日の出
国木田独歩
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某法學士洋行の送別會が芝山内の紅葉館に開かれ、會の散じたのは夜の八時頃でもあらうか。其崩が七八名、京橋區彌左衞門町の同好倶樂部に落合つたことがある。
小介川文學士が伴ふて來た一人の男を除いては皆な此倶樂部の會員で、其の一人はオックスホード大學の出身、其一人はハーバード大學の出身など、皆なそれ〴〵の肩書を持て居る年少氣鋭、前途有望といふ連中ばかり。卓を圍んでてんでに吐き出す氣焔の猛烈なるは言ふまでもないことで、政論あり、人物評あり、經濟策あり、時に神學の議論まで現はれて一しきりはシガーの煙を熢々濛々たる中に六七の人面が隱見出沒して、甲走つた肉聲の幾種が一高一低、縱横に入り亂れ、これに伴ふ音樂はドスンと卓を打つ音、ゴト〳〵と床を蹶る音、そして折り〳〵冬の街を吹き荒す北風の窓ガラスを掠める響である。時々使童が出入して淡泊の食品、勁烈の飮料を持運んで居た。ストーブは熾に燃えて居る──
『貴殿は何處の御出身ですか』と突然高等商業出身の某、今は或會社に出て重役の覺目出度き一人の男が小介川文學士の隣に坐つて居る新來の客に問ひかけた。勝手な氣焔もやゝ吐き疲ぶれた頃で、蓋し話頭を轉じて少し舌の爛れを癒さうといふ積りらしい。人々も同意と見えて一時に口を閉たけれど、其中の二三人は別に此問に氣を止めず、ソフアに身を埋めてダラリと手を兩脇に垂れ、天井を眺めて眼を細くして居る者もあれば、シガーをパク〳〵ふかして居る者もある。一人は毒瓦斯を拔くべく起つて窓を少し開けた。餘の人々は新來の客に目を注いだ。
『僕ですか、僕は』と言ひ澱んだ男は年の頃二十七八、面長な顏は淺黒く、鼻下に濃き八字髭あり、人々の洋服なるに引違へて羽織袴といふ衣裝、今は都下で最も有力なる某新聞の經濟部主任記者たり、次の總選擧には某黨より推れて議員候補者たるべき人物、兒玉進五とて小介川文學士は既に人々に紹介したのである。
兒玉は先程來、多く口を開かず、微笑して人々の氣焔を聽て居たが、今突然出身の學校を問はれたので、一寸口を開き得なかつたのである。
『僕の出た學校をお尋ねになるのですか。』と兒玉は語を續うとして、更に斯う問ふた。
『さうです。君の出られた學校です。三田ですか、早稻田ですか。』と高等商業の紳士は此二者を出じといふ面持で問ふた。
『違ひます』と兒玉は微笑した。
『オオさうですか。何處です。』
『大島學校です。』
『大島學校? 聞たことのない學校ですな、お國の學校ですか。』
『さうです、故郷の小學校です、私立小學です』と言つた時の兒玉の顏は眞面目であつたけれど、人々は笑ひ出した。
『戲談を言つては困ります。だから新聞記者は人が惡い。人が眞面目で聞くのに。』と高商紳士は短くなつたシガーをストーブに投げ込んだ。
『僕も眞面目で答へたのです。全く僕は大島小學校の出身です。故意と奇妙な答をして諸君を驚かす積は決して持ないので。これまでも僕は出身の學校を聞れましたが。初から答へない時もあり、答へる時は何時此の答をするのです。』
『さうすると貴殿は小學校以外の教育はお受にならんかつたのですか。と申すと失敬ですが其以外の學校にはお入にならなかつたのですか』とソフアに掛けて居たオックスフオード出身の紳士が身を起して聞いた。其口元には何となく嘲笑の色を浮べて居る。
『さうです、僕はオックスフオードにもハーバードにも帝國大學にも早稻田にも三田にも高等商業學校にも居たことは無いのです。たゞ故郷の大島小學校を出たばかりです。斯う申すと、諸君は妙にお取になるかも知れませんが、僕はこれでも窃かに大島小學校出身といふことを誇つて居るのです。又た心から感謝して居るので御座います。僕は不幸にして外國に留學することも出來ず、大學に入ることも出來ず、ですから僕の教育、所謂教育なるものは不完全なものでしよう。
けれども尚ほ僕は大島小學校の出身なることを、諸君の如き立派な肩書を持て居らるる中で公言して少も恥ず、寧ろ誇つて吹聽したくなるのです。
問はれなければ默つて居ます。問はれても言ふて益なき仲間に向つては默つて居ます。けれども諸君の如き教育高き紳士に問はれては實に眞面目に僕は大島小學校の出身といふことを公言するのです。
早稻田を出たものは早稻田を愛し。大學を出たものは大學を愛するのは當然で、諸君も必ず其出身の學校を愛し且つ誇らるゝでしよう。其如く僕は故郷の大島小學校を愛し且つ其出身たることを誇るのです。』
『そうです、僕も故郷の小學校を愛します。』と言つたのはハーバード出身の紳士。
『そして誇りますか。そして其出身たることを感謝しますか』と問ひ返へした兒玉の口調はやゝ激して居た。
『さうです。』
『何故ですか』と問ふた兒玉の眼は輝いた。
『イヤそう眞面目に問はれては困る。僕は小兒の時を回想して當時の學校を懷しく思ふだけの意味で言つたのです』とハーバードは罪のない微笑を浮べて言譯した。
『解りました。それだけの意味なら解りました。けれども貴殿がそういふことを申されるのも要之、僕が一の小さな小學校の出身であることを誇るとか、感謝するとか言ふのは、矯激の言を弄して自ら欺むき又自ら快とする者のやうに取つて居らるゝからだらうと思ひます。しかし、僕は決してさういふ輕薄な心を以て言ふのではないのです。若し諸君の中、僕と同じく大島小學校に居られた方が有たなら、矢張僕と同じやうな情を持れるだらうと信じます。
大島小學校に居たものが、今東京に三人居ます。これが僕の同窓です。此三人が集まる會が僕等の同窓會です。其一人は三田を卒業して今は郵船會社に出て居ます。其一人は法學士となつて今は東京地方裁判所の判事をして居ます。けれども彼等二人は僕と同じく大島小學校出身なることを今でも僕と同じやうに誇り且つ感謝して居るのです。そして僕等は月に一度同窓會を開いて一夕を最も清く、最も樂しく語り且つ遊ぶのです。』
兒玉の言々句々、肺腑より出で、其顏には熱誠の色動いて居るのを見て、人々は流石に耳を傾むけて謹聽するやうになつた。
オックスホード出身の紳士は年長者だけに分ても兒玉の言ふ處に感じた體で。
『それほどに言はれますからには、其大島小學校とやらいふ學校には何か特種の事があつて、貴殿の心をそれほどまでに動かして居るのだらうと思はれます。それをお話し下さいませんか。ね、諸君、それを聞かして戴だかうではないか。』
『さうとも、兒玉さん僕の言つたことはお氣に觸らんやうに願ひます。何卒その大島小學校のことを話して貰ひたいものです』とハーバードは前言のお謝罪にオックスホードに贊成した。
『諸君がお聽下さるなら申します、強ては申しません。餘り面白ろい話ではないのですから。眞面目な事實は流行の小説とは少し趣を異にしますから』と兒玉は微笑を洩らして『小説も面白う御座います。けれ共事實は更に面白う御座います。』
『是非お話を願ひたいものです』とハーバードは乘氣になつた。
『宜しう御座います、それではお話しゝましよう。』
僕の十二の時です。僕は父母に從つて暫く他國に出て居ましたが、父が官を辭すると共に、故郷に歸りまして、僕は大島小學校といふに入りました。
海岸から三四丁離れた山の麓に立て居る此小學校は見た所決して立派なものではありません。殊に僕の入つた頃は粗末な平屋で、教室の數も四五しか無かつたのです。それで他國の立派な堂々たる小學校に居て急に其樣見すぼらしい學校に來た僕は子供心にも決して愉快な心地は爲なかつたのです。
けれども僕の故郷は二萬石の大名の城下で、縣下では殆んど言ふに足らぬ小な町、殊に海陸共に交通の便を最も缺て居ますから、純然たる片田舍で、日本全國津々浦々までも行わたつて居る筈の文明の恩澤も僕の故郷には其微光すら認め得なかつたのです。學校といふのは此大島小學校ばかり、其以外にはいろはのいの字も學ぶ場所はなかつたので御座います。僕も初は不精々々に通つて居ました。
校長の名は大島伸一、其頃僅に二十七八でしたらう。背は左まで高くはないが、骨太の肉附の良い、丸顏の頭の大きな人で眦が長く切れ、鼻高く口緘り、柔和の中に威嚴のある容貌で、生徒は皆な能く馴れ親しんで居ました。僕が此校長の下に大島小學校に居たのは二年半で、月日にすれば言ふに足らず、十二歳より十五歳まで、人の年齡にすれば腕白盛でありましたけれど、僕が眞の教育を受けたのは此時、僕の一生の羅針盤を置れたのは實に此時です。
僕が大島學校に上つてから四五日目で御座いました、四十を越えた位の一人の男が學校の運動場に來て、校長と頻りに何事か話して居ましたが、其周圍に七八名の生徒が立つて居て、顏を上て二人の物語を聞て居ました。暫くして其男は丁寧にお辭儀を爲て、校長も至極丁寧に禮をして、そして二人は別れました。
僕は子供心にも此樣子を見て不審に思つたといふは、其男の衣服から風采から擧動までが、一見百姓です、純然たる水呑百姓といふ體裁です、けれども校長の之に對する樣子は郡長樣に對する程の丁寧なことなので、既に浮世の虚榮心に心の幾分を染められて居た僕の目には全く怪しく映つたのです。
けれども家に歸つて別に此事を父にも問はず、學校朋輩にも聞きませんでした。
一月經たぬ内に自然と此不審が晴れて來ました。四十男の水呑百姓と思つたのは、學校より十町ばかり隔だつて居る松林の奧に一構の宅地を擁し、米倉の三棟を並べて居る百姓、池上權藏といふ男で、大島小學校の創立者、恩人、保護者であつたのです。それならば何故、池上小學校と名稱ずして大島小學校といふ校長と同姓の名稱を付けたか、諸君も必ず不審に思はれるでしよう。これには又意味の深い理由が有るのです。
僕が此小學校に入る僅か四年前に此學校は創立されたので、其より更に十年前のこと、正月元日の朝でした、新年の初光は今將に青海原の果より其第一線を投げ、東雲の横雲は黄金色に染り、沖なる島山の頂は紫嵐に包まれ、天地見るとして清新の氣に充たされて居る時、濱は寂寞として一の人影なく、穩かに寄せては返へす浪を弄し、又弄されて千鳥の群は岩より岩へと飛びかうて居ましたが、斯かる際にも絶望の底に沈んだ人の心は益々闇を求めて迷ふものと見え、一人の若者ありて、蒼ざめた顏を襟に埋め、一の岩角に蹲居つて頻りと吐息を洩して居ました。彼は其覺悟を決めながらなほ、躊躇うて居たのです。
人の足音に驚ろいて後を振返へると一人の老人が近づいて來る處です。老人が傍に來て、
『日が今昇るのを見なさい、何と神々しい景色ではないか』と優しく言葉をかけるまで、若者は何を思ふ暇もなく、ただ茫然と老人の顏を見て居たのです。
『見なさい今だ、今が初日出だ』と老人は言ひつゝ海原遠く眺めて居るので、若者も連られて沖を眺めました、眞紅の底に黄金色を含んだ一團球は今しも半天際を躍出でて、暫したゆたふて居る樣です。
『神々しいぢやアないか、人間といふものは何時でも此初日出の光を忘れさへ爲なければ可いのぢや』と老人は感に堪えぬやうに言つて手を合して靜かに禮拜しました。若者も思はず手を合はしました。見るが中に日は波間を離れ、大空も海原も妙なる光に滿ち、老人と若者は恍惚として此景色に打れて居ました。
『私は六十になるが斯な立派な日の出を見たことはない。來年はこれよりも美くしい初日の出を拜みたいものだ。あゝ佳い心持ぢや』と老人は言つて更に若者に向ひ『お前さんは何處の者ぢや』と問ひました。
『村の者で御座います。』と若者は僅に答へました。老人は其柔和な顏に微笑を浮べて
『毎年初日の出を拜みに出るのか。』
『さうでは御座いません。』
『さうか、それでは今年が初めてだの昔からも一年の謀は元旦にありといふから、お前さんも、今日の日の出を忘ないで居なさい如何じや大變顏の色が惡いやうじやがそんな元氣のない顏色をして居ては世の中を渡れるものではない、一同に日の出を拜んだも目出度い縁じや、これから私の宅へ來るが可い、雜煮でも祝はう。』
老人は先に立て行くので若者も其儘後に從き、遂に老人の宅に行つたのです、砂山を越え、竹藪の間の薄暗き路を通ると士族屋敷に出る、老人は其屋敷の一に入りました。
老人の名は大島仁藏、若者の名は池上權藏であるといふことを言へば、諸君は、既に大概の想像はつくだらうと思ひます。
老人は若者の自殺の覺悟を最初から見て取つて居たのですけれども最後まで直接にさうとは一言も言ひませんでした。
屠蘇を飮ましながら、言葉靜かに言つて聞かした教訓は決して珍らしい説ではなかつたのです。少し理窟を並べる男なら誰でも言ひ得ることなんでした。
朝日が波を躍出るやうな元氣を人は何時も持て居なければならぬ。
だから人は何時も暗い中から起て日の出を拜むやうに心掛けなければならぬ。
そして日の入まで、手あたり次第、何でも御座れ、其日に爲るだけの事を一心不亂に爲なければならぬ。
日は毎日、出る、人は毎日働け。さうすれば毎晩安らかに眠られる、さうすれば、其翌日は又新しい日の出を拜むことが出來る。
一日働いて一日送れば、それが人の一生涯である、日の出る時に人は生れて、眠る時に人は死ぬるのである。
老人の言ひ聞かした言葉は先づ斯んなものでありました。そして權藏は奮ひ起つて老人の下を去つたのです。
池上權藏は此日から生れ更りました、元より強健な體躯を持て居て元氣も盛な男ではありましたが、放蕩に放蕩を重ねて親讓の田地は殆ど消えて無くなり、家、屋敷まで人手に渡りかけたので、遂に失望落膽し、今更ら世間へも面目なく、果は思ひ迫つて大いに決心して居たのです。けれども彼は此日から生れ更りました。
一日又一日、彼は稼ぎに稼ぎ、百姓は勿論、炭も燒ば、材木も切り出す、養蠶もやり、地木綿も織らし、凡そ農家の力で出來ることなら、何でも手當次第、そして一生懸命にやりました。五年目には田地も取返し、畑は以前より殖え、山懷の荒地は美事な桑園と變じ、村内でも屈指の有富な百姓と成り終せたのです。しかも彼の勞働辛苦は初と少も變らないのです。
大島老人の病床に侍して、最後の教訓を彼が求た時、老人は靜かに
『お前さんは日の出を覺えて居なさるか。』
『毎朝拜んで居ります。』
『お前さんは日の出の盛な處を見て、元氣よく働らいたのは宜しい、これからは、其美くしい處を見て、美くしい働をも爲るが可からう。美しい事を。』
權藏は暫く考がへて居たが、
『それでは先づ如何な事を爲せば可ろしう御座いましよう。』と問ひました。老人は目を閉ぢたまゝ
『それはお前さんが考がへなければならん、お前さんの心で、これは美くしいことだと思ふこと、日の出を見てあゝ美しいと思ふと同じやうな事ならば、何でも宜しい。お前さんは日の出を拜むだらう。』
『ヘイ拜みます。』
『それなら拜まれるほどのことをなさい。』
『及びもつかん事で御座ります、勿體ないことで御座ます。』と權藏は平伏しました、
『イヤそうでない、お前さんは日の出の元氣を忘れましたか。』
と言はれて權藏は、『解りました、難有う存じます』と言つたぎり、感泣して暫らくは頭を得上げませんでした。
大島仁藏翁の死後、權藏は一時、守本尊を失つた體で、頗る鬱々で居ましたが、それも少時で、忽ち元の元氣を恢復し、のみならず、以前に増て働き出しました。
鬱々で居たのは考がへて居たのです。彼は老人の最後の教訓を暫時も忘れることが出來ないので、拜まれる程の美くしい事を爲るには何を爲たら可からうと一心に考がへたのです。神々しき朝日に向つて祈念を凝したこともあつたのです。ふと思ひ當つた時には彼は思はず躍り上つて喜んださうです。『自分は大島先生を拜んでも尚ほ足りない程に思ふ、それならば大島先生のやうなことを爲ればよい。』
其處で學校を建る決心が彼の心に湧たのです、諸君は彼の決心の餘り露骨で、單純なことを笑はれるかも知れませんが、しかし元來教育のない一個の百姓です、寧ろ其心ばせの眞率で無邪氣な處を思へば實に美しさを感ずるのです、僕は。
兔も角も此決心が定まるや、彼は更に五年の間眞黒になつて働きそして、遂に一の小學校を創立して、これを大島仁藏の一子大島伸一に獻じ、大島小學校と命名して老先生の紀念となし一切のことを若先生伸一に任して了つたのです。
以上は大島小學校の由來で御座います。けれども果して池上權藏の志は學校を建てたばかりで、成就しましたらうか。
若し大島伸一先生を得なかつたなら、此小學校も亦た、世間に有りふれた者と大差なく終つたかも知れません。
然し伸一先生は老先生の麗はしき性情を享けて更にこれを新しく磨き上げた人物として此小學校を監督し我々は第二の權藏となつて教導されたのです。權藏の志は最も完全に成就されました。
忘れもしません、僕が病氣で學校を休んで居ると、先生が訪て來て
『貴樣は豪い人になるのだから、決して病氣位に負てはならん病氣を負かしてやらなければ』と言つて僕を勵げましたことがあります。伸一先生は決して此意味を舊式に言つたのではありません。
『爲す有る人となれ』とは先生の訓言でした。人は碌々として死ぬべきでない、力の限を盡して、英雄豪傑の士となるを本懷とせよとは其倫理でした。
人は人以上の者になることは出來ない、然し人は人の能力の全部を盡すべき義務を持て居る。此義務を盡せば則ち英雄である、これが先生の英雄經です。
そして老先生が權藏に告げた言葉、あれが其註解です、そして權藏其人を以て先生は實物教育の標本としたのです。
日の出を見ろとは、大島小學校の神聖なる警語で、其堂々たる冲天の勢と、其飽くまで氣高かい精神と、これが此警語の意味です。
一日又一日と、全力を盡して働く、これが其實行なのです。
伸一先生の柔和にして毅然たる人物は、これ等の教訓を兒童の心に吹き込むに適して居たのです。
そして、先生も亦た、一心不亂に此精神を以て兒童を導き、何時も樂げに見え、何時も其顏は希望に輝やいて居ました。
小學校生活の詳しい事は別に申しますまい。去年の夏でした、僕は久ぶりで故郷に歸つて見ましたが、伸一先生は年を取つたばかり、其精神と其生活は少しも變りません。年を取つたと言つた處で四十二三ですもの、人間の働盛です。精神意氣に變のある筈もないのです。
たゞ老て益々其教育事業を樂み、其單純な質素な生活を樂しんで居らるゝのを見ては僕も今更、崇高の念に打れたのです。
昔のまゝ練壁は處々崩れ落ちて、瓦も完全なのは見當ぬ位それに葛蔓が這い上つて居ますから、一見廢寺の壁を見るやうです。
其壁を越して、桑樹の老木が繁り、壁の折り曲つた角には幾百年經つか、鬱として日影を遮つて居る樫樹が盤居つて居ます。
昔風の門を入ると桑園の間を野路のやうにして玄關に達する。家は僅に四間。以前の家を壞して其古材で建たものらしく家の形を作て居るだけで、風趣も何も無いのです。
先生は其一間を書齋として居られましたが、書籍は學校用の外、新刊物が二三種床の上に置いてあるばかりでした。
縁邊には豆が古ぼけた細籠に入て干てある、其横に怪しげな盆栽が二鉢並べてありました。
『東京の仕事は如何です。新聞は毎々難有う、續々面白い議論が出ますなア』と先生は僕の顏を見るや口を開きました。
『イヤ如何も愚論ばかりで恥かしう御座います、然しあれでも私の力一杯なのです。』
『それで十分です、力の限り書いて其で愚論なら別に仕方も無いからな。けれども樂は有ります。私はこの頃になつて益々感ずることは、人は如何な場合に居ても常に樂しい心を持て其仕事をすることが出來れば、則ち其人は眞の幸福な人といひ得ることだ。不精々々にやつた仕事に立派な仕事はない、そして一生懸命に仕事する時ほど樂いものはないやうだ。』
先生の此等の言葉は其實平凡な説ですけれど、僕は先生の生活を見て此等の説を聞くと平凡な言葉に清新な力の含んで居ることを感じました。
伸一先生は給料を月十八圓しか受取りません、それで老母と妻子、一家六人の家族を養ふて居るのです。家産といふは家屋敷ばかり、これを池上權藏の資産と比べて見ると百分一にも當らないのです。
けれども先生は其家を圍む幾畝かの空地を自から耕して菜園とし種々の野菜を植ゑて居ます。又五六羽の鷄を飼ふて、一家で用ゆるだけの卵を採つて居ます。
書齋の前の小庭は奇麗に掃除がして有つて、其處へは鷄も入れないやうにしてあります。
先生の生活は決して英雄豪傑の風では有ません、けれども先生は眞の生活をして居のです、先生は決して村學究らしい窮屈な生活、ケチ〳〵した生活はして居ません、けれど先生は自分の虚榮心の犧牲になるやうな生活は爲て居ません。
僕は先生と對座して四方山の物語をして居ながら、熟々思ひました、世に美はしき生活があるならば、先生の生活の如きは實にそれであると、先生の言論には英雄の意氣の充て居ながら先生の生活は一見平凡極るものでした。
先生を訪ふた、翌日でした、使者が手紙を持て來て今から生徒十數名を連れて遠足にゆくが君も仲間に加はらんかといふ誘引です。僕は直ぐ支度して先生の宅に駈けつけました、それが朝の六時、山野を歩き散らして歸つて來たのが夕の六時でした、先生は夏期休業と雖も常に生徒に近き、生徒の爲めに時間を送つて居らるゝのです。
諸君の中、若し僕の故郷に旅行せられるやうなことが有つたならば、是非一度大島小學校を訪はれたいものです。海岸に近き山、山には松柏茂り、其頂には古城の石垣を殘したる、其麓の小高き處に立つて居るのが大島小學校であります。それが僕の出身の學校なのです、四十幾歳の屈強な體躯をした校長大島氏は、四五人の教員を相手に二百餘人の生徒の教鞭を採つて居られます。
『日の出を見よ』といふ警語は今も昔に變りなく、恰も日の出の力と美とが今も昔も變りのないやうに、全校の題目となり、目標となり、唱歌となり居るのを御覽になりましよう。
語り終つて兒玉は一呼吸吐くやオックスホードの紳士は
『なるほど能く解りました、日の出は力です、美です、そして實に又希望です、僕は貴殿が大島小學校の出身であることを感謝し、誇らるゝことを、當然と思ひます。僕も一度是非お國に參つて大島伸一先生にもお目にかゝりたう御座ます。』
『そして、僕は池上權藏に會つて見たい』など高等商業の紳士は大眞面目で言つた。
『權藏は今如何して居ますか』と問たのはハーバードである。
『さうでした、權藏のことを言ふのは忘れて居ました、益々達者に暮して居ます。大島小學校も今は村の經濟で維持して居ますが、しかし村の經濟の首腦は池上權藏ですから、學校の保護者は依然として其の昔覺悟まできめた百姓權藏であります。
權藏の富は今や一郡第一となり、彼の手に依つて色々の公共事業が行はれて居るのです。けれど諸君が若し彼に會たら恐らく意外に思はるゝだらうと思ひます。
權藏は最早彼是六十です。けれども日の出づる前に起きて日の沒するまで働くことは今も昔も變りません。そして大島老人が彼を救ふた時、岩の上に立つて、
『來年はこれよりも美くしい初日の出を拜みたいものだ。』と言つた言葉、其言葉を堅く覺えて居て、其精神を能く味はうて、年と共に希望を新たにし、一日又一日と働らいて老の至るのを少しも感じない樣子です。
『老を知らなければ老いず、僕は池上權藏は死ぬるまで老ないだらうと思ひます、死ぬる今はの際にも、彼は更に一段の光明なる生命を望んで居るだらうと思ひます。不死不朽とはこのことでは御座いますまいか。
權藏は其居間の床に大島老先生の肖像をかゝげ、其横に日の出の圖が下つて居ます。これは伸一先生に求めて畫いて貰つたのださうです。そして大島小學校の一室には池上權藏の肖像がかけてあります。』
それより一週間ばかり經つて、兒玉進五の宅で彼の所謂る同窓會が開かれた。
兒玉は此席で同好倶樂部の一條を話した、他の二人は唯だ微笑したばかり、別に何とも評しなかつた。
會毎に三人は相談して必ず月に一度の贈品を大島小學校に送る、それが必ずしも立派な物ばかりではない、筆墨の類、書籍圖畫の類などで、オルガン一臺を寄送したのが一番金目の物であつた。
『今度は何を送らう』と兒玉は二人に問ふた。
『矢張書籍が可からうぢやないか』と判事が答へた。
『本なら僕に考へがある。今度會社で世界航海圖の新しいのが出來たから、あれを貰つて送らう如何だね、』と郵船會社員が一案を出した。
『それも至極妙だ。けれども其他何にしよう。』
『畫は如何だらう』と判事が一案を出した。
『畫も可いが最早有りふれたものばかりだからなあ。』
『實は先日、倫敦の友人から『世界の名畫』と題して、隨分巧妙に刷てあるのを二十枚ばかり贈つて呉れたがね、それは如何だらうかと思ふのだ。』
『可かろう!』と他の二人は贊成した。
『其所で例の唱歌の一件だがね、僕は色々考がへたが今更唱歌にも及ぶまいと思ふのだ如何だらう。『日の出を見ろ』で澤山じやアないか。それをなまじつか今の歌人に頼んで作らした所でありふれた、初日の出の歌などは感心しないぜ。若し作くるなら學校から出た者が作つたのでなければ、とても『日の出を見ろ』の一語で我等が感ずるやうな物は出來ないぞ、如何だろう?』と兒玉の説いたのに二人は異議なく贊成し、兒玉は二人の前で大島校長宛にすら〳〵と次の手紙を書いた。
『御依頼の唱歌の件は我等三人とも同意致し兼ね候。東京にも歌人の大家先生は澤山あれど我等のやうに先生の薫陶を受け大島小學校の門に學び候ものならで、能く我等の精神感情を日の出の唱歌に歌ひ出し得るもの有るべきや、甚だ覺束なく存候。我等の學校も何時かは眞の詩人出づることあらん。その時までは矢張り『日の出を見ろ』で十分かと存候。日の出の唱歌を歌ふて朝寐坊する人物が學校から出るやうになりては何の益にも立つまじく、其邊御賢慮願上候。』
三人は連名で此手紙を出した、大島先生から直ぐ返事が來て
『御主意御尤に候。日の出の唱歌は思ひ止まり候。淺ましい哉。教室に慣れ候に從がつて心よりも形を教へたく相成る傾き有之、以後も御注意願上候。』
底本:「定本 國木田獨歩全集 第三卷」学習研究社
1964(昭和39)年10月30日初版発行
1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
1984(昭和59)年1月20日第10刷発行
底本の親本:「運命」佐久良書房
1906(明治39)年3月18日発行
初出:「教育界 第二卷第三號」金港堂
1903(明治36)年1月1日発行
※「今更ら」と「今更」の混在は、底本通りです。
入力:葛西重夫
校正:川山隆
2014年12月15日作成
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