銭形平次捕物控
遺言状
野村胡堂
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柳原の土手下、ちょうど御郡代屋敷前の滅法淋しいところに生首が一つ転がっておりました。
朝市へ行く八百屋さんが見つけて大騒ぎになり、係り合いの町役人や、野次馬まで加わって捜した揚句、間もなく首のない死骸が水際の藪の中から見つかり、それが見知り人があって、豊島町一丁目で公儀御用の紙問屋越前屋の大番頭清六と判ったのは、だいぶ陽が高くなってからでした。
ガラッ八の八五郎の大袈裟な注進で、銭形平次が来たのはまだ検屍前。
「寄るな寄るな見世物じゃねエ」
そんな調子で露払いをするガラッ八の後ろから平次は虔ましい顔を出して、初秋の陽の明るく当る筵を剥ぎました。
殺された清六は五十七八、小作りの胡麻塩髷、典型的な番頭ですが、死骸の虐たらしさは、物馴れた平次にも顔を反けさせます。
「辻斬でしょうね、ひどい事をするじゃありませんか」
八五郎は横から覗きました。
「…………」
平次は黙って首を振りました。こんな下手な辻斬があるわけもありません。
「越前屋からは、まだ引取り手が来ませんよ。親分」
八五郎はそれが不平そうです。
「ツイ二十日前に、主人が卒中で死んだばかりだから、無理もないが──」
町役人は弁解がましく口を入れました。そういえば越前屋の主人佐兵衛が急死したことは、平次もガラッ八も聴いておりました。重なる不幸で、越前屋の混雑は思いやられます。
「──そのうえ店のこと万端取仕切っている甥の吉三郎さんが、大坂へ商売用で行っているとかで、迎えの飛脚を出す騒ぎでしたよ」
町役人は更に注を入れました。
「濡れ手拭を持っているところを見ると、風呂の帰りでしょうね。親分」
「鬢も濡れているよ。──風呂の帰りに、わざわざ柳原河岸へ出るのは変じゃないか。それに──」
平次は首を傾けております。
「何か変なことがあったんですか、親分」
「変なことだらけだ」
「首を斬るのは穏やかじゃねエ。辻斬でなくても、下手人は武家に決ってるようなものですね」
と八五郎。
「穏やかな人殺しというのはないだろうが、──この下手人は武家じゃないよ」
「ヘエ──」
「やっとうの心得などのない人間だ」
「何だって、それじゃ首を斬り落したんでしょう」
「それが解れば一ぺんに下手人が挙がるよ」
「?」
「どうかしたら、一度絞め殺しておいて、それから首を斬り落したのかも知れない。生き身の人間がこんなに斬りさいなまれながら、黙っているわけはねエ、いくら柳原でも、家もあれば人も通る」
平次は早くも事件の秘密に触れて行くのでした。
「親分、死骸の側にこんな物が落ちていたそうだが、何かの役に立ちますかえ」
懐中煙草が一つ──印伝の叺に赤銅の虻の金具を付けた、見事な品を町役人は平次に渡しました。
「これは良いものが手に入った。どこに落ちていたんだ?」
「死骸の下敷になってましたよ」
「文句はねエな。死骸の下に煙草入をねじ込むような物好きな野郎はあるめえから」
ガラッ八はまた尖った口を入れます。
その時、ドカドカと駆け付けて来たのは、豊島町一丁目の越前屋の人達です。
越前屋の同勢の中で頭立ったのは、これも主人の甥で金次という若者。まだ二十五六の、遊び癖の抜け切らないのを、叔父の佐兵衛に引取られて、年上の従兄吉三郎と一緒に、商売を仕込まれているといった、ちょっと好い男です。
そのほか姪のお辰といって、二十一になる美しいの、居候で浪人者の岩根源左衛門。これは名前だけは怖かない敵役のようですが、ヒョロヒョロとした青白い四十男で、剣術よりは下駄の鼻緒を直したり、障子を張ったり月代を当ったりすることのうまい人間です。あとは奉公人多勢、ただもう逆上気味で、番頭の遺骸を中に騒ぐばかり。
「店の支配人はいないのか。──騒いでばかりいちゃ調べができない」
検屍の同心苅田孫右衛門は、駆けつけざま、この混乱を睨め廻しました。
「ヘエ、支配人の吉三郎は大坂へ行っております」
甥の金次は小腰を屈めます。
「番頭の清六が殺されて、支配人が留守だとすると、あとの取締りは誰がするのだ」
「私でございます、ヘエ」
若くて少し道楽強そうな、金次に、越前屋の取締りはできるかどうか、同心苅田孫右衛門も胡散な眉を寄せました。
「支配人はいつ帰るのだ」
「二十日前に主人佐兵衛が頓死いたしましたので、その日のうちに大坂へ急使を出しました。なにぶん上り下り二十四日の旅程で、大坂で出発前に一二日手間取ると見ても、あと六七日経たなければ、江戸へは戻りません」
「それでは、支配人の吉三郎が戻るまで、お前が代って店の支配をすると思って差支えはあるまいな」
「ヘエー」
「ここでは調べもなるまい。一同の者は番所へ参れ、死骸も運んで来るがよい」
苅田孫右衛門が先に立って、一同の者はツイ眼と鼻の間の、浅草橋番所へ引揚げました。
調べの結果、いろいろの事が判って行きます。主人佐兵衛が二十日前に死んだのは、明らかに卒中で、これは越前屋の者が口を揃えて言うことに疑いもありません。
支配人の吉三郎はちょうど三十の働き盛りで、評判の商売熱心、伯父の代理で大坂へ行ったのは一と月前、ゆくゆく越前屋の身上はこの甥に譲られるだろうという噂もありますが、一方吉三郎と嫁合せるはずで、同じ越前屋に引取って養っている姪のお辰は、もう一人の甥の金次と気が合い、とかく吉三郎を嫌う様子があり、佐兵衛はそればかり気にしておりました。
吉三郎と金次は、どちらも佐兵衛の甥に相違ありませんが、年上の吉三郎は少し陰気ですが、思慮分別もあり、人間も堅くて、商売熱心な上、伯父の佐兵衛にもことごとく気に入られておりますが、若い甥の金次は、明るくて好い男で、皆んなに可愛がられる代り、道楽気が抜けないので、伯父の佐兵衛には、甘えたり、叱られたり、まるっきり子供扱いにされております。
「昨夜の事を詳しく申してみるがいい」
苅田孫右衛門は促しました。
「番頭の清六どんが、手拭を下げてブラリと出たのは、店が閉ってから──戌刻半(九時)自分でございました。清六どんは恐ろしい湯好きで、内風呂の立たない晩は、かならず町内の巴風呂へ参ります」
金次は皆んなの顔を見ながら、思い出し思い出しつづけました。
「──清六どんの出たのは、皆んなよく存じております。それっきり一刻(二時間)待っても帰らないので、表戸を閉めさせ、裏口を開けて寝てしまいました」
「不用心じゃないか」
「でも、夜遊びなどする人ではなし、必ず帰ると思いましたので」
「それっきり帰らなかったのだな」
「ヘエ。──ゆうべ帰らないのを、今朝になって気がつきました。店中で騒いでいると、柳原で殺されているというお使いで──」
「ところで昨夜誰も出た者はないのか」
「なかったはずでございます」
「裏口を開けたまま寝てしまったのなら、それから出た者があるかも知れないではないか。──風呂から帰りかけている清六を途中から柳原へ誘い出して、殺すという術もある──」
苅田孫右衛門はさすがに気が付きます。
「番頭さんは長湯かえ」
銭形平次は不意に口を挟みました。
「いえ早い方で。毎晩入るから。──俺のは烏の行水だ──と申しておりました」
金次はぼんやり顔を挙げます。
「表戸を閉めたのは、確かに番頭が出てから一刻も経った後だろうな」
「手代の巳之松と丁稚の三吉が締めました。間違いはございません」
「その間お前は何をしていたんだ」
「帳場で帳合を見ておりました」
「誰も外へ出たものはないな」
「ヘエ」
平次は細かく店中の者の不在証明を調べて行くのです。
「お辰さんは?」
「奥でお仕事をしておりました」
これも金次の証明ですが、手代、小僧、誰の顔にも、それに反対の色はありません。
「岩根さん──とか言いましたね。旦那は?」
「裏の四畳半──これは私の部屋だ。そこへ潜って、早寝をしておりましたよ」
居候浪人──岩根源左衛門は多勢の後ろから、首だけヒョロ高い身体を浮かしました、恐ろしく砕けた二本差です。
「お部屋へ引取った時刻は?」
「酉刻半(七時)──いや戌刻(八時)近かったかな。小僧の三吉がよく知っているよ」
その部屋から、そっと抜出せるかどうか、それはいずれ後刻実地を調べる外はありません。
「ところで、この煙草入は誰の物だ」
平次はズラリと並んだ越前屋の奉公人の鼻先へ、何の技巧もなく死体の下にあった印伝の煙草入をズイと出したのです。
「私の品でございますが」
金次の答えも、それに劣らず無造作でした。
「これが死骸の下から出て来たのはどういうわけだ」
「…………」
恐ろしい緘黙、重っ苦しい空気の中で、越前屋の奉公人たちは、お互の顔をそっと盗み見ております。
それから二日、越前屋の番頭殺しの下手人は、わけもなく挙がりそうで、一向眼鼻もつかなかったのです。
越前屋は数万両の大身代で、その跡取りは当然問題になるべきはずですが、遺言状を預かっているはずの番頭清六が殺され、支配人の吉三郎が大坂から帰らなくては、何が何やら見当も付きません。一番疑われるのは、当然吉三郎と相続争いになる甥の金次ですが、金次は亥刻半(十一時)過ぎまで帳場に居たことが明らかになり、早い湯の清六がそれまで風呂に浸っているはずはないのですから、これは煙草入の証拠があったに拘らず、辛くも縄目を免れました。もっともその煙草入も半歳ほど前に支配人の吉三郎から貰ったもので、滅多に持って歩くようなザツな品ではないということも弁解の一つになりました。
浪人の岩根源左衛門も佐兵衛の遠縁に当るそうで、遺言状がなくなれば、何かの利得にありつける一人ですが、当夜自分の部屋で早寝をしたというに嘘はなく、店中の人の起きているうちは、人に姿を見られないように、外へ出ることなどは思いも寄りません。
姪のお辰も当然疑いの圏内に入るべきですが、二十一になる華奢なお辰では、虫一匹潰すのさえむずかしく、大の男の首をちょん切ることなどは、どう考えても出来ないことです。この上は支配人の吉三郎が帰るのを待って、第二段の活動に入り、遺言状でも捜し出して、下手人の当りをつける外はないことになりましたが、清六が殺されてから二日目の晩、
「親分、助けて下さい」
向柳原の叔母さんの家にとぐろを巻いているガラッ八の八五郎のところへ、思わぬ人間が飛込んで来ました。
「何だ、植木屋の松さんじゃないか。どうしたというんだ」
それは近所に住んでいる植木屋の松五郎という中年男、八五郎とはよく馬の合う正直者です。
「あっしは殺されそうなんで」
「何を言うんだ、親の敵でも討たれる覚えがあるのか」
「冗談じゃありませんよ」
「それとも人に狙われるほど金でも入ったのか」
「それなら有難えが。──相変らずのピイピイで」
「さア判らねえ。女出入りにしちゃ、松さん少し汚く老けすぎたぜ」
八五郎はどこまでも茶にしているのです。
「ともかく、聞いて下さいよ、八五郎親分。一昨日の晩は越前屋の帰り、柳原でいきなり暗闇から白刃で突っかけられ、跣足になって逃げ出したし、ゆうべは家へ押込みが入って、すんでの事に寝首を掻かれるところだったし、ツイ先刻は両国橋の上から、もう少しで大川へ突き落されるところでしたよ。欄干に掴まったからいいようなものの、そうでもなきゃ、あっしは徳利同様だ。今頃は土左衛門になっているところで。──ブルブルブル」
松五郎は首を縮めるのでした。
「なるほどそいつは物騒だ。──何か人に狙われる覚えがあるのかい」
「ないこともありませんよ」
「何だい、そいつは?」
「越前屋の番頭さんが殺された一件で」
「フーム」
八五郎もツイ乗出しました。
「あっしはね、越前屋の亡くなった旦那には可愛がられましたよ。お前は少し馬鹿だが正直で気がおけなくていい──って」
「なるほどね」
「──で、番頭の清六さんとあっしを呼んで旦那のおっしゃるには──私もだんだん取る年で、いつぽっくり行かないものでもない。気になるのは死んだ跡の越前屋の相続だ。口で言ったんじゃ世間で信用しない者もあるだろうから、遺言状を作って、私が死んだ後、甥の吉三郎と金次と、姪のお辰と、それに番頭の清六とお前が立ち会いの上で見ることにしておきたい──とこういうわけで」
「フーム、フーム」
「番頭の清六さんとあっしを手伝わせて、三人力を協せて遺言状を隠しましたよ」
「どこに隠したんだ」
「そいつは滅多に言えません。番頭さんが死んだ上は、吉三郎さんが大坂から帰った上で、皆んな顔を合せて、あっしから申上げ、遺言状を取出して、その通りにしなきゃなりません」
「お前を殺して、どうしようというのだろう──その遺言状を奪る気かな」
「あっしを殺せば、遺言状の隠し場所は誰にも判りゃしません。番頭さんは殺されてしまったし、遺言状はそのまま腐ってしまいますよ」
「腐ってしまう」
「ヘエー」
「ともかく、そいつは俺一人の思案じゃ埒があかない。ちょいと銭形の親分のところへ行ってみないか」
八五郎はさすがに己を知っておりました。
「もう外へ出るのは御免ですよ。ここへ来るんだって、容易のことじゃなかったんで。誰か跟けている様子で」
「気の弱いことを言うな」
「でも、どこから白刃が飛出すか、わかったものじゃありません」
「よしよし、それじゃ俺だけ行って来る。此家から外へ出ちゃならねえよ」
「出ろったって出やしません」
「大丈夫だな」
八五郎は万事を叔母に任せて、親分の銭形平次の家へ駆け付けました。
ガラッ八が平次をつれて引返して来たのは、それからほんの一刻の後。
「松五郎さんはすぐ帰ったよ」
あれほど頼まれた叔母は、けろりとしてこんな事をいうのです。
「えッ、あんなに言っておいたのに、何だって帰ったんだろう」
八五郎ははなはだ拍子抜けの気味でした。
「だって松さんの倅の──丑松とか言ったね。──あの子が迎えに来たんだよ」
「仕様がないなア」
「松五郎の家というのは遠くはあるまい。行ってみようか、八」
平次は気軽にそう言ってくれます。
そこから、松五郎の家までは、ほんの五六丁。
が、二人は行き着く前に、大変な事件に出っくわしていたのです。
「何だえ、八、あの人だかりは?」
柳原土手、提灯の行き交う中へ、平次とガラッ八は顔を持って行きました。
「あ、大変ッ、松さんが」
それは思いも寄らぬ事でした。植木屋の松五郎は後ろから胸のあたりを一と突きにされて、土手の上にこと切れ、血だらけの死骸に取縋って、十三になる倅の丑松は泣いているではありませんか。
「どうした、丑松」
それを抱き起すように、八五郎。
「わーん、ちゃんが、ちゃんが、親分」
小倅はもう他愛もありません。
いろいろなだめて訊くと、八五郎の叔母の家から父親とつれ立って、ここまでやって来ると、いきなり後ろから追い抜いた男が、父親──松五郎の背中から脇差を突っ立て、はッと思う間もなく逃げ去ったというのです。
もとより人相も判らず、身扮もはっきりしません。
盗られたものは一つもなく、急所の重傷に、松五郎は直ぐ息が絶えた様子ですが、死に際にたった一と言。
「ちゃんは苦しそうに、石、石、──って言ったよ。石を拾って、悪者へ抛れという事かと思ったが、真っ暗でもう何にも見えなかったんだ」
丑松の言ったのはたったこれだけ、何の事やら見当もつきません。曲者の姿で、幼い丑松の眼にも気の付いたのは、草鞋脚絆に足を堅めていたことですが、その晩は小雨が降って、何となく薄寒かったので、曲者が草鞋脚絆に身を堅めていたところで大した不思議ではありません。
植木屋の松五郎殺しが、越前屋の番頭殺しと、脈を引いていることは判りますが、下手人は誰かということになると全く五里霧中です。
越前屋の金次にも、浪人の岩根源左衛門にも、完全な現場不在証明がないにしても、大した怪しい節もなく、お辰もこの場合も疑いの外に置かれます。
わけても、金次はその時分風呂へ行ったと判り、疑えば疑える地位に立ちましたが、風呂屋の番台で聴いても、確かに湯に入っており、それにわざわざ、足拵えなどをする隙があろうとも思えず、浪人者の岩根源左衛門は、相変らずの早寝で、外へ出た様子もありません。
「親分」
「何だ、八」
八五郎が飛込んで来たのはその翌る日の朝でした。
「三輪の万七親分が金次を挙げましたぜ」
「ヘエー」
「清六殺しと松五郎殺しですって」
「そいつは変だな」
「大丈夫でしょうか、親分」
「俺はそれより、浪人者の寝る四畳半に、抜け穴でもないか、それを捜した方が早いと思うよ」
「あの浪人者が。──下手人ですか、親分」
「いや、そうらしくないから困るんだ」
「姪のお辰はどうでしょう。──あの女はやけに綺麗だが、何を訊いても物を言わず、二人が殺された時刻にも、どこにいたか判りませんよ」
「まさか、あの娘の手際じゃあるまいよ」
平次はあまり取合いません。
「それから、大坂へ支配人を迎えにやった越前屋の使いの者が今日帰ったそうですよ。丁度二十四日目だ。支配人の吉三郎は二日遅れて発ったはずだから早くて明日、遅ければ明後日江戸へ入るんですって」
「フーム」
「越前屋から、今朝迎いが出ました。川崎の万年屋で落ち合うはずだそうで──」
「行こう、八」
銭形平次はいきなり立ち上がりました。
「どこへ行くんだ、──親分」
「川崎の万年屋だ。大坂から帰って来る支配人に会って、いろいろ訊いてみたい」
「ヘエー」
ガラッ八には何が何やら判りませんが、こうなると、銭形平次に引摺られて動く外はありません。
平次と八五郎が川崎の万年屋に着いたのは、その日の昼少し過ぎ、越前屋の手代二三人は、お茶を呑んだり、外を覗いたり、落着かぬ様子で支配人の着くのを待っております。
「おや銭形の親分さん?」
けげんな顔をする手代達に迎えられて、
「大師様の帰り、ちょいと覗いてみただけさ」
平次は事もなげですが、大師様をだしに使うのは擽ったいのか、八五郎はテレ隠しにポリポリ小鬢を掻いております。
そのうちに、
「来ましたよ。あれ、向うから支配人さんが」
物見に出ていた小僧が飛んで来ました。それッと店先へ出ると、
「おやおや、わざわざ多勢でここまで来て下すったのか、それは御苦労様で」
越前屋の支配人吉三郎は、長途の旅に困憊し尽した姿ながら、埃だらけの顔にも豊かな微笑を浮べて、皆んなの前に近づくのでした。
「ゆうべの泊りはどこでしたえ」
不意に声を掛けたのは八五郎です。
「戸塚の米田屋で──」
「その前の晩は?」
「大磯の虎屋で──あ、お前さんは、どなただえ」
吉三郎はまじまじと八五郎の顔を見るのでした。それを横から取って銭形の平次は、
「吉三郎さん、留守に大変な事が起ったよ。番頭の清六さんと植木屋の松五郎が殺されて、大旦那の遺言状がなくなる騒ぎさ」
「えッ」
「あっしは平次だ」
「銭形の親分さん。──そうでしたか、それはそれは」
吉三郎は漸く平静を取戻した様子です。
それからは何事もなく、迎えの店の人達と一緒に、少し足を痛めたらしい吉三郎は、平次を加えて、何かと打ち語りながら、江戸へ入りました。
吉三郎が帰って来ると、越前屋も何となく落着きを取戻して、日頃の秩序が蘇ります。
跡目の相続は、吉三郎か金次か、それともお辰か、いずれ親類が寄って、亡くなった佐兵衛の気持を考え合せた上、何とか決めることになりましたが、それにしても、せめて三十五日が済んでからというのが吉三郎の穏当な主張でした。
松五郎殺しの疑いで、三輪の万七に挙げられた金次は、三日経っても、四日経っても帰らず、そのまま清六松五郎殺しの下手人に決るのではないかと思われた七日目の晩、平次の家へ──、
「親分さん、どうぞ、金次さんを助けて下さい。あの人は人なんか殺すような悪い人じゃありません。お願い──」
転げ込んで来たのは、越前屋の姪のお辰でした。
二十一になるというのに、子供子供した美しさで、その純情さも、一と通りではない様子です。
「お辰さんじゃないか。どうしたというのだ、今頃──」
「今晩親類たちが寄って、私を吉三郎さんと一緒にして、越前屋の後を継がせることに決めました。私はもう」
お辰はたださめざめと泣くのです。
「支配人の吉三郎さんは、それで、どうしたんだ」
「一応は辞退していましたが、皆んなで決めてしまっては、どうしようもありません──吉三郎さんが跡を取っても構いませんが、私は嫌で、嫌で」
「よし、判った。俺もあの吉三郎という男は虫が好かないよ。そのうちに何とかなるだろう、少し待ってくれ」
「でも私は、越前屋へは帰られません」
お辰がむずかっている真っ最中でした。
「親分、判った。──ああ、草臥れた」
疾風のように飛込んで来たのは埃だらけの八五郎でした。
「八、御苦労だったな。どうだ様子は?」
「川崎から真っ直ぐに東海道を、大磯まで行きましたよ。吉三郎が前の晩泊ったという米田屋で訊いたが、その晩は講中の客で一杯、ふりの客は皆んな断っている」
「大磯の虎屋は?」
「こいつは大笑いだ。大磯に虎屋なんて旅籠屋はないぜ。大磯に虎屋があるなら、少将屋もあるだろうって、へッへッ」
「そんな事だろうと思ったよ」
「すると、あの吉三郎の野郎が」
「うん、あの野郎だ。大坂から江戸まで十二日の旅だが、早飛脚は十日から八日で通すのが常法だ。三枚で飛ばせば七日でも来られないことはない。あの野郎、越前屋から行った急使を一日早く発たせて、その後から金に糸目をつけずに飛ばし、七日目か八日目に江戸へ着き、案内知った自分の家へ紛れ込んで様子を捜った上、金次の煙草入を持出して、清六の風呂へ出るのを待ち受け、途中から柳原河岸へおびき出して殺したんだ」
「首を斬ったのは?」
「煙草入が証拠にならなかったら、浪人の岩根源左衛門に疑いを向けるつもりだったのさ」
「ヘエー」
「それから松五郎を狙って殺し、遺言状をうやむやにして越前屋を乗っ取るつもりだったんだろう。吉三郎は支配人面をして威張っていても、主人の佐兵衛は目が高いから、跡目は人の好い金次に継がせるつもりだったのさ」
「ヘエー、どうしてそんな事がわかったんです、親分」
「俺は小僧の三吉に頼んで、吉三郎の道中差を盗み出させたよ。よく拭いてはいるが、脂でベットリだ」
「ヘエー」
「さア行こう、これだけ証拠が揃えば文句は言わせねえ。面倒な事が起ったら、道中の問屋場と人足を調べるまでの事だ。──松五郎を殺して引返し、川崎へ埃だらけになって来た足取りを調べるだけでもたくさんだ」
平次とガラッ八は、その足ですぐ越前屋に飛込み、落着き払って親類会議の御祝儀を受けている吉三郎をキリキリと縛り上げました。
「太え野郎だ、神妙にせい」
いやもう八五郎の威勢のよかったこと。
*
金次は、間もなく許されて帰り、お辰は平次の口添えで、金次と祝言することになりました。
が、困ったことに、越前屋佐兵衛が、番頭の清六と、植木屋の松五郎に手伝わせて隠したという、大事な遺言状の行方がわからず、越前屋の跡を継ぐ者もないままに、五日十日と過ぎました。
「親分、遺言状はどうしたでしょう」
越前屋の家中の者を指図して、家の中から土蔵まで、床下天井の差別なく捜し抜いた八五郎は、毎日帰って来るとこう平次に聴くのでした。
「待ってくれ、八。死んだ主人が一人で隠せなくて、番頭清六と植木屋の松五郎に手伝わせたと言ったろう」
「だから敷石を剥いだり、井桁を崩したり、土蔵の壁まで崩しましたよ」
「そんな場所じゃあるまい。それから、松五郎は死に際に、倅の丑松に何とか言ったそうじゃないか」
「石を抛れと言ったんでしょう」
「それだよ、石、石と言ったのは石を抛れというのではなかったんだ。重い石──重い石──、判ったよ。八」
「どこです、親分」
「越前屋の菩提所はどこだ?」
「谷中の長海寺で──立派な塔がありますよ」
「それだッ」
平次の推理は見事に的中しました。谷中の長海寺の越前屋の墓所の塔の中に、金次をお辰と嫁合せて越前屋の相続人にすると書いた佐兵衛の遺言状は、その晩のうちに見つかったのでした。
底本:「銭形平次捕物控(十五)茶碗割り」嶋中文庫、嶋中書店
2005(平成17)年9月20日第1刷発行
底本の親本:「錢形平次捕物全集第十八卷 彦徳の面」同光社磯部書房
1953(昭和28)年10月20日発行
初出:「文藝讀物」文藝春秋社
1943(昭和18)年10月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:結城宏
2020年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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