陰翳礼讃
谷崎潤一郎
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今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯や水道等の取附け方に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、自分で家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気が付くことであろう。独りよがりの茶人などが科学文明の恩沢を度外視して、辺鄙な田舎にでも草庵を営むなら格別、いやしくも相当の家族を擁して都会に住居する以上、いくら日本風にするからと云って、近代生活に必要な煖房や照明や衛生の設備を斥ける訳には行かない。で、凝り性の人は電話一つ取り附けるにも頭を悩まして、梯子段の裏とか、廊下の隅とか、出来るだけ目障りにならない場所に持って行く。その他庭の電線は地下線にし、部屋のスイッチは押入れや地袋の中に隠し、コードは屏風の蔭を這わす等、いろ〳〵考えた揚句、中には神経質に作為をし過ぎて、却ってうるさく感ぜられるような場合もある。実際電燈などはもうわれ〳〵の眼の方が馴れッこになってしまっているから、なまじなことをするよりは、あの在来の乳白ガラスの浅いシェードを附けて、球をムキ出しに見せて置く方が、自然で、素朴な気持もする。夕方、汽車の窓などから田舎の景色を眺めている時、茅葺きの百姓家の障子の蔭に、今では時代おくれのしたあの浅いシェードを附けた電球がぽつんと燈っているのを見ると、風流にさえ思えるのである。しかし煽風器などと云うものになると、あの音響と云い形態と云い、未だに日本座敷とは調和しにくい。それも普通の家庭なら、イヤなら使わないでも済むが、夏向き、客商売の家などでは、主人の趣味にばかり媚びる訳に行かない。私の友人の偕楽園主人は随分普請に凝る方であるが、煽風器を嫌って久しい間客間に取り附けずにいたところ、毎年夏になると客から苦情が出るために、結局我を折って使うようになってしまった。かく云う私なぞも、先年身分不相応な大金を投じて家を建てた時、それに似たような経験を持っているが、細かい建具や器具の末まで気にし出したら、種々な困難に行きあたる。たとえば障子一枚にしても、趣味から云えばガラスを篏めたくないけれども、そうかと云って、徹底的に紙ばかりを使おうとすれば、採光や戸締まり等の点で差支えが起る。よんどころなく内側を紙貼りにして、外側をガラス張りにする。そうするためには表と裏と桟を二重にする必要があり、従って費用も嵩むのであるが、さてそんなにまでしてみても、外から見ればたゞのガラス戸であり、内から見れば紙のうしろにガラスがあるので、やはり本当の紙障子のようなふっくらした柔かみがなく、イヤ味なものになりがちである。そのくらいならたゞのガラス戸にした方がよかったと、やっとその時に後悔するが、他人の場合は笑えても、自分の場合は、そこまでやってみないことには中々あきらめが付きにくい。近来電燈の器具などは、行燈式のもの、提燈式のもの、八方式のもの、燭台式のもの等、日本座敷に調和するものがいろ〳〵売り出されているが、私はそれでも気に入らないで、昔の石油ランプや有明行燈や枕行燈を古道具屋から捜して来て、それへ電球を取り附けたりした。分けても苦心したのは煖房の設計であった。と云うのは、およそストーヴと名のつくもので日本座敷に調和するような形態のものは一つもない。その上瓦斯ストーヴはぼう〳〵燃える音がするし、また煙突でも付けないことにはじきに頭痛がして来るし、そう云う点では理想的だと云われる電気ストーヴにしても、形態の面白くないことは同様である。電車で使っているようなヒーターを地袋の中へ取り附けるのは一策だけれども、やはり赤い火が見えないと、冬らしい気分にならないし、家族の団欒にも不便である。私はいろ〳〵智慧を絞って、百姓家にあるような大きな炉を造り、中へ電気炭を仕込んでみたが、これは湯を沸かすにも部屋を温めるにも都合がよく、費用が嵩むと云う点を除けば、様式としてはまず成功の部類であった。で、煖房の方はそれでどうやら巧く行くけれども、次に困るのは、浴室と厠である。偕楽園主人は浴槽や流しにタイルを張ることを嫌がって、お客用の風呂場を純然たる木造にしているが、経済や実用の点からは、タイルの方が万々優っていることは云うまでもない。たゞ、天井、柱、羽目板等に結構な日本材を使った場合、一部分をあのケバケバしいタイルにしては、いかにも全体との映りが悪い。出来たてのうちはまだいゝが、追い〳〵年数が経って、板や柱に木目の味が出て来た時分、タイルばかりが白くつる〳〵に光っていられたら、それこそ木に竹を接いだようである。でも浴室は、趣味のために実用の方を幾分犠牲に供しても済むけれども、厠になると、一層厄介な問題が起るのである。
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私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つく〴〵日本建築の有難みを感じる。茶の間もいゝにはいゝけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。私はそう云う厠にあって、しと〳〵と降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたゝり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつゝ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おり〳〵の物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。総べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。これを西洋人が頭から不浄扱いにし、公衆の前で口にすることをさえ忌むのに比べれば、我等の方が遙かに賢明であり、真に風雅の骨髄を得ている。強いて缺点を云うならば、母屋から離れているために、夜中に通うには便利が悪く、冬は殊に風邪を引く憂いがあることだけれども、「風流は寒きものなり」と云う斎藤緑雨の言の如く、あゝ云う場所は外気と同じ冷たさの方が気持がよい。ホテルの西洋便所で、スチームの温気がして来るなどは、まことにイヤなものである。ところで、数寄屋普請を好む人は、誰しもこう云う日本流の厠を理想とするであろうが、寺院のように家の廣い割りに人数が少く、しかも掃除の手が揃っている所はいゝが、普通の住宅で、あゝ云う風に常に清潔を保つことは容易でない。取り分け床を板張りや畳にすると、礼儀作法をやかましく云い、雑巾がけを励行しても、つい汚れが目立つのである。で、これも結局はタイルを張り詰め、水洗式のタンクや便器を取り附けて、浄化装置にするのが、衛生的でもあれば、手数も省けると云うことになるが、その代り「風雅」や「花鳥風月」とは全く縁が切れてしまう。彼処がそんな風にぱっと明るくて、おまけに四方が真っ白な壁だらけでは、漱石先生のいわゆる生理的快感を、心ゆく限り享楽する気分になりにくい。なるほど、隅から隅まで純白に見え渡るのだから確かに清潔には違いないが、自分の体から出る物の落ち着き先について、そうまで念を押さずとものことである。いくら美人の玉の肌でも、お臀や足を人前へ出しては失礼であると同じように、あゝムキ出しに明るくするのはあまりと云えば無躾千万、見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想を挑発させるようにもなる。やはりあゝ云う場所は、もや〳〵とした薄暗がりの光線で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧とぼかして置いた方がよい。まあそんな訳で、私も自分の家を建てる時、浄化装置にはしたものの、タイルだけは一切使わぬようにして、床には楠の板を張り詰め、日本風の感じを出すようにしてみたが、さて困ったのは便器であった。と云うのは、御承知の如く、水洗式のものは皆真っ白な磁器で出来ていて、ピカピカ光る金属製の把手などが附いている。ぜんたい私の注文を云えば、あの器は、男子用のも、女子用のも、木製の奴が一番いゝ。蝋塗りにしたのは最も結構だが、木地のまゝでも、年月を経るうちには適当に黒ずんで来て、木目が魅力を持つようになり、不思議に神経を落ち着かせる。分けてもあの、木製の朝顔に青々とした杉の葉を詰めたのは、眼に快いばかりでなく些の音響をも立てない点で理想的と云うべきである。私はあゝ云う贅沢な真似は出来ないまでも、せめて自分の好みに叶った器を造り、それへ水洗式を応用するようにしてみたいと思ったのだが、そう云うものを特別に誂えると、よほどの手間と費用が懸るのであきらめるより外はなかった。そしてその時に感じたのは、照明にしろ、煖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのに勿論異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少しわれ〳〵の習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか、と云う一事であった。
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既に行燈式の電燈が流行り出して来たのは、われ〳〵が一時忘れていた「紙」と云うものの持つ柔かみと温かみに再び眼ざめた結果であり、それの方がガラスよりも日本家屋に適することを認めて来た証拠であるが、便器やストーヴは、今以てしっくり調和するような形式のものが売り出されていない。煖房は私が試みたように炉の中へ電気炭を仕込むのが一番いゝように思うけれども、かゝる簡単な工夫をすら施そうとする者がなく、(貧弱な電気火鉢と云うものはあるが、あれは煖房の用をなさないこと、普通の火鉢と同じである)出来合いの品と云えば、皆あの不恰好な西洋風の煖炉である。が、こう云う些末な衣食住の趣味について彼れ此れと気を遣うのは贅沢である。寒暑や飢餓を凌ぐにさえ足りれば様式などは問う所でないと云う人もあろう。事実、いくら痩せ我慢をしてみても「雪の降る日は寒くこそあれ」で眼前に便利な器具があれば、風流不風流を論じている暇はなく、滔々としてその恩沢に浴する気になるのは、已むを得ない趨勢であるけれども、私はそれを見るにつけても、もし東洋に西洋とは全然別箇の、独自の科学文明が発達していたならば、どんなにわれ〳〵の社会の有様が今日とは違ったものになっていたであろうか、と云うことを常に考えさせられるのである。たとえば、もしわれ〳〵がわれ〳〵独自の物理学を有し、化学を有していたならば、それに基づく技術や工業もまた自ら別様の発展を遂げ、日用百般の機械でも、薬品でも、工藝品でも、もっとわれ〳〵の国民性に合致するような物が生れてはいなかったであろうか。いや、恐らくは、物理学そのもの、化学そのものの原理さえも、西洋人の見方とは違った見方をし、光線とか、電気とか、原子とかの本質や性能についても、今われ〳〵が教えられているようなものとは、異った姿を露呈していたかも知れないと思われる。私にはそう云う学理的のことは分らないから、たゞぼんやりとそんな想像を逞しゅうするだけであるが、しかし少くとも、実用方面の発明が独創的の方向を辿っていたとしたならば、衣食住の様式は勿論のこと、引いてはわれらの政治や、宗教や、藝術や、実業等の形態にもそれが廣汎な影響を及ぼさない筈はなく、東洋は東洋で別箇の乾坤を打開したであろうことは、容易に推測し得られるのである。卑近な例を取ってみると、私はかつて「文藝春秋」に万年筆と毛筆との比較を書いたが、仮りに万年筆と云うものを昔の日本人か支那人が考案したとしたならば、必ず穂先をペンにしないで毛筆にしたであろう。そしてインキもあゝ云う青い色でなく、墨汁に近い液体にして、それが軸から毛の方へ滲み出るように工夫したであろう。さすれば、紙も西洋紙のようなものでは不便であるから、大量生産で製造するとしても、和紙に似た紙質のもの、改良半紙のようなものが最も要求されたであろう。紙や墨汁や毛筆がそう云う風に発達していたら、ペンやインキが今日の如き流行を見ることはなかったであろうし、従ってまたローマ字論などが幅を利かすことも出来まいし、漢字や仮名文字に対する一般の愛着も強かったであろう。いや、そればかりでない、我等の思想や文学さえも、或はこうまで西洋を模倣せず、もっと独創的な新天地へ突き進んでいたかも知れない。かく考えて来ると、些細な文房具ではあるが、その影響の及ぶところは無辺際に大きいのである。
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そう云うことを考えるのは小説家の空想であって、もはや今日になってしまった以上、もう一度逆戻りをしてやり直す訳に行かないことは分りきっている。だから私の云うことは、今更不可能事を願い、愚痴をこぼすのに過ぎないのであるが、愚痴は愚痴として、とにかく我等が西洋人に比べてどのくらい損をしているかと云うことは、考えてみても差支えあるまい。つまり、一と口に云うと、西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろ〳〵な故障や不便が起っていると思われる。尤もわれ〳〵を放っておいたら、五百年前も今日も物質的には大した進展をしていなかったかも知れない。現に支那や印度の田舎へ行けば、お釈迦様や孔子様の時代とあまり変らない生活をしているでもあろう。だがそれにしても自分たちの性に合った方向だけは取っていたであろう。そして緩慢にではあるが、いくらかずつの進歩をつゞけて、いつかは今日の電車や飛行機やラジオに代るもの、それは他人の借り物でない、ほんとうに自分たちに都合のいゝ文明の利器を発見する日が来なかったとは限るまい。早い話が、映画を見ても、アメリカのものと、佛蘭西や独逸のものとは、陰翳や、色調の工合が違っている。演技とか脚色とかは別にして、写真面だけで、何処かに国民性の差異が出ている。同一の機械や薬品やフイルムを使ってもなおかつそうなのであるから、われ〳〵に固有の写真術があったら、どんなにわれ〳〵の皮膚や容貌や気候風土に適したものであったかと思う。蓄音器やラジオにしても、もしわれ〳〵が発明したなら、もっとわれ〳〵の声や音楽の特長を生かすようなものが出来たであろう。元来われ〳〵の音楽は、控え目なものであり、気分本位のものであるから、レコードにしたり、拡声器で大きくしたりしたのでは、大半の魅力が失われる。話術にしてもわれ〳〵の方のは声が小さく、言葉数が少く、そうして何よりも「間」が大切なのであるが、機械にかけたら「間」は完全に死んでしまう。そこでわれ〳〵は、機械に迎合するように、却ってわれ〳〵の藝術自体を歪めて行く。西洋人の方は、もと〳〵自分たちの間で発達させた機械であるから、彼等の藝術に都合がいゝように出来ているのは当り前である。そう云う点で、われ〳〵は実にいろ〳〵の損をしていると考えられる。
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紙と云うものは支那人の発明であると聞くが、われ〳〵は西洋紙に対すると、単なる実用品と云う以外に何の感じも起らないけれども、唐紙や和紙の肌理を見ると、そこに一種の温かみを感じ、心が落ち着くようになる。同じ白いのでも、西洋紙の白さと奉書や白唐紙の白さとは違う。西洋紙の肌は光線を撥ね返すような趣があるが、奉書や唐紙の肌は、柔かい初雪の面のように、ふっくらと光線を中へ吸い取る。そうして手ざわりがしなやかであり、折っても畳んでも音を立てない。それは木の葉に触れているのと同じように物静かで、しっとりしている。ぜんたいわれ〳〵は、ピカピカ光るものを見ると心が落ち着かないのである。西洋人は食器などにも銀や鋼鉄やニッケル製のものを用いて、ピカピカ光る様に研き立てるが、われ〳〵はあゝ云う風に光るものを嫌う。われ〳〵の方でも、湯沸しや、杯や、銚子等に銀製のものを用いることはあるけれども、あゝ云う風に研き立てない。却って表面の光りが消えて、時代がつき、黒く焼けて来るのを喜ぶのであって、心得のない下女などが、折角さびの乗って来た銀の器をピカピカに研いたりして、主人に叱られることがあるのは、何処の家庭でも起る事件である。近来、支那料理の食器は一般に錫製のものが使われているが、恐らく支那人はあれが古色を帯びて来るのを愛するのであろう。新しい時はアルミニュームに似た、あまり感じのいゝものではないが、支那人が使うとあゝ云う風に時代をつけ、雅味のあるものにしてしまわなければ承知しない。そしてあの表面に詩の文句などが彫ってあるのも、肌が黒ずんで来るに従い、しっくりと似合うようになる。つまり支那人の手にかゝると、薄ッぺらでピカピカする錫と云う軽金属が、朱泥のように深みのある、沈んだ、重々しいものになるのである。支那人はまた玉と云う石を愛するが、あの、妙に薄濁りのした、幾百年もの古い空気が一つに凝結したような、奥の奥の方までどろんとした鈍い光りを含む石のかたまりに魅力を感ずるのは、われ〳〵東洋人だけではないであろうか。ルビーやエメラルドのような色彩があるのでもなければ、金剛石のような輝きがあるのでもないあゝ云う石の何処に愛着を覚えるのか、私たちにもよく分らないが、しかしあのどんよりした肌を見ると、いかにも支那の石らしい気がし、長い過去を持つ支那文明の滓があの厚みのある濁りの中に堆積しているように思われ、支那人があゝ云う色沢や物質を嗜好するのに不思議はないと云うことだけは、頷ける。水晶などにしても、近頃は智利から沢山輸入されるが、日本の水晶に比べると、智利のはあまりきれいに透きとおり過ぎている。昔からある甲州産の水晶と云うものは、透明の中にも、全体にほんのりとした曇りがあって、もっと重々しい感じがするし、草入り水晶などと云って、奥の方に不透明な固形物の混入しているのを、寧ろわれ〳〵は喜ぶのである。ガラスでさえも、支那人の手に成った乾隆グラスと云うものは、ガラスと云うよりも玉か瑪瑙に近いではないか。玻璃を製造する術は早くから東洋にも知られていながら、それが西洋のように発達せずに終り、陶器の方が進歩したのは、よほどわれ〳〵の国民性に関係する所があるに違いない。われ〳〵は一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うとよく聞えるが、実を云えば手垢の光りである。支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつる〳〵撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。して見れば、「風流は寒きもの」であると同時に、「むさきものなり」と云う警句も成り立つ。とにかくわれ〳〵の喜ぶ「雅致」と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子があることは否まれない。西洋人は垢を根こそぎ発き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまゝ美化する、と、まあ負け惜しみを云えば云うところだが、因果なことに、われ〳〵は人間の垢や油煙や風雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを想い出させるような色あいや光沢を愛し、そう云う建物や器物の中に住んでいると、奇妙に心が和やいで来、神経が安まる。それで私はいつも思うのだが、病院の壁の色や手術服や医療機械なんかも、日本人を相手にする以上、あゝピカピカするものや真っ白なものばかり並べないで、もう少し暗く、柔かみを附けたらどうであろう。もしあの壁が砂壁か何かで、日本座敷の畳の上に臥ながら治療を受けるのであったら、患者の興奮が静まることは確かである。われ〳〵が歯医者へ行くのを嫌うのは、一つにはがり〳〵と云う音響にも因るが、一つにはガラスや金属製のピカピカする物が多過ぎるので、それに怯えるせいもある。私は神経衰弱の激しかった時分、最新式の設備を誇るアメリカ帰りの歯医者と聞くと、却って恐毛をふるったものだった。そして田舎の小都会などにある、昔風の日本家屋に手術室を設けた、時代後れのしたような歯医者の所へ好んで出かけた。そうかと云って、古色を帯びた医療機械なんかも困ることは困るが、もし近代の医術が日本で成長したのであったら、病人を扱う設備や機械も、何とか日本座敷に調和するように考案されていたであろう。これもわれ〳〵が借り物のために損をしている一つの例である。
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京都に「わらんじや」と云う有名な料理屋があって、こゝの家では近頃まで客間に電燈をともさず、古風な燭台を使うのが名物になっていたが、ことしの春、久しぶりで行ってみると、いつの間にか行燈式の電燈を使うようになっている。いつからこうしたのかと聞くと、去年からこれにいたしました。蝋燭の灯ではあまり暗すぎると仰っしゃるお客様が多いものでござりますから、拠んどころなくこう云う風に致しましたが、やはり昔のまゝの方がよいと仰っしゃるお方には、燭台を持って参りますと云う。で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆら〳〵とまたゝく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。そしてわれ〳〵の祖先がうるしと云う塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然でないのを知るのである。友人サバルワル君の話に、印度では現在でも食器に陶器を使うことを卑しみ、多くは塗り物を用いると云う。われ〳〵はその反対に、茶事とか、儀式とかの場合でなければ、膳と吸い物椀の外は殆ど陶器ばかりを用い、漆器と云うと、野暮くさい、雅味のないものにされてしまっているが、それは一つには、採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいではないであろうか。事実、「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていゝ。今日では白漆と云うようなものも出来たけれども、昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗い所でいろ〳〵の部分がとき〴〵少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ餘情を催すのである。そして、あのピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおり〳〵風のおとずれのあることを教えて、そゞろに人を瞑想に誘い込む。もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられている如く、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かそけく、ちら〳〵と伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。けだし食器としては陶器も悪くないけれども、陶器には漆器のような陰翳がなく、深みがない。陶器は手に触れると重く冷たく、しかも熱を伝えることが早いので熱い物を盛るのに不便であり、その上カチカチと云う音がするが、漆器は手ざわりが軽く、柔かで、耳につく程の音を立てない。私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよ〳〵した肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。
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私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。茶人が湯のたぎるおとに尾上の松風を連想しながら無我の境に入ると云うのも、恐らくそれに似た心持なのであろう。日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたゝく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。けだし料理の色あいは何処の国でも食器の色や壁の色と調和するように工夫されているのであろうが、日本料理は明るい所で白ッちゃけた器で食べては慥かに食慾が半減する。たとえばわれ〳〵が毎朝たべる赤味噌の汁なども、あの色を考えると、昔の薄暗い家の中で発達したものであることが分る。私は或る茶会に呼ばれて味噌汁を出されたことがあったが、いつもは何でもなくたべていたあのどろ〳〵の赤土色をした汁が、覚束ない蝋燭のあかりの下で、黒うるしの椀に澱んでいるのを見ると、実に深みのある、うまそうな色をしているのであった。その外醤油などにしても、上方では刺身や漬物やおひたしには濃い口の「たまり」を使うが、あのねっとりとしたつやのある汁がいかに陰翳に富み、闇と調和することか。また白味噌や、豆腐や、蒲鉾や、とろゝ汁や、白身の刺身や、あゝ云う白い肌のものも、周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。第一飯にしてからが、ぴか〳〵光る黒塗りの飯櫃に入れられて、暗い所に置かれている方が、見ても美しく、食慾をも刺戟する。あの、炊きたての真っ白な飯が、ぱっと蓋を取った下から煖かそうな湯気を吐きながら黒い器に盛り上って、一と粒一と粒真珠のようにかゞやいているのを見る時、日本人なら誰しも米の飯の有難さを感じるであろう。かく考えて来ると、われ〳〵の料理が常に陰翳を基調とし、闇と云うものと切っても切れない関係にあることを知るのである。
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私は建築のことについては全く門外漢であるが、西洋の寺院のゴシック建築と云うものは屋根が高く〳〵尖って、その先が天に冲せんとしているところに美観が存するのだと云う。これに反して、われ〳〵の国の伽藍では建物の上にまず大きな甍を伏せて、その庇が作り出す深い廣い蔭の中へ全体の構造を取り込んでしまう。寺院のみならず、宮殿でも、庶民の住宅でも、外から見て最も眼立つものは、或る場合には瓦葺き、或る場合には茅葺きの大きな屋根と、その庇の下にたゞよう濃い闇である。時とすると、白昼といえども軒から下には洞穴のような闇が繞っていて戸口も扉も壁も柱も殆ど見えないことすらある。これは知恩院や本願寺のような宏壮な建築でも、草深い田舎の百姓家でも同様であって、昔の大概な建物が軒から下と軒から上の屋根の部分とを比べると、少くとも眼で見たところでは、屋根の方が重く、堆く、面積が大きく感ぜられる。左様にわれ〳〵が住居を営むには、何よりも屋根と云う傘を拡げて大地に一廓の日かげを落し、その薄暗い陰翳の中に家造りをする。もちろん西洋の家屋にも屋根がない訳ではないが、それは日光を遮蔽するよりも雨露をしのぐための方が主であって、蔭はなるべく作らないようにし、少しでも多く内部を明りに曝すようにしていることは、外形を見ても頷かれる。日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。しかも鳥打帽子のように出来るだけ鍔を小さくし、日光の直射を近々と軒端に受ける。けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろ〳〵の関係があるのであろう。たとえば煉瓦やガラスやセメントのようなものを使わないところから、横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくあゝなったのでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれ〳〵の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、たゞ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。われ〳〵は、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われ〳〵の座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。われ〳〵は、この力のない、わびしい、果敢ない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには照りをつけるが、座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、その乏しい光線の、柔かい弱い味が消える。われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて辛くも餘命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。我等に取ってはこの壁の上の明るさ或はほのぐらさが何物の装飾にも優るのであり、しみ〴〵と見飽きがしないのである。さればそれらの砂壁がその明るさを乱さないようにとたゞ一と色の無地に塗ってあるのも当然であって、座敷毎に少しずつ地色は違うけれども、何とその違いの微かであることよ。それは色の違いと云うよりもほんの僅かな濃淡の差異、見る人の気分の相違と云う程のものでしかない。しかもその壁の色のほのかな違いに依って、また幾らかずつ各〻の部屋の陰翳が異なった色調を帯びるのである。尤も我等の座敷にも床の間と云うものがあって、掛け軸を飾り花を活けるが、しかしそれらの軸や花もそれ自体が装飾の役をしているよりも、陰翳に深みを添える方が主になっている。われらは一つの軸を掛けるにも、その軸物とその床の間の壁との調和、即ち「床うつり」を第一に貴ぶ。われらが掛け軸の内容を成す書や絵の巧拙と同様の重要さを裱具に置くのも、実にそのためであって、床うつりが悪かったら如何なる名書画も掛け軸としての価値がなくなる。それと反対に一つの独立した作品としては大した傑作でもないような書画が、茶の間の床に掛けてみると、非常にその部屋との調和がよく、軸も座敷も俄かに引き立つ場合がある。そしてそう云う書画、それ自身としては格別のものでもない軸物の何処が調和するのかと云えば、それは常にその地紙や、墨色や、裱具の裂が持っている古色にあるのだ。その古色がその床の間や座敷の暗さと適宜な釣り合いを保つのだ。われ〳〵はよく京都や奈良の名刹を訪ねて、その寺の宝物と云われる軸物が、奥深い大書院の床の間にかゝっているのを見せられるが、そう云う床の間は大概昼も薄暗いので、図柄などは見分けられない、たゞ案内人の説明を聞きながら消えかゝった墨色のあとを辿って多分立派な絵なのであろうと想像するばかりであるが、しかしそのぼやけた古画と暗い床の間との取り合わせが如何にもしっくりしていて、図柄の不鮮明などは聊かも問題でないばかりか、却ってこのくらいな不鮮明さがちょうど適しているようにさえ感じる。つまりこの場合、その絵は覚束ない弱い光りを受け留めるための一つの奥床しい「面」に過ぎないのであって、全く砂壁と同じ作用をしかしていないのである。われらが掛け軸を択ぶのに時代や「さび」を珍重する理由はここにあるので、新画は水墨や淡彩のものでも、よほど注意しないと床の間の陰翳を打ち壊すのである。
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もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにたゞ清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧たる隈を生むようにする。にも拘らず、われらは落懸のうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを填めている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。思うに西洋人の云う「東洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ無気味な静かさを指すのであろう。われらといえども少年の頃は、日の目の届かぬ茶の間や書院の床の間の奥を視つめると、云い知れぬ怖れと寒けを覚えたものである。しかもその神秘の鍵は何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟それは陰翳の魔法であって、もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉としてその床の間はたゞの空白に帰するのである。われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自ら生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。これは簡単な技巧のようであって、実は中々容易でない。たとえば床脇の窓の刳り方、落懸の深さ、床框の高さなど、一つ〳〵に眼に見えぬ苦心が払われていることは推察するに難くないが、分けても私は、書院の障子のしろ〴〵としたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにあゝ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくゞり、廊下を通って、よう〳〵そこまで辿り着いた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、たゞ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。私はしば〳〵あの障子の前に佇んで、明るいけれども少しも眩ゆさの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよ〳〵光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、殆どそのほのじろさに変化がない。そして縦繁の障子の桟の一とコマ毎に出来ている隈が、あたかも塵が溜まったように、永久に紙に沁み着いて動かないのかと訝しまれる。そう云う時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばだゝく。何か眼の前にもや〳〵とかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつゝあるからである。諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋にたゞようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持がしたことはないであろうか。或はまた、その部屋にいると時間の経過が分らなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。
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諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い〳〵庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。そして、その前を通り過ぎながら幾度も振り返って見直すことがあるが、正面から側面の方へ歩を移すに随って、金地の紙の表面がゆっくりと大きく底光りする。決してちら〳〵と忙がしい瞬きをせず、巨人が顔色を変えるように、きらり、と、長い間を置いて光る。時とすると、たった今まで眠ったような鈍い反射をしていた梨地の金が、側面へ廻ると、燃え上るように耀やいているのを発見して、こんなに暗い所でどうしてこれだけの光線を集めることが出来たのかと、不思議に思う。それで私には昔の人が黄金を佛の像に塗ったり、貴人の起居する部屋の四壁へ張ったりした意味が、始めて頷けるのである。現代の人は明るい家に住んでいるので、こう云う黄金の美しさを知らない。が、暗い家に住んでいた昔の人は、その美しい色に魅せられたばかりでなく、かねて実用的価値をも知っていたのであろう。なぜなら光線の乏しい屋内では、あれがレフレクターの役目をしたに違いないから。つまり彼等はたゞ贅沢に黄金の箔や砂子を使ったのではなく、あれの反射を利用して明りを補ったのであろう。そうだとすると、銀やその他の金属はじきに光沢が褪せてしまうのに、長く耀やきを失わないで室内の闇を照らす黄金と云うものが、異様に貴ばれたであろう理由を会得することが出来る。私は前に、蒔絵と云うものは暗い所で見て貰うように作られていることを云ったが、こうしてみると、啻に蒔絵ばかりではない、織物などでも昔のものに金銀の糸がふんだんに使ってあるのは、同じ理由に基づくことが知れる。僧侶が纏う金襴の袈裟などは、その最もいゝ例ではないか。今日町中にある多くの寺院は大概本堂を大衆向きに明るくしてあるから、あゝ云う場所では徒らにケバケバしいばかりで、どんな人柄な高僧が着ていても有難味を感じることはめったにないが、由緒あるお寺の古式に則った佛事に列席してみると、皺だらけな老僧の皮膚と、佛前の燈明の明滅と、あの金襴の地質とが、いかによく調和し、いかに荘厳味を増しているかが分るのであって、それと云うのも、蒔絵の場合と同じように、派手な織り模様の大部分を闇が隠してしまい、たゞ金銀の糸がとき〴〵少しずつ光るようになるからである。それから、これは私一人だけの感じであるかも知れないが、およそ日本人の皮膚に能衣裳ほど映りのいゝものはないと思う。云うまでもなくあの衣裳には随分絢爛なものが多く、金銀が豊富に使ってあり、しかもそれを着て出る能役者は、歌舞伎俳優のようにお白粉を塗ってはいないのであるが、日本人特有の赧みがかった褐色の肌、或は黄色味をふくんだ象牙色の地顔があんなに魅力を発揮する時はないのであって、私はいつも能を見に行く度毎に感心する。金銀の織り出しや刺繍のある袿の類もよく似合うが、濃い緑色や柿色の素襖、水干、狩衣の類、白無地の小袖、大口等も実によく似合う。たま〳〵それが美少年の能役者だと、肌理のこまかい、若々しい照りを持った頬の色つやなどがそのためにひとしお引き立てられて、女の肌とは自ら違った蠱惑を含んでいるように見え、なるほど昔の大名が寵童の容色に溺れたと云うのは此処のことだなと、合点が行く。歌舞伎の方でも時代物や所作事の衣裳の華美なことは能楽のそれに劣らないし、性的魅力の点にかけてはこの方が遙かに能楽以上とされているけれども、両方をたび〳〵見馴れて来ると、事実はそれの反対であることに気が付くであろう。ちょっと見た時は歌舞伎の方がエロティックでもあり、綺麗でもあるのに論はないが、昔はとにかく、西洋流の照明を使うようになった今日の舞台では、あの派手な色彩がやゝともすると俗悪に陥り、見飽きがする。衣裳もそうなら、化粧とてもそうであって、仮に美しいとしてからが、それが何処までも作った顔であってみれば、生地の美しさのような実感が伴わない。然るに能楽の俳優は、顔も、襟も、手も、生地のまゝで登場する。されば眉目のなまめかしさはその人本来のものであって、毫もわれ〳〵の眼を欺いているのではない。故に能役者の場合は女形や二枚目の素顔に接してお座がさめたと云うようなことは有り得ない。たゞわれ〳〵の感じることは、われ〳〵と同じ色の皮膚を持った彼等が一見似合いそうにもない武家時代の派手な衣裳を着けた時に如何にその容色が水際立って見えるかと云う一事である。かつて私は、「皇帝」の能で楊貴妃に扮した金剛巌氏を見たことがあったが、袖口から覗いているその手の美しかったことを今も忘れない。私は彼の手を見ながら、しば〳〵膝の上に置いた自分の手を省みた。そして彼の手がそんなにも美しく見えるのは、手頸から指先に至る微妙な掌の動かし方、独特の技巧を罩めた指のさばきにも因るのであろうが、それにしても、その皮膚の色の、内部からぽうっと明りが射しているような光沢は、何処から来るのかと訝しみに打たれた。何となれば、それは何処までも普通の日本人の手であって、現に私が膝の上についている手と、肌の色つやに何の違ったところもない。私は再び三たび舞台の上の金剛氏の手と自分の手とを見較べたが、いくら見較べても同じ手である。だが不思議にも、その同じ手が舞台にあっては妖しいまでに美しく見え、自分の膝の上にあっては只の平凡な手に見える。かくの如きことはひとり金剛巌氏の場合のみではない。能においては、衣裳の外へ露われる肉体はほんの僅かな部分であって、顔と、襟くびと、手頸から指の先までに過ぎず、楊貴妃のように面を附けている時は顔さえ隠れてしまうのであるが、それでいてその僅かな部分の色つやが異様に印象的になる。金剛氏は特にそうであったけれども、大概の役者の手が、何の奇もない当りまえの日本人の手が、現代の服装をしていては気が付かれない魅惑を発揮してわれ〳〵に驚異の眼を見張らせる。繰り返して云うが、それは決して美少年や美男子の役者に限るのではない。たとえば、日常われ〳〵は普通の男子の唇に惹き付けられることなどは有り得ないが、能の舞台では、あの黝ずんだ赤みと、しめり気を持った肌が、口紅をさした婦人のそれ以上に肉感的なねばっこさを帯びる。これは役者が謡いをうたうために始終唇を唾液で濡らす故でもあろうが、しかしそのせいばかりとは思えない。また子方の俳優の頬が紅潮を呈しているのが、その赤さが、実に鮮やかに引き立って見える。私の経験では緑系統の地色の衣裳を着けた時に最も多くそう見えるので、色の白い子方なら勿論であるが、実を云うと色の黒い子方の方が、却ってその赤味の特色が眼立つ。それはなぜかと云うと、色白な児では白と赤との対照があまり刻明である結果、能衣裳の暗く沈んだ色調には少し効果が強過ぎるが、色の黒い児の暗褐色の頬であると、赤がそれほど際立たないで、衣裳と顔とが互に照りはえる。渋い緑と、渋い茶と、二つの間色が映り合って、黄色人種の肌がいかにもその所を得、今更のように人目を惹く。私は色の調和が作り出すかくの如き美が他にあるを知らないが、もし能楽が歌舞伎のように近代の照明を用いたとしたら、それらの美感は悉くどぎつい光線のために飛び散ってしまうであろう。さればその舞台を昔ながらの暗さに任してあるのは、必然の約束に従っている訳であって、建物なども古ければ古い程いゝ。床が自然のつやを帯びて柱や鏡板などが黒光りに光り、梁から軒先の闇が大きな吊り鐘を伏せたように役者の頭上へ蔽いかぶさっている舞台、そういう場所が最も適しているのであって、その点から云えば近頃能楽が朝日会館や公会堂へ進出するのは、結構なことに違いないけれども、そのほんとうの持ち味は半分以上失われていると思われる。
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ところで、能に附き纏うそう云う暗さと、そこから生ずる美しさとは、今日でこそ舞台の上でしか見られない特殊な陰翳の世界であるが、昔はあれがさほど実生活とかけ離れたものではなかったであろう。何となれば、能舞台における暗さは即ち当時の住宅建築の暗さであり、また能衣裳の柄や色合は、多少実際より花やかであったとしても、大体において当時の貴族や大名の着ていたものと同じであったろうから。私は一とたびそのことに考え及ぶと、昔の日本人が、殊に戦国や桃山時代の豪華な服装をした武士などが、今日のわれ〳〵に比べてどんなに美しく見えたであろうかと想像して、たゞその思いに恍惚となるのである。まことに能は、われ〳〵同胞の男性の美を最高潮の形において示しているので、その昔戦場往来の古武士が、風雨に曝された、顴骨の飛び出た、真っ黒な赭顔にあゝ云う地色や光沢の素襖や大紋や裃を着けていた姿は、いかに凜々しくも厳かであっただろうか。けだし能を見て楽しむ人は、皆いくらかずつかくの如き連想に浸ることを楽しむのであって、舞台の上の色彩の世界がかつてはその通りに実在していたと思うところに、演技以外の懐古趣味がある。これに反して歌舞伎の舞台は何処までも虚偽の世界であって、われ〳〵の生地の美しさとは関係がない。男性美は云うまでもないが、女性美とても、昔の女が今のあの舞台で見るようなものであったろうとは考えられない。能楽においても女の役は面を附けるので実際には遠いものであるが、さればとて歌舞伎劇の女形を見ても実感は湧かない。これは偏えに歌舞伎の舞台が明る過ぎるせいであって、近代的照明の設備のなかった時代、蝋燭やカンテラで纔かに照らしていた時代の歌舞伎劇は、その時分の女形は、或はもう少し実際に近かったのではないであろうか。それにつけても、近代の歌舞伎劇に昔のような女らしい女形が現れないと云われるのは、必ずしも俳優の素質や容貌のためではあるまい。昔の女形でも今日のような明煌々たる舞台に立たせれば、男性的なトゲトゲしい線が眼立つに違いないのが、昔は暗さがそれを適当に蔽い隠してくれたのではないか。私は晩年の梅幸のお軽を見て、このことを痛切に感じた。そして歌舞伎劇の美を亡ぼすものは、無用に過剰なる照明にあると思った。大阪の通人に聞いた話に、文楽の人形浄瑠璃では明治になってからも久しくランプを使っていたものだが、その時分の方が今より遙かに餘情に富んでいたと云う。私は現在でも歌舞伎の女形よりはあの人形の方に餘計実感を覚えるのであるが、なるほどあれが薄暗いランプで照らされていたならば、人形に特有な固い線も消え、てら〳〵した胡粉のつやもぼかされて、どんなにか柔かみがあったであろうと、その頃の舞台の凄いような美しさを空想して、そゞろに寒気を催すのである。
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知っての通り文楽の芝居では、女の人形は顔と手の先だけしかない。胴や足の先は裾の長い衣裳の裡に包まれているので、人形使いが自分達の手を内部に入れて動きを示せば足りるのであるが、私はこれが最も実際に近いのであって、昔の女と云うものは襟から上と袖口から先だけの存在であり、他は悉く闇に隠れていたものだと思う。当時にあっては、中流階級以上の女はめったに外出することもなく、しても乗物の奥深く潜んで街頭に姿を曝さないようにしていたとすれば、大概はあの暗い家屋敷の一と間に垂れ籠めて、昼も夜も、たゞ闇の中に五体を埋めつゝその顔だけで存在を示していたと云える。されば衣裳なども、男の方が現代に比べて派手な割合に、女の方はそれほどでない。舊幕時代の町家の娘や女房のものなどは驚くほど地味であるが、それは要するに、衣裳と云うものは闇の一部分、闇と顔とのつながりに過ぎなかったからである。鉄漿などと云う化粧法が行われたのも、その目的を考えると、顔以外の空隙へ悉く闇を詰めてしまおうとして、口腔へまで暗黒を啣ませたのではないであろうか。今日かくの如き婦人の美は、島原の角屋のような特殊な所へ行かない限り、実際には見ることが出来ない。しかし私は幼い時分、日本橋の家の奥でかすかな庭の明りをたよりに針仕事をしていた母の俤を考えると、昔の女がどう云う風なものであったか、少しは想像出来るのである。あの時分、と云うのは明治二十年代のことだが、あの頃までは東京の町家も皆薄暗い建て方で、私の母や伯母や親戚の誰彼など、あの年配の女達は大概鉄漿を附けていた。着物は不断着は覚えていないが、餘所行きの時は鼠地の細かい小紋をしば〳〵着た。母は至ってせいが低く、五尺に足らぬほどであったが、母ばかりでなくあの頃の女はそのくらいが普通だったのであろう。いや、極端に云えば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだと云っていゝ。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないのか。あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀の線、そう云う胴の全体が顔や手足に比べると不釣合に痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてあゝ云う風ではなかったのであろうか。今日でもあゝ云う恰好の胴体を持った女が、舊弊な家庭の老夫人とか、藝者などの中に時々いる。そして私はあれを見ると、人形の心棒を思い出すのである。事実、あの胴体は衣裳を着けるための棒であって、それ以外の何物でもない。胴体のスタッフを成しているものは、幾襲ねとなく巻き附いている衣と綿とであって、衣裳を剥げば人形と同じように不恰好な心棒が残る。が、昔はあれでよかったのだ、闇の中に住む彼女たちに取っては、ほのじろい顔一つあれば、胴体は必要がなかったのだ。思うに明朗な近代女性の肉体美を謳歌する者には、そう云う女の幽鬼じみた美しさを考えることは困難であろう。また或る者は、暗い光線で胡麻化した美しさは、真の美しさでないと云うであろう。けれども前にも述べたように、われ〳〵東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである。「掻き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり」と云う古歌があるが、われ〳〵の思索のしかたはとかくそう云う風であって、美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う。つまりわれ〳〵の祖先は、女と云うものを蒔絵や螺鈿の器と同じく、闇とは切っても切れないものとして、出来るだけ全体を蔭へ沈めてしまうようにし、長い袂や長い裳裾で手足を隈の中に包み、或る一箇所、首だけを際立たせるようにしたのである。なるほど、あの均斉を缺いた平べったい胴体は、西洋婦人のそれに比べれば醜いであろう。しかしわれ〳〵は見えないものを考えるには及ばぬ。見えないものは無いものであるとする。強いてその醜さを見ようとする者は、茶室の床の間へ百燭光の電燈を向けるのと同じく、そこにある美を自ら追い遣ってしまうのである。
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だが、いったいこう云う風に暗がりの中に美を求める傾向が、東洋人にのみ強いのは何故であろうか。西洋にも電気や瓦斯や石油のなかった時代があったのであろうが、寡聞な私は、彼等に蔭を喜ぶ性癖があることを知らない。昔から日本のお化けは脚がないが、西洋のお化けは脚がある代りに全身が透きとおっていると云う。そんな些細な一事でも分るように、われ〳〵の空想には常に漆黒の闇があるが、彼等は幽霊をさえガラスのように明るくする。その他日用のあらゆる工藝品において、われ〳〵の好む色が闇の堆積したものなら、彼等の好むのは太陽光線の重なり合った色である。銀器や銅器でも、われらは錆の生ずるのを愛するが、彼等はそう云うものを不潔であり非衛生的であるとして、ピカピカに研き立てる。部屋の中もなるべく隈を作らないように、天井や周囲の壁を白っぽくする。庭を造るにも我等が木深い植え込みを設ければ、彼等は平らな芝生をひろげる。かくの如き嗜好の相違は何に依って生じたのであろうか。案ずるにわれ〳〵東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。然るに進取的な西洋人は、常により良き状態を願って已まない。蝋燭からランプに、ランプから瓦斯燈に、瓦斯燈から電燈にと、絶えず明るさを求めて行き、僅かな蔭をも払い除けようと苦心をする。恐らくそう云う気質の相違もあるのであろうが、しかし私は、皮膚の色の違いと云うことも考えてみたい。われ〳〵とても昔から肌が黒いよりは白い方を貴いとし、美しいともしたことだけれども、それでも白皙人種の白さとわれ〳〵の白さとは何処か違う。一人一人に接近して見れば、西洋人より白い日本人があり、日本人より黒い西洋人があるようだけれども、その白さや黒さの工合が違う。これは私の経験から云うのであるが、以前横浜の山手に住んでいて、日夕居留地の外人等と行楽を共にし、彼等の出入する宴会場や舞蹈場へ遊びに行っていた時分、傍で見ると彼等の白さをそう白いとは感じなかったが、遠くから見ると、彼等と日本人との差別が、実にはっきり分るのであった。日本人でも彼等に劣らない夜会服を著け、彼等より白い皮膚を持ったレディーがいるが、しかしそう云う婦人が一人でも彼等の中に交ると、遠くから見渡した時にすぐ見分けがつく。と云うのは、日本人のはどんなに白くとも、白い中に微かな翳りがある。そのくせそう云う女たちは西洋人に負けないように、背中から二の腕から腋の下まで、露出している肉体のあらゆる部分へ濃い白粉を塗っているのだが、それでいて、やっぱりその皮膚の底に澱んでいる暗色を消すことが出来ない。ちょうど清洌な水の底にある汚物が、高い所から見下ろすとよく分るように、それが分る。殊に指の股だとか、小鼻の周囲だとか、襟頸だとか、背筋だとかに、どす黒い、埃の溜ったような隈が出来る。ところが西洋人の方は、表面が濁っているようでも底が明るく透きとおっていて、体じゅうの何処にもそう云う薄汚い蔭がささない。頭の先から指の先まで、交り気がなく冴え〴〵と白い。だから彼等の集会の中へわれ〳〵の一人が這入り込むと、白紙に一点薄墨のしみが出来たようで、われ〳〵が見てもその一人が眼障りのように思われ、あまりいゝ気持がしないのである。こうしてみると、かつて白皙人種が有色人種を排斥した心理が頷けるのであって、白人中でも神経質な人間には、社交場裡に出来る一点のしみ、一人か二人の有色人さえが、気にならずにはいなかったのであろう。そう云えば、今日ではどうか知らないが、昔黒人に対する迫害が最も激しかった南北戦争の時代には、彼等の憎しみと蔑みは単に黒人のみならず、黒人と白人との混血児、混血児同士の混血児、混血児と白人との混血児等々にまで及んだと云う。彼等は二分の一混血児、四分の一混血児、八分の一、十六分の一、三十二分の一混血児と云う風に、僅かな黒人の血の痕跡を何処までも追究して迫害しなければ已まなかった。一見純粋の白人と異なるところのない、二代も三代も前の先祖に一人の黒人を有するに過ぎない混血児に対しても、彼等の執拗な眼は、ほんの少しばかりの色素がその真っ白な肌の中に潜んでいるのを見逃さなかった。で、かくの如きことを考えるにつけても、いかにわれ〳〵黄色人種が陰翳と云うものと深い関係にあるかが知れる。誰しも好んで自分たちを醜悪な状態に置きたがらないものである以上、われ〳〵が衣食住の用品に曇った色の物を使い、暗い雰囲気の中に自分たちを沈めようとするのは当然であって、われ〳〵の先祖は彼等の皮膚に翳りがあることを自覚していた訳でもなく、彼等より白い人種が存在することを知っていたのではないけれども、色に対する彼等の感覚が自然とあゝ云う嗜好を生んだものと見る外はない。
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われ〳〵の先祖は、明るい大地の上下四方を仕切ってまず陰翳の世界を作り、その闇の奥に女人を籠らせて、それをこの世で一番色の白い人間と思い込んでいたのであろう。肌の白さが最高の女性美に缺くべからざる条件であるなら、われ〳〵としてはそうするより仕方がないのだし、それで差支えない訳である。白人の髪が明色であるのにわれ〳〵の髪が暗色であるのは、自然がわれ〳〵に闇の理法を教えているのだが、古人は無意識のうちに、その理法に従って黄色い顔を白く浮き立たせた。私はさっき鉄漿のことを書いたが、昔の女が眉毛を剃り落したのも、やはり顔を際立たせる手段ではなかったのか。そして私が何よりも感心するのは、あの玉虫色に光る青い口紅である。もう今日では祇園の藝妓などでさえ殆どあれを使わなくなったが、あの紅こそはほのぐらい蝋燭のはためきを想像しなければ、その魅力を解し得ない。古人は女の紅い唇をわざと青黒く塗りつぶして、それに螺鈿を鏤めたのだ。豊艶な顔から一切の血の気を奪ったのだ。私は、蘭燈のゆらめく蔭で若い女があの鬼火のような青い唇の間からとき〴〵黒漆色の歯を光らせてほゝ笑んでいるさまを思うと、それ以上の白い顔を考えることが出来ない。少くとも私が脳裡に描く幻影の世界では、どんな白人の女の白さよりも白い。白人の白さは、透明な、分り切った、有りふれた白さだが、それは一種人間離れのした白さだ。或はそう云う白さは、実際には存在しないかも知れない。それはたゞ光りと闇が醸し出す悪戯であって、その場限りのものかも知れない。だがわれ〳〵はそれでいゝ。それ以上を望むには及ばぬ。こゝで私は、そう云う顔の白さを想う半面に、それを取り囲む闇の色について話したいのだが、もう数年前、いつぞや東京の客を案内して島原の角屋で遊んだ折に、一度忘れられない或る闇を見た覚えがある。何でもそれは、後に火事で焼け失せた「松の間」とか云う廣い座敷であったが、僅かな燭台の灯で照らされた廣間の暗さは、小座敷の暗さと濃さが違う。ちょうど私がその部屋へ這入って行った時、眉を落して鉄漿を附けている年増の仲居が、大きな衝立の前に燭台を据えて畏まっていたが、畳二畳ばかりの明るい世界を限っているその衝立の後方には、天井から落ちかゝりそうな、高い、濃い、たゞ一と色の闇が垂れていて、覚束ない蝋燭の灯がその厚みを穿つことが出来ずに、黒い壁に行き当ったように撥ね返されているのであった。諸君はこう云う「灯に照らされた闇」の色を見たことがあるか。それは夜道の闇などとは何処か違った物質であって、たとえば一と粒一と粒が虹色のかゞやきを持った、細かい灰に似た微粒子が充満しているもののように見えた。私はそれが眼の中へ這入り込みはしないかと思って、覚えず眼瞼をしばだゝいた。今日では一般に座敷の面積を狭くすることが流行り、十畳八畳六畳と云うような小間を建てるので、仮に蝋燭を点じてもかゝる闇の色は見られないが、昔の御殿や妓楼などでは、天井を高く、廊下を廣く取り、何十畳敷きと云う大きな部屋を仕切るのが普通であったとすると、その屋内にはいつもこう云う闇が狭霧の如く立ち罩めていたのであろう。そしてやんごとない上﨟たちは、その闇の灰汁にどっぷり漬かっていたのであろう。かつて私は「倚松庵随筆」の中でもそのことを書いたが、現代の人は久しく電燈の明りに馴れて、こう云う闇のあったことを忘れているのである。分けても屋内の「眼に見える闇」は、何かチラチラとかげろうものがあるような気がして、幻覚を起し易いので、或る場合には屋外の闇よりも凄味がある。魑魅とか妖怪変化とかの跳躍するのはけだしこう云う闇であろうが、その中に深い帳を垂れ、屏風や襖を幾重にも囲って住んでいた女と云うのも、やはりその魑魅の眷属ではなかったか。闇は定めしその女達を十重二十重に取り巻いて、襟や、袖口や、裾の合わせ目や、至るところの空隙を填めていたであろう。いや、事に依ると、逆に彼女達の体から、その歯を染めた口の中や黒髪の先から、土蜘蛛の吐く蜘蛛のいの如く吐き出されていたのかも知れない。
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先年、武林無想庵が巴里から帰って来ての話に、欧洲の都市に比べると東京や大阪の夜は格段に明るい。巴里などではシャンゼリゼエの真ん中でもランプを燈す家があるのに、日本ではよほど辺鄙な山奥へでも行かなければそんな家は一軒もない。恐らく世界じゅうで電燈を贅沢に使っている国は、亜米利加と日本であろう。日本は何でも亜米利加の真似をしたがる国だと云うことであった。無想庵の話は今から四五年も前、まだネオンサインなどの流行り出さない頃であったから、今度彼が帰って来たらいよ〳〵明るくなっているのにさぞかし吃驚するであろう。それからこれは「改造」の山本社長に聞いた話だが、かつて社長がアインシュタイン博士を上方へ案内する途中汽車で石山のあたりを通ると、窓外の景色を眺めていた博士が、「あゝ、彼処に大層不経済なものがある」と云うので訳を聞くと、そこらの電信柱か何かに白昼電燈のともっているのを指さしたと云う。「アインシュタインは猶太人ですからそう云うことが細かいんでしょうね」と、山本氏は注釈を入れたが、亜米利加はとにかく、欧洲に比べると日本の方が電燈を惜し気もなく使っていることは事実であるらしい。石山と云えばもう一つおかしなことがあるのだが、今年の秋の月見に何処がよかろう此処がよかろうと首をひねった揚句、結局石山寺へ出かけることに極めていると、十五夜の前日の新聞に石山寺では明晩観月の客の興を添えるため林間に拡声器を取り附け、ムーンライトソナタのレコードを聴かせると云う記事が出ている。私はそれを読んで急に石山行きを止めてしまった。拡声器も困り物だが、そう云う風ではきっとあの山の方々に電燈やイルミネーションを飾り、賑々しく景気を附けてはいないかと思ったからである。前にも私はそれで月見をフイにした覚えがあるのは、或る年の十五夜に須磨寺の池へ舟を浮かべてみようと思い、同勢を集め重詰めを持ち寄って繰り出してみると、あの池のぐるりを五色の電飾が花やかに取り巻いていて、月はあれどもなきが如くなのであった。それやこれやを考えると、どうも近頃のわれ〳〵は電燈に麻痺して、照明の過剰から起る不便と云うことに対しては案外無感覚になっているらしい。お月見の場合なんかはまあ孰方でもいゝけれども、待合、料理屋、旅館、ホテルなどが、一体に電燈を浪費し過ぎる。それも客寄せのために幾らか必要であろうけれども、夏など、まだ明るいうちから点燈するのは無駄である以上に暑くもある。私は夏は何処へ行ってもこれで弱らせられる。外が涼しいのに座敷の中が馬鹿に暑いのは、殆ど十が十まで電力が強過ぎるか電球が多過ぎるかのせいであって、試しに一部分を消してみると俄かにすうっとするのだが、客も主人も一向それに気が付かないのが不思議でならない。元来室内の燈し火は、冬は幾らか明るくし、夏は幾らか暗くすべきである。その方が冷涼の気を催すし、第一虫が飛んで来ない。然るに餘計に電燈をつけ、それで暑いからと云って煽風器を廻すのは、考えただけでも煩わしい。尤も日本座敷だと熱が傍から散って行くのでまだ我慢が出来るけれども、ホテルの洋室では風通しが悪い上に、床、壁、天井等が熱を吸い取って四方から反射するので、実にたまらない。例を挙げるのは少し気の毒だが、京都の都ホテルのロビーへ夏の晩に行ったことのある人は、私のこの説に同感してくれないであろうか。彼処は北向きの高台に拠っていて、比叡山や如意ヶ嶽や黒谷の塔や森や東山一帯の翠巒を一眸のうちに集め、見るからすが〳〵しい気持のする眺めであるが、それだけになお惜しい。夏のゆうがた、折角山紫水明に対して爽快の気分に浸ろうと思い、楼に満つる涼風を慕って出かけてみると、白い天井の此処彼処に大きな乳白ガラスの蓋が篏め込んであって、ドギツイ明りが中でかっ〳〵と燃えている。それが、近頃の洋館は天井が低いので、すぐ頭の上に火の玉がくるめいているようで、暑いことと云ったらない、体のうちでも天井に近い所ほど暑く、頭から襟頸から背筋へかけて炙られるように感じる。しかもその火の玉が一つあったらあれだけの廣さを照らすには十分なくらいであるのに、そう云う奴が三つも四つも天井に光っていて、その外にも小さな奴が壁に沿い柱に沿うて幾つとなく取り附けてあるのだが、そんなのはたゞ隅々に出来る隈を消している以外に、何の役にも立っていない。だから室内に蔭と云うものが一つもなく、見渡したところ、白い壁と、赤い太い柱と、派手な色をモザイクのように組み合わせた床が、刷りたての石版画のように眼に沁み込んで、これがまた相当に暑苦しい。廊下からそこへ這入って来ると、温度の違いが際立って分る。あれではたとい涼しい夜気が流れ込んで来ても、すぐ熱い風に変ってしまうから何にもなるまい。彼処は以前たび〳〵泊まりに行ったことのあるホテルで、なつかしく思うところから親切気で忠告するのだが、実際あゝ云う形勝な眺望、最適な夏の涼み場所を、電燈で打ち壊しているのはもったいない。日本人には勿論のこと、いくら西洋人が明るみを好むからと云って、あの暑さには閉口するに違いなかろうが、何より彼より、一遍明りを減らしてみたら覿面に諒解するであろう。だがこれなどは一例を挙げたまでであって、あのホテルに限ったことではない。間接照明を使っている帝国ホテルだけはまず無難だが、夏はあれをもう少し暗くしてもよかりそうに思う。何にしても今日の室内の照明は、書を読むとか、字を書くとか、針を運ぶとか云うことは最早問題でなく、専ら四隅の蔭を消すことに費されるようになったが、その考は少くとも日本家屋の美の観念とは両立しない。個人の住宅では経済の上から電力を節約するので、却って巧く行っているけれども、客商売の家になると、廊下、階段、玄関、庭園、表門等に、どうしても明りが多過ぎる結果になり、座敷や泉石の底を浅くしてしまっている。冬はその方が暖かで助かることもあるが、夏の晩はどんな幽邃な避暑地へ逃れても、先が旅館である限り大概都ホテルと同じような悲哀に打つかる。だから私は、自分の家で四方の雨戸を開け放って、真っ暗な中に蚊帳を吊ってころがっているのが涼を納れる最上の法だと心得ている。
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この間何かの雑誌か新聞で英吉利のお婆さんたちが愚痴をこぼしている記事を読んだら、自分たちが若い時分には年寄りを大切にして労わってやったのに、今の娘たちは一向われ〳〵を構ってくれない、老人と云うと薄汚いもののように思って傍へも寄りつかない、昔と今とは若い者の気風が大変違ったと歎いているので、何処の国でも老人は同じようなことを云うものだと感心したが、人間は年を取るに従い、何事に依らず今よりは昔の方がよかったと思い込むものであるらしい。で、百年前の老人は二百年前の時代を慕い、二百年前の老人は三百年前の時代を慕い、いつの時代にも現状に満足することはない訳だが、別して最近は文化の歩みが急激である上に、我が国はまた特殊な事情があるので、維新以来の変遷はそれ以前の三百年五百年にも当るであろう。などという私が、やはり老人の口真似をする年配になったのがおかしいが、しかし現代の文化設備が専ら若い者に媚びてだん〳〵老人に不親切な時代を作りつゝあることは確かなように思われる。早い話が、街頭の十字路を号令で横切るようになっては、もう老人は安心して町へ出ることが出来ない。自動車で乗り廻せる身分の者はいゝけれども、私などでも、たまに大阪へ出ると、此方側から向う側へ渡るのに渾身の神経を緊張させる。ゴーストップの信号にしてからが、辻の真ん中にあるのは見よいが、思いがけない横っちょの空に青や赤の電燈が明滅するのは、中々に見つけ出しにくいし、廣い辻だと、側面の信号を正面の信号と見違えたりする。京都に交通巡査が立つようになってはもうおしまいだとつく〴〵そう思ったことがあったが、今日純日本風の町の情趣は、西宮、堺、和歌山、福山、あの程度の都市へ行かなければ味わわれない。食べる物でも、大都会では老人の口に合うようなものを捜し出すのに骨が折れる。先だっても新聞記者が来て何か変った旨い料理の話をしろと云うから、吉野の山間僻地の人が食べる柿の葉鮨と云うものの製法を語った。ついでにこゝで披露しておくが、米一升に付酒一合の割りで飯を焚く。酒は釜が噴いて来た時に入れる。さて飯がムレたら完全に冷えるまで冷ました後に手に塩をつけて固く握る。この際手に少しでも水気があってはいけない。塩ばかりで握るのが秘訣だ。それから別に鮭のアラマキを薄く切り、それを飯の上に載せて、その上から柿の葉の表を内側にして包む。柿の葉も鮭もあらかじめ乾いたふきんで十分に水気を拭き取っておく。それが出来たら、鮨桶でも飯櫃でもいゝ、中をカラカラに乾かしておいて、小口から隙間のないように鮨を詰め、押蓋を置いて漬物石ぐらいな重石を載せる。今夜漬けたら翌朝あたりからたべることが出来、その日一日が最も美味で、二三日は食べられる。食べる時にちょっと蓼の葉で酢を振りかけるのである。吉野へ遊びに行った友人があまり旨いので作り方を教わって来て伝授してくれたのだが、柿の木とアラマキさえあれば何処でも拵えられる。水気を絶対になくすることと飯を完全に冷ますことさえ忘れなければいゝので、試しに家で作ってみると、なるほどうまい。鮭の脂と塩気とがいゝ塩梅に飯に滲み込んで、鮭は却って生身のように柔かくなっている工合が何とも云えない。東京の握り鮨とは格別な味で、私などにはこの方が口に合うので、今年の夏はこればかり食べて暮らした。それにつけてもこんな塩鮭の食べかたもあったのかと、物資に乏しい山家の人の発明に感心したが、そう云ういろ〳〵の郷土の料理を聞いてみると、現代では都会の人より田舎の人の味覚の方がよっぽど確かで、或る意味でわれ〳〵の想像も及ばぬ贅沢をしている。そこで老人は追い〳〵都会に見切りをつけて田舎へ隠棲するのもあるが、田舎の町も鈴蘭燈などが取り附けられて、年々京都のようになるので、そう安心している訳には行かない。今に文明が一段と進んだら、交通機関は空中や地下へ移って町の路面は一と昔前の静かさに復ると云う説もあるが、いずれその時分にはまた新しい老人いじめの設備が生れることは分りきっている。結局年寄りは引っ込んでいろと云うことになるので、自分の家にちゞこまって手料理を肴に晩酌を傾けながら、ラジオでも聞いているより外に所在がなくなる。老人ばかりがこんな叱言を云うのかと思うと、満更そうでもないとみえて、頃来大阪朝日の天声人語子は、府の役人が箕面公園にドライヴウェーを作ろうとして濫りに森林を伐り開き、山を浅くしてしまうのを嗤っているが、あれを読んで私は聊か意を強うした。奥深い山中の木の下闇をさえ奪ってしまうのは、あまりと云えば心なき業である。この調子だと、奈良でも、京都大阪の郊外でも、名所と云う名所は大衆的になる代りに、だん〳〵そう云う風にして丸坊主にされるのであろう。が、要するにこれも愚痴の一種で、私にしても今の時勢の有難いことは万々承知しているし、今更何と云ったところで、既に日本が西洋文化の線に沿うて歩み出した以上、老人などは置き去りにして勇往邁進するより外に仕方がないが、でもわれ〳〵の皮膚の色が変らない限り、われ〳〵にだけ課せられた損は永久に背負って行くものと覚悟しなければならぬ。尤も私がこう云うことを書いた趣意は、何等かの方面、たとえば文学藝術等にその損を補う道が残されていはしまいかと思うからである。私は、われ〳〵が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。
底本:「陰翳礼讃 改版」中公文庫、中央公論新社
1975(昭和50)年10月10日初版発行
1995(平成7)年9月18日改版発行
2013(平成25)年1月10日改版24刷発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第二十巻」中央公論社
1982(昭和57)年12月25日
初出:「経済往来」
1933(昭和8)年12月号、1934(昭和9)年1月号
※底本は新字新仮名づかいです。なお旧字の混在は、底本通りです。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2016年6月10日作成
2019年2月24日修正
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