自来也の話
岡本綺堂
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自来也も芝居や草双紙でおなじみの深いものである。わたしも「喜劇自来也」をかいた。自来也は我来也で、その話は宋の沈俶の「諧史」に載せてある。
京城に一人の兇賊が徘徊した。かれは人家で賊を働いて、その立去るときには必ず白粉を以て我来也の三字を門や壁に大きく書いてゆく。官でも厳重に捜索するが容易に捕われない。かれは相変らず我来也を大書して、そこらを暴してあるく。その噂がますます高くなって、賊といえば我来也の専売のようになってしまって、役人達も賊を捕えろとは云わず、唯だ我来也を捕えろと云って騒いでいるうちに、一人の賊が臨安で捕われた。捕えた者は彼こそ確かに我来也であると主張するのであるが、捕えられた本人はおぼえもない濡衣であると主張する。臨安の市尹は後に尚書となった趙という人で、名奉行のきこえ高い才子であったが、何分にも証拠がないので裁くことが出来ない。どこかに賍品を隠匿しているであろうと詮議したが、それも見あたらない。さりとて迂闊に放免するわけにも行かないので、そのまま獄屋につないで置くと、その囚人がある夜ひそかに獄卒にささやいた。
「わたくしは盗賊に相違ありませんが、まったく彼の我来也ではありません。しかしこうなったら何の道無事に助からないことは覚悟していますから、どうかまあ勦わって下さい。そのお礼としてお前さんに差上げるものがあります。あの宝叔塔の幾階目に白金が少しばかり隠してありますから、どうぞ取出して御勝手にお使いください。」
「それはありがたい。」
とは云ったが、獄卒は又かんがえた。かの塔の上には登る人が多いので、迂闊に取出しにゆくことは出来ない。第一あんなに人目の多いところに金をかくして置くと云うことが疑わしい。こいつそんなことを云って、おれに戯うのではないかと躊躇していると、かれはその肚のなかを見透かしたように又云った。
「旦那、疑うことはありません。寂しいところへ物を隠すなどは素人のすることで、なるたけ人目の多い賑かいところへ隠して置くのがわたくし共の秘伝です。まあ、だまされたと思って行って御覧なさい。あしたはあの寺に仏事があって、塔の上には夜通し灯火がついています。あなたも参詣の振りをして、そこらをうろうろしながら巧く取出しておいでなさい。」
教えられた通りに行ってみると、果して白金が獄卒の手に入ったので、かれは大いに喜んだ。そのうちの幾らかで酒と肉とを買って内所で囚人にも馳走してやると、それから五、六日経って、囚人は又ささやいた。
「もし、旦那。わたくしはまだ外にも隠したものがあります。それは甕に入れて、侍郎橋の水のなかに沈めてありますから、もう一度行ってお取りなさい。」
獄卒はもう彼の云うことを疑わなかったが、侍郎橋も朝から晩まで往来の多いところである。どうしてそれを探しにゆくかと思案していると、囚人は更に教えた。
「あすこは真昼間ゆくに限ります。あなたの家の人が竹籠へ洗濯物を入れて行って、橋の下で洗っている振りをしながら、窃とその甕を探し出して籠に入れる。そうして、その上に洗濯の着物をかぶせて抱えて帰る。そうすれば誰も気がつきますまい。」
「なるほど、お前は悪智慧があるな。」
獄卒は感心して、その云う通りに実行すると、今度も果して甕を見つけ出した。甕には沢山の金銀が這入っていた。獄卒は又よろこんで、しきりに囚人に御馳走をして遣っていると、ある夜更けに囚人が又云った。
「旦那、お願いがございます。今夜わたくしを鳥渡出してくれませんか。」
それは獄卒も承知しなかった。
「飛んでもない。そんなことが出来るものか。」
「いや、決して御心配には及びません。夜のあけるまでには屹と帰って来ます。あなたが何うしても承知してくれなければ、わたくしにも料簡があります。わたくしにも口がありますから、お白洲へ出て何をしゃべるか判りません。そう思っていてください。」
獄卒もこれには困った。飽までも不承知だといえば、這奴は白洲へ出て宝叔塔や侍郎橋の一件をべらべらしゃべるに相違ない。それが発覚したら我身の大事となるのは知れている。飛んでもない脅迫をうけて、獄卒も今さら途方にくれたが、結局よんどころなしに出してやると、かれは約束通りに戻って来て、再び手枷首枷をはめられて獄屋のなかにおとなしく這入っていた。
夜があけると、臨安の町に一つの事件が起っていることが発見された。ある家へ盗賊が忍び入って金銀をぬすみ、その壁に我来也と大きく書き残して立去ったと云うのである。その訴えに接して、名奉行の趙も思わず嘆息した。
「おれは今まで自分の裁判にあやまちは無いと信じていたが、今度ばかりは危く仕損じるところであった。我来也は外にいる。この獄屋につないであるのは全く人違いだ。多寡が狐鼠狐鼠どろぼうだから、杖罪で放逐してしまえ。」
彼の囚人は獄屋からひき出されて、背中を幾つか叩かれて放免された。これでこの方の埒があいて、獄卒は自分の家へ帰ると、その妻は待ち兼ねたように話した。
「ゆうべ夜なかに門をたたく者があるので、あなたが帰ったのかと思って門をあけると、誰だか知らない人が二つの布嚢をかついで来て、黙って投り込んで行きました。なんだろうと思って検めてみると、嚢のなかには金銀が一杯詰め込んでありました。」
獄卒は覚った。
「よし、よし、こんなことは誰にも云うなよ。」
それから間もなく、獄卒は病気を云い立てに辞職して、その金銀で一生を安楽に送った。我来也はそれから何うしたか判らない。獄卒のせがれは放蕩者で、両親のない後にその遺産をすっかり遣い果してしまった。
「おれの身代はもともと悪銭で出来たのだから、こうなるのが当りまえだ。」と、その伜が初めて昔の秘密を他人に明かした。
支那の我来也は先ずこういう筋である。日本でこの我来也を有名にしたのは、感和亭鬼武が最初であるらしい。鬼武は本名を前野曼助といい、以前は某藩侯の家来であったが、後に仕を辞して飯田町に住み、更に浅草の姥ヶ池のほとりに住んでいたという。かれの著作は沢山あるが、そのなかで第一の当り作は「自来也物語」十冊で、我来也を自来也に作りかえたのが非常の好評を博して、文化四年には大阪で歌舞伎狂言に仕組まれ、三代目市川団蔵の自来也がまた大当りであった。絵入りの読本を歌舞伎に仕組んだのはこれが始まりであると云うのをみても、いかに「自来也物語」が流行したかを想像することが出来る。そのほかに矢はり鬼武の作で「自雷也話説」という作があるというが、わたしはそれを読んだことがない。おそらく自来也が当ったので、又なにか書いたのであろう。そうして、自来也を更に自雷也と改めたらしい。
こういうわけで、支那の我来也が日本の自来也となり、更に自雷也となったのであるが、それがまた児雷也と変ったのは美図垣笑顔から始まったのである。笑顔は芝の涌泉堂という本屋の主人で、傍らに著作の筆を執っていたが、何か一つ当り物をこしらえようと考えた末に、かの鬼武の「自来也物語」から思いついて、蝦蟇の妖術、大蛇の怪異という角書をつけて「児雷也豪傑譚」という草双紙を芝神明前の和泉屋から出すと、これが果して大当りに当った。所詮は鬼武の「自来也物語」を焼き直したものであるが、主人公の盗賊児雷也を前茶筌の優姿にして、田舎源氏の光氏式に描かせた趣向がひどく人気に投じたらしい。画家は二代目豊国である。
「児雷也豪傑譚」の初編の出たのは天保十年で、作者も最初から全部の腹案が立っていた訳でもないらしく、それが大当りを取ったところから、図に乗って止度も無しに書きつづけているうちに、第十一編を名残として嘉永二年に作者は死んだ。しかも児雷也の流行は衰えないので、そのあとを柳下亭種員がつづけて書く。又そのあとを二代目の種員が書くというわけで、いよいよ止度が無くなって、幕末の慶応二年には第四十四編まで漕ぎ付けたのである。兎もかくも彼の「田舎源氏」や「しらぬい譚」や「釈迦八相」などと相列んで、江戸時代における草双紙中の大物と云わなければならない。
この作がそれほどに人気を得たのは、前に云った豊国の挿絵が時好に投じたのと、もう一つには人気俳優の八代目団十郎が児雷也を勤めたと云うことにも因るらしい。尤もこの作の評判がよいから、芝居の方でも上演したのであろうが、それに因ってこの作も、更に一層の人気を高め、女子供に愛読されたことも又争われない事実であろう。その上演は嘉永五年、河原崎座の七月興行で、原作の初編から十編までを脚色して、外題はやはり「児雷也豪傑譚話」──主なる役割は児雷也(団十郎)、妖婦越路、傾城あやめ、女巡礼綱手(岩井粂三郎)、高砂勇美之助、大蛇丸(嵐璃寛)などであった。
この脚色者は黙阿弥翁である。翁が後年、條野採菊翁に語ったところによると、河原崎座の座主河原崎権之助という人は新狂言が嫌いで、なんでも芝居は古いものに限ると主張しているので、黙阿弥翁が何か新狂言の腹案を提出しても一向に取合わない。これには黙阿弥翁も困り抜いていると、かの「児雷也」の草双紙の評判がよいので、流石の権之助も一つ遣ってみようかと云い出し、黙阿弥翁もここだと腕を揮って脚色すると、その狂言が大当りを取ったので、権之助もすこし考え直したとみえて、来年も何か草双紙を仕組んでくれと云い、今度は「しらぬい譚」を脚色すると、これが又当ったので、権之助もいよいよ兜をぬぎ、成程これからの芝居は新狂言でなければいけないと云い出した。黙阿弥翁もそれに勢いを得て、つづいて「小幡小平次」をかき、「忍ぶの惣太」を書き、ここに初めて狂言作者としての位地を確立したのであるという。
勿論、黙阿弥翁のことであるから、遅かれ早かれ世に出るには相違ないが、ここに「児雷也豪傑譚」という評判物の草双紙がなかったらば、或いはその出世が三年や五年はおくれたかも知れない。してみると、児雷也と黙阿弥翁、その間に一種の因縁がないでもないように思われる。
鬼武が最初に我来也を自来也にあらためたのは、我来也という発音が日本人の耳に好い響きをあたえない為であったらしい。それでも「我来」を「自来」に改めたのはまだ好い。更に「自雷」にあらためたのは何ういうわけか判らない。まして後の作者が「児雷」に改めたのは、いよいよ拙ない。しかもそれが最も広く伝わったので、児雷也というのが一般的の名になってしまった。
底本:「綺堂随筆 江戸の思い出」河出文庫、河出書房新社
2002(平成14)年10月20日初版発行
底本の親本:「綺堂劇団」青蛙房
1956(昭和31)年2月
初出:「演劇画報」
1925(大正14)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:江村秀之
校正:川山隆
2014年1月18日作成
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