国際射的大競技
小酒井不木



 昨年オランダに開かれたオリンピック大会で、わが日本選手が三だんとびの第一等に入選したとき、わたしたち内地の日本人がどんなに喜んだかは、おそらくまだみなさんの記憶きおくにあらたなるところであると思います。あの新聞記事を読んだせつな、思わずも私の目には熱いなみだがたまりました。すべての競技がそうでありますけれど、なかんずく国際競技ほど人の血をわかし肉をおどらすものはありません。

 今からおよそ五十余年のむかし普仏戦争ふふつせんそうの起こるすこし前、フランス陸軍省の主催しゅさいでパリーの郊外こうがいに射的大会が開催かいさいされました。当時フランスには世界各国から軍事研究者が留学にきていて、わが日本からも十人余りの士官が派遣はけんされ、それらの人々が射的大会に招待しょうたいされたのでありますから、いわば国際射的大会となったわけです。

 当時日本人は、欧州人おうしゅうじんから見れば、まったく眼中がんちゅうになかったのであります。日本という国さえもみとめられてはいないくらいでした。そうして、日本人そのものはといえば、欧州人おうしゅうじんよりも体格はおとるし、有色ではあるし、言語も不自由であるから、自然軽蔑けいべつされたのも無理はありません。

 けれども日本人には、祖先伝来の日本精神があります。いかなる困難こんなんとも戦って、あくまで目的に進むというとうとい精神があります。その精神がことごとにあらわれますから、当時の滞仏士官たいふつしかんも、さほどの屈辱くつじょくを受けずにすみました。その証拠しょうこには、射的大会しゃてきたいかい招待しょうたいされたのでもわかります。

 大会へ招待されたのは、当の仏国ふつこくのほかに、えいどく西スペインにちの六ヵ国でした。前日予選が行なわれましたが、ふつえい各三人、どく二人ふたり西スペインにち一人ひとりが選にはいっただけでありました。この予選にはいった十三人が、翌日よくじつ晴れの競技を行なうことになったのであります。日本人で入選したのはエムという陸軍工兵大尉りくぐんこうへいたいいでありましたが、予選の点もはなはだふるわず、かろうじて入選したくらいでありました。

 その日、同僚どうりょうの士官たちは、M大尉エムたいいをかこんで、

「おいM、明日あすはしっかりやってくれ、日本人の名声をあげるには絶好ぜっこうの機会だ、どうか祖国のために万丈ばんじょう気炎きえんをはいてくれ!」

 と、口をそろえて激励げきれいしました。

 エム大尉は、歩兵銃ほへいじゅうの研究にきていたのでして、いわば射撃しゃげきでは専門家なのです。M大尉は静かに語りました。

「ありがとう。おおいに注意して見苦しい成績はあげぬつもりだ。今日きょうの不成績は、ひきょうないい方だが、じゅうがよくなかったというよりも、ぼくの使ったじゅうの研究がたりなかった。明日あすの競技につかう銃はここへもらってきてあるから、これから諸君しょくんとともに、この銃の研究にゆきたいと思う。いっしょにきてくれないか」

 だれも異議いぎのあるはずがありません。一同は、射的場しゃてきじょう近くの野へ出て、M大尉エムたいい射撃演習しゃげきえんしゅうを手伝いました。ごしょうちのとおり、銃には一本一本ちがった個性があります。同じ人間が作った銃でも、それぞれ、その弾道だんどうだとか、着弾距離ちゃくだんきょりだとかがちがいます。それゆえ、射撃を行なう前には、銃の個性を十分研究しなければならないのであります。

 M大尉エムたいいはおよそ二時間あまり熱心に研究しました。的をては、弾丸たまのあたった場所をしらべて研究すること、数十回におよびました。

「よし!」

 最後にM大尉はきっぱりといいました。

明日あすはだいじょうぶだ! けっしてヒケをとらぬつもりだ!」

 そう自信ありげな口調に、士官たちは歓声かんせいをあげて引きあげました。

 いよいよ大競技の当日がきました。四月の空はうるわしく晴れて、遠くに見ゆる伽藍がらんとうが絵のようにかすんで見えました。早くも観衆かんしゅうは場外にあふれ、勇ましい軍楽隊の合奏がっそうが天地にひびわたりました。

 はるか二百メートルをへだてたかなたに十三個の的が土手どての前にならび立っております。こちらから見ると、まるで一点にしか見えません。それほど当日の的は小さかったのであります。普通ふつうは大きな的で、あたり場所によって点数がきまるのですが、この日は、あたれば十点、あたらねば零点れいてん、しかもわずかに三発しか与えられていないのであります。

 ず十三人の順序が抽せんによって定められました。すると、どうであろう、わがM大尉エムたいい縁起えんぎ悪くも最後の十三番となりました。西洋では十三という数をみきらいます。その忌まれている数を、日本人が引きあてたのです。わが応援おうえんの士官たちも思わず顔を見合わせましたが、M大尉の顔はりんとしてかがやいているだけでしたので、人々はまずあんどのむねをなでおろしました。

 いよいよ第一番のドイツ人が火ぶたを切りました。ドン! と一発。

 人々はかたずをのんで、的の下のごうからの合い図を待ちました。赤い旗が出て上下にれば十点、黒い円形の弾痕指示器だんこんしじきが出て左右にれば零点れいてんなのです。

 ヒョイと出たのは黒い指示器。それが左右に振れました。ああ!

 ついで第二番、第三番と進みましたが、いずれも零点れいてんばかり、最後にM大尉エムたいいの番になりました。ああ。見ていた日本士官たちの心はどんなだったでしょう。

 やがてドンと一発!

 おお! 赤い旗が上下に! れる揺れる。

 わッ! という歓声かんせいは天地をとどろかしました。日本士官は思わずもき合っておどり上がりました。しばらくはすべての人の拍手はくしゅが鳴りやまなかったのであります。この光栄、この名誉めいよ

 ついで第二回目になりました。第一番のドイツ人はみごとにあてました。それからあたらぬ人とあたった人が相伯仲あいはくちゅうし、最後にM大尉の番になりました。人々はいっせいに注目しました。

 ドン!

 ああ、あわれ、黒い指示器が。

 士官たちのなげき! けれども当のエム大尉はすこしも落胆らくたんしないのみか、にっこりとしておりました。

 ついで第三回。その結果二十点を取ったものはドイツ人とフランス人が一人ひとりずつで、スペイン人が零点れいてん。あとは十点ずつでした。もしM大尉があてれば、三人の決選になります。

 そのときの応援士官おうえんしかんの心持ちはどうでしたでしょう。日本の名誉はこの一発にかかっております。

 ところがです。あわれにも第三回の発射はっしゃには黒い指示器が左右にられたのであります。

 審判官しんぱんかんはまさに宣言をくだそうとしました。

 そのときM大尉はつかつかと進みよって、りゅうちょうなフランス語で大声に申しました。

審判官殿しんぱんかんどのわたくしはたしかに三回とも的をあてました。けれども、それはごうの中にいる人にわからなかったのであります。第二第三の弾丸たまは第一の弾丸のつらぬいたあなを通ったはずです。どうか土手どてって弾丸の位置をおしらべください」

 このことばに人々はM大尉エムたいい発狂はっきょうしたのではないかと思いました。けれども自信ある態度たいどにおかすべからざる威厳いげんがありましたから、審判官しんぱんかんは、大尉たいいのねがいをききました。

 やがて土手どてり返されました。

 見よ、そこには三発の弾丸たまがねずみのように重なっていたではありませんか。

 この奇蹟きせき! この妙技みょうぎ

 ふたたび起こる喝采かっさいの声! かくてM大尉エムたいいは第一等の栄冠えいかんて、予定通りわが日本のために万丈ばんじょう気炎きえんをはきました。

(昭和四年四月号)

底本:「少年倶楽部名作選3 少年詩・童謡ほか」講談社

   1966(昭和41)年1217日発行

底本の親本:「少年倶楽部」講談社

   1929(昭和4)年4月号

初出:「少年倶楽部」講談社

   1929(昭和4)年4月号

※表題は底本では、「国際射的大競技こくさいしゃてきだいきょうぎ」となっています。

※樺島勝一(1888(明治21)年721日~1965(昭和40531日)の挿絵を同梱しました。

入力:sogo

校正:noriko saito

2017年311日作成

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