銭形平次捕物控
紅筆願文
野村胡堂
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「御免」
少し職業的に落着き払った声、銭形平次はそれを聞くと、脱いでいた肌を入れて、八五郎のガラッ八に目くばせしました。あいにく今日は取次に出てくれる、女房のお静がいなかったのです。
「へッ、あの声は臍から出る声だね」
ガラッ八は頸を竦めて、ペロリと舌を出しました。
「無駄を言わずに取次いでくれ」
「当てっこをしましょうや、──年恰好、身分身装」
「馬鹿だなア」
「まず、お国侍、五十前後の浅黄裏かな」
ガラッ八は尤もらしく頸を捻ります。
「訛がないぜ、──それに世馴れた調子だ──まず大家の用人というところかな」
平次もツイ釣られます。
「御免」
もう一度、錆のある素晴らしい次低音が、奥のひそひそ話を叱るように響きました。
「それ、お腹立ちだ。言わないことじゃない」
ガラッ八は月代を薬指で掻いて、もう一度ペロリと舌を出しながら、入口の方へ飛んで行きます。
「仔細あって、主人御名前の儀は御免蒙るが、拙者は石川孫三郎と申す者。平次殿にお願いがあって罷り越した、ほんのちょっと逢って頂きたい」
少し横柄ですが、ハキハキと物を運び馴れた調子です。
「お聞きの通りだ、親分、──この賭は口惜しいが親分の勝さ、四十五六の型へ入れて抜いたような御用人だ。逢いますか、親分」
ガラッ八はモモンガアみたいな手付きをして見せます。
「御武家は苦手だが、折角こんな所へ来て下さったんだ、とにかくお目に掛るとしよう。こちらへ丁寧にお通し申すんだ」
「お家の重宝友切丸か何か紛失したんだろう、むつかしい顔をしているぜ、親分」
「無駄を言うな」
「ヘエ──」
ガラッ八はようやく客を導いて来ました。前ぶれ通り、存分に野暮ったい四十五六の武家、羽織の紐を観世縒で括って、山の入った袴、折目高の羽織が、少し羊羹色になっていようという、典型的な御用人です。
「これは、高名なる平次殿でござるか。拙者は石川孫三郎と申す、以後御見識りおきを願いたい」
肩肘を張って、真四角にお辞儀をします。
「ヘエ、恐れ入ります。私は平次でございます。どうぞ、お手をおあげ下さいまし」
平次はすっかり恐縮してしまいました。どうも一番あつかいにくい種類のお客様です。
「早速ながら、用件を申上げるが、実は平次殿、お家にとって容易ならぬ事が起ったのじゃ。何とか力を貸しては下さるまいかの」
武家は折入った姿ですが、平次は何かしら釈然としないものがあります。
「どのような事か存じませんが、私は町方の御用を承っているもので、御歴々の御屋敷の中に起ったことへは、口をきくわけには参りませんが、ヘエ」
体よく敬遠するつもりでしょう、平次は紙袋を冠った猫の子のように尻ごみをしております。
「御尤も千万、だが、──平次殿に乗出して頂こうというわけではない。ほんの少しばかり、智恵を拝借すればよいのじゃ」
「ヘエ──」
「実は御親類筋の安倍丹之丞様から、平次殿のことを承って参ったが、この謎を解くものは、江戸広しといえどもまず平次殿の外にはあるまいと」(「傀儡名臣」参照)
「御冗談で──」
押の強そうな用人に捉まって、銭形平次も悉く降参してしまいました。
この勝負はとうとう石川孫三郎の勝でした。平次を口説き落すと、
「実はこれじゃ」
懐から取出したのは、小さく畳んで紙入に挟んだ小菊が一枚。畳の上にひろげて、平次の前へ押しやるのです。
「これは?」
「見られる通り、一枚の小菊の中ほどに、紅筆で書いた、得体の知れない仮名文字が二十五ある」
「ヘエ──」
差し覗くまでもありません。女の使う笹紅を、筆に含ませて書いた文字が二十五。平次が見てもなかなかの達筆ですが、不思議なことに、最初の一行が「あなかしこ」と読めるだけ、あとは、どう読んでも意味が通じません。
その全文を掲げると、
あ な か し こ
え の ち を す
ま い わ か み
た お の と や
め ち ち に か
こんな具合になります。
「これが平次殿、お屋敷奥庭の祠、何様とも判らぬまま、お稲荷様と申している社殿の中にあったのじゃ」
「ヘエ──」
「それも一度や二度ではない、三度までも」
石川孫三郎も、ゴクリと固唾を呑みます。
「どんな弾みで、見付けなすったんで?」
平次の好奇心もかなり揺すぶられます。
「二百十日の嵐で、お屋敷の廂も塀も、奥庭の祠もひどく傷んだ。あちらこちら手入れをするついでに、雨漏りのひどくなった祠も修繕させようと思うと、正面台の上に、これがキチンとのっていたのじゃ」
「御本尊は?」
「御本尊と言ってはない。祠の中には、御幣が一本立っているきりだ。その御幣も雨漏りでひどく汚れたが、その御幣の前の台の上に、これが畳んだまま置いてあったのじゃ」
「汚れもせずに」
と平次。
「左様、──たぶん嵐の後で置いたものであろう。台はまだ乾き切ってはいなかったが、この紙には何の汚れもなかった」
「ヘエ──」
「それだけならよい。が、何と申しても不気味な紙片だから、拙者一存の取りはからいで、祠の前で焼き棄ててしまったが、翌る日の朝、何気なく覗いてみると、また同じものが台の上に供えてある」
「…………」
「それも焼き棄てた、もうこれで大丈夫と思うと、今日──三日目に、またこの小菊がのっている」
「誰かに相談しましたか」
「いや、──御主人様は永の御患い、若殿様はまだお若い上に、至ってお弱い方じゃ。こんな事を申上げたら、お心持にもお身体にも障るかも知れない。三日目の今朝になって、お屋敷にこの春から泊っていらっしゃる、御親類の方──浅井朝丸様という方に相談申上げ、いろいろ考えたが、何としてもわからぬ。思案に余って、いつぞや安倍丹之丞様から承った平次殿が名前を思い出し、押して参った次第じゃ」
石川孫三郎はそう言って眉を垂れるのです。押の強そうな頑固な感じのする人間ですが、一徹の忠義らしいところが、次第に平次の好感を誘います。
「ところで、この文句を読む見当でもつきましたか」
平次はこの謎の二十五文字に吸付いて、一生懸命考えている様子です。
「いや、一向判らない。浅井朝丸様は、四角な文字も読む方だが、この文句ばかりは読む工夫がないと言われる。縦から読んでも横から読んでも、斜めに読んでも、逆さに読んでも読み下せないのじゃ」
「なるほどこれはむつかしい──ところで、この奥庭の祠とやらへ、外から自由に出入りが出来ましょうか」
「と申すと」
「よくお屋敷方の内神様で、塀の一箇所に凹みを拵え、外から自由にお詣りの出来るようにしたのを見掛けますが──」
「いや、そんなのではない。塀は厳重な板塀で、忍び返しまで打ってある、容易に外から入れる場所ではない」
「すると──」
平次はもう一度謎の仮名文字に目を落しました。
「そんな事はありようはずはないが」
石川孫三郎の顔は硬張りました。何と言おうと、どう誤魔化そうと、この悪戯は、屋敷内に住んでいる者の仕業でなければなりません。
「ところで、この文句を読む見込みはどうしても、立ちませんかね」
と平次。
「残念ながら見込みはない。そっと写し取って、近所の手習の師匠にも見せたが、──もっとも浅井朝丸様は、これは学者や坊主は、読めまい、吉備真備の読んだ野馬台の詩のようなものだから、安倍仲麿の蜘蛛でも下がってくれなきゃと申される」
「なるほど、野馬台の詩みたいなものだ、──ところで御用人様、御屋敷に住んでいらっしゃる御人数は?」
「殿様は六十五におなり遊ばす、御病気で一年越しお床に就いたっきりだ。若殿時之助様は二十五でまだお一人、よく出来た方だがお弱い。奥方はお勇様とおっしゃって四十」
「若様とお年が十五しか違いませんね」
「後添えでいらっしゃる、若殿様とは継しい仲だが、至ってお睦まじい。奥方には今年十九になる若葉様という、それはそれは綺麗なお嬢様がある」
孫三郎はこの主人の娘がひどく自慢の様子です。
「それから?」
「掛り人の浅井朝丸様、殿様の遠い甥御じゃ、これは二十七歳、文武の心得もある」
「…………」
「外に拙者と、お腰元が一人、お松といってこれは十八、仲働きが二十六のお宮という忠義者、下女が二人、それに鉄という仲間がいる。鉄太郎とか鉄五郎とかいうのであろう、請状には名前は書いてあるはずだが、二十八になる良い若い者で、鉄、鉄で通っている」
「それだけですね」
「もう一人、門番は宇内という老人夫婦、六十を越しているが、恐ろしく達者だ」
「…………」
「外には、馬が一頭、猫一匹──」
「よく判りました。その御人数の中で、仮名文字をこれだけ綺麗に書けるのは、どなたでしょう」
「さよう、──まず腰元のお松と──」
「御嬢様の若葉様と、奥様のお勇様と──」
平次は指を折りました。
「いや、お嬢様や奥様は、このような悪戯を遊ばすはずはない」
「浅井朝丸様とやらも、書けば書けるのでしょう。若殿時之助様も、御用人のお前様も」
「とんでもない」
石川孫三郎は大きく手を振ります。
「ところで御用人様」
ひどく改まった平次の顔を、石川孫三郎は不安らしく見上げました。
「この謎の仮名文字を読むと、決して幸せなことはございませんが、それでも読みたいとおっしゃるでしょうか」
「?」
「この文字は恐ろしい言葉でございます。これが読めると、御用人様一日も一刻も安い心がなくなるばかりでなく、お屋敷の皆様には恐ろしい疑いの雲がかかりますが、それでも──」
平次はもうこの謎を解いてしまった様子です。
「そう聞くと、私も迷うが、いずれにしても、そのままには相成るまい。それを読まずに焼いてしまったら、悪戯者はまた四枚目を用意するだろう。悪いものなら悪いもののように、書いた者を詮議して、後の祟りのないようにするのが、この石川孫三郎の勤めと申すものであろう」
「いかにも、御尤も、──では読み下します、御覧下さい」
「…………」
平次の指の先は、小菊の真ん中、五つずつ並べて五行に書いた、三行目の三番目──一番真ん中のわという字を指しました。
「御用人様、私の指の動くとおりに読んで下さい」
あ─な─か─し─こ
え の─ち─を─す
ま い わ─か み
た お─の─と や
め─ち─ち─に─か
平次の指は紅筆で書いた仮名文字の上を、吉備真備を救った蜘蛛のように動きます。
「何々、わ、か、と、の、お、い、の、ち、を、す、み、や、か、に、ち、ち、め、た、ま、え、あ、な、か、し、こ」
石川孫三郎の顔は、平次の指を追って読み上げるうちに真っ蒼になりました。後の半分ほどは口の中で呟くだけで、最後の一句でゴクリと固唾を呑みます。
「御用人様、──若殿お命を速やかに縮め給え、穴賢──と紅筆で願文を書くような人間は、御屋敷に心当りはありませんか」
「ない」
孫三郎は深々と腕を拱いて、畳の縁を凝と見詰めております。
「読んで上げない方がよかったかも解りませんが、お屋敷にこんな大それた願文を書く人間がいちゃ抛ってはおけません。一度はイヤな思いをなさるつもりで、この書き手を捜し出し、後腐れのないようになさいませ」
平次はこうでも言う外はありません。
「有難う。屋敷の名も申さず、定めし無礼な奴と思うであろうが、何事もお主のため、──この私に免じて許して下され。早速悪者を捜し出し、思い知らせた上、お礼に参るであろう。さらばじゃ、平次殿」
孫三郎は打ち萎れて帰って行きました。
「親分、変なことがあるものだね」
ガラッ八は酸っぱい顔をします。
「まだまだうるさい事になるだろうよ」
平次はまだ何か考えている様子です。
それから三日。
「御免」
錆のある声が少し落着きを失って、また平次の戸口を訪れました。
「親分、来たぜ」
「シッ、丁寧に取次ぐんだ」
平次に促されて、ガラッ八は石川孫三郎を案内して来ました。
「平次殿、──大変なことに相成った」
典型的な用人が、挨拶も忘れて平次の前にドカリと坐るのです。
「悪戯者が解りましたか」
「それがトンと相解らぬ、いや解ったつもりになったばかりに、大変なことに相成ったのじゃ」
「…………」
「平次殿、この上は隠しても無益なこと、何もかも打明けて申上げる。実は、拙者の主人と申すのは本郷元町に御屋敷のある、二千五百石取の御旗本、横山主計様」
「大方見当は付いておりました」
「なるほど、さすがは平次殿、主人御名前を隠しおおせたと思ったのが拙者の浅はかさだ、──それはともかく、あの謎の文句を、立帰って主人主計様にお目にかけたところ、御病中ながら以ての外の御立腹。若殿時之助様御命を縮めたいと思うものは、当屋敷内に、継しい奥方お勇様の外にあるはずはない──とおっしゃる」
「…………」
「御重態の床から起き上がり、奥様を御呼付け、弓の折れを持っての御折檻じゃ」
「…………」
平次も驚きました。かりそめに読んでやった謎の言葉が、それほどの騒ぎを起そうとは思わなかったのです。
「御主人様の御考えも一応は尤もながら、奥様は、御同族の中にも聞えた貞節、二十年この方、手塩にかけてお育て申上げた、若殿時之助様の御寿命を縮めたいと思われるはずもない。拙者も必死とお止め申したが、御老体の一徹さ、何としてもお心が解けない」
「…………」
「二日二た晩に及ぶ折檻の後、奥様には、よくよく思い定めたものと相見え、昨夜、──深更、見事に生害してお果てなされた」
「えッ」
平次は水をブッ掛けられた心持でした。
「たった一人の御跡取り時之助様の御寿命を呪われ、殿御腹立ちも尤も至極だが、継しき仲を疑われて生害して身の潔白を示された、奥様の御心中もお悼わしい。今朝からお嬢様若葉様始め、召使どもの歎きで、お屋敷の中は滅入ったような心持だ。それに、遺書の立派なお言葉に、殿も今さら後悔の御様で、──なんにもおっしゃりはしないが、黙って我慢していられるだけにお気の毒だ」
「…………」
平次も何か自分が責められているような心持で、小さくなって聞いております。
「わけても若葉様は、母上様の潔白のため一日一刻も早く、その呪いの願文を書いた悪戯者を捜し出し、父上様の御怒りも宥めて上げたいと、葬式の仕度もせぬおむずかりようじゃ。いかにも、尤も至極の願い、お嬢様の御心持をお察し申上げると、悪戯者を捜すのが何よりの供養じゃ──拙者も包み兼ねて、実はこうこうと、平次殿のことを申上げると、ではその平次殿とやらに、早速屋敷へ来て頂くように、お前がお迎えに行って来いというお言葉じゃ。殿様、若様にも御異存はない、一刻も早く、平次殿が行ってくれなければ、奥方お勇様の御葬いの仕度も相成り兼ねる仕儀じゃ。どうであろう、平次殿」
石川孫三郎は、手を突いてまた真四角にお辞儀をするのです。
「よく解りました。いかにもお屋敷へ参りましょう」
「それでは、来て下さるか」
「もともと私が余計な猿智恵を働かせて、あんな謎を解いたから起ったこと、──いかにもお供いたしましょう。悪戯者を取っちめて、キュウキュウ言わせなきゃ、この平次の心持が納まりません」
「では、平次殿」
「参りましょう。後と言わずに、今、すぐ」
平次は帯をキュッと締め直すと、羽織を引っかけて、石川孫三郎に従いました。
「親分」
後ろからガラッ八の八五郎。
「来るがよい、手が欲しくなるかも知れない。十手なんか要るものか、相手は御大身の旗本屋敷だ」
元町の一郭を占領した、宏大な横山主計の屋敷。平次とガラッ八は、用人石川孫三郎に案内されて、裏門からお勝手へ廻り、奉公人達の好奇の眼に迎えられて、奥の主人主計の部屋に通されました。
「平次──と申すか、宜しく頼むぞ。世間へ聞えては、当家の瑕瑾にも相成る、その辺抜かりなく──」
病床に半身を起したのは、頽然たる主人です。肝の病で久しく寝ていたのが、三日前怒りに任せて奥方を折檻し、引続く心痛に疲れ果てて、物を言うのもおっくうそう。
「畏まりました」
平次はそう言うより外にありません。孫三郎に目配せされて、早々に引下がると、次は若殿時之助、これは敷居際で黙礼しただけ。
「平次と申すそうだな。宜しく頼みますぞ」
時之助はそれでも優しく声を掛けます。二十五というにしては、ひどく若く見えるのは、心も身体も弱いせいでしょう。でも何となく清純な聡明な感じがして、平次には好感の持てる青年でした。
お嬢様の若葉には縁側から挨拶しました。小机に凭れて、眼を脹らしておりますが、下膨れの細面が、類のない上品さです。
「お願い申します」
半分は口の中で言う言葉が、千万言の雄弁よりも、少なくとも、平次の後ろからヒョコヒョコとお辞儀をする八五郎には徹した様子です。
「お嬢様、きっとこの平次が、悪戯者を見付けてお目にかけます。──が、一つだけお尋ね申します」
「何なと」
「お屋敷で口紅をお使いになるのは、どなたとどなたでございましょう」
「私と、それから松だけ、──母上はお用いになりません」
屹とした言葉は、死んだ母の無実を少しでも晴らそうというのでしょう。
「皆様お使いの小菊を一枚頂戴いたしとうございます」
「…………」
若葉は黙って手筐の中から一と束の小菊を取出して、平次の方に押しやりました。
「有難うございました」
一枚取って見ると、謎の文句を書いた紙と全く同じ漉きです。
「それから、これは私の紅、と、筆」
可愛らしい鏡台の抽斗から出した紅皿が二つと、これも可愛らしい紅筆が一本、平次の前にそっと押しやるのでした。紅皿の一つは使いかけですが、筆の穂が太く柔かくて、とても、美しい仮名文字などを書ける品ではありません。
それから平次は掛り人の浅井朝丸に逢いました。二十七八の髯跡の青々とした好い男、学問も武芸も相当らしく、わけても銭形平次の近頃の働きにすっかり夢中になっている様子です。
「御苦労だな、平次」
「恐れ入ります」
「何か手掛りは見付かったか」
「なんにも解りません」
「紅筆で仮名文字を書いたから、女の仕業と考えるのは少し早合点だな。現に叔父上はそれでしくじったのだ」
浅井朝丸は穿ったことを言います。
「御尤もで」
平次はそれに軽くうなずきました。良い参考になると思った様子です。
それから腰元のお松にも逢いました。十八というにしては、ませた娘で、可愛らしくも悧発でもありますが、持っていた紅皿は、指の跡がたくさんあるだけ、紅筆を使った様子も、紅筆などを持っている様子もありません。
「若殿様をどう思う」
「御慈悲深い方でございます」
何かしら、あごがれを持った眼を、平次がジッと見詰めると、お松は真っ赤になって差しうつむきました。
仲働きのお宮は働くより外に望みも興味もない女。外に下女が二人、年寄りの門番夫婦にも逢いましたが、何の変哲もありません。
「もう一人、仲間の鉄がおります」
「なるほど」
平次は孫三郎に案内されて、仲間部屋に入って行きました。
「鉄はちょうどいないようだが」
「中を見ても構わないでしょうな」
「構わないとも」
孫三郎のうなずくのを見ると、平次は仲間部屋に入って行きました。三畳の隅っこに、蜜柑箱が一つ、行灯が一つ、蜜柑箱は机の代りになるらしく、その上に硯箱が置いてあって、箱の中には、手習をした塵紙が二十枚ばかり重ねてあります。取上げて見ると、何か往来物を習っている様子、下手は下手ながら、一生懸命さが溢れているのも不思議です。
「よっぽど心掛けの良い男ですね」
「渡り仲間には珍しい男だ」
「どれどれどんな物を持っているか」
三尺の押入を開けると、上は夜の物、下は竹行李が一つ、蓋をあけると、中から着替えが二三枚と、新しい手拭と三尺と、塵紙が少々、それに小銭の少し入った財布と、紙の包みが一つあります。
中を開けてみると、
「あッ」
三人声を合せたのも無理はありません。紙包みの中から出て来たのは、真新しい天具帖で包んだ紅皿が一つ、赤い半襟が一と掛けです。
「この野郎だッ」
わめく八五郎。
「待て待て、紅皿は真新しい、買ったばかりで手が付いていない、──それに半襟だけは余計だ」
平次は落着払ってその下を見ると、底の方へ押込むように入れてあるのは、一口の匕首、抜いてみると、思いの外の凄い道具です。
ちょうどその時、仲間の鉄がノソリと帰って来ました。一と目様子を見てとると、
「何をしやがる、──誰に断って人の物に手を掛けるんだ」
平次の襟髪へ手を掛けます。
「野郎ッ、御用だぞッ」
ガラッ八はその後ろから飛付きました。
「何をッ」
振り返った鉄の拳が、思い切りガラッ八の頬桁に鳴ります。
「神妙にせい、御用だぞッ」
猛然と掴みかかる八五郎、二人は一瞬動物のように争いました。が、とうとう八五郎が勝って、鉄を膝の下にギュッと引据えます。
黙ってそれを見ている平次。
「親分、縄を、縄を」
ハネ返そうとする鉄を押えて、ガラッ八は必死と争い続けるのです。
「もういい、縛らなくたって、話は解るだろう、──鉄とか言ったな、──お前の留守に押入を見て悪かったが、御主人のお許しがあったんだ」
「…………」
ガラッ八の手を離れると、鉄はプリプリしながら起き上がりました。二十七八の丈夫そうな男ですが、渡り仲間のすれっ枯らしなところがなくて、なかなか良い印象を与えます。
「お前に少し訊きたいことがある──この紅と半襟は何のために持っている」
平次の調子は静かですが、いや応言わさぬ強さがあります。
「紅や半襟を、折助や仲間が持っていちゃ悪いのかえ、──夜鷹や白首にやるんじゃねえ、十六になる妹に持って行ってやるつもりで買っておいたんだ」
「それは良い心掛けだ、──匕首は?」
「そいつは男の魂だ。万一の時の用意に持っていちゃ悪いか」
鉄は事ごとに逆ねじを喰わせます。
「よしよし、それもお前の言うのを本当にしよう。ところで、お前は何か隠していることがあるようだ。町方の手で調べて解らぬことはないが、そんな事をして、身分素姓が知れると、お前の請人がとんだ迷惑をするよ」
「…………」
「お前も聞いたはずで、昨夜このお屋敷の奥方が亡くなられたが──それは悪者の悪戯から起ったことだ。詳しく言えば、紅筆で書いた願文から起ったことだ、──その願文を書いた奴は、下手人も同様だが──お前はその疑いを受けている。その紅皿の貰い手をつれて来て、お前と突き合せるまでは、許すわけにいかないよ──」
「…………」
「お前の身許を洗ってみようか、それともここで言ってしまうか、どうだ、鉄」
「…………」
仲間の鉄は黙りこくって下ばかり見詰めております。深沈たる顔色です。
「八、この野郎は容易に口を割るめえ。請人を捜して、うんと絞ってみろ。どうせ所名前も偽だろう。本当の素姓が判ったら、親も女房子も皆んな縛り上げて来い」
平次は峻烈でした。
「よし、言うよ、みんなブチまけるよ」
鉄は頭を上げました。
「紅筆の願文を書いたのはお前か」
石川孫三郎は掴みかかりそうでした。
「違うよ、御用人、そんな腐った女のような事をするものか。俺はいかにも、横山一家に怨みがある。わけても若殿の時之助には、足を一本叩き折って、肥たごへ投り込みたいほどの怨みがある」
「黙れッ」
孫三郎は我慢がなり兼ねました。
「俺の母親が、ちょうどそんな目に逢ったんだ。やい、味噌擂り用人奴、よっく聞きやがれ」
鉄は言うのでした。──今から三年前、若殿時之助がまだ丈夫で元気だった頃、甲州街道を遠乗りして、笹塚で百姓女を一人蹄にかけて大怪我をさせたことがありました。女が高荷を背負っていたために、馬が驚いて狂奔したというのを理由に、気の立っていた時之助は、怪我をして肥たごに落ちた女を見捨て、そのまま屋敷へ引揚げて来たのです。
女は鉄の母親でした。足を折った上、馬に蹴られた場所が悪かったか、そのまま床に就いて枕もあがらず、あまりの事に、人を頼んで横山家に掛け合いましたが、けんもほろろの挨拶で、相手にもしてくれません。
鉄は多血性男子でした。母の看護を小さい妹に任せ、江戸へ出て転々奉公しているうち、縁があって、素姓を隠したまま、横山家の仲間部屋に入り込んだのです。
「あわよくば殿様の前へ出て、思い切り啖呵を切るか、若殿をもう一度馬に乗っけて、足の一本も折ってやろうと思ったのさ。殿様は御病気、若殿も馬に乗る様子もねえ。いい加減に諦めてオン出てやろうと思っている矢先だ、妹へ紅や半襟を買ったのは、久しぶりで笹塚へ帰る土産だよ。解ったか、味噌擂り奴、──手前は腹の悪い人間じゃねえが、主人大事が嵩じて、外の者へツラく当りすぎるよ、気を付けやがれ」
「…………」
石川孫三郎も一句もありません。
「紅筆の何とかを書いて、人に嫌がらせをするような、そんなケチな野郎じゃねえ。見損ないやがったか」
鉄は土間に大胡座をかいて、精一杯の啖呵を切るのです。
「よしよし解った、が、そう解った上はこの屋敷へおくわけに行かねえ、俺と一緒に来い」
平次は静かに鉄の肩を叩きます。
「あ、どこへでも行くよ。憚りながら岡っ引を怖がるような、そんな悪い事をした覚えはねえ」
立上がる鉄。平次はガラッ八を招くと、何やら囁いて、鉄をつれて自分の家へ帰しました。
「御用人様、奥庭の祠を見せて下さいませんか」
「いいとも」
石川孫三郎はホッとした顔で先に立ちます。
奥庭の祠には何の変ったこともありません。白い幣を立てた、三尺四方ほどの堂と、賽銭箱と、鈴と、それに赤い小さい鳥居と。
「紅筆の願文は、嵐の後で、堂を修復する話があってから、見付かったのですね」
「その通りだ」
と孫三郎。
「そのとき堂の中は湿れていたと言いましたね」
「最初のは、まだ乾き切らない台の上にのせてあったよ」
「有難うございました。それじゃまた明日の朝参ります、──皆んなへ、私がもう一度来ることを言っておいて下さい」
平次は変なことを言って帰って行きます。
その晩平次は、仲間の鉄をなだめなだめ、いろいろの事を訊き出しました。最初はプリプリしていた鉄も、平次の心持が解ると次第に打ち解けて、晩酌を付合いながら、滑らかに話すようになっていたのです。
その話の筋を纏めると、腰元のお松は若殿の時之助と親しく、ひとしきりは目に余ることもありましたが、身分の隔てがあるのと、母親のお勇が厳しいので、二人は次第に遠ざかって行くらしく、お松に暇を出すといった、一時の噂も立消えになっているということでした。
もう一つは掛り人の浅井朝丸で、これは文字もあり、腕もよく、ひとかどの人間には違いありませんが、少し道楽が過ぎるので、お勇には受けが悪く、一時は若葉を妻に申受けて、浅井家を興そうという話もあったようですが、いつの間にやらそれも沙汰止みになったということです。
「紅筆の願文を書くとすると、お松か、浅井朝丸のうちということになるな。明日はたぶん判るだろう」
平次は何やら成算があるらしく、四方山の話に更けてその晩は寝てしまいました。
翌る朝、ガラッ八と一緒に横山家へ行った平次。
「今日は御家来衆奉公人を始め、お屋敷の皆様の荷物を調べさせて頂きます」
始めからこういった触れ込みで、まず用人石川孫三郎の荷物を調べ、掛り人浅井朝丸の手廻りの品を調べました。
石川孫三郎の荷物には、何にもあるわけがなく、浅井朝丸の部屋にも怪しいものは一つもありません。この人はかなりのインテリらしく、むつかしい本が幾十冊と、机の上には、よい紙、よい墨、よい筆、よい硯などを取揃えてあります。
次は腰元のお松の部屋。
ここで平次は大変なものを見付けました。小さい手筐の中にいつぞや平次に見せた紅皿の外に、もう一つ使いかけの紅皿があって、それには指でなく、筆の跡があり、その紅を使ったらしい軸の短い紅筆までが添えてあるではありませんか。
「これは?」
平次はお松の面前に突き付けました。
「あッ、──私は、私はなんにも存じません」
お松は青くなって立ち竦みます。後ろからは虎視眈々たるガラッ八の眼。
紅皿は半分以上剥げて、筆はかなり上等の細筆、軸は半分ほどのところから切って捨ててありますが、穂の根の方が薄黒くて、元は墨に使った筆を、洗って紅筆にした様子です。
「お前のではないと言うのか」
「なんにも知りません。今朝までここにそんなものは入っていなかったんです」
あまりの事に、お松は立ち上がる力もなく、畳の上にヘタヘタと崩折れて、恐怖に見開いた眼が紅皿に吸い付いております。
「親分」
八五郎は後ろから、この娘の肩へ手を掛けそうにしました。
「待て、八」
平次は紅筆の穂を散らして、鼻の先へ持って来てちょっと嗅ぎましたが、
「この人じゃない」
大きくかぶりを振るのです。
「親分」
四方をねめ廻す八五郎。
「ごく良い唐墨を使っている人間の仕業だ、──それッ」
指した縁側には浅井朝丸が眼を光らせているのでした。
「野郎ッ」
飛付く八五郎。
「無礼者ッ」
一閃、危うく身をかわした八五郎は、浅井朝丸の二度目の襲撃を除ける暇もありません。
「あッ」
縁側から足を踏み外して、もんどり打って庭へ落ちるのを、浴びせて一と太刀。
が、それは平次の投げ銭に封じられました。
「えーッ」
肘へ一つ、頬へ一つ、ひるむところを、飛込んだ平次は、猛烈に体当りを一つくれると、浅井朝丸の身体は朽木のごとく庭へ落ちます。
「待ってました」
飛付いた八五郎、こんどは用意の縄でキリキリと縛り上げてしまいました。
*
「親分、変な野郎がいるもんだね」
帰り途、ガラッ八は平次の説明を誘いました。
「あれは本当の悪党さ、──自分で謎の呪文を書いておきながら、用人に、野馬台の詩みたいだ──って言ったそうだ。誰かに読んで貰わなきゃ困るが、自分で読んじゃ拙かったのさ。幸い俺は、辻講釈で聴いて、吉備真備が蜘蛛に教わって、野馬台の詩を真ん中の一字から──東海姫氏の国──と渦巻形に読んだと知っていたから読めたのさ」
「じゃ始めからあの居候野郎が怪しいと睨んだんですか」
「そうでもない、一時はてっきり鉄の仕業と思ったよ。でも昨日の様子で鉄でないと解った、──そこで、用人に言って前触れしておいて、きょう荷物調べをしたのは、悪者の細工を見るためさ。それが図星に当って、紅皿と筆をお松の手筐に入れたのは、罠に掛ったようなものだ」
「…………」
「わざと筆の軸の銘を切って、善い筆か悪い筆か解らないようにしたが、上等の唐墨を洗い落すのが、少しぞんざいだった」
「何だって新しい筆を使わなかったんでしょう」
とガラッ八。
「字でも書こうというほどのものは、妙に筆を惜しがるものだよ。使い古した筆を洗って誤魔化したのが間違いさ」
「それで市が栄えるわけだね、親分」
「横山家では無事に葬いを出せるだろうし、鉄の野郎には三十両のお手当を貰って来たから、俺の仕事は済んだようなものだ」
平次はそう言って、懐に呑んだ三十両の小判にさわってみるのでした。これで鉄は笹塚へ帰って、母親の養生も存分に出来るというものでしょう。
「あの娘は綺麗だね、親分」
「だが、可哀想だよ、一番気の毒なのはあの若葉とかいう娘さ」
平次は暗然としました。本当に妙な事件です。
底本:「銭形平次捕物控(十)金色の処女」嶋中文庫、嶋中書店
2005(平成17)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第九巻」中央公論社
1939(昭和14)年8月5日発行
※副題は底本では、「紅筆願文」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:結城宏
2019年4月26日作成
2019年11月23日修正
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