少年探偵団
江戸川乱歩



黒い魔物


 そいつは全身、墨を塗ったような、おそろしくまっ黒なやつだということでした。

「黒い魔物」のうわさは、もう、東京中にひろがっていましたけれど、ふしぎにも、はっきり、そいつの正体を見きわめた人は、だれもありませんでした。

 そいつは、暗やみの中へしか姿をあらわしませんので、何かしら、やみの中に、やみと同じ色のものが、もやもやと、うごめいていることはわかっても、それがどんな男であるか、あるいは女であるか、おとななのか子どもなのかさえ、はっきりとはわからないのだということです。

 あるさびしいやしき町の夜番のおじさんが、長い黒板塀くろいたべいの前を、例のひょうし木をたたきながら歩いていますと、その黒板塀の一部分が、ちぎれでもしたように、板塀とまったく同じ色をした人間のようなものが、ヒョロヒョロと道のまんなかへ姿をあらわし、おじさんのちょうちんの前で、まっ白な歯をむきだして、ケラケラと笑ったかと思うと、サーッと黒い風のように、どこかへ走りさってしまったということでした。

 夜番のおじさんは、朝になって、みんなにそのことを話して聞かせましたが、そいつの姿が、あまりまっ黒なものですから、まるで白い歯ばかりが宙にういて笑っているようで、あんなきみの悪いことはなかったと、まだ青い顔をして、さも、おそろしそうに、ソッと、うしろをふりむきながら、話すのでした。

 あるやみの晩に、隅田川すみだがわをくだっていたひとりの船頭が、自分の船のそばにみょうな波がたっているのに気づきました。

 星もないやみ夜のことで、川水は墨のようにまっ黒でした。ただが水を切るごとに、うす白い波がたつばかりです。ところが、その櫓の波とはべつに、船ばたにたえず、ふしぎな白波がたっていたではありませんか。

 まるで人が泳いでいるような波でした。しかし、ただ、そういう形の波が見えるばかりで、人間の姿は、少しも目にとまらないのです。

 船頭は、あまりのふしぎさに、ゾーッと背すじへ水をあびせられたような気がしたといいます。でも、やせがまんをだして、大きな声で、その姿の見えない泳ぎ手に、どなりつけたということです。

「オーイ、そこに泳いでいるのは、だれだっ。」

 すると、水をかくような白い波がちょっと止まって、ちょうど、その目に見えないやつの顔のあるへんに、白いものがあらわれたといいます。

 よく見ると、その白いものは人間の前歯でした。白い前歯だけが、黒い水の上にフワフワとただよって、ケラケラと、例のぶきみな声で笑いだしたというのです。

 船頭は、あまりのおそろしさに、もうむがむちゅうで、あとをも見ずに船をこいで逃げだしたということです。

 また、こんなおかしい話もありました。

 ある月の美しい晩、上野うえの公園の広っぱにたたずんで、月をながめていた、ひとりの大学生が、ふと気がつくと、足もとの地面に、自分の影が黒々とうつっているのですが、みょうなことに、その影が少しも動かないのです。いくら首をふったり、手を動かしたりしても、影のほうは、じっとしていて身動きもしないのです。

 大学生は、だんだんきみが悪くなってきました。影だけが死んでしまって動かないなんて、考えてみればおそろしいことです。もしや自分は気でもちがったのではあるまいかと、もうじっとしていられなくなって、大学生は、いきなり歩きはじめたといいます。

 すると、ああ、どうしたというのでしょう、影はやっぱり動かないのです。大学生が、そこから三メートル、五メートルとはなれていっても、影だけは少しも動かず、もとの地面に、よこたわっているのです。

 大学生は、あまりのぶきみさに、立ちすくんでしまいました。そして、いくら見まいとしても、きみが悪ければ悪いほど、かえってその影を、じっと見つめないではいられませんでした。

 ところが、そうして見つめているうちに、もっとおそろしいことがおこったのです。その影の顔のまんなかが、とつぜん、パックリとわれたように白くなって、つまり影が口をひらいて、白い歯をみせたのですが、そして、例のケラケラという笑い声が聞こえてきたのです。

 みなさん、自分の影が歯をむきだして笑ったところを想像してごらんなさい。世の中にこんなきみの悪いことがあるでしょうか。

 さすがの大学生も、アッとさけんで、あとをも見ずに逃げだしたということです。

 それがやっぱり、例の黒い魔物だったのです。あとで考えてみますと、大学生は月に向かっていたのですから、影はうしろにあるはずなのを、目の前に、黒々と人の姿がよこたわっていたものですから、つい、わが影と思いあやまってしまったのでした。

 そういうふうにして、黒い魔物のうわさは、日一日と高くなっていきました。

 やみの中からとびだしてきて、通行人の首をしめようとしたとか、夜、子どもがひとりで歩いていると、まるで黒いふろしきのように子どもをつつんで、地面をコロコロころがっていってしまうとか、種々さまざまのうわさが伝えられ、怪談は怪談をうんで、若い娘さんや、小さい子どもなどは、もうおびえあがってしまって、けっして夜は外出しないほどになってきました。

 この魔物は、むかしの童話にある、かくれみのを持っているのと同じことでした。かくれみのというのは、一度そのみのを身につけますと、人の姿がかき消すように見えなくなって、人中で何をしようと思うがまま、どんな悪いことをしても、とらえられる気づかいがないという、ちょうほうな魔法なのですが、黒い魔物は、それと同じように、やみのなかにとけこんで、人目をくらますことができるのでした。

 インド人や南洋の土人の黒さは、ほんとうの黒さではありません。その魔物のからだは、どんな濃い墨よりも、もっと黒く、黒さが絶頂にたっして、ついに人の目にも見えぬほどになっているのにちがいありません。

 黒い魔物は、やみの中や、黒い背景の前では、忍術使いも同様です。どんないたずらも思うがままです。もしそいつが、何かおそろしい悪事をたくらんだならどうでしょう。悪いことをしておいて、とらえられそうになったら、いきなり、やみの中へとけこんで、姿を消してしまえばいいのですから、こんなやさしいことはありません。また、とらえるほうにしてみれば、こんなこまった相手はないのです。

 黒い魔物とは、はたして何者でしょうか。男でしょうか、女でしょうか、おとなでしょうか、子どもでしょうか。そしてまた、このえたいのしれぬ黒い影法師は、いったい何をしようというのでしょう。ただ黒板塀からとびだしたり、黒い水の中を泳いだり、人の影になって地面によこたわったりする、むじゃきないたずらをして喜んでいるだけでしょうか。いやいや、そうではありますまい。きゃつは、何かしら、とほうもない悪事をたくらんでいるのにちがいありません。いったいぜんたい、どのような悪事をはたらこうというのでしょうか。

 この悪魔を向こうにまわしてたたかうものは、小林こばやし少年を団長とする少年探偵団です。十人の勇敢ゆうかんな小学生によって組織せられた少年探偵団、団長は明智あけち探偵の名助手として知られた小林芳雄よしお少年、その小林少年の先生は、いうまでもなく大探偵明智小五郎こごろうです。

 日本一の私立名探偵と、その配下の少年探偵団、相手は、お化けのような変幻自在の黒怪物、ああ、このたたかいが、どのようにたたかわれることでしょう。


怪物追跡


 やみと同じ色をした怪物が、東京都のそこここに姿をあらわして、やみの中で、白い歯をむいてケラケラ笑うという、うすきみの悪いうわさが、たちまち東京中にひろがり、新聞にも大きくのるようになりました。

 年とった人たちは、きっと魔性ましょうのものがいたずらをしているのだ、お化けにちがいないと、さもきみ悪そうにうわさしあいましたが、若い人たちは、お化けなぞを信じる気にはなれませんでした。それはやっぱり人間にきまっている。どこかのばかなやつが、そんなとほうもないまねをして、おもしろがっているのだろうと考えていました。

 ところが、日がたつにつれて、お化けにもせよ、人間にもせよ、その黒いやつは、ただいたずらをしているばかりではない、何かしらおそろしい悪事をたくらんでいるにちがいないということが、だんだんわかってきたのです。

 あとになって考えてみますと、この黒い怪物の出現は、じつに異常な犯罪事件のいとぐちとなったのでした。できごとは東京を中心にしておこったのですが、それに関係している人物は、日本人ばかりではなく、いわば国際的な犯罪事件でした。

 では、これから、黒い魔物のいたずらが、だんだん犯罪らしい形にかわっていくできごとを、順序をおってお話しましょう。

 読者諸君がよくご承知の、小林少年を団長にいただく少年探偵団の中に、桂正一君かつらしょういちくんという少年がいました。桂君のおうちは、世田谷区の玉川電車の沿線にあって、羽柴壮二はしばそうじ君たちの学校とはちがいましたけれども、正一君と壮二君とはいとこどうしだものですから、壮二君にさそわれて少年探偵団にくわわったのです。

 桂君は、自分が探偵団にはいっただけでなく、やはり玉川たまがわ電車の沿線におうちのある、級友の篠崎始しのざきはじめ君をさそって、ふたりで仲間入りをしたのです。

 ある晩のこと、桂正一君は、電車一駅ほどへだたったところにある、篠崎君のおうちをたずねて、篠崎君の勉強部屋で、いっしょに宿題をといたり、お話をしたりして、八時ごろまで遊んでいましたが、それから、おうちに帰る途中で、おそろしいものに出あってしまったのです。

 もし、おくびょうな少年でしたら、少しまわり道をして表通りを歩くのですけれど、桂君は学校では少年相撲ずもうの選手をしているほどで、腕におぼえのある豪胆ごうたんな少年でしたから、裏通りの近道を、テクテクと歩いていきました。

 両がわは長い板塀や、コンクリート塀や、いけがきばかりで、街燈もほの暗く、夜ふけでもないのに、まったく人通りもないさびしさです。

 春のことでしたから、気候はちっとも寒くないのですが、そうして、まるで死にたえたような夜の町を歩いていますと、なんとなく首すじのところが、ゾクゾクとうそ寒く感じられます。

 一つのまがりかどをまがって、ヒョイと前を見ますと、二十メートルほど向こうの街燈の下を、黒い人影が歩いていきます。それが、おかしなことには、帽子もかぶらず、着物も着ていない。そのくせ、頭のてっぺんから足の先まで、墨のようにまっ黒な人の姿です。

 さすがの桂少年も、この異様な人影をひと目見ると、ゾーッとして立ちすくんでしまいました。

「あいつかもしれない、うわさの高い黒い魔物かもしれない。」

 心臓がドキドキと鳴ってきました。背すじを氷のようにつめたいものが、スーッと走りました。桂君はもう少しのことで、いちもくさんにうしろへ逃げだすところでした。しかし、逃げなかったのです。やっとのことでふみとどまったのです。

 桂君は、自分が名誉ある少年探偵団の一員であることを、思いだしました。しかも、たった今、篠崎君の家で、黒い魔物の話をして、

「ぼくが、もしそいつに出あったら、正体を見あらわしてやるんだがなあ。」

 と、大きなことをいってきたばかりです。

 桂君は少年探偵団のことを考えると、にわかに勇気がでてきました。

 いけがきのかげに身をかくして、じっと見ていますと、怪物は、うしろに人がいるとは少しも気のつかぬようすで、ヒョコヒョコおどるように歩いていきます。見まちがいではありません。たしかに全身まっ黒な、まるで黒ネコみたいな人の姿です。

「やっぱりお化けや幽霊じゃないんだ。ああして歩いているところをみると、人間にちがいない。」

 桂君は、大胆にも、相手にさとられぬよう、ソッとあとをつけてやろうと決心しました。

 怪物は、まるで地面の影が、フラフラと立ちあがって、そのまま歩きだしたような感じで、グングンと遠ざかっていきます。おそろしく早い足です。桂君は、物かげへ物かげへと身をかくしながら、相手を追っかけるのが、やっとでした。

 町をはなれ、人気のない広っぱを少し行きますと、大きな寺のお堂が、星空にお化けのようにそびえて見えました。養源寺ようげんじという江戸時代からの古いお寺です。

 黒い魔物は、その養源寺のいけがきに沿って、ヒョコヒョコと歩いていましたが、やがて、いけがきのやぶれたところから、お堂の裏手へはいってしまいました。

 桂君は、だんだんきみが悪くなってきましたけれども、今さら尾行びこうをよすのはざんねんですから、両手をにぎりしめ、下腹にグッと力を入れて、同じいけがきのやぶれから、暗やみの寺内じないへとしのびこみました。

 見ると、そこは一面の墓地でした。古いのや新しいのや、無数の石碑せきひが、ジメジメとこけむした地面に、ところせまく立ちならんでいます。空の星と、常夜灯のほのかな光に、それらの長方形の石が、うす白くうかんでいるのです。

 桂君は怪談などを信じない現代の少年でしたけれど、そこが無数の死がいをうずめた墓地であることを知ると、ゾッとしないではいられませんでした。

 怪物は、石碑と石碑のあいだのせまい通路を、右にまがり左にまがり、まるで案内を知ったわが家のように、グングンと中へはいっていきます。黒い影が白い石碑を背景にして、いっそうクッキリとうきあがって見えるのです。

 桂君は、全身にビッショリ冷や汗をかきながら、がまん強くそのあとを追いました。さいわい、こちらは背が低いものですから、石碑の陰に身をかくして、チョコチョコと走り、ときどき背のびをして、相手を見うしなわないようにすればよいのでした。

 ところで、桂君が、そうして、何度めかに背のびをしたときでした。びっくりしたことには、思いもよらぬ間近に、石碑を二つほどへだてたすぐ向こうに、黒いやつが、ヌッと立っていたではありませんか。しかも、真正面にこちらを向いているのです。まっ黒な顔の中に、白い目と白い歯とが見えるからには、こちらを向いているのにちがいありません。

 怪物はさいぜんから、ちゃんと尾行を気づいていたのです。そして、わざとこんなさびしい墓地の中へ、おびきよせて、いよいよたたかいをいどもうとするのかもしれません。

 桂少年は、まるでネコの前のネズミのように、からだがすくんでしまって、目をそらすこともできず、そのまっ黒な影法師みたいなやつと、じっと、顔を見あわせていました。胸の中では、心臓がやぶれそうに鼓動こどうしています。

 今にも、今にも、とびかかってくるかと、観念をしていますと、とつぜん、怪物の白い歯がグーッと左右にひろがって、それがガクンと上下にわかれ、ケラケラケラ……と、怪鳥のような声で笑いだしました。

 桂君は何が何だか、もうむがむちゅうでした。おそろしい夢をみて、夢と知りながら、どうしても、目がさませないときと同じ気持で、「助けてくれー。」とさけぼうにも、まるでおしになったように、声が出ないのです。

 ところが、怪物のほうでは、べつにとびかかってくるでもなく、いやな笑い声をたてたまま、フイと石碑のかげに、身をかくしてしまいました。

 かくれておいて、またバアとあらわれるのではないかと、立ちすくんだまま、息を殺していても、いつまで待っても、ふたたびあらわれるようすがありません。といって、その石碑の向こうから立ちさったけはいもないのです。もしその場を動けば、石碑と石碑のあいだに、チロチロと黒い影が見えなければなりません。

 深い海の底のように静まりかえった墓地に、たったひとり、とりのこされた感じです。どちらを向いても動くものとてはなく、つめたい石ばかり、桂君は、夢に夢みるここちでした。

 やっと気をとりなおして、さいぜんまで怪物が立っていた石碑の向こうへ、オズオズと近よってみますと、そこはもうからっぽになって、人のけはいなどありません。念のために、そのへんをくまなく歩きまわってみても、どこにも黒い人の姿はないのです。

 たとえ地面をはっていったとしても、その場所を動けば、こちらの目にうつらぬはずはないのに、それが少しも見えなかったというのは、ふしぎでしかたがありません。あの怪物は西洋の悪魔が、パッと煙をだして、姿を消してしまうように、空中に消えうせたとしか考えられません。

「あいつは、やっぱりお化けだったのかしら。」

 ふと、そう思うと、桂君は、がまんにがまんをしていた恐怖心が、腹の底からこみあげてきて、何かえたいのしれぬことをわめきながら、むがむちゅうで墓地をとびだすと、息もたえだえに、明るい町のほうへかけだしました。

 桂少年は、怪物は墓地の中で、煙のように消えてしまったということを、のちのちまでもかたく信じていました。

 しかし、そんなことがあるものでしょうか。もし黒い魔物が人間だとすれば、空気の中へとけこんでしまうなんて、まったく考えられないことではありませんか。


人さらい


 墓地のできごとがあってから二日の後、やっぱり夜の八時ごろ、篠崎始君のおうちの、りっぱなご門から、三十歳ぐらいの上品な婦人と、五つぐらいのかわいらしい洋装の女の子とが、出てきました。婦人は始君のおばさん、女の子は小さいいとこですが、ふたりは夕方から篠崎君のおうちへ遊びに来ていて、今、帰るところなのです。

 おばさんは、大通りへ出て自動車をひろうつもりで、女の子の手を引いて、うす暗いやしき町を、急ぎ足に歩いていきました。

 すると、またしても、ふたりのうしろから、例の黒い影があらわれたのです。

 怪物は塀から塀へと伝わって、足音もなく、少しずつ、少しずつ、ふたりに近づいていき、一メートルばかりの近さになったかと思うと、いきなり、かわいらしい女の子にとびかかって、小わきにかかえてしまいました。

「アレ、なにをなさるんです。」

 婦人はびっくりして、相手にすがりつこうとしましたが、黒い影は、すばやく片足をあげて、婦人をけたおし、その上にのしかかるようにして、あの白い歯をむきだし、ケラケラケラ……と笑いました。

 婦人はたおれながら、はじめて相手の姿を見ました。そして、うわさに聞く黒い魔物だということがわかると、あまりのおそろしさに、アッとさけんだまま、地面にうつぶしてしまいました。

 そのあいだに、怪物は女の子をつれて、どこかへ走りさってしまったのですが、では、黒い魔物は、おそろしい人さらいだったのかといいますと、べつにそうでもなかったことが、その夜ふけになってわかりました。

 もう十一時ごろでしたが、篠崎君のおうちから一キロほどもはなれた、やっぱり玉川電車ぞいの、あるさびしいやしき町を、一人のおまわりさんが、コツコツと巡回していますと、人通りもない道のまんなかに、五つぐらいの女の子が、シクシク泣きながらたたずんでいるのに出あいました。それがさいぜん黒い怪物にさらわれた、篠崎君の小さいいとこだったのです。

 まだ幼い子どもですから、おまわりさんがいろいろたずねても、何一つはっきり答えることはできませんでしたが、片言まじりのことばを、つなぎあわせて判断してみますと、黒い怪物は、子どもをさらって、どこかさびしい広っぱへつれていき、お菓子かしなどをあたえて、ごきげんをとりながら、名まえをたずねたらしいのですが、「木村きむらサチ子」と、おかあさんに教えられているとおり答えますと、怪物は、きゅうにあらあらしくなって、サチ子さんをそこへすておいたまま、どこかへ行ってしまったというのでした。

 どうも、前後のようすから、怪物は、人ちがいをしたとしか考えられません。だれでもいいから、子どもをさらおうというのではなくて、あるきまった人をねらって、つい人ちがいをしたらしく思われるのです。では、いったい、だれと人ちがいをしたのでしょう。

 その翌日には、矢つぎばやに、またしても、こんなさわぎがおこりました。

 場所はやっぱり篠崎君のおうちの前でした。こんどは夜ではなくて、まっ昼間のことですが、ちょうど門の前で、近所の四つか五つぐらいの女の子が、たったひとりで遊んでいるところへ、チンドン屋の行列が通りかかりました。

 丹下左膳たんげさぜん扮装ふんそうをして、大きな太鼓たいこを胸にぶらさげた男を先頭に、若い洋装の女のしゃみせんひき、シルク・ハットにえんび服のビラくばり、はっぴ姿の旗持ちなどが、一列にならんで、音楽にあわせ、おしりをふりながら歩いてきます。

 その行列のいちばんうしろから、白と赤とのだんだら染めのダブダブの道化服を着て、先に鈴のついたとんがり帽子をかぶり、顔には西洋人みたいな道化のお面をつけた男が、フラフラとついてきましたが、篠崎家の門前の女の子を見ますと、おどけたちょうしで、手まねきをしてみせました。

 女の子は快活な性質とみえて、まねかれるままに、にこにこしながら、道化服の男のそばへかけよりました。

 すると、道化服は、

「これあげましょう。」

といいながら、手に持っていた美しいあめん棒を、女の子の手ににぎらせました。

「もっと、どっさりあげますから、こちらへいらっしゃい。」

 道化服はそんなことをいいながら、女の子の手を引いて、グングン歩いていきます。子どもは、美しいお菓子のほしさにつられて、手を引かれるままに、ついていくのです。

 ところが、そして百メートルほども歩いたとき、道化服の男は、とつぜん、チンドン屋の列をはなれて、女の子をつれたまま、さびしい横町へまがってしまいました。チンドン屋の人たちは、べつにそれをあやしむようすもなく、まっすぐに歩いていくのです。

 道化服は、横町へまがると、グングン足をはやめて、女の子を、ちかくの神社の森の中へつれこみました。

「おじちゃん、どこ行くの?」

 女の子は、人影もない森の中を見まわしながら、まだ、それとも気づかず、むじゃきにたずねるのです。

「いいところです。お菓子や、お人形のどっさりある、いいところです。」

 道化服の男は、東京の人ではないらしく、みょうにくせのあるなまりで、一こと一こと、くぎりながら、いいにくそうにいいました。

「お嬢さん、名まえいってごらんなさい。なんという名まえですか。」

「あたち、タアちゃんよ。」

 女の子は、あどけなく答えます。

「もっとほんとうの名まえは? おとうさまの名は?」

「ミヤモトっていうの。」

「宮本? ほんとうですか、篠崎ではないのですか。」

「ちがうわ。ミヤモトよ。」

「では、さっき遊んでいたうち、お嬢さんのうちではないのですか。」

「ええ、ちがうわ。あたちのうち、もっと小さいの。」

 それだけ聞くと、道化服の男は、いきなりタアちゃんの手をはなして、お面の中で、「チェッ。」と舌打ちをしました。そして、もう一こともものをいわないで、女の子を森の中へおいてけぼりにして、サッサとどこかへたちさってしまいました。

 やがて、その奇妙なできごとは、タアちゃんという女の子が、泣きながら帰ってきて、母親に告げましたので、町中のうわさとなり、警察の耳にもはいりました。幼い女の子の報告ですから、森の中での問答もんどうがくわしくわかったわけではありませんが、道化服のチンドン屋が、タアちゃんをつれさろうとして、中途でよしてしまったらしいことだけは、おぼろげながらわかりました。前夜の黒い魔物と同じやり方です。いよいよ、だれかしら、五つぐらいの女の子がねらわれていることが、はっきりしてきました。

 五つぐらいの女の子といえば、篠崎始君にも、ちょうどその年ごろの、かわいらしい妹があるのです。もしや怪物がねらっているのは、その篠崎家の女の子ではありますまいか、前後の事情を考えあわせると、どうもそうらしく思われるではありませんか。

 隅田川だとか、上野の森だとか、東京中のどこにでも、あのぶきみな姿をあらわして、いたずらをしていた黒い影は、だんだんそのあらわれる場所をせばめてきました。

 桂正一君が出あった場所といい、篠崎君の小さいいとこがさらわれた場所といい、こんどはまた、タアちゃんがつれさられようとした場所といい、みんな篠崎君のおうちを中心としているのです。

 怪物の目的がなんであるかが、少しずつわかってきました。しかし、ただ子どもをさらったり、その子を人質にしてお金をゆすったりするのでしたら、何も黒い影なんかに化けて、人をおどかすことはありません。これには何か、もっともっと深いたくらみがあるのにちがいないのです。


のろいの宝石


 さて、門の前に遊んでいた女の子がさらわれた、その夜のことです。篠崎始君のおとうさまは、ひじょうに心配そうなごようすで、顔色も青ざめて、おかあさまと始君とを、ソッと、奥の座敷へお呼びになりました。

 始君は、おとうさまの、こんなうちしずまれたごようすを、あとにも先にも見たことがありませんでした。

「いったい、どうなすったのだろう。なにごとがおこったのだろう。」

 と、おかあさまも始君も、気がかりで胸がドキドキするほどでした。

 おとうさまは座敷のとこの間の前に、腕組みをしてすわっておいでになります。その床の間には、いつも花びんのおいてある紫檀したんの台の上に、今夜はみょうなものがおいてあるのです。

 内がわを紫色のビロードではりつめた四角な箱の中に、おそろしいほどピカピカ光る、直径一センチほどの玉がはいっています。

 始君は、こんな美しい宝石が、おうちにあることを、今まで少しも知りませんでした。

「わたしはまだ、おまえたちに、この宝石にまつわる、おそろしいのろいの話をしたことがなかったね。わたしは、そんな話を信じていなかった。つまらない話を聞かせて、おまえたちを心配させることはないと思って、きょうまでだまっていたのだ。

 けれども、もう、おまえたちにかくしておくことができなくなった。ゆうべからの少女誘かいさわぎは、どうもただごとではないように思う。わたしたちは、用心しなければならぬのだ。」

 おとうさまは、うちしずんだ声で、何かひじょうに重大なことを、お話になろうとするようすでした。

「では、この宝石と、ゆうべからの事件とのあいだに、何か関係があるとでもおっしゃるのでございますか。」

 おかあさまも、おとうさまと同じように青ざめてしまって、息を殺すようにしておたずねになりました。

「そうだよ。この宝石には、おそろしいのろいがつきまとっているのだ。その話がでたらめでないことがわかってきたのだ。

 おまえも知っているように、この宝石は、一昨年、中国へ行った時、上海シャンハイである外国人から買いとったものだが、その値段がひどくやすかった。時価の十分の一にもたらない、五万七千円という値段であった。

 わたしは、たいへんなほりだしものをしたと思って、喜んでいたのだが、あとになって、別のある外国人がソッとわたしに教えてくれたところによると、この石には、みょうないんねん話があって、その事情を知っているものは、だれも買おうとしないものだったから、それで、こんなやすい値段で、手ばなすことになったのだろうというのだ。

 そのいんねん話というのはね……。」

 おとうさまは、ちょっとことばを切って、ふたりにもっとそばへよるようにと、手まねきをなさいました。

 始君は、少しおとうさまのほうへひざを進めましたが、なんだかおそろしい怪談を聞くような気がして、背中のほうがうそ寒くなってきました。気のせいか、いつも明るい電灯が、今夜は、みょうにうす暗く感じられます。

「この宝石は、もとはインドの奥地にある、ある古いお寺のご本尊ほんぞんの、大きな仏像のひたいにはめこんであったものだそうだ。始は学校で教わったことがあるだろう、白毫びゃくごうというものだ。

 ことのおこりは、今から百年もまえの話だが、そのお寺の付近に戦争があって、お寺は焼けてしまうし、たくさんの人が死んだ。そのとき、仏像の顔にはめこんであった宝石を、敵が持っていってしまったんだね。それから、宝石はいろいろな人の手にわたって、ヨーロッパのほうへ買いとられていった。ひじょうにねうちのある宝石だから、だれでも高い代価で買いとるのだね。

 また、その戦争のときに、その部落の殿さまのお姫さまが、敵のたまにあたって死んでしまった。まだ若いきれいなお姫さまだったそうだが、殿さまが、たいへんかわいがっておいでになったばかりでなく、その部落のインド人は、このお姫さまを神さまのようにうやまった。そのだいじのおかたが、敵のたまにあたって、はかなく死んでしまった。

 部落のインド人たちは、この二つの悲しいできごとを、いつまでもわすれなかった。仏像の命ともいうべき白毫をうばいかえさなければならない。お姫さまのあだをたなければならない。その二つのことが、一つにむすびついて、この宝石につきまとうのろいとなったのだ。

 それはインド中でもいちばん信仰のあつい部落で、部落中のものが、その仏像を気ちがいのように信じ、うやまっていたということだ。仏さまのためには、どんな艱難辛苦かんなんしんくもいとわない、命なんかいつでもすてるという気風きふうなんだ。

 そこで、たいせつな仏像をけがし、殿さまの娘の命をうばった外国人の軍人を、仏さまになりかわってばっすることが決議され、部落を代表して、おそろしい魔術を使う命知らずの、ふたりのインド人が、敵をさがして世界中を旅して歩くことになった。

 そのふたりが病死すれば、また別の若い男が派遣される。そして、何十年でも、何百年でも、宝石をもとの仏像のひたいにもどすまでは、こののろいはとけないというのだ。

 それ以来、この宝石を持っているものは、たえずまっ黒なやつにねらわれている。ことにその家に幼い女の子があるときは、お姫さまのあだ討ちだというので、まず女の子をさらっていって、人知れず殺してしまう。その死体は、どんなに警察がさがしても、発見することができないということだ。

 わたしが上海である外国人に聞いたいんねん話というのは、まあこんなふうなことだったがね、むろん、わたしは信用しなかった。そんなばかなことがあるものか、これはきっと、話をした外国人も宝石をほしがっていたのに、わたしが先に買ってしまったので、根もない怪談を話して聞かせ、わたしから宝石を元値もとねで買いとる気にちがいないと思った。そして、わたしは、つい近ごろまで、そんな話はすっかりわすれてしまっていた。

 ところが、ゆうべもきょうも、わたしたちの家を中心として、幼い女の子がさらわれたのを見ると、また、そのさらったやつが、まっ黒な怪物だったということを思いあわせると、わたしは、どうやら、きみが悪くなってきた。例のいんねん話とぴったり一致しているのだからね。」

「では、うちのみどりちゃんがさらわれるかもしれないと、おっしゃるのですか。」

 おかあさまは、もうびっくりしてしまって、今にも、緑ちゃんを守るために立ちあがろうとなすったくらいです。緑ちゃんというのは、ことし五歳の始君の妹なのです。

「ウン、そうなのだよ。しかし、今は心配しなくてもいい。わたしたちがここにいれば、緑は安全なのだからね。ただ、これからのちは、緑を外へ遊びに出さぬよう、家の中でもつねに目をはなさないようにしていてほしいのだよ。」

 いかにも、おとうさまのおっしゃるとおり、緑ちゃんの遊んでいる部屋へは、この座敷を通らないでは行けないのです。それに、緑ちゃんのそばには、ばあややお手伝いさんがついているはずです。

「でも、おとうさん、おかしいですね。そのインド人は、はじめに罪をおかしたそのときの外国人にだけ復しゅうすればいいじゃありませんか。それを今ごろになって、ぼくたちにあだをかえすなんて。」

 始君は、どうもふにおちませんでした。

「ところが、そうではないのだよ。じっさい手をくだした罪人であろうとなかろうと、現在、宝石を持っているものに、のろいがかかるので、そのため、ヨーロッパでもいく人もめいわくをこうむった人があるのだよ。おそろしさのあまり病気になったり、気がちがったりしたものもあるということだ。」

「そうですか、それはわけのわからない話ですね……。ああ、いいことがある。おとうさん、ぼく少年探偵団にはいっているでしょう。だから……。」

 始君が声をはずませていいますと、おとうさまはお笑いになって、

「ハハハ……、おまえたちの手にはおえないよ。相手はインドの魔法使いだからねえ。おまえ知っているだろう。インドの魔術というものは世界のなぞになっているほどだよ。一本のなわを空中に投げて、その投げたなわをつたって、まるで木登りでもするように、子どもが、空へ登っていくというのだからねえ。

 それから、地面に深い穴を掘って、その中へうずめられたやつが、一月も二月もたってから、土を掘ってみると、ちゃんと生きているという、おそろしい魔法さえある。インド人は今、地面に種をまいたかと思うと、みるみる、それが芽を出し、くきがのび、葉がはえ、花が咲くというようなことは、朝飯まえにやってのける人種だからねえ。」

「じゃ、ぼくらでいけなければ、明智先生にご相談してはどうでしょうか。明智先生は、やっぱり魔法使いみたいな、あの二十面相を、やすやすと逮捕なすった方ですからねえ。」

 始君は、さもじまんらしくいいました。明智探偵ならば、いくら相手がインドの魔法使いだって、けっして負けやしないと、かたく信じているのです。

「ウン、明智先生なら、うまい考えがあるかもしれないねえ。あすにでも、ご相談してみることにしようか。」

 おとうさまも明智探偵を持ちだされては、かぶとをぬがないわけにはいきませんでした。

 しかし、黒い魔物は、あすまでゆうよをあたえてくれるでしょうか。始君たちの話を、やつはもう、障子しょうじの外から、ちゃんと立ち聞きしていたのではありますまいか。


黒い手


 そのとき、始君は何を見たのか、アッと小さいさけび声をたてて、おとうさまのうしろの床の間を見つめたまま、化石したようになってしまいました。その始君の顔といったらありませんでした。まっさおになってしまって、目がとびだすように大きくひらいて、口をポカンとあけて、まるできみの悪い生き人形のようでした。

 おとうさまもおかあさまも、始君のようすにギョッとなすって、いそいで、床の間のほうをごらんになりましたが、すると、おふたりの顔も、始君とおなじような、おそろしい表情にかわってしまいました。

 ごらんなさい。

 床の間のわきの書院窓が、音もなく細めにひらいたではありませんか。そして、そのすきまから、一本の黒い手が、ニューッとつきだされたではありませんか。

「アッ、いけない。」

 と思うまもあらせず、その手は、花台はなだいの宝石箱をわしづかみにしました。そして、黒い手はしずかに、また、もとの障子のすきまから消えていってしまいました。黒い魔物は、大胆不敵だいたんふてきにも三人の目の前で、のろいの宝石をうばいさったのです。

 おとうさまも、始君も、あまりの不意うちに、すっかりどぎもをぬかれてしまって、黒い手にとびかかるのはおろか、座を立つことすらわすれて、ぼうぜんとしていましたが、黒い手がひっこんでしまうと、やっと正気をとりもどしたように、まずおとうさまが、

今井いまい君、今井君、くせ者だ、早く来てくれ……。」

 と、大きな声で秘書をおよびになりました。

「あなた、緑ちゃんに、もしものことがあっては……。」

 おかあさまの、うわずったお声です。

「ウン、おまえもおいで。」

 おとうさまは、すぐさまふすまをひらいて、おかあさまといっしょに、緑ちゃんのいる、部屋へかけこんで行かれましたが、さいわい緑ちゃんにはなにごともありませんでした。

 いっぽう、おとうさまの声に、急いでかけつけた秘書の今井と、始君とは、廊下ろうかのガラス戸が一枚あいたままになっていましたので、そこから庭へとびおりて、くせ者を追跡しました。

 黒い魔物は、つい目の前を走っています。暗い庭の中で、まっ黒なやつを追うのですから、なかなか骨が折れましたが、さいわい、庭のまわりは、とても乗りこせないような、高いコンクリート塀で、グルッと、とりかこまれていますので、くせ者を塀ぎわまで追いつめてしまえば、もう、こっちのものなのです。

 案のじょう、くせ者は塀に行きあたって当惑したらしく、方向をかえて、塀の内がわにそって走りだしました。塀ぎわには、背の高い青ギリだとか、低くしげっているツツジだとか、いろいろな木が植えてあります。くせ者はその木立こだちをぬって、低いしげみはとびこえて、風のように走っていきます。

 ところが、そうして少し走っているあいだに、じつにふしぎなことがおこりました。くせ者の黒い姿が、ひとつの低いしげみをとびこしたかと思うと、まるで、忍術使いのように、消えうせてしまったのです。

 始君たちは、きっとしげみのかげに、しゃがんでかくれているのだろうと思って、用心しながら近づいていきましたが、そこにはだれもいないことがわかりました。くせ者は蒸発してしまったとしか考えられません。

 しばらくすると、電話の知らせで、ふたりのおまわりさんがやってきましたが、そのおまわりさんと、家中のものが手分けをして、懐中電燈の光で、庭のすみずみまでさがしたのですけれど、やっぱりあやしい人影は発見できませんでした。むろん宝石をとりもどすこともできなかったのです。

 これがインド人の魔法なのでしょうか。魔法ででもなければ、こんなにみごとに消えうせてしまうことはできますまい。

 読者諸君は、いつかの晩、篠崎始君の友だちの桂正一君が、養源寺の墓地の中で、黒い魔物を見うしなったことを記憶されるでしょう。こんどもあのおりとまったく同じだったのです。くせ者は追っ手の目の前で、やすやすと姿を消してしまったのです。

 ああ、インド人の魔法。インド人は、始君のおとうさまがおっしゃったように、ほんとうにそんな魔術が使えるのでしょうか。もしかしたら、このあまりに手ぎわのよい消失には、何かしら思いもよらない手品の種があったのではないでしょうか。


ふたりのインド人


 さわぎのうちに一夜がすぎて、その翌日は、篠崎家の内外に、アリも通さぬ、げんじゅうな警戒がしかれました。緑ちゃんは、奥の一間にとじこめられ、障子をしめきって、おとうさま、おかあさまは、もちろん、ふたりの秘書、ばあやさん、ふたりのお手伝いさんなどが、その部屋の内と外とをかためました。十いくつの目が、寸時もわき見をしないで、じっと、小さい緑ちゃんにそそがれていたのです。家の外では、所轄しょかつ警察署の私服刑事が数名、門前や塀のまわりを見はっています。じゅうぶんすぎるほどの警戒けいかいでした。

 しかし、おとうさまもおかあさまも、まだ安心ができないのです。ゆうべの手なみでもわかるように、くせ者は忍術使いのようなやつですから、いくら警戒してもむだではないかとさえ感じられるのです。ひじょうな不安のうちに時がたって、やがて午後三時を少しすぎたころ、学校へ行っていた始君がいきおいよく帰ってきました。

「おとうさん、ただいま。緑ちゃん大じょうぶでしたか。」

「ウン、こうして、きげんよく遊んでいるよ。だがおまえは、いつもより、ひどくおそかったじゃないか。」

 おとうさまが、ふしんらしくおたずねになりました。

「ええ、それにはわけがあるんです。ぼく、学校がひけてから、明智先生のところへ行ってきたんです。」

「ああ、そうだったか。で、先生にお会いできたかい。」

「それがだめなんですよ。先生は旅行していらっしゃるんです。どっか遠方えんぽうの事件なんですって。でね、小林さんに相談したんですよ。するとね、あの人やっぱり頭がいいや。うまいことを考えだしてくれましたよ。おとうさん、どんな考えだと思います。」

 始君は大とくいでした。

「さあ、おとうさんにはわからないね。話してごらん。」

「じゃ、話しますからね。おとうさん耳をかしてください。」

 そんなことはあるまいけれど、もし、くせ者に聞かれたらたいへんだというので、始君は、おとうさまの耳に口をよせて、ささやくのでした。

「あのね、小林さんはね、緑ちゃんを変装させなさいというのですよ。」

「え、なんだって、こんな小さい子どもにかい?」

 おとうさまも、思わずささやき声になっておたずねになりました。

「ええ、こうなんですよ。小林さんがいうのにはね、どこかに緑ちゃんのよくなついているおばさんか何かがないかっていうんです。でも、ぼく、そういうおばさんなら、品川区しながわくにひとりあるって言ったんです。ほら、緑ちゃんの大すきな野村のおばさんね。ぼく、あの人のことを言ったんですよ。

 すると、小林さんは、それじゃ、緑ちゃんをコッソリそのおばさんちへつれていって、しばらくあずかってもらったほうがいいっていうんです。ね、そうすれば、あいつは、この家ばかりねらっていて、むだ骨折りをするわけでしょう。

 でも、つれていくときに見つかる心配があるから、そこに手だてがいるんだっていうんですよ。それはね、まず小林さんが、近所の五つくらいの男の子を、男の子ですよ、それをつれて、ぼくんちへ遊びに来るんです。そしてね、こっそり緑ちゃんにその子の服を着せちゃって、そして、小林さんは帰りには、男の子に変装した緑ちゃんをつれて、なにくわぬ顔で家を出るんです。ね、わかったでしょう。

 でも、用心のうえにも用心をしなければいけないから、いつもよびつけの自動車を呼んで、うちの今井さんが助手席に乗って、そして、品川のおばさんちまで、ぶじに送りとどけるっていうんです。ね、うまい考えでしょう。これなら大じょうぶでしょう。」

「ウーン、なるほどね。さすがはおまえたちの団長の小林君だね。うまい考えだ。おとうさんは賛成だよ。じつはおとうさんも、緑をどっかへあずけたほうがいいとは思っていたんだ。しかし、その道があぶないので、決心がつかないんだよ。」

 おとうさまは、小林君の名案にすっかり感心なすって、おかあさまにご相談なさいました。おかあさまも、反対する理由がないものですから、しかたなく賛成なさいましたが、

「でも、そのつれてきた男の子をどうしますのよ? そのお子さんに、もしものことがあったらこまるじゃありませんか。」

 と、やっぱりささやき声でおっしゃるのです。

「それは大じょうぶですよ。あの黒いやつは緑ちゃんのほかの子は見向きもしないんですもの。たとえさらわれたって、危険はないんだし、それに、すぐあとから、また小林さんが迎えに来るっていうんです。そしてね、もう一着、似たような男の子ども服を用意しておいてね、それを着せてつれて帰るんだっていいますから、同じような男の子が二度門を出るわけですね。おもしろいでしょう。悪者は、めんくらうでしょうね。」

 この始君の説明で、おかあさまも、やっと納得なっとくなさいましたので、始君はさっそく明智事務所へ電話をかけて、あらかじめ打ちあわせておいた暗号で、小林少年にこのことを伝えました。

 さて小林君が、緑ちゃんくらいの背かっこうのかわいらしい男の子をつれて、篠崎家へやってきたのは、もう日の暮れがた時分でした。

 すぐさま奥まった一間ひとまをしめきって、緑ちゃんの変装がおこなわれました。かわいらしいイートンスーツを着て、おかっぱの髪の毛は大きな帽子の中へかくして、たちまち勇ましい男の子ができあがりました。

 まだ五つの緑ちゃんは、何もわけがわからないものですから、生まれてから一度も着たことのないイートンスーツを着て、大よろこびです。

 すっかり支度したくができますと、緑ちゃんには品川のおばさんのところへ行くんだからと、よくいいきかせたうえ、小林君は篠崎君のおとうさまから、おばさんにあてた依頼状を、たいせつにポケットに入れて、緑ちゃんの手を引いて、わざと人目にふれるように、門の外へ出ていきました。

 門の外には、もうちゃんと自動車が待っています。小林君は緑ちゃんをだいて、秘書の今井君があけてくれたドアの中へはいり、客席にこしかけました。つづいて、今井君も助手席につき、車は、エンジンの音もしずかに出発しました。

 もう外は、ほとんど暗くなっていました。道ゆく人もおぼろげです。自動車はしばらく電車道を通っていましたが、やがて、さびしい横町に折れ、ひじょうな速力で走っています。

 見ていると、両がわの人家がだんだんまばらになり、ひどくさびしい場所へさしかかりました。

「運転手さん、方向がちがいやしないかい。」

 小林君は、みょうに思って声をかけました。

 しかし運転手は、まるでつんぼのように、なんの返事もしないのです。

「おい、運転手さん、聞こえないのか。」

 小林君は、思わず大声でどなりつけて、運転手の肩をたたきました。すると、

「よく聞こえています。」

 という返事といっしょに、運転手と今井君とが、ヒョイとうしろをふりむきました。

 ああ、その顔! 運転手も今井君も、まるで、えんとつの中からはいだしたように、まっ黒な顔をしていたではありませんか。そして、ふたりは、申しあわせでもしたように、同時にまっ白な歯をむきだして、あのゾッと総毛立そうけだつような笑いで、ケラケラケラと笑いました。読者諸君、それはふたりのインド人だったのです。

 しかし、運転手はともかくとして、今井君までが、ついさきほど自動車のドアをあけてくれた今井君までが、いつのまにか黒い魔物にかわってしまったのです。まったく不可能なことです。これも、あのインド人だけが知っている、摩訶不思議まかふしぎ妖術ようじゅつなのでしょうか。


銀色のメダル


 小林君は、まるでキツネにつままれたような気持でした。さいぜん、篠崎家の門前で、自動車に乗るときには、秘書も運転手も、たしかに白い日本人の顔でした。いくらなんでも、運転手がインド人とわかれば、小林君がそんな車に乗りこむわけがありません。

 それが、十分も走るか走らないうちに、今まで日本人であったふたりが、とつぜん、まるで早がわりでもしたように、まっ黒なインド人に化けてしまったのです。これはいったい、どうしたというのでしょう。インドには世界のなぞといわれる、ふしぎな魔術があるそうですが、これもその魔術の一種なのでしょうか。

 しかし、今は、そんなことを考えているばあいではありません。緑ちゃんを守らなければならないのです。どうかして自動車をとびだし、敵の手からのがれなければなりません。

 小林君は、やにわに緑ちゃんを小わきにかかえると、ドアをひらいて、走っている自動車からとびおりようと身がまえました。

「ヒヒヒ……、だめ、だめ、逃げるとうちころすよ。」

 黒い運転手が、片言のような、あやしげな日本語でどなったかと思うと、ふたりのインド人の手が、ニューッとうしろにのびて、二丁のピストルの筒口つつぐちが、小林君と緑ちゃんの胸をねらいました。

「ちくしょう!」

 小林君は、歯ぎしりをしてくやしがりました。自分ひとりなら、どうにでもして逃げるのですが、緑ちゃんにけがをさせまいとすれば、ざんねんながら、相手のいうままになるほかはありません。

 小林君が、ひるむようすを見ると、インド人は車をとめて、助手席にいたほうが、運転台をおり、客席のドアをひらいて、まず緑ちゃんを、つぎに小林君を、細引ほそびきでうしろ手にしばりあげ、そのうえ、用意の手ぬぐいで、ふたりの口にさるぐつわをかませてしまいました。

 その仕事のあいだじゅう、席に残った運転手は、じっとピストルをさしむけていたのですから、抵抗することなど、思いもおよびません。

 しかし、ふたりのインド人は、それを少しも気づきませんでしたけれど、小林君は、相手のなすがままにまかせながら、ちょっとのすきをみて、みょうなことをしました。

 それは、今井君に化けたインド人が、緑ちゃんをしばっているときでしたが、小林君はすばやく右手をポケットにつっこむと、何かキラキラ光る銀貨のようなものを、ひとつかみ取りだして、それを、相手にさとられぬよう、ソッと、車のうしろのバンパーのつけねのすみにおきました。インド人にみつからぬよう、ずっとすみのほうへおいたのです。

 ちょっと見ると百円銀貨のようですが、むろん銀貨ではありません。何か銀色をした鉛製なまりせいのメダルのようなものです。数はおよそ三十枚もあったでしょうか。

 インド人は、さいわいそれには少しも気がつかず、ふたりにさるぐつわをしてしまうと、ドアをしめて、もとの運転席にもどりました。そして、車はまたもや、人家もみえぬさびしい広っぱを、どこともなく走りだしたのです。

 すると、疾走しっそうする自動車のうしろの、幅の狭いバンパーのつけねの上に、みょうなことがおこりました。さいぜん小林君がおいた百円銀貨のようなものが、車の動揺につれて、ジリジリと動き出し、はしのほうから一つずつ、地面にふりおとされていくのです。

 そして、三十個ほどのメダルが、すっかり落ちてしまうのに、七─八分もかかったのですが、自動車は、そのメダルがなくなってしまうとまもなく、とあるさびしい町に、ピッタリと停車しました。

 あとでわかったところによれば、それは同じ世田谷区内の、篠崎君のおうちとは反対のはしにある、まだ人家の建ちそろわない、さびしい住宅地だったのです。

 車がとまると、小林君と緑ちゃんとは、ふたりのインド人のために、有無うむをいわせず、客席から引きだされて、そこに建っていた一けんの小さい洋館の中へつれこまれました。

 ところが、その洋館の門をはいるとき、小林君はまたしても、みょうなことをしたのです。小林君はそのときまで、うしろにしばられた右手を、ギュッとにぎりしめていましたが、それを、インド人たちに気づかれぬよう、歩きながら少しずつひらいていったのです。

 すると、小林君の右手の中から、例の銀色のメダルが、一枚ずつ、やわらかい地面の上へ、音もたてず落ちはじめ、自動車のとまったところから、門内までに、つごう五枚のメダルが、二メートルほどずつ間をへだてて、地面にばらまかれました。

 読者諸君、この銀貨のようなメダルは、いったいなんでしょうか。小林君は、どうしてそんなたくさんのメダルを持っていたのでしょうか。また、それをいろいろなしかたで、自動車の通った道路や、洋館の門前に、まきちらしたのには、どういう意味があったのでしょうか。そのわけを、ひとつ想像してごらんください。

 インド人たちは、緑ちゃんをひっかかえ、小林君をつきとばすようにして、洋館にはいり、せまい廊下づたいに、ふたりを奥まった部屋へつれこみましたが、見ると、その部屋のすみの床板に、ポッカリと四角な黒い穴があいているのです。地下室への入口です。

「この中へはいりなさい。」

 インド人がおそろしい顔つきで命じました。

 小林君は両手をしばられて、まったく抵抗力をうばわれているのですから、どうすることもできません。いわれるままに、そこに立てかけてあるそまつなはしごを、あぶなっかしく、地面の穴ぐらへおりていくほかはありませんでした。小林君が、ほとんどすべり落ちるようにして、まっくらな穴ぐらの底に横たわると、インド人のひとりが、はしごの中段までおりて、そこから緑ちゃんの小さいからだを、小林君のたおれている上へ、投げおとしました。

 やがて、はしごがスルスルと天井に引きあげられ、穴ぐらの入り口は密閉され、地下室はしんのやみになってしまいました。

 そのやみの中に、からだの自由をうばわれた、緑ちゃんと小林君とが、折りかさなってたおれているのです。緑ちゃんは顔中を涙にぬらして泣きいっているのですが、さるぐつわにさまたげられ、ウウウ……という、悲しげなうめき声がもれるばかりです。

 ああ、かわいそうなふたりは、これからどうなっていくことでしょうか。


少年捜索隊


 ちょうどそのころ、篠崎君のおうちの近くの、養源寺の門前を、六人の小学校上級生が、何か話しながら歩いていました。

 先頭に立っているのは、篠崎君の親友の、よくふとった桂正一君です。桂君は、学校で篠崎君からこんどの事件のことを聞いたものですから、まず、いとこの羽柴壮二君に電話をかけ、羽柴君から少年探偵団員に伝えてもらって、一同、桂君のところに勢ぞろいをしたうえ、篠崎家を訪問することになったのです。団員のうち三人は、さしつかえがあって、集まったのは六人だけでした。

 少年探偵団員たちは、仲間のうちに何か不幸があれば、かならず助けあう、というかたい約束をむすんでいました。いま、団員篠崎始君のおうちは、おそろしい悪魔におそわれています。しかも、それが、このあいだから、東京中をさわがせている「黒い怪物」なのですから、少年探偵団は、もう、じっとしているわけにはいきませんでした。ことに彼らの団長の小林少年が、篠崎君のいにおうじて、出動したことがわかっているものですから、一同、いよいよ勇みたったのです。「黒い怪物」は、ぜひ、われわれの手でとらえて、少年探偵団の手なみを見せようではないかと、団員は、もう、はりきっているのです。

 桂正一君は、養源寺の門前まで来ると、そこに立ちどまって、いつかの晩の冒険について、一同に語りきかせました。読者諸君は、そのとき、黒い怪物が養源寺の墓地の中で、消えうせるように姿をかくしてしまったことを記憶されるでしょう。

「ほんとうにかき消すように見えなくなってしまったんだよ。ぼくは、お化けなんか信じないけれど、墓地の中だろう。それにまっくらな夜だろう、さすがのぼくもゾーッとふるえあがって、やにわに逃げだしてしまったのさ。その墓地っていうのは、この本堂の裏手にあるんだよ。」

 桂君はそういいながら、お寺の門内にはいって、本堂の裏手を指さしました。少年たちも桂君といっしょにぞろぞろと門内にはいり、たそがれ時の、ものさびしい境内けいだいを、あちこちと見まわしていましたが、最年少の羽柴壮二君が、何を発見したのか、びっくりしたように、桂君の腕をとらえました。

「正一君、あれ、あれ、あすこを見たまえ。なんだかいるぜ。」

 ほとんどふるえ声になって、壮二君が指さすところを見ますと、いかにも、門の横のいけがきのそばの低い樹木のしげみの中に、何かモコモコとうごめいているものがあります。それが、どうやら人間の足らしいのです。人間の足が、しげみの中からニューッとあらわれて、まるでいも虫みたいに、動いているのです。

 一同それに気づくと、いくら探偵団などといばっていても、やっぱり子どものことですから、ゾッとして立ちすくんでしまいました。おたがいに顔見あわせて、今にも逃げだしそうなようすです。

 むりもありません。物の姿のおぼろに見える夕暮れ時、さびしいお寺の境内で、しかも桂君の怪談を聞かされたばかりのところへ、うす暗いしげみの間から、ふいに人間の足があらわれたのですからね。おとなだって、おびえないではいられなかったでしょう。

「よし、ぼくが見とどけてやろう。」

 さすがに相撲の選手です。桂正一君は、おびえる一同を、その場に残して、ただひとり、しげみのほうへ近づいていきました。

「だれだっ。そこにかくれているのは、だれだっ。」

 大声でどなってみても、相手は少しも返事をしません。といって逃げだすわけでもなく、いも虫のような足が、ますますはげしく動くばかりです。

 桂君は、また二─三歩前進して、しげみのかげをのぞきました。そして、何を見たのか、ギョッとしたように立ちなおりましたが、いきなりうしろをふりむくと、一同を手まねきするのです。

「早く来たまえ、人がしばられているんだよ。ふたりの人が、ぐるぐる巻きにしばられて、ころがっているんだよ。」

 お化けではないとわかると、団員たちは、にわかに勢いづいて、その場へかけだしました。

 見ると、いかにも、そのしげみのかげに、ふたりのおとなが、手と足を、めちゃくちゃにしばられ、さるぐつわまではめられて、よこたわっていました。そのうちのひとりは、着物をはぎとられたとみえて、シャツとズボン下ばかりの、みじめな姿です。

「おや、これは篠崎君とこの秘書だぜ」

 桂少年は、そのシャツ一枚の青年を指さしてさけびました。

 それから、六人がかりで、なわをとき、さるぐつわをはずしてやりますと、ふたりのおとなは、やっと口がきけるようになって、事のしだいを説明しました。

 しばられていたのは、シャツ一枚のほうが篠崎家の秘書今井君、もうひとりの洋服の男は、篠崎家お出入りの自動車運転手でした。

 ふたりの説明を聞くまでもなく、もう読者諸君にはおわかりでしょうが、今井君が、主人のいいつけで自動車を呼びに行き、気心の知れた運転手をえらんで、同乗して篠崎家へひっかえす途中、この養源寺の門前にさしかかると、とつぜんふたりの覆面ふくめんをした怪漢かいかんに呼びとめられ、ピストルをつきつけられて、有無をいわせず、しばりあげられてしまったというのです。

 そして、その怪漢のひとりが、今井君の洋服をはぎとって、今井君に変装をして、ふたりは、うばいとった自動車にとびのると、そのまま運転をして、どこかへ走りさってしまったのだそうです。

 団員たちは、ふたりのおとなといっしょに、ただちに篠崎家にかけつけ、事のしだいを報告しました。それをお聞きになった篠崎君のおとうさま、おかあさまは、もう、まっさおになっておしまいになりました。

 ふたりがこんなめにあわされたからには、さいぜんの自動車は、インド人が変装して運転していたのにちがいない。すると、緑ちゃんも小林君も、今ごろは、彼らのそうくつにつれこまれて、どんなひどいめにあっているかわからないのです。

 すぐさま警察へ電話がかけられる。まもあらせず、所轄警察署からはもちろん、警視庁からも、捜査係長その他が自動車をとばしてくる、篠崎家は、上を下への大さわぎになりました。

 さいわい、自動車の番号がわかっているものですから、たちまち全都の警察へ、その番号の自動車をさがすように手配がおこなわれましたが、しかし、犯人のほうでも、まさかあの自動車を、そのまま門前にとめておくはずはなく、おそらくどこか遠いところへ運転していって、道ばたにすてさったにちがいありませんから、たとえ自動車が発見されたとしても、賊の巣くつをつきとめることは、むずかしそうに思われます。

 いっぽう、篠崎始君をくわえた、七人の少年探偵団員は、なるべく、おとなたちのじゃまをしないように、門の前に勢ぞろいをして、いろいろと相談をしていましたが、ぼくたちも、手をつかねてながめていることはない。警察とはべつに、できるだけはたらいてみようではないかということになり、七人が手分けをして、自動車の走りさった方角を、ひろく歩きまわり、例の聞きこみ捜査そうさをはじめることに一決しました。

 賊の自動車が、玉川電車の線路を、どちらへまがっていったかということだけは、わかっていましたので、七人は肩をならべて、その方角へ歩いていきましたが、四辻よつつじに出くわすたびに、ふたりまたは三人ずつの組になって、枝道へはいっていき、たばこ屋の店番をしているおばさんだとか、そのへんを歩いているご用聞きなどに、こういう自動車を見なかったかと、たんねんに聞きこみをやり、なんの手がかりもないばあいは、またもとの電車道に引きかえして、つぎの四辻をさがすというふうに、なかなか組織的な捜査方法をとって、いつまでもあきることなく、歩きまわるのでした。


地下室


 お話かわって、地下室に投げこまれた小林君と緑ちゃんとは、まっくらやみの中で、しばらくは身動きをする勇気もなく、グッタリとしていましたが、やがて目が暗やみになれるにしたがって、うっすらとあたりのようすがわかってきました。それは畳六畳敷きほどの、ごくせまいコンクリートの穴ぐらでした。ふつうの住宅にこんなみょうな地下室があるはずはありませんから、インド人たちが、この洋館を買いいれて、悪事をはたらくために、こっそりこんなものをつくらせたのにちがいありません。壁や床のコンクリートも、気のせいか、まだかわいたばかりのように新しく感じられます。

 小林君は、やっと元気をとりもどして、やみの中に立ちあがっていましたが、ただジメジメしたコンクリートのにおいがするばかりで、どこに一つすきまもなく、逃げだす見こみなど、まったくないことがわかりました。

 思いだされるのは、いつか戸山とやまはらの二十面相の巣くつに乗りこんでいって、地下室にとじこめられたときのことです。あのときは、天井につごうのよい窓がありました。そのうえ七つ道具や、ハトのピッポちゃんを用意していましたので、うまくのがれることができたのですが、こんどは、そんな窓もなく、まさか敵の巣くつにとらわれようとは、夢にも思いませんので、七つ道具の用意さえありません。こんなとき、万年筆型の懐中電燈かいちゅうでんとうでもあったらと思うのですが、それも持っていませんでした。

 しかし、たとえ逃げだす見こみはなくとも、まんいちのばあいの用意に、からだの自由だけは得ておかねばなりません。

 そこで、小林君は、緑ちゃんのそばへうしろ向きによこたわり、少しばかり動く手先を利用して、緑ちゃんのくくわれているなわの結びめをほどこうとしました。

 暗やみの中の、不自由な手先だけの仕事ですから、その苦心は、ひととおりでなく、長い時をついやしましたけれど、それでもやっと、目的をはたして、緑ちゃんの両手を自由にすることができました。

 すると、たった五つの幼児ですが、ひじょうにかしこい緑ちゃんは、すぐ、小林君の気持を察して、まず、自分のさるぐつわをはずしてから、泣きじゃくりながらも、小林君のうしろにまわり、手さぐりで、そのなわの結びめをといてくれるのでした。

 それにも、また長いことかかりましたけれど、けっきょく、小林君も自由の身となり、さるぐつわをとって、ホッと息をつくことができました。

「緑ちゃん、ありがとう。かしこいねえ。泣くんじゃないよ。今にね、警察のおじさんが助けに来てくださるから、心配しなくてもいいんだよ。さあ、もっとこっちへいらっしゃい。」

 小林君はそういって、かわいい緑ちゃんを引きよせ、両手でギュッとだきしめてやるのでした。

 しばらくのあいだ、そうしているうちに、とつぜん、天井にあらあらしい靴音がして、ちょうど地下室への入り口あたりで立ちどまると、コトコトとみょうな物音がしはじめました。

 目をこらして、暗い天井を見あげていますと、はっきりとはわかりませんけれど、天井に小さな穴がひらいて、そこから何か太いくだのようなものが、さしこまれているようすです。直径二十センチもある太い管です。

 おや、へんなことをするな、いったいあれはなんだろうと、ゆだんなく身がまえをして、なおもそこを見つめているうちに、ガガガ……というような音がしたかと思うと、とつじょとして、その太い管の口から、白いものが、しぶきをたてて、滝のように落ちはじめました。水です。水です。

 ああ、読者諸君、このときの小林君のおどろきは、どんなでしたろう。

 黒い怪物は、むごたらしくも、緑ちゃんと小林君とを、水責めにしようとしているのです。あのはげしさで落ちる水は、ほどもなく、たった六畳ほどの地下室に、すきまもなく満ちあふれてしまうにちがいありません。やがてふたりは、その水の中で溺死できししなければならないのです。

 そういううちにも、水は地下室の床いちめんに、洪水こうずいのように流れはじめました。もう、すわっているわけにはいきません。小林君は、緑ちゃんをだいて、水しぶきのかからぬすみのほうへ、身をさけました。

 水は、そうして立っている小林君の足をひたし、くるぶしをひたし、やがてじょじょに、じょじょに、ふくらはぎのほうへ、はいあがってくるのです。

 ちょうどそのころ、少年捜索隊そうさくたいの篠崎君と桂君の一組は、やっとのこと、インド人の自動車が通ったさびしい広っぱの近くへ、さしかかっていました。

 この道は、今までのうちで、いちばんさびしいから、念入りにしらべてみなければならないというので、べつだんの聞きこみもありませんでしたけれど、あきらめないで歩いていますと、夕やみの広っぱへはいろうとする少し手前のところで、駄菓子屋の店あかりの前を、七─八歳の男の子が、向こうからやってくるのに出あいました。

「おい、篠崎君、あの子どもの胸に光っている記章を見たまえ。なんだかぼくらのBDバッジに似ているじゃないか。」

 桂君のことばに、ふたりが、子どもに近づいてみますと、その胸にかけているのは、まごうかたもなく、少年探偵団のBDバッジでした。

 BDバッジというのは、小林君の発案で、ついこのあいだできあがったばかりの探偵団員の記章でした。BDというのは、Boy(少年)とDetective(探偵)のBとDとを模様のように組みあわせて、記章の図案にしたことから名づけられたのです。

「その記章、どこにあったの? どっかでひろいやしなかったの?」

 子どもをとらえてたずねてみますと、子どもは取りあげられはしないかと、警戒するふうで、

「ウン、あすこに落ちていたんだよ。ぼくんだよ。ぼくがひろったから、ぼくんだよ。」

 と、白い目でふたりをにらみました。

 子どもが、あすこでひろったと指さしたのは、広っぱのほうです。

「じゃ、小林さんが、わざと落としていったのかもしれないぜ。」

「ウン、そうらしいね。重大な手がかりだ。」

 ふたりは、勇みたってさけびました。

 小林少年が考案したBDバッジには、ただ、団員の記章というほかに、いろいろな用途があるのでした。まず第一は、重い鉛でできているので、ふだんから、それをたくさんポケットの中へ入れておけば、いざというときの石つぶてのかわりになる。第二には、敵にとらえられたばあいなどに、記章の裏のやわらかい鉛の面へ、ナイフで文字を書いて、窓や塀の外へ投げて、通信することができる。第三には、裏面の針にひもをむすんで、水の深さをはかったり、物の距離を測定することができる。第四には、敵に誘かいされたばあいに、道にこれをいくつも落としておけば、方角を知らせる目じるしになる。というように、小林君がならべたてたBDバッジの効能は、十ヵ条ほどもあったのです。

 団員たちは、ちょうどアメリカの刑事のように、このバッジを洋服の胸の内がわにつけて、何かのときには、そこをひらいてみせて、ぼくはこういうものだなどと、探偵きどりでじまんしていたのですが、その胸の記章のほかに、めいめいのポケットには、同じ記章が二十個から三十個ぐらいずつ、ちゃんと用意してあったのです。

 桂君と篠崎君とは、男の子が、そのBDバッジを広っぱの道路でひろったと聞くと、たちまち、今いった、第四の用途を思いだし、小林少年が捜索隊の道しるべとして、落としていったものと、さとりました。

 読者諸君は、もうとっくにおわかりでしょう。小林君が自動車の中で、インド人にしばられるとき、ソッとポケットからつかみだして、バンパーのつけねの上においた、百円銀貨のようなものは、このBDバッジにほかならなかったのです。そして、その小林君の目的は、いま、みごとに達せられたのです。

 篠崎、桂の二少年は、用意の万年筆型懐中電燈をとりだすと、男の子に教えられた地点へ走っていって、暗い地面を照らしながら、もうほかに記章は落ちていないかと、熱心にさがしはじめました。

「ああ、あった、あった。ここにも一つ落ちている。」

 懐中電燈の光の中に、新しい鉛の記章がキラキラとかがやいているのです。

「敵の自動車は、この道を通ったにちがいない。きみ、呼び子を吹いて、みんなを集めよう。」

 ふたりはポケットの七つ道具の中から、呼び子をとりだして、息をかぎりに吹きたてました。

 夜の空に、はげしい笛の音がひびきわたりますと、まださほど遠くへ行っていなかった残りの五人の少年が、彼らも呼び子で答えながら、どこからともなく、その場へ集まってきました。

「おい、みんな、この道にBDバッジが二つも落ちていたんだ。小林さんが落としていったものにちがいない。もっとさがせば、まだ見つかるかもしれない。みんなさがしてくれたまえ。そして、落ちているバッジをたどっていけば、犯人の巣くつをつきとめることができるんだ。」

 桂少年のさしずにしたがって、五人の少年も、それぞれ万年筆型懐中電燈をとりだして、いっせいに地面をさがしはじめました。そのさまは、まるで七ひきのホタルが、やみの中をとびかわしているようです。

「あった、あった。こんなところに、泥まみれになっている。」

 ひとりの少年が、少し先のところで、また、一つのバッジをひろいあげてさけびました。これで三つです。

「うまい、うまい。もっと先へ進もう。ぼくらは、こうして、だんだん黒い怪物のほうへ近づいているんだぜ。さすがに小林さんは、うまいことを考えたなあ。」

 そして、七ひきのホタルは、やみの広っぱの中を、みるみる、向こうのほうへ遠ざかっていくのでした。


 地下室では、もう水が一メートルほどの深さになっていました。

 緑ちゃんをだいた小林君は、立っているのがやっとでした。水は胸の上まで、ヒタヒタとおしよせているのです。

 天井の管からの滝は、少しもかわらぬはげしさで、ぶきみな音をたてて、降りそそいでいます。

 緑ちゃんは、この地獄のような恐怖に、さいぜんから泣きさけんで、もう声も出ないほどです。

「こわくはない、こわくはない。にいちゃんがついているから、大じょうぶだよ。ぼくはね、泳ぎがうまいんだから、こんな水なんてちっともこわくはないんだよ。そして、今におまわりさんが、助けにいらっしゃるからね。いい子だから、ぼくにしっかりつかまっているんだよ。」

 しかし、そういううちにも、水かさは刻一刻こくいっこくと増すばかり、小林君自身が、もう不安にたえられなくなってきました。それに、春とはいっても、水の中は身もこおるほどのつめたさです。

 ああ、ぼくは緑ちゃんといっしょに、この、だれも知らない地下室で、おぼれ死んでしまうのかしら。道へ探偵団のバッジを落としておいたけれど、もし団員があすこを通りかからなかったら、なんにもなりゃしないのだ。明智先生はどうしていらっしゃるかしら。こんなときに先生が東京にいてくださったら、まるで奇跡のようにあらわれて、ぼくらを救いだしてくださるにちがいないのだがなあ。

 そんなことを考えているうちにも、水は、もうのどのへんまでせまってきました。

 からだが水の中でフラフラして、立っているのも困難なのです。

 小林君は、緑ちゃんを背中にまわして、しっかりだきついているようにいいふくめ、いよいよつめたい水の中を泳ぎはじめました。せめて手足を動かすことによって寒さをわすれようとしたのです。

 でもこんなことが、いつまでつづくものでしょう。緑ちゃんという重い荷物をせおった小林君は、やがて力つきておぼれてしまうのではないでしょうか。いや、それよりも、もっと水かさが増して、天井いっぱいになってしまったら、どうするつもりでしょう。そうなれば、泳ごうにも泳げはしないのです。息をするすきもなくなってしまうのです。


消えるインド人


 ちょうどそのころ、篠崎始君や、相撲選手の桂正一君や、羽柴壮二君などで組織された、七人の少年捜索隊は、早くもインド人の逃走した道すじを、発見していました。

 それは小林君が、インド人に、かどわかされる道々、自動車の上から落としていった、少年探偵団のバッジが目じるしとなったのです。七人の捜索隊員は、夜道に落ち散っている銀色のバッジをさがしながら、いつしか例のあやしげな洋館の門前まで、たどりついていました。

「おい、この家があやしいぜ。ごらん、門のなかにも、バッジが落ちているじゃないか。ほら、あすこにさ。」

 目ざとく、それを見つけた羽柴少年が、桂正一君にささやきました。

「ウン、ほんとだ。よし、しらべてみよう。みんな伏せるんだ。」

 桂君が手まねきをしながら、ささやき声で一同にさしずしますと、たちまち七人の少年の姿が消えてしまいました。イヤ、消えたといっても魔法を使ったわけではありません。号令いっか、みんながいっせいに、暗やみの地面の上に、腹ばいになって、伏せの形をとったのです。団員一同、一糸みだれぬ、みごとな統制ぶりです。

 そして、まるで黒いヘビがはうようにして、七人が洋館の門の中へはいり、地面をしらべてみますと、門から洋館のポーチまでの間に、五つのバッジが落ちているのを発見しました。

「おい、やっぱり、ここらしいぜ。」

「ウン、小林団長と緑ちゃんとは、この家のどっかにとじこめられているにちがいない。」

「早く助けださなけりゃ。」

 少年たちは伏せの姿勢のままで、口々にささやきかわしました。

 七人のうちで、いちばん身軽な羽柴少年は、ソッとポーチにはいあがって、ドアのすきまからのぞいてみましたが、中はまっくらで、人のけはいもありません。

「裏のほうへまわって、窓からのぞいてみよう。」

 羽柴君は、みんなにそうささやいておいて、建物の裏手のほうへはいっていきました。一同、そのあとにつづきます。

 裏手へまわってみますと、案のじょう、二階の一室に電燈がついていて、窓が明るく光っています。しかし、二階ではのぞくことができません。

「なわばしごをかけようか。」

 ひとりの少年が、ポケットをさぐりながら、ささやきました。少年探偵団の七つ道具の中には、絹ひもで作った手軽ななわばしごがあるのです。まるめてしまえばひとにぎりほどに小さくなってしまうのです。

「いや、なわばしごを投げて、音がするといけない。それよりも肩車にしよう。さあ、ぼくの上へ、じゅんに乗りたまえ。羽柴君は軽いからいちばん上だよ。」

 桂正一少年は、そういったかと思うと、洋館の壁に両手をついて、ウンと足をふんばりました。よくふとった相撲選手の桂君は、肩車の踏み台にはもってこいです。つぎには、中くらいの体格の一少年が、桂君の背中によじのぼって、その肩の上に足をかけ、壁に手をついて身がまえますと、こんどは身軽な羽柴君が、サルのようにふたりの肩をのぼり、二番めの少年の肩へ両足をかけました。

 ころをはかって、今まで、背をかがめていた桂君と二番めの少年とが、グッとからだをのばしました。すると、いちばん上の羽柴君の顔が、ちょうど二階の窓の下のすみにとどくのです。

 まるで軽業かるわざのような芸当ですが、探偵団員たちは、日ごろから、いざというときの用意に、こういうことまで練習しておいたのです。

 羽柴君は、窓わくに手をかけて、ソッと部屋の中をのぞきました。窓にはカーテンがさがっていましたけれど、大きなすきまができていて、部屋のようすは手にとるようにながめられました。

 そこには、いったい何があったのでしょう。かねて予期しなかったのではありませんが、部屋の中のふしぎな光景に羽柴君はあやうく、アッと声をたてるところでした。

 部屋のまんなかに、ふたりのおそろしい顔をしたインド人がすわっていました。墨のように黒い皮膚の色、ぶきみに白く光る目、厚ぼったいまっ赤なくちびる、服装も写真で見るインド人そのままで、頭にはターバンというのでしょう、白い布をグルグルと帽子のように巻いて、着物といえば、大きなふろしきみたいな白い布を肩からさげているのです。

 インド人の前の壁には、なんだか魔物みたいなおそろしい仏像の絵がかかって、その前の台の上には大きな香炉こうろが紫色の煙をはいています。

 ふたりのインド人は、すわったまま、壁の仏像に向かって、しきりと礼拝しているのです。ひょっとしたら、小林少年と緑ちゃんとを、魔法の力で祈り殺そうとしているのかもしれません。

 見ているうちに、背中がゾーッと寒くなってきました。これが東京のできごとなのかしら、もしや、おそろしい魔法の国へでも、まよいこんだのじゃないかしら。羽柴君はあまりのきみ悪さに、もう、のぞいている気がしませんでした。

 急いであいずをおくると、下のふたりにしゃがんでもらって、地面におり立ちました。そして、やみの中で顔をよせてくる六人の少年たちに、ささやき声で、室内のようすを報告しました。

「いよいよそうだ。あんなにバッジが落ちていたうえに、ふたりのインド人がいるとすれば、ここが、やつらの巣くつにきまっている。」

「じゃ、ぼくたちで、ここの家へふみこんで、インド人のやつをとらえようじゃないか。」

「いや、それよりも、小林団長と緑ちゃんを助けださなくっちゃ。」

「待ちたまえ、はやまってはいけない。」

 口々にささやく少年たちをおさえて、桂正一君が、おもおもしくいいました。

「いくら大ぜいでも、ぼくたちだけの力で、あの魔法使いみたいなインド人を、とらえることはできないよ。もし、しくじったらたいへんだからね。だからね、みんなぼくのさしずにしたがって、部署についてくれたまえ。」

 桂君はそういって、だれは表門、だれは裏門、だれとだれは庭のどこというように、建物をとりまいて、少年たちで見はりをつとめるようにさしずしました。

「もし、インド人がこっそり逃げだすのを見たら、すぐ、呼び子を吹くんだよ。いいかい。それからね、篠崎君、きみはランニングがとくいだから、伝令の役をつとめてくれないか。この近くの電話のあるところまで走っていってね、きみの家へ電話をかけるんだ。犯人の巣くつを発見しましたから、すぐ来てくださいってね。そのあいだ、ぼくらはここに見はりをしていて、けっしてやつらを逃がしやしないから。」

 団長がわりの桂君は、てきぱきと、ぬけめなく指令をあたえました。

 篠崎君が、「よしッ。」と答えて、やっぱり地面をはうようにしながら、立ちさるのを待って、残る六人は、それぞれの部署にわかれ、四ほうから洋館を監視することになりました。

 しかし、そんなことをしているあいだに、小林君がおぼれてしまうようなことはないでしょうか。水が地下室の天井までいっぱいになってしまうようなことはないでしょうか。ひょっとすると、まにあわないかもしれません。ああ、早く、早く。おまわりさんたち、早くかけつけてください。

 それから篠崎君のしらせによって、ちょうど篠崎家にあわした、警視庁の中村なかむら捜査係長が、数名の部下をひきつれ、自動車をとばして、洋館にかけつけるまでに、およそ二十分の時間がすぎました。ああ、その待ちどおしかったこと。

 でも、少年捜索隊がさいしょバッジをひろってから、もうたっぷり一時間はたっています。つまり小林君が緑ちゃんをおぶって泳ぎだしてから、それだけの時がすぎさったのです。ああ、ふたりは、まだぶじでいるでしょうか。せっかくおまわりさんたちがかけつけたときには、もうおそかったのではないのでしょうか。

 警官たちが到着したのを知ると、桂少年は、やみの中からかけだしていって、中村係長に、「犯人はまだ建物の中にいるにちがいない。だれも逃げだしたものはなかった。」ということを報告しました。

 中村係長は、桂君たちの手がらをほめておいて、部下のふたりを建物の裏にまわし、自分は、ふたりの制服警官をしたがえて、ポーチにあがると、いきなり呼びりんのボタンをおすのでした。

 二度、三度、ボタンをおしていると、内部にパッと電燈がともり、人の足音がして、ドアのハンドルが動きました。

 ああ、さすがのインド人も、とうとう運のつきです。訪問者がおそろしい警官とも知らず、ノコノコ出むかえにやってくるとは。

 中村係長は、建物の中にいるのは、ふたりのインド人だけと聞いているものですから、ドアがひらかれると同時に、おどりこんで、犯人をひっとらえようと、捕縄ほじょうをにぎりしめて待ちかまえていました。

 ところが、ドアがパッとひらいてそこに立っていたのは、意外にも、黒いインド人ではなくて、見るからにスマートな日本人の紳士でした。

 年のころは三十歳ぐらいでしょうか。ひきしまった色白の顔に、細くかりこんだ口ひげの美しい紳士が、折り目のついた、かっこうのいい背広服を着て、にこにこ笑いながらこちらを見ているのです。

「あなたは?」

 中村係長は、めんくらって、みょうなことをたずねました。

「ぼくは、ここの主人の春木はるきというものですが、よくおいでくださいました。じつは、ぼくのほうからお電話でもしようかと考えていたところです。」

 ますます意外なことばです。さすがの警部もキツネにでもつままれたような顔をして、

「この家に、ふたりのインド人がいるはずですが……。」

 と、口ごもらないではいられませんでした。

「ああ、あなた方は、もう、インド人のことまでご承知なのですか。ぼくはあいつらが、こんな悪人とは知らないで、部屋を貸していたのですが……。」

「すると、ふたりのインド人は、おたくの間借り人だったのですか。」

「そうなんです。しかし、まあ、こちらへおはいりください。くわしいお話をいたしましょう。」

 紳士は、そういいながら、先に立って奥のほうへはいっていきますので、中村係長と、ふたりの警官とは、ふしんながらも、ともかくそのあとにしたがいました。

「ここです。ふたりともぶじに救うことができました。ぼくがもう一足おそかったら、かわいそうに命のないとこでした。」

 紳士は、またもや、わけのわからぬことをいって、とある部屋のドアをひらくと、警官たちをまねきいれるのでした。

 中村係長は紳士のあとについて、一歩、部屋の中にふみこんだかと思うと、意外の光景にハッとおどろかないではいられませんでした。

 ごらんなさい。部屋のすみのベッドの中には、かどわかされた緑ちゃんが、スヤスヤとねむっているではありませんか。その枕もとのイスには、小林少年がおとなのナイト・ガウンを着せられて、みょうなかっこうで、こしかけているではありませんか。

「これはいったい、どうしたというのです。」

 中村係長は、あっけにとられてさけびました。

「こういうわけですよ。」

 紳士は係長にイスをすすめて、事のしだいを語りはじめました。

「ぼくは今、やとい人のコックとふたりきりで、独身生活をしているのですが、きょうは朝から外出していて、つい今しがた帰ってみますと、家の中にだれもいないのです。二階の部屋を貸してあるインド人たちもいなければ、コックの姿も見えません。

 どうしたんだろうと、ふしんに思って家中をさがしてみますと、やっと台所のすみでコックを見つけることができましたが、それがおどろいたことには、手足をしばられたうえに、さるぐつわまではめられているのです。

 なわをといてやって、ようすをたずねますと、二階のインド人が、どこからか帰ってきて、いきなりこんなめにあわせたというのです。いや、そればかりではありません。コックのいいますには、インド人は、なんだか小さい子どもをつれて帰ったらしい。そして、その子どもを地下室へほうりこんだのではないかと思う。今しがたまで、かすかに子どもの泣き声が聞こえていたと申すのです。

 ぼくはおどろいて、すぐさま地下室へ行ってみますと、なんということでしょう。地下室はまるでタンクみたいに水がいっぱいになっていて、その中を、この小林君という少年が、小さいお嬢さんをおぶって泳いでいるじゃありませんか。もう力がつきて、今にもおぼれそうなようすです。

 ぼくは、むろんすぐふたりを救いあげましたが、小さいお嬢さんのほうは、ひどく熱をだしているものですから、こうしてベッドに寝かしてあるのです。

 それから、この小林君の話で、いっさいの事情がわかりましたので、ぼくは、お嬢さんのおたくと、警察とへ、電話をかけようとしているところへ、ちょうど、あなた方が、おいでくださったというわけです。」

 聞きおわった中村係長は、ホッとためいきをついて、

「そうでしたか。いや、おかげさまで、ふたりの命を救うことができて、なによりでした……。しかし、インド人は、たしかにいないのでしょうね。じゅうぶんおさがしになりましたか。」

「じゅうぶんさがしたつもりですが、なお念のために、あなた方のお力で捜索していただいたほうがいいと思いますが。」

「では、もう一度しらべてみましょう。」

 そこで係長は裏口へまわしておいたふたりの警官も呼びいれて、五人が手分けをして、おし入れといわず、天井てんじょうといわず、床下までも、残るところもなく捜索しましたが、インド人の姿はどこにも発見されませんでした。

 じつにふしぎというほかはありません。羽柴少年が二階の窓をのぞいてから、警官がつくまでの、わずか二十数分のあいだに、ふたりのインド人は、まるで煙のように消えうせてしまったのです。

 建物の外には、六人の少年探偵団員が、注意ぶかく見はりをしていました。インド人は、どうしてその目をのがれることができたのでしょう。

 いやいや、やつらは神変しんぺんふしぎの魔法使いです。建物の外へ出るまでもなく、あの二階の部屋の中で、何かのじゅ文をとなえながら、スーッと消えうせてしまったのかもしれません。

 読者諸君は、黒い魔物が、養源寺の墓地の中で、それからもう一度は、篠崎家の庭園で、かき消すように姿をかくしてしまったことをご記憶でしょう。こんども、それと同じ奇跡がおこなわれたのです。このふたりのインド人にかぎっては、物理学の原理があてはまらないのかもしれません。

 むろん、中村係長はただちに、このことを警視庁に報告し、東京全都の警察署、派出所にインド人逮捕の手配をしましたが、一日たち二日たっても、怪インド人はどこにも姿をあらわしませんでした。やつらは姿を消したばかりではなく、飛行の術かなんかで、海をわたって、とっくに本国へ帰ってしまったのではないでしょうか。


四つのなぞ


 世田谷の洋館でインド人が消えうせた翌々日、探偵事件のために東北地方へ出張していた明智名探偵は、しゅびよく事件を解決して東京の事務所へ帰ってきました。

 帰るとすぐ、探偵は旅のつかれを休めようともしないで、書斎に助手の小林少年を呼んで、るす中の報告を聞くのでした。

 小林君は、もうすっかり元気を回復していました。聞けば、緑ちゃんも翌日から熱もとれて、おとうさまおかあさまのそばで、きげんよく遊んでいるということです。

 小林君は明智先生の顔を見ると、待ちかねていたように、怪インド人事件のことを、くわしく報告しました。

「先生、ぼくには何がなんだかさっぱりわからないのです。でも、みんなのいうように、あのインド人が魔法を使ったなんて信じられません。何かしら、ぼくたちの知恵では、およばないような秘密があるのじゃないでしょうか。先生、教えてください。ぼくは早く先生のお考えが聞きたくてウズウズしていたんですよ。」

 小林君は、明智先生を、まるで全能の神さまかなんかのように思っているのです。この世の中に、先生にわからないことなんて、ありえないと信じているのです。

「ウン、ぼくも旅先で新聞を読んで、いくらか考えていたこともあるがね。そう、きみのようにせきたてても、すぐに返事ができるものではないよ。」

 明智探偵は笑いながら、安楽イスにグッともたれこんで、長い足を組みあわせ、すきなエジプトたばこをふかしはじめました。

 これは明智探偵が深くものを考えるときのくせなのです。一本、二本、三本、たばこはみるみる灰になって、紫色の煙とエジプトたばこのかおりとが、部屋いっぱいにただよいました。

「ああ、そうだ、きみ、ちょっとここへ来たまえ。」

 とつぜん、探偵はイスから立ちあがって、部屋のいっぽうの壁にはりつけてある東京地図のところへ行き、小林少年を手まねきしました。

「養源寺というのは、どのへんにあるんだね。」

 小林君は地図に近づいて、正確にその場所をさししめしました。

「それから、篠崎君の家は?」

 小林君は、またその場所をしめしました。

「やっぱりぼくの想像したとおりだ。小林君、これがどういう意味かわかるかね。ほら、養源寺と篠崎家とは、町の名もちがうし、ひどくはなれているように感じられるが、裏ではくっついているんだよ。この地図のようすでは、あいだに二─三軒家があるかもしれないが、十メートルとはへだたっていないよ。」

 探偵は、何か意味ありげに微笑して、小林君をながめました。

「ああ、そうですね。ぼくもうっかりしていました。表がわではまるで別の町だものですから、ずっとはなれているように思っていたのです。でも、先生、それが何を意味しているんだか、ぼくにはよくわかりませんが。」

「なんでもないことだよ。まあ考えてごらん。宿題にしておこう。」

 探偵はそういいながら、もとの安楽イスにもどって、また深々ともたれこみました。

「ところで、小林君、この事件には常識では説明のできないような点がいろいろあるね。それを一つかぞえあげてみようじゃないか、これが探偵学の第一課なんだよ。まず事件の中から奇妙な点をひろいだして、それにいろいろの解釈をあたえてみるというのがね……。

 この事件では、まず第一に黒い魔物が、東京中のほうぼうへ姿をあらわして、みんなをこわがらせたね。犯人は、いったいなんの必要があって、あんなばかなまねをしたんだろう。

 こんどの犯罪の目的は、篠崎家の宝石をぬすみだすことと、緑ちゃんという女の子をかどわかすことなんだが、黒い魔物がほうぼうにあらわれて、新聞に書かれたりすれば、わたしは、こんなまっ黒な人種ですよ、ご用心なさいと、まるで相手に警戒させるようなものじゃないか。

 それから、まだあるよ。黒い魔物はだんだん篠崎家に近づいてきて、そこでも、いろいろと見せびらかすようなまねをしている。そして、人ちがいをして、ふたりまで、よその女の子をかどわかしかけている。

 宝石が篠崎家にあるということを、ちゃんと見とおして、わざわざインドから出かけてくるほどの用意周到よういしゅうとうな犯人に、そんな手ぬかりがあるものだろうか。緑ちゃんという女の子が、どんな顔をしているかくらい、まえもって調べがついていそうなものじゃないか。

 小林君、きみは、こういうような点が、なんとなくへんだとは思わないかね。つじつまがあわないとは思わぬかね。」

「ええ、ぼくは、今までそんなこと少しも考えてませんでしたけれど、ほんとうにへんですね。あいつは、わたしはこういうインド人です。こういう人さらいをしますといって、自分を広告していたようなものですね。」

 小林君は、はじめてそこへ気がついて、びっくりしたような顔をして、先生を見あげました。

「そうだろう。犯人はふつうならば、できるだけかくすべきことがらを、これ見よがしに広告しているじゃないか。小林君、この意味がわかるかね。」

 探偵はそういって、みょうな微笑びしょうをうかべましたが、小林君には、先生の考えていらっしゃることが、少しもわからぬものですから、その微笑が、なんとなくうすきみ悪くさえ感じられました。

「第二には、インド人が忍術使いのように消えうせたというふしぎだ。一度は養源寺の墓地で、一度は篠崎家の庭で、それからもう一度は世田谷の洋館で。これはもう、きみもよく知っていることだね。あの晩、洋館のまわりには、六人の少年探偵団の子どもが見はっていたというが、その見はりは、たしかだったのだろうね。うっかり見のがすようなことはなかっただろうね。」

「それは桂君が、けっして手ぬかりはなかったといっています。みんな小学生ですけれど、なかなかしっかりした人たちですから、ぼくも信用していいと思います。」

「表門のみはりをしたのは、なんという子どもだったの。」

「桂君と、もうひとり小原君っていうのです。」

「ふたりもいたんだね。それで、そのふたりは、春木という洋館の主人が帰ってくるのを見たといっていたかね。」

「先生、そうです。ぼく、ふしぎでたまらないのです。ふたりは春木さんの帰ってくるのを見なかったというのですよ。みんなは、まだインド人が二階にいるあいだに、それぞれ見はりの部署についたのですから、春木さんが帰ってきたのは、それよりあとにちがいありません。だから、どうしても桂君たちの目の前を通らなければならなかったのです。まさか主人が裏口から帰るはずはありませんね。しかも、その裏口を見はっていた団員も、だれも通らなかったといっているのです。」

「フーン、だんだんおもしろくなってくるね。きみはそのふしぎを、どう解釈しているの? 警察の人に話さなかったの?」

「それは桂君が中村さんに話したのだそうです。でも、中村さんは信用しないのですよ。ふたりのインド人が逃げだすのさえ見のがしたのだから、春木さんのはいってくるのを気づかなかったのはむりもないって。子どもたちのいうことなんか、あてにならないと思っているのですよ。」

 小林君は、少し憤慨ふんがいのおももちでいうのでした。

「ハハハ……。それはおもしろいね。ふたりのインド人が出ていったのも気づかないほどだから、春木さんのはいってくるのも見のがしたんだろうって? ハハハ……。」

 明智探偵は、なぜか、ひどくおもしろそうに笑いました。

「ところでね、きみは春木さんに地下室から助けだされたんだね。むろん、春木さんをよく見ただろうね。まさかインド人が変装していたんじゃあるまいね。」

「ええ、むろんそんなことはありません。しんから日本人の皮膚の色でした。おしろいやなんかで、あんなふうになるものじゃありません。長いあいだいっしょの部屋にいたんですから、ぼく、それは断言してもいいんです。」

「警察でも、その後、春木さんの身がらをしらべただろうね。」

「ええ、しらべたそうです。そして、べつに疑いのないことがわかりました。春木さんは、あの洋館にもう三月も住んでいて、近所の交番のおまわりさんとも顔なじみなんですって。」

「ほう、おまわりさんともね。それはますますおもしろい。」

 明智探偵は、なにかしらゆかいでたまらないという顔つきです。

「さあ、そのつぎは第三の疑問だ。それはね、きみが篠崎家の門前で、緑ちゃんをつれて自動車に乗ろうとしたとき、秘書の今井というのがドアをあけてくれたんだね。そのとき、きみは今井君の顔をはっきり見たのかね。」

「ああ、そうだった。ぼく、先生にいわれるまで、うっかりしていましたよ。そうです、そうです。ぼく、今井さんの顔をはっきり見たんです。たしかに、今井さんでした。それが、自動車が動きだすとまもなく、あんな黒ん坊になってしまうなんて、へんだなあ。ぼく、なによりも、それがいちばんふしぎですよ。」

「ところが、いっぽうでは、その今井君が、養源寺の墓地にしばられていたんだね。とすると、今井君がふたりになったわけじゃないか。いや、三人といったほうがいいかもしれない。墓地にころがっていた今井君と、自動車のドアをあけて、それから助手席に乗りこんだ今井君と、自動車の走っているあいだに黒ん坊になった今井君と、合わせて三人だからね。」

「ええ、そうです。ぼく、さっぱりわけがわかりません。なんだか夢をみているようです。」

 小林君には、そうして明智探偵と話しているうちに、この事件のふしぎさが、だんだんはっきりわかってきました。もう魔法をけなす元気もありません。小林君自身が、えたいのしれない魔法にかかっているような気持でした。

「小林君、思いだしてごらん。その自動車の中でね、きみは、ふたりのインド人の首すじを見なかったかね。向こうをむいている運転手と助手の首すじを見なかったかね。」

 探偵が、またみょうなことをたずねました。

「首すじって、ここのところですか。」

 小林君は、自分の耳のうしろをおさえてみせました。

「そうだよ。そのへんの皮膚の色を見なかったかね。」

「さあ、ぼく、それは気がつきませんでした。ああ、そうそう、ふたりとも鳥打とりうぼうをひどくあみだにかぶっていて、耳のうしろなんかちっとも見えませんでした。」

「うまい、うまい、きみはなかなかよく注意していたね。それでいいんだよ。さあ、つぎは第四の疑問だ。それはね、犯人は緑ちゃんをなぜ殺さなかったか、ということだよ。」

「え、なんですって。やつらはむろん殺すつもりだったのですよ。ぼくまでいっしょにおぼれさせてしまうつもりだったのですよ。」

「ところが、そうじゃなかったのさ。」

 探偵は、また意味ありげにニコニコと笑ってみせました。

「よく考えてごらん。インド人たちはコックをしばったけれど、主人の春木さんにたいしてはなんの用意もしなかったじゃないか。春木さんは外出していて、いつ帰るかわからないのだよ。そして、帰ってくればコックの報告を聞いて、地下室のきみたちを、助けだすかもしれないのだよ。もし助けだされたら、せっかくの苦心が水のあわじゃないか。それをまるで気にもしないで、緑ちゃんの最期さいごも見とどけないで、逃げだしてしまうなんて、あの執念しゅうねんぶかさとくらべて考えてみると、おかしいほど大きな手落ちじゃないか。現に、こうして、きみも緑ちゃんも助かっているんだからね。インド人たちはなんのために、あれだけの苦労をしたのか、まるでわけがわからなくなるじゃないか。

 小林君、わかるかね、この意味が。犯人はね、緑ちゃんを殺す気なんて、少しもありゃしなかったのだよ。ハハハ……、おもしろいじゃないか。みんなお芝居だったのだよ。」

 探偵はまた、さもゆかいらしく笑いだしましたが、小林君には、その意味が少しもわからないのです。いったいぜんたい先生は何を考えていらっしゃるのだろう。それを思うと、なんだかこわくなるようでした。

「さあ、小林君、この四つの疑問をといてごらん。これを四つともまちがいなくといてしまえば、こんどの事件の秘密がわかるのだよ。ぼくもそれを完全にといたわけじゃない。これからたしかめてみなければならないことが、いろいろあるんだよ。しかし、ぼくには今、この事件の裏にかくれて、クスクス笑っているお化けの正体が、ぼんやり見えているんだよ。

 ぼくは、こんなに、ニコニコしているけれど、ほんとうはそのお化けの正体に、ギョッとしているんだ。もし、ぼくの想像があたっていたらと思うと、あぶら汗がにじみだすほどこわいのだよ。」

 明智探偵は、ひじょうにまじめな顔になって、声さえ低くして、さもおそろしそうにいうのでした。

 その顔を見ますと、小林君はゾーッと背すじが寒くなってきました。なんだかそのお化けが、うしろからバアーといって、とびだしてくるような気さえするのです。

「ところでね、小林君、もう一つ思いだしてもらいたいことがあるんだが、きみはさっき、春木さんの顔をよく見たといったね。そのとき、もしやきみは……。」

 探偵はそこまでいうと、いきなり小林君の耳に口をよせて、なにごとかヒソヒソとささやきました。

「エッ、なんですって?」

 それを聞くと、小林少年の顔がまっさおになってしまいました。

「まさか、まさか、そんなことが……」

 小林君はほんとうにお化けでも見たように、そのお化けがおそいかかってくるのをふせぎでもするように、両手を前にひろげて、あとじさりをしました。

「いや、そんなにこわがらなくってもいい。これは、ぼくの気のせいかもしれないのだよ。ただね、今あげた四つの疑問をよく考えてみるとね、みんなその一点を指さしているように思えるのだよ。だが、たしかめてみるまでは、なんともいえない。ぼくはきょうのうちに、一度、春木さんと会ってみるつもりだよ。春木さんの電話は何番だったかしら。」

 それから、明智探偵は電話帳をしらべて、春木氏に電話をかけるのでした。

 読者諸君、名探偵が小林君の耳にささやいたことばは、いったい、どんなことがらだったのでしょう。それを聞いた小林君は、なぜ、あれほどの恐怖をしめしたのでしょう。

 明智探偵は、四つの疑問をといていけば、しぜんそのおそろしい結論に達するのだといいました。諸君は、こころみにそのなぞをといてごらんなさるのも一興いっきょうでしょう。しかし、こんどのなぞは、ずいぶん複雑ですし、その答えがあまりに意外なので、そんなにやすやすとはとけないだろうと思います。つぎの章はそのなぞのとけていく場面です。そして、ゾッとするようなお化けが、正体をあらわす場面です。


さかさの首


 明智探偵は、ふたりのインド人に部屋を貸していた洋館の主人春木氏に、一度会っていろいろきいてみたいというので、さっそく同氏に電話をかけて、つごうをたずねますと、昼間は少しさしつかえがあるから、夜七時ごろおいでくださいという返事でした。

 探偵は電話の約束をすませますと、すぐさま事務所を出かけました。春木氏に会うまでに、ほかにいろいろしらべておきたいことがあるからということでした。

 小林少年は、ぜひ、いっしょにつれていってください、とたのみましたが、きみは、まだつかれがなおっていないだろうからと、るす番を命じられてしまいました。

 それから明智探偵が、どこへ行って、何をしたか、それはまもなく読者諸君にわかるときがきますから、ここにはしるしません。その夜の七時に、探偵が春木氏の洋館をたずねたところから、お話をつづけましょう。

 青年紳士春木氏は、自分で玄関へ出むかえて、明智探偵の顔を見ますと、ニコニコと、さもうれしそうにしながら、

「よくおいでくださいました。ご高名こうめいは、かねてうかがっております。いつか一度お目にかかってお話をうけたまわりたいものだとぞんじておりましたが、わざわざおたずねくださるなんて、こんなにうれしいことはありません。さあ、どうか。」

 と、二階のりっぱな応接室に案内しました。

 ふたりは、テーブルをはさんで、イスにかけましたが、初対面のあいさつをしているところへ、三十歳ぐらいの白いつめえりの上着を着た召し使いが、紅茶を運んできました。

「わたしは、妻をなくしまして、ひとりぼっちなんです。家族といっては、このコックとふたりきりで、家が広すぎるものですから、あんなインド人なんかに部屋を貸したりして、とんだめにあいました。でも、たしかな紹介状を持ってきたものですから、つい信用してしまいましてね。」

 春木氏は、立ちさるコックのうしろ姿を、目で追いながら、いいわけするようにいうのでした。

 それをきっかけに、明智探偵は、いよいよ用件にはいりました。

「じつは、あの夜のことを、あなたご自身のお口から、よくうかがいたいと思って、やってきたのですが、どうも、ふにおちないのは、ふたりのインド人が、わずかのあいだに消えうせてしまったことです。

 もう、ご承知でしょうが、子どもたちがむじゃきな探偵団をつくっていましてね。あの晩、中村係長たちが、ここへかけつける二十分ほどまえに、その子どもたちが、どの部屋ですか、ここの二階にふたりのインド人がいることを、ちゃんと、たしかめておいたのです。それが、警官たちよりも早くあなたがお帰りになったときに、もう、家の中にいなくなっていたというのは、じつにふしぎじゃありませんか。

 そのあいだじゅう、六人の子どもたちが、おたくのまわりに、げんじゅうな見はりをつづけていたのです。表門はもちろん、裏門からでも、あるいは塀を乗りこえてでも、インド人が逃げだしたとすれば、子どもたちの目をのがれることはできなかったはずです。」

 すると、春木氏はうなずいて、

「ええ、わたしも、その点が、じつにふしぎでしかたがないのです。あいつらは、何かわれわれには想像もできない、妖術のようなものでもこころえていたのではないでしょうか。」

 と、いかにも、きみ悪そうな表情をしてみせました。

「ところが、もう一つ、みょうなことがあるのですよ。あなたがお帰りになったのは、子どもたちがインド人がいることをたしかめてから、警官がくるまでのあいだでしたね。すると、そのときはもう、子どもたちは、ちゃんと見はりの部署についていたはずなのですが……、あなたは、むろん表門からおはいりになったのでしょうね。」

「ええ、表門からはいりました。」

「そのとき、表門には、ふたりの子どもが番をしていたのですよ。その子どもたちを、ごらんになりましたか。門柱のところに、番兵ばんぺいのように立っていたっていうのですが。」

「ほう、そうですか。わたしはちっとも気がつきませんでしたよ。ちょうどそのとき、子どもたちがわきへ行っていたのかもしれませんね。げんじゅうな見はりといったところで、なにしろ年はもいかない小学生のことですから、あてにはなりませんでしょう。」

「ところが、子どもというものはばかになりませんよ。何かに一心になると、おとなのように、ほかのことは考えませんからね。ぼくはこういうばあいには、おとなよりも子どものほうが信用がおけると思います。

 ぼくはきょう、ここへおたずねするまえに、いろいろな用件をすませてきたのですが、その門番をつとめた子どもに会ってみるのも、用件の一つでした。そして、よく聞きただしてみますと、その子どもは、けっして持ち場をはなれなかったし、わき見さえしなかったといいはるのです。子どもは、うそをつきませんからね。」

「で、その子どもは、わたしの姿を見たといいましたか。」

「いいえ、見なかったというのです。門をはいったものも、出たものも、ひとりもなかったと断言するのです。」

 明智探偵は、そういって、じっと春木氏の美しい顔を見つめました。

「おやおや、すると、わたしまでがなんだか魔法でも使ったようですね。これはおもしろい。ハハハ。」

 春木氏はなんとなく、ぎこちない笑い方をしました。

「ハハハ……。」

 明智探偵も、さもおかしそうに、声をそろえて笑いましたが、その声には、何かするどいとげのようなものがふくまれていました。

「二を引きさって、二を加える。え、この意味がおわかりですか。すると、もともとどおりになりますね。かんたんな引き算と足し算です。」

 探偵は何かなぞのようなことをいったまま、またべつの話にうつりました。

「ところで、ぼくはきょう、養源寺の墓地と篠崎家の裏庭で、おもしろいものを発見しましたよ。なんだと思います。その間をつなぐせまい地下のぬけ穴なんですよ。

 養源寺と篠崎家とは、町名がちがっているし、表門はひどくはなれていますが、裏では十メートルほどのあき地をへだてて、まるでくっついているといってもいいのです。

 インド人のやつは、この、ちょっと考えるとひじょうに遠いという、人間の思いちがいを利用したのですよ。そして、そこにわけもなく地下道を作って、あの煙のように消えうせるという魔法を使ってみせたのです。

 養源寺の墓地には、古い石塔せきとうの台石を持ちあげると、その下にポッカリ地下道の入り口があいていましたし、篠崎さんの庭のほうは、穴の上に厚い板をのせて、その板の上にいちめんに草のはえた土がおいてありました。ちょっと見たのでは、ほかの地面と少しもちがいがないのです。穴のある近所は、いろいろな木がしげっていて、うす暗いのですからね。なんとうまいカムフラージュじゃありませんか。

 インド人は、墓地の中で消えうせたときには、この地下道から篠崎家へ逃げこみ、篠崎家の宝石をぬすんだときには、やっぱり、この道を通って、養源寺のほうへぬけてしまったのです。その両方の地面は、表がわは、まるでちがう町なんですからね、わかりっこありませんよ。ハハハ……、これがインド人の魔術の種あかしです。」

 聞いているうちに、春木氏の顔に、ひじょうなおどろきの色がうかんできました。でも、しいてそれをおしかくすようにして、

「しかし、宝石をぬすむだけのために、どうしてそんな手数のかかるしかけをしたんでしょうね。もっと手がるな手段がありそうなものじゃありませんか。」

 と、なじるように、ききかえしました。

「そうです。おっしゃるとおり賊は、むだな手数をかけているのです。しかし、むだといえば、ほかにもっともっと大きなむだがあるのですよ。春木さん、そこがこの事件の奇妙な点です。また、じつにおもしろい点なのです。」

 明智探偵が、それを説明するのがおしいというように、ことばを切って、相手の顔をながめました。

「もっと大きなむだといいますと?」

「それはね、インド人がまっぱだかになって、隅田川を泳いでみせたり、東京中の町々を、うろついてみせたりして、世間をさわがせたことですよ。

 それからまた、篠崎さんのお嬢ちゃんと同じ年ごろの子どもを、二度も、わざとまちがえてさらったことですよ。

 いったいなんのために、そんなむだなことをやってみせたのでしょう。え、春木さん、あなたはどうお考えになります。」

「さあ、わたしにはわかりませんねえ。」

 春木氏は青ざめた顔で、少しそわそわしながら答えました。

「おわかりになりませんか。じゃ、ぼくの考えを申しましょう。それはね、賊は広告をしたかったのですよ。わたしは、こんなまっ黒なインド人ですよ、わたしは篠崎家のお嬢ちゃんをさらおうとしていますよ、と、世間に向かって、いや世間というよりも、篠崎のご主人に向かって、これでもかこれでもかと、告げ知らせたかったのです。そして、篠崎さんが、さては、インド人が本国から、のろいの宝石を取りもどしにやってきたんだなと、信じこむようにしむけたのです。

 なぜでしょう。なぜそんな、ばかばかしい広告をしたのでしょう。

 もし、ほんとうのインド人が、復しゅうのためにやってきたのなら、広告するどころか、できるだけ姿を見られないように、世間に知られないように骨を折るはずじゃありませんか。つまり、まるであべこべなのです。すると、その答えは、やっぱりあべこべでなければなりません。」

「え、あべこべといいますと。」

 春木氏が、びっくりしたようにききかえしました。

 ちょうどそのときでした。ふたりの会話の中のあべこべということばが、そのまま形となって、部屋のいっぽうの窓の外にあらわれたではありませんか。

 ガラス窓のいちばん上のすみに、ひょいと人間の顔があらわれたのです。それが、まるで空からぶらさがったように、まっさかさまなのです。つまりあべこべなのです。

 その男は、ガラス窓の外のやみの中から、かみの毛をダランと下にたらし、まっかにのぼせた顔で、さかさまの目で、部屋の中のようすをジロジロとながめています。

 いったいどうして、人の顔が、空からさがってきたりしたのでしょう。じつに、ふしぎではありませんか。

 いや、それよりもみょうなのは、春木氏がそのガラスの外のさかさまの顔を見ても、少しもおどろかなかったことです。その顔に何か目くばせのようなことをしました。

 すると、さかさまの顔は、それに答えるようにあいずのまばたきをして、そのまま空のほうへスーッと消えてしまいました。

 いったいあれは何者でしょう。なんだか、ついさいぜん見たばかりのような顔です。ああ、そうです、そうです。ほかでもない春木氏のやとっているコックなのです。さっき紅茶を運んできた召し使いなのです。

 それにしても、なんというへんてこなことでしょう。コックが家の外の空中からぶらさがってきて、窓をのぞくなんて、話に聞いたこともないではありませんか。

 でも、その窓は、ちょうど明智探偵のまうしろにあったものですから、探偵はそんな奇妙な人の顔があらわれたことなど少しも知りませんでした。

 みなさん、なんだか気がかりではありませんか。明智探偵は大じょうぶなのでしょうか。もしやこの家には、何かおそろしい陰謀いんぼうがたくらまれているのではないでしょうか。


屋上の怪人


 明智探偵は何も知らずに話しつづけました。

「あべこべといいますのはね、この事件の犯人は、彼が見せかけようとしたり、広告したりしたのとは、まるで反対なものではないかということです。

 つまり、犯人は黒いインド人ではなくて、その反対の白い日本人であった。篠崎さんのお嬢ちゃんをさらったのも、いかにも宝石につきまとうのろいのように見せかける手段で、けっして命をとろうなどという考えはなかったということです。

 それがしょうこに、緑ちゃんも小林君も、ちゃんと助かっているじゃありませんか。もしほんとうに殺すつもりだったら、あれほど苦心してさらっておきながら、最期も見とどけないで、たちさってしまうわけがないのです。

 すべては世間の目を、べつの方面にそらすための手段にすぎなかったのですよ。それほどまでの苦労をしなければならなかったのをみると、この犯人は、よほど世間に知れわたっているやつにちがいありません。ね、そうじゃありませんか。」

「では、あなたは、犯人はインド人じゃないとおっしゃるのですか。」

 春木氏が、みょうにしわがれた声でたずねました。

「そうです。犯人は日本人にちがいないと思うのです。」

 探偵は微笑をうかべながら、じっと春木氏を見つめました。

「でも、たしかにインド人がいたじゃありませんか。わたしが部屋を貸したことは、かりに信用していただけないとしても、ここの二階にいたのを子どもたちが見たということですし、聞けば、小林君とお嬢ちゃんとが乗った車の運転手と助手が、いつのまにか黒ん坊にかわっていて、ふたりはそれをたしかに見たといっていましたが。」

「ハハハ……。春木さん、それがみんなうそだったとしたら、どうでしょう。

 小林君のいうところによりますと、最初あの自動車に乗ったとき、助手席にいたのは、たしかに篠崎さんの秘書の今井君だったそうです。それがどうして、とつぜん黒ん坊にかわったのでしょう。

 いや、そればかりではありません。ちょうどそのころ、ほんものの今井君は、養源寺の境内に、手足をしばられてころがっていたのですよ。

 ひとりの今井君が、同時に二ヵ所にあらわれるなんて、まったく不可能なことじゃありませんか。春木さん、この点をぼくは、じつにおもしろく思うのです。こんどの事件のなぞをとく、いちばんたいせつなかぎが、ここにあると思うのですよ。」

 それを聞くと、春木氏はニヤニヤとみょうな微笑をうかべて、さも感心したようにいうのでした。

「ああ、さすがは名探偵だ。あなたはそこまでお考えになっていたのですか。そして、そのふしぎはとけましたか。」

「ええ、とけましたよ。」

「ほんとうですか。」

「ほんとうですとも。」

 そして、ふたりはしばらくのあいだ、だまりこんだまま、ひじょうに真剣な表情になって、にらみあっていました。まるで、おたがいの心の底を見すかそうとでもしているようです。

「説明してください。」

 春木氏は青ざめた顔に、いっぱい汗の玉をうかべて、ためいきをつくようにいいました。

「自動車の中で、ふたりのものが、とつぜん黒ん坊にかわったのは、子どもだましのようなかんたんな方法です。ほかでもありません。車が走っているあいだに、うしろの客席から見えないように、ソッとうつむいて、用意の絵の具──たぶん、すすのようなものでしょう──それで顔と手を、まっ黒に染めたのです。

 じつにわけのない話です。変装のうちで、黒ん坊に化けるほど、たやすいことはありませんからね。ぼくは念のために、小林君に、うしろから見える首すじのあたりの色はどうだったとたずねてみましたが、そこは洋服のえりと鳥打ち帽とで、少しも皮膚が見えないように、用心ぶかくかくしてあったということです。」

「で、今井という秘書が、同時に二ヵ所にあらわれたなぞは?」

 春木氏は、まるではたしあいでもするような、おそろしく力のこもった声でたずねました。

「たいへん気がかりとみえますね、ハハハ……、それは、犯人が今井君をしばって、その服を着こみ、顔まで今井君に化けたと考えるほかに、方法はありません。

 しかし、犯人が今井君とそっくりの顔になれるものでしょうか。ほとんど不可能なことです。でもひろい日本に、たったひとりだけ、その不可能なことのできる人物があります。」

「それは?」

「二十面相です。」

 探偵はじつに意外な名まえを、ズバリといって、じっと相手の目の中をのぞきこみました。息づまるようなにらみあいが、三十秒ほどもつづきました。

「二十面相」とはだれでしょう。むろん読者諸君はごぞんじのことと思います。二十のちがった顔を持つといわれた、あの変装の大名人です。今は獄中ごくちゅうにつながれているはずの、希代きだいの宝石泥棒です。

「おい、二十面相君、しばらくだったなあ。」

 明智探偵が、おだやかなちょうしでいって、ポンと春木氏の肩をたたきました。

「な、なにをいっているんです。わたしが、二十面相ですって?」

「ハハ、しらばっくれたって、もうだめだよ。ぼくは今しがた、刑務所へ行ってしらべてきたんだ。そして、あそこにいるのは、にせ者の二十面相だということがわかったのだ。

 きみは、さいぜんから、ぼくがなぜ、あんな話をクドクドとしていたと思うのだい。それはね、話をしながら、きみの顔を読むためだったんだよ。つまりきみを試験していたというわけさ。

 するときみは、ぼくの話が進むにつれて、だんだん青ざめてきた。そわそわしだした。見たまえ、いっぱいあぶら汗が出ているじゃないか。それが何よりの自白というものだ。

 二を引いて二を足すと、もともとどおりだったねえ。つまり、きみときみのコックとが、今井君と運転手に化けたうえ、少年探偵団の子どもたちをだますために、ふたりのインド人になって、みょうなお祈りまでして見せた。

 そのインド人が、そのまま、もとのきみとコックにもどればよかったのだから、いくら見はっていても、インド人も逃げださなければ、きみも外からはいってこなかったというわけさ。もともと四人ではなくて、ふたりきりのお芝居だったんだからね。

 だが、二十面相が人殺しをしないという主義をかえないのは感心だ。むろんきみは最初から小林君と緑ちゃんは、助けるつもりだったのだろうね。」

 探偵がいいおわるかおわらぬに、部屋中にとほうもない笑い声がひびきわたりました。

「ワハハハ……えらい、きみはさすが明智小五郎だよ。よくそこまで考えたねえ。その骨折りにめんじて白状はくじょうしてやろう。いかにもおれは、きみのこわがっている二十面相だよ。

 だがねえ、明智君、これはきみの大失敗を、きみ自身でしょうこだてたようなものなんだぜ。わかるかい。

 きみはいつか、博物館でおれを逮捕したつもりで、大いばりだったねえ。世間も、やんやと喝采かっさいしたっけねえ。

 ところが、あれはみんなうそだったということになるじゃないか。え、探偵さん、きみもとんだやぶへびをしたもんだねえ。

 つまらないせんさくだてをしないで、おれを見のがしておけば、きみはいつまでも英雄でいられたんだぜ。それを、こんなことにしてしまっちゃ、きみの名折なおれじゃないか。博物館でとらえたのは、あれは二十面相でもなんでもない、ただのへっぽこの野郎だったということを、世間に広告するようなもんじゃないか。

 ハハハ……、ゆかいゆかい、おれがいったい、あんなへまをする男だとでも思っているのかい。白ひげの博物館長さんが、じつは怪盗二十面相だったなんて、いかにも明智先生ごのみの思いつきだ。つまりおれは、きみのとびつきそうなごちそうをこしらえて、お待ち申していたのさ。

 すると案のじょう、きみはわなにかかってしまった。博物館長に化けていたおれの部下を、二十面相と思いこんでしまった。おれのほうで、そう思いこませるようにしむけたのさ。

 むりもないよ。おれにはきまった顔というものがないんだからね。おれ自身でさえ、ほんとうの自分が、どんな顔なのか、わすれてしまったほどだからねえ。

 だが、博物館の前で、チョコチョコと逃げだして、子どもたちに組みふせられるなんて、二十面相ともあろうものが、あんなへまをするとでも思っていたのかい。あれが二十面相の最後では、ちっとばかりかわいそうというもんだよ。」

 二十面相は、まくしたてるようにしゃべりつづけて、またしても、われるように笑うのでした。

「たいへんな勢いだねえ。だが、昔のことはともかくとして、けっきょく、勝利はぼくのものだったじゃないか。せっかくのインド人の大芝居も、とうとう見やぶられてしまったじゃないか。」

 明智探偵は少しもさわがず、にこにこと微笑しながら答えました。

「インド人の大芝居か。おもしろかったねえ。おれはね、篠崎氏があるところで、宝石のいんねん話をしているのを、すっかり聞いてしまったんだよ。そして、むやみにあの宝石がほしくなったのさ。そこで、宝石を手に入れたうえ、世間をアッといわせてやろうと、あの大芝居を思いついたのだよ。

 インド人が犯人だとすれば、まさか二十面相をうたがうやつはないからね。ただ宝石だけぬすんだのじゃあ、なにしろ金目のものだから、警察の捜索がうるさいのでねえ。

 ところで、きみはおれをどうしようというのだい。たったひとりで、二十面相の本拠へとびこんでくるなんて、少し無謀だったねえ。気のどくだけれど、かえりうちだぜ、きみをもうこの部屋から一歩だって出しゃあしないぜ。」

 二十面相は、追いつめられたけだもののような、ものくるわしい形相ぎょうそうで、明智探偵につかみかからんばかりです。

「ハハハ……、おい、二十面相君、ぼくがひとりぼっちかどうか、ちょっとうしろを向いてごらん。」

 探偵のことばに、二十面相はギョッとして、クルッと、うしろの戸口のほうをふりむきました。

 すると、ああ、これはどうでしょう。いつのまにしのびこんだのか、いっぱいにひらかれたドアの外には、おしかさなるようにして、五人の制服警官が、いかめしく立ちはだかっていました。

「ちくしょうめ! やりゃあがったな。」

 二十面相は、ふいをうたれて、よろよろとよろめきながら、さもくやしそうにわめきました。そして、いきなり、いっぽうの窓のほうへかけよります。

「おい、窓からとびおりるなんて、つまらない考えはよしたほうがいいぜ。念のためにいっておくがね、この家のまわりは、五十人の警官がとりかこんでいるんだよ。」

 明智探偵が二の矢をはなちました。

「ウー、そうか。よく手がまわったなあ。」

 二十面相は窓をひらいて、暗やみの地上を見おろすようなしぐさをしましたが、またクルッとこちらを向いて、

「ところがねえ、たった一つ、きみたちの手のとどかない場所があるんだよ。これがおれの最後の切り札さ。どこだと思うね。それはね、こうさ!」

 いいはなったかと思うと、二十面相の上半身が、グーッと窓の外へ乗りだし、そのままサッとやみの空間へ消えさってしまいました。

 それはまるで機械じかけの人形が、カタンとひっくりかえるような、目にもとまらぬ早わざでした。

 二十面相は、いったい何をしたのでしょう。窓の外へとびおりて、逃げさるつもりだったのでしょうか。しかし、明智探偵はうそをいったのではありません。この洋館のまわりは、ほんとうに数十人の警官隊がとりまいているのです。そのかこみを切りぬけて、逃げだすことなど思いもおよびません。

 明智探偵は、二十面相の姿が窓の外に消えたのを見ると、急いでそこにかけより、地上を見おろしましたが、これはふしぎ、地上にはまったく人の姿がありません。

 やみ夜とはいえ、階下の部屋の窓明かりで、庭がおぼろげに見えているのですが、その庭に、今とびおりたばかりの二十面相の姿がないのです。

「おい、ここだ、ここだ。きみはあべこべの理屈りくつをわすれたのかい。おれはとびおりたのでなくて、昇天しているんだぜ。悪魔の昇天しょうてんさ。ハハハ……。」

 空中からひびく二十面相の声に、ひょいと上を見た探偵は、あまりの意外さに、思わず「アッ。」と声をたててしまいました。

 ごらんなさい。二十面相はまるで軽業師のように、大屋根からさがった一本の綱をつかんで、スルスルと屋上へとのぼっていくではありませんか。ほんとうに悪魔の昇天です。

 探偵には見えませんでしたけれど、大屋根の上には、白い上着を着た例のコックが、足をふんばって、屋根の頂上にむすびつけた綱を、グングンと引きあげています。下からはたぐりのぼる力、上からは引きあげる力、その両ほうの力がくわわって、二十面相はみるみる大屋根にのぼりつき、かわらの上にはいあがってしまいました。

 さいぜん、窓からコックの顔がのぞいたのは、綱の用意ができましたよというあいずだったのです。彼はたぶん綱のはしにからだをくくりつけて、さかさまに窓の外へぶらさがったのでしょう。

 こうして、怪盗の姿は、またたくまに、明智探偵の目の中から消えてしまいましたが、しかし、屋根の上などへ逃げあがって、いったいどうしようというのでしょう。さびしい一軒屋のことですから、まわりは四ほうともあき地で、町中のように屋根から屋根を伝わって逃げる手段もありません。

 それに、洋館ぜんたいが、おびただしい警官隊のために、とりまかれているのです。まったく袋のネズミも同然ではありませんか。屋根の上には飲み水や食料があるわけでもないでしょうから、いつまでもそんな場所にいることはできません。雨でも降れば、ふたりはあわれな、ぬれネズミです。

「どうしたんです。あいつは屋根へ逃げたんですか。」

 入り口にいた五人の警官が、明智探偵のそばにかけよって、口々にたずねました。

「そうですよ。じつにばかなまねをしたものです。われわれはただ、この家をとりかこんで、じっと待っていてもいいのですよ。そのうちに、やつらはつかれきって、降参してしまうでしょう。もう捕縛ほばくしたも同じことです。」

 探偵は、賊をあわれむようにつぶやきました。

 警官たちはすぐさま階下にかけおり、門の外に待機している警官隊に、このことをつたえました。いや、教えられるまでもなく、警官隊のほうでも、もうそれを気づいていました。

 命令いっか、五十人あまりのおまわりさんが、表口裏口から門内になだれこみ、たちまち建物の四ほうに、アリものがさぬ円陣をはってしまいました。

 指揮官中村捜査係長のさしずで、ふたりの警官が、どこかへ走りさったかと思うと、やがて、五分もたたないうちに、付近の消防署から、消防自動車が邸内にすべりこみ、機械じかけの非常ばしごがやみの大屋根めがけて、スルスルとのびあがりました。

 そのはしごを、帽子のあごひもをかけ、靴をぬいで靴下ばかりになった警官が、つぎからつぎへとよじのぼり、懐中電燈をふり照らしながら、屋根の上の大捕り物がはじまりました。

 二十面相とコックとは、手をつなぐようにして、屋根の頂上近くに立ちはだかっていました。大屋根にはいあがった警官たちは、それを遠まきにして、捕縄をにぎりしめ、ゆだんなくジリジリと賊にせまっていきます。

「ワハハハ……。」

 やみの大空に、気ちがいのような高笑いが爆発しました。賊たちは、この危急ききゅうのばあいに、何を思ったのか、声をそろえて笑いだしたのです。

「ワハハハ……、ゆかいゆかい、じつにすばらしい景色だなあ。ひとり、ふたり、三人、四人、五人、おお、登ってくる、登ってくる。おまわりさんで屋根がうずまりそうだ。

 諸君、足もとに気をつけて、すべらないように用心したまえ。夜露でぬれているからね。ここからころがり落ちたら、命がないのだぜ。おお、そこへ登ってきたのは、中村警部君じゃないか。ご苦労さま。しばらくだったねえ。」

 二十面相は傍若無人ぼうじゃくぶじんにわめきちらしています。

「いかにもわしは中村だ。きさまも、とうとう年貢ねんぐをおさめるときがきたようだね。つまらない虚勢をはらないで、神妙しんみょうにして、最後を清くするがいい。」

 中村係長は、さとすようにどなりかえしました。

「ワハハ……、これはおかしい。最後だって? きみたちは、おれを袋のネズミとでも思っているのかい。もう逃げ場がないとでも思っているのかい。ところが、おれはけっしてつかまえられないんだぜ。おれの仕事はこれからだ。あんな宝石一つぐらいで、年貢をおさめてたまるものか。

 おい、中村君、ひとつなぞをかけようか。おれたちがこの大屋根から、どうして逃げだすかというのだ。とけるかい。ハハハ……、二十面相は魔術師なんだぜ。こんどは、どんなすばらしい魔術を使うか、ひとつあててみたまえ。」

 賊はあくまで傍若無人です。

 二十面相は虚勢をはっているのでしょうか。いや、どうもそうではなさそうです。何かたしかに逃げだせるという確信を持っているらしくみえます。

 しかし、四ほう八ぽうからとりかこまれた、この屋根の上を、どうしてのがれるつもりでしょう。いったい、そんなことができるのでしょうか。


悪魔の昇天


 中村係長は怪盗が何をいおうと、そんな口あらそいには応じませんでした。賊はなんの意味もない、からいばりをしているのだと思ったからです。そこで、屋上の警官たちに、いよいよ最後の攻撃のさしずをしました。

 それと同時に、十数名の警官が、口々に何かわめきながら、ふたりの賊をめがけて突進しました。屋根の上の警官隊の円陣が、みるみるちぢまっていくのです。

 ふたりの賊は屋根の頂上の中央に、たがいに手をとりあって立ちすくんでいます。もうそれ以上どこへも動く場所がないのです。

「ソレッ!」

 というかけ声とともに、中村係長が、ふたりに向かってとびかかっていきました。つづいてふたり、三人、四人、警官たちは賊をおしつぶそうとでもするように、四ほうからその場所にかけよりました。

 ところが、これはどうしたというのでしょう。中村係長がパッととびつくと同時に、ふたりの賊の姿が、まるでかき消すようになくなってしまったのです。

 それとは知らぬ警官たちは、暗さのために、つい思いちがいをして係長に組みついていくというありさまで、しばらくのあいだは、何がなんだかわけのわからぬ同士討ちがつづきました。

 係長のおそろしいどなり声に、ハッとしてたちなおってみますと、警官たちは、今まで自分たちのおさえつけていたのが、賊ではなくて上官であったことを発見しました。まるでキツネにつままれたような感じです。

「あかりだ! あかりだ! だれか懐中電燈を……。」

 係長が、もどかしげにさけびました。

 しかし、懐中電燈を持っていた人たちは、賊にとびかかるとき、屋根の上に投げだしてしまったので、まっくらな中できゅうにそれをさがすわけにもいきません。ただうろたえるばかりです。

 すると、ちょうどそのときでした。屋根の上がとつぜんパッと明るくなったのです。まるで真昼のような光線です。警官たちは、まぶしさに目もくらむばかりでした。

「ああ、探照燈だ!」

 だれかが、さもうれしげにさけびました。

 いかにもそれは、探照燈の光でした。

 見れば洋館の門内に、一台のトラックがとまっていて、その上に小型の探照燈がすえつけられ、二名の作業服を着た技手が、その強い光を屋根の斜面に向けているのでした。

 これは、警視庁そなえつけの移動探照燈なのです。

 中村係長は、賊が、やみの屋上へ逃げあがったと知ると、すぐさま消防署へ使いを出しましたが、そのとき、もうひとりの警官には、電話で警視庁へ探照燈をもってくることを依頼させたのです。それが今つい、手早く探照燈を付近の電燈線にむすびつけ、屋根の上を照らしはじめたのです。

 警官たちは、その真昼のような光の中で、キョロキョロと賊の姿をさがしもとめました。そして、人々の目が、屋根の上から、だんだん空のほうにうつっていったときです。

「アッ、あれだ! あれだ!」

 ひとりの警官が、とんきょうな声をたてて、やみの大空を指さしました。

 それと知ると、屋根の上の警官たちはもちろん、地上の数十名の警官たちも、あまりの意外さに、アーッと、おどろきのさけび声をあげました。

 ああ、ごらんなさい。二十面相は空にのぼっていたのです。悪魔は昇天したのです。

 やみの空を、ぐんぐんとのぼっていく、大きな大きな黒いゴムまりのようなものが見えました。軽気球けいききゅうです。ぜんたいをまっ黒にぬった軽気球です。広告気球アド・バルーンの二倍もある、まっ黒な怪物です。

 その軽気球の下にさがったかごの中に、小さくふたりの人の姿がみえます。黒い背広の二十面相と、白い上着のコックです。彼らは警官たちをあざわらうかのように、じっと下界をながめています。

 人々はそれを見て、やっと二十面相のなぞをとくことができました。怪盗の最後の切り札はこの軽気球だったのです。ああ、なんという、とっぴな思いつきでしょう。ふつうの盗賊などには、まるで考えもおよばない、ずばぬけた芸当ではありませんか。

 二十面相はまんいちのばあいのために、この黒い軽気球を用意しておいたのです。そして、今夜、明智探偵と会う少しまえに、その軽気球にガスを満たし、屋根の頂上につなぎとめておいたのです。ぜんたいがまっ黒にぬってあるものですから、こんなやみ夜には、通りがかりの人に発見される心配もなかったわけです。

 いや、通りがかりの人どころではありません。屋根の上の警官たちにさえ、この気球は少しも気づかれませんでした。それというのも、さすがの警官たちも、まさか、軽気球とは思いもよらぬものですから、屋根ばかりを見ていて、その上のほうの空などは、ながめようともしなかったからです。また、たとえながめたとしても、やみの中の黒い気球がはっきり見わけられようとも考えられません。

 ふたりの賊は警官たちに追いつめられたとき、とっさに軽気球のかごにとびのり、つなぎとめてあった綱を切断したのでしょう。それが暗やみの中の早わざだったものですから、とつぜんふたりの姿が消えうせたように感じられたのにちがいありません。

 中村係長は、足ずりをしてくやしがりましたが、賊が昇天してしまっては、もう、どうすることもできないのです。五十余名の警官隊は、空をあおいで、口々に何かわけのわからぬさけび声をたてるばかりでした。

 二十面相の黒軽気球は、下界げかいのおどろきをあとにして、ゆうゆうと大空にのぼっていきます。地上の探照燈は、軽気球とともに高度を高めながら、暗やみの空に、大きな白いしまをえがいています。

 その白いしまの中を、賊の軽気球は、刻一刻、その形を小さくしながら、高く高く、無限の空へと遠ざかっていきました。

 かごの中のふたりの姿は、とっくに見えなくなっていました。やがて、かごそのものさえも、あるかなきかに小さくなり、しまいには、軽気球が、テニスのボールほどの黒い玉になって、探照燈の光の中をゆらめいていましたが、それさえも、いつしか、やみの大空にとけこむように、見えなくなってしまいました。


怪軽気球の最後


「二十面相、空中にのがる」との報が伝わると、警視庁や各警察署はいうまでもなく、各新聞社の報道陣は、たちまち色めきだちました。

 時をうつさず、警視庁首脳部の緊急会議がひらかれ、その結果、探照燈によって賊のゆくえをつきとめることになりました。

 まもなく東京付近の空には、十数条の探照燈の光線が入りみだれました。戦争のようなさわぎです。都内の高層建築物の屋上からも、いくつかの探照燈が照らしだされ、警視庁や新聞社のヘリコプターは、夜が明けるのを待ってとびだすために、エンジンをあたためて待機の姿勢をとりました。

 しかし、これほどの大さわぎをしても、黒い軽気球は、どうしても見つけることができませんでした。その夜は、空いちめんに雲が低くたれていましたので、軽気球は雲の中へはいってしまったのかもしれません。けっきょく、せっかくの空中捜索も夜の明けるまでは、なんの効果もなく終わりました。

 ところが、その翌朝のことです。埼玉県熊谷くまがや市付近の人々は、夜のうちに晴れわたった青空に、何かまっ黒なゴム風船のようなものがとんでいるのを発見して、たちまち大さわぎをはじめました。

 その朝の新聞が、ゆうべの東京でのできごとを大きく書きたてていたものですから、人々はすぐ黒い風船の正体をさとることができたのです。

 賊の軽気球は、夜中から吹きはじめた東南の風に送られて、夜のうちにここまでただよってきたものにちがいありません。

「二十面相だ。二十面相が空をとんでいるのだ。」

 熊谷市内はもちろん、付近の町や村へも、そういうぶきみな声がひろがっていき、人々は家をからにして、街路へ走りいで、あるいは屋根の上にのぼって、青空にうかぶ黒い風船をながめました。

 空には、かなり強い風が吹いているらしく、軽気球は、ひじょうな速度で、北西の方向にとんでいます。みるみるうちに村を越え、森を越え、熊谷市の上空を通過して、群馬県のほうへととびさっていくのです。

 熊谷市の警察署員は、とびさる風船をながめて、地だんだをふんでくやしがりましたが、いくらくやしがっても、高射砲で射おとすこともできませんし、ヘリコプターをとばして機関銃で射撃するなどということは思いもよりません。ただ手をつかねて空を見まもるほかはないのでした。しかし、このことが電話によって東京に伝えられますと、新聞社は、待ってましたとばかりに、それぞれ所属のヘリコプターに出動を命じました。賊をとらえる望みはなくても、せめて怪軽気球を追跡して、その写真を撮影したり、記事をつくったりして、事件の経過を報道するためです。

 つごう四台のヘリコプターが、相前後して東京の空を出発しました。そして、おそろしいスピードをだして、ちょうど熊谷市と高崎たかさき市のなかほどの空で、賊の軽気球に追いついてしまったのです。

 それから、群馬県南部の大空に、ときならぬ空中ページェントがはじまりました。

 四台のヘリコプターは、四ほうから賊の軽気球をつつむようにして、とんでいます。しかし、プロペラのない軽気球には、このかこみをやぶってのがれる力がありません。風のまにまに吹きながされているばかりです。

 二十面相は、今や自由をうばわれたも同然です。とはいえ、ヘリコプターのほうでこれをきゅうにとらえる方法もありません。ただ、風船と同じ速度で飛行しながら、こんきよく追跡をつづけるほかはないのです。

 このふしぎな空中ページェントの通過する町や村の人たちは、仕事も何もうちすてて、先をあらそって家の外にとびだし、空を見あげて口々に何かさけぶのでした。畑の農民もすきくわを投げだして空を見まもっています。小学校のガラス窓からは、男の子や女の子の顔が、鈴なりになっています。ちょうどその下を通りすぎる汽車の窓にも、空を見あげる人の顔ばかりです。

 四台のヘリコプターは、ひし形の位置をとって、綱をはったように、黒い軽気球をまんなかにはさみながら、どこまでもどこまでもとんでいきます。

 ときには一台のヘリコプターが、賊をおどかすように、スーッと軽気球の前をかすめたりします。二十面相は、どんな気持でいるのでしょう。この空の重囲じゅういにおちいっても、まだ逃げおおせるつもりなのでしょうか。

 やがて、高崎市の近くにさしかかったとき、とうとう二十面相の運のつきがきました。黒い軽気球はとつぜん浮力をうしなったように、みるみる下降をはじめたのです。

 気球のどこかがやぶれて、ガスがもれているようすです。おお、ごらんなさい。今まではりきっていた黒い気球に、少しずつしわがふえていくではありませんか。

 おそろしい光景でした。一分、二分、三分、しわは刻一刻とふえていき、気球はゴムまりをおしつぶしたような形にかわってしまいました。

 風が強いものですから、下降しながらも、高崎市の方角へ吹きつけられていきます。四台のヘリコプターは、それにつれて、かじを下に向けながら、ひし形の陣形をみだしませんでした。

 高崎市の丘の上には、コンクリート造りの巨大な観音像が、雲をつくばかりにそびえています。その前の広場にも、奇怪な空のページェントを見物するために、多くの人がむらがっていたのですが、その人々は、どんな冒険映画にも例のないような、胸のドキドキする光景を見ることができました。

 晴れわたった青空を、急降下してくる四台のヘリコプター、その先頭には、しわくちゃになったまっ黒な怪物が、もうまったく浮力をうしなって、ひじょうな速力で地上へとついらくしてくるのです。

 傷ついた軽気球は、大観音像の頭の上にせまりました。サーッと吹きすぎる風に、しわくちゃの気球が、いまにも観音さまのお顔に巻きつきそうに見えました。

「ワーッ、ワーッ。」というさけび声が、地上の群衆の中からわきおこります。

 気球は観音さまのお顔をなで、胸をこすって、黒い怪鳥のように、地面へと舞いくだってきました。そして、また、「ワーッ。」とさけびながらあとじさりする群衆の前に、横なぐりに吹きつけられて、とうとう黒いむくろをさらしたのでした。

 軽気球のかごは、横だおしになって地面に落ち、風に吹かれるやぶれ気球のために、ズルズルと五十メートルほども引きずられて、やっと止まりました。中のふたりはかごといっしょにたおれたまま、気をうしなったのか、いつまでたっても起きあがるようすさえ見えません。

 新聞社の四台のヘリコプターは、賊の最期を見とどけると、この付近に着陸場もないものですから、そのまま、また四羽のトビのように、青空高く舞いあがって、東京の方角へと、とびさりました。

 時をうつさず、群衆をかきわけて、数名の警官が、黒い気球の前にあらわれました。高崎の警察署では、二十面相逃亡のことは、ゆうべのうちに通知を受けていましたので、遠くの空に怪軽気球があらわれると、すぐそれと察して、気球が下降をはじめたころには、警官隊の自動車が、観音像の地点へと走っていたのでした。

 警官たちは横だおしになった軽気球のかごにかけよって、かごから半身を乗りだして気をうしなっている二十面相と、白い上着のコックとを、いきなりだきおこそうとしました。

 ところが、そのつぎの瞬間には、なんだかみょうなことがおこったのです。

 ふたりの賊を、なかばだきおこした警官たちが、何を思ったのか、とつぜん手をはなしてしまいました。すると、ふたりの賊はコツンと音をたてて、地面へ投げだされたのです。

「こりゃなんだ。人形じゃないか。」

「人形が風船に乗ってとんでいたのか。」

 警官たちは、口々にそんなことをつぶやきながら、あっけにとられて顔を見あわせました。

 ああ、なんということでしょう。せっかくとらえた賊は、血のかよった人間ではなくて、ろう細工ざいくの人形だったのです。よく洋服屋のショーウィンドーに立っているようなマネキン人形に、それぞれ黒い背広と白い上着とが着せてあったのです。

 二十面相の悪知恵には奥底がありませんでした。警察はもとより、新聞社も、東京都民も、熊谷市から高崎市にかけての町々村々の人々も、二十面相のために、まんまと、いっぱい食わされたわけです。ことに四つの新聞社のヘリコプターは、まったく、むだぼねを折らされてしまったのです。

 いや、そればかりではありません。二十面相は、そのうえに、もっとあくどいいたずらさえ用意しておいたのです。

「おや、なんだか手紙のようなものがあるぜ。」

 ひとりの警官が、ふとそれに気づいて、二十面相の身がわりになった人形の上にかがみこみ、その胸のポケットから一通の封書をぬきとりました。

 封筒の表には「警察官殿」と記し、裏には「二十面相」と署名してあるのです。封をひらいて読みくだしてみますと、そこにはつぎのような、にくにくしい文章が書きつづってありました。

 ハハハ……、ゆかいゆかい、諸君は、まんまといっぱい食ったね。二十面相の知恵の深さがわかったかね。

 諸君が黒い風船を、やっきとなって追っかけまわすありさまが、目に見えるようだ。そして、やっととらえたと思ったら、人形だったなんて、じつにゆかいじゃないか。それを思うと、おれは吹きだしそうになるよ。

 ところで、明智君には少しお気のどくみたいだったねえ。さすが名探偵といわれるほどあって、おれの正体を見やぶったのは感心だけれど、そいつが、とんだやぶへびになってしまった。明智君が、おせっかいさえしなけりゃ、おれのほうでも、こんなさわぎはおこさなかっただろうからね。

 しかし、もう今となっては、とりかえしがつかない。明智君のおかげで、二十面相はまた、大っぴらに仕事ができるというもんだよ。

 こうなれば、けっしてえんりょはしないぜ。これからは大手おおでをふって、二十面相の活動をはじめるんだ。

 明智君によろしくいってくれたまえ。このつぎには、おれが、どんなすばらしい活動をはじめるか、よく見ていてくれってね。

 じゃあ、諸君、あばよ。

 二十面相は、まえもってこうなることを見こしてこの手紙を書き、人形にもたせておいたのです。手紙を読みおわると、警官は、あまりのことに、あいた口がふさがりませんでした。

 ああ、なんという大胆不敵、傍若無人の怪物でしょう。こんどこそは、さすがの名探偵明智小五郎も、賊の先まわりをする力がなかったのです。黒い風船の手品に、まんまと、ひっかかってしまったのです。

 では、あのとき、洋館の屋根の上から、賊はどこへ逃げたのかといいますと、あとになってしらべた結果、こういうことがわかりました。あの洋館の屋根の屋上には、十枚ほどのかわらが、箱のふたのようにひらくしかけになっていて、その下に屋根裏の秘密室がこしらえてあったのです。

 賊は中村係長にとらえられそうになったとき、まず人形をのせた風船の綱を切っておいて、すばやくこの屋根裏部屋へ姿をかくしたのですが、なにしろ、あんなやみ夜のことですから、ものなれた中村係長にも、そこまで見やぶることはできなかったのです。

 人々は、ただもう、黒い風船に気をとられてしまいました。空中へ逃げだすなんて、いかにも二十面相らしい、はなやかな思いつきですから、まさか、それがうそだろうとは、考えもおよばなかったのです。

 屋根裏の秘密室だけでしたら、すぐに発見されていたにちがいありません。屋根の上で人間が消えうせたとしたら、だれでもまず、かわらにしかけがあるのではないかとうたがうでしょうからね。

 ところが、このなんでもないかくれ場所が、いっぽうの黒い軽気球というずばぬけた思いつきによって、まったく人の注意をひかなくなってしまったのです。しかも、風船のかごの中には、二十面相やその部下とそっくりの人形が乗っていたのですからね。

 さて、軽気球がとびさりますと、洋館をとりかこんでいた警官隊は、ひとり残らず引きあげてしまいました。明智探偵も、ついゆだんをして、そこを立ちさったのです。

 そのあとで、二十面相とその部下とは、屋根裏部屋で姿をかえたうえ、例の麻なわを伝わって地上におり、大手をふって門を出ていったというわけです。なんとまあ、あざやかな手品使いではありませんか。

 読者諸君、怪盗二十面相は、こうしてふたたび、わたしたちの前にあらわれました。そして、名探偵明智小五郎に、にくにくしい挑戦状をつきつけたのです。

 むろん、指をくわえてひっこむようないくじのない明智探偵ではありません。今や探偵と怪人とは、まったく新たな敵意をもって相対することになったのです。こんどこそ、死のものぐるいの知恵くらべです。一騎うちです。


黄金おうごんの塔


 二十面相は、いよいよ正体をあらわしました。そして、これからは大っぴらに、怪盗二十面相として、例の宝石や美術品ばかりをねらう、ふしぎな魔術の泥棒をはじめようというわけです。

 新聞によって、これを知った東京都民は、黒い魔物のうわさを聞いたときにもまして、ふるえあがってしまいました。ことに美術品をたくさんたくわえている富豪などは、心配のために、夜もおちおちねむられないというありさまです。なにしろ、政府の博物館までおそって、美術品をすっかりぬすもうとしたほどの、おそろしい大盗賊ですからね。

 さて、軽気球さわぎがあってから、十日ほどのちのことです。東京のある夕刊新聞が、とつぜん、都民をアッといわせるような、じつにおそろしい記事を掲載しました。その記事というのは、

 わが社編集局は、今暁こんぎょう、怪盗二十面相から一通の書状を受けとった。怪盗は所定の広告料金を封入して、その書状の全文を広告面に掲載してくれと申しこんできたが、本紙に盗賊の広告をのせることはできない。むろんわが社はこの奇怪な申しこみを謝絶した。

 右書状には、二十面相は、本月二十五日深夜、大鳥おおとり時計店所蔵の有名な「黄金の塔」をぬすみだす決意をした。従来の実例によってもあきらかなとおり、二十面相は、けっして約束をたがえない。明智小五郎君をはじめ、その筋では、じゅうぶん警戒されるがよろしかろう、という大胆不敵の予告が記されていた。

 これは何者かのいたずらかもしれない。しかし、従来の二十面相のやり口を考えると、かならずしもいたずらとのみ言いきれないふしがあるので、わが社は、この書状をただちに警視庁当局に提出し、いっぽう大鳥時計店にも、このおもむきを報告した。


と記し、つづいて「黄金の塔」の由来ゆらいや、二十面相の従来の手口、明智名探偵の訪問記事などを、ながながと掲載けいさいしました。社会面六段ぬきの大見出しで、明智探偵の大きな写真までのせているのです。

 新聞記事には、有名な「黄金の塔」とあります。いったい、どんなふうに有名なのでしょうか。それについて、少し説明しておかなければなりません。

 大鳥時計店というのは、中央区の一角に高い時計塔をもつ、東京でも一─二をあらそう老舗しにせです。そこの主人大鳥清蔵おおとりせいぞう老人は、ひじょうにはでずきなかわり者で、大の浅草観音の信者なのですが、あるとき、浅草観音の五重の塔の模型を商売ものの純金でつくらせ、家宝にすることを思いたちました。

 そして、できあがったのは、屋根の広さ約十二センチ平方、高さ七十五センチという、りっぱな黄金塔で、こまかいところまで、浅草の塔にそっくりの、精巧せいこうな細工でした。しかも、塔の中はからっぽではなく、すっかり純金でうずまっているのですから、ぜんたいの目方は八十キロをこえ、材料の金だけでも時価五百万円ほどの高価なものでした。

 ちょうどこの黄金塔ができあがったころ、同業者の銀座の某時計店に、ショーウィンドーやぶりの賊があって、そこに陳列してあった二百万円の金塊がぬすまれたというさわぎがおこったものですから、大鳥氏は、せっかく苦心してつくらせた黄金塔が、同じようにぬすまれてはたいへんだと、今まで店の間にかざっておいたのを、にわかに奥まった部屋にうつし、いろいろな防備をほどこし、盗難にそなえました。

 その奥座敷は十畳の日本間なのですが、まず、まわりのふすまや障子をぜんぶ、がんじょうな板戸にかえ、それに、いちいち錠前をつけ、かぎは主人と支配人の門野かどの老人のふたりだけが、はだ身はなさず持っていることにしました。これが第一の関所です。

 もし賊が、この板戸をどうかしてひらくことができたとしても、その中には、さらに第二の関所があります。それは部屋のまわりの畳の下に電気じかけがあって、賊がどこからはいったとしても、その部屋の畳をふみさえすれば、たちまち家中のベルが、けたたましく鳴りひびくという装置なのです。

 しかし、関所はこの二つだけではありません。第三のいちばんおそろしい関所が、最後にひかえています。

 黄金塔は、広さ六十センチ四方、高さ一メートル三十センチほどの、長い箱の形をした、りっぱな木製のわくの中に入れて、その部屋の床の間に安置してあるのですが、この木のわくが、くせものなのです。

 本来ならば、このわくには四ほうにガラスをはるわけですが、大鳥氏はわざとガラスをはらず、だれでも自由に黄金塔に手をふれることができるようにしておきました。そのかわりに、わくの四すみの太い柱のかげに、赤外線防備装置という、おそろしいしかけがかくされていたのです。

 四本の柱に三ヵ所ずつ、つごう十二ヵ所に、赤外線を発射する光線をとりつけて、一口にいえば、黄金塔の上下左右を、目に見えぬ赤外光線のひもでつつんでしまってあるわけです。そして、もし、だれかが黄金塔に手をふれようとして、赤外線をさえぎりますと、べつの電気じかけに反応して、たちまちベルが鳴りひびくと同時に、そのさえぎったものの方向へ、ピストルが発射されるというおそろしい装置です。木のわくの上下のすみには、外部からは見えぬように、八丁の小型ピストルが、実弾をこめて、まるで小さな砲台のようにすえつけてあるのです。ただ、盗難をふせぐだけならば、黄金塔を大きな金庫の中へでも入れてしまえばいいのですが、大鳥氏は、せっかくこしらえさせたじまんの宝物を、人にも見せないで、しまいこんでおく気にはなれませんでした。そこで、気心きごころの知れたお客さまには、じゅうぶん見せびらかすことができるように、こんな大げさな装置を考案したわけです。むろん、お客さまに見せるときは、わくの柱のかげにある秘密のボタンをおして、赤外線の放射をとめておくわけです。

 高価な純金の塔そのものも、たいへん世間をおどろかせましたが、この念入りな防備装置のうわさが、いっそう世評せひょうを高めたのです。むろん、大鳥時計店では防備装置のことをかたく秘密にしておいたのですけれど、いつとはなく輪に輪をかけたうわさとなって、世間にひろがり、塔のおいてある部屋にはいると、足がすくみ、からだがしびれてしまうのだとか、鋼鉄でできた人造人間が番をしていて、あやしいものがしのびよれば、たちまちつかみ殺してしまうのだとか、いろいろの奇妙な評判がたって、それが新聞にものり、今ではだれ知らぬものもないほどになっていました。

 二十面相はそこへ目をつけたのです。一夜に千万円もの美術品をぬすんだこともある二十面相のことですから、黄金の塔そのものは、さほどほしいとも思わなかったでしょうが、それよりも、うわさに高いげんじゅうな防備装置にひきつけられたのです。人のおそれる秘密のしかけをやぶって、まんまと塔をぬすみだし、世間をアッといわせたいのにちがいありません。

「どうだ、おれには、それほどの腕まえがあるんだぞ。」

 と、いばってみせたいのです。警察や明智名探偵を出しぬいて、「ざまをみろ。」と笑いたいのです。二十面相ほどの盗賊になりますと、盗賊にもこんな負けぬ気があるのです。

 名探偵明智小五郎は、その夕刊新聞の記事を読みました。翌日には、大鳥時計店の主人が、わざわざ探偵の事務所をたずねてきて、黄金塔の保護を依頼して帰りました。そして、名探偵は、むろんこの事件をひきうけたのです。

 前の事件で、軽気球のトリックにかかったのは、中村捜査係長はじめ、警官隊の人たちでしたが、明智にも責任がないとはいえません。賊に出しぬかれたうらみは、人いちばい感じているのです。こんどこそ、みごとに二十面相をとらえて恥辱ちじょくをそそがなければなりません。名探偵のまゆには深い決意の色がただよっていました。

 ああ、なんだか心配ではありませんか。怪盗二十面相は、どんな魔術によって、黄金塔をぬすみだそうというのでしょう。名探偵は、はたしてそれをふせぐことができるでしょうか。探偵と怪人の一騎うちの知恵くらべです。悪人は悪人の名まえにかけて、名探偵は名探偵の名まえにかけて、おたがいに、こんどこそ負けてはならぬ真剣勝負です。


怪少女


 それと知った助手の小林少年は、気が気ではありません。どうかこんどこそ、先生の手で二十面相がとらえられますようにと、神さまに祈らんばかりです。

「先生、何かぼくにできることがありましたら、やらせてください。ぼく、こんどこそ、命がけでやります。」

 大鳥氏がたずねてきた翌日、小林君は明智探偵の書斎へはいっていって、熱誠を面にあらわしてお願いしました。

「ありがとう。ぼくは、きみのような助手を持ってしあわせだよ。」

 明智はイスから立ちあがって、さも感謝にたえぬもののように、小林君の肩に手をあてました。

「じつは、きみにひとつたのみたいことがあるんだよ。なかなか大役だ。きみでなければできない仕事なんだ。」

「ええ、やらせてください。ぼく、先生のおっしゃることなら、なんだってやります。いったい、それはどんな仕事なんです。」

 小林君はうれしさに、かわいいほおを赤らめて答えました。

「それはね。」

 明智探偵は、小林君の耳のそばへ口を持っていって、なにごとかささやきました。

「え? ぼくがですか。そんなことできるでしょうか。」

「できるよ。きみならば大じょうぶできるよ。ばんじ、用意はおばさんがしてくれるはずだからね。ひとつうまくやってくれたまえ。」

 おばさんというのは、明智探偵の若い奥さん文代ふみよさんのことです。

「ええ、ぼく、やってみます。きっと先生にほめられるように、やってみます。」

 小林君は、決心の色をうかべて、キッパリと答えました。

 名探偵は何を命じたのでしょう。小林君が「ぼくにできるでしょうか。」と、たずねかえしたほどですから、よほどむずかしい仕事にちがいありません。いったい、それはどんな仕事なのでしょうか。読者諸君、ひとつ想像してごらんなさい。

 それはさておき、いっぽう怪盗の予告を受けた大鳥時計店のさわぎはひととおりではありません。十名の店員が交代で、寝ずの番をはじめるやら、警察の保護をあおいで、表裏に私服刑事の見はりをつけてもらうやら、そのうえ民間の明智探偵にまで依頼して、もうこれ以上、手がつくせないというほどの警戒ぶりです。

 主人の大鳥清蔵氏は考えました。

「奥座敷には例の三段がまえのおそろしい関所があるのだし、そのうえ店員をはじめ、警察や私立探偵の、これほどの警戒なのだから、いくら二十面相が魔法使いだといっても、こんどこそは手も足も出ないにきまっている。わしの店は、まるで難攻不落なんこうふらく堡塁ほうるいのようなもんだからな。」

 大鳥氏は、それを考えると、いささか得意でした。「二十面相め、やれるものなら、やってみろ。」といわぬばかりの勢いでした。

 しかし、日がたつにつれて、この勢いは、みじめにもくずれていきました。安心が不安となり、不安が恐怖となり、大鳥氏は、もういても立ってもいられないほど、いらいらしはじめたのです。

 それというのは、二十面相が毎日毎日、ふしぎな手段によって、犯罪の予告を、くりかえしたからです。

 夕刊新聞に予告の記事が発表されたのは、十六日のことで、問題の二十五日までは九日間のよゆうがあったのですが、二十面相は、あの新聞記事だけでは満足しないで、それ以来というもの、毎日毎日、「さあ、もうあと八日しかないぞ。」「さあ、あと七日しかないぞ。」と大島氏へ、残りの日数を知らせてくるのです。

 最初は、大きな字でただ「8」と書いたハガキが配達されました。そのつぎの日は、公衆電話から電話がかかってきて、主人が電話口に出ますと、先方はみょうなしわがれ声で、「あと七日だぜ。」といったまま、ぷっつりと電話を切ってしまいました。

 その翌朝のこと、店の戸をあけていた店員たちが、何か大さわぎをしていますので、行ってみますと、正面のショーウィンドーのガラスの、まんなかに、白墨はくぼくで、大きな「6」の字が書きなぐってあったではありませんか。

 賊の予告は、最初はハガキ、つぎは電話、そのつぎはショーウィンドーと、一日ごとに大鳥時計店へ近づいてきました。つぎには店の中までもはいってくるのではないでしょうか。

 そして、その翌朝のことです。顔を洗って、店へ出てきた店員たちは、アッとおどろいてしまいました。店には大小さまざまの時計が、あるいは柱にかけ、あるいは棚に陳列してあるのですが、ゆうべまでカチカチと動いていたそれらの時計が、どれもこれも止まってしまって、そのうえ申しあわせたように、短針が五時を示しているのです。

 懐中時計や、腕時計はべつですが、目ざまし時計も、ハト時計も、オルゴール入りの大理石の置き時計も、正面にある、二メートルほどの大振り子時計も、大小無数の時計の針が、いっせいに正五時をさしているありさまは、何かしらお化けめいて、ものすごいほどでした。

 いうまでもなく、「もうあと五日しかないぞ。」という、二十面相の予告です。怪盗は、とうとう店内までしのびこんできたのです。

 それにしても、げんじゅうな戸じまりがしてあるうえ、表と裏には私服刑事が、店内には寝ずの番人が見はっている中を、賊は、どうしてはいりこむことができたのでしょう。はいりこんだばかりか、いく十という時計を、だれにもさとられぬように、どうして止めることができたのでしょう。

 店員たちは、ひとりひとり、げんじゅうな取りしらべをうけましたが、べつにあやしい者もありません。すると、二十面相は幽霊のように、しめきった雨戸のすきまからでもはいってきたのでしょうか。そして、だれの目にもふれない、フワフワした気体のようなものになって、一つ一つ時計を止めてまわったのでしょうか。

 しかも、うすきみの悪い怪盗の予告は、それで終わったわけではありません。つぎには、さらにいっそう奥深く、賊の魔の手がのびてきました。

 その翌早朝のこと、大鳥氏は、下ばたらきの小娘こむすめの、けたたましいさけび声に目をさましました。その声が、黄金塔の安置してある部屋の方角から、聞こえてきましたので、大鳥氏はハッとしてとびおきると、そのへんに居あわせた店員をともなって、息せききってかけつけました。

 例の十畳の座敷の前までいってみますと、そこに、つい四日ばかり前にやといいれた、十五─六のかわいらしいお手伝いさんが、おどろきのあまり口もきけないようすで、しきりと座敷の板戸を指さしていました。

 板戸の表面には、またしても白墨で、三十センチ四ほうほどの、大きな「4」いう字が書いてあるではありませんか。ああ、二十面相は、とうとう、この奥まった部屋までも、ふみこんできたのです。

 大鳥氏はそれを見ますと、もうびっくりしてしまって、もしや黄金塔がぬすまれたのではないかと、急いでかぎをとりだし、板戸をあけて床の間を見ましたが、黄金塔はべつじょうなく、さんぜんとかがやいていました。さすがの賊にも、三段がまえの防備装置をやぶる力はなかったものとみえます。

 しかし、ここまでしのびこんでくるようでは、もういよいよゆだんがなりません。刑事や店員の見はりなどは、このお化けのような怪盗には、少しのききめもありはしないのです。

「今夜から、わしがこの部屋で寝ることにしよう。」

 大鳥氏は、とうとうたまらなくなって、そんな決心をしました。そして、その夜になりますと、黄金塔の部屋に夜具を運ばせて、よいのうちから床にはいり、すきなたばこをふかしながら、まじまじと宝物の見はり番をつとめるのでした。

 十時、十一時、十二時、今夜にかぎって、時計の進むのがばかばかしく、おそいように感じられました。やがて、一時、二時、むかしのことばでいえば、丑三うしみどきです。もう電車の音も聞こえません。自動車の地ひびきもまれになりました。昼間のさわがしさというものが、まったくとだえて、都内の中心の商店街も、水の底のような静けさです。

 ときどき、板戸の外の廊下に、人の足音がします。寝ずの番の店員たちが、時間をきめて、家中を巡回じゅんかいしているのです。

 店の大時計が三時を打ちました。それから、十時間もたったかと思うころ、やっと四時です。

「おお、もう夜明けだ。二十面相め、今夜は、とうとうあらわれなかったな。」

 そう思うと、大鳥氏は、にわかにねむけがさしてきました。そして、もう大じょうぶだという安心から、ついウトウトねむりこんでしまったのです。

 どのくらいねむったのか、ふと目をさますと、あたりはもう明るくなっていました。時計を見れば、もう六時半です。

 もしやと床の間をながめましたが、大じょうぶ、大じょうぶ、黄金塔はちゃんとそこに安置されたままです。

「どうだ。いくら魔術師でも、この部屋の中までは、はいれまい。」

 大鳥氏は、すっかり安心して、「ウーン」と一つのびをしました。そして、腕をもとにもどそうとして、ヒョイと左のてのひらを見ますと、おや、なんでしょう? てのひらの中がまっ黒に見えるではありませんか。

 へんだなと思って、よく見なおしたとき、大鳥氏は、あまりのことに、「アッ。」とさけんで、床の上にとびおきてしまいました。

 みなさん、大鳥氏のてのひらには、いったい何があったと思います。そこには、いつのまに、だれが書いたのか、墨黒々と、大きな「3」の字があらわれていたのです。二十面相はとうとう、この部屋の中までも、しのびこんできたとしか考えられません。大鳥氏は、背中に氷のかたまりでもあてられたように、ゾーッと寒けを感じないではいられませんでした。

 それと同時に、部屋のいっぽうでは、もう一つ、みょうなことがおこっていました。大鳥氏の目のとどかないすみのほうの板戸が細めにひらかれ、そのすきまから、だれかが部屋の中をじっとのぞいているのです。

 ほおのふっくらした、かわいらしい顔。なんだか見おぼえのある人物ではありませんか。ああ、そうです。それはきのうの朝、板戸の文字を発見してさわぎたてた、あの少女なのです。数日前にやとわれたばかりの、十五─六のお手伝いさんなのです。

 少女は、てのひらの文字に青ざめている大鳥氏を、なんだかおかしそうに見つめていましたが、やがて、サッと顔をかくすと、板戸を音のせぬよう、ソロソロとしめてしまいました。

 この少女は、かぎのかけてある板戸を、どうしてひらくことができたのでしょう。いや、それよりも、まだやとわれたばかりの小娘のくせに、なんというあやしげなふるまいをするやつでしょう。

 大鳥氏も店員も、まだ、このことを少しも気づいていないようですが、わたしたちは、この少女の行動を、ゆだんなく見はっていなければなりません。


奇妙なはかりごと


「あと、もう三日しかないぞ。」

 てのひらに書かれた予告の数字に、主人大鳥氏はすっかりおどかされてしまいました。

 賊は黄金塔の部屋へ苦もなくしのびいったばかりか、ねむっている主人のてのひらに、筆で文字を書きさえしたのです。

 板戸と非常ベルの二つの関所は、なんの効果もなかったのです。

 このぶんでは、第三の関所もうっかり信用することはできません。魔術師二十面相にかかっては、どんな科学の力もききめをあらわさないかもしれません。二十面相は何か気体のようにフワフワした、お化けみたいなものに、変身しているとしか考えられないのですから。

 大鳥氏はさまざまに考えまどいながら、黄金塔の前にすわりつづけていました。一刻も目をはなす気になれないのです。目をはなせば、たちまち消えうせてしまうような気がするのです。

 さて、その日のお昼すぎのことでした。大鳥時計店の支配人の門野老人が、何か大きなふろしき包みをかかえて、店員たちの目をしのぶようにして、奥の間の大鳥氏のところへやってきました。

 門野支配人は、昔ふうにいえば、この店の大番頭で、おとうさんの代から二代つづいて番頭をつとめているという、大鳥家の家族同様の人物ですから、したがって主人の信用もひじょうにあつく、この人だけには板戸の合いかぎもあずけ、そのほかの防備装置のとりあつかい方も知らせてあるのです。

 ですから、支配人は、いつでも自由に奥座敷にはいることができます。畳の非常ベルのしかけも、柱のかくしボタンをおして、電流を切ってしまえば、いくら部屋の中を歩いても、少しも物音はしないのです。

 門野支配人は、そうしていくども板戸を出たりはいったりして、人目をしのびながら、まず一番に、一メートルもある細長いふろしき包みを、それから形は小さいけれど、たいへん重そうなふろしき包みを五つ、つぎつぎと座敷の中へ運びいれました。

「おい、おい、門野君、きみはいったい何を持ちこんできたんだね。商売の話なら、べつの部屋にしてほしいんだが。」

 主人の大鳥氏は、支配人のみょうなしぐさを、あっけにとられてながめていましたが、たまりかねたように、こう声をかけました。

 すると、支配人は、板戸をしめきって、主人のそばへ、いざりよりながら、声をひそめてささやくのです。

「いや、商談ではございません。だんなさま、おわすれになりましたか、ほら、わたくしが、四日ほどまえに申しあげたことを」

「え? 四日まえだって、ああ、そうか。黄金塔の替え玉の話だったね。」

「そうですよ。だんなさま、もうこうなっては、あのほかに手はございませんよ。賊は、やすやすとこの部屋へ、はいってまいったじゃございませんか。せっかくの防備装置も、なんのききめもありません。このうえは、わたくしの考えを実行するほかに、盗難をふせぐ手だてはありません。相手が魔法使いなら、こちらも魔法を使うまででございますよ。」

 支配人は、しらが頭をふりたてて、いっそう声をひくめるのです。

「ウン、今になってみると、きみの考えにしたがっておけばよかったと思うが、しかし、もう手おくれだ。これから黄金の塔の替え玉をつくるなんて、むりだからね。」

「いや、だんなさま、ご心配ご無用です。わたくしは、まんいちのばあいを考えまして、あのときすぐ細工人のほうへ注文をしておきましたのですが、それが、ただ今できあがってまいりました。これがその替え玉でございますよ。」

 支配人は、ほこらしげに、重そうな五つのふろしき包みを指さしてみせました。

「ほう、そいつは手まわしがよかったね。だが、その細工人から賊のほうへもれるようなことは……。」

「大じょうぶ。そこはじゅうぶん念をおして、かたく秘密を守らせることにいたしてあります。」

「それじゃ、ひとつ替え玉というものを見せてもらおうか。」

「よろしゅうございます。しかし、もし家の中に賊のまわし者がおりましてはたいへんでございますから、念には念をいれまして……。」

 支配人はいいながら、立ちあがって、板戸をひらき、外にだれもいないことをたしかめると、げんじゅうに内がわからかぎをかけるのでした。

 そして、主人とふたりがかりで、五つのふろしきをとき、一階ずつに分解された五重の塔をとりだしました。

 見れば、床の間に安置してあるものと寸分すんぶんちがわない五重の塔が、五つにわかれて、さんぜんとかがやいているのです。

「ウーム、よく似せたものだね。これじゃ、わしにも見分けがつかぬくらいだ。」

「でございましょう。外はしんちゅう板で作らせ、それに金めっきをさせました。中身は、重さをつくるために鉛にいたしました。これで、光沢こうたくといい、重さといい、ほんものと少しもちがいはいたしません。」

 支配人はとくとくとして申します。

「それで、ほんものを床下ゆかしたにうずめ、にせもののほうを、床の間に飾っておくという、はかりごとだったね。」

「はい、さようで。そうしますれば、賊は、にせものと知らずにぬすみだし、さぞくやしがることでございましょう。にせものといっても、このとおり重いのでございますから、ぬすみだすせつは、いかなる怪盗でもかけだすことはできません。その弱みにつけこんで、明智さんなり、警察の方なりに、ひっとらえていただこうというわけでございます。」

「ウン、そういけばうまいものだが、はたしてうまくいくものだろうか。」

 大鳥氏は、まだ少しためらいぎみです。

「いや、それはもう大じょうぶでございます。どうかわたくしにおまかせくださいまし。かならず二十面相の裏をかいて、アッといわせてお目にかけます。」

 支配人は、もう怪盗をとらえたような鼻息です。

「よろしい。きみがそれまでに言うなら、いっさいまかせることにしよう。じゃ、ひとつ、そのにせものを、あのわくの中へつみあげてみようじゃないか。」

 主人もやっとなっとくして、それからふたりがかりで、ほんものとにせものをとりかえました。

「おお、りっぱだ。形といい色つやといい、だれがこれをにせものと思うだろう。門野君、こりゃうまくいきそうだね。」

 大鳥氏は、わくの中につみあげられた、にせものの五重の塔をながめて、感じいったようにつぶやきました。この取りかえのさいには、例の赤外線装置をとめて、ピストルが発射しないようにしておいたことは申すまでもありません。

「それじゃ、ほんもののほうを、ふたりで、すぐ床下にうずめることにしようじゃないか。」

 今では、主人の大鳥氏も大のりきです。

 ふたりは、できるだけ物音をたてないように注意しながら、部屋のまんなかの畳をめくり、その下の床板ゆかいたをとりはずしました。

「くわも、ちゃんと用意してまいりました。」

 支配人は、最初にもちこんでおいた、長いふろしき包みをひらいて、一丁のくわをとりだしますと、いきなりしりはしょりをして、床板の下の地面におり立ちました。

 そのときです。ふたりが仕事にむちゅうになって少しも気づかないでいるすきに、またしても板戸の一枚が、音もなくスーッと細めにひらき、そこから見おぼえのある顔が、ソッと室内のようすをのぞきこんだではありませんか。あのかわいらしいお手伝いさんです。謎の小娘です。

 小娘は、しばらくふたりのようすをながめたうえ、また音もなく戸をしめて、立ちさってしまいましたが、それから五分ほどたって、支配人の門野老人が、やっと穴を掘りおわったころ、とつぜん、家の裏手のほうから、おそろしいさけび声が聞こえてきました。

「火事だあ。だれか来てくれえ。火事だあ。」

 店員の声です。

 時も時、もう三十分もすれば、すっかりほんものの黄金塔をうずめることができようという、きわどいときに、このさわぎです。

「おい、たいへんだ、ともかく塔やくわを床下にかくして、畳を入れてしまおう。早く、早く。」

 主人と支配人とは、力をあわせて塔の五つの部分を床下に投げこみ、床板をもとどおりにして、畳をしき、部屋には外からかぎをかけておいて、あわてふためいて、火事の現場へかけつけました。

 裏庭へ出てみますと、庭のすみの物置き小屋から、さかんに火を吹いています。さいわい母屋からはなれた小さな板子屋ですから、付近に燃えうつるというほどではありませんけれど、ほうっておいてはどんな大事にならぬともかぎりません。

 大鳥氏は支配人とともに、店員を呼びあつめ、声をかぎりにさしずをして、やっと出火を消しとめることができました。かろうじて消防自動車の出動をみなくてすんだのです。

 その火事さわぎが、やや二十分ほどもつづきましたが、そのあいだに黄金の塔の部屋には、みょうなことがおこっていました。

 主人をはじめ店員たちが、みんな火事場のほうへ行っているすきをめがけて、小さな人の姿が、かぎのかかった板戸をくもなくあけて、すべるように部屋の中へはいっていったのです。

 女学生のようなおさげのかわいらしい少女。いわずとしれた新参しんざんのお手伝いさんです。謎の少女です。

 少女は黄金塔の部屋へはいったまま、何をしているのか。しばらくのあいだ姿をあらわしませんでしたが、やがて、十分あまりもすると、板戸が音もなくひらいて、少女の姿が部屋をすべりだし、注意ぶかく戸をしめると、そのまま台所のほうへ立ちさってしまいました。

 この謎の少女は、いったい何者でしょうか。手ぶらで部屋を出ていったところをみますと、塔をぬすみにはいったものとも思われません。では、何をしにはいったのでしょう。読者諸君、こころみに想像してごらんなさい。

 それはともかく、やがて、火事さわぎがしずまりますと、大鳥氏と支配人は、大急ぎでもとの奥座敷に引きかえしました。そして門野さんは、片はだぬぎになって、また畳をあげ、床板をはずし、くわを手にして床下におりたちました。

 大鳥氏は、もしや、いまのさわぎのあいだに、だれかが、この部屋へはいって、畳の下の黄金塔をぬすんで行きはしなかったかと、支配人が、床板をはずすのも、もどかしく、縁の下をのぞきこみましたが、黄金塔には、なんのべつじょうもなく、黒い土の上に、ピカピカ光っているのを見て、やっと安心しました。

 やがて門野支配人は、黄金塔を床下の深い穴の中に、すっかりうめこんでしまいました。そして、床板も畳ももとのとおりにして、

「さあ、これでもう大じょうぶ。」

 といわぬばかりに、主人の顔を見て、ニヤニヤと笑うのでした。

 こうして、ほんものの宝物は、まったく人目につかぬ場所へ、じつに手ぎわよくかくされてしまいました。


天井の声


 もうこれで安心です。たとえ二十面相が予告どおりにやってきたとしても、黄金塔はまったく安全なのです。賊はとくいそうににせものをぬすみだしていくことでしょう。あの大泥棒をいっぱい食わせてやるなんて、じつにゆかいではありませんか。

 賊が床下などに気のつくはずはありませんが、でも、用心にこしたことはありません。大鳥氏はその晩から、ほんものの黄金塔のうずめてあるあたりの畳の上に、ふとんをしかせてねむることにしました。昼間も、その部屋から一歩も外へ出ない決心です。

 すると、みょうなことに「3」の字がてのひらにあらわれて以来、数字の予告がパッタリととだえてしまいました。ほんとうは、それには深いわけがあったのですけれど、大鳥氏はそこまで気がつきません。ただふしぎに思うばかりです。

 しかし、数字はあらわれないでも、盗難は二十五日の夜とはっきり言いわたされているのですから、けっして安心はできません。大鳥氏はそのあとの三日間を、塔のうずめてある部屋にがんばりつづけました。

 そして、とうとう二十五日の夜がきたのです。

 もう宵のうちから、大鳥氏と門野支配人は、にせ黄金塔をかざった座敷にすわりこんで、出入り口の板戸には中からかぎをかけてゆだんなく見張りをつづけていました。

 店のほうでも、店員一同、今夜こそ二十面相がやってくるのだと、いつもより早く店をしめてしまって、入り口という入り口にすっかりかぎをかけ、それぞれ持ち場をきめて、見はり番をするやら、こん棒片手に家中を巡回するやら、たいへんなさわぎでした。

 いかな魔法使いの二十面相でも、このような二重三重の、げんじゅうな警戒の中へ、どうしてはいってくることができましょう。彼はこんどこそ失敗するにちがいありません。もし、この中へしのびこんで、にせ黄金塔にもまよわされず、ほんものの宝物をぬすむことができるとすれば、二十面相は、もう魔法使いどころではありません。神さまです。盗賊の神さまです。

 警戒のうちに、だんだん夜がふけていきました。十時、十一時、十二時。表通りのざわめきも聞こえなくなり、家の中もシーンと静まりかえってきました。ただ、ときどき、巡回する店員の足音が、廊下にシトシトと聞こえるばかりです。

 奥の間では、大鳥氏と門野支配人が、さし向かいにすわって、置き時計とにらめっこをしていました。

「門野君、ちょうど十二時だよ。ハハハ……、とうとうやっこさんやってこなかったね。十二時がすぎれば、もう二十六日だからね。約束の期限が切れるじゃないか。ハハハ……。」

 大鳥氏はやっと胸をなでおろして、笑い声をたてるのでした。

「さようでございますね。さすがの二十面相も、このげんじゅうな見はりには、かなわなかったとみえますね。ハハハ……、いいきみでございますよ。」

 門野支配人も、怪盗をあざけるように笑いました。

 ところが、ふたりの笑い声の消えるか消えないかに、とつじょとして、どこからともなく、異様なしわがれ声がひびいてきたではありませんか。

「おい、おい、まだ安心するのは早いぜ。二十面相の字引きには、不可能ということばがないのをわすれたかね。」

 それはじつになんともいえない陰気な、まるで墓場の中からでもひびいてくるような、いやあな感じの声でした。

「おい、門野君、きみいま何か言いやしなかったかい。」

 大鳥氏はギョッとしたように、あたりを見まわしながら、しらがの支配人にたずねるのでした。

「いいえ、私じゃございません。しかし、なんだかへんな声が聞こえたようでございますね。」

 門野老人は、けげんな声で、同じように左右を見まわしました。

「おい、へんだぜ。ゆだんしちゃいけないぜ。きみ、廊下を見てごらん。戸の外にだれかいるんじゃないかい。」

 大鳥氏は、もうすっかり青ざめて、歯の根もあわぬありさまです。

 門野支配人は、主人よりもいくらか勇気があるとみえ、さしておそれるようすもなく、立っていって、かぎで戸をひらき、外の廊下を見わたしました。

「だれもいやしません。おかしいですね。」

 老人がそういって、戸をしめようとすると、またしても、どこからともなく、あのしわがれ声が聞こえてきました。

「なにをキョロキョロしているんだ、ここだよ。ここだよ。」

 陰にこもって、まるで水の中からでも、ものをいっているような感じです。何かしらゾーッと総毛立つような、お化けじみた声音こわねです。

「やい、きさまはどこにいるんだ。いったい何者だッ。ここへ出てくるがいいじゃないか。」

 門野老人が、から元気をだして、どことも知れぬ相手にどなりつけました。

「ウフフ……、どこにいると思うね。あててみたまえ……。だが、そんなことよりも、黄金塔は大じょうぶなのかね。二十面相は約束をたがえたりはしないはずだぜ。」

「何をいっているんだ。黄金塔はちゃんと床の間にかざってあるじゃないか。盗賊なんかに指一本ささせるものか。」

 門野老人は部屋の中をむやみに歩きまわりながら、姿のない敵とわたりあいました。

「ウフフフ……、おい、おい、番頭さん、きみは二十面相が、それほどお人よしだと思っているのかい。床の間のはにせもので、ほんものは土の中にうめてあることぐらい、おれが知らないとでもいうのかい。」

 それを聞くと、大鳥氏と支配人とは、ゾッとして顔を見あわせました。ああ、怪盗は秘密を知っていたのです。門野老人のせっかくの苦心はなんの役にも立たなかったのです。

「おい、あの声は、どうやら天井裏らしいぜ。」

 大鳥氏はふと気がついたように、支配人の腕をつかんで、ヒソヒソとささやきました。

 いかにも、そういえば、声は天井の方角からひびいてくるようです。天井ででもなければ、ほかに人間ひとりかくれる場所なんて、どこにもないのです。

「はあ、そうかもしれません。この天井の上に、二十面相のやつがかくれているのかもしれません。」

 支配人は、じっと天井を見あげて、ささやきかえしました。

「早く、店の者を呼んでください。そしてかまわないから、天井板をはがして、泥棒をつかまえるようにいいつけてください。さ、早く、早く。」

 大鳥氏は、両手で門野老人をおしやるようにしながら、せきたてるのです。老人はおされるままに、廊下に出て、店員たちを呼びあつめるために、店のほうへ急いでいきました。

 やがて、三人のくっきょうな店員が、シャツ一枚の姿で、脚立きゃたつやこん棒などを持って、しのび足で、はいってきました。相手にさとられぬよう、ふいに天井板をはがして、賊を手どりにしようというわけです。

 門野老人の手まねのさしずにしたがって、ひとりの店員がこん棒を両手ににぎりしめ、脚立の上に乗ったかと思うと、勢いこめて、ヤッとばかりに、天井板をつきあげました。

 一つき、二つき、三つき、つづけざまにつきあげたものですから、天井板はメリメリという音をたててやぶれ、みるみる大きな穴があいてしまいました。

「さあ、これで照らしてみたまえ。」

 支配人が懐中電燈をさしだしますと、脚立の上の店員は、それを受けとって、天井の穴から首をさし入れ、屋根裏のやみの中を、アチコチと見まわしました。

 大鳥時計店は、大部分がコンクリート建ての洋館で、この座敷は、あとからべつに建てました一階建ての日本間でしたから、屋根裏といっても、さほど広いわけでなく、一目で全体が見わたせるのです。

「何もいませんよ。すみからすみまで電燈の光をあててみましたが、ネズミ一ぴきいやあしませんぜ。」

 店員はそういって、失望したように脚立をおりました。

「そんなはずはないがなあ。わしが見てやろう。」

 こんどは門野支配人が、電燈を持って、脚立にのぼり、天井裏をのぞきこみました。しかし、そこのやみの中には、どこにも人間らしいものの姿はないのです。

「おかしいですね。たしかに、このへんから聞こえてきたのですが……。」

「いないのかい。」

 大鳥氏がやや安堵あんどしたらしく、たずねます。

「ええ、まるっきりからっぽでございます。ほんとうにネズミ一ぴきいやあしません。」

 賊の姿はとうとう発見することができませんでした。では、いったいあのぶきみな声は、どこからひびいてきたのでしょう。むろん、縁の下ではありません。厚い畳の下の声が、あんなにすっきり聞こえるわけはないからです。

 といって、そのほかに、どこにかくれる場所がありましょう。ああ、魔術師二十面相は、またしてもえたいのしれぬ魔法を使いはじめたのです。


意外また意外


 姿のない声が、ほんものの黄金塔のかくし場所を知っていると言ったものですから、大鳥氏は、もう気が気でなく、三人の店員たちをたちさらせますと、門野支配人とふたりで、大急ぎで畳をあけ、床板をはずし、それから、支配人にそこの土を掘ってみるように命じました。

 老人はしりはしょりして、床下においてあったくわを取り、心おぼえのある場所を掘りかえしていましたが、やがて、がっかりしたような声で、

「だんなさま、ありません。塔は、あとかたもなく消えうせてしまいました。」

 と報告するのでした。

 大鳥氏はそれを聞きますと、落胆のあまり、そこへしりもちをついたまま、口をきく元気もなく、しばらくのあいだぼんやりと、床下のやみのなかをながめていましたが、やがて、ふしぎにたえぬもののように、小首をかたむけました。

「おい、門野君、どうもへんだぜ。わしはあれをここへうずめてからというもの、洗面所へ行くほかは、この部屋を少しも出なかった。もしだれかが、わしのるすのあいだに、ここへしのびこんだとしても、たたみをあげ、床板をはずし、土を掘って、塔を持ちだすなんてよゆうは、まったくなかったはずだぜ。いったいあいつは、どういう手段でぬすみだしゃあがったのかなあ。」

 大鳥氏はくやしいよりも、何よりも、ふしぎでたまらないというおももちです。

「わたくしも、今それを考えていたところでございます。あたりまえの家でしたら、庭のほうの縁がわの下から、床下へはいこむという手もありますけれど、このお座敷の縁がわの下には、厚い板が打ちつけてございますからね。すきまはあっても、小犬でさえ通れないほどです。

 それに、さいぜんからこの床下を、懐中電燈でしらべているのですが、人間のはいこんだようなあとが、少しもありません。やわらかい土ですから、あいつが床をくぐってきたとしますれば、あとのつかないはずはないのですがねえ。」

 門野支配人は、まるでキツネにでもつままれたような顔をして、大きなため息をつくのでした。

「ウフフフ……、びっくりしたかい。二十面相の腕まえは、まあこんなもんさ。黄金塔はたしかにちょうだいしたぜ。それじゃ、あばよ。」

 ああ、またしても、あの陰気な声がひびいてきたではありませんか。いったい二十面相はどこにいるのでしょう。廊下でもありません。天井でもありません。床下でもありません。そのほかの、いったいどこに、人間ひとりかくれる場所があるのでしょう。

 ひょっとしたら、魔法使いの二十面相は、目に見えない気体のようなものになって、部屋の中のどこかに、たたずんでいるのでしょうか。

「門野君、やっぱりあいつはどっかにいるんだ。目には見えないけれど、この近くにいるにちがいないんだ。店の者にいいつけて、出入り口をかためさせなさい。早く、早く。そして、やつをとらえてしまうのだ。」

 大鳥氏は支配人の耳に口をよせて、せかせかとささやきました。もうぶきみさよりは、腹だたしさでいっぱいなのです。どんなにしてでも、賊をとらえないではおかぬというけんまくです。

 支配人も同じ考えとみえ、主人のいいつけを聞きますと、すぐさま店のほうへとんでいって、表口、裏口の見はりをして、あやしいやつを見つけたら、大きな声をたてて人を集め、ひっとらえてしまうようにと、店員たちに命じました。

 さあ、店内は上を下への大さわぎです。

「二十面相が家の中にいるんだ。見つけだして袋だたきにしちまえ。」

 十数名の血気の店員たちは、手に手にこん棒と懐中電燈を持って、あるいは表口、裏口をかためるもの、あるいは隊を組んで、家中を家さがしするもの、それはそれは、たいへんなさわぎでした。

 しかし、やや一時間ほども、店内のすみからすみまで、物置や押入れの中はもちろん、天井から縁の下まで、くまなくさがしまわりましたが、ふしぎなことに、賊らしい人の姿は、どこにも発見されませんでした。

 二十面相は、もう、家の中にはいないのでしょうか。風をくらって、逃げだしてしまったのでしょうか。では、どこから? 表も裏も、出入り口という出入り口は、すっかり店員でかためられていたのですから、逃げだすなんて、まったく不可能なことです。

「門野君、きみはどう思うね。じつに合点のいかぬ話じゃないか。……わしにはなんだか今でも、すぐ目の前に、あいつがいるような気がするのだよ。この部屋の中に、あいつの息の音が聞こえるような気がするのだ。」

 もとの座敷にもどった大鳥氏は、おびえた顔で、あたりをキョロキョロと見まわしながら、支配人にささやくのでした。

「わたくしも、なんだか、そんな気がしてなりません。あいつは魔法使いでございますからなあ。」

 門野支配人も同感のようです。

 そうして、ふたりがぼんやりと顔見あわせているところへ、ひとりの若い店員がいそいそとはいってきて、

「今、明智探偵がおいでになりました。」

 と報じました。

「なに、明智さんが来られた。チェッ、おそすぎたよ。もう一足早ければまにあったのに。あの人は、きょうまで、いったい何をしていたんだ。うわさに聞いたのとは大ちがいだ。名探偵もないもんだ。」

 大鳥氏は黄金塔をぬすまれた腹だちまぎれに、さんざん探偵の悪口をいうのでした。

「ハハハ……、ひどくごきげんがお悪いようですね。あなたは、ぼくがきょうまで何もしていなかったとおっしゃるのですか。」

 ひょいと見まわすと、部屋の入り口に、いつのまにか黒い背広姿の明智小五郎が立っているのです。

「アッ、これは明智さん。どうもとんだことを聞かれましたなあ。しかし、あなたが何もしてくださらなかったのはほんとうですよ。ごらんなさい。黄金塔はぬすまれてしまったじゃありませんか。」

 大鳥氏は気まずそうに、にが笑いしながら言うのでした。

「ぬすまれたとおっしゃるのですか。」

「そうですよ。予告どおり、ちゃんとぬすまれてしまいましたよ。」

 大鳥氏は腹だたしげに、門野支配人の考えだしたトリックの話をして、まだ畳をあげたままになっている床下を指さしながら、ほんものの黄金塔がなくなったしだいを語るのでした。

「それはぼくもよく知っています。」

 明智探偵は、そんなことは、いまさら説明を聞かなくても、わかっているといわぬばかりに、ぶっきらぼうに答えました。

「エッ、ごぞんじですって? そ、それじゃ、あなたは、知っていながら、二十面相がぬすんでゆくのを、だまって待っていたのですか。」

 大鳥氏はびっくりして、どなりかえしました。

「ええ、そうですよ。だまって見ていたのです。」

 明智は、あくまで落ちつきはらっています。

「な、なんですって? いったいぜんたい、あなたは……。」

 大鳥氏は、あっけにとられて、口もきけないありさまです。

「明智先生、あなたはまるで黄金塔がぬすまれたのを、よろこんでいらっしゃるように見えますが、それはあんまりです。あなたは主人にお約束なすったじゃありませんか。きっと黄金塔を守ってやると約束なすったじゃありませんか。」

 門野支配人が、たまりかねたように、探偵の前につめよりました。

「でも、ぼくはお約束をはたしましたよ。」

「はたしたって? それはいったいなんのことです。黄金塔はもう、ぬすまれてしまったじゃありませんか。」

「ハハハ……、何をいっているのです。黄金塔はちゃんとここにあるじゃありませんか。ここにピカピカ光ってるじゃありませんか。」

 明智探偵はさもゆかいらしく笑いながら、床の間に安置された黄金塔を指さしました。

「ば、ばかな、あなたこそ、何をいっているのです。それはにせものだと、あれほど説明したじゃありませんか。ほんものは床下にうめておいたのです。それがぬすまれてしまったのです。」

 大鳥氏はかんしゃくをおこしてさけびました。

「まあ、お待ちなさい。もしもですね。その床下にうめたほうがにせもので、その床の間のがほんものだったら、どうでしょう。二十面相は裏をかいたつもりで、まんまとにせものをつかまされてしまったわけです。じつに痛快じゃありませんか。」

 明智探偵は、みょうなことをいいだしました。

「エッ、エッ、なんですって? じょうだんはいいかげんにしてください。その床の間の塔がほんものなら、なにもこんなにさわぎやしません。これは、門野君が苦心をして作らせたにせものなんですよ。いくらピカピカ光っていたって、めっきなんですよ。」

「めっきかめっきでないか、ひとつよくしらべてごらんなさい。」

 明智はいいながら、木製のわくのかくしボタンを押して、赤外線防備装置をとめてから、むぞうさに塔の頂上の部分を持ちあげて、大鳥氏の目の前にさしだしました。

 探偵のようすが、あまり自信ありげだものですから、大鳥氏もつい引きいれられて、その塔の一部分を受けとると、つくづくとながめはじめました。

 ながめているうちに、みるみる、大鳥氏の顔色がかわってきました。青ざめていたほおに血の気がさしてきたのです。うつろになっていた目が、希望にかがやきはじめたのです。

「おお、おお、こりゃどうだ。門野君、これはほんとうの金むくだよ。めっきじゃない。しんまでほんものの金だよ。いったいこれはどうしたというのだ。」

 大鳥氏は喜びにふるえながら、床の間へとんでいって、塔の残りの部分を、入念にゅうねんにしらべましたが、長年、貴金属品をあつかっている同氏には、すぐさま、それがぜんぶ、ほんものの黄金であることがわかりました。

「明智さん、おっしゃるとおり、これはほんものです。ああ、助かった。二十面相はにせものをぬすんでいった。しかし、だれが、いつのまに、ほんものとにせものとを置きかえたのでしょう。家にはこの秘密を知っているものはひとりもいないはずだし、それに、この部屋には、たえず、わしががんばっていましたから、置きかえるなんてすきはなかったはずですが……。」

「それは、ぼくが命じて置きかえさせたのですよ。」

 明智探偵は、あいかわらず落ちつきはらって答えました。

「え、あなたが? だれにそうお命じなすったのです。」

 大鳥氏は、意外につぐ意外に、ただもうあきれかえるばかりです。

「おたくには、つい近ごろ、やといいれたお手伝いさんがいるでしょう。」

「ええ、います。あなたのご紹介しょうかいでやとった千代ちよという娘のことでしょう。」

「そうです。あの娘をちょっとここへよんでくださいませんか。」

「千代に、何かご用なのですか。」

「ええ、たいせつな用事があるのです。すぐ来るようにおっしゃってください。」

 明智探偵は、ますますみょうなことをいいだすのでした。

 大鳥氏はめんくらいながら、すぐさま千代を呼びよせました。読者諸君はご記憶でしょう、千代というのは、たびたび奥座敷をのぞいていた、あのかわいらしい怪少女なのです。

 まもなく、りんごのようにあでやかなほおをした、かわいらしいおさげの少女が、座敷の入り口にあらわれました。

「ここへきてすわりなさい。」

 探偵は少女を自分のそばへすわらせました。そして、黄金塔、置きかえの説明をはじめるのでした。

「大鳥さん、あなたがたが、ほんものの塔を、床の下へうめようとしていらしたとき、裏の物置きに火事がおこりましたね。」

「ええ、そうですよ。よくごぞんじですね。しかし、それがどうしたのですか。」

「あの火事も、じつはぼくが、ある人に命じて、つけ火をさせたのですよ。」

「エッ、なんですって? あなたがつけ火を? ああ、わしは何がなんだか、さっぱりわからなくなってしまいました。」

「いや、それには、ある目的があったのです。あなたがたが火事に気をとられて、この部屋をるすになすっていたあいだに、すばやく黄金塔の置きかえをさせたのですよ。床下にかくしてあったのを、もとどおり床の間につみあげ、床の間のにせものを、床下へ入れておいたのです。火事場から帰ってこられたあなたがたは、まさか、あのあいだに、そんな入れかえがおこなわれたとは、思いもよらぬものですから、そのまま、にせもののほうを床下にうずめ、床の間のほんものをにせものと思いこんでしまったのです。」

「へえー、なるほどねえ、あの火事は、わたしたちを、この部屋から立ちさらせるトリックだったのですかい。しかし、それならそうと、ちょっとわしに言ってくださればよかったじゃありませんか。何も火事までおこさなくても、わし自身で、ほんものとにせものとを置きかえましたものを。」

 大鳥氏は不満そうにいうのです。

「ところが、そうできない理由があったのです。そのことはあとで説明しますよ。」

「で、その塔の置きかえをやったというのは、いったいだれなのですね。まさかあなたご自身でなすったわけじゃありますまい。」

「それは、このお手伝いさんがやったのです。この人は、ぼくの助手をつとめてくれたのですよ。」

「へえー、千代がですかい。こんなおとなしい女の子に、よくまあそんなことができましたねえ。」

 主人はあっけにとられて、かわいらしい少女の顔をながめました。

「ハハハ……、千代は少女ではありませんよ。きみ、そのかつらを取ってお目にかけなさい。」

 探偵が命じますと、少女はにこにこしながら、いきなり両手で頭の毛をつかんだかと思うと、それをスッポリと引きむしってしまいました。すると、その下から、ぼっちゃんがりの頭があらわれたのです。少女とばかりに思っていたのは、そのじつ、かわいらしい少年だったのです。

「みなさん、ご紹介します。これはぼくの片腕とたのむ探偵助手の小林芳雄君です。こんどの事件が成功したのは、まったく小林君のおかげです。ほめてやってください。」

 明智探偵はさもじまんらしく、秘蔵弟子の小林少年をながめて、にこやかに笑うのでした。

 ああ、なんという意外でしょう。少年探偵団長小林芳雄君は、小娘のお手伝いさんに化けて、大鳥時計店にはいりこんでいたのです。そして、まんまと二十面相にいっぱい食わせてしまったのです。

「へえー、おどろいたねえ、きみが男の子だったなんて、うちのものはだれひとり気がつかなかったのですよ。なかなかよくはたらいてくれましたね、いい人をお世話ねがったとよろこんでいたくらいですよ。小林さん、ありがとう。ありがとう。おかげで家宝をうしなわなくてすみましたよ。明智さん。あなたは、いいお弟子を持たれて、おしあわせですねえ。」

 大鳥氏は、ホクホクとよろこびながら、小林君の頭をなでんばかりにして、お礼をいうのでした。

「ですが、明智さん、たった一つざんねんなことがありますよ。さいぜん二十面相のやつが、どこからか、わしたちに話しかけたのです。ざまをみろといってあざわらったのです。あなたが、もう一足早く来てくだされば、あいつをとらえたかもしれません。じつにざんねんなことをしましたよ。」

 大鳥氏も、黄金塔をとりかえしても、賊を逃がしたのでは、後日またおそわれはしないかと、寝ざめが悪いのです。

「大鳥さん、ご安心ください。二十面相はちゃんととらえてありますよ。」

 明智探偵は、意外なことをズバリといってのけました。

「エッ、二十面相を? あなたがとらえなすったのですか。いつ? どこで? そして、今あいつはどこにいるんです。」

 大鳥氏はあまりのことに、ことばもしどろもどろです。

「二十面相はこの部屋にいるのです。われわれの目の前にいるのです。」

 探偵の声がおもおもしくひびきました。

「へえ、この部屋に? だって、この部屋にはごらんのとおり、わしたち四人のほかにはだれもいないじゃありませんか。それとも、どっかにかくれてでもいるんですかい。」

「いいえ、かくれてなんぞいませんよ。二十面相は、ほら、そこにいるじゃありませんか。」

 いいながら、われらの名探偵は、意味ありげにニコニコと笑うのでした。

 読者諸君、明智探偵はなんという、とほうもないことをいいだしたのでしょう。大鳥氏も門野支配人も、自分の目がどうかしたのではないかと、キョロキョロとあたりを見まわしました。でも、その部屋には何者の姿もないのです。ああ、それではやっぱり、二十面相はあの魔術によって、気体のようなものに化けて、この部屋のどこかのすみにたたずんででもいるのでしょうか。そして、そのだれの目にも見えない怪物の姿が名探偵明智小五郎の目にだけは、はっきりうつっているのでしょうか。


きみが二十面相だ!


 大鳥氏はびっくりして、キョロキョロと部屋の中を見まわしました。しかし、賊の姿などどこにも見あたりません。

「ハハハ……、ごじょうだんを。ここにはわしたち四人のほかには、だれもいないじゃありませんか。」

 いかにも、戸をしめきった十畳の座敷には、主人の大鳥氏と、老支配人の門野と明智探偵と小林少年の四人のほかには、だれもいないのです。いったい明智は何をいっているのでしょう。頭がどうかしているのではないでしょうか。

「そうです。ここには、われわれ四人だけです。しかし、二十面相はやっぱりこの部屋にいるのです。」

「先生、あなたのおことばは、わたくしどもにはさっぱりわけがわかりません。もっとくわしくおっしゃっていただけませんでございましょうか。」

 しらがの老支配人は、オドオドしながら、探偵にたずねました。

「ほう、あなたにもまだわからないのですか。で、あなたは二十面相がどこにいるか、ききたいとおっしゃるのですね。それを言ってもいいですか。」

 明智は老支配人の顔をじっと見つめてから、意味ありげにいいました。

「エッ、なんとおっしゃいます?」

 門野老人は、なぜかギョッとしたように探偵を見かえしました。

「だれが二十面相だか、すっぱぬいてもかまわないというのですか。」

 明智の目に、電光のようなはげしい光がかがやき、グッと相手をにらみつけました。老支配人はその眼光に射すくめられでもしたように、返すことばもなく、思わず目を伏せました。

「ハハハ……、おい、二十面相、よくも化けたねえ。まるで六十の老人そっくりじゃないか。だが、ぼくの目をごまかすことはできない。きみだ! きみが二十面相だ!」

「と、とんでもない。そ、そんなばかなことが……。」

 門野支配人はまっさおになって、弁解しようとしました。

 主人の大鳥氏も、それにことばをそえます。

「明智先生、それは何かのお思いちがいでしょう。この門野は親の代からわしの店につとめている律義者りちぎものです。この男が二十面相だなんて、そんなはずはございません。」

「いや、あなたは、二十面相が変装の大名人であることを、おわすれになっているのです。なるほど、ほんとうの門野君は律義な番頭さんでしょう。しかし、この男は門野君ではありません。あの予告があってからまもなく、二十面相はほんとうの門野君をある場所に監禁して、自分が門野君に化けすまし、お店に出勤していたのです。

 いや、お店に出勤していたばかりではありません。門野君の自宅へも、ずうずうしく毎晩帰っていた。家族の人たちでさえ、それを少しも気づかなかったのです。」

 ああ、そんなことがありうるのでしょうか。今、目の前に立っている老人は、どう見ても門野支配人とそっくりです。どこに一つ、あやしい個所はありません。いったい、それほどたくみな変装ができるものでしょうか。

 一同があっけにとられて、明智探偵の顔を見つめている、ちょうどそのときでした。ああ、またしても、どこからともなく、あのおそろしい声が聞こえてきたではありませんか。

「フフフ……、明智先生も老いぼれたもんだねえ。二十面相をとりにがした苦しまぎれに、何も知らない老人に罪を着せようなんて……。おい、先生、目をあけて、よく見るがよい。おれはここにいるんだぜ。二十面相はここにいるんだぜ。」

 ああ、なんという大胆不敵、賊はまだこの部屋のどこかにかくれているのでしょうか。

「先生、あれです。あれが二十面相です。やっぱり天井から聞こえてくる。ね、おわかりでしょう。門野君じゃございません。門野君は二十面相じゃございません。」

 大鳥氏は、恐怖にたえぬもののように、ソッと天井を指さしながら、ささやくのでした。

 しかし、明智探偵は少しもさわぎません。口をつぐんだまま、じっと大鳥氏を見かえしています。

 と、とつじょとして、どこからともなく、まったく別の声がひびいてきました。

「おいおい、子どもだましはよしたまえ。

 ぼくが腹話術を知らないとでも思っているのか。ハハハ……。」

 大鳥氏はそれを聞いて、ゾッとふるえあがってしまいました。ああ、なんというふしぎなことでしょう。それはまぎれもなく明智探偵の声でした。天井から明智の声がひびいてきたのです。しかも、当の探偵は目の前に、じっと口をつぐんですわっています。まるで魔法使いです。明智探偵が、とつじょとしてふたりになったとしか考えられないのです。

「おわかりになりましたか、ご主人。これが腹話術というものです。口を少しも動かさないでものをいう術です。今のようにぼくがこうして口をふさいでものをいうと、まるでちがった方角からのように聞こえてくるのです。天井と思えば天井のようでもあり、床下と思えば床下からのようにも聞こえます。おわかりになりましたか。」

 今こそ、大鳥氏にもいっさいが明白になりました。腹話術というものがあることは、大鳥氏も話に聞いていました。さいぜんからの声が、みんな腹話術であったとすれば、すっかりつじつまがあるのです。天井や床下などをあれほどさがしても、二十面相の姿が発見されなかったわけが、よくわかるのです。それでは、やっぱり二十面相は門野老人に化けているのでしょうか。

 大鳥氏はまだ半信半疑のまなざしで、じっと門野老人を見つめました。門野老人はまっさおになっています。しかし、まだへこたれたようすは見えません。顔いっぱいにみょうなにが笑いをうかべて、何かいいだしました。

「腹話術ですって、おお、どうしてわたくしが、そんな魔法をぞんじておりましょう。明智先生、あんまりでございます。このわたくしがおそろしい二十面相の賊だなんて、まったく思いもよらぬ、ぬれぎぬでございます。」

 ところが、この老人のことばが終わるか終わらぬに、部屋の板戸を、外からトントンとたたく音が聞こえてきました。

「だれだね。用事ならあとにしておくれ。今はいって来ちゃいけない。」

 大鳥氏が大声にどなりますと、板戸の外に意外な声が聞こえました。

「わたくしでございます。門野でございます。ちょっと、ここをおあけくださいませ。」

「エッ、門野だって? きみは、ほんとうに門野君か。」

 大鳥氏は仰天ぎょうてんして、あわただしく板戸をひらきました。すると、おお、ごらんなさい、そこにはまぎれもない門野支配人が、やつれた姿で立っていたではありませんか。

「だんなさま。じつに申しわけございません。賊のためにひどいめにあいまして、つい先ほど、明智先生に助けだしていただいたのでございます。」

 門野老人はわびごとをしながら、部屋の中のもうひとりの門野を見つけ、思わずさけびました。

「アッ、あんたはいったい何者じゃ!」

 なんというふしぎな光景だったでしょう。いや、ふしぎというよりも、ゾーッと総毛立つような、なんともいえぬおそろしいありさまでした。そこには、まるで鏡に写したように、まったく同じ顔のふたりの老人が、敵意に燃える目でにらみあって、立ちはだかっていたのです。おそろしい夢にでもうなされているような光景ではありませんか。

 だれひとり、ものをいうものもなければ身動きするものもありません。数十秒のあいだ、映画の回転がとつぜん止まったような、ぶきみな静止と沈黙がつづきました。

 その静けさをやぶったのは、五人のうちのだれかがはげしい勢いで動きだしたのと、それから、少女の洋服を着ている小林少年が、

「アッ、先生、二十面相が!」

 とさけぶ、けたたましい声とでありました。

 さすがの二十面相も、ほんものの門野支配人があらわれては、もう運のつきでした。いかにあらそってみても勝ちみがないとさとったのでしょう。彼はやにわに畳をあげたままになっていた床下へとびおりました。そして、そこにかがんで何かしているなと思ううち、とつじょとして、まったく信じがたい奇怪事がおこったのです。

 ふしぎ、ふしぎ、アッと思うまに、にせ支配人の姿が、まるで土の中へでも、もぐりこんだように、消えうせてしまいました。

 またしても、二十面相は魔法を使ったのでしょうか。彼はやっぱり、何かしら気体のようなものに化ける術をこころえていたのでしょうか。


逃走


「ハハハ……、何もおどろくことはありませんよ。二十面相は土の下へ逃げたのです。」

 明智小五郎は、少しもさわがず、あっけにとられている人々を見まわして、説明しました。

「エッ、土の中へ? いったいそれはどういう意味です。」

 大鳥氏がびっくりして聞きかえします。

「土の中に秘密のぬけ穴が掘ってあったのです。」

「エッ、ぬけ穴が?」

「そうですよ。二十面相は黄金塔をぬすみだすために、あらかじめ、ここの床下へぬけ穴を掘っておいて、支配人に化けて、さも忠義顔に、あなたにほんものの塔を、この床下へうずめることをすすめたのです。そして、部下のものがぬけ穴からしのんできて、ちょうどその穴の入り口にある塔を、なんのぞうさもなく持ちさったというわけですよ。賊の足あとが見あたらなかったのはあたりまえです。土の上を歩いたのではなく、土の中をはってきたのですからね。」

「しかし、わたしはあれを床下へうずめるのを見ておりましたが、べつにぬけ穴らしいものはなかったようですが。」

「それはふたがしてあったからですよ。ま、ま、ここへ来てよくごらんなさい。大きな鉄板てっぱんで穴の上をふたして、土がかぶせてあったのです。今、二十面相はその鉄板をひらいて、穴の中にとびこんだのです。かき消すように見えなくなったのは、そのためですよ。」

 大鳥氏も門野老人も小林少年も、急いでそばによって、床下をながめましたが、いかにもそこには一枚の鉄板が投げだしてあって、そのそばに古井戸のような大きな穴が、まっ黒な口をひらいていました。

「いったい、この穴はどこへつづいているのでしょう。」

 大鳥氏があきれはてたようにたずねますと、明智はそくざに答えました。何から何まで知りぬいているのです。

「この裏手にあき家があるでしょう。ぬけ穴はそのあき家の床へぬけているのです。」

「では早く追いかけないと、逃げてしまうじゃありませんか。先生、早くそのあき家のほうへまわってください。」

 大鳥氏は、もう気が気でないというちょうしです。

「ハハハ……。そこにぬかりがあるものですか。そのあき家のぬけ穴の出口のところには、中村捜査係長の部下が、五人も見はりをしていますよ。今ごろあいつをひっとらえている時分です。」

「ああ、そうでしたか。よくそこまで準備ができましたねえ、ありがとう、ありがとう、おかげで、私も今夜からまくらを高くして寝られるというものです。」

 大鳥氏は安堵の胸をなでおろして、名探偵のぬけめのない処置を感謝するのでした。

 しかし、二十面相は、明智の予想のとおり、はたして五名の警官に、逮捕されてしまったでしょうか。名にしおう魔術賊のことです。もしや、意外の悪知恵をはたらかせて、名探偵の計略の裏をかくようなことはないでしょうか。ああ、なんとなく心がかりではありませんか。

 そのとき、やみのぬけ穴では、いったいどんなことがおこっていたのでしょう。

 門野老人に化けた二十面相は、人々のゆだんを見すまして、パッとぬけ穴の中にとびこみますと、せまい穴の中をはうようにして、まるでもぐらのようなかっこうで、反対の出口へと急ぎました。

 時計店の裏通りの、あき家というのは、奥座敷からは、せまい庭と塀とをへだててすぐのところにあるのですから、ぬけ穴の長さは二十メートルほどしかありません。二十面相は、まずそのあき家を借りたうえ、部下に命じて、人に知られぬように、大急ぎでぬけ穴を掘らせたのです。ですから、内がわを石がきやレンガできずくひまはなく、ちょうど旧式な炭坑のように、丸太のわくで、土の落ちるのをふせいであるという、みすぼらしいぬけ穴です。広さも、やっとひとり、はって歩けるほどなのです。

 二十面相は、土まみれになって、そこをはっていきましたが、あき家の中の出口の下まで来て、ヒョイと外をのぞいたかと思うと、何かギョッとしたようすで首をひっこめてしまいました。

「ちくしょうめ、もう手がまわったか。」

 彼は、いまいましそうに舌打ちして、しかたなく、またあともどりをはじめました。

 穴の外の暗やみの中に、大ぜいの黒い人かげが見えたからです。しかも、それがみんな制服の警官らしく、制帽のひさしと拳銃のにぎりが、やみの中にもかすかにピカピカと光って見えたのです。

 ああ、二十面相はとうとう、袋のネズミになってしまいました。いや、穴の中のもぐらになってしまいました。さすがの凶賊きょうぞくももはや運のつきです。前に進めば五人の警官、うしろにもどれば、だれよりもこわい明智名探偵が待ちかまえているのです。進むこともしりぞくこともできません。といって、もぐらではない二十面相は、こんなジメジメした、まっくらな穴の中に、いつまでじっとしていられましょう。

 しかし、なぜか怪盗はさしてこまったようすも見えません。彼はやみの中を、ぬけ穴の中ほどまで引きかえしますと、そこの壁のくぼみになった個所から、何かふろしき包みのようなものを、とりだしました。

「ヘヘン、どうだい。二十面相はどんなことがあったって、へこたれやしないぞ。敵が五と出せばこちらは十だ。十と出せば二十だ。ここにこんな用意がしてあろうとは、さすがの名探偵どのも、ごぞんじあるまいて。二十面相の字引きに不可能の文字なしっていうわけさ。フフフ……。」

 彼は、そんなふてぶてしいひとりごとをいいながら、ふろしき包みらしいものをひらきました。すると、その中から、警官の制服制帽、警棒、靴などがあらわれました。

 ああ、なんという用心ぶかさでしょう。まんいちのばあいのために、彼はぬけ穴の中へ、こんな変装用の衣装をかくしておいたのです。

「おっと、わすれちゃいけない。まず髪の毛の染料と顔のしわを落とさなくっちゃあ。」

 二十面相は、じょうだんのようにつぶやきながら、懐中から銀色のケースをとりだし、その中の揮発油きはつゆをしみこませた綿をちぎって頭と顔をていねいにふきとるのです。綿をちぎってはふき、ちぎってはふき、何度となくくりかえしているうちに、老人のしらが頭は、いつのまにか黒々とした頭髪となり、顔のしわもあとかたもなくとれて、若々しい青年にかわってしまいました。

「これでよしと、さあ、いよいよおまわりさんになるんだ。泥棒がおまわりさんに早がわりとござあい。」

 二十面相は、きゅうくつな思いをして、やみの中の着がえをしながら、さもうれしくてたまらないというように、低く口笛さえ吹きはじめるのでした。


 裏のあき家というのは、日本建ての商家でしたが、その奥座敷でも、ちょうど大鳥時計店の奥座敷と同じように、一枚の畳があげられ、床板がはずされ、その下に黒い土があらわれていました。

 その土のまんなかに、ここには鉄板のふたなどなくて、ポッカリとぬけ穴の口が大きくひらいているのです。

 ぬけ穴のまわりには、五名の制服警官が、あるいは床下に立ち、あるいは畳にこしかけ、あるいは座敷につっ立って、じっと見はりをつづけていました。むろん電燈はつけず、いざというときの用意には、中のふたりが懐中電燈をたずさえているのです。

「明智さんがもう少し早く、このぬけ穴を発見してくれたら、塔をぬすみだした手下のやつも、ひっとらえることができたんだがなあ。」

 ひとりの警官が、ささやき声で、ざんねんそうにいいました。

「だが、二十面相さえとらえてしまえば、手下なんか一網打尽いちもうだじんだよ。それにぬすまれた塔はにせものだっていうじゃないか。ともかく親玉さえつかまえてしまえば、こっちのもんだ。ああ、早く出てこないかなあ。」

 べつの警官が、腕をさすりながら、待ちどおしそうに答えるのです。

 たばこをすうのもえんりょして、じっと暗やみの中に待っている待ちどおしさ。まるで時間が止まってしまったような感じです。

「おい、何か音がしたようだぜ。」

「エッ、どこに?」

 思わず懐中電燈をつかんで立ちあがったことが、いく度あったでしょう。

「なあんだ、ネズミじゃないか。」

 当の二十面相は、いつまでたっても、姿をあらわさないのでした。

 しかし、おお、こんどこどは、人間です。人間が穴の中からはいだしてくる物音です。サラサラと土のくずれる音、ハッハッという息づかい、いよいよ二十面相がやってきたのです。

 五名の警官はいっせいに立ちあがって、身がまえました。二つの懐中電燈の丸い光が、左右からパッと穴の入り口を照らしました。

「おい、ぼくだよ、ぼくだよ。」

 意外にも、穴をはいだしてきた人物が、したしそうな声をかけるではありませんか。

 それは怪盗ではなくて、ひとりの若い警官だったのです。見知らぬ顔ですけれど、きっとこの区の警察署の警官なのでしょう。

「賊はどうしました。逃げたんですか。」

 見はりをしていた警官のひとりが、ふしんそうにたずねました。

「いや、もうとらえました。明智さんの手引きで、ぼくの署のものが、しゅびよく逮捕たいほしたのです。あなたがたも早くあちらへ行ってください……。ぼくはこのぬけ穴の検分をおおせつかったのです。もしや同類がかくれてやしないかというのでね。しかし、だれもいなかったですよ。」

 若い警官は、手錠をガチャガチャいわせながら、やっと穴をはいだして、五人の前に立ちました。

「なあんだ、もう逮捕したんだって?」

 こちらは、せっかく意気ごんだのにむだになったと知って、がっかりしてしまいました。いや、がっかりしたというよりも、他署のものに手がらをうばわれて、すくなからず不平なのです。

「明智さんから、あなたがたに、もう見はりをしなくっていいから、早くこちらへ来てくださいということでしたよ……。ぼくはちょっと、署まで用事がありますから、これで失敬しっけいします。」

 若い警官はテキパキといって、暗やみの中を、グングンあき家の表口のほうへ歩いていきました。

 とりのこされた五人の警官は、なんとなくふゆかいな気持で、きゅうに動く気にもなれず、

「なあんだ、つまらない。」

 などとつぶやきながら、ぐずぐずしていましたが、やがて、その中のひとりが、ハッと気づいたようにさけびました。

「おい、へんだぜ。あの男、ぬけ穴の調査を命じられたといいながら、報告もしないで、署に帰るなんて、少しつじつまがあわないじゃないか。」

「そういえば、おかしいね。あいつ穴の中をしらべるのに、懐中電燈もつけていなかったじゃないか。」

 警官たちは、なんとも形容のできない、みょうな不安におそわれはじめました。

「おい、二十面相というやつは、なんにだって化けるんだぜ。いつかは国立博物館長にさえ化けたんだ。もしや今のは……。」

「エッ、なんだって、それじゃ、あいつが二十面相だっていうのか。」

「おい、追っかけてみよう。もしそうだったら、ぼくらは係長にあわす顔がないぜ。」

「よしッ、追っかけろ。ちくしょう逃がすものか。」

 五人は、あわただしくあき家の入り口にかけだして、深夜の町を見わたしました。

「アッ、あすこを走っている。ためしによんでみようじゃないか。」

 そこで一同声をそろえて、

「オーイ、オーイ。」とどなったのですが、それを聞きつけた相手は、ヒョイとふりかえったかと思うと、立ちどまるどころか、まえにも増した勢いで、いちもくさんに逃げだしたではありませんか。

「アッ、やっぱりそうだ。あいつだ。あいつが二十面相だっ。」

「ちくしょう、逃がすものか。」

 五人はやにわに走りだしました。

 もう一時をすぎた真夜中です。昼間はにぎやかな商店街も、廃墟はいきょのように静まりかえり、光といってはまばらに立ちならぶ街燈ばかり、人っ子ひとり通らないアスファルト道が、はるかにやみの中へ消えています。

 その中を、逃げるひとりの警官、追いかける五人の警官、キツネにでもつままれたような奇妙な追跡がはじまりました。若い警官は、おそろしく足が早いのです。町かどに来るたび、あるいは右に、あるいは左に、めちゃくちゃに方角をかえて、追っ手をまこうとします。

 そして、さしかかったのが、中央区内の、とある小公園の塀外へいそとでした。右がわは公園のコンクリートべい、左がわはすぐ川に面している、さびしい場所です。

 二十面相は、そこまで走ってきますと、ヒョイと立ちどまって、うしろをふりかえりましたが、五人のおまわりさんはまだ町かどの向こうがわを走っているとみえて、追っ手らしい姿はどこにも見えません。

 それをたしかめたうえ、二十面相は何を思ったのか、いきなりそこにうずくまって、地面に手をかけ、ウンとりきみますと、さしわたし五十センチほどの丸い鉄板が、ふたをひらくように持ちあがり、その下に大きな黒い穴があきました。水道のマンホールなのです。

 東京の読者諸君は、水道の係りの人たちが、あの丸い鉄のふたをとって、地中へもぐりこんで、工事をしているのを、よくお見かけになるでしょう。今、二十面相は、その鉄のふたをひらいたのです。そして、ヒョイとそこへとびこむと、すばやく中から、ふたをもとのとおりにしめてしまいました。

 鉄のふたがしまるのと、五人のおまわりさんが町かどをまがるのと、ほとんど同時でした。

「おや、へんだぞ。たしかにあいつはここをまがったんだが。」

 おまわりさんたちは立ちどまって、死んだように静まりかえった夜ふけの町を見わたしました。

「向こうのまがりかどまでは百メートル以上もあるんだから、そんなに早く姿が見えなくなるはずはない。塀を乗りこして、公園の中へかくれたんじゃないか。」

「それとも、川へとびこんだのかもしれんぜ。」

 そんなことをいいかわして、おまわりさんたちは、注意ぶかく左右を見まわしながら、急ぎ足に例のマンホールの上を通りすぎて、公園の入り口のほうへ遠ざかっていきました。

 マンホールの鉄ぶたは、五人の靴でふまれるたびに、ガンガンとにぶい響きをたてました。おまわりさんたちは、そうして、二十面相の頭の上を通りながら、少しもそれと気づかなかったのです。東京の人は、マンホールなどには、なれっこになっていて、そのうえを歩いても、気のつかぬことが多いのです。

 五人の警官がしょうぜんとして大鳥時計店にたちかえり、事のしだいを明智に報告したのは、それから二十分ほどのちのことでした。

 それを聞いて、明智探偵は失望したでしょうか。警官たちの失策にかんしゃくをおこしたでしょうか。いやいや、けっしてそうではありませんでした。読者諸君、ご安心ください。われわれの名探偵はこれしきの失敗に勇気をうしなうような人物ではありません。彼のすばらしい脳髄のうずいに、まだまだとっておきの奥の手が、ちゃんと用意されていたのです。

「いや、ご苦労でした。ぼくもあいつがぬけ穴の中に変装の衣装をかくしていようとは思いもおよばなかった。しかし、諸君、失望なさることはありませんよ。こういうこともあろうかと、ぼくはちゃんと、もう一だん奥の用意がしてあるのです。

 二十面相はしゅびよく逃げおおせたつもりでいても、まだぼくの張った網の中からのがれることができないのです。見ていてください。明朝までには、きっと諸君のかたきをとってあげますよ。

 ほんとうをいえば、あいつが逃げてくれたのは思うつぼなのです。ぼくはゆかいでたまらないくらいです。なぜといって、そのぼくの奥の手というのは、じつにすばらしい手段なのですからね。諸君、見ていてください。二十面相がどんなに泣きつらをするか。ぼくの部下たちが、どんなみごとなはたらきをするか。

 さあ、小林君、二十面相の最後の舞台へ、急いで出かけるとしよう。」

 名探偵はいつにかわらぬほがらかな笑顔をうかべて、愛弟子小林君をまねきました。そして、大鳥時計店をたちいでますと、そこに待たせてあった自動車に乗って、夜霧の中を、いずこともなく走りさったのでありました。


 さて、わたしたちは、もう一度、あの公園の前に立ちもどって、マンホールの中へかくれた二十面相が、どんなことをするか、それを見さだめなければなりません。

 警官たちがたちさってしまいますと、そのあたりはまた、ヒッソリともとの静けさにかえりました。深夜の二時です。人通りなどあるはずはありません。

 遠くのほうから、犬の鳴き声が聞こえていましたが、それもしばらくしてやんでしまうと、この世から音というものがなくなってしまったような静けさです。

 黒く夜空にそびえている公園の林のこずえが、風もないのにガサガサと動いたかと思うと、夜の鳥が、あやしい声で、ゲ、ゲ、と二声鳴きました。

 空は一面にくもって、星もないやみ夜です。光といっては、ところどころの電柱にとりつけてある街燈ばかり。その街燈の一つが二十面相のかくれたマンホールの黒い鉄板の上を、うすぼんやりと照らしています。

 でも、マンホールのふたは、いつまでたっても動かないのです。ああ、二十面相は、あの暗やみの土の中で、いったい何をしているのでしょう。

 長い長い二時間がすぎて、四時となりました。東の空がうっすらとしらみはじめています。遠い江東区こうとうくの空から、徹夜作業てつやさぎょうの工場の汽笛が夜明けの近づいたことを知らせるように、もの悲しく、かすかにひびいてきました。

 すると、街燈に照らされたマンホールのふたが、生きものででもあるかのように、少しずつ動きはじめました。やがて、鉄板はカタンとみぞをはずれて、ジリジリと地面を横へすべっていきます。そして、その下から、まっ黒な穴の口が、一センチ、二センチと、だんだん大きくひらいていくのです。

 長いあいだかかって、鉄のふたはすっかりひらきました。すると、そこの丸い穴から、新しいネズミ色のソフト帽がニューッとあらわれてきたではありませんか。そして、そのつぎには、鼻の下に黒いひげをはやしたりっぱな青年紳士の顔、それからまっ白なソフト・カラー、はでなネクタイ、折り目の正しい上等の背広服と、胸のへんまで姿を見せて、その紳士は、注意ぶかくあたりを見まわしましたが、どこにも人かげのないのをたしかめると、パッと穴の中から地上にとびだし、すばやく鉄のふたをもとのとおりにしめて、そのまま何くわぬ顔で、歩きはじめました。

 この青年紳士が怪盗二十面相の変装姿であったことは、申すまでもありません。ああ、なんという用心ぶかいやり口でしょう。二十面相は、何か仕事をもくろみますと、まんいちのばあいのために、いつもその付近のマンホールの中へ、変装用の衣装をかくしておくのです。そして、もし警官に追われるようなことがあれば、すばやく、そのマンホールの中へ身をかくし、まったくちがった顔と服装とになって、そしらぬ顔で逃げてしまうのです。

 読者諸君のおうちの近所にも、マンホールがあることでしょうが、もしかすると、その中に、大きな黒いふろしき包みがかくしてあるかもしれませんよ。まんいちそんなふろしき包みが見つかるようなことがあれば、それは二十面相が、そのへんで何かおそろしいもくろみをしたしょうこなのです。

 さて、二十面相の青年紳士は、急ぎ足に近くの大通りへ出ますと、そこの駐車場にならんでいたいちばん前の自動車に近づき、居ねむりをしている運転手を呼びおこしました。

 そして運転手がドアをひらくのを待ちかねて、客席へとびこみ、早口に行く先をつげるのでした。

 自動車は、ガランとした夜明けの町を、ひじょうな速力で走っていきます。銀座通りを出て、新橋しんばしをすぎ、環状線を品川へ、品川から京浜けいひん国道を、西に向かって一キロほど、とある枝道を北へはいってしばらく行きますと、だんだん人家がまばらになり、まがりくねった坂道の向こうに、林につつまれた小さな丘があって、その上にポツンと一軒の古風な洋館が、建っているのがながめられました。

「よし、ここでいい。」

 二十面相の青年紳士は、自動車をとめさせて、料金をはらいますと、そのまま丘の上へとのぼっていき、木立ちをくぐって、洋館の玄関へはいってしまいました。

 読者諸君、ここが二十面相のかくれがでした。賊はとうとう安全な巣くつへ逃げこんでしまったのです。では、明智探偵のせっかくの苦心も水のあわとなったのでしょうか。二十面相は、かんぜんに探偵の目をくらますことができたのでしょうか。


美術室の怪


 二十面相がドアをあけて、玄関のホールに立ちますと、その物音を聞きつけて、ひとりの部下が顔を出しました。頭の毛をモジャモジャにのばして、顔いちめんに無精ぶしょうひげのはえた、きたならしい洋服男です。

「お帰りなさい……。大成功ですね。」

 部下の男はニヤニヤしながらいいました。何も知らないらしいのです。

「大成功? おやいや、何を寝ぼけているんだ。おれはマンホールの中で夜を明かしてきたんだぜ。近ごろにない大失敗さ。」

 二十面相はおそろしいけんまくでどなりつけました。

「だって、黄金塔はちゃんと手にはいったじゃござんせんか。」

「黄金塔か、あんなもの、どっかへうっちゃっちまえ。おれたちは、にせものをつかまされたんだよ。またしても、明智のやつのおせっかいさ、それに、こにくらしいのは、あの小林という小僧だ。お手伝いに化けたりして、チビのくせに、いやに知恵のまわる野郎だ。」

 部下の男は、首領のやつあたりにヘドモドしながら、

「いったいどうしたっていうんですか? あっしゃ、まるでわけがわかりませんが。」

 とふしん顔です。

「まあ、すんだことはどうだっていい。それより、おれはねむくってしかたがないんだ。何もかもねむってからのこと。それから、新規しんきまきなおしだ。あーあ……。」

 二十面相は大きなあくびをして、フラフラと廊下をたどり、奥まった寝室へはいってしまいました。

 部下の男は、二十面相を送って、寝室の外まで来ましたが、中からドアがしまっても、そこのうす暗い廊下に、長いあいだたたずんで、何か考えていました。

 やや五分ほども、そうしてじっとしていますと、つかれきった二十面相は、服も着かえないでベッドにころがったものとみえ、もうかすかないびきの音が聞こえてきました。

 それを聞きますと、ひげむじゃの部下は、なぜかニヤニヤと笑いながら、寝室の前を立ちさりましたが、ふたたび玄関に引きかえし、入り口のドアの外へ出て、向こうの林のしげみへ向かって、右手を二三度大きくふりうごかしました。なんだか、その林の中にかくれている人に、あいずでもしているようなかっこうです。

 夜が明けたばかりの、五時少しまえです。林の中は、まだゆうべのやみが残っているように、うす暗いのです。こんなに朝早くから、いったい何者が、そこにかくれているというのでしょう。

 ところが、部下の男が手をふったかと思うと、その林の下のしげった木の葉が、ガサガサと動いて、その間から、何かほの白い丸いものが、ぼんやりとあらわれました。うす暗いのでよくわかりませんが、どうやら人の顔のようにも思われます。

 すると、建物の入口に立っている部下の男が、こんどは両手をまっすぐにのばして、左右にあげたりさげたり、鳥の羽ばたきのようなまねを、三度くりかえしました。

 いよいよへんです。この男はたしかに何か秘密のあいずをしているのです。相手は何者でしょう。二十面相の敵か味方か、それさえもはっきりわかりません。

 その奇妙なあいずが終わりますと、こんどはいっそうふしぎなことがおこりました。今まで林のしげみの中にぼんやり見えていた、人の顔のようなものが、スッとかくれたかと思うと、まるで大きなけだものでも走っているように、木の葉がはげしくざわめき、何かしら黒い影が、木立ちの間を向こうのほうへ、とぶようにかけおりていくのが見えました。

 その黒い影はいったい何者だったのでしょう。そして、あのひげむじゃの部下はなんのあいずをしたのでしょう。

 さて、お話は、それから七時間ほどたった、その日のお昼ごろのできごとにうつります。

 そのころになって、寝室の二十面相はやっと目をさましました。じゅうぶんねむったものですから、ゆうべのつかれもすっかりとれて、いつもの快活な二十面相にもどっていました。まず浴室にはいって、さっぱりと顔を洗いますと、毎朝の習慣にしたがって、廊下の奥のかくし戸をひらいて、地底の美術室へと、おりていきました。

 その洋館には広い地下室があって、そこが怪盗の秘密の美術陳列室になっているのです。読者諸君もごぞんじのとおり、二十面相は、世間の悪漢のように、お金をぬすんだり、人を殺したり、傷つけたりはしないのです。ただいろいろな美術品をぬすみあつめるのが念願なのです。

 以前の巣くつは、国立博物館事件のとき、明智探偵のために発見され、ぬすみあつめた宝物を、すっかりうばいかえされてしまいましたが、それからのち、二十面相は、また、おびただしい美術品をぬすみためて、この新しいかくれがの地下室に、秘密の宝庫をこしらえていたのです。

 そこは二十畳敷きぐらいの広さで、地下室とは思われぬほど、りっぱな飾りつけをした部屋です。四ほうの壁には、日本画の掛け軸や、大小さまざまの西洋画の額などが、ところせましとかけてありますし、その下にはガラスばりの台がズッとならんでいて、目もまばゆい貴金属、宝石類の小美術品が陳列してあります。また、壁のところどころには、古い時代の木彫りの仏像が、つごう十一体、れんげ台の上に安置されています。それらの美術品は、どれを見ても、みな由緒ゆいしょのある品ばかり、私設博物館といってもいいほどのりっぱさです。

 地下室のことですから、窓というものがなく、わずかに、天井のすみに、厚いガラス張りの天窓のようなものがあり、そこからにぶい光がさしこんでいるばかりですから、美術室は昼間でも、夕方のようにうす暗いのです。

 部屋の天井には、りっぱな装飾電燈がさがっていますけれど、二十面相は、新しい宝物を手に入れたときででもなければ、めったに電燈をつけません。大寺院のお堂の中のような、おもおもしいうす暗さが大すきだからです。そのうす暗い中でながめますと、古い絵や仏像がいっそう古めかしく尊く感じられるからです。

 二十面相は、いま、その美術室のまんなかに立って、ぬすみためた宝物を、さも楽しそうに見まわしていました。

「フフン、明智先生、おれの裏をかいたと思って、得意になっているが、黄金塔がなんだ、あんなもの一つぐらいしくじったって、おれはこんなに宝物を集めているんだ。さすがの明智先生も、ここにこんなりっぱな美術室があろうとは、ごぞんじあるまいて、フフフ……。」

 怪盗はひとりごとをいって、さもゆかいらしく笑うのでした。

 二十面相は部屋のすみの一つの仏像の前に近づきました。

「じつによくできているなあ。なにしろ国宝だからね。まるで生きているようだ。」

 そんなことをつぶやきながら、仏像の肩のへんをなでまわしていましたが、なにを思ったのか、ふと、その手をとめて、びっくりしたように、しげしげと仏像の顔をのぞきこみました。

 その仏像はいやになまあたたかかったからです。あたたかいばかりでなく、からだがドキンドキンと脈うっていたからです。まるで息でもしているように、胸のへんがふくれたりしぼんだりしていたからです。

 いくら生きているような仏像だって、息をしたり、脈をうったりするはずはありません。なんだかへんです。お化けみたいな感じです。

 二十面相は、ふしぎそうな顔をして、その仏像の胸をたたいてみました。ところが、いつものようにコツコツという音がしないで、なんだかやわらかい手ごたえです。

 たちまち、二十面相の頭に、サッと、ある考えがひらめきました。

「やいっ、きさま、だれだっ!」

 彼はいきなり、おそろしい声で、仏像をどなりつけたのです。

 すると、ああ、なんということでしょう。どなりつけられた仏像が、ムクムクと動きだしました。そして、まっ黒になったやぶれ衣の下から、ニューッとピストルの筒口があらわれ、ピッタリと怪盗の胸にねらいがさだめられたではありませんか。

「きさま、小林の小僧だなッ。」

 二十面相は、すぐさまそれとさとりました。この手は以前に一度経験していたからです。

 しかし、仏像は何も答えませんでした。無言のまま、左手をあげて、二十面相のうしろを指さしました。

 そのようすがひどくぶきみだったものですから、怪盗は思わずヒョイと、うしろをふりむきましたが、すると、これはどうしたというのでしょう。部屋中の仏像がみな、れんげ台の上で、むくむくと動きだしたではありませんか。そして、それらの仏像の右手には、どれもこれも、ピストルが光っているのです。十一体の仏像が、四ほうから、怪盗めがけて、ピストルのねらいをさだめているのです。

 さすがの二十面相も、あまりのことに、アッと立ちすくんだまま、キョロキョロとあたりを見まわすばかりです。

「夢をみているんじゃないかしら。それともおれは気でもちがったのかしら。十一体の仏像が十一体とも、生きて動きだして、ピストルをつきつけるなんて、そんなばかなことが、ほんとうにおこるものかしら。」

 二十面相は、頭の中がこんぐらかって、何がなんだかわけがわからなくなってしまいました。フラフラと目まいがして、今にもたおれそうな気持です。

「おや、どうかなすったのですかい。顔色がひどく悪いじゃございませんか。」

 とつぜん声がして、けさのひげむじゃの部下の男が、美術室へはいってきました。

「ウン、少し、目まいがするんだ。おまえ、この仏像をよくしらべてみてくれ、おれにはなんだかみょうなものに見えるんだが……。」

 二十面相は頭をかかえて、弱音よわねをはきました。

 すると部下の男は、いきなり笑いだして、

「ハハハ……、仏さまが生きて動きだしたというんでしょう。天罰てんばつですぜ。二十面相に天罰がくだったんですぜ。」

 と、みょうなことをいいだしました。

「エッ、なんだって?」

「天罰だといっているんですよ。とうとう二十面相の運のつきが来たといっているんですよ。」

 二十面相は、あっけにとられて相手の顔を見つめました。木彫りの仏像が動きだしたばかりでなく、信じきっていた部下までが、気でもちがったように、おそろしいことをいいだしたのです。いよいよ、何がなんだかわからなくなってしまいました。

「ハハハ……、おいおい、二十面相ともあろうものが、みっともないじゃないか、こんなことでびっくりするなんて。ハハハ……、まるでハトが豆鉄砲をくらったような顔だぜ。」

 部下の男の声が、すっかりかわってしまいました。今までのしわがれ声が、たちまちよく通る美しい声にかわってしまったのです。

 二十面相は、どうやらこの声に聞きおぼえがありました。ああ、ひょっとしたら、あいつじゃないかしら。きっとあいつだ。ちくしょうめ、あいつにちがいない。しかし、彼はおそろしくて、その名を口にだすこともできないのでした。

「ハハハ……、まだわからないかね。ぼくだよ。ぼくだよ。」

 部下の男は、ほがらかに笑いながら、顔いちめんのつけひげを、皮をはぐようにめくりとりました。

 すると、その下から、にこやかな青年紳士の顔があらわれてきたのです。

「アッ、きさま、明智小五郎!」

「そうだよ、ぼくも変装はまずくはないようだね。本家本元のきみをごまかすことができたんだからね。もっとも、けさは夜が明けたばかりで、まだうす暗かったし、この地下室も、ひどく暗いのだから、そんなにいばれたわけでもないがね。」

 ああ、それは意外にもわれらの明智探偵だったのです。

 二十面相は、一時はギョッと顔色をかえましたが、相手が化けものでもなんでもなく、明智探偵とわかりますと、さすがは怪人、やがてだんだん落ちつきをとりもどしました。

「で、おれをどうしようというのだね。探偵さん。」

 彼はにくにくしく言いながら、傍若無人に地下室の出口のほうへ歩いていこうとするのです。

「とらえようというのさ。」

 探偵は二十面相の胸を、グイグイとおしもどしました。

「で、いやだといえば? 仏像どもがピストルをうつというしかけかね。フフフ……、おどかしっこなしだぜ。」

 怪盗は、たかをくくって、なおも明智をおしのけようとします。

「いやだといえばこうするのさ!」

 肉弾と肉弾とがはげしい勢いでもつれあったかと思うと、おそろしい音をたてて、二十面相のからだが床の上に投げたおされていました。背負い投げがみごとにきまったのです。

 二十面相は投げたおされたまま、あっけにとられたように、キョトンとしていました。明智探偵にこれほどの腕力があろうとは、今の今まで、夢にも知らなかったからです。

 二十面相は少し柔道のこころえがあるだけに、段ちがいの相手の力量がはっきりわかるのです。そして、これではいくら手むかいしてみても、とてもかなうはずはないとさとりました。

「こんどこそはおれの負けだね。フフフ……、二十面相もみじめな最期をとげたもんさねえ。」

 彼は、にが笑いをうかべながら、しぶしぶ立ちあがると、「さあ、どうでもしろ。」というように、明智探偵をにらみつけました。


大爆発


 二十面相は、十一体の仏像のピストルにかこまれ、明智探偵の監視をうけながら、もうあきらめはてたように美術室の中を、フラフラと歩きまわりました。

「ああ、せっかくの苦心も水のあわか。おれは何よりも、この美術品をうしなうのがつらいよ。明智君、武士のなさけだ。せめて名ごりをおしむあいだ、外の警官を呼ぶのを待ってくれたまえね。」

 二十面相は、早くもそれをさとっていました。いかにも彼の推察すいさつしたとおり、この洋館の外は、数十人の警官隊によって、アリのはいでるすきもなく、ヒシヒシと四ほうからとりかこまれていたのです。

 明智探偵も、怪人のしおらしいなげきには、いささかあわれをもよおしたのでしょう。「さあ、ぞんぶんに名ごりをおしむがいい。」といわぬばかりに、じっともとの場所にたたずんだまま、腕組みをしています。

 二十面相は、しおしおとして、部屋の中を行きつもどりつしていましたが、いつとはなしに明智探偵から遠ざかって、部屋の向こうのすみにたどりつくと、いきなりそこへうずくまって、何か床板をゴトゴトとやっていましたが、とつぜん、ガタンというはげしい音がして、ハッと思うまに、彼の姿は、かき消すように見えなくなってしまいました。

 ああ、これこそ賊の最後の切り札だったのです。美術室の下には、さらに一段深い地下の穴ぐらが用意してあったのです。二十面相は明智のゆだんを見すまして、すばやく穴ぐらのかくしぶたをひらき、その暗やみの中へころがりこんでしまったのです。

 われらの名探偵は、またしても賊のためにまんまとはかられたのでしょうか。このどたん場まで追いつめながら、ついに二十面相をとりにがしてしまったのでしょうか。

 読者諸君、ご安心ください。明智探偵は少しもさわぎませんでした。そして、さもゆかいそうにニコニコと笑っているのです。探偵はゆっくりその穴ぐらの上まで歩いていきますと、あいたままになっている入り口をのぞきこんで、二十面相によびかけました。

「おいおい、二十面相君、きみは何を血まよったんだい。この穴ぐらをぼくが知らなかったとでも思っているのかい。知らないどころか、ぼくはここをちゃんと牢屋ろうやに使っていたんだよ。よくそのへんを見てごらん。きみの三人の部下が、手足をしばられ、さるぐつわをはめられて、穴ぐらのそこにころがっているはずだぜ。その三人はぼくの仕事のじゃまになったので、ゆうべからそこに引きこもってもらったのさ。その中にひとり、シャツ一枚のやつがいるだろう。ぼくが洋服を拝借したんだよ。そして、つけひげをして、お化粧をして、まんまときみの部下になりすましたのさ。

 ぼくはね、そいつが、大鳥時計店の例の地下道から、にせものの黄金塔をはこびだすのを尾行したんだぜ。そして、きみのかくれがをつきとめたってわけさ。ハハハ……。

 二十面相君、きみはとんだところへ逃げこんだものだね。まるで、われとわが身を牢屋へとじこめたようなものじゃないか。その穴ぐらにはほかに出口なんてありゃしない。つまり地の底の墓場のようなものさ。おかげできみをしばる手数がはぶけたというものだよ。ハハハ……。」

 明智はさもおかしそうに笑いながら、十一体の仏像どものほうをふりむきました。

「小林君、もうここはいいから、みんなをつれて外へ出たまえ。そして、警官隊に、二十面相を引きとりにくるよう伝えてくれたまえ。」

 それを聞きますと、将軍の号令でも受けたように、十一体の仏像は、サッとれんげ台をとびおりて、部屋の中央に整列しました。仏像が少年探偵団員のきばつな変装姿であったことは、読者諸君も、とっくにお察しになっていたでしょうね。

 団員たちは、うらみかさなる二十面相の逮捕を、指をくわえて見ていることができなかったのです。たとえ明智探偵の足手まといになろうとも、何か一役引きうけないでは、気がすまなかったのです。

 そこで、小林団長のいつかの知恵にならって、賊の美術室にちょうど十一体の仏像があるのをさいわい、そのうす暗い地下室で、団員ぜんぶが仏像にけ、にくい二十面相をゾッとさせる計略を思いたちました。そして小林少年を通じて、明智探偵にせがんだすえ、とうとうその念願をはたしたのです。

 その夜明け、賊の部下に変装した明智探偵のあいずを受け、林の中をかけだした黒い人かげは、ほかならぬ小林少年でした。小林君はそれからしばらくして、少年探偵団員を引きつれ、賊のかくれがにやってきたのでした。

 十一体の仏像は正しく三列にならんで、明智探偵をみつめ、そろって挙手きょしゅの礼をしたかとおもうと、

「明智先生、ばんざーい。少年探偵団、ばんざーい。」

 と、かわいい声をはりあげてさけびました。そして、まわれ右をすると、小林少年を先頭に、奇妙な仏像の一群は、サーッと地下室をかけだしていったのです。

 あとには、穴ぐらの入り口と、その底とで、名探偵と怪盗とのさし向かいでした。

「かわいい子どもたちだよ。あれらが、どれほど深くきみをにくんでいたと思う。それはおそろしいほどだったぜ。あたりまえならば、こんなところへ来させるものではないけれど、あまり熱心にせがまれるので、ぼくもいじらしくなってね。それに、相手は紳士の二十面相君だ。血のきらいな美術愛好者だ。まさか危険もあるまいと、ついゆるしてしまったのだが、あの子どもたちのおかげで、ぼくは、すっかりきみの機先きせんを制することができた。仏像が動きだしたときの、きみの顔といったらなかったぜ。ハハハ……、子どもだといってばかにできないものだね。」

 明智探偵は、警官隊が来るまでのあいだを、まるでしたしい友だちにでもたいするように、何かと話しかけるのでした。

「フフフ……、二十面相は紳士泥棒か。二十面相は血がきらいか。ありがたい信用をはくしたもんだな。しかしね、探偵さん、その信用もばあいによりけりだぜ。」

 地底の暗やみから、二十面相の陰気な声が、すてばちのようにひびいてきました。

「ばあいによりけりとは?」

「たとえばさ……。今のようなばあいさ。つまり、おれはここでいくらじたばたしたって、もうのがれられっこはない。しかも、その頭の上には、知恵でも腕力でもとてもかなわない敵がいるんだ。やつざきにしてもあきたりないやつがいるんだ。」

「ハハハ……、そこできみとぼくと、真剣勝負をしようとでもいうのか。」

「今になって、そんなことがなんになる。この家はおまわりにかこまれているんだ。いや、そういううちにも、ここへおれをひっとらえに来るんだ。おれのいうのは、勝負をあらそうのじゃない。まあ早くいえばさしちがえだね。」

 怪盗の声はいよいよ陰にこもって、すごみをましてきました。

「え、さしちがえだって?」

「そうだよ。おれは紳士泥棒だから、飛び道具も刃物も持っちゃいない。だから、むかしの侍みたいなさしちがえをやるわけにはいかん。そのかわりにね、すばらしいことがあるんだ。ね、探偵さん、きみはとんでもない見おとしをやっているぜ。

 フフフ……、わかるまい。この穴ぐらの中にはね、二つ三つの洋酒のたるがころがっている。きみはそれを見ただろうね。ところが、探偵さん。このたるの中には、いったい何がはいっていると思うね。

 フフフ……、おれはこういうこともあろうかと、ちゃんとわが身のしまつを考えておいたんだ。きみはさっき、この穴ぐらを墓場だといったっけねえ。いかにも墓場だよ。おれは墓場と知ってころがりこんだのさ。骨も肉もみじんも残さず、ふっとんでしまう墓場だぜ。

 わかるかい。火薬だよ。このたるの中にはいっぱい火薬がつまっているのさ。

 おれは刃物を持っていないけれど、マッチは持っているんだぜ。そいつをシュッとすって、たるの中に投げこめば、きみもおれも、たちまちこっぱみじんさ。フフフ……。」

 そして、二十面相は、その火薬のつまっているというたるを、ゴロゴロと穴ぐらのまんなかにころがして、そのふたをとろうとしているようすなのです。

 さすがの名探偵も、これにはアッと声をたてないではいられませんでした。

「しまった。しまった。なぜあのたるの中をしらべて見なかったのだろう。」

 くやんでも、いまさらしかたがありません。

 いくらなんでも、二十面相の死の道づれになることはできないのです。名探偵には、まだまだ世の中のために、はたさなければならぬ仕事が、山のようにあるのです。逃げるほかにてだてはありません。探偵の足が早いか、賊が火薬のふたをあけ、火を点じるのが早いか、命がけの競争です。

 明智はパッととびあがると、まるで弾丸だんがんのように、地下室を走りぬけ、階段を三段ずつ一とびにかけあがって、洋館の玄関にかけだしました。ドアをひらくと、出あいがしらに、十数名の制服警官が、二十面相逮捕のために、いま屋内にはいろうとするところでした。

「いけないっ、賊は火薬に火をつけるのです。早くお逃げなさい。」

 探偵は警官たちをつきとばすようにして、林の中へ走りこみました。あっけにとられた警官たちも、「火薬」ということばに、きもをつぶして、同じように林の中へ。

「みんな、建物をはなれろ! 爆発がおこるんだ。早く、逃げるんだ。」

 建物の四ほうをとりまいていた警官隊は、そのただならぬさけび声に、みな丘のふもとへかけおりました。どうして、そんなよゆうがあったのか、あとになって考えてみると、ふしぎなほどでした。二十面相はたるのふたをあけるのにてまどったのでしょうか。それともマッチがしめってでもいたのでしょうか。ちょうど人々が危険区域から遠ざかったころ、やっと爆発がおこりました。

 それはまるで地震のような地ひびきでした。洋館ぜんたいが宙天ちゅうてんにふっとんだかとうたがわれるほどの大音響でした。でも、閉じていた目をおずおずとひらいてみると、賊のかくれがは、べつじょうなく目の前に立っていました。爆発はただ地下室から一階の床をつらぬいただけで、建物の外部には、なんの異状もないのでした。

 しかし、やがて、一階の窓から、黒い煙がムクムクと吹きだしはじめました。そして、それがだんだん濃くなって、建物をつつみはじめるころには、まっ赤なかえんが、まるで巨大な魔物の舌のように、どの窓からも、メラメラとたちのぼり、みるみる建物ぜんたいが火のかたまりとなってしまいました。

 このようにして、二十面相はさいごをとげたのでした。

 火災が終わってから、焼けあとのとりしらべがおこなわれたのは申すまでもありません。しかし、二十面相がいったとおり、肉も骨もこっぱみじんにくだけ散ってしまったのか、ふしぎなことに怪盗の死がいはもちろん、三人の部下の死がいも、まったく、発見することができませんでした。

底本:「怪人二十面相/少年探偵団」江戸川乱歩推理文庫、講談社

   1987(昭和62)年925日第1刷発行

初出:「少年倶楽部」大日本雄辯會講談社

   1937(昭和12)年1月号~12月号

※「燈」と「灯」の混在は、底本通りです。

入力:sogo

校正:大久保ゆう

2016年34日作成

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