銭形平次捕物控
怪伝白い鼠
野村胡堂




「親分は、本当に真面目に聞いて下さるでしょうか、笑っちゃ嫌でございますよ」

やぶからぼうに、そんな事を言っても判りゃしません。もう少し順序を立てて話してみて下さい。不思議な話や、変った話を聞くのが、言わば私の商売みたいなものだから、笑いもどうもしやしません」

 銭形の平次は、およそ古文真宝くそまじめな顔をして、若い二人の女性に相対しました。捕物の名人と言われている癖に、滅多に人を縛らないから、一名縮尻しくじり平次ともいう、読者諸君にはお馴染の人物です。

 二人の女というのは本町ほんちょう三丁目の糸屋の娘おひなと、その女中のおそめ、お雛はまだ十七ですが本町小町といわれた美しさ、本当に透き通るような江戸前の娘で、お染は平次の女房お静のお針友達で、この時は二十一二、少し縁遠い顔立ちですが、その代り口の方は三人分も働きます。

 根岸の寮に居るお雛主従が、何か思案に余ることがあって、銭形の平次の宅を訪ねたのは、若葉時のよく晴れた日で、久し振りのお静に逢っても、ろくに話もせずに、いきなり平次に引合せて貰って、こんな調子に切り出したのでした。

「ね、親分、親分はお化けとか幽霊とかいうものがこの世にあると思いますか」

 とお染、お盆のような顔を緊張させて、はたまなこで詰め寄るのを見ると、義理にも幽霊がないなどとは言われそうもありません。

「あるとも言い、ないとも言うが、あたしは見たことがないから何とも言えませんよ」

 藍微塵あいみじんあわせを、ひざが破れそうに坐って、この時代では何よりの贅沢ぜいたくとされた銀の吸口のチョッピリ付いた煙管きせるで煙草盆を引寄せる平次は、若くてい男ながら、何となく捕物の名人らしい貫禄が備わっております。

「そのお化けが出るんですよ、親分」

「どこへ?」

「お嬢様と坊っちゃまがいらっしゃる、根岸の寮に」

「ヘエ──少し詳しく話してみなさるがいい。岩見重太郎のように、乗込んで退治というわけにはいかないが、事と次第によっちゃ、お化けを縛るのも洒落しゃれているだろう」

「親分、冗談や、こしらえ事じゃございません。これは、現に、私もお嬢様も見た話で、そのために坊っちゃまは、熱を出したり、引付けたりする騒ぎですよ」

 お染は自分の雄弁を試みる機会を狙っていたように、勢い込んで話し始めました。

 本町三丁目の糸物問屋、近江屋おうみやというのはその頃の万両分限の一人ですが、二三年前に主人あるじが亡くなり、続いて一年ばかり前に、母親が死んで、今は、主人の弟、友二郎ともじろうが支配人として、店の方一切を取り仕切り、娘のお雛と、その弟で四つになったばかりの富太郎とみたろうに、女中のお染と下男の六兵衛ろくべえを付けて、根岸の寮に置き、もっぱら身体の弱い富太郎の養生をさせておりました。

 友二郎は四十年配、先代の実弟で、まことによく出来た人間ですが、なにぶん店の方が忙しいので、滅多に寮を見舞っている暇もありません。それでも、三日に一度、七日に一度ずつは、泊りがけにやって来て、めいのお雛の美しく生い立つのと病弱な富太郎が、少しずつでも丈夫になるのを見て帰りました。

 お雛には先代が取り決めた重三じゅうざという許嫁いいなずけがあります。これは遠縁の者で、奉公人同様店で働いておりますが、お雛より八つ年上の二十五で、もう愚図愚図してはいられないのですが、なにぶんお雛がまだ若いのと、母親が死んで一年も経たないので、祝言のさかずきをするわけにもいきません。しかし、根岸の寮は無人ぶにんなので、叔父の友二郎に差支えのある時はなるべく行って泊ることにしております。

 女のようにもの優しい働き者で、お雛の叔父の友次郎にも信用があり、ことにお雛の弟の富太郎は、重三でなければ夜も日も明けないような騒ぎをしますが、なにぶん店の方が忙しいので、毎晩根岸までいってやるわけにもいきません。

 お雛は娘らしい恥ずかしさのせいか、重三とはろくに口もききませんが、いずれ母のいみが明けさえすれば、改めて祝言をさした上、別に小さい世帯でも持たせることになっておりますから、嫌いというほどではなく、従って黙ってその運命を待っているはずもありません。

 こうして日は無事に過ぎましたが、いつの頃からか、総領の富太郎は虫の気がひどくなって、夜分にひどくうなされたり、物驚きをしたり、時々は引付けたり、次第に糸のごとく痩せ細って、頼りない有様になって行くのでした。

「坊っちゃまにお訊きすると、夜中にお化けが出ると、こうおっしゃるんですよ。染や、何とかしておくれ、重三、重三──と、時々はむずかりなさいますが、どんなお化けが出るのやら、一向見当が付きません」

 お染はこう言いながらも、幼い富太郎が、目に見えぬあやかしに悩まされて、夜とともにおびえて泣き騒ぐおそろしさを思い出したものか、肥っちょ肩をすくめて、ゾッと身をふるわせました。

「その坊っちゃんは、誰と一緒に寝ていなさるのかい」

 と平次。

「いえ、かんの強いお子さんで、そんなに物驚きをなさりながらも、どうしても誰とも一緒にお休みになりません。仕方がございませんので、お嬢様か私が、床を並べて、お仏壇の前に休んでおります」

「お仏壇の前?」

「え、それにもわけがございます。去年御新造ごしんぞ様がお亡くなりになる時、大事なものは私の魂と一緒に仏壇の中に入れてあるから、お嬢様かお坊っちゃまは必ずここで休むようとおっしゃったのでございます」

「フーム、だいぶ話が面白そうだな。ところで、その坊っちゃんが怯えるのは毎晩の事かい」

「いえ、時々でございます」

「番頭の友二郎さんの泊っている時とか、手代の重三さんの泊っている時とか、決ってはいないのか」

「それが不思議でございますよ、親分、重三さんの泊った時は何ともなくて、番頭さんの泊った時に限って、お坊っちゃまは怯えなさるんです」

「…………」



「お坊っちゃまの痩せ細るのを見ていると、お気の毒でお気の毒で、とても我慢が出来ません。お嬢様もひどく御心配なすって、そう言っては悪いが、明神様をだしに使って、お願いに上がったようなわけでございます。親分、何とか工夫をしてやって下さいませんでしょうか」

 達弁にまくし立てるお染の蔭から、高貴な感じのするほど美しいお雛が、八丈はちじょうたもと爪繰つまぐるように、おどおどした顔で平次を見守ります。

「それは驚いたな、お染さん。しかし、たったそれだけの話なら岡っ引へ来るより、医者を頼むのが順当じゃあるまいかネ。私にお化けを縛らせるより、虫下しを二三服呑ませた方が手っ取早く効きはしないかい」

 平次はさして驚く様子もありません。

「いえ、親分、それだけなら、わざわざここまでは参りません。四つになったばかりのお坊っちゃまのむずかるのは、当り前と言えばそれまででございますが、捨て置き難いのは、お嬢様にも何か変なことばかり付きまといます」

「というと──」

「家の中に、お嬢様の命を狙う者があるのでございます。一度はお嬢様の御飯の中に、石見銀山いわみぎんざん鼠取ねずみとりが入っていたのを、重三さんが見付けて大騒ぎをしたことがございます」

「重三──というと、お嬢さんの許嫁いいなずけの?」

「ええ」

 お雛はすっかりあかくなって、お染の蔭に隠れてしまいました。

「どうして鼠取りが御飯の中へ入っていると判ったんだろう」

「それは判りませんが──なんでもその前の晩は珍しく番頭さんも重三さんも寮へ泊って、朝はお二人にお嬢様と坊っちゃまと四人で御飯を召上がっておいででございました。重三さんがいきなり、お嬢様の御飯が、変な色だから、と急に止めなさるんです」

「フーム」

「試しに猫にやってみると、猫はすぐ死んでしまいました。御飯の中には、石見銀山の鼠取りが、うんと入っていたんです」

「御飯は誰が炊くんだ」

「まア、親分、まさか私がそんな事をするとは思っていらっしゃらないでしょうね」

 肥っちょの癖にお染は女だけに、やはり妙に気が廻りますが、

「お前さんなら、石見銀山の鼠取りなどを入れるより、お嬢さんをひねり殺す方だろう、私はそんな事を疑ってはいない、安心なさるがいい」

 そう言われると、からかわれながらも、人の好さそうなお染は釈然としてしまいます。

「その他、お嬢様だけ外に居る時、物置の材木が倒れて来たり、少し薄暗くなってから歩くと、変な男がつけて来たり、そりゃ怖いことがあるんです。親分、私のような物の判らない女が考えても、お嬢様とお坊っちゃまをどうかしようという恐ろしい人間が蔭で糸を引いてるような気がしてなりません。御苦労でも、ちょいと、根岸までお出かけ下すって、せめてお化けの出ないような工夫だけでもしてやって下さいまし。そうでもないと、どんな事になるかわかりません」

 お染の熱心な調子は、とうとう平次を動かしてしまいました。

「よし、一と肌脱いでみよう。ところで、今晩はほかによんどころない用事があるから、明日出かけるとして──」

「親分、今晩は番頭さんが寮へ来なさる晩で、またどんな事があるか心配でなりません。出来ることなら、私どもと一緒にいらしって、寮へ一と晩泊ってみては下さいませんか。お静さんへは、私がよくお願いしますから」

 お染はなかなか引きそうもありません。

「そうも行かない──こうしよう、家にゴロゴロしている八五郎、大した賢い人間じゃないが、その代り毒のない、話の面白い男だ。それを連れて行って、今晩一と晩用心棒にするがいい。智恵は大したことはないが、力だけは人の二人分もある」

「…………」

 お染は何かに落ちない顔をしておりますが、さすがにこの上は争うこともなりません。

「ガラッ八、そこに居るのか」

「ヘエ──」

「お嬢さんとお染さんについて、根岸まで行ってくれ、今晩は向うへ泊るんだ」

「ヘエ──、あまり智恵のねえ人間でも役に立ちますかい」

「馬鹿ッ、立ち聞きしていたのか」

 と平次。

「そういう訳じゃねえが、何しろこのお屋敷が広いから、あんな大きな声で話しゃ、どこの隅っこに居たって聞えますよ。岡っ引はよく人の話に気を付けて聞くがいいって、日頃親分も言いなさるし──」

あきれた野郎だ」

「もっとも、あっしの悪口が始まりそうになった時は、聞いちゃ悪かろうと思って耳の穴へ指を突っ込んでみたんだが、こいつは長く続きませんや、気色が悪くて──」

「馬鹿だな、お前は。まア何でもいいやな、お嬢さん方と一緒に出かけるんだ」

「ヘエ──」

「ね、親分、八五郎さんとかに一緒に行って貰っては、お化けにも悪人にも用心させるから、今晩そっと来て、寮へ入り込んで頂けないでしょうか」

 とお染。

「なるほど、それも面白かろう。そう言っちゃ何だが、お染さんは思いの外軍師だね」

「あれ親分、冷かしちゃいけません」



 その晩、ガラッ八の八五郎が、根岸の百姓町にかかったのは亥刻よつ(十時)を少し廻った頃、御行おぎょうの松の手前を右へ折れて、とある寮の裏口へ、忍ぶ風情に身を寄せました。

 平次に冷かされつけている狭いあわせ弥蔵やぞうを念入りに二つこしらえて、左右の袖口が、胸のあたりで入山形いりやまがたになるといった恰好は、「色男には誰がなる」と、言いたいようですが、四方あたりが妙に淋しくて、住む人も少ないせいか、ろくな犬も吠えてはくれません。

 八五郎は、裏口へ寄り添ったまま、弥蔵の中から取っておきの拳固げんこを出して、そうッと撫でるように、二つ三つ雨戸へ触ってみました。それを待っていたように、そっと中から開けたのは、寝巻姿のお染、まだ寝乱れてはいませんが、まずいながらも妙に娘らしくなまめきます。

「八五郎さんかい?」

「うむ、用意は?」

 引入れて雨戸を締めると、中は真っ暗、手と手を握った二人は、遠い廊下の有明ありあけを目当てに、逢曳あいびきらしい心持で、奥へ辿たどりました。

「まだかい、お染さん」

「シッ、二階には番頭さんが泊っている、静かにしておくれ。お前さんなんかを引入れた事が知れると大変なことになるよ」

「人間はそれっきりか」

「裏の方には、爺やの六兵衛が寝てますが、これは離れているし、寝酒がきいているから、眼なんか覚めはしない」

「重三とかいった手代は?」

「今晩は本町の店に泊っているし、店卸たなおろしで忙しいとさ」

 これだけ話しているうちに、廊下は尽きて、先代が信心と物好きで、奥の一と間へしつらえた、大仏壇のある部屋の前に着いておりました。

「お嬢様」

「お染かい」

 中から、これも待っていたように、薄明りの廊下の中に滑り出たのは、美しいとも何とも、言いようのないお雛の寝巻姿、疋田鹿ひったか長襦袢ながじゅばんに、麻の葉の扱帯しごきを締めて、大きい島田を、少し重く傾げた、ろうたけた姿は、ガラッ八が見馴れた種類の女ではありません。それはあまりに美しく、悩ましい姿だったのです。

「八五郎さん、お坊っちゃまが眼をお覚しになると悪いから、ソッと入って様子を見ていて下さいよ。今晩は番頭さんが泊っているから、またきっと、何か始まるに相違ない──」

「…………」

 ガラッ八は黙って部屋の中へ入りました。六畳ばかりの仏間、正面に見事な大仏壇、これは掛金がかかって、締っております。その前に敷いた床が二つ。一つには、四つになる富太郎がスヤスヤと眠り、一つは今お雛が脱け出したまま、少しなまめかしく、紅い裏の掻巻かいまきをはね返しております。

 枕許には、水差しと湯呑、それに、有明の行灯あんどんが一つ、一本灯心で、薄暗くいているといった寸法でした。

「寒くなるか、ねむくなったら、その床へ入って休んで下さいな、お嬢様がいいっておっしゃるから」

 言い捨てて、お染は、お雛を促すように、廊下を遠のきます。

「…………」

 八五郎はしばらく黙って、行灯の前に坐りました。富太郎はスヤスヤと眠っておりますが、いかにも弱そうな少し発育の遅い子らしく、熱っぽい唇も、げた頬も、なんとなく頼り少なく見えます。

 そばに敷き放したお雛の床の、紅い掻巻の裏が、妙に悩ましく眼について、八五郎もしばらくはマジマジしておりましたが、半刻ばかり後には、恐ろしい睡気と、初夏の薄寒さにこらえ兼ねて、お染に言われた通り、お雛の敷き捨てた床の中へもぐり込んでおりました。

 中には、まだほんのり娘のほとぼりが残って、若い女だけが持つ、不思議な分泌物のにおいが、八五郎をくらくらさせます。懐紙を掛けた、赤い箱枕、八五郎には馴れない代物しろものですが、娘の髪の匂いが沁みて、独り者の八五郎には、これも妙に悩ましい代物です。

 しばらく経ちました。いつともなくウトウトしていたらしい八五郎は、コトリという音に眼を覚したのです。何とも言えない不気味さが、部屋の中一パイにみなぎって、頭の上へ何やらノシかかって来るような心持がします。

 ひょいと見ると、いつ、どうして開いたか、先刻さっきまで厳重に掛金をおろしていた仏壇の戸が、八文字に開いて、行灯の灯を映した、金色こんじきの仏具の中に、何やら、不気味な青い物──。

 八五郎はゾッとして枕をそばだてました。紛れもありません。仏壇の中、位牌いはいの前に現われたのは、青黒い地に紅隈べにくまを取って、金色の眼を光らせた、鬼女の顔なのです。

「怖い、怖いよう」

 不意に眼を覚した富太郎は絶え入るように泣き叫んで、側に寝ているはずの姉の懐へ飛込もうとしましたが、それが、思いもよらぬ大男──しかも、あまり人相のよくない八五郎と見ると、二度目の驚きに、

「あッ」

 そのまま引付けてしまったのです。

「しまった」

 八五郎は飛起きて子供を抱き上げましたが、眼を白黒にして、手足をヒクヒクさせるだけで、どうにもなりません。

 八五郎は、子供を元の床の上に置いて、夢中で廊下へ飛出しました。

「大変、お染さん、坊っちゃんが引付けた」

 案内知ったお染の部屋の外から、もう、加減もなく声を張り上げるのでした。



 お雛とお染が、八五郎と一とかたまりになって駆け付けたのは、それからほんの三分、──昔の人の言いようを借りて言えば、物の百も数える間がありませんでした。

 開いたままの障子から飛込むと、行灯も床もそのままになっておりますが、ツイ今しがたまで、ヒクヒクしながらも生きていたはずの、富太郎の姿が見えないのです。

 床は二つとも空っぽ、その辺には、人間を隠すような場所もありません。

「富ちゃん」

「坊っちゃま」

 お雛とお染は、血眼になってその辺を探し廻りました。

「あッ」

 仏壇の中を覗いていたお染は、蛇にでも噛み付かれたような悲鳴をあげて、飛退きます。

「何だ何だ」

 見ると、八五郎も先刻さっき驚かされた鬼女の顔──、行灯をげて近々と見ると、それは、仏壇の中にはあるまじき、恐ろしい鬼女の面に、かもじの毛までかぶせて、位牌の前に据えてあったのです。

「どうしたんだ、大変な騒ぎじゃないか」

 その時ようやく下の騒ぎを聞きつけたらしい、番頭の友二郎は、少し寝乱れた恰好で、二階から降りて来ました。仏間のすぐ横は梯子段はしごだんで、その上は友二郎の寝室になっていたのでした。

「お坊っちゃまが見えません」

「何?」

「あっと言う間に見えなくなったんです」

 お雛とお染の説明を聞きながらも、友二郎の眼は、そこに立っている男──かつて見馴れない八五郎の上を離れようともしません。

「この方はどこの人なんだ」

「これは、あの、八五郎さんといって、神田の銭形の親分のところにいらっしゃるんです」

「そうか、どうしてここに居なさるんだ」

「あの、近頃怖いことばかり続くんで、私がお頼みして参りました。ツイ先刻いらしったばかりです」

 お染のシドロモドロな弁解を、友二郎は世にも苦り切った顔で聞いておりましたが、御用聞、手先と聞くと、さすがに商人あきんどらしい弱さで、強いことも言えません。

「とにかく、手分けをして富太郎を探すんだ、家の外へ出るわけはないんだから。それから六兵衛はどうした?」

「呼んでも来ません。寝しなに番頭さんの御馳走で一杯やったんですから、こんな事では眼を覚さないかも知れません」

 お染は飛んで行って、家の反対側、お勝手の隣の下男部屋から、爺やの六兵衛を叩き起して来ました。どんなに眠かったか、素肌の上に半纏はんてん一枚羽織って、胸毛と一緒に、掛守かけまもりと、犢鼻褌ふんどしが、だらしもなくはみ出します。

 年はもう六十恰好、お酒を頂くと、疳性かんしょうで、素裸でなければ眠られないという厄介な親爺おやじ、これも遠縁の飼い殺しで、こんな時役に立つような人間ではありません。

 それから手分けをして、家の中をすっかり探しましたが、富太郎は影も形もありません。暁方あけがた近くなると、出入りのとびの者や、近所の百姓衆も来てくれましたが、床板をぐように探しても富太郎が見えないのですから、これは神隠しに逢ったとでも思うより外には考えようもなかったのです。

 一同がっかりして、元の部屋──仏壇の扉も、二つの床もそのままにしてある仏間へ引返しました。

「あッ、お坊っちゃまが──」

 お染が一番先に、元の床の中に、楽々と寝かされている富太郎に気が付いたのです。

「どれどれ」

 雪崩なだれ込んだ五六人、誰ともなく富太郎を抱き上げましたが、

「あッ、死んでいる」

 驚いて床の上へ落してしまいました。可哀相に富太郎は、この時もう冷たくなっていたのです。



「右の通りだ、親分、こいつはあっしの手におえねえ、根岸まで行って見ておくんなさい」

 雨戸を開けると、あくる日の朝日と一緒に飛込んで来たガラッ八、飯を食う暇もなく一夜の恐ろしい冒険を報告しました。

「なるほど、そいつは念入りだ。ガラッ八兄さんじゃ目鼻が明くめえ、飯でも済ませて、一緒に行ってみるか」

「そんな暢気のんきなことを言って、親分」

「まア、いいやな、逃げも隠れもする下手人じゃあるめえ、それに、一番怪しい鬼の面は、ちゃんと取って置いてあろうし」

「それがいけねえ。親分、子供が死んでいるのに気が付いたとき見ると、仏壇にも部屋の中にも面はねえ──」

「そうだろう、それも筋書通りだ。そう来なくちゃ話が面白くならねえ」

 と平次。

「いやに解ったような事を言いなさるが、親分、その面の行方ゆくえが、ここから見通しだとでも言うんですかい」

「まあ、そんなところだ」

「それじゃ出かけましょう」

「待ちなよ、飯を食わなきゃア、戦が出来ねえ──。それから二つ並べて敷いてあった床は、そのままにしてあるだろうな」

「いいえ、大勢入って来て、邪魔っけだから、娘の方の床は上げてしまいましたよ」

「あ、惜しいことをした」

「何か、あの床の中に証拠になる物でもあったんですかい」

「うんにゃ、手前てめえい心持になってもぐり込んだという、紅裏の娘の掻巻と、その床が見ておきたかったんだよ、後学のために」

「チェッ、いい加減にして下さいよ」

「さア、出かけよう」

 冗談を言いながら仕度をした平次、ガラッ八を案内に、風薫る根岸へやってきました。

 寮へ着いたのは、かれこれ巳刻よつ(十時)、まだ何もかもそのままですが、物好き半分、近所の衆や店から駆け付けた人達で、家の中は押し返しもならぬ有様です。

「ガラッ八、これじゃ、お化けの方で驚いて逃げ出すだろう。用事のないものは、外へ出て貰おうじゃないか」

「合点」

 ガラッ八は勢い込んで飛上がると、

「さア、銭形の親分がやって来た。下手人の疑いを掛けられたくない者は、皆んな外へ出て貰おうか、その辺にマゴマゴしていると、縛られるかも知れないよ」

 精一杯に張り上げると、驚いた有象無象うぞうむぞう雪崩なだれ落ちるように外へ飛出してしまって、後に残ったのは、お雛、お染、友二郎、六兵衛、それに本店から駆け付けた手代のうち、一番縁故の深い、お雛の許嫁いいなずけの重三だけになりました。

「なるほど、疑われてもいいという人達ばかりだ。親分、何から手を付けましょう」

 平次は黙礼したまま、家の中へ入ると、何よりまず仏間へ入って、まだ小さい床の上に寝かして、枕許にしきみと線香だけ立てたままの、富太郎の死体を見せて貰いました。

 八五郎が言った通り、四つにしては小さい方で、発育も智恵も遅れているようですが、姉のお雛に似て、玉子をいたような可愛らしさ。それが、顔一面に苦痛の色を浮べ、眼も口も大きく開いたまま、冷たくなっている痛々しさに、物馴れた平次も思わず顔をそむけました。

 身体には針で突いたほどの傷もなく、黒血一つ溜ってはおりませんし、のども滑らかに白大理石のように無傷で、絞め殺した跡などは夢にもありません。全身の美しい色沢いろつや、口を開いて、舌を少し出している様子、苦悩の色こそありますが、毒殺でないことは、素人の平次にもはっきり判ります。

 どうして死んだか──または殺されたか、これでは全く解りません。耳の穴や肛門までも丁寧に検査してみましたが、どうしても、病気で死んだか、引付けたまま死んだとしか思われない様子に、平次もさすがに腕をこまぬくばかりです。

 死体解剖などのない時代に、これ以上誰が見てもわかるわけはありません。平次は一たん裸にした子供に、元の通り着物を着せると、グルリと家の外を一と廻りしてみました。外から曲者くせものの入った様子は元より残ってはいません。

 それから、家族の一人一人に逢いました。お雛とお染は顔馴染、別に聞くこともありません。番頭の友二郎は、しっかり者の四十男で、金儲けや商売には抜け目のないような人柄ですが、昨夜ゆうべは少しばかり晩酌をやって、亥刻よつ(十時)そこそこに二階へ上がったきり、便所へも起きなかったというのは疑う余地もありません。

 爺やの六兵衛は、近江屋の遠縁の者で、年を取ってから転げ込みましたが、先代や友二郎が同情して一生飼い殺しの寮番にして置くくらいですから、別に害意のある様子も見えません。若い時には随分いろいろの事もやったようですが、それだけ人間がめて、如才なくて、器用で、お雛や重三には好い相手だったのです。若主人の坊っちゃんが死んで、これはオロオロするばかり。

支配人ばんとうさんの晩酌をわけて頂いて何にも知らずに眠ってしまいました。知ってさえいりゃ、こんなことをさせはしません」

 年寄りらしく無駄なところで歯ぎしりをしております。

 お雛の許嫁いいなずけの重三は、十年越し店に勤めた忠義者で、女のように優しい感じのする、物柔かな好い男、近江屋にはこれも遠縁に当るそうですが、それよりは、真面目な勤め振りと、人柄を見込まれて先代がお雛の許嫁にめたくらいの若者です。

「何とも申上げようがありません。昨夜は店卸しで、店の方がやけにせわしかったので、気になりながら四五日こちらは見廻り兼ねておりました。今朝暗いうちに使いが来て、本当に驚いてしまいました。坊っちゃんは、一番よく私になついておりましたが、何という奴の仕業でございましょう──」

 気の弱そうな重三は、もう涙ぐんでさえおりました。

 平次はこれだけ調べると元の仏間へ帰りました。もう一度、念入りに富太郎の死体を見ると、どこにも傷はないと思ったのは間違いで、右手も、左手も、生爪が少しけて、爪際から血がにじんでいるのです。しかし、それだけのことです。引付け際に苦しがってその辺を掻きむしったとしたら、これぐらいのことはあるべきはずです。



「親分、あの鬼の面はどこへ行ったでしょう」

 ガラッ八はとうとう切り出しました。

「フーム」

「あの面を隠している奴が下手人に決ったようなものじゃございませんか」

「それは何とも言えないな。だが、ガラッ八」

「ヘエ──」

「面だけなら、すぐ見付かるよ」

「だから、どこにあるんで」

「二階の押入か、天井裏か、包の中を探してみな、そこになかったら、俺は十手捕縄をお上へ返すよ」

「ヘエ──、本当ですか、親分」

 ガラッ八は段々を二つずつ飛上がって二階へ行きましたが、間もなく、凱歌がいかをあげて、逆落しに降りて来ました。

「あったあった、ありましたよ、親分」

 そう言う右の手には、かもじを冠せた、凄まじい鬼女の面が、青い地、赤いくまに、金色こんじきの眼を光らせております。

「そうだろう、それは定石だ」

「これだけ判りゃ、下手人はどいつです。親分、早く縄を打って引立てましょう」

「騒ぐな、八、その面はどこにあったんだ」

「二階の部屋の隅にある風呂敷包の中ですよ」

「あッ」

 それを聞くと、側に居た番頭の顔はさおになってしまいました。

「お聞きの通りだ。風呂敷というのは、お前さんの持物でしょう」

 と平次、さりげない調子というよりは、むを得ないといった口調でふるえ上がる友二郎を顧みます。

「そうですよ、親分、どうして、そんなところにあったんでしょう、私には判らない」

「いや、わっしにはよく判る。気の毒だが番頭さん、子分の者に送らせるから、しばらく八丁堀の笹野様の役宅へでも行っていて下さい」

「私は何にも知りゃしません。親分、そりゃ何かの間違いでしょう」

「いや、面が二階の包にあるようじゃ、それより外に私にはさばきようがありません。八、誰か来ているだろうな」

「え、二三人来ていますよ」

「友二郎さんを送るんだ──。お前だけここに残ってくれ」

「ヘエ──」

「親分、番頭さんはそんな事をなさる方じゃございません。これには何か間違いがありましょう、どうぞ──」

 心配そうな顔を出す重三を振りもぎるように、

「どうも仕方がありません。黙って見ていて下さい」

 平次はけんもほろろにそっぽを向きます。



 いつの間にやら日は暮れました。

 富太郎の死体の始末をして、お通夜が始まる騒ぎですが、銭形の平次と、その子分の八五郎は、まだ帰ろうとしません。

「お嬢様の身の上に、何か危ないことでも?──」

 お染が心配して訊くと、

「大丈夫だ。そんなことはあるまいが、俺はどうしてあの子供を殺したか、それが知りたいんだ。岡っ引冥利みょうりだ、心配することはないから、放っておいてくれ」

 平次は事もなげに言って、相変らず、仏間から、二階、階段、納戸などを、根気よく調べ廻っております。

「この白鼠しろねずみを飼っているのは誰だい、お染さん」

 暗い納戸の中に、かなり大きなかごの中に入って、精巧な車を廻している五匹の白鼠を見付けると、平次の好奇心は火のごとく燃えます。

「爺やですよ」

「ちょいと呼んでくれないか」

「ヘエ──」

 お染と入れ違いのように、爺やの六兵衛はもみ手をしながら入って来ました。

「この鼠を飼っているのは、お前さんだってネ」

「ヘエ──」

「結構な道楽だネ、お前さん生き物は好きかい」

 平次の調子はさりげないので、六兵衛もツイ滑らかに舌が動きます。

「ヘエ──、そんなわけでもございませんが、白鼠と、小鳥を少し飼っております。馴れると、これがとんだ可愛らしいもので、へッへッ」

「そうだろう、こんな生き物を可愛がる人は、やっぱり仏性ほとけしょうなんだよ。ところで、八、お前はここで見張っていてくれ、俺はちょっと隣の部屋へ行って来るから」

 平次は納戸の外へ出ましたが、ほんのしばらくすると帰って来て、天井の壁際に少し出ている、細い糸を引っ張ると、それを白鼠の籠の外へ出ている車の心棒に固く結びました。

「親分、何をなさるんで」

「まアいいやな、外へ出てみよう」

 平次はガラッ八と六兵衛を促して、仏間へ取って返しました。平次の様子のただならぬに不安を感じたか、六兵衛はしきりにソワソワしておりますが、側にガラッ八が引添って動かしません。

「仏壇は昨夜ゆうべもこの通り締っていたんだね、八」

「ヘエ──」

「昨夜の様子と、今の様子と、少しも変りはないか」

「ありません。昨夜の通りですよ、は締っているし、掛金はかかっているし──あッ」

 八五郎が驚いたのも無理はありません。厳重に掛けられたはずの掛金が、誰も手を加えないのに、独りで上へ吊り上げられて、カチャリと外れると、仏壇の扉は、中から押されるように、サッと八文字に開いたのです。

「どうだ、八、この通りだったろう」

「え、どうしてこんな事が、親分」

「後で話す。あッ、そのおやじを逃がすなッ」

 形勢不穏と見て、その場から逃げ出そうとする六兵衛、早くもその後から平次の手が延びて、仏壇の前で雁字がんじがらめにされてしまいました。

「八ッ、もう一人、あの手代をつかまえろ、重三とかいった」

「よしッ」

 八五郎は横っ飛びに飛出しましたが、間もなく裏の方から、

「親分、大変、親分」

 とわめき立てます。六兵衛を引っ立てて、飛んで行ってみると、お雛を小脇に抱えた手代の重三、女のような優男やさおとこに似気なく八五郎を大地に叩き付けて、起き上がろうとするのへ匕首あいくちが──。

 危機一髪のところへ、平次得意の投げ銭が飛びました。二の腕の関節を永楽銭に打たれて、思わず匕首を取落したところへ、飛込んだ平次、好い塩梅あんばいに飛んで来てくれたお染の加勢で、この兇暴な手代もキリキリと縛り上げてしまったのです。



「親分、どうして、六兵衛と重三が悪者と解りました。少し絵解きをしておくんなさい」

 二人の縄付を送りながら、夜の道を、八五郎はこう話しかけます。

「子供のおびえるのが、番頭の泊った晩に限ると聞いて、これは番頭に疑いをかけようとする者の仕業だなと気が付いたんだよ」

「ヘエ──、こちとらとは物の考えようがまるっきり違うね」

「娘さんの飯に毒の入ってるのを、重三が見付けたと聞いて、いよいよ重三が臭いと思った」

「ますますわからねえ」

 とガラッ八。

「そうじゃないか、お雛さんと坊っちゃんを殺して儲かるのは、先代の弟の番頭友二郎だ。それに重三はあんな綺麗な許嫁いいなずけを殺すはずはないから、番頭に疑いをきせるには、坊っちゃんばかりでなく、お雛さんにも何とかしなきゃアなるまい。毒を入れて見出したのはみんな重三の細工だ」

「なるほど」

「ところで、重三は、お雛さんと一緒になったところで、せいぜい小さい店を一つ持たされるくらいのことだが、坊っちゃんを殺せば、お雛さんのむこで近江屋の跡取りになれる」

「なあーる」

「で、親爺の六兵衛と共謀ぐるで、いろいろ細工をしたのさ」

「親爺」

「そうだよ、顔を御覧、六兵衛と重三は年こそ違え瓜二つだろう。六兵衛は身持放埒ほうらつで、若い時分は近江屋へ出入りも出来なかったために、せめてせがれだけは真人間にしたいというので、名乗りをしない約束で丁稚でっちに頼み込んだんだ。その後六兵衛も転げ込んだが、二人は、深いたくらみがあるから表向きは他人のように暮らしたんだよ」

天眼通てんがんつうだね、親分」

「天眼通じゃない、それだけは、番頭の友二郎さんから聞いたんだ」

「白鼠の仕掛けは?」

「あれは、餌をやっている白鼠は、夜になると腹ごなしに車を廻す、根気の良い生き物だ。それから思い付いて、車の心棒へ細い糸を手繰たぐらせ、壁の上の穴から隣の仏間へ持って行って、仏壇の掛金を引かせたんだ。俺はすぐ開くようにしたが糸を長くすると、半刻ぐらいかかるから、六兵衛が仕掛けをして自分の部屋へ帰って、皆んな寝ついた頃仏壇が開くんだ。独りで扉の開く仕掛けは、くじらひげが一本ありゃいい。中から突っ張らせておくだけの事さ。鯨の鬚は御丁寧に叩きと一緒に大仏壇の中にブラ下げてあったよ。誰にも気が付かないのは不思議さ」

 平次の明察は、疑いを挟む余地もありません。

「で、親分、子供はどうして殺したんです」

「それには俺もくびひねったが、生爪が痛んでるのを見て解ったよ。あれは、お前が飛出した後へそっと入った六兵衛が、掻巻へ包んだまま、目を廻した子供を仏壇の下の抽斗ひきだしの奥へ入れたんだ」

「えッ」

「抽斗はあの通り大きいから、奥へ突っ込んで、手前へ仏具のこわれを詰めると、少し開けたくらいじゃわからない。それに気が転倒しているから少しぐらい抽斗が重くなっても気がつかなかったんだろう。──二た刻もたって頃合を見て出した時は、すっかり冷たくなっていたのさ、後で気が付いて見たが、あの抽斗の奥には、可哀相にひどく掻ききずがあったよ」

「ヘエ──」

「憎い奴等だ」

「太い畜生だ、二つ三つ殴ってやりましょうか」

 先へ行った縄付を追おうとする、ガラッ八を押えて、

せ止せ、どうせ処刑おしおきになる身体だ。それより、俺は、おめえにちょうどいい嫁を見付けたよ」

「ヘエ──あのお雛さん?──」

「馬鹿、お染の方だよ、当ってみようか」

 平次はカラカラと笑いました。

底本:「銭形平次捕物控(八)お珊文身調べ」嶋中文庫、嶋中書店

   2004(平成16)年1220日第1刷発行

底本の親本:「銭形平次捕物百話 第七巻」中央公論社

   1939(昭和14)年525日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋社

   1932(昭和7)年6月号

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:北川松生

2018年225日作成

2019年1123日修正

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