フランセスの顔
有島武郎
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たけなわな秋のある一夜。
光の綾を織り出した星々の地色は、底光りのする大空の紺青だった。その大空は地の果てから地の果てにまで広がっていた。
淋しく枯れ渡った一叢の黄金色の玉蜀黍、細い蔓──その蔓はもう霜枯れていた──から奇蹟のように育ち上がった大きな真赤なパムプキン。最後の審判の喇叭でも待つように、ささやきもせず立ち連なった黄葉の林。それらの秋のシンボルを静かに乗せて暗に包ませた大地の色は、鈍色の黒ずんだ紫だった。そのたけなわな秋の一夜のこと。
私たちは彼女の家に近づいた。末の妹のカロラインが、つきまとわるサン・ベルナール種のレックスを押しのけながら、逸早く戸を開けると、石油ランプの琥珀色の光が焔の剣のような一筋のまぶしさを広縁に投げた。私と連れ立った彼女の兄たちと妹とは、孤独の客のいるのも忘れて、蛾のように光と父母とを目がけて駆け込んだ。私は少し当惑してはいるのをためらった。ばね仕掛けであるはずの戸が自然にしまらないのを不思議に思ってふと気がつくと、彼女が静かにハンドルを握りながら、ほほえんで立っていた。私は彼女にはいれと言った。彼女は黙ったまま軽くかぶりをふって、少しはにかみながらそれでもじっと私の目を見詰めて動こうとはしなかった。私は心から嬉しく思って先にはいった。その瞬間から私は彼女を強く愛した。
フランセス──しかし人々は彼女を愛してファニーと呼ぶのだ。
その夜は興ある座談に時が早く移った。ファニーとカロラインの眠る時が来た。ブロンドの巻髪を持ったカロラインはもう眠がった。栗色の癖のない髪をアメリカ印度人のように真中から分けて耳の下でぶつりと切ったファニーの眼はまだ堅かった。ファニーはどうしてもまだ寝ないと言い張った。齢をとったにこやかな母が怒るまねをして見せた。ファニーは父の方に訴えるような眼つきを投げたが、とうとう従順に母の膝に頭を埋めた。母は二人の童女の項に軽く手を置き添えて、口の中で小さな祝祷を捧げてやった報酬に、まず二人から寝前の接吻を受け取った。それから父と兄らとが接吻を受けた。二人が二階にかけ上がろうとすると母が呼びとめて、お客様にも挨拶をするものだと軽くたしなめた。カロラインは飛んで帰ってきて私と握手した。ファニーは──ファニーは頸飾りのレースだけが眼立つほど影になった室の隅から軽く頸をかしげて微笑を送ってよこした。そして二人は押し合いへし合いしながらがたがたと小さい階子段をかけ上って行った。その賑やかな音の中に「ファニーのはにかみ屋め、いたずら千万なくせに」と言う父のひとり言がささやかれた。
* * *
寒く、淋しく、穏やかに、晩秋の田園の黎明が来た。窓ガラスに霜華が霞ほど薄く現われていた。衣服の着代えをしようとしてがんじょう一方な木製の寝台の側に立っていると、戸外でカロラインと気軽く話し合うファニーの弾むような声が聞こえた。私はズボンつりをボタンにかけながら窓ぎわに倚り添って窓外を見下ろした。
一面の霜だ。庭めいた屋前の芝生の先に木柵があって、木柵に並行した荷馬車の通うほどな広さの道の向こうには、かなり大きな収穫小屋が聳えて見えた。収穫小屋の後ろにはおおかた耡き返されて大きな土塊のごろごろする畑が、荒れ地のように紫がかって広がっていた。その処々は、落葉した川柳が箒をさかしまに立て連ねたようにならんでいる。轍の泥のかんかんにこびりついたままになっている収穫車の上には、しまい残された牧草が魔女の髪のようにしだらなく垂れ下がっていた。それらすべての上に影と日向とをはっきり描いて旭が横ざしにさしはじめていた。烏の声と鶏の声とが遠くの方から引きしまった空気を渡ってガラス越しに聞こえてきた。自然は産後の疲れにやつれ果てて静かに産褥に眠っているのだ。その淋しさと農人の豊かさとが寛大と細心の象徴のように私の眼の前に展けて見えた。
私はファニーを探し出そうとした。眼の届く限りに姿は見えないなと思う間もなく収穫小屋の裏木戸が開いて、斑入りの白い羽を半分開いて前に行くものの背を乗り越し乗り越し走り出た一群の鶏といっしょに、二人の童女が現われ出た。二人は日向に立った。そのまわりには首を上に延ばしたりお辞儀をしたりする鶏が集まった。一羽はファニーの腕にさえとまった。カロラインがかかげていたエープロンをさっと振り払うと、燕麦が金の砂のように凍った土の上に散らばった。一羽の雄鶏は群れから少し離れて高々と時をつくった。
ファニーのエープロンの中には小屋のあちこちから集めた鶏卵があった。彼女はそれを一つ一つ大事そうに取り出して、カロラインと何か言い交わしながら、木戸を開いて母屋の方に近づいてきた。朝寒がその頬に紅をさして、白い歯なみが恥ずかしさを忘れたように「ほほえみの戸口」から美しく現われていた。私はズボンつりを左手に持ちなおして、右の中指で軽く窓のガラスをはじいた。ファニーは笑みかまけたままの顔を上げて私の方を見た。自然に献げた微笑を彼女は人間にも投げてくれた。私の指先はガラスの伝えた快い冷たさを忘れて熱くなった。
* * *
夏が来てから私はまたこの農家を訪れた。私は汽車の中でなだらかな斜面の半腹に林檎畑を後ろにしてうずくまるように孤立するフランセスの家を考えていた。白く塗られた白堊がまだらになって木地を現わした収穫小屋、その後ろに半分隠れて屋根裏ともいえる低い二階を持った古風な石造りの母屋、その壁面にならんで近づく人をじっと見守っているような小さな窓、前さがりの庭に立ちそぼつ骨ばった楡ととねりこ、そして眼をさすように上を向いて尖った灌木の類、綿と棘とに身よそおいした薊の亡骸、針金のように地にのたばった霜枯れの蔓草、風にからからと鳴るその実、糞尿に汚れ返ったエイシャー種の九頭の乳牛、飴のような色に氷った水たまり、乳を見ながら飲もうともしない病児のように、物うげに日光を尻目にかけてうずくまった畑の土……。
しかしその家に近づいた私の眼は私の空想を小気味よく裏切ってくれた。エメラルドの珠玉を連ねわたしたように快い緑に包まれたこの小楽園はいったい何処から湧いて出たのだ。母屋の壁の鼠色も収穫小屋のまだらな灰白色も、緑蔭と日光との綾の中にさながら小跳りをしているようだ。木戸はきしむ音もたてずに軽々と開いた。私はビロードの足ざわりのする芝生を踏んで広縁に上がった。虫除けの網戸を開けて戸をノックした。一度。二度。三度。応える者がない。私はなんの意味もなくほほえみながら静かに立ってあたりを見廻した。縁の欄干から軒にかけて一面に張りつめた金網にはナスターシャムと honey-suckle とが細かくからみ合って花をつけながら、卵黄ほどな黄金の光を板や壁の所々に投げ与えていた。その濃緑の帷からは何処ともなく甘い香りと蜂の羽音とがあふれ出てひそやかな風に揺られながら私を抱き包んだ。
突然裏庭の方で笑いどよめく声が起こった。私はまた酔い心地にほほえみながら、楡の花のほろほろと散る間をぬけて台所口の方に廻った。冬の間に燃き捨てた石炭殻の堆のほかには、靴のふみ立て場もないほどにクロヴァーが茂って、花が咲きほこっていた。よく肥った猫が一匹人おじもせずにうずくまって草の間に惜しげもなく流れこぼれた牛の乳をなめていた。
台所口をぬけるとむっとするほどむれ立った薔薇の香りが一時に私を襲ってきた。感謝祭に来た時には荊棘の迷路であった十坪ほどの地面が今は隙間もなく花に埋まって、夏の日の光の中でいちばん麗しい光がそれを押し包んでいた。私は自分の醜さを恥じながらその側を通った。ふと薔薇の花がたわわに動いた。見返る私の眼にフランセスの顔が映った。彼女は薔薇といっしょになってほほえんでいた。
腕にかけた経木籃から摘み取った花をこぼしこぼしフランセスの駈け出す後に私も従った。跣足になった肉づきの恰好な彼女の脚は、木柵の横木を軽々と飛び越して林檎畑にはいって行った。私は彼女の飛び越えた所にひとかたまり落ち散った花を、気ぜわしく拾い上げた。見るとファニーは安楽椅子に仰向きかげんに座を占めた母に抱きついて処きらわず続けさまに接吻していた。蜘の巣にでも悩まされたように母が娘を振り離そうとするのを、スカルキャップを被った小柄な父は、読みかけていた新聞紙をかいやって鉄縁の眼鏡越しに驚いて眺めていた。此処ではまた酒のような芳醇な香が私を襲った。シャツ一枚になって二の腕までまくり上げた兄らの間には大きな林檎圧搾機が置かれて、銀色の竜頭からは夏を煎じつめたようなサイダーの原汁がきらきらと日に輝きながら真黒に煤けた木槽にしたたっていた。その側に風に吹き落とされた未熟の林檎が累々と積み重ねられていた。兄らは私を見つけると一度に声を上げた。そして蜜蜂に体のめぐりをわんわん飛び廻らせながら一人一人やってきて大きな手で私の手を堅く握ってくれた。その手はどれも勤労のために火のように熱していた。私は少し落ち着いてからファニーの方を見た。彼女は上気した頬を真赤にさせて、スカーツから下はむきだしになった両足をつつましく揃えて立っていた。あの眼はなんという眼だ。この何もかにも明らさまな夏の光の下で何を訝り何を驚いているのだ。
* * *
ある朝両親はいつものとおり古ぼけた割幌の軽車を重い耕馬に牽かせて、その朝カロラインが集めて廻った鶏卵を丹念に木箱に詰めたのを膝掛けの下に置いて、がらがらと轍の音をたてながら村の方に出かけて行った。帰りの馬車は必要な肉類と新聞紙と一束の手紙類とをもたらしてくるのだ。私は朝の読書に倦んでカロラインを伴れて庭に出た。花園の側に行くとその受持ちをしているファニーが花の中からついと出てきて私たちをさしまねいた。そして私を連れて林檎畑にはいって行った。カロラインと何かひそひそ話をした彼女の眼はいたずらそうな光を輝かしていた。少し私を駆け抜けてから私の方を向いて立ち止まって私にも止まれと言った。私は止まった。自分の方を真直に見てほかに眼を移してはいけないと言った。私はどうして他見をする必要があろう。一、二、三、兵隊のように歩調を取って自分の所まで歩いてこい、そう彼女は私に厳命を下した。私はすなおにも彼女を突き倒すほどの意気込みで歩きだした。五歩ほど来たと思うころ私は思わず跳り上がった。跣足になった脚の向脛に注射針を一どきに十筒も刺し通されたほどの痛みを覚えたからだ。ファニーとカロラインが体を二つに折って笑いこけているのをいまいましくにらみつけながら足許を見ると、紫の花をつけた一茎の大薊が柊のような葉を拡げて立っていた。私はいきなり不思議な衝動に駆られた。森の中に逃げ込むニンフのようなファニーを追いつめて後ろから抱きすくめた私はバッカスのようだった。ファニーは盃に移されたシャンパンが笑うように笑い続けて身もだえした。頭の上に広がった桜の葉蔭からは桜桃についた一群の椋鳥が驚いてうとましい声を立てながら一時に飛び立った。私ははっと恥を覚えてファニーを懐から放した。私の胸は小痛いほどの動悸にわくわくと恐れおののいていた。ファニーは人の心の嶮しさを知らないのだ。踊る時のような手ぶりをして事もなげに笑い続けていた。
* * *
書棚とピアノとオルガンと、にわか百姓の素性を裏切る重々しい椅子とで昼も小暗い父の書斎は都会からの珍客で賑わっていた。すべてが煤けて見える部屋の一隅に、盛り上げた雪のように純白なリンネルを着た貴女はなめらかな言葉で都会人らしく田園を褒め讚えていた。今日はカロラインまでが珍しく靴下と靴とをはいていた。ふと其処にファニーが素足のままで手に一輪の薔薇を捧げて急がしくはいってきた。彼女は貴女のいるのに気づくと手持ち無沙汰そうに立ちすくんだ。貴女とファニーとがこの部屋の二つの極のように見えた。母が母らしく立ち上がって無作法を責めながら髪をけずり衣物を整えに二階にやろうとするのを、貴女は椅子から立ち上がりさえして押しとどめた。そして飾り気のない姿の可憐さと、野山に教えられた無邪気な表情とをあくまで賞めそやした。ファニーはもう通常の快活さを取りかえして、はにかみもせずに父に近づいて、その皺くちゃな手に薔薇の花を置いた。
「パパ、これがこの夏咲いた花の中でいちばん大きなきれいな花です」
父はくすぐったいようにほほえみながら、茎を指先につまんでくるくるとまわしてみた。都会人の田舎人を讃美すべきこの機会を貴女はどうしてのがしていよう。
「ファニー貴女は小さな天使そのものですね」
ときれいな言葉で言いながら父の方に手を延ばした。父は事もなげに花を貴女に渡すと、貴女はちょっと香をかいで接吻して、驚いた表情をしながらその花に見とれてみせた。ファニーははじめてほがらかな微笑を頬に湛えて貴女の方を見た。そして脚の隠れそうな物蔭に腰から上だけを見せて座を占めた。貴女は続けてときどき花の香をかぎかぎ、ファニーを相手に、怜悧らしくちょいちょい一座を見渡しながら、
「この薔薇は紅いでしょう。なぜ世の中には紅いのと白いのとあるか知っておいで?」
と首を華やかにかしげて聞いた。ファニーは「知りません」とすなおに答えて頭をふった。「それでは教えてあげましょうね。その代わりこれをくださいよ。昔ある所にね」という風にナイチンゲールが胸を棘にかき破られてその血で白の花弁を紅に染めたというオスカー・ワイルドの小話を語り始めた。ファニーばかりでなく母までが感に入ってそのなめらかな話し振りに聞き惚れた。話がしまわないうちに台所裏で鶏がけたたましくなき騒いだ。鶏の世話を預かるカロラインは大きな眼を皿のようにして跳り上がった。家内じゅうも一大事が起こったように聞き耳を立てた。カロラインが部屋を飛び出しながら、またレックスが悪戯をしたんだと叫ぶと、犬好きのファニーは無気になって大きな声で「レックスがそんなことをするもんですか。猫よきっとそれは」と口惜しそうに叫んだ。「ミミーなもんですか」と口返しする癇高な妹の声はもう台所口の方で聞こえた。一座が鎮まると貴女は薔薇の話は放りやって、父や母とロスタンのシャンテクレールの噂を始めだした。ファニーはもう会話の相手にはされていなかった。その当時売り出した、バリモアというオペラ女優の身ぶりなどを巧みにまねながら貴女は手に持っていた薔薇を無意識に胸にさしてしまった。しばらく黙って聞いていたファニーが突然激しくパパと呼びかけた。私はファニーを見た。いやにまじめくさった彼女の頬はふくれていた。父はたしなめるように娘を見やった。ファニーは負けていなかった。ちょっと言葉を途切らした貴女がまた話し続けようとすると、ファニーはまた激しくパパと言う。父は貴女の手前怒って見せなければならなくなった。
「不作法な奴だな、なんだ」
「That rose was given to you, Papa dear !」
「I know it.」
「You don't know it !」
しまいの言葉を言った時ファニーの唇は震えていた。涙が溜ったのじゃあるまい。しかし眼は輝いていた。父は少し自分の弱味が裏切られたような苦笑いをしている。貴女はほほえんでしばらく口をつぐんでいたが、また平気で前の話を始めだした。父と母とはこの場の不作法を償い返そうとでもするように、いっそう気を入れて貴女の話に耳を傾けた。繊細な情緒にいつでもふるえているように見えた貴女の心は、ファニーの胸の中を汲み取ってはやらぬらしい。田舎娘は矢張り田舎娘だとさえも思ってはいないようだ。私は可哀そうになってファニーを見た。その瞬間に彼女も私を見た。私は勉めて好意をこめた微笑を送ってやろうとしたが、それは彼女のいらいらと怒った眼つきのために打ちくだかれた。ファニーは軽蔑したように二度とは私を見返らなかった。そしてしばらくしてからふと立って外に出て行った。入れちがいにカロラインがはいってきて鶏の無事だったことを事々しく報告した。貴女は父母になり代わったように、笑みかまけてカロラインの報告にうなずいて見せた。
しばらくしてから戸がまた開いたと思うとファニーがそっとはいってきた。忠義を尽くしながらかえって主人に叱られた犬のような遠慮と謙遜とを身ぶりに見せながら父の側に近づいて、そっとその手にまた一輪の薔薇の花を置いた。話の途切れるのをおとなしく待ちつけて、
「これが二番目にきれいな薔薇なの、パパ」
と言いながら柔和な顔をして貴女を見た。一生懸命に柔和であろうとする小さな努力が傍目にもよく見えた。
「そうか」無口な父は微笑を苦笑いに押し包んだような顔をして言った。
「これを○○夫人にあげましょうか」
父はただうなずいた。
「これが貴女のです」
ファニーはそれを貴女に渡した。貴女は軽く挨拶してそれを受け取るとさきほどのに添えて胸にさした。ファニーは貴女が最初の薔薇と取り代えてくれるに違いないと思い込んでいたらしいのに、貴女はまたそれには気がつかないらしい。ファニーがいつまでもどかないので挨拶がし足りないと思ったのか、
「Thank you once more, dear.」
とまた軽く辞儀をした。ファニーもその場の仕儀で軽く頭を下げたものだから、もうどうすることもできなかった。うつむいたままでまた室を出て行った。その姿のいたいたしさは私の胸を刺すばかりだった。
私はしばらくじっとして堪えていたが、なんだかファニーが哀れでならなくなって、静かに部屋をすべり出た。食堂と居間とを兼ねた隣の部屋にも彼女はいなかった。静かな台所でことことと音のするのを便りに其処の戸を開けてみると、ファニーが後ろ向きになって洗い物をしていた。人の近づくのに気がついて振り返った彼女の眼は、火のように燃えていた。そして気でも狂ったように手にしたたった水を私の顔にはじきかけた。
貴女が暇乞いをして立つ時、父は物優しくファニーの無礼をことわって、いちばん美しい薔薇を返してもらった。客の帰ったのを知って台所から出て来たファニーが父の手にその薔薇のあるのをちらと見ると、もうたまらないというようにかけ寄ってその胸に顔を埋めた。父が何かたしなめると、
「This rose is yours anyhow, Papa.」
とファニーが震え声で言った。そして堪え堪えしていたすすり泣きがややしばらく父の胸と彼女の顔との間からメロディーのように聞こえていた。
* * *
次の年の春に私はまたこの一つの家を訪れた。桜の花が雪のように白くなって散り始め、ライラックがそのろうたけた紫の花房と香とで畑の畦を飾り、林檎が田舎娘のような可憐な薄紅色の蕾を武骨な枝に処せまきまで装い、菫と蒲公英が荒土を玉座のようにし、軟らかい牧草の葉がうら若いバッカスの顔の幼毛のように生え揃い、カックーが林の静かさを作るために間遠に鳴き始めるころだった。空には鳩がいた。木には木鼠がいた。地には亀の子がいた。
すべての物の上に慈悲のような春雨が暖かく静かに降りそそいでいた。私の靴には膏薬のように粘る軟土が慕いよった。去年の夏訪れた時に誰もいなかった食堂を兼ねた居間には、すべての家族がいた。私の姿を見ると一同は総立ちになって「ハロー」を叫んだ。ファニーがいつもの快活さで飛んできて戸を開けてくれた。遠慮のなくなった私は、日本人のするように戸口で靴をぬぎ始めた。毛の毯のようなきれいな仔猫が三匹すぐ背をまるめて靴の紐に戯れかかった。
母と握手した。彼女は去年のままだった。父と握手した。彼はめっきり齢をとって見えた。ファニーの兄たちは順繰りに去年の兄ぐらいずつの背たけになっていた。カロラインはベビーと呼ばれるのが似合わぬくらいになった。ファニーは──今までいたはずのファニーは見えなかった。少しせっかちな父は声を上げてその名を呼んだが答えがない。父はしばらく私と一別以来のことを話し合ったりしていたが、矢張り気になるとみえて、また大声でファニーを呼び立てた。その声の大きさに背負投げを喰わしてファニーの「Here you are」という返事は、すぐ二階に通う戸の後ろから来た。そして戸が開いた。ファニーは前から戸の間ぎわまで来ていたのにきっかけを待って出てこなかったのだと知った私は、ちょっと勝手が違うような心持ちがした。顔じゅう赤面しながらそれでも恥ずかしさを見せまいとするように白い歯なみをあらわにほほえんでファニーはつかつかと私の前に来て、堅い握手をした。
「めかして来たな」
兄から放たれたこの簡単なからかいは、しかしながらファニーの心を顛倒させるのに十分だった。顔を火のように赤くしてその兄をにらんだと思うと戸口の方に引き返した。部屋じゅうにどっと笑いが鳴りはためいた。ファニーの眼にはもう涙の露がたまっていた。
ファニーはけっして素足を人に見せなくなった。そして一年の間に長く延びた髪の毛は、ファウストのマーガレットのように二つに分けて組み下げにされていた。それでもその翌日から彼女は去年のとおりな快活な、無遠慮な、心から善良なファニーになった。私たちはカロラインと三人でよく野山に出て馬鹿馬鹿しい悪戯をして遊んだ。
其処に行ってから三日目に、この家で決めてある父母の誕生日が来た。兄たちは鶏と七面鳥とを屠った。私と二人の娘とは部屋の装飾をするために山に羊歯の葉や草花を採りに行った。
木戸を開けて道に出ると、収穫小屋の側の日向に群がって眼を細くしながら日の光を浴びていた乳牛が、静かに私たちを目がけて木柵のきわに歩みよってきた。毛衣を着かえたかと思うようにつやつやしい毛なみは一本一本きらきらと輝いた。生まれてほどもない仔牛は始終驚き通しているような丸い眼で人を見やりながら、柵から首を長く延ばして、さし出す二本の指を、ざらざらした舌で器用に巻いてちゅうちゅう吸った。私たちは一つかみずつの青草をまんべんなく牛にやって、また歩きだした。カロラインは始終大きな声で歌い続けた。その声が軽い木魂となって山から林からかえってくる。
カロラインはまた電信をしようと言いだした。ファニーはいやだと言った。末子のカロラインはすぐ泣き声になってどうしてもするのだと言い張る。ファニーは姉らしく折れてやって三人は手をつないだ。私は真中にいてカロラインからファニーにファニーからカロラインに通信をうけつぐのだ。カロラインが堅く私の手を握ると私もファニーの手を堅く握らねばならぬ。去年までは私がファニーの手を堅くしめるとファニーも負けずにしめ返したのに、今年はどうしても堅く握り返すことをしない。そしてその手は気味の悪いほど冷たかった。ファニーから来る通信がいつでもなまぬるいので、カロラインは腹を立ててわやくを言いだした。ファニーは「それではやめる」と言ったきり私の手を放してしまった。カロラインがいかに怒ってみても頼んでみても、もうファニーは私と手をつなごうとはしなかった。
森にはいると森の香が来て私たちを包んだ。樫も、楡もいたやもすべての葉はライラックの葉ほどに軟らかくて浅い緑を湛えていた。木の幹がその特殊な皮はだをこれ見よがしに葉漏りの日の光にさらして、その古い傷口からは酒のような樹液がじんわりと浸み出ていた。樹液のにじみ出ている所にはきっと穴を出たばかりの小さな昆虫が黒くなってたかっていた。蜘蛛も巣をかけはじめたけれども、その巣にはまだ犠牲になった羽虫がからまっているようなことはない。露だけが宿っていた。静かに立って耳をそばだてるとかすかに音が聞こえる。落葉が朽ちるのか、根が水を吸うのか、巻き葉が拡がるのか、虫がささやくのか、風が渡るのか、その静かな音、音ある静かさの間に啄木鳥とむささびがかっかっと聞こえ、ちちと聞こえる声を立てる。頭を上げると高い梢をすれずれにかすめて湯気のような雲が風もないのに飛ぶように走る。その先には光のような青空が果てしもなく人の視力を吸い上げて行く。
私たち三人は分かれ分かれになって花をあさり競った。あまりに遠く隔てると互いに呼びかわすその声が、美しい丸みを持って自分の声とは思えないほどだ。私は酔い心地になって、日あたりのいい斜面を選んで、羊歯を折り敷いて腰をおろした。村の方からは太鼓囃しをごく遠くで聞くような音がかすかにほがらかに伝わってくる。足の下に踏みにじられた羊歯の青くさい香を私は耳でかいでいるような気がした。私はごく上面なセンチメンタルな哀傷を覚えた。そして長いとも短いとも定めがたい時が過ぎた。
ふと私は左の耳に人の近づく気配を感じた。足音を忍んでいるのを知ると私は一種の期待を感じた。そしてその足音の主がファニーであれかしと祈った。足音はやや斜め後ろから間近になると突然私の眼の前に、野花をうざうざするほど摘み集めた見覚えのある経木の手籃が放り出された。私はおもむろに左を見上げた。ファニーが上気して体じゅうほほえんで立っていた。
しばらく躊躇していたがファニーはやがて私の命ずるままに私の側近くすわった。二人きりになると彼女はかえって心のぎごちなさを感じないようにも見えた。何か話し合っているうちに二人はいつしか兄弟のような親しみに溶け合った。彼女は手籃を引きよせて、花を引き出しながらその名を教えてくれた。蕃紅花、毛莨、委蕤、Bloodroot, 小田巻草、ふうりん草、Pokeweed …… Bloodroot はこのとおり血が出る。蕃紅花は根が薬になる。Pokeweed の芽生えはアスパラガスの代わりに食べられるけれども根は毒だから食べてはいけない。毛莨は可愛いではないか、王の酒杯という名もある。小田巻草は心変わりの花だ。そういう風に言ってきてふとしばらく黙った。そして私をじっと見た。私は彼女の足許に肱をついて横たわりながら彼女の顔を見上げた。今までついぞ見たことのなかった人に媚びるような表情が浮かんでいた。彼女はそれを意識せずにやっている。それはわかる。しかし私は不快に思わずにはいられなかった。
There's Fennel for you, and Columbsines ……
ふと彼女は狂気になったオフェリヤが歌う小歌を口ずさんで小田巻草を私に投げつけた。ファニーはとうとう童女の境を越えてしまったのだ。私は自然に対して裏切られた苦々しさを感じて顔をしかめた。私はもう一度顔を挙げて「ファニー」と呼んだ。ファニーはいそいそとすぐ「なに?」と応えたが、私の顔にも声にも今までとは違った調子の現われたのを見て取って、自分も妙に取りかたづけた顔になった。
「お前はもう童女じゃない、処女になってしまったんだね」
ファニーは見る見る額のはえぎわまで真赤になった。自分の肢体を私の眼の前に曝すその恥ずかしさをどうしていいのかわからないように、深々とうなだれて顔を挙げようとはしなかった。手も足も胴も縮められるだけ縮めて私の眼に触れまいとするように彼女は恥に震えた。
火のようなものが私の頭をぬけて通った。ファニーは私の言葉に勘違いをしたな。私はそんなつもりで言ったのじゃないと気が付くと、私はたまらないほどファニーがいじらしく可哀そうになった。
「そんなに髪を伸ばして組んだりなんぞするからいけないんだ。元のようにおし」
しかしその言葉は、落葉が木の枝から落ちて行くように、彼女の心に触れもしないですべり落ちた。
帰り路にカロラインは私たち二人の変わり果てた態度にすぐ気がついて訝りだした。幼心に私たちは口喧嘩でもしたと思ったのだろう、二人の間を行きつもどりつしてなだめようと骨折った。
この日から私は童女の清浄と歓喜とに燃えた元のようなファニーの顔を見ることができなくなってしまった。
* * *
永久にこの家から暇乞いをすべき日が来た。ファニーは朝から私の前に全く姿を見せなかった。昼ごろ馬車の用意ができたので、私は家族のものに離別の握手をしたが、ファニーは矢張りいなかった。兄らは広縁に立って大きな声でその名を呼んでみた。むだだった。私は庭に降りて収穫小屋の方に行ってみた。その表戸によりかかって春の日を浴びながら彼女はぼんやり畑の方を見込んで立っていた。私のひとりで近づくのを見ると彼女ははっと思いなおしたようにずかずかと歩み寄ってきた。私はせめてはこの間の言いわけをして別れたいと思っていた。二人は握手した。冷え切ったファニーの手は堅く私の手を握った。私がものを言う前にファニーは形ばかり口の隅に笑みを見せながら「Farewell !」と言った。
「ファニー」
私の続ける暇も置かせずファニーはまた「Farewell !」とたたみかけて言った。そしてもう一度私の手を堅く握った。
底本:「生まれ出づる悩み」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年5月10日改版初版発行
1980(昭和55)年11月10日改版22版発行
初出:「新家庭 第一巻第一号」玄文社
1916(大正5)年3月1日発行
※「私の目」と「私の眼」、「処々」と「所々」、「延」と「伸」、「無作法」と「不作法」、「蜘蛛」と「蜘」、「荊棘」と「棘」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の註釈は省略しました。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:呑天
校正:えにしだ
2019年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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