屋根裏の散歩者
江戸川乱歩
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多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、一向この世が面白くないのでした。
学校を出てから──その学校とても一年に何日と勘定の出来る程しか出席しなかったのですが──彼に出来相な職業は、片端からやって見たのです、けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思う様なものには、まだ一つも出くわさないのです。恐らく、彼を満足させる職業などは、この世に存在しないのかも知れません。長くて一年、短いのは一月位で、彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、面白くもない其日其日を送っているのでした。
遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棊、さては各種の賭博に至るまで、迚もここには書き切れない程の、遊戯という遊戯は一つ残らず、娯楽百科全書という様な本まで買込んで、探し廻っては試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、彼はいつも失望させられていました。だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって一生涯飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか。諸君はきっとそう仰有るでしょうね。ところが、我が郷田三郎は、不思議とその二つのものに対しても興味を感じないのでした。酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女の方は、無論その慾望がない訳ではなく、相当遊びなどもやっているのですが、そうかと云って、これあるが為に生き甲斐を感じるという程には、どうしても思えないのです。
「こんな面白くない世の中に生き長えているよりは、いっそ死んで了った方がましだ」
ともすれば、彼はそんなことを考えました。併し、そんな彼にも、生命を惜しむ本能丈けは具っていたと見えて、二十五歳の今日が日まで「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死切れずに生き長えているのでした。
親許から月々いくらかの仕送りを受けることの出来る彼は、職業を離れても別に生活には困らないのです。一つはそういう安心が、彼をこんな気まま者にして了ったのかも知れません。そこで彼は、その仕送り金によって、せめていくらかでも面白く暮すことに腐心しました。例えば、職業や遊戯と同じ様に、頻繁に宿所を換えて歩くことなどもその一つでした。彼は、少し大げさに云えば、東京中の下宿屋を、一軒残らず知っていました。一月か半月もいると、すぐに次の別の下宿屋へと住みかえるのです。無論その間には、放浪者の様に旅をして歩いたこともあります。或は又、仙人の様に山奥へ引込んで見たこともあります。でも、都会にすみなれた彼には、迚も淋しい田舎に長くいることは出来ません。一寸旅に出たかと思うと、いつのまにか、都会の燈火に、雑沓に、引寄せられる様に、彼は東京へ帰ってくるのでした。そして、その度毎に下宿を換えたことは云うまでもありません。
さて、彼が今度移ったうちは、東栄館という、新築したばかりの、まだ壁に湿り気のある様な、まっさらの下宿屋でしたが、ここで、彼は一つのすばらしい楽みを発見しました。そして、この一篇の物語は、その彼の新発見に関聯したある殺人事件を主題とするのです。が、お話をその方に進める前に、主人公の郷田三郎が、素人探偵の明智小五郎──この名前は多分御承知の事と思います。──と知り合いになり、今まで一向気附かないでいた「犯罪」という事柄に、新しい興味を覚える様になったいきさつについて、少しばかりお話して置かねばなりません。
二人が知り合いになったきっかけは、あるカフェで彼等が偶然一緒になり、その時同伴していた三郎の友達が、明智を知っていて紹介したことからでしたが、三郎はその時、明智の聰明らしい容貌や、話しっぷりや、身のこなしなどに、すっかり引きつけられて了って、それから屡々彼を訪ねる様になり、又時には彼の方からも三郎の下宿へ遊びにやって来る様な仲になったのです。明智の方では、ひょっとしたら、三郎の病的な性格に──一種の研究材料として──興味を見出していたのかも知れませんが、三郎は明智から様々の魅力に富んだ犯罪談を聞くことを、他意なく喜んでいるのでした。
同僚を殺害して、その死体を実験室の竈で灰にして了おうとした、ウェブスター博士の話、数ヶ国の言葉に通暁し、言語学上の大発見までしたユージン・エアラムの殺人罪、所謂保険魔で、同時に優れた文芸批評家であったウエーンライトの話、小児の臀肉を煎じて義父の癩病を治そうとした野口男三郎の話、さては、数多の女を女房にしては殺して行った所謂ブルーベヤドのランドルーだとか、アームストロングなどの残虐な犯罪談、それらが退屈し切っていた郷田三郎をどんなに喜ばせたことでしょう。明智の雄弁な話しぶりを聞いていますと、それらの犯罪物語は、まるで、けばけばしい極彩色の絵巻物の様に、底知れぬ魅力を以て、三郎の眼前にまざまざと浮んで来るのでした。
明智を知ってから二三ヶ月というものは、三郎は殆どこの世の味気なさを忘れたかと見えました。彼は様々の犯罪に関する書物を買込んで、毎日毎日それに読み耽るのでした。それらの書物の中には、ポオだとかホフマンだとか、或はガボリオだとかボアゴベだとか、その外色々な探偵小説なども混っていました。「アア世の中には、まだこんな面白いことがあったのか」彼は書物の最終の頁をとじる度毎に、ホッとため息をつきながら、そう思うのでした。そして、出来ることなら、自分も、それらの犯罪物語の主人公の様な、目ざましい、けばけばしい遊戯(?)をやって見たいものだと、大それたことまで考える様になりました。
併し、いかな三郎も、流石に法律上の罪人になること丈けは、どう考えてもいやでした。彼はまだ、両親や、兄弟や、親戚知己などの悲歎や侮辱を無視してまで、楽しみに耽る勇気はないのです。それらの書物によりますと、どの様な巧妙な犯罪でも、必ずどっかに破綻があって、それが犯罪発覚のいと口になり、一生涯警察の眼を逃れているということは、極く僅かの例外を除いては、全く不可能の様に見えます。彼にはただそれが恐しいのでした。彼の不幸は、世の中の凡ての事柄に興味を感じないで、事もあろうに「犯罪」に丈け、いい知れぬ魅力を覚えることでした。そして、一層の不幸は、発覚を恐れる為にその「犯罪」を行い得ないということでした。
そこで彼は、一通り手に入る丈けの書物を読んで了うと、今度は、「犯罪」の真似事を始めました。真似事ですから無論処罰を恐れる必要はないのです。それは例えばこんなことを。
彼はもうとっくに飽き果てていた、あの浅草に再び興味を覚える様になりました。おもちゃ箱をぶちまけて、その上から色々のあくどい絵具をたらしかけた様な浅草の遊園地は、犯罪嗜好者に取っては、こよなき舞台でした。彼はそこへ出かけては、活動小屋と活動小屋の間の、人一人漸く通れる位の細い暗い路地や、共同便所の背後などにある、浅草にもこんな余裕があるのかと思われる様な、妙にガランとした空地を好んでさ迷いました。そして、犯罪者が同類と通信する為ででもあるかの様に、白墨でその辺の壁に矢の印を書いて廻ったり、金持らしい通行人を見かけると、自分が掏摸にでもなった気で、どこまでもどこまでもそのあとを尾行して見たり、妙な暗号文を書いた紙切れを──それにはいつも恐ろしい殺人に関する事柄などを認めてあるのです──公園のベンチの板の間へ挟んで置いて、樹蔭に隠れて、誰かがそれを発見するのを待構えていたり、其外これに類した様々の遊戯を行っては、独り楽むのでした。
彼は又、屡々変装をして、町から町をさ迷い歩きました。労働者になって見たり、乞食になって見たり、学生になって見たり、色々の変装をした中でも、女装をすることが、最も彼の病癖を喜ばせました。その為には、彼は着物や時計などを売り飛ばして金を作り、高価な鬘だとか、女の古着だとかを買い集め、長い時間かかって好みの女姿になりますと、頭の上からすっぽりと外套を被って、夜更けに下宿屋の入口を出るのです。そして、適当な場所で外套を脱ぐと、或時は淋しい公園をぶらついて見たり、或時はもうはねる時分の活動小屋へ這入って、態と男子席の方へまぎれ込んで見たり、はては、きわどい悪戯までやって見るのです。そして、服装による一種の錯覚から、さも自分が妲妃のお百だとか蟒蛇お由だとかいう毒婦にでもなった気持で、色々な男達を自由自在に飜弄する有様を想像しては、喜んでいるのです。
併し、これらの「犯罪」の真似事は、ある程度まで彼の慾望を満足させては呉れましたけれど、そして、時には一寸面白い事件を惹起しなぞして、その当座は十分慰めにもなったのですけれど、真似事はどこまでも真似事で、危険がないだけに──「犯罪」の魅力は見方によってはその危険にこそあるのですから──興味も乏しく、そういつまでも彼を有頂天にさせる力はありませんでした。ものの三ヶ月もたちますと、いつとなく彼はこの楽みから遠ざかる様になりました。そして、あんなにもひきつけられていた明智との交際も、段々とうとうとしくなって行きました。
以上のお話によって、郷田三郎と、明智小五郎との交渉、又は三郎の犯罪嗜好癖などについて、読者に呑み込んで頂いた上、さて、本題に戻って、東栄館という新築の下宿屋で、郷田三郎がどんな楽しみを発見したかという点に、お話を進めることに致しましょう。
三郎が東栄館の建築が出来上るのを待ち兼ねて、いの一番にそこへ引移ったのは、彼が明智と交際を結んだ時分から、一年以上もたっていました。随ってあの「犯罪」の真似事にも、もう一向興味がなくなり、といって、外にそれに代る様な事柄もなく、彼は毎日毎日の退屈な長々しい時間を、過し兼ねていました。東栄館に移った当座は、それでも、新しい友達が出来たりして、いくらか気がまぎれていましたけれど、人間というものは何と退屈極る生物なのでしょう。どこへ行って見ても、同じ様な思想を同じ様な表情で、同じ様な言葉で、繰り返し繰り返し、発表し合っているに過ぎないのです。折角下宿屋を替えて、新しい人達に接して見ても、一週間たつかたたない内に、彼は又しても底知れぬ倦怠の中に沈み込んで了うのでした。
そうして、東栄館に移って十日ばかりたったある日のことです。退屈の余り、彼はふと妙な事を考えつきました。
彼の部屋には、──それは二階にあったのですが──安っぽい床の間の傍に、一間の押入がついていて、その内部は、鴨居と敷居との丁度中程に、押入れ一杯の巌丈な棚があって、上下二段に分れているのです。彼はその下段の方に数個の行李を納め、上段には蒲団をのせることにしていましたが、一々そこから蒲団を取出して、部屋の真中へ敷く代りに、始終棚の上に寝台の様に蒲団を重ねて置いて、眠くなったらそこへ上って寝ることにしたらどうだろう。彼はそんなことを考えたのです。これが今迄の下宿屋であったら、仮令押入れの中に同じような棚があっても、壁がひどく汚れていたり、天井に蜘蛛の巣が張っていたりして、一寸その中へ寝る気にはならなかったのでしょうが、ここの押入れは、新築早々のことですから、非常に綺麗で、天井も真白なれば、黄色く塗った滑かな壁にも、しみ一つ出来てはいませんし、そして全体の感じが、棚の作り方にもよるのでしょうが、何となく船の中の寝台に似ていて、妙に、一度そこへ寝て見たい様な誘惑を感じさえするのです。
そこで、彼は早速その晩から押入れの中へ寝ることを始めました。この下宿は、部屋毎に内部から戸締りの出来る様になっていて、女中などが無断で這入って来る様なこともなく、彼は安心してこの奇行を続けることが出来るのでした。さてそこへ寝て見ますと、予期以上に感じがいいのです。四枚の蒲団を積み重ね、その上にフワリと寝転んで、目の上二尺ばかりの所に迫っている天井を眺める心持は、一寸異様な味いのあるものです。襖をピッシャリ締め切って、その隙間から洩れて来る糸の様な電気の光を見ていますと、何だかこう自分が探偵小説の中の人物にでもなった様な気がして、愉快ですし、又それを細目に開けて、そこから、自分自身の部屋を、泥棒が他人の部屋をでも覗く様な気持で、色々の激情的な場面を想像しながら、眺めるのも、興味がありました。時によると、彼は昼間から押入に這入り込んで、一間と三尺の長方形の箱の様な中で、大好物の煙草をプカリプカリとふかしながら、取りとめもない妄想に耽ることもありました。そんな時には、締切った襖の隙間から、押入れの中で火事でも始ったのではないかと思われる程、夥しい白煙が洩れているのでした。
ところが、この奇行を二三日続ける間に、彼は又しても、妙なことに気がついたのです。飽きっぽい彼は、三日目あたりになると、もう押入れの寝台には興味がなくなって、所在なさに、そこの壁や、寝ながら手の届く天井板に、落書きなどしていましたが、ふと気がつくと、丁度頭の上の一枚の天井板が、釘を打ち忘れたのか、なんだかフカフカと動く様なのです。どうしたのだろうと思って、手で突っぱって持上げて見ますと、なんなく上の方へ外れることは外れるのですが、妙なことには、その手を離すと、釘づけにした箇所は一つもないのに、まるでバネ仕掛けの様に、元々通りになって了います。どうやら、何者かが上から圧えつけている様な手ごたえなのです。
はてな、ひょっとしたら、丁度この天井板の上に、何か生物が、例えば大きな青大将か何かがいるのではあるまいかと、三郎は俄に気味が悪くなって来ましたが、そのまま逃げ出すのも残念なものですから、なおも手で押し試みて見ますと、ズッシリと、重い手ごたえを感じるばかりでなく、天井板を動かす度に、その上で何だかゴロゴロと鈍い音がするではありませんか。愈々変です。そこで彼は思切って、力まかせにその天井板をはね除けて見ますと、すると、その途端、ガラガラという音がして、上から何かが落ちて来ました。彼は咄嗟の場合ハッと片傍へ飛びのいたからよかったものの、若しそうでなかったら、その物体に打たれて大怪我をしている所でした。
「ナアンダ、つまらない」
ところが、その落ちて来た品物を見ますと、何か変ったものでもあればよいがと、少からず期待していた彼は、余りのことに呆れて了いました。それは、漬物石を小さくした様な、ただの石塊に過ぎないのでした。よく考えて見れば、別に不思議でも何でもありません。電燈工夫が天井裏へもぐる通路にと、天井板を一枚丈け態と外して、そこから鼠などが押入れに這入らぬ様に石塊で重しがしてあったのです。
それは如何にも飛んだ喜劇でした。でも、その喜劇が機縁となって、郷田三郎は、あるすばらしい楽みを発見することになったのです。
彼は暫くの間、自分の頭の上に開いている、洞穴の入口とでも云った感じのする、その天井の穴を眺めていましたが、ふと、持前の好奇心から、一体天井裏というものはどんな風になっているのだろうと、恐る恐る、その穴に首を入れて、四方を見廻しました。それは丁度朝の事で、屋根の上にはもう陽が照りつけていると見え、方々の隙間から沢山の細い光線が、まるで大小無数の探照燈を照してでもいる様に、屋根裏の空洞へさし込んでいて、そこは存外明るいのです。
先ず目につくのは、縦に、長々と横えられた、太い、曲りくねった、大蛇の様な棟木です。明るいといっても屋根裏のことで、そう遠くまでは見通しが利かないのと、それに、細長い下宿屋の建物ですから、実際長い棟木でもあったのですが、それが向うの方は霞んで見える程、遠く遠く連っている様に思われます。そして、その棟木と直角に、これは大蛇の肋骨に当る沢山の梁が両側へ、屋根の傾斜に沿ってニョキニョキと突き出ています。それ丈けでも随分雄大な景色ですが、その上、天井を支える為に、梁から無数の細い棒が下っていて、それが、まるで鐘乳洞の内部を見る様な感じを起させます。
「これは素敵だ」
一応屋根裏を見廻してから、三郎は思わずそう呟くのでした。病的な彼は、世間普通の興味にはひきつけられないで、常人には下らなく見える様な、こうした事物に、却って、云い知れぬ魅力を覚えるのです。
その日から、彼の「屋根裏の散歩」が始まりました。夜となく昼となく、暇さえあれば、彼は泥坊猫の様に跫音を盗んで、棟木や梁の上を伝い歩くのです。幸なことには、建てたばかりの家ですから、屋根裏につき物の蜘蛛の巣もなければ、煤や埃もまだ少しも溜っていず、鼠の汚したあとさえありません。それ故着物や手足の汚くなる心配はないのです。彼はシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁しました。時候も丁度春のことで、屋根裏だからといって、さして暑くも寒くもないのです。
東栄館の建物は、下宿屋などにはよくある、中央に庭を囲んで、そのまわりに、桝型に、部屋が並んでいる様な作り方でしたから、随って屋根裏も、ずっとその形に続いていて、行止りというものがありません。彼の部屋の天井裏から出発して、グルッと一廻りしますと、又元の彼の部屋の上まで帰って来る様になっています。
下の部屋部屋には、さも厳重に壁で仕切りが出来ていて、その出入口には締りをする為の金具まで取りつけているのに、一度天井裏に上って見ますと、これは又何という開放的な有様でしょう。誰の部屋の上を歩き廻ろうと、自由自在なのです。若し、その気があれば、三郎の部屋のと同じ様な、石塊の重しのしてある箇所が所々にあるのですから、そこから他人の部屋へ忍込んで、窃盗を働くことも出来ます。廊下を通って、それをするのは、今も云う様に、桝型の建物の各方面に人目があるばかりでなく、いつ何時他の止宿人や女中などが通り合わさないとも限りませんから、非常に危険ですけれど、天井裏の通路からでは、絶対にその危険がありません。
それから又、ここでは、他人の秘密を隙見することも、勝手次第なのです。新築と云っても、下宿屋の安普請のことですから、天井には到る所に隙間があります。──部屋の中にいては気が附きませんけれど、暗い屋根裏から見ますと、その隙間が意外に大きいのに一驚を喫します──稀には、節穴さえもあるのです。
この、屋根裏という屈指の舞台を発見しますと、郷田三郎の頭には、いつのまにか忘れて了っていた、あの犯罪嗜好癖が又ムラムラと湧き上って来るのでした。この舞台でならば、あの当時試みたそれよりも、もっともっと刺戟の強い、「犯罪の真似事」が出来るに相違ない。そう思うと、彼はもう嬉しくて耐らないのです。どうしてまあ、こんな手近な所に、こんな面白い興味があるのを、今日まで気附かないでいたのでしょう。魔物の様に暗闇の世界を歩き廻って、二十人に近い東栄館の二階中の止宿人の秘密を、次から次へと隙見して行く、そのこと丈けでも、三郎はもう十分愉快なのです。そして、久方振りで、生き甲斐を感じさえするのです。
彼は又、この「屋根裏の散歩」を、いやが上にも興深くするために、先ず、身支度からして、さも本物の犯罪人らしく装うことを忘れませんでした。ピッタリ身についた、濃い茶色の毛織のシャツ、同じズボン下──なろうことなら、昔活動写真で見た、女賊プロテアの様に、真黒なシャツを着たかったのですけれど、生憎そんなものは持合せていないので、まあ我慢することにして──足袋を穿き、手袋をはめ──天井裏は、皆荒削りの木材ばかりで、指紋の残る心配などは殆どないのですが──そして手にはピストルが……欲しくても、それもないので、懐中電燈を持つことにしました。
夜更けなど、昼とは違って、洩れて来る光線の量が極く僅かなので、一寸先も見分けられぬ闇の中を、少しも物音を立てない様に注意しながら、その姿で、ソロリソロリと、棟木の上を伝っていますと、何かこう、自分が蛇にでもなって、太い木の幹を這い廻っている様な気持がして、我ながら妙に凄くなって来ます。でも、その凄さが、何の因果か、彼にはゾクゾクする程嬉しいのです。
こうして、数日、彼は有頂天になって、「屋根裏の散歩」を続けました。その間には、予期にたがわず、色々と彼を喜ばせる様な出来事があって、それを記す丈けでも、十分一篇の小説が出来上る程ですが、この物語の本題には直接関係のない事柄ですから、残念ながら、端折って、ごく簡単に二三の例をお話するに止めましょう。
天井からの隙見というものが、どれ程異様な興味のあるものだかは、実際やって見た人でなければ、恐らく想像も出来ますまい。仮令、その下に別段事件が起っていなくても、誰も見ているものがないと信じて、その本性をさらけ出した人間というものを観察すること丈けで、十分面白いのです。よく注意して見ますと、ある人々は、その側に他人のいるときと、ひとりきりの時とでは、立居ふるまいは勿論、その顔の相好までが、まるで変るものだということを発見して、彼は少なからず驚きました。それに、平常、横から同じ水平線で見るのと違って、真上から見下すのですから、この、目の角度の相違によって、あたり前の座敷が、随分異様な景色に感じられます。人間は頭のてっぺんや両肩が、本箱、机、箪笥、火鉢などは、その上方の面丈けが、主として目に映ります。そして、壁というものは、殆ど見えないで、その代りに、凡ての品物のバックには、畳が一杯に拡っているのです。
何事がなくても、こうした興味がある上に、そこには、往々にして、滑稽な、悲惨な、或は物凄い光景が、展開されています。平常過激な反資本主義の議論を吐いている会社員が、誰も見ていない所では、貰ったばかりの昇給の辞令を、折鞄から出したり、しまったり、幾度も幾度も、飽かず打眺めて喜んでいる光景、ゾロリとしたお召の着物を不断着にして、果敢ない豪奢振りを示している、ある相場師が、いざ床につく時には、その、昼間はさも無雑作に着こなしていた着物を、女の様に、丁寧に畳んで、床の下へ敷くばかりか、しみでもついたのと見えて、それを丹念に口で嘗めて──お召などの小さな汚れは、口で嘗めとるのが一番いいのだといいます──一種のクリーニングをやっている光景、何々大学の野球の選手だというニキビ面の青年が、運動家にも似合わない臆病さを以て、女中への附文を、食べて了った夕飯のお膳の上へ、のせて見たり、思い返して、引込めて見たり、又のせて見たり、モジモジと同じことを繰返している光景、中には、大胆にも、淫売婦(?)を引入れて、茲に書くことを憚る様な、すさまじい狂態を演じている光景さえも、誰憚らず、見たい丈け見ることが出来るのです。
三郎は又、止宿人と止宿人との、感情の葛藤を研究することに、興味を持ちました。同じ人間が、相手によって、様々に態度を換えて行く有様、今の先まで、笑顔で話し合っていた相手を、隣の部屋へ来ては、まるで不倶戴天の仇ででもある様に罵っている者もあれば、蝙蝠の様に、どちらへ行っても、都合のいいお座なりを云って、蔭でペロリと舌を出している者もあります。そして、それが女の止宿人──東栄館の二階には一人の女画学生がいたのです──になると一層興味があります。「恋の三角関係」どころではありません。五角六角と、複雑した関係が、手に取る様に見えるばかりか、競争者達の誰れも知らない、本人の真意が、局外者の「屋根裏の散歩者」に丈け、ハッキリと分るではありませんか。お伽噺に隠れ蓑というものがありますが、天井裏の三郎は、云わばその隠れ蓑を着ているも同然なのです。
若しその上、他人の部屋の天井板をはがして、そこへ忍び込み、色々ないたずらをやることが出来たら、一層面白かったでしょうが、三郎には、その勇気がありませんでした。そこには、三間に一箇所位の割合で、三郎の部屋のと同様に、石塊で重しをした抜け道があるのですから、忍び込むのは造作もありませんけれど、いつ部屋の主が帰って来るか知れませんし、そうでなくとも、窓は皆、透明なガラス障子になっていますから、外から見つけられる危険もあり、それに、天井板をめくって押入れの中へ下り、襖をあけて部屋に這入り、又押入れの棚へよじ上って、元の屋根裏へ帰る、その間には、どうかして物音を立てないとは限りません。それを廊下や隣室から気附かれたら、もうおしまいなのです。
さて、ある夜更けのことでした。三郎は、一巡「散歩」を済ませて、自分の部屋へ帰る為に、梁から梁を伝っていましたが、彼の部屋とは、庭を隔てて、丁度向い側になっている棟の、一方の隅の天井に、ふと、これまで気のつかなかった、幽かな隙間を発見しました。径二寸ばかりの雲形をして、糸よりも細い光線が洩れているのです。なんだろうと思って、彼はソッと懐中電燈を点して、検べて見ますと、それは可也大きな木の節で、半分以上まわりの板から離れているのですが、あとの半分で、やっとつながり、危く節穴になるのを免れたものでした。一寸爪の先でこじさえすれば、何なく離れて了い相なのです。そこで、三郎は外の隙間から下を見て、部屋の主が已に寝ていることを確めた上、音のしない様に注意しながら、長い間かかって、とうとうそれをはがして了いました。都合のいいことには、はがした後の節穴が、杯形に下側が狭くなっていますので、その木の節を元々通りつめてさえ置けば、下へ落ちる様なことはなく、そこにこんな大きな覗き穴があるのを、誰にも気附かれずに済むのです。
これはうまい工合だと思いながら、その節穴から下を覗いて見ますと、外の隙間の様に、縦には長くても、幅はせいぜい一分内外の不自由なのと違って、下側の狭い方でも直径一寸以上はあるのですから、部屋の全景が、楽々と見渡せます。そこで三郎は思わず道草を食って、その部屋を眺めたことですが、それは偶然にも、東栄館の止宿人の内で、三郎の一番虫の好かぬ、遠藤という歯科医学校卒業生で、目下はどっかの歯医者の助手を勤めている男の部屋でした。その遠藤が、いやにのっぺりした虫唾の走る様な顔を、一層のっぺりさせて、すぐ目の下に寝ているのでした。馬鹿に几帳面な男と見えて、部屋の中は、他のどの止宿人のそれにもまして、キチンと整頓しています。机の上の文房具の位置、本箱の中の書物の並べ方、蒲団の敷き方、枕許に置き並べた、舶来物でもあるのか、見なれぬ形の目醒し時計、漆器の巻煙草入れ、色硝子の灰皿、何れを見ても、それらの品物の主人公が、世にも綺麗好きな、重箱の隅を楊子でほじくる様な神経家であることを証拠立てています。又遠藤自身の寝姿も、実に行儀がいいのです。ただ、それらの光景にそぐわぬのは、彼が大きな口を開いて、雷の様に鼾をかいていることでした。
三郎は、何か汚いものでも見る様に、眉をしかめて、遠藤の寝顔を眺めました。彼の顔は、綺麗といえば綺麗です。成程彼自身で吹聴する通り、女などには好かれる顔かも知れません。併し、何という間延びな、長々とした顔の造作でしょう。濃い頭髪、顔全体が長い割には、変に狭い富士額、短い眉、細い目、始終笑っている様な目尻の皺、長い鼻、そして異様に大ぶりな口。三郎はこの口がどうにも気に入らないのでした。鼻の下の所から段を為して、上顎と下顎とが、オンモリと前方へせり出し、その部分一杯に、青白い顔と妙な対照を示して、大きな紫色の唇が開いています。そして、肥厚性鼻炎ででもあるのか、始終鼻を詰らせ、その大きな口をポカンと開けて呼吸をしているのです。寝ていて、鼾をかくのも、やっぱり鼻の病気のせいなのでしょう。
三郎は、いつでもこの遠藤の顔を見さえすれば、何だかこう背中がムズムズして来て、彼ののっぺりした頬っぺたを、いきなり殴りつけてやり度い様な気持になるのでした。
そうして、遠藤の寝顔を見ている内に、三郎はふと妙なことを考えました。それは、その節穴から唾をはけば、丁度遠藤の大きく開いた口の中へ、うまく這入りはしないかということでした。なぜなら、彼の口は、まるで誂えでもした様に、節穴の真下の所にあったからです。三郎は物好きにも、股引の下に穿いていた、猿股の紐を抜出して、それを節穴の上に垂直に垂らし、片目を紐にくっつけて、丁度銃の照準でも定める様に、試して見ますと、不思議な偶然です。紐と節穴と、遠藤の口とが、全く一点に見えるのです。つまり節穴から唾を吐けば、必ず彼の口へ落ちるに相違ないことが分ったのです。
併し、まさかほんとうに唾を吐きかける訳にも行きませんので、三郎は、節穴を元の通りに埋めて置いて、立去ろうとしましたが、其時、不意に、チラリとある恐しい考えが、彼の頭に閃きました。彼は思わず、屋根裏の暗闇の中で、真青になって、ブルブルと震えました。それは実に、何の恨みもない遠藤を殺害するという考えだったのです。
彼は遠藤に対して何の恨みもないばかりか、まだ知り合いになってから、半月もたってはいないのでした。それも、偶然二人の引越しが同じ日だったものですから、それを縁に、二三度部屋を訪ね合ったばかりで別に深い交渉がある訳ではないのです。では、何故その遠藤を、殺そうなどと考えたかといいますと、今も云う様に、彼の容貌や言動が、殴りつけたい程虫が好かぬということも、多少は手伝っていましたけれど、三郎のこの考の主たる動機は、相手の人物にあるのではなくて、ただ殺人行為そのものの興味にあったのです。先からお話して来た通り、三郎の精神状態は非常に変態的で、犯罪嗜好癖ともいうべき病気を持ってい、その犯罪の中でも彼が最も魅力を感じたのは殺人罪なのですから、こうした考えの起るのも決して偶然ではないのです。ただ今までは、仮令屡々殺意を生ずることがあっても、罪の発覚を恐れて、一度も実行しようなどと思ったことがないばかりなのです。
ところが、今遠藤の場合は、全然疑を受けないで、発覚の憂なしに、殺人が行われ相に思われます。我身に危険さえなければ、仮令相手が見ず知らずの人間であろうと、三郎はそんなことを顧慮するのではありません。寧ろ、その殺人行為が、残虐であればある程、彼の異常な慾望は、一層満足させられるのでした。それでは、何故遠藤に限って、殺人罪が発覚しない──少くとも三郎がそう信じていたか──といいますと、それには、次の様な事情があったのです。
東栄館へ引越して四五日たった時分でした。三郎は懇意になったばかりの、ある同宿者と、近所のカフェへ出掛けたことがあります。その時同じカフェに遠藤も来ていて、三人が一つテーブルへ寄って酒を──尤も酒の嫌いな三郎はコーヒーでしたけれど──飲んだりして、三人とも大分いい心持になって、連立って下宿へ帰ったのですが、少しの酒に酔っぱらった遠藤は、「まあ僕の部屋へ来て下さい」と無理に二人を、彼の部屋へ引ぱり込みました。遠藤は独ではしゃいで、夜が更けているのも構わず、女中を呼んでお茶を入れさせたりして、カフェから持越しの惚気話を繰返すのでした。──三郎が彼を嫌い出したのは、その晩からです──その時、遠藤は、真赤に充血した脣をペロペロと嘗め廻しながら、さも得意らしくこんなことを云うのでした。
「その女とですね、僕は一度情死をしかけたことがあるのですよ。まだ学校にいた頃ですが、ホラ、僕のは医学校でしょう。薬を手に入れるのは訳ないんです。で、二人が楽に死ねる丈けの莫児比𣵀を用意して、聞いて下さい、鹽原へ出かけたもんです」
そう云いながら、彼はフラフラと立上って、押入の所へ行き、ガタガタ襖を開けると、中に積んであった一つの行李の底から、ごく小さい、小指の先程の、茶色の瓶を探して来て、聴手の方へ差出すのでした。瓶の中には、底の方に、ホンのぽっちり、何かキラキラと光った粉が這入っているのです。
「それですよ。これっぽっちで、十分二人の人間が死ねるのですからね。……併し、あなた方、こんなこと喋っちゃいやですよ。外の人に」
そして、彼の惚気話は、更らに長々と、止めどもなく続いたことですが、三郎は今、その時の毒薬のことを、計らずも思い出したのです。
「天井の節穴から、毒薬を垂らして、人殺しをする! まあ何という奇想天外な、すばらしい犯罪だろう」
彼は、この妙計に、すっかり有頂天になって了いました。よく考えて見れば、その方法は、如何にもドラマティックな丈け、可能性には乏しいものだということが分るのですが、そして又、何もこんな手数のかかることをしないでも、他にいくらも簡便な殺人法があった筈ですが、異常な思いつきに幻惑させられた彼は、何を考える余裕もないのでした。そして、彼の頭には、ただもうこの計画についての都合のいい理窟ばかりが、次から次へと浮んで来るのです。
先ず薬を盗み出す必要がありました。が、それは訳のないことです。遠藤の部屋を訪ねて話し込んでいれば、その内には、便所へ立つとか何とか、彼が席を外すこともあるでしょう。その暇に、見覚えのある行李から、茶色の小瓶を取出しさえすればいいのです。遠藤は、始終その行李の底を検べている訳ではないのですから、二日や三日で気の附くこともありますまい。仮令又気附かれたところで、そんな毒薬を持っていることが已に違法なのですから、表沙汰になる筈もなく、それに、上手にやりさえすれば、誰が盗んだのかも分りはしません。
そんなことをしないでも、天井から忍び込む方が楽ではないでしょうか。いやいや、それは危険です。先にも云う様に、いつ部屋の主が帰って来るか知れませんし、硝子障子の外から見られる心配もあります。第一、遠藤の部屋の天井には、三郎の所の様に、石塊で重しをした、あの抜け道がないのです。どうしてどうして、釘づけになっている天井板をはがして忍び入るなんて危険なことが出来るものですか。
さて、こうして手に入れた粉薬を、水に溶かして、鼻の病気の為に始終開きっぱなしの、遠藤の大きな口へ垂し込めば、それでいいのです。ただ心配なのは、うまく呑み込んで呉れるかどうかという点ですが、ナニ、それも大丈夫です。なぜといって、薬が極く極く少量で、溶き方を濃くして置けば、ほんの数滴で足りるのですから、熟睡している時なら、気もつかない位でしょう。又気がついたにしても恐らく吐き出す暇なんかありますまい。それから、莫児比𣵀が苦い薬だということも、三郎はよく知っていましたが、仮令苦くとも分量が僅かですし、尚お其上に砂糖でも混ぜて置けば、万々失敗する気遣いはありません、誰にしても、まさか天井から毒薬が降って来ようなどとは想像もしないでしょうから、遠藤が、咄嗟の場合、そこへ気のつく筈はないのです。
併し、薬がうまく利くかどうか、遠藤の体質に対して、多すぎるか或は少な過ぎるかして、ただ苦悶する丈けで死に切らないという様なことはあるまいか。これが問題です、成程、そんなことになれば非常に残念ではありますが、でも、三郎の身に危険を及ぼす心配はないのです。というのは、節穴は元々通り蓋をして了いますし、天井裏にも、そこにはまだ埃など溜っていない。ですから、何の痕跡も残りません。指紋は手袋で防いであります。仮令、天井から毒薬を垂らしたことが分っても、誰の仕業だか知れる筈はありません。殊に彼と遠藤とは、昨今の交際で、恨みを含む様な間柄でないことは、周知の事実なのですから、彼に嫌疑のかかる道理がないのです。いや、そうまで考えなくても熟睡中の遠藤に、薬の落ちて来た方角などが、分るものではありません。
これが、三郎の屋根裏で、又部屋へ帰ってから、考え出した虫のいい理窟でした。読者は已に、仮令以上の諸点がうまく行くとしても、その外に、一つの重大な錯誤のあることに気附かれたことと思います。が、彼は愈々実行に着手するまで、不思議にも、少しもそこへ気が附かないのでした。
三郎が、都合のよい折を見計らって、遠藤の部屋を訪問したのは、それから四五日たった時分でした。無論その間には、彼はこの計画について、繰返し繰返し考えた上、大丈夫危険がないと見極めをつけることが出来たのです。のみならず、色々と新しい工風を附加えもしました。例えば、毒薬の瓶の始末についての考案もそれです。
若しうまく遠藤を殺害することが出来たならば、彼はその瓶を、節穴から下へ落して置くことに決めました。そうすることによって、彼は二重の利益が得られます。一方では、若し発見されれば、重大な手掛りになる所のその瓶を、隠匿する世話がなくなること、他方では、死人の側に毒物の容器が落ちていれば、誰しも遠藤が自殺したのだと考えるに相違ないこと、そして、その瓶が遠藤自身の品であるということは、いつか三郎と一緒に彼に惚気話を聞かされた男が、うまく証明して呉れるに違いないのです。尚お都合のよいのは、遠藤は毎晩、キチンと締りをして寝ることでした。入口は勿論、窓にも、中から金具で止めをしてあって、外部からは絶対に這入れないことでした。
さて其日、三郎は非常な忍耐力を以て、顔を見てさえ虫唾の走る遠藤と、長い間雑談を交えました。話の間に、屡々それとなく、殺意をほのめかして、相手を怖がらせてやりたいという、危険極る慾望が起って来るのを、彼はやっとのことで喰止めました。「近い内に、ちっとも証拠の残らない様な方法で、お前を殺してやるのだぞ、お前がそうして、女の様にベチャクチャ喋れるのも、もう長いことではないのだ。今の内、せいぜい喋り溜めて置くがいいよ」三郎は、相手の止めどもなく動く、大ぶりな脣を眺めながら、心の内でそんなことを繰返していました。この男が、間もなく、青ぶくれの死骸になって了うのかと思うと、彼はもう愉快で耐らないのです。
そうして話し込んでいる内に、案の定、遠藤が便所に立って行きました。それはもう、夜の十時頃でもあったでしょうか、三郎は抜目なくあたりに気を配って、硝子窓の外なども十分検べた上、音のしない様に、しかし手早く押入れを開けて、行李の中から、例の薬瓶を探し出しました。いつか入れ場所をよく見て置いたので、探すのに骨は折れません。でも、流石に、胸がドキドキして、脇の下からは冷汗が流れました。実をいうと、彼の今度の計画の中、一番危険なのはこの毒薬を盗み出す仕事でした。どうしたことで遠藤が不意に帰って来るかも知れませんし、又誰かが隙見をして居ないとも限らぬのです。が、それについては、彼はこんな風に考えていました。若し見つかったら、或は見つからなくても、遠藤が薬瓶のなくなったことを発見したら──それはよく注意していればじき分ることです。殊に彼には天井の隙見という武器があるのですから──殺害を思い止まりさえすればいいのです。ただ毒薬を盗んだという丈では、大した罪にもなりませんからね。
それは兎も角、結局彼は、先ず誰にも見つからずに、うまうまと薬瓶を手に入れることが出来たのです。そこで、遠藤が便所から帰って来ると間もなく、それとなく話を切上げて、彼は自分の部屋へ帰りました。そして、窓には隙間なくカーテンを引き、入口の戸には締りをして置いて机の前に坐ると、胸を躍らせながら、懐中から可愛らしい茶色の瓶を取り出して、さてつくづくと眺めるのでした。
多分遠藤が書いたのでしょう。小さいレッテルにはこんな文字が記してあります。彼は以前に薬物学の書物を読んで、莫児比𣵀のことは多少知っていましたけれど、実物にお目にかかるのは今が始めてでした。多分それは鹽酸莫児比𣵀というものなのでしょう。瓶を電燈の前に持って行ってすかして見ますと、小匙に半分もあるかなしの、極く僅かの白い粉が、綺麗にキラリキラリと光っています。一体こんなもので人間が死ぬのか知ら、と不思議に思われる程です。
三郎は、無論、それをはかる様な精密な秤を持っていないので、分量の点は遠藤の言葉を信用して置く外はありませんでしたが、あの時の遠藤の態度口調は、酒に酔っていたとは云え決して出鱈目とは思われません。それにレッテルの数字も、三郎の知っている致死量の、丁度二倍程なのですから、よもや間違いはありますまい。
そこで、彼は瓶を机の上に置いて、側に、用意の砂糖や清水を並べ、薬剤師の様な綿密さで、熱心に調合を始めるのでした。止宿人達はもう皆寝て了ったと見えて、あたりは森閑と静まり返っています。その中で、マッチの棒に浸した清水を、用意深く、一滴一滴と、瓶の中へ垂らしていますと、自分自身の呼吸が、悪魔のため息の様に、変に物凄く響くのです。それがまあ、どんなに三郎の変態的な嗜好を満足させたことでしょう。ともすれば、彼の目の前に浮んで来るのは、暗闇の洞窟の中で、沸々と泡立ち煮える毒薬の鍋を見つめて、ニタリニタリと笑っている、あの古の物語の、恐ろしい妖婆の姿でした。
併しながら、一方に於ては、其頃から、これまで少しも予期しなかった、ある恐怖に似た感情が、彼の心の片隅に湧き出していました。そして時間のたつに随って、少しずつ少しずつ、それが拡がって来るのです。
誰かの引用で覚えていた、あのシェークスピアの不気味な文句が、目もくらめく様な光を放って、彼の脳髄に焼きつくのです。この計画には、絶対に破綻がないと、かくまで信じながらも、刻々に増大して来る不安を、彼はどうすることも出来ないのでした。
何の恨みもない一人の人間を、ただ殺人の面白さに殺して了うとは、それが正気の沙汰か。お前は悪魔に魅入られたのか、お前は気が違ったのか。一体お前は、自分自身の心を空恐しくは思わないのか。
長い間、夜の更けるのも知らないで、調合して了った毒薬の瓶を前にして、彼は物思いに耽っていました。一層この計画を思止まることにしよう。幾度そう決心しかけたか知れません。でも、結局は彼はどうしても、あの人殺しの魅力を断念する気にはなれないのでした。
ところが、そうしてとつおいつ考えている内に、ハッと、ある致命的な事実が、彼の頭に閃きました。
「ウフフフ…………」
突然三郎は、おかしくて堪らない様に、併し寝静ったあたりに気を兼ねながら、笑いだしたのです。
「馬鹿野郎。お前は何とよく出来た道化役者だ! 大真面目でこんな計画を目論むなんて。もうお前の麻痺した頭には、偶然と必然の区別さえつかなくなったのか。あの遠藤の大きく開いた口が、一度例の節穴の真下にあったからといって、その次にも同じ様にそこにあるということが、どうして分るのだ。いや寧ろ、そんなことは先ずあり得ないではないか」
それは実に滑稽極る錯誤でした。彼のこの計画は、已にその出発点に於て、一大迷妄に陥っていたのです。併し、それにしても、彼はどうしてこんな分り切ったことを今迄気附かずにいたのでしょう。実に不思議と云わねばなりません。恐らくこれは、さも利口ぶっている彼の頭脳に、非常な欠陥があった証拠ではありますまいか。それは兎も角、彼はこの発見によって、一方では甚しく失望しましたけれど、同時に他の一方では、不思議な気安さを感じるのでした。
「お蔭で俺はもう、恐しい殺人罪を犯さなくても済むのだ。ヤレヤレ助かった」
そうはいうものの、その翌日からも、「屋根裏の散歩」をするたびに、彼は未練らしく例の節穴を開けて、遠藤の動静を探ることを怠りませんでした。それは一つは、毒薬を盗み出したことを遠藤が勘づきはしないかという心配からでもありましたけれど、併し又、どうかして此間の様に、彼の口が節穴の真下へ来ないかと、その偶然を待ちこがれていなかったとは云えません。現に彼は、いつの「散歩」の場合にも、シャツのポケットから彼の毒薬を離したことはないのでした。
ある夜のこと──それは三郎が「屋根裏の散歩」を始めてからもう十日程もたっていました。十日の間も、少しも気附かれる事なしに、毎日何回となく、屋根裏を這い廻っていた彼の苦心は、一通ではありません。綿密なる注意、そんなありふれた言葉では、迚も云い現せない様なものでした。──三郎は又しても遠藤の部屋の天井裏をうろついていました。そして、何かおみくじでも引く様な心持で、吉か凶か、今日こそは、ひょっとしたら吉ではないかな。どうか吉が出て呉れます様にと、神に念じさえしながら、例の節穴を開けて見るのでした。
すると、ああ、彼の目がどうかしていたのではないでしょうか。いつか見た時と寸分違わない恰好で、そこに鼾をかいている遠藤の口が、丁度節穴の真下へ来ていたではありませんか。三郎は、何度も目を擦って見直し、又猿股の紐を抜いて、目測さえして見ましたが、もう間違いはありません。紐と穴と口とが、正しく一直線上にあるのです。彼は思わず叫声を上げそうになったのをやっと堪えました。遂にその時が来た喜びと、一方では云い知れぬ恐怖と、その二つが交錯した、一種異様の興奮の為に、彼は暗闇の中で、真青になって了いました。
彼はポケットから、毒薬の瓶を取り出すと、独でに震い出す手先を、じっとためながら、その栓を抜き、紐で見当をつけて置いて──おお、その時の何とも形容の出来ぬ心持!──ポトリポトリポトリ、と数滴。それがやっとでした。彼はすぐ様目を閉じて了ったのです。
「気がついたか、きっと気がついた。きっと気がついた。そして、今にも、おお、今にも、どんな大声で叫び出すことだろう」
彼は若し両手があいていたら、耳をも塞ぎ度い程に思いました。
ところが、彼のそれ程の気遣いにも拘らず、下の遠藤はウンともスーとも云わないのです。毒薬が口の中へ落ちた所は確に見たのですから、それに間違いはありません。でも、この静けさはどうしたというのでしょう。三郎は恐る恐る目を開いて節穴を覗いて見ました。すると、遠藤は、口をムニャムニャさせ、両手で脣を擦る様な恰好をして、丁度それが終った所なのでしょう。又もやグーグーと寝入って了うのでした。案ずるよりは産むが易いとはよく云ったものです。寝惚けた遠藤は、恐ろしい毒薬を飲み込んだことを少しも気附かないのでした。
三郎は、可哀相な被害者の顔を、身動きもしないで、食い入る様に見つめていました。それがどれ程長く感じられたか、事実は二十分とたっていないのに、彼には二三時間もそうしていた様に思われたことです。するとその時、遠藤はフッと目を開きました。そして、半身を起して、さも不思議相に部屋の中を見廻しています。目まいでもするのか、首を振って見たり、目を擦って見たり、譫言の様な意味のないことをブツブツと呟いて見たり、色々狂気めいた仕草をして、それでも、やっと又枕につきましたが、今度は盛んに寝返りを打のです。
やがて、寝返りの力が段々弱くなって行き、もう身動きをしなくなったかと思うと、その代りに、雷の様な鼾声が響き始めました。見ると、顔の色がまるで、酒にでも酔った様に、真赤になって、鼻の頭や額には、玉の汗が沸々とふき出しています。熟睡している彼の身内で、今、世にも恐ろしい生死の争闘が行われているのかも知れません。それを思うと身の毛がよだつ様です。
さて暫くすると、さしも赤かった顔色が、徐々にさめて、紙の様に白くなったかと思うと、見る見る青藍色に変って行きます。そして、いつの間にか鼾がやんで、どうやら、吸う息、吐く息の度数が減って来ました。……ふと胸の所が動かなくなったので、愈々最期かと思っていますと、暫くして、思い出した様に、又脣がビクビクして、鈍い呼吸が帰って来たりします。そんなことが二三度繰り返されて、それでおしまいでした。……もう彼は動かないのです。グッタリと枕をはずした顔に、我々の世界のとはまるで別な、一種のほほえみが浮んでいます。彼は遂に、所請「仏」になって了ったのでしょう。
息をつめ、手に汗を握って、その様子を見つめていた三郎は、始めてホッとため息をつきました。とうとう彼は殺人者になって了ったのです。それにしても、何という楽々とした死に方だったでしょう。彼の犠牲者は、叫声一つ立てるでなく、苦悶の表情さえ浮べないで、鼾をかきながら死んで行ったのです。
「ナアンダ。人殺しなんてこんなあっけないものか」
三郎は何だかガッカリして了いました。想像の世界では、もうこの上もない魅力であった殺人という事が、やって見れば、外の日常茶飯事と、何の変りもないのでした。この鹽梅なら、まだ何人だって殺せるぞ。そんなことを考える一方では、併し、気抜けのした彼の心を、何ともえたいの知れぬ恐ろしさが、ジワジワと襲い始めていました。
暗闇の屋根裏、縦横に交錯した怪物の様な棟木や梁、その下で、守宮か何ぞの様に、天井裏に吸いついて、人間の死骸を見つめている自分の姿が、三郎は俄に気味悪くなって来ました。妙に首筋の所がゾクゾクして、ふと耳をすますと、どこかで、ゆっくりゆっくり、自分の名を呼び続けている様な気さえします。思わず節穴から目を離して、暗闇の中を見廻しても、久しく明い所を覗いていたせいでしょう。目の前には、大きいのや小さいのや、黄色い環の様なものが、次々に現れては消えて行きます。じっと見ていますと、その環の背後から、遠藤の異様に大きな脣が、ヒョイと出て来そうにも思われるのです。
でも彼は、最初計画した事丈けは、先ず間違いなく実行しました。節穴から薬瓶──その中にはまだ数滴の毒液が残っていたのです──を抛り落すこと、その跡の穴を塞ぐこと、万一天井裏に何かの痕跡が残っていないか、懐中電燈を点じて調べること、そして、もうこれで手落ちがないと分ると、彼は大急ぎで棟木を伝い、自分の部屋へ引返しました。
「愈々これで済んだ」
頭も身体も、妙に痺れて、何かしら物忘れでもしている様な、不安な気持を、強いて引立てる様にして、彼は押入れの中で着物を着始めました。が、その時ふと気がついたのは、例の目測に使用した猿股の紐を、どうしたかという事です。ひょっとしたら、あすこへ忘れて来たのではあるまいか。そう思うと、彼は惶しく腰の辺を探って見ました。どうも無いようです。彼は益々慌てて、身体中を調べました。すると、どうしてこんなことを忘れていたのでしょう。それはちゃんとシャツのポケットに入れてあったではありませんか。ヤレヤレよかったと、一安心して、ポケットの中から、その紐と、懐中電燈とを取出そうとしますと、ハッと驚いたことには、その中にまだ外の品物が這入っていたのです。……毒薬の瓶の小さなコルクの栓が這入っていたのです。
彼は、さっき毒薬を垂らす時、あとで見失っては大変だと思って、その栓を態々ポケットへしまって置いたのですが、それを胴忘れして了って瓶丈け下へ落して来たものと見えます。小さなものですけれど、このままにして置いては、犯罪発覚のもとです。彼は恐れる心を励して、再び現場へ取って返し、それを節穴から落して来ねばなりませんでした。
その夜三郎が床についたのは──もうその頃は、用心の為に押入れで寝ることはやめていましたが──午前三時頃でした。それでも、興奮し切った彼は、なかなか寝つかれないのです。あんな、栓を落すのを忘れて来る程では、外にも何か手抜りがあったかも知れない。そう思うと、彼はもう気が気ではないのです。そこで、乱れた頭を強いて落ちつける様にして、其晩の行動を、順序を追って一つ一つ思出して行き、どっかに手抜りがなかったかと調べて見ました。が、少くとも彼の頭では、何事をも発見出来ないのです。彼の犯罪には、どう考えて見ても、寸分の手落ちもないのです。
彼はそうして、とうとう夜の明けるまで考え続けていましたが、やがて、早起きの止宿人達が、洗面所へ通う為に廊下を歩く跫音が聞え出すと、つと立上って、いきなり外出の用意を始めるのでした。彼は遠藤の死骸が発見される時を恐れていたのです。その時、どんな態度をとったらいいのでしょう。ひょっとしたら、後になって疑われる様な、妙な挙動があっては大変です。そこで彼は、その間外出しているのが一番安全だと考えたのですが、併し、朝飯もたべないで外出するのは、一層変ではないでしょうか。「アア、そうだっけ、何をうっかりしているのだ」そこへ気がつくと、彼は又もや寝床の中へもぐり込むのでした。
それから朝飯までの二時間ばかりを、三郎はどんなにビクビクして過したことでしょうか、幸にも、彼が大急ぎで食事をすませて、下宿屋を逃げ出すまでは、何事も起らないで済みました。そうして下宿を出ると、彼はどこという当てもなく、ただ時間を過す為に、町から町へとさ迷い歩くのでした。
結局、彼の計画は見事に成功しました。
彼がお昼頃外から帰った時には、もう遠藤の死骸は取り片附けられ、警察からの臨検もすっかり済んでいましたが、聞けば、案の定、誰一人遠藤の自殺を疑うものはなく、其筋の人達も、ただ形ばかりの取調べをすると、じきに帰って了ったということでした。
ただ遠藤が何故に自殺したかというその原因は少しも分りませんでしたが、彼の日頃の素行から想像して、多分痴情の結果であろうということに、皆の意見が一致しました。現に最近、ある女に失恋していたという様な事実まで現れて来たのです。ナニ、「失恋した失恋した」というのは、彼の様な男にとっては一種の口癖みたいなもので、大した意味がある訳ではないのですが、外に原因がないので、結局それに極った訳でした。
のみならず、原因があってもなくても、彼の自殺したことは、一点の疑いもないのでした。入口も窓も、内部から戸締りがしてあったのですし、毒薬の容器が枕許にころがっていて、それが彼の所持品であったことも分っているのですから、もう何と疑って見ようもないのです。天井から毒薬を垂らしたのではないかなどと、そんな馬鹿馬鹿しい疑いを起すものは、誰もありませんでした。
それでも、何だかまだ安心しきれない様な気がして、三郎はその日一日、ビクビクものでいましたが、やがて一日二日とたつに随って、彼は段々落ちついて来たばかりか、はては、自分の手際を得意がる余裕さえ生じました。
「どんなものだ。流石は俺だな。見ろ、誰一人ここに、同じ下宿屋の一間に、恐ろしい殺人犯人がいることを気附かないではないか」
彼は、この調子では、世間にどれ位隠れた処罰されない犯罪があるか、知れたものではないと思うのでした。「天網恢々疎にして漏さず」なんて、あれはきっと昔からの為政者達の宣伝に過ぎないので、或は人民共の迷信に過ぎないので、その実は、巧妙にやりさえすれば、どんな犯罪だって、永久に現れないで済んで行くのだ。彼はそんな風にも考えるのでした。尤も、流石に夜などは、遠藤の死顔が目先にちらつく様な気がして、何となく気味が悪く、その夜以来、彼は例の「屋根裏の散歩」も中止している始末でしたが、それはただ、心の中の問題で、やがては忘れて了うことです。実際、罪が発覚さえせねば、もうそれで十分ではありませんか。
さて、遠藤が死んでから丁度三日目のことでした。三郎が今夕飯を済ませて、小楊子を使いながら、鼻唄かなんか歌っている所へ、ヒョッコリと久し振りに明智小五郎が訪ねて来ました。
「ヤア」
「御無沙汰」
彼等はさも心安げに、こんな風の挨拶を取交したことですが、三郎の方では、折が折なので、この素人探偵の来訪を、少々気味悪く思わないではいられませんでした。
「この下宿で毒を飲んで死んだ人があるって云うじゃないか」
明智は、座につくと早速、その三郎の避けたがっている事柄を話題にするのでした。恐らく彼は、誰かから自殺者の話を聞いて、幸、同じ下宿に三郎がいるので、持前の探偵的興味から、訪ねて来たのに相違ありません。
「アア、莫児比𣵀でね。僕は丁度その騒ぎの時に居合せなかったから、詳しいことは分らないけれど、どうも痴情の結果らしいのだ」
三郎は、その話題を避けたがっていることを悟られまいと、彼自身もそれに興味を持っている様な顔をして、こう答えました。
「一体どんな男なんだい」
すると、すぐ又明智が尋ねるのです。それから暫くの間、彼等は遠藤の為人について、死因について、自殺の方法について、問答を続けました。三郎は始めの内こそ、ビクビクもので、明智の問に答えていましたが、慣れて来るに随って、段々横着になり、はては、明智をからかってやり度い様な気持にさえなるのでした。
「君はどう思うね。ひょっとしたら、これは他殺じゃあるまいか。ナニ別に根拠がある訳じゃないけれど、自殺に相違ないと信じていたのが、実は他殺だったりすることが、往々あるものだからね」
どうだ、流石の名探偵もこればっかりは分るまいと、心の中で嘲りながら、三郎はこんなことまで云って見るのでした。
それが彼には愉快で堪らないのです。
「そりゃ何とも云えないね。僕も実は、ある友達からこの話を聞いた時に、死因が少し曖昧だという気がしたのだよ。どうだろう、その遠藤君の部屋を見る訳には行くまいか」
「造作ないよ」三郎は寧ろ得々として答えました。「隣の部屋に遠藤の同郷の友達がいてね。それが遠藤の親父から荷物の保管を頼まれているんだ。君のことを話せば、きっと喜んで見せて呉れるよ」
それから、二人は遠藤の部屋へ行って見ることになりました。その時、廊下を先頭になって歩きながら三郎はふと妙な感じにうたれたことです。
「犯人自身が、探偵をその殺人の現場へ案内するなんて、古往今来ないこったろうな」
ニヤニヤと笑い相になるのを、彼はやっとの事で堪えました。三郎は、生涯の中で、恐らく此時程得意を感じたことはありますまい。「イヨ親玉ア」自分自身にそんな掛け声でもしてやり度い程、水際立った悪党ぶりでした。
遠藤の友達──それは北村といって、遠藤が失恋していたという証言をした男です。──は、明智の名前をよく知っていて、快く遠藤の部屋を開けて呉れました。遠藤の父親が、国許から出て来て、仮葬を済ませたのが、やっと今日の午後のことで、部屋の中には、彼の持物が、まだ荷造りもせず、置いてあるのです。
遠藤の変死が発見されたのは、北村が会社へ出勤したあとだった由で、発見の刹那の有様はよく知らない様でしたが、人から聞いた事などを綜合して、彼は可成詳しく説明して呉れました。三郎もそれについて、さも局外者らしく、喋々と噂話などを述べ立てるのでした。
明智は二人の説明を聞きながら、如何にも玄人らしい目くばりで、部屋の中をあちらこちらと見廻していましたが、ふと机の上に置いてあった目覚し時計に気附くと、何を思ったのか、長い間それを眺めているのです。多分、その珍奇な装飾が彼の目を惹いたのかも知れません。
「これは目覚し時計ですね」
「そうですよ」北村は多弁に答えるのです。「遠藤の自慢の品です。あれは几帳面な男でしてね、朝の六時に鳴る様に、毎晩欠かさずこれを捲いて置くのです。私なんかいつも、隣の部屋のベルの音で目を覚していた位です。遠藤の死んだ日だってそうですよ。あの朝もやっぱりこれが鳴っていましたので、まさかあんなことが起っていようとは、想像もしなかったのですよ」
それを聞くと、明智は長く延ばした頭の毛を、指でモジャモジャ掻き廻しながら、何か非常に熱心な様子を示しました。
「その朝、目覚しが鳴ったことは間違いないでしょうね」
「エエ、それは間違いありません」
「あなたは、そのことを、警察の人に仰有いませんでしたか」
「イイエ、……でも、なぜそんなことをお聞きなさるのです」
「なぜって、妙じゃありませんか。その晩に自殺しようと決心した者が、明日の朝の目覚しを捲いて置くというのは」
「なる程、そう云えば変ですね」
北村は迂濶にも、今まで、この点に気附かないでいたらしいのです。そして、明智のいうことが、何を意味するかも、まだハッキリ飲み込めない様子でした、が、それも決して無理ではありません。入口の締りのしてあったこと、毒薬の容器が死人の側に落ちていたこと、其他凡ての事情が、遠藤の自殺を疑いないものに見せていたのですから。
併し、この問答を聞いた三郎は、まるで足許の地盤が、不意にくずれ始めた様な驚きを感じました。そして、何故こんな所へ明智を連れて来たのだろうと、自分の愚さを悔まないではいられませんでした。
明智はそれから、一層の綿密さで、部屋の中を調べ始めました。無論天井も見逃す筈はありません。彼は天井板を一枚一枚叩き試みて、人間の出入した形跡がないかを調べ廻ったのです。が、三郎の安堵したことには、流石の明智も、節穴から毒薬を垂らして、そこを又、元々通り蓋して置くという新手には、気附かなかったと見えて、天井板が一枚もはがれていないことを確めると、もうそれ以上の穿鑿はしませんでした。
さて、結局その日は別段の発見もなく済みました。明智は遠藤の部屋を見て了うと、又三郎の所へ戻って、暫く雑談を取交した後、何事もなく帰って行ったのです。ただ、その雑談の間に、次の様な問答のあったことを書き洩らす訳には行きません、なぜといって、これは一見極くつまらない様に見えて、その実、このお話の結末に最も重大な関係を持っているのですから。
その時明智は、袂から取出したエアシップに火をつけながら、ふと気がついた様にこんなことを云ったのです。
「君はさっきから、ちっとも煙草を吸わない様だが、よしたのかい」
そう云われて見ますと、成程、三郎はこの二三日、あれ程大好物の煙草を、まるで忘れて了った様に、一度も吸っていないのでした。
「おかしいね。すっかり忘れていたんだよ。それに、君がそうして吸っていても、ちっとも欲しくならないんだ」
「いつから?」
「考えて見ると、もう二三日吸わない様だ。そうだ、ここにある敷島を買ったのが、たしか日曜日だったから、もうまる三日の間、一本も吸わない訳だよ。一体どうしたんだろう」
「じゃ、丁度遠藤君が死んだ日からだね」
それを聞くと、三郎は思わずハッとしました。併し、まさか遠藤の死と、彼が煙草を吸わない事との間に因果関係があろうとも思われませんので、その場は、ただ笑って済ませたことですが、後になって考えて見ますと、それは決して笑話にする様な、無意味な事柄ではなかったのです。──そして、この三郎の煙草嫌いは、不思議なことに、その後いつまでも続きました。
三郎は、その当座、例の目覚し時計のことが、何となく気になって、夜もおちおち睡れないのでした。仮令遠藤が自殺したのでないということが分っても、彼がその下手人だと疑われる様な証拠は、一つもない筈ですから、そんなに心配しなくともよさそうなものですが、でも、それを知っているのがあの明智だと思うと、なかなか安心は出来ないのです。
ところが、それから半月ばかりは何事もなく過去って了いました。心配していた明智もその後一度もやって来ないのです。
「ヤレヤレ、これで愈々大団円か」
そこで三郎は、遂に気を許す様になりました。そして、時々恐ろしい夢に悩まされることはあっても、大体に於て、愉快な日々を送ることが出来たのです。殊に彼を喜ばせたのは、あの殺人罪を犯して以来というもの、これまで少しも興味を感じなかった色々な遊びが、不思議と面白くなって来たことです。それ故、この頃では、毎日の様に、彼は家を外にして、遊び廻っているのでした。
ある日のこと、三郎はその日も外で夜を更かして、十時頃に家へ帰ったのですが、さて寝ることにして、蒲団を出す為に、何気なく、スーッと押入れの襖を開いた時でした。
「ワッ」
彼はいきなり恐ろしい叫声を上げて、二三歩あとへよろめきました。
彼は夢を見ていたのでしょうか。それとも、気でも狂ったのではありませんか。そこには、押入れの中には、あの死んだ遠藤の首が、頭髪をふり乱して、薄暗い天井から、さかさまに、ぶら下っていたのです。
三郎は、一たんは逃げ出そうとして、入口の所まで行きましたが、何か外のものを、見違えたのではないかという様な気もするものですから、恐る恐る、引返して、もう一度、ソッと押入れの中を覗いてみますと、どうして、見違いでなかったばかりか、今度はその首は、いきなりニッコリと笑ったではありませんか。
三郎は、再びアッと叫んで、一飛びに入口の所まで行って障子を開けると、矢庭に外へ逃げ出そうとしました。
「郷田君。郷田君」
それを見ると、押入れの中では頻りに三郎の名前を呼び始めるのです。
「僕だよ。僕だよ。逃げなくってもいいよ」
それは、遠藤の声ではなくて、どうやら聞き覚えのある、外の人の声だったものですから、三郎はやっと逃げるのを踏み止まって、恐々ふり返って見ますと、
「失敬失敬」
そう云いながら、以前よく三郎自身がした様に、押入れの天井から降りて来たのは、意外にも、あの明智小五郎でした。
「驚かせて済まなかった」押入れから出た洋服姿の明智が、ニコニコしながらいうのです。「一寸君の真似をして見たのだよ」
それは実に、幽霊なぞよりはもっと現実的な、一層恐ろしい事実でした。明智はきっと、何もかも悟って了ったのに相違ありません。
その時の三郎の心持は、実に何とも形容の出来ないものでした。あらゆる事柄が、頭の中で風車の様に旋転して、いっそ何も思うことがない時と同じ様に、ただボンヤリとして、明智の顔を見つめている外はないのです。
「早速だが、これは君のシャツの釦だろうね」
明智は、如何にも事務的な調子で始めました。手には小さな貝釦を持って、それを三郎の目の前につき出しながら、
「外の下宿人達も調べて見たけれども、誰もこんな釦をなくしているものはないのだ。アア、そのシャツのだね。ソラ、二番目の釦がとれているじゃないか」
ハッと思って、胸を見ると、成程、釦が一つとれています。三郎は、それがいつとれたのやら、少しも気がつかないでいたのです。
「形も同じだし、間違いないね、ところで、この釦をどこで拾ったと思う。天井裏なんだよ、それも、あの遠藤君の部屋の上でだよ」
それにしても、三郎はどうして、釦なぞを落して、気附かないでいたのでしょう。それに、あの時、懐中電燈で十分検べた筈ではありませんか。
「君が殺したのではないかね。遠藤君は」
明智は無邪気にニコニコしながら、──それがこの場合一層気味悪く感じられるのです──三郎のやり場に困った目の中を、覗き込んで、とどめを刺す様に云うのでした。
三郎は、もう駄目だと思いました。仮令明智がどんな巧みな推理を組立てて来ようとも、ただ推理丈けであったら、いくらでも抗弁の余地があります。けれども、こんな予期しない証拠物をつきつけられては、どうすることもできません。
三郎は今にも泣き出そうとする子供の様な表情で、いつまでもいつまでも黙りこくって衝立っていました。時々ボンヤリと霞んで来る目の前には、妙な事に、遠い遠い昔の、例えば小学校時代の出来事などが、幻の様に浮き出して来たりするのでした。
それから二時間ばかり後、彼等はやっぱり元のままの状態で、その長い間、殆ど姿勢さえもくずさず、三郎の部屋で相対していました。
「有難う、よくほんとうのことを打開けて呉れた」最後に明智が云うのでした。「僕は決して君のことを警察へ訴えなぞしないよ、ただね僕の判断が当っているかどうか、それが確めたかったのだ。君も知っている通り、僕の興味はただ『真実を知る』という点にあるので、それ以上のことは、実はどうでもいいのだ。それにね、この犯罪には、一つも証拠というものがないのだよ。シャツの釦、ハハ……、あれは僕のトリックさ。何か証拠品がなくては、君が承知しまいと思ってね。この前君を訪ねた時、その二番目の釦がとれていることに気附いたものだから、一寸利用して見たのさ。ナニ、これは僕が釦屋へ行って仕入れて来たのだよ。釦がいつとれたなんていう事は、誰しもあまり気附かないことだし、それに、君は興奮している際だから、多分うまく行くだろうと思ってね。
僕が遠藤君の自殺を疑い出したのは君も知っている様に、あの目覚し時計からだ。あれから、この管轄の警察署長を訪ねて、ここへ臨検した一人の刑事から、詳しく当時の模様を聞くことが出来たが、その話によると、莫児比𣵀の瓶が煙草の箱の中にころがっていて、中味が巻煙草にこぼれかかっていたというのだ。警察の人達はこれに別段注意を払わなかった様だが、考えて見れば甚だ妙なことではないか、聞けば、遠藤は非常に几帳面な男だというし、ちゃんと床に這入って死ぬ用意までしているものが、毒薬の瓶を煙草の箱の中へ置くさえあるに、而も中味をこぼすなどというのは、何となく不自然ではないか。
そこで、僕は益々疑いを深くした訳だが、ふと気附いたのは君の遠藤の死んだ日から煙草を吸わなくなっていることだ。この二つの事柄は、偶然の一致にしては、少し妙ではあるまいか。すると、僕は、君が以前犯罪の真似事などをして喜んでいたことを思い出した。君には変態的な犯罪嗜好癖があったのだ。
僕はあれから度々この下宿へ来て、君に知れない様に遠藤の部屋を調べていたのだよ。そして、犯人の通路は天井の外にないということが分ったものだから、君の所謂『屋根裏の散歩』によって、止宿人達の様子を探ることにした。殊に、君の部屋の上では、度々長い間うずくまっていた。そして、君のあのイライラした様子を、すっかり隙見して了ったのだよ。
探れば探る程、凡ての事情が君に指ししている。だが、残念なことには、確証というものが一つもないのだ。そこでね。僕はあんなお芝居を考え出したのだよ、ハハハハハハ。じゃ、これで失敬するよ。多分もう御目にかかれまい。なぜって、ソラ、君はちゃんと自首する決心をしているのだからね」
三郎は、この明智のトリックに対しても、最早何の感情も起らないのでした。彼は明智の立去るのも知らず顔に、「死刑にされる時の気持は、一体どんなものだろう」ただそんなことを、ボンヤリと考え込んでいるのでした。
彼は毒薬の瓶を節穴から落した時、それがどこへ落ちたのかを見なかった様に思っていましたけれど、その実は、巻煙草に毒薬のこぼれたことまで、ちゃんと見ていたのです。そして、それが意識下に押籠められて、精神的に彼を煙草嫌いにさせて了ったのでした。
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第二巻」平凡社
1931(昭和6)年10月
初出:「新青年」博文館
1925(大正14)年8月増刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「耐らない」と「堪らない」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2016年6月10日作成
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