伊藤左千夫




 朝霧あさぎりがうすらいでくる。庭のえんじゅからかすかに日光がもれる。主人しゅじんきたばこをくゆらしながら、障子しょうじをあけはなして庭をながめている。えんじゅの下の大きな水鉢みずばちには、すいれんが水面すいめんにすきまもないくらい、まるけて花が一りんいてる。うすくれないというよりは、そのうすくれない色が、いっそうこまかに溶解ようかいして、ただうすら赤いにおいといったようなあわあわしい花である。主人は、花に見とれてうつつなくながめいっている。

 庭の木戸きどをおして細君さいくんが顔をだした。細君はとし三十五、六、色の浅黒あさぐろい、顔がまえのしっかりとした、気むつかしそうな人である。

「ねいあなた、大島おおじま若衆わかしゅうちちしぼりをつれてきてくれましたがね」

 こういって、細君さいくんは庭にはいってくる。主人しゅじんはゆるやかに細君に目をくれたが、たちまちけわしい声でどなった。

「そんなひよりげたで庭へはいっちゃいかん、雨あがりの庭をふみくずしてしまうじゃないか。どうも無作法ぶさほうなやつじゃなあ、こら、いかんというに……」

 主人のどなりと細君の足とはほとんど並行へいこうしたので、主人はしたうちして細君をながめたが、細君は、主人の小言こごとに顔の色もうごかさず、あえてまたいいわけもいわない。ただにわかに足をうかすようなあるきかたをして縁先えんさきへきてしまった。

 げたのあとは、ずいぶん目だって庭にきずつけたけれど、主人はふたたび小言こごとはいわなかった。主人は、平生へいぜい自分の神経過敏しんけいかびんから、らちもないことにはらをたてることを、自分のそんだと考えてる人である。いま細君にたいする小言こごとのしりをむすばずにしまったことを、ふとおのれにちえたように思いついて、すいれんのこともわすれ、庭をそんじたことも忘れて、笑顔えがおを細君にむけた。

 細君は下女げじょをよんで、自分のひよりげたをこまげたにとりかえさして、縁端えんばたこしをかけた。そうしてげたのあとをしてくれ、と下女にめいじた。

 細君は、主人からある場合ばあいになにほどどなられても、たいていのことでははらをたてたり、反抗はんこうしたりせぬ。それはあながち主人しゅじん小言こごとになれたからというのでもなく、主人をおそれないからというのでもない。細君は主人の小言をのある小言か根のない小言かを、よく直覚的ちょっかくてき判断はんだんして、根のない小言と思ったときは、なんといわれたってけっして主人にさからうようなことはせぬ。

 主人は細君をそれほどおもんじてはいないが、ただ以上いじょうてんをおおいにけいしている。

「おまえは、とくなしょうだ」

とほめてる。細君も笑って、

「とくなしょうではありませんよ、はじめからそんをあきらめてるから、とくのように見えるのでしょう」という。

 世間せけんには、ちょっとしたはずみでおっとからたれても、それをいっこう心にもとめず、打たれたあとからすぐ夫となかよく話をする女がいくらもあるから、これは女性じょせい特有性とくゆうせいかもしれぬ。つまなどはそれをすこしうまく発達はったつしたものであろうと、主人は考えている。

 そう考えてみると、自分が妻にたいしてわずかのことに大声たててどなるのは、いささかきまりがわるくなる。それで近来きんらい主人は、ある場合ばあいにどなることはどなっても、きょうのようにしりをむすばぬことがおおいのだ。

 ちちしぼりというのは、五十ばかりのあかがおな、がんじょうな、人にってもただ頭をたてにすこし動かすだけで、めったに口をきかない。それでどうかすると大きな茶目ちゃめを見はって人を見る。たいていの女であったら、気味きみわるがって顔をそむけそうな、すこぶる人好ひとずきのわるい男だ。

 つれてきた若衆わかしゅうの話によると、ちちしぼりは非常ひじょうにじょうずで朝おきるにも、とけいさえまかしておけば、一年にも二年にも一朝ひとあさ時間をたがえるようなことはない。ただすこし頭の調子ちょうしが人なみでないから、どうもこれまで一かしょに長くいられなかったが、ご主人しゅじんのほうで、すこしその気質きしつをのみこんでいて使ってくだされば、それはそれはりっぱな乳しぼりだ、こちらのだんなならきっとうまく使ってくださるにちがいない、本人ほんにんもそういってあがったというのであった。

 細君さいくんは、こうひととおり話しおわってから、

「わたしはどうも、あまりこのましくないけれど、ちちしぼりもなくてはじつにこまるから、おいてみましょうねえ」

とつけくわえた。主人も聞いてみると、すこしはうわさに聞いたことのある、花前はなまえという男だ。変人へんじんで手におえないとも、じつはかわいそうな人間だともいわれて、府下ふか牛乳屋ぎゅうにゅうやをわたっていたちちしぼりである。主人はしばらく考えたのち、

「それはうわさに聞いたことのある変人へんじんちちしぼりだ。朝おきるのがたしかで乳しぼりがじょうずなら、使ってみようじゃねいか。うまくいかぬことがあったら、それはそのときのこととして、とにかくおいてみるさ」

 細君さいくん不安ふあんなりに同意どういして、その乳しぼりをおいてやることになった。牛舎ぎゅうしゃのほうでは親牛おやうし子牛こうしとをけて運動場うんどうじょうにだしたから、親牛も子牛もともによびあっていてる。二、三日ぶりそとへだされた乳牛にゅうぎゅうは、よろこんでしきりに運動場をとびまわる。

 洗濯物せんたくものに気をとられてる細君の目には、雨あがりのうるおった庭のおもむきも、すいれんのうるわしい花もいっこう問題にはならない。

「それじゃそう」

との一ごんをのこして、また木戸きどから細君はでていった。



 昼乳ひるちちをしぼる刻限こくげんになった。女が若衆わかしゅうをおこす。細君は花前はなまえにひととおりのさしずをしてくださいというてきた。ほかのふたりのわかいものは運動場の乳牛にゅうぎゅうを入れにかかる。はりいたをふみたてる牛の足音がバタバタ混合こんごうして聞こえる。主人も牛舎ぎゅうしゃへでた。乳牛にゅうぎゅうはそれぞれ馬塞ませにはいって、ひとりは掃除そうじにかかる、ひとりはにかかる。主人はここではじめて花前にった。

 五十になってもしりのおちつかない、ちぶれはてた花前は、さだめてそぼろなふうをしているかと思いのほか、かみをみじかくり、ひげをきれいにそって、ズボンにチョッキもややあかぬけのしたのをてる。白いシャツをひじまでまくり、天竺てんじくもめんのまっ白い前掛まえかけして、かいがいしいごしらえだ。

 主人はまずそれがおおいに気持ちよかった。花前は主人にたいしても、ただれいのごとくちょっと頭をさげたばかりである。かえって主人のほうからしたしくことばをかけた。

花前はなまえ、おまえのうわさはちょいちょいいていたよ、こんどよくきてくれた、なにぶんたのむぞ」

 花前はなまえは、はいともいわない、わずかに目であいさつしてる。主人は家の習慣しゅうかんとだいたいの順序じゅんじょとをつげて、これだけの仕事しごとはおまえにまかせるからとめいじた。

 花前は、耳で合点がてんしたともいうべきふうをして仕事しごとにかかる。片手かたてにしぼりバケツと腰掛こしかけとを持ち、片手かたて乳房ちぶさあらうべきをくんで、じきにしぼりにかかる。花前もここでは、

「どれとどれをしぼるのですか」

と主人に聞いた。

 主人はこれとこれとと、つぎつぎかぞえてつごう十余頭よとうちちのでるのだ。それからこの西側にしがわから三つめの黒白まだらが足をあげるから、をやっておいて、しぼらねばいかぬとつげる。花前はそういう下から、すぐはじめの赤牛からしぼりにかかった。花前の乳しぼる姿勢しせいははなはだ気にいった。

 左の足を乳牛にゅうぎゅうむねあたりまでさし入れ、かぎの手にった右足のひざにバケツを持たせて、かた乳牛にゅうぎゅうのわきばらにつけ、手も動かずからだも動かず、乳汁にゅうじゅうたきのようにバケツにほとばしる。五分間ばかりで四しょうあまりの乳をしぼった。しぼったちちは、高くもりあがったあわが雪のように白く、毛のさきほどのほこりもない。主人はおぼえずみごとな腕前うでまえだと嘆称たんしょうした。

 乳をってしにかけた細君も、きれの上にほこりがないのにおどろいて、

「なるほど、花前はしぼるのがじょうずだ」

と主人のところへ顔をだしてほめる。

 花前はいろも動きはしない。もとより一ごんものをいうのでない。主人しゅじん細君さいくんとはなんらの交渉こうしょうもないふうで、つぎの黒白まだらの牛にかかった。主人は兼吉かねきちをよんで、いましぼるからこの牛にをやれとめいじた。花前はなまえはしぼりバケツを左に持ちながら、右手で乳牛にゅうぎゅうかたのへんをなでて、バアバアとやさしく二、三声をかける。

 乳牛はすこしがたがた四を動かしたが、飼い葉をえて一しんいはじめる。花前は、いささか戒心かいしん態度たいどをとってしぼりはじめた。じゅうぶん心得こころえている花前は、なんのもなくはね牛の乳をしぼってしまった。主人は安心あんしんすると同時どうじに、つくづく花前の容貌風采ようぼうふうさい注視ちゅうしして、一種の感じをきんじえなかった。

 その毅然きぜんとして、なにかかたく信ずるところあるがごとき花前は、そのわざにおいてもじつにかみたっしている。しかるにもかかわらず、人に使われてるのみならず、おちついて使われている主人をすらえられないかと思うと、そこにだいなる矛盾むじゅんを思わぬわけにいかない。

 見るところ、花前は、ほとんど口をきく必要ひつようのないまで、自分の思うとおりを直行ちょっこうするほか、なんの考えるところもないらしい。こう思うと、われわれの平生へいぜいは、ただ方便ほうべんしゅとすることばかりおおくて、かえってこの花前に気恥きはずかしいような感じもする。

 花前はかえって人のいつわりおおきにあきれて、ほとんど世人せじん眼中がんちゅうにおかなく、心中しんちゅうに自分らをまで侮蔑ぶべつしつくしてるのじゃないかとも思われる。さりとてまた、五十になるを人にたくして、とんと人と交渉こうしょうしえない、世にもあわれな人間とも思われる。

 主人が妄想もうそうちて、いたずらに立てるあいだに、花前は二とう三頭とちゃくちゃくしぼりすすむ。かれは毅然きぜんたる態度たいどでそのなすべきことをなしつつある。花前は一めんあわれむべき人間には相違そういないが、主人も花前を見るにつけ、みずからかえりみると、確信かくしんなきわが生活の、精神上せいしんじょうにその日暮ひぐらしであるずかしさをうち消すことができなかった。

「だんな、くそがはねますよ、すこしどうかこっちへきてください」

 そういう兼吉かねきちは、もはやをすませて、おぼれいた掃除そうじにかかったのだ。うまやぼうきに力を入れ、糞尿ふんにょう相混あいこんじた汚物おぶつを下へ下へとはきおろしてきたのである。

たったから、ふすまをかいておくれ、兼吉かねきち

 ながから細君の声で兼吉はほうきをおいて走っていく。五郎はまぐさをいっせいに乳牛にふりまく。十七、八頭の乳牛は一騒然そうぜんとして草をあらそいはむ。そのあいだにも花前はすこしでも、わが行為こうい緊張きんちょうをゆるめない。やがて主人はおくきゃくがあるというので牛舎ぎゅうしゃをでた。



 その夜の晩餐ばんさんのときに、細君はそろそろこぼしはじめた。

「ねいあなた、人なみでないっち話ではあったけれど、よほど人なみでないようですねい、主人からものをいわれても、なるべくは返事へんじもしたくないというふうですからねえ、あれでどうでしょうかねえ」

「うむ、変人へんじんだと承知しょうちでおいてみるのだから、いまからこぼすのはまだ早い、とにかく十か二十日も使ってみんことにはわかりゃせんじゃないか」

「そりゃそうですけれど」

「えいさ、変人へんじんのなりがわかりさえすりゃ、その変人なりに使ってやる道があるだろう」

 話もそれでおわりになったが、主人しゅじんはこの花前はなまえのことについて考えることに興味きょうみってきた。その夜もいろいろと考えた。

 かれははじめから変人ではなかったろう。かれがあんなになるについては、かならず容易よういならぬ経歴けいれきがあったにちがいない。それがわかれば、いっそうかれが今日こんにち状態じょうたい興味きょうみがふかいだろうけれど、わからぬものはしかたがないとして、きょう見ただけでもかれは興味きょうみある変人だ。かれが顔色とかれが風采ふうさいとに見るもかれがはじめから狂愚きょうぐでないことはわかる。

 かれが行動こうどう確信かくしんあるがごとくにして、その確信かくしんそこがぬけているところ、かれが変人たるゆえんではあるが、しかしながらかれは確信かくしんという自覚じかくがあるかどうか、確信の自覚がないのに底ぬけを気づくべきはずのないのはあたりまえだ。おそらくかれには確信という意識いしきはないにちがいない。確信も意識もないにしても、かれの実行動じつこうどう緊張きんちょうした精神をもって毅然直行きぜんちょっこうしている。その脈絡みゃくらくのていどや統一とういつ範囲はんいは、もうすこしたってみねばわからぬが、とにかく一脈絡みゃくらく統一とういつとはじゅうぶんみとめることができる。みょうな変人があったものだ。

 なにひとつ人にすぐれたことのない人間にんげんからみると、ああいう人間のほうがたしかにおもしろい。あまりよく調和ちょうわする人間にろくなやつはないけれど、そのろくでもないやつのほうが、この世の中ではたいてい幸福こうふくであるのがおかしい。

 自分と花前はなまえとをくらべて考えるとおもしろい対照たいしょうができる。われわれは問題の大小を識別しきべつして、いつでも小問題をごまかしているが、花前は問題の大小などいう考えがはじめからなくて、なにごともごまかすことが絶対ぜったいにできない。であるからわれわれは、近い左右前後さゆうぜんごはいつでもあいまいであるけれど、遠い前後とひろ周囲しゅういには、やや脈絡みゃくらく統一とういつがある。花前になると、それが反対はんたいになって、近い左右前後さゆうぜんごはいつでも明瞭めいりょうであって、遠い前後や広い周囲しゅういはまるでくらやみである。

 まずちょっとこんなふうに差別さべつされるようだが、近い周囲をあいまいにしてしょするということが、けっしてほこるべきことではなかろう。結局けっきょく主人は、花前にまなぶところがおおいなと考えた。

 そのよく朝であった。細君さいくんはたばこぼんに長いきせるを持ちそえて、主人の居間いまにはいってきた。

「花前は保証人ほしょうにんがあるでしょうか、なんでも大島おおじま若衆わかしゅうの話では、親類しんるい身内みうちもないひとりものだということですから、保証人はないかもしれませんよ」

「うむ」

金銭きんせん関係かんけいしないから、そのほうはなんですけれど、病気にでもかかったらこまりゃしませんかねえ」

「そうさな、保証人ほしょうにんのあるにましたことはないが……じゃちょっと花前はなまえをよんでみろ」

 細君さいくん下女げじょめいじて花前をよばせる。まもなくかれはズボンチョッキのこざっぱりしたふうで唐紙からかみそとへすわった。れいのごとくかる黙礼もくれいしただけで、もとよりものをいわずよそ見をしている。花前の顔色には不安ふあんもなければ安心あんしんもない。主人は無意職むいしきに色をやわらげてことばかるく、

「花前、おまえ保証人ほしょうにんはあるかね」

「ありません」

 花前は、よどみなく決然けつぜんと答えて平気へいきでいる。話のしりをむすばないことになれてる主人も、ただありませんと聞いたばかりではこまった。なみのものであれば、すぐにそれでおまえどうする気かといかえすにきまってるけれど、変人へんじんをみとめている花前にそういってもしかたがないから、

「うん、そうか」

といったまま、しばらくもくしている。細君はじれ気味ぎみに、

「おまえずいぶん長いあいだ東京にいるというに、懇意こんいの人もないのかね」

 花前はちょっと目を細君にむけたが、くちびるは動かない。これは細君のいがおかしいのだ。変人でとおった人間に懇意こんいな人があるかでもあるまい。主人はしかたがなく、

「まあえいや、そんなことあとの話にしよう、えいや花前」

「保証人がなくていけなければかえります」

「いや、帰られてはこまる、えいから花前やってくれや、じゃこうしよう、おれが保証人になることにしよう、だからやってくれや」

 細君は、目をぱちつかせて主人の顔を見る。

 主人は目で細君をせいす。勝手かってで子どもがきたったので細君はった。花前もつづいて立ちかけたのをふたたびになおって、

「この国でまれた人間ですから、つまりはこの国のやっかいになってもしかたありません」

 主人はきっと花前を見おろした。果然かぜん、花前にはなにか信念しんねんがあるなと思った。それでさらにおだやかに、

「そうだとも、それでおまえの精神せいしんはわかった、それで、おれがおまえの保証人になるから、おまえ安心してやってくれ、まだ昼乳ひるちちまでにはすこしやすむまがあるから休んでくれ」

 こういわれて花前は、それにこたうることばなく立った。花前は保証人になる人がないのではないらしい。自分のようなものは、いよいよ働けなくなれば、個人こじん世話せわするよりは国家こっかが世話すべきだと思ってるらしい。それならば考えのすじはたっていると主人は思った。主人はうしろ姿すがた見送みおくって、この変人いよいよおもしろいなと思った。



 それから五、六日たった。花前の働きぶりはほとんど水車すいしゃ回転かいてんとちがわない。時間じかん順序じゅんじょといい、仕事しごと進行しんこうといい、いかにも機械的きかいてきである。余分よぶんなことはすこしもしないかわりに、なすべきことはちょっとのゆるみもない。細君はやや安心して、結局けっきょくよい乳しぼりだと思った。

 ところが花前はなまえ評判ひょうばんは、若衆わかしゅうのほうからも台所だいどころのほうからもさかんにおこった。花前は、いままでに一もふたりの朋輩ほうばいと口をきかない。自分は一ぷんもちがわず時間どおりにおきるが、けっして朋輩ほうばいをおこさない。それでいまだに一度もわらったこともない。したがって人がどんなことしようと、それにいっこう頓着とんちゃくもせぬ。自分は自分だけのことをして、さっさとあがってしまう。

 そうかといって、花前さんちょっとこれこれしてくれといえば、それにさからいもしない。自分のからだにだけは非常ひじょう潔癖けっぺきであって、シャツとか前掛まえかけとかいうものは毎日あらっている。

 主人しゅじんは笑って、それだけのことならばしごくけっこうじゃないかという。

 台所のうわさはまたおもしろい。下女げじょはだいいちに花前さんはえい人だという。変人へんじんだといってばかにするのはかわいそうだという。ごはんだといわなければ、けっしていにこない。

 一日二日まえ、下女がうっかりしてよぶのをわすれたら、ついにめしいにこなかった。若衆わかしゅうはすましたことと思ってさそわなかったとか。下女が夜おそくふと気づいて、聞きにいったら、まだ食わなかったそうで、それから食いにきた。

 下女はとんだことをしたとやんでいた。花前が食事しょくじ水車的すいしゃてきでいつもおなじような順序じゅんじょをとる。自分のときめた飯椀めしわん汁椀しるわんとは、かならずばんごと自分で洗って飯をべる。白いふきんと象牙ぞうげのはしとをだいじに持っておって、それは人に手をつけさせない。この象牙ぞうげのはしにはだれもおどろいてる。ややたいらめなしつのもっとも優等ゆうとう象牙ぞうげで、金蒔絵きんまきえがしてある。細君さいくんなどは見たこともないものだといっている。下女の話によると、下女が花前さんのおはしはじつにりっぱなものですねえ、なにかいわくのありそうなはしじゃありませんかというと、しろりと笑うそうだ。

 下女は花前さんを笑わせるにゃ、はしをほめるにかぎるといって笑っている。

 しかし細君や子どもたちは、変人へんじんとはいえ、花前がいかにもきちんとした顔をしているので、いたずら半分はんぶんにはしのことをうてみるようなことはしない。細君はどういうものか、いまだに花前を気味きみわるくばかり思って、かわいそうという心持こころもちになれぬらしい。

 主人は以上いじょうの話を総合そうごうしてみて、残酷ざんこく悲惨ひさん印象いんしょうを自分の脳裏のうりきんじえない。精神病者せいしんびょうしゃ相違そういないけれど、花前はなまえが人間ちゅうの廃物はいぶつでないことは、畜牛ちくぎゅういっさいのことをべんじて、ほとんどさしつかえなきのみならず、あるてんには、なみの人のおよばぬことをしている。いつかのように、この国でまれた人間ですからというような調子ちょうしに、人世上じんせいじょうのことになんらか考えてやしまいか。人世問題じんせいもんだいになんらかの考えがあって、いまの境遇きょうぐうにありとせば、いよいよ悲惨ひさん運命うんめいである。

 こう考える主人は、ときどきそれとなくおくまねいで茶菓ちゃかなどをあたえ、種々しゅじゅ会話かいわをこころみるけれど、かれが心面しんめんになんらのひびきを見いだしえない。なにをうても、かれは、はあというきりで、なんらのもつづらない。主人は百方ひゃっぽうをつくして、この国で生まれた人間ですからというような糸口いとぐちを引きだそうとこころみたが、いつでも失敗しっぱいにおわった。かれは主人にたいしたときにも、ときをきらわず立ってしまう。

 あるときはその象牙ぞうげのはしから話しかけてみると、なるほど下女のいうごとく、かれががんじょうな顔にしろりわらいをうごかした。しかしこれもわろうたきりで、それ以上いじょうには、なんの話もせぬ。依然いぜんたる前後の暗黒あんこくであった。

 そのように花前は、絶対ぜったいにほかに交渉こうしょうしえないけれど、周囲しゅういはしだいにその変人へんじんをのみこみ、変人になれて、石塊せっかい綿わたにつつんだごとく、無交渉むこうしょうなりに交渉こうしょうができている。かくて数月すうげつをぶじにすごした。



 人との交渉には、感情絶無かんじょうぜつむな花前も、ふしぎと牛はだいじにする。あいしてだいじにするのか、運動の習慣しゅうかんでだいじにするのか、いささか分明ぶんめいくのだが、とにかく牛をだいじにすることはひととおりでない。それに規則的きそくてきにしかも仕事しごと熟練じゅくれんしてるから、花前はなまえがきてから二か月にして、牛舎ぎゅうしゃは一ぺんしたかんがある、主人しゅじんはもはやじゅうぶんに花前の変人なりをのみこんでるから、すべてつごうよくはこぶのであった。

 水車すいしゃの運動はことなき平生へいぜいには、きわめて円滑えんかつにゆくけれど、なにかすこしでも回転かいてんにふれるものがあると、いささかの故障こしょう全部ぜんぶの働きをやぶるのである。

 主人は読書どくしょにあいて庭に運動した。秋草もまったくちつくして、わずかにけいとう野菊のぎくの花がのこっているばかりである。主人はねっした頭を冷気れいきにさらしてしばらくたたずんでおった。露霜つゆしもいためられて、さびにさびたのこりの草花に、いいがたきあわれを感じて、主人はなんとなしかなしくなった。

 こういうときには、みょうにものにおどろきやすい、主人は耳をそばだてて、牛舎ぎゅうしゃあらあらしきののしりの声を聞きつけた。やがて細君さいくん木戸きどへ顔をだして、きてくれという。いってみると、兼吉かねきち五郎ごろうがふたりして、花前をきたてて牛舎ぎゅうしゃからでるところであった。

 花前は、ややもすればふたりをはらいのけようとする。ふたりは、ひっしと花前の両手を片手かたてずつとらえてはなさない。ふたりはとうとう花前を主人のまえに引きすえてうったえる。兼吉かねきちは、

「わし、この気ちがいにたれました、なぐりかえそうと思っても、ひとりではとてもこの野郎やろうにかないません、五郎ごろうさんがおさえてくれなきゃ……わし、こんな気ちがいといっしょにいるのはいやですから、ひまをいただきます」

「このわかいものが、牛をたたいたから打ちました」

「わし、牛を打ったのではありません……」

 主人しゅじんは、まあまあとことばしずかにふたりをせいした。秋のゆくというさびしいこのごろ、無分別むふんべつな若ものと気ちがいとのあらそいである。主人はおぼえずぶるいをした。花前はなまえ平然へいぜんたるもので、

「牛をたたくというほうはない」

 こう語勢ごせい強くいったきり、ふたたび口をひらかぬ。ふたりはしきりに気ちがいなどに打たれたりなんかされて、とてもいられないとわめく。

 話をまとめてみると、兼吉かねきち尿板にょうばんのうしろをとおろうとすると、一とうの牛がうしろへさがって立ってるので通れないから、ただ平手ひらてかるく牛のしりを打ったまでなのを、牛をだいじにする花前は、兼吉がらんぼうに牛をたたいたとおこったらしい。それでれい無言むごんで、不意ふいにうしろから兼吉にげんこをくれた。

 兼吉は、腕力わんりょくでは花前によりつけないから、五郎に加勢かせいたのんだのだ。事実じじつは兼吉が牛をたたいたのかもしれないが、ふたりのいいじょうはそうであった。ふたりに同時どうじられてもこまるから、主人はふたりをにわへつれこんだ。

「そうだ……気ちがいだから、おれにめんじておまえたちもがまんしてくれ、おれがあやまりちんはだすから、花前も気ちがいながら、牛をだいじにしてからの思いちがいであってみるとかわいそうなところがある、だからおれがあやまる、これからおまえたちはふたりで仲間なかまになっていて、花前はなまえ相手あいてにせぬようにしていたらえいじゃないか、これで一ぱいやってがまんしてくれるさ、えいか」

 兼吉けんきち五郎ごろうも主人に、おれがあやまるからといわれては口はあけない。酒代さかだいまいでかれらはむぞうさにきげんをなおした。水車の回転かいてんめずにすんだ。生業せいぎょうということにかかわっていれば、らちもないことにもおどろくばかばかしさを主人はふかく感じた。細君さいくんもでてきて、

「わたしほんとにおどろきました、あのけたたましい声ったらないですもの、気ちがいがどんなことをしたかと思って……ああそうでしたか、まあよかった、それにしても花前はなんだかわたし、気味きみがわるくて……」

 主人は細君のことばをして、

「花前の気ちがいぶりもわかってるのだから、すこしも気味きみのわるいことはないよ、こんどのことはどっちがどうだかわかりゃしない、ちちしぼりが牛をだいじにするというのだから、たとえまちがってもにくくはないじゃないか」

 細君は、

「そりゃそうですがねい」

とまだふにおちかねたが、主人は、

「あんなにいかいかしいふうをしておっても、しりのぬけてるのが、かわいそうに見えないか、ふびんをかけてやれ」

というのであった。細君のったあとで、主人は、おもしろいということのない花前がおこったというのはおかしいなと考えたけれど、その理由りゆう解釈かいしゃくがつかなかった。

 はじめて花前はなまえに笑わせた下女げじょは、おせっかいにも花前にぜひ象牙ぞうげのはしの話をさせるといって、いろいろしんせつに世語せわをしたり、話をしかけたりしたけれど、しろりとわらわせるのがせい一ぱいで、それ以上いじょうにはなにごとをもえられなかった。もうこんがつきたと下女は笑ってる。

 かくて水車すいしゃはますますぶじに回転かいてんしいくうち、意外いがい滑稽劇こっけいげきが一を笑わせ、石塊せっかいのごとき花前も漸次ぜんじにこの家になずんでくる。

 ある日、主人のるすの日であった。警視庁けいしちょう技師ぎしが、ふいに牛舎ぎゅうしゃ検分けんぶんにきた。いきなり牛舎のまえに車にのりこんできて、すこぶる権柄けんぺいに主人はいるかとどなった。

 兼吉かねきち五郎ごろうあらいものをしている。花前はなまえれい毅然きぜんたる態度たいど技師ぎし先生のまえにでた。技師はむろん主人と見たので、いささかていねいに用むきをだんずる。

 花前はときどきあたまを動かすだけで一ごんもものをいわない。技師先生心中しんちゅう非常に激高げっこう、なお二言三言、いっそう権柄けんぺい命令めいれいしたけれど、花前のことだから冷然れいぜんとして相手あいてにならない。技師はげきしているから花前の花前たるところにいっこう気がつかない。技師はたまりかねたか、ここでは話ができないといって玄関げんかんへまわった。あらたまってその無礼ぶれい詰責きっせきするつもりであったらしい。

 玄関では細君さいくんがでて、ねんごろに主人の不在ふざいなことをいうて、たばこぼんなどをだした。技師もここで花前の花前たることを聞き、おおいにきまりわるくなって、むつかしい顔のしまつにきゅうしたままった。夜、主人が帰ってから一くずるるばかり大笑いをやった。兼吉かねきち五郎ごろうは、かわりがわり技師と花前とのぶりをやって人を笑わせた。細君が花前を気味きみわるがるのも、まったくそのころからえた。



 年がれて春がき、夏がきてまた秋がきた。花前はなまえもここにはや一年おってしまった。このかん、花前の一身上しんじょうには、なんらの変化へんかもみとめえなかった。ただかんがしょうな主人の頭には、花前のように、きのうときょうとの連絡れんらくもなく、もちろんきょうとあすとの連絡もない。まして一年とかひと月とかいう時間の意味いみのありようもなく、かれはきるためにはたらくのでなく、生きているから働くというような生活、きょうというほかに時間の考えはなく、自分というほかに人生じんせいの考えはない。いやきょうということも自分ということも意識いしきしていやしない。

 してみると、かれに義務ぎむ責任せきにんなどいう考えのありようもなければ、きゅうくつも心配も不安もないわけだ。明るいところにまないごとく、花前のような生活には虚偽きょぎ罪悪ざいあくなどいうものの宿やどりようがない。大悟徹底だいごてっていというのがそれか。絶対的ぜったいてき安心あんしんというのがそれか。むかしは、宰相さいしょうして人のためにえんにそそいだという話があるが、花前はそれにすべき感がある。

 主人はまたこう考えた。かえりみて自分の生活をみると、じつになさけないとらわれのである。わずかに手をうごかすにも足を動かすにも、あとさきを考えねばならぬ。かりそめにものをいうにも、人の顔色かおいろを見ねばならぬ。前後左右ぜんごさゆう係累者けいるいしゃはまといついてる。なにをひとつするにも、自分のみを標準ひょうじゅんとして動くことはできぬ。とうてい社会組織しゃかいそしき上の一分子ぶんしであるから、いかなる場合ばあいにも絶対ぜったい単独たんどく行動こうどうはゆるされない。

 それでつまりよいかげんなことばかりをやって、まにあわせのことばかりいっておらねばならぬ。それというのも、義務ぎむとか責任せきにんとかいうことを、まじめに正直しょうじきに考えておったらば、実際じっさい人間のはない。手足をばくして水中すいちゅうにおかれたとなんのわるところもない。

 このせつない覊絆きはんだっして、すこしでもかってなことをやるとなったらば、人間の仲間なかま入りもできない罪悪者ざいあくしゃとならねばならぬ。考えれば考えるほどばかげているけれども、それをどうすることもできないのがわれわれの生活状態せいかつじょうたいである。

 こう思うと自分がどれだけ花前はなまえまさっているか、いよいよわからなくなる。むしろどうか一でもよいから花前のような生活がしてみたくなってくる。

 ようするに、自分をつよ意識いしきするのがわるいのだ。自分を強く意識いしきするから、世の中がきゅうくつになる。主人はこんな結論けつろんをこしらえてみたけれど、すぐあとからあやふやになってしまった。自分と花前との差別さべつはどう考えても、意識いしきがあるのとないのとのほかない。自分に意識がなければ自分はこのままでもすぐ花前になることができるとすれば、花前はけっしてうらやむべきでないのだ。

 大悟徹底だいごてっていと花前とはゆうとのである。花前は大悟徹底だいごてっていかたちであってこころではなかった。主人しゅじんはようやく結論けつろんをえたのであった。主人はこの結論をえたにかかわらず、さらば自分の生活にどれだけの価値かちがあるかと思うてみて、やはりわけがわからなくなった。花前と大悟徹底だいごてっていとは、裏表うらおもてであるが、自分と大悟徹底とは千葉と東京とのであるように思われた。

 ここ一、二年水害すいがいをまぬがれた庭は、去年きょねんより秋草がさかんである。花のさかりには、まだしばらくまがありそうだ。主人はけさも朝涼ちょうりょうに庭を散歩さんぽする。すいれんの花を見て、去年花前がきたのも秋であったことを思いだす。この日、主人は細君より花前の上について意外いがい消息しょうそくを聞いた。

 花前は、けさ民子たみこをだいてしばらくあるいておった。細君はもちろん、若衆わかしゅうをはじめ下女げじょまでいっせいにふしぎがったとの話である。それは実際じっさいふしぎに相違そういない。これまでの花前にして、子どもをだいてみるなぞは、どうしても破天荒はてんこうなできごとといわねばならぬ。

 下女の話によると、タアちゃんはこれまでもときどき、花前、花前といって花前のところへいき、花前もタアちゃんの持っていったお菓子かしべたようすであったという。主人はこの話を非常ひじょう興味きょうみをもって聞いた。今後こんご花前の上になんらかの変化へんかをきたすこともやと思わないわけにはいかなかった。

 その自分も注意ちゅういし家のものの話にも注意してみると、花前はかならず一度ぐらいずつ民子をだいてみる。民子たみこもますます花前はなまえ、花前といってへやへあそびにゆく。花前は、ついに自分で菓子かしなどうてきて、民子にやるようになった。ときにはさびしいわらいようをして、タアちゃんと一ことくらいよぶのであった。そう思って見ると、花前の毅然きぜんとした顔つきが、このごろは、いくらかやわらいできたようにも見える。若衆わかしゅうの話では、花前はちかごろ元気がおとろえたようだという。それでもその水車的運動すいしゃてきうんどうにはまだすこしもわるところはなかった。

 それからひと月ばかり花前の新傾向しんけいこうはさしたる発展はってんもなく秋もようやくすずしくなった。



花前の友人ゆうじんという人が、とつぜんたずねてきて、花前の身分みぶんがようやく明らかになった。

 友人というのは、某会社ぼうかいしゃ理事りじ安藤某あんどうぼうという名刺めいしをだして、年ごろ四十五、六、洋服ようふく風采ふうさいどうどうとしたる紳士しんしであった。主人は懇切こんせつおくしょうじて、花前の一しんにつき、いもしかたりもした。

 安藤ははなしの口があくと、まず自分が一年まえにったときと、きょう会った花前はよほどわっている。自分は十だいから花前と懇意こんいであって、花前にはひとかたならず世話せわにもなったが、自分も花前のためにはそうとう以上いじょうにつくした。いまのような境遇きょうぐうになって、だれひとりおとのうてなぐさめるものもないうちに、自分だけはたえず見舞みもうておった。

 その自分にたいして、去年きょねんうたときには、某牛舎ぼうぎゅうしゃておって、うん安藤あんどうかといったきり、おきもしなかった。それがきょうは、意外いがいに自分を見るとうれしそうに立ちあがって、よくきてくれたといった。じつは自分は花前はもうだめとあきらめていたところ、きょうのようすでは精神せいしん状態じょうたいが、たしかにすこしよくなってる。この家へきたときからこのくらいか、あるいはいつごろから調子ちょうしがよくなったかとうのであった。安藤はしんの花前のともである。

 主人は花前が近来きんらい変化へんかのありのままをかたったのち、今後こんごあるいは意外いがい回復かいふくをみるかもしれぬと注意した。安藤はもちろん見込みこみがありさえすれば、すぐにも自分がって治療ちりょうをこころみんとの決心けっしんを語り、つづいて花前の不幸ふこうなりし十年まえの経歴けいれきかたった。

 花前は麻布あざぶ某所ぼうしょ中等ちゅうとう牛乳屋ぎゅうにゅうやをしておった。畜産ちくさん熱心家ねっしんか見職けんしきも高く、同業間どうぎょうかんにも推重すいちょうされておった。母がひとり子ども三人、夫婦ふうふをあわせて六人の家族かぞく妻君さいくんというのは、同業者のむすめで花前の恋女房こいにょうぼうであった。地所じしょなどもすこしは所有しょゆうしておって、六人の家族はゆたかにたのしく生活しておった。

 それ以前いぜんから、安藤あんどう某学校ぼうがっこう学費がくひまで補助ほじょしてもらい、無二むに親友しんゆうとして交際こうさいしておったのだが、安藤がいまの会社へはいって二年めの春、母なる人がなくなり、つづいて花前の家にはたえまなき不幸ふこうをかさねた。

 その秋の赤痢せきり流行りゅうこうのさい、親子おやこ五人ひとりものこらず赤痢せきりをやった。とうとう妻と子ども三人とはひと月ばかりのあいだに死亡しぼうし、花前は病院びょういんにあってそれを知らないくらいであった。

 そんな状況じょうきょうであるから、営業えいぎょうどころのさわぎでない。自分が熱心ねっしん奔走ほんそうしてようやく営業えいぎょうは人にゆずりわたした。花前は二か月あまりも病院におっていつまで話さずにおくわけにゆかないから、すべてのことを話すと、

破壊はかいしおわった断片だんぺんの一をのこしてどうするものか、のこったおれだってこまる、のこされた社会もこまるだろう、この一断片だんぺんをどうにかしてくれ、おれはどうしてもこの病院をでない」と絶叫ぜっきょうして泣いたけれど命数めいすうがあればにも死なれないで、花前はわれるように病院をでた。病院をでてもいく家はない。ってる人もない。安藤が自分の家へつれて帰ったものの、慰藉いしゃのあたえようもない。花前はときどき相手あいてかまわず、

「どうせばえいんだ」

とどなる。

 安藤は手のつけようがないから、ともかくもと湯河原ゆがわらへつれだした。そうして自分もいっしょにひと月もおってなぐさめた。どうかして宗教しゅうきょうにはいらしめようとこころみたが、多少たしょう理屈りくつの頭があったから、どうしても信仰しんこうにはいることができない。破壊以前はかいいぜんが人なみよりもあたたかい歓楽かんらくんでおっただけ、破壊後はかいご悲惨ひさん深刻しんこくであった。

 自分もそうそういっしょにはおられないので帰京ききょうすると、花前はなまえはそのまま一年半もその家におった。あっただけのざいをことごとく消費しょうひして、ただ帰京の汽車賃きしゃちんで安藤の家に帰ってきた。そのときにはたしかに精神せいしん異状いじょうていしておった。なにを話してみようもなく、花前は口をきかなかった。

 その無断むだんで安藤の家をでて、以前交際こうさいした家にちちしぼりをしておった。ようやく見つけてたずねていくと、いつのまにかいなくなる。また見つけだしてたずねると、またいなくなる。ゆくさきざきの乳屋で虐待ぎゃくたいされて、ますます本物ほんものになったらしい。じつにきのどくというて、このくらい悲惨ひさんなことはすくなかろうと、安藤は長ながと話しおわって嘆息たんそくした。

 主人もことばのかぎりをつくして同情どうじょうした。しんせつな安藤はともかくも治療ちりょう見込みこみがすこしでもあるならば、一日も見てはいられぬといってった。


 安藤はってから三日めに、くるまを用意して自身じしんむかえにきた。花前は安藤のいうことをこばまなかった。いよいよ家をでるときには主人にも、ややひととおりのあいさつをして、厚意こういしゃした。台所だいどころへでて、無言むごんにタアちゃんをだいたときには、家のものみなが目をうるおした。花前はなまえったあと、あのはしの話を聞きたかったけれど、なんだかきのどくで聞かれなかったと下女げじょなみだをふいた。

 十ほどたって、主人は花前を青山の脳病院のうびょういんにおとのうてみた。花前は非常ひじょうによろこんだ。話しするところによると精神せいしんのほうはますますよいようであるが、それと反比例はんぴれいにからだのほうはたいへんつかれてるように見えた。それから二十日ばかりして、花前はんだと安藤から知らせてきた。

底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社

   1964(昭和39)年10月1刷

   1984(昭和59)年1044

初出:「ホトヽギス 第十三卷第一號」

   1909(明治42)年101

※表題は底本では、「はし」となっています。

※「兼吉」に対するルビの「かねきち」と「けんきち」の混在は、底本通りです。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:高瀬竜一

校正:岡村和彦

2016年92日作成

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