田崎草雲とその子
吉川英治
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梅渓餓鬼草紙の中に住む
一九先生に会うの機縁
山谷堀の船宿、角中の亭主は、狂歌や戯作などやって、ちっとばかり筆が立つ。号を十字舎三九といっていたが、後に、十返舎一九と改めて、例の膝栗毛を世間に出した。
それが馬鹿な売れ行きをみせて、馬琴物も種彦物も影をひそめてしまったので、一九は、すっかりいい気持だった。
待乳山が近い二階の北窓に、文人ごのみの机をすえて、よく鼻毛など抜いていたが、この頃、毎日のように、ぴイぴイ泣く、近所の子供の声が、神経にさわってならないので、女房が上ってきた所を、いきなり呶鳴りつけた。
『てめえの耳は、ぬか袋か。あれが気にならねえのかよ。なんでえ、あの餓鬼ゃあ、きのうも今日も、まんまー、まんまー、と雨垂れみてえに、朝から晩まで、泣きいびってやがる。なんとかして来い』
『よその子を、どうなるものかね。それに、御浪人じゃないか。うっかりした事を、いえやしない』
ふくれながら、女房は、外へ出て行ったが、戻ってくると、慌てて、大きな塩握飯を二つこしらえて、前掛の下に、小皿を隠して出て行った。
ひどい裏店で、一軒一軒が生ける餓鬼草紙の絵だった。ドブ板さえ焚き付にされている狭い路地を、女房は、何気なく通りかかった振りをして、雨垂れ泣きの洩れる台所から、
『おや、坊ッちゃま、どうなさいましたえ』と、覗きこんだ。
『あれ、これが、欲しいんでございますか。これは、坊ッちゃまの食がるような物じゃございませんよ。オヤ、お泣きなさいますね。じゃ、置いて参りましょう。玩具になさいましよ』
と、握飯の皿を置いて、大急ぎで帰ってしまった。
画家の田崎梅渓と妻女のお菊は、奥で──といっても、六畳一間、やぶれ障子と、屑屋も逃げるような雑器のほか、何物もない。──暗然と、顔を見あわせて、
『ああ、美味そうな……』
と、握飯の皿へ、本能的にしがみついて、音をたてて食べているわが子、まだ、五歳の格太郎を、夫婦で、じっと見つめていた。
梅渓は、眼が熱くなった。お菊も泣いた。
『これだな、人間を邪悪にするのも、偉くするのも。この試練だ』
自分は、男泣きに、泣いているのだ。しかもこの七日程、食物らしい物は何も入っていない胃袋は、格太郎の指にくッ付いている飯粒を見ると、それを、奪っても食いたいような苦悶を起している。腸も胃も、暴れ廻って、吐き気のような生唾を感じるのだった。
母性愛と、女のたしなみとに、つつましく、ただ涙の眼で、見まもっているお菊であっても、恐らくは、自分と同じであろう、と梅渓は思った。
数日後。お菊の兄の松井益太郎がきて、一息つけたので、梅渓は、
『一言、礼に』
と、いって一九の家へ出向いた。
近所に、貧乏画家が住んでいるとは聞いているが、訪ねられて、会ってみると、一九は怖ろしい圧迫を感じた。衣服などは、垢じみているが、貧乏臭い影などは微塵もない。濃い眉、射るがごとき瞳黒、肩幅はひろく、脊は立てば鴨居につかえそうだ。膝を真四角に坐っている。そして、談論風発だ。
こいつあ、苦手だ。──と一九は、肚の中で兜をぬいだ。
話が、自作の膝栗毛のことに及ぶと、飯田町と池の端も、甘えもンだといっている一九だが、なんだか、見透かされるような気がして、ツイ、口を辷らして種を割ってしまった。
『評判は大したもんで。へい左様で。だがあいつあ実は、あっしばかりの智恵じゃねえんで、合作というやつでげす。──酒井雅楽頭の縁びきに、酒井仲っていう人がありやしてね、これが、道楽者でげす。学問は和漢にわたって、一通りでげすが、辰巳、吉原の方も詳しい。おきまりの押籠から勘当、とど、面倒くせいやって理で、諸国をふらついていたのが、七、八年目にぶらりとやって来て、あっしに見せたのが、諸国の人情風俗を、おどけに書いた稿本なんで。それから、膝栗毛は生れたんでげす。次にゃ、木曾道中を書きやすから、版木になりましたら又御覧なすッて』
と、そんな、話だった。
この江戸ッ子は、正直だが、やっぱり臭い。酢豆腐の部類に属するものだ。それに、おどけを語って、涙を解さない滑稽作者は、話せないと思って、梅渓は帰った。
五人兄弟辻斬りを辻斬る
釣竿魚を釣らず金を釣る
『居るか。梅渓』
飢えている日も、訪れる声は、元気者ばかりだ。
妻のお菊の兄弟たちである。松井の四人兄弟というと、音に聞えている。長兄弥左衛門、次が益太郎、それから利兵衛、文蔵という順だ。どれもこれも、侍伝法、大男で酒のみである。上の弥左と末の文蔵だけが、あまり飲けない。そのかわりに喧嘩がすきだ。
妹の貧乏などは、眼の中には入らない。入りかわり、立ち代りだから堪らない。むろん遊びに誘う、千住、吉原、品川、足をふまない所はないが、お菊は、嫌な顔を見せたことがなかった。見せれば、梅渓よりも、兄弟たちの方から、
『そんな女は、梅渓には不向きだ、出て行け』
と、代筆の離縁状が、出かねない。
その日は、四人兄弟が、四人づれで出て、
『梅渓、面白いことがある、ちょっと外まで』
と、例によって、誘い出した。
なにかと思うと、神田の和泉橋に、辻斬が出る。辻斬はめずらしくないが、ひどく達者ものらしいから、逆に、辻斬を辻斬しようという。
『よかろう。誰が斬る』
俺が、俺が、で兄弟喧嘩が始まりそうだった。結局、酔っぱらいが一人、斬り手一名、後詰三人と役割をつけて、籤をひいた。酔っぱらいの役が梅渓に、斬り手が末の文蔵に当った。
郡代横丁の居酒屋で飲んで、やがて、和泉橋へ出かけてゆく。梅渓は、わざと足どりを千鳥にして、辻斬を釣る空ッぽの折詰をぶらぶらさせた。狐、浅ましくも引っかかった。お誂えの黒いでだち、ばすッと、鍔音を感じたので、梅渓は、
『おいでなすッた』
と、呶鳴って、抜き打ちに後ろを撲った。
斬り役の文蔵は、梅渓が先を越したので、
『約束が違うッ』
と、不平をいいながら、長刀で、後ろ袈裟にあびせた。後詰の三名もたまらなくなって、
『俺にも斬らせろ』
『俺にも』
と、またたく間に、酢飯に乗っている赤貝みたいに、辻斬を辻斬ッてしまった。
貞節な菊女を出し、こんな調子の兄弟を出した松井家にはたしかに一つの血がながれている。その血がやがて、菊女と梅渓のあいだに生した一子格太郎にも伝わって、後の運命相を芽ざしていたことは否めない。
松井家の祖は、家康の甲州入の折に、戦歿している。子孫は、三河の松井田村で、土器師をしていたが、見出されて、江戸に移り、旗本並、目見得格に取立てられて、屋敷を入谷に、地を今戸に受けた。そこで、柳営をはじめ三家御三卿の式事につかう、すべての御用土器を製造して、幕府に納めたのである。つまり、今戸焼の草分だ。従って、その収入は、三千石や四千石の禄米とは、比較にならないほど多かったが、四人兄弟の代になって、競争で、財産を減らしてしまった。いや、空々に、乾かしてしまったのだ。入谷の屋敷さえ売り払って、堀に移っているという始末。
その金の費いかたなども、振ってる。年中品川へ網打ちにばかり出て、金を撒き餌に、雑魚をすくって、欣しがっているかと思うと、神田祭に、巨額な奉納金をして、花車の上で馬鹿踊りをやって、大得意な奴がある。中にも、二番目の益太郎は、その頃の岩井半四郎の、すばらしい人気を聞いて、楽屋入を待ちうけ、わざといかめしく往来に立ち塞がって、
『河原者、待とう。かりにも、松井益太郎のゆくてに現われて、唐瓜の化物を、風呂敷で包んだような、その面ていは、何事だ、解けっ、風呂敷を』
と、呶鳴りつけた。
半四郎は、びっくりした。楽屋入り頭巾をあわてて取って、大地に、額をつけた儘、ふるえ上った。男衆が飛んでいって、楽屋へ、急を告げる。顔役をたのんで来る。弥次馬や、町の女たちは、
『大和屋だ、大和屋だ』
と、木戸銭がないので、すぐ、人垣をつくって、わいわい押している。
『おおかた、近ごろ流行りの、宿無し浪士の嫌がらせだろう。舞台にさしつかえるから、まあ鼻紙銭でも包んで行け』
と、芝居者が、駈けつけて来てみると、益太郎は、腰の海老鞘を閂に反り打たせて、
『貴様は、そもそも、男か女か』
と、半四郎に、奇問を発している。ふるえ声でいった半四郎の答えもよかった。
『はい、実は、男でございます』
『男だと。呆れた馬鹿野郎め。男のくせに、紅白粉をつけ女小袖で、大道をあるくとは、妖怪にもまさる奴だ。その垢摺りみたいな額の紫の布はなんだ』
『色子や、役者衆は、みんなこういう物を、額にあてております。私ばかりではございません。お目障りになりましたら、どうかお勘弁を』
『甚しい目障りじゃ。しからば汝は、役者という者か』
『岩井半四郎にござります』
『ほ。評判の大和屋だな。白昼、真っ白な妖怪が歩いて来たから一刀の下にと思ったが、人気者の大和屋とあればゆるして遣わす。それっ、これは祝儀じゃ、拾ってゆけ』
と、わざわざ、金座で鋳き立てを両替してきた小判を百両、ざらっと、往来へ撒いて、
『──はて、うららかな』
と、扇子で、顔を煽いで、得々と弥次馬の眼に送られて立ち去ったという話もある。
然しこういう人間は、松井の四人兄弟ばかりでなく、すでに末期相を兆わした頽廃文化の中には、ほかにも、類型が沢山うごめいていたに違いない。幕府は、京都と外国の交渉に腐ってくるし、浪士は、蛆みたいにふえるし、町人は、唯物生活に行き詰って、刹那主義に傾くし、役人の頭はぼけていて、為すことを知らない間に、足もとをつけ込んで、押込み、騙り、辻盗り、殺人、社会悪は、踊りを踊って為政者を馬鹿にする。
費うばかりなので、この兄弟も、忽ち、煙草銭にも困ってきたので、骨肉相謀って、こんどは、遊びと収入を兼ねた「御内聞とり」という職業の新機軸をひらいた。
ぼんやりしている勤番者を見つけて、喧嘩を売る。又、八丁堀同心とみると、わざと突っかかる。どてらに、三尺帯か何か締めて、ふくらんだ無頼者みたいな恰好をしているので、手先が、奉行所の白洲へ、しょッ曳いてゆくと、必ず、
『脱ぎませいッ』
と、眼ざわりな、どてらを叱りつける。
待っていました、という調子で、どてらを脱ぐと、松井家が拝領した立て葵の紋服を下に着ている。
繩は打てない。奉行は狼狽する。
急に、役人輩が、こそこそし始めると、もう商売になっている。松井兄弟は、台本にできているセリフを大声でよみ始めるのである。
『早く処分をいたさんか、取調べは如何いたした。畏れ多くも、君祖家康公よりお直筆墨付きを頂戴しておるお目見得格、松井一族を、どう御処分あるや、拝見な仕りたい。まッた、拝領の御紋服を、不浄砂利にけがした儀についても、奉行自身の、あいさつが承りたい』
代り番こに、どなる。がんがんと喚く。
奉行は、手を焼いて、
『まず、御内聞に、御内聞に』
と、退きさがると、小役人が、扇子の上に、金を包んで、
『どうか、今日の所は』
と、来る。中には、役宅の裏へまわして、馳走する奉行もあった。これは、だいぶ実入になったが、八丁堀に顔を覚えられて、向うが、相手にしなくなった。
『少し、河岸を代えよう』
と、こんどは、府外へ眼をつけた。
葛飾の中川は、御留川だった。いわゆる禁漁区域で、将軍家の御用網のほかは、打てないことになる。でこの川筋には、魚鱗の光りが押し合っている。これには、梅渓も一口のって、
『すばらしい、釣場だ』
と、釣竿をかついで、出かけた。
伊奈半十郎の配下が、舟番所から見張っている。五本の釣竿で、わいわいと騒いでいるからすぐ見つかる。繩を打って、代官所へ引っ張りこむと、禍なるかなで、例の「御内聞取り」の本読みにとりかかる。
袖の下で、帰って貰うと、またやって来るのだ。小費いがなくなると、
『どうだ、中川へ』
『よかろう』
と、帰りは、千住か吉原の予定をもって、釣竿をかつぎ出す。
中川番所でも、呆れて、
『また来た』
と、笑って眺めているほかなかった。
しまいには、番所から、こんな手紙が来るほど懇意になってしまったので、もう兄弟の商売は上ったりである。
それに、梅渓も、漸く画道の精進に、全熱的になって、秋日の空も、想わなかったのである。
胎内すでに運命の人
老蝉幼蝉みんみん共鳴す
彼は、野州足利藩の軽輩だった。
士分といっても、足軽に毛が生えたぐらいな格に過ぎない。尤も、藩主戸田大炊頭忠文その人からして、僅々一万一千石、ずいぶん貧窮な大名だった。
梅渓は、その小藩に運命づけられて生れた。幼名を頼助、後に恒太郎、諱を明義、また芸と称して、四十六歳以後は、その芸の字劃を二つにわけて草雲と号した。
便宜上、ここから先、草雲でよぶ。
草雲は、貧乏な君侯と、貧乏な父と、貧乏な自分とを、小川町の藩邸の長屋で生れた時から、持っていた人だと云える。父の常蔵は、足軽二人扶持から、生涯忠勤をして、やっと、士分に漕ぎつけた所で死んだ。
この頃、二人扶持が、どんなに残酷な、人間の生活費であるかは、草雲の生れた折の話で分るのである。しかし、伝えられる説と私の解釈とは、違うのであるが──
それは、草雲の母ます女が、彼を妊娠した時に、良人の常蔵に、その欣びをささやくと、常蔵は、暗然として、
『それは弱った。そちの食養が乏しいためか、生れる子は、清も孝も、みな病弱だ。この上に、弱い子を生んで、風波の世へ送り出すのも罪、世のためにも、家のためにもならぬ。不愍だが、鼠屋の黄王散を買って、そっと、飲んでくれい』
闇から闇へ──というのである。ます女は、夜更けてから、悄々と出て行った。
『買って来たか』
『いえ……。やめました』
彼女は、良人の顔いろを見ながら、こういった。
『実は、この子を妊娠る前に、私は、白い碁石をのむ夢を見たのでございます。所が、今、鼠屋の前まで行って、戸をたたいて薬を買おうと思うと、足許に、何か白いものが光っております。オヤ、と思って拾ってみると、不思議ではございませんか、これこの通り、夢に見た碁石が……』
と、帯の間から、一粒の白石を、出してみせた。
奇瑞だ、奇蹟だ、とこの話は伝記の書に伝えられている。偉人高僧の誕生伝記と同巧異曲なものである。草雲自身も、それに感動して、晩年の書斎を白石山房とよんだし、印章にも、瑞白、白石子、石生などと刻していた位だし、又、彼自身が老後人にも、
『あの時もし、母が、一服の黄王散を飲んだら……』と、よく語りもしたといえば、これは伝説でなくて、事実に違いない。私も信じる。
だが、私の信じるのは、夢でなくます女の母性愛である。良人を思い直させた彼女の尊い機智に涙ぐまれるのである。鼠屋の前から、黄王散を買わずに、愛の機智を拾って帰ってきた彼女の姿を想い、母胎を想い、そこに宿る無形の白石子を想い、ひいては又、松井家から草雲に嫁いだ菊女、その仲に生した格太郎、──と、こう考えてくる時、人間の連鎖、連環のつくるふかい一線が人生をつき抜いているように感じられる。
生れた草雲は、ひどい腕白者だった。田崎の腕白は、小川町の藩邸に鼻抓みにされた。組長屋の空地で腕白は、よくモチ竿をもって、蜻蛉を追ンまわす。同役の婆さんにやかまし屋があって、しょッ中呶鳴られていたが、或時、長屋の隅にある共用の便所の前にかかると、その老女が、用をたしに入ったのを見た。
やがて、きゃッ、という悲鳴が、厠の中で起った。雪隠の隙間からモチ竿で、老女の隠しどころを、モチでさした者がある。心もなえて、絶叫したが、老女も、武家者であるから、気づよく、モチ竿をヘシ折って、腕白を追いかけた。
老女のせがれが、出てくる、腕白の親が謝罪にゆく、手討にするの、しないので長屋中の騒動になった事もある。
田舎へ、子守奉公にやったが、帰されて来ること、鞠より早い。
『これは、縛るに限る』
と、草雲は、十歳で、足利の藩主の邸に、お茶坊主にやられた。
当主忠文の父、大殿様とよぶ御隠居付きお茶坊主であった。石に因んだ瑞白という名は、その時に誰かが名づけた。
然し、小坊主の瑞白は、ちっとも拘束されてはいない。それにこの御隠居が、変り者で、老童が肝胆相照らしてしまった。
風呂にはいった時だ。御隠居の大殿様、瑞白が、浴槽をまたいで入る所を、手をのばして、彼の可愛らしき物を、ぎゅっと握り、
『ほ。茄子が実っとるぞ』
と、からかわれた。
幾日かすぎて、又、御隠居の垢流しに、風呂のお供をした。何気なく御隠居が入りかける所を、かねて、狙っていた瑞白は、春秋六十年を経たる大殿の股間の一物を、ふわりと後ろから掴んで、
『オヤ、この南瓜は、毛が生えて腐りかけています』
『小僧』
と、御隠居は、掴まれたまま、振り向いて、
『仇討──見事』
と、笑った。
更に、この御隠居には、妙な一癖があって、微行で、歩く時など、自分で自分の鼻をつまみ、少し反り身になったと思うと、
『みんみんみん……』
と、独り言をいう。
なんの真似か、家来も、訊いてみる者がなかったが、どうも、蝉の真似らしい。草雲の瑞白は、さっそく、覚えて、鼻抓みのみんみんを、至るところでやって歩く。家元の御隠居が見て、
『小僧、それも覚えたか』
この老蝉と幼蝉が、共鳴して、庭をぶらついている時などを思うと、それを眺めている家来たちの、変な顔も、想像されてくる。
二十歳の時、草雲は脱藩して江戸へ走った。画心壮心二つながら、燃えて、じっと、小藩の禄を、安為として食べては居られなかったのである。
右隣に星巌、左隣に美婦
無月の家に七草や悲し
菊女を娶り、格太郎を生じ、貧乏第二期から三期へのあいだに、草雲は一家を移して、浅草の伝法院地内、火之見横町の長屋に住みかえていた、──が貧乏は、引っ越してもついて来る。
『あの、まことに──』と、お菊はよく、顔を紅めながら、勝手口から隣の勝手口へ、女同志の心やすだて、打明けに行くことがあった。
『いつも、いつも、申しかねるのでございますが』
それだけいうと、隣の細君は、すぐ察して、
『お米ですか』と、いってくれる。
『いえ、今日は、その白米は少々ととのえましたが、醤油も、味噌も、きれまして』
『おやすい御用、たんとはございませぬが』
細君は、お菊より年上だった。六畳間には、顔の長い、頬の削げた、そして窪んだ穴の中に鋭い眼のある老人が、漆黒の腮髯をしごいて、いつも書見か、墨池に親しんでいる。
器に、醤油と、味噌を頒けてくれながら、細君はいった。
『これをさし上げます程に、お宅様に、今夜だけの燈し油がございましたら、少々御無心いたしとうございますが』
お菊は、まっ赤になって、
『所が、生憎と、それも一昨日から無くなりましたので、昨晩は、暗いまま過しましたので』
『おや、おや。それでは自宅と同じ、無月の夜でございますの』
と細君は、お婆さんと見えない、ほがらかな声で笑った。これが若い時は閨秀詩人で鳴らした紅蘭女史であった。紅蘭が無月の洒落をいっても、奥で、笑いもせずにいる霊芝みたいな人間は、むろん慷慨詩家、梁川星巌なのである。
夜になっても、三軒長屋で、灯りがついたのは、左隣りの一軒だけだった。草雲の家は真ん中で、右が星巌、左が灯りのつく家だった。無月の晩などは、狭いだけあって、左の家は、小ぢんまりと、衣桁に紅い友禅などが見える。男気はなく、お墨に、お房、という母娘ふたりの女世帯である。
お墨は三十五六らしいが、まだ十六、七のお房にまけない気で、よく朱塗の鏡台へ、ぺたんこに坐って、いかに老いまじきかと、苦心惨憺たる様子がある。お房は、気のやさしい娘だった。すこし淋しい影はあるが、美人である。
彼女の母は、人の妾だった。公然に、父といえない人は、幕府の金用達を勤め、御家人株をもって、とにかく、大小をさしている中山蒿岳という男だった。蒿岳は、この妾宅へ稀にみえても、もうお墨の意慾に添える年ではない。ただ義務として顔を出すのである。そして少々画の下地があるので、草雲が移ってきて以来、いつか師事するようになった。師の子息、格太郎にはよく手土産などをもってきた。
その蒿岳は、もう両三年前に死んでいた。生活費は、困らないようにしてあったとみえて、つましくはあるが、母娘に口紅や白粉の余裕はあった。殊に、お房の美しさは、年頃になるにつれて、伝法院界隈で、ちょっと目についた。
堀の裏店で、まんまー、まんまーと、泣いていた格太郎も、もう前髪をとって、青額白皙の青年だった。幼少の時、剣槍を男谷の道場へ、後に九段の斎藤弥九郎の練兵館に研き、学問はいう迄もなく、孜々と毎日三田の塾まで通っている。
岸田吟香、松浦武四郎、栗田万次郎、富岡鉄斎、林和一、渡辺洪基、そんな連中が、格太郎の塾の学友だった。──後に、明治になって、精綺水という眼薬を売った岸田吟香とは、ことに、仲がよかった。そして、吟香も、武四郎も、
『田崎は、できる。親父も親父だが、あれも俊才だ』
といっていた。
短袴長刀の講武所すがたで、塾へ通う格太郎のすがたを、隣りのお房は、ちらとでも、見ることが楽しかった。灯ともし頃──もう帰る頃──彼女は、何かの用事をこしらえて、使に出たがった。
その癖、どうかして表で会うと、お房は、襟もとまで紅くなって、気のつかない振をした。眸があうと、唇を乾かして、苦しそうに、ただニコッと笑う。格太郎も、微笑する。それだけの年月が二年もたった。
一方──父草雲はといえば、年ようやく不惑をこえること五年、いわゆる、彼の生涯の一期劃をなす「浅草草雲時代」の惨心いたましき行道に、はいっていたのである。
年二十歳で、藩を脱しさせた、画心と壮心のふたつは、それから、二十五年の貧乏にも、少しも歪められはしなかった。いや、運命は、苛酷にまで、彼を研いた。武士としての修養を、画人としての造詣を、また人間そのものを。
彼に、画心の眼をひらかせた人は、金井烏州であり、六法の初歩を授けた者は、川崎の隠士加藤梅翁だった。
江戸へ出ては、文晁に鞭撻され、崋山に刺戟され、春木南湖の門をたたき、靄厓に質すという風だった。──然し、彼自身の画眼は、べつに一見識あって、宗元を摸していわゆる独学独創を心に誓ったにちがいない。支那の劉松年、仇十州、銭滄州あたりの扮本を手にでもいれると、まったく妻も子も、米の事もない、天地の一孤夫草雲だった。
ひとり草雲のみではないが、この時代の画人や詩家が、どんなに「紙」を尊んだか、惜しんだかを、私たちは、今の唯物的な、科学万能の社会の中から、考えてみるのも、想像のほかだ。一枚の画箋はたいへんな物だった。値ではない。世間に無いのではない。貧しい画家にとって、金に等しいのである。田能村竹田のごときは、筆はあっても、常に、紙にこがれた。皺苦茶な紙でも、のばして使った。舶載の唐紙一枚にめぐり会う時は、それへ筆を落すことを、恋人と契るように昂奮して、彼等は、詩を書いている、画を描いている。
むろん、草雲の如きは、紙に不自由すること、米以上だったろう。反古を、金の如くのべて、古画を臨摹する。ほそぼそと燈る深夜の灯かげに、無性髯の伸びた彼の顔は、芸術の鬼そのものである。ふいに、そういう時の彼の筆の軸を切ったら、彼の血が迸しるにちがいない。
だが、そうして描いた画が、金に代ることは、まだ四十五の草雲にはなかった。──尤も、米を得るべく、遊歴もやり、大道に凧の絵を描いて売ったこともあるが、門口から、画の依頼者として、訪れてくる者は、絶無だった。
『よく、私たちは生きてきた』
と、妻女のお菊は、つくづく思う。
まだちッとも、先に光の見出せない二十五年の真っ暗な行路に、彼女も、少しつかれが見えた。大道で、良人が凧を売れば、共に顔をさらして糸目をつけた彼女。草雲が、いつ出かけても、酔って帰っても、嫌な顔一つ見せたことのない彼女。また、格太郎にはわけてやさしく、良人と子を飢え死にさせずに、ここまで辿って来た彼女。
『もし、自分にこの妻がなかったら……』
と、時には、草雲の眼にも、神の如く見えたお菊も、女である。近頃は、精も根も、衰えたように、痩せが目についてきた。
そういう所へ──実にそういう所へだった。
或日、ひとりの画の依頼者が来て、
『この絹地へ、秋の七草を描いて頂きたいのですが』
『絹へ?』
草雲は、胸がつまって、思わず、依頼者に聞えては恥しいような生唾をのんだ。
『承知いたした。いつ迄』
『秋の私宅開きに、表装して懸けたいと存じますので』
帰ってゆくその人の跫音さえ、彼の胸に、幸福な音がした。すぐ、妻を呼んで、
『菊、よろこんでくれ。──これを一つ描き上げれば、少しはおまえのしのぎがつこう』
一度だって、この家に、訪れた事のない純白な絵絹をくりのべて見せると、お菊は、二十余年の闇に、ぽちと、花か、光か、とまれ希望の酬われを見たように、
『ま……』
と、いった儘、ぼろぼろと涙を流した。
『よしっ、俺に与えてくれた天の機会だ。俺はこれをもって、世間に問おう』
彼の必死な精進は始まった。
絹はわくに張られた。下絵をつける。十度も、二十度もつける。惨憺たる経営である。これさえ描き上ればと、あてがあるのであらゆる物を売って、絵具にかえた。構図はできた。線描もすすんで行く。
同時に、彼は、朝か夕かを、浅草の観音へいって礼拝することを日課にしていた。秋に近く、やがて、絵は描き上った。
『む……』
と、筆を擱いた、草雲の太い息に、つよい自信がふくまれていた。
『落款を』
と、すぐ思ったが、日課を思いだした。観世音にも、この行成を告げて、お礼をいってこよう。そして、精進を終えた和やかな気もちをもって、落款を入れよう。
彼は、草履をはいた。
十三文の足袋を穿く大きな足は、摺り切れた草履から踵だけ食みだしていた。だが、久しぶりに、彼の袂をふく風は、軽かった。爽やかな夕風が、苦しい仕事を済ました後の気もちを、柔かに宥ってくれる。
『菊、今帰ったぞ』
路地はもう暗かった。──おや、灯りが、まだ──と思いながら、
『格太郎も、まだ帰らぬか』
草履を脱いだが、返辞がない。
その癖、人の気配は、するのだった。
『菊、菊……』
と、つづけて呼んだ。
すぐに、むかっと、草雲はしたのだった。心では、泣いてやっている時でも、妻にはいつも、反対なものを、激しく打つけがちな彼だった。
『ばかっ。なぜ、灯をつけない。こんな真っ暗な中で、何をしておるのか』
『わたくし……』
と、細い声が、答えた。
そして、妙に、しいんとした暗闇の中に、白い顔が、彼をふり向いて、笑った。
『あっッ』
草雲は、全身を硬ばらせて、側へ行った。刃のような、怒りと冷たさが、かれの脊髄から爪の先まで走った。
見ると、出かける時に、壁に立てかけていった七草の絵が、畳に横にされている。そして、前に、きちんと坐っているのは、妻のお菊であった。いつも、草雲が画筆に向うように、そこに、筆洗を置き、硯をすえている。
それだけならよかったが、お菊は、筆に墨をふくませて、良人が一心をこめて描き上げた秋草の絵を、まっ黒に塗っているではないか。
もう、その手を、掴み止めても、間にあわないのである。七草の絵は、無残な空骸だ。草雲は、怒りに全身が燃えた。愛児が、虐殺されたような感情が、眼を熱くさせて、男泣きの涙がこぼれかけた。
が、すぐこういう場合に、いつもの癇癪持ちとは別人のように、冷思の姿を持つのが、草雲であった。
静な、やさしい言葉で、
『菊……。お前、何をしておるんだ』
『はい、わたしは、七草を消しているんでございます』
『どうして』
『淋しい花、秋の七草、どれを見ても悲しゅうございます。それでなくても、秋なのに。……畳から、こんな草が生えて』
言ってるまにも、墨が、すッすッと、絹の上を走った。
ぽんと、壁へ筆を抛った。──はっとして早雲は、妻の痩せた肩をつかんだ。同時に、彼女は、うつろな眼をして、
『ホ、ホ、ホ、ホ』
と、高くわらった。
『おいっ。しっかりせいッ、気をたしかにせんか! 菊っ──菊っ──』
彼は、狂う妻を、大きな両腕の中に、いっぱいに抱きしめた。怖らくは、彼が生涯にあらわした愛のうちでも、最大の力と涙をもったものに違いない。
白昼の白張提灯行列
父は勤王子は佐幕
お菊の良人思いな声は、とうとう二度と聞くことができなかった。
貧は、彼女を狂人にした。
青白く、寝床に痩せて、あの夜から、起たなかった。時に、畳の目へ、紙をなめては、貼っていたりするので、
『お前、何をしているのか』と、訊ねると、
『あんまり、蚤が出るから』
と、答えた。──それがもう肌寒い冬の風が、訪ずれ初むる頃だった。
程なく、彼女は、生涯を終った。格太郎の悲しみを、草雲は見ていられなかった。同時に、この衝動が、若い彼に、虚無的な思想を起させはしまいかという点を、親心に、惧れもした。
それが、動機ではないが、果して、次の変化は格太郎の上にきた。恋はいつか隣り同志で結ばれていたのである。
菊女の死に、草雲は、それを忘るべく遊歴に出た。その留守のまに、お房と格太郎の接近する機会があったものらしい。
不義という言葉が、まだ厳正な制裁をもつ時代だったが、草雲は黙って見ていた。わが子の理性を信じたい。同時に、その格太郎は、表面、非常に優しくは見えるが、心には──血には、母の菊から享けた松井家の血を多分にもっている。非常な、強さを、明眉な微笑に、つつんでいるのだ。
『母の血統だ。どうか、あの情熱が、よい方へ、燃えてくれればよいが』
たった、一粒種である。草雲は、それを思う。父としてそれを案じる。
草雲四十七歳。世は文久元年。
彼は、格太郎を塾に残して、足利の藩邸へ帰った。永く脱藩のかたちになっていたが、その後、藩侯から寛大な沙汰があって、数年前に名目だけは足利藩へ復帰していたのである。
急に、彼が、画筆をすてて足利へ戻ったのは、加速度に険しくなってきた時勢に衝撃されたのである。王政回天の輿論、攘夷の叫び、討幕の運動、すさまじいものになってきた。若い無名の人々の理想が実現されんとしている。
隣りの星巌とは、常に時事を談じ、王道政治の復古を説き、海外問題では、鎖国か開国か、唾をとばして、議論をしたこともある──また、時々、誰も知らない同志から、彼に、密書が来、檄がとんでいた。
彼の勤王論と、国家愛とは、闇斎学の研究と、勃興機運にあった、皇学派に刺戟されて、青春、藩を脱走する時からのものである。
見遁してならないのは、彼の脱藩前から、帰藩以後にまで、ひそかに結盟されていた交友である。しかもその友達は、自藩でなくて、隣藩の秋元但馬守の家中にあったのだから世間は注視していない。
木呂子退造、岡谷繁実、塩谷良幹、相場朋厚の人々だった。──そして又、秋元家と、長州の毛利藩との姻戚関係や、密接な交渉を考えてみると、疾くから、長州は土州の雄藩秋元とむすび、秋元藩は、当然、隣藩の足利の態度を見ていたに違いない。
東北諸藩の例にもれず、足利も、小藩のうちに佐幕派、勤王派、二論にわかれて、しかも、時勢のはやさから遙かにとりのこされてどっちつかずに、ただ揉めていたのである。
そこへ、彼は、帰藩した。
『なに、佐幕派と勤王派と。ばかなっ、今頃になっても、まだ眼があかぬか』
彼は、家老川上斎佐のやしきへ向って、無力と、無方針を、なじった。
川上は、とくから草雲の勤王論に、心服している一人だったが、
『弱った状態でのう』
と、煮えきらない。
『然し、御家老は、藩の指導者、何を憚って』
『だが近来は、若い奴らの元気が熾で、上役を老朽とあなどってな。実に当惑じゃ。何とか、この帰結を一つ足下の力で、納めて貰わにゃならぬが……』
川上の当惑というのは、江戸詰の藩士が、殆ど佐幕に傾いて、国許の指令ではうごかない状態にあることだった。そして、家中の大多数は江戸にあって、国許の家中は、半数にも足らないのだ。
『よろしい、不肖、草雲がまとめてみましょう』
かれは、早速、江戸藩邸の佐幕派へ、長文の意見書を発した。川上から、檄をとばした。だが、梨のつぶて、何等の反応がないのみならず、国許の勤王派の言動を、事々に、幕府に、内通するらしい様子さえある。
とこうする間に、年が改った。慶応元年だ。京都を中心とする政変や兵変や、あらゆる険しい風雲は、足利の勤王の少壮派十一名を、極端に刺戟して、
『川上耄碌、田崎迂愚、彼奴ら口だけだ。両頭たのむに足らず』
と、さけんで、
『斬ッちまえ! 斬ッちまえ!』
と、いい出した。
『斬るなら、江戸詰の佐幕派の頭目も』
『むろんだ。その前に、よろしく吾々は、脱藩して、事を決すべきだ』
真っ昼間、十一名の若侍は、蔵から白張提灯をもち出して、手に手に高々と掲げ、
『天に日輪あれど、当藩は、昼間でも暗うござる』
『おお暗い、暗い』
と、藩邸の門を、堂々と通って、脱藩を声明してしまった。
白張提灯の示威が、隊伍をくんで、家老のやしきへ行き、川上に、詰腹を切らせて、江戸へ行くらしいという噂をきいて、草雲は飛んで行った。
ともすると、その草雲にさえ、斬ってかかりそうな眼をしている十一名を前に並べて、彼は、醇々と説きだした。彼の王室を思うの熱情と、大義を説く懸河の弁は、画家早雲ではなかった。志士田崎恒太郎だ。
『おれに任せろ、田崎も武士だ』
ひとまず、抑えておいて、彼は江戸へ急いだ。佐幕にかたまっている江戸詰の藩邸へゆくのは、自身を死地へ投げるも同じである。彼は、むろん、死を賭して臨んでいる。
ここには、藩でも、手強いのが、相応にいた。死か、説伏するか。二つだ。
藩邸の評定の間に、殺気にみちた眼が集った。刀と人間とが、厚ぼったく居流れた。草雲は、一方に、坐った。
しずかな語気が、だんだんに、熱を帯びてゆく。──彼が、大義をさけび、時勢を説明し、また、この時代の岐路に立つ戸田藩の正しき方向を、耳朶を赤くして説きだすと、江戸詰の藩士たちは、果して、大浪を打って動揺した。
『だまれっ、偽せ志士』
と、どなった者がある。
同時に、それを口火にした罵倒が、三、四名の口から続けさまに、草雲へぶつけられた。
『なんだ! 貴様に他人の思想を指導する資格があるか』
『烏滸がましい。引退がれ』
『吾々に、勤王の大義を説く前に、なぜ、己れの子に説かん! 汝の一子、田崎格太郎は、われ等の同志だぞ、佐幕派だぞ』
草雲は、ぎょッとした。
然し、すぐその顔いろは、微笑をもって、広間の昂奮をしずかに眺め廻していた。
『──格太郎。成程。したが、あれは疾くに勘当いたした者、田崎恒太郎の子でござらぬ!』
きっぱりと、言った。そして、すぐその言葉にのせて、
『子は親を、親は子を、骨肉互いに反き合って、兵火の間にまみゆる例は、いつの乱世にもある慣い、いわゆる大義親を滅すでござる。今、不肖この田崎にしても、一子を顧みて、王業の大事を思わず、また藩の大事を思わずして、武門の本道が立ち得ましょうや。いやいや、この一座に集る諸氏と、不肖の小伜一名とを比較しても、その何れが重いかは、理の明白』
と、一息に、そこ迄いって、
『──論の余地がござろうか、如何に!』
があんと、一言の咆哮が、天井にひびいて、諸士の頭を圧した。しんと、鎮まった空気から、もう何の声も出なかった。
『また、各〻の義とする鉄心、佐幕! その気持も草雲にはよう分る。しかし思い給え、今や、小藩足利は、危機目前、ひと度、錦旗のまえに、賊名を負わば、何を以て、千歳日月の下に、武士の名がござろう。すでに、将軍家におかれてさえ、京に於て、恭順、御辞職のおうわささえ洩れ承るに、一小藩、一臣下が、何の反対。──各〻は、精神なき江戸城、空骸の幕府を奉じて、上一天に反き、藩侯の御意志にも反いて、それを臣節と仰せあるや』
いつの場合も、誠意と熱は、人を衝たずにおかないものであった。江戸藩邸の反論は、こぞって、彼の赤誠に屈伏した。
徹宵の評議、そして、急転下にまとまった藩論の一致。草雲は、完全に、衆を一つにした。
すぐ、国許へ、早打が飛ぶ。
戸田藩一致、全藩勤王へ──である。
彼はさだめし、ほっと、肩の重荷を下ろしたであろう。
『だが、これから!』
草雲は、不眠不休のからだを、二刻ほど休めて、早飛脚より、一足あとから、すぐに旅装を締め直した。そして浅草見附の橋袂までくると、彼方から、まだうら若い女が、生後幾月も経たない嬰児を負うて、歩いてくる。
わずか見ぬまに、見違えるほど、窶れてはいるが、まぎれない火之見横丁の隣家のお房である。わが子、格太郎の恋人である。
『…………』
草雲は、路傍の樹蔭に、自分の姿と、涙で熱くなったその眼とを、凝と、隠して、佇んでいた。
お房は、気がつかない。
何処へ、何の使にゆくのか、小風呂敷を胸に、もっている。そして、背の子を、あやしながら、彼のすぐ前を、通ってゆくのである。
『ああ、子まで生したか』
彼は、心で、自分の喉を締めつけた。お房っ──わが子の嫁──思わず呼んでしまいそうでならない。
『不愍な……』
彼は、お房の母親が、格太郎と彼女との恋を、いかに憎悪しているかも、前からよく知っていた。あの火之見横丁の家にも、若い二人はもう住みきれまい。どこに、小やかな世帯をもったのか。どこを、流転の宿としているのか。
慕うにも慕えない、呪われた骨肉、──格太郎はその父を、お房は、母を。
何と、薄命な、夫婦だろう。
草雲は、眼をとじた。
『これも、時代の一縮図だ。ぜひもない犠牲者……』
眼をあいた時には、もう傷々しい彼女は、遠いすがただった。町は、やがての戦禍を予感するように、騎馬の人々、刀槍の人々を、戦慄する埃がつつんでいた。
離の小宴笹の雪に
悲しむ勿れ万歳一升の酒
幕末日本の象徴のように、浅間山は、噴煙を吐いていた。
館林の秋元藩の木呂子退造、塩谷良幹、相場朋厚その他を加えて、七名の士が、そこの麓に落会っていた。足利藩の田崎草雲は、江戸から加わって、盟友たちに、藩論の一致の吉報を、その軍議の密会に齎して行ったのである。
錦旗の東征は、もう時間の問題である。
西、長州と呼応して、すべての聯絡は、とれていた。そして、佐幕色の多い東北諸藩の中にあって、小さいながらも、この二つの藩は、勤王で一体になることを誓った。
すべての手はずをあわせて、草雲は、足利へ帰った。第一に、彼が着手したのは、先に、誓いを残した少壮の十一人組を中心とする、民兵赤誠隊の編成だった。
山藤三之助、戸叶角蔵、須水広吉、荻野佐太郎、大山岩次郎、山口喜太郎。──そういう人々に、草雲の門人たちと、商家、百姓の子弟が、二百人以上もすぐに集った。
その頃、新式の元込銃は、一挺が二十五両だった。貧乏な戸田藩では、隊は、編成されても、新式の銃器を買って、兵に持たせることができなかった。
民兵隊の兵は、軍費、服装、自分持ちだったのである。藩からは一人あて、一日米一升の兵糧割り当が下るだけだった。弾も、刀も、草鞋までが、自弁だ。それでも、すすんで集る者が多く、兵気は、熾んなものだった。
戊申。──もしこの民兵赤誠隊の組織がなかったら、梁田市街戦の前に、幕軍の歩兵がなだれこんで、足利は、戦禍を浴びている、足利は、今日のすがたがなかったはずである。
一方、江戸は、上野に火があがった。
業火の海に、惨鼻な血が、五月雨ほど流された。上野は、黒焦げになり、彰義隊は、無残な壊滅に終った。
格太郎は、気ぶりも、父にそれを見せなかったが、塾を中心とする学友たちと、とくから、佐幕派にひき込まれていた。──血と、雨と、泥と、官軍の撃つ弾とを浴びて、みじめに、上野から崩れ落ちてゆく、敗兵の中に、若い彼が見出された。
塾の盟友、松浦武四郎、岸田吟香、栗田万次郎など、同士、七人といっしょに、落ちて行ったが、途中で、みんな、散々になってしまった。
彼は、母の菊女の菩提寺へ逃げた。今戸の称福寺である。暗い蜘蛛の巣の中に、息をころして、七日あまり、干飯をかんで、潜伏していた。
母は、この寺の土に眠っているのだ。父は──妻は──子は──格太郎はやがて何処ともなく姿を消した。
たった半年、社会は、急激に変ってしまった。何もかも、御新政気分だった。
田崎格太郎夫婦の名で、生き残りの戦友たちに、廻章がまわってきた。
当時の憶い出を語りながら、一夕会したいというのである。場所は、根岸の笹の雪としてある。
『田崎も、無事だったか』
岸田吟香は、別れて後、初めてこの消息を手にしたのだった。
早速、その日に、出向いてみると、六人ほどの生き残りの同志が集っていた。
『やあ、生きていたか』
『貴様も』
と、いった調子で、
『田崎はどうした』
『愛妻を連れて来ている』
『ふウむ、お房さんか』
『そうだ、嬰児は、かあいそうに、死んだそうだが、お房さんは相変らず美しい』
『彼奴、見せびらかしに来ておる。一つ、呼んで取ッちめてやれ』
騒いでいるうちに、夫婦は、静にそれへ来て、一別以来のあいさつをした。お房は、秋の七草の裾模様を着ていた。格太郎は、うす色の羽織小袖、袴をきちんとつけていたが、夫婦とも、どこか、淋しい影をもっていた。笑っても、ほかの者のような、心からのそれではなかった。
主人側が、静なせいか、何となく、酒もしんみりとして、別れたのである。それから間もなく、岸田吟香は、彼の宿望だった仏蘭西へ洋行するために、横浜から船客になったが、船の徒然に、ふと、書物をひらくと、その中から封を切らない、手紙が出てきた。
『そうだ、これはいつか、田崎夫婦の招きで、笹の雪へ行った晩、帰りに渡されたあれだ……。一月程たってから、思いあたることがあるから開けてくれといわれて、つい、忘れていたが、何だろう』
封を切ってみると、それが、田崎格太郎夫婦の生涯の別辞だった。
『遺書とは……遺書とは、ああ、誰も気がつかなかったろう。これは、大変だ』
と、思ったが、船は、太平洋の波を蹴っていた。
× × ×
湯沢謙吉に、安田治太夫という、足利の藩士が二人、藩邸の正門を出て、雪輪小路の辻便所で、しゃあしゃあと揃って用をたしていた。
その後から、
『ちょっと、お伺いいたしますが』
と、いう者がある。
『なんだ』
用をすまして、振向くと、赤合羽を着た男が、状箱を首にひっかけて、
『この御屋敷に、田崎草雲という先生がお住いでございましょうか』
『ム、俺たちも今、先生をお訪ねして帰って来た所だ』
『どちらで?』
『その正門を入る』と、安田が、指をさして、
『──入ったら、右について、お長屋へかかると、一番東外れにある二階家だ』
『有難うぞんじます』
と、男は、飛ぶように、急いで行った。
『何だろう? 江戸飛脚らしいが』
と、二人は見送って、
『もしや、御子息格太郎様の身辺に……』
『そう……以来ちっとも、沙汰を聞かぬが』
『然し、それを口に出すと、先生は、いやな顔をされる。気にかかるが、また日を改めて、出かけようじゃないか』
二人は、藩邸の長屋をふり顧って、帰って行った。
その湯沢と安田とを、たった今、玄関へ送り出したばかりな草雲は、すぐに、二階へ上って、もう南向きの窓の下で、画筆をとっていた。
赤誠民兵隊を号令した馬上の田崎恒太郎と、和やかな、絵絹に丹青を凝している草雲とは、まるで、違った人のように見える。今、描きかけていたのは、三幅の絹地へ、中に人物を描き、左右に、秋の七草と月とを構図したものだった。
『はて、風邪をひいたかな』
草雲は、ふと、そんな気がした。──背すじに、しいんと、冷たいものを感じたのである。ゆうべも、一昨日の晩も、この画稿のために、夜を更かしていたので、そのせいかとも思った。
余り、眼が疲れたので、絵筆を持ったまま、脊骨をのばした。と、うしろの白襖に、自分が描いている七草の模様が、ありの儘に、ぼっと映っているような気がした。
『眼の疲れだ……』
彼は、そう呟いたが、いつ迄も、見つめていた。秋草ばかりではない、人影が、そこにみえるのだ。七いろの草は、その人影の裾模様だった。泣いているように、俯向いている。そして、そばには無色の小袖を着た若い侍が、同じように、顔を上げずに、手をついているのだ。
『あっ、格太郎……お房……』
どんどん、どんどんどん。
階下で、その時、誰か激しく戸をたたいている者があった。画に没頭している時は、昼も、戸を閉めておくことがある。
降りて行くと──
『おお、旦那様』
『や、植木屋の松蔵か。……ウーム、分った。お前が、飛脚として、わしの家へ来るからには、格太郎が切腹を報らせに来たにちがいあるまい』
『えっ、どうしてそれを』
『まあよい、状箱のは、遺書か』
『いえ、小川町の御藩邸からで』
江戸にいた頃、草雲に、近づいていた松蔵は、彼の気持を読んで、そういった。遺書といえば、或は、それすら手にとらないかも知れないと思ったのである。
それを持って、草雲は、黙って二階へ上って行った。いつ迄も物音もしない──
上れとも、いわれないので、松蔵がぼんやりとそこに腰かけていると、あわただしい、跫音をさせて、さっき、辻便所で会った安田と、湯沢の二人が、息を喘いで戻って来た。
『おお、江戸の飛脚──』
と、松蔵を見かけるとすぐ、
『今、よそでも聞いたが、先生の御子息は、江戸で、自殺されたというじゃないか。それは、まったくか』
『もう、御重役にも、お報らせが参りましたか。悲しい事には、それはほんとでございます』
『うーむ、して又、何処で』
『伝法院の火之見横丁で──ヘイ前に、お住居になっていた空家でございました。御夫婦ともに、膝をならべて』
『御子息は、腹を召されたか』
『横に、こう一文字に斬って、前へ、お倒れなすって居ました。背中から、刀の切ッ先が、二寸ばかり突き抜けて』
『お房どのは』
『短刀で、乳房を突き、そして喉を……』
湯沢も安田も、胸がわくわくして、それ以上訊かれなかった。この悲報をうけとった草雲の気持を考えると、たまらない気がするのである。
『では、なぜ早く、先生にお告げせんのだ。手紙でも、持って参ったか』
『はい、もう、お渡しいたしました』
『なに、もうお告げしたのか。はてな、それにしては、ばかに、お静かだが……』
と、胸騒ぎを抑えて、二人が、二階へ上ってみると、草雲は、さっき訪ねた時と、位置も、顔いろも、寸分も変らないで、一心に、絵絹へ向って、背をかがめていた。
『先生! 先生!』
思わず、嗚咽して、呼ぶと、ちょっと振り向いて、
『オオ、御両所、何かお忘れ物か』
『いえ……そ、それではない。御心のうち御推察申し上げまする』
『格太郎のことを申さるるか』
『自殺して、不孝の罪を、おわびなされたからには、もう不忠不孝の罪も消えたわけです。早速、お支度なされて、江戸表へ』
『はて、草雲は、今のところ江戸表へ、何の用事も持っておらぬ。それよりは、この絵こそ大事、明日までに描き上げて、君命どおり、お手元へ、差上げねばならぬ』
『でも、でも……。それは余りといえば』
『いや、格太郎のことならば、御同情は忝けないが、もう何事も、仰言ゃってくださるな。むしろ、草雲は欣んでおる。──これで一人の朝敵が減った! この絵を描き上げたら、一杯飲みましょう。大杯をひいて、王朝の御新政を祝しましょうわい! ははははは、あした来なさい。この草雲へ泣いてくれるよりも、不忠不孝の格太郎めを嘆いて下さるよりも、皇国万歳のために、一升の酒を提げて──』
と、いった。
だが、草雲の耳には、さっきから、山谷堀の裏長屋でよく泣いていた、マンマー、マンマー、というあの声が、どこかで聞えてならなかった。
〔作者附言〕この稿は、まったく日時の余裕がない上に、匆忙の裡に書上げたので、未定稿です。談話、文献の史証を与えられた故草雲の高足、小室翠雲氏その他、筆累の現存の諸氏に敢て末尾に謝意を表します。
底本:「吉川英治全集・44 醤油仏(短編集一)」講談社
1970(昭和45)年4月20日第1刷発行
初出:「文藝春秋 夏期増刊号」
1932(昭和7)年
※「日本名婦傳(全國書房、1942(昭和17)年1月20日発行)」収録時の表題は「田崎草雲とその妻」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年3月10日作成
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