少年
谷崎潤一郎



もう彼れ此れ二十年ばかりも前になろう。漸く私が十ぐらいで、蠣殻かきがら町二丁目の家から水天宮裏の有馬学校へ通って居た時分───人形町通りの空が霞んで、軒並の商家あきうどや紺暖簾こんのれんにぽか〳〵と日があたって、取り止めのない夢のような幼心にも何となく春が感じられる陽気な時候の頃であった。

或るうら〳〵と晴れた日の事、眠くなるような午後の授業が済んで墨だらけの手に算盤そろばんを抱えながら学校の門を出ようとすると、

「萩原の栄ちゃん」

と、私の名を呼んでうしろからばた〳〵と追いかけて来た者がある。其の子は同級のはなわ信一と云って入学した当時から尋常四年の今日まで附添人の女中を片時も側から離した事のない評判の意気地なし、誰も彼も弱虫だの泣き虫だのと悪口をきいて遊び相手になる者のない坊ちゃんであった。

「何か用かい」

珍らしくも信一から声をかけられたのを不思議に思って私は其の子と附添の女中の顔をしげ〳〵と見守った。

「今日あたしのうちへ来て一緒にお遊びな。家のお庭でお稲荷いなり様のお祭があるんだから」

緋の打ち紐で括ったような口から、優しい、おず〳〵した声で云って、信一は訴えるような眼差まなざしをした。いつも一人ぼっちでいじけて居る子が、何でこんな意外な事を云うのやら、私は少しうろたえて、相手の顔を読むようにぼんやり立った儘であったが、日頃は弱虫だの何だのと悪口を云っていじめ散らしたようなものゝ、こういって眼の前に置いて見ると、有繋さすが良家の子息むすこだけに気高く美しい所があるように思われた。糸織の筒袖に博多の献上の帯を締め、黄八丈の羽織を着てきゃらこの白足袋に雪駄せったを穿いた様子が、色の白い瓜実顔うりざねがお面立おもだちとよく似合って、今更品位に打たれたように、私はうっとりとして了った。

「ねえ、萩原の坊ちゃん、家の坊ちゃんと御一緒にお遊びなさいましな。実は今日こんにち手前共にお祭がございましてね、あの成る可く大人しいお可愛らしいお友達を誘ってお連れ申すようにお母様のお云い附けがあったものですから、それで坊ちゃんがあなたをお誘いなさるのでございますよ。ね、いらしって下さいましな。それともお嫌でございますか」

附添の女中にこう云われて、私は心中得意になったが、

「そんなら一旦うちへ帰って、ことわってから遊びに行こう」

と、わざと殊勝しゅしょうらしい答をした。

「おやそうでございましたね。ではあなたのおうちまでお供して参って、お母様に私からお願い致しましょうか、そうして手前共へ御一緒に参りましょう」

「うん、いゝよ。お前ン所は知って居るから後から一人でも行けるよ」

「そうでございますか。それではきっとお待ち申しますよ。お帰りには私がお宅までお送り申しますから、お心配なさらないようにお家へ断っていらっしゃいまし」

「あゝ、それじゃ左様なら」

こう云って、私は子供の方を向いてなつかしそうに挨拶をしたが、信一は例の品のある顔をにこりともさせず、唯鷹揚おうようにうなずいたゞけであった。

今日からあの立派な子供と仲好しになるのかと思うと、何となく嬉しい気持がして、日頃遊び仲間の髢屋かもじやの幸吉や船頭の鉄公などに見付からぬように急いで家へ帰り、盲縞めくらじまの学校着をついの黄八丈の不断着に着更えるや否や、

「お母さん、遊びに行って来るよ」

と、雪駄をつッかけながら格子先に云い捨てゝ、其の儘塙の家へ駈け出して行った。

有馬学校の前から真っ直ぐに中之橋を越え、浜町の岡田の塀へついて中洲に近い河岸通りへ出た所は、何となくさびれたような閑静な一廓をなして居る。今はなくなったが新大橋の袂から少し手前の右側に名代の団子屋と煎餅屋があって、其のすじ向うの角の、長い〳〵塀をめぐらしたいかめしい鉄格子の門が塙の家であった。前を通るとこんもりした邸内の植込みの青葉の隙から破風型の日本館の瓦が銀鼠色に輝き、其のうしろに西洋館の褪紅緋色たいこうひいろ煉瓦れんががちら〳〵見えて、いかにも物持の住むらしい、奥床しい構えであった。

成る程其の日は何か内にお祭でもあるらしく、陽気な馬鹿囃しの太鼓の音が塀の外に洩れ、開け放された横町の裏木戸からは此の界隈に住む貧乏人の子供達が多勢ぞろ〳〵庭内に這入って行く。私は表門の番人の部屋へ行って信一を呼んで貰おうかとも思ったが、何となく恐ろしい気がしたので、其の子供達と同じように裏木戸の潜りを抜けて構えの中へ這入った。

何と云う大きな屋敷だろう。こう思って私は瓢箪形をした池のみぎわの芝生にたゝずんでひろい〳〵庭の中を見廻した。周延ちかのぶが描いた千代田の大奥と云う三枚続きの絵にあるようなみず築山つきやま、雪見燈籠、瀬戸物の鶴、洗いせきなどがお誂い向きに配置されて、一つの大きな伽藍石がらんせきから小さい飛び石が幾個いくつも幾個も長く続き、遥か向うに御殿のような座敷が見えている。彼処に信一が居るのかと思うと、もうとても今日は会えないような気がした。

多勢の子供達は毛氈のような青草の上を蹈んで、のどかな暖かい日の下に遊んで居る。見ると綺麗に飾られた庭の片隅の稲荷のほこらから裏の木戸口まで一間置き位に地口じぐち行燈あんどんならび、接待の甘酒だのおでんだの汁粉だのゝ屋台が処々に設けられて、餘興のお神楽かぐらや子供角力のまわりには真っ黒に人が集まっている。折角楽しみにして遊びに来たかいもなく、何だかがっかりして私はあてどもなく、其処らを歩き廻った。

にいさん、さあ甘酒を飲んでおいで、おあしは要らないんだよ」

甘酒屋の前へ来ると赤い襷をかけた女中が笑いながら声をかけたが、私はむずかしい顔をして其処を通り過ぎた。やがておでん屋の前へ来ると、また、

「兄さん、さあおでんを喰べておいで、お銭がなくっても上げるんだよ」

と、頭の禿げた爺に声をかけられる。

「いらないよ、いらないよ」

と、私は情ない声を出して、あきらめたように裏木戸へ引き返そうとした時、紺の法被はっぴを着た酒臭い息の男が何処からかやって来て、

「兄さん、おめえはまだお菓子を貰わねえんだろう。けえるんならお菓子を貰ってけえりな。さ、此れを持って彼処の御座敷の小母さんの処へ行くとお菓子をくれるから、早く貰って来るがいゝ」

こう云って真紅まっかに染めたお菓子の切符を渡してくれた。私は悲しさが胸にこみ上げて来たが、若しや座敷の方へ行ったら信一に会えるか知らんと思い、云われる儘に切符を貰って又庭の中を歩き出した。

幸いと其れから間もなく附添の女中に見附けられて、

「坊ちゃん、よくいらしって下さいました。もうさっきからお待ち兼ねでございますよ。さあ彼方へいらっしゃいまし。こう云う卑しい子供達の中でお遊びになってはいけません」

と、親切に手を握られ、私は思わず涙ぐんで直ぐには返事が出来なかった。

ゆかの高い、子供の丈ぐらい有りそうな縁に沿うて、庭に突き出た廣い座敷の蔭へ廻ると、十坪ばかりの中庭に、萩の袖垣を結い繞らした小座敷の前へ出た。

「坊ちゃん、お友達がいらっしゃいましたよ」

青桐の木立の下から女中が呼び立てると、障子の蔭にばた〳〵と小刻みの足音がして、

「此方へお上がんな」

甲高かんだかい声で怒鳴りながら、信一が縁側へ駈けて来た。あの臆病な子が、何処を押せばこんな元気の好い声が出るのだろうと、私は不思議に思いながら、見違える程盛装した友の様子をまぶしそうに見上げた。黒羽二重くろはぶたえ熨斗目のしめの紋附に羽織袴を着けて立った姿は、縁側一杯に照らす麗かな日をまともに浴びて黒い七子なゝこの羽織地が銀沙ぎんすなごのようにきら〳〵光って居る。

友達に手をひかれて通されたのは八畳ばかりの小綺麗な座敷で、餅菓子の折の底を嗅ぐような甘い香りが部屋の中に漂い、ふくよかな八反の座布団が二つ人待ち顔に敷かれてあった。直ぐにお茶だのお菓子だのお強飯こわに口取りを添えた溜塗ためぬりの高台だのが運ばれて、

「坊ちゃん、お母様がお友達と仲よくこれを召し上がるようにって。………それから今日は好いお召を召していらっしゃるんですから、あんまりおいたをなさらないように大人しくお遊びなさいましよ」

と、女中は遠慮している私に強飯やきんとんを勧めて次へ退って了った。

物静かな、日あたりの好い部屋である。燃えるような障子の紙に縁先の紅梅の影が映って、遥かに庭の方から、てん、てん、てん、とお神楽の太鼓の音が子供達のガヤガヤ云う騒ぎに交って響いて来る。私は遠い不思議な国に来たような気がした。

「信ちゃん、お前はいつも此のお座敷にいるのかい」

「うゝん。此処は本当は姉さんのとこなの。彼処にいろんな面白い姉さんの玩具があるから見せて上げようか」

こう云って信一は地袋の中から、奈良人形の猩々や、極込細工きめこみざいくじょううばや、西京さいきょう芥子けし人形、伏見人形、伊豆蔵いずくら人形などを二人のまわりへ綺麗に列べ、さま〴〵の男女の姿をした首人形を二畳程の畳の目へ数知れず挿し込んで見せた。二人は布団へ腹這いになって、ひげを生やしたり、眼をむきだしたりして居る巧緻な人形の表情を覗き込むようにした。そうしてこう云う小さな人間の住む世界を想像した。

「まだこゝに絵双紙えぞうしが沢山あるんだよ」

と、信一は又袋戸棚から、半四郎や菊之丞の似顔絵のたとうに一杯詰まって居る草双紙を引き擦り出して、色々の絵本を見せてくれた。何十年立ったか判らぬ木版刷の極彩色が、光沢つやも褪せないで鮮やかに匂っている美濃紙の表紙を開くと、黴臭いケバケバの立って居る紙の面に、舊幕時代の美しい男女の姿が生き〳〵とした目鼻立ちから細かい手足の指先まで、動き出すように描かれている。丁度此の屋敷のような御殿の奥庭で、多勢の腰元と一緒にお姫様が蛍を追って居るかと思えば、淋しい橋の袂で深編笠ふかあみがささむらいが下郎の首を打ち落し、死骸の懐中から奪い取った文箱ふばこの手紙を、月にかざして読んで居る。其の次には黒装束に覆面の曲者くせものがおつぼねの中へ忍び込んで、ぐっすり寝て居る椎茸髱しいたけたぼの女の喉元へ布団の上から刀を突き通して居る。又ある所では行燈の火影かすかな一と間の中に、濃艶な寝間着姿の女が血のしたゝる剃刀かみそりを口にくわえ、虚空こくうを掴んで足許に斃れて居る男の死にざまをじろりと眺めて、「ざまを見やがれ」と云いながら立って居る。信一も私も一番面白がって見たのは奇怪な殺人の光景で、眼球が飛び出して居る死人の顔だの、胴斬りにされて腰から下だけで立って居る人間だの、真っ黒な血痕が雲のようにをなして居る不思議な図面を、夢中になって覗き込んで居ると、

「あれ、また信ちゃんは人の物をいたずらして居るんだね」

こう云って、友禅の振袖を着た十三四の女の子が襖を開けて駈け込んで来た。額のつまった、眼元口元の凜々りゝしい顔に子供らしい怒りを含んで、つッと立った儘弟と私の方をきり〳〵けている。信一は一と縮みに縮み上って蒼くなるかと思いの外、

「何云ってるんだい。徒らなんかしやしないよ。お友達に見せてやってるんじゃないか」

と、まるで取り合わないで、姉の方を振り向きもせずに絵本を繰っている。

「徒らしない事があるもんか。あれ、いけないってばさ」

ばた〳〵と姉は駈け寄って、見て居る本を引ったくろうとしたが、信一もなか〳〵放さない。表紙と裏とを双方が引張って、綴ぢ目の所が今にも裂けそうになる、暫くそうして睨み合って居たが、

「姉さんのけちんぼ! もう借りるもんかい」

と、信一はいきなり本をたゝき捨てゝ、有り合う奈良人形を姉の顔へ投げ付けたが、狙いが外れて床の間の壁へ当った。

「それ御覧な、そんな徒らをするじゃないか。───またあたしをつんだね。いゝよ、打つなら沢山お打ち。此の間もお前のお蔭で、こら、こんなにあざになってまだ消えやしない。これをお父様に見せて云っつけてやるから覚えておいで」

恨めしそうに涙ぐみながら、姉は縮緬ちりめんの裾をまくって、真っ白な右脚のはぎに印せられた痣の痕を見せた。丁度膝頭のあたりからふくらはぎへかけて、血管が青く透いて見える薄い柔かい肌の上を、紫の斑点がぼかしたように傷々いた〳〵しく濁染にじんでいる。

「云っつけるなら勝手においいつけ。けちんぼ〳〵」

信一は人形を足で滅茶々々に蹴倒して、

「お庭へ行って遊ぼう」

と、私を連れて其処を飛び出してしまった。

「姉さん、泣いて居るか知ら」

戸外へ出ると、気の毒なような悲しいような気持になって私は尋ねた。

「泣いたっていゝんだよ。毎日喧嘩して泣かしてやるんだ。姉さんたってれはお妾の子なんだもの」

こんな生意気な口をきいて、信一は西洋館と日本館の間にある欅や榎の大木の蔭へ歩いて行った。其処は繁茂した老樹の枝がこんもりと日を遮って、じめ〳〵した地面には青苔が一面に生え、暗い肌寒い気流が二人の襟元へしみ入るようであった。大方古井戸の跡でもあろう、沼とも池とも附かない濁った水溜りがあって、水草が緑青ろくしょうのように浮いて居る。二人は其のほとりへ腰を下ろして、湿っぽい土の匂いを嗅ぎながらぼんやり足を投げ出して居ると、何処からともなく幽玄な、微妙な奏楽の響きが洩れて来た。

「あれは何だろう」

こう云いながらも、私は油断なく耳を傾けた。

「あれは姉さんがピアノを弾いて居るんだよ」

「ピアノって何だい」

「オルガンのようなものだって、姉さんがそう云ったよ。異人の女が毎日あの西洋館へ来て姉さんに教えてやってるの」

こう云って信一は西洋館の二階を指さした。肉色の布のかゝった窓の中から絶えず洩れて来る不思議な響き。………或る時は森の奥の妖魔が笑う木霊こだまのような、或る時はお伽噺とぎばなしに出て来る侏儒こびと共が多勢揃って踊るような、幾千の細かい想像の綾糸で、幼い頭へ微妙な夢を織り込んで行く不思議な響きは、此の古沼の水底で奏でるのかとも疑われる。

奏楽の音が止んだ頃、私はまだ消えやらぬ ecstasy の尾を心に曳きながら、今にあの窓から異人や姉娘が顔を出しはすまいかと思い憧れてじっと二階を視つめた。

「信ちゃん、お前は彼処へ遊びに行かないのかい」

「あゝ徒らをしてはいけないって、お母さんがどうしても上げてくれないの、いつかそッと行って見ようとしたら、錠が下りて居てどうしても開かなかったよ」

信一も私と同じように好奇な眼つきをして二階を見上げた。

「坊ちゃん、三人で何かして遊びませんか」

ふと、こう云う声がしてうしろから駈けて来た者がある。其れは同じ有馬学校の一二年上の生徒で、名前こそ知らないが、毎日のように年下の子供をいじめて居る名代の餓鬼大将だから顔はよく覚えて居た。どうして此奴がこんな処へやって来たのだろうと、いぶかりながら黙って様子を見て居ると、其の子は信一に仙吉々々と呼び捨てにされながら、坊ちゃん〳〵と御機嫌を取って居る。後で聞いて見れば塙の家の馬丁の子であったが、其の時私は、猛獣遣いのチャリネの美人を見るような眼で、信一を見ない訳には行かなかった。

「そんなら三人で泥坊ごっこしよう。あたしと栄ちゃんがお巡査まわりさんになるから、お前は泥坊におなんな」

「なってもいゝけれど、此の間見たいに非道ひどい乱暴をしっこなしですよ。坊ちゃんは縄で縛ったり、鼻糞をくッつけたりするんだもの」

此の問答をきいて、私は愈〻驚いたが、可愛らしい女のような信一が、荒くれた熊のような仙吉をふん縛って苦しめて居る光景を、どう考えて見ても実際に想像することが出来なかった。

やがて信一と私は巡査になって、沼の周囲や木立の間を縫いながら盗賊の仙吉を追い廻したが、此方は二人でも先方は年上だけに中々捕まらない。漸くの事で西洋館の裏手の塀の隅にある物置小屋まで追い詰めた。

二人はひそ〳〵と示し合わせて、息を殺し、跫音あしおとを忍ばせ、そうっと小屋の中へ這入った。併し仙吉は何処に隠れたものか姿が見えない。そうして糠味噌だの醤油樽だのゝ咽せ返るような古臭い匂いが、薄暗い小屋の中にこもって、わらじ虫がぞろ〳〵と蜘蛛の巣だらけの屋根裏や樽の周囲に這って居る有様が、何か不思議な面白い徒らを幼い者にそゝのかすようであった。すると何処やらでくす〳〵と忍び笑いをするのが聞えて、忽ちうつばりに吊るしてあった用心籠がめり〳〵鳴るかと思うと、其処から「わあ」と云いながら仙吉の顔が現れた。

「やい、下りて来い。下りて来ないと非道い目に合わせるぞ」

信一は下から怒鳴って、私と一緒に箒で顔をつッ突こうとする。

「さあ来い。誰でも傍へ寄ると小便をしっかけるぞ」

仙吉が籠の上から、あわや小便をたれそうにしたので、信一は用心籠の真下へ廻り、有り合う竹竿で籠の目から仙吉の臀だの足の裏だの、所嫌わずつッ突き始めた。

「さあ、此れでも下りないか」

「あいた、あいた。へい、もう下りますから御免なさい」

悲鳴を揚げてあやまりながら、痛む節々を抑えて下りて来た奴の胸ぐらを取って、

「何処で何を盗んだか、正直に白状しろ」

と、信一は出鱈目に訊問を始める。仙吉は又、やれ白木屋で反物を五反取ったの、にんべんで鰹節を盗んだの、日本銀行でお札をごまかしたのと、出鱈目ながら生意気な事を云った。

「うん、そうか、太い奴だ。まだ何か悪い事をしたろう。人を殺した覚えはないか」

「へいございます。熊谷土手で按摩を殺して五十両の財布を盗みました。そうして其のお金で吉原へ参りました」

緞帳芝居どんちょうしばいか覗き機巧からくりで聞いて来るものと見えて、如何にも当意即妙の返答である。

「まだ其の外にも人を殺したろう。よし、よし、云わないな。云わなければ拷問にかけてやる」

「もう此れだけでございますから、堪忍しておくんなさい」

信一は、手を合わせて拝むようにするのを耳にもかけず、素早く仙吉の締めて居る薄穢い浅黄の唐縮緬の兵児帯を解いて後手に縛り上げた上、其のあまりで両脚のくるぶしまで器用に括った。それから仙吉の髪の毛を引っ張ったり、頬ぺたを摘まみ上げたり、眼瞼まぶたの裏の紅い処をひっくりかえして白眼を出させたり、耳朶みゝたぶや唇の端を掴んで振って見たり、芝居の子役か雛妓おしゃくの手のようなきゃしゃな青白い指先が狡猾に働いて、肌理きめの粗い黒く醜く肥えた仙吉の顔の筋肉は、ゴムのように面白く伸びたり縮んだりした。其れにも飽きると、

「待て、待て。貴様は罪人だから額に入墨をしてやる」

こう云いながら、其処にあった炭俵の中から佐倉炭の塊を取り出し、唾吐つばをかけて仙吉の額へこすり始めた。仙吉は滅茶々々にされて崩れ出しそうな顔の輪廓を奇態に歪めながらひい〳〵と泣いて居たが、しまいには其の根気さえなくなって、相手の為すがまゝに委せた。日頃学校では馬鹿に強そうな餓鬼大将の荒くれ男が、信一の為めに見る影もないざまになって化け物のような目鼻をして居るのを見ると、私はこれ迄出会ったことのない一種不思議な快感に襲われたが、明日学校で意趣返しされると云う恐れがあるので、信一と一緒に徒らをする気にはなれなかった。

暫くしてから帯を解いてやると、仙吉は恨めしそうに信一の顔を横目で睨んで、力なくぐたりと其処へ突っ俯した儘何と云っても動かない。腕を掴んで引き起そうとしても亦ぐたりと倒れてしまう。二人とも少し心配になって、様子を窺いながら黙って彳んで居たが、

「おい、どうかしたのかい」

と、信一が邪慳じゃけんに襟頸を捕えて、仰向かせて見れば、いつの間にか仙吉は泣く真似をして汚れた顔を筒袖で半分程拭き取ってしまって居る可笑おかしさに、

「わはゝゝゝ」

と、三人は顔を見合わせて笑った。

「今度は何か外の事をして遊ぼう」

「坊ちゃん、もう乱暴をしちゃいけませんよ。こら御覧なさい、こんなにひどく痕が附いたじゃありませんか」

見ると仙吉の手頸の所には、縛られた痕が赤く残って居る。

「あたしが狼になるから、二人旅人にならないか。そうしてしまいに二人共狼に喰い殺されるんだよ」

信一が又こんな事を云い出したので、私は薄気味悪かったが、仙吉が

「やりましょう」

と云うから承知しない訳にも行かなかった。私と仙吉とが旅人のつもり、此の物置小屋がお堂のつもりで、野宿をしていると、真夜中頃に信一の狼が襲って来て、頻りに戸の外で吠え始める。とう〳〵狼は戸を喰い破ってお堂の中を四つ這いに這いながら、犬のような牛のような稀有けうな呻り声を立て、逃げ廻る二人の旅人を追い廻す。信一があまり真面目でやって居るので、掴まったらどんな事をされるかと、私はしんから少し恐くなってにや〳〵不安な笑いを浮かべながら、其の実一生懸命俵の上や莚の蔭を逃げ廻った。

「おい仙吉、お前はもう足を喰われたから歩いちゃいけないよ」

狼はこう云って旅人の一人をお堂の隅へ追い詰め、体にとび上がって方々へ喰い付くと、仙吉は役者のするような苦悶の表情をして、眼をむき出すやら、口を歪めるやらいろ〳〵の身振りを巧みに演じて居たが、遂に喉笛を喰い切られて、キャッと知死期ちしごの悲鳴を最後に、手足の指をぶる〳〵とわなゝかせ、虚空を掴んでバッタリ倒れてしまった。

さあ今度は私の番だ。こう思うと気が気でなく、急いで樽の上へ跳び上がると、狼に着物の裾を咬えられ、恐ろしい力で下からぐい〳〵引っ張られた。私は真っ蒼になって樽へしっかり掴まって見たが、激しい狼の剣幕に気後れがして、「あゝもうとても助からない」と観念の眼を閉づる間もなく引きずり落され、土間へ仰向きに転げたかと思うと、信一は疾風のように私の首ッたまへのしかゝって喉笛を喰い切った。

「さあもう二人共死骸になったんだからどんな事をされても動いちゃいけないよ。此れから骨までしゃぶってやるぞ」

信一にこう云われて、二人ともだらしなく大の字なりに土間へ倒れたまゝ、一寸いっすんも動けなかった。急に私は体の処々方々がむず痒くなって、着物の裾のはだけた処から冷めたい風がすう〳〵と股ぐらに吹き込み、一方へ伸ばした右の手の中指の先が微かに仙吉の髪の毛に触れて居るのを感じた。

「此奴の方が太って居て旨そうだから、此奴から先へ喰ってやろう」

信一はさも愉快そうな顔をして、仙吉の体へ這い上がった。

「あんまり非道いことをしちゃいけませんよ」

と、仙吉は半眼を開き、小声で訴えるように囁いた。

「そんな非道い事はしないから、動くときかないよ」

むしゃ〳〵と仰山に舌を鳴らしながら、頭から顔、胴から腹、両腕から股や脛の方までも喰い散らし土のついた草履のまゝ目鼻の上でも胸の上でも勝手ににじるので、又しても仙吉は体中泥だらけになった。

「さあ此れからお臀の肉だ」

やがて仙吉は俯向きに臥かされ、臀を捲くられたかと思うと、らっきょうを二つ並べたように腰から下が裸体になってぬッと曝し出された。まくり上げた着物の裾を死体の頭へ被せて背中へ跳び乗った信一は、又むしゃ〳〵とやって居たが、どんな事をされても仙吉はじっと我慢をして居る。寒いと見えて粟立った臀の肉が蒟蒻こんにゃくのように顫えていた。

今に私もあんなざまをさせられるのだ。こう思って密かに胸を轟かせたが、まさか仙吉同様の非道い目にも合わすまい位に考えて居ると、やがて信一は私の胸の上へ跨がって、先ず鼻の頭から喰い始めた。私の耳には甲斐絹の羽織の裏のさや〳〵とこすれて鳴るのが聞え、私の鼻は着物から放つ樟脳しょうのうの香を嗅ぎ、私の頬は羽二重の裂地きれじにふうわりと撫でられ、胸と腹とは信一の生暖かい体の重味を感じている。潤おいのある唇や滑かな舌の端が、ぺろ〳〵と擽ぐるように舐めて行く奇怪な感覚は恐ろしいと云う念を打ち消して魅するように私の心を征服して行き、果ては愉快を感ずるようになった。忽ち私の顔は左の小鬢こびんから右の頬へかけて激しく蹈み躪られ、其の下になった鼻と唇は草履の裏の泥と摩擦したが、私は其れをも愉快に感じて、いつの間にか心も体も全く信一の傀儡かいらいとなるのを喜ぶようになってしまった。

やがて私も俯向きにされて裾を剥がされ、腰から下をぺろ〳〵と喰われてしまった。信一は、二つの死骸が裸にされた臀を土間へ列べて倒れている様子を、さも面白そうにから〳〵笑って見て居たが、其の時不意にさっきの女中が小屋の戸口に現れたので、私も仙吉も吃驚びっくりして起き上った。

「おや、坊ちゃんは此処にいらっしゃるんですか。まあお召物を台なしに遊ばして何をなすっていらっしゃるんですねえ。どうして又こんな穢い所でばかりお遊びになるんでしょう。仙ちゃん、お前が悪いんだよ、ほんとに」

女中は恐ろしい眼つきをして叱りながら、泥の足型が印せられて居る仙吉の目鼻を、様子ありげに眺めて居る。私はまだ蹈みつけられた顔の痕がぴり〳〵するのをじっと堪えて何か餘程の悪事でも働いた後のような気になって立ちすくんだ。

「さあ、もうお風呂が沸きましたから、好い加減に遊ばしてお家へお這入りなさいませんと、お母様に叱られますよ。萩原の坊ちゃんも亦いらしって下さいましな。もう遅うございますから、私がお宅までお送り申しましょうか」

女中も私にだけは優しくしたが、

「独りで帰れるから、送って貰わないでもいゝの」

こう云って私は辞退した。

門の所まで送って来てくれた三人に、

「あばよ」

と云って戸外へ出ると、いつの間にか街は青い夕靄ゆうもやめられて、河岸通かしどおりにはちら〳〵灯がともって居る。私は恐ろしい不思議な国から急に人里へ出て来たような気がして、今日の出来事を夢のように回想しながら家へ帰って行ったが、信一の気高く美しい器量や人を人とも思わぬ我が儘な仕打ちは、一日の中にすっかり私の心を奪って了った。

明くる日学校へ行って見ると、昨日あんな非道い目に会わされた仙吉は、相変らず多勢の餓鬼大将になって弱い者いじめをして居る代り、信一は又いつもの通りの意気地なしで、女中と一緒に小さくなって運動場の隅の方にいじけて居る気の毒さ。

「信ちゃん、何かして遊ばないか」

と、たま〳〵私が声をかけて見ても、

「うゝん」

と云ったなり、眉根を寄せて不機嫌らしく首を振るばかりである。

それから四五日立った或る日のこと、学校の帰りがけに信一の女中は又私を呼び止めて、

「今日はお嬢様のお雛様が飾ってございますから、お遊びにいらっしゃいまし」

こう云って誘ってくれた。

其の日は表の通用門から番人にお時儀じぎをして這入って、正面の玄関の傍にある細格子の出入り口を開けると、直ぐに仙吉が跳んで来て廊下伝いに中二階の十畳の間へ連れて行った。信一と姉の光子は雛段の前に臥そべりながら、豆炒まめいりを喰べて居たが、二人が這入って来ると急にくす〳〵笑い出した様子が、何か又しからぬいたずらを企んで居るらしいので、

「坊ちゃん、何か可笑しいことがあるんですか」

と、仙吉は不安らしく姉弟の顔を眺めて居る。

緋羅紗ひらしゃを掛けた床の雛段には、浅草の観音堂のような紫宸殿ししいでんいらかが聳え、内裏様だいりさまや五にんばやしや官女が殿中に列んで、左近さこんの桜右近うこんの橘の下には、三人上戸じょうご仕丁じちょうが酒をあたゝめて居る。其の次の段には、燭台だのお膳だの鉄漿おはぐろの道具だの唐草の金蒔絵をした可愛い調度が、此の間姉の部屋にあったいろ〳〵の人形と一緒に飾ってある。

私が雛段の前に立って、つく〴〵と其れに見惚みとれて居ると、うしろからそうっと信一がやって来て、

「今ね、仙吉を白酒で酔っ拂わしてやるんだよ」

こう耳うちをしたが、直ぐにばた〳〵と仙吉の方へ駈けて行って、

「おい仙吉、これから四人よったりでお酒盛りをしようじゃないか」

と何喰わぬ顔で云い出した。

四人は圓くなって、豆炒りを肴に白酒を飲み始めた。

「此れはどうも結構な御酒ごしゅでございますな」

などゝ大人めいた口をきいて皆を笑わせながら、仙吉は猪口ちょくを持つような手つきで茶飲み茶碗からぐい〳〵と白酒をあおった。今に酔っ拂うだろうと思うと可笑しさが胸へこみ上げて、時々姉の光子は堪りかねたように腹を抱えたが、仙吉が酔っ拂う時分には少しばかりお相手をした他の三人も、そろ〳〵怪しくなって来た。下腹の辺に熱い酒がぶつ〳〵沸き上がって、額から双の蟀谷こめかみがほんのり汗ばみ、頭の鉢の周囲が妙に痺れて、畳の面は船底のように上下左右へ揺れて居る。

「坊ちゃん私は酔いましたよ。みんなも真赤な顔をして居るじゃありませんか。一つ立って歩いて見ませんか」

仙吉は立ち上がって大手を振りながら座敷を歩き出したが、直ぐに足許がよろけて倒れる拍子に、床柱へこつんと頭を打ち付けたので、三人がどっと吹き出すと、

「あいつ、あいつ」

と、頭をさすって顔をしかめて居る当人も可笑しさが堪えられず、鼻を鳴らしてくす〳〵笑って居る。

やがて三人も仙吉の真似をして立ち上り、歩いては倒れ、倒れては笑い、キャッキャッと図に乗って途方もなく騒ぎ出した。

「エーイッ、あゝ好い心持だ。己は酔って居るんだぞ、べらんめえ」

仙吉が臀を端折って弥造やぞうを拵え、職人の真似をして歩くと、信一も私も、しまいには光子までが臀を端折って肩へ拳骨を突っ込み、丁度おじょう吉三きちざのような姿をして、

「べらんめえ、己れは酔っ拂いだぞ」

と、座敷中をよろ〳〵練り歩いては笑い転げる。

「あッ、坊ちゃん〳〵、狐ごっこをしませんか」

仙吉がふと面白い事を考え付いたようにこう云い出した。私と仙吉と二人の田舎者が狐退治に出かけると、却って女に化けた光子の狐の為めに化かされて了い、散々な目に会って居る所へ、侍の信一が通りかゝって二人を救った上、狐を退治てくれると云う趣向である。まだ酔っ拂って居る三人は直ぐに賛成して、其の芝居に取りかゝった。

先ず仙吉と私とが向う鉢巻に臀端折しりばしょりで、手に〳〵はたきを振りかざし、

「どうも此の辺に悪い狐が出て徒らをするから、今日こそ一番退治てくれべえ」

と云いながら登場する。向うから光子の狐がやって来て、

「もし、もし、お前様達に御馳走して上げるから、あたしと一緒にいらっしゃいな」

こう云って、ぽんと、二人の肩を叩くと、忽ち私も仙吉も化かされて了い、

「いよう、何とはあ素晴しい別嬪べっぴんでねえか」

などゝ、眼を細くして光子にでれつき始める。

「二人とも化かされてるんだから、うんこを御馳走のつもりで喰べるんだよ」

光子は面白くて堪らぬようにゲラゲラ笑いながら、自分の口で喰いちぎった餡ころ餅だの、滅茶滅茶に足で蹈み潰した蕎麦饅頭そばまんじゅうだの、鼻汁で練り固めた豆妙りだのを、さも穢ならしそうに皿の上へうずたかく盛って私達の前へ列べ、

「これは小便のお酒のつもりよ。───さあお前さん、一つ召し上がれ」

と、白酒の中へ痰や唾吐つばきを吐き込んで二人にすゝめる。

「おゝおいしい、おゝおいしい」

舌鼓したつゞみを打ちながら、私も仙吉も旨そうに片端から残らず喰べてしまったが、白酒と豆炒とは変に塩からい味がした。

「これからあたしが三味線を弾いて上げるから、二人お皿を冠って踊るんだよ」

光子がはたきを三味線の代りにして「こりゃ〳〵」と唄い始めると、二人は菓子皿を頭へ載せて、「よい来た、よいやさ」と足拍子を取って踊り出した。

其処へやって来た侍の信一が、忽ち狐の正体を見届ける。

「獣の癖に人間を欺すなどゝは不届きな奴だ。ふん縛って殺して了うからそう思え」

「あれッ、信ちゃん乱暴な事をすると聴かないよ」

勝気な光子は負けるが嫌さに信一と取っ組み合い、お転婆の本性を現わして強情にも中々降参しない。

「仙吉、この狐を縛るんだからお前の帯をお貸し。そうして暴れないように二人で此奴の足を抑えて居ろ」

私は此の間見た草双紙の中の、旗本の若侍が仲間ちゅうげんと力を協わせて美人を掠奪する挿絵の事を想い泛かべながら、仙吉と一緒に友禅の裾模様の上から二本の脚をしっかりと抱きかゝえた。其の間に信一は辛うじて光子を後手に縛り上げ、漸く縁側の欄干に括り着ける。

「栄ちゃん、此奴の帯を解いて猿轡さるぐつわを篏めておやり」

「よし来た」

と、私は早速光子の後に廻って鬱金うこん縮緬の扱帯しごきを解き、結いたての唐人髷がこわれぬように襟足の長い頸すじへ手を挿し入れ、しっとりと油にしめって居るたぼの下から耳を掠めておとがいのあたりをぐる〳〵と二た廻り程巻きつけた上、力の限り引き絞ったから縮緬はぐい〳〵と下脹しもぶくれのした頬の肉へ喰い入り、光子は金閣寺の雪姫のように身を悶えて苦しんで居る。

「さあ今度はあべこべに貴様を糞攻めにしてやるぞ」

信一が餅菓子を手当り次第に口へふくんでは、ぺっ〳〵と光子の顔へ吐き散らすと、見る〳〵うちにさしも美しい雪姫の器量も癩病やみかかさっかきのように、二た目と見られない姿になって行く面白さ。私も仙吉もとう〳〵釣り込まれて、

「こん畜生、よくもさっき己達に穢い物を喰わせやがったな」

こう云って信一と一緒にぺっ〳〵とやり出したが、其れも手緩くなって、しまいには額と云わず、頬と云わず、至る所へ喰いちぎった餅菓子を擦りつけて、餡ころを押し潰したり、大福の皮をなすりつけたり、またゝくうちに光子の顔を萬遍なく汚してしまった。目鼻も判らぬ真っ黒なのっぺらぽうな怪物が唐人髷に結って、濃艶な振り袖姿をしている所は、さしずめ百物語か化物合戦記に出て来そうで、光子はもう抵抗する張合もなくなったと見え、何をされても大人しく死んだようになって居る。

「今度だけは命を助けてやる。此れから人間を化かしたりなんかすると殺して了うぞ」

間もなく信一が猿轡やいましめを解いてやると、光子はふいと立ち上って、いきなり襖の外へ、廊下をばた〳〵と逃げて行った。

「坊ちゃん、お嬢さんは怒って云っつけに行ったんですぜ」

今更飛んでもない事をしたと云う風に、仙吉は心配らしく私と顔を見合わせる。

「なに云っつけたって構うもんか、女の癖に生意気だから、毎日喧嘩していじめてやるんだ」

信一が空嘯そらうそぶいて威張って居る所へ、今度はすうッとしずかに襖が開いて、光子が綺麗に顔を洗って戻って来た。餡と一緒にお白粉しろいまでも洗い落して了ったと見え、却って前よりは冴え〴〵として、つやのある玉肌の生地きじが一と際透き徹るように輝いて居る。

定めし又一と喧嘩持ち上るだろうと待ち構えて居ると、

「誰かに見つかるときまりが悪いから、そうッとお湯殿へ行って落して来たの。───ほんとにみんな乱暴だったらありゃしない」

と、光子は物柔かに恨みを列べるだけで、而もにこ〳〵笑って居る。

すると信一は図に乗って、

「今度はあたしが人間で三人犬にならないか。私がお菓子や何かを投げてやるから、みんな四つ這いになって其れを喰べるのさ。ね、いゝだろ」

と云い出した。

「よし来た、やりましょう。───さあ犬になりましたよ。わん、わん、わん」

早速仙吉は四つ這いになって、座敷中を威勢よく駈け廻る。其の尾について又私が駈け出すと光子も何と思ったか、

「あたしは雌犬よ」

と、私達の中へわり込んで来て、其処ら中を這い廻った。

「ほら、ちん〳〵。………お預け〳〵」

などゝ三人は勝手な藝をやらせられた揚句、

「よウし!」

と云われゝば、先を争ってお菓子のある方へ跳び込んで行く。

「あゝ好い事がある。待て、待て」

こう云って信一は座敷を出て行ったが、間もなく緋縮緬のちゃんちゃんを着た本当のちんを二匹連れて来て、我々の仲間入りをさせ、喰いかけの餡ころだの、鼻糞や唾吐つばきのついた饅頭だのを畳へばら〳〵振り撒くと、犬も狆も我れ勝ちに獲物えものの上へ折り重なり、歯をむき出し舌を伸ばして、一つ餅菓子を喰い合ったり、どうかするとお互に鼻の頭を舐め合ったりした。

お菓子を平げて了った狆は、信一の指の先や足の裏をぺろ〳〵やり出す。三人も負けない気になって其の真似を始める。

「あゝ擽ぐったい、擽ぐったい」

と、信一は欄干に腰をかけて、真っ白な柔かい足の裏をかわる〴〵私達の鼻先へつき出した。

「人間の足は塩辛い酸っぱい味がするものだ。綺麗な人は、足の指の爪の恰好まで綺麗に出来て居る」

こんな事を考えながら私は一生懸命五本の指の股をしゃぶった。

狆はます〳〵じゃれつき出して仰向きに倒れて四つ足を虚空に踊らせ、裾を咬えてはぐい〳〵引っ張るので、信一も面白がって足で顔を撫でゝやったり、腹を揉んでやったり、いろ〳〵な事をする。私も其の真似をして裾を引っ張ると、信一の足の裏は、狆と同じように頬を蹈んだり額を撫でたりしてくれたが、眼球めだまの上を踵で押された時と、土蹈まずで唇を塞がれた時は少し苦しかった。

そんな事をして、其の日も夕方まで遊んで帰ったが、明くる日からは毎日のように塙の家を訪ね、いつも授業を終えるのが待ち遠しい位になって、明けても暮れても信一や光子の顔は頭の中を去らなかった。漸く馴れるに随って信一の我が儘は益〻つのり、私も全く仙吉同様に手下にされ、遊べば必ず打たれたり縛られたりする。おかしな事にはあの強情な姉までが、狐退治以来すっかり降参して、信一ばかりか私や仙吉にも逆うような事はなく、時々三人の側へやって来ては、

「狐ごっこをしないか」

などゝ、却っていじめられるのを喜ぶような素振りさえ見え出した。

信一は日曜の度毎に浅草や人形町の玩具屋へ行って鎧刀を買って来ては、早速其れを振り廻すので、光子も私も仙吉も体に痣の絶えた時はない。追い〳〵と芝居の種も盡きて来て、例の物置小屋だの湯殿だの裏庭の方を舞台に、いろ〳〵の趣向を凝らしては乱暴な遊びに耽った。私と仙吉が光子を縊め殺して金を盗むと、信一が姉さんの仇と云って二人を殺して首を斬り落したり、信一と私と二人の悪漢がお嬢様の光子と郎党の仙吉を毒殺して、屍体を河へ投げ込んだり、いつも一番いやな役廻りになって非道い目に合わされたのは光子である。しまいには紅や絵の具を体へ塗り、殺された者は血だらけになってのた打ち廻ったが、どうかすると信一は本物の小刀を持って来て、

「此れで少うし切らせないか。ね、ちょいと、ぽっちりだからそんなに痛かないよ」

こんな事を云うようになった。すると三人は素直に足の下へ組み敷かれて、

「そんなに非道く切っちゃ嫌だよ」

と、まるで手術でも受けるようにじっと我慢しながら、其の癖恐ろしそうに傷口から流れ出る血の色を眺め、眼に一杯涙ぐんで肩や膝のあたりを少し切らせる。私はうちへ帰って毎晩母と一緒に風呂へ這入る時、其の傷痕を見付けられないようにするのが一と通りの苦労ではなかった。

そう云う風な遊びが凡そ一と月も続いた或る日のこと、例の如く塙の家へ行って見ると、信一は歯医者へ行って留守だとかで、仙吉が一人手持無沙汰でぽつねんとしている。

「光ちゃんは?」

「今ピアノのお稽古をして居るよ。お嬢さんの居る西洋館の方へ行って見ようか」

こう云って仙吉は私をあの大木の木蔭の古沼の方へ連れて行った。忽ち私は何も彼も忘れて、年経る欅の根方に腰を下したまゝ、二階の窓から洩れて来る楽の響きにうっとりと耳を澄ました。

此の屋敷を始めて訪れた日に、やはり古沼のほとりで信一と一緒に聞いた不思議な響き、………或る時は森の奥の妖魔が笑う木霊こだまのような、ある時はお伽噺に出て来る侏儒こびと共が多勢揃って踊るような、幾千の細かい想像の綾糸で、幼い頭へ微妙な夢を織り込んで行く不思議な響きは、今日もあの時と同じように二階の窓から聞えて居る。

「仙ちゃん、お前も彼処へ上った事はないのかい」

奏楽の止んだ時、私は又止み難い好奇心に充たされて仙吉に尋ねた。

「あゝ、お嬢さんと掃除番の寅さんの外は、あんまり上らないんだよ。己ばかりか坊ちゃんだって知りゃしないぜ」

「中はどんなになって居るんだろう」

「何でも坊ちゃんのお父様が洋行して買って来たいろんな珍らしい物があるんだって。いつか寅さんに内證で見せてくれって云ったら、いけないってどうしても聞かなかった。───もうお稽古が済んだんだぜ。栄ちゃん、お前お嬢さんを呼んで見ないか」

二人は声を揃えて、

「光ちゃん、お遊びな」

「お嬢さん、遊びませんか」

と、二階の方へ怒鳴って見たが、ひっそりとして返辞はない。今迄聞えて居たあの音楽は、人なき部屋にピアノとやらが自然に動いて、微妙な響きを発したのかとも怪しまれる。

「仕方がないから、二人で遊ぼう」

私も仙吉一人が相手では、いつものようにも騒がれず、張合いが抜けて立ち上ると、不意ににうしろでげら〳〵と笑い声が聞え、光子がいつの間にか其処へ来て立って居る。

「今私達が呼んだのに、何故返辞しなかったんだい」

私は振り返ってなじるような眼つきをした。

「何処であたしを呼んだの」

「お前が今西洋館でお稽古をしてる時に、下から声をかけたのが聞えなかったかい」

「あたし西洋館なんかに居やあしないよ。彼処へは誰も上れないんだもの」

「だって、今ピアノを弾いて居たじゃないか」

「知らないわ、誰か他の人だわ」

仙吉は始終の様子を胡散臭うさんくさい顔をして見て居たが、

「お嬢さん、譃をついたって知ってますよ。ね、栄ちゃんと私を彼処へ内證で連れて行って下さいな。又強情を張って譃をつくんですか、白状しないと斯うしますよ」

と、にや〳〵底気味悪く笑いながら、早速光子の手頸をじり〳〵と捻じ上げにかゝる。

「あれ仙吉、後生だから堪忍しておくれよう。譃じゃないんだってばさあ」

光子は拝むような素振りをしたが、別段大声を揚げるでも逃げようとするでもなく為すが儘に手を捻じられて身悶えして居る。きゃしゃなかいなの青白い肌が、頑丈な鉄のような指先にむずと掴まれて、二人の少年の血色の快い対照は、私の心を誘うようにするので、

「光ちゃん、白状しないと拷問にかけるよ」

こう云って、私も片方を捻じ上げ、扱帯を解いて沼の側の樫の幹へ縛りつけ、

「さあ此れでもか、此れでもか」

と、二人は相変らず抓ったり擽ぐったり、夢中になって折檻した。

「お嬢さん。今に坊ちゃんが帰って来ると、もっと非道い目に会いますぜ。今の内に早く白状しておしまいなさい」

仙吉は光子の胸ぐらを取って、両手でぐっと喉を縊めつけ、

「ほら、だん〳〵苦しくなって来ますよ」

こう云いながら、光子が眼を白黒させて居るのを笑って見て居たが、やがて今度は木から解いて地面に仰向きに突倒し、

「へえ、此れは人間の縁台でございます!」

と、私は膝の上、仙吉は顔の上へドシリと腰をかけ、彼方此方へ身を揺す振りながら光子の体を臀で蹈んだり壓したりした。

「仙吉、もう白状するから堪忍しておくれよう」

光子は仙吉の臀に口を塞がれ、虫の息のような細い声で憐れみを乞うた。

「そんなら屹度白状しますね。やっぱりさっきは西洋館に居たんでしょう」

臀を擡げて少し手を緩めながら、仙吉が訊問する。

「あゝ、お前が又連れて行けって云うだろうと思って譃をついたの。だってお前達をつれて行くと、お母さんに叱られるんだもの」

聞くと仙吉は眼をいからして威嚇するように、

「よござんす、連れて行かないんなら。そら、又苦しくなりますよ」

「あいた、あいた。そんなら連れて行くよ。連れてって上げるからもう堪忍しておくれよ。其の代り晝間だと見付かるから晩にしておんな。ね、そうすればそうッと寅造の部屋から鍵を持って来て開けて上げるから、ね、栄ちゃんも行きたければ晩に遊びに来ないか」

とう〳〵降参し出したので、二人は尚も地面へ抑えつけた儘、色々と晩の手筈を相談した。丁度四月五日のことで、私は水天宮の縁日へ行くといつわって家を跳び出し、暗くなった時分に表門から西洋館の玄関へ忍び込み、光子が鍵を盗んで仙吉と一緒にやって来るのを待ち合わせる。但し私が時刻に遅れるようであったら、二人は一と足先に這入って、二階の階段を昇り切った所から二つ目の右側の部屋に待って居る、と、斯う云う約束になった。

「よし、そうきまったら赦して上げます。さあお起きなさい」

と、仙吉は漸くの事で手を放した。

「あゝ苦しかった。仙吉に腰をかけられたら、まるで息が出来ないんだもの。頭の下に大きな石があって痛かったわ」

着物の埃を拂って起き上った光子は、体の節々を揉んで、上気のぼせたように頬や眼球を真紅にして居る。

「だが一体二階にはどんな物があるんだい」

一旦家へ帰るとなって、別れる時私はこう尋ねた。

「栄ちゃん、吃驚しちゃいけないよ。其りゃ面白いものが沢山あるんだから」

こう云って、光子は笑いながら奥へ駈け込んで了った。

戸外へ出ると、もうそろ〳〵人形町通りの露店にかんてらがともされて、撃剣の見せ物の法螺の貝がぶう〳〵と夕暮れの空に鳴り渡り、有馬様のお屋敷前は黒山のように人だかりがして、売薬屋が女の胎内を見せた人形を指しながら、何か頻りと声高に説明して居る。いつも楽しみにして居る七十五座のお神楽も、永井兵助の居合い抜きも今日は一向見る気にならず、急いで家へ帰ってお湯へ這入り、晩飯もそこ〳〵に、

「縁日に行って来るよ」

と、再び飛び出したのは大方七時近くであったろう。水のように湿うるんだ青い夜の空気に縁日のあかりが溶け込んで、金清楼きんせいろうの二階の座敷には乱舞の人影が手に取るように映って見え、米屋町の若い衆や二丁目の矢場の女や、いろ〳〵の男女が両側をぞろ〳〵往来して、今が一番人の出さかる刻限である。中之橋を越えて、暗い淋しい浜町の通りからうしろを振り返って見ると、薄曇りのした黒い空が、ぼんやりと赤く濁染にじんでいる。

いつか私は塙の家の前に立って、山のように黒く聳えた高い甍を見上げていた。大橋の方から肌寒い風がしめやかに闇を運んで吹いて来て、例の欅の大木の葉が何処やら知れぬ空の中途でばさら〳〵と鳴って居る。そうッと塀の中を覗いて見ると門番の部屋のあかりが戸の隙間から縦に細長い線を成して洩れて居るばかり。母屋の方はすっかり雨戸がしまって、曇天の背景に魔者の如く森閑と眠って居る。表門の横にある通用口の、冷めたい鉄格子へ両手をかけて暗闇の中へ押し込むようにすると、重い扉がキーと軋んで素直に動く。私は雪駄がちゃらつかぬように足音を忍ばせ、自分で自分のせわしい呼吸や高まった鼓動の響きを聞きながら、闇中に光って居る西洋館の硝子戸を見つめて歩いて行った。

次第々々に眼が見えるようになった。八つ手の葉や、欅の枝や、春日燈籠かすがどうろうや、いろ〳〵と少年の心をおびえさすような姿勢を取った黒い物が、小さい瞳の中へ暴れ込んで来るので、私は御影の石段に腰を下し、しん〳〵と夜気のしみ入る中に首をうなだれた儘、息を殺して待って居たが、いっかな二人はやって来ない。頭上へ蓋さって来るような恐怖が体中をぶる〳〵顫わせて、歯の根ががく〳〵わなゝいて居る。あゝ、こんな恐ろしい所へ来なければ好かった、と思いながら、

「神様、私は悪い事を致しました。もう決してお母様に譃をついたり、内證で人の家へ這入ったり致しません」

と、夢中で口走って手を合わせた。

すっかり後悔して、帰る事にきめて立ち上ったが、ふと玄関の硝子障子の扉の向うに、ぽつりと一点小さな蝋燭の灯らしいものが見えた。

「おや、二人共先へ這入ったのかな」

こう思うと、忽ち又好奇心の奴隷となって、殆ど前後の分別もなく把手とってへ手をかけ、グルッと廻すと造作もなく開いて了った。

中へ這入ると、推測に違わず正面の螺旋階らせんかいの上りばなに、───大方光子が私の為めに置いて行ったものであろう。半ば燃え盡きて蝋がとろ〳〵流れ出して居る手燭が、三尺四方へ覚束ない光を投げて居たが、私と一緒に外から空気が流れ込むと、炎がゆら〳〵と瞬いて、ワニス塗りの欄干の影がぶる〳〵動揺して居る。

固唾を呑んで抜き足さし足、盗賊のように螺旋階を上り切ったが、二階の廊下はます〳〵真っ暗で、人の居そうなけはいもなく、カタリとも音がしない。例の約束をした二つ目の右側の扉、───それへ手捜りで擦り寄ってじっと耳をそばだてゝ見ても、矢張ひッそりと静まり返って居る。半ばゝ恐怖、半ばゝ好奇の情に充たされて、まゝよと思いながら私は上半身を靠せかけ、扉をグッと押して見た。

ぱっと明るい光線が一時に瞳を刺したので、クラクラしながら眼をしばたゝき、妖怪の正体を見定めるように注意深く四壁を見廻したが誰も居ない。中央に吊るされた大ランプの、五色のプリズムで飾られた蝦色の傘の影が、部屋の上半部を薄暗くして、金銀を鏤めた椅子だの卓子だの鏡だのいろ〳〵の装飾物が燦然と輝き、床に敷き詰めた暗紅色の敷物の柔かさは、春草の野を蹈むように足袋たびを隔てゝ私の足の裏を喜ばせる。

「光ちゃん」

と呼んで見ようとしても死滅したような四辺あたりの寂寞が唇を壓し、舌を強張こわばらせて声を発する勇気もない。始めは気が付かなかったが、部屋の左手の隅に次の間へ通ずる出口があって、重い緞子どんすまくが深い皺を畳み、ナイヤガラの瀑布を想わせるようにどさりと垂れ下って居る。其れを排して、隣室の模様を覗いて見ようとしたが、帷の向うが真っ暗なので手がすくむようになる。其の時不意に煖炉棚マントルピースの上の置時計がジーと蝉のように呟いたかと思うと、忽ち鏗然こうぜんと鳴ってキンコンケンと奇妙な音楽を奏で始めた。これを合図に光子が出て来るのではあるまいかと帷の方を一心に視詰めて居たが、二三分の間に音楽も止んで了い、部屋は再び元の静粛にかえって、緞子の皺は一と筋も揺がず、寂然じゃくねんと垂れ下がって居る。

ぼんやりと立って居る私の瞳は、左側の壁間に掛けられた油絵の肖像畫の上に落ちて、うか〳〵と其のがくの前まで歩み寄り、丁度ランプの影で薄暗くなって居る西洋の乙女の半身像を見上げた。厚い金の額縁で、長方形にしきられた畫面の中に、重い暗い茶褐色の空気が漂うて、わずかに胸をお納戸色の衣に蔽い、裸体の儘の肩と腕とに金や珠玉のを飾った下げ髪の女が、夢みるように黒眼がちの瞳をぱッちりと開いて前方を視つめて居る。暗い中にもくッきりと鮮やかに浮き出て居る純白の肌の色、気高い鼻筋から唇、頤、両頬へかけて見事に神々しく整った、端厳な輪廓、───これがお伽噺に出て来る天使と云うのであろうかと思いながら、私は暫くうっとりと見上げて居たが、ふと額から三尺ばかり下の壁に沿うた圓卓の上に、蛇の置物のあるのに気が付いて其の方へ眼を転じた。此れは又何で拵えたものか、二た廻り程とぐろを巻いてわらびのように頭を擡げた姿勢と云い、ぬら〳〵した青大将の鱗の色と云い、如何にも真に迫った出来栄えである。見れば見る程つく〴〵感心して今にも動き出しそうな気がして来たが、突然私は「おや」と思って二三歩うしろへ退いた儘眼を見張った。気のせいか、どうやら蛇は本当に動いて居るようである。爬虫動物の常として極めて緩慢に、注意しなければ殆ど判らないくらい悠長な態度で、確かに首を前後左右へうごめかしている。私は総身そうしんへ水をかけられたように寒くなり、真っ蒼な顔をして死んだように立ち竦んでしまった。すると緞子の帷の皺の間から、油絵に畫いてある通りの乙女の顔が、又一つヌッと現れた。

顔は暫くにや〳〵と笑って居たが、緞子の帷が二つに割れてする〳〵と肩をすべって背後で一つになって了うと、女の子は全身を現わして其処に立って居る。

纔かに膝頭に届いて居る短いお納戸なんど裳裾もすその下は、靴足袋も纒わぬ石膏のような素足に肉色の床靴スリッパを穿き、溢れるようにこぼれかゝる黒髪を両肩へすべらせて、油絵の通りの腕環に頸飾りを着け、胸から腰のまわりへかけて肌をひしと緊めつけた衣の下にはしなやかな筋肉の微動するのが見えて居る。

「栄ちゃん」

と、牡丹の花弁を啣んだような紅い唇をふるわせた一刹那、私は始めて、の油絵が光子の肖像畫である事に気が付いた。

「………先刻さっきからお前の来るのを待って居たんだよ」

こう云って、光子は脅やかすようにじり〳〵側へ歩み寄った。何とも云えぬ甘い香が私の心を擽ぐって眼の前に紅い霞がちら〳〵する。

「光ちゃん一人なの?」

私は救いを求めるような声で、おず〳〵尋ねた。何故今夜に限って洋服を着て居るのか、真っ暗な隣りの部屋には何があるのか、まだいろ〳〵聞いて見たい事はあっても喉佛のどぼとけにつかえて居て容易に口へは出て来ない。

「仙吉に会わせて上げるから、あたしと一緒に此方へおいでな」

光子に手頸を把られて、俄かにガタガタ顫え出しながら、

「あの蛇は本当に動いて居るんじゃないか知ら」

と、気懸りで堪らなくなって私は尋ねた。

「動いて居やしないじゃないか。あれ御覧な」

こう云って光子はにや〳〵笑って居る。成る程そう云われて見れば、さっきは確かに動いて居たあの蛇が、今はじっととぐろを巻いて少しも姿勢を崩さない。

「そんなものを見て居ないで、あたしと一緒に此方へおいでよ」

暖かく柔かな光子のたなごゝろは、とても振り放す事の出来ない魔力を持って居るように軽く私のかいなを捕えて、薄気味の悪い部屋の方へずる〳〵と引っ張って行き、忽ち二人の体は重い緞子の帷の中へめり込んだかと思う間もなく、真っ暗な部屋の中に這入って了った。

「栄ちゃん、仙吉に会わせて上げようか」

「あゝ、何処に居るのだい」

「今蝋燭をつけると判るから待っておいで。───それよりお前に面白いものを見せて上げよう」

光子は私の手頸を放して、何処かへ消え失せて了ったが、やがて部屋の正面の暗い闇にピシピシと凄じい音を立てゝ、細い青白い光の糸が無数に飛びちがい、流星のように走ったり、波のようにのたくったり、圓を畫いたり、十文字を畫いたりし始めた。

「ね、面白いだろ。何でも書けるんだよ」

こう云う声がして、光子は又私の傍へ歩いて来た様子である。今迄見えて居た光の糸はだん〳〵に薄らいで暗に消えかゝって居る。

「あれは何?」

舶来はくらい燐寸マッチで壁をこすったのさ。暗闇なら何を擦っても火が出るんだよ。栄ちゃんの着物を擦って見ようか」

「お止しよ、あぶないから」

私は吃驚して逃げようとする。

「大丈夫だよ、ね、ほら御覧」

と、光子は無造作に私の着物のうわん前を引っ張って燐寸を擦ると、絹の上を蛍が這うように青い光がぎらぎらして、ハギハラと片仮名の文字が鮮明に描き出された儘、暫くは消えずに居る。

「さあ、あかりを付けて仙吉に会わせて上げようね」

ピシッと鑽火きりびを打つように火花が散って、光子の手から蝋燐寸が燃え上ると、やがて部屋の中程にある燭台に火が移された。

西洋蝋燭の光は、朦朧と室内を照して、さま〴〵の器物や置物の黒い影が、魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこするような姿を、四方の壁へ長く大きく映して居る。

「ほら仙吉は此処に居るよ」

こう云って、光子は蝋燭の下を指さした。見ると燭台だと思ったのは、仙吉が手足を縛られて両肌を脱ぎ、額へ蝋燭を載せて仰向いて坐って居るのである。顔と云わず頭と云わず、鳥の糞のように溶け出した蝋の流れは、両眼を縫い、唇を塞いで頤の先からぼた〳〵と膝の上に落ち、七分通り燃え盡した蝋燭の火に今や睫毛まつげが焦げそうになって居ても、婆羅門ばらもん行者ぎょうじゃの如く胡坐あぐらをかいて拳を後手うしろでに括られたまゝ、大人おとなしく端然と控えて居る。

光子と私が其の前に立ち止まると、仙吉は何と思ったか蝋で強張った顔の筋肉をもぐ〳〵と動かし、漸く半眼うすめを開いて怨めしそうにじッと私の方を睨んだ。そうして重苦しい切ない声で厳かに喋り出した。

「おい、お前も己も不断あんまりお嬢様をいじめたものだから、今夜はかたきを取られるんだよ。己はもうすっかりお嬢様に降参して了ったんだよ。お前も早くあやまって了わないと、非道い目に会わされる。………」

こう云う間も蝋の流れは遠慮なくだら〳〵と蚯蚓みゝずの這うように額から睫毛へ伝わって来るので、再び仙吉は眼をつぶって固くなった。

「栄ちゃん、もう此れから信ちゃんの云う事なんぞ聴かないで、あたしの家来にならないか。いやだと云えば彼処にある人形のように、お前の体へ蛇を何匹でも巻き付かせるよ」

光子は始終底気味悪く笑いながら、金文字入りの洋書が一杯詰まって居る書棚の上の石膏の像を指さした。恐る〳〵額を上げて上眼づかいに薄暗い隅の方を見ると、筋骨逞しい裸体の巨漢がうわばみに巻き付かれて凄じい形相をして居る彫刻の傍に、例の青大将が二三匹大人しくとぐろを巻いて、香炉のように控えて居るが、恐ろしさが先に立って本物とも贋物とも見極めが付かない。

「何でもあたしの云う通りになるだろうね」

「………」私は真っ蒼な顔をして、黙って頷いた。

「お前はさっき仙吉と一緒にあたしを縁台の代りにしたから、今度はお前が燭台の代りにおなり」

忽ち光子は私を後手に縛り上げて仙吉の傍へ胡坐を掻かせ、両足のくるぶしを厳重に括って、

「蝋燭を落さないように仰向いておいでよ」

と、額の真中へあかりをともした。私は声も立てられず、一生懸命燈火を支えて切ない涙をぽろ〳〵こぼして居るうちに、涙よりも熱い蝋の流れが眉間みけんを伝ってだら〳〵垂れて来て眼も口も塞がれて了ったが、薄い眼瞼まぶたの皮膚を透して、ぼんやりと燈火ともしびのまたゝくのが見え、眼球の周囲がぼうッと紅く霞んで、光子の盛んな香水の匂いが雨のように顔へ降った。

「二人共じっとそうやって、もう少し我慢をしておいで。今面白いものを聞かせて上げるから」

こう云って、光子は何処かへ行って了ったが、暫くすると、不意にあたりの寂寞を破って、ひっそりとした隣の部屋から幽玄なピアノの響きが洩れて来た。

銀盤の上を玉あられの走るような、渓間たにまの清水が潺湲せんかんと苔の上をしたゝるような不思議な響きは別世界の物の音のように私の耳に聞えて来る。額の蝋燭は大分短くなったと見えて、熱い汗が蝋に交ってぽた〳〵と流れ出す。隣りにすわって居る仙吉の方を横目で微かに見ると、顔中へ饂飩粉うどんこに似た白い塊が二三分の厚さにこびり着いて盛り上り、牛蒡ごぼうの天ぷらのような姿をしている。丁度二人は「浮かれ胡弓こきゅう」の噺の中の人間のように、微妙な楽の音に恍惚と耳を傾けた儘、いつまでもいつまでも眼瞼まぶたの裏の明るい世界を視詰めてすわって居た。


其の明くる日から、私も仙吉も光子の前へ出ると猫のように大人しくなって跪き、たま〳〵信一が姉の言葉に逆おうとすると、忽ち取って抑えて、何の会釈えしゃくもなくふん縛ったり撲ったりするので、さしも傲慢な信一も、だん〳〵日を経るに従ってすっかり姉の家来となり、家に居ても学校に居る時と同じように全く卑屈な意気地なしと変って了った。三人は何か新しく珍らしい遊戯の方法でも発見したように嬉々として光子の命令に服従し、「腰掛けにおなり」と云えば直ぐ四つ這いになって背を向けるし、「吐月峰はいふきにおなり」と云えば直ちに畏まって口を開く。次第に光子は増長して三人を奴隷の如く追い使い、湯上りの爪を切らせたり、鼻の穴の掃除を命じたり、Urine を飲ませたり、始終私達を側へ侍らせて、長く此の国の女王となった。

西洋館へは其れ切り一度も行かなかった。彼の青大将は果して本物だか贋物だか、今考えて見てもよく判らない。

底本:「潤一郎ラビリンス──初期短編集」中公文庫、中央公論社

   1998(平成10)年518日初版発行

底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第一巻」中央公論社

   1981(昭和56)年525

初出:「スバル」

   1911(明治44)年6月号

※底本は新字新仮名づかいです。なお旧字の混在は、底本通りです。

入力:砂場清隆

校正:門田裕志

2016年34日作成

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