木曾川
北原白秋
|
「ほら、あれがお城だよ」
私は振り返った。私の背後からは円い麦稈帽に金と黒とのリボンをひらひらさして、白茶の背広に濃い花色のネクタイを結んだ、やっと五歳と四ヶ月の幼年紳士がとても潔よく口をへの字に引き緊めて、しかもゆたりゆたりと歩いていた。地蔵眉の、眼が大きく、汗がじりじりとその両の頬に輝いている。
名鉄の電車を乗り捨てて、差しかかった白い白い大鉄橋──犬山橋──の鮮かな近代風景の裏のことである。
暑い、暑い。パナマ帽に黒の上衣は脱いで、抱えて、ワイシャツの片手には鶏の首のついたマホガニーの農民美術のステッキをついてゆく、その子の父の私であった。
「うん、そうか」
父と子とはその鉄橋の中ほどで立ちどまると、下手向きの白い欄干に寄り添って行った。隆太郎は一所懸命に爪立ち爪立ちした。頤が欄干の上に届かないのだ。
ちょうど八月四日の正午、しんしんと降る両岸の蝉時雨であった。
汪洋たる木曾川の水、雨後の、濁って凄まじく増水した日本ライン、噴き騰る乱雲の層は南から西へ、重畳して、何か底光のする、むしむしと紫に曇った奇怪な一脈の連峰をさえ現出している、その白金の覆輪がまた何よりも強く眼を射ったのである。その下流の右岸には秀麗な角錘形の山(それは夕暮富士だと後で聞いたが)山の頂辺に細い縦の裂目のある小松色の山が、白い河洲の緩い彎曲線と程よい近景を成して、遥には暗雲の低迷したそれは恐らく驟雨の最中であるであろうところの伊吹山のあたりまでをバックに、ひろびろと霞んだうち展けた平野の青田も眺められた。
その左岸の犬山の城である。
まことに白帝城は老樹蓊鬱たる丘陵の上に現れて粉壁鮮明である。
小さな白い三層楼、何と典麗なしかもまた均斉した、美しい天守閣であろう。この城あって初めてこの景勝の大観は生きる。生きた脳髄であり、レンズの焦点である。まったくかの城こそは日本ラインの白い兜である。
「お城には誰がいるの」
「今は誰もいないんだ。むかしね兵隊がいたんだよ」
私はその子の麦稈帽を軽くたたいた。かの小さな美しい城の白光が果していつまでこのおさない童子の記憶に明り得るであろうか。そしてあの蒼空が、雲の輝きが。
父はまたその子の麦稈帽を二つたたいた。私は心ひそかに微笑した。「すこし強くたたいて置け」。
私の長男である彼隆太郎は、神経質だが、意思は強そうである。一緒に行く、機関車に取りついてでもついて行くといってきかないので、やむなく小さなリュックサックを背負わして連れて出たものだが、下りの特急の展望車で、大きな廻転椅子に絵本をひろげていた時にもこの子は一個の独自の存在であった。食堂のテーブルに向い合った僅な時間のひまにも、この子はおぼつかないながら、ナイフとフオクとは確に自分の物として、焼きたてのパンや黄色いバタや塩っぱいオムレツの上にのぞんで、決して自分を取り乱さなかった。箱根の嶮路にかかって、後部の大きな硝子戸に、機関車がぴったりとくっつき、そのまま轟々と真っ黒い正面をとどろかして押し昇った時にもそれを見たこの子は、それこそひとりで大喜びであった。その夕方、名古屋の親戚の家の玄関に立った時にも、別に鼻白みもしなかった。彼が生れた日だけしか彼を見なかったその伯母さんが「ほう、おまえが隆坊。まあ大きくなりましたね、おお。よく似ているわね、うちの子に。ほほほ」。
よくまあお父さんについて来られましたね、と驚いて、その式台で微笑された時にも、この子はうんとだけいって笑った。そうして自分で靴をぬぐとすぐに飛び込んで行った。生みの母に初めて離れて遠い旅に出るこの子に、この子の母はよくいってきかした。「ね、坊や。自分のことはみんな自分でするのですよ」。
だから、その晩にも、かれはひとりで必死になって上衣を脱いだり、パンツや、シャツの釦をはずしたり、寝衣に着更えたり、帯を結んだり、寝床にころがったり、眠ったりした。
その翌朝の今日のことである。柳橋駅から犬山橋までの電車の沿線には桑が肥え、梨が実り、青い水田のところどころには、ほのかな紅い蓮の花が、「朝」の「八月」の香いを爽かな空気と日光との中に漂わしていた。そうしたすがすがしい眺めと薫りとをこの子はどんなに貪り吸ったことか。父とまた初めて旅するこの子の瞳はどんなに黒く生々と燃えていたことか。そうして酒徒としての私にはやや差し障りそうな道連ではあったが時とすると侮り難い小さな監督者であろうも知れぬが、だが、私自身にも寧ろ或はそれを望んだ心もちもあった。
私はわが子の両手を強く握った──よく一緒に遣って来た。来てほんとによかったのだ。
まことに白帝城は日本ラインの白い兜である。
おお、そうして、白い臈たけた昼のかたわれ月が、おお、ちょうどその白い兜の八幡座にある。
白帝城に登ったのは、その上の麓の彩雲閣(名鉄経営)の楼上で、隆太郎のいわゆる「香いのする魚」を冷たいビールの乾杯で、初めて爽快に風味して、ややしばらく飽満した、その後のことであった。
その白帝園の裏手から葉桜の土手を歩いて右へ、緩るいだらだら阪を少しのぼると、犬山焼の同じ構えの店が並んでいる。それから廻ると、公園の広場になる。ところで、極彩色の孔雀がきらきらと尾羽を円くひろげた夏の暑熱と光線とは、この旅にある父と子とを少からず喜ばせた。その隣の檻の金網の中には嬉戯する小猿が幾匹となく、頓狂に、その桃色の眼のまわりを動かすのである。
そうだ、ここだったなと私は思った。金と黝朱の羽根の色をした鳶の子が、ちょうどこの対いの角の棒杭に止っていたのを観た七、八年前のことを憶い出したのである。私はあの時木兎かと思った、ちかぢかと寄って見る鳶は頭のまるい、ほんとに罪のない童顔の持主であった。
そうだった、これが針綱神社だったと私はまた微笑した。
あの冬の名古屋市はまったく恐怖と寒気とで、その繁華な、心臓の鼓動もとまりそうであった。悪性の流行感冒は日に幾十となくその善良な市民を火葬場に送った。私もまた同じ戦慄のうちに病臥して、きびしい霜と、小さい太陽と、凍った月の光ばかりとを眺むるより外なかった。旅で病むのは何と心細かったことだろう。それに私は貧しいかぎりであった。島村抱月先生の傷ましい訃報を新聞で知ったのもその時であった。
今、私の愛児は、幼年紳士は、急斜面の弧状の、白い石の太鼓橋を欄干につかまり遮二無二はい登ろうとしている。一行の誰彼が哄笑して、やんややんやと背後から押しあげている。隆太郎は嬉々として声を立てる。やっと上ったところで、半ズボンの両脚を前へつるつるつるである。父の私も前廻りして手をうって囃し立てる。
昔と今と、変れば変るものだと、私は思う。そうだ、あの頃はまだ日本ラインという名すらさして知られてなかったのだ。
「日本ラインという名称は感心しないね、卑下と追従と生ハイカラは止してもらいたいな。毛唐がライン川をドイツの木曾川とも蘇川峡とも呼ばないかぎりはね。お恥かしいじゃないか」
「そうですとも、日本は日本で、ここは木曾川でいいはずなんで」
木曾川橋畔の雀のお宿の主人野田素峰子が直と私に和した。
「みんながよくそういいますで」
私たちはいつのまにか、城の正面の柵内にはいりつつあった、軽い足どりで。
浴衣に袴の、白扇を持った痩せ形の老人が謹厳に私達を迎えた。役場から見えていたのである。
旧記に観ると、この犬山の城は、永享の末に斯波氏の家臣織田氏がこの地を領し、斯波満桓が初めて築いたとある。斯波氏が滅びてから織田、徳川の一族が拠って武威を張った。小牧山合戦の際には秀吉も入城したことがあったというのだが、天下が家康に帰してからは、尾州侯の家老成瀬隼人が封ぜられ、以来明治維新まで連綿として同家九代の居城として光った。
現存の天守閣は慶長四年の秋に、家康が濃州金山の城主森忠政を信州川中島に転封したおり、その天守閣と楼櫓とを時の犬山城主石川光吉に与えた、それを明る年の五月に木曾川を下してこの犬山に運び、これを築きあげたものである。斎藤大納言正成の建築だそうである。
この白帝城は美しい。その綜合的美観はその位置と丘陵の高さとが、明らかにして洋々たる河川の大景と相俟って、よく調和して映照しているにある。加えて、蒼古な森林相がその麓からうちのぼっている。展望するに、はてしない平野の銀と緑と紫の煙霞がある。山城としてのこのプランは桃山時代の粋を尽くした城堡建築の好模型だというが、そういえばよく肯かれる。
ただ僅に残って、今にそびえる天守閣の正しい均斉、その高欄をめぐらし、各層に屋根をつけた入母屋作りのいらか、その白堊の城。
外観こそは三層であるが、内部に入れば、それは五層に高まってゆく。
その五層の、昔ながらの木の階段を昇る時、隆太郎は危くころびかけた。そうしてその従兄の三高生から引っ抱えてもらった。
「何でこんなに暗いの、何でこんなに暗いの」
といいいいして上って来た。
「あ、名古屋城が見える」と、誰かが叫んだ。
天守閣の最上層の勾欄へ出たところで、私たちはまず両方の大平野を瞰望した。きのう電車で駛って来た沿線の曠田の緑と蓮池の薄紅とが遥に模糊とした曇天光まで続いて、ただ一つの巒色の濃い、低い小牧山が小さく鬱屈している。その左にほうふつとして立つ紫の幻塔が見える、それが金の鱗のお城だというのである。そう聞けば何か閃々たる気魄が光っているようでもある。
その地平線は白の地に、黄と少量の朱と、藍と黒とを交ぜた雲と霞とであった。その雲と霞は数条の太い煤煙で掻き乱されている。鮮麗な電光飾の輝く二時間前の名古屋市である。
東から北へと勾欄へついて眼を移すと、柔かな物悲しい赤と乾酪色の丘陵のうねりが閑かな日光の反射にうき出している隣に、二つの円い緑の丘陵が大和絵さながらの色調で並んで、その一つの小高みに閑雅な古典的の堂宇が隠見する。瑞泉寺山だと人がいった。
瑞泉寺山から継鹿尾、鴉ヶ峰と重畳して、その背後から白い巨大な積雲の層がむくりむくりと噴き出ていた。そのすばらしい白と金との向うに恵那、駒ヶ岳、御岳の諸峰が競って天を摩しているというのだ。見えざる山岳の気韻は彼方にある。何と籠もったぶどう鼠の曇り。
と、蕭々として、白い鉄橋の方へ時雨るる蝉のコーラスである。
爆音がする。左岸の城山に洞門を穿つのである。奇岩突兀として聳え立つその頂上に近代のホテルを建て更に岩石層の縦の隧道をくりぬき、しんしんとエレヴェーターで旅客を迎える計画だそうである。遊覧船は屋形、或は白のテントを張って、日本ラインの上流より矢のように走って来る。その光、光、光。恰も中古伝説の中の王子の小船のようにちかりちかりとその光は笑って来る。
「おうい」と呼びたくなる。
中仙道は鵜沼駅を麓とした翠巒の層に続いて西へと連るのは多度の山脈である。鈴鹿は幽かに、伊吹は未だに吹きあげる風雲の猪色にその嶺を吹き乱されている。
眼の下の大河を隔てた夕暮富士を越えて、鮮かな平蕪の中に点々と格納庫の輝くのは各務ヶ原の飛行場である。
西は渺々たる伊勢の海を眼界の外に霞ませて桑名へ至る石船の白帆は風を孕んで、壮大な三角洲の白砂と水とに照り明って、かげって、通り過ぎる、低く、また、ひろびろと相隔たった両岸の松と楊と竹藪と、そうして走る自転車の輪の光。
白帝城は絶勝の位置にある。
私は更に俯瞰して、二層目の入母屋の甍にほのかに、それは奥ゆかしく、薄くれないの線状の合歓の花の咲いているのを見た。樹木の花を上からこれほど近く親く観ることは初めてである。いかにも季節は夏だと感じられる。
絶壁の上の楓の老樹も手に届くばかりに参差と枝を分ち、葉を交えて、鮮明に澄んで閑かな、ちらちらとした光線である。
幾百年と経った大木の樟は樹皮は禿げ、枝は裂けていい寂色に古びている。その梢の群青を鴉がはたはたと動かしてとまる。かおォかおォである。古風な白帝城。
水道の取入口は河に臨んで、その城の絶壁の下にあった。
私たちは城を降りると、再び暑熱と外光の中の点景人物となった。ひらひらと、しきりに白い扇が羽ばたき出した。
公園からだらだらの阪を西谷の方へ、日かげを選み選み小急ぎになると、桑畑の中へ折れたところで、しおらしい赤い鳳仙花が目についた。もう秋だなと思う。
簡素な洋風の家がある。入口は開けっぱなしで、粗末な卓に何か仕事しているワイシャツの人がある。役場の老人が寄って行って挨拶する。幽かに私の名をいっている。
私たちは洞門に入る。外へ出ると豁然とひらけて、前は木曾の大河である。
この大河の水は岩礁を割いた水道のコンクリートの堰と赤さびた鉄の扉の上を僅に越えて、流れ注いで、外には濁った白い水沫と塵埃とを平らかに溜めているばかりだ。何の奇もなく閑けさである。
「この水が名古屋全市民の生命をつないでいるのです」と詰襟をはだけた制帽の若者が説明する。
私たちは引返して、洞門をくぐると、二台の計量機の前に出た。幽かに廻っている円筒の方眼紙の上に青いインキが針から滲んで殆ど動くか動かぬかに水量と速度とをじりじりと鋸形に印して進む。そこで若者は三和土の間の方五、六尺の鉄板の蓋を持ちあげる。暗々たる穴の底から冷気が吹きあげる。水は音なく流れて、地下十八尺の深さを、遥の大都会へ休むなく奔りつつ圧しつつある。しんしんとしたその奔入。
詩歌の本流というものもちょうどこうした深処にあって幽に、力強く流るるものだ。この本流のまことの生命力を思わねばならない。
私は隆太郎の手をしっかと握った。
彩雲閣へ戻ると、小坊主は直と名古屋へ帰るといい出した。名古屋の伯母さんは昨夜、この子の母に長距離の電話をかけていた。
「病気でもされると申し訳がありませんしね。それにお菊さんもまだ一度も里帰りしないのですから丁度いい折ですし、呼びましょうか」ということであった。それに従兄弟たちは大勢だし、汽車や電車のおもちゃはあるし、都会は壮麗だし、何か早く帰りたいらしかった。
「じゃあ、そうするか、たのむよ」と私は甥の三高生にその子を託した。
空は薄明となる、パッと園内のカンツリー・ホテルに電灯がつく。白、白、白、給仕とテーブル。
かえろかえろと、どこまでかえる。
赤い灯のつく三丁さきまでかえる。
かえろが啼くからかァえろ。
並木の鈴懸の間を夏の遊蝶花の咲き盛った円形花壇と緑の芝生に添って、たどたどと帰ってゆく幼年紳士の歌声がきこえる。
「おうい」
私は二階の欄干へ出て両手をあげる。
「ほうい」
向うでもこちらを見て両手をあげる。
白いかたわれ月は臈たけて黄に明って来る。ほのかに白い白帝城を、私の小さい分身の子供が、立って停って仰いでいる。
舟は遡る。この高瀬舟の船尾には赤の枠に黒で彩雲閣と奔放に染め出したフラフが翻っている。前に棹さすのが一人、後に櫓をこぐのが一人、客は私と案内役の名鉄のM君である。私は今日初めて明るい紫紺に金釦の上衣を引っかけて見た。藍鼠の大柄のズボンの、このゴルフの服は些かはで過ぎて市中は歩かれなかった。だが、この鮮麗な大河の風色と熾烈な日光の中では決して不調和ではない。私は南国の大きい水禽のように碧流を遡るのだ。
爽快である。それに泡だったコップのビール、枝豆の緑、はためく白いテントの反射光だ。
五日の午後一時、昨日のすさまじい濁流はいくらか青みを冴え立たして来たが、一旦激増した水量はなかなかひきそうに見えない。だが、裸の子供が飛び込む、飛び込む。燦々たる岩の群と、ごろた石の河原と両岸のいきるる雑草の花とだ。
泳げよ泳げ。
左は楊と稚松と雑木の緑と鬱した青とで野趣そのままであるが、遊園地側の白い道路は直立した細い赤松の並木が続いて、一、二の氷店や西洋料理亭の煩雑な色彩が畸形な三角の旅館と白い大鉄橋風景の右袂に仕切られる。鉄橋を潜ると、左が石頭山、俗に城山である。その洞門のうがたれつつある巌壁の前には黄の菰莚、バラック、鶴はし、印半纒、小舟が一、二艘、爆音、爆音、爆音である。
と、それから、人造石の樺と白との迫持や角柱ばかし目だった、俗悪な無用の贅を凝らした大洋館があたりの均斉を突如と破って見えて来る。「や、あれはなんです」。
「京都のモスリン会社の別荘で」とM君が枝豆をつまむ。
「悪趣味だ」
だが、ここまでである。それより上は全くの神斧鬼鑿の蘇川峡となるのだ。彩雲閣から僅に五、六丁足らずで、早くも人寰を離れ、俗塵の濁りを留めないところ、峻峭相連なって少からず目をそばだたしめる。いわゆる日本ラインの特色はここにある。
日は光り、屋形の、三角帆の、赤の、青のフラフの遊覧船が三々五々と私たちの前を行くのだ。
遡航は氷室山の麓は赤松の林と断崖のほそぼそとした嶮道に沿って右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが犬帰でなも」と後から赤銅の声がする。
烏帽子岩、風戻、大梯子、そこでこの犬帰の石門、遮陽石というのだそうな。
「ほれ、あの屋根が鳥瞰図を描くYさんのお宅ですよ」
幽邃な繁りである。蝉、蝉、蝉。つくつくほうし。
「この高い山は」
「継鹿尾山、叡光院という寺があります。不老の滝というのもありますが上って御覧になりますか」
「いや、ぐんぐん遡ろう」
風が涼しい、潭は澄み、碧流は渦巻く。紫紺の水禽は、遡る。遡る。
「あれが不老閣」
「閑静だなも」
と、これより先き、中流に中岩というのがあった。振り返ると、いつになく左後ろ斜に岩は岩と白い飛沫をあげている。
それから、千尺の翠巒と断崖は浣華渓となるのである。
波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
「爽快爽快」
「富士ヶ瀬です」
すばらしい飛沫、飛沫、飛沫、奔流しつつ、飛躍しつつ、擾乱しつつだ。
一面淙々たり。
「や」
「赤岩です」とM君。
まさしく瑠璃の、群青の深潭を擁して、赤褐色の奇巌の群々がかっと反射したところで、しんしんと沁み入る蝉の声がする。
稚い雌松の林があり、こんもりとした孟宗藪がある。藪の外にはほのぼのとした薄くれないの木の花も咲いている。
「あれは何の木の花だね」
「漆の花だなも」で、巧に棹を操る舳の船頭である。白のまんじゅう笠に黒色鮮かに秀山霊水と書いてある。
そのあたりが栗栖の里。
と、書き落したが、その漆の花が目に入るまでに、石床の大きなでこでこの岩、お富与曾松の岩というのがあった。恋は悲しい、遂に添われぬ身の果を嘆いて、お富もまた離ればなれに上の手の岩から身を躍らしたと俚俗にいう。
「これがローレライで」
ローレライはちと苦笑される。
新赤壁は左にあった。その前を昔の中仙道が通って、ひとつうねると岩屋観音がある。白い汚れた幟が見える。
ここで再び蕭々たる急湍にかかる。観音の瀬である。
「まだひどい水で」と前のがのめる。
やっとのことで、その瀬をのぼり切ると、いよいよ河幅は狭くなる。いよいよ差迫った奇岩怪石の層層層、荒削りの絶壁がまたこれらに脈々と連なりそびえて、見る目も凄い急流となる。惜しいことには水がたかく、岩は半没して、その神工の斧鉞の跡も十分には見るを得ないが、まさに蘇川峡の最勝であろう。
斎藤拙堂の「木蘇川を下るの記」に曰く、
石皆奇状両岸に羅列す、或は峙立して柱の若く、或は折裂して門の如く、或は渇驥の間に飲むが如く、或は臥牛の道に横たわる如く、五色陸離として相間わり、皴率ね大小の斧劈を作す、間ま荷葉披麻を作すものあり、波浪を濯うて以て出ず、交替去来、応接に暇あらず、けだし譎詭変幻中清秀深穏の態を帯ぶ。
兜岩、駱駝岩、眼鏡岩、ライオン岩、亀岩などの名はあらずもがなである。色を観、形を観、しかして奇に驚き、神悸き、気眩すべきである。
拙堂も観た五色岩こそまた光彩陸離として衆人の目を奪うものであろうか。
ただ私の見たところでは、この蘇川峡のみを以てすれば、その岩相の奇峭は豊の耶馬渓、紀の瀞八丁、信の天竜峡におよばず、その水流の急なること肥の球磨川にしかず、激湍はまた筑後川の或個処にも劣るものがある。これ以上の大江としてまた利根川がある。ただこの川のかれらに遥に超えたゆえんは変幻極まりなき河川としての綜合美と、白帝城の風致と、交通に利便であって近代の文化的施設余裕多き事であろう。原始的にしてまた未来の風景がこの水にある。船は翠嶂山の下、深沈とした碧潭に来て、その棹をとめた。清閑にしてまた飄々としている。巉峭の樹林には野猿が啼き、時には出でて現れて遊ぶそうである。
私は舟より上って、とある巌頭に攀じのぼった。
蓋し天女ここに嘆き、清躯鶴のごとき黄巾の道士が来って、ひそかに丹を練り金を練る、その深妙境をしてここに夢み、或は遊仙ヶ岡と名づけられたものであろう。
遺憾なは「これより上へはどうしても今日はのぼれませんで」と舟人はまた棹をいっぱいに岩に当てて張り切ったことである。
たちまち舟は矢のように下る。
千里の江陵一日にかえる。
おお、隆坊はどうしている。
自動車は駛る。
犬山の町長さんは若い白面の瀟洒な背広服の紳士であった。白帝園はカンツリー・クラブの大食堂で私たち三人──私と素峰子と運転手と──が、この八月六日の極めて簡素な午餐を認めていた時に、たまたま給仕を通じて私に挨拶に見えた。はいって来ると、名刺を一々運転手君にまでうやうやしく手交した。若しそうと知ってしたのならば美しいことだと微笑された。またそれほど黒背広の運転手君もひとかどの紳士らしく見えた。すなわち近代の日本ラインである。
カンツリー・クラブは緩い勾配の屋根の、錆色の羽目の中二階で、簡素ないい趣味の建築である。バンガロー風で、正面と横とに広い階段がついている。その正面の階段の下の、明るい色彩の花壇の前で、私は改めて一礼すると、車上の人となった。雀のお宿の素峰子はきのうの朝から激しい胃痙攣で顔色がなかった。今日も案内がおぼつかないので、犬山橋駅に廻って、赤い腕章の旅客課の制帽君の同乗をたのむことにした。
自動車は駛る。鉄橋を北へ、まっしぐらに駛って行く。と、ちらっと、白帝城と夕暮富士とが目を掠める。
きのうの夕焼は実によかったと思う。その返照はいつまでも透明な黄の霞んだ青磁や水浅葱の西の空に、紅く紅く地平の積巻雲を燃え立たせた。そうして紫ばんで来た秀麗な夕暮富士の上に引きはえた吹き流し形の、天蓋の、華鬘の、金襴の帯の、雲の幾流は、緋になびき、なびきて朱となり、褪紅となり、灰銀をさえ交えたやわらかな毛ばだちの樺となり、また葡萄紫となった。天守閣のかすかに黄に輝き残る白堊。そうして大江の匂深い色の推移、それが同じく緋となり、褪紅となり、やわらかな乳酪色となり、藤紫となり、瑠璃紺の上びかりとなった。そうして東の瑞泉寺山に涌出した脳漿形の積雲と、雷鳴をこめた積乱雲との層が見る見る黄金色の光度を強めて今にも爆裂しそうに蒸し返すと、また南の葉桜の土手の空にもむくりむくりと同じ色と形の入道雲が噴きあがっていた。この夕焼けもラインとよく似た美しい一つの天象だという。伊吹山の気流の関係で、この日本ラインにのみ恵まれた雲と夕日の季節の祭りである。
私たちの軽舟は急流に乗って、まだ大円日の金の光輝が十方に放射する、その夕焼けの真近をまたたく間に走り下って来た。そうして白帝城下の名も彩雲閣の河原に錨を下ろし纜をもやったのであった。と、名古屋から電話がかかっていて隆太郎の母は直にも見えるはずだということであった。
それが今日は生憎早暁からの曇りとなった。四方の雨と霧と微々たる雫とはしきりに私の旅情をそそった。宿酔の疲れも湿って来た。
この六日は下の河原で年に一度の花火の大会がある筈であった。名古屋の甥たちや隆太郎にも見に来るように通知はしたが、それもどうやら怪しくなって来る。果然雨天順延となって、私の旅行日程にもまた一日の狂いが生じて来たので、無聊に苦しむよりは雨の日本ラインの情趣でも探勝しようかとなった訳である。
自動車は駛る。
と、気がつくといつのまにか北へ向かったので南へ駛りつつあった。や、例の樺と白との別荘だなと思うと、中仙道は川添いの松原と桃林との間を東へ東へと驀進しつつある。
新赤壁の裾を幾折れして、岩屋観音にかかる。漢画風の山水である。トンネルがあり、橋がある。路はやや沿岸を離れて桑畑と雌松の林間に入る。農家がある。鳳仙花や百日草が咲き、村の子が遊び、鶏がけけっこっこっこっである。高原の感じである。
秋、秋、秋、秋。
太田の宿にはいる。右へ折れて鉄橋を渡れば、対岸の今渡から土田へ行けるのだが、それがライン遊園地への最も近い順路であるのだが、私は真直にぐんぐん駛らせる。なるべく上流へ出て迂回しようと思ったのである。
ストップ! 古井の白い鉄橋の上で、私は驚いて自動車を飛び降りた。その相迫った峡谷の翠の深さ、水の碧くて豊かさ。何とまた鬱蒼として幽邃な下手の一つ小島の風致であろう。煙霧は模糊として、島の向うの合流点の明るく広い水面を去来し、濡れに濡れた高瀬舟は墨絵の中の蓑と笠との舟人に操られてすべって行く。
私たちがその青柳橋の上に立っていると、何が珍しいのかぞろぞろと年寄や子供たちが周囲にたかって来た。この川はと聞くと飛騨川と誰か答えた。高山の上の水源地から流れて来てこの古井で初めて木曾川に入るのだとまた一人が傍から教えてくれた。じゃあ、あの広いのが木曾川だなと思えて来た。
「あの島にお堂が見えますが、あれは何様ですね」
「小山観音」
「縁日でもありますか」
「ちょうど七月の九日が御開帳でして、へえ、毎年です」
「店も出ましょうね」
「ええ、河原は見世屋でそれはもういっぱいになりますで」
水に映って、それは閑雅な灯のちらちらであろうと思えた、この支流である飛騨川の峡谷はまた本流の蘇川峡とは別趣の気韻をもって私に迫った。上手の眺めにもうち禿た岩石層は少く、すべてが微光をひそめた巒色の丘陵であった。深沈としたその碧潭。
私たちはまた車上の人となる。藍鼠と燻銀との曇天、丘と桑畑、台が高いので、川の所在は右手にそれぞと思うばかりで、対岸の峰々や、北国風の人家を透かし透かし、どこまでもと自動車は躍ってゆく。土の香がする。草のかおりがする。雨と空気と新鮮な嵐と、山蔭は咽ぶばかりの松脂のにおいである。駛る、駛る、新世界の大きな昆虫。
「見えた。あの鉄橋からまわりますか」
「よし」
そこでハンドルを右へきゅっと廻す。囂囂囂とそのつり橋を渡ってまた右折する。兼山の宿である。と風光はすばらしく一変する。爽快爽快、今来た峡谷の上の高台が向うになる。薄黄の傾斜面と緑の平面、平面、平面、鉾杉の層、竹藪、人家思いきり濃く、また淡く霞む畳峰連山、雨の木曾川はその此方の田や畑や樹林や板屋根の間から、突として開けたり離れたりする。岩礁が見える。船が見える。あ、檜だ、瓦だ、絵看板だ。
遥にまた煙突、煙突、煙突である。あの黒い煙はと聞くと、あれは太田だという。よくも上まで来たものだと思う。いや、かれこれ二時間は走っていますと運転手が笑う。こうして兼山から伏見、伏見から広見、今渡とかっ飛ばすのである。
土田は名鉄の犬山口から分岐する今渡線の終点に近い。ちらとその駅をのぞいて、また右へ、ライン遊園地へ向けて、またまた驀進驀進驀進である。行けるところまで行って、危く何かにぶつかりそうにしてとまると、奇橋がある。「土田の刎橋」である。この小峡谷は常に霧が湧き易くて、こめると上も下も深く姿を隠すという。重畳した岩のぬめりを水は湍ち、碧く澄んで流れて、いうところの鷺の瀬となる。
橋の袂で敷島を買って、遊園地の方へほつりほつりと私たちは歩いてゆく。雨はあがりかけて日の光は微かに道端の早稲の穂にさしかけて来る。七夕の紅や黄や紫の色紙がしっとりとぬれにじんでその穂や桑の葉にこびりついている。死んだ蛍のにおいか何かが咽んで来る。あけっぱなしの小舎がある。蚕糞や繭のにおいがする。莚が雑然と積んである。表に「自転車無料であずかります」と貼札してある。この道七、八丁。
宏壮な北陽館の前に出る。二階の渡り廊下の下の道路を裏へ抜けると、ここに驚くべき大洞可児合の壮観が眼下に大渦巻をまきあげる。断崖百尺の上の、何と小さな人間、白の黒の紫紺のぽつり、ぽつり、ぽつりだ。
大洞可児合は蘇川中の一大難所である。その本流と可児川の合するところ、急奔し衝突し、抱合し、反撥する余勢は、一旦、一大鉄城のごとく峭立し突出する黒褐の岩石層の絶壁に殺到し、遮断されて水は水と撃ち、力は力と抗い、波は岩を、岩は波を噛んで、ここに囂々、淙々の音を成しつつ、再び変圧し、転廻し、捲騰し、擾乱する豪快無比の壮観を現出する。藍と碧と群青と、また水浅葱と白と銀と緑と、渦と飛沫と水漚と、泡と、泡と、泡と。
膚粟を生ずとはこのことだろう。私は驚いて数歩下った。
そこで、また踵をめぐらして岩角と雑草の間の小径を香木峡の乗船地へと向っておりた。
しかも明るくひろくうち開けた上流の空の、連峰と翠巒、濛々たる田園の黄緑、人家、煙。霧、霧、霧。
どこかで茶でも飲もうではないか、茶見世ぐらいはあるだろうといえば、ありますありますと答えながら、赤い腕章の制帽はそれでも一軒の葭簀の茶亭は通り越してしまう。途中に白いペンキ塗の洋館の天狗何々と赤い看板を出したそのドアの前にかかったが、窓のガラスもことごとくしめきって「当分休業中」であった。夏でもここまでの遊覧客はさして見えないらしい。ライン遊園地もまだ完成しないで、自然の雑木原に近い。窪地にスケート・リンクなどがあるくらいだから沍寒はきびしいのであろう。崖の縁へ出ると漸く休憩所の一つを見出した。人の気配もせぬので、のぞいて見ると隅っこの青く透いたサイダー瓶の棚の前に、鱗光の河魚の精のような爺が一人、しょぼんと坐っていた。ぼうと立つのは水気である。
翠嶂山と呼ぶこのあたり、何かわびしい岩礁と白砂との間に高瀬舟の幾つかが水にゆれ、波に漂って、舷々相摩するところ、誰がつけたかその名も香木峡という。左に碧くそそり立つのが碧巌峰である。
そこで屋形の船のひとつを私は小手招く、そこここの薄墨の、また朱のこもった上の空の、霧はいよいよ薄れて、この時、雲のきれ間から、怪しい黄色の光線が放射し出した。これからまたひとしきりなぎになって蒸し暑く蒸し暑くなるのである。
「じゃあ、ここでお別れします。私は土田へ出てこの山の裏手を廻って帰りますが、どちらが早いかひとつ競争して見ますかな」
自動車の運転手が笑った。
「よかろう」と私たちは舟に乗り込む。船頭はやはり二人で、棹をつつッと突張るや否や、後のが櫓べそを調べると、櫓をからからとやって、「そおれ出るぞぉ」である。
白帝城下まで二里半だということである。
舟は走る、五色の日本ライン鳥瞰図が私の手にある。
「ほう、あれが少女の滝かね」その滝は左の緑蔭から懸ってあまりに幽かな水の線、線、線であった。
右にうずくまるのがライオン岩、深厳として赭黒である。と、舟は直に遊仙ヶ岡の碧潭にさしかかる。
その仙境を離れると、流れはいよいよ急である。昨日に比して少からず減じた水量のために河中の巌石という巌石は、ことごとく高く高くせり上って、重積した横の、斜の斧劈も露わに千状万態の奇景を眼前に聳立せしめて、しかも雨後の雫は燦々と所在の岩角、洞門にうち響きうち響き、降るかとばかりに滾れしきる。
河峡はいよいよ狭く、流れはいよいよ急に、舟は危うく触れんとして畳岩絶壁のすれすれを走り下る。
「や、あれは」
と、目をみはった。
一羽、ふり仰ぐ一大岩壁の上に黄褐の猛鳥、英気颯爽としてとまって、天の北方を睨んでいる。鉤形の硬嘴、爛々たるその両眼、微塵ゆるがぬ脚爪の、しっかと岩角にめりこませて、そしてまた、かいつくろわぬ尾の羽根のかすかな伸び毛のそよぎである。
「鷹だね」
「え、」と驚いて旅客課「そうです。鷹です」
冷気一道に襲って、さすがに蘇川は深山幽谷の面影が立った。
「身動きもしないんだね、船が下を通っても」
私は驚いたのである。
心音の動悸が止まぬのに、またしても一羽、右手の駱駝岩の第一の起隆の上に、厳然としてとまっている。相対した上の鷹、おそらくはつがいであろう。
いいものを見たと私は思った。野猿の声こそは聞けなかったが、それにも増して私は偶然の、時の恩寵を感じずにはいられなかった。
私は幾度も幾度も振返った。
激湍、白い飛沫の奔騰する観音の瀬にかかって、舟はゆれにゆれて傾く。
鷹は絶壁の遥に黒く、しかも確実に二個の点として厳としている。小さく小さくなる。一個は消えても、一羽の英姿はいつまでもいつまでも残ってみえる。その向うの空のぬれた黝朱の乱雲、それがやがては褐となり、黄となり、朱に丹に染まるであろう。日本ラインの夕焼けにだ。
あ、白帝城が見え出した。
香木峡から四十分、彩雲閣の河原に着いて、上ると、その白帝園のカンツリー・クラブの前へ、無料休憩所の方から、驚いたスピードで大型の昆虫の黒に藍の自動車がはしって来た。ハンドルを両手に、パナマを阿弥陀に頭の毛を振り振り、例の快活な笑いの持ち主だ。
「や、万歳、勝負なし」
「ほら、坊や、さよならだ、帽子をお振り」
「さようならァ──」
「もひとつ」
「さようならァ──」
下りの高瀬舟に坐っているのは私たち親子と雀のお宿の主人との三人である。
彩雲閣の二階からは盛んに白いハンカチーフがゆれて光る。女中たちである。
私たちも一寸芝居気を出して、パナマや雀頭巾を振る。童話の中の小さな王子のお蔭で、朗らかに朗らかに私たちも帽子が振れるというものだ。
私たちは下る。赤い雌松の五、六本をあしらった二重舞台の楼閣が次第次第に白帝城の翠巒に隠れてゆく。ちらとまたその隙間から白いひらひらが見えたかと思うと、また老樹の樫や楓の鬱蒼たる枝の繁みに遮られてしまう。と、それっきりで、八月八日は午前十一時の閑寂なせみ時雨になる。日本ラインとのお別れである。
水道の取入口も過ぎ、西谷は迎帆楼の前も過ぎた。あの前での昨日の人だかりというものは昼の花火の黄煙菊よりも埃をあげた。丁髷鬘の赤陣羽織に裁付袴の爺どもが拍子木に鉦や太鼓でライン酒とかの広告の口上をまくし立てる。その幟の蔭から、盆の上のリキュウグラスに手を出して無料じゃ無料じゃという赤いのを一杯試し飲みして見たところで、「これは焼酎かね」と聞けば「いや別製でなも、原料水は、へへん、ラインの水で」と扇を叩いた。「赤いのは」と聞けば「色で染やしたで」とまた扇を叩いた。色は樺太のフレップ酒に似て、地の味はやはり焼酎の刺激がある。土地の名産忍苳酒は味淋に強い特殊の香気を持たしたものらしい。
それは兎に角、舟は今、三光稲荷の下にかかって来る。三光稲荷の夏祭は津島祭の逆鉾舟──一年十二ヶ月は三百六十五の提灯を山と飾った華麗と涼味とを極めた囃子舟である──にならって、これもおなじく水の祭が極彩色でと町長の話であった。今後はいよいよ盛んに奨励する意向にも聞いた。民衆の祭は盛んであるほど郷土の意気が勇む。水を祭るは水郷のほこりである。精華である。私の郷国筑後の柳河は沖の端の水天宮の水祭には、杉の葉と桜の造花で装飾され、簾を巻き蓆張りの化粧部屋を取りつけた大きな舟舞台が、幕あいには笛や太鼓や三味線の囃子もおもしろく町の水路を三日三夜さも上下する。そうして町のかわるたびに幕をかえ、日をかうるたびに歌舞伎の芸題も取りかえる。そうした小運河はまた近在の小舟でうずまってしまう。その五月の喜ばしさというものはなかった。まことに水は祭られてよい。夏は、風は、魚は、岩は、砂は、この日本ラインにしていよいよ煌々と祭らるべきである。その三光稲荷の水の祭もほんのすこし前に過ぎたばかりだということであった。
「坊や、昨夜の花火は奇麗だったね」
「うん、奇麗だったね」
ちょうど河の中の白い三角洲の横を舟はまた走りつつあった。その洲には赤い旗がひるがえり、数百の花火筒が林立した前の日であった。
隆太郎はその朝、従兄弟たちと名古屋から来た。彼の母はとうとう見えないことになった。すっかり期待を裏切られた幼童の失望はどれほど大きかったか。それでも彼は堪えに堪えていた。一生懸命に口を結んで泣くまいとしていた痛々しさが父の胸にはひたひたと響き返した。この暑さにこの幼い子を十余日の旅に連れあるくことは危険でもあり、少々果断にも過ぎた。それで来られるものならその母に預けて、私は単独に気軽にあるき廻ろうかと思っても見た。何でも余りに便通がないので、名古屋では挙って心痛したということであった。「そりゃあね、庭の鳳仙花の中か、裏の玉蜀黍畠にでも連れてきゃよかったんだよ」と私は三高生に笑って見せたが、「それでも下剤薬を飲ましたので通じましたよ」とその甥がまた笑い出した。そうして、「ちょっと泣きましたよ」と顔を赤くした。病気にでもなられては困るが、兎も角、それでは一緒に連て行こうとなった。よしスパルタ教育だ。この旅行は隆太郎にとっては生れて初めての意義ある見学であるのだ。幼児の叡智と感情と感覚と意志との上に増大し生長し洗練さるる何物かは寧ろ危険以上のものであるに違いない。で、私も決行したのであった。
「や、花火の椀殻だな」
炸裂した後の黒い半分ずつの椀殻が水にぽかりぽかりと漂っている。おしどりのようだ。
まったく、長い、薄明がいよいよ暮つくして短い夏の夜に入ってからの花火の壮観はすばらしかった。菊花壇、菊先乱発、二尺玉、三尺玉、大菊花壇、二百発三百発の早打、電光万雷、銀錦変花、菊先錦群蝶、青光残月、等等等。燦爛たる孔雀玉の紫と瑠璃と、翡翠と、青緑。紅と緑の光弾、円蓋、火箭、ああ、その銀光の投網、傘下し、爆裂し、奔流し、分枝し、交錯し、粉乱し、重畳し、傘下し、傘下し、傘下し、八方に爛々として一瞬にしてまた闇々たる、清秀とも、鮮麗とも、絢爛とも、崇美とも、驕奢とも、譬うるに言葉も絶えた。加えて波上の炎々たる水雷火、その魚鱗火、連弾光、鵜舟の篝、遊覧船の万灯、提灯、手投げの白金光、五彩の変々たる点々光、流出柳箭、けだし参と信との花火芸術の最高を極め精を尽くし神を凝らしたものであった。
空には月明らかに雲薄く、あまつさえ白帝城の甍と白堊とを耿々と照らし出したのである。
然しまた、そうした一夜の歓楽も過ぎた。祭りの後の果敢なさ、そのあわれさは、この水にしてひとしおである。
舟はいま夕暮富士を右手に、その三角洲の緩い彎曲線に沿うて左寄りの分流を走りつつすべりつつある。
阪下という、ごろた石の土手の斜面に舟夫はちょいと舟をとめる。十二、三ばかりの、女の子が前かがみに何か線の細かな菜の葉をすすいでいる、芹かときいてみるとかすかに顔を赤らめながら、人参の葉だという。その傍で半襦袢の毛脛の男たちが、養蚕用の円座をさっさっと水に浸して勢いよく洗い立てる。空の高瀬舟が二、三艘。
船はまた岸を離れる。振り返ると、おお何と典麗な白帝城であろう。蓊鬱たる、いつも目に親しんで来たあの例の丘陵の上の、何と閑雅な甍、白い楼閣、この下手から観るこの眺めこそは絶勝であろう。私はつくづく下って来てよかったと思った。
「坊や、ほら、お城が見えるよ」
「ほんとだ、お城だ」
だが、その白帝城とも、じきにお別れである。
分流は時に細い早瀬となり、蘆荻に添い、また長い長い木津の堤の並木について走る。堤には風になびく枝垂柳も見える。純朴な古風の純日本の駅亭もある。そうして昔作の農家。
私たちはまた振り返る。「さようならお城」はるかのはるかの白帝城。
船はまた大江の河心に出る。石船の帆が白く、時に薄い、紫の影の層をはらんで、光りつつ輝きつつ下をまた真近を、群れつつ、離れつつ去来する。
それよりも、実に驚いたのは、宏大な三角洲の白砂のかがやきであった。実に白い、雪以上の、白以上の強い、輝く白、その「白」がその全面をもって、直射する、また氾濫する日光を照りかえす、その「白」の美感は崇高そのもの、神采そのものでなくて何であろう。常に「白」の気韻を香気を幻惑を愛する私にとって、これほどのこうごうしい魅惑はむしろ私を円寂境の思慕にまで誘う。私はこれほどまでの石や砂の白い実相をかつて見たことがない。
そうして汪洋たる本流、輝く白のあなたの分流、対岸の、また下流の煙霞、
「海、海」と隆太郎は叫ぶ。
ところで、その子はビールの空瓶を舷から、ぽんと水に投げる。瓶は初め茶褐に、後は黒く、首だけもたげもたげして流に浮く。青の紫の鴨の首、うしろにうしろに遠くなる。それほど舟が早いのだ。
「まだあかないの、まだあかないの」
「坊や、そんなに飲めるかい、待ってくれ」
それでも空のビール瓶がほしさの、立ち上っては両手に、しゅうっとコップにむりやりである。
「困るよ、困るよ、ほら飛行場が見える」
と、岸には黒人種風景の、裸の童子と童女がいる。松と草藪と水辺の地面と外光と、筵目も光っている。そうして薄あかい合歓の木の花、花、花、そこが北島、向う遥かが草井の渡し。
前波不動の幽雅な小丘を右に見て、また耳に聞く左は梭の音のしずかな絵絹織る松倉の里である。
と、本流の水はまた一つの三角洲を今度は左に押しつめて、広く広く斜に、河幅を右へ右へと開いてゆく。おお、また渺々として模糊たる下流。
笠島の渡しというところを過ぎる。右の斜面の鼠色じみた帆の幌の小舎の内では、褌ひとつの船大工が船の内側を河心へ向けて、ととんとん、ととんとんとんと釘を打ち打ちしている。ほれぼれとしたものだ。遊ぶようなその鉄槌の手。
私たちの舟はまた櫓の音も緩く緩く波上に遊んでゆく、流れはもはや急ではない、大江の浩蕩とした漣である。
北方村本郷というところで、私たちは三艘の水車船を見た。また下流で二艘の同じような船を見た。船には家があり横の両側には二台ずつの軽い小板の水車が廻っていた。内部には杵の音がし、小糠のにおいがこめ、男女の声がしていた。支那の戦車のような形の船であった。これらは流れの瀬の替わるにつれて、昨日は下、明日は上へとのぼるのである。簡素ないい情趣である。
「これは、童謡になるな」と、私は眺め眺めすれちがってゆく。
東海道線は長い長い木曾川の鉄橋が近づいて来た。
「あ、あの右袂が笠松の四季の里です、向うが雀のお宿」
素峰子は舳に立って、白に赤の黒の彩雲閣のフラフを高く高く振なびかす。ちょうど鉄橋をくぐって出たところである。見ると、やや下手の左岸の松林の外では何かしきりに叫んで騒いでいる群があった。裸の童たちである。童ヶ丘とはそのお宿の砂丘にかつてたのまれて私が名付けたものであったが、こうしてちかぢかと来て眺めるのは今が初めてである。
「呼んでますわァ」
「君のとこの林間学校の子供たちだね。幾人ぐらい来る」
「昨年は百六十名ほど来ましたが、この夏は六十名くらいでしょうか、それに岐阜加納竹ヶ鼻笠松の子供が一週に四、五回は先生に連られて参りました。そうです。五、七十名ずつ一ノ宮、奥町の子供も遊びに来ますで」
「それは盛んだな」と私はまた、一人が飛び、翻った向うの投水台の強いかがやきをうち見やった。警戒標の旗の先だけが、その下の河心に赤い点をうっている。雨後の増水に流されて位置を変えたのであろう。
「起の水泳場というのはどこだね」
「ずっと下でなも」と蹲っていたのが、また立ちかける、先棹である。
「起はどうもあかんで」と後の櫓の手が右斜へいささか引き気味に、ここで刻みかけると、何鳥か白く光って空をば過ぎた。
と、私たちの小舟は小豆色のひろびろとした洲の浅みに沿って、いきれたつ蘆や薄のあいだにすれすれと横になってとまった。四季の里である。
と、その時、その裏の岸辺に早くも出迎えていたその里の老主人と笠松の町長さんとであった。
そこで「とうとうお連れ申したで」と雀頭巾は素峰子の眼鏡が光った。
「美濃側の笠松へ第一に舟は着けてお貰いしないと承知せぬで。尾張側の雀のお宿は後まわし後まわし」で笑って、「木曾川下りといえば昔はこの笠松までときまっていたものだ。日本ラインばかりで独占するとは怪しからん」とその家の主人がいきまいたと、それは昨日聞いた話であった。そう聞いて、今日の眺めに接すると、全くそうに違いないと思えた。河口はとにかく、犬山からこの笠松までの悠容たる大景を下流にして、初めて中流の日本ライン、上流の寝覚、恵那の諸峡が生きるのである。河川として他に比類のない多種多様の変化が、そうしてそれらの綜合美が。
水に臨んだ広い楼上に登って、私は下りに下って来た鉄橋の遥を顧みた。蘇川峡の奇勝、岩壁の鷹、白帝城、雨と朱の夕焼けと花火と、今はただ眼に入るものは雲である、江陵である。つい一、二時間前に見た白く輝く三角洲、分流の早瀬、船大工のとんとん、水車船の野趣、何だか遠い日の向うの煙霞と隔たってしまったような気がする。
私はまたこの晴れた日の大江の下のあなたを展望した。長堤は走り、両岸の模糊たる彎曲線の末は空よりやや濃く黒んで、さて、花は盛りの紅と白とのこの庭の百日紅の近景である。幽雅な繁みと茶亭と、晩夏の日射と蝉の声と。
籐の卓と籠の椅子と、冷した麦茶のコップと鉢の緑の羊羹と鮎の餅菓子。
東と南とに欄干は繞り、廂にはまた藤の棚がその葉の青い光線から、おなじくまだ青い実の莢を幾条も幾条も垂らしてはいるが、そうして昼間の岐阜提灯にもが、風はそよともしないのである。
暑い、なかなか激しい。蝋塗りの白い団扇が乱れ出した。
午後一時。見おろす一面の河幅は光り、光の中に更に燦々たるものが光って、その点々を舷側に、声なく浮ぶ小舟がある。小舟には一、二の人かげの水にうつって、何やらしきりに棹で河心を探っている。それは明るいしずかな画趣である。河底の砂にうもれた「木はし」をあさるのだそうな。「木はし」は流木の髄であると聞いた。洪水に押流されてきた樹木の磨き尽くし洗い尽くされた末の髄である。焚木としてこれほどのものはなかろう。烈々として燃え滓ひとつ残らないという。河畔の貧しい生活者にもこうした天与の恩恵はある。
うち興じていると、「しこらん」という土地の名菓が出る。豊太閤が賞美してこの名を与えたそうである。形は兜の錣のごとく、かおりは蘭のごとしというのだそうな。略して「しこらん」。私は和蘭陀語かと思った。おこしの類で、細く小切にした、かりかりと歯にあたって、気品のある杏仁水の風味がある。
この笠松はその昔「葦の洲」と称えた蘆荻の三角洲で、氾濫する大洪水の度ごとにひたった。この狐狸の巣窟を発いて初めて拓いたのが三ツ家の漂流民だと伝えている。その後秀吉が築堤してから、元は尾張に属していたのを何か心あって美濃の所領に移したものだと、「旧幕の頃には天領として郡代が置かれたものでして、ついこの下の土手に梟首場の跡がございますが」と町長、椅子から伸び上った。
鉄道開通以来、土地の人が頑固で、折角の停車場の設置を肯ぜなかったばかりに、木曾下流の渡船場として殷賑であったこの笠松街道もさっぱり寂れてしまったということであった。
この四季の里は俳名馬好と号した常に馬を楽んだ風狂の伯楽が初めて営んだものだそうであった。その馬好ももう五十年前とかに亡くなり、今は県会議員である当主が老後の楽みに買取って、おなじく幽雅な料亭としてその跡を承け継いでいる。
じいじい蝉がまたそこらの木立に熬りつき出した。じいじい蝉の声も時には雲と梢を閑かにする。
進められるままに私は隆太郎と階下の白い浴室にはいる。何かの蔓が葡った窓から、覗くと蘆荻が見え、河面が見える。白い浴槽の内では、そこで私が河童の真似をする。隆坊はきゃっきゃっと逃げあがる。
「昨日はおもしろかったかい。岩がたくさんあったろう」
「うむ」
「お猿がいなかった」
「いなかった。僕、奇麗な銀のおしっこをしたよ」
「ふうん」とその父は乱れた髪の毛を石鹸で洗いかける。
実は宵の花火までの間を是非その子にも見学させて置きたいと思って、甥たちに連れて出てもらった。そこで土田まで電車で、香木峡から舟でこの父とおなじに、日本ラインを下って来たのであった。
「何でもよく見ておくんだ。今度来てよかったね」
「よかったね」
上ろうとすると、きさくな女中が大きな桃色のタオルを両手にふうわりとふくらまして来た。
「さあ、かわいいお坊っちゃん、お拭きしましょかなも」
「いやだ」という裸のを、きゅっとかき抱くようにする。逃げかかる。そうなると、いよいよ女中もかまって来る。「ね、いい子だなも、いい子」さあ小坊主怒るまいか「馬鹿野郎、こん畜生」爪で引ッ掻く打ってかかる、彼は彼で一個の独自の存在であり、個の人格として取扱われないかぎり、少くとも自尊心を傷つけられたと感じたろう。狂人が狂人としての待遇を受くればきっと怒る。おなじ心理で、幼児もあまりに幼くちやほやされると憤る。童謡の創作にもここはよほど注意すべきところだ。「うっちゃって置いてくれたまえ、自分で拭くから」と私は声をかけた「そうかなも、気の強いお子はんやなも」
二階には上ったが、隆太郎余憤が晴れないと見えて、窓の障子紙をぴりぴりぴりと裂き初める。だが、こちらは堆く持って出された画帖や色紙や短冊をそうはばりばりとやる訳にはゆかない。
少憩の後、私たちは立ち上った。対岸の雀のお宿を訪ねようというのである。
「お坊っちゃん、早くお帰り、今夜はわたしがだいてあげるぞなも」
「いやだ、僕、北原白秋と寝るんだ」
「へへえ、この子はん、変ってやはりますなあ」
自動車が走り出した。
雀のお宿の素峰子は、自ら行乞子と称している。かつては書店の主人であったが、愛妻の病没により、哀傷の極は発願して、奮って無一物の真の清貧に富もうと努めた。一灯園にもはいった、その木曾川橋畔に現在の学園を創立するまでの辛苦は並々でなかったらしい。ただこうした事業は気を負いやすいものである。過ぎれば俗情の禍が来る。童ヶ丘がどれほどの童ヶ丘になりきたったか。この機会に親く観て置きたいと私は思ったのである。
雀のお宿の位置は笠松の対岸になる。低い砂丘のその松原は予想外に閑寂であった。松ヶ根の萩むら、孟宗の影の映った萱家の黄いろい荒壁、機の音、いかにも昔噺の中の鄙びた村の日ざかりであった。莚などしきちらして、郵便配達夫までが仰向けに昼寝している。その傍に杉の皮で葺いた風流な門があった。額には青い字で掬水園と題してあった。縁側や見透しの狭い庭には男女の村童が群って遊んでいる。玄関の左には人間愛道場掬水園の板がかかり、ふり仰ぐと雀のお宿の大字の額に延命十句観音経まで散らして彫り、右には所用看鐘として竹に鐘がつるしてあり、下には照顧脚下と書してある。けだし寺であり、学園であり、在家であるというのだろう。ただ趣味としての風雅が形式として勝ち過ぎる。寧ろ飾らぬがよくはないかと私はいった。仏間が教室で良寛和尚を斎ぎ、小さな図書室が表に、裏には琅玕荘の別棟がある。琅玕荘では男女の小学教師たちが二、三十人ほど集まって私を待っていた。私は民謡や童謡の話などをして、すぐとまた席を立った。
松林にも腕白らが騒いでいた。良寛堂の敷地には亭々たる赤松の五、六がちょうどその前廂の斜に位置して、そのあたりと、日光と影と、白砂と落松葉と、幽寂ないい風致を保っていた。
「こんないいところが、対岸にあろうとは思わなかった」と四季の里の主人も感嘆した。「とにかく、よくこれまでにやりとおして来た、見あげた」と私も微笑した。然し、これからが大事である。形式が精神を超えると名利の家となる。「素峰、これからやかましくいうぞ」と私は笑った。
私たちは桑畑と松林の間を木曾川の左岸に出た。また松林があった。テントと投水台と。
西には養老の山脈、遥には伊吹山、北には鉄橋を越えて、岐阜の金華山、幽かに御岳。つい水の向うが四季の里の百日紅。
「さあ、これから帰って一杯差上げますで」とその老主人公がさっさと踵をめぐらした。
藤棚の多い四季の里の一夜の饗宴には土地の警察署長や農会長、旧知の歌人の黙々子などが加わった。私たちは幾度か庭の茶亭から茶亭へ席を代え代えした。夜がふけて私はたったひとりで仰向きに胸や腹をつん出して眠りころげている隆太郎の蚊帳にもぐりこんだ。そうして、そのでっかちな毬くり頭をはずれた枕へ持ちあげ、借着の寝衣の前を深く深く合せてやると、そのままぐっすりと眠ってしまって、すぐと河霧の白い白い夜あけが来た。
私たちはその翌日、養老へ立った。そこで二泊、名古屋に引き返して一泊、それから恵那へ行った。
八月十二日、午後五時。
恵那峡口は遊船会社附近の鉄橋風景である。対岸に簡素な二階建ちの洋館が一つ、清流を隔てたこちらの土手の雑木、草藪、岸には空色に白のモーター・ボート、赤い線のエのフラフをひるがえした屋形船。それに乗り込んだ私たち一行──私と隆太郎と同伴の素峰子、その義弟のT少年、それにその地の「山峡」の歌人たち七、八子──である。肉いろの、緑の、桃いろの、パラソルを畳んで、水際に蹲った浴衣の女学生らしいのが二、三人、これらは私たちの連ではない。たまたま雲のごとく水鳥のごとくに現れて、この風景を明るく可憐に点彩したまでのことである。
旧暦は盂蘭盆の十五日、ちょうど今夜は満月である。空ははれ、風は爽かに、日の光は未だ強い。その良夜の前の二、三時間を慌ただしい旅の心が騒めきやまぬ。駅から駅への電話が、この中津川で行先不明の私たちをやっと捉えると、直にも引き返さねばならぬ重大用件を取りついだのである。で、上流の福島や寝覚の床探勝の予定も中止すると、どうでも明十三日の朝には此処を立たねばならなくなった。で、日の暮までの僅な時間を屋形船はモーター・ボートのぼッぼッぼッぼッに曳かせて、大急ぎで恵那峡一帯を乗り廻ろうというのである。
席が定まってから、「おや、あの印刷屋さんはどうしたね」と、私は驚いて笑った。多治見にいち早く私たちを出迎えてくれて、それから中津川に着くまでの汽車中を分時も宣伝の饒舌を絶たなかった、いささか豸へんの恵那峡人Yという、鼻の白くて高い痩せ形の熱狂者が、いつのまにか掻き消すようにいなくなったものである。
「あはは、またお出迎いでさあ、何でも活動の撮影団が来るとかいってましたから。とても夢中で」
とその従兄の民謡詩人がツルリと禿上ったその前額を指で弾く。
「ほう、いそがしいね、愛郷心もあそこまで行けば命懸けだ」
何でも八景投票の恵那峡の騒ぎというものは凄じかったらしい。うっかり悪口でもいおうものなら殺される。
と、雲と山と水との四囲の風景が走り出した。
「やれ飛べ観音というのは」
「もっと上です。惜いことしました、ゆっくり御案内できないで」
光る、光る、光る、光る。銀、銀、銀、銀の水面、水面──水面。
「あれが御番所の森です」
幽邃な左岸の林に釣人がいる。一人、二人、三人、四人。麦稈帽で半シャツ、かがんで、細い棹の糸をおなじくしんかんと水に垂らしている。木の影が老緑色に澄んで、ぴちりぴちりと何か光るけはいがある。鯉や鮠を釣るのだという。あの森にはまた鶴が棲んでいたこともあったと誰かがいった。木曾谷の下る筏を見張った御番所の跡であるらしい。
苗木の城址はこれに対して高く頂上の岩層にうら寂びた疎林がある。日本唯一の赤壁の城の趾があれだという。この淵の主である蟠竜が白堊を嫌ったという伝説がある。
私は「恵那峡舟遊案内」と見較べ見較べ、いそがしい、いそがしい。
風、風、風、風。
光る、光る、すばらしく光る朴の葉裏である。
翠巒、翠巒。
下手の空際には高圧線の鉄塔が見える。大同電力のダムで堰かれた河流は百八十尺の高さにその水深を増したというのだ。
風、風、風、風。
水は波は、ともすると逆流する。河というよりたんたんと湛えた湖水の面である。両岸には、木の梢や、思いもかけぬ枝の半上などが水に露われて、さながら洪水にひたされた林相である。こうして急流は変じて深潭となり、山峡の湖水となり、岩はその根を没して重畳奇峭の趣を少からず減じてしまったと聞いた。然しながらその為にまた水は紺碧を加え、容量は豊富に深沈たる山中の幽寂境を現出した。
この恵那峡は木曾川の中流である中津川駅の傍から大井町に至る水程三里の間にあって、岐蘇渓谷中の最勝の奇景であるといわれている。日本ラインの奇岩怪石は多く相迫って河中聳立するが恵那峡の岩石美は寧ろ山上にあり千仞の懸崖にある。
「あれが青崖」
眼を遮るは濃青の脈々たる岩壁である。その下の鞍掛岩。その左は展けた下流の空の笠置山。雲だ、雲だ、雲だ。
右には武光岩、鬼岩、蟇岩、帽子岩、ただ見あぐる岩石の突屹相、乱錯相、飛躍相、蟠居相、怪異相、趺坐相相相である。点綴するには赤松がある、黒松がある、矮樹がある、疎林がある。
光る、光る、光る、光る朴の葉裏である。
ぼッぼッぼッぼッ、煙、煙、煙。
「や、あれが月待ヶ丘です」
「今夜の満月はさぞいいだろうな」と私はその丘の空際をふり仰いだ。それにしてもあまりに慌ただしい舟の速力である。
「誰か踊らないか」と一人がビールをあおった。
「あ、あれが村雨の滝です」
峡中の美橋、美恵橋が現れて来た。一名褌橋というのがそれだ。褌の節約と馬糞の拾集とから得た利益を積み立てて架橋したのが大正三年の洪水で流出した。
「褌橋が落ちた。と歌ったものです」で、みんなが笑い出した。今のは鉄橋。
「山峡」同人の指呼はいよいよ急がしくなる。天狗岩です。ほら、枕石だ、後阿弥陀岩だ、砲台岩岩岩岩。
そこで品の字岩というのが眼界に聳えて来る。文字どおりの角の巨岩が相対し重積して、懸崖の頂きにあるのだ。ただ私にはそうした奇趣に興味を持たぬ。画とし詩とするには索然たるものがあるからである。
その本流と付知川との合流点を右折して、その支流一名緑川を遡航する舷に、早くも照り映ったのは実にその深潭の藍碧であった。日本ラインにもかつて見なかったその水色のすさまじさは、まことに深沈たる冷徹そのものであった。山中において恐らくいかなる湖面といえどもこれほどの水深を蔵する凄みは少いであろう。大同ダムで堰き止められて、本来の懸崖の三分の一以上、二百仞も高く盛り上ったその水際には、すなわち現実における魚は緑樹の梢にのぼり巉岩は河底の暗処に没して幽明さらに分ちがたい。しかもまた峭々として相迫った岩壁の間に翼を休めた蒼い蒼い真上の空の一角である。雲は白く綿々として去来し、巒気はふりしきる蝉の声々にひとしおに澄みわたる、その峡中に白いボートを漕ぐ白シャツの三、五子がいる。この奇異な対照こそ寧ろ観るべからざるを観る一種の戦慄をさえ感ぜしめる。
朝鮮金剛の勝に私たちは当面したのである。この渓谷のいさぎよくして閑かな、またこの重畳たる岩峭の不壊力と重圧とは極めて蒼古な墨画風の景情である。夫婦岩、蓬莱岩、岩戸不動滝、垂釣潭、宝船、重ね岩、宝塔等等等の名はまたあらずもがな、真の気魄はただに天崖より必逼する。
安子穴というのがあった。白狗と白馬との天正時代の伝説がある。後、お安という女人が零落してここに玉のような童子を育てた。以前は岸辺伝いからどうにか上れたであろうところも今は変じて湖上の絶壁となった。
船止めの葦毛潭から引かえして本流に出る。
源斎巌が左に、対って高く聳つ天柱岩がある。このあたりから丘陵の間はやや斜面に展けて赤松の細い幹が縁辺に林立し、怪奇な岩層の風致に一種の繊細味を交えてゆく。対松崖はこれと映照する。
続いて、私たちの屋形船は屏風岩の岩壁にひたひたと舷を寄せた。朝鮮金剛の勝以上の大観である。参差たる松ヶ枝、根に上り、横に葡い、空にうねって、いうところの松籟般若を弾ずるの神境である。
巒気と水光と変幻する雲、雲、雲。
右には蕭々たる滝がある。あ、水車がある。釣人は幽かに棹をかついで細い径をのぼってゆく。
簡素な別荘がある。近代の料亭もある。
鉦鼓淵、盗人谷、その天上の風格は亭々と聳立する将軍台、また厳として平なる金床台。
金色の日光。
と、展望がここで明るくなって左に船着場があった。エの朱線のフラフ、屋形、モーター・ボート、輝く波々、桟橋の童、風、風、風。
木の間がくれの茶亭の下へ、さて上って、ズボンの釦をはずす男もいる。
その正面こそ大同電力の白い白いダム堰堤である。古典的の幽邃と奇峭とはここに変転して、近代の白と灰銀との一大コンクリート風景を顕現する。水はまんまんとして、そのダムに堰かれて湛え、橋梁の連灯はまだ白く玻璃球のみ光って、丘陵の上、また水辺に反照する鮮明なる洋風建築、このダムこそ東洋一の壮観だとせられる。その堰堤の高さ百八十尺、長さ一千尺コンクリート、貯水量十億立方尺、堰堤上流三里十二町、面積百七十一町、水量流域百二十三方里、発電機四台、励磁機二台、電力四万二千九百キロワット。惜しむらくは下流に立ってこれを仰視し得る機会を得なかったことである。
私たちはその壮麗なるダムの前の広々とした湖面を一周して、さて、いよいよ帰路についた。急速力でである。
遊船会社の前の峡口は高い高い白い石の橋台に立って、驚くべき長い釣棹を垂れている人影も見えた。橋の下にも幾群か糸を投げて魚を待つ影も見えた。
夕焼けが来た。さわりさわりとその肩の長い棹を弧に、その先きを線路につけて、その鉄橋の枕木の上を拾い拾い渡る男も見えた。
私たちは上って、撮影をすると、すでに灯のともった臨時電車にぞろぞろと乗り込む、走る、走る、走る。
私は思った。恵那峡の幽邃はともすると日本ラインの豪宕を凌ぐ。ここまで上って来なければ木曾川の綜合美は解せられない。すばらしい、すばらしい。
さて散策して見た中津の町は電飾が鮮かではあったが、いかにも北国の小都市らしく、簡素で、また陰暗たるところがあった。
その晩、梅信亭で饗宴が催された。この町の若い美技が輪になって、そこで、紅い頭巾に花笠、裁付袴のそろいで、本場の木曾踊りを踊った。だがあまりに巧緻に過ぎ、柔軟に過ぎた。「民謡とはそんなもんじゃない、おうい、俺が御手本を示してやる」私も酔っていた。隣室に飛び込むと、それ何、それ何、それ何という騒ぎになった。
紅い頭巾で、背中に花笠で、裁付袴で、やあよいかとゆらりと出て行くと、若い町長初め、一同がやんやと拍手した。
そこで、ちょっと紅い頭巾の頭を掻いて、私も笑い出した。大胆というより無鉄砲なのだ。
「おうい、坊や、いっしょに踊ろう。ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイだ」
この夜こそ旧暦の盂蘭盆であった。明るい明るい満月である。
底本:「日本八景 八大家執筆」平凡社ライブラリー、平凡社
2005(平成17)年3月10日初版第1刷
底本の親本:「日本八景─十六大家執筆」大阪毎日新聞社、東京日日新聞社
1928(昭和3)年8月15日再版
※「船」と「舟」の混用は、底本通りです。
入力:sogo
校正:岡村和彦
2015年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。