津の国人
室生犀星
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あらたまの年の三年を待ちわびて
ただ今宵こそにひまくらすれ
津の国兎原の山下に小さい家を作って住んでいた彼に、やっと宮仕えする便りが訪ずれた。僅かの給与ではあったが、畑づくりでやっとその日を過している男には、それが終生ののぞみであっただけに、すぐにも都にのぼりたかった。けれども衣服万端の調度にこと欠いている彼に、どうして道中のいりようを作っていいかさえ、見当の立たないものがあった。自家の畑物をみんな食べてしまっている哀れな夫婦に、手の尽しようのない貧乏が永い間くい込んでいた。
月のいい夜であった。一束の白い菜をかかえた夫は、簀の子のうえに白い菜を置いたが、筒井はそれがどうして手にはいったかを尋ねるには、あまりに解り切ったことだった。
「固く塩せよ。」
夫の顔は気色ばんで、少し昂奮しているようだった。
筒井は蔀をしめに立ち、男は誰かに弁解するようにいった。
「あまり月がいいものだからつい、……」
「ご尤もにございます。」
「白い茎が一面にならんでいてそこに射す月の光じゃ、我を忘れて白い菜に手がふれた。」
「畑物に月がさしたらそれはみな仏の座のように申します。それに、間もなく宮仕えに発たれるあなたさまに、誰が何を申しましょうぞ。」
「では固く塩して?」
「はい。」
妻の筒井が白い菜をかかえて去ったあと、彼は手にふれた白い菜の冷たいゆたかさをたなごころに再び感じた。誰があんな美しさを辞退することが出来よう、花もそうであるし、こがねいろをしている橘の実もそうであった。きしむような白い菜の幅の広い茎は妻のただむきのように美しかった。決して辞退できるものではない、彼は蔀の破れから、もうもうとこめる秋夜の月を眺めやった。
宮仕えすればいまより収入があり毎月妻の筒井に送り、筒井はその黄金で衣裳をととのえ、一年も経てば夫は都から迎えに来るはずだった。四条五条の秋色はどんなに華やかなものかも知れない、築地の塀をめぐらし、中の島をしつらえた広大な庭に、彼は好む樹木を配して子供の時からの庭が作って見たかった。袿を着けた妻は、几帳の陰で長い黒髪を解いて匂わすであろうし、筒井にそういう高い生活をあたえれば直ぐにも美しくなる、彼のそんな考えは妻を可憐とも美しいとも、いいようのないものに思わせた。筒井の持つ宝物のようなからだは、誰にくらべても、見劣りのするものではなかった。それに天稟ともいうべき筒井の言葉づかいの高雅なことは、高い官についた人の次女であることをおもわせ、卑賤のそだちである彼に勿体ないくらいのものであった。いままでも、白い菜のほかに、彼は畑物を掠めなければ、たつきに趁われがちだった。或る夏の夕方には、布片一枚を畑物を掠めた償いに畝の上に置いてもどったこともあれば、若干の金をも眼に立つところに置いてただで掠める野のものでない証左としていた。しかし窮乏はもう布片も、若干の金をも畝の上に置かせなかった。
筒井は或る官人のもとに働くように手立てをしたが、低い官人ゆえ、ただそこで衣食するだけであった。いま彼の心をいら立たせるものは妻の衣食するところを見付けること、そこで少時待ってもらうことだった。筒井もそれは承知のうえだった。話は筒井はいつからでも低い土地がかりの官人に仕えることに決り、もう彼の心労はなかった。筒井は賑やかな笑いをたたえ、せめても、それが面白いことであるようにいった。
「おなじ時刻にそれぞれに立ちとうございます。あなたさまは都へ、わたくしは官人のもとにこの家を一緒に立ちたい考えにございます。」
それはなにか気懸りな話ではあったが、そういう申出でには愛情のおもい遣りが香のように匂うてくるようでもあった。筒井はいつでも、そんなふうに申し出ることですぐれているものを持っていた。
「一人がこの家にのこることは心辛いものがある。それはいい考えだ。」
「そして渡舟までご一緒にまいりましょう。」
津の川の渡舟は東と西にわかれていて、東にのぼれば都への渡舟だった。流れを下れば土地がかりの官人の村に着くよう、渡舟はしかも同じ時刻に出るはずであった。
彼はなにかなしその企の思いつきに笑った。一抹のにぎやかさがどういう困苦のなかにいても、いつも笑いを見せる筒井らしい終の美をとどめるに似ていた。しかも、そんな筒井の考えにはこの家を売るのに都合のよい立退の仕儀にもなり、道中衣裳の費用にも役立つのであった。彼はそこまで考えることが出来ず、うまく暗示した筒井のいかにも自然らしく、品の高い、言葉の意味がやっと分るほどだった。
津の国に来たときも渡舟であった。まだ子供だった彼は渡舟のへりにいて青ぐろい水の底を見て怖がった。しかも筒井を迎えに行った春の渡舟に、つやのいい御車の牛が一頭乗せられ、ゆっくりと船頭は櫓をこぎながら、皆さん大声を出さないでくれ、牛が喫驚すると川にはまるから頼みますぞと呶鳴った。しかも、筒井と彼の乗っている舟とすれすれにこいで行った。筒井は彼に身をすりよせ、しきりに気を揉んでいった。
「牛が川におちたらどういたしましょう。」
「そんなことは万々ござるまい。」
町家の女のつれている子供が突然怖がって大声に泣き出した。船頭ははらはらして叱々と注意をし、母親は子供の口を手でふさいで、泣くと牛がびっくりして川に落ちるぞというと、子供が一層大声になり、怖がって泣き出した。その時、筒井の手がしずかに伸べられ、子供の怖がる眼路をふさいだ。伏見あたりでできる、衣裳の美しい小さい人形であった。
「これ、たまうぞ。」
子供は泣き歇み、舟中ではことに美しく栄える人形を抱きよせた。この女らしい優しい思いつきは舟中の客の胸に、いしくも温かい思をかもさせ、牛を乗せた船頭は感動していった。
「助かりましたぞ御娘子様。」
筒井は謙遜らしく頭をさげて見せた。彼はこの妻の仕儀にほとほと感銘したが、舟中のこと故、それはよい思いつきだといったきりであった。
牛を乗せた舟は川の中心に出てゆき、船頭は櫓をあげて筒井にもう一度、お礼のような形を取って見せた。舟中の牛の背中にある白い斑点がやっと見えるくらい遠のいた時分に、男は乗客に聞えぬ低い声でささやいた。
「よく致されて我ら面目を施した。」
匂やかな新妻はやっと笑って見せただけであった。
「人形はよい人形ではなかったか。」
「母のかたみにございます。」
十七で母にわかれた筒井は、その年から三年経ったあと、父に死別していた。
「そんな貴い人形を惜しいことを致された。」
「いいえ、牛が哀れにございます。それにあの子供もみめ美しゅう覚えましたから惜しいことはありませぬ。」
渡舟が土手に着くと筒井は津の国の土をはじめて踏み、柔らかい春早い草々の頭にはもはや先の美しい緑がもえていることを知った。そして、それは何と夥しい蘆の繁りであったろう、それらの蘆にはもう青い液状の緑がのぼりかけていた。
例の牛は土手にあがると、のそりのそりと曳子と一緒に歩いて行った。白の斑点はまるで雲のように鮮やかだった。
「津の国はよいところでございますね、水が多いので景色が美しくおぼえます。」
かくて彼らは五年の月日をこの津の国に送り、男は下の役を解かれてからきょうですでに三年経っていた。
その渡舟でおなじ時刻に別れるのも、なにか宿縁のようなものがあった。彼らはもう売る物も、人に頒けるものもないほど、すべてが衣食についやされたあとだったので、家を立ち退くには雑作はなかった。筒井は青い下帯を彼にいつも永くしめてくれるようにいい、見れば筒井がはじめての夜にといた匂やかな青い下帯だった。永い五年のあいだについぞ見かけたこともなく、大切にしまって置いたものらしかった。彼は秘蔵の品に手をふれるように青い下帯を撫でさすりながら、珍らしい物をいままで蔵って置いたものだといった。
「何となく蔵っておいたのでございます。お別れのかたみになるなぞとは、つゆ覚えませぬのに。」
「我ら何も遣わすものもない。」
彼は立ってみ仏のおわす扉をひらいて、小さい唐渡りの釈迦仏を一体取り出した。それは耳の中にでも、しまい込まれるほどの小さい御姿をうつしたものだった。黄金でつくられた、彼の一つの高貴な宝物にぞくすべきものであった。
「父からのかたみでこれだけは残しておいたもの、再た会う日に返してくれればいい、我らのかたみにしまっておいてくれ。」
「これはあまりにわたくしごときものには勿体のうございます。」
「いや、我らが持っていてはどうなるみ仏の行末であるか分らぬ、そなたならそんな不束はあるまい。」
「ではおあずかり申します。これは何とお美しいお顔にございましょう。」
燦とした黄金づくりのお顔のこまやかな刻み目にも、もはや古い埃がつやをつくって沈んでみえ、筒井は両のたなごころに据えてしばらく、じっと拝するがごとく見恍れた。そんな敬虔な筒井の眼のつかい、手の敬々しい重ねようはこのみ仏をまもるには、筒井より外にその人がらがありそうも覚えなかった。彼は筒井の嬉しそうな様子に信頼する強いほとばしりをその眼のなかに見入った。
「よくは覚えぬが母が父のもとに見えたときにお持ちになったものらしい、母がよく埃をはらい御みがきをかけておられたことを覚えている。」
「母上様におことわりを申さなければなりませぬ。」
「そなたが肌身離さず持っていてくれることは、母上にもきっと御本望でござろう。」
「あまりに不束にて恐れ入るばかりでございます。」
筒井は父母の位牌の前に行き、額ずいて永く頭をあげずに祷りの時をつづけた。それは親しいものの限りをつくした、見ていても、心に重みのくるような礼拝のよろこびをあらわしたものだった。
その夜、はじめての時雨の訪ずれがあった。二人はだまって灯にさしむかえになったが、やがて彼は別れたら必ずきょうの日をおたがい心して覚えて置き、便りはつでのあるごとに怠りなきように筒井に注意した。
筒井はその時はじめて勁く語調をあらため、彼の腹にこたえるように申し出たのであった。それは思いかけぬ言葉の剛直さをあらわしていた。
「あなたもわたくしあることをお忘れなきようにお願いいたします。」
「そなたもだぞ。」
「わたくしのことはお心にのこさずにどうぞ。」
「いや、土くさき田舎暮しでは気がかりにもなる。」
「美しい人のたくさんおられる都のたつきこそ、わたくし恥かしながら心がかりに思いまする。」
彼は何となく男の本能から悸乎とした。美しい人びとの往来する朱雀大路を思うだけでも、永い間田舎に住んだ渇きがそこで充たされそうであった。そういうたまゆらの悸乎としたものは再び彼を捉えて、面をくもらせるほどであった。
「都では我らを対手にしてくれる者とてもあるまい。」
その夜はかつてないほど多くのしみじみした話が二人のあいだにあった。男も凡てを信じてはいたが、ひとなみの気にかからぬほどの不安があった。そのあるかないかの依りどころない不安は、いままでの、どういう不安にくらべても大きいものだった。
二、三日の後、晴れた日に彼らは別れの宴のようなものを催したが、赤の飯を炊こうとしてもその年の虫の害は、畑に小豆というものが一粒も実らなかった。隣近所に男は頼みに行って見たもののおよそ小豆と名のつくものは、依然、一粒もなかった。ただの小豆ではあったが幸先を祝うものゆえ、夫の失望は大きかった。小豆の飯の好きな夫に、そのわかれの飯に小豆を混えないことが筒井にも悲しかった。
「どこの家にも一粒もない。」
夫はそういい、せめて鉈豆のようなものもないかと尋ねてみたが、これもやはり一粒もなかった。それほど恐ろしい暴風のような蝗の大軍の襲うたこの地方では、青いものも後蒔きの分だけがそだっただけだった。
筒井はどこやらに小豆が戸棚か、どこかにしまわれてあるような気がして袋戸棚や茶棚をさがして見たが、どこにも紅をした小豆は見当らなかった。
「もういいではないか。」
「いいえ、たしかにどこかに、小豆があるように覚えがございます。ちょっと、わたくしに考えさせて下さいませ。」
どこかにしまってあった。筒井は心覚えのあるところを捜して見たが、どこにも見付けられなかった。だが、この遠いような近くにあるような考えはどうしても諦めかねるほどの、心にのこっている小豆であった。
「ええと、どこかにあった。」
彼女はその時、やっと考えあてて、膝を叩いて小さいよろこびの声をあげた。男は驚いて筒井の顔をみた。
「ございました。」
「どこに。」
「只今持ってまいります。」
彼女が立って行ったところは雛のしまわれてある箱をつんだ戸棚だった。そこにある幾つもの箱のなかの別な小箱をかかえ、筒井は夫の前に置き、鋏を用意してふたたび、箱の前に坐った。不思議そうに見ている夫の前に箱から取り出したのは、五つの袋からなる美しいきれで縫ったお手玉だった。
「ほら、小豆にございます。」
袋の糸目をとくと、なかから美しい紅のつやを持ち、芽割れに白い縫糸を見せた小豆が一杯につまっていた。雛の日の娘らのあそぶお手玉だった。
「これは有難い」
男は驚いてこれに気のついた筒井の智慧に、いまさら眼を見はる気持だった。五つの袋を解いてしまった時に、盆の上には夥しい小豆が一杯にあふれていた。しかも去秋の小豆は一粒として傷んでいず、去秋の美事な近年にない豊作のあらわれが、この小豆にさえ見られた。
「これで赤のご飯が出来ました。」
彼女のよろこびは彼女をなみだぐませたほど、真剣なものだった。こんな遊びに縫ったものに、祝いのものが炊かれようとは、誰も知らなかった。ただ筒井の叡智だけがそれを教えたのだ。間もなく赤の飯はふっくりと炊かれ、小豆は赤ん坊のようにあどけなく柔らかく蒸れて、あまい、淡さりした餡の深い味いを蔵していた。かれらは、明日は別れなければならぬひと時の食事に、塩した干魚をかじりながらも幸福だった。小豆があったからには我らは永く倖せになるだろうと男がいえば、女はお手玉の五枚のきれを叮重にたたんで、そしてあやまるようにいった。
「小豆を見付けましてまたしまって置いてやります。」
この何者に対っていうでもない礼儀ある言葉は、こんな日にことさらに心に応えるものがあった。かくて貧しい埴生の宿のひと夜を彼らはゆっくりと睡るべく、寝所にさがって行った。そとは深々としたしぐれが罩めるように降りつづいていた。
津の川波は鱗がたの細かい皺を見せ、男の古い狩衣には少し寒いくらいだった。青い下帯をしめた彼は渡舟を待つあいだ、筒井と土手に腰をおろして憩んだ。同じ古い袿に釈迦仏を懐中に秘めた彼女は言葉すくなに夫とならんで、かぞえ切れない鱗波の川一面にある文様を見入った。
渡舟は同時に東と西からその姿をあらわし、この岸べに着くと同時にまた立つはずであった。筒井はなにもいうことがなかったが、人はこんなふうにして別れるものであること、すこしも行末のことに愁いをもたずにいることが甚だしい間ちがいではなかろうかと、そんなことを漠然と波を見入っては考えていた。一体、こんな寒々とした少しの温かみのない曇り日の景色というものには、どうしても隠しきれぬほど悒しい感じにとらえられるものであった。先刻から夫の顔をできるだけ見ないようにつとめていたのが、ふいに見るでもなくその横顔を見てしまって、なにか驚くようなはっとした気持であった。茫やりとおなじ水の面を眺めている夫は何を考えているのか、少しも生気というものがなく顔は青みをふくんで淋しい以上の淋しい感銘であった。こんな虚しい何も浮んでいない顔を見たことがはじめてだった。どんな困窮の日にもこんなさびしい顔色はしていなかったのだ。もう、別れるからだろうか、そうとしか、筒井には解きがたい空虚さであった。
渡舟は同時に着いて乗客をすっかり吐き出して終うと、舳を上流と下流に向けてふたたび客を乗せた。
「さあ、」
男はなんとなくそういって起ち上り、女を先に立たせた。
「では気をつけてな。」
「はい、おしずかにお越しくださいませ。」
筒井は腰を折って一揖した。男もちょっと頭をこころもち下げるようにして、それぞれの渡舟に乗りこんだ。筒井は夫の顔を先刻のようにもはや見ることはなく、夫の烈しい眼がしらを受けるだけであった。
渡舟はぽんと岸辺をついた竿の勢いで、水の面にすべり出た。筒井の渡舟は西の方に舳を向け、男の渡舟は東の上流に向いて舳を立てた。二人は眼を合せて合図のように頭を下げ合ったが、下流に向う筒井の渡舟は俄然として舟脚を流れにまかせて、もう、かなり距って行った。それはわざとしたような迅い舟脚で、はなはだ卒気ないものであった。それにもかかわらず上流に逆のぼってゆく遅々たる舟脚は、しかも下流に向いて坐っている男には永い間、筒井の渡舟が眼を放れずについて来てならなかった。
「あの女にはもう再度と逢えないような気がする。」
男はなんとなく口のうちでそう自分自身に対ってはっきりと言い聞かさなければならぬような気がした。それほど荒涼無辺なところに彼の直覚がはたらいて行き、彼はそこで急激な絶望をありありと感じ出した。女の乗った渡舟はそれでもまだ眼路の果にあって、一つの黒い点になったかと思うと川すじが迂曲して、突然見えなくなってしまった。彼はその時あまりに熱心に見つめていたため、頭がしびれたようになってもう少しで渡舟のへりから落ちそうな不覚をおぼえたのであった。そしてそういう不覚の感じは一層彼から彼女を失ささせる、変な暗示のようなものをその心に殖やして行った。貧しくとも津の村ざとにいれば白い菜をたべていても、彼女と一緒にいられるではないか、彼女を失うてしまったら再びああいう女は自分のところに来てくれはしないであろう、彼女を失うために彼は都にのぼって行くようなものだ。彼の焦燥は彼のなかに荒れ立ってゆき、彼は身動きもせずに愉しい五年の月日をあとぐりし、それにふたたび逢えなくなればどうなる自分であろうか、筒井がいるために貧窮すら応えず、そして彼女がいたために多く掠めた畑物の咎は、百姓だちから許されていたようなものだった。何と多くのかなしい百姓だちが筒井をただひと眼見るために、まずしい彼の家の垣根越しに声をかけて行ったことであろう、かなしいそれらの百姓に筒井はみんなとおなじに均しく良い挨拶をあたえていた。そして青い川波に眼をおとして茫然自失するような状態をつづけて行った。彼はくるしげに、こういってもう恥をわすれているようだった。
「ねえお前、なにか答えてくれてもよさそうなものではないか。」
この急激におそうた哀別は、男をふたたび茫然自失のあられもない世界に趁い込んで行った。自分にすぎた筒井であっただけ眩ゆいばかりの妻を得ていることが、どういう倖せにも増して底の深い倖せであったことであろう。かなしい働くだけでつかれた百姓だちは、垣根越しに声をかけて過ぎた。
「筒井さま、こんないいお天気にはわしらは働くより外に考えようがないとは、これは一体どうしたものでしょう。」
「お百姓衆、わたくしとてもこんないいお天気には遊ぶことなぞゆめにも覚えませぬ。あなた方はおはたらきになる土地をお持ちになるが、わたくしは作るにも種子も土地もございませぬ。」
「なるほど、わしだちはとんだ間違いを考えたものや、では、あとで種子をおとどけ申しましょう。」
すなおに百姓は会釈して去った。
男はそんないい妻と自らえらんで別れるのだが、もう一さいが遅すぎた。もはや、渡舟さえも見えなくなり、男は歯をくいしばってうつ向き、人に顔を見られぬように唏り泣きをした。白い妻のただむき、うなじ、それらにこそ、男はわかれて後にあえぬことが深い悲しみになった。人はおなじ白いただむきを世界にもとむべきものではなく、そんな貴いものはあちらこちらにあるものではなかった。
土地がかりの官人の家は、広大な石垣をめぐらした川べりにあった。筒井はすぐ見出されて仕えの女のなかでも、重い地位をあたえられ、奥の仕えばかりを勤めることになっていた。主人は津の川べり一帯の土地を持ち、息子はその父の管理している土地の手伝いをしていて、まだ若い光った額をもった青年だった。この青年は筒井が仕えをつとめるようになった最初から、筒井に心して使うようになり、あまりに叮重なあつかいに困るほどであった。食物、睡眠、衣裳、暖かい庭、暇のある勤めはたちまち筒井を美しくふとらせ、毎日の沐浴はつやつやした肌に若返らせた。筒井はこういうゆとりのある生活をしたこともなければ、また、かつて一度も想像したこともなかった。これが仕えの勤めであるとすれば、こんな安易さはほかに求められるものではなかった。ふとしたことから第二番目の娘子に、筒井はその和歌の出来を見てやってから、青年は一層筒井をたいせつに応待した。朝の白湯、昼下りの白湯にも、筒井は呼ばれて、主人、娘、息子の端の座にすわっていた。やがて主人が去り娘が去っても、息子は後始末をする筒井に、そこにいよといい、ふたたび白湯をいれさせた。息子はよくするように眩しげに筒井を見遣って、尋ねずにいられぬふうにいった。
「あなたはいままでに何をしていられた方か。」
「名もなくはたらいていた普通の女にございます。」
筒井は男と暮らしていたことは、女としてはいえなかった。
「どういうところにはたらいていられたか。」
「津の村の方にございます。」
「何をしていられる方?」
「官の職をのいていた方にございましたが、再び都にのぼられた方のお家につとめていたのでございます。」
「よい方であったか。」
「はい、それはもう。」
筒井はともすると変りやすい顔色を心で隠すようにした。男が立ってからもう三月になるが、便りも消息もなかった。三月といえば百日に近かった。あれほど誓いあいながら何の知らせのないのは、官の仕事になれないためであろうと、そう思うよりほかに筒井は解きようがなかった。十月十一月十二月も終り近く、あと二日でもう正月になろうとしていた。
「父上もそう申されていられるが、この家に永く勤めていられるようにお願い申す。」
「わたくしごときものでお宜しいようでございましたら、永くおつかい下さいませ。」
「みな近くの農家の者ゆえ、あなたがそれをつかいならしていただきたい。」
「はい。」
二日の後、静かな元日がおとずれた。筒井のために作られた衣裳はまるで御娘子と同じ模様の襲も青い練絹であった。筒井はそれを携えた御娘子に辞退して、押しやって勿体ながった。
「わたくしはただの仕えのものでございます故、これだけはお受けできませぬ。」
生れてはじめて見る美しくまばゆい初春の衣裳であった。
「いいえ、これは父上と兄上がお見立てであそばしたもの、正月には着てたもるように。」
それはもう断れない身丈もきめて作られた衣裳だった。
元旦の朝の餉には、筒井は主人といっしょの座にあてがわれ、ひじき、くろ豆、塩した鯛、雑煮、しかも、廻って来た屠蘇の上の盃は最後に筒井の膳に来て、彼女はこういう家族の待遇に心ときめきながら、優しく盃を受けなければならなかった。しかも穏やかな微風すらない元旦は暖かいほど、庭一面に日があたり、不意に大きな翼の音がして一羽の大鳥がさッと庭ぞらを掠めて渡って行った。
「あ、鶴じゃ。」
主人は盃を持ったまま簀の子に出、青年も娘も出て行った。真白な大鶴がななめに中の島をよぎり、低く庭の上をすぎて行った。筒井はそのまま腰をまげてかがみ、かがんだときに微かではあったが、大きないかにも温かそうな白い鶴のうしろの翼を見受けたのであった。
みな座にもどった時に誰の胸にも、筒井が坐ったまま謙遜に鶴を見送っていた落着きをこよない静かさに感じていた。そしてこの時代の礼儀の言葉としての筒井の言い方にも、このあたりに稀に見る女の気高さがこめられてあった。
「御めでたい鶴にございます。」
「ありがとう、そなたという鶴もいてくれて双鶴じゃ。」
主人はそういい息子をちらりと見た。青年はべつに気色ばむことはなかったが、機嫌のよい頬の色をしていた。そして彼は少しあらたまっていった。
「母上がいられぬものだから父上も不自由していられます。」
「お亡くなりあそばされたのでしょうか。」
「もう二年にもなります。」
青年はそれだけであとはいわなかった。
「存じませぬことながら失礼申し上げました。」
筒井は手をついて悼みの言葉をのべた。父という人は満足げにその言葉を受けて、軽く頭をさげた。
「母のない家というものは灯火を失っている居間のようなものだ。そなたがいてくれてめでたい元旦をことほぐことができた。」
「わたくしこそこのようなおうたげに列なりをいただき、お礼の申しようとてもございませぬ。」
「ゆるりとされるよう。」
「ありがとうございます。御衣裳もいただきましてございます。」
愉しい夜は雪にもならず、みな歌をものして過ごし、更けて筒井は下がろうとして仲の遣戸をあけようとすると、よい月夜になっていた。
「誰方様。」
筒井は小さい肩をすぼめ、身をまもろうとすると、狩衣を着た青年が立っていて、隠れもせずにいった。
「よい月夜になり申した。」
「はい、思いがけないよい月にございます。」
青年の顔は真白だった。筒井はこういう月をあびた男の顔を見たことが初めてで、驚いて見直したほどであった。
「明日はみ社に詣ろう、御身も見えられるように。」
「はい、お供させていただきます。」
筒井はふと思いいでて、ほかに物の言いようもなく、
「御襲いただきお礼もまだ申し上げないでおります。」
彼女は襲に手をさわり腰をかがめた。春の野の萌黄色の襲は月の下では、ひと際、柔らかい触りを見せていた。
「お似合いでよかった。袿もそのうち吩咐けます。」
「わたくしごときものに御心労おそれ入ります。」
「妹ともよく似合のものをお捜しあれ。今宵のお身はまことに美しかった。」
「そのようなこと仰せられては、ゆめなりませぬ。」
筒井はなんとなく硬い顔付になった。心に恐ろしい脅えがあった。その脅えははなはだ道徳的なものだった。
「そなたが来てくれてから父上も大変元気になられたし、我らも息を吹き返した思いを致しいる。こういう辺土にいて母のいない家というものは、身に着けるものも見当らないほど淋しいものでござる。」
「お察しいたします。」
「それに川べりの冬は寒く気も沈むようなことが多い、そなたが見えられたこの冬は賑やかに歌など夜々のなぐさめに、ものそうではありませぬか。」
「嬉しくぞんじます。」
青年の顔色は青く寒げに見え、筒井は一種の願い事のようにやさしくいった。
「お風邪召すといけませぬ。そこまでお見送り申します。」
筒井は先に立った。
「お見送りはおそれ入る。」
「また明日という日のおとずれもございますゆえ。」
こうまで優しい申し出には青年の熱い気持も、そのまま心におさめ、今宵は引き取らねばならなかった。西の対で二人はしずかに別れた。
「筒井殿、我らこころよく寝みますぞ。」
「おしずかにお寝みあそばせ、ご覧じませ、あんなに明日はよいお天気のきざしにございます。」
「美しい星だ。」
星は冬が深くなるほど冴えて透って見え、美しくなるものだった。男は戸のうちにはいり、筒井はおのが部屋に引き取って行った。
筒井はきょうひらけた世界に向い、自らきびしく責める気持を経験した。避けるべきものは避けなければならぬ。筒井は寝所にはいるとおのずから自分の呼吸づかいの若さを知り、そしてこがねのみ仏の像を抱いた。寸にも足らぬものであったが、男もこの中にいると思わずにいられなかった。おん肌をまもらせたまえ。
「おん肌をまもらせたまえ、あわれなるものの肌をまもらせたまえ、わがあやまちなきようめぐみあらせたまえ。」
筒井はこういう祷に似た声もひくくささやいて見ると、晴れがましく明るい気持になりからだが真白にかがやくようで、勿体ないみ仏の光をうけるような世界のあたらしさを感じた。そしてそれは無名の青年があらわれたことによって、この世界のひらきかけたことも知らなければならなかった。
秋はふたたびめぐって二年目の正月になっても、都から男の便りがなかった。筒井は津の川べりの渡舟を待つあいだにちらりと偸み見た男の顔の、あまりに空しい生気のないのを思い出すと、もう生涯会えない人のような気がした。たとえ、どんなに忙しい生活をしていても一片の便りを書くくらいの暇があろうはずなのに、もうまる一年も何もいって寄越さないのには、深い原因があるに違いない、その原因とは一体何であろう、筒井はその一つは死というものに捉えられた彼ではなかろうかと思い、も一つ外の原因にはなんとなく別の女気を感じた。だが、そういう浅薄な人ではなかったはずだ。それでは死か、死ぬような人でもない、もしそうであったら誰からか知らせてくるはずであった。やはり女であろうか、筒井はそれも信じられぬことに思われたが、ああいう変に気の好い人というものは自分で確乎しているつもりでも、つい気の好さから人に愛されるようになる。筒井自身が愛していたようなそれが男の上にあたらしく訪ずれているのではなかろうか、筒井はいつもこの二つの問題のあいだを殆ど一年間往来していて、いつも解決のつきようがなく深くはまってゆくばかりであった。
ことしの正月は袿をつけた筒井は、もう土地がかり官人の家の仕えの女であるよりも、娘子を見るような品の高いものであった。彼女は一家の着るものから調度の類、諸儀式の器物、塗籠にある品々、とりわけ青年の身のまわりの物はすべて筒井が見ていて、筒井がいなければ一家の器物の一つを尋ねるに、全部の長持や箱、棚の中を捜さなければならなかった。あこには何がはいっていて、此処には何がしまわれているかということまで、筒井は誦んじていた。土地のことで忙しい父と息子は、もう筒井がいなければ一日として送れないまでに、筒井はこの家にいなければならない女になっていた。それに食事のことも筒井の指図がなければ何をつくり何を食うべきかも、外の仕えの女は知らなかった。ほかの仕えの女は筒井の指図によってはたらき、そしてそれがなければ外の仕えの女は指をうごかすことも出来ないほど、筒井を調法がり頼りにしていた。こういうあいだに筒井の愁いは少しずつ剥がれるときもあるにはあったが、その全部を忘れるということは絶対になかった。厨の夕暮、塗籠の二階、簀の子のたたずまい、庭の中というように、至る処に筒井は夫の呼吸を感じ、そのたびに少しきびしい声音になって筒井は胸の中でいった。
「あなたさまは今何処にいられるのでございます。一日も早くおたより下さいませ。一日遅れば一日だけ恐ろしいことが近づいてまいるような気がいたします。人はなさけの深みにどうしても蹤いてゆかねばならないように出来ていて、それを逸らすことができないようになっているものでございます。それを逸らせるためにはあなたさまの御無事のお便りをいただかなければなりません。ただ、一枚の紙きれのお文でたくさんにございます。早く早く、一日も早く、なにとぞ、なにとぞお便りをしていただきとうぞんじます。わたくしどうしていいかさえ分らないくらい迷っています、ときにお便りだけが迷いをきっぱりとさましてくれるような気がいたします、早く早く、一刻も早く、こういっているうちにも早くお文をおつかわし下さいませ。そうでなかったらわたくしはご親切なこの家の方々のお心から、もう離れることができなくなっているのでございます。それはあなたさまという方がわたくしにあるということを明らさまにしないためかも存じませんが、そうでなくとも、この家にはもはやわたくしという女がいなければ何一つするにも、出来ないようになっています。たとえ、あなたさまがお越しになっても、わたくしは人の情としてすぐこの家を立ってしまうことはできませぬ、することをしてからでないと、とうてい見過しにはできないような家庭の事情でございますもの、どれだけ離れた考えをもっていても、気の毒にもさびしい方々をそのままに置いて、わたくしだけがこの家を去るということはできませぬ。」
「もう二年めの正月のきょう、御息子様の貞時様はわたくしをもとめられ、わたくしを求められることによって一家のさびしさを救い、お父上の身のまわりの心づかいをしてくれるように仰せられましたが、わたくし、神仏に誓を立ててあと一年は人様に従くことのできない身分であることを申し上げて置きました。それは母が大病のときにおん命おとどめくださるようなれば、神仏へのおん礼のしるしとして三年のあいだ、殿方にまみゆることなきをおことわりしてあるのだと、お身様にまいる前のことを申して、貞時様のお心をしばしとどめているのでございます。貞時様の申されるようにはそのような心ざしを持たれるからには、なおのことわが願いをかなえてくれるよう、あと一年の春秋は決して遅いとは思わぬと仰せられ、わたくしへの熱い心をじっと抑えておられるのは、見ていても悲しくおつらいことに思われます。あと一年くらいはすぐに経ち、お身様のお便りがなければそのまま何時までもお待ちする心でいても、世のさだめには勝つことができませぬ。女はただの一日一刻のあいだにもその運命がどう変るかも分りませぬし、変るものもさだめのつねのようにおもわれます。お身様、みやこに上られてから四百何十日のあいだにお文おかきあそばすひと時もなかったとは、よもやお身様も仰せられぬでございましょうに、絶えてお便りなきはお心のすみにあるわたくしのことも、やや忘れがちな日々、忘れるでもないようでそれほど深くは心にとどめていられぬ日々もあったように思われます。それはよく分っていながら四百何十日もお便りなきはあまりに悲しく待ち遠く、また、あまりに酷うございます。津の国の春秋に、人のなさけを制しながらじっとお待ちするわたくしは、どれだけの春秋をお待ちしていいかさえ分らなくなる時がございます。貞時様はいつまでも待つと仰せられ、そしてあなたさまはどこにお越しかも分らず、また、おん健やかにおすごしあるかも分らないこのごろ、女としてこういう時にどういう考えを持っていたらいいかも、しだいに分らなくなってまいります。ことに津の国の田舎とちがい都にあらせられるあなたには、その毎日にも何彼と心の鬱さの紛れることもございましょうが、青い蘆荻のそよぎばかり見ていては心は毎日滅入ってしまうばかりでございます。」
「ただ一言ゆめにでもあらわれてお聞きしたいことが、筒井の胸にございます。筒井はただそれを知りたさにそれのみを念じているのでございます。お驚きくださいますな、あなたさまは本統にお健やかでおわすのでしょうか、それならそれ以上の倖せはないとしても、ひょっとしたらお健やかでないのではないでしょうか、も一つつき込んで申し上げることにお許しがあるならば、あなたさまはもはや在世あそばさないのではございますまいか、もはやもはやお健やかなお顔色もなく、おなつかしい声もなく、他界あそばしたのではないでしょうか、わたくしの心がかりはそれのみにございます。それはあまりに疎遠な感じでかつてのあなたさまらしくないほど、お便りもなくなっていることからわたくしにはもはやお逢いできないように思われてならないのでございます。渡舟のお別れでもそのような気がいたしておりました。あなたの渡舟が上手にのぼってゆくのをみつめながら、これは永いお別れになるかも知れぬと、そんな気がいたして悲しゅうございました。それだのに、その不倖がみんな当っていまはあなたさまにこういう悲しい御在世であるかどうかさえ、疑わずにいられぬような物の終りをかんじるようになりました。あなたさまはまさかそんなことはないと考えましても、それをお尋ねしない訳にまいらなくなったのでございます。どうぞ、ゆめにでもお現れになりお健やかなお言葉を仰言ってくださいませ、それでなかったら筒井はどう考えていいかさえ、もう、分らなくなっているのでございます。ひと刻のゆめに、昼深いときのうつつにもお現れくださいませ、庭のさまよいにでも、厨にはたらいているときにでもただそのひと言をお漏らしくださいませ、声あらば声をとどかせ、たましいに生きのあるものなら、うつつに、ゆめに、そらごとのおもいに、早く早く、ひと刻も早くおしらせくださいませ、ああ、あなたは本統に生きていられるのでございますか、生きていられるなればなぜにお文おつかわしくださらないのでございますか、わたくしのこの思い、この声、この嘆き悲しみがとどいてゆかないのでしょうか、声よ、いのちよ、嘆きよ、早くあの方のもとに飛び立って行きわたくしの悲しみを知らせてたまれ、あせりにあせってどうにもならない焦燥のすべてを知らせてたまれ、人の一心のとどかずば止まざるものを今こそ知らせてたまれ。」
筒井はひとり激しく胸のなかでくり返し、くり返し呼びつづけるような思いであったが、そういう思いの後は酷い疲れがして、めまいのようなものが感じられてならなかった。その時、貞時は庭のなかの姿を見出すとふしぎそうに筒井の顔色を見直した。かつてない深い物思いが皮膚を澄ませ、物悲しい青みをふくませているからであった。貞時は手をあげてやや遠くにいる筒井を招き、筒井はうなずいて近よって行った。
「遠くからでもそう見えたが、どうも考えごとをしていられるな、考えても詮ないことは考えなさらぬ方がいい。」
「はい。」
「過去のことならなおのことでござる。」
「では貞時さま、おたずね申し上げますが、人は生きているあいだはゆめに死を感じるようなことがございますものでしょうか。」
「生きている人も死ぬ人も、ゆめではどうあらわれても分るものではない。」
「さようでございましょうか。」
「ただ生きている人はきっといつかは現われて来る。死んだ人はいつまで経っても現われて来るものではない、何かそういう人でもあるのか。」
「はい、友の身のうえのことを考えていたのでございます。」
「生きているならきっと訪ねてやって来ます。」
「…………。」
「その友もこちらに呼ばれるがいい、女ですか。」
「はい、女にございます。」
「そなたのような友を得てその人は倖せであろう。我らとてもそなたを友に得て毎日朝逢えるのが愉しくてならぬ。朝は夜中に待つほど遠い、遠いほど愉しい、天明とともに我友に逢えることは清い交わりではないか。」
「わたくしとても何気ない朝の麗わしさには、こころから嬉しくぞんじています。貞時さまのお咳のこえまで覚えましてございます。」
「毎朝そなたの生けかえる花を見て、その日の我らのよろこびとしている。父上のお部屋にも花を生けてくれるそうであるが、あらためてお礼を申す。母上、御在世のような安らかなお気持でござろう。」
「お褒めにあずかるほどのことではございませぬ。」
筒井は貞時と話しているときに何かはたらき甲斐のあるものを感じ、できるだけ毎日を愉しく美しく掃ききよめたいと、仕えの女の遊ばぬように心をくだいて、それぞれ整えるものを整え、纏めるものをきちんと纏めていた。貞時はあまりに筒井が頭をつかいすぎはしないか、暇もなくはたらいては手を傷めるようなことがないかと、それが気懸りだった。
「筒井殿、少しお憩みあれ。」
貞時はなにかを憂えるように、そう筒井を劬った。
「あとで憩ませていただきます。ただ今は筒井怠けていては皆さまの教えにはなりませぬ。」
まめまめしい彼女は手をやすめることがなかった。まだ若い貞時はときに可笑しいくらい少年のような細かい気づかいで、筒井が川べりに出て仕えの女らを指図しながらいるのを見て、茫々たる津の国にすさむ木枯を厭うていった。
「筒井殿、お顔が荒れはいたさぬか、かかる日に表の用足しはお止めになされい。」
「まあ、そのようなことを仰せになるものではございませぬ。」
木枯にいたんだ筒井の顔は、袿の裏絹をひるがえすように美しいくれないであった。美しすぎるのに貞時の心づかいがあったのだが、筒井は笑ってやはり止めなかった。
「暖かい方でなされい。」
「はい。」
そばに寄って来た貞時は、いかにも、世なれぬ無躾さで筒井に求めた。
「手をお見せ。」
「はい。」
「そのように荒れているではないか、手はたいせつになさい。」
「まあ。」
筒井はあわてて羞かしそうに、見詰められた手を引き込めた。引き込めたが、貞時は手の荒れだけを注意したにすぎないので、筒井自身は彼よりずっと心に何かさまざまな覚えのある女であることを知り、貞時の心のうるわしさをあらためて覚えた。
「では手はたいせつにつかうようにいたします。」
そういって、彼女はなんとなく笑い、貞時もなんとなく答えるように笑った。ふと、筒井は一たいこの手は何人の手であろうか、何人が触れてくる手であろうかと、心のずっと奥の方で彼女はこっそりと考えた。同じ思いは貞時にもあった。彼女の手の荒れや顔の荒れを怖れ、それを防ぐようにいう貞時はもはや筒井の手も顔も、そうしてその心も彼自身のもののように思われるからだった。その考えに間ちがいがあろうとは青年はかんがえなかった。
「筒井どの、いつかはお身の心まかせになるときがあるだろう、と思われぬか。」
「そのような考えをいいあらわすことは、わたくしとして控えなければならぬような気がいたします。」
「いや、そう言わるるな、この家も、我らも、庭も、そなたのものになるときを我らは望んでいる。父上も、そして妹も。」
筒井はなにもいうことがなく、近づいてくるものをいまは静かに見まもっていなければならず、それがどう展かれて来ても、筒井は胸をひろげてうけとるよりほかに、彼女のすることはなかった。人は運命を自分でひらいてゆくべきものだが、何と筒井自身はそとから多くの運命がひらかれ訪ずれて来ることであろう。
春が過ぎ夏がおとずれ、水郷の祭の宵であった。社詣りの戻りの女車がつづいて、いずれが筒井の車だか分らなかった。貞時はさがしようもなく幾つかの女車を遣り過したなかに、薄葉を籠のようにふくらがし、元の方を扉に結えた女車があった。薄葉の中にあまたの蛍が入れてあるらしく、そこだけ、青い灯火のような光が胎んで、明りにかわるようにしてあった。しかも、その扉のすきまからは匂うような顔がさしのぞいていて、仄かではあるが時々強い光を面に受けていた。貞時は、女車のそばによると、失礼ではござるがお尋ね申すと断りながらいった。
「筒井殿ではござらぬか。」
「はい。」
そう答えた彼女は扉をすこし開け、開けたときに病ましげな悩ましい蛍の光の明滅は、筒井の片頬をうかべ上げた。
「お分りでございましたか。」
「この通りの雑沓でよく見分けがつきかねて困っていたところ、薄葉の蛍でさてはと思い申した。」
「往きの道すがらとらえた蛍がこのように役に立たうとは思いもかけぬことでした。斯様いたしておけばお心づきかと存じていたのでございます。」
「よい思いつきであった。そなたでなければ思いいたらぬこと。」
「あまりの雑沓にて似も似た女車ばかりでございますもの、明りがそとからお見えになりまして?」
「片扉がそっくり浮きあがるほど明るく存じる。」
「このいたいけな光の虫をごらんあそばしませ。」
「なるほど、虫でもこういう美しいのもいるものだ。」
薄葉をひらいて見ると、十数疋の蛍は、月草の葉の上にとまり、静かに灯りをつぎつぎ点していた。しかも、今年の蛍は例年にくらべて、ゆたかにも大きく育っているらしかった。
「我ら蛍に手をふれたことも十年振りでござる。童の頃に宵々にはよく狩りに出たものだが、いつまでも童のようにしてはいられぬ。美事な蛍だ。」
薄葉のすきをのがれた一疋は、いかにも羽根のある虫らしく高慢にも、しずかに立って行った。飛びながらも明滅する光は、きれぎれに青い線を空に曳いて上った。それは、消えたり点れたりするものの美しさであった。
「今宵はもそっと蛍狩りをいたそうではないか。」
「そなたは蛍のいるところで車を駐めるよう。」
「わたくしとても絶えて蛍狩りなどいたしたことがございませぬ。蛍頃になればこの夏こそ思いをとどけようと考えましても、月日はいつも蛍におくれがちにございます。」
「そなたは蛍を好いてか。」
「蛍ほど美しいものはなくたらちねのころより心をよせております。」
「では存分に今宵は蛍とあそびたわむれ申そう。」
「嬉しゅう存じます。」
幾すじもある小川のほとりで車は駐められ、夜露に冴えた蛍火は眼も綾なるほど、草の上にあった。萩、桔梗、女郎花、りんどう、そういう夏と秋とに用意された草々には、まだ花は見られなかったが、その気はいは充分にあった。
「貞時様、これご覧じませ。」
薄の葉のうらにいる蛍を上の方から見ると、葉の緑を溶いて光る美しさは眼も青くそまるばかりであった。彼はこうして何のためか、何の音楽をかなでるつもりか、夏のひと夜を点れたり消えたりしているのだった。哀れといえばいとも哀れ、賑やかであるといえば、さわに賑やかだった。
「こういう衣裳はお身によくうつるであろうの。」
「衣裳があまり美しくてはわたくしのようなものでは、おかしくてなりませぬ。」
蛍は二つの薄葉の籠にほとんど一杯にとらえることができ、筒井のてのひらも蛍くさくなるほどだった。袖や履物も夜露にぬれ、筒井はちいさい嚏をしたほどだった。彼らはやっと更けた星を見上げた。
「筒井殿、もう二年も半ば過ぎたが、お身は見違えるようになられたぞ。」
「どのように見違えられますか。」
「美しくなられたと申すのだ。」
「戯れは仰せられますな。」
「嘘ではない他の人びともそう申している。こういう童のような遊びをすることもそなたがいられるからで我らあらためてお礼を申す。」
「いいえ。」
彼らは車をあとにして土手のうえを歩いて行ったが、筒井は直覚的に何か恐れに似た嬉しさが恟々として襲うて来ることを感じた。それは貞時が永い二年のあいだ筒井からの返事を待っていることであった。彼は彼と一緒に暮している安易さのためか、筒井から快い返事のあるまで、少しの乱れを見せずに彼は待っていた。
「筒井殿。」
「はい。」
「すぐ秋になり申す。そしてまた冬がおとずれて来ますの。」
「はい。」
「父上も早くそなたからお返事のあるのをお待ちのこと承知いたされるであろう。」
「はい。」
「間もなくでござるぞ。」
「はい、しばらくのご猶予をおねがい申します。」
「そなたは神仏に誓いを立てたと申されたな。」
「はい。」
「大祓いして解くことができるではないか。我らの倖せは神仏もご嘉納あらせられるであろうが……」
「いいえ、それは恐れ多くて筒井にはいたしかねまする。」
「ではいつまでも待つことにするぞ。」
「はい。」
女車は垂扉をあげ、筒井は腰をおろしてからも心は一杯であった。あれから二年まるで便りがない男にどうつなぎを結ぶ自分であろう、生死もわからぬ人をあくまで待ち抜くのが女の道であろうか、ともあれ、三年は静かにからだをまもらねばならず、それをそうしないということは筒井の心が済まされなかった。そして不思議に二年の半ばをすぎたいまは、男の呼吸づかいがしだいに筒井の身のまわりから、澪がしずまるように遠退きつつあった。そしてこれは詮ないことだった。男の何かに確乎とつかまっていようとする筒井には、妙に貞時の感覚とか印象とか親切さが日を趁うて加わり、解きがたいものになっていた。貞時の父は筒井を呼び改めて家族の一人として迎えたいといい、もう、精神的にも、情の深さからも、不倖な一家の事情からも、筒井は言い逃れはできないようになっていた。その心苦しいなかには、何か明るい望が前の方にあることも、まだ若い筒井の眼に見えずにいられなかった。人はこういう中に倖せを求むべきであろうか、人は倖せになるために生きるものであろうか、人は決して倖せを避けて通る者ではない、花を見ないで道を通ることはできない。
「筒井殿、夥しい蛍を見られい。」
前の車のなかから貞時がこう呼ばわり、筒井は垂扉をあげてあおぎ見た川べりの草の上に、一面に光る蛍がちりばめた銀の縫いのようにひらめいていた。ここは大川にそそぐ幅広い流れの裾だった。車は馳り景は細かく移るごとに、変った岸べの蛍が先刻見た光とはべつなあたらしい光を点じ、そしてその幾つかは舞い上っていた。
「まあ、美ごとな蛍にございます。」
「我ら蛍の中を馳ってゆくようなものにござるぞ。」
前の車のなかの声は弾むような元気さで、声一杯に叫んだ。
「蛍はあなたさまによう見られたさに舞い上っております。あなたさまを蛍は好いているでございましょう。」
あとの女車の中の声が穏やかにそう答えた。そして前の車の中のこえは一層大きく、一層気負った調子でいった。
「そなたも蛍にどこか似た方のように思われるぞ。」
「どこが似合いまして?」
「美しさが青い光のように見え申す、頬のいろも似ている。」
先の車の声は笑いふくんで呼ばわり、あとの女車の声もおなじ笑いをもらした声音だった。
「さよう仰せられても筒井はなびきませぬぞ、お心はとうにいただいてはいますけれど。」
「心をもらって外のものをもらわないということはない、貞時、一生かかってもそなたを逸らすことは毛毫ござらぬ。筒井どの、覚悟をされい。」
前の車の中の声は愉しげに歌うように叫んだ。
「覚悟はとうにいたしおります。」
あとの車の声はやや低く、しみじみと答えた。
「たしかに覚悟はいたされてか。」
「たしかに。」
二人の声はふっつりと切れた。静かに車は土手の草の上をさっさっと踏み分け、一層、静かなあたりに息づかいを洩らしていた。そして一旦切れた声音はふしぎに秘密をまもるように、再び続けられることがなく、野の道を馳って行った。飛び交う蛍の数がすくなくなり、川は道からしだいに遠のいて行くほどに、町がちかづいて見えた。
「筒井どの、なにか話されい。」
「みんな申し上げました。筒井、なにも、お話申すこととてもなくなりましてございます。」
また一頻り黙った刻がつづいたが、町にはいるには惜しいくらいの愉しさを、きゅうに言葉でそれを表わさなければならぬものが感じられた。おなじ思いは筒井の心にもあった。ふたたび来ないような愉しさをここで別れるには惜しかった。
「此宵の宮詣りは一生を通じて詣って来たようなものだ。お身と我らの倖せをことほぐためにも宜かった。」
「筒井も心はればれしく斯様な嬉しいことは今までに覚えませぬ。それにあの美しい蛍はよいおくりものでございました。」
「我ら蛍を忘れてはならぬ。そなたの爪もいまに蛍のように美しくともれることであろう。」
貞時はそういって筒井の爪が、どうかして光に勾配を見るときに蛍のような光を見せることに、思い至った。それだけを見とどけただけでも、この宵は愉しい一つの物語のようにひろがって振りかえられた。
三年めの正月が近づき、香料を袋に入れた薬玉が五色の糸で飾られ、柱から美しい造花にまもられて垂れた。元旦の宴には屠蘇、干鮑貝、干海鼠、丸餅の味噌汁などが、それぞれに用意され、祝日に忙しい歳暮が筒井の眼の前にあった。ことに今年の元旦はいつもより賑やかにも豊かな酒肴が、筒井のためにも心配られた。それは筒井が約した三年めの春が訪ずれ、筒井は神仏の誓をとく日だったからだった。筒井は師走の日をせめてもの心だよりとして男の便りを待ったが、例に依ってそれは虚しい彼女の心だのみに過ぎず、あと二日寝れば正月というのに、何のたよりもなかった。まる三年のあいだ心を砕いて待っていた気苦労も、何の足しにもならなかった。しかも、貞時一家はこの春に筒井を迎えるために万端の華々しい用意に怠りないのを見ると、筒井は三年も便りがないとはいえかつて夫を持っていた身分を隠して貞時に従くことの心苦しさよりも、そんな明白な嘘はつけるものではなかった。といってそれを貞時にすなおに話するには、あまりに貞時の絶望を大きくするものだった。そんな話をきかしても貞時は許してくれるであろうが、筒井は人の心を酷たらしく悲しがらせることは、いままでに仕えた筒井として出来ないことだった。筒井はきょう一日、あともう一日というふうに詰ってゆく年の瀬に一片の便りを待つ気持でいたが、生死も定かならぬ人の便りなぞあるはずがなかった。もう凡てが終りだった。人の情けを偽ることのできない彼女は、元旦の前の日、朝早く裏戸からひそかに貞時の家を出て行った。それより外に道をえらぶべくもない彼女は、まだみんなが寝んでいるあいだ、正月の飾りにまもられた恩愛の家の閾に別れた。
裏戸口にもう白みを見せている梅の木の下で、寒そうに肩をすぼめた筒井は心の中でそっと呟いて、親切な貞時親子、同輩にわかれた。
「皆さまのお心づくしは筒井、生涯お忘れはいたしませぬ。それをそのままお受けするほど筒井の心はくさってはおりませぬ、なにとぞ、筒井がまいりませぬ以前のように静かにおくらし下さいませ。恩愛にそむく罪はあるいは後の日のわたくしのさだめを暗くするかも存じませんが、その折には、よろこんで恩知らずのつみを負う考えにございます。なにとぞ、よき初春をお迎えくださいますよう、皆さまによき倖せがおとずれますよう。」
筒井はかくてこの家を去った。
そしてかねて彼女が知り合った二里はなれた宮腹という村のおさの家に、彼女は突然あらわれて、仕えの女として忙しい大晦日をはたらくことになった。宮腹にも主人の妻はみまかり、その娘一人は唖で物がいえず、弟は年若であったが父をたすけて家事にいそしんでいた。ここにも家族の不倖と冷たさは筒井の心を悲しがらせ、彼女はさびしく笑い、多く働いてそれを紛らせながら、作るものは温かく品高い蒸物などに皆を喜ばした。家の中は正月半ばになると見ちがえるほど清く美しくなって行った。筒井自身はときどき箒を持ったまま襖に対って、じっと、或る考えごとにとらわれ、はっとして仕事にかかることがたびたびだった。水郷の貞時の家、そしてきらびやかな正月の宴も、筒井が去っては催物の数々が控えられたことであろう、しんせつな父君、額の若い貞時に永い三年を待たせたことなど、自分は何という大きなうそをついていたことであろう、筒井は終日、鬱々としてそれらの愉しかった水郷の家のことが、心におおいかかって来てならなかった。
哀れな唖の娘は筒井を慕い、筒井は彼女をできるだけ明るくみちびいて行った。唖の娘の言葉は筒井にははじめのほどは分らなかったが、しだいにその表情で解るようになった。彼女はただ終日、あああ……というだけだった。その言葉をよみ分けるために筒井は小鳥の餌をすってあたえてから、この唖の娘の頬になみだのあとがのこった。彼女のほしいものも分り、弟を呼ぶときの調子が解れば弟を呼ぶのであった。弟は美しい水々しい紅頬の少年だった。彼は筒井を好いて、筒井のあとばかりを趁うて慕った。父という人は筒井を娘のように愛し、おなじ物をあたえ、おなじ食べもので劬り時々ふしぎそうに筒井にたずねた。
「あなたのような人がわれらの家ではたらいて下さるということは、まるでゆめを見ているようなものじゃ、あなたは何処から見えられたのか。」
「少し事情がありますので御厄介になったのでございます。おたずね下さらなければ嬉しゅうございます。」
筒井は淑やかにこれ以上たずねてくれるなという、柔らかい印象をあたえた。父という人は自らの無躾を詫びるように、やさしくいった。
「お訊きしてわるければ申しますまい、どうか我が家に永くとどまって不倖な姉弟をすくってやって下さい、まるであなたは誰か貴い人からつかわされたような方じゃ、あなたのお顔をはじめて見たときからこの人を永い間待っていたのだ、そしてやっと姉弟を救ってくれる人にめぐり会ったのだと思ったほどでござる。」
筒井は黙って悲しく父として老いた人が額ずいて語るようなその言葉を聞いていた。永い間彼女は父を思うひまがなかったが、いま急に彼女はやさしかった父の顔を眼の前に見るような気がした。御年もおなじくらいではなかったろうか。
「わたくしは父母とも失いまして身寄りないものでございますから、永くおつかい下さいませ。」
「それは悲しいお話、われら父ともなっておつきあい申したい。」
「ありがとうございます。」
「おいくつになられる。」
「二十三にございます。」
「御婚儀は?」
「はい。」
筒井はうつむいてそれには明らさまな返事ができず、黙ったままでいるより外はなかった。
「いや、これは失礼なおたずねを致した。気にかけられるな。」
「いいえ、ただ悲しいことを避けながらいつもそれに趁われている女にございます。」
「いや、かならずお身のような方には、いまに倖せが、おとずれるでござろう。」
衣を縫うていれば傍えに来て、姉弟が坐り、立って庭に行けば弟は庭の木々の名をもの語り、秋に実るものがあればその美しい果実の色までを話した。そしてそういう秋までには梅、一位、杏、桃が間もない春には、いかに美しく暖かに咲き出るかということを少年は解いた。彼自身も好きらしい木々へのこまかい観察がふくまれていて、こういう少年こそ和歌のみちをとけば、和歌をものするようになるであろうと筒井は姉弟にひまあれば和歌のみちをといて聞かせた。果して少年は和歌をつくることを覚え、才もおのずから豊かな冴えを見せていた。物の見方のこまかいことが筒井にはたのもしい将来を見せていた。
間もなくめぐり来た春は宮腹の家や庭をあかるくし、花は一どきに勢いを得て開いたが、筒井にあるはずの便りは依然なかった。筒井は男を怨むとか薄情者であるとかいう観念を持たず、ただ健やかであれと思うほかは淡い気持であった。こうも心からうすれてゆくものかと思うほど、遠い人だった。きゅうにその顔を念じて浮べようとするほど、もう顔の感じがまとまって思い出せなかった。筒井は、こういう自分の心持を男に引きくらべ、男の頭にも自分の顔かたちがこんなふうに薄れて行っているのであろうと、やはり水のような気持でしか考えられなかった。
或る悩ましく花の蒸れるような夕方、姉弟が来て筒井に告げた。それはこの一と週りのあいだ、毎日のように邸をうかがう男がいるとのことだった。筒井はそれを一度も眼にしたことはなかったが、その言葉にはあらたまった驚きで、とうとう彼の方が見えたのだ、あの方はあの日から自分を尋ね歩いてとうとう此処までお見えになったのだ、あの方でなければできない尋ね方なのだ、あの方が見えたのだ、わたくしを尋ね、かつて捨てられたわたくしを拾いに見えたのだ。だが、わたくしはお逢いしていいのだろうか、お逢いするほどわたくしは厚顔しい女であろうか。わたくしはもうお逢いしたい、お逢いすることによって凡てを委ね凡てを忘れたいのだ。
「きょうもお見えになっておられます。」
弟は狩衣をつけた若い人だといった。もしやと思ったが気色にはあらわさなかった。
「何かお訊きになりませんでしたか。」
「物問いたげだったから引き返してしまったの。」
筒井はもう猶予できずに姉弟に家にはいるようにいい、とり急いで塗籠の階上にのぼって行った。その重い埃の深い扉を開けると、門前一帯が見迥かされた。門の扉のうしろに立った狩衣に烏帽子姿は、違わぬ貞時だった。
「あの方に違いなかった。もう誰にも遠慮なくお逢いしよう、進んでお逢いしなければならぬ。わたくしを捜り出された方だ。隠れて外にも出なかったわたくしを、神仏のちからさえ及ばぬこの家から尋ね出されたのだ。貞時さま、こちらにお向きあそばすよう。」
筒井は扉にしっかり掴まり少時うごかなかった。貞時はそれを知らず、筒井は急いで塗籠から下りて行った。そしてその時筒井は静かにしていられぬほど、誰かが吩咐けるように、逢えよ、逢うのはお前の礼儀でもあり、そしてかつて無断でその家を出た詫びでもあるのだ。逢えよ、逢えよ、逢いたがっているのは貞時と同じ気持ではないかと、ふしぎなちからを抑えることができなかった。
筒井はしずかに片扉をひらいて、貞時の前に深く頭を垂れた。
「ああ、筒井殿、やはり此処にいられたのか。」
「はい、あれからずっと御厄介になっています。」
「でも、よく逢ってくだされた。」
「ただ恐れ入るばかりでございます。前からお通いのこともやっときょう承り御無礼ばかりいたしました。あれほどたいせつにしていただいたのに恩愛を知らぬ女にございます。」
「それには我ら永い間考え侘びていたところ、見かけるところ以前よりも美しくなられた。」
「こちらでも、よくしていただき喜んでおります。」
「よい人の住む家に適しているところのようだね。」
貞時は風致よろしき庭をひとまわり眺めやった。凡てが主人の好みが出ていて、その好みは築庭の奥をきわめているようであった。だが、表で話をすることはできず、彼女は公に主人に話をするあいだ庭の片すみの暇を乞うたのであった。
「どうぞお奥までおはいり下さいませ。」
筒井はわるびれもしなければ前に見たとおりの親しい言葉つきであった。意外のあつかいに駭いた貞時はかえって躊躇い、顔をそめながらいった。
「我ら他人の庭にはいってはどうかと思うが。」
「いえ、お許しを得てまいったのでございます。」
筒井は息もつかずに詫びた。「その折、あまりのおなさけ深く身に余りまして無断で立ち去りましておわびの致しようもございませぬ。」と筒井は面をぬらして沁々いった。これらの言葉はいつかはいわねばならぬときがあると考えていたが、その日はとうとう遣って来たのであった。
貞時はほかには何もいわず、ただ、ひとつの言葉だけを勁く、迷うことなく答えるようにといった。
「我が家におかえり下さらぬか。我が家はそなたの家も同様なのだ。もう情実は負わなくともいい、潔くお越しあれ。」
「ありがとうぞんじます。」
「すぐに支度してまいられい、父上のお喜びはいかばかりであろう。」
「何とお詫び申し上げていいか、筒井、恐ろしゅうございます。」
貞時は急きこんでこの家の主人によく事情を話して、すぐに只今から同伴するようにいった。然らずばなかなかこの家にもそなたを調宝がって離すまいといった。
「わたくしは只今からでも参りたいのでございますが、今まで御厄介になっていて諸々のしごとの後片付をしないで出ましては気持が悪うございます。」
筒井はこの家の主人にもつれあいが亡くなっていること、娘はあわれな唖のこと、弟と三人暮しのこと、そして筒井が家事一切を承ってそれを整理していること、一家から厚くもてなされていることを話して、筒井は十日間の猶予を乞うた。
「それまでに主人にあなたさまのこともお話する考えでございます。そうでなかったらお暇はなかなか戴かれないかも存じません。」
「きっと十日の後に我ら迎えに上り申すぞ、よもや、こんどは隠れなぞなさらぬであろうな。」
「かならず参ります。それについてお話して置きたいことがございます。これの御承引がなければ筒井はまいれないかも知れませぬ。」
筒井の顔はあらたまった悲しいゆがみを見せたほど、重い心苦しい問題であるらしかった。その問題をとかねばならぬ決心はかえって筒井を異様な青みのある美しさをたたえさせたくらいだった。
「では、それを話されい。」
貞時もなにやらとうに決心しているふうだった。
「わたくしは夫を持ったことのある女にございます。お隠しして申しわけがございませんが。」
「それはなんとなく存じていた。そして只今はどうなのか。」
貞時はすこしも驚かなかった。むしろそれを聞いた方が心がやすまるふうであった。筒井は夫が消息を絶ってから永い間便りのないことを話し、その便りだけをめあてに生きていたのだといい、貞時の家を出たのもそのためだった。
「それで何年くらい便りが絶えていられるのか。」
「三年と四月にございます。」
「三年と四月。」
貞時の顔にはなにか怒りのようなものが鋭くあらわれて消えた。三年のあいだ消息を絶っては人はもはやあたらしく婚家のうたげに列なってもいいことに平安朝のしきたりはなっていた。
「そのあいだただの一度も便りがなかったのか。」
「はい、永い春秋はただわたくしには永い永いものでございました。しかしわたくしはそれを待ちぬいていたのでございます。」
筒井は三年が四年になるか四年が五年になっているように遥かな昔におもえた。そしてその頃と何か世界が変っていて筒井自身も変っているように思われた。
「そなたはその御仁が生きていられるとお思いか。」
「生きていられるように思われます。生きていられるから消息がないのだと考えられます。」
「訪ねて見えると思わるるか。」
貞時のこの尋ね方には、行きづまりがあり、筒井にそれをひらいてもらいたい気持がかくされていた。
「きっと一度だけは何時の日かに見えるような気がいたします。」
「その時は何と仰せられるか。」
「その折はその折にございます。お逢いできなければそのままで彼の方をおかえし申します。」
「それを聞いて我ら安堵のおもいがした。それにしてもそなたは永い間怺えていられた。その永い間怺えていられたことだけでも、その人はそなたの倖せを願われるであろう、貞時、そなたのような女の人ははじめて知り申した。」
その時、宮腹の主人は遠慮深げではあったが、二人の前にあらわれ、筒井は極めて落着いたこなしで貞時を紹介し、そしてあらためていった。
「迎えにまいられたのでございます。いままで何ごとも申上げずお許しくださいますよう。」
「なるほど。」
宮腹の主人は貞時を見て、はじめて筒井が秘めていた事情を諒解したのであった。貞時の風貌は宮腹の主人の反感を呼ぶような種類のものではなく、きわめて善良な好印象をあたえた。
「お庭先にて無礼の段、おゆるしあるよう。」
「せめて簀の子まで近寄られい、お父上とは御昵懇なものでござる。」
「それははじめて承ります。」
貞時は自分の父を知る主人を見直して、あたたかさを感じた。
「近年おあい申さぬが、お父上も、わしもみなつれあいを亡くし、かなしいともがらでござる。」
筒井もこと偶然ではあったが、父同士の知り合いには、くすしき縁を感じざるをえなかった。彼らは簀の子にあつまり、梅花の匂いをこもらせた白湯を味った。貞時はなんとなくいった。
「いずれ申し上げる折もござろうが、実は筒井どのとは父も許してくだされた仲であったが、筒井どのの謙遜から身をひかれたわけにて、なにとぞ、おいとまたまわるよう願わしく存じます。」
「さような訳なら何でおとどめ申そう、いや、筒井どのが見えられてから我が一家は蘇生の思いが致しておりました。」
筒井は頭を垂れ、どこに行っても大切にされる自分にどこがそれほどの人格があるのか分らなかった。そして自分が去ればあとに残った人の心をさびしくする、……そういうことにも徳のない自分を感じた。徳のある自分になろうとすれば、生活を投げ出さなければならなかった。
「すぐに筒井どのは行かれるか。」
「いいえ、愉しき十日間ほど御娘子様、弟様にたてまつり、家の中をととのえ、お許しの出る日を待ちとうございます。」
「ああ、よく申された、愉しき十日あまりとはよく申された。」
宮腹の主人は筒井の手をとらんばかりに、その言葉を喜んで受けとり、いますぐ行かれてはこまるともいった。
「貞時さまにまいっても時々はお家のこともおてつだい申し上げたく思います、貞時さま、この儀いまからおねがいいたしておきたく存じます。」
「それでこそまことの女の道、貞時よろこんで承認します。」
そのとき宮腹の主人は愉しく笑いをふくんで、自分の愛児にあたえる言葉のようにいった。
「お二人の宴にはわしもお祝いにあがってもいいかの。」
「枉げてお招きを受とりくださるように只今からおねがいいたします。」
「ありがとう、われらの娘もともに宴につらなるでござろう。」
間もなく十日を約して貞時はいそいそとして門前に出て行き、筒井と宮腹親子が見送るのであった。
「きょうはよい吉日であった。」
あとで宮腹の主人はいった。
「よくその日まで気をつけていてくださるよう。」
主人はあまり仕事に熱心になりつかれてはならぬと言い添え、筒井は頭をさげて善い人ばかりいる世界を感じた。どこに行っても、筒井は悪い人を見ることがなかった。四年近くも便りのない人にも、筒井はそれを責めるには余りにも心は平明であり、しあわせであった。その夜、彼女は黄金のみ仏を抱いてそれにのみ心をささげ、おん慈しみを乞うのであった。み仏は筒井の肌にあたためられ、殆ど、冷たくなっている日とてはなかった。
「み仏よ、あなたさまをおまもりする日はもはや生涯をこめてのことでございます。あなたさまより外には、もはやお待ちいたしませぬ。みやこに去られた方も、あなたさまのなかに秘められてあるという、愚鈍なわたくしの考えをお憐れみくださいませ。あなたさまより外には筒井のまもるべき方もございませぬ、そしてあたらしい彼の方も加えて永くおまもりくださいませ。なにとぞ、人間のさだめない宿命の汚れをおいとい下さいませぬよう。」
夜はあたたかいほど外は晴れているらしく、水辺を去るみず鳥のこえが絶え間なく北方につづいて起っていた。それは春が来る前のしらせのようなものであった。筒井はふと眼をすえてもう便りの絶えた男に、何かいわなければならぬものをも感じた。
「もうお便りがなくなってから四年にもなります。そして筒井はお便りをいただこうにも、いただきようがなくなりかけています。筒井もまだ生きねばならず、どうぞ筒井を生かしてくださいませ、四年というものあなたさまをお待ちするために生きましたけれど、それは反古同様ないのちのつなぎでございました。あとの何年かはわたくし自身のために生きてゆかなければなりません、そしてわたくしによって更に生きてゆこうとする老いた人と、その御子息さまとに望を絶えさせることはわたくしには出来かねます、ちからを藉してもろともに生きてゆかねばならないのでございます。これもお許しくださいませ、そして何処にいらせられてももはやわたくしのことはお忘れあるよう、お尋ねくださらないように念じ上げとうぞんじます。わたくしはあなたさまを忘れるために努め、あなたさまなきように心できめようとするほど、まだあなたさまに悩まされていて悲しゅうございます。ともあれ、いまは何よりも永いお別れをいたしとうぞんじます、それだけがわたくしのこらえ怺えて来たあとに、やっと分ったことのそのひとつでございます。」
「わたくしどもがはじめ別れて勤めおうたのが、みんな間違うて行ったはじまりのように思われます。人はもろともに暮していたはずのものが別れてはたらき、別れて行き逢うということがもう悲しみのはじめに思われます。大人のような考えをおたがいに持ち合っていたようなのも、ここまで来て見ればあれはみな子供のそら考えとしか思われません、子供の考えごとがわたくしどもをたいへんに不幸にさせ、もし仮に他の人であったら現今のわたくしのような善い人たちにかこまれることもなく、かなしい憂目を見たかも分りません。ともあれ、わたくしは仕合せでございます。仕合せのままお別れすることはきょうの何よりの喜びにございます。わたくしにさえ仕合せがあるくらいでございますから、あなたさまにもその仕合せの翼が間もなくあなたをかき抱いてくれることは疑いませぬ。かならずあなたさまも愁いの眉をおひらきになるときがあると思います。」
「さよならきのうのひとよ、かつてわたくしの中にあった大きい信仰のような人よ、わたくしは今宵こそしめやかにおわかれの言葉をさしあげる時を得ました。あなたさまのみ仏は、筒井は永くおもりをいたしたい考えにございます。何よりも世界でもっとも大切なものにおまもりいたします。では、つつがなくおすごし下さいませ、わたくしごときを決しておもい出してくださらないように終りにおねがいいたします。あなたさまは大変によい方であらせられましたが、いまもなおいい方であり善いお心を持っていられる方であることを疑うものではございませぬ、どうぞ、またなき幸いのうちにお暮しくださいませ。」
筒井はこういう祷のような言葉を頭にうかべているあいだに、男はずっと遠のいてゆき殆どその顔も見えないところにいるように感じ出した。そしてやっと筒井はやすらかさを胸におぼえた。
十日あまりの日はまたたく間に過ぎた。そしていま一日、もう一日と停められているあいだに、筒井は気が気でないようなあせった気持になった。哀れな唖の娘は終日彼女のそばを離れず、弟も同様はなれなかった。唖の娘はさまざまな海の貝、衣裳の断ちぎれ、造花を筒井におくり、宮腹の主人は紅梅色の襲を生きがたみとして贈り、亡妻のこまごまとした女物を筒井にあたえた。別れを惜しむための家だけの宴がもよおされ、春の菜のあつものにさびしい一夜を送った。
そのあいだに貞時は二度尋ねて来たが、この不倖な家からすぐにも筒井を引き出すことが出来なかった。彼自身の幸福のために、あまりにも人を悲しがらせたくはなく、むしろ、快くあと二日くらいはとどまることを彼自身から申し出たほどであった。二度目のときはすでに十日を過ぎていて、貞時自身も一刻も早く筒井のそばにいたかった。彼は主人が座を立ったあとで、せき込んだ悲しい掠れた声音になっていった。
「我ら何事も手につかぬほど待ち申しているほどに、一日もはやく来て下され。」
「わたくしももう参りたくはぞんじていますけれど、いま一日お待ちくださいませ。」
貞時が去った後二日、やっと筒井は宮腹の家に別れを告げた。この家にとどまっていたことも偶然ではあったが、この偶然ははなはだ筒井にとって明るい春秋がおくられ、そして此処にいたために貞時に逢えたようなものであった。
宮腹親子は門前に出て迎えの女車に乗った筒井に、こういう善い人たちが生きている世の安らかさを再び感じたほど、ふしぎに感動したのであった。
「かならず吉日にはたずねて見えられい、我らその日をお待ちする。」
主人がそういえば唖の娘は、ただ、声をあげて別れを惜しんだ。
「ではお別れいたします。」
筒井は人情というものの重たさを背負いきれない気持であった。女はみなそんなものかも知れないが、筒井の生涯の半ばもそれの続きだった。彼女は愛せらるために身も心も重く、そしてそれに離れるために苦しまねばならなかった。それにしても筒井の知った人びとは、どの人もみな不幸と悲哀を言い合わしたように持っていた。或る意味でどの人にも多少の不幸がくい込んで離れないのかも知れない、筒井のくるしみなぞは物の数であろうかと思ったが、彼女はその三年四ヶ月の永い歳月は一生の半ばをついやしたように永いものに思われた。
暖かい春の昼頃であった。筒井がもどって来てから急に明るくなった水辺の家では、いよいよ筒井と貞時の婚宴の日が迫ると、家の中、庭の内そとがあらためられ、塵一つのこさずに掃き清められた。貞時は筒井の長い髪を見ていった。
「とうとう今宵という日が来たね。永い間ではあったがきょうになって見るとそれほど永いとは思わない。」
筒井はだまって領いて見せた。この四年のあいだに女としてまもるものを守った彼女は、なにか苦行を終えた後のような身の軽さが感じられた。いまになって見ると何の為に永い間はたらいてばかりいたか、徒事にすぎないことに思われた。人は徒らに無駄な歳月を経てから、或る頂に辿りつくものらしく、そうなると役なき歳月もまた頂に達する日のために、用意された苦行としか思われなかった。
「永いゆめでございました。なにも彼も、あまりに遠い日のことに思われてなりませぬ。」
「そなたは誰でもできないことをなされた。そのよい償いは我らがつかまつるようになるであろう、まるできょうの日のためにそなたは苦労されたようなものだ。」
「それは勿体のうございます。わたくしはやはりあれだけのことをしていなければならぬように、約束されていたのでございます。それゆえにきょうの身心の軽さは生れかわったように思われます。」
「間もなく日がくれると変った夜がおとずれて来る……」
筒井は赧くなってうつ向いた。梅の梢にきょうの夕陽はひとしきり華やいで間もなく、日ぐれがいきなりやって来て暗くなるのであろう、西、東の対にはや灯火がともれはじめた。
「では今宵にさいわいあれ。」
貞時が去り、筒井はくらみかけた庭先を去ることをせず、まだ明るみを持つ雲の色を見つめていた。変ることに迅く、形を消すに早い夕雲は間もなく鼠色のひと色にとざされてしまった。だが、まだ筒井は気のせいか庭戸から離れようとしなかった。その時、築地の外に落葉をふみ分ける音らしいものがしたが、筒井は気にしなかった。しかし音はなおつづいてそれが人の跫音であることを知った。こういう日暮に誰人の跫音であろうと、筒井ははじめて注意を向けた。跫音は裏戸のあたりで停ったらしく、何となくその方に眼をとどめた。その折、低い声音を忍んで二声ばかり聞え、その声は実に遠い記憶に応えのある声だった。
「筒井、筒井、」
筒井は愕然として髪の根を釣られるような緊迫した一瞬の中にあった。名前はふたたび呼ばれた。その時、ふたたび駭きに憑かれた筒井はその声のぬしが、四年前に別れた男であることをもはやうたがうことが出来なかった。とうとう戻って見えられた。しかも今宵という日に、漂然ともどって見えられた。しかも生きていられ健やかであった。これは一体どうしたことであろう──筒井は、からだを小さくできるだけ小さくし、呼吸を呑みこんでなおうかがうように裏戸の方を見すえていた。
「筒井、ただいま戻って来た、お会い申したい。」
男の声はむかしとは渝りのないものであったが、筒井はすぐに答えることの軽卒さを身に感じた。それにしても今宵とは誰のいたずらであろう。筒井は悲しい怒りさえかんじ、眼をうら戸から離さなかった。そして彼女は畳紙にさらさらと書きくだして、それを自分で持って行くべきか、仕えの女に持たせようかと考えているあいだにも、そとの声はつづいた。
「この戸を開けたまえ。」
ついに筒井は裏戸の方に行こうとしたが、きゅうに会うべきでないことを知った。彼女は仕えの女を呼んだ。仕えの女に彼女は裏戸にいる男を教えた。
「これをあの方にたてまつるよう、ほかのことは承ってはなりませぬ。ただこれだけを差し上げるように。」
筒井は畳紙にしるした一首の和歌を仕えの女に手渡した。
「はい。」
仕えの女は裏戸に向いて去った。
あらたまの年の三年を待ちわびて
ただ今宵こそにひまくらすれ
仕えの女はしばらく裏戸から去らずに、何かを待っているふうだった。筒井は固い唾を呑み身じろぎもせずに立っていた。仕えの女はもどって来ていった。
「これをと仰せられました。」
筒井は早書きにした紙片にしるされた文字をなつかしく読みくだした。落着いた心をそのまま述べたような和歌だった。そしてそれは男が謙遜にもできるだけ広い愛を持ち、その愛情を示すことにより、一層、筒井を愛したような迫ったものさえうかがわれた。
あづさ弓ま弓つき弓としを経て
わがせしがごとうるはしみせよ
「わがせしがごとうるはしみせよ」こういうお気持でいられたのか、自分にしたように貞時さまに尽すようにとのお言葉であった。これはありがたい言葉であった。
「あづさ弓ま弓つき弓……」こうも弓にも品々あるほど、我も苦労したといわれている、便りのなかったのは苦労が多く、身を起すひまさえなかったのではなかろうか、それゆえにこそ逢いに津の国に下らなかったにちがいない、それは筒井はまるで知らなかったことだ。やはり彼方はよい人であった。いまになってもよい心を失さずにいられるではないか。筒井は頬をぬらしながらなお一首をものし、何度もよみ返して、さて、さめざめといった。
「これをお渡しあるよう、筒井はいいあらわせないお礼を申しているとおつたいくだされ。」
あづさ弓ひけどひかねど昔より
こころは君によりにしものを
そしてなお、しばらくじっとしている間に仕えの女はもどり、よろしく仕合せにつくよう仰せられ、こちら向きになり拝して去られましたといった。筒井はたえかねて自ら裏戸に走り出て見たが、夕はもはや夜を継いで道のべ裏戸近くに人かげはなく、暖かい夜の夕靄さえそぞろに下りていた。
「おすこやかにおわしませ。」
筒井は誰に行うとなく頭をさげて拝した。なぜにもっと早くにもどって来てくださらなかったのかと、筒井はものの終りへささげる言葉を心につぶやいた。
底本:「犀星王朝小品集」岩波文庫、岩波書店
1984(昭和59)年3月16日第1刷発行
2001(平成13)年1月16日第6刷発行
底本の親本:「室生犀星全王朝物語 上」作品社
1982(昭和57)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「津の国人」となっています。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2014年3月7日作成
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