかなければならないのですが。わたしにそんな手品が使えましょうかね。」
「ハハハ……、いや、あなたでは、失礼ながらだめですよ。その芸当はぼくでなくてはできないのです。」
「でも、あなたに代理をお願いするわけにはいかぬのですよ、わたし自身で持っていかねば、けっして信雄を返さないというのです。」
「それにはまた工夫があります。ぼくはこういうこともあろうかと、ちゃんと用意してきています。ここにその道具がはいっているのですよ。」
明智は、ひざのそばにおいてあった小さなカバンを手に取って、たたいてみせ、「ちょっと奥さんの化粧室を拝借ねがえませんか。」とみょうなことをいうのです。
「エッ、化粧室を? いったい何をなさるのです。」
「いや、今にわかりますよ。それから奥さんにお願いしたいこともありますから、ひとつご紹介くださいませんか。」
小泉氏は、何がなんだかわけがわかりませんでしたが、これにはさだめししさいのあることと、いわれるままに、夫人を呼んで、明智に引きあわせ、化粧室へ案内するように命じました。それから十五、六分もたったでしょうか。小泉氏はもとの座敷にすわったまま、たばこをすって待ちうけていましたが、すると、とつぜん縁がわの障子がスーッとあいて、だれかがはいって来るようすです。
小泉氏は物音に、ヒョイとそのほうをふりむきました。そして、縁がわからはいってくる人物を一目見ますと、アッとみょうなさけび声をたてて、思わず立ちあがってしまいました。それもむりではありません。そこには小泉氏と顔から背かっこうまで、寸分たがわぬ人物が、ニコニコ笑いながらつっ立っていたのです。まるで大きな鏡でも見ているように、すぐ目の前に自分自身の姿があらわれたのです。
小泉氏は、自分の目がどうかしたのではないかとうたがいました。夢でもみているのではないかとあやしみました。しかし、夢ではありません。そのもうひとりの自分は、ツカツカと座敷にはいってきたかと思うと、さいぜんまで明智のすわっていた座ぶとんの上に、ピッタリすわったではありませんか。
「ハハハ……、小泉さん、みょうな顔をしていらっしゃいますね。あなたにも見わけられないほど、そんなにうまく変装ができましたかねえ。ぼくですよ。明智ですよ。」その人物は、さもおかしそうに笑いながら種あかしをしました。
「ああ、そうでしたか。これはおどろいた。わたしは自分の頭がへんになったのかと、びっくりしたほどですよ。じつによくできています。まるで鏡を見ているような気がします。」
「ハハハ……、さいぜんお話を聞いているあいだに、あなたのお顔の特徴を、よく心にきざみつけておいたのですよ。そして用意してきたつけひげをはったり、モジャモジャの頭をうまくなでつけたり、ふくみ綿をしたり、顔に変装用の化粧をしたり、そのほかいろいろの秘術をつくしたのです。この着物とじゅばんは奥さんにお願いして、あなたのを出していただいたのですよ。どうです、これなら替え玉がつとまるでしょう。」
「おや、声までまねましたね。じつにおどろきました。あなたにこれほどの変装の腕まえがあろうとは、思いもよりませんでしたよ。大じょうぶです。それなら、どんな相手だって、見やぶることはできますまい。」
「ハハハ……、あなたがうけあってくだされば、これほどたしかなことはない。それじゃあ、この風体であなたの替え玉になって、二十面相のやつをおどろかせてやりますかな。ところでこんどは掛け軸のほうの替え玉ですが、ひとつその雪舟の名画というのを拝見したいものですね。そのうえで、なるべく相手に気づかれぬような替え玉をえらぶことにしましょう。」
「承知しました。じゃあ、わたしといっしょに土蔵の中へおいでください。」小泉氏は明智のみごとな変装ぶりにすっかり感心して、このちょうしなら万事うまくいくにちがいないと、もうホクホクもので、みずから懐中電灯を持って、先に立つのでした。
さすがに国宝がおさめてあるだけに、土蔵の戸締まりは、じつにげんじゅうなものです。まず錠まえをはずして、鉄の大とびらをひらき、その内がわの重い金網ばりの板戸をあけ、土蔵の奥にはいって、そこにドッシリとすえつけてある金庫のような鋼鉄製の箱を、暗号文字にあわせて、ひらかなければならないのです。小泉氏はその鋼鉄箱の中のたなの上から、細長いキリの箱を取りだして、ていねいにそれをひらき、宝物の雪舟の掛け軸をひろげて、明智に見せるのでした。
「フーン、たいしたものですね。ぼくは絵のほうはまったくしろうとですが、これほどの名画になりますと、やはり心を打たれますね。この筆勢のみごとなことはどうでしょう。なるほど、これなら二十面相がほしがるのもむりはありませんよ。あいつは美術にかけてはくろうとはだしの鑑賞眼を持っているのですからね。」明智は、小泉氏のひろげている掛け軸の上に、懐中電灯をかざしながら、感にたえたように見いるのでした。
「なにしろ七代まえの先祖から伝わっている、由緒正しい品ですからね。わたしも、この家宝をわたさずにすめば、こんなありがたいことはないのです。もし首尾よくいきました節は、じゅうぶんお礼するつもりでおります。」
「いや、そんなことはご心配くださいませんように。こんどの事件は、あなたのためというよりは、ぼく自身のふくしゅうのために、ぜがひでもあいつをやっつけなければ、がまんができないのです。では、この軸と同じ寸法の、なるべく外見の似た替え玉をさがしていただきましょうか。」
明智が絵の前をはなれますと、小泉氏は掛け軸をていねいに巻きおさめながら、
「いや、それならば、もうちゃんと目ぼしをつけてあります。待ってください。えーと、これですよ。これは表装だけはりっぱですが、名もない画家の作です。あいつに取られても、いっこうおしくないしろものです。」と、土蔵の壁に取りつけたたなの上から、うす黒くよごれたキリの箱を取って、明智に手わたすのです。
明智は、それをひらいて中の掛け軸を少しひろげ、懐中電灯の前でちょっと見たまま、もとのように巻いて、雪舟の軸のそばにならべておきました。
「ウン、軸も同じような色あいの象牙だし、表装の古び方もよく似ています。これなら申し分ありません。これにきめましょう。おや、両方とも箱の上に画題が書いてありますね。これじゃあ箱だけはほんものを使わないと、すぐ見やぶられてしまう。では、まちがわぬように、このにせものを本物の箱へ、雪舟のほうをにせものの箱へ入れかえておきましょう。さあ、これでよしと。こちらがほんものの雪舟です。箱がかわっているので、なんだかへんですが、まちがいありません。もとの場所へおおさめください。」
小泉氏は明智のさしだすキリの箱をそのまま受けとって、鋼鉄箱のたなにおさめ、とびらをしめて、符号の文字盤をまわしました。
ふたりは土蔵を出て、締まりをしますと、またもとの座敷にもどり、明智は小間使いが持ってきたちりめんのふろしきに、にせもののキリの箱をたいせつそうに包みました。そうしてすっかりじゅんびがととのったのは、もう十時ごろでした。
それから主人のじまんの古いぶどう酒がぬかれ、かんたんな西洋ふうのつまみものが運ばれて、グラスを手にしながら、何かと話しているうちに、やがて出発の刻限がきました。
「おお、もう十一時半です。ボツボツ出かけなければなりません。約束の時間におくれてはたいへんですからね。それじゃ行ってきます。かならず信雄君は連れて帰りますから、どうかご安心ください。」小泉氏になりすました明智は、あいさつをして立ちあがりました。小泉氏は、くれぐれもまちがいのないようにと、念をおしながら、わざわざ門の外まで名探偵のかどでを見送るのでした。
明智を見送って座敷に帰った小泉氏は、もう気が気でありません。うまく信雄を取りもどしてくれるかしら、もしや掛け軸がにせものとわかって、あの子がおそろしいめにあうようなことはないかしらと、立ったりすわったり、時計の針ばかりながめくらすのでした。
信雄君のおかあさまの小泉夫人とて同じことです。小泉氏のそばにすわって、おたがいの青い顔、おびえた目を見かわしながら、ものをいう元気もなく、時のたつのを待つばかりです。十分、二十分、三十分、ああ、なんという待ちどおしい、長い長い時間だったでしょう。おかあさまなどは、あまり胸がドキドキするものですから、このまま重い病気にかかって、死んでしまうのではないかとお思いになったほどです。
しかし、とまっているのではないかと思うほど、のろい時計も、いつのまにか針が進んで、やがて夜中の一時まぢかくなったときでした。待ちに待った、玄関のこうし戸のベルの音がして、女中の立ちさわぐけはいがしたかと思うと、だれかが廊下をバタバタと走ってくる音が聞こえました。
「まあ、信雄さんじゃありませんか。」おかあさまは、いきなり縁がわの障子をひらいて、ころぶようにそのほうへ走りよりました。
「おかあさん!」うわずった少年のさけび声がして、おかあさまともつれあうようにしながら、座敷へとびこんできたのは、やっぱり信雄君でした。
「おお、信雄か。」小泉氏も思わず立ちあがりました。
「よく帰ってきたねえ。どんなに心配したかしれやしないよ。で、明智さんは……。」
「エッ、明智さんですって。」信雄君は、けげんな顔で聞きかえしました。
「おや、それじゃ、おまえは明智さんには会わなかったのかい。明智さんはね、おとうさんとそっくりの姿に変装して、二十面相のところへ、おまえを取りもどしにいらしったのだよ。おまえ、それを気づかなかったのかい。」
信雄君は夕方からの疲労のために、グッタリと部屋のまんなかにすわったまま、おとうさまを見あげて、いっそうふしぎそうな顔をしました。
「ぼく、そんな人に会いません。おかしいな。」
「それじゃ、おまえはどうして、逃げだしてくることができたのだい。むろんおまえは、今まで二十面相のところにとりこになっていたんだろう。」
「ええ、そうなんです。おとうさん。ぼくの書いた手紙ごらんになりましたか。あれ、二十面相に脅迫されて、むりに書かされたんです。でも、書いてあることは、うそじゃないのです。ぼくは思いだしても、ゾッとするような、おそろしいめにあわされたんです。」
そして、信雄君は、夕方からのできごとを、どもりどもり、かいつまんで物語りました。
おとうさまもおかあさまも、信雄君の話が進むにつれて、まるで、そのおそろしい動く天井が、いま、目の前で、わが子の頭上に落ちてでもくるかのように、ハラハラしながら、手に汗をにぎって聞きいるのでした。
「そしてね、ぼくにあの手紙を書かせると、二十面相はどっかへ行ってしまって、いくら待ってもその、みょうな部屋から出してくれないのです。天井はもう落ちてこなくなったけれど、ぼくは、このまま飢死にするんじゃないかと、どんなにおそろしかったかしれやしない。長い長いあいだ、ほんとうに、ぼくは一月もたったように思ったけれど、まだ同じ日の夜だったのですね。今から三十分ほどまえにね、とつぜんその鉄の部屋のドアのそとに、カチカチっていう音がしたんです。
二十面相がドアのかぎをまわして、ひらくようにしたんですよ。そしてね、さあ、もういいから帰れって言うんです。で、ぼくはいきなりドアをひらくと、外へとびだしたんだけれど、もうそのへんにはだれもいないのです。二十面相は、どっかへ姿をかくしてしまったんです。
ぼくはこわくってしょうがないので、そのままいっしょうけんめいに玄関のほうへかけだしちゃった。するとね、ぼくのうしろから、追っかけるように、あいつのしわがれ声がひびいてきたんです。わすれられやしない。おうちへ帰ったら、おとうさんにこう言うんだって、あのね、おとうさんにね、すぐ明智探偵のところへ電話をかけなさいって。」
「フーン。明智さんのところへ電話をかけろって? それはいったいどういうわけだろうね。あいつがでたらめを言ったんじゃあるまいね。」
「そうじゃありません。同じことを二度も三度も、ぼくが玄関を出るまで、うしろからどなっていたんですもの。これはたいせつなことだから、わすれるんじゃないって。」
「そうか。それじゃあ、ともかく電話をかけてみよう。明智さんのことも心配だからね。たぶんまだ帰っていないだろうが、今ごろまで何も報告してこないのはおかしいよ。」
小泉氏はおかあさまと信雄君を座敷へ残したまま、急いで書斎に行って、卓上電話で明智の事務所を呼びだしました。すると意外にも、明智探偵は事務所にいるという返事で、まもなく電話口に明智の声が聞こえてきたではありませんか。
「信雄は今帰りました。どうもお骨折りありがとう。わたしは、あなたがこちらへお立ちよりくださることとばかり思っていましたが……。」
「え、なんですって? おっしゃることがよくわかりませんが、なにかのおまちがいじゃありませんか。」
明智はみょうな返事をしました。
「いいえ、あなたのおかげで子どもがぶじに帰ったと申しあげているのですよ。」
「それがわからないのです。わたしはある用件で外出して今帰ったところですが、あなたの子どもさんのことなど、少しもぞんじませんよ。ああ、そうそう、夕方あなたから、何か重大な相談があるからって、お電話がありましたね。しかし、すぐそのあとから、あなたご自身で、もう来るにはおよばないって、また電話だったものですから、わたしはほかの用件で外出したのですよ。」
「エッ、わたしが二度お電話しましたって。」
「そうですよ。おわすれになったのですか。」
「それはへんです。わたしは一度お電話したばかりです。いや、そんなことよりも、あなたは、ちゃんとああして、わたしのお宅へおいでくださったじゃありませんか。そして、このわたしに変装なすって、例の掛け軸を……。」
「もしもし、どうもぼくにはふにおちないことばかりです。これには何かしさいがあるのかもしれません。いったい何があったのですか。お子さんがどうかなすったのですか。」
小泉氏はそれを聞くと、なんともいえぬおどろきのために、まっさおになってしまいました。
「それじゃあ、あなたは、わたしの宅へは、一度もいらっしゃらなかったというのですか。」
「そうです。一度もおうかがいしません。ところがあなたのほうでは、わたしがおうかがいしたとおっしゃるのですね。おかしいですね……。もしや、これは例の二十面相に関係のあることではありませんか。」
「そうです。二十面相が、子どもを監禁したのです。しかし、その子どもは今、別状なく帰宅しましたがね。それにしても、どうもふにおちぬことがあるのですが。」
二十面相と聞きますと、電話口の明智の声のちょうしが、にわかにかわりました。
「待ってください。こんなことを電話でお話しするのもなんですから、おそくてもおかまいなければ、わたし、今からおじゃましたいと思いますが。」
「そうですか。そうしてくだされば、わたしのほうもたいへんありがたいのですが。ではお待ちしますから、すぐいらしってください。」
受話器をかけて、小泉氏はキツネにでもつままれたような顔で、イスにかけたまま、しばらくは身動きもしないでぼんやりしてしまいました。
それから三十分ほど後、つまり深夜の一時半ごろなのですが、小泉氏の応接室には電灯が、あかあかとついて、そこの丸テーブルのまわりには、いま自動車でかけつけたばかりの明智探偵と助手の小林少年、主人がわの小泉氏と信雄君の四人が、ひたいを集めて、ねっしんに話しあっていました。
「いったいこれはどうしたことでしょう。わたしには何がなんだかさっぱりわけがわかりませんよ。あなたのお話をうかがってみると、さいぜんの明智さんは、にせ者だったとしか考えられません。それにしても、今こうしてお話しているあなたと、まったくそっくりの人物でしたよ。ああまでよく似た替え玉があるものでしょうかね。」
小泉氏は明智探偵のことばを信じないようなおももちでした。
「そのにせの明智が、さらにまたあなたに変装したのですね。その変装ぶりはどうでしたか。」明智がたずねますと、小泉氏はびっくりしたような顔をしました。
「おお、そういえば、じつにふしぎです。その男は、たった十分か二十分の間に、こんどはわたしとそっくりの姿に化けてしまったのです。あいつはまるで化けものです。自由自在に顔形がかえられる怪物です。」
「そうですよ。この東京にたったひとり、そういうふしぎな芸当のできる男がいるのです。たしかにあいつは二十のちがった顔を持っている怪物ですよ。」
「エッ、なんですって、ではあいつが……。」小泉氏はギョッとしたように、顔色をかえてさけびました。
「そうですよ。二十面相というやつは、そういう大胆不敵なまねをして喜んでいるのです。そんなたくみな変装のできるやつが、ほかにあろうとは考えられません。むろんあいつ自身がぼくに化けてお宅へやってきたのですよ。あいつは、あなたがぼくに電話をかけられたのを知って、すぐそのあとから、あなたの声をまねて、ぼくのところへ取りけしの電話をかけたのですよ。そうしておいて、ぼくの替え玉になって、ここへやってきたのです。」
読者諸君はこの明智のことばによって、思いあたるところがおありでしょう。夕方、怪老人に化けた二十面相が、小泉氏の電話を立ちぎきして、そのまま近くの公衆電話へかけこんだのには、そういう目的があったのです。
「しかし、どうもおかしいですね。にせ者にもせよ、あの男はわたしに好意を示して、雪舟の名画を賊にわたさないでもすむように取りはからってくれたんですよ。にせの掛け軸を持って二十面相に会いに出かけていったのですよ。二十面相が、二十面相自身をだますなんて、これはいったい、どうしたというのでしょう。」
小泉氏はやっぱりふにおちぬていです。
「お気のどくですが、だまされたのは二十面相ではなくて、あなただったのです。」明智が何もかも知りぬいているように答えました。
「エッ、わたしがだまされたといいますと……。」
「ほんものの雪舟の掛け軸は、どこにおしまいになってあるのですか。」
「蔵の中ですが、蔵の中に金庫がすえてあって、その中にげんじゅうに入れてあるのです。」
「それじゃあ、その金庫をひとつしらべてくださいませんか。おそらく雪舟の掛け軸は、もうなくなっていると思います。」
「エッ、なんですって、あなたは、どうしてそんなことが……。」
「まあ、とやかくいっているよりも、早く金庫の中をたしかめてごらんなさるほうがいいでしょう。」明智の確信のあるらしいことばに、小泉氏はもうまっさおになってしまって、「では、ちょっと失礼。」といいすてて、あたふたと応接室を出ていきました。むりはありません。その掛け軸は国宝にまで指定されている家宝なのですから。
そして、しばらくしますと、ドアのところに、がっかりとしょげかえった小泉氏の姿があらわれました。
「明智さん、やっぱりおっしゃるとおりでした。わたしはまんまといっぱい食わされたのです。あいつの手品に引っかかったのです。賊に信用させるために、にせものをほんものの箱へ入れかえて持っていったのですが、その入れかえをするとき、あいつは手品を使ったのにちがいありません。今見れば、金庫の中のその箱には、あいつの持っていったはずの、にせもののほうがはいっているのです。ああ、こんなことと知れば、もっと用心するのでしたのに、取りかえしのつかぬこととなってしまいました。」小泉氏は、そう言いながら、グッタリと安楽イスに身を投げて、腕組みをしたままうなだれてしまいました。
小泉氏は落胆のあまり、しばらくは口をきく力もないように、だまりこんでいましたが、やがて、顔をあげますと、思いあまったようにいうのでした。
「明智さん、あいつはなるほど約束をはたしました。掛け軸をぬすんでいったかわりに、ちゃんと信雄を返してくれたのです。しかし、ただの名画ならば、信雄のぶじにめんじて、あきらめてしまうのですが、あの雪舟は国宝なのですからね。わたし自身の損失だけではすまないのです。日本の美術界にたいしても申しわけがないのです。明智さん、なんとかあれを取りもどす工夫はないものでしょうか。」
明智探偵は、気のどくそうに、主人の顔を見ながら、考え考え答えました。
「今となっては、どうもむずかしいように思います。たとえ、あいつのかくれがへふみこんでみたところで、おそらくもぬけのからでしょう。しかし、さいわい、信雄君が、その家を知っていらっしゃるのだから、これからすぐ出かけていって、いちおうしらべてみるのもむだではありますまい。信雄君、きみはこれから、ぼくと小林君とを案内して、そのあやしい洋館へ連れていってくれることができますか。」
「ええ、先生や小林さんといっしょなら、ぼく、こわくありませんから、ご案内します。家はよくわかっています。」信雄君は、さいぜんおかあさまの心づくしのごちそうで、ペコペコになっていたおなかがふくれたので、なかなか元気です。それに、日ごろ尊敬する明智探偵の案内役というのですから、にわかに勇みたつのでした。そこで、小泉氏とも相談のうえ、明智探偵と小林少年と信雄君の三人は、明智の待たせておいた自動車に乗って、夜ふけの町を世田谷区池尻町へと出発しました。
例の洋館の百メートルもてまえで車をおりて、なにげない通行人のような顔をして、門の前まで歩いていきますと、門のとびらは、二時間あまりまえに、信雄君がにげだしたときと同じように、ひらいたままになっていました。
「やっぱり、二十面相はもうここにはいないのだ。しかし、ともかく、家の中をしらべてみよう。どんな手がかりがつかめないともかぎらないからね。」明智探偵は、そんなことをささやきながら、先に立って門内へはいっていきます。
玄関のドアはしまっていましたが、とっ手をひねりますと、なんなくひらきました。見れば、中はまっくらで、まったくあき家の感じです。
「小林君、懐中電灯だ。」明智のさしずで、小林少年の手が、やみの中に動いたかと思いますと、正面の壁にパッとまるい光があらわれました。
明智はその光で、電灯のスイッチをさがして、おしてみましたが、どうしたことか、何度やっても、電灯はつきません。二十面相は、信雄君が帰宅すれば、きっとこの家へ、だれかが捜索にふみこんでくると察して、用心ぶかくおおもとのスイッチを切っておいて、逃げさったのにちがいありません。
「しかたがない。懐中電灯の光で、もう少し奥のほうへはいってみよう。小泉君、きみが監禁された鉄の部屋というのは、どのへんだね。」
「ずっと奥のほうですよ。この廊下を行けばいいんです。ぼく、ご案内しましょう。」信雄君はそういって、小林少年の懐中電灯をかりますと、それをふりてらしながら、ソロソロと廊下を歩きはじめました。
信雄君は、長い廊下をたどるあいだじゅう、今にもどこからか、三角ひげの蛭田博士が、ヌーッと顔を出して、ピストルをつきつけるのではあるまいかと、もうビクビクものでしたが、さいわいそんなこともなく、やっと例の動く天井の小部屋をさがしあてました。
「ウン、これだね。この中にとじこめられて、天井がだんだんさがってきたときには、さだめしこわかっただろうね。なんというおそろしい拷問道具を考えだすやつだろう。」明智探偵は小声でそんなことを言いながら、部屋の裏にまわって、天井を動かすしかけをしらべたり、部屋の中へはいって、懐中電灯で床や壁をあらためたりしていましたが、べつに手がかりになるような発見もなかったとみえ、ふたりの少年をうながして、家中の部屋部屋を、かたっぱしからしらべはじめました。
どの部屋のドアにもかぎはかかっていませんでしたので、なんの手数もなく、三人はつぎつぎと部屋にはいって懐中電灯の光を壁や床に投げかけましたが、家具も調度もないガランとした部屋ばかりで、紙きれ一枚落ちてはいませんでした。そうして、三部屋ばかり、たんねんにしらべおわった三人は、こんどは建物の中央にある、いちばん広い部屋へはいっていきました。
ところが、先頭に立った明智探偵が、一歩部屋の中へはいったかと思うと、とつぜん、じつにとつぜん、どこからともなく、人の笑い声が聞こえてきたではありませんか。ワハハハ……という高笑いです。まったくのあき家とばかり思いこんでいた、まっ暗やみの部屋の中で不意うちに、人の笑い声を聞いたときの、三人のおどろきはどれほどだったでしょう。
さすがの明智探偵も、思わず立ちどまってしまいましたし、信雄君の手にする懐中電灯の光は、持ち主の心のさわぎを白状するように、はげしくゆらめきました。
数時間まえに、あんなおそろしいめにあった信雄少年は、心の中で「ソラ、出た!」とさけんで、もう逃げ腰になっていました。暗いので人には見られませんでしたが、その顔は、きっと幽霊のようにまっさおになっていたにちがいありません。
「ワハハハ……、明智君、ご苦労さまだね。国宝を取りもどしに来たのかね。それともこのおれをとらえるためにやってきたのかね。お気のどくだが、おれは、まだきみみたいなヘボ探偵につかまるほど、もうろくはしないつもりだよ。ワハハハ……。」やみの中の声は、人もなげに笑いました。
おお、二十面相です。逃げさったとばかり思っていた二十面相は、まだこのあき家のような建物の暗やみの中に身をひそめて、一ぴきのおそろしい野獣のように、好敵手明智小五郎を待ちかまえていたのです。
明智探偵はそれを聞きますと、サッと身がまえをして、信雄君の懐中電灯をひったくるように手にとり、いきなり声のするほうへさしつけました。
しかし、その部屋には、何者の姿もありません。今までの三つの部屋と同じがらんとした、あき部屋なのです。ああ、そうです。この部屋はほかの部屋とちがって、はいったところにひかえの間があって、その向こうにもう一つ奥の間がついているのです。今、懐中電灯の光の中に、さかいのドアがあらわれてきました。二十面相は、そのドアの向こうがわでしゃべっているのです。
二十面相の、この大胆不敵なふるまいには、何かわけがなくてはなりません。奥の間の暗やみの中で、何か想像もつかないような、おそろしいたくらみをして三人がはいっていくのを待ちかまえているのではないでしょうか。
信雄君はそれを考えますと、化けもの屋敷にでもいるような、一種異様のおそろしさに、ゾーッと背すじが寒くなって、心臓が早鐘のようにドキドキしはじめました。
しかし、さすがに明智探偵は少しもおそれるようすはなく、つかつかとさかいのドアに近づいて、いきなりそれを引きあけました。そして、懐中電灯をふりてらしながら、広い奥の間へとふみこんでいきます。小林少年も元気よくあとにつづきました。それを見ては、いくらきみが悪くても、もうぐずぐずしているわけにはいきません。あとで小林君に笑われたりしては、少年探偵団の恥辱です。信雄君は死にものぐるいの勇気をふるいおこして、おずおずとふたりのあとにしたがいました。
こんなふうに書きますと、二十面相の声が聞こえてから、三人が奥の間にふみこむまで、かなりてまどったように感じられますが、ほんとうは一秒か二秒の、ひじょうにすばやい行動でした。
二十面相のぶきみな声は、そのあいだもたえずつづいていました。
「おい、明智君、おれはゆかいでたまらないのだよ。うらみかさなるきみの手下の子どもたちを、ひとりひとり、思うぞんぶんいじめながら、しかもそのうえ、ごほうびとして、りっぱな宝物までちょうだいできるんだからね。おれはこれからも、このわりのいい商売を、けっしてやめないつもりだよ。まだお礼をしない子どもが、小林君をはじめ半分も残っているんだからね。
そして、それがすんだら明智君、きみの番だぜ。おれはきみへのお礼は、いちばんあとまわしにするつもりだ。できるだけのばしたほうが楽しみが深いからねえ。ワハハハ……。明智君、そのときになって泣きっつらをしないように今から覚悟をしておくがよかろうぜ。」
明智は部屋にふみこむと、ものもいわず、声のするほうへ懐中電灯を向けましたが、これはふしぎ、この部屋もやっぱりあき家のように、ガランとしていて、二十面相の姿はどこにも見えません。
窓はちゃんとしめてありますし、三人がはいっていったドアのほかには出入り口もないようすです。といって、何かのかげにかくれようにも、机もイスも何もおいてないあき部屋ですから、かくれる場所がありません。三人はまっくらな広い部屋の中を、あちこちと見まわしていましたが、やがて、小林少年が、なにに気づいたのか、「アッ、あすこにだれかいます。」と小声でさけびながら、明智の手から懐中電灯をとって、部屋のいっぽうのすみを照らしました。
すると、そのまるい光の中に、みょうな物があらわれてきました。西洋のむかしの甲冑です。兜も鎧もぜんぶ鉄でできた、絵にある騎士の着ているような、にぶい銀色の甲冑が、直立の姿で飾ってあったではありませんか。あまりすみっこなので、今まで少しも気づかなかったのです。
道具といっては何ひとつないあき部屋に、思いもよらぬ西洋の鎧が、たった一つおいてあるのがじつにうすきみの悪い感じでした。
それと見ると、明智探偵は、その飾り物をよくしらべるために、つかつかとその前に進みましたが、鎧から一メートルほどのところへ近づいたときでした。またしても、あの笑い声が、広い部屋に反響して、ものおそろしいひびきをたてたのです。その声が、あまり大きかったものですから、明智探偵は思わず一歩あとじさりをしました。すると、笑い声はぴったりやんでしまいました。
また鎧に近づこうとしますと、まるで待ちかねていたように、笑い声がひびきはじめます。
いったいその声はどこから出てくるのでしょうか。どうやら鎧の中からのようです。しかも、兜とほおあてにかくれた、その顔の部分からのようです。ああ、飾り物の鎧が笑っているのです。いや、鎧が笑ったり、ものをいったりするはずはありません。むろんその中には人間がはいっているのです。飾り物ではなくて、人間が鎧を着て、兜をかぶって立っているのです。それはいったい何者でしょう。いわずとしれた二十面相にちがいありません。
それと気がつくと、明智はキッと身がまえをして、甲冑のお化けをにらみつけました。小林少年と信雄君とは、思わずおたがいに手をにぎりあって、身をすりよせました。
鎧は今にも歩きだすことでしょう。そして、腰にさげた剣をぬいて、いきなり三人に切りつけるのではないでしょうか。いや、そんなありふれたまねをする二十面相ではありません。鎧の中にどんなおそろしい、悪だくみをかくしていないともかぎりません。明智探偵は、身がまえをしたまま、またまたジリジリと鎧のほうへ進みました。そして、ある距離まで近よりますと、鎧はじっとつっ立ったまま、ゲラゲラと笑いだしました。しかし、明智はこんどはあとじさりをしないで、そこにふみとどまって、いつまでも相手をにらみつけていました。
すると、二十面相のほうも、まるで根くらべのように、少しも身動きをせず、笑いつづけているのです。あんなによくも笑えたものだと思うほど、少しのたえまもなく、さもおかしくておかしくてたまらないように笑いつづけているのです。いったいこれは、どうしたというのでしょう。二十面相は気でもちがったのではありますまいか。
ところが、やがて、またしてもギョッとするようなことがおこりました。二十面相ばかりではなく、明智探偵までが、気ちがいがうつりでもしたように、いきなりゲラゲラと笑いだしたではありませんか。信雄君は、あまりのきみ悪さに、ふるえあがってしまいました。
「先生、どうなすったのです。何がおかしいのです。」たまりかねた小林少年が、探偵の腕にすがってさけびました。
しかし、明智は笑いやみません。それどころか、いっそう大声をたてて、腹をかかえて、笑いこけるのです。
「アハハハ……、じつにおかしい。小林君、ぼくらはかかしにおどかされていたんだよ。ここには、ぼくらのほかにだれもいやしない。この家はまったくのあき家なのさ。」
ああ、いよいよ明智は頭がへんになったのではないでしょうか。げんに二十面相の声を聞きながら、ここにはだれもいないなんて、どうしてそんなことがいえるのでしょう。
「でも、先生、その鎧の中に、だれかいるじゃありませんか。」小林君が、先生を正気づけるように言いますと、明智はまたも笑いだして、
「ハハハ……、ところが、鎧の中にはなんにもいやしないのさ。きみはまだ気がつかないのかね。よし、それじゃあ、ひとつぼくが声のぬしを見せてあげよう。」明智はみょうなことを言いながら、もう、なんの身がまえもせず、すばやく鎧のそばに近づいて、いきなり、その兜をはねのけました。兜はまるで首を切られでもしたように、コロコロと床の上をころがりましたが、そのあとには何もないことがわかりました。つまり鎧は首なしの胴体ばかりで、やっぱり笑いつづけているのです。お化けです。首がなくても声の出る化けものです。明智はそれにかまわず、こんどは鎧の胴をだくようにして、すっぽりと上にぬきとりました。「ごらん。声のぬしは、ここにいるんだよ。」明智の指さすところを見ますと、今ぬきとった鎧の胴のあとに、ああ、なんということでしょう。小型のテープ・レコーダーがくくりつけられ、テープが、グルグルまわっていたではありませんか。
二十面相の、人をこばかにしたいたずらです。彼は明智が、かならずここへやってくるのを察して、明智をからかうために、「おれをとらえようとすれば、こんなめにあうんだよ。」といわぬばかりに、手数のかかるいたずらをしておいたのです。
あとでしらべてみますと、テープ・レコーダーから廊下の入り口のドアの内がわと、鎧の前一メートルほどの床の上に、電線が引いてあって、だれかがそれをふめば、テープ・レコーダーのテープが回転するという、たくみなしかけがほどこしてあることがわかりました。かくして、怪人二十面相は、またしても完全に凱歌を奏しました。たとえこの事件に、最初から関係していなかったとはいえ、明智は、ふたたび二十面相のために、おくれをとったのです。
「小林君、信雄君も、よくおぼえておいてくれたまえ。ぼくはかならずあいつをとらえてみせる。この手であいつの首っ玉をおさえつけてみせる。こんなにばかにされては、もうがまんができないのだ。今から一ヵ月以内に、いいかね、一ヵ月以内だよ。ぼくはきっときっと、二十面相を刑務所に送ってみせるよ。」どんな大敵に出あっても、いつもニコニコ笑っている名探偵も、このときばかりは、目を怒らせ、歯を食いしばって、怪人二十面相へふくしゅうをちかうのでした。
しかし、二十面相のほうでも、少年探偵団員へのふくしゅうを、まだまだつづけると宣言しています。
いや、そればかりか、明智探偵までも、同じように、おそろしいめにあわせてやると、今もテープ・レコーダーがしゃべったばかりです。ああ、日本一の名探偵と希代の怪盗とのたたかいは、いよいよ、その絶頂にたっしようとしています。明智勝つか、二十面相勝つか。その決戦の日こそ待ちどおしいではありませんか。
それ以来、明智探偵はもちろん、警察でも、ねっしんに捜索をつづけたのですが、二十面相はどこへかくれてしまったのか、まったくゆくえがわからなくなってしまいました。かならず、少年探偵団員のぜんぶにふくしゅうしてみせると、あれほど広言しておきながら、まるでものわすれでもしたように、どこかへ消えうせてしまったのです。
では、二十面相は、もうふくしゅうはあきらめたのでしょうか。そして、捕縛されるのがこわさに、東京から逃げだしてしまったのでしょうか。いやいや、ゆだんはできません。相手は、何しろ魔法使いのような怪物です。ふくしゅうをあきらめたと見せかけて、そのじつは、この東京のどこかのすみに身をひそめ、じっと時機のくるのを待っているのかもしれません。そして、こんどこそ、世間の人をアッといわせるようなおそろしい、計画をたてているのかもしれません。
二十面相が姿をかくしてから二十日ほど後のことでした。ちょうど日曜日と祭日とがつづいて、お休みが二日つづいたので、少年探偵団員たちは、うちそろってハイキングに、出かけることになりました。
少年たちは、二十面相が、ちっとも姿をあらわさないものですから、たいくつでしかたがなかったのです。それに、春もおわりに近い、ハイキングにはもってこいの好季節です。元気な団員たちは、なんだかじっとしていられないような気持ちでした。探偵の仕事がなければ、せめて山登りでもして、思うぞんぶん、はねまわってみたかったのです。
少年たちは、一週間もまえから、こんどの二日つづきのお休みには、どこへ出かけようかと、楽しい相談をはじめていましたが、団員の桂正一君と篠崎始君とが、奥多摩の鍾乳洞を探検しようじゃないかと、ねっしんに主張しました。
桂君と篠崎君とは、同じ中学校の一年生でしたが、同級生に、ごく最近、大学生のにいさんにつれられて、その鍾乳洞へ出かけたものがあって、その少年が洞くつの中のものすごさを、いろいろと話して聞かせてくれたものですから、ふたりはもうむちゅうになってしまったのです。
少年探偵団員たちは、深さも知れない洞くつの探検と聞いて、大喜びで賛成しました。冒険が何より好きな少年たちのことですから、むりもありません。そして、お休みのハイキングは、奥多摩のN鍾乳洞と一決したのでした。
少年たちのハイキングには、少し道のりが遠いのですけれど、同勢十人のうえ、おとなもおよばぬ、しっかりものの小林芳雄君が、団長としてつきそっていくのですから、団員のおとうさまおかあさまたちも、安心して、このハイキングをおゆるしになりました。当日の日曜日の朝は、みな暗いうちから大さわぎをして、リュックサックをせおい、水筒をさげ、おとうさまの古ステッキなどを持って、登山姿りりしく、新宿駅に集合しました。
中央線で一時間ほど、それから支線に乗りかえて、また一時間あまり、その終点でおりますと、こんどは川ぞいの道をバスにゆられて、約三十分、それから先は、もう車の通らない細い山道です。
自動車をおりた少年探検隊は、小林団長を先頭に、総勢十一人、足にまといつくくまざさをわけて愛国行進曲を合唱しながら、勇ましく進んでいきました。
いっぽうは見あげるばかりの若葉の山、いっぽうは深い谷川です。その谷川をへだてて、向こうがわには、やはりモクモクと若葉のしげった山がそびえています。足の下には、ごうごうとひびく水音、その水音をぬうようにして、たえまのない小鳥のさえずり、ウグイスの鳴き声、一点の雲もなく晴れわたった空からは、木々の若葉をとおして、まだ午前中の日光が、さんさんとふりそそいでいます。
「ワッ、おどろいた。なんだかぼくの足のそばからとびだしていったよ。」
「ワッ、ウサギだ。ほら、あすこ、あすこ、ああ、もう見えなくなった。」
「ほんとうかい。」
「うそなもんか。ネズミ色の耳の長いやつが、ピョンピョンとんでいったんだよ。このへんにはウサギの穴があるのかもしれないねえ。」
「ウサギならいいけど、クマが出やしないかなあ。」
「大じょうぶだよ。こんなところへクマなんか出るもんか。」
「フン、クマ公が出たら、ぼくが金太郎のように角力をとって、いけどりにしてやるんだがなあ。」相撲選手の桂正一君がじょうだんを言いますと、十一人が声をそろえて、ワアワアと笑い興じるのでした。
歌ったり、とんだり、はねたり、元気な少年たちのことですから、十キロあまりの山道を、少しもつかれないで、お昼すぎには、もうN鍾乳洞の前についていました。鍾乳洞の入り口の少してまえに、一軒のきたない山小屋がたっていて、その軒先に果物やお菓子やラムネなどが少しばかりならべてあります。少年たちがそこを通りかかりますと、家の中から、モンペをはいた山男のようながんじょうなじいさんが、ニコニコしながら出てきました。
「おめえさん方、鍾乳洞を見物に来ただか。」じいさんは日に焼けた赤銅色の顔を、しわだらけにして、少年たちに呼びかけました。
「ええ、そうです。きょう、ぼくたちより先に、見物に来た人がありますか。」小林少年がやはりニコニコして、じいさんにたずねました。
「いいや、ひとりも来ねえだよ。鍾乳洞はこのごろさびしがっているだ。おめえさん方、学校の遠足かね。子どもばっかりで、こんな山の中へよくやってきただな、道でモモンガに出っくわさなかっただか。」
「ハハハ……、モモンガってなんです。山のお化けですか。そんなもの、ぼくたちの威勢におそれて、向こうで逃げていきますよ。ぼくたちは少年探検隊なんですからね。」茶目の桂君が肩をいからせて、いばってみせますと、じいさんも声をたてて笑いました。
「おじいさん、こんなところに、お菓子なんかならべておいて、買う人があるんですか。」大野敏夫君がぶえんりょにたずねますと、おじいさんは、あけっぱなしの山小屋の中を指さしながら答えました。
「ハハハ……、そんなもんで商売にゃならねえよ。あれを見な。ほらあすこに鉄砲がかけてある。あれがおらの本職だ。おらは猟師だよ。」
「ああ、猟師なの。何をとるんですか。クマですか。イノシシですか。」
「ハハハ……、そんなものは、もっと奥へ行かなきゃあ、このへんにはいねえ。だが、今年の正月にゃ、この奥山で、でっけえクマを一ぴきとったぞ。おめえたちに見せてやりたかったなあ。」
「ヘェー、ほんとうですか。おじいさんは名人なんだね。」
「ウン、四十年前から猟師をやっているんだからね……。おめえ方、弁当持ってるだか。ウン、そんなら穴へはいるまえに、腹をこしらえておくがいい。穴の中はずいぶん深えだから、弁当がすんだら、おらが案内してやるだ。」
「じゃあ、おじいさんは、鍾乳洞の案内人もやっているんですか。」
「ウン、春秋にゃ、それがおらの内職だよ。」
「でも、ぼくたちはいいんですよ。鍾乳洞の内部のことは、本で読んでしらべてきましたし、それに、ぼくたちはいろいろ探検の道具を用意してきたんです。百メートル以上もあるひもの玉も三つも持っているんです。それを入り口の岩にくくりつけて、ひもをのばしながらはいっていけば、道にまようことはありませんからね。そのほかに、懐中電灯を三つ持っていますし、磁石だとか、ナイフだとか、すっかりそろっているんです。ぼくたちは探検隊ですから、案内人なんかあっちゃあ、かえっておもしろくないんですよ。」小林少年が説明しますと、おじいさんもうなずいて、
「そんなにいうなら案内はしめえ。穴の中は枝道がいくつもあって、はじめてのものはおっかながるが、なあに、グルグルまわっているうちにゃ、入り口へもどってくるよ。それに、そんな長えひもを持ってるなら、大じょうぶだ。まあ、腹でもこしらえて、ゆっくり見物してくるがええだ。」と、たのもしそうに、元気な少年たちをながめていましたが、一同がそのへんの岩の上に腰をおろして、リュックサックの中から、竹の皮包みを取りだし、申しあわせた日の丸弁当をぱくつきはじめますと、じいさんはなおもじょうだんを言いながら、山小屋の中へ姿を消してしまいました。
少年たちは、小鳥の声を聞きながら、大きなにぎり飯をすっかりたいらげ、水筒の水をゴクゴクやって、お昼ご飯をすませますと、あるものはリュックサックの中から、道しるべのひもの玉を、あるものは懐中電灯を取りだし、めいめいに出発の用意をして、いよいよ鍾乳洞の入り口へと近づきました。大きな山のすそに、けずりとったような、おそろしい岩がむきだしになっていて、その岩の一部に、まるで怪物が口をあいてでもいるように、まっ黒な穴がポッカリとあいています。それが洞くつの入り口なのです。
「さあ、いよいよぼくたちは、洞穴の迷路の中へはいるんだぜ。道しるべのひもの係りは、篠崎君だよ。このへんがいいや。ここへひものはしをしっかりむすびつけてくれたまえ。そして、どんなことがあっても、ひもの玉をはなしちゃだめだよ。それをはなしたら、ぼくたちはたちまち、まい子になってしまうんだからね。いいかい。」
小林団長のさしずにしたがって篠崎始君は手にしていた大きな荷作りひもの玉のはしを、とがった岩の先にしっかりむすびつけました。
「懐中電灯は、まず羽柴君のを使うことにしよう。三つともいっぺんに使って、電池がきれてしまってはたいへんだからね。さあ、羽柴君それをつけて、ぼくといっしょに先に立って歩くんだよ。」団長といっしょに先頭に立つことをおおせつかった壮二君は、すっかり勇みたって、懐中電灯をふりてらしながら、もう洞穴の中へおどりこんでいきました。
つづいて小林団長、それから小泉信雄君、相川泰二君と、十人の団員は一列縦隊を作って、ぞろぞろと穴の中へはいっていきます。しんがりは、ひもの玉をかかえた篠崎君、その横には親友の相撲選手の桂正一君が、護衛役のようによりそっています。
洞くつの入り口をはいって五、六歩行きますと、道がひじょうにせまくなって、四つんばいにならなければ進めないほどです。しかし、そのせまい道を十メートルも行けば、広い場所に出るということを、本で読んでいたものですから、みんな、ひどくぶきみなのをがまんして、ゴソゴソと、つめたい岩はだにさわりながら、はっていきました。そうしてしばらく行きますと、案のじょう、とつぜん、左右の岩はだがなくなってしまったかと思われるほど、広い場所に出ました。岩の天井がどのへんにあるのか、高さも知れないくらいです。
「篠崎君、ひもは大じょうぶかい。」
「ウン、大じょうぶだよ。」その声が、まるで深い井戸の中へものをいっているように、ガーンとひびいて、かすかなこだまがかえってきました。
「すごいねえ、羽柴君、向こうのほうを照らしてごらん。」
すると、広い広いやみの中を、探照灯を小さくしたような光の線が、スーッと走って、ゴツゴツしたどす黒い岩はだを、つぎつぎと照らしていきます。その光で目測してみますと、そこは二十メートル四ほうもあるような、天井の高い、広い空洞です。
「ここから、いくつも道が分かれているらしいのだよ。どの道をえらぶか、ともかく、壁を伝って一まわりしてみようじゃないか。」先頭の小林君は、そう言いながら、羽柴君の懐中電灯をたよりに、そろそろと右のほうへ歩きはじめました。
「アッ、ここに小さな穴がある。これが第一の枝道だよ。」
「おやッ、なんだか水の流れているような音がするじゃないか。」
「ウン、この鍾乳洞の中には、小さな地底の川が流れているんだって。この枝道を行くと、きっと、そこへ出るんだよ。」
「アッ、見たまえ、鍾乳石だ。あの天井から白い氷柱みたいなものが、たくさんさがっている。」
羽柴君の電灯が、洞穴の天井のいっぽうのすみを、まるく照らしだしていました。その光の中に、大きな、うす白い石の氷柱が、巨人の牙のように、ものすごくたれさがっているのです。
「下をごらん。あの下にきっと石筍があるから。ああ、ある、ある。まるで白いお化け茸みたいだねえ。」
それらのふしぎな景色を見ていますと、みんなは、なんだか童話の魔法の国へでもまよいこんだような、へんな気持ちにならないではいられませんでした。
それにあたりがまっくらで、光といっては懐中電灯ただ一つだものですから、いっそうこわい夢でもみているような感じで、その奥底の知れぬやみの中から、何かとほうもない怪物が、今にもノソノソあらわれてくるのじゃないかと思うと、さすが勇敢な少年たちも、背中がゾーッと寒くなってくるのでした。
「ワーッ!」とつぜん、だれかがとんきょうなさけび声をたてました。
すると、それが洞くつにこだまして、どこか遠くのほうで怪物がわめいているような声が、「ワーッ、ワーッ、ワーッ。」と、いくつもいくつも、だんだんかすかになりながらひびいてきました。
「だれだッ。どうしたんだ。」
「びっくりするじゃないか。」
「ぼくだよ、ぼくだよ。」
「斎藤君じゃないか。どうしたんだい。」
「なんだか氷のようにつめたいものが、首のところへあたった。ああ、きみがわるい。」
「なあんだ。そりゃあ天井から水が落ちたんだよ。岩のわれめから山の水が落ちてくるんだよ。」大きな声を出しますと、遠くのほうから、怪物のようなこだまの声がかえってくるものですから、みんなそれにおびえて、ささやくような低い声で話しあうのです。
そうして、だんだん岩はだをつたいながら、洞くつを一周して、第二、第三、第四と、四つの枝道があることをたしかめましたが、相談のうえ、そのうちで、いちばん広い第二の道をえらんで、なおも奥へと進むことになりました。その枝道は、かなり広いので、四つんばいになる必要もなく、また一列縦隊をつくって歩きはじめましたが、十メートルも行ったかと思うと、もう道が二つに分かれていました。
「いくら道が分かれても、ひもがあるから大じょうぶだよ。ともかく、少しでも広いほうへ進むことにしようじゃないか。」先頭の小林君は、そう言いながら、右手の広い穴へとはいっていきました。
道は、あるところは広く、あるところはせまく、急な登り坂になると思えば、また下り坂になり、それがうねうねとまがりくねって、はてしもなくつづいていました。そのうえ、二十歩か三十歩あるくごとに枝道に分かれているのですから、まったくの迷路です。
「ああ、ずいぶん枝道があったね。いくつだかおぼえているか。」
「五つだよ。」
「ウン、五つだったね。もう道しるべのひもがなけりゃあ、とてももとの出口へ帰れないよ。ひもは大じょうぶだろうね。」
「大じょうぶ。でも、玉が小さくなっちゃったよ。もう二十メートルぐらいしか残っていないよ。ぼくたちは入り口から八十メートルほど歩いたんだね。」
「たった八十メートルかい。ぼくは五百メートルも歩いたような気がするぜ。」やみの中を、手をつないで歩きながら、篠崎君と桂君とが、ぼそぼそとささやきあっていました。先頭の小林君や羽柴君とはだいぶはなれていますので、遠くの懐中電灯の中に、前に進んでいく少年たちの頭が、まっ黒にチラチラするのが、やっと見わけられるばかりです。
「まるで、地獄へでも旅行しているようだね。鉱山の穴の中も、きっとこんなだろうね。」
「ウン、そうだね。ずいぶんきみが悪いけれど、でも、すてきだね。ぼくはこんなところへ来たの、生まれてはじめてだよ。」列の中ほどでは、やっぱり手をつなぎあった上村洋一君と斎藤太郎君とが、そんなことを話しあっていました。
すると、ちょうどそのとき、列の先頭から、小林団長の高い声がひびいてきました。
「おやッ、こんなとこに橋があるぜ。厚い板がわたしてある。」
その声といっしょに、小林君が立ちどまったものですから、やみの中の行列は、ピッタリととまってしまいました。
「羽柴君、なんだか深い穴があるようだよ。懐中電灯をかしてごらん。」
小林団長は、羽柴君から、懐中電灯を受けとりますと、それで足もとを照らしてみました。そこには、どんな幅とびの名人だって、とびこせそうもないような、大きい深い穴があいていて、そのまんなかに、じょうぶな厚い板が、橋のようにかけてあるのです。その板がまだ新しいところをみますと、ごく近ごろだれかが、かけておいたものにちがいありません。
小林君はその板の下へ、懐中電灯をさし入れて、穴の深さをしらべましたが、その底は電灯の光もとどかないほど深く、下部ほど広くなっていて、耳をすましますと、はるか下のほうから、ゴウゴウと水の流れる音が聞こえてきます。もし足をすべらせて落ちこんだら、むろん助かる見こみはありません。
「みんな、用心するんだよ。ここに深い穴があるから……。」小林君がさけびますと、その声が深い穴に反響して、ガーン、ガーンとひびきましたが、すると、穴の底に向けている懐中電灯の光の中へ、下のやみの中から、何かしら黒い大きなものが、ひじょうな早さで、スーッとうきあがるようにあらわれてきました。
懐中電灯の弱い光では、とっさに何ものともわかりませんでしたが、何かネズミ色のフワフワしたようなもので、それがみるみる形を大きくしながら、スーッととびあがってきたかと思うと、のぞきこんでいた小林君や羽柴君の目の前を、おそろしい勢いでかすめ通り、向こうのやみの中へ、矢のように消えていってしまいました。羽柴君は、この不意うちにめんくらって、「ワーッ。」と悲鳴をあげながらとびのきましたが、しかし、大きな井戸のような穴の中からとびだしてくるものは、一つだけではなかったのです。
羽柴君の悲鳴に、おどろいてかけよった少年たちが、たがいに手をにぎりながら、こわごわのぞく穴の底から、つぎからつぎへと、ネズミ色のフワフワしたものが、いくつも重なりあって、うきあがるようにとびだしてくるではありませんか。みょうな風を切るような羽音をたてて、まるで地獄の底から悪魔の飛行機がまいあがってくる感じでした。
「アッ、コウモリだ。コウモリがウジャウジャいるんだ。みんな、なんでもないよ。コウモリだよ。コウモリが光におどろいてとびだしてきたんだよ。」小林君が大声にいって聞かせても、少年たちは生きたコウモリを見るのははじめてだったものですから、あまりのきみ悪さに、もうこのまま引きかえして、洞くつの外へ出たいように思うのでした。
「なあんだ。みんないやにびくびくしているじゃないか。探検家がコウモリにおそれをなして逃げだしたなんて人に聞かれたら、もの笑いの種だぜ。さあ、びくびくしないで、もっと奥へ進もう。みんな、足もとに注意するんだよ。」小林君は、またたくうちに洞くつの奥へ消えさったコウモリのむれを見送りながら一同を元気づけるようにいって、羽柴君の手をとると、ぐんぐん板橋をわたりはじめました。少年たちも、そういわれては、あとへ引くわけにいきません。十人はまた一列縦隊になって、たがいに手をつなぎあいながら、橋をわたって、なおも奥へ奥へと進みました。
それから、せまい道を少し行きますと、とつぜん左右の岩はだが遠のいて、がらんとした感じになりました。第二の広い空洞へ出たのです。
「おや、また広くなったね。さあ、また岩にさわりながら、右のほうへまわるんだよ。」小林君のさしずで、みんながつめたいでこぼこの岩はだをなでながら、大空洞の周囲をまわりはじめたときでした。列のうしろのほうから、
「アッ!」というさけび声がしたかと思うと、何かドサッとたおれるような物音が聞こえました。
「おい、どうしたの? 今さけんだのはだれだい。」小林君の声に、うしろのほうから桂君が答えました。
「篠崎君がつまずいてたおれたんですよ。」
小林君が懐中電灯をふりてらしながら、列のうしろへもどってみますと、その光の中に、たおれた篠崎少年が、顔をしかめながら、起きあがろうとしているところでした。
「大じょうぶかい。けがはなかった?」
「ウン、けがはしないけれど……。」
「え、けがはしないけど?」
「なんだかへんだよ。」
「へんって、何がへんなの?」
「ぼく、とんでもないことしてしまったらしいのだよ。」
「エッ、とんでもないことって?」
「ひもが切れたんじゃないかしら。ほら、いくら引っぱっても、手ごたえがないんだよ。引っぱれば引っぱるだけ、いくらでもズルズルとこちらへ寄ってくるんだよ。」篠崎君は、もう泣きだしそうな声をしています。
「エッ、ほんとうかい。見せてごらん。」さすがの小林団長も、それにはギョッとしないではいられませんでした。急いで篠崎君の手からひもの玉をとって引っぱってみますと、ああ、なんということでしょう。
道しるべのひもは、どこかで切れてしまったらしく、いくらでもたぐりよせることができるのです。それと知った少年たちは、もう胸をドキドキさせながら、小林団長と篠崎君のまわりに集まってきました。
「ひもが切れたんだって? ほんとうかい。」
「チェッ、しょうがないなあ。じゃあ、ぼくたちもう帰れやしないじゃないか。」
「篠崎君、きみがぼんやりしているからだよ。そのひもは、ぼくたちの命の綱じゃないか。」
すると、まだたおれたままの篠崎君が、泣き声で答えました。
「ぼくが悪いんだよ。きみたちぼくをなぐってくれたまえ。いいだけなぐってくれたまえ。ぼくの注意がたりなかったんだよ。」
それを聞きますと、だれも、もう篠崎君をせめる気にはなれませんでした。みんなだまりこんでしまって、シーンと静まりかえったやみの中に、篠崎君の鼻をすする音だけが聞こえていました。
「おい、みんな、これは篠崎君が悪いんじゃないよ。これを見たまえ。このひもの切り口は、岩かどにすれて切れたんじゃないよ。ほら、ここをごらん。」とつぜん小林団長がみょうなことを言いだしましたので、少年たちがそのそばによってみますと、ひもはすっかり手もとにたぐりよせられ、小林君は、その切り口を懐中電灯の光にかざして、ふしぎそうにながめているのでした。
「ね、これはすり切れたんじゃなくって、たしかにはさみで切った切り口だよ。」
いかにも、ひものはしは、するどい刃物で切断したような、はっきりした切り口を見せています。
「だって、おかしいなあ。いったいだれがひもを切ったんだろう。この鍾乳洞の中には、ぼくたちのほかに、だれもいないじゃないか。」
「だから、ぼくはふしぎでしようがないんだよ。なぜだろう。なぜひもを切ったんだろう。」
「だれかがこれを切ったとすれば、ぼくらを道にまよわせて、こまらせるつもりにちがいないね。」
「そうだよ。だが、そんなひどいいたずらをするやつがあるはずはないよ。ふしぎだね……。ああ、もしかしたら……。」
「エッ、もしかしたらって?」
小林君が、それに答えようとしているときでした。とつぜん、洞くつの奥の暗やみから、なんともいえぬおそろしいうなり声が聞こえてきました。それは、大きなけものが、ゴロゴロとのどを鳴らしてでもいるような、形容もできないへんてこな声でした。ハッとして、会話をやめて、聞き耳をたてていますと、そのうなり声は、だんだんはげしくなって、どうやら、こちらへ近づいてくるようすではありませんか。
少年たちは、思わずポケットのナイフをにぎりしめて、墨を流したようなやみの中をにらみつけました。何かしら大きな動物がいるのです。動物でなくて、あんなうなり声をたてるはずがありません。ひょっとしたら、クマかなんかが、洞くつの中へまよいこんでいたのではないでしょうか。
「みんな、じっとしていたまえ。そして、もし危険のようだったら、ぼくがあいずをするから、順番にもと来た道へ逃げるんだよ。いいかい。」小林団長は、さすがに考えぶかく、一同に注意をあたえておいて、手にしていた懐中電灯の光を、うなり声のする方向へ、サッとさしつけました。
すると、そのまるい光の中へ、向こうのやみから、何かしらびっくりするほど大きなものが、ニューッと姿をあらわしたのです。少年たちはその姿を一目見ますと、あまりのおそろしさに、ツーンとからだがしびれたようになって、もう身動きさえできなくなってしまいました。
ああ、この世にこんなおそろしい動物がすんでいたのでしょうか。それはもう、なんともいいようのない、いやらしい、ゾーッとするような化け物でした。
全身ネズミ色の毛むくじゃらで、あとあしで立っている胴体が、おとなの背よりも高く、その胴体の上に、フクロウの顔を三十倍ほどに大きくしたような、丸い顔がついて、その毛むくじゃらの顔のまんなかに大きなくちばしのようなものがとびだしていて、その上に二つの目がギョロッと光っているのです。
少年たちは、みいられたように、目をそらす力もなく、じっと、その怪物とにらめっこをしていましたが、すると、化け物は、ヨタヨタと二、三歩あるいたかと思うと、ギョッとするような大きな物音をたてて、サーッと羽をひろげたではありませんか。羽といっても鳥の羽ではありません。悪魔の羽です。西洋の悪魔の絵にあるような、あのいやらしい羽です。そのはしからはしまでは、五メートルもあるかと思われる、おそろしく大きな羽です。
はじめのうちは、ただ、とほうもない化け物としか考えられませんでしたが、しかし、じっと見つめているうちに、そのものの正体が、だんだんわかってきました。コウモリなのです。ふつうのコウモリの何百何千倍もあるような、おそろしく大きなコウモリだったのです。さいぜん、ほらあなの中からとびさった、たくさんのコウモリが一つにかたまって、こんな大きなお化けコウモリになったのでしょうか。それとも、あの小さいコウモリたちは、この大コウモリの家来で、こいつは何百年も生きながらえた鍾乳洞のぬしなのでしょうか。
少年たちは、ただ、もうおそろしい夢にうなされているような気持ちでした。おそろしさに心臓もとまって、このまま死んでしまうのではないかと思われるほどでした。
怪物はやみの中から、おびえきった少年たちを見すえながら、ヨタヨタと、一歩一歩こちらへ近づいてきます。そして、いっぱいにひろげた羽で、サーッと空気を切って、今にもとびかかってきそうなようすを見せました。
「みんな、ぼくのあとについて走るんだ。」もうがまんができなくなって、小林君は懐中電灯をふりながら、もと来た道へかけこみました。先に立って逃げたわけではありません。懐中電灯が先頭になくては、道がわからないからです。この声に、立ちすくんでいた少年たちも、ハッと正気づいたように、われおくれじとかけだしました。いちばんあとから走っているのは、力じまんの桂君ですが、いくら相撲の選手でも、この怪物にはかないっこありません。ゴロゴロとのどを鳴らすようなうなり声が、今にも背中にせまってきそうで、走りながらも気が気ではありませんでした。先頭の小林君は、団員たちが逃げおくれやしないかと、うしろをふりむきふりむき走っていましたが、さいぜんの深いほら穴のあたりまで来ますと、ハッとして立ちどまってしまいました。もう少しで、その井戸のような穴の中へ、すべり落ちるところだったのです。
ああ、なんということでしょう。さっきまで、そのほら穴の上にかかっていた板の橋が影も形も見えなくなっているのです。橋がなくては、もうこの道を進むことができません。井戸のようなほら穴は道いっぱいにひろがっていて、どこにも通る場所がないからです。といって、とびこせるような小さな穴ではありません。
やっぱり、この鍾乳洞の中には、少年たちに敵意を持つ人間がかくれているのにちがいありません。そうでなくて、板の橋がひとりで動くはずはないからです。さっき、道しるべのひもが切断されたことといい、今また板の橋がなくなったことといい、これはもう何者かが、少年探検隊をこまらせようとして、たくらんだしわざにちがいありません。
かわいそうな少年たちは、もう進むことも退くこともできなくなってしまいました。前には魔のほら穴が、少年たちを一口にのんでやるぞとばかりに、まっかな口をあいてひかえています。うしろからは、例の怪物が、のどを鳴らしてせまってきます。
ああ、もう運のつきです。小林君をはじめ十人の少年探偵団員は、この暗やみの洞くつの中で、助けをさけぶすべもなく、はかない最期をとげてしまうのでしょうか。
一同がほら穴のふちにうずくまって、息もたえだえにふるえあがっていますと、そのときまたしても、少年たちをギョッとさせるようなおそろしいことがおこりました。うしろのやみの中から、とつじょとして笑い声が聞こえてきたのです。心臓もとまる思いで、懐中電灯をふりむけてみますと、五、六メートル向こうのやみの中に、あの怪物が、あとあしで立ちあがっていました。そして、大きなくちばしをひらいて、ケラケラと笑っています。幼い少女のようなかん高い声で、さもおかしそうに、ケラケラと笑っているのです。
少年たちは、サーッと背すじに氷の棒をさし通されたような気がしました。ああ、笑うコウモリ! 少女のような声で笑うコウモリ! これがこの世のできごとなのでしょうか。夢ではないでしょうか。やみの中の幻ではないでしょうか。それとも、少年たちは洞くつの妖気のために、ひとり残らず、気がちがって、ありもしないもののけの姿を、心にえがいていたのでしょうか。
少年たちは、あまりのふしぎさおそろしさに、心臓の鼓動もとまってしまうような気がしました。おとなほどの大きさのコウモリというだけでもふしぎなのに、それが人間の声で笑いだすなんて、まったく想像もできない奇怪事ではありませんか。
ところが、そうして生きたここちもない少年たちの耳に、さらにいっそうおそろしい声が聞こえてきました。みなさん、その大コウモリがものをいったのです。人間とそっくりのことばでものをいったのです。
「フフフ……、いくじのない子どもたちだ。それでも少年探偵団員かね。おい、小林君、きみまでふるえているじゃないか。いつもの元気はどこへいったのだね。」大コウモリが、地の底からひびいてくるような声で、そういったのです。ほかに人間がいるはずはありません。たしかに怪獣が口をきいたのです。
小林少年は、それを聞きますとやみの中にむくむくと起きあがりました。その声のちょうしが、どこかで聞いたことがあるように思われたからです。そして、なんだかハッとしたからです。
小林君は手にしていた懐中電灯の光を、サーッと声のする方角へさしつけました。すると、そのまるい光の中に、大きな牛ほどもある怪獣の顔が、ヌーッとあらわれました。大コウモリはいつのまにか、一メートルほどのまぢかにせまっていたのです。
少年たちは同時にそのほうを見ましたが、一目見るやいなや、あまりのいやらしさに、思わず目をふさいでしまいました。
牛ほどもある毛むくじゃらの顔の中に、まんまるな二つの目が、ギョロッと光っていました。その下に大きな黒いくちばしのようなものが突き出ていて、それがパックリとひらいているのです。口の中には黄色い牙のような歯なみが見え、その間からまっかな舌がのぞいています。今にも少年たちを、頭から一のみにしようと、身がまえているのです。
でも、小林少年だけは、そのおそろしい顔を見ても、もうこわがりませんでした。動物が人間のことばを使うはずがない。ものをいうからには、このおそろしい怪物の中には、ほんとうの人間がかくれているのにちがいないと、かしこくも判断したからです。
「きみはだれだ。ぼくたちをどうしようというのだ。」小林君は懐中電灯をさしつけたまま、キッとして怪物を、にらみつけました。
「フフフ……、わからないかね。きみたちがいっしょうけんめいにさがしている人間だよ。」大コウモリは人をこばかにしたようなことをいって、クスクスと笑いました。やっぱり人間なのです。大コウモリの衣装をつけた人間なのです。
少年たちはそうとわかりましたので、おそろしい夢からさめたように、ホッとしましたが、でも、お化けのこわさはなくなりましたけれど、こんどはその怪獣の中の人間が、いったい何者かと考えますと、またべつのおそろしさに、ゾーッと背すじが寒くなるのでした。
少年たちの頭の中に、ある人物の名がサッとひらめきました。こんなおそろしいいたずらをして、少年探偵団員を苦しめるやつは、そいつのほかにないからです。
小林君も、すぐその名を思いうかべましたが、でも、この暗やみの洞くつの中で、そいつの名をいうのには、よほど勇気がいりました。大コウモリの化物なんかよりも、かえって、その人間のほうがおそろしく感じられたからです。小林君はしばらくのあいだ、胸をドキドキさせながら、いおうかいうまいかと、ためらっていましたが、とうとう思いきって、その名をさけびました。死にものぐるいで、さけんだのです。
「きさま、二十面相だな。」
「フフフ……、やっとわかったね。そのとおり、おれは二十面相だよ。二十面相は人間ばかりでなくて、動物にだって化けられるのだ。この世にいない動物にだってね。フフフ……。まさか二十面相がこんな洞くつの中できみたちを待ちかまえていようとは、気がつかなかっただろう。どうだね、この思いつきは。ハハハ……。これは最初からおれの計画したことさ。その計画に、きみたちがまんまと引っかかったのだよ。え、わかるかね。きみたちがこの鍾乳洞の探検を思いたったのは、そこにいる桂君と篠崎君がねっしんにすすめたからだね。
ところで、そのふたりに、この洞くつのことをさもおもしろそうに話して聞かせた同級生がある。そして、ふたりをむちゅうにさせてしまったのだ。その同級生にそういう話をさせたのは、ほかでもないこのおれだったのだよ。わかったかね。ハハハ……。きみたちはおれの計略にのって、ノコノコこの鍾乳洞へ出かけてきた。そして、なまいきにも案内のじいさんをことわって、道しるべのひもをたよりに、迷路の中へふみこんだ。どうだね、何もかも知っているだろう。
あのひもを切ったのもおれだ。そこの穴の上の板の橋を取りのけたのもおれだ。そうしておいて、こういう怪物に変装して、きみたちを思うぞんぶんこわがらせたのだ。
ハハハ……、おれは、こんなゆかいなことはないよ。きみたちには、いつかひどいめにあっているからね。どうかして仕返しをしたいと思っていたが、その念願を今やっとはたしたのだ。この大コウモリが姿をあらわしたときの、きみたちのおどろき方はなかったぜ。ハハハ……、少年探偵団なんてなまいきなことをいっていたって、お化けにかかっちゃ型なしじゃないか。おれは胸がスーッとしたよ。ハハハ……、だが、まだ安心するのは早すぎるぜ。おれのふくしゅうはこれでおしまいじゃないのだ。こんな子どもだましのいたずらで満足するおれじゃない。ほんとうのふくしゅうはこれからなのだ。ウフフ、……こわいかね。
きみたちは、もう一生涯、この洞くつの中から出ることはできないのだ。それが、おれのふくしゅうだよ。いいかね、きみたちは道しるべのひもをなくしたので、この暗やみの迷路の中で、まったくのまい子になってしまったのだ。そのうえ、そこの大穴はどんなことしたってこせやしないから、きみたちはもとの道をもどることもできない。
十日たっても、二十日たっても、きみたちはただクモ手の迷路をうろつきまわるばかりだ。そのうちには懐中電灯の電池もつきてしまうだろう。いや、だいいち腹がへってくる。飢えとかわきに悲鳴をあげながら、だんだん力がつきてくるのだ。そして、きみたち十一人は、この暗やみの洞くつの中で、悲惨な最期をとげるのだ。
東京から助けだしに来てくれるというのか。フフフ……、そいつはだめだよ。この大コウモリの化けものが、途中に待ちかまえていて、みんな追っぱらってしまうからな。フフフ……。」こんなふうにいいますと、人間の姿をした二十面相が、しゃべっているようですが、むろんそうではないのです。大コウモリが、白い牙のはえたまっかな口をひらいて、地の底からでもひびいてくるような、ぶきみな声でいっているのです。
あたりは墨を流したように真のやみです。その中に映画の大写しのように、懐中電灯の光で、奇怪な大コウモリの顔ばかりがうきあがって、それが陰気な声でものをいっているのです。たとえ相手の正体は二十面相とわかっていても、そのきみ悪さはひととおりではありません。
「いや、そればかりではない。おれの計画には、まだその奥があるのだ。ほかでもない、きみたちの先生の明智小五郎だよ。おれはあいつもここへおびきよせて、きみたちと同じめにあわせてやるつもりだ。いいかね、きみたちがここから帰らなければ、東京では大さわぎになる。警官もやってくるだろうが、弟子思いの明智小五郎は、まっ先にここへ、きみたちをさがしに来るにきまっている。おれはそれを待ちかまえていて、明智も、きみたちと同じめにあわせてやるのだ。この暗やみの洞くつの中で、飢え死にをさせてやるのだ。
おれは血を見るのがきらいだ。人殺しをしたことはない。だが、明智やきみたちが、この洞くつの道にまよって、かってに餓死するのは、おれの知ったことじゃないからね。二十面相のじゃまだてをしたきみたちの自業自得というものだよ。ハハハ……。」大コウモリの二十面相は、とどめをさすように、おそろしい計画を打ちあけて、さも心地よげにあざけり笑うのです。すると、その声が洞くつにこだまして、まるで大ぜいの人が、あちらでもこちらでも、笑っているように、だんだんかすかになりながら、いつまでもつづいているのでした。
お話はとんで、その翌々日のお昼ごろのことです。鍾乳洞の近くの、例の老猟師の家を、ひとりの紳士がたずねてきました。鳥打ち帽に旅行服姿の名探偵明智小五郎です。
少年探偵団員たちが、出発の翌日、日が暮れても帰らなかったものですから、おとうさまや、おかあさまたちは、たいへんご心配になって、明智探偵にご相談なすったものですから、探偵は、夜の明けるのを待ちかねて、警官よりも早く、ひとりで鍾乳洞へ出かけたのです。十一人の団員のおとうさまたちにかわって、少年たちのゆくえを捜索するためです。
老猟師の家をたずねますと、ちょうどおりよく例のモンペ姿の老人が居あわせて、駄菓子などのならべてある店先へ出てきました。
「鍾乳洞のご見物ですか。」老人は、少年たちが洞内へとじこめられたことも知らぬとみえて、のんきにたずねました。
「いや、見物じゃないのです。あんたは鍾乳洞の案内人ですか。」
「はい、そうでがすよ。」
「ぼくは東京の明智というのですが、おとといここへ、中学生や小学生などの、十一人づれの子どもたちが見物に来たはずだが、あんたは見かけなかったかね。」明智探偵がそういって、名刺を出しますと、じいさんは字が読めないらしく、それを見ようともしないで答えました。
「はい、大ぜい来ましただ。それがどうかしたですか。」
「その子どもたちは、鍾乳洞の中へはいったのだろうね。」
「はいりましたとも。案内人はいらねえといって元気ではいっていきましただ。」
「で、あんたはその子どもたちが鍾乳洞から出てくるのを見たかね。」
「いンや、それは見ねえでがす。ふもとに用があって、山をくだっていたでね。だが、見ねえでも、あの少年たちが帰ったのは、まちがいねえですよ。まさか、鍾乳洞の中で寝泊まりもしますめえ。ワハハハ……。」
「ところが、あの子どもたちが、けさになっても、東京へ帰らないのだよ。ここへ来る道でも、駅員や自動車の運転手などにもたずねてみたが、だれも子どもたちが帰るのを、見かけなかったというのだ。だから、ひょっとすると、鍾乳洞の中で、道にまよって出られなくなっているのじゃないかと心配しているのだが……。」
「ヘーン、帰らなかったって? そいつは奇態だ。わしは、十六年というもの、ここの案内人をやってるだが、道にまよって出られなくなったなんて、聞いたこともねえでがす。あの少年たち、元気にまかせて、深っ入りしたんじゃあんめえかな。」じいさんは腕組みをして、小首をかたむけました。
「じゃあ、深くはいれば道にまようかもしれないというのだな。」
「そうです。わしが案内したって、奥の奥まで行くわけじゃねえし、ましてひとりではいる見物は、おっかながって、ホンの入り口で引きかえしちまうだからね。ほんとうのことをいえば、だれもこの穴の奥を見とどけたものはねえでがす。」
「そうすると、子どもたちは奥深くはいりすぎたのかもしれない。ともかく一度ぼく自身で鍾乳洞の中をしらべてみたいと思うが、案内してくれるだろうね。こうして懐中電灯も用意してきているんだよ。」
明智探偵はポケットから、小型の懐中電灯をとりだして見せました。
「ようがす。じゃあ、これからすぐに、穴の中へはいってみますべえ。」じいさんは気軽にいって奥の間へ立っていきましたが、何かゴトゴトやっていたかと思うと、すぐ店先へ引きかえしてきて、そこの土間にあった、きたないぞうりをひっかけ、先に立って歩きだすのでした。
明智探偵も、ステッキをつきながら、そのあとにしたがいましたが、ふたりが猟師の家を十メートルもはなれたころ、その家のかげから、ひとりのみょうな人物がソッと姿をあらわしました。その人物は、このあたたかいのに、黒い将校マントのようなものを頭からスッポリかぶって、顔はもちろんからだじゅうをおおいかくし、まるで泥棒かなんぞのように足音をしのばせて、ふたりのあとを尾行しはじめたのです。
このあやしげな人物は、いったい何者でしょう。もしかしたら二十面相の手下ではないか。いや、手下ではなくて、二十面相自身かもしれません、二十面相はそうして明智探偵のあとをつけて、洞くつの暗やみの中で、何かおそろしいたくらみをしようというのではありますまいか。それがはたして二十面相であったか。それとも二十面相などよりはもっともっと意外な人物であったかは、まもなくわかるときがくるでしょう。いずれにもせよ、読者諸君はこのあやしげな人物のことを、よく記憶しておいていただきたいのです。
猟師のじいさんも、明智探偵も、そんな尾行者があるとは少しも気づかぬようすで、何か話しながら、鍾乳洞の入り口に近づき、そのまま洞くつの中へはいっていきました。すると、黒マントの人物も、ふたりのあとから、ソッとすべりこむように、その洞穴の中へ姿を消したではありませんか。
鍾乳洞にはいりますと、明智探偵はすぐさま懐中電灯を点火して、それをふりてらしながら、じいさんのあとについて進みました。じいさんはなれたもので、せまい岩穴の中を、少しもためらわず、グングンはいっていきます。ところが、そうして、二十メートルほども歩いたときでした。じいさんのあとにしたがっていた明智探偵が、「アッ。」とさけんだかと思うと、懐中電灯の光が消えて、あたりは真のやみになってしまいました。
「おや、どうしただ? ころんだのかね。気をつけねえと、足もとがあぶねえだから。」じいさんがやみの中でうしろをふりかえりました。
「いや、ちょっとつまずいたんだよ。そのひょうしに懐中電灯を落としてしまって、ああ、あったあった。さあ、もう大じょうぶだから、かまわないで進んでくれたまえ。」明智は、拾いあげた懐中電灯をふたたび点火して、元気にふりてらして見せました。
そうして電灯が消えていたのは、ほんの三十秒ほどのあいだでしたが、それにしても、少年たちでさえ、そんな入り口の近くでは、だれもつまずかなかったのに、日ごろ注意ぶかい名探偵が、懐中電灯をとりおとすなんて、少しへんではありませんか。それには何か深いわけがあったのではないでしょうか。
しかし、それからあとは、べつだんのできごともなく、ふたりは、洞くつの奥へ奥へと進んでいきました。ちょうど少年たちの通った道と、じいさんのいつも案内する道と同じだったとみえ、広い部屋のような洞くつをすぎて、やがて、例の深い井戸のような穴のある道へ出ました。
「ここに橋があるだから、気をつけて。いいかね。足をふみはずしたら奈落の底へおっこちるだ。」
見れば、いつのまに、だれがもとにもどしたのか、例の板の橋がちゃんとかかっているのです。ふたりはその上をしずかにわたりましたが、すると、じいさんは何を思ったのか、今わたったばかりの橋の板を、いきなり持ちあげて、アッと思うまに、深い穴の底へ投げこんでしまいました。
「おい、何をするんだ。橋がなくなったら、ぼくたちは帰ることができないじゃないか。」明智が、おどろいてたずねますと、じいさんは、懐中電灯の光の中で、ニヤニヤと笑いながら、みょうなことを言いだしました。
「じゃあ、おまえさんは帰るつもりだったのかね。」
「わかりきった話じゃないか。きみは、いったい何を考えているんだ。」
「エヘヘヘ……、ここは地獄の一丁目といってね。一度わたったら二度と帰れねえところさ。」
「エッ、なんだって。おい、じいさん、きみは気でもちがったのじゃないか。」
「ウフフフ……、明智先生、きょうは少しさとりがにぶいようですね。まだわかりませんかね。」
ああ、それはどうしたというのでしょう。今まで山奥の猟師とばかり思っていたじいさんが、にわかに若々しい声になって、東京弁を使いはじめたではありませんか。
「エッ、それじゃあきみは……。」さすがの明智探偵もギョッとしたらしく、手にする懐中電灯の光がはげしくゆれ動きました。
「だれだと思うね。え、明智先生、こわくていえないのかね。ハハハ……、きみのさがしまわっている蛭田博士さ。もう一つの名は二十面相ともいうよ。ハハハ……、どうだね。いくら名探偵でも、まさか鍾乳洞の案内人が二十面相とは気がつくまい。
きみがさがしている少年たちは、いうまでもなく、おれがこの洞くつの奥へとじこめたのだよ。きみは知るまいが、この洞くつには人間ほどもある大コウモリの化け物がすんでいるのだ。少年たちは、その大コウモリにおそろしいめにあったのだよ。そして、今では十一人が十一人とも、迷路の中で、餓死を待つばかりのあわれな身のうえなのさ。その大コウモリというのは、じつは、このおれが化けたのだ。二十面相は人間ばかりではなくて、動物にも変装する術をこころえているのだよ。ハハハ……。」
「で、ぼくをどうしようというのだね。」明智探偵は、少しもうろたえないで、しずかにたずねました。
「十一人の少年たちと同じめにあわせてやるのさ。餓死だよ。きさまが生きていては、どうもじゃまになって、しかたがないのだ。おれはいく度、きさまのためにあぶないめにあったかしれやしない。だから、これからは、まったく手出しのできないようにしてやるのさ。
おれは人殺しはきらいだ。だが、きさまときさまの手下の小僧たちが、かってに餓死するのは、おれの知ったことじゃないからね。ハハハ……、なんとうまい考えじゃないか。きさまたちの墓場には、この鍾乳洞はじつにおあつらえむきの場所だぜ。オッと、ポケットへ手をやっちゃいけない。それよりこちらの弾丸のとびだすほうが早いのだからね。」じいさんに化けた二十面相は、いつのまにかピストルをにぎって、じっと明智探偵の胸にねらいをさだめていました。わが身を守るためならば、きらいな人殺しもしかねないけんまくです。
明智探偵は、ポケットに用意していたピストルをとりだすこともできないで、立ちすくんでしまいました。ああ、十一人の少年探偵団員はもとより、名探偵明智小五郎までが、まんまと二十面相のわなにかかったのです。かんじんの案内人が二十面相に早がわりしてしまったうえに、板の橋までとりさられたのですから、いくら名探偵の知恵でも、この暗やみの迷路をぬけだすことはできません。
では、われらの明智探偵は、ついに二十面相のために打ちまかされたのでしょうか。そして、十一人の少年たちとともに、この鍾乳洞の中に餓死する運命なのでしょうか。
「ワハハハ……。ゆかいゆかい、おれはこんなゆかいなことは生まれてからはじめてだよ。名探偵が二十面相のためにとりこになって、手も足も出ないなんて。では、探偵さん、きみの部下の少年たちのところへ案内しようかね。あの少年たちが、なまいきにおれの仕事のじゃまをしたばかりに、どんなみじめなようすで、泣きわめいているか、ひとつそれを、ゆっくり見物するんだね。ハハハ……。」二十面相は、にくにくしく言いながら、明智の背中にピストルの筒口をおしつけて、洞くつの奥へ奥へと、連れていくのです。
さすがの明智探偵も、ふいをうたれて、手むかいをするすきもなく、二十面相の命ずるままに、洞くつの奥へ奥へと進むほかはありませんでした。探偵の背中には、二十面相のピストルの筒口が、ピッタリおしつけられているのです。少しでも立ちどまったりすれば、その筒口から、いつ弾丸がとびだすかもしれないのです。いくら名探偵でも、これには手むかいのしようもありません。
そうしてふたりは、だんだん洞くつの奥へ進んでいきました。二十面相は明智探偵の懐中電灯をうばって、それでうしろから道を照らしているのです。おそろしい岩はだがつぎつぎと行く手にあらわれてきます。ある場所では四つんばいにならなければ通れないほどせまくなり、またある場所では、からだを横にしてやっとすりぬけるような細い道もあり、それがグルグルとまがりくねって、どこまでもつづいているのです。
やがて、五、六十メートルも歩いたかと思うころ、にわかにあたりが広くなって、例の洞くつの中の大きな部屋のような場所に出ました。
「さあ、見たまえ、きみのかわいい少年たちが、あのへんにかたまって、べそをかいているから。」二十面相は、にくにくしく言いながら、懐中電灯の光をサッとそのほうにさし向けました。
すると、その光の中に、広い洞くつの向こうがわの岩はだがあらわれ、そのすみに、ひとかたまりになって、力なげにうずくまっている十一人の少年たちの姿が、つぎつぎと照らしだされました。
少年たちは、きのうから、たべるものも飲むものもなく、空腹と疲労のために死人のようになって、そこにうずくまっているのでした。むろんはじめのうちは、どうかしてここをぬけだそうと、まっくらな迷路の中を、気ちがいのように歩きまわってみたのですが、いつまでたっても、同じような岩穴をグルグルまわっているばかりで、あの板の橋のかかっていた大穴のところへさえ出られないのでした。
そのうちにからだは綿のようにつかれはて、おなかはペコペコにへってしまって、さすが勇敢な少年たちも、もうそれ以上歩きまわる力もつきてしまったのです。でも、少年たちは、けっしてこれが運のつきだとは思っていませんでした。
「きっと明智先生が助けに来てくださる。明智先生はなんでもおわかりになっているのだから、ぼくたちが、こうしてひどいめにあっていることも、先生は知っていらっしゃるにちがいない。」口にだしてはいいませんでしたが、みんなそう考えて、今にも明智探偵の、あのニコニコした顔が、あらわれるのではないかと、そればかりを念じていたのです。
ちょうどそこへ、洞くつの向こうがわにとつぜん人のけはいがして、パッとまぶしい懐中電灯の光がさし、二十面相のにくにくしい声が聞こえてきました。
「おい、子どもたち、きみたちの尊敬している明智大先生のご入来だぞ。明智先生は親切にもきみたちを救いだすために、はるばる東京からお出かけになったのだ。だが、お気のどくなことに、先生は、この二十面相のとりこになってしまわれたのだよ。ワハハハ……、さあ、明智先生、かわいい部下たちにあってやるがいい。そして、みんないっしょに、この穴の中で餓死するんだね。二十面相をとらえようなんて、だいそれたことを考えるやつは、しまいにはこんなめにあうんだよ。自業自得というものだ。ざまをみるがいい。ハハハ……。」まるで地獄の底からでも聞こえてくるような、ものおそろしい声が、洞くつにこだまして、ガーンガーンとひびくのです。
少年たちはそれを聞きますと、号令でもかけられたように、すっくと立ちあがり、声のするほうをにらみつけました。いくらおなかがすいていても、うらみかさなる二十面相の声には、こぶしをにぎって立ちあがらないではいられません。
なかでも、団長の小林少年は、明智先生と聞いて、もうじっとしていることはできませんでした。いきなり、おそろしい二十面相がいるのもわすれたように、明智探偵とおぼしい黒い人影にむかって、とびついていました。
「先生。」小林君が、明智探偵に近づいて、手さぐりでその腕にすがりつきますと、
「おお、小林君か。」と、明智探偵もなつかしそうに、その肩をだくのでした。
「ウフフフ……、師弟の対面というやつか。悲劇にでもありそうな場面だね。まあ、せいぜい手を取りあってなげくがいい。きみたちは、もう二度と日の目を見ることはできないのだからね。この洞くつに生きうめ同様になってしまうのだからね。」二十面相の老案内人は、そんなことをつぶやきながら、さもきみよさそうに名探偵と少年助手の黒い影を見まもっています。もうとくいの絶頂なのです。長いあいだ苦しめられた明智探偵と、その片腕といわれる小林少年を、しゅびよくとりこにしてしまったのです。これがうれしくなくてどうしましょう。
ほんの十秒か二十秒のあいだでしたが、さすがの凶賊も、自分の成功によったようになって、ついピストルを持つ手もとがおるすになってしまいました。ゆだんをしたのです。まさかおなかのすいた少年たちに、そんな元気が残っていようとは知らず、とんだゆだんをしてしまったのです。
そのとき、相撲選手の桂君を先頭に、五人の少年探偵団員が、暗やみをさいわい、地面をはうようにして、音もなく、二十面相の足もとへ近づいていました。そして、相手がいい気になってしゃべりながら、ピストルを持つ手をダランとさげているのを見すまし、いきなり、五人がひとかたまりになって、その手にとびついたのです。
「あ、痛い!」二十面相はふいをうたれて、思わずさけびました。それも道理です。五人のうちのひとり篠崎君などは、大きな口をあけて、賊の手首にかみついたのですから、いくら怪盗でもかないません。痛さにたえかねて、ピストルをにぎる指がゆるむのを、力の強い桂君がうむをいわさずもぎとってしまいました。
機敏な明智探偵が、このさわぎをぼんやり見ているはずはありません。探偵は二十面相がおそわれたと知ると、すぐさまポケットのピストルを取りだして、賊の胸にねらいをさだめました。小林少年もリスのように、びんしょうでした。賊がおどろきのあまり取りおとした懐中電灯を、すばやく拾いあげて、そのまるい光を、サッと二十面相の上半身にさしむけました。だれもものも言いません。ただ、やみの中にはげしい息づかいが聞こえるばかりです。
二十面相は思わず両手を高くさしあげて、だんだんあとずさりをはじめました。その姿を追って、懐中電灯の光が、それから、明智探偵のピストルの筒口が、じりじりと、せまっていきます。
十歩、二十歩、賊は洞くつの岩はだにそって、カニのように、横に歩いていきましたが、ふと気がつくと、その懐中電灯に照らされた、老人の顔が、なぜか、ニヤニヤと、きみ悪く笑っているではありませんか。
おや、これはどうしたというのでしょう。ピストルをつきつけられて、絶体絶命の怪盗が、さもおかしそうに笑いだしたのです。
それを見ますと、明智探偵も少年たちも、ハッとして立ちすくんでしまいました。二十面相がこんな笑い方をするからには何かわながあるのです。ゆだんできません。
立ちすくんで、じっと目をこらしているうちに、おお、あれはいったいなんでしょう。二十面相のうしろのやみの中から、ぼんやりと、何か大きな物があらわれてきたではありませんか。
明智探偵には、その奇怪な物の姿が、きゅうにはなんともけんとうがつきませんでしたが、少年たちは一目でそれを見わけることができました。コウモリです。あのいやらしい大コウモリです。人間ほどの大きさの怪獣が二ひきも、化け物のように姿をあらわしたのです。
「先生、あれは人間です。人間がコウモリに化けているのです。」小林君が、明智探偵の手首をにぎってささやきました。と、そのときです。探偵たちのうしろの暗やみから、
「アッ。」というするどいさけび声が聞こえてきました。その声のちょうしが、どうやら最年少の羽柴壮二君らしいのです。
明智探偵と小林君は、ギョッとして、声のしたほうをふりむき、懐中電灯をさしむけました。
すると、どうでしょう。その電灯の光の中に、ゾーッとはだ寒くなるような、おそろしい光景がうきあがったではありませんか。コウモリは正面の二ひきだけではなかったのです。そこにも一ぴき、大コウモリが、あとあしで立ちあがって、羽柴少年を手もとに引きよせ、そのひたいにピストルの筒口をあてて、今にも引き金をひこうと身がまえていたのです。
いや、そればかりではありません。その大コウモリのうしろのやみに、まだ二ひきの怪物がぼんやりと見えています。前後あわせて五ひきのお化けコウモリです。しかも、それらの怪物が、みな一ちょうずつのピストルを前あしの指にはさんで、明智探偵や少年たちに、ねらいをさだめているのです。
コウモリがピストルを持つなんて、なんだかおかしい話ですが、それらの大コウモリは、みな二十面相の部下の人間が変装しているのですから、ピストルのねらいをさだめたところで、少しもふしぎではありません。
「ワハハハ……。」とつぜん、二十面相がたまりかねたように、笑いだしました。すると、その声が洞くつにこだまして、あちらからも、こちらからも、ぶきみな笑い声が聞こえてくるのです。
いや、こだまばかりではありません。五ひきの大コウモリが、声をそろえて笑っているのです。あのいやらしいまっかな口をひらいて、白い牙のような歯をむきだして、げらげらと笑っているのです。
「おい、探偵先生、おどろいたかい。ワハハハ……、おれがたったひとりぼっちだと思っていたのかね。きみたちのような大敵を相手に、いざというときの用意をしておかなかったとでも思っているのかね。さあ、そのピストルと懐中電灯をこちらへわたしたまえ。え、いやかね。ハハハ……、まさかいやとはいうまい。あの子どもの命と引きかえだからね。さあ、わたせ。わたさなきゃ、おれのあいず一つで、あの子どものひたいに穴があくんだぞ。」
あの子どもとは、いうまでもなく、一ぴきの大コウモリにおさえつけられた羽柴壮二君のことです。いくらくやしいといって、羽柴君がうち殺されるのを見殺しにするわけにはいきません。明智探偵はさもざんねんそうに、無言のままピストルを賊にわたしました。小林君も、それにならって、懐中電灯を賊のほうへさしだしたのです。
二十面相は、ピストルと懐中電灯を受けとりますと、またげらげらと笑いだしました。
「ワハハハ……、探偵さん、二十面相の腕まえがわかったかね。じゃあきみたちはそこでゆっくり考えるがいい。一月でも二月でも、一年でも二年でも、ウフフフ……。」といったかと思うと、パッと懐中電灯を消して、そのままどこかへ立ちさっていくようすです。
あとにはただ、目がつぶれてでもしまったような、真のやみがあるばかりでした。そのまっくらやみの中に、バサバサと大きな鳥の羽ばたくような物音が聞こえるのは、あのぶきみな五ひきの大コウモリが、やはりどこかへ立ちさっていく物音にちがいありません。
少年たちが持っていた三個の懐中電灯は、とっくに、賊のために取りあげられていましたし、今また明智探偵の懐中電灯もわたしてしまったのですから、探偵と十一人の少年は、もうおたがいの顔を見る望みさえなく、ただ手さぐりでやみの中をはいまわるほかはないのでした。光があってさえ、まよいやすいこの迷路を、目のふじゆうな人のような手さぐりで、どうして遠い入り口までたどりつくことができましょう。いや、たとえそれができるとしたところで、途中には板の橋をとりさられた大穴が、みんなを一のみにしようと口をあけているのです。
ああ、日本一の名探偵も名少年助手小林芳雄君も、それから、十人の勇敢な少年探偵団員も、このおそろしい鍾乳洞の奥に生きうめになってしまう運命なのでしょうか。暗やみの中で手を取りあいながら、飢え死にをしなければならないのでしょうか。
「勝ったぞ、勝ったぞ。うらみかさなる明智のやつを、とうとう生きうめにしてしまった。ああ、おれは生まれてから、こんなにせいせいしたことはない。もうこれからはおれの天下だぞ。思うさまあばれてやるんだ。」
二十面相は、懐中電灯を消して、かって知ったやみの迷路を、入り口のほうへ急ぎながら、ゆかいでたまらないというように、声に出してつぶやくのでした。
ですが、あの板の橋をとりはずした大穴を、どうしてこすつもりなのでしょう。そこを通らなければ、洞くつの外へ出られないではありませんか。ところが、二十面相は大穴から十メートルほどてまえまで来ますと、ひょいと立ちどまって、懐中電灯をつけ、そこの岩はだを照らしました。
「フフン、こんなしかけがあろうとは、いくら名探偵でも気がつくまいて。よしよしここだ、これがおれのほかにはだれも知らない目印だ。」
二十面相は懐中電灯を地面において、そこにうずくまり、岩と岩の間のせまいすきまに、右手をさし入れて、何かしたかと思いますと、これは、どうでしょう。そのそばの大きな岩のかたまりが、音もなく、まるでドアでもあくように、スーッと動いて、そのあとに、五十センチ四ほうほどの不規則な穴が、ポッカリと口をあけたではありませんか。秘密の通路なのです。それは、ちょっと見たのでは、岩はだのほかの部分と少しもちがわないのですが、じつは、セメントをかためて色をつけた秘密のとびらだったのです。
二十面相はその穴の中へはいりこんで、セメントのとびらをもとのとおりにしめておいて、まるでモグラのように、せまいまっくらな穴を十五、六メートルはいすすみました。そして、その行きどまりまで来ますと、またそこの秘密のしかけをはずして、同じようなコンクリートのとびらをひらき、穴の外にはいだして、またそのとびらをもとのようにしめました。これが例の井戸のような大穴をこさないで入り口に出られる、秘密のぬけ道だったのです。
穴をはいだしたといっても、穴の外もやっぱり洞くつの中の迷路の一部です。二十面相は着物の土をはらって、懐中電灯を照らしながら、その細い道を、入り口のほうへと歩きだしました。
ところが、そうして五、六歩も進んだかと思いますと、何を見たのか、二十面相はギョッとしたように立ちどまり、懐中電灯を行く手のやみにさしむけました。おお、これはなんとしたことでしょう。夢ではないのでしょうか。そこにはひとりの人物が、じっとこちらをにらみつけて、腕組みをしてつっ立っていたのです。読者諸君。それがだれだったと思います。意外も意外、その異様な人物こそわれらの名探偵明智小五郎だったのです。
二十面相はあっけにとられて、しばらくあいた口がふさがらず、まるであほうのような顔をして立ちすくんでいました。まったく不可能なことがおこなわれたのです。二十面相はつい今しがた、明智探偵をあの広い洞くつに置きざりにしてきたばかりではありませんか。あの洞くつからここへ来るのには、橋のない大穴の上を、鳥のようにとびこすか、今の秘密の通路を通るほかないのですが、そのどちらも人間わざではできないことです。大穴は翼でもはえていないかぎり、どんな幅とびの選手だってとびこせないほど広いのですし、いっぽうの秘密の通路のコンクリートのとびらのひらき方は、二十面相のほかにはだれも知らないことです。だいいち、通路の入り口がどこにあるかさえ、ほかの人にはわからないはずです。
ではいったい明智探偵は、どこをどうして、ここへ先まわりしていたのでしょう。まるで魔法使いではありませんか。二十面相は考えているうちに、心の底からこわくなってきました。目の前にニコニコしてつっ立っている名探偵の姿が、何か幽霊ででもあるように、おそろしく思われてきました。
ごらんなさい。二十面相の懐中電灯を持つ手が、ぶるぶるふるえているではありませんか。それにつれて、明智探偵を照らす、まるい光が動くものですから、探偵の姿まで、いかにも幽霊のように、ふわふわとゆれて見えるのです。
「き、きさま、あ、あ、明智だな。」二十面相は虚勢をはって、大きな声でどなりつけました。しかし、おびえきっているしょうこには、その声がひどくふるえているのです。
「ハハハ……、ぼくは明智だよ。どうかしたのかね。きみはひどくおどろいているようだね。何をそんなにびっくりしているんだね。え、二十面相君。」明智探偵は腕組みをしたまま、一歩前に進んで、あざけるように怪盗の顔を見つめました。
「お、おどろいてなんぞいるものか。だが、き、きさま、ここへどうしてやってきたんだ。」
「どうしてって、入り口からはいってきたのさ。それがどうかしたのかね。」明智はさもゆかいらしく、またニコニコと笑いました。
「エッ、入り口からだって? ば、ばかな。そんなことがあるもんか。おれは、きさまを一生涯出られない場所へ、とじこめておいたはずだ。」
「とじこめられているのは、ほかのだれかだろうよ。ぼくは今ここへはいってきたばかりなんだからね。」
「そ、そんなばかなことはない。おれはたしかにきさまを……。」二十面相は、とびだすばかりに見ひらいた目で明智探偵の顔を穴のあくほどにらみつけました。しかし、けっしてにせ者ではありません。正真正銘の明智小五郎にちがいないのです。
「ハハハ……、めんくらっているね。ゆかいゆかい、魔法使いといわれる二十面相が、きょうはぼくの魔法にかかったのだからね。ハハハ……、こんなゆかいなことはないよ。エッ、ぼくがにせ者だというのかね。ハハハ……、にせ者はぼくではなくて、この奥にとじこめられている男だよ。」
「え、え、なんだって?」二十面相は、ほんとうにめんくらってしまって、なにがなんだかわからないようです。
「きみが明智小五郎だと信じて、洞くつの奥へとじこめた男がにせ者だというのさ。」
「そんなことはない。いくら洞くつの中が暗いからって、にせ者にだまされるようなおれじゃない。だいいち、あの男とはおれの家で話をしたのだし、おれの家から洞くつの入り口まで、肩をならべて歩いて、太陽の光でよく顔を見ておいたのだから、まちがいはない。あいつはたしかに明智小五郎だった。」二十面相は半分はひとりごとのようにつぶやいて、まだ、ふにおちぬていです。キツネにつままれたとは、きっとこんな心持ちをいうのでしょう。
「ハハハ……、さすがの二十面相も、きょうは少し頭がにぶいようだね。わからなければ説明してあげよう。いいかね。ぼくは少年探偵団の子どもたちがゆくえ不明になったと聞いたとき、すぐさまきみのことを思いだした。これは、二十面相のしわざにちがいないと考えた。
二十面相はこの鍾乳洞の付近に、だれも気づかぬ人物に変装して、住んでいるのかもしれない。そして子どもたちを鍾乳洞の中へおびきよせ、道にまよわせて、出られなくしてしまったのかもしれないと思った。そこでぼくは警察とも打ちあわせたうえ、ぼくとよく似た体格の男をつれてここへやってきたのだ。その男にはぼくとまったく同じ服装をさせ、それをかくすために大きな将校マントを着せて、ぼくのあとから、人に気づかれぬよう、そっとついて、くるように命じておいた。
いいかね。そして、ここへやってきて、第一にぼくの目をひいたのは、きみの小屋だ。鍾乳洞案内人のじいさんの小屋だ。ぼくはすぐさま、この小屋へはいっていって、きみにあった。あって話をしてみると、ことばのはしはしに、なんとなくあやしいところがある。ひじょうにじょうずに変装しているけれど、きみの顔にはどこかしら不自然なところがある。ぼくは、ハハアこれだなとさとったのだ。そこで、何くわぬ顔できみに案内をたのんで、鍾乳洞の入り口から少しはいったところまでは、たしかにこのぼくが同行した。
だが、きみは少しも気づかなかったけれど、そのとき、ぼくたちふたりのあとをまっ黒な人影がソッと尾行していたのだ。ほかでもない、ぼくがつれてきた替え玉の男だよ。それがぼくと同じ服装をかくすために、頭からスッポリ将校マントをかぶって、ぼくたちのあとへついてきたのだ。
きみはおぼえているかね。穴をはいってまもなく、ぼくが岩かどにつまずいて、懐中電灯を取りおとしたのを。うん、そうだよ。あのときほんのしばらくのあいだ、懐中電灯が消えて、あたりがまっくらになってしまったね。むろんわざとしたことさ。このぼくが不注意でつまずいたりするものか。きみの目をくらます策略だったのさ。その暗やみを利用して、すぐあとからついてきていた替え玉の男と、すばやく入れかわったのだよ。ぼくはその男の将校マントを持って、コッソリ穴の外へ逃げだす。あとに残ったその男は、落ちた懐中電灯を拾いあげ、ぼくの声をまねて、『大じょうぶ』とか、なんとかいったのさ。
ハハハ……、わかったかね。種あかしをしてしまえばなんでもないことだが、二十面相ともあろうものが、この手品にまんまといっぱいかかったんだからね。そしてその替え玉をぼくと信じきって洞くつの奥へとじこめ、とくいになって出てくるところへ、ほんもののぼくがこうしてあらわれたというわけさ。」
目の前の明智探偵が、幽霊でも魔法使いでもなく、ただ子どもだましの手品を使ったばかりだということがわかりますと、二十面相はにわかに元気をとりもどしました。もうこわいこともおそろしいこともありません。相手は自分と同じ人間なのです。しかもひとりとひとりの争いです。
「フフン、明智先生にしては感心な手をもちいたね。おれは、まんまと、いっぱいひっかかるところだったぜ。しかし、そう種あかしを聞いてしまえば、もうこっちのものだ。ウフフフ……、やい、明智、手をあげろ、それとも、この鉛の弾丸が食らいたいのか。」
にわかに強くなった二十面相は、おそろしいけんまくで、どなりながらピストルをかまえました。明智探偵は、ピストルを取りだすでもなく、まだ腕組みをしたままです。ああ、またしても賊のために先手を打たれたのではないでしょうか。しかし、ほんものの明智探偵は替え玉のようにうろたえませんでした。二十面相のおどかしを、どこを風が吹くかと、聞きながして、いつものとおりニコニコ笑っています。
「やい、このピストルが見えないのか。手をあげろ、手を。」二十面相がくりかえしてどなりつけますと、明智はやっと、静かな声で答えました。
「手をあげるのはきみのほうだよ。ちょっとうしろを見てごらん。」
その声があまりおだやかだったものですから、かえって二十面相はギョッとして、思わずうしろをふりむきますと、おお、いつのまにこんな用意ができていたのでしょう。そこには三人の制服警官がせまい通路いっぱいになって、手に手にピストルをかまえていたではありませんか。
さすがの二十面相も、この不意うちには、あっと仰天して、やにわに明智をつきのけて、出口のほうへかけだそうとしますと、その出口のほうからも、数名の警官が、同じようにピストルを持って、ひしひしとつめかけてくるのです。二十面相は、今や絶体絶命でした。でも、さすがに希代の怪盗です。そのままなんの抵抗もせずとらえられるようなことはしませんでした。彼はどこをどう逃げたのか、やみにまぎれて姿をかくし、すばやくれいの大コウモリの怪獣に変装して、警官たちをおびやかしながら、暗やみの迷路のなかを右に左にかけまわりました。
警官隊は十五人、そのうちの五人が洞くつの入り口に見はり番をつとめているのですから、いかな二十面相も、それを突きやぶって外へ逃げだすことはできません。ただ、広い洞くつ内を右往左往するばかりです。
世にも奇怪な鍾乳洞の大捕り物でした。
それから一時間あまりのあいだ、暗黒の洞くつ内に、どんなおそろしい争いが演じられたか。それは読者諸君のゆたかな想像力におまかせしましょう。諸君はこれまでごらんになった映画などの、もっともおそろしい乱闘の場面を頭にえがいてくださればいいのです。しかも、それが暗黒の洞くつの中でおこなわれた、六ぴきの大コウモリと十人の警官隊と、明智探偵のほかに十一人の少年たちも加わった大闘争なのです。
さて、その結果がどちらの勝利となったかは、読者諸君もじゅうぶんお察しのことと思います。明智探偵の味方は総勢二十三人、敵はわずかに六人です。味方は洞くつ内の案内を知らないという不利な点がありましたけれど、捕り物には熟練したおまわりさんたちです。いかに、賊が強いといっても、わずか六人の、いや六ぴきの大コウモリを取りにがすはずはありません。やがて、さしもにはげしい戦いも終わりをつげました。洞くつ内の広い場所に、あのぶきみな羽の上から、ぐるぐる巻きにしばられた六ぴきの怪盗が、つかれはててぐったりよこたわっていました。
東京全都を、いや日本全国をあれほどさわがした凶賊二十面相も、ついに悪運のつきるときがきたのです。いつの世にも邪悪は正義の敵ではありません。悪いやつは、かならずほろびるときがくるのです。
二十面相の大コウモリのまわりには、警官隊と少年探偵団員とが輪を作って、懐中電灯の光を、そのみにくい姿の上に投げかけていました。大任をはたした明智探偵は、いま二十面相の首からぬがしたばかりの大きなコウモリの頭部を手に持って、むきだしになった賊の顔をのぞきこんでいます。
それはじつに異様な光景でした。ぐるぐる巻きにしばられた大コウモリの胴体から、あの老猟師に変装したままの二十面相の首がはえているのです。人面獣心ということばがありますが、今こうして洞くつの中によこたわっている二十面相こそ、心も形も、世にもおそろしい人面獣心なのでした。
「明智君、やっぱりきみのほうがえらかったね。おれは負けた。きょうこそほんとうにおれはきみの前に頭をさげるよ。」
つかれはてて、青ざめた二十面相の顔が、苦しげにゆがんで、細い悲しいしわがれ声で、そんなことをつぶやきながら、じっと明智探偵の顔を見あげました。
「先生、先生は、このあいだ池尻の洋館で、ぼくたちにお約束なさいましたね。一ヵ月以内にきっと二十面相をつかまえてみせるって、あのお約束が、こんなに早く実現されようなんて、ぼく、思いもよりませんでした。」小泉信雄君が、少年たちのうしろから、名探偵をたたえるように、ほがらかなちょうしで言いました。
「そうだ。先生は約束をおはたしになったのだ。諸君、先生のばんざいをとなえようじゃないか。」それは快活な桂正一君の声であった。
「明智先生、ばんざあーい。」
「小林団長、ばんざあーい。」
洞くつもやぶれんばかりのばんざいの声は、四ほうの岩にこだまして、どこからともなく、ばんざあーい、ばんざあーいと、くりかえし、くりかえし、一同の耳にひびいてくるのでした。
底本:「妖怪博士/青銅の魔人」江戸川乱歩推理文庫、講談社
1987(昭和62)年11月6日第1刷発行
初出:「少年倶楽部」大日本雄辯會講談社
1938(昭和13)年1月号~12月号
※「誘かい」と「誘拐」、「風さい」と「風采」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:岡村和彦
2016年6月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。