愛の詩集
愛の詩集のはじめに
北原白秋
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室生君。
涙を流して私は今君の双手を捉へる。さうして強く強くうち振る。君は正しい。君の此詩集は立派なものだ。人間の魂で書かれた人間の詩だ。さうしてここに書かれた君の言葉は尽く人間の滋養だ。君の甦りは勇ましい。さうして純一だ。魂は無垢だ、透明だ。おお、君は安心して君自身を世に示したがよい。さうして更に世の賞讃と愛慕とを受けたがよい。おお、上天の祝福よ、永久に我友の上にあれ。
愛の詩集一巻。之は何といふ優しさだ、素直さだ、気高さ、清らかさだ。さうして何といふ悲しさ、愛らしさ、いぢらしさだ。おお、ここにはあらゆる人間の愛がある。寂しい愛、孤独の愛、真実の愛、幸福な安らかな愛、正しい愛、虐たげられ、呵責まれた愛、憐憫の愛、神のやうな愛、健やかな恵深い愛、忍従の愛、寛大な、而して叡智の潜んだ愛、自然の愛、新鮮なみづみづしい愛、善良で正直な愛、素朴な野生の愛、深大な愛、一人の、而して万人の愛、おお、さうして一切の愛、これらが皆この中にある。さうして凡てが神の魂を有つた人間の安らかな良き心から流れ出てゐる。
何等の無理もない、その言葉は何等の飾りもなく、しぜんと魂の底から、一人の人間の静かな息づかひその儘に溢れ出てゐる。誰にもわかり易い言葉でわかり易く虔ましやかに語られてある。
誰が読んでも、誰に読んできかせても、それは深い滋味のある言葉だ。誰しもが温められ、かき擁かれ、慰められ、力づけられる言葉だ。淫らな、何ひとつ不純な声が無い。これは水だ、いい茶だ、魂のパンだ。さうして日の光だ、雨の音だ、清しい草花のかをり、木の葉のそよぎ、しめやかな霙、雪の羽ばたきだ。おお、さうして貧しい者には夕の赤い灯火であり、富みたる人には黎明の冷たい微風となる。さうして生れてくる者には温かい母の頬ずりを、病めるものには花、寂しい者には女性を、さうして又死なんとする者には何ものにもまして美しい蒼空の微笑を、おお之等は示す。
何といふ力づよさだ。又、何といふ初初しさだ。室生君。君はいい心境に落ちついた。君の之等の詩は淑やかに読んでもいい、声あげて読んでもいい。庭園の朝、木蔭で一人で読んでもいい。晩餐の後、家族挙つて楽しく読みあつてもいい。全く誰が手に執つても、どの頁を開いても愛撫される。
これは水だ、いい茶だ、魂のパンだ、人間の滋養だ。
*
室生君。
万法は流転する。希臘の古哲 Herakleitos の此の言葉は詢に真理である。現世は無常であるが、それが故に私達も茲に新たに転生して、改めて神の栄光に浴する事を得た。この私達を生み出した大自然の力と愛とを思ふ時私達の頭は下る。永劫を一瞬に縮めて光るこの生命、この人間の魂は愛なしには片時も生きられぬ。詩人は上天の恵みにより、殊に選ばれたる人間の中の最も高貴なる人間である。私達は身にあまるこの恩寵を等閑にしてはならぬ。
私達は何が故に苦しむか。何が故に自らを虐たげ、自らをさいなみ、自らの血を流し、身肉をこれ絞るか。省れば人間の心は浅ましく仰ぎ見すれば涙である。掌を合して祈り、祈つてただ己れの至らぬ事を耻づる。ただ大慈大悲の御心に縋るより途は無い。切切として湧き上るこの感謝の念、抑へても抑へきれぬこの念。
神は愛也。君が聖書を尊崇し、偉大なるドストイエフスキイの苦悶と信仰とに感激する嬰児のやうな心はここから起る。君の永い間の焦燥、憂慮、省察、求信、之等は決して徒事では無かつた。孤独も貧窮も耐忍も決して無為では無かつた。今は確乎として君は目ざめた。これからである。何事もこれからである。
思へば基督は君の為めに矢張り君の魂の父であつた。萩原君の云ふ如く、而も君は生れ乍らにして神の愛を体得した人の一人であつた。それは詩人としての天稟である。玉のやうな良き素質である。良き素質ほど貴いものはない。常人は教養と苦業とに依つてはじめて神の御心を悟る。然し乍ら詩人の霊性は受胎の抑々から既に神の御声を聴く。純真にして無垢だからである。
君も無垢であつた。野生の儘で、素朴で、飽迄も正直で、単純で、又をかしいほど露骨で、男らしく育つて来た。君の感情は蛮人のやうに新鮮で、君の魂はいつも鵞鳥の卵のやうに牧草と地面の間に転がつてゐた。君の感覚も神経も其処で自然のままに曝され試され鋭く削られて来た。而して時として稚気を帯びた淫心からこづき廻はされたり、処女のやうに怖怖したり、又は凶悪の仮面を装つたり、嫉妬したり、狂つたり、踊つたりした。今でも君は全くの自然児である。何れにしても君は何も彼も六官も七情も霊魂も肉体も剥き出しである。
その自然児が一面に於て熱烈な文明の思慕者であり、秩序ある諸徳、中にも貴族的品格と正しい礼節とを憧憬し、之に己れを則らんとする無邪と、謹慎と、謙譲とは、人をして如何なる時も彼を愛せしめ、微笑せしめずにはおかぬ。室生君、私の言葉は稍過ぎた。然し乍ら、君の天稟の樸直と意識せざる品位の貴さとが、日を追うて君自身を洗練し浄化して来たのである。而して愈君の魂は正しく調節され、次第に愛ある静謐と山羊の眼のやうな柔和の中に澄みきつて来た。さうして真の礼儀と規律とが君の現在の禁慾的生活に自らなる良き整形を為す。かうして此の愛の詩集が生れたのである。
室生君。
何と云つても私は君を愛する。さうして萩原君を。君と萩原君とはまことに霊肉相通じた芸術的双生児である。その何物にも代へ難い愛情、激烈なる相互の崇敬感激、之を二魂一体と君等は云ふ。まさしく君等は両頭の奇性児である。相愛し相交歓し乍ら、君等はその気稟に於て、思想に於て、趣味、并びにもろもろの好悪に依つて、寧しろ血で血を洗ふ肉親の仇敵の如く相反し相闘ふ。
君は健康であり、彼は繊弱である。君は土、彼は硝子。君は裸の蝋燭、彼は電球。君は曠原の自然木、彼は幾何学式庭園の竹、君は逞ましい蛮人、而して彼は比歇的利性の文明人。君は又男性の剛気を保ち、彼は女性の柔軟を持つ。君は貴族の風格を尚び、彼は却て純樸なる野趣を恋ふ。而も両者が人間として真の理解と徹底した性愛の上に、一の赤い心臓を他の蒼い心臓の上に、圧し重ねて、等しく苦しみ等しく歔欷しつつある。何と云つても君等は永久に離れられない胴体であり、同じ湿婆神の変化である。
おお、さうして私は君等の何れもを愛する。愛せずにゐられない私は、君等の相反した凡てを、驚くほど私自身の中に見出す。それは密度に於ては、或は君等の何れもより薄いかも知れぬ。然しながら、此の三人は根本に於て一つである。私達は同じく同じ神の声を同じ母胎の中で聴き、同じ血の鼓動を聴きつつ、輪廻転生の絶大苦悶から一時に一切の因縁を忘れて了つたのである。私達は永い間盲目探しに探し廻つた。さうして私から室生萩原と順順に目を開いて、また再び相擁いたのである。私達はまさしく無垢であつた。子供らしく、純一で、而も何ものよりも優れて透明で、心は常に天の藍色を映してゐた。おお、此の単純にして誠実なる三人の愛、この愛は互に互の動悸を聴きわけるほどに澄徹で、又、互の胸に互の手を直接に触れ得るほどに緊密だ。『月に吠える』の序、あれに私はかう書いた事がある。おおこの三人、それは廻り澄む三つの独楽が今や将に相触れむとする刹那の静謐である。おお、その微妙なる接吻。
*
室生君。
私は曾て萩原君の天稟を指して、地面に直角に立つ華奢な一本の竹であると云つた。而も君は喩へば一本の野生の栗の木である。
一本の野生の栗の木。
栗は天然の光と雨露の恵みと地壌の慈みとに依つて先づ青い二葉を開いた。未生以前よりこの耀やかしい地上に生れて来なければならぬ因縁が、時を得て初めて栗の芽生となつて顕現されたのである。好運がその芽を祝ひ、微風がその初毛をそよがした。さうしてその芽は茎は生れた儘何らの工みも妨げもなくすくすくと生ひ立つた。凡てが祝はれた儘であつた。さうして凡てが彼の伸びる儘であつた。凡てが自由で朗らかで愛に満ち亘つてゐた。水はその根を廻つて曠い野つ原を流れ、蒼い空の円天井は常住その上にあつた。
夏が来た。幸福な栗の若木はこの時銀のギザギザをつけた鮮緑の若葉を一斉に萌え立たせた。それは細細とした瑞々しい若葉であつた。その若葉を渦巻かせ乍ら、栗はまだ枝々の尖りが眩しかつたり、腋の下が羞痒ゆいやうな新生の歓びから何も彼も涙ぐましく眺め入つた。さうして夕霧がかかると感傷し、朝風がそよぐと小躍り、細い弦月がきらめくと、己れから感極つて啜り泣いた。
それから一年経ち、二年経ち、五年経ち、十年経つた。
栗の木はいつしかガツシリした姿勢と粗々しい木肌とを持つた立派な一本立の木になつた。さうして愈激しい生長の慾望と愛と力とに燃え上つた。のみならず、曠原の風景が愈彼の為めに新らしくされ、野末を通る人馬も自づから彼の姿を振り返つてゆく。さうしてゴツホの燬きつくやうな太陽が東にあがり西に赤々とくるめき廻る真ん中で、この大麻栗の緑葉の渦巻に、真つ白な花穂がいくつもいくつも垂れ下つて、まるで妊娠になつた綿羊の綿毛のやうに重々しく咲き盛つた。その淫蕩無比の臭気、その狂熱、その豊満、将に此の樹木の放つ動物的精液の激臭は下ゆく人をして殆ど昏倒せしめずんばやまなかつた。雨の夜などは殊更である。その弾ぢぎれるほどの淫心。而も此の栗の木を前にして、真赤なえんえんたる天鵝絨の坂があり、坂の上には丘があり、麦畠があり、麦畠には麦が穂をそろへて揺れたり光つたりする清明な小景があつた事も読者よ記憶せよ。昼はその麦の穂立の中に基督のかげが見え隠れ、夜は祈りの鐘の音が薄靄の間を縫つて静かに静かに栗の木のふところまで流れて来た。
それから陰欝した長雨が幾日も幾日も降り続くと、花は腐れて地に落ち、栗は再び目醒めたやうに真つ青に濡れしづき乍ら、日が照りつけると、更に又、一層の鮮かさを以て輝き出したのである。
愈秋になつた。思ひがけない大暴風雨が殆ど神意の如く此の一本立の栗の枝々を吹き捲つた。弱い葉や既に枯れかかつた病葉は一溜もなく八方に飛び散り、木は根から大揺れに揺れる。抗す可らざる大自然の意力に恐れをののく栗の葉の間に、この時、数知れぬ青栗の青毬が、密かに密かに生れつつあつた不思議さを思ふと誰しも涙なしにはゐられまい。それはそれは小ひさな小ひさな青い栗の果であつた。
大暴風雨が止むと、空は再び碧瑠璃に晴れ渡つた。玲朧隈もなしである。十月初旬の日光は更に遍ねく栗の全身に降り注ぎ、その光は次第に栗の果を膨らめてゆく。青い栗の毬、毬は鮮やかに滴る光を痛感した。
その頃から水蒸気が深く立ちこめ、四囲の夜景が穏かになる。秋雨がかかる。赤い灯が丘の間から囁きかはす。野菜畑が香気を吐く。おおさうして昼も白い月が幽かに残り、百姓の豊かな挨拶があちこちできこえ、朝もいよいよ涼しくなる。凡てが柔かく粛やかに、さうして澄みかかつて来た。その中に立つ栗の木の幸福な愛、さうしてその祈念、野生の儘の浄化。
その栗の木は君である。
君の詩の生ひたちを私は仮りに三期に分つ。『朱欒』の抒情小曲その他はさしづめ栗の若木の新芽である。それは雋鋭で、極めて感傷的であつた。而も新らしい叡智の瞳はその芽の心に既に幽かに光つてゐた。その驚異。
第二期は君として最も奔放な慾念と良心との混乱時代であつた。萩原君は之を指して色情狂的情調、或は凶暴的無智と云ふ。これは稍激し過ぎる。然し全く当時の君は彼の栗の花の淫蕩粗雑な花盛りと酷似してゐたのだ。而も君は基督を天の一方に見、喧燥の巷に神の声を聴く良き魂を持ち乍ら、盛んに密室の秘戯を空想し、更に悪魔的趣味性の好奇心を少しも制御し得なかつた。時として君は黒い覆面をかけ、手中に見えざるピストルを閃めかし、盗心を神聖視し、憔悴しては銀製の乞食となつて彷徨ひ歩るき、消え失せんとしては純金の蜩の声を松の梢に聴いた。酒に酔つて人を殴打き、女の足を拝み、夜赤い四角の窓を仰いでは淫獣の如く電線を伝つて忍び込んだのも君だ、幻覚中の君であつた。かくして君の白い両掌は常に生生しい鮮血の粘りを滴たらしてゐた、が、おおその鮮血は決して殺人の夢ではなかつた。十字架上の基督の両掌の釘の跡であつた。釘から噴き出る貴い犠牲の血潮であつたのである。此時君の呼吸は最も狂つて大きく、君の奔騰したリズムは縦横無碍に乱舞の極を尽した。此時だ。君の善も悪も美も醜も憚る処なく白日の下に投げ出された、此時だ。君は全く活躍し、赤裸々であつた。君の詩は最も放縦に、最も豊満に、最も魔気と魅力とに驕つてゐた。さうして稀に見る人間の真実がその中に却て地虫の声のやうに闇の奥底からきこえてゐた。その悩ましさ、惑はしさ、物悲しさ。その時の君のすばらしさ。
ああ、さうして野つ原の栗の木には思ひがけない大暴風雨が来た。あらゆる人間の苦悩に堪へ忍んだ心霊界の巨人ドストイエフスキイの悲歎と懺悔と教化とは雨となり嵐となり涙となつて迷へる者の上に殺倒した。栗の木には青い栗の青毬が密かに密かに生れんとするその時だ、その第三期の新生の曙を君は尽く涙を以て語り得る。
愛の詩集はかうして成つた。
栗の毬は粗い、けれども鮮かだ、純緑だ、一本一本が鍼のやうに細い。栗の果は固い、けれども噛めば噛むほど滋味が出る、純白だ。栗の果は君の魂だ、君の詩だ。
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室生君。
更に君の感情の表現法に就て、私にもう一つ云はしてくれ。
君の本然の魂に於て然るが如く、全く言葉の上にも君は自然児であつた、野生であつた。君のリズムの新鮮と自由とはそこから来る。元より何の苦労も渋滞も君には無い。初めから君はあらゆる因襲と患はしい覊絆から綺麗に離脱してゐた。否、殆ど関知しなかつたと云つていい。何といふ仕合せだ。君は君自身で、君のリズムは君より外に遣る人は無い。生生としてゐる。
翻つて私達はなまじ古典を崇拝し、秩序ある伝統の教養を受け、その画のやうな象形文字の輪廓、若くばその音律の齎らす古蒼、荘厳、或は簡素、幽婉、微趣のかずかずにあまりに深く薫染し過ぎて来た。それ丈この老い痴れた妖魔の手管と誘惑から逃れ出づる事は容易で無い。而して、血の通つた水々しい自己一人のリズムを創造するには君達の知らぬ困苦と反抗と勇気と冒険とを経て始めて為し得たのである。而もなほありあまる愛着と未練と淫情と臆病とに後髪を絶えず曳かれつつ蹌踉として進むに進めぬ惨めさ。苦しみ抜いた、私は全く苦しみ抜いた。さうして漸く今在る処まで行き着いた。それを君は殆ど何の苦しみもなく歩いてゆく、何にも知らぬ子供のやうな心で進んでゆく、羨ましい事だと思ふ。
然し、たつた一言云はしてくれ、君の言葉はまことに素朴で自然ではある。心の儘に流れ出てゐる。日常の言葉通りである。然し芸術の妙機は一面「味ひ」であると云ひ得るならばその味ひは詩ならば矢張りその言葉に頼らなければ噛みしめられぬ。匂があり色ある言葉、節約し廻転さし弛緩さし圧重し昂騰せしむるリズム、それらは座談の平語とは異ふ。詩はやはり詩である。
愛あるところに言葉あり、その言葉である。愛は説く事はできる。然し愛の味ひ、人情の真の味ひに理も非もなく人をして泣かせ、踊らせ、笑はせ、怒らせ、眠らせ、安らかに落ちつけ、はては頭を垂れさせるだけのリズムと言葉、その言葉そのリズムが詩には何よりも必要ではあるまいか、その魅力、その尊さ、その怪しさを又何より尊しとせねばなるまいと思へる。
私は日本の現代の言葉は鉱だと思へる。玉と為すにはまだまだ不断の琢磨と陶冶とを念とせなければならぬ。錬金道士の苦しみを苦しみとするのはこれが為めである。血を流し身を絞るのもこれが為めである。技巧は飾りでは無いが、それ丈の音律の苦労は必要である。君は安らかに言をいふ、それもよい。なだらかに説く、それもよい。然し兎もすると、今の君の言葉は流れ過ぎる。詩が散文でない限りより一層のリズムの純化を私は君に欲する。切に切に祈る。
更に私の君に願ふ処は君の現在の心境に、もう一度彼の既往の熱と力と美と露骨と、又彼の驚くばかりの魅力あるリズムと、生の儘の神経と感覚と、寧ろ淫するばかりの空想と狂気のやうな幻覚と醜と野蛮とを思ひきり復活さしてくれる事である。加へて深刻なる音楽の重圧と残虐なる感情の蠧惑とを弥が上に圧し出してくれる事。取り澄ましてくれぬ事、ドストイエフスキに対する盲目的感激から、真の君自身を、君の愛を隔離し、愈君本然の真の道に立たむ事である。
さうしたら君の詩は愈素晴らしいものになるに違ひない。その時こそ君は大成される。今や魂の真の革命が君の心に起つた。而してこの次に来る可き光栄ある第二次の革命が愈君を権威ある詩壇の真人たらしめる事を信ずる。私は君の現在を祝福し、更により多くその未来を翹望する。
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室生君。
何と云つても此詩集は立派だ。矢張り何と云つても正しいものは正しい。之は全く人間の言葉で書かれた人間の詩だ。さうしてここに書かれた君の言葉は全く人間の滋養だ。君の甦りは勇ましい。さうして純一だ。魂は無垢だ、透明だ。おお、君は安心して君自身を世に示したがよい。さうして更に世の賞讃と愛慕とを受けたがよい。君は何と云つても私の友だ。萩原と君と。おお今こそ再び私は涙を流して君の双手を捉へる。さうして強く強くうち振る。おお、上天の恩寵よ、永久に我友の上にあれ。
底本:「抒情小曲集・愛の詩集」講談社文芸文庫、講談社
1995(平成7)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「愛の詩集」感情詩社
1918(大正7)年1月
入力:田村和義
校正:岡村和彦
2014年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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