姫たちばな
室生犀星
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はじめのほどは橘も何か嬉しかった。なにごともないおとめの日とちがい、日ごとにふえるような一日という日が今までにくらべ自分のためにつくられていることを、そして生きた一日として迎えることができた。日というものがこんなに佳く橘に人事でなく存在していることが、大きな広いところにつき抜けて出た感じであった。日の色に藍の粉がまじってゆく少し寒い早春の夕つ方には、きまって二人の若者が何処からか現れては、やっと小枝に艶と張りとを見せはじめた老梅の木の下に、しのぶずりの狩衣に指貫の袴をうがち、烏帽子のさきを梅の枝にすれすれにさわらし、遠慮深げな気味ではあったが、しかし眼光は鋭く、お互に何の思をとどけに来ているかを既に見貫いている、激しい顔色をしていた。一人は西の方の築地に佇み、一人は東寄りの角の築地のかげに立っていた。一人が山梔子色の狩衣をつけていれば、一人は同じ山吹色の折目正しい狩衣を着ていた。次の夕方に一人が蘇芳の色の濃い衣をきてくれば、べつの若者はまたその次の日の夕方には、藤色とも紫苑の色にもたぐうような衣をつけ、互の心栄えに遅れることがなかった。また、時には少年の着るような薄色の襲を覗かした好みを見せれば、次の夕方には、もう一人の男もそれに似合うた衣を纏うていた。一人がなよやかな気高い香を贈るために女房連に頼み入れば、一人は七種香の価高いものを携えてこれを橘の君に奉れと申し出るのであった。和泉の山奥の百合根をたずさえる一人に、べつの男は津の国の色もくれないの鯛の折をしもべに担わせた。こうして通う一人は津の国の茅原という男だった。そして別の人は和泉に父をもつ猟夫であった。衣裳のはやりと絢爛を尽くした平安朝の夕々は、むしろ藍ばんだというよりも濃い紫を溶き分けた。築地の塀だけを白穂色にうかべる橘の館に、彼女を呼ばう二人の男の声によって、夕雲は錦のボロのようにさんらんとして沈んで行った。
「今宵も見えられてか。」
橘は夜になるときまって女房に一応こう聞いて、眉をひらくような美しさを瞼のうえに見せた。
「お一人様は東寄りに、べつのお一人様は西寄りの築地のかげにまいっていられます。」
「してお召物は?」
「蘇芳に紫苑の同じお好みにございます。そしてただひと目だけでもお目もじにあずかりたいとお互に申しておられます。何とぞ、ひと目だけお目にかかられますよう。」
「お一人にお目にかかりお一人にお逢いせぬ訳にはまいられませぬ。かたくおことわりあるように。」
「それもいまになっては改めようとてもございません。」
女房はもう手の尽くしようもなかった。どのように無下にいっても二人の若者はそれに応えることなく、夕とともに訪れをやめることはなかった。
「あなた様が直接に仰せられてはいかがでございましょう。」
「このわたくしがじかに。」
「そういたされるより外にお二人を去らせることができませぬ。」
橘はそんな大胆なことはいえなかった。顔を見せるというより、橘が門近くに出てゆくだけでも、二人の心の傷は一そう深まるにちがいなかった。それに、橘は突然二人が来なくなるようなことがあったら、毎日いままでにくらべてどう暮していいかが、考えても方向のないさびしさだった。橘ははじめは池のほとりに毎日二本あてのあやめを移し植えて、「これは蘇芳の君、これは紫苑の君」、というふうに心ひそかにその日その日をかたみにしていたが、女房はそれほどまでになるお心なら逢っておやりになれば若者らもあきらめるものなら、あきらめるであろうにというのであった。橘は心で受けるものだけしか、二人から貰わないつもりだった。あやめは池のほとりを囲み、もはや移し植えようとしても、南底には一芽のあやめの株も残さずに植え代えてしまった。あやめの数は二人の男の通う同じ日取りの同じ数をかぞえていて、株のわかれめに莢ほどの蕾の用意を見せ、緑は葉並を走ってすくすく伸び上っていた。数えれば七十幾本に及ぶ芽立は、津の国の人と和泉の国の人の通いつめた日取りをかぞえていた。橘は、どちらを愛しようと考えるひまもなく、二人は同じ夕の時刻にやって来て同じ時刻にかえって行ったから、橘は、同じ人間が二つにわかれて来るのではなかろうかと思うくらいだった。物腰の静かさもそうなら一人が咳をすれば、間を置いてまた一人がそれを遣っていた、顔容もこれほど似た人は多くあるまいと思われるくらい、青年の盛りともいうような頬や鼻には美事な照りを含んでいて、少し硬いくらいな額の明るい広さもそっくりだった。知らぬ人が見たら兄弟だと思うであろう。橘はどちらを離して見ることが出来ず、どちらが優っているとも思えなかった。こんなにして通う一人につけばあとの一人はどうなるだろう、橘はそんな気は少しも持たず二人のどちらにも、歌は返さなかった。唯、橘自身の気持にははじめはそわそわした心嬉しさばかりが先に立ったが、次第にこれは一体どうなる二人であろうと、それをどのようにしたら自分の立場があるのかと、橘は、そんな気の重たさが一日ずつふえてゆくような気がした。妙なことには二人の人は二人ともいいところがあって、別々に考えることは出来ても、一人に従き一人を悲しめるということができなかった。一人がじっと見る眼の中にある美しさは人間のいのちとすれすれにあるほとぼしりはこんなものかと思わせるほど、やるせないものだった。だのに、べつの一人の眼附はただ悲しみだけを表わして、橘をひたと見入るばかりであった。瞳というものの後側も見えるものであったら、この二人の人の瞳は実際は一つの瞳であってどちらも外すことができないものであろう。橘はどちらも好きでありどちらも引き離すことのしにくいものであると考え、それが自分で大それた考えとは思えなかった。年齢も背丈も、手つきのきゃしゃなのにも、声や顔色、そして何時も一人が蘇芳の色なら別の一人も、それに似た衣をきることも、何と似かようた二人であったろう、それに、橘一人に通うということにも、いまは、それを冷淡にかんがえるには余りにも深はまりして、その人らを見ている自分であることに気づいた。その上、若さも言いようのないものであるのに、どれも愛しく、二人ともそのまま心にしまって置きたかった。しかし女はそんなことを考えるだけでも悪いという人があったら、二人のいのちのほとぼしりはどうなるであろう。女はものを考えてはならないとは誰でもいい得ないであろう。だが、橘は、ここまで来るとやはり一体自分はどうすればいいのであろう、二人とも逢わずにいた方がいいのか、何時までも門べに二人を通わしたままでいいのか、橘はここではじめて行きづまり、例の重たいものに靠れかかられるように身うごきならぬものを、自分のまわりに感じ出した。
移し植えたあやめはとうに花をちぢらせ、釣殿近く鶯の声が老いて行っても、二人の男は通いつづめた。父の基経は永い間、ほとんど耐えかねていたように、或る日、橘を呼んでいった。
「一人にきめてお逢いしたらどうか、こんなに見苦しく永い間二人で通うということは見ていても見づらいではないか。」
「一人にお逢いすれば一人がお可哀想でございます。ですから、お二人ともわたくしはお逢いいたしませぬ。」
「では何時までも通うてくるではないか。世間の聞えも悪い。」
「父上のよいお考えをお聞かせくださいませ。」
基経は何時かは茅原と猟夫が太刀を合わすようなことになりはしないかと、二人が狙い合っている呼吸づかいを感じずにいられなかった。行きついた果に僅かなはずみに刃を合わすようになることも、もう、眼に見えて迫っていた。たんに、ずるいとか、恥さらしとかいうふうな浅薄な考えではなく、二人とも、純な青年の心ひとすじで対っていることも基経は知っているだけ、それがどういう烈しい破れ目を見せるかが分っていた。といってこのまま、春も過ぎようとしている今、いつまでも通わせて置くことが出来なかった。塀をへだてた隣屋敷の女房たちの口にのぼる噂だけでも、基経は早くどうにかせねばならんと気をあせらせていた。基経自身でも、娘にこうまで打ち込んで来る若者のいじらしさを、娘をいとおしむ心と一緒に感じるときは呼吸を吹きかけてそだててやりたいとも思ったが、二人のうちどの人をえらんでいいかさえ分らなかった。父としての心からは二人とも、娘にほしいと思うくらい美事な青年だった。ここまで来ると基経は二人を引きはなして見ることはできず、そして二人の妙な宿命的な感じは二人の若者に父親としての愛情をしだいに醗酵させて行った。
「このままでは父が困る。」
「わたくしとてもこのままではどうにも、よい考えとてもございませぬ。」
門の前では津の国の人と、和泉の国の若者はじりじりと往来しながら、それをそうしずにいられぬ毎夜の通いを続けていた。装いを凝らした二人は鋭い眼を中の庭にはしらせ、仕えの女たちのうごきにも心をときめかしたが、橘は依然姿さえ見せなかった。和泉の国の人は皮肉とも悲しみとも分けがたいものを、津の国の人は持って行きどころのない混乱を、そしてそれらはお互の意地ずくで何処までも打通さなければならない、ぎりぎりの処におしよせられていた。橘という女の問題は失われて行っても、人間のいのちの向い合いがどこまでも続けて行かなければならない、無理無体な状態にはいって行った。はじめは眼をさけおうていたが、日が経つとちらと交した眼附にも、お互にまた来ているという言葉があらわれるだけで、あとは冷酷無情の眼のつつきあいしかなかった。津の国人は和泉の国人の顔をみるために遣って来るものとしか思えず、どちらも、珍しくもない仏頂面をあわせるだけで、橘姫のしみるような顔の柔しさは絶えて見るべくもなかった。二人の若者はこのような空々漠々のあいだに、いつでも眼に見えてくるものはお互のいのちがどういう機会にか、相触れなければならない相殺的な予測がされてくることだった。そして、それらは不思議に一日ずつふくれ行き、一日ずつ積みかさなって行く或る重たさがのしかかって行くことだった。二人とも相手を馬鹿だとしか思えず、その馬鹿さ加減はどれだけ嗤っても嗤いつくせない虚無そのものだった。かれらは先ず鼻さきで、ふふんと嗤い、肩をゆすぶり太刀に手をかざしながら実に馬鹿馬鹿しいという顔つきで、同じ道路をゆききしながらたまにすれちがうこともあった。お互の心につきあててゆくような笑いが、つめたく、たまに漏らされることもあった。
宵雨はそれほど繁くはなかったが、或る夜は二人は同時に門の廂に身をよせていた。お互にはんたいの暗みに向いていて、骨にしみるような雨の音を侘しく聞き入りながら次第に何か話したいような妙な経験したことのない状態にいた。それほど、雨の音が痛ましくさわってくるようだった。
「もう幾月になるかの。」
津の国の若者が突然、くらやみに字をこぼすように、よこも、向かずに話しかけた。
「さよう、ご自分でかぞえて見るのが早うござろう。」
和泉の国人の声は待ちかまえていたように、津の国人の言葉のうえに乗りかかって挑んだ。
「御辺、ひとつかぞえてくれまいか。」
「黙らっしゃい、話もしたくない。」
「そうか、話もしたくないか。」
津の国人の声は怒りをおし耐えた、無理をした声だった。
「話なぞとうのむかしに失くしている二人だ。」
「では、何がのこっているのだ。」
「それももう判り切っていることではないか。」
「いのちのことか。」
「よく申した。それを申し受ける日が近づいているとは思わぬか。」
「たしかに近づいているな、きのうより一足飛びに近づいているぞ。」
「その時が来たらどうする。」
「必ずいのちを申し受ける。」
「それはこちらからいいたいくらいだ。」
二人の声音はすこしの狂いがなく、むしろ、お互に念をおし合うように冷酷にうち交された。しかも、かれらは顔をむき合わせることがなく、雨の中にその言葉をたたきつけているようなものだった。いずれの日か、また、どういう不意の機会からか、二人は対い合わなければならなかった。きょうこそ、明日こそという毎日の焦躁と埋積されたものが、つもりにつもって行ったのだ。二人には何もすることはない、恐らく橘姫の存在すら、かれらの眼にはいっていないかも知れなかった。眼にあるものは津の国の人には和泉の人のいのちであり、和泉の国の人には津の国の人のいのちの憎さが見えるばかりだった。かれらは、そのいのちに対きあい、それを奪いあうために生き、その日をあてに生きているのかも分らなかった。
雨はいよいよ繁く、悒せさは二人にとって何か突然な出来事の期待をかけるほど、陰鬱に陥ち入らせた。
「この雨ではどうにもなるまい、帰るとしようか。」
津の国人は立って手のひらで雨の降りようをこころみていった。
「御辺がかえれば我らも帰る。」
「そしてまた明日か。」
「もっと先の日だ。いのちのあるかぎり参るぞ。」
「それならこちらもその通りいのちのあるかぎりに参る。」
「だが、津の国人、どちらかが先にいのちのない日のあることだけは、忘れないでくれ。」
「それまでおあずけ仕る。よく、ふとってたまれ。」
「刃も立たぬほどふとって退けるわ。」
二人は同時に雨の道路に飛び出した。
二人はやがて西と東に別れた。くらやみに心を配りながら、どちらも不意にひらめくかも知れない刃がしらの予感に身をかたくまもり、お互の跫音をうしろに聞き入って築地の塀ぎわを急いで行った。
津の国人と和泉の国人は憑かれたように橘の門の辺に来て、初更まで去らないことは依然続いた。橘姫はもはや恐怖に似た、次第に険悪になる若者の心のすきを、きょうも昨日も見ているようなものだった。女房たちの話によると、若者はしまいに門前で果し合いをするかも知れない、事態はその寸前まで立ちいたっているとのことだった。はじめて見た初春のころの若者の眼のやさしさ、すなおさ、物腰のしずかさなぞはとうに失せ、人の眼附もあれほど急激に変るものだろうかと思われるくらい、彼らの眼つきは粗暴になり何時でも飛びかかるような弾みを持っていて、お互が門前の居場所からはなれない様子は、怖いくらいだと女房たちはいった。はじめに見た武家の御息子様のような初々しい丁寧な言葉づかいも、しだいに失くなったともいった。
「この上はもはや最後にえらぶものをえらぼう。」
と、基経は憂色にとざされ、ものうげにいった。
「わらわのため、かくまで御心労おかけして何とも申訳ございませぬ。」
橘は身をもって詫びたが、基経はそれは問題ではなかった。
「そちにも、若者にも罪はない、これはくすしき宿縁としか思われない、早く処断しよう。」
「と仰せられますと。」
「猟を催そう、その機会に二人にゆっくりわしから話をつけよう。」
橘もそれはかえって事をあきらかにしていいと思った。二人を猟に招んで一日ゆっくりと野に遊んでから、一さいを腹蔵なく話そうといった。
「お前もその日はかれらに逢っておやりなさい。」
「はい。」
「お前はなにもいわずにいた方がいい。それから特に酒肴の用意もした方がよかろう。」
「はい。」
橘は使者を二人の若者にやり、猟の日どりを知らせた。若者らの喜びはたとえようもなく、橘も、二人をそのように猟に招くことが幸多いことに思われた。天一天上のよき日をえらんだのも、橘の思わくの晴ればれしさからだった。もしそれがたとえ不幸に終っても若者らとの話し合いからそうなるものなら、関わないもののように思われた。
猟の日、橘はうす青い単衣に山吹匂を着て父についていたが、津の茅原も、和泉の猟夫も、弓、太刀をはいて、濃い晩春の生田川のほとりに出て行った。二人の男はひと眼見たばかりで、その昂った心がわかるほど、烈しい瞬きをくり返していて、基経は用意して来た言葉も容易にいい出せなかった。自分でさえこんなに困っているのに、女の身である橘はもっと複雑な気持であろうと、何度も娘の方をふり返って見た。橘は、野の明るさの中では一際まばゆいような眼鼻立を見せていて、これが自分の娘であろうかと思われる位、見なれぬ美しさを表わしていた。津も、和泉の男も、控え目ではあったがこういう明るい日の野で見る橘の顔のすみずみに、しみ一つない照りのつつましさにいよいよ彼らは心にある決意を固める一方だった。
四人は土手の上に坐っていた。はしばみの高い頂の枝にもはや田の上に下りて来ぬ春の鶫が枝がくれに、幾声も高く油囀りの最中であった。あぶらの乗った春の黒鶫は枝々のあいだに翼の光を日の中にちらつかせ、田の畔も、川の面にも、濛々たる春色が立ちこめていて、二人の若者はうす睡たいような気持で美しい橘の姿を見入った。二人はもう八十日も橘の館に通うていること、そしてきょうのように悠々と野に遊ぶことは予期しない招きであった。
橘は用意の酒と肴とを女房たちにはこばせ、まだ萌えたばかりの草の上にひろげた。二人の若者ははじめて橘がものを食べるのを見たのである。それは物を食べるということが女の美しさが倍に見え、唇のうごきや頬のうごきの微かさにも、いい知れぬ親しさがあった。このようにしてこの女と朝夕に食べることを一緒にしたら、どれほど愉しかろうと若者らは同時におなじ考えにふけっていた。
「我ら、野の美しさを永い間忘れてい申した。」
都に住む怱忙の若者らは、いまさらに野の清い広さにしみ入って眺めた。津の人は和泉の人の誰にいうとも分らないこの言葉にも、一応なにか答えぬわけには行かなかった。
「我らとても、野の風色はゆめにも見たことがなかった。たまにこういう風に吹かれるのも幸せでござる。」
「荒魂のやすらうひまもない我らには、明日も此処に来て見たく存ずる。」
しかし津も和泉も、きょうこそ、橘の父から何か言い渡されるであろう、恐らく二人に手を引いてもらいたいと直接に否応なしに承諾させるつもりであろうと、かれらは、不気味な憂慮を感じ入っていた。そして、その外にまた別な不意の出来事なぞ、あろうとは思えなかった。津も、和泉の人も平常のいがみあいから離れて、夜ばかり見ていた対手をお互にそれとなく見入った。あれほど憎みおうた二人が明るい野の景色のなかで、比較的平穏にもの語るとは、まるで一度も考えてみたこともなかった。
基経が杯をとって二人にさした。
「お過しあれ。」
「恐れ入ります。」
津も、和泉も、酒はたしなまぬ方だった。かれらは基経に杯を返すと、基経はものしずかにいった。
「お両所方にも。」
津は、そういわれては、和泉に杯を廻さねばならなかった。津は清い水に杯をそそいでいった。
「和泉どの、お一つおつきあいくだされ。」
「忝うござる。」
和泉もまた同様清い水に杯をそそいで、津に返した。こういう僅かな親しみある機会は、二人を心置きなく顔にゆるみさえ加えた。先刻、かれらがこの野ではじめて対面したときの、するどさは眼のほとりには、もうそのあとを絶っていた。
「きょうのお招きにて姫にもお目にかかり、何ともお礼の申しようもございませぬ。」
「これは我ら両人よりあつくおん礼申し上げます。」
率直な二人はいつの間にか、我ら両人とみずからいうようになった。橘は、いま眼がさめたばかりのような明るい瞳にいたわりといつくしみを加え、二人におおいかかる柔しさのなかにいていった。
「いつも心ない失礼ばかりいたしましておわび申しあげます。きょうくつろいだお顔を拝して橘はどのように嬉しいことか分りませぬ。」
「ご挨拶ありがたくお受けします。いつも夜盗のごとき所業の我らなにとぞ、お許しくださるよう。」
津がそういえば、和泉は顔をあからめていった。
「お心をさわがせてばかりいる罪、きょうこそお詫び申し上げる。」
「何も彼もすぎ去ったことでございます。おわび申さなければならないのは、このわたくしの至らぬことばかりですもの。」
橘は手をのべて二人の杯を充たした。それは絶大なよろこびを二人の顔にのぼらせ、かれらの心はその手に震えをつたえたほどだった。
かくて、野の遊びのひと時はしずかに去って行った。かれらのいうことは野の穏やかさ美しさより外に、語らいとてもなかった。ただ、橘の父が何をいい出すかを予測するより外に、これという不安はなかった。
「わたくしもきょうのように佳い景色を見たことがございません。」
橘は誘われてそういった。橘がいるから景色が美しいのだということも、若者が殆ど同時に胸にうかんだ言葉だった。基経は先刻から黒鶫の去らぬ梢の姿を見ていたが、この機会を逸してはならぬと、突然、基経は鶫を指差していった。
「あれを見られい。」
はしばみの枝々をうつろうともしない何羽かの黒鶫を、二人の若者は見上げた。橘も、はっと胸を打たれる思いで、梢を見上げ、父の眼の光を見た。それは、容易ならぬ父の眼のありどころを、橘は自分自身のなかに感じたのであった。もう、時が来ていると思わずにいられなかった。基経の第二の声は命令者のようにきびしく叫ばれた。
「鶫をお打ちあれ。」
津も、和泉も、それがどういう試みの言葉であるかを知っていた。一人は白羽の矢をつがえ、一人は中黒の矢をつがえ、狙いが決った時、同時に矢ははしばみの枝をくぐって放たれた。それと刻を同じゅうして二羽の春の鶫が、津は津の矢に、和泉は和泉の矢がしらによって、射落されたのであった。橘の顔色は二人を褒めるために同じくらいに見える左右の頬に、柔しくほほ笑みをたたえて見せた。
「お見事にぞんじます。」
それはようこそお射ちくださいました。いずれが負けをおとりになってもわたくしは父の手前悲しゅうございますのに、お二人ともに劣らぬおてなみを示してくださいましたのは、何にたとえてこの嬉しさを申上げたらいいかと、優しい橘は父に向って快いほほ笑みをうかべて見せ、あまりの嬉しさに父の方にすり寄って行った。
「早業でござった。なかなかこうは参らぬものだがよう仕遂げられた。」
基経の驚きは一層深いものがあった。鶫を射止めるということはたとえ油囀りの最中の動かぬ姿勢であったにせよ、細かく顫えるはしばみの枝の中では、枝をくぐってひとなみの技では容易に射止められるものではなかった。右左に別れた二人を見たときにも、基経はいずれも鶫を逸するであろうと、鶫の囀りのはたと歇んだときにそう思った。だが、その瞬間には鶫はもう射止められたのだ。基経は声を呑んで同じ二人の若者を眺めた。彼らはしかもていねいにいけにえとなった鶫を土に埋めてから、
「未熟で恥入り申す。」
二人とも遜り下っていった。
「あなた方はまるでお一人の方のような人じゃ。」
基経は益々窮していった。こうまで人は似るものかと二人の清らかな眼を見入った。その眼附はどちらも橘を自分のものにするためには、どういう手段も、また労役すら惜しまない真剣なものだった。津の茅原ははじめて和泉の猟夫に向って、感嘆するようにいった。
「わしは射落さなかったらそれきりで此処から去るつもりだった。」
「橘の君からも去るお考えであったか。」
猟夫はその正直さに打たれて敵手ながらも、しみじみその心ねを買った。
「残念ではあるが、そう覚悟して御座った。貴所は?」
「わしも黙って去る考えを持っておった。貴所に橘の君をお委せをして、……だが、もうお譲りはできぬ。」
猟夫は語尾にちからを入れていった。同様な考えは津の人の胸にもたぎっていた。
「もう一歩も退き申さぬ。」
しかし彼らはおたがいに心にためてあったものを、こういう機会に話し合ったことでかつてないほど顔の色も弛み、どこか、薩張りしたはればれしたところさえあった。何と永い間こういう平穏な時が彼らの上に訪れて来なかったことであろう。
この時、水のうえに何やら動くものが皆の眼にはいった。それは一羽のかいつむりが水のなかに潜り入った姿だった。殆、礫を打ったほどにしか見えないかいつむりは、はっきりと何鳥だかの区別さえできかねるほど迥かなものだった。四人の眼はひとしくその迅い鳥に眼をとめた。
「我らあのような小鳥は見たこともござらぬ。」
和泉の人は熱心に見入って、誰にいうともなくいった。
「我らも見たことがありませぬ。」
きらびやかな川の面の日ざしのあいまに浮かび上っては、また、ひとしきり水の中に素早いさざ波を立てて沈む雀ほどの小さい水鳥は、春の温んだ水の面にうかんでいるあいだは、またたきするくらいの迅い一瞬のうちであった。
「あの鳥は何鳥でございましょう。」
橘はかつて見たこともない小さい水鳥を指差していった。
「あれはかいつむりという鳥じゃ、潟にいる鳥じゃがの。」
基経はこういいながらはっと気づいた。この水鳥を二人は射てるであろうか、基経は何気なく二人をちらと見たとき敏感な若者連は基経の眼の中を、津の人も、和泉の人も、いまかその言葉が基経の口を衝いていわれるかを、息を呑んで待ちかまえているふうであった。基経は念を押すように娘の方を見た。橘は祷るように父に何もいうなという怖気のある色をうかべて、もう、鳥を射つのは可哀想だという意味をも含ませた眼附だった。だが、基経はきょうは何としても父親としてとるべきものを尽くさねばならなかった。二人の男にはさまれた娘をそのいずれかに委さなければならなかったのである。
「素早い水鳥じゃ。」
津の茅原は烈しい眼附で弓を手元に引きよせた。
「一射でも行けそう。」
和泉の猟夫の眼はぎらついて、何時でも矢を番えるようなじりじりした身構えを基経の息づかいに打交して行った。基経はもう寸時も猶予していられぬ切迫したものを浮き沈みしている小さな水鳥の、迅い羽捌きの微妙さに、しだいに彼自身すら妙に刺戟されて行った。基経はここで彼らのいずれかを選ばなければならず、そのいずれかの一人を娘から引離してしまわねばならなかった。父としての基経は耐え切れず大声で突然命令するように厳しくいい放った。
「あの水鳥を射止めた御仁に橘を進じ申そう。」
「お父上様。」
橘はなにやら小さい声で制するものを制しようとしかかった。眼はおとめの怖れで、怖れているために比類ない美しさを一心にこめていた。
「きょうこそお二人のいずれかをおきめしなければならぬ。」
橘はもういうことがなかった。
津の人も、和泉の人も、その声と同時に立ち上った。顔は布のように白く荒かった。橘の顔は硬ばり、思わず低い驚きの声を発したほどだった。事、ここに至ってはどういいようもなく、股がこまかくふるえて来て唖のように二人の若者を見守った。
「ご用意は?」
「ようござる。」
矢は番えられた。そして一羽のかいつむりが水に浮き上ったがすぐ沈んで行った。矢は番えたままだった。第二の機会は早くも水鳥の浮き上ったときに二人の眼の前に来ていた。矢は一瞬の内に弓づるを離れたが、白々と水の面にただよう二本の矢羽のほかに、水鳥の姿は見えなかった。若者は懲りずに第三の機会を待ったが、二人とも激怒のために顔は真赤だった。
かいつむりは再び浮き上った。出あしの早い津の国の茅原の放った白矢は、小さい水鳥の背を越え、猟夫の中黒の矢羽は水鳥の消えたあとに、音もなく水の中にさびしく沈んで行った。ついに、かいつむりは再び同じ水には浮かんで来なかった。和泉の国人は詰寄っていった。
「貴所の矢は早まったのだ。何故、懸声の先に射ったか。」
「いや同時に射ったのだ。」
「貴所の矢は先に水鳥を立たしたことは基経氏も知っていられるはずだ。」
和泉の国人は激怒して一歩前に進んだ。津の人は太刀に手をふれて、対手の熱い粗い呼吸に噎せて叫んだ。
「ここを川下に行って射ち合おうではないか。ここを射つのだ。」
和泉の人は胸をたたいて叫んだ。
「きょうこそ美事になんじを討ち取って見せるぞ。」
「きょうこそ永いあいだの思いを知らしてくれる。」
「走れ。」
二人は同じことを叫びあうと、かねてしめし合わせてあったことのように、気狂いのようになって土手のうえを川下をめがけて馳り出した。さッきのかいつむりを射ち損ねた場所が期せずしてかれらの目標になっているようだった。
馳りながら津の国の人は周到に注意していった。
「基経殿に中にはいられると事難渋だ。遠くに急げ。」
「汝こそ遅れるな。」
二人は火がついたようになおも馳りながら、顔と顔とをすり合わせて叫んだ。
「きょうの日が待ち遠かったぞ。きょうを眼当に生きて来たのだ。」
「きょう汝を射たなかったら何時の日に汝を射つ時がある。」
津の人と、和泉の人は迥かに基経のいる処から遠ざかって行き、やっと橘の姿も見えるほどだった。殆、顔を打合わせるように馳りに馳った。
「姫は汝と我との間にはさまれて窮しておられるぞ。」
「汝なかりせば姫も父君もみな安らかであったろうに、汝が出て来てから凡てが悪くなったのだ。」
津の国人は馳りながらも、なお尽きぬ嘆きの言葉を絶たなかった。和泉の国人はからからと哄った。
「それはこちらからも言いたいことだ。津のなまぐさい汝ごときに姫がなびくと思うか、それが汝の間違ったそもそもなのだ。」
「片をつける時が来た。このあたりでよかろう。」
二人は先刻かいつむりを射ちそんじた土手のあたりに来て、走ることをやめた。土手は春の草を纏うて、唐の錦の枕のように柔らかだった。二人は冷たい草に素足をこころよくあてた。
「此処はいい、いずれがやられるにしても寝心地がいい。」
津の国人は確乎と足をふまえて、迥か上流を見たが、早、橘親子からは立木がかげをつくっていて見えなかった。
「距離は?」
「五十歩はどうだ。汝を射つには近すぎるかな。」
和泉の人は依然つめたく哄って歩を試しながらいった。
「では三十歩にするか、空射をせぬようにしろ。」
二人は五十歩を隔てて、別れた。弓は生きたくちなわのようにかれらの両の手にからみ出した。
「いいたいことがあったらいえ。」
二人は同時にこう示し合わせるように、互の胸のうちの言葉がききたかった。こうなってなお、互の何かをきくのはふしぎな気持だった。
「汝があとに残ったら姫にそういえ、津の茅原は心では最後までお慕い申したと伝えてくれ、我がのこらば汝の思うところを伝えよう。」
「同じことを繰り返すだけだ。だが、きょうこそは宿縁の命を絶ってさっぱりしたいものだ。汝もおさおさ怠るな。」
二人は最後に何となく冷たく笑い合って見た。いうことも、もはやなかった。笑うより外に何も表わすものも、また、残っているものもなかった。
「遅れると基経殿が見える……千載の遅れをとるぞ。」
「同時に矢離れを契うぞ、神かけていつわるではない。」
二人は矢をつがえた。手は汗とあぶらで二人とも、指先が光った。
「行くぞ。」
「では、いいか。」
「射て。」
殆、同じ瞬刻にこの言葉は放たれ、お互の耳の中に人の声としての最後にきくものだった。矢はついに放たれた。津の国人の矢羽と和泉の国人の矢羽とが、白と黒の羽をすれちがった処は、二人の距離のちょうど真中だった。悲しい矢さけびはあたりの春景色に不似合な、人の心を居竦ませる悲鳴をあげて過ぎた。
津の茅原はそのとき胸板のところに、があっと重いものを打ちあてられ、前屈みにからだを真二つに歪げてしまった。遣られたとそう思って支えるものを手でさぐろうとしたが、立木一本とてもなかった。再び、胸のところに熱を持ったものが一時にあふれた時に、すでに膝頭が立たなかった。かれは、潰れたように倒れたときに始めて和泉の国人の方をしっかり見つめることが出来た。和泉の人はやはり土手のうえに倒れて何かあたりを引掻くような恰好をしながらも、津の人ののた打つのを眼だけ生きのこっているように見つめていた。人間の死相というものはああいうものか知らと、灰をあびたような顔を見返した。だが、いまは笑うことも叫ぶこともできず、ただ、二人は同時に敵手の矢を胸にうけたことを知っただけだった。冷たい汗のような笑いがひとすじのぼった。
「相射ちだぞ。」
かれはそう叫ぶと、対手にきこえたかどうかと思った。和泉の人はそれと同時に何か五位鷺のような奇声を立てたが、意味は分らなくとも、明らかに相射ちを肯き合ったものだった。
和泉の人の支えた手ががっくり折れて、しだいに土手のへりの方に向ってもがきはじめた。もう、そこは生田川の土手下になっていた。津の人は和泉の人はたすかるまいと思ったが、突然、風が吹いて顔の皮が剥がれるような寒さがすると、ずっと先まで見えた土手の続きが見えなくなってしまった。流血をしらべようと手であたりの地面の上をさぐると沼のようにどろどろだった。自分も死にかけている、和泉の人はもう呼吸がなくなっているだろうと思ったが、生きられるものなら生きて見ようと漸とほのぼのとした希望が生じ出した。まるで考えもつかない不意に湧いた希望だった。生きればどうなると彼は忘れかけたものをおもい当てるように、橘の姫の顔が突然頭の中にうかんだ。だが、もう土手も人も見えなかった。彼は突然、対手がまだ生きているかどうかをもう一度確めるために、出来るだけ大声に叫んだ。
「和泉の猟夫! 相射だぞ。」
だが、実際ではもう声は出ないばかりか、手先さえうごかなかった。頭ばかりがほんの少しの部分だけがはたらいていた。
生田川の岸辺に二人の姿がしだいに遠ざかって行った時分、この狂気した一瞬の出来事は、基経には分りかねる光景であり、あるいは水鳥のいどころを捜しに行ったのではないかと思わせるほど、何が何やら訳の分らぬ一刻の揉み合いであった。だが、橘の顔はぞくぞくするほどの予感で、蒼ざめてその色を喪うて行った。それは彼らがそのいのちの的を射りあうために遠くに駆って行ったものに、毛毫相違なかったからだった。何時かはその時のあることを知っていたが、きょう招んだ二人にそのいのちを競わしあやめさせ合うことの、偶然とはいえ、その非業の時を早めたことが悲しかった。一人が生きれば一人は死ななければならなかった。
「お父上様、お後を!」
橘の声はたったそれだけで基経に一さいのことを直覚させ、基経は、もう遅いことを知らなければならなかった。
「そなたもそう思うか。」
「早くお父上様。」
基経は同じ土手の上を馳ってあとを逐って行った。時刻はもう二十分くらい経っていたろうか、春の日もそれほど永からぬこの日の夕ぐもりが、しだいに茫漠たる生田川のほとりを幾すじかの筋目を見せながら包んで行った。
基経が辿りついた土手の上に、津の国の茅原は半身を川の方に乗り出したまま深く胸を射透されて、呼吸を絶っていた。和泉の国の猟夫は土手下にころがり落ちてこれも胸の深部に、背にまで鏃が衝き抜かれて、息はすでになくなっていた。番えた一番の矢はほとんど同時に互の胸部をさし貫いたものとしか、時間や、矢数の関係から考える外はなかった。鏃の深さと狙いの確かさは二人の精神的に重畳されたものが、かくも鮮やかな互のいのちを取り合うことに、その生涯をかけて挑まれたものに思えた。どうしても二人はここまで来なければ結末がつかなかったのだ。どちらに向いてもここまで行き着かなければならなかったのだ。基経は首を垂れて二人の前に手を合わせた。美しいといえばどれだけ真実であったかも分らない二人だった。
橘はやっと二人のむくろのある土手のうえに辿りつくと、そのまま、草の上に膝をついて潜々と唏り泣いた。こうまでしずにいられなかった二人であることは分っていたものの、きょう、しかも眼の前で果しあうとは考えても考えられなかった。永い間、橘の門の前に来て元気に颯爽ときそいおうた彼らとは、どうしてむくろになった今を考え当てられるだろう、外に、ほんとに外に生きられなかった二人であったろうか。
「早まったことをなされた。」
一応、橘はこう口に出していったものの、勿論、ここまで今になれば来なければならない二人であることを知った。橘は矢痍のあとに清い懐紙をあてがい、その若い男のかおりがまだ生きて漂うている顔のうえに、袿の両の袖をほついて、綾のある方を上にして一人ずつに片袖あてかぶせ、声を出さないで二人にいった。
「今こそお二人のお心のほどありがたくいただきます。わたくしとても、もはやお後をおしたいするよりお礼の申しようもございませぬ。なにとぞ、お後より橘がまいるあいだ暫しお待ちくださいますよう。必ず必ず神かけて今宵のうちにでも参りとう存じます。」
彼女は手を胸にくみあわせ、瞼をなでおろして永い間そこをうごかなかった。こうなるまでに何故にもっと早く二人に逢って話をしなかったろうと、橘は、自分の袿の下にある若者の顔をこころに描いた、若者の顔はこの瞬間では一そう美しくさえ映った。
「よくしてくれた。お二人もさぞ喜んでいられるであろう。何事もいうべきことはもうない、お前の心づくしだけがお二人をおちつかせることであろう。」
「お父上様、立派なご最期をお見とどけあそばせ。」
「よく気がついた。拝み申そう。」
父はその矢痍をしらべた。
くるいなく深くも抉られた鏃のあとも、ほぼ似た鮮やかさであった。しかも、相射ちのおちついた決意は彼らの相貌に一脈の穏やかささえ、ふかくも刻まれてあった。
「立派な手なみであるぞ、橘、そちは見たか。」
「いいえ、でも、よく分るような気がいたします。」
「そちは幸せであるということはいえないが、女に生まれてこれが栄光であることは忘れぬよう。」
「わたくしお二人様のおん命をお受けするほどのものではございませぬ。」
「お前はこの後どうする考えでいるか、決して短慮はするではない。」
基経は橘の顔にたゆたわぬ決意された或る気持を感じて、それを挫いて置く必要があると思った。しかし基経にはそれを挫くだけのちからがあるかは、はなはだ疑わしかった。橘はどこか怒りをまじえた声音になっていった。
「わたくしの考えはもう決っております。」
「いや、お前はいままでよりも確りして生きてくれなければならぬ。」
基経は橘の眼にくい入っていった。だが、橘の眼はなにかに憧れて漂渺として煙っているようなところに、ちらりとのぞかせた瞳の反射が美しいというよりも、気高いものだった。人がそういう瞳の反射を見せるときは滅多にその機会をとらえがたいものだ。基経は身体が引きしまるようにその瞳を感じた。
「わたくしは人のいのちを粗末にするような、あさはかな女になりたくはございません。」
「娘よ。父のそばに寄り添え。」
橘は父に殆ど抱かれるように顔をよせ、ふたたび、それと分らぬ程度に欷り泣いた。基経は娘を寸時も一人にして置くことの危険とそれをふせぐために手元から離してはならぬと思った。しかしこれほどまでに自分の娘がもはや一人の女として生長していようとは、今の今まで予測もしないことだった。しかも、漂渺としてけぶるような眼の中には、人間がやみがたい或る決心をしている時だけ、立ちのぼるような蒼白さを見せるものであった。
その夜、橘はいつになく粧いを凝らせ、晴れやかな夕餉の高膳についた。基経は、娘がなぜ粧いをていねいにしたか、なぜ、わざと笑みさえうかべて膳についたかを、もはや基経の心にある或る考えと打合わせて疑うことができなかった。基経は娘から眼を放さず、その刻々に迫るような凄艶ともいうべきものの裏にあるものを読み尽くそうとしていた。
「お父上様、お杯をいただかしてくださいませ。」
「杯を!」
「はい。」
基経は故意とほほ笑んで見せ、珍しいことを言うのう、と杯を橘に手ずからとらせた。橘は、杯をおし戴いてしずかに唇に持って行った。基経はそれを感に堪えるふうに見つめた。
「お前がお酒をのむところを初めて見た。」
「今宵はなにか戴きたくぞんじたものですから。」
「お酒はうまいか。」
基経は機嫌よく、娘のいまは明るくなった顔を平静な心で見入った。
「生まれてはじめてお酒をいただくのですけれど、お酒は香気もよろしく大変おいしくございます。」
橘は間もなく頬をそめた。夕餉はかくして晩春のひと夜を迎えるために、かなり永い間かかって終った。館の内外も今宵はとりわけ温かく、あえなくなった二人のための香煙は橘の手によって絶えることなく、濃い紫の紐をひと間の中にかがり、紐は庭に漏れ、そして池の上をかすめて行った。
一夜を越えようとした明方、生田川のさざ波に銀の粉を振り撒いたような日の光が映った時分、橘の館では、橘の姿が見えず人びとは騒ぎ立ったが、基経は殆ど直覚的に生田川のほとりを捜せよと、もうそれが決定的であることのように家人に吩附けた。橘の姫は、津と和泉の人ととが相果てたほとりに、未だ化粧の香を匂わせたまま頭を土手の方に向けてあえなくなっていた。髪を堅く結び、下装束を極めた彼女のなきがらは、それみずからが濡れた大きい花の束のようなものだった。館にはこばれると人びとはそうした心根にいたくも深く打たれた。
基経は頭を垂れて娘の髪をなでさすり、なでさすりながらいった。
「よくしてくれた。褒めてやる、ゆうべからその心でいたことはほぼ分っていたが、かくも立派にしてくれようとは思わなかった。褒めても褒めつくせないほど褒めてやるぞ。」
その夜、津の茅原の父親と、和泉の猟夫の父とが頭を垂れて、姫の棺の前に坐っていた。かれら三人の父はそれぞれの死を前にしてそして橘があとを趁うた死をいたいたしく、こころには嬉しく何度となく棺に向ってもの語った。官を辞して久しいこの老骨らは、やつれにやつれていた。
「姫のおいのちがどれだけ二人にほしかったことでござろう、そして二人はおいのちを戴いた。基経殿のおん悲しみに何とも申し上げられませぬが、あらためて父としておん礼申しあげる。」
津の人の父は頭を畳にすりよせて礼をした。和泉の人の父もまた同様、手をついて厳かにいった。
「宿縁とは申せ、姫の御立派なお最期に我ら人の父としてこれ以上の喜びとてもございませぬ。」
基経は手で二人を制して先ず頭を上げられいと、遜り下っていった。
「姫がああしてくれなかったらわしは恥ずかしいくらいな思いでござる。娘のいのちの役に立ったことはせめてもの慰めです。」
「姫とならべて葬りを致したい、墓碑もそのようにしてやって下されば、子供の喜びもこれにすぎませぬ。」
和泉の猟夫の父親もその考えを持っていて、やはり基経にこの願いを容れてくれるようにいった。
「これが父親として最後の子供の願いでもござる。」
基経は快く答えた。
「三人ともならべて墓碑を立てましょう。」
津の父親は和泉の猟夫と墓をならべることに、烈しい反感と不潔を感じたらしいが、基経の承諾を得た今になっては何もいえはしなかった。ただ、老骨頑固な彼は不意に或る思いつきを考え出していった。
「此処は津の国土なれば、和泉の国の人は和泉の土に埋めるのが葬規じゃ、和泉の国にはこびたまえ。」
和泉の父親は、老眼に烈しい対手の言葉を感じながら、皮肉に一笑してしまった。
「船にて和泉の土を搬び申そう、和泉の土は子供を落着かせて眠らせるであろう。息子殿の父御ほどござって死後にも難題を申さるる方じゃ、息子も甚だ残念を致したであろうに。」
彼は老眼をうるませて悲しみを新しく色にうかべた。
「津の国には一つかみも和泉の土はござらぬ。おぬしごとき父を持った息子殿と射ち合った茅原も、対手をえらびそくなったとでもいおうより外はない。」
「こちらでも、不足な対手だと考えおる。かれこれ申されると、場所がらでも容赦はしませぬぞ。」
かれは詰め寄るとき、息子のいとしい顔さえ眼にうかべた。
「いやはや、息子殿も変った方じゃったが、その父御もいずれ劣らぬほど変った御仁にござる。」
「無礼千万、もう一度言って見よ、後悔いたされるな。」
和泉の父親はすでに太刀の柄に手をかけ、呼吸次第で、何時かっと閃いて行くかも知れない、鋭い気配だった。
「それならこちらも望んでいたところ。」
津の父親も、すでに、手は太刀のうえに青い汗を掻いていた。もう、ここまで来ては、二人の老骨は互に軋むばかりだった。かれらは実際は可愛い息子のためにもはや逆上して何の見さかえさえ、ついていなかった。二人は同時に叫んだ。
「とう、抜け。」
運命は父親同士の頭に荒れ狂うているのか、それとも、息子たちが憑いているとでもいうのであろうか。──基経は、手をもって制した。
「御両所はわしの心になって鎮まって下され。」
こういう基経には、津も、和泉の人も、答う言葉さえなかった。彼ら、老骨は頭を垂れていった。
「恥じ入り申す。貴所の姫の御いのちをいただいた二人の父としては、恥じ入りお詫びいたします。」
「仲よく葬りてやりましょう。子供というものは死ぬまで面倒を見てやらなければならんことも漸く知り申した。」
基経は三基ならべて墓碑を建てることを、二人の父親にはかった。和泉の国人は翌日、和泉の国の清い土を船ではこび、船は、生田川の岸べに朝はやくに着いた。金色にかがやくような新しい山の深みから掘った処女土であった。和泉の国の父親はそれを墓土にならして、不幸な息子の墓をそこに据えていった。
「お前も橘殿のそばにねむることが出来たというものだ。基経殿、御承服くださるように。」
「懇ろになされた。」
基経は土を拝していった。
津の国の父親も、もう、なにもいわなかった。かくも深い父としての思いは、やはり人の父である彼にいまはただ深い感動をあたえたらしく、何度も、低く恥じ入ったような声音になっていった。
「よく為された。三人の若者らはいずれも兄妹のようなものに思われてならぬ。」
しの竹の垣を結んだ一囲いの墓畔は、すぐ生田川の流れを見迥かされる、高みのある松林のはずれに建てられた。川の面がかつての日の銀の粉をなすったように、日の光を反射して美しいさざ波を掻き立てていた。
基経は姫の棺に、香匳、双鶴の鏡、塗扇、硯筥一式等をおさめ、さくら襲の御衣、薄色の裳に、練色の綾の袿を揃えて入れた。その心づかいはかつての日の橘のあでやかな俤をしのぶ好箇のよすがでもあった。津の父も、和泉の父も、狩衣、袴、烏帽子、弓、胡籙、太刀などをその棺に入れ、橘の姫の美しさに添うようにした。かくて、かれらのねむりを妨げる者は、誰一人とてなかった。
歳月を経て或る旅人はこう書いて、もう、そろそろ苔の生えかかったみたりの墓のうえに、紙も、白じらと秋かぜの吹く日に置いて行った。
束の間ももろともにとぞ契りたる
逢ふとは人に見えぬものから
また歳と月とがいみじくも流れ去った。或る日、一人の旅人は一首の棄歌をしるし、紙に礫をのせ風にも立たぬようにして行った。前書には、「一人の男になりて」と書き、男のどちらかの心をいたわり、また、旅人みずからの心の傷手をうたうがような調べも含まれてあった。
同じ江に住むはうれしきなかなれど
など我とのみ契らざりける
歳月は墓石に白い百年の苔をきざみ込んだ後の年、時はあたかも駘蕩の春の半ばだった。女にかわりて、その心をのべしるした歌を一首、蓮華台のすき間の苔のあいだにさし込んで、風のごとく去って行った旅人があった。
住みわびぬわが身投げてむ津のくにの
いくたの川のあらぬかぎりは
底本:「犀星王朝小品集」岩波文庫、岩波書店
1984(昭和59)年3月16日第1刷発行
2001(平成13)年1月16日第6刷発行
底本の親本:「室生犀星全王朝物語 上」作品社
1982(昭和57)年5月発行
初出:「日本評論」
1941(昭和16)年3月号
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2013年11月5日作成
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