貧乏を売る
山之口貘


 この間のことである。蛇皮線の大家と云われている人が、東京を引揚げて沖縄へ帰ることになり、その送別会が催されたが、場を変えて二次会になり、新橋のある泡盛屋にぼくはいた。ぼくは二年ばかりこの方、酒を遠慮しているのであるが、それでもまだずっとやめるというほどの気にはなれず、おっかなびっくりで、なめるようにしてそこにいたのである。そこへ、「この方が御面会です。」と云って、店の女の子が、名刺をよこしたのである。ある週刊誌のカメラマンである。障子を開けてのぞいてみると、若い人がカメラを持って立っていたが、すぐに近くに寄って来て云った。

「いま実はお宅へうかがったんですが。」と云うのである。すでに暗くもなっているし、遠いところを、ここまで追っかけて来たのでは、余程急ぎのことであろうと察しはついたのであるが、御用件はときくと、「実は今日〆切りで急いでいるんですけれど、写真をうつさせていただきたいんですが。」と云うのである。カメラマンだから、そうには違いないわけであるが、即答しかねていると、

「実はですね。奥さんと御いっしょのところをほしかったんですが、お留守だったんで先程奥さんだけ別にうつさせていただきました。それで仕方ありませんので別々に。」と云うのである。

「なんに使うんですか。」

「実はうちの雑誌でこういうダイジェストをやっているんですが、先生のこの間の放送の。」

「放送?」

「そうです。」と云うわけなのである。

 この間の放送と云えば、ある民間放送で、女房といっしょに録音放送をしたが、それは午後三時の「生活を見つめて」とかいうのであった。ぼくはすでにこれまでも、「朝の訪問」を二度ばかりと、てい談だの、随想だのその他で、録音放送の経験を持っていたのであるが、女房といっしょの「生活を見つめて」の放送ほど、苦労したことはかつてなかったのである。それはとにかく、ぼくは、カメラマン氏に感心しないではいられなかった。というのは、写真ぎらいの女房を、カメラの前に立たせることが出来たのかとおもったからである。

「よくうつさせましたね。」

「いやだとおっしゃったんですけれど、御無理をお願いして、庭におりていただいて。」カメラマン氏はそう云ってから、「でも雑誌に出すことについては、先生の御承諾をとのお約束で。」と云った。女房としては、一応、亭主の顔を立てたつもりで云ったのであろうが、ぼくにとっては、女房さえカメラにおさまってしまえば、雑誌への掲載を拒む理由はなにもなかったのである。それほど、女房は、カメラの前に立つことを、従来は拒みつづけて来たのであった。時に、訪ねて来る人が、カメラでも持っていると、もうそれだけでも落ちつかずにそわそわしている方で、そんなとき、折角だからうつしてもらったらどうかとすすめると、「私はいいです。」と云うのである。そして、ぼくも、それ以上はカメラの前に立つことを、女房にはすすめないことにしているのである。と云うのは、これまでの経験で、それ以上すすめると、ぼくが困るからなのである。

「こんな恰好では恥ずかしくて。」

と云う。ぼくの考えでは、ふだんぎのまま、多少のつぎはぎはあるにしても、そんなもの恥ずかしがるようでは、なんのために詩人の女房なのかとおもわないではないのであるが、カメラというものは、女房にとって晴れの舞台に見えるのか、「着物一枚も買ってやれないくせになにが写真ですか。」と来て、カメラのためにこちらが迷惑しなくてはならないのである。そういう女房を、カメラマン氏がうつして来たというのだからふしぎなのであるが、どんな恰好でうつしたのか、カメラマン氏にきくわけにもいかなかったのである。

 カメラマン氏は、ぼくにポーズをさせて、斜からも横からも、なんどもなんどもシャッターを切って帰った。「生活を見つめて」の放送が、どんな風にして週刊誌にとりあげられるのか多少は気にもかかることなのであった。

 放送を頼まれたとき、放送局の係りの女性氏は「奥さんもごいっしょにお願いしたいんですが。」と云うので、簡単に引き受けはしたものの、果して、女房が承知するかどうか見当がつかなかった。むろん、女房をだますつもりではなかったのであるが、なだめすかすようにして女房を説き伏せたのである。

「でも、なにをしゃべっていいかわからない。」と女房が云うのである。

「ひとりでしゃべるんじゃないんだから大丈夫なんだ。録音に来る女性さんが、話しかけるわけで、それに対して答えればいいんだ。」

 そうは云いながらも、いよいよこんどは夫婦で、マイクの前で貧乏物語りをするのかとおもうと、女房には気の毒なのであったが、人さまがどんな風にそれを聞こうと気にすることはないじゃないかと、ぼくは女房を鞭撻しないではいられなかった。たとえ、つい口をすべらして、云わなければよかったとおもうようなことを云ったにしても、気にすることはないんだ。悲しかったこともうれしかったことも、おもったとおりありのまましゃべればいいんだ。たとえば逃げ出したいとおもったときがあったら、そのとおりに逃げ出したいとおもったと云えばいいんだ。どうせぼくもいっしょにしゃべるんだから、云いなおしたり聞きなおしたり、ぼくが引き受けるから安心してやるんだ。と云うことで、どうにか、マイクの前に女房を坐らせることが出来たのである。

 録音の係りの女性さんは、話を結婚の当時のことからきき出した。ぼくが詩人であるというので、大抵の人はぼくに、恋愛結婚でしょうと云うのであるが、それは見当違いで、はっきりとした見合い結婚をしたのであった。

 仲人は、珈琲店で知り合いになった小学校の教師でTであったが、ぼくの結納は当時の金で十円を包み、お返しは要らないということにしたのである。ぼくはあらかじめ、文なしの詩人であることをよく先方に伝えてほしいとTに頼んでおいたが、先方では夜具も二人分を支度してあるからとのTの話で、ぼくは安心して、からだ一つだけで結婚生活にはいったのである。ところが、女房の話によると、Tは、ぼくのことを、詩人であるとは云ったが文なしであるとは伝えなかったばかりか、ぼくのところで二人分の夜具も支度してあるとのことを云ったとのことで、結婚してはじめて、からだの外にはなんにもない詩人だとわかったとのことである。

 そんな話からはじまって、亭主の失業中の感想だの、男の子が生れたときのうれしかったこと、その子に死なれたときの悲しかったこと、まもなくまた女の子が生れたこととか、ぼくと結婚して生れてはじめて質屋に行ったという話など、女房は、ありのままのことを安心してしゃべるために、マイクの前で汗びっしょりなのであったが、ぼくと別れたいとおもったこともあったとのことで、きいていてぼくも汗びっしょりになったのである。

「そういう御主人のことを奥さんはどうおもいますか。」という風なことを録音の係りの女性さんがたずねたところ、女房が云った。「そうですね、貧乏はしていますけれど、なんと云いますか、まあ素直なところはあるんです。」

 おやおやとぼくはおもわないではいられなかった。結婚してから現在までの二十年余りの間を、息つくひまもない貧乏で女房をいじめぬいて来たのであるが、そういうぼくのなかに、素直さだけは認めているのかとおもうと、ぼくはそこに女房のことを見なおさないではいられない気持ちになって、これで、金のことについての文句さえ云わなければ申し分もないのだがとおもったりしたのである。やがて、係りの女性さんが云った。

「そう云っては大変失礼ですけれど、そういう生活をしながらも、よく今日まで御いっしょにつづいて来られましたね。」

 女房は、もじもじしながら、ぼくの顔を見たのであるが、マイクが答えを待っているので、かわりにぼくが云った。

「たとえば世間には、別れるために手切れ金というものを一〇〇万円二〇〇万円もつくる人がある。ぼくの場合でも、いざ別れるとなれば、一〇〇円か二〇〇円ぐらいの金はつくる自信があるにはあるが、それっぽちでは馬鹿々々しいとの女房の意見であり、どうせ一〇〇万円二〇〇万円の手切れ金など出る筈がないとおもえば、つまりはぴいぴいしながらも、ぼくの側にくっついていた方がまだ得だと云うわけで、別れることも馬鹿々々しくうまくつづいているということも、また貧乏のおかげというところです。」

 大体、そんな風なことで録音を終ったが、更に係りの方で編集して放送するとのことなのであった。放送局の方は、帰りに、夫婦別々に謝礼の包みを置いて行った。開けてみると民主的な謝礼で、夫婦とも同額なのであった。ぼくは、女房の労をねぎらって「どうも御苦労さま、これもおまえにあげる。」と、ぼくの分も女房に渡したのである。

 その後しかし、週刊誌には、女房の写真もぼくの写真も出なかった。女房は、週刊誌の出るころになると、駅前の本屋に寄ってたしかめて来ては、「こんども出ていないが、どうしたんでしょうね。」と云い云いしていたのであるが、「あれは雑誌に出たところで、原稿料にはならないよ。」と云うと、それっきり、写真のことも週刊誌のことも云わなくなったのである。

 ぼくのところではこのごろ、原稿の依頼が来ると、「また貧乏物語りですか。」と女房が云うのである。中学二年生のミミコまでが、「貧乏物語りは、もうよしなよパパ。」と来るのである。だが、ぼくにしてみれば、ぼくはもちろんのこと、第一そんなことを口にするような女房こどものいやがる貧乏などを、好んで大事に手許に置いているのではないのであって、買い手さえあれば、小説新潮にでも洗いざらい売り飛ばしてしまって、多少の金でも握ってさっぱりしたいのである。こんな意見を持っているぼくに比べると、女房こどもはまだ貧乏を知らないわけで、せいぜい一枚の着物も買ってもらえないことを知っている程度なのであるが、それはそのうち、貧乏の売り上げ金の様子を見てから、なんとか着物一枚ぐらいのことはきばってやりたいと、ぼくはおもわないではいられないのである。

 ところが、貧乏を売ると云っても、実際はなかなか骨の折れることで、いかにして、女房はじめ、こどものミミコ、そしてぼく自身に、なるべく迷惑のかからぬようにして貧乏を売らなくてはならないからなのである。

 少なくとも、ぼくはそうこころがけてこれまでの貧乏物語りを書いて来たつもりなのであるが、書くということのおそろしさは、滅多にうそは書けないということである。自分ではうまくだましたつもりでも、見る人が見るとこのうそつきということになって、売っても後味がわるいに違いないとおもうと、結局、ほんとうのことを書いてしまうのである。ところが、ほんとうのことを書くと、女房やこどもに迷惑がかかってしまって、「貧乏物語りを書くのは、もうよしなよパパ。」とやられるわけなのである。

 ぼくは例によって、ある新聞に、歳末の雑感という風なのを書いたことがあった。云わば、貧乏を売ったのである。その拙文のなかで、十二月のデパートの賑やかさを見て来たぼくが、歳暮大売出しなどのことを女房に話しかけると、「私だけですよ。年中、うちにばかりいるのは。よその人はみんな、大威張りでデパートでもどこへでも行きますよ。」と女房から云われ、「じゃおまえも、ひっこんでばかりいないで、たまには大威張りでデパート見物にでも行って来いよ。」と云うと、「先立つものがあれば、じっとなんかしていませんよ。ばかばかしい。」と女房が云ったりするところを、書いてあったり、そして、やっとのおもいで雑誌杜からもらって来た原稿料の内金を女房に渡すと、封筒の口を開いて「たった三枚」と女房がつぶやいて、「だれに借りて来たんです?」と云うところがあったり、ミミコまでが横から、「パパの持ってくるお金は、いつもチビリチビリ。」と云ったりすることなどが書いてあり、毎週土曜日の晩に、ランドセルを質屋に入れて来て、日曜日の晩には必ずそのランドセルを出しに来る客もあるというような質屋の話も書いてあり、その他、B社の座談会で久しぶりに落ち合った金子光晴から廊下に呼び出されて、手洗所の片隅でダブルボタンの上衣をもらって、それを着て座談会の席に出直した自分のことなども書いてあったのである。その貧乏物語りが、新聞に出た翌日のことである。

「パパの書いたのが新聞に出たろう。」と、学校から帰って来たミミコがそうきいたのである。

「どうして?」ときくと、「学校では先生も生徒もパパのこと知っててこまるよ。」と云うのである。

「知ってるからって、困ることはないじゃないか。」と云うと、

「パパはこまらないが、ミミコがこまるんだよ。」と云うのである。

「ミミコが困るようなことなんか書いてないよ。」と云うと、

「だって、お昼の時間にほんとにミミコこまったわ。」と云うのである。

「そんなに、こまったことがあったのかい」ときくと、

「だって、」と云いかけて、ミミコは急にふき出して笑ったのであるが、「だって、男の子ってまったくおもしろいのよ。」と云うのである。

「おもしろい?」と云うと、「そうよ、それでこまるのよ。」と云った。

 話によれば、お昼の時間に、弁当をひらいて食べていると、なんとか君というのが席を立って来て、ミミコの弁当をのぞきこみ、「おいおまえの今日のそのおかずは、あの三枚のなかから買ってもらったのかい。」と云ったと云うのである。

「新聞に、お金のことを書いたんでしょう。」

「書いたよ。ママが、たった三枚と云ったことを書いたよ。」

「じゃそれを読んだんだよ。」とミミコはつぶやいたのである。しかし、ミミコの迷惑は、そのなんとか君だけの場合ではなかったようである。「三枚ってのは、百円札なのかい、それとも千円札なのかい。」と云った子もあれば、「おまえんちのおとうさんは、いつもチビリチビリお金を持ってくるのかい。」ときいた子もあったとのことである。

底本:「日本の名随筆85 貧」作品社

   1989(平成元)年1125日第1刷発行

   1994(平成6)年520日第7刷発行

底本の親本:「山之口貘全集 第三巻」思潮社

   1976(昭和51)年5

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2014年87日作成

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