愛の詩集
愛の詩集の終りに
萩原朔太郎



 私の友人、室生犀星の芸術とその人物に就いて、悉しく私の記録を認めるならば、ここに私は一冊の書物を編みあげねばならない。それほど私は彼に就いて多くを知りすぎて居る。それほど私と彼とは密接な兄弟的友情をもつて居る。

 およそ私たちのかうした友情は、世にも珍なる彼のはればれしき男性的性情と、やや女性的で憂鬱がちなる私の貧しき性情との奇蹟めいた会遇によつて結びつけられた。

 主として運命は我等を導いて行つた。

 年久しくも友の求めて居たものは、高貴なる貴族的の人格とその教養ある趣味性であつた。そして私の貴族めいたエゴイズムの思想と、一種の偏重した趣味性とは、不思議にも我が友のいたく悦ぶ所となつた。

 一方また私の求めてゐた者は、卒直なる情熱的の人格と、男らしき単純さと、明るく健康なたましひをもつた人格であつた。

 思ふに私のやうな貴族的な性情をもつて生れた人間にとつて何よりも寂しいことは、あのなつかしい「愛」の欠陥である。神は貴族とエゴイストとを罰するために彼等の心から愛憐の芽生をぬき去つた。(その芽生こそ凡ての幸福の苗であるのに。)あの偉大なるトルストイを始めとして、世の多くの貴族と生れながらのエゴイストとが、悩み苦しみて求めるものは、実にこの「生えざる」苗を求めんとして嘆き訴ふる悲しみの声に外ならない。

 之に反して、貧しき境遇にあるもの、生れながらによきキリストの血を受けて長く苦労せる人人の心には、自然とやさしい人情の種が蒔かれて居た。

 私の友、室生犀星は生れながらの愛の詩人である。

 彼は口に人道と博愛を称へ、自ら求め得ざる夢想の愛を求めんとして、苦しき努力の生涯を終りたる、あの悲しいトルストイの徒ではなくして、真にその肉体から高貴な人義的の愛を体得して生れた「生ける愛の詩人」である。

 かうして私と彼とは、互にその欠陥せる病癖を悲しみ、互にその夢想せるしかも正反対の性情の美しさを交換した。


 とは言へ、私たちが始めて会遇した主なる動機は、もちろん人間としての交りでなく、ただその芸術を通じての交歓であつた。

 その頃此の国の詩壇は傷ましくも荒みきつて居た。新らしいものは未だ生れず、古いものは枯燥しきつて居た。

 室生と私とはここに一つの盟約を立てた。我等はすべての因襲から脱却すること。我等は過去の詩形を破壊すること。我等は二身一体となりて新らしい詩の創造に尽力すること及びその他である。

 その頃、室生の創造した新らしい詩が、どんなに深く私を感動せしめたことであらう、私は日夜に彼の詩篇を愛吟して手ばなすこともできなかつた。

 実際、当時の彼の詩は、青春の感情の奔蹤を極めたものであつた。

 燃えあがるやうなさかんな熱情。野獣のやうな病熱さをもつた少年の日の情慾。及びその色情狂的情調。何ものにも捉はれない野蛮人めいた狂暴無智の感情の大浪と、そのうねりくねる所の狂的なリズム。此等すべて彼の創造した新らしい芸術は、一一に私を驚かし、私の心にさわやかな幸福と、未だかつて知らなかつた新世界の景物を展開してくれた。

 併し今や時は流れすぎた。

 そして私共は、既にかうした青春時代の花やかな、とはいへいくぶん狂気じみた創造の夢を過去に微笑して観ることさへもできる。

 今や私共の狂暴な破壊は終つた。──それは私共の第一番目の仕事であつた。──そして兎に角にも自己流の珍らしい建築を完成した。


 ある日、街上を行く。ふと私は友の背後に立つ二つの黒い投影を見て驚いた。

 その一つの影は、いぢらしくも恋を恋する少年の日の可憐な真情を訴へた彼の『抒情小曲集』であつた。そこには少年に特有なあの美しい感傷と、生娘のやうな純潔の気高さがあつた。

 他の一つの影は、逞ましく肉づいた青春の情慾と健康と、及びその放蹤無恥な感情の乱酔を語つた、世にも水水しい情熱の詩篇であつた。

 私は静かに友の肩を叩いて笑つた。何故ならば『愛の詩集』を懐中ふところにした彼の現実には、あまりに重厚で静謐な中年者の姿を思はせるものがあつたからである。

 とはいへ、時はまた私自身の上にも流れて居た。恐らくに私自身の背後にもまた、その同じ二つの投影を見たことであらう。

 思ふに私共の、よき宴会の日は過ぎ去つた。此の『愛の詩集』に於て友の語るものは、もはや少年の花やかな幻想ではなくして、荒廃したまことの人生と現実とに接触した、彼が最初の魂の驚きを語るものでなければならぬ。

 室生の芸術の貴重さは、彼が人間としての人格の貴重さから出発する。

 凡そ私の知つてゐる男性の中で、室生ほど純一無垢な高貴な感情をもつた人間はない。彼ほど馬鹿正直で、彼ほど子供らしい純潔と卒直さをもつた人間はない。

 彼の詩を読むものは、何びともあの天才的奔蹤を思はせる未曾有のリズムと、その何物にも捉はれない嬰児のやうなナイーヴな感情とに、絶大な驚異を感ぜずには居られないであらう。しかもかうした驚異は、同時に人間としての室生犀星を知るものが、だれしも等しく感知する所の人格的驚異に外ならないのである。

 彼の神経は、近代文明の病癖を受けて針のやうに過敏であり、その感覚は驚くべく洗練された者であるにも関らず、彼の精神は全く子供のやうな単純さと、野蛮人のやうな生生なまなました原始的の驚きに充たされて居る。言はば室生は文明人の繊細な皮膚と野蛮人の強健な心臓とをもつて生れた、近代世紀の幸福なる予言者である。


 彼の生活は、今や空虚な狂熱や、耽美的な情緒に惑溺する時代を通り越した。

 今の彼は、深い確信の下に人類の幸福を愛し、私共のために彼自身の立派な生活と、その高貴な感情のリズムとを別ちあたへやうとする者である。

 いま彼の靴音は、しつかりとして大地を踏みつけて行く。そのがつしりした鉄のやうな腕は、すべての不健全なもの、非人倫的なもの、神秘的なもの、病感的なもの(もちろんその中には私の詩にみるやうな哲学も含んで居る)及び人生の幸福に有害なる一切の感情を弾きとばすことに熱して居る。

「この道をも私は通る」以下の詩、及び淫売婦に贈つた数篇の詩篇をよむものは、どんなに長い間、彼が霊的に苦しんで居たか、そして今の彼がどんなに健全で高潔な愛の信仰の上に立つて居るかを知るであらう。

 とはいへ、彼は決してニイチエやゲーテの如き意味でのよき詩人ではない。どんな方面から見ても彼は思想の人ではない。そして同時にまたボトレエルの如き冥想の詩人でもない。

 人生は、彼にとつては決して「考へる」ものではない。そして、もちろんまた冥想するものではない。

 人生は、彼にとつては一つの美しい現実であり、同時にまた理想である。

 人はよく生きるためには、絶えず高潔な感情を求めて、現実の生活そのものを充実した美しさの上に、がつしりと、しかも肉体的に築きあげねばならないと言ふのは、彼の叙情詩の凡てが語る所の哲学である。

 かうした彼の哲学(人格の語る哲学であつて思想の語る哲学ではない)は、ある意味に於て、あの偉大なる古代ギリシヤ人のそれと全く共通する。そこには近代文明の不幸な疾病が憧憬する所の、あの美しく明るい健康の哲学がある。新楽天主義(それは未来を支配する)の輝やかしい黎明の光がうかがはれる。

 要するに室生は「生れたる新人」である。そして同時にまた「生れたる叙情詩人」である。恐らく、彼はその生涯を通じて、叙情詩以外の何物をも書かないであらう。しかもさうした純潔の詩人の生涯こそ、かの音楽家のそれと等しく、人生の最も神聖なる住宅、即ち道徳及びその他の感情生活の世界を支配する最高至美の権威でなければならない。


 室生の詩に就いて、特に私の敬服に耐えないものは、その独創あるすばらしい表現である。

 およそ日本の詩壇に自由詩形が紹介されて以来、真に日本言葉のなつかしいリズムを捉へて、之を我我の情緒の中に生かしたものは、室生以前には一人も無かつた。

 その頃、此の国の自由詩と称するものは、多くは旧来の形式を完全に脱して居ない、極めて幼稚な口調本位のものであつた。あまつさへ、彼等の表現の多くは、乞食壮士の大道演説に類したものであつた。そこにはむやみと生硬の漢語や、俗悪で不自然な言葉のアクセントや、中学生じみた幼稚な興奮や、およそさうした類の低能な感傷的表情を、むやみと鼓張した態度で一本調子に並べたてられて居た。

 また他の者たちは、西洋詩の生硬な直訳を思はせるやうな、息苦しい悪い趣味の詩を発表して新らしがつて居た。そしてその他の者は、相変らず古典的な美文で、古典的な、熱のない脩辞を繰返して居るにすぎなかつた。然るに私共の求めてゐたものは、もつと鮮新で、もつと自由で、そしてもつとしんみりとした情熱をもつた、純日本言葉の美しい音楽であつた。

 かうした私共の要求を満足させて、最初に日本現代語の「音楽らしい音楽」を聴かせてくれたものは、実に私の友人室生犀星その人であつた。

 彼の新らしい詩の表現は、丁度、愛する妻と共に日暮れの街を歩きながら、楽しい買物の話をするやうな、平易な親しさの中に、力強い情熱のひびきをこもらせたものであつた。(愛の詩集の読者は、だれしもさうした言葉の味覚を感得するであらう。)

 勿論、彼の初期の作には、尚文章語脈を脱して居なかつたとはいへ、尚且つ当時に於ける他の流行の詩(気取つたり、固くなつたり、肩を怒らしたりする)とは、あまりに甚だしく風変りのものであつた。

 かうした彼の艶艶しい表現は、長く日本の枯燥した詩に不満を抱いてゐた私にとつては実に絶大の驚異であつた。

 私は殆んど彼を崇拝した。──私と北原白秋氏とは彼の最初の知己であつた──あまつさへ、私自身しばしば彼の表現を模倣しようとして、愚かな失敗を繰返したことさへある。思ふに、ああした魔力ある彼の言葉は、彼の不思議な天賦の性情から、自然と湧き出づる人格のリズムであつて、断じて彼以外の者の追蹤を許さない秘密であらう。

 室生の詩の特長の一つは、一般に「易しくて解りよい」といふ評判のあることである。

 彼の詩が、かくも民衆に親しみをもつて居ると言ふことは、勿論、一つはその内容の上から、彼が勉めて曖昧な哲学めいた思想や、異常な神秘的冥想を排斥して、現実の強健な感情生活を高歌するにもよるのであるが、また一つには、その表現の極めて卒直で民衆と親しみの深い平易な家庭的の日常語を、自由に大胆にぐんぐんとしやべることに原因するものでなくてはならぬ。


 明らさまに言へば、『愛の詩集』の後半に現はれた彼の思潮とその傾向とは、私の立場からみて全く相反目する所の敵国である。

 若し私共二人が、互にその思想や主張の上で自己を押し立てようとするならば、私共はとくに血を流すやうな争論を繰返して居なければならなかつた。

 けれども私共は、始から「思想のための友人」もしくばその共鳴者ではなかつた。私共が互にその対手に認めて崇敬しあつたものは、思想でも哲学でもなく、ただ「人間として」のなつかしい人格であつた。極めて稀にみる子供らしい純一無垢な性情と、そして何よりも人間としての純潔さを、私共は互に愛し悦びあつた。

 ここに私共のはれがましい不断の交歓があつた。そしてまたここに彼の芸術に対する私の思想上の異議が存在するのであつた。

 が、それにも関らず、私は此の詩集に現はれた、彼の驚くべき表現と、そのすばらしい人格的感情のリズムの前には、偽りなき敬虔の心で頭をさげざるを得ないものである。

 繰返して言ふ、私はこの書物の著者及びその人の生活に関しては、世の何ぴとよりも深徹な智識をもつてゐるものである。順つて私の著者に対する大胆な評価は、凡てこの自信と無遠慮の独断から出発する。「此の書物こそは」私は言ふ「日本人が日本語で書いた告白の最初の真実であり、そして日本に於ける、最初の感情生活の記録である」と。

千九百十七年十一月九日
郷里にて
萩原朔太郎

底本:「抒情小曲集・愛の詩集」講談社文芸文庫、講談社

   1995(平成7)年1110日第1刷発行

底本の親本:「愛の詩集」感情詩社

   1918(大正7)年1

入力:田村和義

校正:岡村和彦

2014年514日作成

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