銭形平次捕物控
槍の折れ
野村胡堂




「八、どこの帰りだ。朝っぱらから、たいそう遠走りした様子じゃないか」

 銭形の平次はこんな調子でガラッ八の八五郎を迎えました。

「わかりますかえ親分、向柳原むこうやなぎわらの叔母の家から来たのじゃないってことが」

 八五郎の鼻はキナ臭くうごめきます。

「まだ巳刻よつ(十時)前だよ、良い兄さんが髷節まげぶしほこりを付けて歩く時刻じゃないよ。それに気組みが大変じゃないか。叔母さんとこの味噌汁や煮豆じゃ、そんな弾みがつくわけはねえ」

「まるで広小路に陣をいている八卦屋はっけやだね」

「それとも千住せんじゅか板橋から馬でもいて来たのか」

「冗談じゃありませんよ、親分。二年前に死んだ人間が人を殺したんだ。小石川の陸尺ろくしゃく町から一足飛びに飛んで来ましたぜ」

「二年前に死んだ人間が人を殺した?」

「その上まだまだ四五人は殺してやるというんだから大変で──」

「誰がそんな事を言うんだ?」

「二年前に殺された人間ですよ」

「さア解らねえ、まア落着いて話せ」

「落着いて聴いて下さいよ親分、こいつは前代未聞だ」

 ガラッ八の持って来た話は、あまりにも桁外けたはずれでした。二年前に死んだ人間が、予告して人を殺すということは、絶対にあり得べからざることですが、ガラッ八は自分の眼で、現にそのあり得べからざる事件を見て来たというのです。

「小石川陸尺町(安藤坂下──昭和十八年頃の水道町)の成瀬屋なるせや総右衛門というのを親分は覚えているでしょうね」

「陸尺町の成瀬屋総右衛門──二三年前に御府内を騒がせた大泥棒蝙蝠冠兵衛こうもりかんべえを生捕って、お上から御褒美を頂いた家だね」

 平次はよく知っておりました。そのころ義賊と称した泥棒で、その実、百両って、十両か五両を貧しい者に恵み、あとの大部分は自分の懐ろに入れた蝙蝠冠兵衛は、自分の良心をあざむいて、無智な世間の人気を博することと、いかなる締りも、なんの苦もなく開けて忍び込む天才的な術を心得ている点で、有名だった男です。

 その蝙蝠冠兵衛ほどのしたたか者も、伝通院でんずういん前の成瀬屋に忍び込んだ時は、取返しのつかぬ失策をしてしまいました。

 小石川切っての大地主で、巨万の富を積んでいる成瀬屋は、蝙蝠冠兵衛にねらわれると知って、屋敷の内外に鳴子なるこを張り渡した上、幾つも幾つもわなを仕掛けて、苦もなく忍び込んだ巨盗冠兵衛を生捕りにし、番頭で用心棒を兼ねた伝六という男が、さんざん冠兵衛をなぶりものにした揚句、半死半生のまま役人に引渡したのでした。

 蝙蝠冠兵衛は間もなく鈴ヶ森で獄門になりました。生前の善根らしきもののお蔭で、助命の歎願などもありましたが、もとよりそんなものは取上げられるはずもなく、一代の巨盗もそれっきり江戸っ子の関心から拭い去られてしまったのです。

「──その成瀬屋総右衛門の家へ、二年前に処刑おしおきになった蝙蝠冠兵衛がたたるんだから変じゃありませんか」

「待ってくれ、そいつは捕物じゃなくて怪談だぜ、八」

 平次は恐ろしくっぱい顔をしました。

「その怪談が大変なんで、一と月も前から成瀬屋の一家を鏖殺みなごろしにするという蝙蝠冠兵衛の手紙が三本も来ているじゃありませんか」

「よくあるだ」

「ところが、とうとうやりましたよ、親分」

「…………」

「成瀬屋の用心棒──腕自慢の力自慢で、そのうえ恐ろしく気の強い番頭の伝六が、見事に芋刺しになりましたよ」

「殺されたというのか」

「寝ている心の臓をたった一と突きだ。グウとも言わずにやられたらしいんで」

「お前見て来たのか」

「恐ろしい手際だ。行ってみませんか親分」

 八五郎が舌を振るって驚いているのです。

「よし行ってみよう。幽霊を縛るのも洒落しゃれているだろう。案内してくれ」

「ありがたい、親分が動き出しゃ百人力だ。ところでこのままじゃあっしの方が動けませんよ」

「どうしたんだ」

「まだ朝飯にありつかないんで、──あわてて飛出したが、すきぱらに小石川は遠すぎましたよ」

「馬鹿だなア」

 八五郎のために遅い朝飯の用意をする女房のお静の後ろ姿を見ながら平次は苦笑しました。



 陸尺ろくしゃく町の成瀬屋へ行ったのは、もう昼近いころ、検屍けんし万端済んでしまって、おとむらいの仕度に忙しい有様でした。

 店の人達の白い眼の中に、土地の御用聞金富かなとみの留吉だけは、ホッとした顔で迎えてくれます。

「銭形の親分が来てくれさえすれば、亡霊も退散するだろう。こいつはどうも、あっしの手におえそうもない」

 若い留吉は、よくおのれを知っております。

「どうしたんだ、金富町の兄哥あにきらしくもない。昔から下手人げしゅにんに足のなかったためしはないよ」

 平次ははなっからこれを生きている人間の仕業と見抜いている様子です。

「だが、こいつは人間業じゃないぜ。戸締りは伝馬町の大牢たいろうのように厳重だ、開いているのはお勝手の引窓がたった一つ。そんなところから出入りするのは、けむりと風だけだ」

「まア、見せて貰おう」

 成瀬屋というのは、山の手きっての大地主で、この辺一帯、旗本御家人ごけにんの屋敷でなければ、成瀬屋の持地と言っても大した間違いのないほどでした。

 主人の総右衛門は五十七八の典型的な大旦那で、びんの霜ほど世を経た、なんとなく抜け目のないうちにも、人を外らさぬ愛嬌あいきょうと、自然に備わる品位のある中老人です。

「これはこれは銭形の親分、とんだお騒がせをいたします。──大泥棒を縛って、御上の御手伝いをして、その泥棒に祟られたとあっちゃ、私も人様へ顔が合わされません。なにぶんよろしくお願い申します」

 こういった態度で平次と八五郎に接してくれました。

 成瀬屋の構えは、うわさに聴いたよりも宏大で、近頃は庭に張りめぐらした鳴子や罠は取払いましたが、戸締りの厳重さと、奉公人の腕っ節の強さは、留吉が伝馬町の大牢と形容したのが、全く適切すぎて滑稽こっけいなくらいでした。

 番頭の伝六が殺されていたのは、店の次の間、大銭箱の前で、昼は恐ろしく薄暗いところですが、奥と店とお勝手との要衝で、支配人が頑張るには、いちばん都合の良い場所です。

 通路は三方にある外に、この部屋から梯子はしごで店二階へ登れるようになり、二階の手摺てすりから見下ろす形になります。もっとも二階といっても物置同様で、誰も寝起きはしておりません。二三年前までは、奉公人の寝部屋だったのですが、伝六は夜半に便所に起きる奉公人達をうるさがって、裏の離室はなれに引っ越させ、その代り日用の雑器を詰め込ませておいたのです。

「ここでこう寝ているところをやられたんだが、──蒸し暑い晩で、胸まで抜け出して寝ていたにしても、寝巻の上から、やりの折れで一と突きに、布団へ通るほどやったんだから恐ろしい力だ」

 留吉は説明してくれました。六畳はまだ掃除が済まなかったものか、斑々はんはんたる血潮で、昨夜の惨劇がよく解ります。人間の通路を避けて、梯子段の下寄りに寝た伝七を、たった一と突きで、声も立てさせずにやったのは、よっぽどの力と手際がなければなりません。

 平次はその部屋を中心に、店へ、奥へ、お勝手へと探索の手を伸ばして行きました。

 お勝手は田舎の台所ほどの広さで、締りは恐ろしく厳重ですが、引窓が引き忘れたように開いております。牢屋のような締め切られた家で、ここだけ開いていたのは、「ここから入りました」という証拠のようで、少し変でないこともありません。

 外へ廻ってみると、この間の嵐の後で、屋根の漏れを見た時の梯子が、そのままお勝手の横に掛けてあります。これも「ここから入りました」の証拠の一つです。

 多勢の奉公人は、みんな離室に寝る中で、殺された伝六と、下女のおだいだけは母屋おもやに寝るそうで、お勝手の締りはそのお大の役目でした。

「ゆうべ引窓を閉め忘れたんじゃないか」

 平次はやはりこうく外はなかったのです。

「とんでもない、親分さん。私は二度も戸締りを見てから休みましたよ」

 三十がらみの働き者らしいお大、躍起となって弁解します。

 伝六の死骸は、殺された部屋の次の間に、傷口に繃帯ほうたいだけ巻いて移してありました。平次はいつものつつしみ深い態度で──そのくせ恐ろしく念入りに調べましたが、顔の表情など至って穏やかで、なんの苦悶くもんの跡も留めず、傷は左の乳の下を一と突きだけ、いかにも鮮やかな手際です。

 凶器は恐ろしく変っておりました。それは三尺ほどのを残した、笹穂ささほの手槍の折れ。

「フーム、こいつは恐ろしい道具だ」

 平次はその斑々たる手槍の折れを眺めております。

「そいつは二階の長押なげしにあったんだ。まだいろいろな道具があるのに、それを選り出したのは変じゃないか」

 留吉も凶器の特異性には気が付いた様子です。

「二階を見ようじゃないか」

 平次は先に立って、店二階へ登りました。ガラクタといっても大家で、ぜんわんも布団も立派に使えるものばかり。土蔵へ行くのが面倒で、日用の雑器をここへ入れて置くのでしょう。その中に一つ、古い刀箪笥かたなだんすがあって、中には長いの短いの、いろいろの得物を取揃えてありますが、曲者がそんなものには眼もくれず、長押に埃を被ったまま掛け捨ててあった槍の折れを持出したのでしょう。

 ほかに満足な槍が三筋、弓が二た張、矢が二三十本、これらはすべて、昔の豪族が、家の子郎党の手で自分の家を護った時の遺風いふうらしく、いつでも取出せるように用意してあったのでしょう。もっとも槍はことごとくさやをかぶせ、弓は二た張ともつるを外してあります。

 二階を見ているところへ、主人の弟で豊次郎という中年者が入って来ました。腰の低い四十五六の男で、平次が望むままに、いろいろのことを説明もし、戸締りの具合なども見せてくれました。二階の戸締りも厳重以上で、豊次郎に言わせると、掃除のとき開けるだけ、それに恐ろしく巌乗がんじょう格子こうしがあって、外から入ることなどは思いも寄りません。



 伝六の殺された部屋は、四通八達の要路で、どこからでも入れますが、武芸自慢で、恐ろしく眼ざとい伝六が、二階から槍の折れを持出して来て、胸に突立てられるのを知らずにいるとは思われず、下手人はどうして凶器を持出したか、どうして伝六に近づいたか、それがいちばん興味のある疑問です。

あかりいていたんだね」

「ヘエ、──有明ありあけ行灯あんどんが、今朝まで点いておりました」

 豊次郎は平次のために、行灯の位置まで指してくれます。

 母屋に寝るのは、この外に主人総右衛門と女房のお早とせがれの島三郎と、娘のおよしと、親類の娘のお町と、たったそれだけ、この顔触れの中に、したたか者の伝六を殺せそうなものは一人もおりません。

 お早は主人とは少し年齢が違いすぎるくらいで、四十そこそこの女。板橋在の百姓の出で、正直者らしい代り、慾は深そうです。これは何を訊いてもいっこう要領を得ません。

 倅の島三郎は二十歳、少しは帳場も手伝いますが、これは気も弱そうで、人などを殺せそうもありません。その妹のお芳は十八の恐ろしく色っぽい豊満な娘。兄の島三郎とは反対に、気力も健康もあふれておりますが、伝六とはなんの関係があるはずもなく、もう一人親類の娘というお町は、日蔭の花のような二十二三の美しい女ですが、一年の半分は床の上にいる病弱で、現にこの一と月ばかりは、持病の癆咳ろうがいが重くなって、三度の食事も床の上に運ばせております。

「やはり外から入ったんだね」

 留吉はそうめております。

「いや、金富町の親分の前だが、あの引窓を外から開けて入れる道理はない。あっしは下手人は内の者だと思うが──」

 ガラッ八は柄にもない抗議を持出しました。

「家の者なら、もう少し人間の入れそうな場所をこさえておくぜ」

「…………」

 留吉の言うのはもっとも至極でした。下手人がもし家の中の者だとすると、外から入れそうもない引窓などを開けておくより、お勝手口なり縁側なりに、外から入ったような細工さいくをして、雨戸の一枚くらいは開けておくべきはずです。

「それに曲者は、ゆうべ戸締りをする前──夜のうちにそっと潜り込んでいるもあるぜ」

「逃げる時は、あの引窓から出たというのか」

 ガラッ八、大きく開いたままの引窓を見上げました。

「そんなことはございません。戸は明るいうちに締めてしまいますし、寝る前には私か伝六が、家中を見廻ります」

 主人にそう言われるとそれまでです。ガラッ八や留吉の世帯と違って、金持にはまた金持らしい、神経質な用心のあることを、二人ともよく心得ているのでした。

「引窓は閉っていても、外から入れないことはないよ」

 今まで黙ってあちらこちらを調べていた平次は、こんなことを言いながら皆んなの前に顔を出しました。

「縁の下は駄目だぜ、銭形の」

 先刻さっきさんざん縁の下をのぞいて歩いた留吉は、苦笑いをしております。彼の頭は蜘蛛くもの巣だらけだったのです。

「縁の下じゃない。──引窓から入れると思うんだ。八、そこを閉めてくれ」

「外から開けるんですか、親分」

「手加減なんかしちゃいけないぜ、しっかり閉めてくれ」

 引窓の綱を絞って、厳重に結ぶのを見て、平次は外へ出て行きました。

 まもなく、お勝手の横に掛けてあった梯子はしごを登って、平次は屋根の上に立った様子です。引窓は外からキシみます。平次は何やら隙間すきまに差し込んで、その隙間を少しずつ少しずつ大きくしております。

 厳重にゆわえたようでも、引窓の綱にはかなりのゆるみがあり、上からコジられるごとに、隙間は少しずつ大きくなって行きました。やがてその隙間からスルスルと伸びて来た鳶口とびぐちが一梃、ガラッ八が念入りに縛った引窓の綱の──土竈へっついの上の折れ釘のところの──結び目に引っ掛ると、なんの苦もなく解いてしまったのです。

 引窓はサッと開いて、平次の笑った顔が、大空を背景に頭の上に現れました。

「あッ」

 驚く人々の前に、引窓の綱を伝わった平次は、なんの造作もなく軽々と飛降りていたのです。

「やはりここから?」

「いや、これも一つのだ。──が、ここじゃあるまいよ」

「?」

 平次はこの素晴らしい発見を忘れてしまったように、クルリときびすを返しました。



 平次の仕事は一とわたり家の内外を見ると、次には死んだ巨盗蝙蝠冠兵衛こうもりかんべえの脅迫状を見せて貰うことでした。

「そいつは主人が預かっている。先刻さっき検屍のとき、同心の内藤さんが眼を通して、後で取りに来るからと、主人に返したはずだ」

 留吉に言われて、主人の部屋に通ると、

「その手紙はここにございますよ」

 主人は気軽に立ってたなの上の手箱を開けました。

「あッ」

 立ちすくんだも道理、手箱の中には、一とつかみの灰だけ。確かにそこへ入れたはずの、巨盗の手紙三本は、煙のごとく消えてしまったのです。

「どうした」

 留吉も八五郎も覗きました。

「ない。──確かにここへ入れたはずだが、なくなってしまいましたよ」

 分別者らしい総右衛門も、さすがに顔色を変えます。

「そんなはずはあるまい」

「でもこの通り、箱は空っぽになって、灰が一と握り──」

 銭形平次はその騒ぎを後ろに聴いて、そっと廊下に出ました。店の方には奉公人や近所の衆が、多勢で騒いでおりますが、ここはひっそりと静まり返って、廊下にも庭にも人影はなく、少しばかりの植込みを隔てて、恐ろしく高い塀が、物々しい忍び返しを見せて突っ立っております。

 平次は遠慮もなく次の部屋の障子をサッと開けました。

「あッ」

 物におびえたように、思わず立ち上がったのは十七八の娘、見る人によってはずいぶん美しいとも言うでしょう。脂肪質の豊満な肉体と、娘々したあどけなさが妙に人を引き付けます。

「お嬢さん、ちょいと見せて下さい」

 平次はざっと部屋の中を見廻して、父親の部屋に通ずる境の唐紙などを動かしたりしております。部屋の中には鏡台が一つ、火鉢が一つ、針箱が一つ。あとには何にもありません。

「あの──」

 娘は何やら物言いた気ですが、何に脅えたか、また口をとざしてしまいました。

「お嬢さん、なにか知ってることがあったら言って下さい」

 平次はそれへ誘いをかけましたが、一度緘された娘の唇は、容易に開きそうもありません。

 娘の部屋の隣は納戸で、納戸の先は暗い四畳半。そこに親類の娘というお町が、長い癆咳ろうがいを患って寝ているのでした。

「御免よ──」

 スッと無違慮に入った平次。部屋の中の薬臭いのに、さずがに顔をそむけました。

「…………」

 黙って見上げた病人の眼は、不思議に活き活きと光っております。

 二十三というには少し老けて、病苦のやつれが頬を刻んでおりますが、蒼白い顔は名工ののみの跡が匂うよう。赤い唇も、すこしげたあごも、異様な上品さをさえ添えるのでした。

「どうだ、気分は」

「ありがとうございます。この通りで、皆さんに御心配をかけております」

 痛々しく伏せた眉、ろうたけくかすむのも不思議な魅力でした。

「ちょいと脈を見せてくれ。──いや右じゃない左だ」

 平次は病人の枕元にしゃがむと、柄にもなく脈などを取りました。せてはいるが美しい腕です。

「ヘエ、──親分が脈をるんですか」

 ヌッと顔を出したのはガラッ八でした。

「黙っていろ、医者や易者えきしゃの心得もなきゃ御用は勤まらないぞ」

「へ──ッ」

 八五郎は引っ込みのつかない様子で突っ立ちました。苦笑いを殺した唇はゆがみます。

「ところで、お前はここの主人と、どういう掛り合いになるんだ」

 平次は娘の枕元に坐り込んでしまいました。

「──私は、あの、先代の成瀬屋の血統ちすじの者でございます」

「ホ──ッ」

 変な声を出したのはガラッ八です。

「成瀬屋の先代が身代限りをしそうになったのを、遠縁の今の主人が入って立て直し、私は孤児みなしごになってさるお屋敷に奉公していたのを、ここに引取られて育てられました」

 お町の調子は淡々としてなんの抑揚よくようもありません。

「皆んなはお前によくしてくれるか」

「それはもう、三年越し患っている私を、こんなにお世話して下さいます。なんの不自由もございません。勿体もったいないほどで」

 お町は枕の上に顔を伏せて、何やら念じている様子です。

「主人はどうだ」

「あんな良い方はございません。慈悲深い、思いやりのある方で、町内でも評判でこざいます」

 それは平次も聴いておりました。善根を積むより外に余念のない成瀬屋総右衛門の評判は、神田あたりまでも響いていたのです。

「子供たちは?」

「島三郎さんはお店の方が忙しいようで、──よく働きます。お芳さんは本当に良い方で」

「おかみさんはどうだ」

「正直一途いちずの方でございます」

 これは大した褒めようもなかったのでしょう。とにもかくにも、成瀬屋の家族に対する、お町の感謝と好意には疑いもありません。



 巨盗の幽霊の手紙は、明らかに紛失しましたが、さいわい総右衛門が文句をそらんじているのと、留吉が筆跡や紙をよく見ておいたので、大体のことは平次にも想像がつきます。

 手紙は三本とも、外から店に投げ込まれたもので、いずれも半紙を八つに畳んで結んだもの。中はかなりの達筆で、二年前生捕られて散々なぶりものにされた上、役人に引渡された怨みをべ、この妄執もうしゅうを晴らすため、成瀬屋の者を一人一人、残らず殺してやる、といった凄まじいことが、少しくどい調子で書いてあるのです。

「筆跡は?」

「堅い字でした。今時あんな字を書く者は滅多にありません。女子供やお店者たなもの筆跡じゃございません」

 総右衛門は言うのです。

「紙は?」

「ただの半紙だ。──どこでも売っている」

 留吉が応えます。

「店へほうり込むのは、どんな時だ」

「朝早くか、夕方──薄暗くなってからでございます。誰か気が付いて拾いましたが、投り込んだ者の姿は見たものもございません」

「御主人の弟──豊次郎さんとか言ったね、あれは本当の弟じゃあるまいね」

「義理の弟でございますよ。私の先妻の弟で」

「子供さんたちは」

「皆んな本当の子でございます。今の家内の生んだのばかりで、──倅はよく店を手伝ってくれますが、娘はただもう我儘わがままを言うばかりで」

 その我儘が可愛くてたまらない様子です。

「誰かに怨まれている覚えはないだろうか、金のこと、縁談のこと、公事くじ(訴訟)、揉事もめごとなど──」

「なんにもございません。金も少しは融通しておりますし、土地も家も人様に貸しておりますが、無理な取立てはいたしません。縁談もまだ決った口がないので、心配しております」

「あのお町──という娘は?」

「この成瀬屋の先代の娘でございます。成瀬屋が没落したとき、少しの縁故をたどって、さる大名屋敷に奉公に出ておりましたが、五年前私が引取りました。先代への義理でございます。精いっぱいの養生はさせておりますが、何ぶんあの通りの病気で、そのうえ遠慮深いたちで、思うようになりません。町内の本道(内科医)は病気は大した事はない、気の持ちようでは丈夫な身体になれると申しますが、本人は気がくじけて、寝たり起きたりでは、弱る一方でございます」

 総右衛門の言葉には少しの暗い影もありません。

 平次も八五郎も留吉も、突っ放されたような心持で、庭先に顔をあつめました。ここからは小石川牛込一帯の低地を眺めて、なかなかの景色ですが、そんなものはもとより眼にも入らず、巨盗蝙蝠冠兵衛の亡霊だけが、三人の胸の中に、次第に現実味を帯びて生長して行くのです。

「親分、あの娘が変じゃありませんか」

「誰だ」

「お町とかいう、病人の──」

「…………」

「親分は脈なんかみたでしょう、てのひらに灰が付いてやしませんか」

「大笑いさ、あの娘の掌に灰が付いていさえすれば、物事は一ぺんに片付くよ。ところがそんなものはないよ、めたように綺麗だ、右と左と念入りに見たんだから間違いはない」

 平次は医者の真似などをした間の悪さに、一人で苦笑いをしております。

「お芳の方は」

「これも綺麗だ──が、綺麗すぎたよ、洗ったばかりなんだ」

「洗ったばかり? あの娘の部屋を捜しましょうか、三本の手紙はどこかに隠してあるに違いない」

せ止せ。手を洗うひまがありゃ、三本の手紙くらいはどこへでも隠せるよ。若い娘に手荒なことをするでもあるまい。それよりお前は念入りにあの娘を見張っているがいい。きっと何か変ったことがある」

「ここに泊り込んでですか、親分」

「俺から主人へそう言ってやろう。脅え切っているから、喜んで泊めるだろうよ」

 それは平次の予想通りでした。蝙蝠冠兵衛の脅迫はまだ果たされたわけでなく、この上の用心にガラッ八が泊ってくれるのは、成瀬屋にとってはこの上もない心丈夫なことだったのです。



「親分、なんにも変ったことはありませんよ」

 ぼんやり八五郎が帰って来たのは、それから五日も経った後でした。

「ところがこっちには変ったことがあるよ」

「何です、親分」

「蝙蝠冠兵衛の倅が捕まったよ」

「ヘエ──」

「幸吉と言って、こいつは親に似ぬ堅い男だ。浅草で小商こあきないをしているのを手繰たぐって、二日前に金富町の留吉兄哥あにいが挙げて来たよ」

「それで、やっぱり成瀬屋の引窓から忍び込んだのはその野郎で──」

「それが分らないのさ。留吉兄哥はそう決めているようだ。が、幸吉はあの晩女房と一緒に家にいたというんだ。女房と一緒じゃ信用が出来ないと留吉兄哥は言うが、どうも嘘らしくないところもある。──それに、外から曲者が入ったとすれば、二階の長押なばしからわざわざ槍の折れなんか取出したわけが分らなくなる」

 平次はすっかり考え込んでしまいました。その時──。

「お手紙ですよ」

 二人の沈思ちんしを破って、平次の女房のお静は顔を出します。たすきをはずして、手拭を取って、軽く八五郎に目礼しながら、いまでも若くて美しいお静のれた手には、結び文が一つ。

「どこで、それを」

「井戸端へ小僧さんが持って来ましたよ。十四五の、それは可愛らしい」

「八」

「よし」

 八五郎は飛んで出ましたが、その辺にはもう小僧の姿の見えるはずもなく、野良犬を蹴飛ばして、張板を二三枚倒して、八五郎はぼんやり戻って来ました。

「見えませんよ、親分」

「まアいい、どうせお前に捕まるようなどじじゃあるまい」

どじの中だから、あっしのようなどじにも捕まるだろうと思いましたよ」

洒落しゃれを言うな、馬鹿馬鹿しい」

 平次は手紙を開きました。何の特色もない半紙に、右肩の上がった四角な字で、


倅幸吉には何の罪も無之これなくくまでも成瀬屋をうらむはこの冠兵衛に候。その証拠として近々一家をみなごろしに仕る可く随分要心堅固に被遊可あそばさるべく候 頓首

蝙蝠冠兵衛 亡霊

  銭形平次殿


 こんな人をめたことが書いてあるのです。

「八、こいつは大変だ」

 平次は顔色を変えました。

おどかしじゃありませんか、親分」

「いや、──脅かしならいいが、──幸吉を助けるつもりで、何をやり出すか分らない」

「?」

「幸吉は挙げられている。──成瀬屋にあだをするのが幸吉でないという証拠は、幸吉がいない時、なんか凄いことをやるに限るだろう」

「ヘエ──」

 ガラッ八も次第に呑み込みます。

「ところが、下手人の素姓が今のところまるっきり分らない。幸吉でないとすると──」

「やっぱり冠兵衛の幽霊?」

「馬鹿な事を。幽霊が人を殺せる道理はない」

「でも、あの槍の折れを胸に打ち込んだのは大変な力ですぜ」

「大変な力だ。人間業ではむずかしい。が、やっぱり二本足のある人間の仕業だ」

「そいつを捜し出すには、どうしたものでしょう」

「成瀬屋の家の者を皆んな洗え。主人夫婦を怨む者はないか、奉公人の身持、倅と娘の縁談、あのお町という娘のいた大名屋敷、先代の成瀬屋の没落した時の様子、殺された番頭伝六の身持、身寄り──」

「それから」

「そんな事でいい。下っ引を存分に駆り出して、一日か二日の間に、手の届くだけ調べ抜いてくれ。どんな事が持上がるかも知れない」

 平次は残るくまなく手を廻して、さて一人になって静かに考えました。こう相手の素姓が分らないと、幾通りも可能の仮定を築き上げて、下手人の姿を描き出す外はありません。

 いや、平次は不可能な事をさえも仮定して、伝六を殺し得る相手を考え出そうとしているのです。



「さア、大変ッ、親分」

 ガラッ八が飛込んで来たのは、それから三日目の朝でした。

「どうした、八」

 今度ばかりは平次も、それを真剣に受けてち上がりました。二三日憂鬱ゆううつな考えにとざされながら、いつ八五郎に脅かされるかも分らない心持で、この報告を待っていた平次だったのです。

「成瀬屋の鏖殺みなごろしだ」

「何?」

「今朝の味噌汁でやられましたよ。主人もお神さんも、倅も娘も、ことに親類のお町などは九死に一生の騒ぎだ」

「行ってみよう」

 平次とガラッ八は、伝通院前まで飛んだことは言うまでもありません。

 成瀬屋は死のふちに崩れ落ちるような恐ろしい混乱でした。店は閉めたまま、奉公人たちは足音を忍ばせ、声を殺してただウロウロするばかり。奥では主人夫婦、倅、娘、お町の五人、枕を並べてうなっているのです。

 一番重態なのは病弱なお町で、いちばん軽いのは主人の総右衛門、その口から平次はいろいろの事を引き出しました。

 中毒したのは奥で食事をった五人だけ、奉公人たちは皆けろりとしておりますが、その中でたった一人、主人の弟の豊次郎が、何の異状もないのが人目につきます。

「私は店の用事で朝の食事が遅れました。これから始めようとすると、皆んな苦しみ始めたんで、これはいけないと思って止しましたよ」

 そう聞けば何の変哲もありません。

 集まった医者は三人。三人とも口を揃えて毒は裏庭に今を盛りと咲いている鳥兜とりかぶとの根を味噌汁へり込んだものと分りましたが、誰がそんな事をしたのかとなると、まるで見当も付かないのです。

 下女のお大は当面の責任者ですが、ただおろおろするばかり、裏の方へなにか入って来たので、味噌汁を仕掛けたまま一度見に行ったとは分りましたが、そのあいだお勝手に入って、鍋の中へ毒を仕込んだ者は誰かとなると、そこまでは分りません。

 裏庭へ行ってみると、なるほど鳥兜の花が美しく咲き乱れておりますが、この根にそんな猛毒があることは、一般に知られていないことでもあり、たくさんの鳥兜の中にたった一本根を痛められた様子で枯れかかったのはありますが、それとてもいつ、誰がやった事やら、奉公人たちに訊ねても分る道理もない有様です。

 その日は騒ぎに暮れて、病人は医者の手に任せたまま、平次はともかくも引揚げました。金富町の留吉が、豊次郎を挙げそうにしましたが、「まだ早い」と目顔で合図をして、からくも思い止まらせたりしました。

 神田の家へ帰って来ると、八方に出した下っ引が、いろいろの情報を集めて二三人待っています。

「親分、あの主人の弟の豊次郎というのは太い奴ですよ。──めかけなんか囲って、恐ろしい馬鹿を尽しているが、店にいると猫を被って、神妙な顔をしてやがる。兄の金をどれだけつかい込んでいるか分りませんよ」

 ──と一人。

「殺された伝六はひどい奴で、成瀬屋の先代に奉公人とも居候ともつかずに入り込み、人の良い先代をだまして、とうとう身代限りの目に逢わせ、首までくくらせた上、今の総右衛門をれ込んで、自分が采配を振っていたそうですよ」

 ──と次の一人。

「あのお町という娘は感心な娘で、四五年前までさるお大名に奉公していたが読み書きから武芸まで一と通り以上に出来る上、女ながら弓が名誉で、総右衛門が引取ると言ったとき、奥方がたいそう惜しがったということですよ」

 こんないろいろの情報の中から、平次は自分に必要な材料をかき集めているのでした。

「親分」

 最後に飛込んで来たのは八五郎です。

「なんだ、八」

「お町は今晩中たないかも知れませんよ。町内の本道(内科医)が、この娘の病気は大して重くはなかった。本人が気が弱くて一日の半分は床の上にいたが、それでも弱った身体だから、毒にやられては一とたまりもない──と言うんで」

「病気は大して重くはないと言ったな」

「え、──それが、乱暴じゃありませんか、今朝に限って若い娘のくせに、味噌汁を二杯も替えて喰べたそうで」

「病人が、味噌汁を二杯? よし、行こう」

「どこへ行くんで、親分」

「お町に逢っておきたい。死なれちゃ大変だ」

 宵も夜中もありません。平次とガラッ八は、そのまま小石川陸尺ろくしゃく町まで飛びました。

 成瀬屋に着いた時は、平次が恐れたように、お町はもう頼み少ない姿で、医者もすっかりさじを投げ、時の経つのばかり待っておりました。

「ちょいと、お町に話したいことがある。みんな遠慮して貰いたいが──」

 平次はお町の部屋から人払いをした上、隣の部屋に八五郎を頑張らせて、さて、病人の枕元に近づきました。

「お町、──望み通り、お前は助かるまい。こうなっては隠すことはないはずだ。みんな話して、心持を軽くしてはどうだ」

「ありがとうございます──親分さん──実は──」

「よしよしお前は苦しそうだ。俺が代って懺悔ざんげしてやろう。違ったところを、お前がただすがいい」

 平次の言葉が優しく静かにひびくと、お町の熱を持った眼は、大きくまたたくのでした。せた頬に鼻の美しい影が落ちて、痛々しいが、この上もなく静寂な上品さです。

「お前は伝六を怨んだ。そして成瀬屋一家の者を怨んだ。お前の父親をむずかしい公事くじ(訴訟)に引入れて没落させ、首を縊るような目に逢わせたのは、伝六と総右衛門の悪企わるだくみだと知っていた──」

「…………」

 お町の眼はまたまたたきます。それはジッと苦悩をこらえた、世にも痛々しい──が、美しい眼でした。

「お前は慈悲善根を売物にしている総右衛門に引取られるまま、この家へ入り込んだ。父親のかたきを討つつもりだった。幸い総右衛門は、罪亡ぼしのつもりでお前によくしてくれるが、伝六はお前というものを眼の敵にした。そこでまず伝六を殺すことを考え、二年前にここで生捕られて刑死した泥棒の冠兵衛の名を借りて手紙を書き、あの小僧に店へ投げ込ませた。冠兵衛の名を借りたのは方便だが、お前は亡くなった父親の敵を討つつもりだったに相違あるまい」

「…………」

「お前は病気で弱っているように見せかけたが、見かけほどは弱っていなかった。お勝手の横に梯子はしごのある日を見定めて、引窓を開け、あの晩は自分の部屋に入って寝ていると見せかけて、宵のうちから店二階に入って隠れていた。──お前の部屋など、夜になれば覗いてみる者もなかったろう」

「…………」

「夜中になると、かねて見定めておいた長押なげしの槍の折れを取って、お前は弓で階下の伝六の胸に射込んだ。恐ろしい力で布団まで通ったのはそのためだ。──弓につるを掛けるのがさぞ骨が折れたことだろうが、お前は死物狂いでやってのけた」

「…………」

 お町の眼は力なくまたたきます。

「冠兵衛の偽手紙を、主人の手箱から盗ませ、代りに灰を入れたのは、お前がお芳をおどかしてさせたに相違あるまい。あれは見かけより賢くない娘だ」

「…………」

「冠兵衛の倅の幸吉が縛られたと聞いて、お前はそれを助ける気になった。そして、成瀬屋の一家の者に思い知らせて自分も死ぬ気になった。鳥兜の根はかねて庭から掘って用意していたはずだ。下女のお大がお勝手をあけると、お前はそれをなべほうり込み、自分が一番先に死ぬ気で二杯も重ねた。──お町、まだ訊きたいことがある、あの小僧は誰だ、あの小僧は──」

 銭形平次は驚きました。平次の言葉を静かに聴き入っているうちに、お町の眼の色が次第に力がせて顔には死の色がサッとかれているではありませんか。平次の声に驚いて多勢の者が飛込んで来ましたが、死んで行く娘の命をどうする事も出来ません。平次は少し引き下がったまま、両掌りょうてを合せて静かに静かに念仏をとなえておりました。

 窓から射し入る秋のあかつきの光が、息を引取った娘の顔を、美しく神々しく照らし出します。

底本:「銭形平次捕物控(十五)茶碗割り」嶋中文庫、嶋中書店

   2005(平成17)年920日第1刷発行

底本の親本:「錢形平次捕物全集第十八卷 彦徳の面」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年1020日発行

初出:「文藝讀物」文藝春秋社

   1943(昭和18)年11月号

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:noriko saito

2015年38日作成

2019年1123日修正

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